蓮(樅型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した樅型駆逐艦17番艦である。1922年7月31日竣工。戦後、船体は福井県四箇浦港の防波堤となったとされる。
概要
艦名の由来はスイレン目スイレン科ハス属の多年草の総称。花の形状や生息環境がスイレンと酷似しているが、雌蕊の構造が全く異なるため、学術的にハス科として分離させる動きが見られ、遺伝子解析をしたところ、ハスとスイレンは異なる科に属する事が判明、現在はヤマモガシ目ハス科に分類されているという。
レンコンは蓮の根を食用にしたもの。穴が開いていて先を見通せるので縁起物とされ、おせち料理にも採用されている。でんぷん、ビタミンC、カリウム、カルシウム、タンニンなどを含む。ちなみにレンコンを食べる国は日本と中国だけだったりする。
樅型は、これまでのイギリス式設計とは根本的に異なる純日本式の設計であり、峯風型の縮小版といえる艦構造を持つ。第一次世界大戦で大西洋にまで長駆した桜型駆逐艦の戦訓も取り入れている。
桃型や楢型で問題になった荒天時の波浪による衝撃を和らげるべく、艦橋と船首楼甲板を分離し、ウェルデッキとなった艦橋前方に魚雷発射管を装備、主砲3基全てを上甲板より1段高い場所へ設置して波が高くても運用可能にした一方、艦橋には固定ブルワークを装備せず、手すりにキャンバスを張って済ませた。後部マスト下方には後続艦に射撃データを知らせる示数盤を搭載。他の駆逐艦と比べて喫水が浅いため沿岸海域での作戦に向き、支那事変では揚子江で活動していた。
主砲には、日露戦争までの主力艦に搭載されていた速射砲を国産化・改良した12cm単装砲を採用、また二等駆逐艦としては初めて53cm魚雷発射管を装備している。浮流式連系機雷の敷設能力も有していた。3基の缶を全て重油専燃に換装。これは石炭燃料艦と比較して濃い煤煙が出ないので夜戦での発見リスクが低かった。更に二等駆逐艦では初のオートギアードタービンを搭載、これにより楢型の1万7500馬力から2万1500馬力に大幅パワーアップし、最大速力も31.5ノット→36ノットに増大した。比較研究の目的で、蓮と菱は英キャメル・レアード社製のパーソンズ式ギアードタービンを装備している。
樅型が建造された時期は八八艦隊計画の真っ只中で、各工廠や大規模造船所は大型艦の建造で手一杯だったため、軍用艦艇の建造経験に乏しい民間の造船所が樅型を建造する事になり、起工順の艦番と竣工時機が合わなくなるトラブルが起きている。
姉妹艦は蓮を合わせて計21隻と大所帯。大東亜戦争開戦時、樅型駆逐艦の多くは退役、もしくは哨戒艇や練習艦へと格下げとなっていたが、蓮、栗、栂の3隻のみ駆逐艦籍に留まり続けている。余談だが、漢字が似ているからか漣とよく読み間違えられ、『艦長たちの軍艦史』といった書籍にも誤植が散見される。
要目は排水量770トン、全長83.82m、全幅7.93m、最大速力36ノット、重油250トン、乗員107名。兵装は45口径三年式12cm単装砲3門、53cm連装魚雷発射管2基、6.5mm単装機銃2基。大東亜戦争下では艦尾の掃海装置を撤去して爆雷36~48発を搭載、三年式機銃を九六式25mm三連装機銃に換装し、13号対空電探を増備した。
艦歴
開戦前
1918年1月24日、樅型二等駆逐艦18隻の建造が承認され、3月26日に駆逐艦蓮と命名。1921年3月2日に浦賀船渠で起工、12月8日進水、1922年3月2日より艤装員事務所を浦賀船渠内に設置して事務を開始し、そして7月31日に無事竣工を果たした。8月7日、姉妹艦蓼とともに佐世保鎮守府隷下に第28駆逐隊を新編。
