香椎(練習巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した香取型練習巡洋艦3番艦である。1941年7月15日竣工。南遣艦隊の旗艦や船団護衛を務め、小型商船、油槽船、小型輸送船、曳船等を拿捕する戦果を挙げた。1945年1月12日にキノン湾北方で撃沈される。
概要
大日本帝國海軍では旧式化した装甲艦や戦艦を候補生の教育に充てていた。しかし1930年には5隻あった旧式艦が、1935年には磐手と八雲の2隻だけになってしまい、また志願者の増加や軍艦の進化により旧式艦の設備では物足りなくなりつつあった。一時は球磨型軽巡洋艦で急場を凌いでいたものの間に合わなくなってきたため、予算承認を経て練習用の艦艇を新たに新造する事にし、香取型練習巡洋艦4隻の建造を計画。香椎はその3番艦にあたる。今まで帝國海軍に「練習艦」の枠組みは無く、香取型の登場によって初めて制定された前例の無い艦種であった。このため本来であれば巡洋艦の基本計画番号であるCが使用されるはずが、水上機母艦や潜水母艦等と同じJが使われ、基本計画番号J-16となっている。練習艦ゆえに戦闘度外視で設計されており、建造費は1隻あたり僅か660万円。陽炎型駆逐艦の建造費が900万円なので予算が切り詰められていた事が分かる。
設計は迅鯨型潜水母艦を参考にして艦首楼船型を採用。船体強度こそ高いが装甲防御が皆無であり、商船同然の防御力しか持っておらず、また船体が軽いためバラスト587トンを装備して重心を下げている。士官候補生275名の居住区と諸訓練施設を確保する目的で高い艦舷を持ち、全幅も15.95mと幅広く取って艦尾に至るまで広い全幅を維持する事で訓練スペースを確保。艦内には座学を行うための講堂まで持っていた。機関科の訓練を行うため蒸気タービンとディーゼルエンジンを併用した珍しい機関構造となっており、低燃費化にも貢献している。この強みは燃料が枯渇しかけた戦争末期で重宝された。訓練航海の名目で外国の港を巡航する関係上、多くの人々の目に触れるため国の代表として恥ずかしくないよう、簡略化された内部とは対照的に外見は威容を誇っていた。他にも賓客や要人が訪れる司令室等の重要施設は前例が無いほど豪華に着飾り、巡洋艦という事で艦首には金色に輝く菊の御紋も備える。兵装に関しては軍部からの要求は無く、「戦闘に使用しない」「予算の範囲内で収める」との条件付きで設計者の大園大輔造船少佐に一任された。
姉の香取と鹿島には練習航海の機会があったが、国際情勢逼迫により香椎は一度も機会に恵まれなかった。
要目は排水量5890トン、全長133.5m、水線長130m、全幅15.95m、最大速力18ノット、航続距離は12ノットで7000海里、乗員315名と候補生275名。武装は50口径14cm連装砲2基、40口径12.7cm連装高角砲1基、25mm機銃4丁、53.3cm魚雷連装発射管2基、カタパルトと水上偵察機1機を保有する。
格安軍艦奮闘記
1939年に策定された海軍軍備充実計画(通称マル四)にて、巡洋艦101号艦の仮称で建造が決定。予定では香取型は2隻のみ建造で終わるはずだったが、日華事変の長期化や米英を始めとする諸外国との関係の悪化により海軍士官の拡充が必要と判断され、追加でもう1隻建造される運びとなった。
1940年5月30日、豪華客船の建造ノウハウに富む三菱重工横浜船渠で起工。軍艦ながら詳細設計の大部分は三菱重工側に任されているという珍しい体制が取られた。8月30日に軍艦香椎と命名され、1941年2月14日に進水し、4月2日に艤装員事務所を設置する。順調に工事が進む中、対米関係の急速な悪化により国内は臨戦態勢に突入し、もはや練習巡洋艦として運用する機会は残されていなかった。このため戦闘と旗艦任務を見越して礼砲を4門から2門に減らして25mm機銃2門を増備し、磁気機雷対策用の舷外電路も装備された。建造中から運命に翻弄されながらも香椎は7月15日に竣工を果たし、初代艦長に岩渕三次大佐が着任するとともに佐世保鎮守府に編入された。
7月31日、南部仏印進駐と進駐後の東南アジア方面警備のため帝國海軍は南遣艦隊を新編し、香椎、海防艦占守、特設砲艦金剛山丸、特設掃海艇音羽丸、留萌丸、第81警備隊、第81通信隊が編入され、8月2日に香椎は南遣艦隊司令平田昇中将が乗艦する旗艦に指定。8月4日、中国国民党の補給路(援蒋ルート)となっているインドシナ南部に部隊を上陸させて遮断すべく、佐世保を出港。事前に宗主国ヴィシーフランスとの話がついていたため上陸作戦は円滑に進み、8月11日午前7時にサンジャックへ入港して第2遣支艦隊から指揮権を引き継ぎ、仏印方面を作戦範囲に定めた。こうして援蒋ルートの遮断には成功したものの、逆に米英を刺激して対日石油禁輸という手痛い経済制裁を招く結果となった。
