- グループC - モータースポーツにおけるマシンカテゴリー名。本記事で解説。
- グループC - 日本国の経済産業省による、「輸出貿易管理令」の輸出国カテゴリー分けの一つ。詳細は「グループA(輸出国カテゴリー)」の記事へ。
グループCとは、モータースポーツ熱狂の時代である。
概要
かつて80年代から90年代前半まで使われたスポーツプロトタイプカーの車両規定である。 Gr.Cとも略される。グループC規定に沿って作られたレーシングカーを「Cカー」と呼ぶことがある。 個性豊かな車の数々から、未だ幅広い層のモータースポーツファンに高い人気を誇る。
歴史
1970年代末、2度のオイルショックのあおりを受けて、モータースポーツ全体が停滞していた。 そこでFISA(国際自動車スポーツ連盟。当時のFIAの下部組織)は積極的なメーカーの参入を目論んで車両規定を全面的に改正し、1982年1月1日から発行した。 その中でグループ5(シルエットフォーミュラ)とグループ6(スポーツプロトタイプカー)に代わる新規定として制定されたのがグループCである。 グループC規定の発効に伴ってWEC(世界耐久選手権。86年からWSPC(世界スポーツプロトタイプカー選手権)と改称)が開催され、グループCカーはこのレースで競い合うことになった。スポーツカーレースの世界選手権が開催されるのは5年ぶりのことである。
グループCには世相を反映したユニークなレギュレーションが設けられていた。 簡単に82年当時の車両規定をまとめると次のようになる。
- (量産メーカー製であれば)エンジン形式制限なし。排気量制限もなし。
- 燃料使用量制限あり。燃料タンクは100Lまで。
- 車体は4.8×2.0×1.1メートル以下。屋根つきのみ。
- コクピットの下には1.0×0.8mの平らな面を用意すること。
- 車両重量は800kg以上。
要するに、「エンジンはどんなものを使ってもOK。車も大枠の形と重量を守ってくれればどんなデザインでもOK。ただし、これだけの燃料で走り切ってください。」 というものであり、非常に自由度の高いレギュレーションであった。 その自由度の高さゆえに、各コンストラクターが思い思いのアプローチで最適解を模索することができた。 その結果、参戦する車両は形からメカニズムから非常にバリエーション豊かで、個性的な車が数多く生み出された。
また、オイルショックの苦い経験やテクノロジーの進歩から、省燃費と速さの両立というチャレンジは大メーカーにとって技術的に意義が大きかった。 ポルシェ・ジャガー・メルセデス・トヨタ・日産・マツダなど、数々のワークスチームが続々参戦し、WECとWSPCは大いに盛り上がった。 車体からエンジンまで自主制作する余力のない弱小のコンストラクターやプライベーターも、 ポルシェが自社のCカーを市販(!)したり、83年から低予算で参戦できるグループCジュニア(のちにC2と改名)が整備されたことで、数多く参加した。
WSPCだけでなく、日本国内でも83年から全日本耐久選手権、のちにJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)としてシリーズ戦が組まれ、日本メーカーが多く参入したこともあり、人気を博した。
燃費規定があるといっても、グループCカーの速さはとてつもないものであった。 ル・マン24時間レースのサルテサーキットにはかつて長さ6kmのストレートがあったが、82年当時ですでに360km/h前後、88年には400km/hを突破するマシンが現れるほどのパワーを誇った。 またボディ形状の制限が緩かったため非常に効率のよい空力を実現でき、前述の最高速を出せるだけの低ドラッグながらダウンフォースは2トンとも3トンとも、果ては4トンともいわれた(この値はF1を軽く凌ぐ)。 それでいてペースカーが入っている間はペースカーとは比べ物にならないほど燃費が良い上に、何時間も全開走行できる耐久性があったというのだから、グループCカーというのは大した化け物である。
流麗で個性あふれるスタイリングのレーシングカーが、それぞれ独特のエンジン音を奏でながら凄まじいスピードでかっ飛んでいく。 グループCレースは素人から玄人まで、見る側にとっても非常に魅力的なものとなった。
レギュレーションの変更と衰退
88-89年にかけて、FISAは記者会見でグループCの車両規定を91年から大きく変更し、WSPCからSWC(スポーツカー世界選手権)と名称を改め、レース内容も大きく変更するという発表をした。 その新レギュレーションをかいつまんで書くと以下のとおり。
実は、当時F1でもターボエンジンが廃止され、NAエンジンに移行していた。 3.5Lという排気量はF1と同じで、グループCとF1をある程度共通化することでグループCに出ているエンジンのコンストラクターがF1にも参戦してくれるように仕向けるためだった。 耐久レースからスプリントレースに移行したのは、耐久レースだとテレビの放送枠に収まらないためであるが、上記の狙いもあっただろう。
つまりこういうことである。 「長すぎると興行に困るからF1風なレギュレーションにしてみました。そうすると燃費競う意味無いので燃料はジャンジャン使ってください。グループCに参戦するエンジンメーカーはF1にどしどし参加してくださいね(特にメルセデス)。」 これまでのグループCは何だったのかと言いたくなるような大がかりな変更だった。
では、このレギュレーション変更が何をもたらしたのか? 91年、SWCの新規定でのエントラントを見ると、ジャガー・プジョー・トヨタ・メルセデス…ほとんどが大メーカーである。 すでにワークス活動を停止していたポルシェと、開発が間に合わなかった日産はエントリーしなかった。 あれだけ数多くいた中小のコンストラクターとプライベーターはどこへ行ったのか?
