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アーセンヴェンゲル
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アーセン・ヴェンゲルArsène Wenger、1949年10月22日 - )とは、フランスサッカー導者、元サッカー選手である。

現在FIFAサッカー発展部門の責任者、FIFA技術研究グループ長、サッカー議会(IFAB)のテクニカル諮問委員会及びサッカー諮問委員会のメンバーを務めている。

概要

フランスのストラスブール出身。イングランドプレミアリーグアーセナルFC監督を22年間務めた世界的な名将として知られ、プレミアリーグFAカップシーズンダブルを2度達成。さらに、2003-2004シーズンプレミアリーグでは「優勝」という偉業を成し遂げている。このときのアーセナルは「インビンシブル」と称されており、今日に至るまで伝説チームとして称えられている。

イングランド内外でサッカーのみならずスポーツ職業に対する認識を変えた人物と評価されており、彼の試合へのアプローチは攻撃的なメンタリティを強調するものであり、サッカーピッチ上で面いものでなければならないという哲学を持ち続けていた。2003年にはイギリスサッカーへの貢献が高く評価され、「大英帝国勲章」を受賞。OBE(オフィサー)の称号が与えれている。

アーセナル監督に就任した当初はイギリスでは名前が知られておらず、監督主任を疑問視するが大半を占めていたが、やがてイギリスファンメディアからは勤勉な態度を反映して「Le Professeur(教授)」というニックネームを付けられるほど大きな尊敬を集める人物となる。

アーセナル監督就任する以前の1995年から1996年までの二年間は日本名古屋グランパスエイト監督に就任。当時はJリーグのお荷物と揶揄された弱小チームをスペクタクルなフットボールを披露する強へと変貌させ、天皇杯優勝タイトルをもたらしている。そのため日本染みの深い人物でもあり、長年日本代表監督への就任を熱望するが絶えなかった。結局代表への関わりは実現しなかったものの、たびたび日本メディアに登場するなど日本と関わりを持っている。

優勝以降はなかなかビッグタイトルを獲得できない時代が続いたものの、アーセナルUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得には導き続けていた。2017-18シーズンを最後に退任を発表。同時に監督業からの引退を表明している。

経歴

現役時代まで

アルフォンソとルイーズ夫妻の3人子供としてフランスのストラスブールで生まれ、がいる末っ子として近くのドゥレンハイで育つ。両はストラスブールで自動車部品会社を経営しており、そのほかにドゥトレンハイのLa Croix d'Orというビストロ(大衆食堂)も手がけていた。自身は「私はパブで育った」とっており、両の所有する大衆食堂二階で暮らしていた。この頃はタバコを売って、小遣いを稼ぐ事もあったという。

父親サッカーチーム監督だったこともあり、6歳の頃からサッカー興味を持つようになる。少年と共にボールを蹴っていたが、は人口が不足していたこともあってメンバーわないことも多かった。そのため、12歳になるまではチームに所属しておらず、1963年になってFCドゥレンハイムでプレーするようになった。

1969年フランス3部リーグASムツィグにスカウトされて移籍する。この当時のムツィグは後に大きなを受けることになるマックスヒルドが監督を務めており、史上最高のアマチュアチームとも呼ばれていた。ヴェンゲルはMFもしくはDFとしてプレー。同時にストラスブールにあるロベールシューマン大学現在の名称はストラスブール大学)で政治経済学を学び、1971年には修士号を取得した。

1973年からは3部クラブであるFCミュルーズでプレー

1978年ディビジョンアン(1部リーグ)のRCストラスブールへ移籍。トップリーグプロサッカー選手としてのキャリアを歩むようになるが、ほとんどがリザブチームでのプレーとなり、3シーズントップでの試合出場はわずか11試合と立った活躍はできなかった。

1981年に32歳で現役を引退導者としてのキャリアに転身することとなる。現役生活の最後の2年間はリザブチームとユースチーム運営に関わるなど、引退後のキャリアの準備に費やしていた。