戦争の足音が迫り来る10月15日、二代目艦長に小島秀雄大佐が着任し、10月18日には南遣艦隊司令に小沢治三郎中将が着任、対米英戦争に備えて10月21日に南遣艦隊は大本営直轄から連合艦隊直轄となり、10月24日、サイゴンで停泊中の香椎に小沢中将が乗艦。11月5日、香椎は南方部隊馬来部隊に編入され、これに伴って翌日南遣艦隊司令部は地上に移動。11月23日、海防艦占守とともにサンジャックを出港し、11月25日に艦艇の集結地となっている海南島三亜港へ移動。帝國海軍は南方作戦を見越して南遣艦隊の規模を拡充し続けており、練習巡洋艦に過ぎない香椎では指揮能力が心もとないため、小沢中将は陣頭指揮用に重巡洋艦を要求。これを受けて山本五十六司令は第4戦隊から鳥海を抽出し、11月27日に鳥海へ旗艦を移した。
12月2日、連合艦隊から「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文を受信。これは日米外交交渉を打ち切り、12月8日以降に軍事作戦を開始する事を意味した。もはや対米英開戦は避けられない。帝國陸海軍はイギリス東洋艦隊の一大拠点があるシンガポールを攻略するためマレー作戦を策定。シンガポールはその堅牢さ故に海路からの攻略が困難なため、マレー半島のコタバルとシンゴラに第25軍を上陸させ、そこから南下して陸路でシンガポールに向かうのである。香椎には第25軍を乗せた船団を無事上陸地点まで送り届ける任が与えられた。
12月4日午前7時30分、コタバルとシンゴラに上陸する山下奉文中将の第25軍先遣兵団を乗せた7隻の輸送船を護衛して三亜を出港し、船団は第一警戒航行隊形を組む。香椎には第5師団長松井太久郎中将が乗艦していた。輸送船団にはバンコク方面に向かう船舶も含まれており、それらを全て合わせると17隻に及んだ。波はとても静かであったが、大本営にとってマレー半島沖に到着するまでの4日間は非常に気を揉んだ。ひとたび敵の攻撃を受ければ上空援護中の味方航空隊の奮戦に任せるしかないのである。12月6日19時に船団はタイ湾に向けて変針、翌7日午前10時10分には小沢中将の「上陸は予定の如く決行する」という旨の信号が旗艦鳥海から放たれ、その20分後に輸送船団は小船団に分かれて各々の上陸地点に向かう。幸いこれまでの航海で敵襲は無く、敵に発見された予兆も確認されなかった。後は作戦を決行するだけである。
大東亜戦争
1941年
1941年12月8日午前2時30分頃――真珠湾攻撃よりも前――、香椎は山浦丸を護衛してバンドン川河口の北約23海里に入泊し、第25軍の上陸支援を行う。迅速な上陸が功を奏して英印軍の迎撃が始まる前にバンドン飛行場の占領に成功した。午前7時には上陸成功したシンゴラに山下中将の戦闘指揮所が開設し、英印軍の迎撃を受けながらも上陸作戦は順調に推移。12月9日、第二次マレー上陸船団を護衛するため第3水雷戦隊の一部とともに第1護衛隊に編入され、船団が待つカムラン湾へ回航。
12月13日午前8時15分に軽巡川内と39隻からなる大規模船団を護衛して出港。先の上陸作戦の折、泊地内もしくは帰投中の輸送船が敵潜水艦に襲われる事態が多発したため、海軍の護衛艦艇を集めるべく2回に分けて送るはずだった船団を一纏めにし、総計39隻に及ぶ大規模船団が組まれたのだった。駆逐艦と掃海艇に先導された船団は二列縦隊を作り、その前後に巡洋艦2隻(香椎、川内)、駆逐艦3隻、駆潜艇1隻を配し、更に第4駆逐隊が前路哨戒を担当。14時30分、カモウ岬沖で陸軍輸送船東山丸が敵潜の雷撃を受けて擱座したとの報告が入り、17時10分に小沢中将より対潜警戒を厳重にするよう命じられる。マレー沖海戦によって目下最大の脅威された英新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが撃沈され、連合国海軍はしばらく立ち直れないと判断されたものの、未だ潜水艦の脅威は健在であった。