新規定のグループCカーは前述のとおり変更幅が非常に大きかったので、既存の旧既定グループCカーを改良して使うことができなかった。 シャシーはまだ何とかなるにしても、エンジンは新規に開発するか、どこかから買ってくるしかなかった。 しかし、新規定のエンジンを新しく開発するにはコストが嵩む。エンジンをプライベーターにも購入できるような価格で提供できるようなメーカーもどこにもなかった。 つまり、レースから締め出されてしまった格好だ。
そんなわけで、エントリー台数は90年のWSPCから極端に減ってしまい、しかも大メーカーも新規定マシンの開発が間に合わず、このままではレースが成立しないので、FISAは渋々91年に限って旧既定マシンの出場を認めた。 ただし旧既定マシンが新規定マシンに勝っては困るので150kgもの重量ハンデを背負わされることになる。 さらに、耐久レース用に設計された車ではより身軽なスプリントレース用の新規定マシンに速さで勝てるはずもなかった。 そのためプライベーターも91年はいくつか残ったが、その多くは92年を前にして去って行った。
こんな状態でシリーズが盛り上がるはずもなく、91年限りでメルセデスとジャガーが撤退。92年は実質的に争っているのはトヨタとプジョーだけになった。 結局82年から続いてきた選手権も92年限りで消滅することになった。グループCの終焉である。 しかし、トヨタとプジョーは結構新規定に熱心で、92年のSWCでも激しくやりあったし93年のル・マン24時間でも火花を散らしており、それなりに盛り上がった。
代表的なグループCカー
グループC規定の選手権は10年あまりに渡って開催されたため、紹介しきれないほどの名車・迷車・珍車が存在する。
目次
- 旧規定
- ポルシェ 956 / 962C / 962LM
- ランチア LC2
- ロンドー M382
- ジャガー XJR-6 / XJR-8 / XJR-9 / XJR-11 / XJR-12
- ザウバーメルセデス C9
- メルセデスベンツ C11
- トムス童夢 セリカC
- 日産 スカイラインターボC
- 日産 R90CP / R90CK
- 日産 R91CP / R92CP
- マツダ 717C
- マツダ 787 / 787B
- セカテバ プジョーWM P88
- トヨタ 88C-V/89C-V/90C-V/91C-V/92C-V/93C-V/94C-V
- 新規定
- ジャガー XJR-14
- プジョー 905 / 905Evo.1 / 905Evo.2
- メルセデスベンツ C291
- トヨタ TS010
ポルシェ 956(1982-1986) / 962C(1985-1993) / 962LM(1994)
グループC最初期から中盤まで最強を誇った、耐久王ポルシェが送り出す決戦兵器。
まずグループCを語る上で絶対に外すことができない名車である。ポルシェはグループC規定を徹底的に研究し、いち早く最適解を見つけ出した。956はわずか10カ月ほどで完成されたという。 82年当時のほかのCカーと比べて素人目にも完成度が高く、そのスタイリングは今から30年近くも前の車とは思えない洗練されたものである。 どれほど強かったかというと、82年から87年までのル・マン24時間全勝、WEC/WSPCを82年から86年まで5連覇してしまうほどであった。
しかしこの車のもっとも偉大な点は、完成した翌年の83年から、プライベーターに向けて市販されたことである[1]。どんなプライベーターでも、この車を購入して最新のグループCカー理論に触れることができた[2]。
さえあればトップクラスのワークスと互角の戦いをすることができ、競争が激化した。競争が激化すればほかのメーカーも興味を示す。グループC前半を盛り上げた主役であり、後半を盛り上げる下地を作った立役者といえるだろう。
一部のプライベーターは独自に改造(中にはモノコックまで差し替えるチームも)を施して使っていたあたり、あくまで市販された車らしいところである。日本のプライベーターでもポルシェを購入したチームは多い。
「ドライバーの足がフロント車軸より前にあってはならない」というルールが87年から発行されることが決められ、956は参戦できなくなったので、ホイールベースを120mm延長した962Cに置き換えられた。両車は非常に似ているが、フロントオーバーハングの形状と長さで見分けられる。
956は当初インディカー用に開発されたものの投入されなかったエンジンを改造した2.65L水平対向6気筒ツインターボ(排気量が中途半端なのも当時のインディカーがターボは2.65Lまでと言うレギュレーションだった為)を搭載していたが、のちに排気量が2.8L/3.0L/3.2Lと拡大された。 当初決勝用でブースト圧1.2bar公称620馬力、その後排気量が大きくなるとともに出力は上昇し、最終的には3.2Lに1.7barのブーストをかけて780馬力を絞り出すに至ったという。
レースによってあまり変わり映えしないフロント周りも、実はハイダウンフォース仕様とローダウンフォース仕様でカウルの形が微妙に異なっている。リアカウルはウィングが高いハイダウンフォースのショートテール仕様と、ル・マンのような高速サーキット用のロングテール仕様が用意されていた。
ジャガーやメルセデスといったライバルたちが台頭するにつれて、徐々に主役の座から降りて行った。が、ポルシェはプライベーターの支援を熱心に行っており、どんなレースも常に962Cはエントリーリストに名を連ねた。 最終的に94年のインチキGTカーことダウアー962LMに至るまで12年間も現役でいた驚異のレーシングカーである。更に退役後、962Cの心臓部を後述のジャガーXJR-14の車体に移植された個体が96年、97年のル・マンを連覇する。
なお956にはポルシェワークスドライバーのデレック・ベルによる車載実況動画が存在し、こちらも有名。
ランチア LC2(1983-1991)
グループC初年度の82年、ランチアはレギュレーション上の戦略から、旧Gr.6規定のプロトタイプカーであるLC1を「新開発」してWECに参戦した。本来は移行期間として旧規定のマシンで走るプライベーターを救済するための措置であったが、その裏を突いたわけである。軽量665kg、低ドラッグを活かして一発の速さではポルシェ956と渡りあったが、最終的には1.5倍ほどもエンジンパワーのある相手には敵わなかった(LC1のエンジンは直列四気筒1425ccシングルターボで430-460馬力を発生したという)。それでも、決勝ではハンデとしての燃費制限免除を武器に「耐久」であることを無視するかのような激しい走りを展開。ドライバーのリカルド・パトレーゼやミケーレ・アルボレートといった血気盛んのイタリアンたちの奮闘もあって、大いにその年のWECを盛り上げ、全8戦中3勝という結果を残した。
