田原成貴(たばら・せいき、1959年1月15日生)とは、JRA(日本中央競馬会)に所属していた元騎手・元調教師である。
武豊が「アイドルだった」と称し、福永洋一から天才の名を引き継いだ存在だった。
騎手時代
競馬とは無縁の家庭に育ったが、1973年の日本ダービーにおいてアイドルホースだったハイセイコーを撃破したタケホープと嶋田功騎手に感銘を受け、中学校卒業後に馬事公苑騎手養成所に入る。
1978年3月4日、所属した谷八郎厩舎のテンシンニシキに騎乗してデビュー。これを勝利し初騎乗初勝利を挙げた。同じ年の10月にタマツバキ記念(現在は廃止となったアラブ競走)で重賞初勝利を挙げた。
デビュー2年目の翌1979年、早くも63勝で関西リーディングジョッキーとなり、全国リーディングジョッキーとなった郷原洋行騎手と1勝差の全国2位に入る活躍を収める。この年に落馬事故で引退した福永洋一の次に担う存在と期待され、次代の天才と目される。1982年にはダイゼンキングで阪神3歳ステークスを勝利し、現在のGI級競走初勝利を挙げた。1983年には「八大競走」の枠組みとしては最後の有馬記念をリードホーユーで勝利している。
1984年はダイアナソロンで桜花賞を制す。ちなみにこれがグレード制導入後GIとなった最初の競走なので田原はGI制覇した初の騎手である。続いてハッピープログレスで安田記念を制したが、2度の落馬で肩を痛めてしまった。1986年も夏に騎乗馬の故障から落馬、避けきれなかった後続馬に激突された影響もあって左腎臓と脾臓の損傷という大怪我を負った。その後秋に復帰してしばらくの間は1日1回の騎乗制限をかけていたが、1987年から通常の騎乗回数に戻し、マックスビューティで牝馬2冠を制するなど活躍した。
しかし1990年のペガサスステークス(現・アーリントンカップ)において前年の阪神3歳ステークスを制したお手馬のコガネタイフウに騎乗した際、他馬との接触から落馬し骨盤・腰椎骨折の怪我を負った。これにより引退まで騎乗制限をかけるようになった。
その中でも、1993年にはトウカイテイオーで有馬記念を優勝。トウカイテイオーは約1年ぶり363日振りのレースであり、騎乗していた田原はレース後のインタビューで感極まって涙を流した。
その後1995年のワンダーパヒューム・マヤノトップガン、1996年のファイトガリバー・フラワーパークという優駿4頭と立て続けに巡り合い、3年間でGI8勝を挙げた後、1998年2月に騎手を引退した。
騎手時代の通算成績は1112勝、重賞65勝・GI級競走15勝だった。1000勝以上を挙げて30代で引退したのは彼が初めてであった。
ちなみに騎手として現役の頃、当日の騎乗を全て終えていた時に特別ゲストとして、実況アナの隣の席でG1の解説をしていたことがあったりする他、漫画原作(あの本宮ひろ志と交流があり共作もしている)などの著述家としての活動や、歌手としてライブを開いたこともある。特に漫画原作者としては「競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬」に代表されるベストセラーも複数出て、原作担当の作品がドラマ化までされている。
田原伝説その1・サルノキング事件
1982年に行われたスプリングステークスにて、田原はサルノキングに騎乗していた。
このサルノキングは同レースに参加していた「黄金の馬」ことハギノカムイオーと馬主が同じであり、田原はサルノキングで断トツ最後方からの追い込み戦法を取り、4着に敗れた。カムイオーはいつも通りの逃げで1着であった。
この馬主が共通しているという点から、馬主からの指示で田原が八百長をしたのではないかという疑惑が流れたのだが、田原は当然否定。
ちなみに実際は、サルノキングは関西のレースでは追い込み、関東のレースでは掛かったため先行策に移行した。田原と中村調教師は、このままではクラシックでは戦えないと思い、このスプリングステークスで本来の戦法である追い込みに戻したとのことである。タイミングが悪かった、当時は東西のレースを同時に見ることは困難だった、そもそも田原は派手好きで、追い込み一気のほうが盛り上がるから等の要因が重なり、八百長と言われてしまっただけのようである。
そもそも田原は後述のように八百長なんて言われたら絶対逆をやるような反骨心の塊であり、それは競馬界では有名だったようである。
田原伝説その2・サンエイサンキュー事件
サンエイサンキューという牝馬がいた。旧3歳(現2歳)の1991年の夏にデビューし、馬主の資金難もありほぼ月1の過酷なローテで走り続け、3歳馬として初の札幌記念制覇を成し遂げたりもしたが結局1992年の有馬記念で故障発生、予後不良。馬主のエゴで予後不良になり、さらに馬主のエゴにより6度による手術で延命処置をされたがかなわず死亡している。
有馬記念で予後不良になった原因は使い詰めで負傷していたにも関わらずそのまま使ったことである、というのは火を見るよりも明らかなものである。この使い方については厩舎関係者が馬主サイドに不満を持ち、特に田原は厩舎で渦巻く批判を表立って口にするほどであった。そして、元々歯に衣着せぬ物言いだった田原は、サンケイスポーツとの間でトラブルを起こした。
要点だけ言うと、エリザベス女王杯前にサンエイサンキューの不調をテレビ局の取材に話した田原がオフレコで「こんな悪く言って勝ったら頭を丸めなきゃいけないな」と発言。サンスポ記者は田原から取材を断られるも、その発言を又聞きして「田原、2着以上なら丸坊主」と見出しで報道。この見出しだけだとまるでわざと負けるように見える田原が「八百長に見えるから勘弁してくれ」と釈明。それをサンスポは「田原謝罪」と報道した。
これに怒った田原はサンスポの取材を拒否、「又聞きで書かれて事実を歪められたらどうしようもない」と日刊スポーツに掲載したためサンスポ側が抗議、となった。
