故・伊福部昭(いふくべ あきら)は、日本を代表するクラシック音楽の作曲家である。1914年(大正3年)5月31日、北海道釧路町(現・釧路市)に生まれる。2006年(平成18年)2月8日没。
「日本狂詩曲」「交響譚詩」「シンフォニア・タプカーラ」「リトミカ・オスティナータ」など民族的な力強さが特徴の管弦楽曲を多く作曲し、戦後には映画音楽も数多く手がけた(特に東宝特撮・怪獣映画の劇伴音楽が名高い)。また、音楽教育者としても数多くの作曲家を育てた。
概要
「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」を信条とし、初期の作品は日本らしさ、日本人としての音楽を追究したものが多く、後期の作品はより大陸的・ユーラシア的な響きを持つ作品が多い。幼少時、北海道の開拓民として各地から集まった人々の歌う民謡などの影響を強く受け、アイヌ民族の生活に密着した豊かな音楽に刺激を受けた体験が作風の原点となった。特にアイヌ音楽について「民族が違うとこれほどまでに美観が異なるのか」と強い衝撃を受けたことが、後に前述の信条へと繋がった。
座右の銘は「大楽必易 大礼必簡」(「すぐれた音楽は平易なもので、すぐれた礼節は簡略なものである」という意の司馬遷の言葉)。
経歴
伊福部家は大己貴命(=大国主)を始祖とする因幡の古代豪族・伊福部氏の末裔で、武内宿禰を祭る宇部神社の神官を代々務めてきた。明治維新以降、祖父の代で神官の職を離れ、昭の父・利三は北海道へと移り住んだ。伊福部家は昭の代で67代続く家系である。
9歳から12歳までの多感な時期を父親が官選村長として就任した音更村(現・音更町)で過ごし、開拓民やアイヌ民族の生活から生まれる音楽に多く触れたことが、後の作風に大きく影響することになる。父親がアイヌの人々から慕われており、昭少年もアイヌの子ども達と遊んだり、父親の代理として和人が立ち入ることのなかった儀式などに同席する機会が多かった。
ある時、飼っていた犬を亡くしたアイヌの老人が、悲しい悲しいと嘆きの言葉を発しそれをそのまま即興の歌へと発展させていったという出来事が、伊福部にとって「忘れ難い体験」となった。
この頃からヴァイオリン、ギターなどをほぼ独学で覚え始める。ヴァイオリンにいたっては北海道帝国大学(現・北海道大学)入学後すぐに大学内のオーケストラのコンサートマスターに選ばれるほどの腕前になった。
旧制中学時代に三浦淳史(後の音楽評論家)と知り合い、伊福部曰く、彼に「音楽をやるなら作曲をやらねば意味が無い」と「そそのかされ」、海外から取り寄せたレコード・楽譜などを基に独学で作曲の勉強を始めた。この頃に聴いたイーゴリ・ストラヴィンスキー「春の祭典」のレコードに感銘を受け、「これが音楽というなら自分にも書けるぞ」と奮起し、オーケストラ曲の作曲を志した。
同じ頃、船山馨(後の作家)、一つ上の佐藤忠良(後の彫刻家)と出会い、「めばえ会」という絵画クラブで静物画などを描き、展覧会も行っていた。しかしこちらは自分の思うようにいかなかったとのことで、後年まで続くことはなかった。
※素朴な味わいのイラストなどは数少ないながらも残しており、「日本狂詩曲」出版譜の表紙や戦後のバレエ「ファシャン・ジャルボオ」の舞台装置案と衣装案のイラスト等に見ることができる(公式サイト参照)。
その後北海道帝国大学農学部に進学。大学時代には後の作曲家早坂文雄らと出会い、三浦と共に「新音楽連盟」を結成。「国際現代音楽祭1934」と称して演奏会を開催し、エリック・サティやエルヴィン・シュルホフ等、当時日本でほとんど取り上げられることのなかった作曲家の作品を国内初演した。
作曲活動では「平安朝の秋に寄せる三つの歌」という歌曲(歌手の荻野綾子へ手紙とともに楽譜が贈られたが返事がなかった。後年、荻野の遺品から手稿譜が見つかり、蘇演された)、ギター曲「JIN」「ノクチュルヌ」などを作曲した後、1933年に「ピアノ組曲」を完成させる。
これは当時三浦が文通していたスペイン在住アメリカ人ピアニストのジョージ・コープランドのために書かれた曲である。コープランドの発表したレコード「スペイン音楽集」に感動した三浦と伊福部は、早速コープランド宛にファンレターを書いた。それに対して「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、おそらく作曲もやっているのだろう。曲があったら送ってほしい」という返事があり、これに三浦が伊福部に無断で「良い作曲家がいるので曲を送る」という返信を送り、「これで曲を書かなかったら国際問題になる」と伊福部を半ば脅すように作曲を促したことによる。曲を送ると、コープランドからは「面白い曲だ。怪我で休養しているが復帰したら演奏したい」という旨の返事があったが、スペイン内戦が始まり音信が途絶えてしまったという。
