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フランス第二共和政単語

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フランス第二共和政とは、1848年の二月革命から1852年のルイ・ナポレオン皇帝即位まで続いたフランス政体(共和)である。しい政治闘争の混乱により4年に満たない短命に終わった。

概要

フランス革命によって動の時代を迎えた近代フランスでは、ナポレオン(1世)の政を経て、王政に戻ろうとする反動的なが働いていた。ワーテルローの戦いナポレオンが失脚するとブルボン朝が復活し、中世的な貴族特権や絶対王政を復活させようとする。

それに対して1830年に七月革命が起こり、ブルボン朝シャルル10世を追放し、ルイ・フィリップによる立君主制が始まった。しかしルイ・フィリップ七月王政はブルジョワに優しく人民に厳しいものであったため、人々は自分たちで政治を行うための共和制を望みはじめた。

民の奮は1848年に最高潮に至り、二月革命をもって七月王政を倒し、第二共和政が立された。これは労働政策を行ったり普通選挙による議会をもっていたりと近代的な国家システムであった。

しかし、国立作業場を巡る争いをはじめとして数々の政治闘争が発生し、その政治基盤は不安定であった。四月普通選挙の後に六月起が勃発。そしてやがて民の信頼を失っていった。その後、十二月大統領選で皇帝ナポレオン一世の甥のルイ・ナポレオン当選した。

1851年にルイ・ナポレオン民の支持の下でクーデターを起こして共和政を崩した。翌年の投票で信任を得て、ルイナポレオンナポレオン三世として皇帝に即位した。ここにフランス第二政が開始される。

関連する主な党派

色んな党がたくさん登場するのでややこしい。その党革命的か反動的かだけはチェックしておこう。基本的には上の方ほど反動的で、下の方ほど革命的である。

階級的基盤 代表的人物 思想
正統王レジティミスト 土地所有ブルジョワジー ファルー、ベリエ 昔は良かった!革命なんてなかった事に!→(七月革命後)まずはブルボン朝復活を
オルレア 融、大工業ブルジョワジー ギゾー、ティエール、モレ、バロー、デュパンシャンガル、ニエ 人権ありきの立君主制が理想、持ちが政治に参加できる
穏健共和(ブルジョワ共和 中産階級(ブルジョワ、弁護士、官僚) ラマチーヌ、マラスト、カヴェニャック、ジラダン 七月王政下ではオルレアほど恩恵に与れていないが、社会主義者ほどの不満も
ジャコバ(小市民民主 市民(小店、手工業) ルドリュ=ローラ まずは普通選挙を実現して政治に参加、(上からの)革を
社会主義 プロタリアート ルイ=ブラン、コシディエール 労働者のための社会を作るために(下からの)革を
革命共産主義 プロタリアート ブランキ、マルクス 人民による武革命、武装独裁が必要だ!!

正統王はルイ16世の系譜のブルボン朝、オルレアはルイ・フィリップのオルレアを支持する勢である。正統王とオルレア1848年5月に連合して秩序党を結成し、保守となった。いわゆる右翼である。

穏健共和はブルジョワ共和、または純共和とも呼ばれる。またジャコバ急進共和社会的共和、小市民民主、モンターニュと呼称されることもある。小市民民主社会主義者は1849年1月に提携して社会民主党を形成した。

以上の閥は第二共和政のなかで互いに導権争いをつづけ、人民の信頼を失った。結局最後に勝ったのはルイ・ボナパルトのボナパルトであった。

ボナパルト フランス民、ルンペンプロタリアート マニャン、モルニ、モーパ フランス革命の成果を重視しつつ、皇帝による強な中央集権を

前史 ~ 復古王朝

王政復古、ブルボン朝の復活 

               

 ルイ18世            シャルル10世

フランス革命

ナポレオン

1815年、ナポレオンワーテルローの会戦において破れてセントヘレナに流されると、フランス革命のときに亡命していた貴族(エミグレ)が復権をめて帰した。彼らの手によってルイ16世ルイ18世国王に即位し、ブルボン朝も復活。

ミグレの望みはかつての絶対王政と封建的貴族特権の復活であったが、それは半ばにしか達成されなかった。しかし、それでもかつて王権と強く結びついていたカトリックを回復させたり、反革命的な王政復古の動きは続いた。

そんな中で行われた下院議員選挙では「国王よりも王党派的」と言われるユルトラ王党派が勢を伸ばし、封建社会へのさらなる回帰をした。野心に燃えるユルトラは皮なことに国王ルイ18世と対立するまでに至り、ついにはユルトラ議会は国王に解散させられてしまった。

次に行われた選挙では立王党派が優勢となった。彼らの下でフランス自由化が進むと思われたが、その矢先にブルボン王族の暗殺事件(ベリー暗殺事件)が発生し、結局、時代錯誤なユルトラ王党派)の内閣フランスに成立した。ユルトラ議会は自由義を底的に弾圧し、カトリックや封建制度の復活などフランス中世へ逆行させる政策を次々ととった。

1824年、ルイ18世が崩御し、シャルル10世フランス国王に戴冠する。シャルル宗教心が強く、それによりさらにカトリック教会は勢いづいていく。

七月革命と、ルイ・フィリップの七月王政

               

           ルイ・フィリップ         チャールズ・ラフィット

1829年、亡命貴族自由義者の間の緊は極限まで高まっていた。

きっかけになったのはシャルル10世の憲法に対するクーデタともいえる四か条の王の発布であった。

  1. 出版の自由の停止
  2. 新議会の解散
  3. 議員定数の削減
  4. 選挙法に基づく選挙の実施

この強な反自由的で反動的な七月をみて、反政府系勢が一斉に反発。彼らはトリコロールフランス国旗)をかかげて起する。フランス七月革命の勃発である。

まず反王権の新聞社に対して警察が介入。パリ都内の小競り合いには軍隊まで投入された。労働者はパリの各所にバリケードを築き、大銀行フィットや労働者や職人までもがそれに協した。この戦闘では死者は800人、けが人は4000人弱がでたが、それでもかつてのフランス大革命や後の二月革命べれば戦闘自体は小規模であった。

一進一退の攻防の末に、末には反政府が大勢を得て臨時政府立する。シャルル10世は亡命。代わりにルイ・フィリップを頂点とする立政が立った。これを七月王政という。しかしこれは人民が望んだ共和制ではなかった。

ルイ・フィリップの即位によって王権授説に基づく絶対王権は崩れ、憲法と議会に従う世俗的な君が誕生した。絶対王権と結びついていたカトリック教会は迫され、フランス教会は衰退した。中世的な貴族や地の特権は次々と否定され、フランスはブルジョワ的価値観に立脚した国家へと変化していった。共和は取り締まられたものの、自由義的な潮が世の中を覆っていた。

しかし革命の受益者はブルジョワばかりであり、とりわけ初代首相に就任したラフィットをはじめとした銀行革命の利益を獲得した。ロスチャイルドなどによる貴族国家財政に群がり、いわば一種の融封建制が生まれていた。産業革命芽が芽生え始めるフランスでは既に労働者たちが苛な労働環境と劣悪な生活環境に苦しんでおり、こうした社会問題から社会主義運動もまた活発になっていく。

ルイ・フィリップ七月王政はたしかにアンシャンレジーム(旧体制)への逆戻りを阻止した。といっても近代的な自由国家へと移行するわけでもなく、それは中途半端なブルジョワ国家であった。選挙権は持ちに限定され、議会はブルジョワに支配されるものであった。そこで共和選挙から疎外された人々は議会の外での大衆運動や、ジャーナリズム運動による政治革を頑っていた。

例えば革宴会という名の選挙運動がある。これは政治集会を禁じた法律の網のをくぐるために会食という形がとられる政治活動であった。この集会は、当初こそ正統王とオルレアン左の議員や、有権者など政府側を中心とするサロン的なものにとどまっていたが、しだいに共和や非有権者の一般市民も参加するようになっていった。この運動の中心は、マラストの催する穏健共和の『ナシオナル』、ジャコバの『レフォルム』新聞などであった。

