長門 葛城 鳳翔 隼鷹 龍鳳 榛名 伊勢 日向 天城 |
「艦娘たちの戦後」とは、艦隊これくしょん~艦これ~のキャラクターを使って、太平洋戦争/第二次世界大戦終戦後の海軍艦艇の様子を描いた作品に使用されているタグである。(→pixiv「或る夏の記憶」)
太平洋戦争開戦時に約250隻を保有、戦時に約400隻を建造した日本海軍が、終戦時に保有していたのは約170隻。このうち、作戦行動が可能な駆逐艦以上の水上艦は40隻程度、潜水艦は60隻程度と、事実上完膚なきまでに叩き潰されたと言っても過言ではない状態だった。
『艦これ』には2016年1月現在、給糧艦「間宮」「伊良湖」と工作艦「明石」、練習艦「香取」、陸軍系、海外艦を含めて167名の艦娘が登録されているが、このうち昭和20年8月15日を浮揚状態で迎えたのは19名(「まるゆ」こと「三式潜航輸送艇」は拿捕艦も含めて35隻が残存)、大破着底状態で迎えたのは8名である。
以下、『艦これ』登場艦艇の昭和20年の状況、そして戦後処理について記す。
レイテ沖海戦の後、昭和19年11月25日に横須賀へ帰投。所属していた第一戦隊も解隊され、20年6月には横須賀鎮守府の警備艦となって副砲以下の武装のほとんどを陸揚げ、煙突や後部艦橋も撤去される。
7月18日の横須賀空襲で艦橋に直撃弾を受け、艦長など艦首脳の多くが戦死。修理を受けられないまま終戦を迎えた。仮に本土決戦が行われた場合は、横須賀沖の猿島へ座礁させ、砲台として使用する計画だったと伝わる。
【戦後処理】 昭和20年8月30日、米軍接収。昭和21年3月18日、軽巡洋艦「酒匂」と共に米軍によりビキニ環礁へ出発。7月1日より行われた2度の原爆実験(クロスロード作戦)ののち、7月29日深夜に沈没。
※2006年、俳優の石坂浩二が、「長門」接収に当たった米海軍大佐の親族より「開運!なんでも鑑定団」へ出品された本艦の軍艦旗を1000万円で購入。のち、呉市の「大和ミュージアム」へ寄贈。
就役はレイテ沖海戦よりわずか10日前の昭和19年10月15日。同海戦において日本海軍の空母機動部隊は事実上壊滅し、11月15日の第三艦隊および第三航空戦隊解隊により、残存空母ともども第一航空戦隊へ寄せ集められる。
海軍はなおも、これら残存空母をもって再度のフィリピン突入作戦(神武作戦)を企図していたとされるが、戦力枯渇により空母が動くことは無かった。
昭和20年に入ると、一航戦の艦載機たる第六〇一航空隊は基地航空隊で使用され、空母の存在意義は消滅。4月20日、一航戦解隊により、防空砲台として三ツ子島沖で姉妹艦「天城」とともに係留される。
三度の呉軍港空襲で受けた爆撃は致命傷に至らなかったものの、飛行甲板がめくれ上がってしまい、空母機能を喪失した状態で終戦を迎えた。
【戦後処理】 復員船に使用。ラバウル・仏印方面などで5万人の復員に従事(昭和21年11月まで)。復員船としては最大級の船舶だった。退役後、昭和22年11月30日までに日立造船桜島工場(大阪)において解体。
昭和17年のミッドウェー海戦に出撃後、内地で練習艦として使われる。
昭和20年3月と7月の呉軍港空襲では、飛行甲板後部に命中弾があり損傷。4月20日付けで現役編成を外れて第四予備艦に移され、6月までに対空兵以外の乗員のほとんどは退艦。東能美島近海において網・樹木などによる擬装を施されて係留。
無理に延長した飛行甲板のため外洋へは出られなかったが、開戦時から存在した日本海軍の空母としては、唯一行動可能な状態で終戦を迎えた。
【戦後処理】 飛行甲板の切断工事を施し、復員船に使用。マーシャル諸島・ニューギニア島方面などで4万人の復員に従事(昭和21年8月まで)。退役後、昭和22年5月1日までに日立造船桜島工場(大阪)において解体。
昭和19年6月のマリアナ沖海戦後、航空戦力の欠乏により第二航空戦隊が解隊。その後は第四航空戦隊(※レイテ沖海戦には不参加)を経て第一航空戦隊へ所属が変わるが、単なる残存空母の寄せ集めにすぎず部隊としての実態は無かった。
昭和19年12月、マニラへの輸送任務の帰路、九州西方沖で米潜水艦の攻撃により大きなダメージを受け、かろうじて佐世保へ入港。船体の修理はなされたものの機関部の修復ができず、以後航行不能状態で佐世保において終戦を迎えた。
