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corona567ユーザー

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※資料まとめにつかいます→中華歴史(部分)

今のとこ集める予定は、・商・周の三代~統一あたりをターゲットに。

その前の代との代もちょと入るかも

基本的に何を集める?→当時の生活に関することが分かれば

※注意 私見てんこもり・間違ってる部分や日本の歴史の文言を借りて説明してるところもあるよ

項目を分ける

新石器時代から青銅器時代        

各地に点在している血のつながりを軸とした氏族集団が、さらに大きな集団となり都市国家をつくっていく。

でかこまれたその居住区は、商代にはとあらわされる。










新石器時代
年代(BC) 河流域 作・など

長江流域 稲作 BC7000年頃~

※ジャポニカ種もここから

老官台文化

プレ仰韶文化。改葬(二次葬)の風習:改葬とは、一度埋めた身体から肉などが腐り落ち、骨だけになったものを再びとりだし、新たに埋葬しなおす(正式に葬儀を行 う)習慣である。肉や血などは現世のものであるので、それらがなくなって初めて、魂が安らかに旅立てるように埋葬しなおす。仮埋葬→正式な葬儀へと、段階 を経る。改葬された遺体は氏族ごとの墓に合葬された。
5000

B.C.5000~3000仰韶文化

血縁とする系氏族共同体

文土器が発掘されるので、文化とも。

水を入れる器。魚網が描いてある。

彩文土器:赤褐色の地に顔料で人や魚、鳥の姿が彩られている。

文字に似た符・記号も出土。大きく坡類底溝類に分類される。後者が仰韻文化の最盛期。文化に引き継がれる。

半坡遺跡BC4770頃、西安近辺:集落は住居・墓地・窯場と三つの区域に分けられ、環濠に取り囲まれている。
住居:河近くの平易な土地に、200戸ほどの集落を形成。ひとつの家に2~4人で住まい、集落全体では500~600人ほど。共同体の構成員は平等であり、各家の形(半地下竪穴式住居:入り口は全て南向き)は同じ。墓地:埋葬時には足元に少々の生活用品(生前使用していたもの:壷・鉢・瓶)、頭の下に麻布などが敷いてある。所持しているものに貧富の差は見られず、墓は規則正しく並べられ、仰向けに寝て埋葬されている。平均身長170c/m弱、死亡推定年齢は30~40歳と見られる。
居住区の中央に共同体の食物貯蔵庫・大部屋のある家(集会所?)がある。集会所の地下に集落の守りのためだろうか、頭骸骨が埋められている。遺跡の東側に窯場があり、専業化していたと推測される。
農耕・牧畜が主な産業:性別により労働は分業。男性は狩猟、漁労 女性は農業、魚網を編む、布の生産、育児 など
石・骨製の狩猟道具・農耕用具、糸を紡ぐ紡績車、針など出土している
半坡類型・陝西省臨潼県姜寨遺跡BC4675頃 
集落中央の広場を中心として、それを囲むように五つの大きな家屋がある。その五つの家屋の周辺に小さな家が10~20棟囲んでいて、入り口は全て広場を向いている。全戸で100余戸ほど。周囲は環濠で取り囲まれている。
改葬(二次葬)の風習あり。改葬された遺体は一体の場合と、複数体あるもの(共同墓地?)が発掘されている。
楽器が発掘されている。土製の太鼓の胴と見られるもの、7音階だせるオカリナ、土製のガラガラ、鈴など出土。※この鈴は、同じ形のものが、BC2000頃に銅製で作られている。
精緻な副葬品として少女の墓から4連ネックレス(骨製)など。
糸を紡ぎ、布が織られて、骨製の針で縫製していた。
狩猟用の道具として、投石具(石(溝が彫ってある)に縄をひっかけて、ぐるぐるぶん回して投げつける)なども。