この事件の顛末として同じサンスポの記者が自社批判を行った結果解雇となり、当の記事を書いた記者はおとがめなし、親会社であるフジサンケイグループの体質批判記事が組まれるなどに発展した。田原自身も「ありゃ馬こりゃ馬」でこの一件を当事者の視点から描いている。
田原伝説その3・スポーツニッポン記者殴打事件
引退を目前にし、田原は調教師試験に合格。その時の記者会見は拒否したのだが、スポーツニッポンがその顛末を報道、田原は激怒し執筆した記者を検量室に呼び出し、鞭で殴った。その後記者に「勝手に検量室に来られたら困るよな」と言ったとされるが本人はその後の調査では否定している。田原はその記者と和解はしたものの謝罪はしなかったため、栗東トレセンでの田原の評判は地に落ちたと言われている。
調教師時代
当時は1000勝以上の勝ち鞍を挙げた騎手は調教師試験の一次試験が免除されるという特典があったため、これを行使した田原は1998年に二次試験から調教師試験を受け合格。同年から調教師に転身し、1年の技術研修のあと1999年に開業した。フサイチの冠名の関口房郎など複数の馬主の有力馬を預かり、2000年にフサイチゼノンの弥生賞で調教師として重賞初勝利を挙げたが、その後に馬主の同意なく同馬の皐月賞出走を回避させるなどの独断専行もあったため、馬主と関係が悪化し他厩舎へ転厩するなどの事態を招いたこともあった。
2001年にはJRAに無許可で小型の発信機を管理馬に取り付け調教したことが発覚し、50万円の過怠金を支払っている。
同じ年の10月8日、羽田空港で銃刀法違反により現行犯逮捕された。おりしも9月11日のアメリカ同時多発テロの影響により空港が厳戒態勢だった中で刃物を機内に持ち込もうとしたためである。その後警察署内での身体検査で覚醒剤の所持も発覚し、覚醒剤取締法違反で再逮捕された。
これにより調教師免許の剥奪について審議され、弁明の機会が設けられたが、田原は弁明を行わなかったため免許剥奪・15年間のJRAの競馬関与禁止処分となった。
なお、1000勝による一次試験の免除は現在はなくなっている。廃止が2003年だったためこの一件が元と思われがちだが、JRAが制度の廃止を発表したのは2001年7月、田原が逮捕されたのが10月であるため、関連は無かったりする。
無くなった要因は、制度発足時に比べてレース数が増加して1000勝に達成しやすい状況が増えたことや、騎手に求められる知識・技量と調教師に求められる知識・技量が異なるという免除による問題点の指摘があったためなどと言われている。
その後
2009年に大麻取締法違反の容疑で逮捕され起訴、執行猶予付きの有罪判決となった。このことによりJRAは競馬関与禁止処分を無期限に延長した。
2010年9月に傷害容疑で逮捕、その後再びの覚醒剤の使用も判明し再逮捕となり、裁判の結果実刑判決となった。2009年の執行猶予の分も含めて服役することになったが、2013年に刑期を終えた。
釈放後は音楽関係で活動をしている。騎手時代から漫画の原作や音楽活動をしていたのだが、刑期を終えたあとは「海保ロックンロールバンド」というバンドに関わり音楽活動をしていた。現在は海保ロックンロールバンドには関わっていないようだが、2018年には別の音楽関連に関わっている姿が確認されている(happyjack (Instagram))。
こうしたこともあってか、TVや雑誌など過去の競馬を振り返る際、レース映像や写真で田原の姿が映ることはあっても、インタビュー・表彰式の映像や口取り写真等は使われない(もしくは使われてもトリミングされて姿が映らないようにする)などの対応が見受けられる。
表舞台に出てこない状況が長く続いたが、2020年12月、突如として東京スポーツ紙の取材に応え、久しぶりに表舞台に姿を現した。現在は競馬界を離れ、事業再生に関連した仕事に就いているとのことである。このとき現役時代についても語り、マヤノトップガンでナリタブライアンに敗れた阪神大賞典について「ひと呼吸待てば勝っていた。(中略)覚醒剤より後悔している」と述べている。翌2021年以降からは主にGⅠ開催週の土曜日の紙面に登場し予想・評論を寄稿している。
2022年から東スポのYouTubeチャンネルで、展開も含めて予想した動画を公開するケースがあったりする。【緊急企画・第三弾】田原成貴、宝塚記念直前予想
2022年、出所後10年勤務していた会社を円満退職し、9月1日付けで東スポに入社したことを発表。YouTubeや紙面上での元騎手目線ならではの的確な展開予想と馬や騎手に対する熱い想いを語った怪文書が好評を博している。
人物
田原は理論家であり、武豊や岡部はこの点が優れていると説明していた。ただ一人福永洋一だけは説明できない何かがあったとしている。
なお本人の騎乗スタイルは感覚派であったとされ、馬の性質を細やかに察知し乗りこなすのが得意だった。
トウカイテイオー奇跡の復活の時は号泣して取材に臨んだり、マヤノトップガン変幻自在の勝利、フラワーパークの1cm勝利など、華のある、絵になる騎手だったが目立ちたがり屋でもあり、その結果がデットーリの真似の投げキッスだったりするわけである。
弟分の藤田伸二がシルクジャスティスに騎乗していた有馬記念の解説でつい「伸二、伸二がんばれ、何とか差せ!よし」と身内応援をしてしまったり(しかもNHKで)。
東スポ入社後、生配信で馬を自分に憑依させてレースを振り返るというイタコ芸を習得しており、視聴者からはおおむね好評である。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
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