以上のように三浦は伊福部の音楽人生に大きく影響した人物であり、伊福部は彼のことを「私を作曲という地獄界に陥れたメフィストフェレス」と親愛を込めて語り、戦後の代表作「シンフォニア・タプカーラ」を彼に献呈した。
1935年、大学卒業後の21歳の時に、やはり文通をしていたアメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)から「曲があったら演奏したい」との手紙を受け、大学時代より作曲していた独奏ヴァイオリンと打楽器のための作品をリライトし、初の管弦楽曲「日本狂詩曲」を完成させた。全3楽章で、9人の打楽器奏者、ハープ2台、ピアノを含む三管編成のオーケストラという、当時としては大規模な編成を要求した楽曲である。
これを同時期にパリで開催された第2回の「チェレプニン賞」に応募したところ第1位当選となり、楽壇でのデビュー作となった。
チェレプニン賞とは、フランスに亡命したロシア人作曲家アレクサンドル・チェレプニン主催によるコンクールで、中国や日本などアジア諸国を訪問したチェレプニンが、自国の音楽を追求する若い作曲家たちの姿に感銘を受け、これを激励するために設立したものである。第1回は中国人作曲家を対象にピアノ曲を募ったもので、第2回は日本人作曲家による管弦楽作品を対象としていた。結果的には全2回の開催となった。
第2回で審査にあたったのはチェレプニン以下、ジャック・イベールやアルベール・ルーセル、アレクサンデル・タンスマン等フランスで活躍していた気鋭の作曲家たちであった。審査員には当初モーリス・ラヴェルも名を連ねており、伊福部が応募したのもラヴェルに作品を見てもらいたいからであったが、病気のため審査員を辞退した。
※アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライ・チェレプニンはニコライ・リムスキー=コルサコフに教えを受けた作曲家で、セルゲイ・ディアギレフ率いる「バレエ・リュス」の座付き作曲家・指揮者としての活動や、教育者としても名高く、セルゲイ・プロコフィエフの師である。また、ニコライの同門後輩であったストラヴィンスキーもチェレプニン家のサロンの常連であり、アレクサンドルは幼い頃からこれら多くの音楽家達と親交を持つ人物であった。
なお、「日本狂詩曲」はチェレプニン賞応募の際に、賞の演奏時間の規定に合わせて第1楽章がカットされ、以後これが正式な版となった。翌1936年、ボストンにて、約束通りフェビアン・セヴィツキーの指揮によりピープルス交響楽団が初演している。その後も欧米諸国で演奏され、各地で評価を受けた。フィンランド首都ヘルシンキでの小船幸次郎指揮による演奏の際には、シベリウスがラジオ放送でこれを聴き、賞賛したという。近衛秀麿もウィーン交響楽団で演奏した。また、ストコフスキーが演奏したという話も伝わっている。
1936年に再来日したチェレプニンから、横浜で1ヶ月間つきっきりのレッスンを受けた。伊福部はこれを除き、ほぼ独学で作曲を修得した。しかしこの短期間ではあるが、作曲の技法のみならず、音楽に対する姿勢から作曲の手順、道具の使い方にまで及んだレッスンこそが、伊福部の作曲家としての態度に終生大きな影響を与えたものとなった。特に、「音楽は音の運動と継続の芸術である」というチェレプニンの教えは決定的なものとなり、伊福部はこれを最晩年まで忠実に守った。
チェレプニンはレッスンの後にも、日本滞在中に催した演奏会で、伊福部の「ピアノ組曲」の第1曲「盆踊」を繰り返し演奏し、また、札幌の伊福部の実家にまでやってきて、作曲家の道へ進ませるよう伊福部の両親を説得した。直接の付き合いは数ヶ月間ではあったものの、チェレプニンは「チェレプニン・コレクション」として「ピアノ組曲」「日本狂詩曲」の楽譜を5ヶ国の出版社から出版し、伊福部もまた、1937年に作曲した「土俗的三連画」を師に献呈するなど、濃密な師弟関係が続いた。第二次大戦でそれが一旦途切れた後も、伊福部は師へあてた手紙を何度か書いた。三浦淳史も、戦後にチェレプニンのもとを訪ね、戦後に発売された伊福部のレコードを届けた。
※アレクサンドル・チェレプニンは、来日の折に松平頼則や江文也、早坂文雄など他の作曲家も指導しており、彼らの作品を自ら演奏したり、伊福部同様に「チェレプニン・コレクション」として積極的に出版した。チェレプニンの最大の功績は日本の作曲家たちに自信を付けさせたことにあるだろう。その後の伊福部や早坂らの活躍ぶりを見るに、後進の作曲家のみならず一般大衆や戦前〜戦後の日本文化そのものにも絶大な影響を及ぼしたと言える。極端な話になるが、チェレプニンがいなければ「シン・ゴジラ」も存在しなかったと言い切って良いだろう。