1927年8月24日夜、美保関沖で夜間無灯火演習中、軽巡洋艦神通と駆逐艦蕨が衝突事故を起こし蕨が沈没、更に回避しようとした軽巡那珂が駆逐艦葦に衝突して両艦が大破するという大惨事が発生してしまう(美保関事件)。8月26日早朝、大阪朝日新聞がチャーターした傭船白洋丸が事故現場で生存者を捜索していると、海上の彼方に浮かぶ、駆逐艦蕨の乗組員のものらしき木箱を発見、中身を見てみると海軍用パンの欠片や郵便はがきの破片などが入っており、駆逐艦菫に信号を送って水兵に木箱を手渡した。午前11時5分、今度は蓮が白洋丸の近くに現れ、第1水雷戦隊司令の特命を伝えるとともに「漂流物ありがとう」と信号を送った。
1928年5月3日に中華民国山東省済南で、日本軍と蒋介石率いる中国国民党軍との間で武力衝突が生起(済南事件)、積極的警備方針を採った帝國海軍は中国沿岸に続々と艦艇を派遣し、蓮も第1遣外艦隊に属して揚子江へと進出している。12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列。蓮は第二列に伍した。ちなみに蓮が観艦式に参加したのは今回が最初で最後である。
1935年11月15日、第28駆逐隊の解隊に伴い、第3艦隊第11戦隊に転属。
支那事変
1937年7月7日に盧溝橋事件が発生。中華民国との関係が急速に悪化し始め、連合基本演習のため、6月下旬から馬公・高雄方面に進出中だった第3艦隊は、事件勃発に伴って演習を中止し、急遽固有警戒配備に就く。7月27日、大海令により第3艦隊は海州湾以南の中国大陸沿岸、特に揚子江方面の警戒任務を命じられる。
8月に入ると揚江子方面の対日感情が次第に険悪となり、上流の在留邦人が上海への避難を始める。その上海には第3艦隊旗艦出雲、駆逐艦蓮、砲艦堅田が停泊中であった。そして8月13日夕刻、最新鋭武器で固めた中華民国軍(中国国民党)3万が日本軍守備隊4000名に襲い掛かり、第二次上海事変が勃発、ついに日華両国は宣戦布告無き戦争状態へと突入した。第3艦隊には上海確保、臣民の保護、敵航空兵力の撃破が命じられる。
8月25日、上海で苦闘する陸軍部隊を援護するべく、砲艦や姉妹艦栂と協力して、浦東砲兵陣地及び黄浦江岸に密集する国民党軍を砲撃。9月7日午前10時から午前11時29分まで給油艦神威の右舷に横付けして重油を補給。9月17日、蓮単独で狼山付近江岸の国民党軍を砲撃、翌18日夜、上海に停泊中の蓮の下に、五波に渡って計8機の敵機が襲来、同じく停泊中だった砲艦や駆逐艦と対空砲火を上げ、1機撃墜確実を報じた。9月23日に栗、砲艦嵯峨、安宅、比良、水雷艇鵯、真鶴と浦東側の敵砲兵と交戦し、10月22日にも砲艦2隻を率いて浦東側を砲撃している。
蓮ら水上艦艇の献身的な協力もあって11月12日に上海を攻略。南京に遁走した国民党軍の追撃が始まった。12月27日、魯港方面に集結中の国民党軍を駆逐艦江風、海風、栂、砲艦保津とともに約1時間砲撃し、敵兵300名と野砲1門を壊滅させる戦果を挙げた。
1938年3月末、第11戦隊は中支部隊第1警戒部隊に部署、通州水道を除く揚子江上流の敵兵力撃破、水路警戒、陸軍作戦協力、船舶交通遮断などを主任務とする。
6月3日、大本営は支那方面艦隊(第3艦隊)に対し、「下揚子江水路の大部を制圧し、その交通を安全ならしむべし」と命令、更に南京上流の安慶を攻略するよう命じた事から、6月9日より遡江作戦を開始。第11戦隊は揚子江部隊に加わり、手始めに航空前進基地の適地を有する安慶、その安慶から上流約80海里に位置する九江を占領して前進拠点を確保する。
6月13日より国民党の臨時首都たる漢口占領作戦に参加。首都攻略だけあって40隻以上の駆逐艦、掃海艇、河川砲艦、封鎖船など総計100隻の艦船が投じられ、陸兵約1万2000名と大砲80門が漢口に上陸するという大規模な作戦が展開された。蓮は栗、栂と協同で安慶に兵員を揚陸。
8月1日、交通船飛鳥等と支那方面艦隊隷下に第13戦隊を編制。
