アーセン・ヴェンゲル(Arsène Wenger、1949年10月22日 - )とは、フランスのサッカー指導者、元サッカー選手である。
現在はFIFAの国際サッカー発展部門の責任者、FIFA技術研究グループ長、国際サッカー評議会(IFAB)のテクニカル諮問委員会及びサッカー諮問委員会のメンバーを務めている。
概要
フランスのストラスブール出身。イングランド・プレミアリーグのアーセナルFCの監督を22年間務めた世界的な名将として知られ、プレミアリーグとFAカップのシーズンダブルを2度達成。さらに、2003-2004シーズンのプレミアリーグでは「無敗優勝」という偉業を成し遂げている。このときのアーセナルは「インビンシブルズ」と称されており、今日に至るまで伝説のチームとして称えられている。
イングランド内外でサッカーのみならずスポーツと職業に対する認識を変えた人物と評価されており、彼の試合へのアプローチは攻撃的なメンタリティを強調するものであり、サッカーはピッチ上で面白いものでなければならないという哲学を持ち続けていた。2003年にはイギリス・サッカーへの貢献が高く評価され、「大英帝国勲章」を受賞。OBE(オフィサー)の称号が与えれている。
アーセナルの監督に就任した当初はイギリスでは名前が知られておらず、監督主任を疑問視する声が大半を占めていたが、やがてイギリスのファンやメディアからは勤勉な態度を反映して「Le Professeur(教授)」というニックネームを付けられるほど大きな尊敬を集める人物となる。
アーセナルの監督就任する以前の1995年から1996年までの二年間は日本の名古屋グランパスエイトの監督に就任。当時はJリーグのお荷物と揶揄された弱小チームをスペクタクルなフットボールを披露する強豪へと変貌させ、天皇杯優勝のタイトルをもたらしている。そのため日本と馴染みの深い人物でもあり、長年日本代表監督への就任を熱望する声が絶えなかった。結局代表への関わりは実現しなかったものの、たびたび日本のメディアに登場するなど日本と関わりを持っている。
無敗優勝以降はなかなかビッグタイトルを獲得できない時代が続いたものの、アーセナルをUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得には導き続けていた。2017-18シーズンを最後に退任を発表。同時に監督業からの引退を表明している。
経歴
現役時代まで
アルフォンソとルイーズ夫妻の3人目の子供としてフランスのストラスブールで生まれ、姉と兄がいる末っ子として近くのドゥレンハイム村で育つ。両親はストラスブールで自動車部品会社を経営しており、そのほかにドゥトレンハイム村のLa Croix d'Orというビストロ(大衆食堂)も手がけていた。自身は「私はパブで育った」と語っており、両親の所有する大衆食堂の二階で暮らしていた。この頃はタバコを売って、小遣いを稼ぐ事もあったという。
父親は村のサッカーチームの監督だったこともあり、6歳の頃からサッカーに興味を持つようになる。村の少年と共にボールを蹴っていたが、村は人口が不足していたこともあってメンバーが揃わないことも多かった。そのため、12歳になるまではチームに所属しておらず、1963年になってFCドゥレンハイムでプレーするようになった。
1969年にフランス3部リーグのASムツィグにスカウトされて移籍する。この当時のムツィグは後に大きな影響を受けることになるマックス・ヒルドが監督を務めており、史上最高のアマチュアチームとも呼ばれていた。ヴェンゲルはMFもしくはDFとしてプレー。同時にストラスブールにあるロベール・シューマン大学(現在の名称はストラスブール大学)で政治経済学を学び、1971年には修士号を取得した。
1978年にディビジョン・アン(1部リーグ)のRCストラスブールへ移籍。トップリーグでプロサッカー選手としてのキャリアを歩むようになるが、ほとんどがリザーブチームでのプレーとなり、3シーズンでトップでの試合出場はわずか11試合と目立った活躍はできなかった。
