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近衛 文麿(このえ ふみまろ、1891年10月12日 - 1945年12月16日)とは、日本の政治家である。
概要
五摂家出身の由緒正しき家柄で、つまり飛鳥時代の中臣鎌足から始まる藤原氏の直系、その中でも最も格が高かった家系のひとつが近衛家である。近衛文麿はその近衛家の第30代当主であり、後陽成天皇の12世孫である。
明治政府の設定した華族制度の爵位で最上級の公爵であったため、1916年に25歳に達したことを以って貴族院議員となり自動的に政界に進出することとなった。公爵議員・侯爵議員は無給であったため貴族院議員では形だけの議員という者も多かったが、近衛は貴族院に院内会派「火曜会」を設立するなど積極的に政治活動を行う議員であった。
1931年に貴族院副議長、1933年に貴族院議長を務めるなど貴族院議員としての職を歴任。日本史でも出てくる家系の出身ということもあってか大変な有名人であったため大衆からの人気も高く、すでに将来の首相候補と言われていた。
1937年に元老の西園寺公望の推薦による大命降下で内閣総理大臣に指名された。
軍国主義下のボンボン首相
伊藤博文に次ぐ45歳の若さで何の苦労もなく政界入りして総理大臣の地位に上り詰めたことから、国民的な人気の高さの反面、政界の大物議員らからも軍部からも苦労知らずのボンボン(甘やかされて育った世間知らず)と軽く見られており、政権のトップに立って政治責任を負うに相応しい人物とは言えなかった。それでも元老の西園寺公望が指名したのは、当時の状況で総理大臣に据えられる人物が近衛文麿しか残っていないほど人材難に陥っていたためである。
五・一五事件
1932年に五・一五事件が発生して現職の総理大臣であった犬養毅が軍の青年将校の手によって暗殺されてしまい、軍がその気になれば簡単に総理は殺せると言う状況があらわになった。犬養内閣の荒木陸軍大臣と大角海軍大臣も総理大臣を暗殺した軍の将校の暴挙に激怒するどころか同情するようなコメントを出したため軍が明白に政党内閣に対して銃を突きつけたに等しい状況であった。このような状況ではとても政党内閣は成り立たない状況だったので、元老の西園寺公望は止むを得ず元海軍大将の斎藤実を総理大臣に指名したが、斎藤実は犬養毅が暗殺される主因となった満州国の国家承認を認め、国際連盟脱退にまで踏み切り、軍の暴走を抑えられなかった。軍の要求を突っぱねれば殺される危機に晒されていて、もし自身も再び犬養毅のように殺されれば軍の横暴がさらに強まることを恐れていたのかもしれないが、軍に配慮した政治姿勢は軍のさらなる暴走を後押しすることになる。
結局、斎藤内閣は軍の横暴を許してしまったうえに、鳩山一郎文部大臣の贈収賄事件(帝人事件)で政財界の重要人物が次々と逮捕される一大スキャンダルが発覚。帝国議会で猛バッシングを受けて総辞職した。
二・二六事件と軍部大臣現役武官制
斎藤内閣が倒れた後に成立したのは、元海軍大将の岡田啓介が首相を務める岡田内閣であった。
しかし二・二六事件が発生して岡田首相は暗殺未遂、当時の閣僚も斎藤実前首相含め数人が暗殺、または重傷を負う明治以来前代未聞の軍のクーデターが起きており、軍の実力行使によってまたしても内閣が倒れた。事件後に組閣された広田内閣は軍がその気になればいつでも殺せるという現実を軍に突き付けられたも同然の状況で、案の定、陸軍大臣の寺内に圧力をかけられ大正時代に緩和されていた軍部大臣現役武官制を復活させられている。(事件を起こした下級将校の背後にいた陸軍大将を予備役に回したうえで、陸軍大臣に就ける可能性を潰すため。)
広田内閣は帝国議会で起きた立憲政友会の浜田国松と寺内陸軍大臣との切腹問答で浜田議員に軍の政治への横暴で厳しく追及されて揉めた際に怒った寺内大臣が辞職、軍部大臣現役武官制が成立していたので陸軍は陸軍大臣を一人も推薦せず、広田内閣は組閣が出来なくなり総辞職に追い込まれた。軍に政治を握られたも同然の状況だったのである。
