マルゼンスキー 単語

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マルゼンスキー

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そのひと走りひと走りに、偉大なる名血の片鱗をターフに散りばめた傑がいた。

マルゼンスキー。
八戦全勝という敗の成績が物語る通り、他をはるかに圧倒する強さが余りに印的だ。
卓越した類なきスピード。それは英国三冠馬ニジンスキー
脈々と続いてきたネアルコ血脈、そのの後継者のしでさえあった。

不滅の名血マルゼンスキー。
私たちは心待ちにする、彼の産駒クラシックを制する間を。

JRA「ヒーロー列伝」No.6 マルゼンスキーexit

マルゼンスキーとは、1974年生まれの日本競走馬種牡馬であったサラブレッドである。称は1970年代後半のブームを反映した「スーパーカー」。

な勝ち
1976年:朝日杯3歳ステークス
1977年:日本短波賞

1976年優駿賞最優秀3歳

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては
マルゼンスキー(ウマ娘)を参照してください。

概要

戦績は8戦8勝。生涯敗で現役を終え、今なお日本競馬界での歴代最強の一と言われる事も少なくない。
勝利の中に重賞が2つ(府中3歳Sは、後に重賞に格上げ)含まれる。
敗とは言え重賞は2勝と戦績だけ見るとやや地味に感じられがちだが、レースの2着との合計着差が61という勝ちっぷり。そして後述するレースフィクションじみたぶっ飛んだ内容から推察すれば、競走馬としてのがずば抜けていたことは疑いようもない事実だろう。
また、マルゼンスキーがあまりに強かったためマルゼンスキーが出走を決めたレースを回避・キャンセルするが続出、中にはほとんどのが回避してしまいレース自体が不成立とになった事もある。
その拠に、マルゼンスキーが出走したレースは全てで出走頭数10頭未満であった。

 競走馬として

1970年イギリスクラシック三冠ニジンスキー。マルゼンスキーは3世代産駒で種付け時にはまだ産駒デビューしていなかったが、この時点で当然種牡馬としての期待も高くそれに応えて世界的大種牡馬になる。はシル。はこれも世界的大種牡馬にして、後にそのニジンスキーと非常に相性の良いニックス配合と言われたバックパサークィルは1958年米国最優秀2歳で3歳になっても大活躍を続けた名と、血統表のどこをとってもスキのない当時の世界最高準といっていい良血である。

この時点で既に、時代背景的な意味で大きな格差が生じている。血統が全てではないが、ノーザンテースト日本にやってきたのは1975年。その初年度産駒が産まれるかどうかという日本でのノーザンダンサー明期に、いきなりこんな良血日本のターフで走る事になるのである。嫌な予感しかしない

馬主兼生産者は、スケート自転車五輪競技で7度のオリンピック出場・参議院議員・日本スケート連盟会長東京五輪担当大臣・東京五輪パラリンピック組織委員長などを歴任した橋本子氏の父親である橋本善吉氏シルが後のマルゼンスキーを妊娠した状態で上場されたアメリカのセリにおいて「こんなすばらしいは見たことがい」と驚き、血統の良さも相まって値段は高騰するもなんとか落札に成功する。この話で面いのは、そもそも橋本氏がシルを購入するまでの経緯が何重もの偶然を重ねたものだったことにある。

