ヤマハワークスとは、ヤマハ発動機がレース活動を行うためにメーカー直営で運営するチームである。
本稿では、MotoGPの最大排気量クラスに参戦するヤマハワークスについて記述する。
ライダー
-
# 名前 国籍 出身地 身長・体重 誕生日 46 ヴァレンティーノ・ロッシ 
ウルビーノ 
181cm69kg 1979年2月16日 12 マーヴェリック・ヴィニャーレス ![スペイン スペイン]()
フィゲーレス
近郊ロザス
171cm64kg 1995年1月12日
現在のスタッフ
クルーチーフ
ヴァレンティーノ・ロッシのクルーチーフ。ニコニコ大百科の記事「シルヴァーノ・ガルブゼラ」は、彼のみならずロッシ・チームの構成員を数多く紹介している。
マーヴェリック・ヴィニャーレスのクルーチーフ。KTMワークスの記事の「かつてのスタッフ」の項目に紹介文章あり。
メカニック
ヴァレンティーノ・ロッシのメカニック。奥さんがオーストラリアのコメディアン。
広報スタッフ
山形県出身で、大学を卒業した後にフランスに渡った。2008年からチームLCRの広報担当となった。このブログ
で9回にわたり活動報告している。
いつのまにかヤマハワークスに引き抜かれ、広報担当になっている。2017年日本GPで野佐根航汰が代役参戦したとき、テレビインタビューに応じていた。そのインタビューを管理していたのが宮崎さんで、ちらっとテレビに映っていた。
首脳陣
チーム内の人事権を掌握するボス。公式サイトのこのチャートでも一番上に位置している
。イギリス人。
ヴァレンティーノ・ロッシやホルヘ・ロレンソ、マーヴェリック・ヴィニャーレスとヤマハが契約を結ぶ際に、先頭に立っていたのが彼である。
メディアから「○×選手と契約を結ぶのでしょうか」という質問がやってきても、軽口を一切叩かず、
上手くはぐらかす。何を考えているのか分からない根っからの策士とメディアに評されることが多い。
ライダーに「ウチに来ないか」と熱心に誘うことがなく、「来たければ来れば?」というドライな態度を
取るらしい。マーヴェリック・ヴィニャーレスに対してもそんな感じだったようである。大メーカー直営チームのボスなのだからそういうやり方の方が適しているのだろう。
ワークスライダーを対等に扱うというヤマハの方針を体現したような人で、ロレンソ・ロッシ共存時代も2人に同じように接していた。ホルヘ・ロレンソも「ヤマハは自分とロッシをずっと同じように扱ってくれた」と発言している。
イケメンであるのでドルナのテレビ中継に良く映る。いつも口を尖らせてモニターを見つめている。
余計なことを喋らない人なので経歴などはよく分からないままだったが、この記事
でちょっとだけ喋っている。また、この本
の168ページにすこし書かれている。
15歳の時にバイクに乗り始め、トライアル(岩などの障害物をよじ登る競技。こんな感じの競技
)をするようになった。父親がトライアルのライダーだったから、それに影響された。初めて乗ったバイクは英国企業の作るBantam125
だった。しかし、これは友人に10ポンド(千円ぐらい。タダ同然)で買い叩かれてしまった。
16歳の時にcandy gold FS1-E
というヤマハのバイクを買った。このバイクを乗り回して自由に遊んだ。年を重ねて色んなものを所有するようになったが、バイクを乗り回すことは止めなかった。
そのうちに、ヤマハ・ヨーロッパに就職した。就職した当時のヤマハ・ヨーロッパ社長は梶川隆
で、2005~2010年にヤマハ発動機社長になった人である。広報の仕事を任され、世界中に派遣された。派遣先でバイクの走行を楽しむこともできた。
バイクに乗ることが好きなので、「ランディ・マモラ
の二人乗り」に挑戦したことがある(ランディは色んなサーキットで人を後ろに乗せてバイクで高速走行していた)。とても奇怪な経験で、もうこりごりだと思った。ランディの走行速度は速すぎる。
忙しくて時間が惜しいので、バイクで長距離旅行することはあまりしなくなった。しかしながら、息子が2人いる。1995年頃生まれと1998年頃生まれなのでバイクに乗ることができる。ゆえに、3人でオフロード車に乗って遊ぶことがある。
自分はFZ1
を所有していて、息子達はMT-07
やMT-09
を所有しているので、それでイタリア北部のアルプス山脈の山道を走ってツーリングすることもある。
住んでいるのはミラノの近くである。ヤマハワークスの本部はミラノ郊外のレズモ
にあるので、職住接近となっている。
ミサノサーキットでMotoGPが行われるとき、そこからすぐ近くにあるヴァレ・ランチ
(ヴァレンティーノ・ロッシの所有するトレーニングコース)に行くことがあるが、あのコースはグリップが薄くて走りにくいという。
2019年現在、MotoGPの総責任者を務めている。
古沢政生の記事のこの項目に紹介文章がある。
2019年になってMotoGPプロジェクトリーダー(開発の責任者)に就任した。
たまにピットに現れる人たち
ヤマハ出身ライダー
世界チャンピオン15回獲得の伝説的ライダー。イタリア開催のレースにやってくる。
現役生活の終盤になってヤマハワークスに移籍してチャンピオン獲得。引退後は1982年から1995年までチーム・アゴスティーニを経営した。同チームは1983年から1989年までヤマハの技術者を受け入れており、実質的なヤマハワークスとなっていた。エディ・ローソンというアメリカ人選手を擁して3回の最大排気量クラスチャンピオンを獲得している。
世界チャンピオン3連覇の伝説的ライダー。アメリカ合衆国開催のレースで姿を見かける。
引退後は1984年から2007年までチーム・ロバーツを経営した。同チームは1990年から1996年までヤマハの技術者を受け入れており、実質的なヤマハワークスとなっていた。
