MarcVDS とは、MotoGPのMoto2クラスに参戦するプライベートチームである。
ベルギーのゴスリ(Gosselies)を本拠地としている。チームの倉庫はゴスリから少し東に離れたこの場所にあり、シャルルロワ空港(ベルギー第二の空港)と隣接している。
2016年シーズンまで4輪レースに参戦していた。
ライダー
2022年はMoto2クラスにライダーを2人出走させている。
# | 名前 | 国籍 | 出身地 | 身長・体重 | 誕生日 |
22 | サム・ローズ | リンカーン | 169cm65kg | 1990年9月14日 | |
14 | トニー・アルボリーノ | ガルバニャーテ・ミラネーゼ | 171cm59kg | 2000年8月3日 |
スタッフ
フランス人の大ベテラン。2018年からMarcVDSに加入した。2020年からサム・ローズのクルーチーフを務めている。
イタリア人。
2011年にチャズ・デイビスのクルーチーフとなっていて、スーパースポーツ世界選手権のチャンピオン獲得に貢献した。2013年から2015年はサム・ローズのクルーチーフで、2013年のスーパースポーツ世界選手権のチャンピオン獲得に貢献し、2014年と2015年はサム・ローズに同行してMotoGPのMoto2クラスのスピードアップレーシングに在籍した。
2016年はインタクト(ドイツに本拠地がある)の一員になり、サンドロ・コルテセのクルーチーフを務めた。2017年はキーファーレーシング(ドイツに本拠地がある)の一員になり、ダニー・ケントやタラン・マッケンジーのクルーチーフを務めた。
2020年はアメリカンチームに在籍してジョー・ロバーツのクルーチーフを務めていた。この年にジョー・ロバーツがポールポジションを獲得するなど躍進したので、MarcVDSに引き抜かれることになった。
2021年からMarcVDSに加入し、2021年はアウグスト・フェルナンデスのクルーチーフを務めた。2022年はトニー・アルボリーノのクルーチーフになっている。
※資料・・・記事1、記事2、記事3、記事4
1971年2月19日生まれ、ブラジル育ち、奥様が元スチュワーデス(記事)。
もとはカワサキワークスのテクニカルディレクターだった(記事)。テクニカルディレクターとは技術的な相談を一手に引き受ける窓口の立場で、マシンについてもっとも詳しい人である。
2012年はTech3のMoto2部門でシャヴィエル・シメオンのクルーチーフだった。
カワサキワークスのボスを務めていたミハエル・バルトレミーに誘われて2013年からMarcVDSに参加するようになった。2013年と2014年の2年間ミカ・カリオのクルーチーフを務めた。2015年から2018年までアレックス・マルケスのクルーチーフだった。
2019年からテクニカルディレクターとなり、MarcVDS全体の技術的支援をすることになった。
イタリア・リミニ出身で、2022年からチーム監督を務めている。
2009年以前はチーム・スコットに在籍していた。2010年はMotoGPのMoto2クラスでサンマリノレーシングというチームを所有していた(記事)。
2011年から2017年までの7年間、MarcVDSのチームコーディネーターという役職だった。コーディネーターとは調整役と翻訳される。要するに、チーム監督の補佐としてチームをまとめあげる役割の人である。
2014年6月のイタリアGPでは、表彰式に登壇している(画像1、画像2)。パルクフェルメでの記念撮影に写る画像もある(画像1、画像2、画像3)。
サム・ローズの妻としても知られている(画像1、画像2)。2018年9月14日にキャスリン(Kathryn)という娘を出産している(画像1、画像2、画像3)。
2018年初頭、ミハエル・バルトレミー監督によってチームコーディネーターを解任された。なぜ解任されたのかはよく分かっていない。
2018年5月騒動の発端となった人物として報道されている。詳しくは、本記事の「2018年5月騒動」の項を参考のこと。
2018年5月にミハエル・バルトレミー監督が解任され、同年9月に出産を済ませた後、MarcVDSにチームコーディネーターとして復職した。2019年のスタッフ全員集合写真に、マルク・ファンデルストラーテンの隣に立って写っている。(画像1、画像2)
かつて所属していたスタッフ
監督
2010年から2018年5月までチーム監督を務めた。ベルギーのオイペン出身で、1970年1月6日生まれ。
レース中はピットガレージの中で足を組みながら椅子に座り込み、厳しい表情を崩さない。結構おっかない印象があり、貫禄十分であった。
フランコ・モルビデリは「最初は怖い人だと思っていた」「実際は優しい人で、プレッシャーを掛けてくることは1度もなかった」とコメントしている。
子供が4人いる。
チーム監督という立場だが、f**kだとかs**tといった4文字語(伏せ字が必要な下品な言葉)をインタビューでちょくちょく発している。
祖父が二輪レーサーで、家に多くのバイクがあるような家庭だった。父親は二輪レーサーではなかったが、ミハエルを色んなレースに連れて行っていた。ミハエル自身は17歳の時にレースを始め、ヨーロッパ耐久選手権(4時間~8時間を2人交替で走るレース)に出場していた。バルトレミー家はそんなに裕福ではなく、資金に限りがあったので、22歳の頃にはレースを引退することにした。
1992年、22歳の時にレーシングチームを設立して、その監督兼オーナーをしていた。あまりにも若いので、周りからあまり尊重されなかったと語っている。
