83年、菊花賞。
その馬は、タブーを犯した。
最後方から、上りで一気に先頭に出る。そうか。
“タブーは人が作るものにすぎない。”その馬の名は、ミスターシービー。
ミスターシービーとは、1980年生まれの日本の競走馬・種牡馬である。黒鹿毛の牡馬。
シンザン以来19年振り三頭目にして、史上初の父内国産馬のクラシック三冠馬。
おそらく、史上最もファンに愛された三冠馬である。
主な勝ち鞍
1983年:牡馬クラシック三冠[皐月賞(八大競走)、東京優駿(八大競走)、菊花賞(八大競走)]、共同通信杯4歳ステークス、弥生賞
1984年:天皇賞(秋)(GI)
1983年優駿賞最優秀4歳牡馬、最優秀父内国産馬、年度代表馬
1984年優駿賞最優秀父内国産馬
この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「ミスターシービー(ウマ娘)」を参照してください。 |
生い立ち
父トウショウボーイ 母シービークイン 母父トピオという血統。父と母は同じレースでデビューしたという奇縁を持っていた(同じレースにはグリーングラスも出ていたのだが)。父トウショウボーイは言うまでも無く競馬史上に誇る「天馬」。母も重賞3勝の活躍馬であった。ミスターシービーはどちらかと言うと母に似ていたという。
実はこの配合は本来実現しない筈であった。トウショウボーイは日高軽種馬農協所有の種牡馬。シービークインは浦河の馬。種付けの権利が無かったのである。しかし、当時種牡馬入りしたばかりだったトウショウボーイは不人気で、良血の牝馬はほとんど集まらない状態だった。そこへやってきた重賞3勝の牝馬。「逃す手は無いだろ」と担当者の独断で種付けしてしまったのである。
もちろんばれて大いに怒られたという。だがミスターシービーが活躍し、トウショウボーイに種付け依頼が殺到するようになると、逆にその判断を称揚されるようになったそうな。
ミスターシービーという名前は「千明(CHIGIRA)牧場(BOKUJYOU)」を代表するという意味が込められている取って置きの名前だった。あれ?でも1934年生まれの馬に同じ名前がいたような…。あれは障害馬だからいいんだよ!
父も母もスピード馬であり、ミスターシービーも丸みのある如何にもスピードのありそうな馬であった。関係者は「これはスピード抜群な、逃げ馬になるのではないか」と期待したのだった。…が、ミスターシービーには一つ問題があったのである。
気性が激しかったのだ。このため、有体に言ってレースが下手だった。
新馬戦こそ先行してあっさり勝つが、二戦目では大きく出遅れ。しかも引っ掛かって前を強引に追いかけて、ようやく首差の辛勝。三戦目には更に大きく出遅れてしまう。
ところが、直線で猛然と追い込んで、ウメノシンオーに頭差届かなかったものの二着に突っ込む。その脚に鞍上の吉永正人騎手は、追い込み馬としての可能性を見出したのである。
三冠への挑戦権獲得
共同通信杯、弥生賞とも前半は死んだ振りして、1000m過ぎから一気に伸びて抜け出すというパターンで重賞を二連勝。皐月賞には一番人気で乗り込んだ。
この時の皐月賞は田んぼみたいな不良馬場だった。ライバルと見做されたのはメジロモンスニー。ちなみにこのレースには他に、カツラギエース、ニホンピロウイナーが出走していたという後から考えると物凄いメンバーが集まっていたのだった。ミスターシービーは序盤で不利を蒙った事もあり後方追走。しかしミスターシービーは向こう正面から徐々に進出。直線入り口でカツラギエースを捕らえると、泥だらけの馬体で猛然と抜け出し、追いすがるメジロモンスニーを半馬身抑え切った。
続くダービー。父トウショウボーイの雪辱が掛ったこのレース、ミスターシービーは1.9倍の超一番人気。しかし何とミスターシービーはいきなり出遅れる。しかし吉永騎手は慌てることなく1コーナーをに21頭中18番目で入って行った。ダービーポジション?なんすかそれ?。当時の常識的にはありえないレース運びに場内は大きくざわめいた。しかし3コーナー過ぎから徐々に上がって行き、4コーナーではキクノフラッシュとブルーダーバンを跳ね飛ばして大外に持ち出す。そして直線では早々に先頭。おいおい、こんな乱暴なレースして大丈夫か?ファンはハラハラしたのだが。いいや、まったく問題ない。メジロモンスニーの追い込みなんて添え物にもならない強さで圧勝した。