世界チャンピオン3連覇の伝説的ライダー。アメリカ合衆国開催のレースに出現する。
引退後は1995年から1998年までチーム・レイニーを経営した。同チームは1997年から1998年までヤマハの技術者を受け入れており、実質的なヤマハワークスとなっていた。
1998年をもってチーム・レイニーは解散した。
「ヤマハに縁があるスーパースターにチームを経営してもらい、その知名度でスポンサーを引っ張ってもらう。ヤマハは技術だけを提供する」というレース活動を1983年から1998年まで続けたのだが、その手法にはついに限界が訪れた。このためヤマハは1999年に本社直営のワークスチームを発足させており、その本社直営チームが2019年現在まで続いている。
本社の社長など
2010年3月から2018年1月までヤマハ発動機の社長を務めた。鹿児島県出身。
鹿児島の港に立ち寄った南極観測船を見て船に興味を持ち、大学の工学部で船舶設計を学んだ。ヤマハでは各所の工場長を務めた。技術畑の人と言っていいだろう。
社長になってから磐田市の本社
から掛川市の教習所
に通い、自動二輪の免許を取得した。「やはりバイクを作っている会社の社長が二輪に乗れないのは恥ずかしい」とコメント。
ツインリンクもてぎで行われるMotoGPにはたいてい顔を出す。
2014年と2015年はカタルーニャGP、2016年と2017年はイタリアGPに来ていた。
2015年にホルヘ・ロレンソが優勝したとき、チーム代表として表彰台に上がっている。スパークリングワインをぶっかけられる前にそそくさと退出していた。
2018年1月からヤマハ発動機の社長になっている。
大学は法学部出身で、ヤマハに就職してからは経理の部門で仕事をした。
2018年日本GPに顔を出していた。
ヤマハは、1993~1996年の四年間、V型10気筒のエンジンを作ってティレルというF1チーム
に供給していた。そのときのエンジン開発の責任者だった。ちなみにそのときの部下は辻幸一
である。
しばしばMotoGPに顔を出していた
。
長年、副社長を務めていた。2018年3月に退任したが、2019年スペインGPに観戦しに来ていたようである。
かつてのスタッフ
クルーチーフ
長年ヤマハワークスでクルーチーフを務めた。2008~2016年にホルヘ・ロレンソを担当、2017~2018年はマーヴェリック・ヴィニャーレスを担当。
2019年現在は、ペトロナスヤマハでフランコ・モルビデリのクルーチーフを務めている。
ニコニコ大百科の記事「ラモン・フォルカダ」は、彼だけでなく、ホルヘ・ロレンソのチームの構成員を紹介している。
長年ヤマハワークスでクルーチーフを務めた。2004~2010年と2013年にヴァレンティーノ・ロッシを担当した。
2005年から2007年までコリン・エドワーズのクルーチーフを務めた。そして、さらに昇進し、2008年と2009年はヤマハワークス内のホルヘ・ロレンソチームのチーム監督を務めた。
2019年現在はドゥカティワークスに所属し、ダニロ・ペトルッチのクルーチーフになっている。
2003年から2013年までずっとベン・スピーズのクルーチーフを務めていた。AMA、スーパーバイク世界選手権、Tech3、ヤマハワークス(2011~2012年)、プラマックレーシング、といった全てのチームでベン・スピーズのクルーチーフだった。
80年代末からメカニックの仕事をしている
とインタビューに答えている。この動画
で喋っている。
電子制御スタッフ
2004年から2009年までヤマハワークスに所属し、電子制御の分野で絶大な貢献をした。2019年現在はレプソルホンダに所属している。
首脳
2003~2010年の間、ヤマハワークスの総責任者を務めた。
2002~2007年の間、ヤマハワークスのチーム監督を務めた。2008~2010年はヤマハワークス内のヴァレンティーノ・ロッシチームのチーム監督になった。2010年をもってヤマハを退職し、2019年現在はスズキワークスのチーム監督を務めている。
2010年にヤマハワークス入りし、ヤマハワークス内のホルヘ・ロレンソチームのチーム監督になった。
2011年からのヤマハワークスは、ライダーごとにチームを分割することを止めた。それに伴い、ウィルコはホルヘ・ロレンソのライダーコーチになった。2017年と2018年はマーヴェリック・ヴィニャーレスのライダーコーチになった。2019年現在はペトロナスヤマハの最大排気量クラス部門のチーム監督を務めている。
古沢政生の記事のこの項目に記述がある。
2011年から2016年まで、ヤマハワークスの総責任者を務めた。
古沢政生の記事のこの項目に記述がある。
シャーシの開発を担当する技術者で、2004年から2012年まで現場に出続けていた。
マシン開発のプロジェクトリーダー(責任者)で、雑誌の記事に頻出していた(記事1
、記事2
、記事3
、記事4
)
2018年8月のオーストリアGPでヤマハ勢が不振に終わった後、突如記者会見を開き、「ライダーに対して申し訳なく思う」という声明を発した。(動画
、記事1
、記事2
)
日本において謝罪は挨拶の一種であり、謝罪をすると物事が上手く進むことがある。ところが欧米においては謝罪というのは自分の非を決定的に認める行為で、謝罪すると賠償の請求が一気に舞い込むようになると考えてよい。要するに、欧米においてはあまり謝罪をしないほうがいい。そんなことはヤマハの人たちも重々承知していることである。
ところが、津谷さんはヤマハを代表して謝罪をした。「裏で、ヤマハに対して極めて強い影響力を持つ人物が、ヤマハの開発の悪さに不満を覚え、ヤマハに対して謝罪を要求したのではないか」という憶測が広がることになった。
ちなみにこの当時、ヴァレンティーノ・ロッシが「ヤマハの開発が悪い。ヤマハは勝つ気があるのか?