広田内閣の後は元老の西園寺公望は元陸軍大将の宇垣一成を総理に指名したが、大正時代に軍縮を推進した宇垣を陸海軍は不服とし、陸海軍大臣を推薦するのを拒否したために最初の組閣すらできずに内閣が成立しなかった。流産内閣とも呼ばれ、軍に都合が良くなければ内閣すら成立しない、大元帥(=最高司令官)でもある昭和天皇の大命降下にも背く、完全な軍国主義下にあることを証明する事件であった。
何もせん十郎内閣
宇垣内閣が成立しなかったことから次に組閣されたのが軍に都合の良い林銑十郎が総理大臣に就任し、林内閣が成立した。林銑十郎は元陸軍大将で満州事変の際には朝鮮軍司令官を務めており、天皇の勅命もないのに朝鮮軍を満州、つまり外国に軍を動かす重大な軍令違反を犯した人物である。林銑十郎は議会を酷く嫌っており、言論で自分の理想に反発してくる衆議院に対して敵対姿勢を取り、立憲政友会と立憲民政党から一人も入閣させず、議会と行政の間を持つ政務官も任命しなかった。唯一入閣させたのは軍部に親しい政党の昭和会だけで弱小政党ひとつを与党に据えた独裁政治を始めようとしたため、議席の大半を占めていた立憲政友会と立憲民政党を完全に敵に回してしまった。案の定、議会で猛バッシングを受けると林は逆上して予算成立と同時に強引に衆議院を解散させる暴挙に出た(食い逃げ解散)。
こんな議会無視のバカげた内閣に反感を持った国民は林銑十郎を支持せず、第20回衆議院選挙は立憲民政党と立憲政友会が大勝利。世論の支持も失って政権基盤を失って、何もできないまま林は失脚し内閣総辞職。林の名前をもじって『何もせん十郎内閣』と揶揄されて国民の笑い者になった。
第一次近衛内閣成立
五・一五事件と二・二六事件で軍部による血を見る恐怖に晒された斎藤内閣と広田内閣、軍の横暴によって内閣成立すらできなくなった宇垣流産内閣で世の中が暗くなっていたなか、林内閣の暴挙の末の爆死で世間の笑い者になり、ようやく暗い世の中に笑いが生まれていた1937年に近衛文麿が西園寺公望の指名で首相に就任、第一次近衛内閣が成立した。この当時は満州事変から続いていた軍部の中国大陸侵略が塘沽(タンクー)協定で一時停戦によって戦争状態から一時的に落ち着いていた時期で、軍の政治に対する横暴と事件でウンザリしていた国民は軍出身ではない近衛文麿に大きな期待を寄せていたのである。しかし実態は軍出身者ですら陸海軍が納得しなければ組閣すらできないという弱体化した内閣の状況では軍人ではなく陸海軍が納得して内閣が成立できる人物は近衛文麿しか残っていなかったのが実情である。軍経験もなく、苦労なく甘やかされて育った世間知らずのボンボンであれば軍の言うことを素直に聞いて思い通りの政治が出来るという思惑のもと、陸海軍が軍部大臣を推薦してきたのである。
しかし第一次近衛文麿内閣の成立直後に盧溝橋事件が発生、停戦協定は破られて日中は再び開戦、泥沼の中国侵略に日本軍は踏み込んでいき、戦乱と混迷のなかの舵取りをすることになる。
日中戦争
盧溝橋事件を切っ掛けに日本軍と中国国民党軍の戦争が再開、再び日本軍の中国侵略が始まった。当初は蒋介石は盧溝橋事件で日本軍と停戦協定を結んだが、その最中に近衛内閣は中国への師団派兵を決定したことに激怒して日本軍に対する徹底攻勢を表明、日中戦争がはじまる。
郎坊事件や公安門事件で中国への敵意を剥き出しにした日本軍は第二次上海事変を期に中国軍と本格的に衝突、上海での戦闘は中国軍も本気だったために日本軍も多大な被害を受け、通州事件も相まって中国人への憎悪を深め、一気に首都の南京を攻め落として屈服させる方針を取る。この日本軍の戦線拡大と戦火の激化に対して近衛は今さらになって戦線拡大をしないように陸軍省に申し入れるが、杉山陸軍大臣からの"南京さえ陥落させれば戦争は終わる"という主張に納得してしまい、暴支鷹懲のスローガンを発して盧溝橋事件以来の戦線不拡大を破棄し戦線拡大に方針転換した。昭和天皇も南京撃滅方針を承認して南京撃滅の大陸令と大海令を出してしまった。南京攻城戦を経て1937年12月に首都南京は陥落。これで蒋介石が降伏して講和して戦争は終わると誰もが思ったが、蒋介石はこれで屈服するほど甘い人物ではなかった。
講和失敗