春の二冠馬はカツトップエース以来。当然三冠馬の期待が掛かるところだったのだが…。
なにしろ、あのシンザン以来、三冠馬は19年の長きに渡って出ていなかったのである。その間に三冠の壁に跳ね返された春の二冠馬はタニノムーティエ、ヒカルイマイ、カブラヤオー、カツトップエースの4頭にのぼり、いずれも菊花賞を前にトラブルが生じて挑戦すら出来ない有様(タニノムーティエは喉鳴りを押して一応出走はした)。あんまりにも出ないので「三冠馬はもう出ないのではないか?」とまで言われていたのだ。
19年ぶりの三冠馬
果たしてミスターシービーも夏に蹄を傷め、夏風邪を生じて調整が遅れに遅れる。どうにか出走した京都新聞杯では期待を裏切る4着に敗れてしまう。このレースの勝ち馬はあのカツラギエースであり、展開が向かず、調整不足(プラス12kg)だった事を考えれば悲観するほどの内容では無かったのであるが、「ああ、やっぱり三冠馬は無理か」多くのファンはこの時点で偉業達成の目撃を諦め始めていた。
そして菊花賞。前走よりも人気を落としたとはいえ、一番人気のミスターシービー。…だったのだが。
なんと、スタートから抑えて最後尾を追走する形になったのである。なんとも良い度胸だよなぁ吉永騎手。そのままのんびり2コーナーをシンガリで通過。場内は大きくざわめいた。(おいおい、あんなところから届くのか…?)
更にとんでもない事が起こったのは、向こう正面であった。吉永騎手は馬群を追走しながら仕掛けのタイミングを計っていた。その時、斜め前方にアテイスポート鞍上の菅原騎手を認めたのである。菅原騎手はこの前年、ホリスキーで菊花賞を勝っていた。吉永騎手は声を掛けた。
「ヤッさん!ヤッさんが去年行ったのはこの辺だったかな!」すると菅原騎手は後ろを振り返って怒鳴った。
「おう!ぼちぼち行けや!」
それを聞いて、吉永騎手はほんの少し、シービーの手綱を緩めた。
すると、それまで行きたいのに吉永騎手に手綱を絞られていたミスターシービーは「待ってました!」とばかりにスパートを始めてしまったのである。ボチボチどころでは無い。慌てて手綱を絞る吉永騎手だったが、火がついたシービーは止まらない。京都競馬場の3コーナーの坂の上り、シービーは大外を通って一気に先頭に並び掛けてしまう。
「なにやってんだ~!」ありえないレース運びに京都競馬場に悲鳴が満ちる。しかし今回驚いたのはファンだけではない。松山康久調教師も「なんて事をするんだ!」と思わず立ち上がってしまったという。京都の3コーナーからの上り下りは「ゆっくり上り、ゆっくり下る」のが常識。しかしシービーは下りでは早くも先頭。直線で20頭の追い込みを受けて立つ事となった。
いくらなんでも駄目だろう。捕まるに決まってる。馬主は絶望し、ファンは思わず目を閉じた。
しかしシービーの脚は衰えない。それどころか更に脚を伸ばす。「大地が、大地が弾んでミスターシービーだ!」「史上に残る、史上に残るこれが三冠の脚だ!」杉本清アナウンサーは叫び、ファンは奇跡を目撃して歓喜の声を上げた。
3馬身差をつけてミスターシービーが優勝。この瞬間、19年ぶり、史上三頭目の三冠馬が誕生したのであった。この時代、既にほとんどの競馬ファンはシンザンのレースを実際に目にした事が無かった。ミスターシービーはつまり、競馬ファンにとって初めて現実に現れた三冠馬だったのである。場内実況が「この瞬間に立ち会え、お伝えできた事は本当に幸せです」と言ったという。当時の感動がどれほどのものか分かろうというのものである。
セントライトとシンザンはともに輸入種牡馬の仔であったため、シービーは日本競馬史上初となる内国産種牡馬を父に持つ三冠馬となった。当時の競馬界では内国産種牡馬は輸入種牡馬よりレベルが落ちるというのが一般的な評価であり、トウショウボーイの仔が三冠を制したことは驚きをもって迎えられた。その後も内国産種牡馬の冷遇は長く続き、次の内国産種牡馬による三冠制覇は2011年にステイゴールド産駒のオルフェーヴルが達成するまで実に28年の歳月を必要とした。
ターフの偉大なる演出家よ。
第一幕
雨、降りしきる春の中山、皐月賞。
不良馬場をものともせず、おまえは泥を蹴散らし、