当時(他の共同体との衝突だろうか?戦闘の際?)、首を狩る慣わしがあったようで、首のない遺体も発見された。


4300

B.C.4300~2400大汶口文化

B.C.43003500

系氏族共同体

天文の始まり?
↑彩文土器の星の文様から、夜空をみて天候や季節を推測したのではないかとみられている

粟を中心とした農業経済
豚・犬の飼育、牛・羊の保有、狩猟・漁労を行う。
死者に亀の甲でできた飾りを握らせたり、成年者の上顎部門歯を抜歯するなどの風習がある

4000
3900 B.C.3900~3200崧沢文化

プレ良渚文化?
記号が刻印されている陶片など

3800
3700
3600
廟底溝遺址BC3600 
弩の元祖となる仕掛け弓などの部品が発掘
3500

【中】B.C.3500~2800

系氏族から系氏族共同体

中期~晩期にかけて、手工業と農業が分離、専門化

3200

B.C.3200~3000文化

稲作農業・定住化

3100

B.C.3100~2200

文化

「鳥」を冠した符号が多数発見される
獣面(饕餮)文様の刻まれた玉琮なども出土
版築工法の使用:城壁で囲まれている
祭壇を設置。
天円地方をあらわしている。
玉琮や玉壁、玉斧など軟玉製の礼・祭器が多様に出土。※のちに玉壁は黄河上流域である馬家窯文化の後継文化の斉家文化に伝播している(ターコイズを象嵌した璧が発掘されている)。
中国でもっとも早い時期の、医療器具が発見された。
【政治】祭政一致の巫師を頂点とする社会
巫師=支配者で、天と交流する存在
身分の上下-平民と支配者階級とに別れている
【思想】天円地方
【料理】スープなどを食していた形跡あり
3000
2800

【晩期】B.C.2800~2500

系氏族共同体

黄河中流域の仰韶文化圏への進出。

文化へ引き継がれる

2700

B.C.27002200

華南文化

陽城←「夏」、禹の居城とされる…

2500

B.C.2500~2000山東文化

陶の出現

切っ先の鋭利な鏃(やじり)の発見、磨製石器の使用
獣の肩甲骨などで卜占を行う。

良渚文化との交流の形跡



器時代
2000 二里頭文化 崇山近辺にる。
1800 二里文化期商

BC3500頃

 

神話と伝承・伝説の時代

三皇五の時代 

三皇 羲 女媧 神農 炎帝 燧人 祝融 
羲 神農 太 炎帝  少 顓頊  尭  禹 湯

↑手ウィキペディアから拾ってきた。数を合致させることと、重複無視


炎帝→姜姓/許由→

姓?であれば周、娰姓であれば

知りたいこと↓

地方の思想はどこから?→良文化(長江下流域) 

ギョク信仰or尊ぶ習はどの文化から?→良文化から顕著になった様子 

の使い(地を往来する存在)」を尊ぶ文化はどこから?はもとの神

  :鳳凰の鳳」←これ風という字のもとのかたち

また、の名を冠職名にあてた氏族国家があった。

文化同士の衝突・交錯・同化いは支配。 

史実と、神話の狭間にて

仰韶文化圏の神の系譜;鯀・禹→この時代の文化圏を調べる 鯀・禹→帝舜(:)の命に従い、子二代で治事業に当たったということは帝舜文化圏は大汶口文化に相当していたのだろうか?

系の文化

放竄:帝舜は、治失敗した鯀を羽山に閉じ込める。失敗ではなく、文化衝突の際の反乱だと思われる。

属したかを問われる>治に成功しなければならない→治は次代のウへ引き継がれる 

文化圏にて、河上流域から下流域まで一大文化圏となる。伝説との重なりを調べる

memo:許由=族の人、王位を継ぐのを畏れ、を濯ぎ立ち去った この方にはいくつかの異名があるのでそれを調べる

ミャオ族との関わり。その文化中原とも関わりがあるのに、支配されない一族。一部は中原に溶け込んだりもするが、あくまで独自性を保ったままである。ときには敵対し、辺まで追いやられたりもする。

ジョカ系

堆遺跡:三種ある世界樹伝説モチーフにした、人の身長の二倍に近い製の神や、仮面をかぶった人頭、が飛び出た縦人面・人頭面、黄金を使用した爛たる祭器が、発掘されている。な祭器などが略奪されずに集められ、火で焼かれていたようだ。圧倒的な軍事力で制圧(事前に計画、時間をかけずに制圧)され、突然、この文化終焉を迎えたとみていいだろう。この遺跡に関する文化など調べる。

 商代~戦国時代末期まで

各地に点在していた都市国家から領土国家へと変遷りかわる。

商 BC17C~11C

帯び飾りとおもわれる。

「商」という文字は、「辛」という入をいれる取っ手のついた大きな器具を台座にたてかけ、神に祈る祝詞の器である「祝詞を収める器さい」を置いたかたちより、成り立っている。この文字は刑罰権があることを示す。※当時よりかなり訴訟ごとは喧しかったようです…

※入を入れる=神に仕えるしもべとしての印;神に仕えるために化するために文身を加えた

神に商はかる、これが「商」という字のもともとの意味。これをの名とし、自らは「商」あるいは「大商」と称した。都は、「商」という。

もとはの一方伯。

首都:黄河の氾濫により何度も遷都を繰り返した。

饕餮(とうてつ)文

礼・儀式は「夏」より継承。器は青銅製・玉製。祭祀用
獣面(饕餮)文様など刻まれている。

3軍編成。武器は青銅製、戦場では貴族は戦車(馬に引かせた馬車)使用。1軍の構成は100人
婦人が将となり、軍を率いることも(未調査)。

祭政一致の神権政治
気象や天文の変化などは、天を司る帝の意思の表れとされ、それらを神と呼んだ。帝の意思を仲介するものとして王が存在する。神が表れると、占いにて天の意思を伺い、邑人に伝える。