七月王政では政治家と官僚の兼任が可であったため、政治家や官僚の不正が横行し、都市での政治に対する不満が高まっていた。一方で1840年代には農村で飢饉が相次ぎ、イギリス融恐慌も相まって社会不安は高まっていた。それらのフランス市民の憤懣が爆発したのは1848年のことである。

革命と普通選挙

二月革命の勃発

                

フランソワピエール・ギヨーム・ギゾー    ルイ・アドルフティエール

1847年まで続いた社会不安がようやく安定し始めた1848年2月24日、18年続いた七月王政はあっけなく崩壊する。

きっかけは単純な事件であった。1848年2月22日、その日、正統王のバローと、反体制新聞の『ナシオナル』の共和義者たちの呼びかけによって、パリ第12区で革宴会の催しが予定されていた。当時の12区は労働者が多く住むであり、フランス大革命以来、民衆起の伝統を持つ場所であった。

政府はこの宴会を禁止処分にし、催者であるバローらも衝突を恐れて延期を決定した。しかし、急進学生や共和結社の活動家たちはこの禁に反抗してデモを敢行し、ブルボン宮を取り囲んだ。内では暴動が発生し、各地にデモ隊と賃労働者の手によってバリケードが築かれた。フランス二月革命の勃発である。200人から始まって、ブルボン宮に向かう途中どんどんと膨らんでいった群衆は、その日のうちに正規軍によって鎮圧された。政府もこの時点ではこの事件を大したものだとは思っていなかった。

しかし革命の火は翌日、2月23日にますます燃え上がっていった。政府は正規軍を動員し戦略拠点を確保したが、パリ衛兵12連隊のうち招集に応じたのは2連隊のみで、残りは革命、あるいは日和見の立場をとった。ルイ・フィリップはあわてて首相ギゾーを解任して民の感情をなだめようとした。このギゾーは「選挙権が欲しければ持ちになりたまえ」と問題発言をしたり以前から人気の低かった人物であった。だが、それで民の感情が和らげられることはなかった。ギゾーの後がまにはモレがついたが、彼はギゾーよりもさらに劣る人物であった。

その日の衛兵の合流に士気を高めたデモ隊が旗を掲げながら、キャプシーを進行した。そのとき、正規軍がこの人々に対して一斉射撃を浴びせかけてしまう。36人の死者と約70人の負傷者をだしたデモ隊はそれでも女性の死体に松明を掲げながら葬送行進をつづけた。このキャプシーの惨劇により民衆運動はますます燃え上がった。起はさらに拡大し、150以上のバリケードがパリを覆った。庁舎やチュイルリ宮が相次いで陥落し、暴徒は王宮にまでなだれ込んでルイ・フィリップの玉座をから放擲し、バスチーユ広場にまで担いでいって燃やした。

パリ市民暴徒に好意的であったわけではないが、それ以上に彼らは国王ルイ・フィリップのことを嫌っていた。2月24日追いつめられたルイ・フィリップとりあえずギゾーの後継者であったモレをわずか一日で解任し、ティエールバローを中心とした自由義的な内閣をつくった。そして次に、アルジェリアの征者ビジョウを鎮圧部隊の指揮官に置いた。ルイ・フィリップはこのときまだ事態を収束することができると希望を抱いていたのだ。

ビジョウはその日のから革命市民との対話を開始する。すさまじい緊状態のなか進められた話し合いの結果、ビジョウは革命市民と戦う意思をなくしてしまった。コンコルド広場やシャートードオで偶発的な武衝突はあったものの、両者は和解し、かたやルイ・フィリップ全に悪役に立たされてしまった。

キャプシーの惨劇 ↓

臨時政府、第二共和政のスタート

               

      アルフォンス・ド・ラマチーヌ         ルイ・ブラ

23日のには反乱者がパリ全に制圧した。ここにきて、それまで反乱に参加していなかった各種の政治導者たちが革命市民のもとを訪れることとなる。というのは、理念のない革命市民たちはバリケードでパリを制圧することができても、それ以降なにをすべきかが分からなかったので、その針を得るために政治導者を必要としたのである。その代表集団には穏健共和とジャコバがあった。

穏健共和(ブルジョワ共和は自分たちの発行する『ナシオナル』の編集室で、革命後に成立するであろう臨時政府の構成員をすでに検討していた。彼らの構想の特徴は、現政府内閣にいる王党左バローき、かわりにルドリュ・ローラが付けくわえらていたことにある。

一方、ジャコバ(モンターニュは自らの『レフォルム』新聞で、『ナシオナル』とは別のリストを作成していた。とはいえ彼らのリスト内容はほぼかぶっていた。しかし著名な社会主義者のルイ・ブラと労働者代表のアルベールは外されていた。

国王の側にある議会も、国王退位後のフランス政府について色々と考えていた。彼らはティエールとバロー内閣こそが臨時政府導者にふさわしいと結論をだした。ティエール1834年に労働者の暴動を鎮圧した実績があり、バローもその実代議士たちから認められていたのである。しかしティエールはその実績ゆえに民衆からは敬遠され、バローは王党左であったため、共和市民たちからは好かれていなかった。彼らは結局ブルボン宮に突入してきた反乱者たちから権を奪われてしまった。

革命はついに七月王政を倒し、ルイ・フィリップイギリスに亡命し、デュポン・ド・ルールを首長とする臨時政府が成立した。臨時政府では、詩人ラマチーヌ、『ナシオナル』マラスト、アラゴ、『レフォルム』のフロコンルドリュ・ローラらが中心となって共和制を宣言した。ラマチーヌやアラゴらは共和ではなかったが、民衆の圧に応じて共和義者を自称するようになった。この日和見共和義者たちのことを「翌日の共和」と呼ぶ。臨時政府には『ナシオナル』の名簿から排除されていたルイ・ブランとアルベールも、民衆の要望にこたえて便宜的な秘書官として参加することになった。

ジャックシャルル・デュポン・ド・ルール

実は、宣言をするまえに臨時政府は「共和を宣言すべきかどうか」で揉めていた。

  • 直ちに宣言した場合 →全フランスパリの決定に基づいて共和となる
  • 宣言をしなかった場合→フランス各地の賛同を得てから共和となる。地方に拒否される可性もある。

穏健共和は「地方人民に相談することこそが民主主義の原則だ」とした。ジャコバは反対に「革命を実際に起こしたパリ市民共和制を望んでいる」として直ちに共和宣言を行うことをした。臨時政府では穏健のほうが多数であったものの、彼らは結局パリ市民の意思を妥協的に受け入れ「[地方]人民に諮問し、もし承認されるのであれば臨時政府は共和希望する」と発布した。反乱市民はこの宣言を事実上の共和明だと考え、満足した。

ここにフランス第二共和政が始まる。だが、これらの革命は民衆を苦しめる問題を何一つ解決するものではなかった。七月革命でブルジョワに革命を奪われたことを民衆は忘れてはいなかった。武器を手にした労働者たちは、機械工マルシェを先頭に、共和政がに民衆のためになるように旗を国旗にせよと臨時政府につめよった。

しかし結局彼らはラマチーヌに翻弄され、トリコロールフランス国旗にすることを受け入れた。だが民衆運動によって人々は、臨時政府社会主義者のルイ・ブランと機械アルベールを加えることに成功し、さらに労働権と生活権の保も獲得した。

こうして第二共和政はとりあえず始まった。しかし、この政権は微妙バランスの上に立った、実に不安定なものであったのだ。

以上の二月革命には3つの特徴がある。

  1. 人民の中から自然発生的に勃発した、政治導者不在の革命であった。
  2. 革命の火が盛り上がったのはカピシーヌ発事件があったからで、それは偶発的な革命であった。
  3. 臨時政府は共通の的をもたない寄せ集め集団であった。

