蓮(樅型駆逐艦)単語

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蓮(樅型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した樅駆逐艦17番艦である。1922年7月31日工。戦後体は福井県四箇港の防波となったとされる。

概要

艦名の由来はスイレンスイレンハス属の多年の総称。の形状や生息環境スイレンと酷似しているが、雌蕊の構造が全く異なるため、学術的にハス科として分離させる動きが見られ、遺伝子解析をしたところ、ハススイレンは異なる科に属する事が判明、現在はヤマモガシハス科に分類されているという。

レンコンの根を食用にしたもの。が開いていて先を見通せるので縁起物とされ、おせち料理にも採用されている。でんぷん、ビタミンCカリウムカルシウム、タンニンなどを含む。ちなみにレンコンを食べる日本中国だけだったりする。

は、これまでのイギリス式設計とは根本的に異なる純日本式の設計であり、峯の縮小版といえる艦構造を持つ。第一次世界大戦大西洋にまで長駆した駆逐艦の戦訓も取り入れている。

や楢で問題になった荒天時の波浪による衝撃を和らげるべく、艦首楼甲を分離し、ウェルデッキとなった艦前方に魚雷発射管を装備、3基全てを上甲より1段高い場所へ設置して波が高くても運用可にした一方、艦には固定ブルワークを装備せず、手すりにキャンバスって済ませた。後部マスト下方には後続艦に射撃データを知らせる示数盤を搭載。他の駆逐艦べて喫が浅いため沿域での作戦に向き、支那事変では揚子江で活動していた。

には、日露戦争までの力艦に搭載されていた速射産化・改良した12cm単装を採用、また二等駆逐艦としては初めて53cm魚雷発射管を装備している。浮流式連系機雷の敷設力も有していた。3基のを全て重専燃に換装。これは石炭燃料艦と較して濃い煤煙が出ないので夜戦での発見リスクが低かった。更に二等駆逐艦では初のオートギアードタービンを搭載、これにより楢の1万7500力から2万1500力に大幅パワーアップし、最大速力も31.5ノット→36ノットに増大した。研究的で、と菱はキャメルレアード社製のパーソンズギアードタービンを装備している。

が建造された時期は八八艦隊計画の中で、各工や大規模造所は大艦の建造で手一杯だったため、軍用艦艇の建造経験に乏しい民間の造所が樅を建造する事になり、起工順の艦番と工時機が合わなくなるトラブルが起きている。

姉妹艦はを合わせて計21隻と大所帯。大東亜戦争開戦時、樅駆逐艦の多くは退役、もしくは哨戒艇練習艦へと格下げとなっていたが、、栂の3隻のみ駆逐艦籍に留まり続けている。余談だが、漢字が似ているからかとよく読み間違えられ、『艦長たちの軍艦史』といった書籍にも誤植が散見される。

排水量770トン、全長83.82m、全幅7.93m、最大速力36ノット、重250トン、乗員107名。兵装は45口径三年式12cm単装3門、53cm連装魚雷発射管2基、6.5mm単装機2基。大東亜戦争下では艦尾の掃装置を撤去して爆雷36~48発を搭載、三年式機を九六式25mm三連装機に換装し、13号電探を増備した。

艦歴

開戦前

1918年1月24日、樅二等駆逐艦18隻の建造が承認され、3月26日駆逐艦と命名。1921年3月2日浦賀船渠で起工、12月8日1922年3月2日より装員事務所浦賀船渠内に設置して事務を開始し、そして7月31日工を果たした。8月7日姉妹艦蓼とともに佐世保鎮守府隷下に第28駆逐隊を新編。

1927年8月24日、美保関無灯火演習中、軽巡洋艦神通駆逐艦が衝突事故を起こし沈没、更に回避しようとした軽巡那珂駆逐艦に衝突して両艦が大破するという大惨事が発生してしまう(美保関事件)。8月26日大阪朝日新聞がチャーターした洋丸が事故現場で生存者を捜索していると、上の彼方に浮かぶ、駆逐艦の乗組員のものらしき木を発見、中身を見てみると海軍パン欠片郵便はがきの破片などが入っており、駆逐艦に信号を送って兵に木を手渡した。午前11時5分、今度は洋丸の近くに現れ、第1戦隊の特命を伝えるとともに「漂流物ありがとう」と信号を送った。

