常磐(装甲巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が運用した浅間型装甲巡洋艦2番艦である。1899年5月18日竣工。日露戦争、第一次世界大戦、大東亜戦争を経験した長寿の艦であり、艦種も装甲巡洋艦、海防艦、敷設艦と様変わりしている。終戦後の1947年10月に解体完了。
概要
艦名は「永久不変」を意味する常磐に由来。
生まれは由緒正しい海軍大国イギリス、そして帝國海軍初の装甲巡洋艦。この時はまだ日本に自力での建艦能力が無かったため購入する形で手に入れている。イギリスが売却用に建造していた改オイギンズ級装甲巡洋艦をそのまま購入した事により、帝國海軍の艦艇にしては珍しく、「巡洋」するための快適な居住性を備える。凌波性を良くするため乾舷を高めに取り、艦首には当時の観点から見ても古いと見なされていた衝角を装備、船体形状には平甲板型船体を採用している。主砲として新設計の20.3cm連装砲塔を艦首と艦尾にそれぞれ2門ずつ装備。最大射程は1万8000mに及び、1分間に2発の装填速度を誇る、火力より給弾速度を重視したもの(戦艦の30.5cm砲弾はこの2倍給弾に時間が掛かっていた)。副砲の15.2cm砲は計14門装備、対駆逐艦用の8cm砲は両舷に計12門装備。購入が決定した時点で建造がかなり進んでいたものの武装を日本式に統一する事が出来た。ボイラーは石炭専焼円缶12個、これを直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進にし、最大速力21.5ノット、出力1万8000馬力を実現。当時の装甲巡洋艦にしては快足を誇っていたが、反面燃費が非常に悪く、燃料格納庫を広く取って大量の石炭を積んでいたという。
要目は排水量9700トン、全長134.72m、全幅20.45m、喫水7.4m、最大速力21.5ノット、乗組員661名。武装は40口径20.3cm連装砲4門、15.2cm単装砲14基、8cm単装速射砲12基、47mm単装速射砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基。最終時の兵装は15.2cm単装砲4基、8cm単装高角砲1基、40mm単装機銃2基、25mm三連装機銃2基、同連装機銃8基、同単装機銃10基、機雷600個、爆雷80個、22号電探1基、13号対空電探1基、三式水中探信儀1基。
艦歴
大日本帝國海軍は来るべきロシア帝国との戦争に備え、1896年より6隻の戦艦と6隻の装甲巡洋艦の保有を目指す六六艦隊計画を推進。第1期及び第2期拡張計画を行ったが装甲巡洋艦の数が予定より2隻少ない4隻となってしまう。予定が狂った事で海軍が増援を熱望していたところ、来日したアームストロング社の重役からオイギンズ級装甲巡洋艦の改良型2隻を売却用に起工していると知らされ、議会の協賛を得ないまま非公式に発注。これが後の浅間型装甲巡洋艦1番艦浅間と2番艦常磐となる。このような経緯から常磐は六六艦隊計画の一番最後に加えられたにも関わらず、最も竣工年が古くなった。ちなみに代金は日清戦争で清国から賠償金として得た3000万ポンドの一部を使用。
1896年、来日していたアンドリュー・ノーブル卿を通してアームストロング社が2隻の装甲巡洋艦を建造しようとしている事を知った帝國海軍は購入を前提に設計に関わり、8月21日に最終設計を承認。軍艦技師フィリップ・ワッツに設計され、1897年1月6日、英アームストロング・ホイットワース社エルスウィック造船所で起工。建造中の7月6日に日本が購入し、10月18日に軍艦常磐と命名され、浅間型装甲巡洋艦2番艦に制定、10月21日に呉鎮守府へと編入。そして1898年7月6日に進水し、1899年4月5日より艦長兼回航委員長の出羽重遠大佐がエルスウィック造船所に到着して建造を監督、同年5月18日に竣工を果たした。出羽大佐指揮のもと5月19日にイギリスを出港して7月16日に横須賀へ到着。7月31日に戦艦八島等とともに常備艦隊を編制する。