青銅器の種類と用途
盤:中に水を注ぎ、手を清める、
尊(動物を象る):酒を捧げる器
鼎:三本足で上が器になっている。犠牲の牛・羊・豚などの肉を入れてスープなどを煮込む。
三本足の部分が中空なのが鼎、つまっているのが鬲(レキ)

太陽は10あるとされ、それが10日で一回りする(一旬)。それぞれ甲乙丙丁戌己庚辛壬癸とよばれる(日名)。太陽と王が同格とされており、王が生まれた日をもってその名前とした。

商代、帝と神とその代理人の王、邑 の相関関係説明用

暦は十干(天干)と、十二支(地支)と組み合わせて60で一回りとする。月の満ち欠けをひと月とし、閏月があった。10日を一旬とする。
一年は一祀という。←五つのまつりを一旬ずつずらして行う。祭祀が年中行事となっている。

卜辞とは、甲羅や獣骨を焼いて、ひび割れなどから卦を読み取る。ときには甲羅(主に腹甲が使われる)などが焦げてしまうことも←占いできない
卜辞の内容は、官職、軍隊、刑罰、農業、狩猟、牧畜、手工業、科学技術、宗教、祭祀、気象に関するものなど多岐にわたる。全てを卜占にて占っていたといっても過言ではない。
属邦(服属した邦)に、王使を派遣し、祭祀を行った。←客神

動物犠牲による祭祀→人体犠牲に応用・適用もされるようになったのだろう
商代では既に宦官制が確認されている(甲骨文字に宦官の文字あり)。
王が崩御すると殉死者とともに葬られた。墓の入り口に矛を持った兵士と犬を埋伏した遺跡が発見されている。
甲骨文字を使用。甲羅や骨に卜辞(占い)を刻んである。発見された当時、既に文字としては既に成熟段階にあった。5千字ほど見つかっているが、意味が判明し たものはそのうち1200字ほど。※符号、記号などが各地方・各年代の文化から出土しているが、解読不能なため、文字と みなされない

子安貝(宝貝)が貨幣として使用され始める(宝貝の厚みは、丁寧に切り落として使用。青銅で鋳造されたものもあった。石や骨、玉や陶製のものもあるが、墓への副葬品かと思われる。)臣下へ下賜される品物のひとつ。

農具は石で作られた鎌や鍬が発掘されている 
季節ごとに収穫された果物や穀物で、さまざまな種類の酒を作る。


西伯
商に服属 
羌族と社会的交流を持つ。通婚関係にあった。
商の帝乙(29代)時に、商の王女が周に嫁いだとある
西史
もとは洛陽近辺に在、商に服属、西史召と言われる。
※西史:
西方の祭祀官;この地方の祭祀権を商より委託されている
商と同じく神権国家であり、呪能に長けている。
羊頭の神を祀り、羊を飼う遊牧民族。商より強力な弾圧を受ける。周とは通婚があり、社会的な交流を持っていた。
炎帝に属する集団で、黄帝氏族集団とは異族にあたる
苗族と苛烈に戦い、長江流域まで追いやったりも。
専ら商代における祭祀の、人牲とされていた。
髪形は辮髪
チベット族の一派?苗族?(未調査)

商が周(武王率いる)に牧野の戦いで敗北した(伐殷)のはBC1024年、申子の日の午前。紂王が自らを焚き、商が滅亡(殷)。

儀礼、文化は全てにおいて商が駕しており、後をついだ周はそれらを習得し、継承していく。殷というのは商自身が呼んだ名前ではなく、周につけられたもの。

商は遷都を多数行い(河の氾濫な要因)、その最後の都市が殷墟(現:河南省安陽より発掘 )であるので殷のち殷と封じられたとか。王の代にして第19~30代に相当し、現存する最古の都市。最大の器や貨幣として使用されていた、甲文字の刻まれた甲などが出土している。それまでは曲阜(でいうと魯)に都があった。

之大事在」(の大事はにあり

商・周代において、王が祭を執り行うことは重大な事であった。周代に入り、商の祭は周に継承される。周王はり、諸侯は地をることになる。そのために諸侯は各地に封じられた。

り、祖霊を敬うことなどは継承されたが、商代のように犠牲をげる儀式止されている。

三監の乱 : 辛(紂王)の嫡子の武を奉戴し、周旦之(管叔鮮)・(蔡叔度)が反旗を翻す。乱を鎮圧するために費やすこと3年。旧商の勢力を削ぐために、(旧商は)東西に分割され、・衛としてそれぞれ封される。※鄭人ギルドじゃないけど→商との関連stub

