概要
ナポレオンという名前をきいてピンとこない人はまずいないだろう。ある人は馬にまたがった勇壮な肖像画を思い起こすかもしれないし、ある人はお酒の銘柄や魚の種類などとして、ある人はダヴーやベルティエなどの名将たちに支えられた覇業を、ある人は革命の理念を大きく開花させた英雄として、ある人はセントヘレナに流されたときのクッソ情けない肖像画を、ともかく様々な思い起こし方がある。
遠く離れた我が国でもナポレオンの名を知らぬものはまずいない事から分かる通り、ナポレオンの名前は世界中で広く知れ渡り、歴史に残した影響も計り知れない。それ故に、多くの人や物になぞらえられている。
この記事ではそんな色々な所にいるナポレオンについて取り扱う。記事名では◯◯のとは書いたが、特に接頭辞にはこだわらず対象にする。
日本国外での例
赤いナポレオン
複数存在する。共産圏の軍人で名を残した人につけられる事が多い。
ミハイル・トゥハチェフスキー
某戦略ゲームでは粛清されることでお馴染みの、ソ連の代表的な軍人の一人。赤軍の至宝とも。
縦深戦術理論を生み出し、改良を加えられながら後々までソ連の軍事ドクトリンとして引き継がれることになる。また、まだまだ馬匹や徒歩による移動が根強かった当時の軍事理論において、機械化の推進を提唱したことでも知られる。これらの革新的な点から、赤いナポレオンと呼ばれることになった。
ポーランド・ソビエト戦争における反転攻勢や、ロシア内戦におけるコルチャークやデニーキンの撃退などの輝かしい戦績の他にも、地味に貧乏貴族から成り上がったところ(もっともいうほどボナパルト一族は下級じゃなかったという説もあるが……)などもナポレオンと重なるところがある。
ヴォー・グエン・ザップ
ベトナム人民軍総司令官。ベトナムにおいては建国者のホーチミンと並んで人気の高い人物である。
フランスからの植民地支配脱却を占う、1954年のディエンビエンフーの戦いにおいて逆転勝利を収めたことから勇名が轟くことになった。住民を使ったゲリラ戦術を得意とし、機動戦を重視して後のベトナム戦争でも神出鬼没と恐れられた。彼なくしてベトナム統一は不可能であっただろうとも言われる。
また、彼は専門的な軍事教育を受けておらず、孫子やナポレオンを中心に軍事理論書を読み込んでほぼ独学で名を成した点も注目される。クラシックを愛好する一面もあり、忙しい合間を塗ってピアノを一から訓練し、ベートーベンの曲を独奏したことも。
ヒンマラー・トヤラケット
いわゆるネイティブアメリカンの一部族、ネズ・パース族の酋長(首長)。ジョゼフ酋長とも呼ばれる。
彼らは現在のアイダホ州を中心にワシントン州やオレゴン州北東部に住んでいた狩猟を生業とした部族である。だが、アメリカの西部開拓による現地部族への迫害は彼らにも及び、元々生活していた所より半ば強制的に保留地に移され、そこでも金がみつかったことを理由に白人からまた迫害を受けるなど受難を迎えていた。
1877年にその居留地にある白人のキャンプを、迫害に耐えかねた部族民の一部が襲撃する事件が発生した。報復を恐れたジョゼフ酋長は、カナダに逃れるべくアイダホ州にあった居留地からの逃避行を開始。その距離は実に2700km(だいたい北海道最北端の宗谷岬から、鹿児島の佐多岬までと同じ距離。ほぼ日本縦断と同じである)に及び、三ヶ月以上にわたって彼らはアメリカ軍の追手から逃げ続けた。
例えば逃亡開始から3日経過した1877年6月17日に発生したホワイトバート・キャニオンの戦いではトリムブル大尉率いる2個騎兵中隊を相手に巧みに戦い、34人の兵を殺害した一方で、ジョゼフ側は3人負傷したにとどまったという驚異的な戦果を残している。しかし、彼らは徐々に追い詰められていき、10月には降伏。そのときには750人いた随行者のうち149人にまで減少していた。
アメリカの新聞では彼らの勇敢な戦いを称えて「赤いナポレオン」と称揚したが、彼らに待ち受けていた運命は悲惨なものであった。アメリカ側は当初の約束を反故にしてアイダホの居留地に戻ることは許さず、遠く離れたカンザス州への居留地の移動を命じられた。ジョセフの嘆願でアイダホに近い西海岸へ戻ることは許されたが、元の居留地に帰ることまでは許されず、ワシントン州コルビルへ送られた。
黒いナポレオン
トゥサン・ルヴェルチュール