このように、二月革命は偶然的かつ雑多な革命であった。しかしその影は大きく、革命を越えてヨーロッパ各地で三月革命を引き起こした。まずオーストリアではウィーン会議催者であったメッテルニヒが失脚プロイセンイタリアポーランドスイスでも革命や暴動が発生し、イギリススイス東欧と様々なところに革命の影は広がっていった。民のと呼ばれるそれら諸々の革命は、ナポレオン戦争以来のウィーン体勢の崩壊を意味していた。

民のの中でももっともフランスに関連深かったのはイタリアである。オーストリア土の半分以上を支配されていたイタリアでは、二月革命の後にローマに共和政府が成立し、教皇ピウス9世は1848年11月にガエタに亡命していた。後にルイ・ナポレオン大統領選挙の際にカトリックの支持を受けるのと引き換えにローマを教皇に返還させることを約束し、イタリア兵をしている。しかしこ兵に関してもまた政争がおき、共和政を揺るがせていくのが、とりあえずそれは先の話だ。

革命クラブ

マルク・コシディエール

穏健共和臨時政府において多数であり、また地方の支持を受けていたものの、自分たちの地位が不安定なものだと知っていた。臨時政府なんていったところで、パリの労働者の機嫌を損なえばいとも簡単に瓦解してしまうものなのだ。

そこで穏健は民衆の意向を受けて、妥協的にジャコバコシディエールパリ警察の警視総監になることを承認した。また内務大臣の地位もやむなくルドリュ・ローラに譲った。民兵の招集権は内務大臣の特権であったため、穏健にとってこれは大きな譲歩といえる。コシディエールは、パリの秩序を維持するために労働者からなる特別な警察隊を組織した。

ジャコバと過共和側の有な支持者には、革命直後に世に出てきた数々の革命クラブがあった。これらの政治クラブの特に強なものはジャコバ支持の立場をとっていたのだ。代表的なものに以下のようなものがある。

カベもラスパイユも非暴力を基本としてはいたが、傲慢な富裕者には一切の手加減をしなかった。これら4つのクラブのうち3つはジャコバに属していたが、ブランキの『中央共和協会』のみは左を支持していた。

これらの政治クラブフランスを揺るがす恐ろしいものだと新聞で報道されていたが、その実はそれほどは持っていなかった。彼らが影を持っていたのはパリだけであり、地方に誕生した政治クラブとの連携に失敗していた。これらのクラブは、パリをいまだ騒がす暴動を鎮圧したりしていた。政治クラブの中でもっとも有能だったブランキは、かつてフランス大革命で恐怖政治導したロベスピエールマラーとは違い、単なる反乱者にすぎなかったことが臨時政府にとって幸運だったといえよう。

臨時政府の労働政策、リュクサンブール委員会と国立作業場

国立作業場の様子

設立したばかりの臨時政府の安定がさっそく崩れたのは「労働権」と「労働の組織化」に関する問題であった。臨時政府は労働者向けの社会政策として2つの機関を設けた。ひとつは彼らに仕事を与えるための国立作業場であり、もうひとつはその国立作業場を監督するという名リュクサンブール宮にて開かれた「労働者のための政府委員会」(通称リュクサンブール委員会)である。

国立作業場は、失業労働者にそのや技術とは関係に土木の共事業の仕事を与えて、一日2フラン(働かなくても1〜1.5フラン)を支給するというものであった。これを担当した共労働大臣のマリは、これらの失業労働者たちを軍隊式に編纂し、リュクサンブールに集まる意識の高いベテラン労働者たちに対抗させようとした。

一方のリュクサンブール委員会はこの国立作業場を監督するためにルイ・ブランを委員長として設立されたものであった。しかしその実体はなんの予算も権限ももたない諮問機関であった。委員会は所詮「労働組織化」の設置を要する民衆の圧をかわすためのものにすぎなかったのだ(しかしブルジョワの抵抗にあってほぼだったものの、労資調停の役割をわずかなりとも担った委員会は近年の再評価も起きている)。

委員会は労働組織化の具体的プランも議会に送ったが、すでにジャコバは勢を失っており、それは視された。この報告書は、

  1. 経営不振の企業から施設を買収して社会作業場を設立する
  2. 鉄道、鉱山などの有化
  3. 農業コロニーによる失業者の吸収
  4. 市場による商品流通の国家管理
  5. 国立銀行による信用貸し付けの民主

などを子としている。これは社会主義者として有名だったルイ・ブランの著作『労働組織論』をほぼ引き写したものであった。

リュクサンブール委員会に代わって実際にここを監督したのは共労働であった。その大臣のマリは穏健のなかでももっとも穏健で、ルイ・ブランの理論を実行するつもりはまったくなかった。そもそも国立作業場とはいっても工場などは存在せず、労働者は各地の役所から失業明書をもらい、土木作業などをしていただけである。それはルイ・ブランが想定したような社会主義的工場とは似ても似つかないものであった。

国立工場が設立されるとすぐに、技術者エミルトーマスはそこの責任者に任命された。その際に彼は自分の部下として「技術製造中央学校」の生徒たちを雇うことを認めてもらっている。パリの労働者は先輩から導を受けるという徒文化があり、労働者たちは彼ら元学生から仕事面でも労働環境面でも自分の味方になってくれることを期待していた。

国立作業場の評価は当初のまちまちで、社会主義が失敗であったと明するために国立作業場が頓挫することを望んでいる者や、労働者に政治を向けさせないためにもっと国立作業場を充実させるとする者もいた。

エミルトーマスは穏健な共和であったが、彼は効率義者であった。彼は社会主義的工場よりも、より効率的に労働者を働かせるための工場を望んだ。彼はそのための援助を大臣のマリに望んだが、それは受けいれられなかった。

満帆に見えた国立作業場であるが、そこに集まる労働者はすぐに彼らの想定をこえて膨れ上がってしまった。1848年3月末には3万人弱であった登録労働者は、5月にはパリ人口の1割にあたる10万人を突破した。これは国立作業場の噂を聞きつけた地方労働者がパリに集まってしまったからである。これは、ただでさえに困っていた臨時政府にとって致命的な財政的負担となった。

臨時政府は財政再建とパニックの緩和のために、民割引銀行網の創設に取り組み始めていた。政府はこの財のために45も直接税を増税した。これによる地方民衆の不満は政府だけでなく、パリ国立作業場の労働者と、それを支えていると誤解されたルイ・ブランら社会民主にも向けられた。

とはいえ、国立作業場のおかげで政府はしばし労働者たちから政治のことを忘れさせることができた。この後の1848年3月4月と続けて革命クラブデモを決行するが、国立作業場の労働者たちはそれに加わらなかった。そしてやがてトーマスと彼の若い技術者が、労働者のを失い始めたとき、臨時政府がもつ軍事政治二月革命勃発時とはべ物にならないほど強大になっており、もはや労働者のご機嫌を伺う必要もなくなっていた。

カトリックと臨時政府

カトリック教会と共和の同盟もまた危ういバランスの上に成り立っていた。

二月革命が発生したとき、職者たちは以前の七月革命のときのようにカトリック弾圧が起きるのではないかと不安がった。しかしそれは杞憂であった。2月24日にチュイルリ宮を襲った群衆は、国王の礼拝堂から十字架と聖杯を運び出し、王宮近くのサン・ロック教会へとデモ行進した。それは世俗的なルイ・フィリップから十字架を奪い返し、な場所へと移そうとする意図がある。

彼らはキリスト自由を礼賛する言葉を叫びながら、戦で傷ついた戦友に秘を与えてくれる職者をめていた。パリ大司教アッフルはみずから病院を訪れ、宗教的秘を患者に与えた。このような市民教会の結びつきに続いて、3月初旬にはアッフル臨時政府を訪問し、共和カトリックの友好関係を築いた。ラマチーヌは「1848年の革命キリスト教の発露である」とまでった。

もともとカトリック教会は反七月王政の立場であった。教会の教書でも自由放任(レッセフェール)経済を批難し、政府に弱者救済の社会政策を要していたのだ。世俗的な宗教色の強い社会主義者やジャコバの原始キリスト教礼賛を踏まえれば、この同盟は不自然なものではなかった。