伊福部はチェレプニンに作曲家への道を熱心に勧められたが、そこへ踏み切ることができなかった。チェレプニン賞の受賞当時は北海道庁の地方林務官として帝室林野局厚岸森林事務所に勤めており、国有の森林を管理するため厚岸の山の中で多くの時間を過ごしていた。道庁を退職後も、北海道帝国大学演習林事務所、帝室林野局林業試験場などに勤務し、音楽家としてはあくまで「日曜作曲家」であった。
戦時中は「ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲」、蛍光塗料研究による放射線障害で亡くなった兄を追悼した「交響譚詩」を作曲。「交響譚詩」はビクター主催の音楽コンクールに当選、文部大臣賞を受賞し、戦中・戦後を通して演奏機会の多い、代表曲の一つとなる。
日本政府や軍からの要請を受けた作品も幾つかあり、「フィリッピン国民に贈る管絃楽序曲」(後の蘇演の際に「フィリピンに贈る祝典序曲」に改題)、「兵士の序楽」等を作曲した。これらの作品は伊福部の要望により長年封印されてきたが、90年代以降、焼失したとされていた楽譜が偶然に再発見された「協奏風交響曲」と共に、CD録音のために蘇演された。
満州国の国策会社である満州映画協会の委嘱(依頼主は甘粕正彦)を受けて作曲した「管絃楽の爲の音詩『寒帯林』」は、楽譜が戦後中国政府の管理下に置かれ、伊福部の生前に演奏されることはついになかった。死後、遺品の中から発見された楽譜を基に蘇演が行われた。
大戦末期に勤めた帝室林野局林業試験場にて、放射線を当てて木材を強化する実験に携わった影響で自身も兄同様に放射線障害を負い(と伊福部本人は考えていたが、詳細な病状は不明。吐血などの症状はあったようである)、敗戦後は職を追われ、上京して音楽を本業とすることを決意する。
1946年、栃木県日光市久次良に転居。東京音楽学校(現・東京藝術大学)校長・小宮豊隆の誘いで同年9月から東京藝術大学改変後の1953年まで、同校作曲科の管弦楽法の講師を勤め(最後の2年間は休講していた)、芥川也寸志や黛敏郎、小杉太一郎、池野成、矢代秋雄、三木稔といった、後に作曲家として活躍する学生たちを育てた。戦後、物資の乏しい中、スーツに蝶ネクタイという出で立ちで教室に現れ、開口一番「定評のある美しか認めようとしない人を私は軽蔑する」というアンドレ・ジッドの言葉を引用し、当時の音楽学校では触れられることの少なかったストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ドミートリイ・ショスタコーヴィチなどを取り上げるといった授業スタイルは学生たちに鮮烈に映ったようで、弟子たちの証言によれば最初の授業で既に伊福部信者が生まれたという。
また、学外でも私的に弟子を取り、その中にはやはり作曲家として後に活躍する松村禎三、石井眞木、今井重幸などがいた。眞鍋理一郎も、東京音楽学校時代には伊福部との関わりをあまり持たなかったものの、作曲家としてすでに活躍していた1960年代、伊福部に師事した。
しかし戦後の混乱期にあって講師の報酬では到底生活できず(就任当時講師の報酬が月400円、日光の自宅から学校までの交通費が片道100円であった)、1947年に東京都世田谷区へ移る頃から並行して映画音楽に携わることになる。同年、「銀嶺の果て」で銀幕の作曲家としてデビュー。谷口千吉の監督デビュー作であり、三船敏郎のデビュー作でもあった。
この分野でも多大な功績を残し、特に「ゴジラ」シリーズを始めとした東宝特撮映画の音楽はあまりにも有名である。他に「釈迦」、「大魔神」シリーズ、「ビルマの竪琴」、「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」、「座頭市」シリーズ、「原爆の子」、「帝銀事件 死刑囚」、「佐久間ダム 三部作」など、大作から社会派映画、時代劇、記録映画に到るまで300本にも及ぶ映画音楽を手がけた。
音楽以外でも、初期のゴジラの鳴き声は伊福部が提案した「コントラバスの絃を糸巻きから外し松脂をつけた手袋でしごいた音」を元に東宝効果部の技師が加工されたものが採用されたという逸話が残っている(初代ゴジラ独特の足音についても同様に伊福部が考案した)。