1981年に32歳で現役を引退。指導者としてのキャリアに転身することとなる。現役生活の最後の2年間はリザーブチームとユースチームの運営に関わるなど、引退後のキャリアの準備に費やしていた。
初期の指導者時代
1981年、RCストラスブールのユースチームのコーチに就任。この頃のマネージメント手腕は多くのフランス人コーチが感銘を受けている。
1983年にはディビジョン・ドゥ(2部リーグ)のASカンヌのアシスタントコーチ及びユースチーム監督に就任。ジャン=マルク・ギルーのアシスタントとして相手チームに関する情報収集を担当し、トレーニングセッションを通じて選手たちに規律を教え込んでいた。1983-84シーズンには2部のチームながらもクープ・ドゥ・フランスの準決勝に進出している。
1984年にディビジョン・アンのASナンシーの監督に就任し、監督としてのキャリアをスタートさせる。当時のナンシーは資金力も選手の質も不足しており、1部リーグの座を維持するのも困難なチーム事情であったが、健康的な食事の利点を説明するために栄養士を雇い、選手たちに試合前の間食をしないことを義務付けるなどを徹底させる。また、限らせた戦力のなかで選手のポテンシャルを見極め、大胆なポジションのコンバートをおこなうなど工夫を凝らし、見事1984-85シーズンを12位で終え、1部残留に成功する。
1985-86シーズンはリーグ戦18位でプレーオフの末にギリギリで1部残留を果たすが、3年目となった1986-87シーズンは19位となりナンシーはディビジョン・ドゥに降格。
ASモナコ
1987年に強豪ASモナコの監督に就任。モナコではナンシーの頃と違ってイングランド代表のグレン・ホドルとマイトリー・ヘイトリーといった質の高い選手を擁していた。ここでヴェンゲルは彼らの能力を前面に出すために堅守速攻の近代的なスタイルを打ち出し、快進撃を見せる。最終的には2位のボルドーに勝ち点6差をつけ、就任1年目にしてクラブをディビジョン・アン優勝に導く。ヴェンゲルの指導者としてのキャリアにとって初めての大きなタイトル獲得となった。
1988-89シーズンには後にバロンドールを獲得する"リベリアの怪人”ジョージ・ウェアが加入。1989年には元アルゼンチン代表のラモン・ディアス、1990年には当時22歳だったユーリ・ジョルカエフ、1992年にはドイツ代表のエースであるユルゲン・クリンスマンとスター選手もしくはスター候補が次々とチームに加わる。その影響もあって、ヴェンゲルは徐々にモナコを攻撃的でファンを魅了するモダンフットボールを展開するチームへとシフトさせていき、フランス国内でも新進気鋭の若手監督として高く評価されるようになる。この頃は資金力で勝るオリンピック・マルセイユが黄金期に差し掛かったこともあってリーグタイトルにはあと一歩届かなかったものの、モナコを毎年優勝争いに加わるチームに育てていた。
1994-95シーズンの開幕前にはバイエルン・ミュンヘンからオファーを受けるがモナコ側が拒否。しかしこの一件でヴェンゲルとフロントの間に軋轢が生じてしまい、シーズン序盤に成績を不振を理由に解任となる。もっともモナコでは7年間の長期政権を築き、ジョルカエフやリリアン・テュラム、そして最後のシーズンにデビューさせたティエリ・アンリといった後のフランス代表の黄金期を築く主力メンバーを輩出。欧州の舞台でも1991-92シーズンにUEFAカップウィナーズカップ準優勝、1993-94シーズンのUEFAチャンピオンズカップでベスト4進出と一定の結果を残していた。
名古屋グランパスエイト
1995年
モナコ時代の成功で欧州でも注目の存在となっていたヴェンゲルだったが、新天地に選んだのは辺境の地である日本だった。1995年にプロリーグが発足してまだ3年目というJリーグの名古屋グランパスエイトの監督に就任。名古屋に所属していたドラガン・ストイコビッチはヴェンゲルの就任を聞いて残留を決断したという。
当時の名古屋は選手のプロ意識が低く、Jリーグのお荷物と揶揄されるほどの弱小チームだった。ストイコビッチ、小倉隆史、浅野哲也など代表級の選手を抱えながら最下位争いを続け自信を失っていたチームに対し、ヴェンゲルは「常に長所だけを生かすようにする」という勝者の精神を植えつけるところからチーム作りを始める。