」とメディアに対して散々文句を言っていた。
津谷さんは2018年シーズンをもってプロジェクトリーダーの地位を解任され
、ヤマハ不振の罪を一身に背負い、MotoGPの部門から去って行った。
ちなみに2019年になって、ファビオ・クアッタハッホがヤマハのマシンに乗って恐るべき速さを発揮するようになった。「ヤマハのマシンは良いマシンじゃないか」「津谷さんは悪くなかったんじゃないか」という声も聞かれるようになった。
ヤマハのマシンの特徴
正式名称
2002年の4ストローク時代初年度から現在に至るまで、ヤマハのマシンの正式名称はYZR-M1という。M1(エムワン)と略して呼ばれることが多い。
YZRのYはYAMAHAの頭文字、Zはアルファベット最後の文字なので「究極」という意味、Rはレース(RACE)専用のオートバイ、という意味である。
1973年からヤマハはMotoGP最大排気量クラスへの参戦を始めたのだが、そのときの車両の名前がYZR500だった。その車名が2001年まで長々と使われた。2002年になって4ストロークエンジンのマシンが参戦可能になると、YZRの3文字を継承して、4スト990ccのマシンにYZR-M1と名付けたのである。
M1のMは、英語のMissionの頭文字である。Missionとは使命という意味。「MotoGPで培った技術を市販車へ活かす使命」と「MotoGPクラスでチャンピオンを獲得する使命」という二つの使命を表している。
シャーシ作りに定評があり、直列エンジンを採用し、旋回性に優れたマシンになる。
「エンジンのホンダ、シャーシのヤマハ」と言われることがある。
「パワーのホンダ、ハンドリングのヤマハ」とよく言われ、旋回性や操作性が良いマシンに仕上がる傾向がある。
2002年の4ストローク時代初年度以来、一貫して直列エンジンを採用している。直列エンジンを採用するマシンは、旋回性が良いマシンになる傾向がある。直列エンジンについては、エンジン(MotoGP)の記事にも記述がある。
この動画
では、ヤマハのマシンの旋回性の良さを示している。
直線での加速力は昔から今に至るまで今ひとつで、「直線で抜かれるが、コーナーで抜き返す」という戦いぶりになることが多い。サーキットというのは直線部分よりもコーナーの方が多いことがほとんどなので、そういう思想も十分に成立する。
体に優しく、操縦しやすい
MotoGPの最大排気量クラスのマシンの中で最も体に負担がかからないと評判がある。40歳を超えて体力が衰えているはずのヴァレンティーノ・ロッシがヤマハのマシンで好走を繰り返している。ヤマハのマシンがあまり体力を必要としないバイクであることの証明の1つになりうる。
ヤマハのマシンは体に負担がかからず、操縦しやすい。最大排気量クラスのルーキーがヤマハのマシンに乗っていきなり好成績を挙げることがあるが、そういうときは「ヤマハのマシンは乗りやすいから」と説明される。
攻めすぎるライディングはダメ。グリップ走行に向く
ホルヘ・ロレンソはヤマハのマシンについて、この記事
で以下のように語っている。
「ヤマハのマシンは攻めすぎると駄目で、レイトブレーキングは駄目。ハードすぎるブレーキは駄目。攻めすぎるライダーには向かない。ベン・スピーズやポル・エスパルガロは攻めまくるライダーなのでヤマハのマシンに合わず、成績が上向かなかった」
「ヤマハのマシンを乗りこなすのは技巧派のライダーだ。攻めすぎず、力を抜く。自分やロッシやコリン・エドワーズが代表的な例だ」
「ヤマハのマシンではスライドさせることに何の意味もない。ドゥカティはスライドさせないと曲がってくれないのでリアブレーキを使ってスライドさせて曲げている」
ちなみに、タイヤをあまりグリップさせずに適度にスライドさせながらコーナーを曲がっていくことをスライド走行、タイヤをがっちりグリップさせてスライドさせずに正確なラインをなぞっていく走行をグリップ走行という。
グリップ走行のことを「鉄道がレールの上を走るような走り」「オン・ザ・レール(on the rail)」と表現することがある。
ヤマハのマシンはグリップ走行が得意である、と言うことができる。
ル・マンブガッティサーキットでの成績が良い
ヤマハは1本の走行ラインを綺麗に神経質にトレースしていくようなサーキットで強い。その典型はル・マンブガッティサーキットで、コース幅がやたらと狭いこのサーキットでの成績が良い。2002年から2019年までの18戦でヤマハは8勝を挙げている。
以下に、ル・マンブガッティサーキットでの成績を示しておく。ル・マンで好成績を上げられない年は、年間チャンピオン争いでも勝てていない。
-
