始皇帝とは秦王にして中国を統一し最初の皇帝になった人物である。
本名は「嬴政(えいせい)」。
なお、この時代の中国では「姓」の他に「氏(うじ)」という家系を表すものがあり、姓が「嬴」であり、氏は「趙」であるため、「趙政(ちょうせい)」という呼び方もされる。
近年では、「趙正(ちょうせい)」が正しい呼び方であるとする研究もあり、「趙正」と呼ばれることもある。
概要
出生
紀元前450年頃から紀元前221年にかけて、中国はたくさんの国々に分かれて本格的な長い戦乱の時代を送っていた(春秋戦国時代の後半にあたる(中国の)戦国時代)。
そんな戦国時代の中期、紀元前350年前後、西の大国の秦は商鞅(ショウオウ)という法家の指導によって国家改革に成功する。
さらに、戦国時代も末期となり、紀元前262年、秦は昭襄王(しょうじょうおう、嬴政の曾祖父)の下で大躍進を遂げていた。
しかし、嬴政(皇帝即位前はこの名で呼ぶ)は、元々は王になる予定の存在ではなかった。嬴政の父親である異人(イジン)は、昭襄王の孫ではあったが秦の敵国である趙国に人質として送られた日陰の存在であったのだ。
さらに、秦は異人に構うことなく、趙に攻め込んできていた。この秦と趙の戦いこそが、戦国時代・後期において最大の会戦である「長平の戦い」である。この戦いは2年にも及んだ。
人質の価値がない異人は、いつ、殺害されてもおかしくない立場であった。
だが、そんな彼に目をつけたのは大商人の呂不韋(リョフイ)であった。呂不韋は「奇貨おくべし(珍しいものに金をだし後で利用しよう)」として自らのもつ財産を異人に投資してきた。
また、秦の宮廷に賄賂を送り、工作を行い、呂不韋は異人を昭襄王の太子である「安国君」の正統な後継者とすることに成功した。異人はこの時に、子楚(シソ)と名前を変えている。
紀元前260年、呂不韋はこの報告をもって、趙の都である邯鄲(カンタン)にいる子楚(異人のこと)を訪ねる。
しかし、呂不韋が子楚を招いて開いた宴会において、子楚は呂不韋の側室の女性に心うばわれる。呂不韋は、子楚に所望され、「趙姫(チョウキ)」と後世に呼ばれるこの女性をゆずりわたした。
約1年して、紀元前259年、子楚と趙姫の間に嬴政が生まれる。これゆえに、呂不韋こそが嬴政の本当の父ではないかと疑惑が当時から存在していたようである(詳細については、「wikipedia始皇帝の項目」の「実父に関する議論」参照)。
秦の都、咸陽へ
話はもどるが、紀元前260年、秦と趙の大会戦である「長平の戦い」は秦の勝利に終わった。趙の将軍である趙括(チョウカツ)は戦死し、秦の将軍である白起(ハクキ)によって、趙軍の兵40万人以上が生き埋めとなった。
趙の人々の秦への怒りは相当なものであり、秦の太子の後継者という立場を得ても、子楚一家があやうい状況であることは変わりがなかった。
秦の方にもごたごたがあり、白起は解任され、紀元前257年になってやっと、秦の新たな将軍である王齕(オウコツ)が趙の都である邯鄲(カンタン)を包囲する。
子楚は趙によって監禁され、殺害されそうになった。「奇貨」を失いそうになった呂不韋は金をばらまき、子楚を邯鄲から脱出させ、包囲している秦軍に走らせる。
子楚と呂不韋は秦の都である咸陽に向かったが、趙姫と数えで3歳になったばかりの嬴政は邯鄲に取り残された。
もっとも、趙姫は趙の邯鄲にいる大きな家の出身であり、趙姫と嬴政はその家にかくまわれることとなった。(後述、「始皇帝の母・趙姫について」参照)