1900年6月20日より生起した義和団の乱で初陣を迎える。西欧列強のキリスト教布教に反発した義和団とその支援を表明した西皇后が欧米列国に宣戦布告し、日本を含む八か国連合軍が北京在留の公使館員や居留民保護のため派兵。日本陸軍が第5師団8000名の兵力を投入した際に常磐は常備艦隊旗艦として大沽に進出・支援を行った。1903年12月28日、装甲巡洋艦出雲等とともに連合艦隊第2艦隊第2戦隊を新編。
日露戦争
1904年2月6日、ついに強国ロシアとの開戦に至り日露戦争が勃発。常磐はこの時のために建造された訳である。開戦から僅か3日後に行われた2月9日の旅順海戦に参戦、東郷平八郎中将率いる連合艦隊に加わって旅順港の外に停泊するロシア太平洋艦隊を攻撃。しかし駆逐艦による奇襲から予想以上に早く立ち直ったロシア艦隊からの思わぬ反撃を受け、やむなく東郷中将は主砲で沿岸砲撃、副砲で敵艦船攻撃を命じる。実質火力が半減した連合艦隊と全火力で応戦出来るロシア艦隊との壮絶な撃ち合いにより双方に大きな被害が発生。離脱するまでに日本側は約90名、ロシア側は約150名の死傷者を出した。3月初旬、常磐は第2戦隊から出羽少将率いる第3戦隊へ異動。3月10日、常磐と防護巡洋艦千歳は故障した露駆逐艦ステレグシチーを拿捕しようとしたが、沿岸の敵砲兵陣地から激しい砲火を受けて撃退されている。
4月13日、ステパン・マカロフ中将の旗艦ペトロパブロフスクを含む太平洋艦隊の一部を誘引する事に成功。常磐は前衛の敵巡洋艦と交戦した。マカロフ中将は日本の戦艦5隻が待ち伏せている事に気付き、旅順に引き返そうとしたが不運にも日本側が敷設した機雷原へ突っ込んでしまい、弾薬庫に誘爆してペトロパブロフスクは轟沈。マカロフ中将を含む677名が戦死する。数日後に常磐は第2戦隊へ復帰。4月中旬、カール・ジェッセン少将率いるウラジオストク独立巡洋艦戦隊から日本海と朝鮮海峡を防衛するため北方へ向かう。4月24日、日露両艦隊がすれ違う一幕があったが、幸い濃霧による視界不良で両軍とも気付かず戦闘は起きなかった。ウラジオストク沖で機雷を敷設して4月30日に元山へ帰投した。
ジェッセン少将は日本海と黄海の連合艦隊に揺さぶりをかけるべく7月17日に出撃、津軽海峡を通過して日本の東海岸側へ進出すると船を拿捕し始めた。7月24日にジェッセン艦隊が東京湾沖に到達したとの情報が入り、日本本土をぐるりと一周されて悠々と帰投されては士気に悪影響が出るとして、海軍上層部は沖ノ鳥島近海にいる第2戦隊に迎撃を命じるも、7月30日深夜に対馬海峡を通過され、8月1日ウラジオストクへの帰投を許した。常磐丸事件(常磐とは無関係)や今回の失態で第2戦隊司令兼防衛責任者の上村彦之丞中将は糾弾され、誹謗中傷や自宅への投石を受けている。
1905年1月11日、沖ノ鳥島沖でイギリスの貨物船ローズリー(4370トン)を臨検して拿捕、高崎丸と改名される。
8月10日、包囲下に置かれている旅順のロシア艦隊はウラジオストクへの脱出を試みて出撃したが黄海海戦の生起で突破に失敗、旅順へと引き返す。そうとは知らずにジェッセン艦隊は旅順からの脱出艦隊を迎えに行くよう命令され、装甲巡洋艦リューリク、グロモボイ、ロッシアを率いて8月13日夕刻にウラジオストクを出港。夜明けまでに対馬まで辿り着いたものの、脱出艦隊の姿が見えなかったため引き返した。ところが翌14日午前5時、対馬北方58kmにて連合艦隊の装甲巡洋艦磐手、出雲、吾妻、常磐と遭遇。ジェッセン少将は北東方向に転舵を命じ、上村中将も敵艦隊を認め、午前5時23分より彼我の距離8500mで砲撃戦が始まる。