翌83年からは旧規定の車は走れなくなるため、もはやごまかし紛いの方法は取れない。そこでランチアが登場させたのがLC2である。
前年のLC1の活躍もあって、LC2は956に対抗しうる唯一のCカーと目されていた。しかし、ふたを開けてみればプライベーターにも提供され始めた956の強力な布陣を前に、83年のWECを未勝利で終えることとなる。確かに速さは956に比肩するほどだったが、信頼性が足を引っ張ってしまった。LC1の頃からの弱点をそのまま受け継いでしまったというわけである。その後も予選でポールポジションをとるものの勝利には結び付かないレースを繰り返し、86年WSPC第2戦終了時までで2勝にとどまった。
結局ランチアは86年WSPC第2戦でもってワークス活動を打ち切り、その後現在までロードレースに参戦していない。LC2はプライベーターのムサットに売却され、旧規定車が走れる最後のシーズンである91年SWCまで参戦した。だが、かなりのリタイア率で、ほとんど結果は残せなかった。
LC2の特徴はエグイまでの造形を誇るアンダーボディであった。グラウンドエフェクトを最大限に発生するために設計されていたそれは、どことなく舟を想起させる。フロントノーズは出目金みたいな大型ヘッドライトが付いたタイプと、スラントノーズの2タイプが存在する。
ダラーラ製のアルミモノコックシャシーに、フェラーリ308クアトロバルボーレのV8エンジンを2.6LにサイズダウンしてKKK製のツインターボを装着したものを搭載した。エンジンチューンを担当したのは今は亡きアバルト社。2.6LとKKK製ツインターボという構成はライバルのポルシェ956とほぼ同じで、ランチアがインディも視野に入れていたために必然的にかぶったのである。84年途中から排気量を3.0Lに拡大したエンジンを投入する。エンジンはシャシーに直接剛結されていた。
製造された9つのモノコックのうち#0008と#0009がムサット時代になってから製作されたものである。
ロンドー M382(1982)
グループC初年の最初のウィナーとして名を刻んた、偉大なプライベーターマシン。
フランスはル・マン近郊のシャンパーニュ出身のプライベートレーサーであり、コンストラクターでもあったジャン・ロンドーと言う男がいた。彼は、1975年にマツダサバンナRX-3を駆って参戦。翌年、いよいよ自ら製作したマシンでル・マンのクラス優勝を目指した。グランドツーリングプロトタイプ(GTP)と名付けられた新規定に合致したマシン、「イナルテラ」はこの年のクラス優勝を成し遂げた。翌年もクラス優勝を防衛したが、出資者の方針変更で機材が売りに出され、出直しを強いられたロンドーは、1978年にイナルテラの設計を元にしたM378を製作、翌年は新型のM379で参戦した。そして、1980年のM379Bで自らステアリングを握って見事に総合優勝。ル・マン24時間を自分の名を冠したマシンで優勝するという夢を叶えた。
さて、それらのマシンをグループC規定に合わせて改良したのがM382である。当然、基本構成はイナルテラの時代から変わらず、鋼管スペースフレームにアルミハニカムパネルを貼って補強したシャシーに、コスワースDFVエンジン、ヒューランド製のギヤボックスという典型的な70年代的「キットカー」であった。
その戦闘力はとてもじゃないが上記956のような最新マシンには太刀打ち出来るものではなかったが、手堅い作り故の信頼性だけが武器だった。
1982年の開幕戦、まだ本命のポルシェ956は姿を現さず、予選のポールポジションはランチアLC1が奪う。レースでもランチア勢がかっ飛ばしたが、やがて彼らはトラブルで後退。「うさぎとかめ」の童話のごとく、着実に走りきったロンドーのマシンが、記念すべきグループCレースの最初の勝者となったのである。
もちろん、こんなことは何度も続くわけはない。4戦目からいよいよポルシェ956が登場して、ロンドーのマシンは本来の中団から下を争うポジションに戻った。とは言え、最初の勝利を始めとしてポイントは稼ぎ続け、この年のランキング2位を確保するという大健闘となった。やがてチームは空力を大幅に改良したブランニューのマシン、M482をデビューさせたが、しょせん大メーカーのマシンに叶うわけもなく、ロンドーの名が優勝戦線にあがることは二度となかった。
1985年、ジャン・ロンドーは鉄道での踏切事故によりこの世を去り、彼の夢は終わったのである。
ジャガー XJR-6(1985-1986) / XJR-8(1987) / XJR-9(1988-1989) / XJR-11(1989-1990) / XJR-12(1990-1991)
ジャガーは1982年当初、事実上グループCの姉妹カテゴリーであったアメリカのIMSA-GTPに参戦していた。 WECには1985年の中盤からXJR-6で参戦する。1986年はチャンピオン争いに絡んだ…が、ポルシェにあと一歩で及ばなかった。
そこでジャガーは新型、XJR-8を送り出す。シルクカットのスポンサードを受けた派手な紫色が眩しいXJR-8は87年のWSPCで全10戦中8勝を挙げる快挙を成し遂げ、初めてポルシェを破った車として名高い。
翌年のXJR-9はXJR-8をIMSA-GTPでも使えるように改修したものだが、このXJR-9でもメルセデスとの死闘の末88年WSPCを制覇。 2年連続でドライバー/コンストラクターの両タイトルを奪取し、アフター・ポルシェ時代の最初の主役に躍り出た。 またこの年のル・マン24時間では優勝してポルシェ956/962Cの7連覇を阻止しており、これも快挙である。
89年WSPCは全戦スプリントレースイベント(因みにル・マン24時間は89年、90年と選手権から除外されている)になってしまい耐久レースの為に作られ大排気量ノンターボと重くここ一発のパワーを出せないXJR-9は苦戦、その状況を打開すべくGr.BマシンのMGメトロ6R4に搭載されていた3.0L自然吸気のV6エンジンを突貫で3.5Lターボに仕立てたXJR-11をシーズン途中から投入する。 以後ジャガーはスプリントレース用にXJR-11と後述のXJR-14、耐久レース用にXJR-9発展のXJR-12を使い分けることとなる。
ジャガーのCカーはスプリントレース用のXJR-11やXJR-14を除けばXJR-6から継続して市販車(XJ-S)の自然吸気V12SOHCエンジンをチューンして搭載しており、甲高い音と重厚な音が混ざったステキなエキゾーストノートを奏でる。 XJR-6の頃は6.0Lだったが、XJR-8から7.0Lに拡大し、XJR-12では最終的に7.4Lまで拡大された(IMSA用はレギュレーション上6.0Lのまま)。 XJR-9の時点で公称700馬力であった。