特攻兵器「回天」の母艦に改造し、沖縄への特攻で使用する計画があったといわれる。
【戦後処理】 正規空母級の大型艦ではあったが、修理困難として復員船へ転用されずそのまま解体となった。旧・佐世保海軍工廠において昭和22年8月1日までに終了。
※米国・フォーダム大学に鐘が所蔵。マリアナ沖海戦の際に爆撃で損傷・落下したのを、米軍が回収したものといわれる。
「隼鷹」と同じく、二航戦解隊後は四航戦を経て一航戦へ。しかし航空戦力の欠乏により捷一号作戦(レイテ沖海戦)への出動は無く、輸送任務に従事する。
昭和20年1月は特攻兵器「桜花」運搬のため、輸送隊「ヒ87船団」と台湾まで行動を共にし、基隆(台湾)で「桜花」を降ろして「タモ35船団」と共に本土へ帰還。
以後内地にとどまっていたが、3月19日の呉軍港空襲で爆弾3発が命中し飛行甲板大破。空母としての機能は喪われ、江田島秋月岸壁において防空砲台として係留された状態で終戦を迎えた。
【戦後処理】 修理困難として復員船へ転用されず、そのまま解体となった。旧・呉海軍工廠において昭和22年9月25日までに終了。
昭和19年10月のレイテ沖海戦において、米機動部隊の攻撃により機関損傷・戦線離脱。シンガポールで応急修理を受け、12月に駆逐艦「潮」とともに日本本土への帰還を図ったものの、仏印サイゴン沖で米潜水艦の攻撃を受けて大破(艦尾切断)。「羽黒」の曳航で再びシンガポールへ戻る。
結局その後はシンガポールのセレター軍港で係留され、一部の機銃などは取り外して陸上基地に転用される。本格的な修理が出来ないまま、現地で終戦を迎えた。
【戦後処理】 昭和20年9月12日、南方軍がイギリス軍に降伏調印し、この方面の艦艇も接収。昭和21年7月8日、イギリス軍によりマラッカ海峡で海没処分。
昭和19年10月のレイテ沖海戦において、米潜水艦の襲撃により大破。かろうじて沈没は免れてブルネイに帰投し、のちシンガポールへ移る。
しかし「妙高」と同様、南シナ海における米潜水艦の跳梁跋扈で日本本土へ戻っての本格修理が出来ず、昭和20年に入ると機銃の陸揚げ・艦尾切断工事などを行って浮き砲台化され、乗員の多くも陸戦隊となって艦を離れる。
7月、イギリス軍の潜水工作員に時限爆弾を取り付けられ、一発が爆発したが大きな損害にはならなかった。「妙高」とともに現地で終戦を迎えた。
【戦後処理】 南方軍の降伏に伴いイギリス軍が接収。昭和21年10月29日、イギリス軍によりマラッカ海峡で海没処分。
※本艦の処分については記録があり作業内容や携わった日本側乗組員の様子を知ることができる。
重雷装艦としての出撃はついに無く、専ら輸送任務に従事。昭和19年8月以降は特攻兵器「回天」搭載艦へ改造され、第十一水雷戦隊に所属して「回天」の運用訓練を行っていた。十一水戦解隊後の昭和20年7月15日に編成された、本土決戦用の最後の水上艦隊『海上挺進部隊』の一艦である。
しかし7月24日の呉軍港空襲において被弾・大破。沈没は免れたが、自力航行が不可能な状態で終戦を迎えた。
【戦後処理】 修理を施されて昭和21年2月から7月の間、鹿児島方面で復員作業の支援艦となる。同年10月より、三菱重工業長崎造船所において解体(昭和22年4月1日までに完了)。
※船体の二重底は解体後の一時期、浮き桟橋に使用されたと伝わる。
就役は昭和19年11月末。日本海軍が建造した最後の大型水上艦であるが、レイテ沖海戦後の海軍にもはや「酒匂」が率いるべき戦闘部隊は無く、訓練隊の第十一水雷戦隊旗艦となる。
昭和20年3月、いったんは戦艦「大和」の特攻に参加する部隊へ発令されるが沙汰止みとなり、瀬戸内海に残留。5月以降は舞鶴方面へ移動。軍港内では燃料不足のためボイラーの火を消され、電源は陸上からケーブルを引っ張ってくる有り様だったという。
7月15日付けで十一水戦は解隊され、舞鶴で終戦を迎えた。
【戦後処理】 朝鮮半島方面の復員輸送に従事後、昭和21年2月25日、横須賀にて米軍接収。3月18日、戦艦「長門」とともにビキニ環礁へ向かい、原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦に供される。
7月1日、1回目の実験で投下原爆がほぼ直撃となり、艦上構造物をほとんどなぎ倒され大破。翌日沈没。
