基礎データ | |
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正式名称 | オランダ Nederland |
国旗 | |
国歌 | ヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエ |
公用語 | オランダ語 フリジア語(フリースラント州) パピアメント語(ボネール) 英語(シント・ユータティウスおよびサバ) |
首都 | アムステルダム(名目上の首都) デン・ハーグ(事実上の首都) |
面積 | 41,854㎢(世界第131位) |
人口(’23) | 約1,809万人(世界第70位) |
通貨 | ユーロ(EUR, €) 米ドル(USD, $)(BES諸島) |
オランダとは、ヨーロッパの独立国家である。オランダ王国の4つの構成国のうちの1つ。
日本での正式名称はオランダ。英語表記は the Netherlands (ザ・ネザーランヅ)、現地語であるオランダ語表記は Nederland(ネイデルラント)。こだわる人は現地名称から「ネーデルラント」と呼ぶこともある。
ちなみにオランダという呼び方は、この国の一地方であるホラント州に由来する通称 Holland がスペインやポルトガル経由で日本に伝来したことに由来する。ホラント州は16世紀の独立戦争で中心となった地域で、現在もアムステルダム、ロッテルダム、デン・ハーグといった主要都市を抱えるオランダの中枢である。
この国を「オランダ」と呼ぶのは、日本国を「関東」と呼ぶのと同じ感じ。
憲法において首都はアムステルダムとされているが、これは名目上のことである。
王宮や議事堂や各国の大使館はデン・ハーグ(デン・ハーフ)にあり、こちらが事実上の首都となっている。
大航海時代~第2次世界大戦は海外領土を持つ国だったが、現在はカリブ海の島嶼(有人島あり)が残るのみになっている。
オランダは、最も高い地点が標高322mの低い丘で、真っ平らな地形である。
ヨーロッパの地形図の中のオランダの所は緑一色、真っ平らと表示されている。
こうした平らな地形には風を遮るものが無いので風がどんどん流れ込む。
オランダといえば風車を想像する人も多いが、流れ込む風を風車で有効利用するのが盛んだからで、現在でもそこらじゅうに風車が立っていて、一部は実際に動力として利用されている。
風がどんどん流れてくるので雲があっという間にやってきて、そしてすぐに去って行く。
晴れていると思ったら雲がやってきて雨が降り、すぐに雨が上がって晴れ渡る・・・こんな調子の気まぐれな天気がずっと続く。地元の住民は曇っていて雨が降りそうでも傘を持たずに外出する人が多い。
「どうせ雨が降ってもすぐに晴れるでしょう」と誰もが考えていて、実際に雨もすぐにやんでしまう。
ちょっと雨が降ったぐらいでは動揺せず、ジャケットのフードを被って平気で外を歩く。
冬のオランダはよく冷え込むが、雪があまり降らない。
オランダには山らしい山がないので、雪を降らせる雲がことごとく通り過ぎてしまう。
かつて日本の田中角栄は「新潟県の南には山々がある。これをダイナマイトで吹っ飛ばすのであります。山をなくせば雪雲が通り過ぎて新潟に雪が降らなくなる」という説を述べて人々を驚愕させたが、その構想と同じことがオランダで起こっている。
国土の大部分は広大な入り江を干拓して出来たポルダー(polder)と呼ばれる土地である。
11世紀から干拓が熱心に行われ、次々と国土を広げてきた。
「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と胸を張って言うのもうなずける。
干拓というのは海の浅瀬に土を盛って堤防を築いて、風車などで内部の海水を排出し、海底だったところを陸にすることである。出来上がった土地は海水面よりも低い土地になる。
オランダの国土の25%が海水面以下(below sea level)である。
こうした事情から、アムステルダム(=「アムステル川のダム」)やロッテルダム(=「ロッテ川のダム」)など、ダム(堰)の付いた地名が目立つのもこの国ならではである。
干拓地の外にある海水をせき止めている堤防が決壊した場合、どれだけの大惨事になるか想像も付かない。
オランダには1つの美談があり、「ハンスという少年が堤防沿いを歩いていたら、堤防に穴が空いているのを見つけた。ハンスは『堤防が決壊したら皆が死んでしまう』と思い、穴に腕を突っ込んで決壊を防いだ。翌日、ハンスは凍死体で発見された。堤防を守ったハンスはなんて偉大な少年だろう」というものである。