初期の指導者時代

1981年、RCストラスブールのユースチームコーチに就任。この頃のマネージメント手腕は多くのフランスコーチが感銘を受けている。

1983年にはディビジョン・ドゥ(2部リーグ)のASカンヌのアシスタントコーチ及びユースチーム監督に就任。ジャンマルクギルーのアシスタントとして相手チームに関する情報収集を担当し、トレーニングセッションを通じて選手たちに規を教え込んでいた。1983-84シーズンには2部のチームながらもクープ・ドゥ・フランスの準決勝に進出している。

1984年ディビジョンアンASナンシー監督に就任し、監督としてのキャリアスタートさせる。当時のナンシーは資も選手の質も不足しており、1部リーグの座を維持するのも困難チーム事情であったが、健康的な食事の利点を説明するために栄養士を雇い、選手たちに試合前の間食をしないことを義務付けるなどを底させる。また、限らせた戦のなかで選手のポテンシャルを見極め、大胆なポジションコンバートおこなうなど工夫を凝らし、見事1984-85シーズンを12位で終え、1部残留に成功する。
1985-86シーズンリーグ戦18位でプレーオフの末にギリギリで1部残留を果たすが、3年となった1986-87シーズンは19位となりナンシーディビジョン・ドゥに降格。

ASモナコ

1987年に強ASモナコ監督に就任。モナコではナンシーの頃と違ってイングランド代表のグレン・ホドルマイトリー・ヘイトリーといった質の高い選手を擁していた。ここでヴェンゲルは彼らのを前面に出すために堅守速攻の近代的なスタイルを打ち出し、快進撃を見せる。最終的には2位ボルドーに勝ち点6差をつけ、就任1年にしてクラブディビジョンアン優勝に導く。ヴェンゲルの導者としてのキャリアにとって初めての大きなタイトル獲得となった。

1988-89シーズンには後にバロンドールを獲得する"リベリア怪人ジョージ・ウェアが加入。1989年には元アルゼンチン代表のラモンディアス1990年には当時22歳だったユーリ・ジョルカエフ、1992年にはドイツ代表のエースであるユルゲン・クリンスマンスター選手もしくはスター補が次々とチームに加わる。そのもあって、ヴェンゲルは徐々にモナコを攻撃的でファンを魅了するモダンフットボールを展開するチームへとシフトさせていき、フランス内でも新進気鋭の若手監督として高く評価されるようになる。この頃は資で勝るオリンピック・マルセイユ黄金期に差し掛かったこともあってリーグタイトルにはあと一歩届かなかったものの、モナコを毎年優勝争いに加わるチームに育てていた。

1994-95シーズンの開幕前にはバイエルン・ミュンヘンからオファーを受けるがモナコ側が拒否。しかしこの一件でヴェンゲルとフロントの間に轢が生じてしまい、シーズン序盤に成績を不振を理由に解任となる。もっともモナコでは7年間の長期政権を築き、ジョルカエフやリリアン・テュラム、そして最後のシーズンデビューさせたティエリ・アンリといった後のフランス代表の黄金期を築くメンバーを輩出。欧州舞台でも1991-92シーズンUEFAカップウィナーズカップ優勝、1993-94シーズンUEFAチャンピオンズカップベスト4進出と一定の結果を残していた。

名古屋グランパスエイト

1995年

モナコ時代の成功で欧州でも注の存在となっていたヴェンゲルだったが、新地に選んだのは辺の地である日本だった。1995年プロリーグが発足してまだ3年というJリーグ名古屋グランパスエイト監督に就任。名古屋に所属していたドラガン・ストイコビッチはヴェンゲルの就任を聞いて残留を決断したという。

当時の名古屋は選手のプロ意識が低く、Jリーグのお荷物と揶揄されるほどの弱小チームだった。ストイコビッチ小倉隆史浅野哲也など代表級の選手を抱えながら最下位争いを続け自信を失っていたチームに対し、ヴェンゲルは「常に長所だけを生かすようにする」という勝者の精を植えつけるところからチーム作りを始める。