1791年より当時ハイチの宗主国となっていたフランスで黒人反乱を指揮。ただの暴動ではなく組織化や理論化を施して独立運動へと昇華させた。1794年にフランスの国民公会で黒人奴隷製を廃止したことも彼にとって追い風となり、干渉戦争の一環としてハイチに攻め込んできた英国軍をフランスと手を組んで撃退した。1800年には独立宣言を発し、1801年にはイスパニョーラ島全域を支配下に入れ、ここに世界初の黒人共和国が誕生した。
しかし、ハイチはいわゆる黒人奴隷の供給元・中継地点であり、砂糖プランテーションも築かれた重要な拠点である。フランスの英国に対抗する為の大西洋貿易や支配の構想としてハイチの独立を容認するわけにはいかなかった。そのため、新たに政権を握ったナポレオンは弾圧に転じた。ハイチ軍はトゥサンの指揮でフランス軍を破ったものの、投降を条件に独立を認めるという奸計に載せられて逮捕。フランス本国に送られて1803年に獄中死した。
だが、彼の死は却って独立運動に火をつけることになり、1804年元日にトゥサンにかわって政権を得たデサリーヌが独立を改めて宣言。ナポレオンは遂に根負けして軍を送らなくなった。ナポレオン失脚後の1825年にハイチは独立を承認され、フランスは正式に大西洋の重要拠点を喪失することになる。
彼の生涯は2015年にジャン=ルイ・ドナディウにより評伝が書かれ、その表題から「黒いナポレオン」ともよばれるようになった。
ジャン=ベテル・ボカサ
1965年にクーデターで実権を奪い、中央アフリカ帝国を建国した自称皇帝。
フランスのジスカール・デスタン大統領を後ろ盾に壮大な戴冠式を挙行し、国民を顧みない愚挙と大いに批判されたことで知られる。詳細はボカサ1世の記事にて。
◯◯のナポレオンは大体称賛の意味合いでつけられるが、彼の場合は揶揄の意味合いが強く含まれる。
エジプトのナポレオン
トトメス3世
紀元前15世紀に存在したエジプト新王国、第18王朝のファラオ。
幼少期は先代の王妃であったハトシェプスト女王と共同統治であったが、紀元前1486年より単独統治を開始。北方に存在したミタンニ王国への外征を皮切りに、42年に亘る治世で17回に亘る遠征を行い、他にもユーフラテス川にまで軍を進めて、アッシリアやヒッタイト、カッシートといったオリエントの強国に自らの地位を承認させた事でも伝わる。
また、エジプトより南下してナイル川上流のクシュ王国をも従わせ、古代エジプト王国の最大版図を実現させた。これらの征服事業により、彼は後世より「エジプトのナポレオン」と呼ばれるようになった。
ここから300年後には古代エジプト史の中ではクレオパトラに次いでメジャーといえるラムセス2世がファラオとなったが、版図では彼に及ばなかった。
西半球のナポレオン
サンタ・アナ
全名はアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ。メキシコ共和国大統領。
スペインの支配下に置かれていたメキシコにおいて独立革命を指揮し、独立達成後には長きに亘って実権を握り続けた独裁者。断続的に11回ほど大統領につき、中央集権化を進めるも、強引な手法に民衆からの反発を買った。それ故に、フアレス率いる自由主義勢力によって排除され、1855年に亡命しその後は死の直前に恩赦が下るまでメキシコの土を踏むことはなかった。
彼はナポレオンに関連する物品のコレクターであり、テキサスの地方紙がそこから「西半球のナポレオン」と報じたことから、サンタ・アナ自身も政権の正当化や喧伝のためにそれを盛んに利用するようになった。
アフリカのナポレオン
セシル・ローズ
19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した英国の植民地政治家。
現在の南アフリカにおいて帝国主義政策を推進し、ダイヤモンド鉱山を発掘しまくり、現在でも結婚指輪は給料の三ヶ月分が目安とかいう風潮を作った有数の宝石企業として知られるデ・ビアス社を設立。ダイヤモンド鉱業を独占し、金鉱山にも意欲を持ってトランスヴァール地方に進出してそこの鉱山も独占、一躍鉱山王として名を馳せた。