西周 BC1000頃~BC771
周代
首都は宗周(鎬京)、副都として成周(洛邑)。
礼器は青銅製
獣面(饕餮)文様が刻まれている(前代を継承)

周王室を守るため、封国を樹立。大小71あった。
爵位とは周代においてその区分は大まかなものであった。 ※周はもと商の西伯である

爵位の 大まかな区分;商代においては侯としか表現されなかったのが、周代に入り王権の揺らぎとともに、各国の関係調整のため、ランク分けされていった。
侯:一般都市国家
公:都市国家のなかでも特別なもの(最高位)
伯・叔:侯爵国の衛星的国家
男・子:上記の都市の構成員
子:中華の外側の蛮異を貶めるために叙した 


商王に代わり、天神を祭る(祭祀は商代から継承されている)。←封禅
祖先を祭り、子孫繁栄を祈るために礼器は使用された。青銅や玉でできた礼器は貴族社会を構成する重要な持ち物だった。その数や種類がいわば貴族のステータス。
井田制を施行:全土を周王の所有と為し、使用権をその民に授けること(譲渡・売買不可であったが後にそれが揺らぐ。)
公事を先に、私事より優先せよ、との観念的な制度とも

豆:方士:周代では王族の子弟教育の官吏、及び土地訴訟に関する裁判官など官吏の官名であったが、後(戦国時代頃)に神仙の教えを学ぶものをそう呼称するようになった。統一秦時、方士徐福が蓬莱へ不死の薬を探しに派遣。
この頃から、瓦を屋根に使用し始める
農具は石・木・骨・貝製。

建築は 土台に二枚の板を立て、その間に黄土をつき固めて頑丈にする(←繰り返して壁を高くする)版築という方法。版築で壁をつくり、建物をたてる。夏・商代も同じ、始皇帝陵も同じ工法で。細かい粒子の黄土に適している。そのかわり、黄土はちょっとでも水分を含んで乾燥すると、塊になりやすいので畑作業が大変。

一般の人々の風習
鶏鳴と共に起床、洗顔や口を漱いでから髪を整えます。※男女とも基本は長髪であり、髪を結う
当時は三日に一度、米のとぎ汁などで洗髪。




侯爵
成王の弟、虞を封じてできた国。
黄土高原(海抜1000~2000m、当時は肥沃な牧草地帯)、黄河上流域(呂梁山脈、太行山脈)付近:馬を産する。
伯爵
召公奭せき(周元勲)が始め魯近辺に封じられたがのちに北上して匽という地に移封。匽→燕
召公奭:成王の補佐であり、周王をのぞいて王朝最高の司祭者となる。
首都:薊・薊京
克殷時、商の西方に存在していたが、三監の乱の際に商の残存勢力を追いつつ、東方へ氏族ごと移動したと推測される。
魚・塩・棗・栗などの産地。
姜斉 侯爵
周の軍帥であった呂望(尚)を斉に封じできた国
首都:臨淄
塩・鉄などを生産
侯爵
周公旦(周元勲)が曲阜に封じられて魯となる(成王の補佐や、政務などをとるため、しばらくは鎬京に在していたので、実際は息の伯禽が、旧商の6氏を率いて魯へ赴いた。
首都:曲阜
周公旦、「周礼しゅらい」・「儀礼ぎらい」を著す

魯の国風:周公の薫陶沁みて、周王朝を尊重・景仰する。後に孔子(儒家)や孟子を輩出する。
※孟子の春秋五覇=批判である。周王に大逆をなす悪として、春秋五覇を挙げる。
伯爵侯爵
商西部。三監の乱のち周公旦の弟、康叔封を封じる。
首都:朝歌
8代頃侯時、爵位が侯爵に昇格(財物を王室に献上)
公爵
商東部。微子啓(紂王の異母兄)を封じてできた国。前王朝の王統を継ぐ←侯爵のなかでも特別とされ公爵を付与された。
侯爵
首都:宛丘
侯爵
周祖武王の弟、淑度(文王第5子)を封じてできた国。乱を起こし流罪となる。→三監の乱
長江流域に発達した別の文化圏。楚と中原が接触したことから、歴史にその存在を表すようになる。
荊(楚) 子爵
後に独自に王を名乗る
首都:郢
蟻鼻銭が流通。周の銅製貝貨の流れを汲む。
周王に仕えていた非子が功ありて姓と領地を賜った。
首都:犬丘
漢中:肥えた千里の沃野、田畑に適する
周 BC770~BC403 