だが、趙の人々の嬴政に対する敵対心は強く、趙姫の実家と敵対する一家からは、ひどい扱いを受けたようである。
この頃、嬴政は、燕国の太子でありながら、趙への人質となっていた姫丹(キタン)と知り合いになった。姫丹は、嬴政と似たような境遇の仲間として、友人と思っていたようであるが、嬴政がどのように感じていたかは、史書には記されていない。
紀元前251年、嬴政の曽祖父にあたる昭襄王が75歳で死去する。昭襄王が長生きだったため、嬴政の祖父である安国君は、秦王を継いだ時点ですでに高齢であった。
「孝文王」となった安国君は、即位後、わずか3日で死去する。
そして、孝文王の太子となっていた子楚は秦王に即位する。
「荘襄王(そうじょうおう)」となった子楚は、邯鄲から趙姫と嬴政を呼び返した。圧倒的な国力を持つ秦の要請を趙は断ることはできなかった。
そのため、9歳となった嬴政は趙姫とともに趙から送還される。ついに、嬴政は本来の故国である秦の都の咸陽(カンヨウ)に入った。すでに子楚の子として、別の女性との間に成蟜(セイキョウ)という男子が生まれていた(※)が、趙姫・嬴政母子は、子楚に愛されており、嬴政が太子となった。
なお、あの呂不韋は荘襄王により、秦の政治をとり行う丞相(宰相)に取り立てられて、大変、重んじられていた。
嬴政の、肩身が狭く、あるいは貧しかったかもしれない趙での生活が一変し、最強国の現代でいう「第一王子」という立場となった。父母に恵まれ、宰相とも特別なつながりがあるため、太子の地位も安泰である。この時の嬴政は幸せな気持ちでいっぱいだったことは間違いないだろう。
荘襄王のもとで、秦国は順調に国力を伸ばし、他の六国(斉、楚、趙、魏、韓、燕)のうち、趙、魏、韓を討ち、その領土を奪っていった。
秦王となる
しかし、嬴政の父である荘襄王もわずか4年で崩御する(紀元前247年)。
それによって、嬴政はわずか13歳で秦王に即位することとなった。
当然、子どもに政治などできるはずもない。秦の政治は、荘襄王の時からの丞相である呂不韋に牛耳られてしまった。呂不韋は丞相を一段越えた「相邦(しょうほう)」の地位についた。嬴政は呂不韋を「仲父(父につぐもの)」と呼び、尊んだ。呂不韋の権勢は秦に並ぶものがないほどであった。
紀元前243年(嬴政17歳)、燕国の太子である姫丹が人質として秦の国にやってきた。しかし、嬴政は彼をただ冷遇しただけであったと伝えられる。後世に「冷酷」、「猜疑心が強い」と伝えられる嬴政の性格はすでにあらわれていた。
紀元前241年(嬴政19歳)、斉を除く五国連合軍が秦を攻撃するが、函谷関(カンコクカン)と蕞(サイ)において撃退する。六国は連合しても、秦に勝てる存在ではなくなっていた。
紀元前239年(嬴政21歳)、弟の成蟜が反乱を起こすが、すぐに鎮圧され、成蟜は戦死した。嬴政は弟を失ったが、秦王としての基盤は固まってきた。
また、秦の大規模な灌漑(かんがい)工事を行っていた鄭国(テイコク)という人物が実は韓のスパイであり、「秦の国力を使い、韓への侵攻を遅らせるために工事を行わせている」という疑惑が流れた。
確認したところ、鄭国はスパイであることは認めたが、この灌漑工事はいずれ秦のためになると主張した。嬴政はその言葉に「間違いない」と判断し、工事を継続させる。
呂不韋との対立
しかし、呂不韋は、元々自分の側室であった嬴政の母親である趙姫と不倫関係にあるというスキャンダルをもっていた。