典型的な白人至上主義者であり、アングロ・サクソンこそが最も優秀な人種であることを信条とし、それを原動力に南アフリカを中心に征服事業を進めた。いわゆる3C政策ともよばれる英国の植民地事業の立役者で、ケープタウンからカイロへの鉄道開通を思索し、そのさまはロードス島の巨像を基にした風刺画に描かれている。挙句の果てには自らの建てた植民地を「ローデシア」と名付けている。
このように南アフリカのヘゲモニーを握り、征服者然としたふるまいから「アフリカのナポレオン」と彼は呼ばれるようになった。現在では植民地主義の悪しき象徴として非難が強く、2020年にはオックスフォード大学で彼の銅像が撤去される事態に発展している。
インドのナポレオン
ヤシュワント・ラーオ・ホールカル
マラーター同盟はその名の通り、最初はムガル帝国の、後には英国の植民地支配に対抗するため作られたインド西部の有力な家々による連合体であり、その一つのホールカル家の当主が彼であった。
英国におけるインド植民地戦争の一つ、第二次マラーター戦争で巧みな戦術と用兵で英国軍を翻弄。1804年12月に一時は味方になっていたパンジャーブ地方のシク教勢力・シク王国のランジート・シングの裏切りに遭って不利に追い詰められるも、彼は徹底的に抗戦を継続。英国の想定以上に戦争が長引き、担当していた東インド会社には戦費がかさんで3000万ポンド近い借財を抱える羽目になった。
これに根負けした英国は1806年12月に自ら講和を申し出た。ラージャスターン地方とブンデールカンド地方という土地を割譲する代わりに、現状維持を勝ち取ったのである。一般的に第二次マラーター戦争は英国の勝利とされているが、英国の目標であったマラーター同盟制圧とは程遠い一部割譲にとどめ、事実上引き分けにもちこませたのである。一時的とはいえ英国はインドの植民地化を断念せざるを得なくなったのだ。
それ故にそれを実現させた彼は「インドのナポレオン」と位置づけられている。また、軍人としてだけでなくペルシャ語なども操る教養人としても知られている。
ペルシャのナポレオン
ナーディル・シャー
18世紀ペルシャ、アフシャール朝のシャー(君主)。第二のアレクサンドロスなどと称揚する歴史家も存在する。
一時とはいえ、東はインド、西はアナトリア(現在のトルコ)東部までの広い版図を領した征服者。イラン東部のホラーサーン地方で頭角を顕し、1710年代から部族連合を率いて当時ペルシャを支配していたサファヴィー朝へ圧力をかけるようになる。
1722年には世界の半分とも呼ばれた都・イスファハーンを占拠し、スルタンのフサインは降伏、200年にわたるサファヴィー朝の歴史を事実上終焉させた。暫くはフサインの子や孫をたてて傀儡としていたが、事績を重ねるとともにうっとうしくなったのか1735年にロシアとの間でオスマン帝国に対抗するギャンシャ条約を結んだのを契機に遂に1736年に自らシャーを名乗り、アフシャール朝を開いた。
その後数年はバグダードや、ムガル帝国の都・デリーを占領(この際に3万人に及ぶ市民を虐殺し、略奪も好き放題行った)するなど快進撃を続け、1743年にはアラビア半島南岸のオマーンまで版図を広げた。しかし、統治にあたって反対者を容赦なく処刑するなど恐怖政治を布いたことから1747年にホラーサーンの反乱を鎮める途上で同族の家臣に討たれ、横死する。その後帝国は急に瓦解し、各地で政権が乱立していくことになる。ちなみにその中の一つがアフガニスタンにおける初の現地人政権・ドゥッラーニー朝であった。
この一代限りとはいえ、中央アジアに大帝国を築いた彼は「ペルシャのナポレオン」と呼ばれることになった。内政面では都市計画に注力し、現在ではイラン第二の都市となっているマシュハドの造営に深く関与したことで知られる。ちなみにCivilization6で指導者パックの一人として登場し、注目を集めた。
21世紀のナポレオン
シャルル・ナポレオン
ナポレオン・ボナパルトの直系[1]ではなく、ナポレオンの弟・ジェロームの血筋で、そこから数えて玄孫(孫の孫)、ナポレオン本人からすれば玄姪孫と呼ばれる続柄になる。
当人はパリ大学で経済学博士号を取得した後、銀行幹部のキャリアを経てサービス会社を設立。政界を狙うももはやはるか過去のものになっているナポレオンの威光は通じなかったのか、2007年の国民議会選挙では落選している。我が国との関わりでは創価学会の池田大作と対談したことで知られる。