ヤマハと手を組んで1992年から4年間ほど耐久レースの活動をした。1997年にヤマハとともに世界スーパースポーツ選手権(市販車4スト600ccのスプリントレース)に活動の場を移した。1999年末にホンダから声がかかり、2000~2003年の4年間はホンダの一員として世界スーパースポーツ選手権を戦った。そうしながらMotoGPの各チーム・各メーカーと接触していたら、2003年末にカワサキから声がかかった。カワサキは2003年シーズンからMotoGP最大排気量クラスに参戦していたのである。
2004年と2005年はカワサキワークスのチームコーディネーターという肩書きで、2006年から2008年までカワサキワークスのチーム監督だった。
カワサキが2008年シーズン末をもってMotoGPから撤退すると、参戦台数の減少に危機感を感じたドルナが介入し、ハヤテ・レーシングというプライベートチームが作られてそこに1年だけカワサキのマシンが供給されることになった。ミハエル・バルトレミーも最初のうちはハヤテ・レーシングに詰めかけていたが、自分があまり歓迎されていないことを悟り、2009年の途中からピットに行かないことにした。
2009年のシーズン途中、MarcVDSの4輪レース活動でホッケンハイムというドイツのサーキットに滞在していたマルク・ファンデルストラーテンのところに押しかけ、2輪レースチームの設立を勧めた。マルク・ファンデルストラーテンは乗り気になり、MotoGPのMoto2クラスへの参戦が決まった。
2010年の初頭にMarcVDSのチーム監督に就任した。この年はMoto2クラスが始まった年である。
2015年からMarcVDSは経営の規模を広げ、最大排気量クラスへの参戦を決めた。そういうときは新たなメカニックを雇う必要があり、人脈豊富な人がチームにいることが望ましい。ミハエル・バルトレミーは最大排気量クラスの経験が豊富で、その点で申し分なかった。
2017年暮れから2018年5月頃まで、スズキワークスがサテライトチームを作ろうとしていた。そのとき、その候補に挙がっていたのはMarcVDSだった。このため盛んにミハエル・バルトレミーがメディアに登場していた(記事)。
2018年5月、マルク・ファンデルストラーテンに監督職を解任された。
※この項の情報源・・・記事1、記事2、記事3
2018年5月、マルク・ファンデルストラーテンによってチーム監督に任命された。
愛称はルカ(Luca)。ルカ・モンティロンと呼ばれることも多い。
MotoGPにおけるチーム監督としての経歴が長い。2003年と2004年は最大排気量クラスのプラマックレーシングでチーム監督をしていた。
2005年から最大排気量クラスのJIRの監督。このJIRというチームは、イタリア人のモンティロンと、日本人の飯田哲男(ホンダモーターヨーロッパの創設者)が共同で作ったチームであり、そのためJapan Italy Racingという名が付いた。
2008年のJIRはチーム・スコットと共同でチームを経営して最大排気量クラスに参戦。2009年のJIRはMotoGPから離れ、スーパーバイク世界選手権の併設イベントであるスーパーストック1000カップに参戦。
2010年からMotoGPのMoto2クラスに参戦開始している。2010年から2014年まで、日本の鈴鹿サーキット近くに拠点があるTSRのシャーシを使っていた。また4人ほど日本人ライダーを乗せており、日本と関係の深いチームだった。
2015年シーズン限りでJIRはレース活動から手を引いていた。
ルカ・モンティロンはとても経験豊富で、その気になれば聞き応えのあることをいくらでも書くことができる。そのため、2017年12月にイタリアの有力サイトCorsedimoto.comのコラムニストに就任していた。
そうしているとき、2018年5月にMarcVDSから声がかかり、ミハエル・バルトレミー監督を解任した後の代役としてチーム監督に就任することになった。5月18日頃のこととされる(記事)。
ところがなんと、6月1日頃には辞任してしまった(記事)。
ルカ・モンティロンの後任はエミリオ・アルサモラが就任した。Team Monlauの首脳を務める人で、スポンサーのEstrella Galicia0.0から要請された。2018年シーズンの残りは、エミリオが代役監督を勤め上げた。
1984年11月22日、スペイン・バルセロナ近郊のタラゴナ出身。Joanはカタルーニャ語読みだとジョアンとなるがスペイン語読みだとホアンになる。日本語版Wikipediaではスペイン語読みを採用してホアン・オリベという記事名になっている。
トニ・エリアスやダニ・ペドロサやケーシー・ストーナーと同年代で、彼らとともにアルベルト・プーチの門下生となっていた。プーチはエリアスにゼッケン24番、ホアン・オリヴェにゼッケン25番、ペドロサにゼッケン26番、ストーナーにゼッケン27番を与えていた。当時の写真がいくつかある(画像1、画像2)
英語版Wikipediaに戦績が載っている。2008年は表彰台に4回登っている。現役を引退した後はKTMのMoto3マシンのテストライダーを務めたり、ライダーコーチをしたり、2012年から2018年までアジョ・モータースポーツの手伝いをしたりしていた。
2019年シーズンからMarcVDSのチーム監督に就任した(記事)。しかし2022年のMarcVDSの公式サイトには彼の名前が載っていない。本人の履歴書SNSには2022年4月の時点で転職先が記載されていない。
クルーチーフ
1988年のスーパーバイク世界選手権初年度にライダーとして参戦していた。
2014年はスーパーバイクのホンダ系チームであるテンケイトで、ジョナサン・レイのクルーチーフ。
2015年はMotoGPのMarcVDS最大排気量クラスチームでスコット・レディングのクルーチーフ。