就任当初はリーグ戦最初の10試合で8敗し、最下位に落ち込むなど苦しんだが、チームの中心と考えていたストイコビッチが本来の輝きを発揮するようになり、試行錯誤の末にベストなメンバーを見出したフランス合宿以降の10試合で9勝1敗の成績を残し、最終的にはサントリーシリーズ(前期リーグ)4位まで浮上した。ニコスシリーズ(後期リーグ)では開幕から優勝争いに加わるが、あと一歩でヴェルディ川崎に及ばず、2位に終わる。もっともヴェンゲルが名古屋で見せたサッカーは人々を魅了し、弱小チームをわずかな期間でスペクタクルなチームへと変貌させた手腕は各方面から高く評価され、このシーズンのJリーグ最優秀監督賞を受賞する。
天皇杯ではチームを決勝へと導くと、1996年1月1日のサンフレッチェ広島との決勝ではストイコビッチの大活躍によって勝利し、クラブに創設以来初のタイトルをもたらす。
1996年
前年とは一転して優勝候補に挙げられた1996年シーズンだったが、開幕直前のゼロックス・スーパーカップで横浜マリノスを下し、タイトルを獲得。リーグ戦でも前年と同じく質の高いサッカーを披露し、名古屋は優勝争いを演じることとなる。
しかし、この年の9月にイングランドの名門アーセナルFCからのオファーを受けることとなる。日本に愛着も抱くようになり、日本に10年留まるかヨーロッパに戻るかを選択肢として持っていたが、欧州のクラブからのオファー内容が、ヨーロッパでの実績のみを基にしたものであったことから、日本で実績を積むことに限界を感じていたこともあり、アーセナルのオファーを受けることを決断する。
9月28日の柏レイソル戦が名古屋でのラストマッチとなった。柏レイソル戦終了後、日本語で「みなさんありがとう。グランパスサポーターのことは忘れません。私はいつまでも名古屋を愛しています」とファンに向けて挨拶。シーズン途中で優勝争いに真っ只中ながら日本を後にする。
アーセナル
就任当初
1996年10月1日、イングランド・プレミアリーグの名門アーセナルFCの監督に就任することが正式に発表される。名古屋時代の右腕ボロ・プリモラツをアーセナルでもヘッドコーチとして起用。もっとも、アーセナルが外国籍の監督を起用するのは史上初めてのことであり、英国ではヴェンゲルのことはほとんど知られていなかった。そのため、地元のメディアは「アーセン誰?」(Arsène Who?) という見出しでこの無名のフランス人監督を表現した。
当時のアーセナルは守備的な古いスタイルのサッカーが続いており、「退屈なチーム」と嘲笑され、成績も低迷していた時代だった。就任してまずヴェンゲルはチームに蔓延する緩い規律の改革に着手することから始め、休日や選手ラウンジでの飲酒を禁止し、試合前の料理としてパスタを推奨し、赤身の肉の代わりに茹でた鶏肉を奨励し、ジャンクフードを控えるように命じた。初年度の1996-97シーズンを3位で終えたが、3位という成績は過去6シーズンで最高の順位だった。
シーズンダブル
1997-98シーズンは新たなトレーニングメソッドや選手たちのプライベートに関する制限、外国人選手の積極的な招へいなど、チーム改革をさらに推進。未だフランス人のヴェンゲルに懐疑的なメディアはプライベートに関するゴシップを連発し、挙句の果てにはゲイ疑惑までが取り沙汰される。そういった逆風の中で開幕から第12節まで負けなしで首位に立つ。中盤に失速したものの、最後の3か月に怒涛の追い上げを見せ、最大で勝点差11まで開いていたマンチェスター・ユナイテッドFCを逆転。英国4協会以外の出身者で初めてプレミアリーグを制した指揮官となろなる。この頃のチームは“フェイマス・バックフォー”と呼ばれたトニー・アダムス、ナイジェル・ウィンターバーン、リー・ディクソン、マーティン・キーオンの4バックによる堅守がベースとなっており、エマニュエル・プティ、パトリック・ヴィエラ、デニス・ベルカンプといった新戦力がうまく融合していた。