ヤマハ勢のル・マン最高位 ヤマハ勢の最高年間ランキング 2002年 3位 2位(マックス・ビアッジ) 2003年 3位 7位(カルロス・チェカ) 2004年 2位 1位(ヴァレンティーノ・ロッシ) 2005年 1位 1位(ヴァレンティーノ・ロッシ) 2006年 6位 2位(ヴァレンティーノ・ロッシ) 2007年 6位 3位(ヴァレンティーノ・ロッシ) 2008年 1位 1位(ヴァレンティーノ・ロッシ) 2009年 1位 1位(ヴァレンティーノ・ロッシ) 2010年 1位 1位(ホルヘ・ロレンソ) 2011年 4位 2位(ホルヘ・ロレンソ) 2012年 1位 1位(ホルヘ・ロレンソ) 2013年 2位 2位(ホルヘ・ロレンソ) 2014年 2位 2位(ヴァレンティーノ・ロッシ) 2015年 1位 1位(ホルヘ・ロレンソ) 2016年 1位 2位(ヴァレンティーノ・ロッシ) 2017年 1位 3位(マーヴェリック・ヴィニャーレス) 2018年 3位 3位(ヴァレンティーノ・ロッシ) 2019年 5位
2017年以降の症状「リアタイヤが加速時にスピンする」
2017年以降、コーナーを抜けて立ち上がって加速していくときに、リアタイヤがスピンする症状が出るようになった。この症状は2019年6月現在でも継続中であり、ヤマハにとって治療の難しい病となりつつある。
リアタイヤがスピンして加熱するので、リアフェンダー(リアタイヤの上を覆っているカバー)に穴をあけるようになった。2018年第6戦イタリアGPまでは普通の穴無しリアフェンダーを使っていたが
、2018年第7戦カタルーニャGPから穴ありリアフェンダーを使うようになった
。2019年第5戦フランスGPになっても、まだ穴ありリアフェンダーを使っている
。リアフェンダーに穴をあけて、風通しを良くして、リアタイヤを冷やそうというのである。まさに、苦肉の策と言える。
リアタイヤというのは110~130度程度までになり、ゴムが溶けて路面にベッタリとくっつき、そうしてグリップを得る。ゴムが溶けることで路面の小さな小石を拾うようになる。リアフェンダーに穴が空いていると、リアタイヤが拾った小石がマシンにガンガンと当たり、マシンの部品の寿命が短くなるので、貧乏チームは決してやろうとしない。ヤマハワークスは資金力があるので、そういう荒っぽいやり方もできるというわけである。
加速するときにリアタイヤがスピンする症状がなぜ発生するのか、それはよく分かっていない。エンジンなのか、電子制御なのか、シャーシなのか、サスペンションなのか、原因がなんなのか全く分かっていない。
「加速するときにリアタイヤがスピン」という表現ばっかり使っていると飽きてくるのが、人情というものである。そこで、ちょっと表現を変えてくることがある。
「リアタイヤにトラクションを掛けられない」「リアタイヤに荷重をかけられない」「リアタイヤがグリップしない」といった表現が出てくることがある。これらはすべて、「加速するときにリアタイヤがスピン」を言い換えたものであり、意味は同じである。
ヤマハの社風
急激な変革を好まず、漸進的である
ホンダが一気に新しく変革してくることが多々あるのに対し、ヤマハはそれほど急激な変革を好まず、色んな所を少しずつ改善良化していく傾向にある。?
ヴァレンティーノ・ロッシは「ヤマハのフィロソフィー(哲学)は従来から存在するものを少しずつ変化させていくことだ。すべての分野に関して少しずつ改良していく」とライディングスポーツ2015年4月号27ページで語っている。
リン・ジャーヴィスはこの記事
で「ヤマハに革命は必要ない」「(新型マシンについて)急進的なものは何もない」と語っているが、ヤマハの社風をそのまま言葉にしたものと言える。
1980年代のヤマハでエースライダーを務めたエディ・ローソンは、この本
の43ページで「ヤマハは開発ライダーとエンジニアがバイクをよくするために少しずつ慎重に、小さな変更を繰り返しながら改良していくという印象。一方ホンダは、エンジニアが一気に違うコンセプトの物を造ってギャンブルに出るという感じだった」と語っている。
ヤマハ(楽器)と協力する
ご存じのように、ヤマハ発動機(オートバイなど製造)はヤマハ(楽器製造)と同じ起源を持つ会社である。
技術的にも協力することがある。この本
の133ページに、古沢政生さんのエピソードが書かれている。ヤマハ(楽器)の技術者に教わりながら振動制御のソフトウェアの研究をした。出来上がった振動制御ソフトウェアは楽器の開発にも有効なので、今度はヤマハ(楽器)から古沢政生さんのところに技術者がやってきた。また、2003年の頃はバイクの振動とノイズに悩んでいたが、そのときはヤマハ(楽器)の防音室を借りた。完璧に外部の音を遮断して電波も一切通さない防音室で楽器の音響計測やテストをするのだが、そんな防音設備でバイクの振動・ノイズの研究をして、問題を解決することができた。
ヤマハワークスの選手が、ヤマハの楽器を手にする姿もSNSにアップロードされる。画像1
、画像2
スペシャルカラーを好む
楽器メーカーのようなお洒落最優先といった企業と親しいからか、ヤマハワークスはお洒落なスペシャルカラーにすることが多い。
以下に、スペシャルカラーの動画を列記しておく。
2007年オランダGP![]() |
メインスポンサーのフィアット社の名車「フィアット500」販売50周年記念 |
2008年オランダGP![]() |
ヴァレンティーノ・ロッシが、サッカーイタリア代表(青いユニフォーム)の欧州選手権必勝祈願として青色カラーにした |