昭和15年5月に就役。同年8月に姉妹艦の「香取」と共に本来の任務である士官練習航海に出るが、その航海は9月に国際情勢の悪化を理由に中断され、以後彼女が練習艦として遠洋航海に出る事は無かった。
開戦後は南方を管轄とする第四艦隊の旗艦となる。しかし元々前線に出るように作られていない練習艦のため、泊地に停泊して指揮を執るという形式が続き、そして最終的に「鹿島」は昭和18年11月に旗艦を軽巡「長良」に渡して内地に戻る。それ以降はある時は練習艦、ある時は船団護衛、ある時は輸送任務と忙しく働いた。
昭和20年2月には海上護衛総隊に配属され、呉にて終戦を迎える。
【戦後処理】 昭和20年10月5日付けで除籍、同年12月より翌年11月まで復員輸送に従事した後、川南工業香焼島造船所(長崎)にて昭和22年6月までに解体された。
旧式と言える神風型駆逐艦ながら、太平洋戦争を最後まで戦い抜く。主にシンガポールを拠点としていた「神風」の特筆すべき活躍は、轟沈した重巡「羽黒」「足柄」の救助を行い、合わせて1500名以上の命を救ったことと、終戦直前の昭和20年7月に勃発した潜水艦「ホークビル」との激闘であろう。
最終的に、シンガポールで唯一稼働可能な日本軍艦として(正確には、駆逐艦は軍艦ではないが)終戦を迎える。
【戦後処理】 昭和20年12月に復員船に任命されたが、その半年後となる21年6月、同じく復員船となっていた海防艦「国後」が静岡の御前崎沖にて座礁、救出に向かった「神風」も6月7日に座礁してしまう。その後、2隻とも引き下ろしを試みたものの失敗。最終的に、その場で放棄・解体される。昭和22年10月31日、解体終了。
神風型駆逐艦3番艦「春風」は、太平洋戦争ではやはり旧式ということもあり、主に船団護衛を任務として活動した。そんな中でも米潜水艦「シャーク」を撃沈する、といった戦果を挙げていたのだが、昭和19年11月にルソン海峡沖で米潜水艦「セイルフィッシュ」からの雷撃を受け、艦の後部を丸ごと喪失。それでも応急修理を受けた後、なんとか佐世保に帰投するも、その頃の日本には既に旧式の駆逐艦を修理する余裕などなく、そのまま佐世保港に係留されたまま終戦を迎える。
【戦後処理】 もはや艦としての能力を失った状態では復員船にもなれなかった「春風」だが、昭和20年11月に除籍の上、その艦体は京都の竹野港まで運ばれ、港の防波堤として使われることになった。
しかし、約3年後の昭和23年9月に襲来したアイオン台風による波浪で破壊され、そのまま解体処分となった。
昭和20年4月、第十七駆逐隊は天一号作戦の水上特攻隊に編成され、戦艦「大和」に従い沖縄へ出撃。僚艦「磯風」「浜風」を撃沈されるが「雪風」は生還を果たし、「初霜」「冬月」と共に佐世保へ帰投する(「涼月」は単独で生還)。
4月20日付けで「初霜」と十七駆を組み、5月に佐世保から舞鶴へ移動。6月には舞鶴湾の隣の宮津湾へ移るが、湾口へ米軍機により機雷をバラまかれて湾から出られなくなってしまう。
7月30日の空襲でロケット弾が命中するも不発。対空戦闘において、米軍機1機の撃墜を記録する。この戦闘を最後に宮津湾で終戦を迎えた。
【戦後処理】 昭和21年末まで復員船。昭和22年7月6日、戦時賠償艦として中華民国へ引き渡され「丹陽」に改名。退役後、日本への返還交渉中に台風で損傷。1971年までに解体処分となり、錨と舵輪のみが日本へ帰国した。
昭和20年1月より第七駆逐隊に所属。3月29日、戦艦「大和」の水上特攻に従うべく呉軍港を出たが、機雷に接触して一時航行不能。呉へ後退したため特攻には加わらなかった。5月5日付けで第一〇五戦隊へ配属(第七駆逐隊は解隊)。呉から舞鶴へ回航され、航行不能となっていた「潮」の装備を移し替えられる。
7月10日付けで第一護衛艦隊へ編入。日本海方面での船団護衛に従事し、8月15日午前中も米軍機と戦闘の記録がある(おそらく、日本海軍水上艦艇最後の戦闘行動と思われる)。新潟で終戦を迎えた。
【戦後処理】 昭和21年末まで復員船。昭和22年7月5日、戦時賠償艦としてソ連へ引き渡され「ヴェールヌイ」に改名。退役後は「デカブリスト」に再度改め、練習艦となる。1970年代に老朽化を理由に標的艦として海没処分。