道中の12月15日に船団は二手に分かれ、香椎、川内、浦波、夕霧、朝霧、天霧、海防艦占守、第四号掃海艇の8隻はパタニ方面に上陸するグループの護衛についた。翌日船団はパタニ泊地に到着して航空関係者を揚陸。シンゴラ泊地を拠点にし、シンゴラ、パタニ、コタバルの海岸60海里圏内を警戒する駆逐隊に協力した。12月16日午後12時30分、香椎はシンゴラの25度54海里の沖合いで潜水艦らしきものを発見するが、正体は掴めなかった。偵察の陸攻から敵潜2隻の侵入が報告されていた事もあり、この日のうちにカムラン湾へ引き揚げる予定だったものの、橋本少将の命で引き続き警戒任務を続行する。しかし翌17日22時15分、パタニ灯台沖で特設駆潜艇長江丸が浮上中の敵潜3隻を発見して交戦したとの情報が入り、泊地を警戒する艦艇に衝撃が走った。特にシンゴラ方面は第4駆逐隊と掃海艇2隻の別方面抽出により警戒するのが香椎、占守、掃海艇3隻だけになっており、急遽コタバル方面で活動していた川内と浦波が派遣されたが、これでも対潜能力に不安を残していた。そこでパタニ方面の揚陸を中止してコタバルに移動させ、護衛戦力を集中する事で増大する敵潜水艦の脅威に対抗。12月17日13時、カムラン湾への回航を指示する馬来部隊電令作第50号が発令され、12月19日20時に駆逐艦敷波を伴ってシンゴラを出発、翌朝川内や駆逐艦朝雲と合流して帰路につき、12月21日にカムラン湾へ帰投した。
東南アジアの制海権を握った事で各種進攻作戦が前倒しとなり、12月24日正午、小沢中将は馬来部隊に新兵力部署を発布。香椎は第5水雷戦隊指揮下の第2護衛隊へ転属し、同日中に占守や第19駆逐隊と黒潮丸を護衛してカムラン湾を発つ。12月27日午前10時43分、華南の仙頭沖で野島丸が米潜水艦に雷撃されて大破したため香椎と駆逐艦2隻が現場に急行。駆逐艦に対潜制圧を任せ、香椎は野島丸を護衛して香港まで護送したのち、台湾西南西の馬公へ移動。現地でシンゴラ及びバンコクへ向かう第25軍と第15軍の一部を乗せた輸送船団と合流。
12月31日午前8時、先導の第8駆逐隊が出発したのを皮切りに続々と護衛艦艇と船団が出発し、港外で第一警戒航行隊形を組む。陸軍輸送船56隻を重巡1隻、軽巡1隻、練習巡洋艦1隻、駆逐艦16隻、海防艦1隻、特設艦船1隻が護衛、香椎は船団の中央に占位しながらバンコクに向かう第15軍の船団護衛を担当する。空は何処までも続く灰色の雲に覆われていた。まるで日本の行く末を暗示しているかのように…。
1942年
香椎は1942年の年明けを洋上で迎えた。フィリピン方面を担当する第3南遣艦隊が新設された事で、護衛任務の途中で南遣艦隊は第1南遣艦隊に改名。
順調に航海が進んでいるように見えた1月3日15時30分、海南島沖で陸軍徴用船明光丸が焼夷弾の自然発火が原因の火災を起こし、直ちに香椎、駆逐艦綾波、荒潮、吹雪、辰宮丸が救援に向かった。だが弾薬に燃え移って次々と誘爆が起こり、18時43分に爆沈してしまう。海上には風速8mの強風が吹き荒んでいたが、各艦の奮戦により船員と第1挺進団第1連隊約1500名全員が救助され、陸軍が船団指揮官の原少将に謝電を送っている。翌日午後、カムラン湾南南西約80海里で小西丸が敵潜の雷撃を受けたとの報を受け、16時17分に迂回航路を取る。1月7日正午、船団はカモウ岬南方50海里に到達。香椎、占守、綾波、吹雪と第15軍の船団11隻は船団から分離してそのままバンコク方面に向かい、1月9日19時に無事到着。他の護衛艦艇はシンゴラ方面に向かっていったが香椎のみ現地に留まった。
1月11日、機密馬来部隊命令作第15号によりシンゴラ基地部隊に編入、同地の警備を担う事に。翌12日には第1南遣艦隊の旗艦を鳥海から継承して旗艦任務に復帰した。1月13日夜、シンゴラにPBYカタリナ飛行艇が出現して銃爆撃を加えてきた。間もなく迎撃の九七式戦闘機が現れ、約15分間の空戦の末にカタリナが発火して海上に墜落。友軍の高射砲部隊からの誤射を受けながらも見事着陸した九七式戦の搭乗員に、小島艦長は賞詞を贈っている。1月24日17時、シンゴラ灯台沖で浮上の敵潜水艦に向けて砲撃。
2月1日、小沢中将はマレー作戦の総仕上げとなるL作戦を発動。パレンバンの油田地帯を確保するという非常に重要な作戦で、また2月に入ってもなお連合国艦隊の巡洋艦が健在だったため馬来部隊のほぼ全力が投じられる事となり、同日中に香椎もバンコクを出発して翌2日にサイゴンに回航。2月4日、陸軍部隊を乗せてサイゴンを出発し、2月6日にボルネオ島に揚陸した後、2月9日にカムラン湾へ入港。2月11日、スマトラ島の攻略を担当する第38師団を乗せた輸送船14隻を護衛して出撃、バンカ海峡で陥落寸前のシンガポールから脱出してきた敵艦艇群や空襲に遭遇するもこれを排除し、迎撃の連合国艦隊をも航空攻撃で撃退(ジャワ沖海戦)、2月16日にバンカとパレンバンへの上陸に成功する。その後、香椎はアナンバス諸島に向かい、3月1日に船団を護衛して出港、翌日占領したばかりのシンガポールへ入港した。