1928年5月3日中華民国山東省済南で、日本軍蒋介石率いる中国国民党軍との間で武力衝突が生起(済南事件)、積極的警備方針を採った帝國海軍中国沿に続々と艦艇を派遣し、も第1遣外艦隊に属して揚子江へと進出している。12月4日横浜で挙行された御大礼特別観艦式に参列。は第二列にした。ちなみに観艦式に参加したのは今回が最初で最後である。

1935年11月15日、第28駆逐隊の解隊に伴い、第3艦隊第11戦隊に転属。

支那事変

1937年7月7日事件が発生。中華民国との関係が急速に悪化し始め、連合基本演習のため、6月下旬から高雄方面に進出中だった第3艦隊は、事件勃発に伴って演習を中止し、急遽固有警配備に就く。7月27日大海により第3艦隊は州湾以南の中国大陸沿、特に揚子江方面の警任務を命じられる。

8月に入ると揚江子方面の対日感情が次第に険悪となり、上流の在留邦人が上海への避難を始める。その上海には第3艦隊旗艦出雲駆逐艦砲艦堅田が停泊中であった。そして8月13日夕刻、最新鋭武器で固めた中華民国軍(中国国民党)3万が日本軍守備隊4000名に襲い掛かり、第二次上海事変が勃発、ついに日両国宣戦布告戦争状態へと突入した。第3艦隊には上海確保、臣民の保護、敵航空兵力の撃破が命じられる。

8月25日上海で苦闘する陸軍部隊を援護するべく、砲艦姉妹艦栂と協力して、砲兵地及びに密集する国民党軍を撃。9月7日午前10時から午前11時29分まで給油神威の右舷に横付けして重を補給。9月17日単独で山付近江国民党軍を撃、翌18日上海に停泊中のの下に、五波に渡って計8機の敵機が襲来、同じく停泊中だった砲艦駆逐艦対空砲火を上げ、1機撃墜確実を報じた。9月23日砲艦嵯峨安宅良、雷艇鵯、東側の敵砲兵と交戦し、10月22日にも砲艦2隻を率いて東側を撃している。

水上艦艇の献身的な協力もあって11月12日上海攻略。南に遁走した国民党軍の追撃が始まった。12月27日、魯港方面に集結中の国民党軍を駆逐艦江風海風、栂、砲艦とともに約1時間撃し、敵兵300名と野1門を壊滅させる戦果を挙げた。

1938年3月末、第11戦隊は中支部隊第1警部隊に部署、通州を除く揚子江上流の敵兵力撃破、路警陸軍作戦協力、船舶交通遮断などを主任務とする。

6月3日大本営支那方面艦隊(第3艦隊)に対し、「下揚子江路の大部を制圧し、その交通を安全ならしむべし」と命、更に南上流の安慶を攻略するよう命じた事から、6月9日より遡江作戦を開始。第11戦隊は揚子江部隊に加わり、手始めに航空前進基地の適地を有する安慶、その安慶から上流約80里に位置する九江を占領して前進拠点を確保する。

6月13日より国民党の臨時首都たる口占領作戦に参加。首都攻略だけあって40隻以上の駆逐艦掃海艇河川砲艦、封鎖など総計100隻の艦が投じられ、陸兵約1万2000名と大砲80門が口に上陸するという大規模な作戦が展開された。、栂と協同で安慶に兵員を揚陸。