レイテ沖海戦の後、昭和19年11月13日にマニラで空襲を受け損傷。シンガポールへ移って応急修理の後、重巡「妙高」とともに本土帰投を図るも、「妙高」は潜水艦攻撃でシンガポールへ退却。単独行動となった「潮」は横須賀へ向かう。
書類上は「響」と第七駆逐隊を編成していたが、機関損傷のため身動き出来ず、4月の戦艦「大和」の特攻へも不参加。5月5日付けで七駆は解隊となり、6月に連合艦隊司令部の付属艦扱いへ移される。
7月の横須賀空襲では主に戦艦「長門」が狙われたため大きな被害は免れ、そのまま終戦を迎えた。
【戦後処理】 復員船や賠償艦には用いられず、解体。昭和23年8月4日までに横須賀において行われたと思われるが、明確な処分地は不明。
就役が昭和19年9月と遅かったため大きな海戦には関わらず、昭和20年は特攻兵器「回天」搭載潜水艦として南方海域を転戦。グアム方面で実際に「回天」を発射している。
7月30日、テニアン島へ原爆を輸送した帰りの米巡洋艦「インディアナポリス」を雷撃(「回天」使用せず)し、これを撃沈。日本海軍最後の、敵水上艦撃沈戦果を挙げた。
8月15日は、呉へ帰投のため豊後水道を移動中だった。
【戦後処理】 残存潜水艦は佐世保・舞鶴などに集結させられ、本艦は佐世保へ回航。昭和21年4月1日、五島列島沖において海没処分。
先代の「伊58」こと「伊158」(海大3型a)も同日同地において処分された。
※本艦の橋本以行艦長は戦後、「インディアナポリス」のマクベイ艦長が撃沈責任追及の末自殺したことにつき、同艦長の名誉回復に努力していたと伝わる。
就役は昭和20年1月。いわゆる“潜水空母”として、僚艦「伊400」と共に水上機「晴嵐」によるウルシー環礁(米艦隊泊地)への特攻を行う部隊を編成。7月24日、大湊を出撃する(この時、敵潜水艦と誤認した陸軍の砲台から発砲されている)。
8月14日、南太平洋ポナペ島(現・ミクロネシア連邦首都)の南100海里において「伊400」との会合を予定していたが、連絡がうまく行かず失敗。15日、やむを得ず単独でウルシーへ向かっていたところで終戦の通信を受けた。
【戦後処理】 昭和20年8月30日、米軍接収。「伊400」・「伊14」・「伊201」・「伊203」らとハワイへ回航されて技術調査。昭和21年5月31日、オアフ島近海で海没処分。
※2005年3月20日、ハワイ大学の調査チームによって沈んでいた船体が発見された。
就役は昭和20年3月。元は潜水艦隊旗艦として開発された"巡潜甲型"に、伊400型の建造停止を受けて晴嵐の搭載機能を追加した"巡潜甲型改二"の一艦。
トラック泊地への偵察用の彩雲を輸送する作戦「光作戦」を成功させ(同じ作戦を行った姉艦「伊13」は撃沈されている)、その後泊地にて待機中のまま終戦を迎える。
【戦後処理】 昭和20年8月27日、米軍接収。「伊400」・「伊401」・「伊201」・「伊203」らとハワイへ回航されて技術調査。昭和21年5月28日、オアフ島近海で海没処分。
昭和18年8月、ドイツより日本へ到着。Uボート技術を取り入れるべく調査が行なわれたが、最終的に海軍の採るものとはならず、内地に留まり続ける。
昭和19年8月になって特設対潜訓練隊、20年5月に第五十一戦隊が編成されて訓練艦として配属されるが、戦局悪化で訓練期間は限られ、爆雷実習が1回のみという泥縄式の組織であり、ついに日本海軍はこのUボートを有効活用することができなかった。
【戦後処理】 他の日本海軍潜水艦ともども舞鶴へ終結させられ、昭和21年4月30日、若狭湾において海没処分。
昭和15年の竣工後、主に南方海域にて船団護衛を行う。昭和19年11月には米潜水艦より雷撃され中破、日本に帰国後修復されて北方に配備、船団護衛任務を行い、稚内にて終戦を迎える。
【戦後処理】 昭和21年末まで復員船。昭和22年7月5日、戦時賠償艦としてソ連へ引き渡され「第31号護衛艦」(EK-31)と名付けられ、太平洋艦隊に組み込まれた。その後、昭和23年10月には「第25号通報艦」(PS-25)に艦種変更・改名され、さらに昭和32年10月には工作艦に改修され、その名も「第74号工作艦」(PM-74)となった。そして昭和34年5月16日に退役、その後解体された。