3月8日16時、北スマトラのサバン及びクタラジャに上陸する陸軍近衛師団小林支隊を乗せた輸送船8隻を、巡洋艦香椎と由良、駆逐艦6隻、掃海艇4隻、駆潜艇2隻で護衛して出港(T作戦)。3月11日午前6時30分、船団は二手に分かれてそれぞれの上陸地点へ向かい、翌日午前1時より上陸を開始。連合軍の抵抗は無かった。上陸に成功させて帰路の途上にあった3月12日午前8時50分、バチー島近海で香椎はオランダの小型商船を発見して拿捕。続いてクタラジャ沖で曳船、油槽船、小型輸送船、ダルマ船11隻を拿捕する。更に翌13日20時30分、シグリ灯台沖でオランダ商船ザバンバイを拿捕し、22時に第1号掃海艇と第8号駆潜艇に引き渡してペナンに回航させた。3月14日20時、タミアン岬灯台沖で護衛任務を完了し、ペナンを経由してシンガポールに帰投。
予想以上に早いシンガポール陥落とジャワ島のオランダ軍降伏により、アメリカ軍が頑強に抵抗を続けるフィリピンを除いて東南アジア一帯は日本の勢力圏に収まった。そこで宙に浮いた第56師団をビルマに向かわせて同方面の援蒋ルートを遮断する計画が立てられた。3月19日、第56師団を乗せた32隻の輸送船団を護衛して出港、翌日ペナンから出発してきた野島丸が合流した。敵潜の妨害もなく3月24日正午に船団はラングーンに到着。護衛任務を終えた香椎は輸送船を護衛して帰路につき、ペナンを経由してシンガポールに向かっていたが、4月1日、通り道のマラッカ海峡にて英潜水艦トルーアントの雷撃を受けて空荷の八重丸と春生丸が撃沈されてしまった。同日午後シンガポール到着。4月2日、今度は第18歩兵師団の輸送船46隻を駆逐艦旗風、敷波、海防艦占守、第8号駆潜艇とともに護衛してケッペル西泊地を出発。2日後ペナンに寄港した際に任務から外されて急設網艦初鷹と交代し、反転、同日中にシンガポールへ帰投した。4月14日、激しい戦闘が起きなくなったため第1南遣艦隊の旗艦に返り咲き、小沢中将が乗艦。馬来部隊に参加していた艦艇はミッドウェー作戦参加のため次々に内地帰投していったが香椎はシンガポールに留まり、旗艦任務をこなしながら南西方面の防衛を務める。
6月3日から14日にかけてケッペル港の乾ドックで入渠整備を受け、6月25日に三代目艦長重永主計大佐が着任、7月14日に第1南遣艦隊の司令官が大川内伝七中将に交代した。
同盟国ドイツからの強い要望を受け、帝國海軍はインド洋及びベンガル湾方面で通商破壊を行う「B作戦」を実行する事とし、作戦参加の駆逐艦や潜水艦にメルギーへ集結するよう命令。7月28日、香椎もまた作戦に参加するべくシンガポールを出港し、7月31日にメルギーに到着、8月1日午前8時50分より駆逐艦村雨に横付けして応急修理を行った。後は作戦開始を待つばかりだった8月7日、突如として凶報が駆け巡る。アメリカ軍が予想より早い反攻に転じてガダルカナル島と対岸のツラギに大挙襲来してきたのである。こうなってしまっては通商破壊どころではない。翌日B作戦は中止となり、集結していた艦艇は一部を除いてソロモン方面に派遣。8月9日、香椎も僚艦の後を追うようにメルギーを発ったが、間もなく「アンボン島東方50海里に敵の有力な艦隊が出現」との報告が入ったためラングーンやペナンに退避するも、結局誤報と分かり8月20日にシンガポールへ移動。急ぎ南西方面の警備任務に復帰する。
ガダルカナル島争奪戦は激化の一途を辿ったため、大本営は瀬戸内海と南西方面にいる部隊をソロモン方面へ送る「沖輸送」を企図し、香椎も一時的とはいえ激戦地に赴く事になった。このためアメリカの重巡洋艦に見えるよう、射出機支柱の前方に偽装煙突を立てて2本にするという工作が施されている。9月24日、香港に寄港して陸軍部隊を乗艦させ、9月26日に軽巡球磨や水雷艇鵲とともに輸送船日枝丸、萬光丸を護衛して出発。シブヤン海とサンベルナルジノ海峡を通過して太平洋に進出し、10月4日にパラオに到着。ここで球磨、鵲、萬光丸と別れ、先行する形で香椎と日枝丸はラバウルに向かい、途中で駆逐艦有明を護衛に加えて10月8日にラバウルへ到着。第23軍独立山砲第10連隊と独立工兵第19連隊を揚陸した。帰りはダバオを経由して10月19日にシンガポールへと帰投。11月11日にパレンバンへ寄港して燃料補給。