8月1日交通飛鳥等と支那方面艦隊隷下に第13戦隊を編制。

10月2日午前11時10分より16時15分まで、駆逐艦母艦日本海丸に接舷して身の改修工事を、次に10月10日から翌11日にかけて旅順で錨の修理を受けた。

1940年11月15日に第13戦隊が解隊。これに伴って支那方面艦隊附属上海特別根拠地隊に編入する。

大東亜戦争

1941年

1941年12月8日大東亜戦争が開戦。上海運命の開戦を迎えた。上海面部隊のに対する作戦は、江上に停泊する河川砲艦ペテレルと砲艦ウェークの拿捕、共同租界への進駐及び敵性権益の接収で、これらの作戦は、開戦数ヶ前から支那方面艦隊部が緻密に計画したものであった。

作戦に備え、は開戦前12月7日より、陰に紛れて敵砲艦に近接する江に横付けしていた他、公園には上海特別陸戦隊から借り受けた15cmを搬入して列を作り、事前に装甲巡洋艦出雲砲艦鳥羽砲艦へ向けるなど、抵抗を受けた場合は即座に撃沈できる体勢が念入りに組み立てられた。

午前5時出雲から降勧告を行う軍使2組を敵砲艦派遣

ペテレルには支那方面艦隊参謀・大谷稲穂中佐海軍特別陸戦隊の一部が来艦、スティーブン・ポーキングホーン中尉に日戦争状態に入った事を告げ、艦の降めたが、ポーキングホーン中尉はこれを拒絶、口を突きつけながら退艦を命じた。ペテレルが降しないと知るや、装甲巡洋艦出雲から探照灯が照射され、砲艦鳥羽、勢多、熱海陸上部隊が一斉火を浴びせてペテレル(21トン)を撃沈。乗組員21名中6名が戦死し、ポーキングホーン中尉を含む生存者は全員捕虜となる。

ウェークには松本作次少佐が向かった。艦長のスミス少佐秘密裏に自沈を試みたが失敗したため、旗をマストに掲げて降。そのまま拿捕される。この戦果は13時大本営発表真珠湾攻撃ともども臣民に伝えられた。また江にあった中6隻、小など約200隻がまとめて拿捕されている。

同日上海を出港してベルブイ

12月15日15時30分、定洋丸、甲丸、日振丸からなる高雄行き団を護衛して上海を出港、淞を経由したのち9~10ノットの速力で航行し、12月23日上海へと帰投した。12月31日、占領したばかりのウェーク島に向かう大新田丸を姉妹と途中まで護衛。

1942年

1942年中に艦中央部の6.5mm単装機を25mm三連装機に換装。

1月22日、特設砲艦第12日章丸や北野丸とともに6隻で編制された輸送団を途中まで護衛。

2月8日午前9時から20日午前8時20分まで上海拠点任務を実施する。翌21日15時駆逐艦と第1団(輸送3隻)を護衛して上海を出港、2月24日15時台湾北東部の基に到着して護衛を了。2月26日より3月10日まで中支方面で任務を行う。

フィリピンバター半島では、立てこもる軍を第14軍が攻撃していたが、軍が予想の3倍に及ぶ兵力を有している事、敵の防衛線が強固である事から戦況が着、大本営・第14軍ともに増援の必要性を認め、2月10日支那派遣軍より第4師団の転用を決定。

4月4日午前3時ベルブイで第4師団の一部を乗せた輸送3隻と合流、10ノットの速力でリンガエン湾まで護送し、翌5日に護衛を終了、任務に移行する。

南方作戦並びに作戦の成功によってマレー、ジャワ、スマトラ、ビルマフィリピン、ボルネオといった広範囲が日本の勢力下に収まり、支那方面艦隊は担当域を通過する団の護衛を命じるが、当時はまだ海防艦が1隻も就役しておらず、また逐次支那方面艦隊から戦力が抽出されていったため、団の数に対して駆逐艦の数が全く足りず、ハードスケジュールをこなし続ける。

10月21日上海を出港したは、揚子江河口で行きの日秀丸と明丸を合流、25日に州列で第一号丸が護衛に一時加入し、10月27日午前8時50分にへと辿り着いた。10月29日19時15分、帰路は妙法丸を護衛してを出発。