市販車用のV12はレース用エンジンとしては重厚長大に過ぎたので、エンジンが収まるようコクピット背面をへこませた形状のモノコックを製作したという。 ちなみに前作のXJR-6はグループCカーでは初のカーボン製モノコックだった。後継のXJR-8以降ももちろんカーボン製モノコックである。
ザウバーメルセデス C9(1988-1990)
ザウバーメルセデスはジャガーに次いでWSPCに覇を唱えたドイツ…もといスイスの強豪である。 ザウバーはスイスの中堅コンストラクターだったが、85年のザウバーC8にメルセデス製エンジンを搭載したことをきっかけにみるみるうちに進化を遂げ、いつの間にかメルセデスのワークスチームになってしまった。
そうして新生ザウバーメルセデスチームが最初に送り出したCカーがC9である。 それまでのC8やC7の直線が目立つシンプルなデザインから一新、機能的な見た目を獲得した。 C9ははじめから競争力が高く、ジャガーと壮絶なタイトル争いを演じたが、88年は負けてしまう。また、この年のル・マン24時間の予選中原因不明のタイヤバーストに見舞われて決勝を辞退するという悲運に見舞われた。
この車が真価を発揮するのは翌年、89年のことである。 88年の電子チップをイメージした黒基調のカラーリングから一新して、かの有名なシルバーアローこと銀色になったC9。 空力パッケージに大きな変更点は見受けられないが、エンジンは88年のSOHC/2バルブからDOHC/4バルブに変更され、さらなるパワーと燃費を獲得した。この年のWSPCはC9のためにあるといっても過言ではなかった。全8戦のうち7勝を挙げ、ル・マン24時間も1-2フィニッシュで決め、完璧にライバルたちを封じ込めた。
翌90年に後継のC11にバトンタッチするが、WSPC開幕戦では予選でクラッシュしたC11の代わりにC9が出走した。
メルセデスは当時のSクラス用5.0LV8エンジンにKKK製ツインターボを搭載して低いブースト圧をかけて(0.6bar前後)使用しており、ドロドロという低回転V8特有の低音を発しながら走っていた。アメリカンV8っぽい音だとよく言われる。 このエンジンはピークパワーよりもトルクと信頼性を重視した造りになっている。89年で公称700馬力。
近年グランツーリスモ4(GT4)に収録されたことで、若い世代の間で一気に知名度を上げた。
メルセデスベンツ C11(1990-1991)
C9をさらに進化させた、旧既定最強と名高いメルセデスの最終兵器。
前年のWSPCを圧倒的な勝利で終えたザウバーメルセデスは、翌90年に2年ぶりの新型車を導入した。 それがC11である。この年からザウバーの名が取れ、単に「メルセデスベンツ」となってしまった。
スタイリングはC9と比べてさらに低く、キャビンが狭く見える。コックピット前面からどことなくフォーミュラカー風の処理が見られるのが特徴。 また、C9はアルミモノコックであったが、C11ではカーボンモノコックとなっている。 エンジンは基本的に前年から大きな変更はないが、730馬力までパワーを上げたという。
メルセデスチームはこのC11で90年のWSPCを前年と同様8戦中7勝という驚異的な強さで制圧し、WSPCの最後を華々しく飾った。 このときメルセデスチームは、若手育成のために2台体制4人のドライバーのうちの一人を、ジュニアチームのドライバー3人のなかから選んでいた。 そのジュニアチーム3人とは、K.ヴェンドリンガー、H.H.フレンツェン、そしてM.シューマッハーであった。のちに3人ともF1にステップアップした。
翌91年のSWCにもC11は出場していたが、新規定発効によって不利な戦いを強いられ未勝利のまま終わることになった。 この年のル・マン24時間ではマツダ787Bのライバルとして戦ったことがよく知られている。しかし24時間の長丁場では設計にまずい点があったか、3台同じ冷却系のトラブルに見舞われて最高5位で終わる。 このル・マン限りでC11は役目を終えた。
トムス童夢 セリカC(1982)
トムスと童夢は、グループC規定が発行されると、ル・マン24時間への出場を狙っていちはやくCカーを開発することを決めた。 そこでまず82年10月のWECジャパン(富士スピードウェイ)を目指して製作が始めることになった。 トヨタの協力を得て、スポンサーマネーを集めてどうにか日本初のCカーが完成した。それがトムス童夢セリカCである。
トヨタ側の要望で市販車のセリカのイメージを残してほしいと言われ、フロントマスクをそれっぽくし、屋根をセリカから取って上にかぶせた。 エンジンは70年代前半に開発された直列4気筒2Lのトヨタ製2T-GT型ターボで400馬力程度、これをアルミモノコックに搭載した。
セリカCは1982年8月に完成、同月の鈴鹿1000kmでデビュー。しかしこのレースでは1周もしないうちにサスが折れてリタイヤしてしまう。 WECジャパンまで1ヵ月半余りしかなかったが改良を施し、信頼性を身につけて帰ってきた。
いざWECジャパン本番になってみると、ポルシェ956の前ではセリカCはおもちゃでしかなかった。 600馬力以上を絞り出す956とのストレートスピードの差は100km/h近かったという。シャシーの剛性も比べるべくもなく、ダウンフォースも雲泥の差があった。特に車体強度は深刻に不足しており、走るたびに何処かにクラックが入り、何かしらのパーツが壊れた。レーシングスポーツカーのノウハウの格段の違いを見せつけられて、セリカCはあっけなく周回遅れにされるのみであった。また、初期の日産もそうであったが市販車のイメージを残そうとするあたり、Gr.5気分のぬけない国内メーカーとポルシェとの意識の差が顕著だったと言えよう。
結局他車がトラブルに見舞われる中、セリカCは確実な走りでWECジャパン5位完走(とは言っても優勝のポルシェ956からは26周遅れ、2~4位はGr.5/75のランチア、Gr.6のマーチ、Gr.5のBMWと旧規定マシンが続くなど正に惨敗)を果たす。 これに気を良くした(むしろ尻に火がついた)トヨタはトムスに本格的な支援を始め、のちにトヨタワークスチームとしての参戦につながっていくことになる。
日産 スカイラインターボC(1982-1983)
日本でGr.Cの選手権が始まるより前、Gr.5(シルエットフォーミュラ)という市販車の魔改造マシンでレースをするカテゴリがあった。日産はそこに79年からバイオレットで参戦し、82年にはコカコーラブルーバード・ニチラシルビア・トミカスカイラインという、いわゆる「火を噴く日産トリオ」「日産ターボ軍団」を擁し、大人気を博した(余談だが出っ歯・タケヤリのようなチバラギ流の族車が流行ったのはだいたいこいつらのせいである)。