昭和15年の竣工後、北方の船団護衛任務を主とし、太平洋戦争中もその任務は変わらなかった。キスカ撤退作戦にも補給艦の護衛として加わっている。終戦時も北海道方面にて活動していた。
【戦後処理】 昭和20年10月に復員船となるが、昭和21年6月4日、復員輸送中に静岡の御前崎にて座礁。同じく復員船となっていた「神風」が支援に来るもこちらも座礁し、共に復旧できず、そのまま放棄・解体処分となる。昭和22年7月までに解体。
昭和18年5月に竣工。以降、南方から北方まで幅広く船団護衛任務を勤め上げ、稚内にて終戦を迎える。
【戦後処理】 昭和21年末まで復員船。昭和22年8月に賠償艦としてアメリカに引き渡されたが、そのまま10月13日までに播磨造船呉船渠(元の呉海軍工廠)にて解体された。
陸軍は400隻以上の建造を目指していたとされるが、結局完成したのは38隻。空襲と事故で5隻を失い、このうちフィリピンのリンガエン湾で事故喪失となった「三号艇」は、米軍がサルベージして鹵獲されている。
終戦時は関東・東海・長崎方面において33隻(米軍鹵獲1隻を除く)が残存。なお10隻程度が建造中・未完成に終わった。
1942年2月11日、戦艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」とともドーバー海峡を白昼強行突破するツェルベルス作戦を敢行。これに成功するも、以後は圧倒的戦力のイギリス海軍に圧迫され、西プロイセンのゴーテンハーフェン(現:ポーランド領グディニア)へ移ってバルト海方面で活動する。
1943年10月以降はバルト海東岸の各地で艦砲射撃や船団護衛に従事。バグラチオン作戦の大攻勢を受けて東部戦線のドイツ軍は崩壊状態にあったが、「オイゲン」ほかドイツ艦艇による砲撃は、バルト海岸や東プロイセンで抵抗を続ける陸軍をよく支援し、同地からの海路での民間人脱出(ハンニバル作戦)を可能ならしめた。
1945年4月20日、「オイゲン」はドイツ占領下デンマークのコペンハーゲンへ移動。5月8日、同地でドイツ降伏を迎えた。
【戦後処理】 イギリス軍に接収された後、アメリカ軍に引き渡し。1946年7月、「長門」「酒匂」とともに敗戦海軍から原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦に供される。沈没は免れたが曳航中に座礁して転覆。船体は現在も風化状態でクェゼリン環礁にあり、スクリューのみがドイツへ帰国。
1943年7月25日、ムッソリーニ失脚によりイタリア(バドリオ政権)は連合国との休戦交渉を開始。7月30日、ムッソリーニ・ファシスト党政権のシンボルに由来する艦名を持つ本艦は「イタリア」と改名される。
9月8日に休戦協定が成立すると海軍の残存艦艇は降伏のため、イタリア半島北西部のラ・スペツィア軍港から地中海のイギリス領・マルタ島へ移動を開始。しかし翌9日、イタリア降伏を阻止しようとするドイツ軍が放った誘導爆弾「フリッツX」、およびドイツ空軍の攻撃を受け、戦艦「ローマ」が轟沈。「イタリア(リットリオ)」も被弾する。
1944年以降、イタリア海軍の一部艦艇はバドリオ政権の艦隊に復帰するが、本艦は姉妹艦「ヴィットリオ・ヴェネト」とともにエジプトへ送られ、スエズ運河内のグレートビター湖で係留。連合国の作戦に参加させる計画も挙がったが、実現しなかった。
1945年5月2日、ムッソリーニの傀儡政権を作って抵抗し続けていた北イタリアのドイツ軍が降伏し、イタリアの第二次世界大戦は終わった。
1945年、沖縄戦での上陸支援、空母部隊の防空任務及び日本各地の軍需工業地への砲撃任務に従事。日本降伏後の8月29日に東京湾に入り、9月2日の降伏調印式に参加。
戦後、第5艦隊旗艦を経て予備役入りし、演習や訓練に従事。1951年の朝鮮戦争勃発時に第7艦隊旗艦として再就役。横須賀港を出港し、艦砲射撃で地上部隊を支援した。朝鮮戦争後は、カリブ海での訓練や第2艦隊の旗艦としてNATOの軍事演習に参加など世界中を渡り歩き、1958年に再び予備役となる。
約26年後の1984年、「600隻艦隊構想」の元再就役。ヨーロッパ水域を展開する。1989年にはプエルトリコで第二砲塔の爆発で47名が死亡する事故に遭うも、欧州海域での任務を全うし、翌90年に予備役となる。