11月中は任務に従事。

12月21日トラック経由でガダルカナル島に向かう陸軍第6師団を乗せた6号輸送第1団(神丸、第1盛丸、盛丸、丸、妙法丸)と、第2団(大井丸、洋丸、加茂丸、明丸)をとともに護衛して淞を出発、12月24日午前10時へ到着して護衛を了。

1943年

1943年1月3日上海へと帰投。

6月25日陸軍輸送丸との衝突で航行不能になったと合流するべく七了口に移動、翌26日、第1号丸の護衛を受けながら航して出発、途中で救難と合流し、3隻は7月29日上海に到着。江南所に入渠させる。

7月23日午前0時31分、ヒ3団が潜水艦ソーフィッシュの雷撃を受けて特設運送西丸が大破航行不能に陥った。これを受けて上海根拠地隊はと第131砲艦は敵潜の掃討撃滅及び遭難の救助を命山を拠点に第5505団の前路警や対潜掃討を行った。

8月18日、商8隻からなるタ808団を護衛して上海を出港、中で姉妹艦の栂が一時護衛に加入し、8月21日午前9時へと入港、次いで同日、第295団3隻を護衛して高雄を出発、翌22日に基まで辿り着いた。8月30日17時16分、礁の104度10里で潜望を発見し爆雷45個を投下。応援に駆け付けた特設砲艦丸、正生丸、敷設艇と対潜掃討を行い、9月3日上海へ帰投する。

10月8日14時から10月11日まで第210団を護衛。10月21日、2AT戦時標準応急タンカー丸、貨客北鮮丸、菱形丸など輸送8隻で編制されたホタ01団を、第176号駆潜特務艇、第177号駆潜特務艇と護衛して香港を出発。同日中は護衛から離脱した。

1944年

1944年3月7日午前9時高雄発門行きのタモ08団9隻を駆逐艦栂、機雷敷設艇新井埼と護衛して高雄を出港、翌日基に到着した時にと栂は護衛を終了し、2隻は上海に回航された。

4月15日15時50分、軽巡木曾、第38号哨戒艇、特設掃海艇第3拓南丸が護衛するタマ16団に加わって高雄を出港、翌16日午前9時30分にと第3拓南丸が護衛より離脱し、代わりに雷艇が加入した。

5月18日15時20分、門行きのミ02団を護衛する海防艦淡路、第38号哨戒艇、特設砲艦北京丸と基を出港、5月20日団護衛から離脱して上海へ帰投。ミ02団は1隻の損5月23日17時に門に到着している。

6月12日、タ006団護衛中に2機のB-24が出現し、対戦闘を行うも探信儀故障の被害を受ける。6月24日19時24分、魚雷艇初雁と高雄行きの団を護衛して香港を出発、的地が眼前に迫った6月28日午前1時B-24爆撃機から爆弾2発が投下されて輸送の右舷側に着弾したが、幸い損は軽微で済み、同日16時58分に高雄まで到着。

7月6日午前5時45分、潜水艦シーライオンが舟山群で門行きの第3311団を発見し、雷撃により山丸を撃沈、第3311団は速力を上げて各々退避行動を取った。代わりに護衛の砲艦が対潜掃討に急行。午前6時シーライオン魚雷4本を発射するも、幸い命中せず、増援に駆け付けた対潜哨戒機も加わって午後まで索敵を行ったが、シーライオンには逃げられてしまっている。7月9日に対潜掃討を打ち切って任務へと戻った。

8月2日に揚子江で触雷し、上海にて入渠修理を受ける。

対馬丸事件

去る7月7日絶対国防圏の要サイパンが陥落。次に狙われるのは沖縄だと軍民ともに直感した。大本営陸軍部は脆弱な南西諸の防備を強化しようと、沖縄に本拠を置く第32軍に増援部隊を送ろうと考え、支那派遣軍関東軍から抽出した戦力の輸送を命那覇部隊を降ろしてとなった輸送には疎開民を乗せ、そのまま本土に移送する計画が立てられた。