2008年日本GP![]() |
ホルヘ・ロレンソがルパン三世とコラボ。ルパン三世が愛用する車は、メインスポンサーのフィアット社の名車「フィアット500」なので |
2009年ポルトガルGP![]() |
メインスポンサーのフィアット社の新車「プント・エヴォ 」を模した |
2011年オランダGP![]() |
ヤマハGP参戦50周年記念![]() |
2012年サンマリノGP![]() |
真っ青カラーリング |
2012年アラゴンGP![]() |
真っ青カラーリング |
小芝居動画を作りたがる
音楽・芸能・演劇といった分野と関係が深い楽器メーカーと親しいので、ヤマハワークスも小芝居動画をしばしば作る。
この動画
は、メインスポンサーのモヴィスターが持っている自転車チームとのコラボ動画。
この動画
もちょっとした小芝居動画。「Dude, where’s my bike?」は「やれやれ、僕のバイクはどこへ行っちゃったんだ?」という意味。ロケをしたのはバルセロナの丘の上のこの場所
にあるティビダボ遊園地
で、地元民なら誰でも一度は訪れているであろう場所である。そんなに真新しくはないものの一通りの設備があり、何しろ絶景なので人気がある。
2005年から2013年までアメリカ合衆国西海岸のラグナセカでMotoGPが行われていた。西海岸のロサンゼルス近郊にはハリウッドがあり、映画産業が盛んなので、出版社も多い。そのため日本のバイク企業はロサンゼルスにアメリカ支社を持ち、ロサンゼルスの出版業界と協力しながら販売に励んでいる。ヤマハもロサンゼルスにアメリカ支社がある。そのヤマハ・アメリカが、ラグナセカGPに合わせて小芝居動画を作っていた。
2009年の動画はこちら
。
2011年の動画はこちら
。
2012年の動画はこちら
。メイキング動画はこちら
。
ニコニコ動画にも2009年版と2011年版が上がっている。
ライダーの椅子が質素
レプソルホンダやドゥカティワークスのライダーが座る椅子は非常に豪華なものである。画像1
、画像2
「ライダーの体に負担をかけさせてはならない」という信条がある。
一方で、ヤマハワークスのライダーが座る椅子はかなり簡素なもので、パイプ椅子みたいである。画像1
、画像2
「我々は椅子に座るのが仕事ではない。マシンにまたがるのが仕事なのだ」という信条がある。
どちらの考えもそれなりに筋が通っていて正しいのだが、対照的な光景といえるだろう。
ピットでみんなが立つ
レプソルホンダの中本修平HRC副社長や桑田哲宏室長は、レース中に、ピットウォールスタンドで座り込むタイプだった。※ピットウォールスタンド
とはメインストレートとピットロードの間に設置されて通信機器が備え付けられる設備のこと。詳しくはこちらのページ
を参照。
お偉いさんがそうなので、レプソルホンダのスタッフには座る人が多い。
ドゥカティワークスもジジ・ダリーニャ監督が座っている
から座るスタッフがいるし、スズキワークスもダヴィデ・ブリヴィオ監督が座っている
から座るスタッフがいる。
ところがヤマハワークスは座る人が1人もいない。リン・ジャーヴィスも中島雅彦監督も座らない。ゆえにスタッフ全員が立つ。全員が立って同じところに陣取るのでちょっと混雑気味である。いつもこんな感じ
。なんだか満員電車みたい。
「ライダーが苦労して走っているんだから椅子になど座っていられるか」という気風であり、これこそがヤマハの社風である。
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メインスポンサー
ヤマハワークスのメインスポンサーは変遷しており、それにつれてカラーリングも変わっている。
この記事
では、2002年の4ストローク時代初年度から2019年までのカラーリングを見ることができる。
世界最大のタバコ企業フィリップモリス
のタバコ銘柄。1983年から2002年まで長期にわたり支援した。
昔のヤマハは赤いマシンだった
。
2002年シーズン末にフィリップモリスは「二輪のフェラーリであるドゥカティを支援したい」と表明し、ヤマハとの契約を終了。ドゥカティワークスを支援することになった。
スペインのタバコ企業アルタディス
のタバコ銘柄。Fortuna(フォルトゥナ)はラテン語で「幸運」の意味。
赤と銀色で、ウルトラマンカラーだった
。2003年絶不調時のスポンサーである。
このころから欧米におけるタバコ広告規制が激しくなり、いくつかのサーキットでは「Spain's No.1
」と表示していた。
スペインのタバコ企業アルタディス
のタバコ銘柄。Gauloises(ゴロワーズ)はフランス語で「ゴール人の女」「陽気であけっぴろげな女」という意味である。フランスで人気のある銘柄。2004年と2005年のメインスポンサーで、ヴァレンティーノ・ロッシ快進撃の印象が強い。
ここからヤマハは青いカラーリングになった
。
欧米におけるタバコ広告規制のため、いくつかのサーキットではGauloisesと表示できず、「GO!!!!!!!