このシーズンのアーセナルはFAカップでも躍進。決勝でニューカッスル・ユナイテッドを破り、クラブ史上2度目の2冠獲得。流石にもはやヴェンゲルの手腕を疑う声は消えてしまい、プレミアリーグの年間最優秀監督賞を受賞する。
1998-99シーズン、最終節でリーズ・ユナイテッドFCに0-1で負け、マンチェスター・ユナイテッドに勝点1差で2連覇を逃した。マンチェスター・ユナイテッドと対戦したFAカップ準決勝ではロスタイムの失点により敗退する。1999-2000シーズンもUEFAカップ決勝でガラタサライにPK戦の末に敗れ、2シーズン連続で無冠に終わる。
2000-01シーズンに向けてさらなるチーム改革に着手。ライバルクラブのトッテナム・ホットスパーFCの前キャプテンであるソル・キャンベルを獲得し、物議を醸しながらも衰えの隠せなくなっていた“フェイマス・バックフォー”を解体。さらにはロベール・ピレスやフレドリック・ユングベリも獲得し戦力を充実させる。中でも最大のヒットとなったのは前年に獲得していたモナコ時代の教え子であるティエリ・アンリを左ウイングからCFにコンバートしたことだった。ニュータイプのFWとしてアンリは想像以上に覚醒し、24得点で得点王を獲得。このヴェンゲルの改革は見事に成功し、38戦全てで得点するという成績を残し、2位のリヴァプールに勝点8差をつけて優勝。FAカップでも決勝でチェルシーFCを破り、二度目となるシーズンダブルを達成する。
インビンシブルズ
2002-03シーズンはクラブ史上初のプレミアリーグ連覇に向けて好スタートを切ったが、シーズン終盤になると調子を落とし、マンチェスター・ユナイテッドに逆転された。しかしFAカップでは6回戦で再試合の末にチェルシーを破り、決勝ではサウサンプトンFCを破って優勝する。
そして2003-04シーズン、チームのスカッドの中心はヴェンゲルと同じフランス人となっており、引退したアダムスの後任のキャプテンにヴィエラを任命する。このときのチームはフォーメーションそのものは中盤をフラットにした4-4-2だったが、前線の4人が完璧ともいえる流動性と連動性を見せ、ベルカンプのゲームメイクとアンリの爆発的な得点力がさらに際立つための仕組みを構築していた。守備もヴィエラとジウベルト・シウバが中盤でフィルターをかけ、最終ラインが安定して跳ね返すソリッドなものとなっていた。
まさにヴェンゲルの理想的なスカッドが完成したこのシーズンは、プレミアリーグで開幕から14連勝を記録。その後も他チームを圧倒する強さを発揮し続け、数々のシーズン記録を塗り替えながら無敗のまま快進撃を続けていく。結局、アーセナルは2位チェルシーに勝ち点11差をつけ、26勝12分0敗でシーズン無敗優勝を達成した歴史的なシーズンとなる。これは1888-89シーズンにプレストン・ノースエンドFCが10勝1分0敗で無敗優勝を達成して以来のことで、欧州のトップリーグではACミランとアヤックス・アムステルダムしか(当時としては)成し遂げていない偉業だった。
2003-04シーズンのアーセナルは「インビンシブルズ(無敵のチーム)」として讃えられ、今日に至るまで伝説のチームとして語り継がれている。
無冠の時代
2004年のアーセナルとの契約更新で、年俸は320万ユーロ(約4億2500万円)から約400万ユーロ(約5億3000万円)に上がった。2004年10月、マンチェスター・ユナイテッドに敗れるまでリーグ戦49試合を負けなしで走り続けた。2004-05シーズンはチェルシーに優勝をさらわれたが、同シーズンのFAカップ決勝ではPK戦の末にマンチェスター・ユナイテッドを破った。しかし、このFAカップ優勝を最後に長らくタイトルから遠ざかることになる。
2005-06シーズンはリーグ戦こそ4位だったが、UEFAチャンピオンズリーグではレアル・マドリードやユヴェントス、ビジャレアルCFを倒して決勝に進出した。クラブ史上初の決勝はロナウジーニョを擁するFCバルセロナに1-2で惜しくも敗れたが、クラブ最高となる準優勝という成績を残し、大きな称賛を得た。だが、このシーズンをピークに大きな問題に直面するようになる。