日産はGr.C活動は、このうちの1台であるスカイラインを改造する形で始まった。最初は追浜ワークス、ルマン商会、東京R&Dの共同プロジェクトという「半分ワークス」みたいな形式である。
トムスと同じく、82年のWECジャパンを目指して開発されていたものの間に合わず、代わりに翌11月のキャラミ9時間レースがデビュー戦となった。
出来上がった車両はというと、スカイラインの面影を感じない低いノーズ、無理やり感漂う低い車高、カクカクのボディライン…「Gr.Cというカテゴリーを正しくGr.5の後継として解釈したらこうなる」といったところだろうか。ちなみにこのときは車名こそ「スカイラインターボC」ではあるが、全高の関係でGr.C規定には収まっておらず、正式なGr.Cカーとしての参戦ではなかった。結局このレースはリタイアして終わった。
明けて83年。選手権も移行期間が終わり、Gr.C規定に則っていなければ参戦できないようになった。さて、スカイラインターボCは全高がオーバーしている。そこで、ルーフを上から65mmぶった切り、フロントウィンドウを大幅に後退させるという荒技を使って強引にGr.C規定に適合させることに成功した。その結果、違和感バリバリだった見た目は更に酷いことになってしまった。低いのに広くて平らなルーフ、無駄に長く見えるドアウィンドウ、さらに節操無く増えたフロントの排熱用ルーバー…同時期に同じレギュレーションであのポルシェ956が走っていたのがとても信じられない。
トムスが82年WECジャパンでそうだったように、ポルシェをはじめとする世界の強豪の前ではスカイラインターボCもただのおもちゃでしかなかった。というか、一度も完走すらできなかった。活躍といえば、富士1000kmで一時的にラップリーダーになった程度のもの。エンジンにはシルエットと同じLZ20Bを搭載するが、低くしたフロントでは十分な空気を導入できず、ひどい熱害に悩まされたようだ。
84年からはスカイラインCという名前だけ受け継いで、市販車とはまるで縁もゆかりもないミッドシップのプロトタイプカーにバトンタッチした。
ちなみに、成績こそ散々だったがシルエットフォーミュラが熱狂的な人気を博した時代だけあって、スカイラインターボCの人気は凄まじいものがあったらしい。今でもモデルカーが発売されているし、当時のスカイラインについて熱っぽく語るオッサンは未だに多いような気がする。
日産 R90CP(1990) / R90CK(1990)
鋼の心臓。
R90CPはローラと日産の共同開発したシャシーに日産設計の空力パッケージを乗せた車である。ローラオリジナルの空力のバージョンはR90CKという。
R90CP/CKを語る時に外せないのはエンジンである。 日産は1982年からグループC活動をはじめ、数年の戦いの末、結局自社製でいいものを作るしかないという結論に達する。 85年にVG30、87年にVEJ30、88年にVRH30/VRH34、89年にVRH35と次々開発し、90年ついに究極ともいえるエンジンを開発した。それがVRH35Z、3.5LのV8高過給ツインターボである。このエンジンは驚くべきパワーと耐久性を備え、決勝用で900馬力、予選では1100馬力に到達していながら、オーバーホールせず数レース戦うことができた。 このエンジンは90年のWSPCを戦うR90CK、JSPCを戦うR90CPに搭載された。
ル・マン24時間ではR90CKが予選ポールポジションと決勝のファステストラップ、R90CPが決勝の最高速(366km/h。現在も破られていない。)を記録し、速さを証明した。 しかしながら結局ル・マン24時間では勝利を逃す。また、JSPCではチャンピオンになれたが、WSPCではメルセデスに惨敗してしまった。
パワーは良かったが、前年から導入したローラと共同開発のシャシーの品質が追いついてこなかったらしい。もはや開発を他社任せにしていては勝てないと悟ると、翌年日産はシャシーも自社で完全内製することになる。
日産 R91CP(1991-1992) / R92CP(1992)
R90CKがWSPCのタイトルを逃した翌年、ついに日産はシャシーも含めてすべて自社開発する方針をとった。そうして生まれたのがR91CPである。シャシーの性能は格段に向上し、ドライバビリティを考慮してエンジンの出力をあえて600馬力近くまで落としたものの、富士スピードウェイでのストレートスピードとラップタイムは向上したという。それほどまでに「踏める」車に仕上がった。
本命はル・マン制覇である。しかしWSPCがSWCへ移行し、旧既定車の重い重量ハンデを不満に思った日産は欠場を選択。 前年から重量ハンデについてFISAに対し不平を述べていた日産チームは、この年自ら世界の舞台で戦うチャンスを閉ざしてしまった恰好になった。
その憂さを晴らすかのように91年のJSPCをトヨタと競いながら勝利、92年初めのデイトナ24時間では周回数記録を更新する快挙を成し遂げ圧勝した。そういった活躍を見て、「ル・マンに出てさえいれば…」と思った日産ファンは多いだろう。
92年の春が来ると、旧既定Cカーの活躍の場はもはやJSPCくらいしかなかったが、日産は手を抜かずR91CPを更に進化させたR92CPを開発する。シャシー/エンジンはR91CP同様に完全内製、R91CPであえて600馬力ほどまで落としていた出力を、720馬力まで引きあげた(公式発表では最後まで900馬力で通していたらしい)。
このR92CPは旧既定Cカーの中でも実はメルセデスC11を上回って最強最速ではないかと噂され(世界的にはSWCに移行した関係で、旧規格Cカーを真面目に開発しなかったというのも理由には上がるのだが)、最後のJSPCとなった92年シーズンを全勝で飾っている(ただし最後の2戦は「C2クラス優勝」。というのもSWCが崩壊したため、行き場所を失ったTS010がC1クラスとしてJSPCに出場して総合優勝しているのだ。)。
R92CPで何といっても有名なのは「富士スピードウェイ400km/h伝説」であろう。グループCのレースでは、決勝こそ馬力を落としていたものの、予選は1000馬力クラスの出力で競われていた。 そこで日産は最後だしせっかくだからどこまでいけるかやってみようと考え、1200馬力以上(当時の測定装置では実測出来なかったので、燃料消費率から推定という形になっている。)という超絶パワーを与えた。そしてついに富士スピードウェイのホームストレートで400km/hを突破した。 これは、かつてセカテバ・プジョーWM P88が達成したル・マンでの400km/h越えとは少々意味合いが異なる。 ル・マンには6kmのストレートがあったが、富士にはせいぜい1.5km程度しかストレートがないのである。