  1. そもそも橋本氏はアメリカになんか行くつもりはまるでなかった……のだが、軽種馬農協企画していたアメリカ視察研修ツアーに欠員が出てしまう。人数がわないとツアーそのものがキャンセルになりその際農協旅行会社に支払うキャンセル料が馬鹿にならない(当時は海外旅行は現代とは較にならない高嶺のでもあった)。そこで橋本氏がパスポート持ってるし行ってもいいよ」と助け舟を出した。橋本氏はの仲買人として日両国の業界で有名な人物であり、来町(現・安町)の橋本牧場の生産と育成も営んでいた。その余業としてばんえい競馬にも用いる重種の農耕も生産していたが、サラブレッドなどの競走に用いる軽種馬の生産はしていなかった。したがって本来であれば、軽種馬の研修に参加してもただの賑やかしでしかないのだが、橋本氏には競走馬の生産もしてみたいという希望が以前からあり、これは好機だった。
  2. ツアーの訪問先には競走馬のセリで有名なキーランドがあり、このときは繁殖牝馬のセリが開催されていた。ツアーではこのセリは希望者のみ参加のオプションであったが、橋本氏はこれもなにかの巡り合わせだろうと、ろくろくカタログの下調べもしないままセリの会場に行ってみたその会場で偶然、JRA調教師・本郷重師と知り合う(本郷調教師はこの後マルゼンスキーを管理することになる)。
  3. 橋本氏は「種に関わらず、盤が発達した女性はいい子供を産む」という論を持っていた。そしてキーランドでまさに自らの論に合致するに出会う。一緒に渡しセリにも同行していた夫人に対し「若い頃の母ちゃんみたいな身体だよ」と惚気けたともいう(繰り返しになるが夫人は橋本子の上である)。「よしこを買うぞ」と決めたあとで、同行していた通訳から受胎中の子も含めたその=シルの麗な背景を教えられるのだが、これが「予備知識ゼロを評価した自分の観察眼」を知識で上書きされたような気分にさせて橋本氏のプライドをいたく傷つけ(※)、その反動で「いくらになっても絶対競り落とす」と決意させた。もし血統背景を知らずにセリに参加していたら、釣り上がる額に驚いて々に降りていたかもしれない。それでもあまりの高額に最後の方ではさすがに降りようかとも思ったそうだが、それを「欲しいなら買いなさい」と支えたのは夫人であった。(※このあたりの感情は人によって様々と思われる。橋本氏とは逆にそういった事実を伝えられることで自らのカンの鋭さを誇る人もいるだろう。動物を見る皆無の人でも血統背景を知れば高いカネを惜しまず落札しようとするのは当然のことであり、長年にわたりの良し悪しを自分ので見極め続けて成功した牧場として、そのような人間と一緒にしてほしくはなかったのでは、と推察される)

落札価格はこのセールで上から3番めとなる30万ドルであった。1973年当時のおおよそのドル相場は1ドル280円であり、8400万円相当ということになる。これに米国内の諸税・購買手数料・日本への輸送料・貨物保険料・輸入時の関税などを加えた総費用は1億2000万円に達した(昭和48年の1億2000万円は現在の3億1000万円)。

アメリカ業界でも有名な人物だった橋本氏が、ではなく高額のを購買したことは、業界の人間には奇行に映ったという。当時日本人イギリスを始めとした海外から良血を買い漁っていたが(生涯に渡って競馬を熱愛しエリザベス2世も、外遊中イギリスを訪れた田中角栄首相に苦言を呈したほどであった)、アメリカの競馬人が『これだけの日本商人が買って太平洋の向こうへ連れて行く』という行為をどう思ったかはわからない。

ニジンスキーの直として持ち込み母親海外で交配・妊娠してから来日して生まれた)の立場で走り始めたマルゼンスキーだが、前脚が極端に外を向いている状態(=外向)で生まれてしまったためいつ故障するかわからない、いわば爆弾を抱えたままデビューすることになった。とはいえ、これだけ抜群の良血である。デビュー前どころか生まれた直後から競馬界の注は大きく、1974年の週刊競馬ブックでは橋本牧場訪問取材記が企画され、すでに「マルゼンスキー」という名がつけられていた当歳時の彼の写真が掲載されるほどであった。また、シルのセリには社台ファームの吉田善哉氏も参加しており、落札には失敗したもののやはりマルゼンスキーのことは気になっていたようである。だが同じ来町の牧場とはいえ育てるのがで全然違う以上訪問する合理的な理由がいため、わざわざ「庭を見に来た」と口実をつけてマルゼンスキーの様子を見に来たこともあったという。

前述したようにマルゼンスキーはその脚の形態から常にセーブしなければならず、満足のいく調教ができなかった。しかしそのような関係者の心配とは裏に、マルゼンスキーは新馬戦から圧勝を続ける。持って生まれたスピードが違うためか、普通レースに走るだけでスタートから周りのがついてこられず、結果として逃げるつもりはないのに逃げる形になって、そのまま々とゴールというレースが繰り返されることとなった。

評価を高めたレース

競走馬としては実働期間約10ヶ。そんな短い競走歴で引退を余儀なくされたマルゼンスキーが、それでも最強補の一頭と挙げられるにいたる要因として、次の3つのレース(+出走に関するエピソード)が挙げられる。

.朝日杯3歳ステークス(現:朝日杯フューチュリティステークス)