10月2日午前11時10分より16時15分まで、駆逐艦母艦日本海丸に接舷して砲身の改修工事を、次に10月10日から翌11日にかけて旅順で主錨の修理を受けた。
1940年11月15日に第13戦隊が解隊。これに伴って支那方面艦隊附属上海特別根拠地隊に編入する。
大東亜戦争
1941年
1941年12月8日に大東亜戦争が開戦。蓮は上海で運命の開戦を迎えた。上海方面部隊の米英蘭に対する主要作戦は、黄浦江上に停泊する英河川砲艦ペテレルと米砲艦ウェークの拿捕、共同租界への進駐及び敵性権益の接収で、これらの作戦は、開戦数ヶ月前から支那方面艦隊司令部が緻密に計画したものであった。
作戦に備え、蓮は開戦前夜の12月7日夜より、夜陰に紛れて敵砲艦に近接する江岸に横付けしていた他、公園には上海特別陸戦隊から借り受けた15cm野砲を搬入して砲列を作り、事前に装甲巡洋艦出雲と砲艦鳥羽の砲を米英砲艦へ向けるなど、抵抗を受けた場合は即座に撃沈できる体勢が念入りに組み立てられた。
ペテレルには支那方面艦隊参謀・大谷稲穂中佐と海軍特別陸戦隊の一部が来艦、スティーブン・ポーキングホーン中尉に日英が戦争状態に入った事を告げ、艦の降伏を求めたが、ポーキングホーン中尉はこれを拒絶、銃口を突きつけながら退艦を命じた。ペテレルが降伏しないと知るや、装甲巡洋艦出雲から探照灯が照射され、蓮、砲艦鳥羽、勢多、熱海、陸上部隊が一斉砲火を浴びせてペテレル(21トン)を撃沈。乗組員21名中6名が戦死し、ポーキングホーン中尉を含む生存者は全員捕虜となる。
ウェークには松本作次少佐が向かった。艦長のスミス少佐は秘密裏に自沈を試みたが失敗したため、白旗をマストに掲げて降伏。そのまま拿捕される。この戦果は13時の大本営発表で真珠湾攻撃ともども臣民に伝えられた。また黄浦江にあった中型商船6隻、小型船など約200隻がまとめて拿捕されている。
12月15日15時30分、定洋丸、甲谷陀丸、日振丸からなる高雄行き船団を護衛して上海を出港、呉淞を経由したのち9~10ノットの速力で航行し、12月23日に上海へと帰投した。12月31日、占領したばかりのウェーク島に向かう大型客船新田丸を姉妹艦栗と途中まで護衛。
1942年
1942年中に艦中央部の6.5mm単装機銃を25mm三連装機銃に換装。
1月22日、特設砲艦第12日章丸や北野丸とともに6隻で編制された輸送船団を途中まで護衛。
2月8日午前9時から20日午前8時20分まで上海を拠点に哨戒任務を実施する。翌21日15時、駆逐艦栗と第1船団(輸送船3隻)を護衛して上海を出港、2月24日15時、台湾北東部の基隆に到着して護衛を完了。2月26日より3月10日まで中支方面で哨戒任務を行う。
フィリピンのバターン半島では、立てこもる米比軍を第14軍が攻撃していたが、米比軍が予想の3倍に及ぶ兵力を有している事、敵の防衛線が強固である事から戦況が膠着、大本営・第14軍ともに増援の必要性を認め、2月10日に支那派遣軍より第4師団の転用を決定。
4月4日午前3時、ベルブイ沖で第4師団の一部を乗せた輸送船3隻と合流、10ノットの速力でリンガエン湾まで護送し、翌5日に護衛を終了、哨戒任務に移行する。
南方作戦並びに蘭印作戦の成功によってマレー、ジャワ、スマトラ、ビルマ、フィリピン、ボルネオといった広範囲が日本の勢力下に収まり、支那方面艦隊は担当海域を通過する船団の護衛を命じるが、当時はまだ海防艦が1隻も就役しておらず、また逐次支那方面艦隊から戦力が抽出されていったため、船団の数に対して駆逐艦の数が全く足りず、蓮はハードスケジュールをこなし続ける。
10月21日早朝、上海を出港した蓮は、揚子江河口で馬公行きの日秀丸と明宇丸を合流、25日に臺州列島沖で第一号新興丸が護衛に一時加入し、10月27日午前8時50分に馬公へと辿り着いた。10月29日19時15分、帰路は妙法丸を護衛して馬公を出発。