2016年はMotoGPのMarcVDS最大排気量クラスチームでティト・ラバトのクルーチーフ。
2018年からはスーパーバイク世界選手権において、ホンダモーターヨーロッパのオペレーションマネージャーになったと報じられた(記事)。
ピットの設営についてのインタビューを受けている(動画)。
2019年3月、ドゥカティワークスがホールショットデバイスを採用していたことが話題になった。そのとき、Twitterで「あれは昔から見られる部品だ」「2006年頃のBSBでホンダ系のライダーが使っていた」と親切に解説していた(記事)。
イタリア人。2019年はプラマックレーシングに所属し、フランチェスコ・バニャイアのクルーチーフ。2022年はドゥカティワークスでフランチェスコ・バニャイアのクルーチーフである。
スペイン人。2019年はレプソルホンダに所属し、ホルヘ・ロレンソのクルーチーフ。2022年はレプソルホンダでポル・エスパルガロのクルーチーフである。
グレッシーニレーシングの記事に詳細記述がある。
2017年にMarcVDS最大排気量クラス部門のティト・ラバトのクルーチーフとして引き抜かれた。
2018年はMarcVDS最大排気量クラス部門でフランコ・モルビデリのクルーチーフ。
2019年はペトロナス・ヤマハでファビオ・クアルタラロのクルーチーフ。2022年はヤマハワークスでファビオ・クアルタラロのクルーチーフである。
ニュージーランド出身。1963年頃生まれ。
1994年にヤマハ系チームに在籍し、ニール・マッケンジーのクルーチーフを務めた。
1998年からレプソルホンダで働き始めた。最初は岡田忠之のメカニックだった。ミック・ドゥーハンのメカニックを務めたこともある。2001年には宇川徹のメカニック、2002~2003年はヴァレンティーノ・ロッシのメカニック、2004年はアレックス・バロスのメカニック。
2005年にクルーチーフに昇格し、ニッキー・ヘイデンとコンビを組んだ。2006年にはニッキー・ヘイデンが最大排気量クラスチャンピオンを獲っている。
2008年末にニッキー・ヘイデンがドゥカティへ移籍するときにはレプソルホンダ残留の道を選び、新しくやってくるアンドレア・ドヴィツィオーゾのクルーチーフになった(記事)。
2009年末にアンドレア・ドヴィツィオーゾのクルーチーフの座をラモン・アウリンに譲り、レプソルホンダを退職してMoto2のMarcVDSに移った(記事)。
2010年から2013年まではMoto2クラスでスコット・レディングのクルーチーフ。
2014年からは2015年まではMoto2クラスでティト・ラバトのクルーチーフ。
2016年から2017年まではMoto2クラスでフランコ・モルビデリのクルーチーフ。
2018年はMoto2クラスでジョアン・ミルのクルーチーフ。
2018年限りでMarcVDSを退職し、2019年からはスーパーバイク世界選手権のショーン・ミュア・レーシングでマーカス・ライターベルガーのクルーチーフを務めている。同チームはイギリスのギースバラに本拠地があり、2019年はBMWのマシンを走らせている。
2020年からKTMのテストチームに加入している(記事)。
「最近はレース数が多すぎるね。昔は1年で13回だったのに、今は18回だ」と語っている(記事)。
曇っていても、サングラスをかけていた(画像)。
2015年と2016年はアジョ・モータースポーツのMoto2クラスチームに在籍し、ヨハン・ザルコの2連覇を支えた。そのときからテレメトリー・スタッフだった。テレメトリーとは、マシンからの情報を収集して分析する役目のスタッフ。
2017年と2018年はレプソルホンダに在籍し、ダニ・ペドロサのテレメトリー・スタッフだった。
2019年からMarcVDSに引き抜かれ、アレックス・マルケスのクルーチーフになった。
2020年はMarcVDSでアウグスト・フェルナンデスのクルーチーフを務めた。2021年にチームLCRへ移籍し、アレックス・マルケスのテレメトリースタッフになった。2022年から同チームでアレックス・マルケスのクルーチーフに昇格した。
※この項の情報源・・・記事1、記事2、記事3、記事4、記事5
その他のスタッフ
スペイン人のテレメトリー・スタッフ。スペインは夫婦別姓の国で、子どもは両親の姓を両方名乗ることになる。カント(Canto)が父方の姓で、パストル(Pastor)が母方の姓である。
リヴィオ・ロイ(Moto3クラス)、ティト・ラバト(Moto2クラス時代)、フランコ・モルビデリ(Moto2クラス時代)、ジョアン・ミルを担当。
ドイツ企業2D(つーでぃー)の製品を駆使してライダーの走行データを管理し分析する。センサーをバイクのあちこちに付けて、データロガーという記憶装置に走行データを集める。集まったデータをパソコンに入れ、ソフトを使って解析する。
MotoGPにおいて珍しい女性スタッフなので、しばしばMarcVDSのSNSにも写っている(画像1、画像2、画像3、画像4、画像5、画像6、画像7、画像8、画像9、画像10)
MarcVDS公式サイトでも紹介されている(記事)。
2019年にはKTMワークスに在籍していて、タイヤ専門の分析スタッフになっている(記事)。
象徴、チームカラー
MarcVDSの象徴はライオンであり、マシンやレーシングスーツやチームシャツなど至る所に黄色のライオンが描かれている(画像1、画像2、画像3、画像4)。
MarcVDSのオーナーであるマルク・ファンデルストラーテンがライオンのデザインを選んだ。最初はチーター(地上最速のネコ科の動物。アフリカ大陸に生息)のデザインにしようかと思っていたが、ライオンのデザインに落ち着いた。「モータースポーツのチームというのは家族のようなものだ。ライオンは群れを作り、群れのボスは群れのみんなの安全を守るために外敵と戦いをする。家族の象徴として、ライオンはもっともふさわしい」と語っている。