2006年に除籍となり、ロサンゼルス港に回航、博物館として公開されている。
【戦後処理】 予備役と再就役を繰り返し、現在はロサンゼルス港にて博物館として公開中。
「シスター・サラ」の愛称で親しまれたレキシントン級空母2番艦。太平洋戦争の開戦時から参加した空母で終戦まで生き残った3隻のうちの1隻。中破・大破を繰り返しながらも沈まなかったしぶとい存在であり、ミッドウェー海戦には修理中のため不参加だったが、サラトガの航空隊はヨークタウンに乗って攻撃に参加している。また、第二次ソロモン海戦では龍驤を沈めるが、伊26に雷撃されて大破、ドック入りとなった。
日本が追い詰められていく中、新型のエセックス級正規空母が大量建造・配備されたため、一線級からは退き練習空母として使われていたが、硫黄島攻略で少しでも多く航空機が必要となったため、サラトガも実戦に復帰する。が、その矢先、特攻によって大破し、またしてもドックへと戻る羽目になった。修理後は再び練習空母となり、そのまま終戦を迎える。
【戦後処理】 終戦直後は、本国に戻る米兵を乗せる復員船の役を果たし、退役。その戦歴から記念艦として保存するという話もあったが、最終的に断念された。その後、クロスロード計画の標的艦になり、2発目の爆発で沈没した。
「戦いのあるところ必ずウォースパイトあり」と謳われ、「傷だらけの不沈艦」「オールド・レディ」と敬愛されたクイーンエリザベス級2番艦。
日本の金剛型と同世代ながら、第2次大戦においても、地中海、インド洋、大西洋と所狭しと駆け回り、勝利に貢献し続けた。
【戦後処理】 その戦歴から保存活動も行われたものの、最終的に1946年、解体処分が決まった。
ところが、解体処分のために曳航中に嵐に見舞われたりなんだりで、漂流し座礁。最終的に解体が完了したのは、処分が決まってから実に10年後の1956年であった。
第二次世界大戦前、フランス海軍は航空戦力の拡充をしようと考えていたが、ワシントン軍縮条約のため、新規に空母を建造することは出来なかったため、大型の水上機母艦を建造した。開戦後の序盤は輸送艦隊の護衛や、自ら艦載機の輸送を行っていたが、ドイツのヴィシーフランス攻撃に際し、降伏が免れない局面となったフランス海軍は1942年11月27日、トゥーロン港にて自軍の艦艇をすべて自沈させ、コマンダン・テストもその身を海底に横たえた。
が、トゥーロンが枢軸軍に占領された後の1943年5月1日、イタリア軍がコマンダン・テストを引き上げて整備するが、そのイタリアが同年9月に降伏後、コマンダン・テストは今度はドイツ軍の手に渡る。
そして1944年8月18日から19日にかけて行われた連合軍による爆撃で沈没。再びその身を海底に横たえた。
が、1945年2月に、今度は連合軍の手によって浮揚。その状態でドイツの降伏、そして日本の降伏の知らせを聞くことになる。
【戦後処理】 修復して輸送艦か練習空母にする案もあったが、最終的に却下されて1950年に民間業者に売却。1963年までに解体された。
ロシアからソビエトへ国家形態が変革した混乱があって、第二次大戦時のソビエト海軍の艦船整備は遅れ、前時代の弩級戦艦である「ガングート級」も最前線に投入せざるを得ない状況であった。
そんな中、「ガングート」(改名してオクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤ)は、僚艦の「ペトロパブロフスク」(改名してマラート)と共にバルト海艦隊の一員として、ドイツに包囲されたレニングラードを支援すべく艦砲射撃を行い、ドイツ空軍に爆撃されつつも戦い抜いた。
【戦後処理】 戦後もソビエト海軍の近代化が遅れたせいもあり、1954年まで現役を続けた。その後練習艦を経て、1956年に除籍、1958年から59年にかけて解体された。
レイテ沖海戦から日本本土へ帰投中、姉妹艦「金剛」が潜水艦攻撃により戦没。所属の第三戦隊は昭和20年1月1日付けで解隊となり、第一戦隊を経て2月以降は呉鎮守府の警備艦。燃料欠乏のため、身動きは取れなかった。
3月19日の第一次呉軍港空襲で小破。4月20日付けで「長門」ほか全ての戦艦とともに第四予備艦(事実上の廃艦扱い)へ指定され、機銃などを陸揚げされる。