12月21日、トラック経由でガダルカナル島に向かう陸軍第6師団を乗せた6号輸送第1船団(神愛丸、第1眞盛丸、旭盛丸、乾坤丸、妙法丸)と、第2船団(大井川丸、帝洋丸、加茂丸、明宇丸)を栗とともに護衛して呉淞を出発、12月24日午前10時に馬公へ到着して護衛を完了。
1943年
6月25日、陸軍輸送船芝栗丸との衝突で航行不能になった栗と合流するべく七了口に移動、翌26日、第1号新興丸の護衛を受けながら栗を曳航して出発、途中で救難船兼曳船笠島と合流し、3隻は7月29日に上海に到着。栗を江南造船所に入渠させる。
7月23日午前0時31分、ヒ3船団が米潜水艦ソーフィッシュの雷撃を受けて特設運送船西阿丸が大破航行不能に陥った。これを受けて上海根拠地隊は蓮と第131号砲艦は敵潜の掃討撃滅及び遭難船の救助を命令。花島山を拠点に第5505船団の前路警戒や対潜掃討を行った。
8月18日、商船8隻からなるタ808船団を護衛して上海を出港、道中で姉妹艦の栂が一時護衛に加入し、8月21日午前9時に馬公へと入港、次いで同日夜、第295船団3隻を護衛して高雄を出発、翌22日に基隆まで辿り着いた。8月30日17時16分、鶏骨礁の104度10海里で潜望鏡を発見し爆雷45個を投下。応援に駆け付けた特設砲艦豊国丸、正生丸、敷設艇鷹島と対潜掃討を行い、9月3日に上海へ帰投する。
10月8日14時から10月11日まで第210船団を護衛。10月21日、2AT戦時標準応急タンカー阿蘇川丸、貨客船北鮮丸、菱形丸など輸送船8隻で編制されたホタ01船団を栗、第176号駆潜特務艇、第177号駆潜特務艇と護衛して香港を出発。同日中に蓮は護衛から離脱した。
1944年
1944年3月7日午前9時、高雄発門司行きのタモ08船団9隻を駆逐艦栂、機雷敷設艇新井埼と護衛して高雄を出港、翌日基隆に到着した時に蓮と栂は護衛を終了し、2隻は上海に回航された。
4月15日15時50分、軽巡木曾、第38号哨戒艇、特設掃海艇第3拓南丸が護衛するタマ16船団に加わって高雄を出港、翌16日午前9時30分に蓮と第3拓南丸が護衛より離脱し、代わりに水雷艇隼が加入した。
5月18日15時20分、門司行きのミ02船団を護衛する海防艦淡路、第38号哨戒艇、特設砲艦北京丸と基隆を出港、5月20日に蓮は船団護衛から離脱して上海へ帰投。ミ02船団は1隻の損害も無く5月23日17時に門司に到着している。
6月12日、タ006船団護衛中に2機のB-24が出現し、対空戦闘を行うも探信儀故障の被害を受ける。6月24日19時24分、蓮は魚雷艇初雁と高雄行きの船団を護衛して香港を出発、目的地が眼前に迫った6月28日午前1時、B-24爆撃機から爆弾2発が投下されて輸送船の右舷側に着弾水したが、幸い損害は軽微で済み、同日16時58分に高雄まで到着。
7月6日午前5時45分、米潜水艦シーライオンが舟山群島近海で門司行きの第3311船団を発見し、雷撃により雪山丸を撃沈、第3311船団は速力を上げて各々退避行動を取った。代わりに護衛の蓮と砲艦興津が対潜掃討に急行。午前6時、シーライオンは蓮、興津に魚雷4本を発射するも、幸い命中せず、増援に駆け付けた対潜哨戒機も加わって午後まで索敵を行ったが、シーライオンには逃げられてしまっている。7月9日に対潜掃討を打ち切って哨戒任務へと戻った。
対馬丸事件
去る7月7日、絶対国防圏の要サイパンが陥落。次に狙われるのは沖縄だと軍民ともに直感した。大本営陸軍部は脆弱な南西諸島の防備を強化しようと、沖縄に本拠を置く第32軍に増援部隊を送ろうと考え、支那派遣軍や関東軍から抽出した戦力の輸送を命令。那覇で部隊を降ろして空船となった輸送船には疎開民を乗せ、そのまま本土に移送する計画が立てられた。