南京が陥落しても蒋介石は降伏しなかった。そのため日独防共協定で同盟関係にあったドイツのトラウトマンが仲介して和平交渉が行われた。中国で戦っている現地の日本軍は南京陥落で戦争に勝ったと思い込んで歓喜し、暴支鷹懲をスローガンにしていた日本軍は中国人への憎悪を爆発させた。軍の統制は乱れに乱れ、司令官の松井中将をはじめ多くの司令官が下士官以下の軍紀の乱れと多数の暴虐を皇軍の恥と憂い、早期講和を持って終結を日本政府に強く望んでいた。
しかし本土の日本政府側は南京陥落をもって戦勝国なのだからと中国国民党政権に対して苛烈な講和条件を突き付けた。主な内容に満州国の承認、北京以北の北支地域を日本の自治領化、占領の日本軍駐留権、賠償金。この内容は中国の割譲と植民地化に等しいものであったために蒋介石は講和を拒否、トラウトマンの和平交渉は失敗した。
近衛声明
和平交渉が決裂して再び中国との戦争が再開される。南京陥落後の日本軍は戦勝ムードに浸って各地で中国人への強姦、暴行、略奪が相次いで軍紀は乱れ切っていた状況からの再編、再侵攻であった。
この際に1938年1月、近衛首相は次のような声明を発表する。
第一次近衛声明である。この声明をもって中国との和平の道は完全に閉ざされてしまった。そうなると蒋介石の国民党政権を完全に潰すしか道はないが、それは日本とは比較にならない広大な中国大陸で延々と戦い続けることになる。この時期から日中戦争は泥沼にハマり、盧溝橋事件当初の日本軍の勢いは止まる。
戦後、近衛文麿はこの判断と声明が日中戦争の泥沼化と後の太平洋戦争を招く主因になってしまったことを深く悔やみ、政治家人生最大の失敗であったと省みている。
その後、南京陥落から1年後の1938年11月には再び次のような声明を発表する。
最初の近衛声明と読み比べれば分かるが、当初の国民党政府相手にしないと言い切ったことと矛盾していて、日本に従い協力するなら戦争は止めてやる、といった意味合いに変化している。要はブレたのである。
これは前回の声明から約1ヶ月後の1938年12月に出た声明である。東亜新秩序とは何かという疑問を説明しており、中国国民党政権へ東亜新秩序への参加を勧誘しているもので、前回よりもさらにブレた。
中華民国南京国民政府
近衛声明に誘われて中国国民党を脱退して東亜新秩序に賛同したのが汪兆銘である。汪は抗戦を続ける国民党の蒋介石に見切りをつけて日本側の懐柔に乗り、日本政府の全面的支援の下で南京市に中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)を樹立した。
中華民国南京国民政府を成立させた汪兆銘は中国国民党を瓦解させようと反蒋介石キャンペーンを大々的に行って自身への支持を集めようとするが、国民党を裏切った汪兆銘たちは中国国民党どころか中国人からも日本側に寝返った裏切り者と見なして漢奸(かんかん)のレッテルを張られ、中華民国南京国民政府は全く支持されなかった。既に満州事変から始まる日本の侵略が中国全土に広がり、日本兵が中国人を劣等民族と見なして各地で暴虐を繰り返していたため中国全土で反日感情が極めて高くなっていたためである。
日本は汪兆銘に影響力が無いと分かると中華民国南京国民政府を日本軍の傀儡するべく動き、汪兆銘の中国国民党脱退から1年も政権樹立を引き延ばした。引き延ばした挙句が当初に謳った日支提携や善隣友好は名ばかりで汪兆銘には何の権限も持たせない、実質的に日本軍が政権を掌握する傀儡政権であった。後の1940年3月30日に中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)が成立する。
国家総動員法
南京陥落で戦争が終わらず長期戦の様相を示してきたことから近衛内閣は国家全体を戦時体制に転換するために国家総動員法を帝国議会に提出した。国家総動員法とは戦時において国内の資源や資本、労働力、賃金、運輸、通信といった国民生活に及ぶ経済や財政の全てを他の法律を無視し、軍部の命令で何でもコントロール出来てしまう法律で、国家を軍部が統制出来てしまう法律である。同時に電力管理法、価格統制法なども同時に法案が成立した。国民の権利は言論統制、労働奉仕、社会運動の禁止など著しく権利が制限され、国民も国家も全てを戦争に振り向けることが出来る。1938年5月に国家総動員法は施行され、軍部の独裁が合法的に行えるようになった。