BC770年、周の王、に遷することをもって期の始まりとする。周王が衰微し、各が覇を唱えだす。

本家と曲沃分に二分した際に、本家を後援するが、のちに分を認めたことで、周の権威も落ちることになる(下の催者として力がくなりつつある)。

周王朝、東遷する。

五覇には諸説ありますが、孟子説をとりました。

侯爵

、二分する

翼宗家と曲沃分家の戦い。12代昭侯(本家)~18代武公(分家)が統一するまで。←陘廷の戦いなど
曲沃分家が晋を統一する

名君:24代文公(重耳)
城濮の戰いで楚を破り覇者となる。
名君:30代慎公 晋國最後の名君といわれる(文公の治世を理想とした)
地方
尖首刀(刀貨としては最も早い登場)
侯爵
名君:桓公 覇者となるが…
↑管仲、封禅を諌める
伯爵

中原のほぼ中心

と楚の間で、力を磨り減らしていく。

子産(公孫僑)、法を銘文化する(中国史上初めての成文法)

の始祖、孔子論語を著す

・小作料の徴収開始
・地租の徴収開始
公爵
11代武公時、(周の東遷原因となった)犬戎討伐の功績により、公爵に昇格
公爵
名君:襄公 確かに、戦略次第では勝てる戦い(泓水の戰い)を落としてしまったが、かつて王朝を経営した商の末裔である宋の矜持だと思う(無礼に非礼で返さない!)。。。放浪中の重耳を手厚くもてなしたことで、後に宋が包囲されたときに晋(重耳→文公)が救援。これが城濮の戰いである。

との盟約に固い。

会盟を主催したときに楚に無礼な仕打ちを受けたことにより(各国首脳がきてるのに大臣(子玉)とか派遣した上に宋公を拉致、邑を荒らすなどの暴挙をはたらく)、宋が戦を楚に仕掛ける。→泓水の戰い・宋襄の仁
侯爵
24代湣公時(479BC)、楚の侵攻により滅亡。

長江流域に発達した別の文化圏。金属の透かし工芸など芸術に優れる
荊(楚) 子爵
後に独自に王を名乗る
首都:郢

荘王、の軽重を問う

訳:周王にかわり俺が天下を経営しようか?
蟻鼻銭が流通。周の銅製貝貨の流れを汲む。

楚の南方に存在

当時の武器など鋳造に携わる職人は、すでにクロムメッキ技術を把持。呉越の剣は春秋晩期頃には天下に聞こえるようになっていた。

断髪・入

髪は短く、体に墨を入れる風習

富国強兵のために、諸外国から賢人を招くことで発展。犬戎を攻略(懐柔、または同化)し、四川盆地にあった、蜀・巴を併呑。徐々に力を蓄える。
首都:周遷都の際、犬戎討伐の功あり、鎬京を賜る

独自に天をひそかに祀る。

里奚を招致。

漢中:肥えた千里の沃野、田畑に適する
周 BC403~BC221 戦国

三国)に分かれ、斉が田斉となる。

器が普及し始める。戦国中期より農業工事、手工業に寄与し、経済を発展させる要因に。

戦国時代、この七カ国に勢力は収斂し、戦国の七雄といわれた。
三晋(韓・魏・趙)では首布が主に流通。首布の形とは、農具の鎛(鍬)を表している
首都:安邑(夏王朝の首都)
白銀を金メッキし、玉玦と瑠璃玉で飾られた精緻な帯鉤

魏に流通していた首布 方がまるく、足が四角く(方)、足の間が丸い。

首布が流通

首都:邯鄲
その淵源は趙 、晋の文公の放浪時に随従した陪臣
武霊王、胡服騎射を最初に始める。中山国を滅ぼす。
裏側に「十二朱(銖)」とこの貨幣の重さが記されている。少数。
尖首布が流通。↑の三孔布は戦国晩期に三晋で流通。
中山
白狄が南下して定住し、國をつくる。※もとは太行山脈の西にある賎虞と呼称された國。
黄金を使った独特のエキゾチック&華麗な装飾品、当時作られたお酒が発掘されています。金縷玉衣 なども出土しています。

まず隗より始めよ

昭王、富国強兵のため、人材を求める

楽毅、亜卿となる。

差し渡しの直径36センチ、長さは90.2センチ
刀幣使用。戦国末期に秦の影響をうけた丸い銅貨を使用。
田斉
陳國から亡命した公子完(19代厲公之子)が田斉の淵源となった。
宋を滅ぼす。
王より上位の「」を名乗る

刀の形をした貨幣。

他に燕や中山国では「明」と書かれた「斉明刀」が流通。
B.C.286滅亡
銅製。宝貝でつくられたお金を銅で模してつくったものの仲間。
巴・蜀(四川盆地あたり?)卮(臙脂べに)、はじかみ、丹砂、銅、鉄、竹、木を産出。他 馬、パンダなども

 