銀色がオーナー好みの色(画像1、画像2、画像3)。天気が曇っていても輝いて見えるから銀色を選んだ。
ワインレッドと言われる濃い赤紫色を好んでいる(画像1、画像2、画像3)。マルク・ファンデルストラーテンの出身国ベルギーはフランス語圏の一員で、フランスとは国境を接し親近感がある。そのフランスの名産品といえば赤ワインである。マルク自身も赤ワインが好きなのでこの色を選んだ。「ワインレッドは光に照らされると綺麗に見える」とマルクが語っている。
※この項の情報源・・・記事1、記事2。
チームオーナー マルク・ファン デル ストラーテン
マルク・ファンデルストラーテン(Marc Van der Straten)がMarcVDSのオーナーである。
MarcVDSとはオーナーの名前と姓の頭文字をとった名前ということになる。
白いシャツに黒い袖無しジャケットで白黒チェッカーフラッグ模様のベレー帽をかぶっている、という出で立ちであることが多い(画像1、画像2、画像3)
カメラを向けられるとお茶目な反応を示してくれることがある(画像1、画像2)
2016年のオランダGPでジャック・ミラーが優勝したときに、マルク・ファンデルストラーテンは表彰台に登壇した。そのとき、2位のマルク・マルケスとかなり親しそうにしていた。マルク・マルケスの弟のアレックス・マルケスがMarcVDS所属のライダーであり、しょっちゅう会っているからである。
Google Chromeで彼の名前が入った記事を機械翻訳すると「ファンデル戦略」となることが多い。stratenをstrategyと扱う傾向がある。
1948年3月3日が誕生日。
countという爵位をもらっている。countは、伯爵という意味。
ベルギー人である。ベルギーはフランス語圏なので、マルク・ファンデルストラーテンもフランス語を喋る。MotoGP公用語は英語で、パドックに出入りする人は英語を話すことを求められるのだが、マルク・ファンデルストラーテンは決して英語を覚えようとせず、いつもフランス語で会話しているという。
かなり昔のことだが友人とバイク2人乗りをしていて転倒したため、一時はバイク嫌いになった。南フランスのコートダジュールという風光明媚な海岸を友人とバイク2人乗りして走っていた。友人がホンダCB750を運転し、マルクがその後ろに乗る。友人が調子に乗って速く走っていたのでマルクは「速すぎだぞ、もっと遅く走れ」と言ったのだが、友人はそれを無視していた。マルクが心配していた通りに転倒して、2人は地面に投げ出され、2人とも怪我してしまった。マルクは怒りのあまり友人にパンチを浴びせた。それ以来、長いことバイクから遠ざかっていたという。(情報源はこの記事)
障害がある人たちが車椅子でサッカーすることを支援している。この動画で、スーツに身を包んだマルク・ファンデルストラーテンが出てくる。
祖先がビール醸造で一発当てる
ベルギーはビール醸造の歴史が長く、中世以来の醸造所がいくつかある。
1366年、ルーヴァンというところにデン・ホールン(Den Hoorn)という醸造所ができた。1708年にセバスチャン・アルトワという人がその醸造所の一番偉い人になり、1717年に醸造所のオーナーになり、醸造所の名前をアルトワ醸造所(仏語Brouwerij Artois 英語Artois Brewery)に改めた。
1926年12月のクリスマスに、アルトワ醸造所は1つの大ヒット商品を売り出した。ステラ(Stella)という名前で、フランス語で星という意味である。後にステラ・アルトワ(Stella Artois)という商品名になり、ヨーロッパ中で愛飲される定番ビールとなっていった。
このステラ・アルトワを開発したのが、マルク・ファンデルストラーテンの曾祖父である。その功績で、アルトワ醸造所の大株主になった。
1988年にアルトワ醸造所はベルギー国内の醸造所を買収してInterbrewという社名に変更した。1995年にInterbrewはカナダのLabattというビール企業を買収した。
2004年にInterbrewはブラジルのAmBevと合併してInBevという社名になった。この時点でビール販売世界シェア13%で世界シェア首位の巨大企業になった。
2008年にInBevはアメリカのビール会社Anheuser-Busch(バドワイザーという銘柄で有名)と合併してAnheuser-Busch InBevという社名になった。ビール販売世界シェアは25%でもちろん首位である。
マルク・ファンデルストラーテンの曾祖父はアルトワ醸造所の大株主になったが、曾祖父から祖父、祖父から父、父からマルクへと大株主の地位が受け継がれていった。
マルク・ファンデルストラーテンは超巨大企業の大株主であり、バイクレースのチームを保有することも全く苦にしない富豪なのである。
※この項の情報源・・・記事1、記事2
アフリカのコンゴ出身
アルトワ醸造所の大株主なのでベルギー国内でゆっくり過ごしていればよさそうなのだが、マルクの父親はそうすることを好まず、アフリカ大陸のベルギー領コンゴに進出し、コーヒーや茶畑の農場経営をしていた。
1948年3月3日にマルクはコンゴで生まれた。1962年頃まで、つまり14歳の頃までコンゴに住み続けていたという。蛇や大きな猫といった、危険な動物と触れ合う少年時代を過ごしていたらしい。(※この記事が出典)
「大きな猫」と記事に書いてあるが、これは単に巨大な猫という意味ではなく、チーターやライオンやヒョウといったネコ科の獰猛な野生動物のことを示していると思われる。アフリカの中央部にあるコンゴは、ネコ科の野生動物が多い。