激闘が行われているソロモン方面とは正反対に東南アジアは平穏そのもので、連合軍の潜水艦が嫌がらせ程度の攻撃を仕掛けてくる程度だった。しかしニコバル諸島、アンダマン諸島、ビルマ方面に連合軍反攻の予兆が見られたため、アンダマン諸島を防衛拠点化すべく陸軍近衛第3連隊第3大隊を増派が決定。12月4日、香椎はシンガポールを出港し、12月10日にポートブレアに入港して増援部隊を揚陸。12月14日にムンタワイ諸島シボルカに寄港、同島の陸軍を支援するため香椎の乗組員58名を抽出して臨時の陸戦隊を編成、翌日上陸させている。
1943年
1月16日にシンガポールへ戻ってきた香椎は乾ドックに入渠。1942年末から敵潜水艦の活動が活発化してきた背景もあり、前後マストを短縮するとともに前部マストへ対潜見張り所を新設し、羅針艦橋に防弾板を設置する等の小改装を行い、1月21日に出渠。
インド洋方面の連合軍に新型機が配備される等の不穏な動きが見られたのを受け、再びアンダマン諸島への増援輸送に励む。7月24日、呉第8特別陸戦隊を乗せた特設運送船屏東丸を第7号掃海艇と護衛してシンガポールを出港し、7月28日に無事ポートブレアに入港して増援を揚陸、7月31日にシンガポールに戻った。続いて8月17日、部隊と軍需品を載せてシンガポールを出港し、8月22日にニコバル諸島へ到着して揚陸、8月25日にシンガポールに帰投する。次はシンガポールからサバンに移送する第331海軍航空隊の整備員を乗せて8月27日に出港。サバン入港を直前に控えた8月29日、プロウェ沖で英潜水艦トライデントから雷撃され、魚雷8本が向かってきたが回避に成功、8月31日にシンガポールへ帰投する。9月1日から11日まで入渠整備。9月21日、増援部隊と軍需品を積載してシンガポールを出港、ベラワンとポートブレアに輸送した。以降、11月30日までシンガポールとアンダマン諸島を往来して増援輸送に従事。
12月1日、帝國海軍は八雲、磐手、香椎からなる練習戦隊を新設。これに伴って香椎に内地帰投が命じられて12月26日にシンガポールを出発。12月31日に呉鎮守府部隊呉練習戦隊に編入されて警備艦兼練習艦となる。
1944年
1944年1月1日から3日まで高雄に寄港し、1月6日に佐世保へ到着して工廠に入渠。南部仏印進駐に参加してから実に2年以上ぶりの内地であった。
2月1日に出渠した香椎は機密呉鎮守府命令第24号に従い、佐世保にて係留されていた中華民国の軽巡洋艦平海を曳航して出発、2月4日に呉へ回航した。その後、江田島に移動して練習艦となり候補生たちに実習の場を提供する。3月5日に五代目艦長に松村翠大佐が着任し、翌日発令された機密呉鎮守府命令第88号に従って3月13日から18日まで砲術学校の生徒艦務実習に協力。3月20日、江田島で海軍兵学校を卒業した少尉候補生を乗せて出発、大阪まで移送する。しかし香椎が練習艦でいられた時間は短かった。
3月25日に海上護衛総司令部に編入され、3月30日より呉工廠で対潜掃討艦へと改装される。使わない煙突両舷の魚雷発射管を撤去して12.7cm連装高角砲2基を新たに装備し、単装機銃は38基に増備と大幅に増やして対空能力を強化。対潜能力強化も視野に入れられ、九四式爆雷投射機を左右に2基ずつ装備、艦後方の司令部居住区を改造して爆雷300個を搭載出来るようにした。爆雷庫は対水雷防御のためコンクリート防御を実施。実戦投入に向けて貧弱な防御力にも改良が加えられ、艦内の水密区画を強化するとともに舷窓も下段のものは閉塞されて不沈対策とし、他にも水測兵器の充実が図られている。4月29日改装完了。5月2日に第1海上護衛隊に部署し、瀬戸内海西部で訓練に従事した後、5月24日に門司港へ回航されて最初の船団護衛任務に臨む。海上護衛隊では前々から「海防艦だと指揮が執りにくい」との不満が噴出しており香椎の転属はその不満を聞き届けた結果だった。十分なスペースと通信能力を持つ香椎はまさに天からの贈り物だったようで、早速第7護衛船団司令松山光治少将が乗艦する旗艦に指定された。
1回目の船団護衛
5月29日午前6時、香椎に将旗を掲げ、陸軍特殊船神州丸や油槽船11隻からなるヒ65船団を護衛して出港。護衛戦力は香椎、商船改造空母海鷹、海防艦淡路、千振、第19号、第60号駆潜艇の6隻であった。翌日機雷敷設艇燕が鹿児島沖で護衛に加入。一路シンガポールを目指す。しかし6月1日の日没後より雨が降り始めて視界が悪くなり、その降りしきる雨に紛れるように黒い影が船団に忍び寄る。6月2日午前2時45分、高雄東方を航行中に米潜ギターロが2本の魚雷を発射、タンカーに向けて白線が伸びていくのを目撃した海防艦淡路は盾となるべく自ら射線に割り込んで撃沈。淡路の沈没はヒ65船団に混乱をもたらし、一時的に船が散り散りになる。次にピクーダがヒ65船団に襲い掛かり、有馬山丸に向けて2本の魚雷を発射するが辛くも回避に成功、しかし回避運動の影響で神州丸と衝突事故を起こしてしまい、搭載爆雷の誘爆で神州丸が大破するなど混迷を極めた。香椎は大破航行不能に陥った神州丸を曳航しながら有馬山丸に付き添い、千振と第19号の護衛を受けながら翌3日正午に基隆へ入港した。6月4日に基隆から高雄へ移動。幸い有馬山丸も神州丸も致命傷には至らず船団の同行が可能だった。