前走の府中3歳S(現:東京スポーツ杯2歳S)でヒシスピードハナ差で下したマルゼンスキー営は、調教不足のため接戦に持ち込まれたという反省から、初めて(かつ生涯ただ一度だけ)一杯の調教を積み体調を万全に整えた上で朝日杯3歳S(現:朝日杯FS)に臨むことになった(もっとも、故障のリスクなども鑑み通常は6割程度のところを8割程度で仕上げたらしい)。
そして当日のレース。マルゼンスキーはスタートからすぐに先頭を奪うと、4コーナーまでヒシスピード以外は全くついていけないほどの高速ラップを刻んでいく。それどころか直線ではさらに他の5頭を突き放す一方となり、ゴール地点では2.2の着差(13身以上の大差勝ち)、レースレコードを1以上短縮する1.34.4というレコードタイム叩き出した。とんでもない大楽勝劇である。
なお、2着に入ったヒシスピードも3着に3身半という大きな着差をつけており、マルゼンスキーを抜きにして考えれば、このが快勝という形で3歳(現2歳)チャンピオンいていたレース内容であった。マルゼンスキーは、そういったライバル達のか前方でゴールを駆け抜けてしまったのである。

しかもこの時上の中野渡騎手ムチを入れておらず、レース後に「本気で追ったら、あとふたつ(=2)は縮まったはず」とまで言っている。当時の馬場現在より2以上時計がかかる状態だったので現在中山競馬場で走ったとしたら1.30.0を切る計算になる。なんだそれ。

当時はまだグレード制は導入されておらず、厳密にはGIではかった。とは言え、関東所属の3歳(現2歳)がその時点での世代王者を決めるレース関西で行われていたのは阪神3歳S現在阪神ジュベナイルフィリーズだが、当時は混合戦だった)であった事には間違いなく、そのような大レースレース中継のカメラが思いっきり引いて撮らないと後続のカメラ内に入りきらないというレースぶりは、見ている者にも競馬関係者にも衝撃的な光景であった。ありえん

2.強者、それゆえの孤立

しかし、この朝日杯の圧勝はマルゼンスキーに一つの難問を突きつけることになった。これより先、明らかに出走が集まらなくなっていくのである。

なぜそんな事態になったのか……日本競馬には「勝ち負けを度外視した、に合わぬ過密な出走スケジュール」を防ぐ意味合いでタイムオーバーという制度がある。
現在若干条件が違うが、マルゼンスキーが走っていた当時は重賞以外のレースで芝で4ダートで5以上、一着のより離されてゴールした場合、と一ヶの出走停止が課されるというものであった。

朝日杯3歳S重賞であったので、罰則は課されなかったものの、下位入選したタイムオーバー相当の着差をつけられていたのが問題となった。すなわち、朝日杯3歳Sに出走できるレベルでさえ、マルゼンスキーに本気を出されるとタイムオーバーとなってしまう』と認識した調教師たちが、マルゼンスキーが出走してくるとわかると相次いで出走回避を申し出るようになっていく。
これを弱気と笑うなかれ。3歳から4歳という時期は、クラシック馬主調教師にとって、距離適性を見極めつつ、実績・賞を積み重ねるために非常に重要な時期である。そんな時に、しっかりレベルを考慮して出走レースを選んでいるのに、飛び抜けた実一頭のせいでタイムオーバーとされ一かの出走停止……などの処分を課されれば、その後のクラシックスケジュールが大幅に狂いかねない。マルゼンスキーから自己のを護る、というのは当時の他営にとって切実な命題だったのだ。

この姿勢がまず標的となったのは、年が明けて4歳緒戦の中オープンレース。当初は登録がマルゼンスキーを含めて3頭しか集まらず、レース不成立の算が高まった。
だが、関西の名調教師服部正利氏が「マルゼンスキーを関西に迎えて、レース不成立とさせるわけにはいかない」と、管理馬主たちに了解を取り付け、2頭を出走させることで何とかレース成立させる運びとなった。
レース事開催される事が決定したのち、服部氏は、中野渡騎手、本郷調教師に対し「マルゼンスキーのチカラが他と大きく違っているのはわかっている。ただ、レースに使う事を承諾してくれた馬主の方に迷惑をかけないためにも、何とかタイムオーバーになるような大差はつけないでもらえないだろうか」と願い出た事は有名なエピソードとして残されている。
……冷静に考えれば、ギャンブルの性質を考えると、かなり危ない発言にも聞こえる。これでもし、中野渡騎手が手加減した騎乗を行い下位に敗れる事があれば、一番人気に支持されるであろうマルゼンスキーの馬券関係でのちのち大問題となっていた恐れがある。
とはいえ「行不成立を避けたい」「勝てる見込みが薄い事を承知で、出走OKを出してくれた馬主たちの恩義にも応えたい」という挟みの状況で、思わずこのような言葉が吐露されたのだと考えれば、服部調教師の立場の難しさも理解できるだろうか。