呂不韋はスキャンダルが明らかになってはまずいと、「ちんこ」を車軸にして車輪が回せるほど「ちんこ」がでかい嫪毐(ロウアイ)という男を宦官に仕立て上げ、太后となった趙姫の相手をさせることにした。趙姫はすぐに嫪毐を気に入り、子を二人なすほどの関係になった。
そういった関係であることを知らず、嬴政は、母の信任あつい嫪毐を「長信侯」に封じ、東方に大きな領土を与えることにした。嫪毐は呂不韋と権勢を分け合うほどの存在になるほど、大きな力を持つようになった。
紀元前238年(嬴政22歳)、「嫪毐と趙姫が、二人の間に生まれた子を王にしようとしている」という内容の密告があった。嬴政が調査をすると、嫪毐は反乱を起こした。嬴政は、昌平君(ショウヘイクン)と昌文君(ショウブンクン)に嫪毐を討伐させる。敗北した嫪毐は逃走したが、捕らえられた。嫪毐は車裂きの刑にされ、その一党も処刑された。
しかし、嬴政は、事の真相を知ってしまう。
母の趙姫が、嫪毐と通じ、子をなしていたのは真実であった。また、母が情人に過ぎない嫪毐に権勢を与えたため、反乱が起きてしまった(ただし、趙姫は嫪毐の反乱に加担していたわけではない。後述、「始皇帝の母・趙姫について」参照)
しかも、相邦である呂不韋もまた、趙姫と密通し、それを隠すために、宦官といつわって、嫪毐を母に勧めていたのである。
これでは呂不韋の「仲父」という称号も皮肉な意味しか持たない。そればかりではない。嬴政の実の父が誰であれ、本当の父が呂不韋であるという噂が信ぴょう性をもってしまうことになるではないか。
嬴政は、元々は秦の都があった雍(ヨウ)という城で、戴冠して元服の儀式を終えると、この事件の処理を行うことにした。
まず、嫪毐の一族も全て処刑にする。同じ母を持つものといえども許すわけにはいかない。趙姫と嫪毐の間に生まれた、父違いの弟(もしくは妹)二人も処刑にした。
嫪毐と密通し、増長させた趙姫も嬴政が元服の儀式を行った雍(ヨウ)に幽閉する。
明けて、紀元前237年(嬴政23歳)、父である子楚への功績を考慮にいれて罪を軽くして、呂不韋の相邦を解任し、咸陽から追い出して、河南の領地へと行かせることにした。
趙姫については、斉の使者に「母にここまで厳しすぎたら、諸侯が背きます」と諫めるものがいたため、咸陽にもどすことにした。
呂不韋と嫪毐の問題で、秦人以外の六国人に対する批判が強くなった(嫪毐は趙の出身)。そこで、逐客令(ちくきゃくれい)という命令を出し、六国人を秦から追い出そうとしたが、側近となっていた楚人の李斯(リシ)に諫められ、撤回する。
李斯は「法家(法律による統治を主張する思想家の一派)」の人物で、法律に詳しい有能な人物であった。嬴政は気に入り、改めて、李斯を最大の腹心として重用することにする。
紀元前235年(嬴政25歳)、河南に流した呂不韋のもとに食客が次々を訪れていると聞いた嬴政は、呂不韋の反乱を恐れて、へき地である蜀に行くように命じる。呂不韋は、いずれ一族巻き添えの処刑をうけることを恐れてか、毒をあおって自害した。
こうして嬴政の親政が始まった。
天下統一へ
嬴政の親政当時、秦は中国全土の約半分を支配し、他の六国とは比べものにならないほどの国力を有していた。
また、あの鄭国が行った灌漑工事によって、秦の本拠地である関中は凶作のない豊かな土地となっていた。さらに、秦の法によって、秦の成人男子は「耕戦の士」となっており、信賞必罰の厳しい軍法で統制された秦の兵は強く、六国との戦いもおおむね勝利に終わっていた。