父親の代からモータースポーツに傾倒する
マルクの父親はルドルフ(Rudolph)と言い、愛称はルディ(Rudy)だった。この人は1964年にVDS-racingというモータースポーツのチームを設立していた。マルク・ファンデルストラーテンもその手伝いをしていたという。雇っていたドライバーのうちの1人はトニ・ジレという人で、英語版Wikipediaのページがある。
1992年に、父親が他界した。
マルクにはエルヴェという兄がいる。そのエルヴェがVDS-Racingを引き継ぎ、2019年現在もレース活動を続けている。公式サイトや公式Facebookがある。ちなみに、このVDS-Racingのドライバーの一人はラファエルといい、マルクの兄エルヴェの息子で、マルクにとって甥っ子に当たる人物だった。
1997年に、マルク・ファンデルストラーテンは自分のチームを設立し、父親や兄と同じことを始めた。チームの名前はMarcVDSで、この設立当時は4輪モータースポーツ専門のチームだった。チーム設立の時、兄のエルヴェから「VDS-racingのチームカラーは青と赤なんだけど、この色を使わないでくれ」と言われたので、マルクはMarcVDSのチームカラーを銀色とワインレッドにした。
2009年の中頃、4輪レースの関係でドイツのホッケンハイムというサーキットに出張していたとき、同じベルギー人のミハエル・バルトレミーに話しかけられ、バイクレース設立へ心が動いた。ミハエル・バルトレミーはMotoGPでカワサキワークスを率いたほどの実績ある人物だった。
2009年にバイクレースのチームを設立し、2010年からMotoGPのMoto2クラスに参戦を開始した。
2016年シーズンをもって4輪レースの活動を終了し、2輪レースに全力を集中することにした。
※この項の情報源・・・記事1と記事2
戦績
MotoGPへの参戦履歴を振り返る。名門プライベートチームだけあって華やかな歴史になっている。
2010年 Moto2初年度に参戦
新設のMoto2クラスに参戦。使用したシャーシは当時最大勢力のSuterだった。
スコット・レディングが表彰台2回の好成績。この年は17歳だった。
エクトル・ファウベルは1度もシングルフィニッシュできずに沈む。
2011年 Moto2で不振に陥る
Moto2クラスに継続参戦。使用シャーシは引き続きSuter。
ミカ・カリオが最大排気量クラスから戻ってきた。シングルフィニッシュ4回だが最終戦で2位になる。
スコット・レディングは2年目のジンクスか不振に陥りシングルフィニッシュ5回に終わる。
2012年 Moto2で躍進
Moto2クラスに継続参戦。2011年にステファン・ブラドルがKALEXでチャンピオンを獲得したのを受けてMarcVDSも使用シャーシをKalexに変更したが、これが大当たりだった。
スコット・レディングは表彰台5回の大躍進を遂げる。ランキング5位。
ミカ・カリオがシングルフィニッシュ10回、表彰台1回。
2013年 Moto2で大躍進。Moto3にも参戦開始
Twitterの画像検索で多くの画像がヒットするようになった。銀色のカラーリングが目立つ。
スコット・レディングは優勝3回・2位3回・3位1回でランキング2位。このチームに初めて優勝をもたらした。終盤までポル・エスパルガロとチャンピオン争いを続けた。
ミカ・カリオが優勝1回、2位1回。この優勝はチェコで中上貴晶を2位に抑えて得たものである。ランキング4位とこちらも躍進。
Moto3クラスにも参戦を開始して、ベルギー人のリヴィオ・ロイを起用した。しかし16歳のルーキーゆえに成績は今ひとつ、ランキング22位に終わる。
2014年 Moto2でランキング1-2を占める。
この2014年シーズンまで銀色のカラーリングだった。
ティト・ラバトを名門のポンスレーシングから引き抜いた。優勝7回で見事にチャンピオンに輝く。このチームに初めてチャンピオンをもたらした。
ミカ・カリオが優勝3回、2位6回。ティト・ラバトに食い下がってランキング2位。32歳なのでシーズン終盤に構想外を言い渡されてしまった。
Moto3クラスはリヴィオ・ロイを継続起用したが不振が続きシーズン途中で解雇となった。第10戦のインディアナポリスGPから期待の18歳新人ホルヘ・ナヴァーロを起用した。
2015年 最大排気量クラスに参戦開始 Moto2では首位争い
ついにスペインのビール銘柄Estrella Galiciaがスポンサーに付いた。この2015年シ-ズンから青いカラーリングになった。
Estrella Galiciaは金払いがよく、当初の計画を1年前倒しにして最大排気量クラスへの参戦も決まった。使用するのはホンダのRC213Vである。
なぜ1年前倒しになったのかというと、長年ホンダのサテライトチームだったグレッシーニレーシングが2014年シーズンをもってホンダとの提携を打ち切り、アプリリアと提携をすることになったからである。
サテライトチームがチームLCRだけになってはホンダ陣営にとってまずい。電子制御のデータ蓄積のためには参戦台数が多いほど望ましい。そういうわけで、ホンダから頼まれてMarcVDSは最大排気量クラスに参戦した。
Moto3クラスからは撤退した。Estrella Galicia0.0の看板を背負ってMoto3でレースをしているチームがあるが、これはTeam Monlauと言い、MarcVDSとは無関係のチームである。
最大排気量クラスにおいて、スコット・レディングはシングルフィニッシュ4回に終わる。
Moto2クラスではティト・ラバトが連覇を狙ったが、ヨハン・ザルコとアレックス・リンスに競り負けてランキング3位に終わった。