3月20日シャン・ド・マルス(エッフェルのある公園)を埋め尽くした数千の民衆が歓喜するなかで、トリコロールをくくりつけた「自由の木」の植祭典が行われた。それは、カトリック祭がこの木をおごそかに別するという異例の形式であった。その後一週間パリ区で、さらには全の町村で同様の植祭典が繰り広げられた。このとき教会臨時政府は蜜の関係にあった。

だがこの良好な関係は長続きしながった。共和す初等教育革(償・義務化、教員の待遇善)は、教会が初等教育を担うとするカトリックとはっ向から対立するものであったのだ。臨時政府教育大臣カルノーが、初等教員を共和教育の伝者と呼び、4月憲法制定議会選挙祭と教師プロパガンダ合戦で対立したことをきっかけにその関係は壊れていった。

デモ

              

      アレクサンドル・ルドリュ・ローラン   ルイ・オーギュスト・ブランキ

革命直後の1848年の3月から5月にかけて、立て続けに反政府デモが発生した。

まず最初に3月17日デモがあり、翌4月16日にはリュクサンブール委員会と政治クラブ合同してデモを行った。このときのデモには二つの的があった。

  • 臨時政府にもっと労働者のためになるような政策をとるようしてもらうこと
  • そのに予定されていた憲法議会を延期してもらうこと

二つ憲法議会の延期について。革命は、いま選挙をすれば自分たちが不利になることを知っていた。彼らは同盟を強化し、宣伝にをいれ、政府から具体的に旨味のある譲歩を引き出すために時間を稼ぎたかったのだ。とはいえいくら時間を稼いだとしても彼らが選挙で勝てる見込みはなかった。革命したものは発言のある少数であった。

しかし4月16日デモは失敗におわった。ジャコバの有者で内務大臣のルドリュ・ローランは民兵を招集し、デモ隊が政府のある庁舎に来ることを阻止した。ローランはどちらかというと急進革命であったので、同じく革命の行動を妨したことになる。ローランがデモを妨した理由は明確には分かっていないが、一説には彼がブランキを信頼できなかったと言われている。いっぽうでローランはその数日前に、反革命の穏健政府から追放する労働者の運動を援助もしている。

時間は前後するが、4月末の憲法制定議会の普通選挙の結果は極左にとって惨敗であった。そのため彼らは自分たちのを意思をしめすために、5月15日に再度のデモを決行する。その詳細は後述。

四月普通選挙

          

   ガルニエ・バジェス    ピエールマリ・ド・サン・ジョルジュ   フランソワ・アラゴ

1848年3月5日臨時政府憲法制定民議会の選挙に、半年以上同一市町村に住んでいる21歳以上のすべての男子投票権を与える政を布告した。これによって有権者の数は七月王政のときの25万人から一気に900万人にまで増えた。ただ、女性はまだ除外されていた。また何ぶんはじめてということで選挙制度にも色々不備があった。こうした限界はありながらも、人々が待ち望んだ普通選挙がようやくフランスにもたらされた。民衆が議会を通じて政治参加するという近代国家がこのときはじめてヨーロッパに生まれたのである。

この男子普通選挙の結果は、皮なことに普通選挙を熱めていたジャコバにとっては芳しくないものであった。投票率は84。議席880のうち穏健共和500議席を獲得するいっぽうで、ジャコバが獲得した議席はわずかに100であった。これは、急進的に革命が進むパリをみて、地方の農村的フランスブレーキをかけたものとされる。ジャコバ臨時政府の内務大臣ルドリュ・ローランは地方派遣委員を送り込み、師範系教師を動員して必死選挙干渉をおこなったが、祭や地方名望の牙を崩すことはできなかったようだ。

残りの280議席は共和が占めた。当時はだれもが共和を自称していたが、その実体はオルレアか正統王党派であった。彼らは共和とはいっていても、その本質は共和とは逆の反革命であり、保守であった。彼らは後に合流して、秩序党として知られるようになる。

こうして成立した制定議会は、臨時政府にかえて、5月4日、アラゴ、ガルニエ・パジェス、マリラマチーヌの4人の穏健共和と、ジャコバのルドリュ・ローランの5名からなる執行委員会を任命した。ルドリュ・ローランが残ったとはいえ、二月革命勃発時の均衡は秩序志向の「翌日の共和」に大きく傾いた。正統王とオルレアン王の勢も相まって、パリの労働者とジャコバへの包囲網は一段と狭められた。

失望と反発

六月蜂起

ルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック

議会の多数を占めた「翌日の共和」にとって、まずなによりも融恐慌からの脱出が問題であり、産業革命に乗り遅れないための産業資本の育成に必要な民的信用制度を作り上げることをさなければならなかった。

1848年3月フランス銀行革が行われ、中小企業向けの低利貸し付けする民割引銀行が全67都市に設立されていた。これにより秩序と生産を回復し、産業の時代にふさわしい経済が発達することを政治家たちは期待していた。一方で国立作業場は秩序と財政のいずれにとってもジャマなものでしかなくなっていた。この作業場が閉鎖されるのも時間の問題であった。

制定議会の普通選挙の惨敗に失望した共和民衆クラブやリュクサンブールの労働者たちは、5月15日ポーランド独立支援を叫んで議会に乱入し、議会の解散と新臨時政府立を宣言したが、すぐに衛兵に鎮圧されてしまった。この議会乱入事件によってアルベールブランキ、バルベら有名なリーダーが次々と逮捕され、関係であったルイ・ブランまで関連を追及されて亡命した。また警視総監コシディエールも更迭された。この事件のとき彼らに対抗させるためにあったはずの国立作業場の労働者たちが将校ピュジョルに率いられて約14000人もがデモに参加したことは与党の穏健共和に衝撃を与えた。

このデモの失敗の結果、穏健共和革命以来はじめて全に導権を握り、いまや「アカ」と呼ばれるようになった労働者たちの駆逐に躍起になり始めた。彼ら労働者は、革命的で反フランス的な存在と穏健共和はみていたのである。

そしてまた彼らを収容していた国立作業場の閉鎖も決まっていく。工場の責任エミルトーマスは「国立作業場の止は暴動の発生を意味する」と強くしたが、彼の警告は閉鎖の日時を延期しただけ5月26日には彼は解任されてしまった。

6月21日共事業大臣のトレラは、国立作業場に登録する18歳25歳の労働者の全員に対して兵役につくか、地方の土木工事に就くかの選択を迫った。コルボンやコンシデランは議会でこれに反対し、国立作業場を生産共同組合に再編することを提案したが、一蹴されてしまった。この命の提案者は、後に教育大臣となる王党派ファルであった。労働者の代表が共労働大臣のマリに訪問したとき、マリは「武に訴えてでも勧告を実行する」と述べた。

6月22日政府との交渉が決裂しにっちもさっちもいかなくなった労働者たちは「パンか、弾か! 自由か、死か!」を叫んでゾクゾクとパンテオン広場に集結した。

翌日23日には、パリの東部一帯にバリケードの山が築かれた。19世紀の労働者の暴動ではパリコミューンに続いて二番に大きい六月がここに始まった。この頃には彼らも経験豊富で、そのバリケードはさながら要塞のようであったとされる。一方で、ファルーは暴動に参加しなかった者には、向こう三ヶ間、一日1フランを支払い、また300フランの保も分配すると労働者の懐柔を図った。

さらに翌日の24日、議会はラマチーヌらの執行委委員会体制に見切りをつけ、アルジェリア英雄で共和将軍ウジェーヌ・カヴェニャック行政長官に任命し全権を委ねた。パリ衛兵はあてにならないとみていたカヴェニャックはをしき事態を見守っていた。優秀な将軍であったカヴェニャックは地方から6万人の部隊を集結し、労働者のいるバリケードや民家撃するという乱暴な方法で、26日までには起を全におさえこんだ。