アーセナルは2006年にハイバリー・スタジアムから新たに完成したエミレーツ・スタジアムに本拠地を移転。このときのエミレーツ建設の負債をアーセナルは長きに渡って背負い込むこととなってしまい、思ったように補強ができなくなってしまう。また、資金力で上回る他のビッグクラブに主力が毎年のように引き抜かれてしまい、2005年にヴィエラ、2006年にアシュリー・コール、2007年には絶対的エースのアンリが引き抜かれるてしまう。
この事態を受けたヴェンゲルは、各国から有望な若手を獲得し、自ら育成することで主力に定着させるスタイルで戦力を維持する方針に出る。このヴェンゲルの育成型のチーム作りはセスク・ファブレガス、ロビン・ファン・ペルシーといった新たなスターを生み出すことで一定の成果を得られる。だが、流石に資金力で上回るライバルチームに太刀打ちするのは厳しくなり、長年に渡ってタイトルから遠ざかる無冠の時代が続くことになる。こうなると、主力を維持することも厳しくなり、セスクやファン・ペルシーもチームに限界を感じて引き抜きに応じることなる。それでもヴェンゲルは工夫を凝らし、選手を育てながらもCL出場圏内の4位以内を維持し、2001年から16年間連続でCL出場という驚異的な記録を生み出している。
監督キャリアの終盤
無冠の時代が続くなかで、ヴェンゲルの手法が進化するフットボールのなかでもはや古くなったという指摘も増えるようになり、限界説を唱える声も次第に増えていた。2011年8月28日のマンチェスター・ユナイテッド戦では2-8という衝撃的なスコアで大敗。その直後に慌てて補強をおこなった様子は「パニック・バイ」と揶揄され、限界説をさらに拍車をかけることとなった。
2010年代に入ってからはクラブの負債の問題が解決したこともあり、オリヴィエ・ジルー、メスト・エジル、アレクシス・サンチェスを獲得し、彼らがチームの中心となる。この頃はもはやいかにCL出場権を確保するかがテーマとなっていた。2012-13シーズンは4位以内に入るのはもはや絶望的と見られていたが、終盤戦の脅威の追い上げで4位に滑り込むというシブとさを見せる。一方、CLではグループステージは突破できるものの、ラウンド16で負けるのが定番のようになってしまい、2010-11シーズンからは7シーズン連続でベスト16敗退に終わっている。
2014年3月22日、チェルシーとのリーグ戦で、アーセナル在任通算1000試合を達成する。この2013-14シーズンはFAカップで決勝に進出すると、決勝ではハル・シティFCを破り、9シーズンぶりとなるタイトルを獲得。無冠の時代にようやく終止符を打つ。
2014-15シーズンには2シーズン連続でFAカップ決勝に進出。決勝ではアストン・ヴィラを相手に4-0と大勝し、FAカップ連覇を達成する。
2015-16シーズンは開幕から好調なスタートを切り、久々にシーズン前半戦を首位で折り返す。しかし後半戦に怪我人が続出したこともあって失速。レスター・シティに奇跡の優勝を許し無冠に終わったものの、11年ぶりにシーズンを2位で終える。
2016-17シーズンはエジルが不調に陥り、サンチェスの個の力に依存するようになると徐々に順位を落とし、最終的に5位でシーズンを終え、チャンピオンズリーグ出場権を19シーズンぶりに逃してしまう。このシーズンのホームのバーンリー戦では主審のアンソニー・テイラーを突き飛ばして退席処分を受けてしまい、リーグから4試合のベンチ入り禁止と2万5000ポンドの罰金処分を受けてしまう。
一方、FAカップではチェルシーとの決勝戦を制し、アーセナルにとって13回目のFAカップ優勝を達成。個人のFAカップ優勝は7回となり、ジョージ・ラムジーの6回を抜いてFAカップの最多優勝監督となる。そしてこれがヴェンゲルにとっての最後のタイトル獲得となった。
2017-18シーズン開幕前の2017年7月17日にアレックス・ファーガソンの記録を抜きプレミアリーグにおける監督就任日数が歴代最長となる。シーズンでは早々とタイトル争いから撤退してしまい、ジョゼップ・グアルディオラのマンチェスター・シティやユルゲン・クロップのリヴァプールFCとの差は明らかとなっていた。冬の移籍マーケットでの補強もカンフル剤とはならず、2シーズン続けてCL出場権を逃す結果に終わる。