統一秦までの道のり

、統一を図る。
 BC221~206

中央集権化、姓の止(各が一元化された)。文字貨幣、度量衡の統一を図る。

史上はじめて 皇帝と名乗る(始皇帝)。新年は八月

軍を発動するための割り符。左右の文面は同じで、右は皇帝が所有する。左は陽陵統兵処秦が統一後、発行した貨幣。半両と陽文で文字がはいっている

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戦争と会盟

当時の戦争は基本その日のうちに終わる(それ以前も

半ば終わり頃の戦争 鄢陵の戦いでは二日に入ろうかという←当時ではしい


姓・氏・名・字と諡号

ざっと説明→姓:太宗、本宗 氏(分かれた氏族) 名(イミナ:家族、仕えている君など特定の人物より呼称) 字(通称・でも呼ぶことのできる名前 名前) 諡(オクリナ:自分じゃない人が付ける名。に王侯貴族に)

姓とは、そのひとの由来を表す。広義にはそのひとの属する血族集団のこと。

上古は、太(始?)祖の出生地出生の(受胎)原因にその由来をとる。

※族外婚の推奨(同族婚の禁止)。

(三皇のうち神農) きょう に住んでいたことにより
(五のうち よう 姚虚に住んでいたことにより
女似 薏苡よくい(=ハトムギ)をんで (女+以)
子(好) (子)を飲んで
巨人足跡を踏んで

※もともとは社会であったが、他の氏族、文化の違う社会集団と接触、衝突する過程において男系社会に変化した。の時代には既に男系社会であったが、それ以降も社会の名残として女偏の付く姓が多く残っている(↓の表参照)。

30万年前 約1万年前 0.5万年前 0.2万年前
旧石器時代中期~晩期 新石器時代 器時代(含、・商・周代)
系氏族 系氏族

※ついでに戦国時代頃が器から器時代への移行期であるといわれ、器時代となるのは代から。

氏とは、同姓のひとがを与えられ移封されたり、役職についたりすると、その地名や役職名から名をとってつけたり。同じ姓から分かれた支流が氏になる。

の孫は孫という氏で呼ばれることが多い。二代は臣下に下る定めなのでそのまま、の孫と素直に。

孫も兄弟がいれば、それぞれ孫、叔孫、孫となったりも。

名とは、自分を表す秘密の隠された名前で、両家族、君など特定の人しか呼ぶことを許されない。特定の人意外が呼ぶと失礼に。

字(あざな)とは、成人のみたいなもの。女子15歳で簪をつけ字をもらい、男子は20歳で冠をつけ字をもらった。名前なので、でも呼べる。

生まれた順によって、順番を表す漢字+名前の一字をとることも。

↓大まかにいうとこのような感じで
長子(一番の子) ・伯 曹操→曹
次子(長子に年が近い) 司馬懿司馬仲達
次子(長子より年が離れる)
末っ子

諡(おくりな)とは、たとえば王が崩御のちに、臣下が付ける名前。贈る名前なので「おくりな」と日の本ではいう。治世の良くなかった王様とかには「霊」とか「」とかつけたりする。いい王様には「文・武・成・宣」など。諡+爵位で諡号となる。

主な世界観、拠り所となる思想

地方の思想

古代は「○:円形」、地は「:方形」をもって現された。

十干じっかん干)十二支(地支)10と12を組み合わせ、60で一回り。代に起を有する。

 商代ではかなり天文学の精度が上がっている(日蝕の予測)。齢ひとまわりでひとつき。

の満ち欠け→が満ちていくときは既生覇、欠けていくときは既死覇

ぎょく:玉とは至高の存在が地上に現れたものとして「玉」信仰といって過言でないほどの扱いをうけていた。死体を腐らせないと信じられていたので副葬品として墓に一緒に埋葬されたものがよく発掘されている。

後に、金縷玉衣として、君などの亡骸の全身を、覆うようになった。


礼玉とは六種の玉器:六瑞とも呼ばれる。

璧: 円盤状をしている。
: 天円地方を示した祭具。
圭: 石などを切り出す工具か何かたぶん鑿(のみ)を模したと見られる玉器。

   中心がとがったものも発見されている。→ 
璋: 刀状の武器を模した玉器
: 扇型をしている。円弧を描く。
琥: (未見)stub

璧と漢服のイメージ

stub 上古よりは命に等しい扱いを受けた。を切るという刑罰があった。

陰陽、五行、風水に関する説明や資料置き場

は気を散じ、は気を集める。悪い気は散らし、良い気を集めること。

陰陽

 太陽   熱 明 上 左 外 動 男  + 体 外向的 利益 味方 奇数 後
地    雨 冷 暗 下 右 内 静 女 母 - 精神 内向的 損失  敵  先天運