日本側が最後尾のリューリクに集中砲火を浴びせてきたため、射程を広げようとロシア艦隊は南東に舳先を向けるが、これが悪手だった。水平線から昇る太陽がロシア側砲手の視界を奪って命中率が著しく低下したのである。午前6時、ジュッセン少将は落伍しつつあるリューリクを拾いに行こうと右舷へ180度回頭。上村中将もまた敵艦隊を追跡しようとするが、ここで操舵ミスを起こして戦隊が左舷へ回頭してしまい距離が開いた上、吾妻がエンジントラブルを起こして足並みが乱れてしまう。だが午前6時24分よりリューリクへの砲撃が再開され、艦尾に3発の命中弾を喰らって操舵室が浸水、午前6時40分には左側への転舵が不可能になってリューリクが虫の息となる。リューリクと2隻の艦で日本艦隊の挟撃を考えたジェッセン少将は再度180度回頭、その意図を読んだ上村中将も180度回頭して挟撃を防ぎ、挟撃を諦めたロシア艦隊が三度目の180度回頭を行って反航にするなど凄まじい読み合いが繰り広げられた。やがてロシア艦隊にウラジオストクへの帰投許可が出て、また南から防護巡洋艦高千穂と浪速が接近してきた事により戦況の不利を悟ったジュッセン少将はリューリクを見捨てて退却を決意。対する上村中将、2隻の防護巡洋艦にリューリクの始末を任せ、逃げるロシア艦隊の追撃戦に移行。追跡中にまたしても吾妻がエンジントラブルを訴えたので常磐がその代役を担う。激しい追撃によりロッシアとグロモボイに損傷を与えて速力15ノットにまで低下させ、一時は約5000mまで彼我の距離を縮めたが、午前10時頃に出雲が弾薬の3/4を消費したとの誤報が出た事で上村中将は追撃を断念。残りの弾薬でリューリクだけでも撃沈しようと対馬海峡に戻った(ちなみにリューリクは防護巡洋艦により撃沈されていた)。この蔚山沖海戦で常磐は3名の負傷者を出す。
8月20日、先の黄海海戦で上海に退避していた露巡洋艦アスコルドと駆逐艦を監視するべく海上封鎖に参加。間もなく中国政府がロシア船舶を正式に抑留したため9月8日に帰国した。11月より呉工廠に入渠して整備を受ける。
1906年4月13日、装甲巡洋艦春日や出雲とともに出港。機雷敷設艦を護衛してウラジオストク沖に機雷715個の敷設に成功した。
5月27日早朝、遥々バルト海から回航されてきたジノーヴィ・ロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊が哨戒中の日本艦艇によって発見。午前11時30分、常磐が所属する第2戦隊はバルチック艦隊と遭遇、距離8000mにまで接近したところで砲撃を受けたため、東郷中将率いる主力部隊との合流を優先して戦闘を回避する。無事主力と合流した後の14時10分、戦艦とともにバルチック艦隊へ砲撃を開始。僚艦と歩調を合わせながら露戦艦オスリャビヤと交戦し、深手を負ったオスリャビヤは14時50分に艦隊から落伍して20分後に沈没。バルチック艦隊の隊列が乱れる。15時35分、2000m先の霧の中から突然グニャーズ・スヴォーロフが出現したため吾妻や八雲等と慌てて迎撃したが、命中弾は与えられなかった。17時30分から18時3分にかけて敵巡洋艦数隻を追跡したものの何ら戦果を挙げられず北方へ移動、その途上の18時30分頃にロシア艦隊の最後尾を発見し、8000~9000mの距離から砲撃を加えたがダメージや影響を与えられなかったため19時30分に砲撃を切り上げ、20時8分に東郷中将の戦艦部隊と合流した。翌28日朝、バルチック艦隊の残存部隊を発見して午前10時30分より海戦が生起。射程距離を詰められず反撃の術が無かったニコライ・ネボガトフ少将は降伏を決断した。一連の戦闘で常磐は大砲弾1発と75mm機銃弾7発を受けたが損害軽微、人員面では乗組員1名が死亡、14名が負傷している。