そのため、秦では、秦に都合のいい平和をもたらすための天下統一を求める機運が高まっていた。嬴政もまた、反復常ならない六国を服従させるよりも、完全に攻略する天下統一による統治を望んでいた。
だが、秦が一方的に攻め、地の利のある六国が連合して抗戦するとなると、簡単に終わる話ではない。秦では商鞅の改革から約130年もかけて、名君続き(周の鼎(かなえ)を持ち上げようとして死んだ秦の武王を除く)で、やっとここまでなれたのである。天下統一までは最低でも何十年もかかると予想された。
これから約400年以上後であるが、「三国志」において、人口の約7分の4を有した魏が、呉と蜀漢を簡単に滅ぼせなかったことをご存じなら、その困難さがお分かりになるであろう。
しかし、嬴政は、李斯や魏出身の兵法家である尉繚(ウツリョウ)に策を授けられる。「金を惜しまず、諸国の大臣に賄賂をおくり、六国の連合や秦への対抗をはばむようにせよ」というのだ。李斯に至っては、さらに、「賄賂に応じない大臣は刺客を送って暗殺する」ように進言する。嬴政は二人の進言を採用する。まずは、李斯の進言により、六国で最も弱い韓を攻めることにした。
紀元前233年(嬴政27歳)、秦の攻撃を受けた韓は、王の一族である韓非を秦への和平の使者にたてる。実は、嬴政が韓を攻めた理由の一つが、「韓非に会いたい」ということであった。嬴政は、韓非の記した『韓非子』という書物を読んで「この人と会えるなら死んでも悔いはない」というほど感銘を受けていた。
韓非は、「法家」の人物で、李斯とは同門の兄弟弟子の関係にあたり、李斯すらも上回る才能を持った人物である。年齢も50歳前後で、嬴政の「師」にふさわしい人物であった。
嬴政は、韓非が記した『韓非子』の中でも、「国家の統治のために君主が法律にもとづいた大きな権力を持つ必要がある」という国家像のビジョンを説いた部分に特に惹かれた。
また、君主と法律に忠実な「法術の士」の間を分ける、「重人」と呼ばれる邪(よこしま)な権力者を非難した部分についても、呂不韋や嫪毐に苦しめられた嬴政からすれば、非常に共感が持てる部分であった。
『韓非子』の内容は、商鞅などの他の法家の人物が説く「富国強兵のための法」よりもさらに進んだ、よりよい国家をつくる思想であると、嬴政には思われた。韓非に会った嬴政はすぐに韓非を気にいった。
しかし、嬴政が韓非を重用することで、自分にとって代わられることを恐れた李斯が、韓非のことを「韓非は韓の王の一族であるから、韓のことを考えるでしょう。誅殺した方がいいでしょう」と讒言する。確かに、韓非の献策は秦のために見せかけてはいるが、韓の利益にもつながるものではあった。韓非が故国である韓のことを思っていることは、間違いはない。
嬴政は韓非を獄につなぐ。後悔した嬴政は、韓非を釈放しようとした。しかし、韓非はすでに李斯から勧められて自害していた。
事実無根ではなかったとはいえ、尊敬する人物に対しての嬴政のこの行動は、「猜疑心が強い」、「冷酷」と言われても仕方ないことであった。
時期は不明であるが、尉繚からも、嬴政は「恩愛の情が少なく、足ることを知らない。困っている時は人の下に立つが、志を得ると、人を残酷に扱う人物である。天下を得たら、天下の人を奴隷のように扱うだろう。久しく交わる人ではない」と言われた上で、秦を去られようとしたので、引き留めたこともあった。
「冷酷」で「情に薄く」、「残酷で」、「猜疑心が強い」、これが史書に記された嬴政の性格であった。
六国討伐