馬群を割って先頭におどり出た。
比類なき強さの片鱗。
激しく、壮烈なるプロローグである。第二幕
緑、鮮やかなる初夏の府中、日本ダービー。
気の昂ぶりか、はたまた余裕か、
出遅れたおまえは、終始後方でレースを進める。
だが、4コーナーをまわり、おまえの末脚は爆発する。
直線一気、ターフを切り裂くものすごい追い込み。
並はずれた強さの証明であった。第三幕
やわらかい日射しに映える秋の淀、菊花賞。
夏を越し、おまえの馬体にはさらなる力がみなぎった。
レースが三コーナーにかかったとき、
この劇はクライマックスをむかえる。
おまえは、坂の手前で先頭に立つというタブーを犯してしまったのだ。
あわや、と思った。
しかし、それも杞憂。他を力でねじ伏せてしまった。
まるで、脇役のいない、演出主役の一人舞台。第四幕
競馬史上三頭目の三冠馬、ミスターシービー。
おまえが、ターフにその雄姿を見せるかぎり
この英雄叙事詩は、さらにつづく。
四冠獲得とライバルたちの動き
文句無く競馬界の英雄になったミスターシービー。菊花賞の直後には第3回のジャパンカップが行われる事になっていた。ミスターシービーにも当然、参戦の期待が掛かったのであるが、シービーは回避。外国人記者から「なぜ日本最強馬が参戦しないのか?」と不満の声が上がったという(「うちの日本最強馬が相手してやる!」とキョウエイプロミス陣営が息巻いたが)。シービーは有馬記念も回避。その後どうも蹄の状態が思わしくなくなってしまったらしい。翌年春は全休になってしまうのである。
ミスターシービーが復帰に手間取っている間に、競馬界には大事件が起こっていた。その年の3歳クラシック。そこに前年のシービーを上回る衝撃を持って登場してきたのが、かのシンボリルドルフであった。額に三日月模様を持つこのすらりと美しい馬は、なんと皐月賞、日本ダービーを無敗で制覇。先行してカミソリのような切れ脚で抜け出すというシービーとは打って変わってハラハラ感が無いスタイル。二年連続での名馬の誕生に競馬ファンは沸き返り、早くもこの二頭の対決に胸を膨らませた。
また、宝塚記念ではカツラギエースがシービー不在の中、ホリスキーら古株の馬達を相手に快勝し、打倒シービーへ再度駒を進めてきていた。
しかしシービーの復帰はついに秋までずれ込んだ。毎日王冠。実に11ヶ月ぶりのレースであった。流石のシービーでもそれはどうなの?と思ったファンは一番人気を彼ではなく、大井競馬からやってきたサンオーイに与えてしまう。ところがこのレースが凄かった。最後方から東京競馬場の長い直線を凄まじい脚で駆け上がり、カツラギエースの二着に突っ込んだ。推定33.7秒という3ハロンタイムは当時の馬場を考えれば信じられないものだった。負けこそしたが、三冠馬の健在ぶりは十分に見せ付けたのである。
ついでに言えば、この時にファンはその恐るべき末脚でも交わせなかったカツラギエースの存在を覚えておくべきだったのである。シービー復活に喜び過ぎて誰も気が付かなかったが…。
こうなればもう、天皇賞(秋)はシービー一色。この年から番組体系に大改革が行われ、天皇賞(秋)はこの年から東京芝2000mで行われる事になっていた。3000mの菊花賞に勝っているとはいえ、本質的にはスピード豊かな中距離馬であるシービーにとってこの距離短縮は大歓迎であり当然の一番人気。
レースでは例によってぽつんと最後方追走。おいおい。そして大ケヤキの手前からまくりに掛るが、ペースが遅かったせいか思うように前に行けない。直線を向いてもまだ後方。おおい、大丈夫なのか?しかしシービーは直線の真ん中から猛然と追い込み始める。すると桁違いの脚を繰り出して、粘りこむカツラギエースをねじ伏せ、追い込むテュデナムキングも抑えてゴール。1分59秒3はコースレコード。四冠馬は史上二頭目の大快挙。府中は「ミスターサラブレッド」ミスターシービーの強さに酔いしれた。
後輩三冠馬シンボリルドルフとの戦い
しかし、今思えばこのレースがシービー最後の輝きだったのである。
翌週、シンボリルドルフが無敗で菊花賞を制覇。二年連続の三冠馬誕生。ファンは快挙に熱狂。日本競馬史上未だにただ一度しかない三冠馬対決に心を躍らせた。しかもその対決の舞台は、これまで日本馬が外国馬にフルボッコにされ続けたジャパンカップ。三冠馬のどちらが強いのか。果たして、日本馬初の勝利なるか。誰もがレースを心待ちにし、競馬を知らないファンまでがレースを気にしていた。