7月初旬、第2戦隊の磐手、出雲、常磐は朝鮮北東部に上陸する部隊の露払いとして朝鮮海峡で警戒任務に就き、8月中旬に無事ロシア国境に近い清津への上陸を成功させた。そして9月5日に日露戦争が終結して常磐の戦いは終わった。
第一次世界大戦
1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。日英同盟に基づきドイツに宣戦布告した日本も大戦に参加するが、主戦場の欧州から遠く離れていたため、中国青島の租借地や太平洋の島々を支配するドイツ植民地帝国が主な敵であった。常磐は開戦直後の8月17日から10月3日にかけて青島攻略作戦に参加し、佐世保に帰投。10月27日に佐世保を出港、ドイツ東洋艦隊の通商襲撃艦エムデンを捜索するため英領シンガポールに進出するが、この時点でエムデンはオーストラリア海軍の巡洋艦シドニーと交戦して沈没していた。12月7日内地へ帰投。主戦場から遠い太平洋では大きな戦闘は起こらず、ドイツ植民地帝国もオーストラリア軍との協同作戦で殆ど壊滅したため、欧州戦線の地獄とは裏腹に平和となる。実質戦間期と化したので帝國海軍は少尉候補生を育成するべく練習航海を開始。さすがに戦禍渦巻くヨーロッパ方面には行けなかったが、代わりに中立国のアメリカや中南米方面に長駆した。
1915年1月8日、メキシコのバハ・カリフォルニア半島中部西岸サン・バルテルミで座礁した姉妹艦浅間を工作船関東丸と協力して浮揚。2月20日から4月25日までアメリカ西海岸の警備に従事する。その後は10月18日に海軍大演習に、12月4日に横浜沖で実施された御大礼特別観艦式に参加。観艦式では御召艦となった筑波に連なる供奉艦の1隻に選ばれる栄誉にあずかった。12月9日からは警備艦となって北洋沿岸に派遣される。1917年4月5日より帝國海軍兵学校第44期の候補生を乗せ、八雲とともに練習航海に出発。ハワイや北米を巡航して8月17日に帰投した。1918年8月10日には練習艦隊に編入されて正式に訓練任務に就く。
1919年3月1日、吾妻とともに第46期少尉候補生を乗せて遠洋航海に出発、東南アジアやオーストラリアを巡航して7月26日に横須賀へ帰投。第一次世界大戦が終結した後の11月24日、前回同様吾妻と第47期生を乗せて練習航海に出発。戦争終結に伴ってヨーロッパ方面への巡航が解禁され、東南アジア、スエズ、地中海を巡って1920年5月20日に横須賀へ帰投した。6月4日に第2予備艦となって一旦遠洋航海から退き、9月1日から翌年7月21日まで呉海兵団兵員の訓練艦に充当される。
戦間期
帝國海軍はロシア海軍から捕獲した巡洋艦を機雷敷設艦として運用していたが、いずれも老朽化の問題が付きまとったため標的艦として撃沈処分が決まった津軽の代わりに常磐を機雷敷設艦へ改装する事にし、1922年9月30日より佐世保海軍工廠で改装工事に着手。後部砲塔、副砲6基、全ての魚雷発射管を撤去して5号機雷500個を搭載可能な機雷庫を新設、作業スペース、艦尾中甲板に敷設口、上甲板に敷設台を設置した。10月3日より出動公試を実施。1923年8月28日に佐世保を出港、裏長山列島での演習に参加していたが、9月1日に関東大震災が発生。壊滅した帝都の救援に向かい、9月4日に一旦佐世保へ帰投して救援物資を満載した後、9月22日から30日まで東京湾で震災救援作業に従事した。1924年3月改装工事完了。