アレックス・マルケスはルーキーイヤーを彼らしく慎重に走り、シングルフィニッシュ5回で終えた。
2016年 ジャック・ミラーが快挙達成 Moto2ではモルビデリが躍進
2016年も青いカラーリング。こちらのTwitterアカウントの方が機能するようになってきた。
資金難に陥ったチームLCRからジャック・ミラーを引き取り、最大排気量クラスは2台体制になった。
ジャック・ミラーがオランダGPで値千金の優勝を遂げる。プライベートチームが勝ったのは2006年のポルトガルGPのトニ・エリアス以来で、10年ぶりだった。
ティト・ラバトは最大排気量クラスのルーキーイヤーで苦しみシングルフィニッシュわずか1回。
Moto2クラスはイタルトランスレーシングから23歳のフランコ・モルビデリを引き抜いてきた。優勝こそ無かったが表彰台8回を獲得し、上位争いの常連となる。
アレックス・マルケスは2年目になっても苦しみ、前半戦で転倒の山を築く。しかし後半戦になってやっと乗れるようになり、アラゴンで2位。シングルフィニッシュ5回となった。
2017年 モルビデリがMoto2でチャンピオン獲得
2017年のTwitter検索はこのリンクの通りになっている。
最大排気量クラスはジャック・ミラーとティト・ラバト。
ジャック・ミラーは転倒が減ってきた。シングルフィニッシュ8回。
ティト・ラバトはシングルフィニッシュを1度も達成できなかった。
Moto2クラスでは2014年以来の栄華を極めた。
フランコ・モルビデリが8勝して圧倒、チャンピオン獲得。
アレックス・マルケスが3年目にしてやっと覚醒し、3勝・2位2回・3位1回の大躍進を遂げる。
2018年 チームが大混乱に陥り、全選手が成績を落とす
2018年のTwitter検索はこのリンクの通りになっている。
2018年5月に、チームオーナーがチーム監督を突如解任するという騒動が勃発し、MarcVDSは激震に見舞われた。監督解任の影響で複数のスタッフが退職し、ライダーの心理にも大きな影響を与えていた。
最大排気量クラスでは不振となった。
ルーキーのフランコ・モルビデリはシングルフィニッシュ2回。
トーマス・ルティは一度も15位以上にならず、ポイントを獲得できずに終わった。
Moto2クラスにおいても前年よりも成績を落とした。
アレックス・マルケスは2位2回、3位4回で、優勝できずに終わった。
ジョアン・ミルはルーキーイヤーで2位2回、3位2回。
2019年 Moto2クラスでアレックス・マルケスがチャンピオンを獲得
2019年のTwitter検索はこのリンクの通りになっている。
2019年から最大排気量クラスへの参戦をとりやめて、Moto2クラスに力を注ぐことにした。
5年目のアレックス・マルケスが躍進してMoto2クラスチャンピオンに輝いた。一方でチームメイトのシャヴィ・ヴィエルヘはシングルフィニッシュ6回だけのイマイチな成績に終わった。
この2019年は、Moto2クラスがトライアンフエンジンを導入する最初の年であり、各チームには走行データらしい走行データがなかった。各チームは走行データに頼ることができず、技術力を総動員して臨まねばならず、各チームにとって難しいシーズンとなった。
さらには第4戦スペインGPからMoto2クラスにタイヤを独占供給するダンロップがリアタイヤを太いものに変更した。タイヤの大きさが変わるとマシンの走りも大きく様変わりするので、各チームの技術力がまたしても問われることになった。MarcVDSのライバルであるインタクトのユルゲン・リンク監督も「ダンロップの新しいタイヤは理解するのが難しかった」と語っていたほどである(記事)。
そんな中でMarcVDSの技術力が抜きん出ていた。アレックス・マルケスは第5戦から第7戦まで3連勝し、第9戦と第10戦を連勝した。このシーズン中盤の5勝が大きく、シーズン終盤はポイントを確保する走りに徹し、第18戦マレーシアGPでチャンピオンを確定させた。
2019年からMotoEという電動バイクの選手権が始まったので、MarcVDSもマイク・ディ・メッリオを起用して参戦した。マイクは6戦中1勝してランキング5位となった。
2020年 Moto2クラスでサム・ローズが惜しくもチャンピオンを逃す
2020年のTwitter検索はこのリンクの通りになっている。
2020年はコロナ禍が吹き荒れる異常なシーズンとなった。MarcVDSはMoto2クラスにサム・ローズとアウグスト・フェルナンデスを用意した。
サム・ローズは2015年と2016年にMoto2クラスで3勝してポールポジションを8回獲得していて、この時点でMoto2クラスの最上位ライダーだった。ところが2017年に最大排気量クラスのアプリリアワークスに移籍してから調子がおかしくなり、金欠のアプリリアワークスの中でエースライダーよりも劣るマシンをあてがわれて転倒を繰り返した。2018年と2019年はMoto2クラスに舞い戻ったが、この2年間で優勝どころか表彰台もなく、ポールポジションも獲得しておらず、「2015年~2016年の好調時から力を落としたライダー」という評価になりつつあった。「2020年からMoto2クラスの最上位チームであるMarcVDSに加入できたのは、奥さんのマリーナ・ロッシがチーム関係者だからであり、コネ入社である」という表現すら行われた。しかし、そのサム・ローズが大躍進したのである。
サム・ローズがシーズン終盤になって3連勝し、第12戦テルエルGPを終えて2位に7ポイント差を付けてトップとなった。残るのは3戦である。しかし、第13戦ヨーロッパGPで痛恨の転倒をしてノーポイントとなり(動画)、続く第14戦バレンシアGPのFP3で恐るべき大転倒を喫し(動画)、右手首に小さな骨折を負ってしまう。しかし決勝でサム・ローズは根性の走りをして14位になり、首位のエネア・バスティアニーニから14ポイント差で最終戦に臨むことになった。