上記の中オープンでは辛うじてレース成立となったが、その後、ついにマルゼンスキー営が抱いていた憂慮は現実のものとなった。
5月末の東京開催で、マルゼンスキーが登録していたオープンレースが、最終的に4頭しか集まらずレース不成立が発表された。
海外での競馬明期でこのようなケースがしばしばあったと伝えられるが、戦後日本近代競馬で「ただ一頭のの出走するか否かが原因」でこのような事が起こったのは非常にまれな、一種の事件といっていいだろう。
“持ち込み”として出られるレースが限られる中で、それでも集まらぬ対戦相手―――マルゼンスキーは、レーススケジュールを組む難しさを内外に示しながら、下記の日本短波賞に照準を合わせる事となった。

3.日本短波賞(現:ラジオNIKKEI賞) ※当時は中山競馬場で開催

このレースでもマルゼンスキーはスタート直後から一気に加速し、向こう正面では8身以上の大きなリードを作っていた。しかし3コーナーの手前で突然失速、後続のたちが猛追する中レース前半に作った大差リードを全部吐き出してしまう。故障発生を予感させる不自然な減速に実況アナウンサーも思わず「なんか止まった!」と叫んだが、マルゼンスキーは後続に並びかけられた間再加速し、4コーナー出口からは突き放すのみ。終わってみれば7身差の、いつも通りの圧勝だった。

これはレース前の返し馬(ウォーミングアップ)の際、上の中野渡騎手が4コーナー付近で一度止まり馬場状態を確認した事をマルゼンスキーが覚えていて、レース中も同じ位置で自発的に止まろうとしたとも言われている。

この時の2着が後の京都新聞杯菊花賞レコードタイムで制したプレストウコウであったこと、『ペース配分がどうなろうと、自分が加速したい時に加速すればそれだけで後続を突き放してゴールできる』事実を突きつけたこと、さらに一般のにとってキレ・が減殺される不良馬場(前までの大雨で芝の内側にあるダートコースが浮いていたほど極度に悪化した馬場状態だった)の中でそのような芸当を見せたことから、「同世代相手なら遊んで勝ててしまう」とまで言われた。またもやありえん

このレースは、(予想としてはイマイチだが)競馬関連のデータにおいては日本の知識を持つ井崎脩五郎氏をして日本競馬史上一、重賞を遊んで大楽勝したと言わしめ、井崎氏が考える歴代最強補の1頭に挙げる理由となっている。

4.短距離ステークス

結果として生涯最後のレースとなったこのレースは、ダート1200mであった。
デビュー以来初めてのダート戦、同じく初めての古との混合戦。そんな不安視される条件がう中、マルゼンスキーはここでも10身差の圧勝を収めた。

本来ダートは芝のレースより速度差がつきにくく、さらに当レースは古とのオープン戦であるため、古の中からダートの実が出てくる以上、4歳(現3歳)にとっては年齢的な不利もあり、着差がハデに開く事は考えにくい。またこのレースでは、前述した同世代のヒシスピード(この時点で重賞3勝、またマルゼンスキーに先んじて古を相手にダート勝利を収めダート適性をも示していた)、芝・ダート不問の走りを見せ生涯で重賞6勝を挙げた古の実ヤマブキオ札幌ダートだけで4勝し翌年のこの短距離Sも制するなど『札幌ダート』で特に好成績を残したヨシオカザンなどが出走しており、決してレベルが低いメンバーだったわけではない。
※その拠にというべきか、この時2着したヒシスピードは前年のこのレースの勝ちタイムを上回るタイムで走破している。

しかも1200mというスプリント戦である以上、常識的に考えればレース全体の距離として大差リードを作るための物理的余裕もいと思われるレースでもあった。
実際、当時よりスピード化が増している現在でも「『ダート1200m・中央の古オープン戦』で、古重賞相手に、3歳が10身差で勝つ」などと言うと、多少競馬の知識があるファンなら「ご冗談を」「それなんてゲーム世界?」というような返答が返ってくるだろう。そんな常識を覆してしまうような走りを、マルゼンスキーはやってのけてしまったのである。やはりありえん