1927年3月24日、燃費が悪い常磐を高速化しつつある主力艦艇に追従させるため、また高速で敷設訓練を行えるのは常磐だけだとして艦長が軍務局に来年度の燃料増額するよう要請している。7月25日、機関が故障して旗艦任務が出来なくなった軽巡龍田から第1水雷戦隊司令の高橋寿太郎少将の将旗を継承して一時的に旗艦となる。その後、連合艦隊の甲種戦技演習で機雷敷設を行う事になり、艦隊の集結地である奄美大島から佐伯湾へ移動し、7月31日に湾内の片網代島沖にて投錨。この時の常磐は通常業務に加えて旗艦任務もあり多忙を極めていた。敷設する機雷140個のうち18個は炸薬を詰めた実装機雷で、8月1日朝、小雨が降る中甲板にて第四分隊員による炸薬装備作業が行われた。1個、2個と順調に作業が進んでいるかのように見えたが、3個目の機雷に絶縁不良個所があり、午前9時39分に突如その機雷が爆発。周囲の乗員と艦隊から派遣されていた戦技委員を薙ぎ倒し、甲板を破壊するとともに火災が発生。その火の手が他の機雷にも及んで誘爆を引き起こした。すぐさま乗組員が消火活動を開始、他の在泊艦艇からも防火隊が急派されるなど一大事故に発展してしまう。火災は午前10時38分に鎮火したが、この爆発事故で35名が死亡または行方不明となり、68名が重軽傷を負った。かろうじて航行可能だったため自力で佐世保へ帰投。これを機に帝國海軍は5号機雷を改良した5号機雷改一を制式化して以後このような爆発事故は無くなった。
1937年11月から翌年にかけて8基の艦本式ボイラーに換装する工事を受け、最大速力が16ノットに低下。
1940年5月1日にマーシャル諸島防衛を担当する第4艦隊に編入され、出師準備に伴って軽巡洋艦多摩とトラック諸島に進出して機雷敷設作業を実施。11月15日に機雷敷設艦沖島と第4艦隊第19戦隊を編制する。
戦争の足音が近づいてきた1941年11月21日、第19戦隊は南洋部隊マーシャル方面防備部隊直卒部隊に部署。元々第19戦隊には作戦や任務が与えられていなかったが、11月27日にトラックで行われた作戦会議でギルバート諸島の攻略が新たに加えられ、そこに宙に浮いていた第19戦隊を当てはめる事になった。事前の調査の結果、マキンとタラワに有力な敵兵力は認められず、せいぜい軍用銃が20丁程度と見積もられている。その間に常磐はマーシャル諸島クェゼリン基地を拠点にエニウェトク環礁とビキニ環礁へ機雷を敷設して回った。12月2日、連合艦隊旗艦長門から発せられた「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を受信。これは「日米交渉断裂、12月8日以降に軍事行動を実施せよ」という意味であり開戦は不可避となった。
大東亜戦争
1941年12月8日、運命の開戦をクェゼリンで迎える。この時既に艦齢40年以上の超老朽艦だった事もあり第19戦隊の中で唯一ギルバート諸島攻略に参加せずクェゼリンに留まった(資料によってはラバウル攻略作戦に参加したとしている)。
1942年1月5日にクェゼリン海面防備部隊へと異動。それから間もなくして常磐に最初の試練が降りかかった。2月1日午前4時、米第8任務部隊が通り魔的な空襲を仕掛けて来て、椰子林内にある司令官室が銃爆撃を受ける。完全な奇襲だったようで空襲警報のサイレンすら鳴っていなかった。第4艦隊は南洋諸島の攻略に出払っていて、当時環礁内にいたのは常磐、潜水艦2隻、商船を改造した特設艦船数隻程度(+第6艦隊の旗艦香取と潜水艦7隻、その支援艦艇)であり、戦力は十分と言えない。クェゼリン上空に出現した敵機は停泊中の潜水艦6隻を無視して最初に特設潜水母艦靖国丸を狙い、次々と命中弾を与えて大火災を発生させる。炎上中の靖国丸に敵機が集中攻撃を浴びせている間にようやく潜水艦群が潜航退避を始める。