これはフィクションで、1865年にオランダ系アメリカ人メアリー・メイプス・ドッジが発表した「銀のスケートぐつ」という作品の中の「ハールレムの英雄」という挿話が元なのだが、オランダが堤防で守られた国だという点は一応事実である。
また、オランダといえば風車を思い浮かべる人も多いが、あの風車はもとはポルダー内に入り込んできた水を汲み出すための風力ポンプの動力源である。もちろん、今残っている風車は多くが景観用のもので、実際の汲み出しはモーターやエンジンで動くポンプで行なっている。そのような事情もあり、「敵とはうまく付きあえ。そいつが動かしているのはお前の隣のポンプかもしれないから」などということわざもある。
堤防をしっかり保全する作業は地域住民のすべての力を結集させる必要があった。
先のことわざのように、気に入らない相手とも折り合いを付けて話し合うことになった。
このためオランダには皆がよく話し合って物事を決める気風が育まれている。
労働問題でも労働者側と経営者側がしっかり話し合って上手く協調するし、ワークシェアリングも盛んで、こうしたオランダの協調上手な姿を「ポルダー・モデル」と言うことがある。
オランダは干拓地ばかりの低い土地なので、欧州各国から「低い土地」と呼ばれている。
英語でNetherlands、ドイツ語でNiederlande、オランダ語でNederland。ゲルマン語系各言語で「低い土地」と呼ばれている。
フランス語でPays-Bas、スペイン語でPaises Bajos、イタリア語でPaesi Bassi。ラテン語系各言語でも「低い土地」と呼ばれている。
オランダのナショナルカラーはオレンジ色で、サッカーオランダ代表のユニフォームでもおなじみ。
これの由来は、16世紀の独立戦争で中心となったナッサウ家のウィレム1世が、結婚で母方の叔父からオランジュ公国を相続して、オラニエ公(オランジュをドイツ語でこう読む)と名乗ったからである。
オランジュ公国はフランス南部にあり、温暖でオレンジが良く育つ土地だった。
建国の功労者がたまたま運良く手に入れていた領地(しかも自分の本拠地から900km離れた飛び地)の名産品の色をナショナルカラーにしたというわけである。
オランダは樺太と同じ程度の緯度で、冬は氷点下にまで冷え込み、オレンジなど育ちそうもない。
オランダは16世紀にドイツのハプスブルグ家の支配から独立したのだが、この独立戦争の中心となったのがドイツ西部のライン川を発祥の地とするナッサウ家だった。
ナッサウ家はその後も断絶せず連綿と続き、現在のオランダ国王であるウィレム=アレクサンダーもナッサウ家の一員である。正確には「オラニエ=ナッサウ家」という家名になっている。
ナッサウ家の女子がもらうお婿さんはたいていドイツ貴族である。先代の王であるベアトリクス女王の王配殿下(お婿さん)はドイツのアムスベルフ家の人。
第一次世界大戦でドイツ帝国は敗れ、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、そのまま生涯を終えた。
ドイツの皇帝が最後に逃げ込んだ場所というわけで、やはりドイツとは縁のある国と言える。
オランダ語はドイツ語と同じくゲルマン語系の言葉で、よく似ている。
オランダ人を意味するDutchはドイツ(Deutsch)と同じ語源の言葉。
オランダとドイツは兄弟のような間柄、と考えておいて間違いない。
オランダはドイツを流れる国際河川ライン川の河口にあり、イギリスとも近く、交通の要地で、古くから商業が栄えてきた。特に北欧諸国やロシアが面するバルト海向けの海上貿易に強かった。
現在のオランダも商工業が発展している。ライン川河口のロッテルダムにユーロポートという巨大な港を抱えていて、その近くに石油化学企業が林立している。
フィリップス(電気製品、医療機器)、ユニリーバ(洗剤など家庭用品)、ロイヤル・ダッチ・シェル(世界有数の石油企業)という名高い大企業を持つ。
オランダの土地の多くは干拓で無理矢理作った土地で、お世辞にも地味が良いとは言えず、穀物生産には向かない。しかしながら干拓をするほどの根性があるオランダ人に不可能はなく、工夫を尽くして農業の生産を上げている。
オランダの農業で真っ先に挙がるのは牧畜で、そこから得られる牛乳を使ったチーズの生産も有名。
オランダのチーズの画像を検索すると黄色くてデカい円盤の画像が多数ヒットする。
ゴーダチーズが最も有名。エダムチーズはリンゴのような真っ赤な玉で「赤玉」と呼ばれる。