「時代」という壁

しかし、マルゼンスキー誕生の少し前になる1971年、活(=生きた)の輸入が自由化。内や生産者の保護を図るため、従来内として扱われてきた持込外国産馬と同様の扱いを受けるようになった。このためマルゼンスキーは、多くのレース(後にGI定されるようなレース)に出ることがわなかった。その中にはクラシック競走も含まれており、世代の代表を決するクラシック競走で同世代のと戦うマルゼンスキーを見ることはできなかったのである。
その遇に上の中野渡騎手は、
「28頭立ての大外でもいい。賞もいらない。他のの邪魔もしない。だからマルゼンスキーを日本ダービーで走らせてくれ。そうすれば、どのが一番強いかわかる」

と周囲に漏らしたといわれる。

以降は有馬記念標に調整が続けられトップレベルの古との戦いを期待されたが、遂に脚の爆弾限界を迎え故障を発生、やむなく引退に追い込まれた。この年の有馬記念トウショウボーイテンポイントマッチレースを繰り広げたことで知られており、そこにマルゼンスキーが加わっていればどうなっていたか(特に、この年の有馬記念開催時の中山競馬場馬場はすこぶる悪く、出走出来ていれば荒れ馬場特性の差からマルゼンスキーが勝っていた)という考察はしばしば行われた。

同世代の悲劇

本来競馬界で「同世代の悲劇」と表現されるものは、「実があるのにライバル相手に勝ち切れず、ビッグタイトルに手が届かなかったす事がほとんどである。 しかしマルゼンスキーの世代のたちは、別の形での「同世代の悲劇」を味わう事になった。

マルゼンスキーの77年世代クラシックレースは、皐月賞ハードバージ日本ダービーラッキールーラ菊花賞プレストウコウがそれぞれ制しているのだが、
・鮮レースぶりにもかかわらずクラシックに出走できなかったマルゼンスキーへの同情論が根強かった。
・3頭の内のラッキールーラプレストウコウが、マルゼンスキーに敗したヒシスピード相手に二度に渡って敗れた(距離不適も一因だった)上、上記のようにプレストウコウはマルゼンスキーに直接敗してしまったことから、この年のクラシックレース自体が「(マルゼンスキーの)敗者復活レース」と揶揄されるほどだった。
・上の世代がいわゆるやかなTTG三強世代であり、ハードバージ以下の活躍が余計にその陰に隠れてしまった。

と、上記の3頭はクラシックレース勝利していながら(特にプレストウコウは、『芦毛は大レースで勝てない』というジンクスを覆し、芦毛で初のクラシック制覇の快挙を成し、最優秀四歳に選出された栄誉を勝ち取っている)、他になかなか例を挙げられないほど低い評価に留まってしまった。


悲劇はそれだけに留まらず、彼らの低評価引退後もついてまわった。常にマルゼンスキーと較され続ける中、良質な肌馬わず種付け頭数は低迷を続け、次々に種牡馬として見切りをつけられてしまう。ラッキールーラプレストウコウ韓国に輸出される事で一応種牡馬生活は続いたが、 ハードバージ種牡馬引退後のあまりに悲惨過ぎる末路新聞記事で取り上げられたほどであった。ただしその末路はただ意味だったわけではなく、競馬界への競走馬保護への批判のうねりへと繋がり、後に大レースを制したの養老施設や引退後の助成システムが生みだされる契機となっている。


このように(マルゼンスキーに罪はいのだが)、この世代は勝利の栄冠を手にしたにも関わらず悲劇的な評価を被ったとして、マルゼンスキーとは別の形の不運を背負った世代として記憶されている。まぁ、この世代の過小評価の要因として『一つ上がTTG世代』と言うチート軍団(特に、世代最強と謳われるトウショウボーイは、中距離に関してならマルゼンスキーと同等以上とも言われる怪物)だったと言う部分もあるので、単純にマルゼンスキーだけの責任とは言い切れない部分もあるのは留意してもらいたい所ではある。

種牡馬として

種牡馬としても
ニシスキー朝日杯3歳S
サクラチヨノオー朝日杯3歳S日本ダービー
スズカコバン宝塚記念
ホリスキー菊花賞
レオダーバン菊花賞
ダイカツストーム中山大障害
サクラトウコウ(重賞3勝・種牡馬としてG1を輩出)
など数々のGI重賞を輩出。特にサクラチヨノオーは自身の出走がわなかった日本ダービーを制覇し、見事念をらした。