8月16日18時35分、対馬丸暁空丸、和丸で編制された第609団を砲艦宇治と護衛して淞を出港。輸送3隻には、支那派遣軍から沖縄の第32軍に転用する第62師団約8800名と野戦重用の軍49頭が乗っていた。波が高い南シナを突破し、那覇への入港を翌日に控えた8月18日沖縄北西で潜ボーフィンに発見されてしまう。爆雷3発を投じたが追い払うには至らなかった。不穏な空気が流れつつも、8月19日団は那覇港へ到着。宇治は港から少し離れた場所で投錨した。

8月21日午前6時集合場所である西新町劇場前に、本土へ疎開する老若男女沖縄の隅々から集まり始め、いつしか広場は疎開者と見送りの者約5000名でごった返し、その横で部隊兵士や警官が汗だくになりながら、舟艇を使って、疎開者の荷物を内へ運び込んでいく。暁空丸も和丸も対馬丸も行き先が同じ鹿児島なので荷物と持ちが違うに乗せられる事もしくなかったらしい。15時頃になると偉い人たちが見送りに訪れ、疎開者たちに送別の言葉を贈った。

第609団はナモ103団に改名し、本土に避難する疎開者約4500名を輸送に乗せた。その大部分は年端も行かぬ児童だったという。


8月21日18時35分――多くの人に見送られながら、ナモ103団は那覇港を出発。間もなくして小雨が降り始めた。この日の午前3時に、沖縄の南東約950kmの上で気圧753mmの台風が発生し、降り始めた小雨はその台風がもたらしたであった。おかげで視界が不明瞭になってしまい離れゆく故郷のを見ようとした疎開者は文字通りを差される形となる。団は砲艦宇治を先頭に和丸、暁空丸対馬丸の順で単縦を組む。しかし速力は老朽対馬丸に合わせているせいで非常に遅く、もし潜に襲われればひとたまりもない状態であった。

宇治は新鋭艦で、優れた対兵装と爆雷こそ持っていたのだが、砲艦だからか、対潜用ソナーを持っておらず、ソナー爆雷を併せ持っていたのは旧式艦のだけだった。

ナモ103団が瀬底通過する頃、その付近に待機していた輸送3隻が密かに団へ加入。この3隻は快足を活かして護衛しで本土に向かおうとしていたのだが、「沖縄本島に敵潜水艦出現」の報を受け、護衛のあるナモ103団に混ぜてもらったのである。新たに加入したは一列縦隊を組んで航行。ところが、ナモ103団は最も速力が遅い対馬丸に合わせており、非常に鈍足だった事から、このまま同行すれば逆に敵潜に襲われてしまうと判断し、いつの間にか北上して姿を消していたという。

8月22日対馬丸台風がもたらす荒波で更に速力が落ち、とうとう団から落が護衛のため付き添うが、他の団はもう線の向こう側へと消えてしまった。15時頃、奄美大島から出撃してきた味方の水上偵察機団の上に現れて対潜を開始、その1時間後に偵が敵潜発見の報を出したため、宇治の動きが慌ただしくなり、は左へ急転すると偵に誘導されてか後方のへ突撃、宇治では総員戦闘配置の号が下された。しかし敵潜に有効打を与えられないまま日を迎え、17時30分には偵が帰投。ナモ103団は敵潜の脅威が増大する恐怖に突入した。

後に久米島北方域で潜んでいたボーフィンが全速で移動を開始。20時頃には、団に対する攻撃計画を完成させており、団が諏訪に差し掛かった時に雷撃出来るよう、先回りして待ちせを仕掛ける。予定では最初の雷撃で暁空丸を撃沈するプランだった。