最終戦の第15戦ポルトガルGPは、エネア・バスティアニーニ、サム・ローズ(-14ポイント差)、ルカ・マリーニ(-18ポイント差)、マルコ・ベッツェッキ(-23ポイント差)にチャンピオンの獲得がある劇的な1戦となった。ポルティマオサーキットでMotoGPが開催されるのは史上初めてで、難易度の高いコースで各ライダーの技量が試される試練の戦いとなった。
ライディングでアクセルやブレーキを操作するのは右手である。その右手がひどく痛む状態でサム・ローズは渾身の走りをした。エネア・バスティアニーニはプレッシャーがあるのか5位~7位あたりを走るが、サム・ローズは3位あたりを走っていた。残り3周の時点でエネア・バスティアニーニが5位を走り、サム・ローズは0.6秒差の3位に付けていた。サム・ローズが2人抜いて優勝すればサム・ローズがチャンピオンになる。
しかし、サム・ローズの奮闘はそこまでで、レミー・ガードナーが渾身の走りで首位を走り、そのまま初優勝を飾った。ルカ・マリーニも2位を確保し、サム・ローズは3位となった。エネア・バスティアニーニがチャンピオンになり、サム・ローズはランキング3位に終わった。
サム・ローズのチームメイトとして起用されたのはアウグスト・フェルナンデスである。アウグストは2019年にMoto2クラスにポンスレーシングに所属して3勝を挙げるという好成績を挙げていた。それが評価されて2020年からMarcVDSに加入したので絶大な期待を集めることになったが、この年は大不振であり、1度も表彰台に登れなかった。
2020年はコロナ禍が吹き荒れたがMotoEも無事に開催された。MarcVDS所属のマイク・ディメッリオは2位を2回記録してランキング5位になっている。
2021年 Moto2クラスでランキング4位とランキング5位
2021年のTwitter検索はこのリンクの通りになっている。
MarcVDSは2021年のMotoEに参戦せず、Moto2クラスのみに集中することになった。
また、この年からEstrella Galicia 0.0がスポンサーから外れ、メインスポンサーがフランスの石油企業トタルとなり、トタルの石油ブランドであるelfをチーム名にすることになった。ゆえにレーシングスーツなどの色が銀色とワインレッドに戻っている。
ライダーは前年と同じくサム・ローズとアウグスト・フェルナンデスである。サム・ローズは開幕戦と第2戦を連勝し、「この年はサム・ローズのものだ」と周囲に思わせた。しかし第3戦から転倒癖が再発し、第3戦から第6戦までの4戦で3回も転倒ノーポイントになってしまう。結局、ランキング4位に終わった。
アウグスト・フェルナンデスは前半戦が最悪で転倒ノーポイントを繰り返していたが、第9戦から調子を取り戻し、表彰台に5回も登壇して能力を見せ、ランキング5位に入った。
2018年5月騒動
2018年5月にMarcVDSで大騒動が起こった。チームオーナーのマルク・ファンデルストラーテンがミハエル・バルトレミー監督をいきなり解任したのである。その後、マルクとミハエルの両方が弁護士を雇って訴訟合戦になりそうになった。
マルク・ファンデルストラーテンの猛攻
2018年初頭、ミハエル・バルトレミー監督がチームコーディネーターのマリーナ・ロッシを解任した。チームコーディネーターは、チーム監督の補佐としてチームをまとめあげる役割で、かなりの要職である。
どうもこの解任で、マリーナ・ロッシが憤激したらしい。マリーナはチームの会計に関する書類をいくつかコピーして持ち出し、マルク・ファンデルストラーテンのもとに駆け寄って、「ミハエル・バルトレミー監督が横領をしている!」と告発した。これが2018年5月4日~6日のスペインGP開催の少し前のことである。
マルク・ファンデルストラーテンはマリーナ・ロッシの告発を全面的に信用し、即座にミハエル・バルトレミー監督を疑い、解任の意向を示すようになった。その噂はすぐさまMotoGPのパドックを駆け巡った。
5月14日にミハエル・バルトレミー監督は「自分は無実です。オーナー側は証拠を示していません」という声明をメディアに向けて発表した。
ところが5月15日に、オーナー側の弁護士がミハエル・バルトレミー監督に対して解雇を宣告した。しかも、直後のフランスGP(5月18日~20日開催)でミハエル・バルトレミーに対してピットに入ることを正式に禁じている。ドイツのカールスルーエの裁判所で訴訟を起こして得た禁止措置で、その禁止に反してミハエル・バルトレミーがピットに入ると最大で25万ユーロの罰金が科せられていたという。
ピットに入ることを禁じられたミハエル・バルトレミーは、フランスGPのために集まった記者たちの前で記者会見を開こうとしたが、それもオーナーに阻止されてしまう。
5月19日にミハエル・バルトレミーがメディアに向けて声明を発表した。「オーナー側は証拠を示していない。当初は1000万~1500万ユーロの横領だと騒いでいたのに、出てきたのはわずか2万4千ユーロの請求書ではないですか。ゆえに、解雇は不当です」
ミハエル・バルトレミーの反撃
ミハエル・バルトレミーも反撃に転じた。
5月22~23日にカタルーニャサーキットで最大排気量クラスの合同テストが行われたが、MarcVDSは参加することができなかった。
ミハエル・バルトレミーはスイスのヘリザウに「MM Performance&Racing(略称はMMPR)」という自分の会社を持っていた。ホンダからMarcVDSへマシンがリースされている(貸し出されている)のだが、そのリース契約はMMPRが行っていたのである。MMPRがホンダに対して「テストに参加しないからマシンを送らなくて良い」と通告し、ホンダもそれを受けてマシンを送らなかった。このためMarcVDSは合同テストに参加できなかった。