当時のドライバーであった星野一義と長谷見昌弘が語ったところによると、レース後は毎回震えが止まらずに、常時死を覚悟しながら運転をしていたという。後年、デチューンされた600馬力仕様のマシンを土屋圭一がインプレッションをした際には「怖くて全力で攻めることが出来なかった」との事。本当にとてつもないレーシングカーであった。
マツダ 717C(1983)
走る「そらまめ」。
マツダのグループCカーというと767だとか787Bを思い浮かべる人が多いだろうが、それもこの車の功績があってこそのものである。
70年にロータリーエンジンをシェブロンに供給してからマツダのル・マン挑戦は始まり、79年からは自社の車(RX-7)で出場。マツダの活動はここから年々本格的になっていく。 82年グループC規定が発行したが、この年までマツダはRX-7を使い続けた。というのもマツダはグループCにふさわしい大きさのエンジンを持っていなかったのである。そこでマツダは翌83年小さなエンジンで済むグループCジュニアクラスでル・マンに出ることにした。 そうして作られたのが717Cである。
シャシーのデザインはRX-7のころから担当しているムーンクラフトの由良拓也氏。 全体的に丸みを帯びたコンパクトなスタイリングと、愛くるしい表情から「そらまめ号」と愛称がつけられた。エンジンは2ローターの13Bで、300馬力を発生した。
実際性能はどうだったのかというと、残念なことにそんなに速くなかったらしい。 空気抵抗自体は少なかったがグラウンドエフェクトを生かしきる設計ができていなかったほか、重量がCジュニアの最低重量(700kg)から60kgも重たかったという。
しかし侮るなかれ、このマシンは83年ル・マン24時間のGr.Cジュニアクラスで優勝したのである。(総合でも12位に入る健闘) さらにこの車は全出走車の中で燃費第1位(およそ3.15km/l)を獲得した。速さで勝てない分、信頼性と燃費でもぎ取った勝利だった。 ちなみに総合12位に入った60号車をドライブしていたのは片山義美/従野孝司/寺田陽次郎の日本人トリオである。 もう1台の61号車も総合18位完走を果たしており、Cジュニアの参加台数が少ないとはいえ快挙であった。 これまでのル・マン活動成果の結晶であるとともに、のちの787Bの総合優勝へとつながる大きな一歩であった。
このル・マンののち、活動団体がマツダオート東京からマツダスピードへ法人化して、マツダはワークス体制でグループCに臨むこととなる。
マツダ 787(1990-1991) / 787B(1991)
日本車として、そしてロータリーエンジン車として初めてル・マン24時間レース総合優勝を成し遂げた偉大な車。
マツダは83年にワークス活動を開始してからしばらくは、C1で戦えるような大きなロータリーエンジンがなかったためGr.Cジュニア(C2)クラスで参戦していたが、ついにマツダは3ローターエンジンの757を開発して86年からJSPCに参戦を開始した。
しかし当初はパワーが450馬力程度しか出ていないこともあり、速さが足りず勝利から遠い位置に甘んじた。 その後エンジンは4ローターまで増え、シャシーも改良を重ね、88年には767に進化、90年には787を送り出す。(777が飛んだのは「言いにくい」からだとか)
91年からの新規定の発行でロータリーエンジンは参加できなくなるため、90年のル・マン24時間はマツダにとっては最後のチャレンジのつもりでいた。
新開発の4ローターエンジン、R26Bは前年の13J改に比べて同排気量ながら100馬力程度も向上し、これでもターボ勢のライバルから後れを取っていたが、十分優勝を狙える速さを身に付けた。 トランスミッションはこれまでに引き続きポルシェ962Cのものを流用。シャシーは767ではアルミモノコックだったが787ではカーボンモノコックを採用し、準備は万端。
だが、ふたを開けてみれば送り込んだ2台は急なコースレイアウト変更もあって思うような走りができず、共にリタイヤ。 これでマツダの挑戦は終わった…かに見えたが、前述のgdgdにより91年も出場できることが決まった。
マツダは正真正銘最後のチャンスにかけて787を大幅に改良し、787Bとして送り出した。90年からストレートにシケインが設けられたことでストレートスピードよりもコーナリングスピードの比重が増したことを加味し、トレッド幅を大きく拡大。 エンジンの味付けもピークパワーよりもレスポンスを重視したセッティングになった。さらにカーボンブレーキを採用するなど数多くの変更点が加えられたことで、大きく戦闘力アップ。加えて、マツダは政治面も怠らなかった。主催を説得してロータリーエンジン搭載車の最低重量を880kgから830kgに引き下げさせたのである(レシプロエンジン車は1000kg)。ドライバー勢は、ロータリーレーシングカーの経験豊富な寺田陽次郎から「ロータリーでのル・マンの走り方」を徹底的に叩き込まれた(例:燃費を稼ぐためのコーナー手前250mからのアクセル全閉。レシプロエンジンでそんなことをしたらエンジンブローの可能性が高いのだが、内部に動弁系を持たないロータリーなら何の問題も生じない)。
そうして臨んだ91年のル・マン24時間レースを787Bはトラブルフリーで走り切り、メルセデスの脱落もあって、ついに念願の優勝を成し遂げた。 ロータリーエンジンでル・マン24時間を制したのはこの787Bが最初(というか唯一)だが、カーボンブレーキ搭載車の初優勝でもあった。
レース後のシャシーはよく見ると補強のボルトが一部浮き上がってきていたと言われ、車体強度はギリギリだったようだ。
余談だが、ル・マンに勝利した55号車のレナウンチャージカラーは、スポンサーのレナウンの偉い人が80年代後半にマツダの戦いぶりを見て「ああ、こりゃ優勝は無理だ。だったらせめて目立とう。」ということでやたら派手な色遣いにさせたんだとか。
セカテバ プジョーWM P88(1988)
「WM」とはプジョーのエンジニアであるG.ウェルテルとM.ムニエの頭文字である。この二人は1977年からル・マン参戦を始めた。1983年からチームオーナーが代わりセカテバと名前を付けたチームで出場している。プジョーの社員とはいっても、WMとついていることからわかるとおり、プジョーが会社としてワークスチームを出しているわけではない。 あくまでも主体はWMの二人であって、プジョーは支援をしているだけである。
さて、このチームの送り出すマシンは実に特徴的であるが、とあるわかりやすい思想のもとに作られていた。 それは、「直線だけ最速」である。
曲がろうという意志すら感じられないエアロ(フロントタイヤにすらスパッツ風の処理がなされている)に、ハイパワーのプジョーV6。 毎年予選で最高速チャレンジをして、決勝は適当なところでリタイヤするという、「お前らはレースに出ているのか、それとも直線だけを走りに来ているのか」と言いたくなるようなチームであった。