就任当初はリーグ戦最初の10試合で8敗し、最下位に落ち込むなど苦しんだが、チームの中心と考えていたストイコビッチが本来のきを発揮するようになり、試行錯誤の末にベストメンバーを見出したフランス合宿以降の10試合で9勝1敗の成績を残し、最終的にはサントリーシリーズ(前期リーグ)4位まで浮上した。ニコスシリーズ(後期リーグ)では開幕から優勝争いに加わるが、あと一歩でヴェルディ川崎に及ばず、2位に終わる。もっともヴェンゲルが名古屋で見せたサッカーは人々を魅了し、弱小チームをわずかな期間でスペクタクルなチームへと変貌させた手腕は各方面から高く評価され、このシーズンJリーグ最優秀監督賞を受賞する。

天皇杯ではチームを決勝へと導くと、1996年1月1日サンフレッチェ広島との決勝ではストイコビッチの大活躍によって勝利し、クラブに創設以来初のタイトルをもたらす。

1996年

前年とは一転して優勝補に挙げられた1996年シーズンだったが、開幕直前のゼロックス・スーパーカップ横浜マリノスを下し、タイトルを獲得。リーグ戦でも前年と同じく質の高いサッカーを披露し、名古屋優勝争いを演じることとなる。

しかし、この年の9月イングランドの名門アーセナルFCからのオファーを受けることとなる。日本着も抱くようになり、日本に10年留まるかヨーロッパに戻るかを選択肢として持っていたが、欧州クラブからのオファー内容が、ヨーロッパでの実績のみを基にしたものであったことから、日本で実績を積むことに限界を感じていたこともあり、アーセナルオファーを受けることを決断する。

9月28日柏レイソル戦が名古屋でのラストマッチとなった。柏レイソル戦終了後、日本語で「みなさんありがとう。グランパスサポーターのことは忘れません。私はいつまでも名古屋愛しています」とファンに向けて挨拶シーズン途中で優勝争いに中ながら日本を後にする。

アーセナル

就任当初

1996年10月1日イングランドプレミアリーグの名門アーセナルFC監督に就任することが正式に発表される。名古屋時代の右腕ボロ・プリモラツをアーセナルでもヘッドコーチとして起用。もっとも、アーセナルが外籍の監督を起用するのは史上初めてのことであり、英国ではヴェンゲルのことはほとんど知られていなかった。そのため、地元のメディアは「アーセン誰?」(Arsène Who?) という見出しでこの名のフランス監督を表現した。

当時のアーセナルは守備的な古いスタイルサッカーが続いており、「退屈なチーム」と嘲笑され、成績も低迷していた時代だった。就任してまずヴェンゲルはチームに蔓延する緩い規革に着手することから始め、休日や選手ラウンジでの飲を禁止し、試合前の料理としてパスタを推奨し、身のの代わりに茹でた鶏肉を奨励し、ジャンクフードを控えるように命じた。初年度の1996-97シーズンを3位で終えたが、3位という成績は過去6シーズンで最高の順位だった。

シーズンダブル

1997-98シーズンは新たなトレーニングメソッドや選手たちのプライベートに関する制限、外国人選手の積極的な招へいなど、チーム革をさらに推進。未だフランス人のヴェンゲルに懐疑的なメディアはプライベートに関するゴシップを連発し、挙句の果てにはゲイ疑惑までが取り沙汰される。そういった逆の中で開幕から第12節まで負けなしで首位に立つ。中盤に失速したものの、最後の3かに怒涛の追い上げを見せ、最大で勝点差11まで開いていたマンチェスター・ユナイテッドFCを逆転。英国4協会以外の出身者で初めてプレミアリーグを制した指揮官となろなる。この頃のチームは“フェイマスバックフォー”と呼ばれたトニーアダムス、ナイジェルウィンターバーン、リー・ディクソン、マーティンキーオンの4バックによる堅守がベースとなっており、エマニュエルプティパトリック・ヴィエラデニス・ベルカンプといった新戦がうまく融合していた。
このシーズンアーセナルFAカップでも躍進。決勝でニューカッスル・ユナイテッドを破り、クラブ史上2度の2冠獲得。流石にもはやヴェンゲルの手腕を疑うは消えてしまい、プレミアリーグの年間最優秀監督賞を受賞する。