6月8日午前9時6分、インドシナ沖で米潜水艦ガンネルに発見される。船団で最も大型な海鷹を狙っていたが、レーダーが34マイル先の航空機を捉えた事で甲板士官が焦って急速潜航し、その間にヒ65船団との連絡が途絶した。これで厄が落ちたのか以降は敵襲もトラブルも無く6月12日13時50分に目的地のシンガポールへ到着。
6月17日午前4時、高速船4隻で編成されたヒ66船団を護衛してシンガポールを出港。敵潜水艦が待ち伏せ出来る深海を避けるため、浅瀬が多く味方の支援が受けやすい大陸沿いの航路を使って本土を目指す。往路と違って平穏な航海となり6月26日13時に船団は門司へ無事到着。6月28日に呉へ入港した後、7月1日から10日にかけて工廠に入渠、マリアナ沖海戦の戦訓により更なる対空能力強化が図られ、単装機銃、22号電探、逆探装置を増備した。7月12日、第5護衛船団司令の吉富説三少将が座乗する旗艦となる。
2回目の船団護衛
7月13日16時20分、油槽船14隻からなるヒ69船団を護衛して六連を出港。今回の護衛戦力は香椎、海防艦千振、佐渡、第7号、第17号、商船改造空母神鷹、海鷹、大鷹の計8隻。空母が3隻参加していたが、大鷹と海鷹はマニラ向けの航空機を満載した輸送艦扱いだったため、対潜哨戒用の九七式艦攻を持つのは神鷹ただ1隻のみだった。上空哨戒中の九七式艦攻が何度か敵潜発見を報じたものの雷撃は受けず、7月17日19時45分に高雄の左営泊地へ到着して仮泊、翌18日午前2時45分に出発するが間もなく米潜水艦ロック、タイルフィッシュ、ソーフィッシュのウルフパックに捕まってしまう。午前6時、浮上中のロックが2TL戦時標準型タンカーはりま丸を狙って魚雷4本を発射。この雷撃自体は外れたが、これを皮切りにウルフパックが一斉に牙を剥く。次にソーフィッシュが機関不調で船団から落伍したはりま丸目掛けて9本の魚雷を発射、遂に1本が命中して高雄への退避を強いられる。度重なる敵潜の襲撃を受けて第17号海防艦が対潜掃討に移るも、午前10時55分、タイルフィッシュの雷撃で第17号海防艦の艦首が大破し、高雄へ退避。船団から2隻の艦船が脱落する被害と引き換えにウルフパックを振り切り、7月20日20時11分に中継地のマニラヘ入港、7月22日に海鷹と大鷹が持ってきた航空機を揚陸する。ここで船団の再編成が行われ、輸送任務を終えた大鷹はヒ68船団とともに内地帰投、海鷹はマモ船団護衛のためマニラに留まる事になり、最終目的地シンガポールまで同行する空母は神鷹のみとなる。新たな護衛艦艇として第13号と第19号海防艦が参加。
7月25日午前5時45分、ヒ69船団とともにマニラを出港。今回はウルフパックに捕まらず平穏な航海となり7月31日17時36分に無事シンガポールへ到着。船団の出港準備が整うまで休養する。帰路はヒ70船団(中身はヒ69船団)の護衛をする事になり、新たな護衛戦力として内地帰投が命じられている駆逐艦霜月が参加。8月4日21時、香椎、駆逐艦霜月、空母神鷹、海防艦佐渡、千振、第13号、第19号でタンカー8隻を護衛してセレター軍港を出発。太陽が昇っている間は神鷹から飛び立った九七式艦攻が目を光らせる。道中で内地帰投する軽巡北上(中破)が合流し、攻撃を受ける事無く8月14日18時20分に有川湾へ到着。だが引く手数多な香椎に休息の時間など無く、8月19日から24日まで呉工廠で入渠整備を受けた後、呉を出発してヒ73船団が待つ門司へ回航。
3回目の船団護衛
8月25日午前6時30分、加入船舶12隻からなるヒ73船団を空母雲鷹や海防艦千振、第1号、第3号、第13号、第19号、第21号、第27号と護衛して六連を出発し、同日20時5分から翌26日午前4時35分まで有川湾に仮泊。8月26日午前9時、エンジントラブルによるものか吐き出す黒煙の量が通常より多い瑞穂丸、あらびあ丸、黒龍丸は敵潜水艦に見つかりやすくなるとして残留を命じられ、萬光丸は機関不調により九州に反転。同日13時、五島列島沖で陸軍配当船音羽山丸が敵潜を探知して爆雷攻撃し、8月28日午前11時40分にも海防艦千振と九七式艦攻が協同で対潜攻撃を行うなど緊迫した航海が続いたが、8月29日に高雄へ寄港、同日中に出発する。