そして2018年4月20日、実に22年間指揮を執り続けたアーセナルの監督を退任することを発表。最後のホーム戦となった5月6日のバーンリー戦で5-0で勝利し、試合前にスタンディングオベーションを受け、2003-04年のインビンシブルズシーズン中に獲得したプレミアリーグの金色のミニレプリカトロフィーを贈呈された。なお、後にヴェンゲルは1月の取締役会において契約満了で契約を終了する決定を受けたことを明らかにしている。
監督引退後
2019年11月13日、国際サッカー連盟(FIFA)は、ヴェンゲルが国際サッカー発展部門の責任者、FIFA技術研究グループ長、国際サッカー評議会(IFAB)のテクニカル諮問委員会及びサッカー諮問委員会のメンバーに就任したことを発表する。
2021年11月11日、伝説のアーセナル無敗優勝を中心としたベンゲルの半生を振り返るドキュメンタリー映画「Arsène Wenger: Invincible」が公開。
2023年3月29日、プレミアリーグ殿堂入りしたことが発表される。
監督としての成績
個人タイトル
- Jリーグ最優秀監督賞(1995年)
- プレミアリーグ年間最優秀監督:3回(1997-98、2001-02、2003-04)
- レジオンドヌール勲章シュヴァリエ(2002年)
- 大英帝国四等勲爵士(OBE)(2003年)
監督としての特徴
戦術面
子供の頃に当時黄金期にあったボルシア・メンヒェングラートバッハの影響を受けており、また1970年代に欧州を席巻したリヌス・ミケルスが開発したオランダのトータル・フットボールの影響も受けている。ヴェンゲルは「どこにでも完璧な選手がいて、それが私自身がプレーしたいと思っていた種類のサッカーだった」と回想している。
採用するフォーメーションはASモナコ、名古屋グランパスエイト、アーセナルと共通して中盤をフラットにした4-4-2。このことについては「スペースをカバーするのにこれほど効率的なフォーメーションは他にない」としている。ただし、名古屋はストイコビッチ、アーセナルではベルカンプがトップ下としての立ち位置を採ることが多かったため、攻撃時は実質4-2-3-1の形に変化している。
キャリア終盤のフットボールがポゼッション型だったからポゼッション志向の監督だと思われがちだが、アーセナル全盛期の頃などは、縦に早くボールを運ぶことを志向するチームだった。とはいえ受け身のカウンター戦術だったわけではなく、隙さえあれば素早く相手陣に侵入することを狙い、かつボールを失っても即座に取り返すことを狙うようなスタイルとなっていた。ヴェンゲルが目指す攻撃の形はスピードのあるアタッカーを自由にプレーさせることだった。
ヴェンゲルのチームのパスワークは複数の選手が局地的なユニットを形成し、少ないタッチで素早く縦にボールを動かすスタイルであり、簡単なタッチでパスを出して動き、ふたたび別の場所でボールを受けるために彼らのマーカーを外すようなポジションを取る"パス&ムーヴ"こそが真骨頂といえる特徴だった。攻撃の選手に自由を与えることで創造性を発揮してチームを押し上げ、選手たちを捕まえにくくするのが目指していたスタイルである。
ただし、ヴェンゲルのやり方はジョゼップ・グアルディオラのように緻密に戦術を仕込んだものではなく、選手個人の質に依存したものであった。そのため、アーセナル時代の後半は彼が目指すスタイルを実現できるような質の高い選手が揃っておらず、引いた相手に対して攻めあぐねるシーンが増えていた。また、確固たる明確な守備戦術を持ち合わせていなかったことから、オフェンスはディフェンスから始まるというシンプルな原理について考慮されておらず、2010年代以降に進化したモダンフットボールの流れから取り残されることとなった。
トレーニング面
指導方法としては、トレーニングセッションを主導したが、主に選手たちと協力するコーチングスタッフに責任を委任した。彼は分隊をいくつかのグループに分けて練習を観察、監督していた。試合前日はチームの精神的および戦術的アプローチに焦点を当てて過ごしている。