21世紀現在のナポレオンの係累となっている人物であるため、こう呼ばれることもある。彼の子であるジャン=クリストフ・ナポレオンと家長の座は競合関係にある。
ナポレオンフィッシュ
メガネモチノウオの通称。老成した個体にできる額のコブがナポレオンの被っていた軍帽に似ていることから名付けられた。
詳しくはナポレオンフィッシュの記事を参照。
日本における例
下町のナポレオン
おそらく我が国では一番有名な例。1979年に三和酒類が発売した『いいちこ』ブランドの通称として用いられる。
元々ナポレオンというのはブランデーの中で最上位を指す称号であり、それに下町のとつけることで、庶民に親しまれる高級ある酒というイメージを狙ってつけられたとされる。
いいちこの発売に先立って、新しく発売する麦焼酎のネーミングを一般公募により募集がかけられた。1200通もの便りが送られ、その中に「下町のナポレオン」というネーミングが3つの案と共に書かれていたのである。最初はブランデー銘柄との混同を避けるために見送られていたのだが、後で社員が発掘して推したことからこの名前になったのである。
あまりにもふざけていると一時は酒屋からクレームがきて取り下げたこともあったそうだが、一般客より反対の声があがりすぐにもとに戻され、現在に至っている。
また、酒のパッケージにとどまらず近年では公式が「下町のナポレオン」というそのまんまのナポレオンを模したキャラクターが作られ、辞書を作って飲み方に革命をおこしているとされている。
アジアのナポレオン
これは人ではなく、風刺画の一種。日本史や歴史の教科書でお馴染みのビゴーが描いた風刺画の一つで、日清戦争のころの1894年に描かれた。日本の軍国主義や、朝鮮半島進出を揶揄している。
小ナポレオン
山田顕義
長州藩士の一人であり、松下村塾で吉田松陰の師事を受ける。戊辰戦争で長州藩兵の指揮官として、鳥羽伏見の戦いや長岡の戦いで活躍し、兵部大丞兼長州藩少参事となる。1871年には岩倉使節団の一員として欧米視察に出向き、軍事制度を研究した一方でナポレオン法典にも出会い、法律の重要性を痛感する。
その後も士族反乱で陸軍少将として指揮をとる。佐賀の乱での功績から司法大輔(次官)に就任し、刑法典編纂など司法制度の整備に取り組んだ。西南戦争では宮崎での戦いや、城山籠城戦において第二旅団長として鎮圧に貢献、陸軍中将にまで昇進する。だが、軍人としてのキャリアはここで終わり、実権を握っていた山県に譲って自らは法務官僚として邁進することになった。
1885年の伊藤博文内閣においては初代司法大臣に就任し、黒田清隆内閣でもそれを引き継ぐ。その中で明治法典と呼ばれる戦前日本の法律の骨格となる法整備に尽力した。1889年には日本法律学校(後の日本大学)を、1890年には国法や国史を研究する機関として國學院を設置。これが後に国学院大学となる。
このように軍人として、また法務官僚として惜しみなく力を注いだ彼はナポレオンの事績になぞらえて「小ナポレオン」と呼ばれるようになる。もっともこの名称は戊辰戦争時に彼の卓越した用兵を見た西郷隆盛が感嘆したことに端を発するので基は軍事的性格に依拠するものではある。
財界のナポレオン
金子直吉
丁稚奉公から身を立て、20歳で既に神戸の有力企業となっていた鈴木商店に入社。そこから第一次世界大戦の好況に乗って鉄鋼をはじめとする軍需物資の買い付けを正気を疑われるほど大量に行い、それらを取り扱うコンツェルンを形成した。そしてこれが大当たりして三井・三菱・住友をもしのぐ巨大な財閥にまで成長させた。
しかし、いわゆる一次大戦末期の米騒動で米を買い占めているというデマで焼き討ちされたあたりから暗転がはじまる。大戦の終結により大規模な軍縮が世界各地で行われるようになった事で、それに依拠していた鈴木商店は大きな借財を抱えることになる。ワシントン軍縮条約で主力艦建設制限を受けたことも痛打となり、資本金の10倍にあたるほどの負債を抱え込んだ。
これは関東大震災後の震災手形割引損失補償令[2]という、鈴木商店も働きかけた救済策でなんとか命脈はつないだ。しかし、昭和に入ってからの金融恐慌でメインバンクであった台湾銀行が、貸し手であった三井銀行が資本を引き上げたことを理由に新規融資差し止めを通告。鈴木商店は系列銀行を持たなかったためどん詰まりとなり、1927年4月に操業停止に追い込まれた。