担当した唯一のアニメーション映画「わんぱく王子の大蛇退治」では、音楽のみならず楽音を用いた効果音も伊福部が手がけ、さらに天岩戸隠れのシークエンスにおいては、プロデューサー・監督・作画監督らとの綿密なる打合せを経て作曲されたアメノウズメの舞の音楽に合わせダンサーや人形を使った実写フィルムが撮影され、それを基にアニメーションを作画するという、それまでの担当作品に比べ音楽に重きを置いたかなり贅沢な手法を取ったこと等が特に強く印象に残ったようで、後に「思い出深い作品」と語っている。
著書では「音楽入門」「管絃楽法」などを執筆。特に「管絃楽法」は1500ページ(上・下巻合計)にも及ぶ日本語で書かれた唯一のオーケストラ教本で、管弦楽をはじめ様々な楽器(一般的な編入楽器のみならずオーケストラであまり用いられることのない特殊な楽器や人声も含まれる)の発音原理・使用法・使用例を解説し、また本書の大きな特徴として第三編の「管絃楽の共同効果」があげられ、音そのものの物理的特性から始まり、音響スペクトルや数多の実験資料、研究論文の引用など科学的なデータをもとに解説された管弦楽に用いられる各楽器の共同効果や人間の聴覚についての考察等、オーケストレーションの技術が音響物理学・音響心理学等科学的な観点から詳細かつ実践的にまとめられており、まさに日本の作曲家にとってバイブルといえる大著である(英訳本出して海外にも広めようぜ!)。
戦後は、交響曲と銘打った唯一の曲「シンフォニア・タプカーラ」(タプカーラとはアイヌ語で立ち上がって踊るという意味)、目まぐるしく展開する変拍子による激烈なリズム・オスティナートが特徴の「ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ」、シャーマニズムに題材を求めた「オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ」等、大陸的・ユーラシア的な響きをより強くした、時に野蛮とも評される力強い管弦楽曲を作曲した。
他に、「サロメ」「日本の太鼓」「人間釈迦」「プロメテの火」等のバレエ音楽、「サハリン島先住民の三つの揺籃歌」「アイヌの叙事詩による対話体牧歌」等の歌曲、ギター曲、二十絃箏・二十五絃箏のための曲、和楽器合奏のための曲などがある。1983年には、ファンの根強い声に応え、東宝特撮映画のために作曲した楽曲群を演奏会用作品「SF交響ファンタジー」(第1番〜第3番)にまとめた。また、ごく少数ではあるがテレビ放送やラジオ放送のための音楽、校歌等の団体歌もある。
作風としては、民族的色彩の強さや、著書「管絃楽法」にも顕れているような膨大な知識と演奏活動などの経験に基づいた豊かなオーケストレーション技術が特色で、オスティナート(執拗な繰り返し)やリズムを特に重視した。
戦前・戦中は楽曲のその民族性の強さがドイツ・オーストリアを聖典とする国内の楽壇から非難され、戦後台頭した前衛主義の立場からは時代遅れと非難された。しかし作曲家としてデビューしてから最晩年に到るまで、時代の趨勢に関わらず民族の審美に基づいた作品作りを貫いた。
1970年代以降、前衛主義の衰退と共に再評価が進み、作品の演奏機会も増えた。映画音楽から影響を受けた若い世代のファンが多いことも特筆に値する。
1974年から東京音楽大学に教授として、1976年から1987年まで同大学の学長として勤め、和田薫等多くの作曲家を育てた。退任後は同大学の民族音楽研究所所長を勤めた。
2006年2月8日、多臓器不全により目黒区内の病院にて死去。91歳没。
遺作は、映画「お吟さま」(1978)の音楽をチェンバロ向けの編曲作品(2002)とは別にギターのために編曲した「サンタマリア」(2005)と思われる。映画音楽の最後の担当作品は1995年12月公開の「ゴジラvsデストロイア」であった。
死の直前まで構想していた二十五絃箏曲「ラプソディア・シャアンルルー」(遺された譜面では「ファンタジア・シャアンルールー」という表記)はついに未完となった。
シャアンルルーとは、伊福部がかつて少年時代を過ごした十勝平野を指すアイヌ語である。
外部URL
- 伊福部昭 公式ホームページ−暫定版
…プロフィール、各楽曲解説他、門下生のプロフィール、門下生によるエッセイなど。 - 二次文献による伊福部昭wiki
…様々な二次文献を統合した年表、楽曲データベース。
関連動画
リトミカ・オスティナータ |
シンフォニア・タプカーラ |
シンフォニア・タプカーラ(第三楽章のみ) |
香港映画にも楽曲を提供している。 |
記録映画「雪にいどむ」「つばめを動かす人たち」などでもおなじみのメロディが味わえる。 |
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