22時9分、悪石島北西10kmの地点で、4.4km離れたナモ103団を狙ってボーフィン艦首発射管の魚雷6本を発射、間入れず3分後に艦尾発射管から魚雷3本を発射し、このうち3本が対馬丸の右舷に命中、ボーフィンの観測によると「対馬丸暁空丸に2本ずつ、駆逐艦に1本の魚雷が命中。対馬丸くも沈み始め、は粉砕された」とし、更なる雷撃で和丸を撃沈したと確信しているが、実際は対馬丸にしか命中していなかった。巨大な火柱を上げながら対馬丸く間に沈没

暗闇のには生存者が多く漂っており、爆雷投下が出来ない事、また対潜攻撃のため足を止めれば残ったも襲われる危険性から、宇治は和丸、暁空丸の護衛を優先して域からの急速離脱を図った。上に取り残された生存者は、護衛艦艇からの要請で救助に現れた偵や漁団に助けられたものの、1529名の犠牲者を出してしまった。このうち児童の犠牲者は784名に上ったという。8月24日対馬丸を除くナモ103団は長崎に到着。


9月3日上海付近の長江河口部にて触雷し、大破航行不能に陥ったため、およそ1ヶ上海修理を受ける。

10月21日、第176号、第177号特設駆潜艇が護衛するウ03団を護衛して香港を出発。団の揮は東運丸が執る。翌22日17時より駆逐艦栂が護衛に参加した。

ところが10月23日午前3時36分、澎北北西130kmで潜タングにレーダー探知され、団の中央部に侵入、間入れずに艦首・艦尾の発射管から魚雷を発射し、まず東運丸と寿丸が撃沈、浮上中のタングを若丸が発見して体当たりを喰らわせようとするが、左側への急旋回で回避された挙句、逆に魚雷を撃ち込まれて若丸も沈没されてしまった。10月31日、ウ03団は辛くも高雄に入港。直後、タモ27団を基まで護送。

11月17日15時、輸送3隻からなるホタ01団を第26号海防艦と護衛して香港を出発、11月19日に第18号海防艦が護衛に加入し、11月21日午後12時50分、的地の高雄へ到着した。

1945年

1945年1月15日午前7時30分、インドシナ方面から転進してきた第38任務部隊高雄、左営、澎及び広東方面を攻撃。が入渠中の香港にも敵戦爆約60機が出現したが大きな被害かった。

しかし翌日の襲は香港海南島に重点が置かれ、香港には敵戦爆約300機が襲来して栄丸、松島丸、山幸丸、第二安利丸、第二伯州丸が撃沈、特務艦神威が大破し、も小破の損傷を負った(香港陸上部を置いていた第2遣支艦隊は「が大破」と報告)。応戦したのは地上の対空砲だけだった。1月21日にもB-24が香港襲して田丸が撃沈されている。1月22日機動部隊沖縄攻撃に気を取られている隙を突いて香港を出発、何とか1月26日上海逃げ込んで修理を受ける。

フィリピン方面の戦況悪化に伴い、支那方面艦隊部は敵の次期進攻作戦中国大陸と予想、3月末を途に緊急戦備を命じた。

2月16日シンガポールから内地に向け、北号作戦に従事中完部隊と偶然遭遇、苦難の旅路を歩む完部隊感動した艦長の之内芳郎大尉は、完部隊からの何信号に「、今より隊を護衛せんとす」と返信、と護衛に参加し、完部隊の右正横3000mに占位。しかし荒に紛れての航行だったため、戦艦の艦隊速力に付いていけず僅か30分ほどで脱落してしまう。

3月20日修理了。3月25日第5空軍所属のB-24が上海に襲来して揚江子河口の輸送を撃沈、上海近郊にも機雷が敷設され、敵潜の出現も確認されるなど、本土に近い上海も最早安全な場所ではなかった。4月2日午前10時15分から8分間、P-51戦闘機3機と交戦。戦果・被害ともにし。

上海には、かつて日交換として活躍し、イタリア時に自沈したのち復旧工事を受けたコンデ・ヴェルデ(寿丸)が係留されており、本を輸送として使用するべく本土回航計画が持ち上がった。当初は4月10日駆逐艦椿砲艦宇治、第21号掃海艇の護衛で上海を出発しようとしたが、椿の触雷中破により一度断念、脱落した椿の代わりにが護衛に加わった。