7月、江田島小用沖に移されて浮き砲台となったところで第三次の呉軍港空襲を受け、20発以上の命中弾により大破。浸水して同海岸において着底となる。
【戦後処理】 昭和21年5月2日より浮揚・解体作業。旧・呉海軍工廠において同年7月4日までに完了。
※江田島の海上自衛隊幹部候補生学校内「教育参考館」に艦長室の机が現存。
昭和20年2月、シンガポールより物資を積んで日本本土まで強行突破する「北号作戦」を敢行(参加艦艇:「伊勢」「日向」「大淀」「霞」「初霜」「朝霜」)。奇跡的に損害無しで成功をおさめる。しかし本土には燃料も艦載機も無く、3月1日付けで所属の第四航空戦隊は解隊。4月20日付けで他の戦艦と同様に第四予備艦へ指定される。
7月24日、倉橋島音戸町坪井(音戸の瀬戸西側出口付近)で浮き砲台として係留中、第二次呉軍港空襲で艦橋に直撃弾を受け艦長が戦死。続く28日、第三次空襲で10発以上の命中弾があり大破浸水。同地において着底となる。
総員退艦時、降ろそうとした軍艦旗がマストに引っかかって降ろせなかったと伝わる。
【戦後処理】 昭和21年10月9日より浮揚・解体作業。旧・呉海軍工廠の起重機船を用い、昭和22年7月4日までに完了。
※解体前、ある戦災者の一家が放置されていた本艦に住み着いたという、当時のニュース映像がある。
昭和20年2月、「伊勢」らと共に「北号作戦」に参加(作戦旗艦は「日向」)し、呉へ帰投。しかし本土には戦艦を活用する燃料も艦載機も無く、「伊勢」と同様3月に四航戦の解隊、4月に第四予備艦の指定を受ける。
5月以降は情島(倉橋島の東、音戸の瀬戸東側出口沖合い)において浮き砲台化。7月24日の第二次呉軍港空襲で多数の命中弾・至近弾を受け、艦長戦死。艦も大破浸水となり、同島沖において着底(26日)となる。
ただし28日の第三次空襲においても、海面上に出ていて使用可能な機銃などにより、対空戦闘を行ったという。
【戦後処理】 昭和21年7月2日より浮揚・解体作業。旧・呉海軍工廠において、昭和22年7月4日までに完了。
就役はマリアナ沖海戦後の昭和19年8月。姉妹艦「雲龍」とともに第一航空戦隊を編成するが、マリアナにおいて空母航空戦力は壊滅してしまっており、機動部隊最後の海戦となったレイテ沖海戦にも参加できず、内地で訓練を続ける。
昭和20年2月、戦艦「大和」と生き残り空母の寄せ集めで最後の一航戦が編成されるが、艦載機たる第六〇一航空隊は基地航空隊へ転用されてしまい、空母は防空砲台として呉軍港で係留。4月20日、一航戦は解隊。
3月19日と7月24日の呉軍港空襲で命中弾を被り、7月28日、三度目の空襲でついに致命傷を受け大破。飛行甲板は破壊され、左舷に横転して着底となる。
【戦後処理】 昭和22年7月になって浮揚作業を開始。船体の一部を函館港で臨時に浮き桟橋として使う計画が出て実際に函館まで運ばれたものの、函館港が機能回復したためほとんど使用することなく、昭和24年ごろ解体処分。
レイテ沖海戦とフィリピンの戦いで僚艦(「筑摩」「鈴谷」「熊野」)を全て失い、所属していた第七戦隊は解隊。舞鶴において修理ののち呉へ移動し、海軍兵学校の練習艦となる。
3月19日の第一次呉軍港空襲で小破。7月24日の第二次空襲で直撃4発、28日の第三次空襲で直撃6発・至近弾多数を受け、西能美島海岸(現・江田島市役所の東沖合い)において大破着底となる。
【戦後処理】 昭和21年6月18日より着底現場において、艦橋・砲塔などの撤去作業。船体は旧・呉海軍工廠へ移送され、昭和23年9月30日までに解体完了。
※着底現場付近に慰霊碑・装備品の展示施設あり。
レイテ沖海戦直前の昭和19年10月23日、第十六戦隊で行動中にマニラ沖で米潜水艦の襲撃を受け、大破航行不能。軽巡「鬼怒」の曳航でマニラへ入港する。
応急修理後、5ノットの微速で台湾の高雄・基隆を経て本土へ帰還。呉海軍工廠に入るも損傷が激しく、本格的修理が出来ないまま係留される。昭和20年4月20日付け、第四予備艦に指定。
7月24日の第二次呉軍港空襲で小破。続く28日の第三次空襲で4発の命中弾を受け、艦尾が大破切断し浸水・大傾斜。古鷹山を望む、工廠近くの鍋海岸で着底となる。
【戦後処理】 昭和21年11月29日より海面上の艦橋・砲塔などの撤去作業を開始。昭和22年7月1日までに、旧・呉海軍工廠において解体完了。