」と表示していた。
ちなみに、アルタディス社はヤマハワークスに対してとても尊大な態度だったらしく、対応するのに難儀したという。あまりに尊大でヤマハ側の言うことをまるで聞こうとしないので、2005年をもってメインスポンサーを変えたということらしい。この本
の273ページでそう語られている。
日本のタバコ企業JTのタバコ銘柄。Camelは英語で「ラクダ」。
黄色いカラーリングのマシンとなった
。2006年にロッシが僅差で敗れたときのスポンサー。
欧米におけるタバコ広告規制のため、いくつかのサーキットで「Team
」と表示したり、国旗を表示したりしていた
。
イタリアを代表する大企業で、2007年から2010年までメインスポンサーを務めた。
青と白のカラーリング
。
FIATは日本でいえば三菱に当たるような存在で、車から航空機・鉄道・船・戦車など何でも作る。ニコニコ大百科にも記事がある(→FIAT)
ちなみにヤマハ発動機はトヨタと技術的にも資本的にも深い関わりがある。トヨタにとって商売敵であるFIATをスポンサーとして受け入れていいのだろうかと外野は心配したが、特に問題は起こらなかったようである。
FIAT傘下にF1で有名なフェラーリがある。ヴァレンティーノ・ロッシはMotoGPでチャンピオンになるたび、ご褒美としてフェラーリのF1マシンに乗せてもらっていた。
ただ、この「ロッシのF1テスト」は単なるご褒美ではなかったのである。
2003年にFIAT会長ジャンニ・アニェッリ
が死去。この人は創業者一族の人だった。当然、会長の座を継ぐのは子供とか孫になるが、孫のジョン・エルカーン
はまだ28歳と若かった。
そこでFIATの傘下企業フェラーリで辣腕を振るってきたルカ・ディ・モンテゼーモロ
という人が、一時的にFIAT会長を務めることになった。
ルカ・ディ・モンテゼーモロ会長はF1が大好きな人で、F1の規則を巡ってFIA(F1の主催者)としょっちゅう喧嘩をしていた。喧嘩をするたび「F1からフェラーリは脱退する!」と吠えるのだが、なかなかFIAには通じない。
そこでルカ・ディ・モンテゼーモロ会長が目を付けたのがロッシである。
「我々フェラーリはF1を脱退して新しい大会を作る!ドライバーはロッシである!」
こんな具合にロッシの人気を利用して、さらにFIAと喧嘩をしたのであった。
ロッシにとってはルカ・ディ・モンテゼーモロ会長はお金も出してくれるしF1に乗せてくれるしで、とてもありがたい存在なのだが、ありがた迷惑な存在でもあったのである。
2010年シーズン末にロッシはドゥカティワークスへ移籍。FIATはヤマハワークスとの契約を打ち切った。
2011年から2013年までヤマハワークスはメインスポンサー無しで戦うことになった。
スペインの通信事業企業テレフォニカ
の所有する携帯電話ブランド。2014年からメインスポンサーになった。テレフォニカはスペイン語圏のラテンアメリカ諸国に勢力を伸ばす国際的大企業である。
青地と緑文字のMのカラーリング
。
?
かつてはTelefonica Movistarという名前でMotoGPのスポンサーをしていた
。セテ・ジベルナウ、加藤大治郎、ダニ・ペドロサが支援を受けていた。特にダニ・ペドロサに対しては125ccクラスデビュー当時から手厚く支援をしていた。
ダニ・ペドロサは2006年から最大排気量クラスへ移ることになった。当然、ダニ・ペドロサはTelefonica Movistarがメインスポンサーとなっているグレッシーニレーシングに入るはずであった。
ところが、ダニ・ペドロサはレプソルホンダと契約してしまう。Telefonica Movistarはレプソルとのダニ・ペドロサ争奪戦に敗れ去ったのである。レプソルに秘蔵っ子を奪われたTelefonica Movistarは失意のどん底に陥り、そのままMotoGPを撤退してしまった。
2016年シーズン途中にモヴィスター・ヤマハがダニ・ペドロサ獲得に乗り出したのはこのためで、もともとモヴィスターはダニ・ペドロサと縁があったからである。
テレフォニカはモヴィスター
という携帯電話ブランドの他に、Movistar+
という有料テレビも販売している。2018年まで、Movistar+がスペインにおけるMotoGP独占放映権を持っていた。
ところが、Movistar+の売り上げが伸び悩むようになり、2018年をもってMotoGP放送から撤退することになった。代わりにスペインのMotoGP独占放映権を手にしたのがDAZNである。DAZNは日本においても有料テレビのスカパーを追い詰めているが、それと同じことがスペインでも起こっていた。Movistar+の撤退に合わせ、Movistarも2018年限りでヤマハワークスから撤退することになった。
アメリカのMonster Beverage Corporationが作ったエナジードリンク。ニコニコ大百科にも記事がある(→Monster Energy)
レプソルホンダにレッドブルが付いているので、張り合うかのように2013年からヤマハワークスのスポンサーになった。
2016年10月にホルヘ・ロレンソがメルセデスAMGというF1チームに招かれて試乗をしている。なかなか上手に乗ったらしい
。ヤマハワークスとメルセデスAMGはモンスターエナジーという共通のスポンサーがあるので、その紹介で乗せてもらった。
2019年からは念願のメインスポンサーに昇格した。カラーリングはモンスターエナジーの黒を基調に、ヤマハらしい青を加えたもので
、サッカーの強豪インテルミラノと似たようなカラーリングになった。ヴァレンティーノ・ロッシはインテルミラノの大ファンなのでご機嫌だった。
ロッシカラーの商品を発売していた