五行

五色 (玄)
五方 中央 西
季節 土用
五行
五常
五音
五官
五味 塩辛
五穀
五果
五臓



→五方や五色などと:四神相応 水へと 東:青龍 南:朱雀 西:白虎 北:玄武。

身体や植物に関する五行など:医学・中医学など


十干:甲

きのえ ひのえ つちのえ かのえ みずのえ
きのと ひのと つちのと かのと みずのと

十二支

(はらむ) 意味:子供む事。       
子は一年でいえば12月22日の陰が最大の時で、陰極まって一陽生ずる時。
地中深くにある「種」が芽を出す為の準備が整った状態をいう。
うし 紐(ひも) 根の事。     
陽気が少し増え、地中の種は根と芽を出す。(芽はまだ地上には出ない)
とら 演(えん) 演(のび)る。  
陽がのび始め、地中の種は地上に芽を出し、のび始る。
茆(さかん) 茆に伸びる
陽がさかんに伸び、芽を出した植物はさかんに伸びる
たつ 震(しん) 震(ふる)い立つ。  
陽が震えるように伸びて、植物も震えるように伸びる
記(き) 記は止まり始まる。
記は終始点をあらわし、植物の伸びは止まり、充実期に入る。
人間でいうと、少年少女期が終わり、青年期に入る。
うま (さかん) 盛り
午は一年でいえば6月22日の陽が最大の時で、陽極まって一陰生じる時。
植物は充実て花を咲かせ、最高の時を迎える
ひつじ 昧(くらし)or味(み) 陰が生じる
万物は収斂凝結(陰の作用)して、植物は結実する
さる 伸(しん) 陰気が伸びる。     
植物は結実を増す。
とり 醸(じょう) 醸(かも)す。       
果実は熟成される。
いぬ 滅(めつ) 滅する。
塾した果実は落ち、木々は葉を落し、は枯れて滅する。
核(かく) 核立。      
落ちた果実は、地中で種として核立。

八卦:けんこんしんそんかんごん ※2進数だと考えてみるとわかりやすいです

太極陰陽
両義のうち、陰。 両義のうち、陽。
老陰四象のうち、老陰 少陰四象のうち、少陰 少陽四象のうち、少陽 老陽四象のうち、老陽。
八卦のうち、坤 八卦のうち、艮 坎 八卦のうち、巽 八卦のうち、震 八卦のうち、離 八卦のうち、兌 八卦のうち、乾

8(上卦)×8(下卦)で64卦となる ※戦国末期頃、易として発達します

八卦 五行 方位 自然 意味
八卦のうち、乾 西北いぬい 男性的原理、顕在意識(理性)、円満、健全
八卦のうち、坤 西南ひつじさる 女性、潜在意識、柔軟、卑しいもの
八卦のうち、震 強く奮起するもの、力強い行動力、奮動、周囲をふるわす様子
八卦のうち、巽 東南たつみ 温和、浸透、軽快さ、したたかさ、動揺するもの、従う
坎 底の知れないもの、苦難、危険、陥険、驚くこと
八卦のうち、離 まとわりつくもの、勢いのしいもの、転々とするもの
八卦のうち、艮 北東うしとら 動かずに安定したもの、高いところ、実り、高尚なもの、留まる
八卦のうち、兌 西 喜ばしいもの、悦

方位の五行

南東  南  南西 
東  西 
北東  北  北西 

方位の五行・八卦・四神を組み合わせると

朱雀 火
八卦のうち、巽南東 木 たつみ 八卦のうち、離南  八卦のうち、坤南西 土 ひつじさる
青龍 八卦のうち、震 八卦のうち、兌西 白虎
八卦のうち、艮北東 土 うしとら 坎北  八卦のうち、乾北西 金 いぬい
 玄武

遊星

生気 最大吉
大吉
延年 中吉
小吉
六殺
絶命 最大

おまけ:化殺

八卦のうち、兌の化殺をすると

朱雀 火
南東 南西
六殺
青龍 絶命 西 白虎
延年 生気
北東 北西
 玄武

生気 北西
南西
延年 北東
西
六殺 南東
絶命

項目を分ける

個人的な推論 :さして重要ではないよ。こじつけみたいなもの。机上の空理空論まとめ

 

 400年続いた王 王権は→子相続相続が見られる

 

 

  神権政治・刑罰国家の礼学・儀礼を加えさらに強力な都市国家となる。

  貨幣経車輪の使用

 四地にある、中原を受けつつも独自の文化をもった古代。西王とみなす。の名を冠した女王による統治。良文化の中心を移殖したかのような神権政治を行う。

●私見●

周の前身の邦()と良文化は同盟関係にあり、武を持って(仮)は良を守護し、良は神性でもって戦闘の際、を守護した。その守護は媚をもってなされた。

女王の邦であり、多数の職者が存在し、階級が分かれている。顔などに文身を施しているが、呪によりその文身は場所・模様が変えてある。

商がを圧し制服した際に、呪に携わる職者を丸ごと吸収。商王に仕えるようになる。しかし職に携わり、王を守るためその職務は管理されることになる。身体を移動することは制限され、行動自由い。ここに神の徒隷たる束縛された存在が誕生する。