政府軍の押収したは10万挺、殺者1500人、その他の死者1400人、逮捕25000人。六月起の惨敗は労働者や民衆に強い敗北感を植え付けた。選挙による議会共和政とブルジョワ共和義者に対する労働者の不信感はもはや極限にまで高まっていた。

二月革命以来続いていたプロタリアート(労働者)と下層中産階級(ジャコバ)の同盟も全に破局を迎えた。ジャコバ社会主義者、革命の有導者はひとりとして暴動には参加せず、また参加できなかったのだ。ブランキとバルベは中にいたし、ルドリュ・ローラン、ルイ・ブランらは暴動には何のかかわり合いも持たなかった。六月起はあくまで労働者たちによる秩序なクーデターであったのだ。

六月起の失敗の余波はフランスを越えて外にまで及んだ。ヨーロッパの反革命フランス政府勇気づけられ、フランス地方は最初の革命以来最大の「アカ狩り」「アカの恐怖」を引き起こした。昂奮したブルジョワジーと、棍棒で武装した農民たちは革命たちをしらみつぶしに探し、社会主義者たちを殺したのである。

六月蜂起後のパリ

ヴィクトォール・コンシデラ

六月起の結果、革命と急進の勢いは衰えた。しかし権は共和の手からも遠ざかりつつあった。カトリック教会はすでに共和を見捨てており、起の間活動を停止していた執行委員会は、起が集結しても再開されなかった。

六月起の恐怖は「社会秩序の維持」を合い言葉に、それまでバラバラだった党を再結集させた。正統王、オルレアカトリックが同盟して秩序党が結成され、「翌日の共和」の多くがこれと親しい関係を結ぶようになった。六月事件以来、穏健共和は次々と保守(秩序党)にうつり、議会は右傾化した。保守普通選挙すら信じず本質的に反革命で、彼らは王党派であった。

その保守的な議会から全権委任されたカヴェニャック将軍行政長官となり、12月大統領選挙まで政権を担当することになった。皮にもフランスはこの共和将軍軍事独裁体制によって秩序を回復することに成功する。

農民やブルジョワが革命に反対するようになると、穏健共和はますますそのを失っていった。当初は人気のあった穏健が支持を失ったのは、先述したように、その年の3月45%45サンチーム税)の直接税の増税を行っていたことが理由の一つとしてあげられる。これは国家財政の立て直しのためには不可避であったのだが、この四月選挙後、この増税法案が実現されると、パリ市民臨時政府に不満をぶつけ、「昔のほうがマシだった」と保守支持に転じたのである。

また穏健共和には有リーダーがいなかったこともまずかった。カヴェニャックはであったものの今ひとつ機転に欠け、秩序党のティエールや、ルドリュ・ローランとべると一枚格が落ちる人物であった。カヴェニャックは保守に譲歩を続け、味方からの信頼を失った。その上、彼は保守からも信頼されず、十二月大統領選挙をもって保守はカヴェニャックを見捨てた。

穏健共和が弱体化する一方で、今度はジャコバを吹き返してきた。ジャコバ5月ブランキのデモ六月起に参加することはなかったが、そのリーダーであるルドリュ・ローランは彼らに同情をよせ、労働者の立場に立つ重要な政治家の一人であった。ローランは保守によるフランス反動化に対抗し、かつて仲の悪かった社会主義者と9月22日政治宴会で同盟することを成功する。

憲法議会には、4種類の活動的な社会主義がいた。

ローランはこれらの社会主義と協し、反動的な運動に対する闘争を開始したのだ。

1848年の六月起から1851年12月の第二共和政の終焉までの3年半は、パリシーザー義(カエサル義)に至るまでの過程であった。シーザー義とは、ローマ英雄シーザーカエサルのようなカリスマ的人物が人民の圧倒的な支持の下に独裁者となる疑似民主独裁体制のことである。それはすなわち人々が英雄ナポレオンの再来をめていたことを意味している。この期間にはいくつかの段階があった。

そして1851年12月2日ルイ・ナポレオンクーデターおこし、自らをフランス独裁者祭り上げたのである。ここに至って、革命、ジャコバ保守はすべて弾圧された。翌年にルイ・ナポレオン選挙を経てついに皇帝にまで至り、ナポレオン三世の名の下に第二政が始まるのである。それでは以下に、ルイ・ナポレオンがいかにしてパリに現れ、また皇帝にまで上り詰めたのかをみていこう。

ルイ・ナポレオンの登場

シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン三世)

六月起の後に人気を得た保守はあえて穏健共和に議会の重要なポストを任せ、彼らを利用する方策をとっていた。それでも保守化した議会によりパリは急速に反動化していく。

まず1848年7月28日に、秘密結社を禁じる布告がだされた。政治クラブなどの秘密結社は自治権を侵され、政治集会には一般人や警官の立ち入りを許さなければならなくなった。また共秩序や道徳を犯すとみなされた法案はすべて禁じられた。とりわけ社会主義者が打破をしていたブルジョワの私有財産権については強調されて保護された。

8月に制定された二つの法律は出版物に対する新しい制限を設けた。新聞の編集者は、再保を支払うように義務づけられ、また、議会や共和に対する侮辱の表現は違反とされた。これらの法律行政を支配する保守によって施行されたので、社会主義者、急進は出版という非常に強政治的武器を奪われてしまったことになる。

11月4日1848年の第二共和政憲法が、739対30という大差で採択された。しかし直接普通選挙で選ばれる一院制議会と大統領制を基本とする新体制は、立法府と行政府が独立的でありすぎため、両者の対立を調整する術をもたなかった。この欠点が第二共和政が短命に終わった原因の一つとされる。

12月10日大統領選挙では、ナポレオン1世の甥ルイ・ナポレオンが74の得票率で圧勝した。対抗のカヴェニャックは有効得票の1/5にも満たず、ルドリュ・ローランは1/20を得ただけであった。ルイ・ナポレオンは著作『貧窮の絶滅』で社会主義的方針を世に示し、それがブルジョワ共和政府に失望した労働者には、カヴェニャックよりはるかにましな革新補と映ったのである。カヴェニャックの敗北によって、多数であった穏健共和は大幅に勢を失うことになった。

また農民にとって「ナポレオン」というブランドフランス全盛期の思い出であり、地方保守的な名望支配に終止符を打ってくれる希望であった。農民たちは自分たちに重税を課し続ける共和にはうんざりしていたのだ。マルクスは農民のナポレオン支持を「農民の保守性」と摘したが、それは一面的な理解である。

一方、適切な補者を立てられなかった秩序党にとっては政治経験のないルイ・ナポレオンは共和のカヴェニャックよりもかに扱いやすい人物に映った。ルイ・ナポレオン保守が自分を支持してくれるのなら以下の4つの約を守るとした。

労働者、農民、保守にくわえ、ルイ・ナポレオンはブルジョワや、さらには急進革命からの支持も受けた。これほどに「ナポレオン」のブランドフランス民にとってはかしいものだったのだ。しかしこルイ・ナポレオンはただ叔父の名前を借りているだけの愚ではなかった。

ルイ・ナポレオンの躍進

ナポレオンと保守派によるジャコバン派弾圧

               

           オディロン・バロー        ピエールジョゼフ・プルードン

12月20日大統領に就任したルイ・ナポレオンは、すぐさま穏健共和内閣止し、保守的な王オディロン・バロー首相に、ファル教育大臣に、そしてオルレア将軍シャンガルニエを陸相に任命した。第二共和政下で正式に機した最初の首相が、共和義者を排除した王党派連合政権であったのは皮なことである。

カヴェニャックの時代、議会はオーストリアと対峙している仏国にあるピエモンテを救助するためにイタリアに遠征軍を送ることを承認していた。ルイ・ナポレオン大統領になるとこの軍隊はピエモンテ救助だけでなく、ローマに進軍して法王のために玉座を奪還してくるようにとまで発展して命じられた。この命明らか法律逸脱しており、議会は大統領抗議したがそれは視された。立法府が行政府である大統領を制することのできないこの異常事態に、議会は予算案を議決後すぐに解散を宣告せざるを得なくなった。