9月1日午前9時、マニラに向かう護国丸、香久丸、吉備津丸、伊良湖が第21掃海隊や海防艦屋代の護衛を受けて離脱し、香椎は残りの船団を率いてシンガポールを目指す。16時に第19号海防艦が潜水艦を探知して爆雷投下しているが効果不明。同日深夜、ルソン海峡にて雲鷹所属の九七式艦攻が急速潜航中の米潜水艦タニーを発見、すかさず2発の60kg爆弾を投下して損傷を与え、撃退した。タニーを退けた後の9月2日午前1時30分にも音羽丸が潜水艦探知をしており気の休まる暇が無かった。9月3日20時23分にサイゴン南方で海軍配当船東亜丸が触雷するも大した被害は出ず、9月6日午前9時に解列してシンガポールへの入港を果たした。
9月11日午前11時、内地に向かうヒ74船団を護衛して出発。だが此度の航海には恐怖と悲劇が待っていた。翌日午後12時45分、九七式艦攻が海面に浮かぶ油面を発見、潜水艦からの漏油と判断して航空機、第13号、第27号海防艦が爆雷を投下した。これからヒ74船団が向かうルソン方面では米潜水艦クイーンフィッシュとバーブが不時着水機からパイロットを救助する任務に就いており、自ら虎口に飛び込む形となってしまう。
9月16日夜、香椎は雲鷹に「敵潜発見」の報を送った。22時31分、クイーンフィッシュが御室山丸を雷撃。幸い命中こそしなかったが香椎から敵潜襲撃を知らせる赤色弾が打ち上げられて恐怖の夜が幕を開けた。翌17日午前0時34分、今度はバーブが放った魚雷が特設運送船あづさ丸と雲鷹に直撃して大火災が発生、16分後にあづさ丸は爆沈し、雲鷹は船団から落伍しながら午前1時42分に被雷を伝える電文を発した。そして午前7時55分に艦尾より沈没。48機の艦載機ごと海に没して空からの援護を失った。船団は危険なルソン海域を突破、9月18日18時から翌19日正午まで高雄に寄港し、近くて遠い本土に向かって走り続ける。手痛い犠牲を払いながらも9月23日17時に門司へ到着した。
9月24日から10月19日まで佐世保工廠で入渠整備を行い、出渠後は瀬戸内海西部で整備と訓練を行う。
4回目の船団護衛
10月26日18時、海防艦鵜来や能美等とともにヒ79船団を護衛して門司を出港。海防艦への被害が甚大なのか護衛には機雷敷設艦が多く見られた。翌日第17号海防艦が、10月28日14時に第21号掃海艇が護衛に加わる。10月29日19時30分、基隆に向かう陸軍徴用船めるぼるん丸を護衛するため海防艦鵜来と第17号が一時的に離脱するが22時50分に2隻とも復帰、10月30日19時50分から翌日15時30分まで高雄に寄港。11月2日14時32分、海南島東部でB-24爆撃機1機から高高度爆撃を受けるも被害なし。フィリピン方面ではアメリカ軍の猛攻が続いていたが航海自体は意外なほど平穏に進み、11月8日午後12時30分、ヒ79船団はシンガポールへ入港した。
入港中の11月15日、海上護衛総司令部第101戦隊が新編され、香椎は海防艦鵜来、大東、対馬、第23号、第27号、第51号を率いる旗艦になる。
11月17日18時、海防艦新井崎、三宅、満珠、能美、鵜来、第17号、第51号とヒ80船団を護衛してシンガポールを出港。11月20日午前6時にサンジャックから来た第23号海防艦が護衛に加わるが、入れ替わる形で午後12時40分に第17号海防艦がサンジャックに向かう目的で離脱。翌日から視界不良に悩まされる事となり衝突を避けるため船団を一時分散させる。11月28日午前9時30分、高雄行きの特設運送船良栄丸、陸軍徴用船有馬山丸、海防艦新井埼が船団より離脱し、残った船団は12月2日17時10分に伊万里湾へ到着。
5回目の船団護衛
12月19日13時30分、香椎は第101戦隊の大東、第23号、第27号、第51号を率いてヒ85船団とモタ38船団を護衛して門司を出港。船団はルソン島へ増援として送る第23師団(残余)、第19師団、第10師団を乗せていた。もはやシンガポール行きも危険に満ちた航海に成り果てており、敵潜と敵機の襲撃を避けるため大陸沿いの航路を選択し、対馬海峡を通って朝鮮半島西岸を北上、仁川沖から西進して黄海を渡り、山東半島に沿って南下する。翌20日21時15分、海防艦対馬が護衛に参加。12月23日23時10分に高雄外港で一旦停泊するが、敵機動部隊接近の報が入ったため翌24日午前0時30分に高雄を脱出、幸い誤報だったようで約20時間後に高雄へ戻った。ここでルソン行きの神州丸、吉備津丸、日向丸、青葉山丸と別れ、護衛艦艇を伴って先発していった。