。
メインスポンサー以外のサブスポンサー
タバコ企業は金払いが非常に良い。タバコ広告規制がない時代は、タバコ企業が1社つくだけでチームの運営をまかなうことができた。先ほど紹介したこの記事
を見ても、タバコ企業がスポンサーについている時代は、タバコ企業以外の広告がほとんど付いていない。
タバコ企業以外の企業は、(比較的に)金払いが良くない。そのため、メインスポンサーの他にもサブスポンサーをかき集め、マシンのあちこちに付けなければならない。タバコ企業が去った2007年以降はサブスポンサーが増えていった。
ペトロナス
はマレーシアの石油関連企業である。国営企業で1974年設立とまだ若い。青緑色のペトロナス・カラーでおなじみ。
F1の常勝チームであるメルセデスAMG
のメインスポンサーを務めている。
2009年
、2010年
、2011年
の3年間、ゼッケンの真上にペトロナスのロゴ
が入った。このときのスポンサー料は1年で800万ドルと報じられている
。
2011年限りで撤退していたが、2019年からはペトロナス・ヤマハ
というヤマハサテライトチームのスポンサーになった。やはり、ヤマハとは縁がある。
日本の石油企業JXTGエネルギー
のブランド。ニコニコ大百科にも記事がある(→ENEOS)。2012年
からスポンサーになった。同社は東南アジア市場でのシェア拡大を目論んでおり、東南アジアでの人気が高いMotoGPに目を付けたのである。
2016年にはヴァレンティーノ・ロッシが横浜の中央技術研究所を訪問した
。
2016年マレーシアGPはENEOSの赤色が拡大したスペシャルカラーでレースに臨んだ
。
タヴーリアの自宅付近でENEOSカラーのクルマを乗り回すヴァレンティーノ・ロッシさん
。
ENEOSカラーのクルマでランチ(トレーニング場)へ行くヴァレンティーノ・ロッシさん
。
ヤマハらしく、小芝居動画を作っている
。
「エネオス最高!」
ヤマハ純正オイルブランド。2010年
からカウルに名前がつき始めた。
ホルヘ・ロレンソとヴァレンティーノ・ロッシが一緒にCM出演するのは、この商品ぐらいしかないだろう
。
この動画
では、マーヴェリック・ヴィニャーレスとヴァレンティーノが一緒にCMに出ている。
ヤマハが作った4スト125cc空冷エンジンで、スクーターに使われる
。環境と走行性能の両方を追究して作った。ヤマハ公式サイトに専用ページがある
。2015年から名前が付き始めた。2015年はゼッケンの真下である
。
ヤマハ・インドネシアが2003年からスローガンとして掲げているインドネシア語。SEMAKINは「ますます、より一層」という意味で、DEPANは「前」という意味、DIは前置詞で、英語のforとかtoに相当する。「より一層、前に向かって進もう!」といった意味となる。
読み方はローマ字読みで「セマキン・ディ・デパン
」。JKT48のみんなが、そのように発音している。
2010年
から、マシンに名前が付き始めた。
インドネシアは人口2億6千万で、日本メーカーが市場として最重要視している。レプソルホンダやスズキワークスも、インドネシア語のスローガンをMotoGPのマシンに付けている。
?
ヤマハ・ベトナムのスローガン。「超えていく」という意味。2017年
以降に、ゼッケンの斜め上に、ベトナム国旗
と並んで表示されるようになった。
ヤマハ・フィリピンのスローガン。「ヤマハ(青はヤマハの会社色)は速い」という意味。2017年
以降に、ゼッケンの斜め上に、フィリピン国旗
と並んで表示されるようになった。
ちなみに、2018年から、タイ・ヤマハのスローガンもゼッケン斜め上に表示されるようになった。この画像
を見ると、タイ国旗
のとなりにタイ語で書いてあることが分かる。どういう意味かは不明。
ヤマハが東南アジアを重視していることがよく分かる。
FIATが所有する自動車ブランド。サソリのマークでおなじみ
。
FIATは2010年限りでメインスポンサーから撤退したが、2014年にサブスポンサーとして復帰しており、ゼッケンの横に小さくFIAT professionalの茶色い文字が入るようになった。2014年のこの画像
で確認できる。
2015年
からABARTHのサソリマークがゼッケン横に入った。2018年
まで続いた。
どうでもいい余談だが、マルコ・ベッツェッキはサソリのマークを愛用している。画像1
、画像2
、画像3
ヤマハワークスのマシンに付いているABARTHのサソリマークによく似ているので、それを真似たのかもしれない。
カザフスタンの銀行。2014年から付き始めた。2014年はゼッケンの斜め上だった
。
カザフスタンはMotoGPの誘致に熱心であり、首都アルマトイの近くにソコルサーキットを作っていた。そこにヤマハワークス所属のホルヘ・ロレンソを呼んでいた
。
イタリア・トリノに本社を持つトラック企業。2013年
のカウルに名前がある。
ヤマハワークスのトラックはイヴェコである
。
協力企業
静岡県浜松市半田町
に本社を置くヤマハ系のマフラー製造企業。
Tech3は2018年までヤマハサテライトだったが、2014年からサクラ工業のマフラーを使用していた。最大排気量クラスでも
、Moto2クラスでも
、「SAKURA」という桜色のアルファベットがマフラーに付いている。
この動画
を開いてブラッドリー・スミスのシャツ右腕を見てみると、「サクラ工業」という文字が入っている。
Tech3のライダーが訪問することがある。画像1
、画像2
、画像3
、画像4
、画像5
、画像6
ヨハン・ザルコのヘルメット姿が似合いすぎている。
ヨーロッパの拠点、日本の拠点
ヨーロッパの拠点