は新地をめ四地にて居を定める。商代のち周代に入り、かつての交誼をもって使いが往来する。


…と上記の様に思いたかったorzのだが、三堆遺跡と商に交流があったことを知ったので、推論はここに破られた訳でございます。器の文化とか技術とか考えておれば自明の理であったことなのにorz

でも商と良の関連はまだ調べて参ります。文化がほぼ変異せず、むしろ発展していく形で良の神文化が商に流入していることが私にとって非常な関心であり、興味を誘うのです。

テンプレ置き場 つ))跳び箱として 白箱記号などかくときに・白箱MAP戦国用→アタリ 新石器代→王朝以前の文化用

コピペも入ってます。智の拝借先に感謝しております><

るーる:コメント欄に 情報のっけて推敲おわったら記事にまとめてみるかも(限りなく気が向いたら)

この場合、コメント欄はもう雑記として使う。時系列無視。とりま情報が新鮮なうち(頭にあるうち)にのっけてしまいましょう。

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corona567

648 コピペ
2013/09/07(土) 02:40:25 ID: iK567cROOj
良く考えると「O」ハプロタイプ「C」の子孫なのです。日本人のY-DNA遺伝子の40%は「D」ですが、その他60%は全て「C」とその子孫なのです。つまり「C」系の方が頻度が濃いのです。現代人類のY-DNA遺伝子の最初のハプロタイプつまりシーラカンス遺伝子「C」「D」「E」のうち「C」と「D」で日本人は構成されているのです。
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649 コピペの順番
2013/09/07(土) 02:45:29 ID: iK567cROOj
>>647 >>648 >>646の順番

これらの文章を読んでいてアンテナに引っかかってきたのは海岸近辺に在住、黥面など顔面装飾文化を維持してきたこと
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650 コピペの順番
2013/09/07(土) 03:01:12 ID: iK567cROOj
民族の、しばらく維持されたであろうを入れる文化文字(甲文字)の生まれた場所(、潮などの漢字の期限はの近い文化であるから、出自は海岸際であろう(D系統とはからめて考えてはいないよ・ω・)

ソース元 ttp://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-2.htm
詳細な表が圧巻です。
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651 ななしのよっしん
2013/09/07(土) 03:05:00 ID: iK567cROOj
ひとつ推論を立てると、それを補強するように思考が働くんだね

1 2 丁3 4 己5 6 辛7 8 9とすると
丁は確かに三を示す符号だと思う。丁字路三叉路だしね。

当時の宮室は9部屋あって、五行に基づいて部屋が割り振られていた。
それら全体をひとつとみたものが「甲」の概念に含まれるのかもしれない
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652 ななしのよっしん
2013/09/07(土) 03:13:34 ID: iK567cROOj
甲という文字自体は、カミナリ文(ex.ラーメンのどんぶりの模様)であって
神のお告げ(上の啓示)、あるいは神:カミ 也:ナリ である

丁…まで含む概念としての甲を考えるにあたって>>651
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653 ななしのよっしん
2013/09/08(日) 01:34:00 ID: iK567cROOj
日本でも(みづら)が、成人男性髪型から、子供髪型となり文化の初形態は安期あたりまで保存されていた。

もともとあった文化形態(Aとする)が、自らより先進的で体系的に別である文化形態(Bとする)を模倣・吸収しようとするとき、の場ではAであるが、私的な存在・間ではBであると仮定する。
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654 ななしのよっしん
2013/09/08(日) 01:37:06 ID: iK567cROOj
AとBを途中で入れかえたの忘れておくってしまったorz

修正>>653もともとあった文化形態(Aとする)が、自らより先進的で体系的に別である文化形態(Bとする)を模倣・吸収しようとするとき、の場ではBであるが、私的な存在・間ではAの状態を保とうとする。
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655 ななしのよっしん
2013/10/03(木) 00:37:13 ID: iK567cROOj
模倣・吸収、融合の過程を経ていくときに、もともとの文化は縮小・伝説化していく。
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656 ななしのよっしん
2013/12/28(土) 19:40:45 ID: iK567cROOj
その伝説化していう過程において、記述が行われる。

物事が記録化される理由として、忘却・忘失への不安と恐怖を防ぐためでもある。
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657 ななしのよっしん
2015/02/07(土) 01:28:58 ID: iK567cROOj
設定確認しつつ
ペンタブてすと
タイトル:ペンタブてすと
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