12月27日午前10時、香椎はヒ85船団を護衛して高雄を出発する。翌日海南島の楡林へ向かう帝北丸と対馬が分離、12月29日17時25分に香港から来た第101号掃海艇と南シナ海で合流。しかし12月30日と31日、ヒ85船団の上空にB-25爆撃機が触接に現れる。撃退には成功したが大規模攻撃の前触れだとして不穏な空気に包まれた。
1945年
対潜監視に不利な夜間を避けるべく、1945年1月1日17時20分にキノン湾へ入って避泊し、夜が明けた翌日午前7時に出港。1月3日午前0時50分から午前7時30分までナトラン沖で仮泊した後、南に向かって出発するが、船団後方よりエンジンを停止してグライダーのように滑空してきたB-24の爆撃を受け、左列最後尾の帝北丸に爆弾1発が直撃。海防艦対馬に付き添われて海南島の楡林へ退避した。
1月4日18時30分、ヒ85船団はサンジャックへ到着。同日14時25分に出発して18時20分にサイゴンに回航されるも、ここでシンガポール行きを断念し、ヒ85船団の編成が解かれた。輸送船は本土に持ち帰るための生ゴム、石油、ボーキサイト等の貴重な天然資源を積み込み、1月6日午前9時25分、サイゴンを出発してサンジャックに移動。しかし停泊中にアメリカ軍がルソン島へ上陸したとの凶報が入る。これは本土とインドシナが分断された事を意味していたが、少しでも危険度が低いうちに強行突破する事になり、急ぎ出港準備を整える。
1月9日正午、新たに編制されたヒ86船団を護衛して出港。タンカー極運丸、さんるいす丸、大津山丸、昭永丸、貨物船永萬丸、予州丸、辰鳩丸、健部丸、第63播州丸、優清丸からなる船団を第101戦隊の香椎、海防艦鵜来、大東、第23号、第27号、第51号が護衛する。敵潜水艦の襲撃を極力回避すべく沿岸から僅か2km沖合いを航行する接岸航法を採用。また目視での警戒が困難な夜間航行は避け、1月11日午前2時30分にバンフォン湾で、同日21時20分にキノン湾で仮泊。
だが全てを葬り去る魔手はすぐそばまで来ていた。米第38任務部隊はグラティテュード(感謝の意)作戦を発動し、サンジャックにいるされた伊勢型戦艦2隻と軽巡大淀を撃沈するべく今まで水上艦艇が侵入していなかった南シナ海へ堂々と侵入してきたのである。そしてインドシナ方面をくまなく捜索。最終的に伊勢と日向を発見出来ず攻撃は失敗に終わったが、その巻き添えを喰らう形でヒ86船団が狙われる羽目になる。
最期
1945年1月12日朝、ヒ86船団はキノン湾を出発。午前9時、少数の敵艦上機と交戦して撃退に成功するが、敵に発見された事を悟った渋谷司令は接岸航路に変更して船団を二列縦隊に変更。陸地側を輸送船を、沖合い側を第101戦隊が航行し、香椎は戦隊の先頭に立った。もし敵潜からの雷撃があれば第101戦隊が身を挺して船団を守り、万が一輸送船が被雷しても陸地へ座礁しやすくしていた。
午前11時6分、第38.3任務部隊の敵艦上機16機が出現。香椎と海防艦は12.7cm連装高角砲で対抗し、輸送船も25mm機銃を撃って対空砲火を打ち上げるも、抵抗むなしくまず最初に予州丸が被弾沈没させられた。敵の第二波が現れると渋谷司令は沈没の時に備えて機密書類を処分するよう命じた。午後12時20分、永萬丸が3発の命中弾を受けて沈没、続いて大津山丸も被弾炎上する。絶望的戦況の中、香椎は決死に輸送船を守り続けた。
13時45分、ヘルダイバーとアベンジャーに襲われて香椎は2発の直撃弾を受け、更に右舷へ2本の魚雷と艦尾に3発の爆弾が叩き込まれて弾薬庫に誘爆し、艦尾部分が爆砕されてしまう。14時5分に総員退艦命令が出され、艦首を突き上げながら沈没していく中、沈む瞬間まで香椎の機銃は火を噴いて抵抗したという。乗組員621名が戦死、19名は続航していた鵜来に救助された。
香椎が沈没した後もヒ86船団は攻撃を受け続け、14時16分に第26号海防艦が沈没、14分後に大津山丸が操舵不能となって座礁してしまい、護衛が無くなった極運丸は最大の船舶だった事もあって集中攻撃を受けて黒煙を噴き上げながら沈没。最後まで生き残っていたさんるいす丸が16時頃に自ら座礁したのを最後に輸送船団は全滅。生き残ったのは運良くスコールに隠れられた海防艦鵜来、大東、第27号の僅か3隻だけだった。この日だけで33隻の船舶と13隻の戦闘艦が撃沈され、香椎らの沈没は即ち南方航路の閉鎖を意味していた。
関連項目
- 1
- 0pt