ちなみにオランダ人の平均身長は他のゲルマン系国家や北欧を抑えて世界1位を誇り、男子182.5cm、女子170.5cm(日本人男子の平均並)。
元々ゲルマン系の人は大きいのだが、オランダは1950~70年代にかけ成長ホルモン剤を家畜に使用していた為、肉や乳製品からその影響が出たというのが有力な説である。
現在ホルモン剤は使われていない為、若い世代の平均身長は普通のゲルマン系レベルに落ち着いてきているとか(それでもデカいが)
チューリップの生産もオランダの代名詞であり、現在も各地にきれいなチューリップ畑が広がる。
16世紀末ごろから本格的に品種改良と大量栽培が行われた。これは度重なる戦乱にまみれた中欧諸国の中でオランダは勝ち組にあって研究者が多く訪れたのと、海外進出・貿易が順風満帆で球根をトルコから大量に買い付けられたため。そして17世紀前期に球根の転売や先物買いなど投機的な取引が高じてバブルがはじけ、数千人規模の破産者を出す経済大混乱となったこと(チューリップ狂時代)もある。
オランダ出身の人物には、ファン・ゴッホやフェルメール、レンブラントなど特に画家として名を成した人物が多い。美術史家たちにとって「オランダになぜ優れた画家が多いのか」は格好の討議テーマとなる。
やはり16世紀の独立から200年近くの間、オランダ経済が絶好調で、ヨーロッパ随一の豊かな国だったことが大きい要因とされる。バルト海向けの海上貿易などでしっかり稼ぎ、画家にお金を出してあげることができる富裕層のパトロンが多かったのである。
日本で簡単にタバコが吸えるように、オランダでは大麻や幻覚性のキノコなどを合法的に、かつ手軽に使うことができる(タバコも現代の日本人以上に吸う)。
ただし、使用できるのはコーヒーショップと呼ばれる認可された店のみで、5グラム以上の購入は不可、30グラム以上の所持は違法となる。
覚せい剤やヘロインなど、認可されていない薬物や、割り当てを超過した所持に対する取締は厳しい。ちなみに、オランダ語で「喫茶店」は「コーヒーハウス」と言う。
オランダで合法といっても、大麻をそのまま日本に持ち帰ったら大麻取締役法違反で逮捕されるので気をつけよう。
オランダ人の姓(名字)には、「ファン(Van)・○○」(~の方から来た者)、や「デ(De)・○○」(~である者)など、2単語以上で構成されるものがある。
これらの多くはナポレオンの統治下ですべての人が姓を名乗ることが義務化された時に決められたもので、ドイツ語やフランス語の貴族姓「フォン(von)・○○」「ドゥ(de)・ ○○」(~を領地とする者)などとは趣旨が全く違う。
日本人にはこの概念を理解しづらいためか、しばしば最後の1単語のみを名字として認識してしまう。
一例を挙げれば、画家フィンセント・ファン・ゴッホの姓はゴッホではなくファン・ゴッホ(オランダ語読みでファン・ホーホ)である。しかしながら電話帳などでは「Gogh, Vincent v.」などと表記されたりする。
オランダは寒い国で野菜や果物が育ちにくく、お食事のバラエティが乏しい。このあたりはドイツやイギリスと事情が同じである。寒い国は食事がイマイチ、という図式がオランダにも当てはまる。
ビールやお菓子にこだわりがあって美味しいのだが、このあたりもドイツ・イギリスに似ている。
牧畜の国なのでチーズなどの乳製品やお肉が中心。漁業も盛んでニシンなどの魚も食べる。
ビールはハイネケン、ココアはバンホーテン。フリスクやメントスといったお菓子もオランダ産。
オランダで最もポピュラーなスポーツはサッカーである。
サッカーオランダ代表は世界屈指の強豪で、サッカーワールドカップ準優勝3回、3位1回、4位1回。
国内リーグはエールディヴィジと呼ばれ、若手育成が非常に上手いチームが多い。
サッカーオランダ代表の各年代チームと国内最高実績クラブのアヤックス・アムステルダムは、使用する戦術を4・3・3のシステムで統一している。そのため若手からベテランまで全員が4・3・3で戦い慣れている。妙に合理的であり、徹底した統一感を重視するところがこの国らしいと言える。
他にもバレーボール、テニス、スピードスケート、自転車競技、柔道、格闘技もよく好まれている。
また、欧州の中では例外的に野球の強豪国である。
海外領土のアルバ島やキュラソー島はカリブ海に浮かんでおり米国に近く、野球が盛んである。
国際戦では彼らカリブ海出身者が中心となる。
イギリスとは中世以来、海上貿易においての商売敵であり、罵り合いが続く仲である。
英語でダッチ(Dutch オランダ人)が付く言葉は大抵ロクな意味がない。
go Dutch、Dutch account、Dutch treat(割り勘にする、ケチケチする)