アメリカとイギリス
盧溝橋事件から始まった日中戦争で日本軍の侵略は南京から更に奥地の武漢三鎮、重慶市へと中国内陸部に進んでいき、第二次近衛声明で東亜新秩序という中国侵略を正当化するような方針を示したことで、中国に大きい権益を持つアメリカとイギリスは激しく抗議した。その抗議は満州国成立当時とは違う、日本に対する制裁を兼ねた強硬なものであった。特に強硬であったアメリカからは直ちに中国への侵略を止めなければ外交的措置に出ると言った内容で、急速に米英との関係が悪化して行った。
アメリカとイギリスは日本の行為を侵略であると明白に抗議したうえで、日本との通商においても軍事的に利用されかねない資源の輸出を制限し、一方で中国国民党には武器や食糧の援助や参謀や将官を派遣して中国軍の強化に協力するなど、明白に反日路線を取り始め中国の味方をするようになった。日本の孤立が顕著になって急速に立場が悪くなってきた1939年1月4日、第一次近衛内閣は総辞職した。『支那事変は新たな局面に入った』というのが総理大臣辞任の理由である。
政治センスの欠如
ココまで見ても分かる通り、当初の国民が期待した軍部の横暴を抑えるどころか、指導力の無さと認識の甘さを露呈して日本の中国侵略を進めてしまい、外交関係も悪化させて日本の行き場を見失ってしまっているのが顕著である。簡単に軍の意向を受け入れて軍に相乗りして中国侵略を進めてしまい、中国側の局面を理解しないで日本が拳を振り上げれば簡単に中国は震え上がるといった日本軍の従来の見解をそのまま踏襲してしまう。そんなところが世間知らずのボンボンらしさであり、軍部が首相に祀り上げた理由である。
第二次近衛内閣
第一次近衛内閣総辞職以降は平沼内閣、阿部内閣、米内内閣が続いた。しかし平沼内閣は独ソ不可侵条約が成立してドイツとソ連が同盟関係になったことで自身の外交政策が破綻したことで突如として内閣総辞職、阿部内閣、米内内閣はどちらもアメリカやイギリスとの関係改善にむけて外交を重視した政策を掲げたことで陸軍が反発、国民も日中戦争で日本軍が行った暴虐と蛮行は報道が検閲で規制されていたため誰も知らず、反米反英感情が高まっていたことから支持は低迷、どちらも陸軍大臣が辞任して後任を推薦しないことで軍部大臣の現役武官制を悪用した倒閣工作によって内閣総辞職に追い込まれた。なお阿部内閣と米内内閣を倒閣に追い込んだのは2回とも畑陸軍大臣である。
結局、軍部にとって操りやすかった世間知らずのボンボンの近衛文麿が軍部、枢密院、貴族院の重臣会議で推薦され、この時すでに89歳の高齢であった元老の西園寺公望は意見を出さなかったため組閣が成立した。1940年7月に第二次近衛文麿内閣が発足、大東亜共栄圏の確立などを掲げた新体制運動を展開することとなる。この間に近衛は大政翼賛会を発足させ、自らが初代総裁に就任している。なおこの第二次近衛内閣には陸軍大臣に東条英機、外務大臣に松岡洋右、国務大臣に鈴木貞一がいる。
新体制運動
国家総動員法が動いて国家全体が戦時体制に移行し、日中戦争の勝利に向けて国家経済は戦争に振り向けられる体制が出来上がっていた。しかしこの戦争経済は国内経済を大きく疲弊させ、戦争で軍需生産が拡大して好景気のはずだったのがGDPもマイナス成長に転落、国民生活は急速に貧しくなって行った。
国民に耐乏を強いるためにも新体制運動を行って国民の意識も戦時体制に移行しようと考えた近衛は大政翼賛会を結成した。既存の政党は廃止して大政翼賛会に編入させ、近衛文麿を会長にして各府県知事を支部長、市町村長を小支部会長、地域には町内会長を置いて、その下に隣組長が監督する隣組が作られ、各家庭にまで大政翼賛会の戦時体制運動が浸透するように国民を相互監視のもと指導していく組織が作られた。
日独伊三国同盟