また、としてもライスシャワーウイニングチケットメジロブライトスペシャルウィークサクラプレジデントロイヤルタッチボンネビルレコードといった活躍を多数輩出し、BMSリーディングでも10年以上上位に入り続ける成績を上げた。

孫世代になると、ホリスキーサクラチヨノオー産駒重賞勝ちを複数輩出し、スズカコバン産駒道営競馬などダートを中心に活躍。中でもサクラトウコ産駒ネーハイシーザー天皇賞(秋)を制覇し、孫世代からもGIを誕生させりるなど種牡馬としてもも見せた。

産駒マイルから中距離で活躍したが多いが、としてホリスキーレオダーバンを、としてライスシャワーメジロブライトスペシャルウィークを出したように豊富なスタミナも伝えた。一方で脚の弱さも伝えてしまっており、怪によって順調さを欠いたは多い。

1997年8月21日、放牧中に突如いなないて倒れ、そのまま死亡した。23歳だった。橋本氏は、マルゼンスキーを自らの次男(橋本氏自身には末子の子含め4人の子がいた)として弔い、死の3日後にシルや子の他、多数の関係者が参列した葬儀が行われ、スケート自転車競技の選手として名を馳せていた「」・子は「」の世界選手権の金メダルを入れたという。なんでも、本来ならば格の高いアルベールビルオリンピックで勝ち取った銅メダルでは、敗、つまり「金メダルしかとることのなかった」に失礼だからだという。遺骸橋本牧場に眠り、や自らの子孫の活躍を見つめている。

現在2021年6月時点)系としての子孫はクラグオーのみであり、年間種付け数も1~2頭と勢は非常に小さな物になってしまったが、産駒のクレモナ地方重賞ののじぎく賞を制すなど、活は決して衰えていない。祖スズカコバンクラキングオーに続き、クラグオー産駒ダート路線の活躍とその血がさらに代々繋がる事を期待したい。

引退後の評価

との対決がほとんどかった事、走ったレースが全て1800m以下であった事から、そのスピードが古G1に多い2000mをえる要なレースで発揮されたかどうかは疑問が残る。
とは言え、圧勝に次ぐ圧勝でスピードが非常に高い事を示した事、実際にどのレースタイムとしては当時のレベルとして圧倒的に優秀だった事から、長距離はともかく中距離以下では間違いなく一級の実を持っていたというところで衆は一致している。

あまりの強さと人気ぶりに産地ではニジンスキーブームが到来、マルゼンスキー自身の種牡馬人気はもちろんのこと、代用種牡馬人気も沸騰した。代表格はヤマニンスキーとラシアンルーブルで、ヤマニンスキー皐月賞天皇賞(秋)優勝ヤエノムテキオークス優勝ライトカラーに加えてまでマルゼンスキーと血統が同じというラシアンルーブルオークス優勝イソノルーブルを誕生させている。

なお、マルゼンスキーが被った持込ゆえの一連の規制については、マルゼンスキーの現役時代から以前より注されるとともに疑問のが高まっていき、次第に規制訂へ動き出す事になった。そしてマルゼンスキー引退から数年後、クラシックレース他、多くの重賞参加への門が持ち込みに対して開かれたのである。また上にもある通り、結果的にはマルゼンスキーのにより、これまで全く顧みられてこなかった引退馬への養老助成等も次第に充実していった。このように、マルゼンスキーが競馬界のシステムについて一石を投じ、そしてその流れを変えた事は、競馬界全体において決して小さくない功績だったと言えよう。

 


「さようなら マルゼンスキー 

  り継ごう おまえの強さを」

 


引退式の時にファンが用意した横断幕にはこう書かれていた。マルゼンスキーを讃える有名な一文である。
※当時、引退式にまで横断幕が作られる事はほとんどかった。それだけマルゼンスキーの引退を惜しむが高かった、といえるエピソードである。

血統表

Nijinsky II
1967 鹿毛
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Flaming Page
1959 鹿毛
Bull Page Bull Lea
Our Page
Flaring Top Menow
Flaming Top
*シル
1970 鹿毛
FNo.5-g
Buckpasser
1963 鹿毛
Tom Fool Menow
Gaga
Busanda War Admiral
Businesslike
Quill
1956 栗毛
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Quick Touch Count Fleet
Alms
競走馬の4代血統表

クロスMenow 4×4(12.50%)、Bull Dog 5×5(6.25%)、Blue Larkspur 5×5(6.25%)

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