88年のP88はその中でも傑作であり、ついにエンジンの出力は950馬力に達した。そしてこの年公式記録405km/hを達成し、ついに400km/hの壁を破った。 しかもこの405km/hという記録は当時のプジョーの新車405とイメージを結び付けるためそういう記録として発表されたらしく、実際は410km/hを上回ったとの説もある。
ちなみに、88年の決勝はわずか22周でリタイヤした。これがこのチームの様式美である。
90年にWMは参戦をやめてしまった。この年ユノディエールにシケインが設けられたからなんじゃないかとか噂された。 が、真相はもちろん別に存在し、実際のところはプジョーが新規定グループCに注力するためである。
トヨタ 88C-V/89C-V/90C-V/91C-V/92C-V/93C-V/94C-V
トムスと童夢が開発していたCシリーズの後継車。TRDが主導で製作し、トヨタの純製であるV8ツインターボを搭載する。モノコックはそれまでのアルミ製からカーボン製に変わった。数字は年を表している。
88C-VはJSPC専用マシンとしての開発だったが、車両として未熟で重量も重かったため、トラブルが続出していた。JSPCの1戦として開催されたWSPCの日本ラウンドにもスポット参戦したが惨敗した。
89C-VはトヨタのWSPCのフル参戦デビューマシン。トムスとサードがオペレーション。高い戦闘力を発揮し、JSPCでは初の国産グループCカー王者まで後一歩まで迫った。WSPCでもザウバー・メルセデスを押さえフロントローを独占する活躍を見せた。ただしル・マンではスタート4時間で全滅した。Cカーとしての燃費は余り良くなく、勝った時は雨天で燃費的に楽なレースだけだったという。
90C-Vはル・マンでは社長じきじきの叱責から完走を狙う走り方に切り替えた結果、トヨタ史上初めてル・マン入賞(6位)を果たした。しかし操縦性の悪さからJSPCやWSPCでの評判は余り良くなく、JSPCでは初めて晴天時に優勝こそしたものの、シーズン途中でサードは89C-Vに戻してこちらで優勝を挙げている。
91C-VはJSPCに特化したマシンで、ル・マンには参戦しなかった。性能は優秀で明らかに日産R91CPを上回っていたが、ドライバーズタイトルもコンストラクターズタイトルも逃す憂き目に遭った。なお92C-V、93C-V、94C-Vはいずれも91C-Vを仕様変更した程度のマシンで、新車と呼べるほどの変更はされていない。
93C-Vは台数こそ少なかったがル・マンのカテゴリ2(旧グループC)クラスで優勝をしている。
94C-Vもル・マンに旧グループCとして参戦したが、この年は新グループC勢が撤退しており、旧Cカーのプライベーターが総合優勝するチャンスがあった。そしてダウアー962LMポルシェと激しいトップ争いを繰り広げ、見事サードのマシンがトップに立った。しかし残り1時間15分でミッショントラブルが発生。ジェフ・クロスノフの懸命の処置によってピットに帰ってきたが、その間2台のダウアーに逆転を許してしまう。その後エディ・アーアインが猛追を見せ、ダウアーの1台を食って2位を奪還するも、優勝はならなかった。
しかし歴史に残る最終盤の追い上げと、プライベーターであるサードの挑戦の歴史を讃えられ、94C-Vはサルト・サーキットの博物館に展示されている。
ジャガー XJR-14(1991)
91年から始まる新規定に向けたジャガーの先進的なCカー。
コンパクトなボディに極端に幅が狭いコクピットとモノコック、カーボンディスクブレーキ、複葉リアウィング、おまけにF1用をチューンしたフォードコスワースHBエンジン…。 まさに「フルカバードボディのF1」であった。設計者のロス・ブラウンは過去アロウズでF1マシンを設計してきた実績があり、そのノウハウが生かされた。
見た目にも(カラーリングも含め)これまでのCカーと比べると過激なスタイリングで、いろいろと攻めた設計をしていた。 たとえばXJR-14にはドアが存在しない。どうやって乗るのかというと、窓をとりはずして乗るのである! 複葉リアウィングなどは見た目にもわかりやすく、ほとんどすべてのライバルメーカーがこぞって真似をした。 複葉ウィングの下のほうのエレメントはダウンフォースを稼ぐとともにディフューザーの効率を大きく高める効果がある。
XJR-14はエンジンの信頼性がほかのメーカーよりよく、トラブルを起こさずにポイントを重ねてチャンピオンを獲得した。 この年の最終戦、オートポリスでテオ・ファビが記録した予選タイム「1分27秒188」は、サーキット開業わずか2年目に記録されたコースレコードにして、記録更新まで23年を要した(2014年のスーパーフォーミュラにて山本尚貴が「1分26秒469」をマーク、なおこの年は8人が1分27秒188を切った)。
TWRジャガーチームは91年限りで撤退を表明し、XJR-14は出番を失った。 しかし、92年にはマツダスピードがXJR-14のシャシーを買ってジャッドGV改のエンジンを載せてマツダMX-R01としてSWCに参戦した。 また、のちに現在もル・マンでアウディを率いているヨーストの提案でポルシェがIMSAのWSC95用のシャシーに改造したもののお蔵入りになってしまった個体をヨーストが譲り受け96年、97年のル・マンを連覇することになる。
コスワース75°V8エンジンはボア90mm、ストローク68.7mmのディメンションを持ち、11250rpmで620馬力を発生したという。 新世代のグループCを象徴するかのような甲高く攻撃的なサウンドだ。
プジョー 905(1990-1991) / 905Evo.1(1991-1993) / 905Evo.2(1992)
時期によって形が全然異なることで有名なプジョーの新規定グループCウェポンである。
プジョーはSWCに参戦したメーカーの中で唯一旧既定のグループCにワークス出場していなかったメーカーである。
プジョーは以前からF1参入のチャンスをうかがっていたこともあって、FISAとともに新規定に積極的に賛同する動きを見せていた。いち早く90年終盤には905を完成させ、WSPCの最終2戦に参戦した。(このときはテスト的な意味合いが強く、それぞれリタイヤ、13位完走にとどまる。)
だが翌91年、ふたを開けてみるとTWRジャガーの先進的なXJR-14を前に厳しい戦いを強いられる。そこでSWC第5戦から905を大改造。905Evo.1として生まれ変わった。