日中戦争の長期化と激化で日本の中国侵略が顕著になってくると日米日英の関係は急速に悪化し、中国を支援する立場に回って日本の孤立化が深まった。近衛内閣はこれに対して対抗姿勢を示し、1940年9月27日、アメリカとイギリスを牽制する目的で日独防共協定を深化させた日独伊三国同盟を成立させてしまう。当時は第二次世界大戦が開戦していてドイツはヨーロッパ侵略に動いてイギリスと戦争中で、アメリカは中立であったがドイツのヨーロッパ侵略を憂慮している立場であった。そのため日独伊三国同盟はアメリカとイギリスを牽制するどころか外交上で完全に敵に回すに等しい愚行であった。
アメリカとイギリスを敵に回したことでアメリカは日本への経済制裁を強め、イギリスは中国国民党への支援を強化、日中戦争の様相は一変した。中国はイギリスとアメリカを味方につけて、逆に日本は戦えば戦うほど周囲に敵を増やす状況にハマり、戦局はさらに厳しいものになった。
日本軍の南進
日中戦争が完全に行き詰って一進一退の消耗戦に苦しむなか、中国戦線での苦境を脱しようと国民党軍を支援しているイギリスやアメリカの補給路を断とうとする考えが軍部の中に広がり、中国の南にあるベトナムを占領して物理的に支援を止めようとする東南アジア侵攻論が急速に現実味を帯びてきた。東南アジアの侵略は海軍の出番が増えて海軍の予算も増やせることから、海軍は陸軍の主張に賛同し、近衛首相は東南アジア侵略に興奮する陸軍と海軍に対し、またしても抑えるどころか釣られて同調し、戦争を勝利で終わるならばとフランス領インドシナ、現在のベトナムに日本軍を進駐させた。
この東南アジア進駐はイギリスとアメリカの植民地であるマレーシアとフィリピン、オランダの植民地であるインドネシアに向けて軍を進めたことになり、次なる侵略は東南アジアと言っているようなものである。当然アメリカもイギリスもこのベトナム進駐に激怒して対米英の関係は悪化を極め、アメリカは北ベトナム進駐で鉄クズを、後の南ベトナム進駐で石油の対日輸出を禁止した。
行き詰った日中戦争からの活路を見出そうとして戦線拡大、この短絡的にして安直な判断が日本を最悪の事態へと導いてしまった。この事態を引き起こしたのは陸軍であり、海軍であり、これらの言うことを丸呑みで応える政治判断をしてしまった近衛文麿である。彼はまたしても政治家としての無能を晒した。
第三次近衛内閣
実質的な内閣改造で外務大臣から松岡洋右を外す目的で組まれたに等しい内閣である。戦前の内閣において閣僚の任命・罷免は天皇の専権事項で、総理に閣僚を罷免する権利が無かった(総理大臣はあくまで同輩中の首席)。外務大臣であった松岡洋右は無鉄砲なまでに強気な発言を繰り返しており、アメリカやイギリスとの関係悪化からくる外交危機にあった近衛内閣にとっては爆弾を抱えているようなものだった。
日本軍の北ベトナム進駐でアメリカから鉄クズの輸出禁止を突き付けられた日本はアメリカと直接交渉するしか道は無くなった。第二次近衛内閣から始まったアメリカとの日米交渉は松岡外相が交渉条件に文句を言って条件を日本側に有利なものにしたせいでアメリカ外務省からクレームが入る事態になってしまい、松岡外相が相手では交渉は出来ないとまで言われたことから総辞職、再組閣に踏み切って松岡洋右を内閣から排除した。
日米交渉
松岡洋右を排除したことで日米交渉は再開したが、日本の交渉条件は国際連盟から侵略と断定された満州国の承認から日中戦争の停戦講和仲介、北ベトナムからは撤兵しないなど、およそ経済制裁を受けて困窮している国家が譲歩してもらう条件とは到底考えられない内容で、アメリカは日本側の交渉案をなかなか吞まなかった。交渉が進まないなかで1941年7月、東条英機が南部仏印、南ベトナムへの進駐を強硬に主張していたのに同調した松岡洋右が大本営に働きかけて南部仏印進駐を決定し進駐を決行してしまう。
日米交渉中のさらなる侵略行為に激怒したアメリカは在米日本人の資産を凍結させ、日本への石油の全面禁輸を決定した。当時の日本は石油を92%も輸入に依存しており、その80%はアメリカから輸入していた。石油の全面禁輸など全く予想もしていなかったことで日米交渉は暗礁に乗り上げ、東条英機ら対米強硬派は一日も早い日米開戦を主張し、一気に太平洋戦争への空気が強まって行った。