4月11日16時12分、上海外港の淞に移動して寿丸と合流して出発、ところが16時59分、淞防波から僅か1800mの地点で寿丸の第2倉が磁気機雷に触れて爆発衝撃によってリベットが緩んで大量の浸が発生してしまう。幸い損傷は大きなものではなかったものの、すぐに上海へ引き返す羽になった。

度重なる警報と敵哨戒機の出現が続く中、4月13日夕刻に清水を、翌14日に軽油を積載。

4月16日午前10時2分、修理を終えた寿丸をと護衛して上海を出発。間もなく上海特別根拠地隊より寿丸団からの離脱を命じられ、翌17日14時16分に別団の護衛を一時的に実施、4月21日15時25分に上海へ帰投し、4月23日より28日まで支那方面艦隊部が保管する九六式25mm単装機2基、飛鳥装備の25mm連装機1基、椿装備の25mm単装機2基の搭載工事を行う。増強された対兵装で速1機撃墜の戦果を挙げた。

5月3日午前8時、厦門と西に対する輸送作戦のため、第144輸送艦、長江丸と上海を出港(この団は団と呼称された)、対戦闘を行いながら5月6日午前4時に厦門まで辿り着いて弾薬を揚陸。また同日中に西陸軍部隊を揚陸した。5月8日団は厦門を出発。と第144輸送艦には厦門で取り残されていた駆逐艦天津風生存者161名が分乗していた。上海への帰り道もやはり穏やかではなく、二度の対戦闘を実施。

5月20日からは北支方面で活動。敵の通商破壊作戦日本海、本土周辺にも及び、僅かに残った細い航路を死守する日々が続く。6月11日から13日にかけて州湾発上海行きのセシ団を護衛、6月25日青島へと入港する。

7月に入ると、統帥部は本土決戦準備に忙殺され、支那方面艦隊に対する作戦導及び情報交換を行う余裕がく、加えて戦況判断により連合軍が中国大陸に進攻する可性はいと見積もられたため、中央での存在感が希薄になりつつあった。8月10日ポツダム宣言受諾も上海駐在三井物産系から聞いたのみで、中央からの連絡は何もかったらしい。

8月15日終戦時、青島にてほぼ傷状態で残存。支那方面艦隊は9月9日に南で行われた降文書の調印式に参加。

戦後

9月16日青島へ進駐してきたアメリカ軍に投降。10月4日と一緒に鎮を出発して釜山に移動、釜山港内には197個の感応機雷が敷設されており、は撃沈前提の処分として航路の啓開作業に従事、作業中の10月8日、釜山港ノ瀬灯台350m付近で遂にが触雷沈没してしまう。尊い犠牲によりアメリカ軍戦車揚陸艇が入港出来るようになった。10月25日除籍。

凄惨を極めた未曾有の戦争は終わった。だが外地には軍人や邦人など約630万人が広範囲に渡って取り残され、彼らの帰が急務となっていたものの、これまでの戦闘で商は壊滅状態であり、代わりに生き残った戦闘艦艇を使った復員輸送が提案される。11月18日修理のため長崎に回航され、11月30日修理了、12月1日佐世保地方復員局所管の特別輸送艦となり、上海方面からの復員輸送に臨む。

は航行可の状態で残存していたが、あまりにも旧式艦過ぎるからか、戦勝に引き渡す戦時賠償艦に適さないと判断され、1946年3月からしばらく佐世保係留。再整備費用が多額になるので特別輸送艦への本格的な改装も行われなかった。

1948年4月佐世保港内で解体。体に関しては、福井県丹生越前町四箇港の防波に転用されたとする一方、実際に現地で使用した記録く、遺構も残っていない事から、計画のみで終わった可性がある。

1996年10月駆逐艦者之碑が佐世保海軍墓地内に建立された。

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