シーズン真っ最中の重要な時期に合同テストへ参加できなかったことはチームにとって痛手だった、とトーマス・ルティが語っている(記事)。
また、ミハエル・バルトレミーはMMPRを通じてMarcVDSの様々な資産を管理していた。「チーム監督を解任するのなら、そういう資産を手放すことになり、こちらの損失となる。損失の補償のため、300万ユーロを支払っていただきたい」とミハエル・バルトレミーは弁護士を通じてオーナーに要求していた。
ミハエル・バルトレミーはMarcVDSに関する契約の大部分を引き受けていた。MarcVDSの従業員を雇用する契約はほとんどがミハエル・バルトレミー名義で行われており、Moto2の参戦権利を得るためIRTAと結ぶ契約はミハエル・バルトレミー名義で行われ、アレックス・マルケスやフランコ・モルビデリとの契約もミハエル・バルトレミー名義で行われていた。つまり、ミハエル・バルトレミーはMarcVDSそのものと言っていいような存在だったのである。
ミハエル・バルトレミーがピットに対して出入り禁止となった5月18~20日のフランスGPでは、従業員の退職が起こった。「5月18日金曜日の夕食は、50人が揃っていた。翌日の土曜日の朝食では、6~8人が行方不明となっていた(チームを離脱した)」とトーマス・ルティが語っている。その離脱したものの中にはイアン・ウィーラー(Ian Wheeler)という広報担当の人物が含まれていた。イアン・ウィーラーが離脱したことで、MarcVDSのTwitterの更新が止まっていた。こんな具合に検索すると、フランスGPやイタリアGPが開催されている期間もTwitterの更新がピタッと止まっていることがよく分かる。
ミハエル・バルトレミーはカワサキワークスのチーム監督を務めていたのだが、そのときの部下をMarcVDSに呼び寄せていた。2018年5月の時点で、その数は10人ほどだったという。人事の面でも、ミハエル・バルトレミーはMarcVDSの中核だったのである。
和解
6月1日~3日にイタリアGPが行われ、6月6日にMarcVDSから声明が出された。
そのときの文章はこの記事に転載されている。
「マルク・ファンデルストラーテンは、次のように語った『メディアに報道された嫌疑(特に横領に関するもの)について、ミハエル・バルトレミーのことを悪く思っていない。ミハエル・バルトレミーは完全に潔白である』。」と書かれている。
また、「マルク・ファンデルストラーテンとミハエル・バルトレミーは、単に戦略的な考えの違いにより、協力関係を終わらせることに合意した」と書かれている。
オーナー側が「横領はなかった」と認め、ミハエル・バルトレミーの名誉を回復した形となった。ミハエル・バルトレミー側も監督の座を後任に譲ることになった。
SPEEDWEEKが熱心に報道する
この件についてはヨーロッパの各メディアは及び腰だった。名物記者のマット・オクスリーも「巨額の金が絡む問題だ。僕には良い弁護士が付いてないから、この件についてはあまり喋らないほうがいい」というほどだった。
しかしながら、ただ一つの例外としてSPEEDWEEKが記事を量産していた。こういう、金の絡んだチームのゴタゴタを報道することにおいては他の追随を許さない。同サイトの記事を紹介しておきたい。
スポンサー
スペイン北西部の大西洋に面したガリシア州にヒホス・デ・リヴェラという企業がある。その企業によって1906年から作られているビールがEstrella Galiciaで、和訳すると「ガリシア州の星」となる。そのためラベルには六芒星のマークが入っている。
Estrella Galicia0.0はノンアルコールビールのブランド。
2012年から名門チーム「Team Monlau」のメインスポンサーになった。
2013年からレプソルホンダのスポンサーになり、レーシングスーツの右鎖骨にプリントされるようになった(画像)。
2015年から2020年までMarcVDSのメインスポンサーであり、「Estrella Galicia0.0 MarcVDS」というのが正式なチーム名となっていた。
Estrella Galiciaの支援を受けるライダーたちがチームの垣根を越えてイベントをこなすこともある(画像1、画像2、画像3)。
フランスの石油関連企業。国際石油資本(石油メジャー)として世界5位の売上高を誇る。
関連リンク
MarcVDS
- MarcVDS 公式Twitter
- MarcVDS 公式Instagram
- MarcVDS 公式Facebook
- MarcVDS 公式Youtubeチャンネル
- MarcVDS 公式サイト
- MarcVDS 英語版Wikipedia
- MarcVDS 公式Twitter (四輪レースの活動を報告するアカウント)
Estrella Galicia0.0
MarcVDSだけではなく、Estrella Galiciaの支援を受けているライダーやチーム全員が話題になる。マルク・マルケスやアレックス・リンス、ジョアン・ミル、Team Monlauなどである。
- Estrella Galicia0.0 公式Twitter
- Estrella Galicia0.0 公式Instagram
- Estrella Galicia0.0 公式Facebook
- Estrella Galicia0.0 公式Youtubeチャンネル
- Estrella Galicia0.0 公式ウェブサイト
関連項目
- 2
- 0pt