一番人気はミスターシービー。ルドルフを上回っていた。3歳と古馬の差もあるが、当時はルドルフの勝ちっぷりは危ういとしてシービーの方が強いという人も多かったのである。まぁ、ルドルフが4番人気だったのは中一週という強行ローテーションと、体調不良(下痢ピーだったそうな)を伝えられたのが影響したのだろう。
ところがこのレース、なんと勝ったのはミスターシービーでも、シンボリルドルフでも、外国馬でもなく、カツラギエースだった。シンボリルドルフは3着。ミスターシービーはなんと10着に敗れ去った。あまりに意外な結果に東京競馬場は静まり返ってしまう。毎日王冠と秋天の激走の反動か、シービーには闘争心が見られなかったらしい。
続く有馬記念。JCの大負けのせいで一番人気はシンボリルドルフの手に渡った。レースも、カツラギエースの逃げを二番手から余裕綽々で捕らえたシンボリルドルフに対し、ミスターシービーは不利があったとはいえ、カツラギエースに触れることも出来ない三着に敗れてしまう。このレースを見れば、もう誰だって二頭の三冠馬のどちらが強いのか分かるでしょ。そうシンボリルドルフが言ったようなレースだった。
翌年、産経大阪杯では得意距離といえる2000mでステートジャガーに届かない。もはや能力落ちは明らかだった。しかしシービーはそれでも天皇賞(春)に出走した。そこには、現役最強どころか史上最強なのでは?という声すら上がり始めていた、シンボリルドルフが待ち構えていた。
レースはもはや語るも無残である。3コーナー手前で菊花賞と同じように上がっていき、場内を大きく沸かせたミスターシービーだったが、直線入り口ではシンボリルドルフに並ぶ間もなく交わされる。「シンザン以来20年ぶりの五冠馬!」とシンボリルドルフが称えられるはるか後ろで、かろうじて掲示板に残るのが精一杯であった。
ミスターシービーはこのレース後に故障を発生、引退した。結局、シンボリルドルフには一度も先着する事が出来なかったのである。
種牡馬として~晩年
社台スタリオンステーションで種牡馬入りしたミスターシービーはトウショウボーイの後継として大きな期待を集めた。
実際、初年度産駒はよく走り、「幻の三冠馬」と評されたヤマニングローバルをはじめ重賞勝ち馬を複数出した。このため、種付け料は当時最高の2000万円を超えたという。
しかし、同時期にリアルシャダイやトニービン、ブライアンズタイム、そして少し後にサンデーサイレンスと強力な輸入種牡馬が入ってくると、産駒成績は先細ってしまう。高騰した種付け料によって「高い割に走らない」というレッテルを貼られてしまったのも痛かった。1994年に社台から放出され(ちなみに、シービーを追い出したかわりに入ってきたのがトウカイテイオーである。息子にまで…)、1999年には種牡馬を引退。GI勝ち馬はついに出ず、トウショウボーイの血を繋ぐ父系を確立する事は出来なかった。母の父としてウイングアローを出しており、この方面で是非名前を残して欲しいものである。
種牡馬引退後は三里塚の千明牧場で功労馬として過ごした。ここには、彼以外の仔を残せなかったシービークインもいて、通常は乳離れ以降は巡り合う事の無い母仔が再会するという珍しい状況になっていた。
2000年12月15日、父と同じ蹄葉炎で死亡。母シービークインに先立つ死であった。彼が晩年を過ごした千明牧場三里塚分場に墓が建てられており、三里塚分場が閉場になって跡形もなくなった今でも母と共に静かに眠っている。
それでもシービーは…
通算15戦8勝。GIレベルのレースは4勝。しかしその中に19年ぶりの三冠が含まれている限り彼の名は永遠に日本競馬史に残る。
ミスターシービーといえば「追い込み」で兎に角有名であるが、実は三冠レースを見る限り、どれも3コーナー手前から馬なりで一気に上がって直線入り口では先頭か先頭付近にいて、直線で抜け出して力で押し切るといういわゆる「まくり」を得意とした馬であるように思われる。気性に不安があるために騎手が抑えるから後方からの競馬になるんであって、3歳当時のミスターシービーは、行かせればぐわ~っと前に行っちゃう馬だったのである。