練習巡洋艦香取、補給艦知床、常磐の3隻にも米艦爆機10機程度が襲来し、このうち1機が低空より投弾してきたが、ぎりぎりのところで外れて至近弾となった。そして3隻からの対空射撃を受け、低空飛行中の1機が被弾して椰子林の中へ墜落。後に常磐と香取が「我が方の射撃が撃ち落とした」と互いに主張して対立したとか。日露戦争や第一次世界大戦には無かった初の航空攻撃を受けて応戦した結果、直撃弾1発と至近弾3発を受けて小破するとともに有馬三郎軍医中尉以下8名が死亡、15名が負傷する被害をこうむる。また一連の空襲で特設駆潜艇2隻と輸送船1隻が撃沈された他、第6根拠地隊司令・八代祐吉少将が戦死。午前8時40分に常磐艦長の富澤不二彦大佐がマーシャル方面防備隊の指揮を執ると上層部に打電するが、第6通信隊司令・牛尾藤雅大佐も同様の緊急通信を打っていたため、マーシャル諸島防備隊の司令官が2人に増える事態が発生。南洋部隊によって牛尾大佐が指揮を引き継ぐ事となった。
しばらくクェゼリンから動けなかったものの、3月3日から8日にかけて特設工作艦浦上丸から応急修理を受けて何とか本土回航が可能になり、本格的な修理を受けるべく3月12日にクェゼリンを出港、3月24日に佐世保へ帰投し、3月31日より入渠して修理を受けた。
5月11日、修理を終えた常磐は広島湾へ回航されたのち水船を曳航して出港、5月26日にトラックへと進出。6月5日に再びマーシャル方面防備部隊に部署して翌日トラックを出港し、6月11日にクェゼリンへと舞い戻った。7月14日、ミッドウェー海戦の敗北に伴う再編成により第19戦隊が解隊され、常磐は単独で第4艦隊に所属。8月17日から翌18日にかけて行われたアメリカ軍のマキン奇襲に対応するべく増援部隊を送る事になり、8月19日に特設駆潜艇3隻や輸送船1隻と横須賀第6特別陸戦隊を積載してクェゼリンを出港、8月21日午前10時15分にマキンへ到着した。上陸させた増援部隊が取り残されていた海兵隊員9名を捕縛したためクェゼリンへ送り届ける。彼らは道中では丁重にもてなされたが、クェゼリン到着後は第6根拠地隊司令の命令により斬首されている。増援輸送が終わると再びクェゼリンで待機。
1943年5月1日、大湊を拠点とする第5艦隊第52根拠地へと転属となり、司令・水井静治少将が座乗する旗艦に指定。5月5日にトラック行きの輸送船団に混ざってクェゼリンを出港し、5月9日にトラックへ寄港。5月21日17時、海防艦隠岐と第8号掃海艇が護衛する第4521船団(輸送艦能登呂、特設工作船八海丸)に加入してトラックを出発。途中から航空機輸送船最上川丸が加わった。5月26日にサイパンへ寄港して第4526船団に改名。道中の6月3日夜、米潜サーモンが第4526船団に向けて7本の雷撃を発射、サーモンは八海丸と最上川丸への命中を主張したが、いずれの攻撃も失敗に終わって損害皆無だった。敵潜を振り切った常磐と第4526船団は6月5日に横須賀へ帰投し、佐世保と舞鶴で整備を受けたのち7月20日に新たな根拠地となった大湊へと入港。ここでは指揮下の第52砲艇隊、第52掃海隊、第41、第43号駆潜艇との訓練に従事。
1944年1月20日、常磐、特設巡洋艦西貢丸、特設敷設艦新興丸、高栄丸の4隻で第18戦隊を再編。東シナ海、日本海、対馬海峡、台湾海峡、黄海での機雷敷設任務を担当する。第18戦隊は1月24日から4月23日にかけて東シナ海への機雷原設置作業に従事、5月14日に台湾海峡、6月5日に石垣島周辺、6月17日に宮古島周辺に機雷原を設置し、6月19日から翌20日にかけて西貢丸、水雷艇友鶴、第58号駆潜艇等に護衛されながら他の機雷敷設艦と沖縄近海へ1650個の機雷を敷設。11月23日には黄海の機雷原強化を行っている。船舶の不足から第18戦隊からも西貢丸と新興丸が輸送任務に駆り出され、西貢丸はバターン半島マリベレス西南西沖で敵潜フラッシャーの雷撃を受け、新興丸はルソン島ラポック湾で敵機動部隊の空襲を受けて沈没。戦力が大きく減じてしまった。
1944年秋頃、連合軍の本土侵攻が現実味を帯びてきたため帝國海軍は防御が薄い日本海側を防衛すべく、津軽海峡と対馬海峡への防御機雷敷設を考えていたが、敷設艦は全て敵の攻撃で沈められていて健在なのは常磐しかいないという惨状であった。そこで戦時標準船を買収して敷設艦に改造すると同時に新たな敷設艇十数隻(後の神島型)の建造に着手している。