シンプルだった905のスタイリングは、前後にウィングをくっつけることで失われた。リアウィングはこれまでの旧規定Cカーのようなシンプルなものから、XJR-14似の複葉タイプに変わった。 この改造を施してからチャンピオン争いに食い込めるだけのスピードを身につけたものの、結局遅れを取り戻すことはかなわずXJR-14に敗れた。
翌92年のSWC最終年は事実上トヨタとの一騎討ちとなったが、プジョー905Evo.1は6戦5勝でトヨタを破り、SWC最後のチャンピオンに輝いた。
SWC最終戦の予選のみ905Evo.2なるモデルが登場しているが、こちらはEvo.1から空力をさらに進化させたもので、奇怪なウィングの塊となったフロント回りを見た者から「もっとも醜いCカー」と揶揄された。 (後のプロトタイプカーのトレンドとなるフォーミュラカー風ノーズ+独立型フェンダーなど、時代を先取りしていた感はあったが。)
SWC終了後は、新規定Cカーが活躍できる場は93年のル・マン24時間のみとなった。ここでもトヨタとの一騎打ちになったが、終わってみればプジョーが1-2-3フィニッシュを決めてトヨタを完全に下した。
空力はともかくシャシー設計の面ではデビューのころからXJR-14に負けず劣らずフォーミュラカー寄りで、コックピット幅はXJR-14よりも狭く、やはりジャガー同様ドアがなかった。 (しかしプジョーの場合は窓をはずして乗降するのではなく、窓がガルウィング式で開くものだった。) 空気抵抗を低減するためサイドミラーがコックピットの中にある。
自社開発の80°V10エンジンはボアが91.0mmに対してストロークが53.8mmというかなりのショートストロークで、非常に高回転型のエンジンだった。 回転数と出力は公表されていないが、「最も美しいエキゾーストノートのCカー」といわれる。
メルセデスベンツ C291(1991)
メルセデスベンツの新規定Cカーであるが、はっきり言って珍車。
「3気筒分のヘッドとブロックを一体成型(!)したものを4つ組み合わせてセンターアウトプット方式の180°V12エンジンとし、それを前傾して搭載して、その下面を板で覆ってディフューザーにする」という特徴的な思想のもとで作られた。が、見るべき点はそれだけだった。
先進的な構造を持つプジョーやジャガーの前にはシャシー性能で明らかに劣り、空力もライバルが新トレンドで攻めてくるのに対してC11のコンセプトを継承した旧態依然としたものになっていた。また、前述の構造を実現するためにかなり複雑な取り回しを強いられ、トラブルが頻発してしまった。
しかしながら、しかしながらである。91年SWC最終戦のオートポリスで奇跡が起こった。
トラブルに見舞われる上位を尻目に若手育成プログラム組の1台が快走し、勝利をかっさらってしまう!この時乗っていたのは、かのM.シューマッハーとK.ヴェンドリンガーだった。
13000rpmまで回るショートストロークV12エンジンのサウンドはライバルの新規定車と比べてもひときわ迫力があった。
なおメルセデスは後継としてC292を制作していたが、メルセデスは91年限りで撤退することを決めたためお蔵入りになってしまった。 C292はのちに写真が公開されているが、まんまXJR-14のコンセプトをパクったような見た目をしている。
トヨタ TS010(1991-1993)
遅れてきた巨人、トヨタのスタンダードでキープコンセプトな新規定Cカーである。
トヨタはプジョーほどではないが新規定には比較的好意的で、1990年からマシンの開発をスタートした。…のは良いものの、主に開発組織上の問題で開発陣が対立し、中途半端な車を設計してしまった。このままでは参戦しても負けるだけだと悟った首脳陣は元ジャガーのトニー・サウスゲートを招聘し、一から設計し直してようやくTS010は完成した。開発が遅れて91年の開幕戦に間に合わなかった。
TS010緒戦は91年最終戦のオートポリスだった。このときは6位でフィニッシュ。 すでにトレンドとなっていた複葉ウィングを採用し、72°V10エンジンを搭載して手堅い造りの車だった。
トヨタは92年からフル参戦なのでプジョーと事実上一騎打ちで戦ったが、速さで互角に戦える場面はあってもレース展開が味方せず、メカニカルトラブルが発生したこともあって結局92年のモンツァの1勝のみで残りはプジョーの後塵を拝した。93年のル・マンもミッショントラブルからプジョーに表彰台を独占される敗北となってしまった。
92年ル・マン仕様で610馬力/11000rpm、93年には640馬力になった。93年にはトラクションコントローラーが装備されていた。また、当時F1で導入されていたアクティブサスペンションも検討されていたが、こちらは結局SWC終了とともにお蔵入りとなった。
ジャガーXJR-14と違ってシャシーが別のモデルとして再利用されなかったため戦ったレース数がかなり少ない車である。しかしちゃんと車両が残してあるようで、92年ル・マン24時間で2位に入った関谷正徳組のマシンはトヨタのモータースポーツイベントでたびたび姿を見ることができる。また、デンソーカラーのSWC仕様の車両も残っている模様だ。
余談
安全性や性能均衡の関係でグループCより制限はあるものの、2012年からWECで始まったLMP1-H(LMP1ハイブリッド)規定は、グループC同様燃料の量(正確には流量)を決めて他の開発は非常に自由なプロトタイプカー規定だ。燃料はディーゼルとガソリンから選べ、排気量や気筒数その他のエンジン形式やエネルギー回生の方法も自由である。
例えばトヨタTS050 Hybridはエンジンで500馬力、回生で500馬力の最大1000馬力を発生する怪物マシンとなっている。モーターのトルクを四輪駆動で伝えるため、富士ではスーパーフォーミュラとほぼ同タイム、エルマノス・ロドリゲスでもF1の1~2秒落ちという凄まじいモンスターマシンになっている。
また上記トヨタと覇を競いあったポルシェ919 Hybridは、2017年にWECを撤退してからLMP1-H規定に縛られない改造が行われ、エンジンで720馬力、回生で440馬力の合計1160馬力を発生させるポルシェ919 Hybrid evoとして生まれ変わった。このマシンはスパ・フランコルシャンで前年のF1より0.783秒上回るベストラップを出した他(翌年F1が再び抜き返したが)、ニュルブルクリンク北コースでは従来の6分11秒13を大幅に上回る5分19秒546という新ラップレコードを樹立した。なお、従来の記録はかつてポルシェ956が打ち立てたものであった。
そのためLMP1-Hは「現代に蘇ったグループC」との呼び声がある。
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関連項目
脚注
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