当然、そんな凄い勝ち方は力がずば抜けていなければ出来るものではない。ところが、4歳秋の毎日王冠や天皇賞は、吉永騎手が押しても「まくって」行けていない。結局は直線で追い込んで勝ち負けに持ち込んだが、これはシービー本来のレースではないのである。
ジャパンカップ、有馬記念、天皇賞(春)でルドルフに完敗しているが、4歳秋の時点で既にシービーの状態は落ちていたと言えるであろう。競馬は着順が全てであり、直接対決で勝った方が文句無く強いので、ルドルフがシービーより強い事は間違いないのだが、それでも最盛期のシービーをルドルフと戦わせればどうだったろうと思ってしまう(それを言ったらルドルフが完成したのは古馬になってからなんだが)。
シービーが戦ってきた1983年クラシック世代には、カツラギエース、ニホンピロウイナー、リードホーユー、スズカコバン、ギャロップダイナなど古馬になって大レースを勝ち取った馬たちが多い。なにしろルドルフが敗北した3度のレースのうち1着を獲った馬は1頭は米馬、あとはシービー世代の日本馬なのである。そんな強豪たちに打ち勝って(しかも圧倒的に打ち破って)獲得した三冠。「最弱の三冠馬」などと笑う人もいるが、そのレースを見ればそんな妄言は吐けない筈である。
もっとも愛された三冠馬
ミスターシービーにはとにかくファンが多かった。当時の競馬ファンにとってミスターシービーは、超オールドファンが懐かしく語るだけだったシンザン以来、19年ぶりの三冠馬であった。つまりようやく登場した「俺たちの三冠馬」であったのだ。
しかも後方から一気にまくってくる迫力あるレース振り。いつ来るのか?大丈夫なのか?と心配させておきながら力強く抜け出してくる脅威の末脚。常識や定石を歯牙にもかけないその無法なレース運びは競馬新時代の到来すら感じさせた。父母が同じレースでデビューした、母がその後仔を生まなくなったなどファンの琴線に触れる物語も多かった。
そして残念な事であるが、次の年に現れたシンボリルドルフに負け続けた事によって、判官びいき的な人気を集めてしまった事も否定出来ない。シンボリルドルフも「俺たちの三冠馬」の筈なのであったが、彼はどうしてもアイドルを打ち破る悪役が似合うのだ。まぁ、それはルドルフが圧倒的に強いからこそなのだが。最後のレースになった天皇賞。シービーがルドルフを交わして先頭に立った時の大歓声は、ルドルフが一着でゴールした時のそれよりも遥かに大きかったという。
薄い皮膚がピカピカ光り、如何にも柔らかそうな丸みのある馬体で弾むように走る姿は実に美しかった。顔つきも凛々しく、トウカイテイオーの前までグッドルッキングホースと言えば彼のことだったのである。こんなところでも…
2018年には「Mr.CB ミスターシービー」というタイトルの漫画が連載開始された。ジャンルとしてはサッカー漫画で、「CB」もサッカーのポジション「センターバック」のことなのだが、原作の綱本将也は競馬漫画「スピーディワンダー」も手がけている競馬ファンであり、やはりタイトルはこの馬にちなむという。そう言われずともメインキャラクターの名前が「千明」に「吉永」に「桂木」とくれば一目瞭然なのだが。
「ルドルフは叙事詩、シービーは叙情詩。」と言われる。今でも、シービーのことを語る時にうっとりと目を細めるオールドファンは数多い。
語りつくせぬほどのドラマに彩られた三冠馬ミスターシービー。彼の生み出した熱狂が下地をつくり、やがてオグリキャップで爆発する競馬ブームが起こるのであった。その意味で彼は、現代競馬の礎になった名馬であると思うのである。
血統表
トウショウボーイ 1973 鹿毛 |
*テスコボーイ 1963 黒鹿毛 |
Princely Gift | Nasrullah |
Blue Gem | |||
Suncourt | Hyperion | ||
Inquisition | |||
*ソシアルバターフライ 1957 鹿毛 |
Your Host | Alibhai | |
Boudoir | |||
Wisteria | Easton | ||
Blue Cyprus | |||
シービークイン 1973 黒鹿毛 FNo.9-h |
*トピオ 1964 黒鹿毛 |
Fine Top | Fine Art |