1945年1月6日に東シナ海の機雷原を強化。2月27日、第22号、第29号、第68号海防艦に護衛されながら高栄丸とともに屋久島南方に機雷約1000個を敷設。4月14日午後12時15分、高栄丸とともに佐伯湾を出発して対馬西方へと向かっていたその途上、関門海峡東口の部崎灯台沖126kmで右舷中央部にアメリカ軍が投下した磁気機雷が爆発し、舵柄室が満水、舵取器室と機雷火薬庫が浸水する被害を受ける。16時43分には伴走者の高栄丸も姫島沖で触雷したが幸い2隻とも沈没は免れ、4月17日に佐世保へ入港して修理を受ける。それと並行して対空性能を強化するための工事が行われた。常磐の最終時の兵装は15.2cm単装砲4基、8cm単装高角砲1基、40mm単装機銃2基、25mm三連装機銃2基、同連装機銃8基、同単装機銃10基、機雷600個、爆雷80個、22号電探1基、13号対空電探1基、三式水中探信儀1基となる。そして5月13日と28日に対馬東水道へ機雷原を設置。任務を終えた常磐は第22号、第29号海防艦に護衛されて舞鶴へと向かう。6月3日午前8時39分、入港直前の博奕岬灯台2000m先でB-29が投下した機雷に触雷・小破したが無事舞鶴に入港。6月5日に第18戦隊が解隊されたため単独で第7艦隊に所属する。常磐が対馬沖で敷設した機雷原は日本海への米潜水艦侵入を防ぐためのものだったが、努力の甲斐なくバーニー作戦で9隻の敵潜水艦に侵入され、船舶が撃沈されるなどの被害を出した。7月2日に舞鶴を出港し、7月4日に大湊へ寄港したのち、宗谷海峡への機雷敷設作業のため稚内に回航。7月23日に大湊へ帰投した。
8月9日午前6時、常磐や高栄丸、特設運送船浮島丸、駆逐艦柳など20隻の艦船が停泊する大湊に空襲警報が発令。敵の強行偵察機が飛来するのを見た常磐艦長の河西虎三大佐は指揮下の艦艇の各艦長を招集。艦内には北海道方面に敷設する機雷が大量に積載されていたが、被弾の際に誘爆すれば町に大きな被害が及ぶとして戦闘が始まる前に海中への投棄を命じ、陸奥湾中央部に全ての爆雷を捨てさせた。投棄作業を終えて大湊に戻った頃の13時35分、米第38任務部隊の空母搭載機から攻撃を受ける。敵機の攻撃は大湊の艦艇で最も大型な常磐に集中。在泊艦艇や陸上砲台が応戦する中、常磐はランドルフとエセックス所属のSBC-4ヘルダイバー急降下爆撃機8機に襲撃され、数発の至近弾を喰らうも、反撃の対空砲火でアーネスト・G・ポルプスキー中尉のヘルダイバーを撃墜。続いてF4U-1Dコルセア6機が現れ、艦首に1000ポンド爆弾2発を、間を置かず11機のヘルダイバーが250~500ポンド爆弾7発を投下し、艦体中央部から激しい爆発と黒煙が噴き出した。だが常磐も対空砲火も正確でありエンス・ポール・バッシ中尉のヘルダイバーを撃墜している。一連の攻撃で右舷前部と左舷中央部煙突付近、後部士官室に直撃弾4発と至近弾4発を受けて大破。乗組員109名が死亡、82名が負傷するなど人的被害は常磐が圧倒的に多かった。舵機室と第4機雷火薬庫に浸水し、補機室内の蒸気管の破損等が原因で補機と電源動力が使用不能となったため、ビルジポンプで何とか浸水を食い止める。この状態のまま8月15日の終戦を迎える。終戦に伴って乗組員が去ると排水作業が出来なくなる事から沈没回避の目的で葦崎東方海岸に擱座。1945年11月30日除籍。
戦後の1947年4月から5月にかけて浮揚作業が行われ、8月より2ヶ月かけて函館ドック大湊造船所で解体された。総戦果は英商船ローズリー拿捕とヘルダイバー2機撃墜。
関連項目
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