近衛はこのときも東条や松岡ら開戦派の言うことを鵜呑みにして開戦に向けた調査を始め、国務大臣で企画院総裁の鈴木貞一に調査をさせている。海軍にも出向き、海軍大将で連合艦隊司令長官の山本五十六にも対米開戦での勝利の見込みを訪ねたが、山本から出た言葉は『そりゃ、やれと言われたら初めの半年か1年は大いに暴れて御覧に入れる。だが2年、3年となれば全く確信は持てない。』と予想外の厳しい意見で、それを聞いた近衛は青ざめた。
荻外荘会談、そして総辞職
アメリカの対日石油全面禁輸から約3ヶ月、大本営政府連絡会議で対米開戦の是非を決めなくてはならなくなった近衛は、対米開戦か対米譲歩かの選択に踏み切ることなく、総理を辞任し内閣を総辞職した。
アメリカからの"日米首脳会談拒否"の回答を受けて、陸軍参謀本部は外交期限を提示した。期限直前に東条英機・鈴木貞一を含めた閣僚4名を杉並区の自宅"荻外荘(てきがいそう)"に招いて会談を行った。その席で近衛は「今、どちらでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(対米)戦争を行う自信は私にないので自信のある人に(総理を)やってもらいたい。」と述べて、数日後の内閣総辞職に至った。後継の総理について、近衛と東条は皇族の東久邇宮稔彦王を推すことにしたが、皇族に責任が及ぶことを恐れた重臣の反対に遭い、最終的に東条に白羽の矢が立った。
太平洋戦争中
太平洋戦争がはじまると開戦までの軍部の傀儡から一転して早期講和と戦争終結を意識するようになり、東条英機の失脚工作に同調したり、サイパン島陥落後は陸海軍の東条英機への反発を利用して責任追及する側に回った。戦局が末期に達した1945年2月には近衛上奏文と題する意見書を昭和天皇に提出している。その他に終戦直前にはソ連への特使として講和仲介依頼にモスクワに行く準備もしていたが、これはソ連のスターリン書記長が拒否したので立ち消えとなった。
終戦後
終戦後は東久邇宮内閣の国務大臣として閣僚の座に就き、GHQ総司令官のマッカーサー元帥とも会談し、日本の憲法改正について話し合うなど、戦後の日本を作り上げていくうえでの具体的な話をしていた。
この時点で近衛は自分は戦後の新しい日本を作り上げる第一人者になると息巻いていたに違いない。しかし東久邇宮内閣が1945年10月で総辞職するころになると連合国の調査で日中戦争時の近衛が総理大臣として行って来た政治の詳細が明らかになってきた。軍部の傀儡となって中国侵略を拡大し、東南アジア侵略を東条英機や松岡洋右ら強硬派に同調していたことなどが確認されるとGHQは態度を変え始める。
服毒自殺
近衛が総理大臣として侵略に加担していた疑いが強まると、それまで憲法改正作業を依頼していたことを反故にして、一転して近衛を戦犯として裁くことに方針を転換した。自分が戦犯になるなど全く思っていなかった近衛は激しく動揺し、11月の尋問では顔面蒼白で自身が戦犯になることに恐々としていた。
そして同年12月6日にGHQからA級戦犯容疑で逮捕命令が伝えられ、出頭期限の12月16日に荻外荘で青酸カリを飲んで服毒自殺。54歳2ヶ月で死去した。前日に家族が毒物を探し回っても見つからなかったので"裁判を受ける気になったのかもしれない"と安堵していたが、近衛は青酸カリを肌身離さず、入浴中も風呂に持ち込んでいた。
近衛は戦犯なのか
東条英機が軍人としての戦犯であるなら、近衛文麿は政治家としての戦犯と見るのが妥当である。
現にGHQも終戦当初は非軍人の平和主義者で大戦の早期終結を目指して動いていた戦時中の行動を評価していたが、調査が進むにつれ軍部の傀儡となって戦争に加担していたことが明らかになると一転してA級戦犯容疑をかけており、戦犯として見られた事実があることには変わらない。
戦後の歴史教材などにおいては東条英機ら強硬派の戦犯に屈せずに日米交渉で戦争を回避しようとした善人のように描かれることが多いが、それは日中戦争に際して近衛が行って来た政治判断が原因であり、いわば開戦直前の事態を作るのに加担してきた当事者の側である。
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