Toupie | |||
Deliriosa | Delirium | ||
La Fougueuse | |||
メイドウ 1965 鹿毛 |
*アドミラルバード | Nearco | |
Woodlark | |||
メイワ | *ゲイタイム | ||
*チルウインド | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Hyperion 4×5(9.38%)、Nearco 4×5(9.38%)
主な産駒
1987年産
- スイートミトゥーナ (牝 母 アンジュレスイート 母父 カーネルシンボリ)
- メイショウビトリア (騸 母 サクラスイセイ 母父 ダイコーター)
- ヤマニングローバル (牡 母 ヤマニンペニー 母父 Nijinsky II)
1988年産
1990年産
1994年産
1995年産
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
外部リンク
JRA顕彰馬 | |
クモハタ - セントライト - クリフジ - トキツカゼ - トサミドリ - トキノミノル - メイヂヒカリ - ハクチカラ - セイユウ - コダマ - シンザン - スピードシンボリ - タケシバオー - グランドマーチス - ハイセイコー - トウショウボーイ - テンポイント - マルゼンスキー - ミスターシービー - シンボリルドルフ - メジロラモーヌ - オグリキャップ - メジロマックイーン - トウカイテイオー - ナリタブライアン - タイキシャトル - エルコンドルパサー - テイエムオペラオー - キングカメハメハ - ディープインパクト - ウオッカ - オルフェーヴル - ロードカナロア - ジェンティルドンナ - キタサンブラック - アーモンドアイ - コントレイル |
|
競馬テンプレート |
---|
中央競馬の三冠馬 | ||
クラシック三冠 | 牡馬三冠 | セントライト(1941年) | シンザン(1964年) | ミスターシービー(1983年) | シンボリルドルフ(1984年) | ナリタブライアン(1994年) | ディープインパクト(2005年) | オルフェーヴル(2011年) | コントレイル(2020年) |
---|---|---|
牝馬三冠 | 達成馬無し | |
変則三冠 | クリフジ(1943年) | |
中央競馬牝馬三冠 | メジロラモーヌ(1986年) | スティルインラブ(2003年) | アパパネ(2010年) | ジェンティルドンナ(2012年) | アーモンドアイ(2018年) | デアリングタクト(2020年) |
|
古馬三冠 | 春古馬 | 達成馬無し |
秋古馬 | テイエムオペラオー(2000年) | ゼンノロブロイ(2004年) | |
競馬テンプレート |
JRA賞最優秀父内国産馬 | ||
優駿賞時代 | 1982 メジロティターン | 1983 ミスターシービー | 1984 ミスターシービー | 1985 ミホシンザン | 1986 ミホシンザン |
|
JRA賞時代 | 1980年代 | 1987 ミホシンザン | 1988 タマモクロス | 1989 バンブービギン |
---|---|---|
1990年代 | 1990 ヤエノムテキ | 1991 トウカイテイオー | 1992 メジロパーマー | 1993 ヤマニンゼファー |1994 ネーハイシーザー | 1995 フジヤマケンザン | 1996 フラワーパーク | 1997 メジロドーベル |1998 メジロブライト | 1999 エアジハード |
|
2000年代 | 2000 ダイタクヤマト | 2001 該当馬無し※1 | 2002 トウカイポイント | 2003 ヒシミラクル | 2004 デルタブルース | 2005 シーザリオ | 2006 カワカミプリンセス | 2007 ダイワスカーレット |
|
※1.該当馬無しを除く最多得票馬はナリタトップロード。 | ||
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