8月16日18時35分、対馬丸、暁空丸、和浦丸で編制された第609船団を砲艦宇治と護衛して呉淞を出港。輸送船3隻には、支那派遣軍から沖縄の第32軍に転用する第62師団約8800名と野戦重砲用の軍馬49頭が乗っていた。波が高い南シナ海を突破し、那覇への入港を翌日に控えた8月18日、沖縄北西で米潜ボーフィンに発見されてしまう。蓮が爆雷3発を投じたが追い払うには至らなかった。不穏な空気が流れつつも、8月19日に船団は那覇港へ到着。蓮と宇治は港から少し離れた場所で投錨した。
8月21日午前6時、集合場所である西新町の国民劇場前に、本土へ疎開する老若男女が沖縄の隅々から集まり始め、いつしか広場は疎開者と見送りの者約5000名でごった返し、その横で暁部隊の兵士や警官が汗だくになりながら、舟艇を使って、疎開者の荷物を船内へ運び込んでいく。暁空丸も和浦丸も対馬丸も行き先が同じ鹿児島なので荷物と持ち主が違う船に乗せられる事も珍しくなかったらしい。15時頃になると偉い人たちが見送りに訪れ、疎開者たちに送別の言葉を贈った。
第609船団はナモ103船団に改名し、本土に避難する疎開者約4500名を輸送船に乗せた。その大部分は年端も行かぬ児童だったという。
8月21日18時35分――多くの人に見送られながら、ナモ103船団は那覇港を出発。間もなくして小雨が降り始めた。この日の午前3時に、沖縄の南東約950kmの海上で気圧753mmの台風が発生し、降り始めた小雨はその台風がもたらした雨雲であった。おかげで視界が不明瞭になってしまい離れゆく故郷の島を見ようとした疎開者は文字通り水を差される形となる。船団は砲艦宇治を先頭に和浦丸、暁空丸、対馬丸、蓮の順で単縦陣を組む。しかし速力は老朽船の対馬丸に合わせているせいで非常に遅く、もし米潜に襲われればひとたまりもない状態であった。
宇治は新鋭艦で、優れた対空兵装と爆雷こそ持っていたのだが、砲艦だからか、対潜用ソナーを持っておらず、唯一ソナーと爆雷を併せ持っていたのは旧式艦の蓮だけだった。
ナモ103船団が瀬底島を通過する頃、その付近に待機していた輸送船3隻が密かに船団へ加入。この3隻は快足を活かして護衛無しで本土に向かおうとしていたのだが、「沖縄本島近海に敵潜水艦出現」の報を受け、護衛のあるナモ103船団に混ぜてもらったのである。新たに加入した船は一列縦隊を組んで航行。ところが、ナモ103船団は最も速力が遅い対馬丸に合わせており、非常に鈍足だった事から、このまま同行すれば逆に敵潜に襲われてしまうと判断し、いつの間にか北上して姿を消していたという。
8月22日朝、対馬丸は台風がもたらす荒波で更に速力が落ち、とうとう船団から落伍、蓮が護衛のため付き添うが、他の船団はもう水平線の向こう側へと消えてしまった。15時頃、奄美大島から出撃してきた味方の水上偵察機が船団の上空に現れて対潜哨戒を開始、その1時間後に水偵が敵潜発見の報を出したため、宇治と蓮の動きが慌ただしくなり、蓮は左へ急転舵すると水偵に誘導されて遥か後方の海へ突撃、宇治では総員戦闘配置の号令が下された。しかし敵潜に有効打を与えられないまま日没を迎え、17時30分には水偵が帰投。ナモ103船団は敵潜の脅威が増大する恐怖の夜に突入した。
日没後に久米島北方海域で潜んでいたボーフィンが全速で移動を開始。20時頃には、船団に対する攻撃計画を完成させており、船団が諏訪瀬島近海に差し掛かった時に雷撃出来るよう、先回りして待ち伏せを仕掛ける。予定では最初の雷撃で暁空丸を撃沈するプランだった。
22時9分、悪石島北西10kmの地点で、4.4km離れたナモ103船団を狙ってボーフィンが艦首発射管の魚雷6本を発射、間髪入れず3分後に艦尾発射管から魚雷3本を発射し、このうち3本が対馬丸の右舷に命中、ボーフィンの観測によると「対馬丸と暁空丸に2本ずつ、駆逐艦蓮に1本の魚雷が命中。対馬丸は早くも沈み始め、蓮は粉砕された」とし、更なる雷撃で和浦丸を撃沈したと確信しているが、実際は対馬丸にしか命中していなかった。巨大な火柱を上げながら対馬丸は瞬く間に沈没。