囮艦隊に加わって出撃したレイテ沖海戦後、東南アジアへ転戦。昭和19年の末は木村昌福少将指揮下で礼号作戦に参加。翌昭和20年2月、「伊勢」「日向」らとともに北号作戦を敢行、本土へ帰還する。
燃料欠乏により艦隊編成を外れて訓練艦となった直後の3月19日、第一次呉軍港空襲においてボイラーの半分が破壊。応急修理ののち、江田島湾内へ移動して浮き砲台となっていたが、7月24日の第二次空襲で損害増加。続く28日の第三次空襲で11発の命中弾を被り、大破。右舷に大傾斜し、最後は横転となる。
転覆後も更に爆撃を加えられ、命中弾があったという。
【戦後処理】 昭和22年12月13日に至って横転状態から浮揚され、旧・呉海軍工廠へ移動。昭和23年8月1日までに解体完了。
※横転現場付近に慰霊碑あり。
「妙高」のシンガポール撤退を護衛した後、昭和20年2月の本土帰還「北号作戦」に参加し、呉へ帰投。「霞」「朝霜」との第二十一駆逐隊で4月の戦艦「大和」の特攻にも加わり、奇跡的に戦死者を出さず生還する。
特攻後、残存が「初霜」のみとなった二十一駆は解隊され、同じく「雪風」を残すのみとなっていた十七駆へ異動。佐世保→舞鶴→宮津湾へ移る。
7月30日に宮津湾が空襲を受け、それによる直接的な損害は無かったものの、陸岸近くで回避行動中、湾内に投下されていた米軍の機雷に触れて艦尾大破・浸水。船体後部が水没しながらも獅子崎の近くまで這い寄り、浅瀬で擱坐となる。
【戦後処理】 戦後しばらく座礁状態のまま留め置かれる。昭和26年ごろになって舞鶴へ曳航され、同年10月ごろまでに解体完了したと思われる。
※東京都墨田区の「山田記念病院」に錨が所蔵。同病院の設立者が「初霜」で軍医をしていた縁で、解体時に入手したもの。
1936年に起工されたが、独軍の戦略上、空母の建造は後回しにされ、さらに戦況の悪化により1943年になって大型艦の建造は全て中断され、その後再開されることなくドイツは降伏する。
降伏時点で9割まで完成していたと言われているが、ソ連に接収されることを恐れ、1945年4月25日、待避していたバルト海沿岸(現ポーランド)のシュチェチンにて自沈した。
【戦後処理】 ドイツの戦後処理で、他の破壊艦と共にソ連海軍に割り当てられた。ソ連海軍は浮揚させた後に演習の標的として使用。1947年8月17日に駆逐艦及び魚雷艇の攻撃によって轟沈された。
※2006年7月に、ポーランドの石油採掘会社によって、バルト海に沈んでいるところを発見された。
元は客船「ローマ」であったが、紆余曲折の末、空母として改装されることになり、1941年11月から工事が開始された。しかし、多岐に渡る難工事のため進捗は遅れ、1943年9月にイタリアが降伏した時点で完成度は80%だったという。
イタリアの降伏後、ドイツに接収されて工事は続いたが、連合軍の空襲や、さらに1945年4月19日に連合軍に与したイタリア軍による攻撃を受けて大破、そのまま自沈処分となった。
【戦後処理】 1946年に浮揚された後、解体業者に売却された。1951年に解体完了。
空母 | 駆逐艦 (賠償引渡先) | 伊号潜水艦 |
---|---|---|
(Uボート) |
||
巡洋艦 | ||
補助艦 | ||
掲示板
180 ななしのよっしん
2022/04/30(土) 11:39:07 ID: e6i5vTrAsu
>>sm38968767
なんでこんな叩かれてるん?
181 ななしのよっしん
2022/08/26(金) 10:01:51 ID: Yt8PcGaPoT
>>189
徴用船入るんだろうか?
日本郵船がこのゲームに氷川丸の名を使われるのを歓迎するとは思えない
182 ななしのよっしん
2022/10/06(木) 18:20:17 ID: Yt8PcGaPoT
まあ日本郵船所属船が艦これに登場しても、一切無視して関わらない海保と同様の対応とる可能性もあるが。
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最終更新:2023/06/07(水) 11:00
最終更新:2023/06/07(水) 11:00
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