Dutch oven(「本物のオーブンではないが一応オーブンと呼べる代物」を指す言葉だった説がある)
Dutch party(しょぼくてみみっちいパーティー)
Dutch comfort(おためごかし。人のためのように見せかけて実際は自分の利益を得ようとすること)
Dutch roll(航空機が制御不能になること。飛行機事故で聞かれる言葉)
Dutch wife(空気嫁、ダッチワイフ)
こんな具合に、揶揄や皮肉の言葉がいくつか見られる。
17世紀にはアンボイナ事件でオランダがイギリスを攻撃し、3度にわたる英蘭戦争でイギリスがオランダの海上戦力に打撃を与える。このころは政治的・軍事的にも激しい対立があった。
一方で、1688年にはオランダの総督がイギリス王を兼ねたし、第二次大戦でイギリスがオランダ王室の亡命先になった。
ロイヤル・ダッチ・シェルのようなイギリスとオランダの両方に拠点を持つ企業も多く、経済交流は活発である。英蘭関係は、仲が悪いとも言えるし仲が良いとも言える。
先述の通りオランダとドイツは兄弟国と言っていいほどの間柄だが、反独感情も根強い。
兄弟は兄弟でも、仲の悪い兄弟といった感じになっている。
第一次世界大戦ではオランダはドイツに攻められず中立を維持できたが、第二次世界大戦ではドイツ軍に踏み荒らされた。フランス・ドイツ国境にマジノ線という堅固な要塞群ができたので、それを迂回するためオランダが通り道に選ばれた。ドイツ自慢の戦車が恐ろしい勢いでやってきて、オランダのロッテルダムは激しく空爆された。オランダはやむなく降伏し、1944年ごろまでドイツ軍に占領され続けることになった。
こういう歴史があるので戦後は反独感情が強烈で、ベアトリクス女王がドイツの貴族の男性と結婚するとき激しい反対運動が起こったし、サッカーのオランダ・ドイツ戦は毎回異様な雰囲気になった。
戦争から70年近く経ち、反独感情はだいぶ和らいできたようだが、まだギクシャクしている模様。
鎖国が行われていた江戸時代においても欧米諸国の中では唯一オランダだけが日本との交易が許された国であった。とはいってもシーボルトがドイツ人であるように、オランダと偽って他の国も出入りはしていた。ゴッホやフェルメールなどは、この時代、貿易を通じて手に入れた浮世絵を、何度か絵のモチーフとして用いている他、ゴッホには浮世絵を肉筆によって模写した作品があるのも有名である。
第一次世界大戦では名目上は中立であったが、枢軸国のドイツ軍を素通りさせて無力なベルギーに攻め込んでベルギー越しにフランスに攻め込む奇襲を成功させるなど、攻守同盟のような複雑な立場に立っていた。しかし参戦したわけではなかったため日本と交戦することはなかった。第二次世界大戦では日本は1941年の12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃するとともに米英との戦争に突入したことで、イギリスの同盟国でもあるオランダと当然戦争状態になったとして、日本に宣戦を布告した。ちなみに戦前の日本はオランダから石油を買っており、当初はオランダを宣戦布告の相手から外す予定だった。しかし先述の通りイギリスと戦争状態になったので、オランダから敵国の認定を受けた。
真珠湾と同時期に攻撃を開始したイギリス領マレーの戦闘において快進撃を続けていた日本は、12月20日にはフィリピンのミンダナオ島にあるダバオやホロ島など、オランダ領インドネシア攻略の足がかりを得て翌年1942年の1月11日から攻略戦を開始した。日本は空挺降下や空母艦載機による航空支援を最大限に活用し、最初の1ヶ月でボルネオ島、スラウェシ島、モルッカ諸島をほぼ制圧。2月中旬にはスマトラ島を、下旬にはバリ島、ティモール島を攻略し、残るはジャワ島を残すだけとなった。余談だがタラカンを占領した時、倉庫には石油缶が並べられていた。よく見ると日本向けの石油は質が悪いものばかりだった。つまりオランダは粗悪品を高額で売りつけていた訳である。
ジャワ島攻略戦を前にして日本は連携の取れない連合軍艦隊をほぼ壊滅状態に追い込み、完全にインドネシア周辺の制海権を握る。とうとう3月1日に5万5000名をもってジャワ島攻略戦を開始した。
日本軍は部隊を分けて複数箇所で同時に上陸を実施。防衛軍は橋を落とすなどして進軍妨害を図ったが、ほぼ3ヶ月後の5月末には首都バタビアが占領され、6月の初旬にはボイテンゾルグが陥落し、西岸からの上陸部隊は目標を達成した。東部から上陸した部隊もそれに続いてテラチャップに突入、制圧した。