暗闇の海には生存者が多く漂っており、爆雷投下が出来ない事、また対潜攻撃のため足を止めれば残った船も襲われる危険性から、蓮と宇治は和浦丸、暁空丸の護衛を優先して海域からの急速離脱を図った。海上に取り残された生存者は、護衛艦艇からの要請で救助に現れた水偵や漁船団に助けられたものの、1529名の犠牲者を出してしまった。このうち児童の犠牲者は784名に上ったという。8月24日、対馬丸を除くナモ103船団は長崎に到着。
9月3日、上海付近の長江河口部にて触雷し、大破航行不能に陥ったため、およそ1ヶ月間上海で修理を受ける。
10月21日、第176号、第177号特設駆潜艇が護衛するウ03船団を護衛して香港を出発。船団の指揮は東運丸が執る。翌22日17時より駆逐艦栂が護衛に参加した。
ところが10月23日午前3時36分、澎湖諸島北北西130kmで米潜タングにレーダー探知され、船団の中央部に侵入、間髪入れずに艦首・艦尾の発射管から魚雷を発射し、まず東運丸と辰寿丸が撃沈、浮上中のタングを若竹丸が発見して体当たりを喰らわせようとするが、左側への急旋回で回避された挙句、逆に魚雷を撃ち込まれて若竹丸も沈没されてしまった。10月31日、ウ03船団は辛くも高雄に入港。直後、タモ27船団を基隆まで護送。
11月17日15時、輸送船3隻からなるホタ01船団を第26号海防艦と護衛して香港を出発、11月19日に第18号海防艦が護衛に加入し、11月21日午後12時50分、目的地の高雄へ到着した。
1945年
1945年1月15日午前7時30分、インドシナ方面から転進してきた米第38任務部隊が高雄、左営、澎湖諸島及び広東方面を攻撃。蓮が入渠中の香港にも敵戦爆約60機が出現したが大きな被害は無かった。
しかし翌日の空襲は香港と海南島に重点が置かれ、香港には敵戦爆約300機が襲来して天栄丸、松島丸、山幸丸、第二安利丸、第二伯州丸が撃沈、特務艦神威が大破し、蓮も小破の損傷を負った(香港陸上に司令部を置いていた第2遣支艦隊は「蓮が大破」と報告)。応戦したのは地上の対空砲だけだった。1月21日にもB-24が香港を空襲して春田丸が撃沈されている。1月22日、米機動部隊が沖縄攻撃に気を取られている隙を突いて香港を出発、何とか1月26日に上海へ逃げ込んで修理を受ける。
フィリピン方面の戦況悪化に伴い、支那方面艦隊司令部は敵の次期進攻作戦は中国大陸と予想、3月末を目途に緊急戦備を命じた。
2月16日、シンガポールから内地に向け、北号作戦に従事中の完部隊と偶然遭遇、苦難の旅路を歩む完部隊に感動した蓮艦長の堀之内芳郎大尉は、完部隊からの誰何信号に「我蓮、今より貴隊を護衛せんとす」と返信、汐風と護衛に参加し、完部隊の右正横3000mに占位。しかし荒天に紛れての航行だったため、戦艦の艦隊速力に付いていけず僅か30分ほどで脱落してしまう。
3月20日修理完了。3月25日、米第5空軍所属のB-24が上海に襲来して揚江子河口の輸送船を撃沈、上海近郊にも機雷が敷設され、敵潜の出現も確認されるなど、本土に近い上海も最早安全な場所ではなかった。4月2日午前10時15分から8分間、P-51戦闘機3機と交戦。戦果・被害ともに無し。
上海には、かつて日米交換船として活躍し、イタリア降伏時に自沈したのち復旧工事を受けた伊豪華客船コンデ・ヴェルデ(寿丸)が係留されており、本船を輸送船として使用するべく本土回航計画が持ち上がった。当初は4月10日に駆逐艦椿、砲艦宇治、第21号掃海艇の護衛で上海を出発しようとしたが、椿の触雷中破により一度断念、脱落した椿の代わりに蓮が護衛に加わった。