1998-99シーズン、最終節でリーズユナテッドFCに0-1で負け、マンチェスター・ユナイテッドに勝点1差で2連覇を逃した。マンチェスター・ユナイテッドと対戦したFAカップ準決勝ではロスタイムの失点により敗退する。1999-2000シーズンUEFAカップ決勝でガラタサライPK戦の末に敗れ、2シーズン連続で冠に終わる。

2000-01シーズンに向けてさらなるチーム革に着手。ライバルクラブトッテナム・ホットスパーFCの前キャプテンであるソル・キャンベルを獲得し、物議を醸しながらも衰えの隠せなくなっていた“フェイマスバックフォー”を解体。さらにはロベール・ピレスやフレドリックユングベリも獲得し戦を充実させる。中でも最大のヒットとなったのは前年に獲得していたモナコ時代の教え子であるティエリ・アンリを左ウイングからCFコンバートしたことだった。ニュータイプのFWとしてアンリは想像以上に覚醒し、24得点得点王を獲得。このヴェンゲルの革は見事に成功し、38戦全てで得点するという成績を残し、2位リヴァプールに勝点8差をつけて優勝FAカップでも決勝でチェルシーFCを破り、二度となるシーズンダブルを達成する。

インビンシブルズ

2002-03シーズンクラブ史上初のプレミアリーグ連覇に向けて好スタートを切ったが、シーズン終盤になると調子を落とし、マンチェスター・ユナイテッドに逆転された。しかしFAカップでは6回戦で再試合の末にチェルシーを破り、決勝ではサウサンプトンFCを破って優勝する。

そして2003-04シーズンチームスカッドの中心はヴェンゲルと同じフランス人となっており、引退したアダムスの後任のキャプテンにヴィエラを任命する。このときのチームフォーメーションそのものは中盤をフラットにした4-4-2だったが、前線の4人が完璧ともいえる流動性と連動性を見せ、ベルカンプゲームメイクアンリ爆発的な得点がさらに際立つための仕組みを構築していた。守備もヴィエラとジウベルトシウバが中盤でフィルターをかけ、最終ラインが安定して跳ね返すソリッドなものとなっていた。

まさにヴェンゲルの理想的なスカッドが完成したこのシーズンは、プレミアリーグで開幕から14連勝を記録。その後も他チームを圧倒する強さを発揮し続け、数々のシーズン記録を塗り替えながら敗のまま快進撃を続けていく。結局、アーセナル2位チェルシーに勝ち点11差をつけ、26勝12分0敗でシーズン優勝を達成した歴史的なシーズンとなる。これは1888-89シーズンにプレストンノースエンドFCが10勝1分0敗で優勝を達成して以来のことで、欧州トップリーグではACミランアヤックス・アムステルダムしか(当時としては)成し遂げていない偉業だった。

2003-04シーズンアーセナルは「インビンシブル無敵チーム)」として讃えられ、今日に至るまで伝説チームとしてり継がれている。

無冠の時代

2004年アーセナルとの契約更新で、年俸は320ユーロ(約4億2500万円)から約400万ユーロ(約5億3000万円)に上がった。2004年10月マンチェスター・ユナイテッドに敗れるまでリーグ戦49試合を負けなしで走り続けた。2004-05シーズンチェルシー優勝をさらわれたが、同シーズンFAカップ決勝ではPK戦の末にマンチェスター・ユナイテッドを破った。しかし、このFAカップ優勝を最後に長らくタイトルから遠ざかることになる。

2005-06シーズンリーグ戦こそ4位だったが、UEFAチャンピオンズリーグではレアル・マドリードユヴェントスビジャレアルCFを倒して決勝に進出した。クラブ史上初の決勝はロナウジーニョを擁するFCバルセロナに1-2で惜しくも敗れたが、クラブ最高となる準優勝という成績を残し、大きな称賛を得た。だが、このシーズンピークに大きな問題に直面するようになる。