制定議会では曲がりなりにも共和義者が多数を占めていたため、一種の二重権状態が表面化したが、これは解散後の1849年5月の立法議会選挙で決着がつけられた。保守(右)を結集した秩序党が53の票を得て750議席中450議席を獲得したからである。与党であった穏健共和は12%弱、70数議席しか獲得できず敗した。

一方で急進左の連合体「山岳(モンタニャール)」の民主社会主義者(デモ・ソック)は躍進し、35210議席を獲得している。さらにジャコバ地方選挙でも勝利をおさめていた。これはジャコバルイ・ナポレオンティエールを恐れていたからであるとされる。ここにきて革命的勢が伸長し、ブルジョワは不安を与えた。この選挙によって、いままで憲法制定議会の導権を握っていた穏健共和(中道が壊滅し、政治保守と急進右翼左翼の両極端になるという構図が議会に生まれた。

だがこの左山岳も一ヶ後には解体されている。ことの経緯はこうである。新しく立法議会が招集されるとすぐにジャコバ保守に攻撃を加え始めた。先述のようにこのとき新政府ローマに兵隊を派遣していた。イタリアではフランス二月革命に触発されてローマ共和が成立していた。秩序党政権による兵はヴァチカンローマ法王を擁護する的があったのだが、1849年6月11日、山岳はこれを憲法違反だと弾劾し、パリを中心に大デモを組織した。6月13日、彼らの示威行為はバリケード戦にまで発展するが民衆の支持が得られず、あえなく鎮圧された。これによって首謀者のルドリュ・ローランがイギリスに亡命したのをはじめ、山岳の議員団は壊滅した。

急進に同調したと疑われた兵士と下士官はアルジェリア連隊へと転任させられてしまった。また当日パリの近い11県で攻囲状態が布告され、二日後の15日にはリヨン近くの5県にまで拡大された。また攻囲宣言と同時に文民政府所管のすべての権が軍部に移されることが法律で決まった。議会は「事態を沈静化させるための措置である」といって被告人たちの権利を奪ってしまった。しかし保守はこの法律によって大統領に過度のを与えてしまったことに気づいていなかった。軍部を握するのが大統領である限り、軍部のの増長は大統領の増加を意味していたからである。

以上のような保守ナポレオンの手によるジャコバ、左の弾圧によって、第二共和政は共和政なのに議会に共和義者がいないという訳の分からない状態になった。

身軽になった秩序党政権はクラブや集会を禁止し、出版印税を復活させて言論統制を行った。労働者のストライキももちろん禁止。穏健共和は割と多めに見られていたものの、ジャコバ社会主義底的に弾圧された。彼らの政治集会は秘密結社法によって規制された。一例として、ストライキを行っている労働者に援助を与えた「労働者の友好結社」は、許可政治クラブとして警察に弾圧された。警察は、雇用者が認めた場所以外で労働者が集まるものはすべて平和と財産を侵するものとみなしたのである。当然、ジャコバ社会主義者の出版物も弾圧しはじめる。『レフォルム』新聞は多額の罰によって破滅し、プルードンの発行した優れた社会主義新聞『人民の代表』も同様に賠償で財政的に破綻させた。

こうしてジャコバ地方へ、地下へと散っていった。彼らは一見政治とは関係なさそうな組織を装い、パリリヨンにあった中央委員会の支持を受けていた。彼らは革命のためというよりはクーデター防ぐために武装していた。彼らの勢はなかなかで選挙で勝てる可性すら秘めていた。しかし秘密結社のままでは選挙で勝っても結局ナポレオン勝利の果実を横取りされてしまう可性がある。結果、彼らは1850年の中頃には選挙で勝つことを諦めていた。

大統領VS保守派

ピウス9世

六月起から1851年のクーデターまで、フランスには二つの政治的対立があった。

大統領保守は協してジャコバ社会主義者を弾圧しつつも、互いに導権を奪おうと競っていた。

ナポレオン政治豪腕は手段を選ばず人民からの人気を得ようとした所にある。まずナポレオン六月起で逮捕された者たちの議会に恩赦をめた。これは無口ナポレオンを小馬鹿にしていたバローに拒否されたが彼はノーリスクで人々の人気を得ることに成功した。

さらにナポレオンローマ兵もまた人気取りに利用した。フランス兵もあってイタリア第一次独立戦争が鎮圧され、ローマが法王に返還されたあと、法王は反動政策を強いた。ルイ・ナポレオンはそこで謀と分かっていてあえてそれに意義を唱えた。一方で保守は法王支持の立場をとったため、そのため後にナポレオンがバローを解任したときに、それは彼の人間性と共和制勝利のように映った。

ルイ・ナポレオン1849月10月31日に、バローに代わり自分を支持する閣僚を集めて新内閣を結成した。保守はこの内閣を不信任にしたが、反対を持続するだけのを彼らは持っていなかった。すでにナポレオン人気は議会の多数と同等のものであったのだ。すなわちこれは議会制君政が破綻していることを意味していた。そしてそれはまた人民が議会よりもナポレオンを望んでいることも示していた。社会主義をのさばらせないためには、議会よりも独裁者政治やらせるようが良いと市民は考えていたのである。

保守にはナポレオンと対抗する際に様々な弱点を露呈してしまった。そもそも保守といっても統一性はなく、ある者は正統派であり、ある者はオルレアであり、またあるものはカトリックであった。カトリックはもし自分たちが教会大統領を和解させることができるのならば、議会政治の原理は喪失してもやむをえないと思っていた。こうした保守の分裂は当然ナポレオンの利するところである。

ファルー法と選挙法改定

アルフレッド・ド・ファル

保守による一連の反動的立法のうちで一番ひどいものは、1850年3月教育立法、ファルー法の制定である。これは近代フランス法のなかでももっとも有名な法律とされる。このファルー法は国家による教育の独占権を放棄するものであった。これによって学士を持つ者ならばでも小学校を設立することができるようになった。

ファルー法は一見して教育自由化にも見えるが、その実は近代教育というフランス大革命の成果を捨て去り、カトリック教会におもねる法律であった。というのは小学校を作れるほど資のある団体は教会しかなかったからだ。ファルー法によってカトリック職者が民の初等教育握しただけでなく、それまで大学局が管理していた中等教育にまで職者が進出した。歴史の中でふたたび出番を与えられたイエズス会がこの仕事を担っていた。つまりファルー法は教育自由化などではなく、教育教会の手に委ねるという中世への回帰であった。

また、ファルー法は共和義的教員にたいする弾圧にも威を発揮した。この時期、選挙法やデモへの参加を理由に、師範学校教師40近くがなんらかの懲処分を受けている。現在フランスの世俗教師の特徴である反教権義は、このファルー法以後、一段と強くなったとされる。教会の増大を嫌うものや、良識的な市民たちはファルー法を嫌悪し、保守はさらに人気を落としてしまった。そして、そこまでしておきながら、教会ファルー法になんら感謝することはなかった。

さらに1850年5月31日には選挙法が定された。この新法はまず政治犯(つまりジャコバ社会主義者)から選挙権を奪った。その上で、選挙資格の定住期間制限を半年から3年に定した。普通選挙の原則はそのままであったが、これによって移動のしい労働者たちは選挙権を失っていった。この選挙定によりパリの労働者の40選挙権を失うこととなった。男子普通選挙はあらゆる共和が共通して要していた原則の一つであった。当然これによっても保守は人々の信頼を失った。

各派の動向

シャンボールアンリダントワ

保守は権を握ったものの互いに争い、また彼らには信条がなかった。その一方で、ふたたび共和フランスで勢を取り戻し始めていた。小さな地方都市では、下層中産階級が共和にうつり、農村でも共和支持が広まっていた。共和はそんな状況の中で「労働者は恐るるに足らず、社会革を行っても財産には影はない」といってブルジョワからも支持を集めた。