4月11日16時12分、上海外港の呉淞に移動して寿丸と合流して出発、ところが16時59分、呉淞防波堤から僅か1800mの地点で寿丸の第2船倉が磁気機雷に触れて爆発、衝撃によってリベットが緩んで大量の浸水が発生してしまう。幸い損傷は大きなものではなかったものの、すぐに上海へ引き返す羽目になった。
度重なる空襲警報と敵哨戒機の出現が続く中、4月13日夕刻に清水を、翌14日に軽油を積載。
4月16日午前10時2分、修理を終えた寿丸を栗と護衛して上海を出発。間もなく上海特別根拠地隊より寿丸船団からの離脱を命じられ、翌17日14時16分に別船団の護衛を一時的に実施、4月21日15時25分に上海へ帰投し、4月23日より28日まで支那方面艦隊司令部が保管する九六式25mm単装機銃2基、飛鳥装備の25mm連装機銃1基、椿装備の25mm単装機銃2基の搭載工事を行う。増強された対空兵装で早速1機撃墜の戦果を挙げた。
5月3日午前8時、厦門と西犬島に対する輸送作戦のため、第144号輸送艦、長江丸と上海を出港(この船団は蓮船団と呼称された)、対空戦闘を行いながら5月6日午前4時に厦門まで辿り着いて弾薬を揚陸。また同日中に西犬島へ陸軍部隊を揚陸した。5月8日に蓮船団は厦門を出発。蓮と第144号輸送艦には厦門で取り残されていた駆逐艦天津風の生存者161名が分乗していた。上海への帰り道もやはり穏やかではなく、二度の対空戦闘を実施。
5月20日からは北支方面で活動。敵の通商破壊作戦は日本海、黄海、本土周辺にも及び、僅かに残った細い航路を死守する日々が続く。6月11日から13日にかけて膠州湾発上海行きのセシ船団を護衛、6月25日に栗と青島へと入港する。
7月に入ると、統帥部は本土決戦準備に忙殺され、支那方面艦隊に対する作戦指導及び情報交換を行う余裕が無く、加えて戦況判断により連合軍が中国大陸に進攻する可能性は殆ど無いと見積もられたため、中央での存在感が希薄になりつつあった。8月10日のポツダム宣言受諾も上海駐在三井物産系から聞いたのみで、中央からの連絡は何も無かったらしい。
8月15日の終戦時、青島にてほぼ無傷状態で残存。支那方面艦隊は9月9日に南京で行われた降伏文書の調印式に参加。
戦後
9月16日に青島へ進駐してきたアメリカ軍に投降。10月4日、栗と一緒に鎮海を出発して釜山に移動、釜山港内には197個の感応機雷が敷設されており、蓮と栗は撃沈前提の処分船として航路の啓開作業に従事、作業中の10月8日、釜山港鵜ノ瀬灯台沖350m付近で遂に栗が触雷沈没してしまう。栗の尊い犠牲によりアメリカ軍の戦車揚陸艇が入港出来るようになった。10月25日除籍。
凄惨を極めた未曾有の戦争は終わった。だが外地には軍人や邦人など約630万人が広範囲に渡って取り残され、彼らの帰国が急務となっていたものの、これまでの戦闘で商船は壊滅状態であり、代わりに生き残った戦闘艦艇を使った復員輸送が提案される。11月18日、修理のため長崎に回航され、11月30日修理完了、12月1日に佐世保地方復員局所管の特別輸送艦となり、上海方面からの復員輸送に臨む。
蓮は航行可能の状態で残存していたが、あまりにも旧式艦過ぎるからか、戦勝国に引き渡す戦時賠償艦に適さないと判断され、1946年3月からしばらく佐世保に係留。再整備費用が多額になるので特別輸送艦への本格的な改装も行われなかった。
1948年4月に佐世保港内で解体。船体に関しては、福井県丹生郡越前町四箇浦港の防波堤に転用されたとする一方、実際に現地で使用した記録は無く、遺構も残っていない事から、計画のみで終わった可能性がある。
1996年10月、駆逐艦蓮戦没者之碑が佐世保海軍墓地内に建立された。
関連項目
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