アーセナル2006年ハイバリー・スタジアムから新たに完成したエミレーツ・スタジアムに本拠地を移転。このときのエミレーツ建設の負債アーセナルは長きに渡って背負い込むこととなってしまい、思ったように補強ができなくなってしまう。また、資で上回る他のビッグクラブが毎年のように引き抜かれてしまい、2005年にヴィエラ2006年アシュリーコール2007年には絶対的エースアンリが引き抜かれるてしまう。

この事態を受けたヴェンゲルは、各から有望な若手を獲得し、自ら育成することでに定着させるスタイルで戦を維持する方針に出る。このヴェンゲルの育成チーム作りはセスク・ファブレガスロビン・ファン・ペルシーといった新たなスターを生み出すことで一定の成果を得られる。だが、流石に資で上回るライバルチーム太刀打ちするのは厳しくなり、長年に渡ってタイトルから遠ざかる冠の時代が続くことになる。こうなると、を維持することも厳しくなり、セスクファン・ペルシーチーム限界を感じて引き抜きに応じることなる。それでもヴェンゲルは工夫を凝らし、選手を育てながらもCL出場圏内の4位以内を維持し、2001年から16年間連続でCL出場という驚異的な記録を生み出している。

監督キャリアの終盤

冠の時代が続くなかで、ヴェンゲルの手法が進化するフットボールのなかでもはや古くなったという摘も増えるようになり、限界説を唱えるも次第に増えていた。2011年8月28日マンチェスター・ユナイテッド戦では2-8という衝撃的なスコアで大敗。その直後に慌てて補強をおこなった様子は「パニックバイ」と揶揄され、限界説をさらに拍をかけることとなった。

2010年代に入ってからはクラブ負債の問題が解決したこともあり、オリヴィエ・ジルーメスト・エジルアレクシス・サンチェスを獲得し、彼らがチームの中心となる。この頃はもはやいかにCL出場権を確保するかがテーマとなっていた。2012-13シーズンは4位以内に入るのはもはや絶望的と見られていたが、終盤戦の脅威の追い上げで4位に滑り込むというシブとさを見せる。一方、CLではグループステージは突破できるものの、ラウンド16で負けるのが定番のようになってしまい、2010-11シーズンからは7シーズン連続でベスト16敗退に終わっている。

2014年3月22日チェルシーとのリーグ戦で、アーセナル在任通算1000試合を達成する。この2013-14シーズンFAカップで決勝に進出すると、決勝ではハル・シティFCを破り、9シーズンぶりとなるタイトルを獲得。冠の時代にようやく終止符を打つ。

2014-15シーズンには2シーズン連続でFAカップ決勝に進出。決勝ではアストン・ヴィラを相手に4-0と大勝し、FAカップ連覇を達成する。

2015-16シーズンは開幕から好調なスタートを切り、久々シーズン前半戦を首位で折り返す。しかし後半戦に怪人が続出したこともあって失速。レスター・シティ奇跡優勝を許し冠に終わったものの、11年ぶりにシーズン2位で終える。

2016-17シーズンエジルが不調に陥り、サンチェスの個の依存するようになると徐々に順位を落とし、最終的に5位でシーズンを終え、チャンピオンズリーグ出場権を19シーズンぶりに逃してしまう。このシーズンホームバーンリー戦では審のアンソニーテイラーを突き飛ばして退席処分を受けてしまい、リーグから4試合のベンチ入り禁止と2万5000ポンドの罰処分を受けてしまう。
一方、FAカップではチェルシーとの決勝戦を制し、アーセナルにとって13回FAカップ優勝を達成。個人のFAカップ優勝は7回となり、ジョージラムジーの6回を抜いてFAカップの最多優勝監督となる。そしてこれがヴェンゲルにとっての最後のタイトル獲得となった。