イタリア北部の大都市ミラノの郊外レズモ(Lesmo)に拠点を置いている
。日本から空輸された部品をここで組み立てて、サーキットへ持っていく。このため、イタリアのヤマハ党にとってレズモは聖地になっている。
ヤマハワークスの建物のすぐ南に超高速サーキットとして名高いモンツァサーキット
がある。ヤマハの建物とサーキットの距離は1km程度
。モンツァサーキットの北東端が6~7コーナーで、最もレズモに近い。その6~7コーナーにはレズモ(Lesmo)という名前が付いている。
日本の拠点
日本の静岡県磐田市にヤマハ発動機(オートバイ)の本社
や工場があり、そこで部品を作っている。英字の記事にも「Iwata」が散見される
。
静岡県浜松市にはヤマハ(楽器)の本社
がある。また、スズキの本社
がある。
天竜川を挟んで磐田市と浜松市は隣同士であり、ヤマハとスズキは近所の企業と言える。
同じ遠州(静岡県西部)の企業とはいえ、社風はちょっと異なっている。ヤマハはサッカー部(ジュビロ磐田)、野球部、ラグビー部を抱えていて団体競技大好きだが、スズキは団体競技には手を出さず、陸上部を抱えている。
袋井市にヤマハのテストコースがあり
、ここでテストを行っている。通称「袋井」。航空写真で見てみると
、鈴鹿サーキットによく似ている。
ヴァレンティーノ・ロッシやカル・クラッチローが「袋井」でテストを行ったことがある。カル・クラッチローが袋井でテストをした記事はこちら
。
2013年には菊川市に新たなテストコースを作った
。ヤマハの公式発表記事はこちら
。
余談ではあるが、ここでヤマハ発動機の本拠地である遠州(静岡県西部)がどういう土地柄なのか書いておきたい。
遠州は雪が降らない。一年に一度、粉雪がパラパラッと舞う程度で、降り積もるなんてことは断じてあり得ない。名古屋や東京は一年に一度か二度は雪に苦しめられるのだが、遠州ではそういう経験をすることがない。また、遠州には台風があまり来ない。台風がよく通るのは紀伊半島から西であり、遠州は台風が直撃することが少ない。そういうわけで遠州の人々は自然災害に苦しむ経験をあまり持っていない。
それに加えて、遠州は日本の大動脈である東名高速が通っており、名古屋や東京といった大消費地にも近い。それゆえ、わりと産業に恵まれている地域で、就職先もまあまあ多い部類に入る。
自然災害にも苦しめられず、経済的にもわりと恵まれているので、遠州の人は揃いも揃ってみんなおっとりしている。他県の人が遠州の人と接したら眉間にシワが寄るであろう、というレベルである。「静岡県民 おっとり
」で検索すると、そういう印象を持つ人が多いことが分かる。
おっとりした遠州の人々にはスパルタ教師のような厳しい人を組み合わせると上手くいくらしく、遠州の企業では叱って叱って叱り飛ばすキッツい人が社長に就任したら上手く進むようになった例がいくつか見られる。スズキ自動車の鈴木修会長は部下に対して叱責の言葉を浴びせることは得意なのだが褒めることがどうしてもできないと自著
の243ページで告白しているほどである。ヤマハ発動機にも川上源一会長
というとんでもない人がいて、ヤマハ中興の祖と言われるほど優秀な人なのだが、とにかくよく部下を叱り飛ばしていた。古沢政生さんもこの本
の119ページで「社内の誰もが川上源一社長を恐れていた」と証言している。
ヤマハワークスにはヴァレンティーノ・ロッシという選手がいる。近年のヴァレンティーノはヤマハに対して叱責の言葉を波状攻撃のように浴びせかけている。「僕が何度も改善要求をしたのでヤマハのスタッフが逃げ出すようになったんだ
」「ヤマハは改善を続けろ。過去数年、シーズン初頭は良かったのにシーズン中盤で他メーカーに追い抜かれている
」「ヤマハは勝ちたいと思っているのか?
」などなど。
おっとりしたヤマハの人たちと、キッツいヴァレンティーノは、良い組み合わせなのかもしれない。
その他の雑記
イタリア人はハ行の発音を非常に苦手にしている。そのため、YAMAHAをヤマー、HONDAをオンダ、HAGAをアーガ、HARADAをアラーダと読む。ヴァレンティーノ・ロッシも「ヤマー
」と発音したことがある。
そしてなんと、イタリア人たちは「ヤマカ」と読むことがある。ハ行を読めないのでカ行にする。「イタリア ヤマカ ヤマハ」で検索すると
、その事実を知った日本人の驚きの声を読むことができる。ヴァレンティーノ・ロッシも「ヤマカ
」と発音したことがある。日本人がヴァ行を発音できないのでバ行にして発音するのと同じと言えるだろう。
関連リンク
- ヤマハレーシング公式Twitter(ヤマハが支援するレース活動全般を扱う)

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- ヤマハレーシング公式サイト(ヤマハが支援するレース活動全般を扱う)

関連項目
- アレックス・ブリッグス (ヴァレンティーノ・ロッシのメカニック)
- シルヴァーノ・ガルブゼラ (ヴァレンティーノ・ロッシのクルーチーフ)
- ジェレミー・バージェス (元・ヴァレンティーノ・ロッシのクルーチーフ)
- ラモン・フォルカダ (元・ホルヘ・ロレンソのクルーチーフ)
- ダニエレ・ロマニョーリ (元・コリン・エドワーズのクルーチーフ)
- ウィルコ・ズィーレンベルグ (元・ホルヘ・ロレンソのライダーコーチ)
- アンドレア・ズーニャ (元・電子制御スタッフ)
- ダヴィデ・ブリヴィオ (元・チーム監督)
- マッシモ・メレガッリ (チーム監督)
- 古沢政生 (元・MotoGP部門最高責任者)
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