ジャコバ社会主義は、フランスの多くので見られるようになった秘密結社において民主主義社会主義について議論し、好機を見計らっていた。

保守王位継承の問題に取り組んでいた。正統王党派シャンボール伯(このとき30歳)を王位につけるという提案があったが、彼には子どもがいなかった。法律によればシャンボール伯のあとはオルレアパリ伯になってしまう。だが、この妥協案はオルレア満足できるという利点もあり、実際に後の1873年の第三共和政ではこの案がとられている。しかし、この時点ではこの案は互いに受け入れられるものではなかった。結局、保守は互いに争いながら1851年の運命の日を迎えてしまう。

大統領ルイ・ナポレオンは秩序党議会の反動立法から距離をとって中立を装い、選挙権の移住制限法の撤を提起するなど、民衆サイドにたつ政治家として自己アピールした。しかし、大統領の任期はわずか4年で、しかも再選は禁止されていたため1852年3月の議会同時選挙をもって彼は権の座から降ろされることになっていた。このためルイ・ナポレオンは再選禁止条項の修正を狙って全を飛び回って民衆にをかけつづけた。ルイ・ナポレオンはその胸にある野心を隠し、静かに、またゆっくりと刻を待った。

ナポレオンの攻勢

ニコラス・シャンガルニエ

1851年1月保守全に油断していた。当時、民軍とパリの正規軍はオルレア将軍シャンガルニエが握していた。彼はプライドが高く、自分を動かすのは議会であり、議会の命があれば大統領逮捕して監にぶちこむことができるとまでした。政権獲得をナポレオンにとっては軍隊の必要不可欠である。そこで彼はアフリカに赴任していた将校たちを次々とパリ官にすえかえていったのである。大統領のこの行為に抗議できる人はおらず、むしろ新しいパリ官たちを従順であると感じていた。しかし彼らが従順であったのはブルボンでも、中産階級の議会でもなく、ボナパルトであったのである。

ナポレオンは地盤が固まったと確信したとき、秘密裏にシャンガルニエを解任した。保守はそれに対抗することができなかった。とりあえず不信任投票は行ったものの、シャンガルニエの解任については一言も言及しなかった。ティエールナポレオンに対してもっと断固とした態度をとるように議会にいい、さもなければ保守全に大統領に屈したと民にみなされるとした。さらにはこのままいけば政が復活する可性すらあるとすら忠告した。

ナポレオンは議会で支持者の買収にかかり、また彼は政敵たちの分断工作も怠らなかった。ナポレオン人気の低かった1849年の新選挙法を撤回するように議会に要した。保守はこれを拒否し、共和保守の態度に不満を持った。ナポレオンは両の結託を恐れていたのだ。彼は共和煽り保守の提案した「軍隊は議会に従しなければならない」という決議を共和に拒否させるまでに至らせた。この妨工作によってナポレオンは軍隊を全に握したといえる。

ナポレオンは味方を作るためにバラまいていたため、議会からもらう俸給と機密費それぞれ60フランではとても出費をまかなえなかった。借したり、私物を売り払ってもは足りず、ナポレオンは議会に対して俸給を300フランにしてほしいと訴えたほどであった。議会は俸給アップ自体はつっぱねたものの、選挙正協ボーナスとして260フランを彼に支給した。

クーデター前夜

               

         アレクシス・ド・トクヴィル      ル・ロワ・ド・サンタルノー

軍を全に支配下においたナポレオンがいつかクーデターを起こすのはにも明らかであった。しかしナポレオンはあくまでも慎重であった。クーデターを起こすそぶりをみせるどころか、大統領の再選が可になるような憲法改正を議会に訴えて、平和共存アピールを繰り返した。ジャコバ社会主義者たちはそれに拒否反応を示したが、秩序と穏健共和の一部には再選を認めて良いとする議員まで現れた。

その典はバロー内閣で外相をつとめたことのある高名な歴史アレクシス・ド・トクヴィルであった。彼はナポレオンクーデターは高確率で成功するとみて、妥協的に憲法改正を認めるべきだとした。しかしトクヴィルに同調する議員は増えてきたものの、憲法改正に必要な2/3にはまだ届かなかった。

1851年7月19日、立法議会はボナパルトとバローの提案した憲法改正案を、賛成446票、反対278票で否決した。議員に復帰していたシャンガルニエと、ティエールらオルレアがジャコバと共和と協して反対票を投じたのである。これでナポレオンクーデターはほぼ確実なものとなった。だが、この期に及んでもなおティエールシャンガルニエはナポレオンを過小評価していた。彼らはナポレオンクーデターを起こしたとて軍隊は動かないとみていたのだ。

敵が油断している間、ナポレオンパリの軍隊に次々と自分の息のかかった人物を送り込んでいた。ナポレオンの命を受けて人材探しのにでていた副官フルーリは、トルコ団長を務めていたサン・タルノー将軍に手柄をあげさせ、パリ管区総司令官に大抜した。このとき既にパリ管区総司令官にはナポレオンのマニャン将軍がついていた。また軍隊だけでなく、警察にも自分と親しいカルリエを警視総監に任命していた。軍部と警察握したナポレオン営はさらに盤石になっていく。

とはいえナポレオンは自分に人気はあってもクーデターの実務をこなす自信はなかった。そこで彼は異兄弟のモルニー伯爵を内務大臣に採用した。彼は才と財とコネに恵まれており、かつてはオルレアだったものの1851年7月憲法改正の否決の後にナポレオンに急接近した。ナポレオンはモルニーをクーデターの総合プロデューサーの地位においた。モルニーは杜撰クーデター計画をすべて洗い直し、警視総監のカルリエを解任してトゥルーズの警察長官をしていたモーパーを後がまにつけた。

ナポレオンのもう一つの懸案事項はであった。クーデターは武で決まるが、武を支えるのはである。だが慢性的欠状態にあるルイ・ナポレオンは前年度の臨時ボーナスはすでに使い切ってしまっていた。そこでナポレオン愛人たちから借をしまくった。元婚約者のマチルド皇女からは4000フラン、以前の愛人エミリー・ロールズから33000フラン現在愛人ミス・ハワードからは200000フラン彼女たちは私財を売り払ってナポレオンを献身的に仕えた。

運命の日、ルイ・ナポレオンのクーデター、第二共和政の終焉

               

          シャルル・ド・モルニー        ヴィクトル・ユゴー

1851年12月2日、その時時代は動いた。パリ市民たちはり出された共和大統領の布告ビラに驚愕することになる。

フランス民の名において

共和大統領は以下の旨をここに布告する

一条 民議会は解散する。

二条 普通選挙は復活する。[選挙法を制限する]五月三一日の法律止する。

三条 フランス民は十二月一四日から二一日までの間に投票所に出頭する。

四条 が陸軍第一師団の管区に敷かれる。

五条 務院は解散する。

第六条 内務大臣は以上の布告を責任もって遂行する。

リゼ宮にて記す 1851年12月2日

ルイ・ナポレオン

内務大臣ド・モルニー

パリ市民はこれを読んで驚きながらも「やっぱりか」と「民議会ざまあみろ」という感情のもと、そのまま何事もなく生活に戻っていった。そのまま劇場に出向いて舞台鑑賞を楽しんでいる者すらいた。一応ナポレオン混乱に備えて軍隊と憲兵兵が出てきていたが、彼らは駄足になった。ナポレオンは民衆に受け入れられたのである。市民六月起で議会に弾圧され、選挙権を奪われた恨みを忘れていなかったのだ。

オルレアティエール王党派のベリエ、共和のカヴェニャック、シャンガルニエなどの大物をはじめ、共和の議員は軒並み逮捕され監に送られた。逮捕を免れたヴィクトル・ユゴーなどの議員が民衆フォーブール・サン=タントワーヌなどにバリケードを築き、抗戦を呼びかけたが、民衆の視線は冷ややかで、彼らはナポレオンの軍隊によってあっという間に鎮圧されてしまった。ユゴーや新聞王ジラダルは亡命し、クーデターはいとも簡単に遂された。