日本で生活した影響もあってバランスの取れた食事が選手の準備の重要な部分であると考えており、選手たちには脂肪の少ない野菜、魚、米を食べるように指導している。健康的なライフスタイルの利点を説明するために栄養士を呼び、フランス代表チームの整骨医であるフィリップ・ボワクセルの助けを得て毎月選手の体を調整するなど栄養管理を徹底。このような手法は当時のイングランドでは画期的なものだった。
育成面
アーセナルではアレックス・ファーガソンと同じように補強面で全権を与えられており、若手の育成と海外のタレントの発掘は、強化方針の中心となっていた。スカウトのネットワークと個人的なつながりを頼りに、才能あるサッカー選手を見つけてオファーを出し、自分のもとで育ててチームの主力にしている。
デニス・ベルカンプやパトリック・ヴィエラやティエリ・アンリのように他のチームで燻っていた若いタレントを自分のもとへ呼び寄せて才能を開花させることもあれば、セスク・ファブレガスのようにFCバルセロナのカンテラが引き抜いたり、アフリカや南米、母国のフランスから青田買いをおこなうこともあった。
育成については「選手を育てるのは、家の土台を作るようなもの。その土台は7〜14歳の間に身につけるべし。14歳時点で技術力がなかった場合、サッカー選手は諦めるべし。強く、早く、などのフィジカルは14〜17歳の間で決まる。そして戦術理解度もこの時期。18〜19歳の間で決まるのは「どれだけ成功したいのか」という欲求。金曜夜にディスコにいかないなどの節制が必要」と語っている。
人物・エピソード
- マルセイユ八百長事件の際は、様々なしがらみの中、告発するかどうか悩んでいたボスニア・ヘルツェゴビナ人監督のボロ・プリモラツの相談を受け、強く後押しした。
- ローマ・カトリック教徒であり、自分の考え方や価値観はアルザスでの宗教的な教育によるものだと考えている。
- フランス語とドイツ語を話して育ち、ケンブリッジの3週間のコースで英語を学び、キャリアのためにイタリア語とスペイン語のために学んでいる。また、日本語も話すこともできるうえに、日本の文化も大好きだと伝えられている。
- 冷静な哲学者というイメージを持たれているが、名古屋の監督時代に小倉隆史はシュートミスをしたときに「Kill You(殺してやる)」と罵倒されたことを明らかにしている。
- 自分のチームの選手に対するラフプレーなどの危険なプレーや自分のチームに対する不利な判定に対して過剰な反応を示し、相手チームの監督や選手、審判なども巻き込んだ論争を呼ぶ事も彼の特徴の一つ。逆に自チームの選手が犯した微妙なプレーや相手を怪我させるほどの危険なプレーには、何も見ていないと黙認する姿勢が他チームのコーチから批判されている。
- 2000年代にライバル関係にあったマンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督とチェルシーFCのジョゼ・モウリーニョ監督とは終始大人げない舌戦を繰り広げていた。
- 2000年代後半以降、ファーガソン監督との間では互いのチーム、手腕に対する尊敬や賞賛の言葉をかわすことが多くなっていた。
- 1998 FIFAワールドカップ終了後、日本サッカー協会技術委員会から日本代表監督就任を依頼されたが、アーセナルFCと既に契約していることを理由に断った。その後、フィリップ・トルシエを日本代表監督に推薦したと言われている。
- 元バスケットボール選手のアニー・ブロスターハウスと結婚しており、彼との間には娘いる。2015年に離婚。
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関連商品
- 勝者のエスプリ(1997年、NHK出版)- 著書
- 勝者のヴィジョン(1999年、NHK出版) - 著書
- ベンゲル・ノート(2001年、幻冬舎)- 中西哲生、戸塚啓
- アーセン・ヴェンゲル自伝 赤と白、わが人生(2021年、ワニブックス)- 著書
関連項目
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