このように、まるで史実のナポレオンのように颯爽と現れ、恐慌と共に崩れ去った栄枯盛衰ぶりから、金子直吉は「財界のナポレオン」と呼ばれるようになった。ただ、これだけの財を成しながら私欲は乏しく、書生などの他人に施したことから人物としての評価は高い。
ナポレオンズ
あったまくるくるや人体浮遊術などコメディマジックを得意とする。名前の由来は客には「ナポレオン・ボナパルト」と応えることが多いが、実際はコンビ名を名付けるときに偶然目に入ったブランデー『ナポレオン』に着想を得たことが由来となっている。
勝手に名前を使ってしまった反省から、パリの廃兵院にあるナポレオンの墓をお参りしたエピソードがある。
創作作品における例
犯罪界のナポレオン
ジェームズ・モリアーティ教授
コナン・ドイルによる推理小説『シャーロック・ホームズ』における登場人物、
元・大学教授という表の顔を持ちながら、ロンドンを騒がす悪党の首領として名を馳せるシャーロック・ホームズシリーズ最大の悪役として知られる。
歴史小説を書きたがっていたドイルがホームズシリーズをさっさと終わらせるために作ったキャラクターであるため、ホームズと同等の知能を持たせていたのだが、『最後の事件』の結末で、モリアーティはホームズと共に転落し、彼はそのまま亡くなった。しかし、ホームズまで殺すことを、当時の読者たちは許さず、結局復活して元の木阿弥になった経緯を持つ。
ホームズを扱った創作では必ずと行っていいほど登場し、同じ時代のロンドンを舞台にしたゲーム『大逆転裁判』でも、ある殺人鬼の異称として「プロフェッサー」が使われているが、おそらくこれを意識したものと考えられている。
「犯罪界のナポレオン」という形容は『最後の事件』におけるホームズの発言から取られたものである。
ブルーナポレオン
『アイドルマスターシンデレラガールズ』に登場するグループ・ユニット。
ナポレオンが組織したいわゆる大陸軍(グラン・ダルメ)の軍服の意匠を基にした服装が特徴。グループに共通する「青」は、ナポレオンブルーと呼ばれる強く深い青色が由来。感覚としては群青色やコバルトブルーに近い。
詳しくはブルーナポレオンの記事を参照。
豚のナポレオン
ジョージ・オーウェルが1945年に出版した『動物農場』内に登場するキャラクター。
とある農場の豚たちが農場主に反乱を起こし、追い出す事に成功。豚をはじめとする動物内で飼育されていた動物のあいだで理想的な共和国を作ろうするも、やがて独裁政治となり、やがて恐怖政治になるあらすじ。
その反乱を指揮し、また取りまとめ役となった特に知能の高いスノーボールとナポレオンという豚が事実上の指導者となった。しかし、ナポレオンとスノーボールは運営方針を巡って対立するようになり、人気のより高かったスノーボールを危惧したナポレオンは、犬をけしかけて彼を追い出すことに成功する。
その後ナポレオンは、全ての動物の平等と自由を目的とする「動物主義」を達成するためだとして、意思決定機関であった動物会議の構成員を自分を指示する豚たちに限定するなど独裁化を進める。やがてナポレオンの体制は理念と理想を忘れ、一部の種族だけが得をする体制に様変わりしていった。
オチとしては豚たちがやがて二本足でたち、服をきはじめ、やがて近隣の農場主(もちろん人間)を集めてトランプに講じ、その影はもはや人間とかわらなくなったという伝奇物めいたもので、第二次世界大戦終結直後の英国で、共に戦った共感から大きな支持を得ていたスターリンやソ連への賛美に警鐘を鳴らす意図があったというオーウェルの手法がありありと表れている。
なおこの話を元に、フランスでは豚にナポレオンと名付けてはいけない法律があるという風説がでまわったことがあるが、フランスにそのような法律は存在せず、あくまでジョークの一種である。
関連項目
脚注
- *ナポレオンの直系は1832年にナポレオンの三番目の男子、ナポレオン2世ことライヒシュタット公が逝去したことで断絶している。他の二人のシャルルとヴァレフスキの血筋は庶子の為扱いは低い
- *震災前に銀行が割り引いた手形のうち、震災の影響で決済不能になった手形の支払いを日本銀行が補填するという制度。いわば日銀による尻拭いである。
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