2017-18シーズン開幕前の2017年7月17日アレックス・ファーガソン記録を抜きプレミアリーグにおける監督就任日数が歴代最長となる。シーズンでは々とタイトル争いから撤退してしまい、ジョゼップ・グアルディオラマンチェスター・シティユルゲン・クロップリヴァプールFCとの差は明らかとなっていた。の移籍マーケットでの補強もカンフル剤とはならず、2シーズン続けてCL出場権を逃す結果に終わる。
そして2018年4月20日、実に22年間揮を執り続けたアーセナル監督を退任することを発表。最後のホーム戦となった5月6日バーンリー戦で5-0で勝利し、試合前にスタンディングオベーションを受け、2003-04年のインビンシブルシーズン中に獲得したプレミアリーグ色のミニレプリカトロフィーを贈呈された。なお、後にヴェンゲルは1月取締役会において契約満了で契約を終了する決定を受けたことを明らかにしている。

監督引退後

2019年11月13日国際サッカー連盟(FIFA)は、ヴェンゲルがサッカー発展部門の責任者、FIFA技術研究グループ長、サッカー議会(IFAB)のテクニカル諮問委員会及びサッカー諮問委員会のメンバーに就任したことを発表する。

2021年11月11日伝説アーセナル優勝を中心としたベンゲルの半生を振り返るドキュメンタリー映画Arsène Wenger: Invincible」が開。

2023年3月29日プレミアリーグ殿堂入りしたことが発表される。

監督としての成績

シーズン クラブ リーグ 順位 獲得タイトル
1984ー85 ナンシー ディヴィジョンアン 12位
1985ー86 ナンシー ディヴィジョンアン 18位
1986ー87 ナンシー ディヴィジョンアン 19位
1987ー88 ASモナコ ディヴィジョンアン 1位 ディヴィジョンアン
1988ー89 ASモナコ ディヴィジョンアン 3位
1989ー90 ASモナコ ディヴィジョンアン 3位
1990ー91 ASモナコ ディヴィジョンアン 2位 クープドゥ・フランス
1991ー92 ASモナコ ディヴィジョンアン 2位
1992ー93 ASモナコ ディヴィジョンアン 3位
1993ー94 ASモナコ ディヴィジョンアン 9位
1994ー95 ASモナコ ディヴィジョンアン ※2
1995 名古屋グランパスエイト Jリーグ 3位 天皇杯
1996 名古屋グランパスエイト Jリーグ ※1 Jリーグスーパーカップ
1996ー97 アーセナル※1 プレミアリーグ 3位
1997ー98 アーセナル プレミアリーグ 1位 プレミアリーグFAカップ
1998ー99 アーセナル プレミアリーグ 2位 FAコミュニティシールド
1999ー00 アーセナル プレミアリーグ 2位 FAコミュニティシールド
2000ー01 アーセナル プレミアリーグ 2位
2001ー02 アーセナル プレミアリーグ 1位 プレミアリーグFAカップ
2002ー03 アーセナル プレミアリーグ 2位 FAカップFAコミュニティシールド
2003ー04 アーセナル プレミアリーグ 1位 プレミアリーグ
2004ー05 アーセナル プレミアリーグ 2位 FAカップFAコミュニティシールド
2005ー06 アーセナル プレミアリーグ 4位
2006ー07 アーセナル プレミアリーグ 4位
2007ー08 アーセナル プレミアリーグ 3位
2008ー09 アーセナル プレミアリーグ 4位
2009ー10 アーセナル プレミアリーグ 3位
2010ー11 アーセナル プレミアリーグ 4位
2011ー12 アーセナル プレミアリーグ 3位
2012ー13 アーセナル プレミアリーグ 4位
2013ー14 アーセナル プレミアリーグ 4位 FAカップ
2014ー15 アーセナル プレミアリーグ 3位 FAカップFAコミュニティシールド
2015ー16 アーセナル プレミアリーグ 2位 FAコミュニティシールド
2016ー17 アーセナル プレミアリーグ 5位 FAカップ
2017ー18 アーセナル プレミアリーグ 5位 FAコミュニティシールド