しかし全てが上手くいったわけではない。バリケード戦で市民に死者をだしてしまったことはナポレオン営にとっても痛手であった。とりわけグラン・ブーヴァールでの戦闘しく、彼に敵対する者はこぞってそれを「虐殺」だと訴えた。

またナポレオンにとって予想外だったのは、大都市較的静かだったのに、地方、とりわけ南フランスで共和の農民が反乱を起こしたことであった。彼らはパリ政治情勢にあまり詳しくなく、クーデター=悪であると思い込んでいたのである。しかし誤解に基づくとはいえ、ナポレオンにとってそれは鎮圧すべき対であった。モルニーとサンタルノーは反乱農民に軍隊を送り、数日のうちに彼らを制圧した。

クーデターのあとは、フランス大革命後、もっともしい弾圧が行われた。共和アカと思われた人々が26000人以上も逮捕され、特別委員会に告訴された。彼らはとても近代的とはいえない裁判を経て、北アフリカギアナへと送られた。しかしナポレオン人気とりのために彼らの処分を軽くするように訴えかけた。流刑者の数もへっていき、後の1859年の大恩赦ではほとんどがフランスに帰した。

1851年12月3日、立法議会は解散され、1848年憲法は失効する。形式的にはルイ・ナポレオン皇帝になるまであと1年のあいだ第二共和政は続くが、実質的にはこの時点をもって第二共和政はおわった。布告されていた21日の人民投票では得票率83、賛成92という圧倒的支持がルイ・ナポレオンに与えられた。投票をボイコットした者が160万人もいたので投票率は低かったが、それでもクーデター市民に受け入れられたといってもいいだろう。

独裁者ルイ・ナポレオン

1851年1月14日フランス共和国の新憲法が発布された。起者となったのは、モルニーの父親であるフラオー伯、ペルシニー、そしてメナール、トロロン、ルエールの三人の法律家である。新憲法の基本姿勢は前年度12月投票で圧倒的多数で承認されているので、ナポレオンはこれで正式に10年の大統領任期を認められることになった。当然、再選も認められている。

またその憲法は彼の叔父の大ナポレオンが第一執政のときに制定した共和歴憲法を踏襲していた。その特徴は、大統領行政が極めて強いことにあった。この憲法によれば大統領内閣と大臣を名する権利を持ちつつも、内閣に対して責任を負う必要はなかった。(ちなみにこれは日本帝国憲法と同じ規定である)

大統領は、大臣、軍人、知事だけでなくすべての公務員の任命権をもち、さらには戦争の開戦権や条約の締結権までも持っていた。

男子普通選挙によって小選挙区で275人の議員が選ばれる立法院も一応存続したが、彼らは大統領に対して発言することが許されず、大統領の命ひとつで議会は解散させられた。

また4050人からなる務院の議員は大統領によって名され、ブレーンの役割を果たした。この務院は法律大統領を起した。

この他、大統領名した終身議員からなる元老院があり、政府が提案し、立法院が可決した法律憲法に合致しているかを審議する。もし合致しない場合は、それを効とすることができる。

このように大統領は、法律の起と最終審議という立法権の最初と最後を握するほか、何ものにも制約されない大統領を発する権利であった。それはもはや共和制ではなく、大統領による独裁。いや、専制君主制であった。

ヴィクトール・ド・ペルシニー  

独裁権を得た大統領が何をし始めるのか。フランスの民衆は期待と不安を抱きながら、ナポレオンの最初の命をまった。

1851年1月23日、彼の最初の大統領はオルレアの財産を有化するものであった。民衆は「ナポレオンは借を返すためにが必要だったのか」と噂したが、特に混乱は起きなかった。この命にもっとも拒否反応を示したのは、ナポレオンの協者であった内務大臣のモルニーであった。彼は二月革命以前から筋入りのオルレアであり、そのためにクーデターの直前までナポレオンに接近しなかったという経緯を持つ。不意をつかれたモルニーは抗議としてルエール、フールト、マーニュのオルレアの三閣僚とともに辞表を提出した。ナポレオンは、モルニーの後がまには、自らの右腕でモルニーと仲の悪いペルシニーを座らせた。閣僚の空白にはモーパ、アバテューシ、カサビアンカを埋め合わせた。

ナポレオンは没収したオルレアンの財産をつかってかねてからの望みであった社会政策を実行した。ナポレオン社会主義者サン=シモンの著作から影を受けた人物の一人であったのだ。少なくとも彼は皇帝社会主義者の装いをしていた。現在フランス社会政策のほとんどはナポレオンの独裁体制だったときにはじめて実行に移されたものである。それまでブルジョワ秩序はもちろん、共和貧困問題よりも政治導権争いを優先していたので、社会政策のほとんどは議会に提案されても案となっていた。彼らは怠け者を甘やかしてはいけないと考えていたし、そもそもにそんなはなかったのである。

その一方でナポレオン2月17日、新聞の報道規制する大統領をだした。二月革命自由化された出版はクーデター以前から規制の方向に向かっていた。今回の大統領規制と罰則を強化するのと同時に、新聞の創刊と編集者の変更をするときには政府許可が必要とされた。この時期、不穏当な記事を書いた新聞が発行停止処分を受けている。事前検閲はなかったが処分を恐れた新聞社は自己検閲を強いられるようになった。

またナポレオン2月8日大統領で、官許補者リストというものを布した。これはナポレオン支持の補者には支援を与え、彼と敵対する補者には妨がくわえられるというものである。ナポレオン約通り男子普通選挙は維持したが、被選挙権について制限を加えたのである。さらに選挙区の界線もナポレオンの恣意によって曲げられた。とはいえ、この工作は必ずしもナポレオンの意思通りには動かなかったようである。

こうした中、ナポレオンは第一回立法院選挙を迎えた。これは彼への二度の信任投票であったといえる。民はもう革命クーデターもこりごりだと考えていた。彼らはナポレオン政治姿勢は必ずしもすべて理解していなかったが、安定をめてナポレオンの推した官許補者に投票した。こうした信任を背景に、もはや人々はナポレオン皇帝と認めはじめていた。

ナポレオン三世の即位、第二帝政の開始

皇帝ナポレオン三世

しかしナポレオンはそれでも皇位につこうとはしなかった。そこでペルシニーは人々に「皇帝バンザイ」と叫ばせることによってナポレオンをおだて、政の意欲を高めさせようとした。こうした方針をナポレオンは宥めてはいたが、ペルシニーはそれでも懲りず、人々に「皇帝バンザイ、帝国バンザイ」と叫ばせ続けた。ナポレオンも徐々にその気になり、「帝国戦争だという人がいますが、それは違います帝国、それは平和なのです」という有名な演説ボルドーで行った。もはや皇帝ナポレオンの誕生は時間の問題であった。あとはナポレオン自身が一言「皇位にのぼる」というだけであった。

10月末になっても迷いの残っていたナポレオンであったが、周りの圧おされ11月5日、元老院に対して、帝国再建に関する問題の検討をめた。二日後、元老院は、ルイ・ナポレオン・ボナパルトとその子孫を皇帝とするフランス帝国を再建するかどうか、投票を実子する決議をだした。このとき、議会で反対したのはかつてのナポレオン家庭教師ヴィエャールだけであった。

投票11月21日22日に行われ、95%という圧倒的多数でナポレオンの即位とフランス帝国が承諾された。票数は賛成が7824000票なのに対して、反対はわずか253000票だけであった。もっとも全200万人の有権者が棄権したので、政復活に賛成しなかったものは4人に1人はいたことになる。だがそれでも大多数の人間ナポレオン支持であったことは疑いようもない。

12月1日ルイ・ナポレオンは即位式を行い、皇帝ナポレオン三世となった。ここにフランス第二が始まり、その統治は1870年、普戦争フランス敗北するまで約20年間つづいた。

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