中部から突入した部隊は歩兵二個大隊をもって飛行場を制圧するものの、バンドン要塞からの奪還部隊に苦戦し、飛行場では防衛が困難であると考え要塞の一部を奪い、そこで増援が来るまで防衛するという作戦を立て、7月2日には山頂にある重要陣地を攻略。
これに対し日本軍が少数で攻撃を仕掛けるはずがないと考えた連合軍は、続いて日本軍の大規模攻撃が行われるものと考え守備隊の戦力では要塞を守り切れないと判断し、守備隊の降伏を日本軍に申し入れた。
司令官である今村均中将は連合軍の誤認を利用し、守備隊のみの降伏は認めないと通告。制海権を握られ増援の見込みもなかった連合軍は降伏を決断。8月中旬には全軍が武装解除され、日本が120日を見込んだ攻略戦は約1ヶ月も早く集結した。
それ以降は日本はインドネシアを帝国領土とみなし独立運動を弾圧し、民間人を収容所に抑留するなど他の地域と変わらない厳しい軍政が行われることとなった。日本軍のオランダ領インドネシア攻略でオランダ、オーストラリア、イギリス、アメリカの連合国の兵は8万人は日本軍の捕虜になり、日本軍による暴行や拷問、強制労働を強いられ、各国とも10%~30%の捕虜が日本軍の虐待で死亡している。さらにオランダ人抑留者が強制的に慰安婦として徴用され働かされていた「白馬事件(スマラン事件とも)」が起こるなどしたことも、オランダの対日感情悪化に拍車をかけた。戦後は日本に敗れたことへの怒りや捕虜虐待を受けて多数の死者を出したことによる報復として、オランダは戦後に日本軍をBC級戦犯として226名(連合国中では最多)もの日本兵に有罪判決を行っている。
戦後もこの問題は尾を引き、日本のために植民地を失ったとする考え方は根強く、1971年に昭和天皇がオランダを訪問した際には、乗車している車に卵などが投げつけられる嫌がらせがあった。1986年にはオランダのベアトリクス女王の日本訪問に対し、昭和天皇を尋ねることに対する世論の反発が大きく、結局訪日は中止されることとなった。これを受けて昭和天皇崩御の際も、国民世論に配慮し葬儀参列は首相らのみで、王族は参列しなかった。
1991年、天皇を訪問した際には晩餐館におけるスピーチで、オランダ人の捕虜や抑留者が過酷な扱いを受けたことに触れ、女王が「お国ではあまり知られていない歴史の一章です」と言及するなどした。
余談ではあるが、1995年にベアトリクス女王がインドネシアに訪問した際には、スピーチ中に「植民地支配はお互いに恵みを与えた」と発言した事に対しインドネシアから抗議されたことがあり、オランダの植民地支配に対する意識の一端が垣間見える。
しかし2000年の天皇訪問の際には、テレビで戦没者記念碑への献花が好意的に取り上げられるなどし、国民感情は大きく改善した。このときの晩餐会では、ベアトリクス女王が「歴史の役割は思い出すことだけではなく、将来の意味を与えることです」などと述べた。
その後も2004年に日本の自衛隊イラク派遣の際、日本が担当したサマーワのムサンナ県においてオランダ軍は治安維持活動に参加して日本の自衛隊の復興支援活動を護衛するなどして協力し、現地でのテロに対して自衛隊の盾になる形で武装勢力と戦闘を行い、手榴弾とロケット砲のテロ攻撃によって2人のオランダ軍兵士が命を落とし、日本の犠牲になっている。オランダ軍撤退の際には自衛隊と握手を交わすなど、太平洋戦争以来の日本とオランダの確執は徐々に解消しつつある。(それでも慰安婦に関しては現在もオランダ下院で慰安婦問題謝罪要求決議がなされるなど未だ謝罪を要求されているが)
※ニコニコ大百科に記事のある人物は太字。
※並びは単純50音順
掲示板
609 ななしのよっしん
2024/08/26(月) 23:42:56 ID: 44KSzpPouU
そもそも欧米の間でも植民地政策は異なるので
日本vs欧米の時点で粒度が荒いと思う
610 ななしのよっしん
2024/10/14(月) 22:50:01 ID: oxyfqUt9jP
繁栄と衰退と: オランダ史に日本が見えるって本が良かった
ほぼ全編13世紀から19世紀のオランダ史なんだけど間接的にプラザ合意をなぜ押し切られたか心理的面を理解できたと思う
611 ななしのよっしん
2024/12/23(月) 10:34:57 ID: IkpVthL168
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/02(木) 21:00
最終更新:2025/01/02(木) 21:00
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