※1 シーズン途中の就任
※2 シーズン途中の退任

個人タイトル

監督としての特徴

戦術面

子供の頃に当時黄金期にあったボルシア・メンヒェングラートバッハを受けており、また1970年代欧州を席巻したリヌスミケルスが開発したオランダのトータルフットボールも受けている。ヴェンゲルは「どこにでも完璧な選手がいて、それが私自身がプレーしたいと思っていた種類のサッカーだった」と回想している。

採用するフォーメーションはASモナコ名古屋グランパスエイトアーセナルと共通して中盤をフラットにした4-4-2。このことについては「スペースカバーするのにこれほど効率的なフォーメーションは他にない」としている。ただし、名古屋ストイコビッチアーセナルではベルカンプトップ下としての立ち位置を採ることが多かったため、攻撃時は実質4-2-3-1の形に変化している。

キャリア終盤のフットボールがポゼッションだったからポゼッション志向の監督だと思われがちだが、アーセナル全盛期の頃などは、縦にボールを運ぶことを志向するチームだった。とはいえ受け身のカウンター戦術だったわけではなく、隙さえあれば素く相手に侵入することを狙い、かつボールを失っても即座に取り返すことを狙うようなスタイルとなっていた。ヴェンゲルがす攻撃の形はスピードのあるアタッカー自由プレーさせることだった。

ヴェンゲルのチームのパスワークは複数の選手が局地的なユニットを形成し、少ないタッチで素く縦にボールを動かすスタイルであり、簡単なタッチでパスを出して動き、ふたたび別の場所でボールを受けるために彼らのマーカーを外すようなポジションを取る"パス&ムーヴ"こそが頂といえる特徴だった。攻撃の選手に自由を与えることで創造性を発揮してチームを押し上げ、選手たちを捕まえにくくするのがしていたスタイルである。

ただし、ヴェンゲルのやり方はジョゼップ・グアルディオラのように緻密に戦術を仕込んだものではなく、選手個人の質に依存したものであった。そのため、アーセナル時代の後半は彼がスタイルを実現できるような質の高い選手がっておらず、引いた相手に対して攻めあぐねるシーンが増えていた。また、確固たる明確な守備戦術を持ち合わせていなかったことから、オフェンスはディフェンスから始まるというシンプルな原理について考慮されておらず、2010年代以降に進化したモダンフットボールの流れから取り残されることとなった。

トレーニング面

導方法としては、トレーニングセッション導したが、に選手たちと協するコーチンスタッフ責任を委任した。彼は分隊をいくつかのグループに分けて練習を観察、監督していた。試合前日はチームの精的および戦術的アプローチ焦点を当てて過ごしている。

日本生活したもあってバランスの取れた食事が選手の準備の重要な部分であると考えており、選手たちには脂肪の少ない野菜を食べるように導している。健康的なライフスタイルの利点を説明するために栄養士を呼び、フランス代表チームの整医であるフィリップ・ボワクセルの助けを得て毎選手の体を調整するなど栄養管理を底。このような手法は当時のイングランドでは画期的なものだった。

育成面

アーセナルではアレックス・ファーガソンと同じように補強面で全権を与えられており、若手の育成と海外タレントの発掘は、強化方針の中心となっていた。スカウトのネットワークと個人的なつながりを頼りに、才あるサッカー選手を見つけてオファーを出し、自分のもとで育ててチームにしている。

デニス・ベルカンプパトリック・ヴィエラティエリ・アンリのように他のチームで燻っていた若いタレントを自分のもとへ呼び寄せて才を開させることもあれば、セスク・ファブレガスのようにFCバルセロナカンテラが引き抜いたり、アフリカ南米フランスから青田買いをおこなうこともあった。

育成については「選手を育てるのは、の土台を作るようなもの。その土台は7〜14歳の間に身につけるべし。14歳時点で技術がなかった場合、サッカー選手は諦めるべし。強く、く、などのフィジカルは14〜17歳の間で決まる。そして戦術理解度もこの時期。18〜19歳の間で決まるのは「どれだけ成功したいのか」という欲求金曜ディスコにいかないなどの節制が必要」とっている。

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