紀元前232年(嬴政28歳)、嬴政は、かつて自分が生まれた趙を討つことにした。韓を先に攻めなかったのは、韓非のせめてもの願いをかなえようということかもしれない。
また、韓非を死なせた李斯の進言を採用したくなかったためか、卑劣な策を使うことへのためらいがあったためか、尉繚の進言した「六国の連合ははばむ」策を採用していたようであるが、李斯のいう「従わない趙の臣下を積極的に謀略で始末する」計略は使わずに、正攻法で攻めることにした。
だが、趙には名将の李牧(リボク)がいた。秦は、李牧との戦いで、前年に歴戦の武将である桓騎(カンキ)を失っている。この時も、秦軍は李牧に敗北する。
やはり、正攻法では時間がかかりすぎる上に、犠牲が大きすぎる。嬴政は李斯の計略を採用した。賄賂に応じない各国の要人には刺客が送られた。李斯はまた、嬴政の腹心として活躍することとなった。
また、この時、燕の太子であった姫丹は秦から脱出し、燕へ帰国していた。姫丹の心には、嬴政への失望と怒りがうずまいていた。
紀元前230年(嬴政30歳)、李斯の進言通り、まず、韓を攻めることとなった。各国からの援軍が無い小国の韓を滅亡させることは秦軍にとっては簡単なことであり、嬴政は内史騰(ナイシトウ、内史は官職、騰は名)を派遣し、韓王安を捕らえさせ、韓を滅ぼした。
紀元前229年(嬴政31歳)、いよいよ趙を攻めることにする。秦軍には王翦(オウセン)・王賁(オウホン)親子、蒙武(モウブ)・蒙恬(モウテン)親子、羌瘣(キョウカイ)、楊端和(ヨウタンワ)、そして、嬴政が大抜擢した(と思われる)若き武将である李信(リシン)という名将・知将・勇将・猛将がそろっている。一気に攻勢にでることにした。
今回は正攻法でなく、謀略により、趙の大臣である郭開(カクカイ)という人物を賄賂で買収し、趙王に「李牧が謀反をたくらんでいる」と讒言させる。計略通り、李牧は処刑された。
紀元前228年(嬴政32歳)、王翦と羌瘣が趙王を捕らえ、趙は滅ぼした。ただし、趙王の公子の一人が趙の北部に逃げ、「代王」を名乗り、燕の軍と連合して抵抗してきた。
嬴政は、邯鄲に住むかつて自分に辛い目にあわせた人々の生き埋めを命じた。
紀元前227年(嬴政33歳)、燕が服従を誓い、領土を献上するために使者を送ってきた。「燕は後回しにして考えてもいい」、あるいは嬴政はそう思ったかもしれない。だが、その使者は姫丹が送った嬴政の命を狙う刺客であった。嬴政は荊軻(ケイカ)という名の刺客を返り討ちにする。
自分が散々刺客を送り込んで各国の要人を始末してきたことを棚にあげて、激怒した嬴政は王翦と李信に命じて、燕と代の攻略を命じる。
紀元前226年(嬴政34歳)、王賁に楚を攻撃させる。王賁も楚に勝利した。もう、二方面を同時に攻撃できるほど、秦には余裕が生まれていた。燕の都を落とし、燕の太子である姫丹の首も送られてきた。燕王はさらに東の遼東に逃れた。
紀元前225年(嬴政35歳)、秦軍の勢いはとどまることを知らず、次は王賁に命じて、魏を攻略させた。魏は都である大梁(ダイリョウ)にこもったが、王賁は水攻めにして、3か月で制圧した。魏王も捕らえられた。魏も滅んだ。
斉は秦の長年の同盟国である。これで、まともに国力を残している敵国は楚だけとなった。
そこで、李信と蒙恬に命じて、20万の軍で楚を討伐させる。だが、楚には名将である項燕(コウエン)がいた。李信と蒙恬は大敗した。
紀元前224年(嬴政36歳)、王翦に秦の総力である60万の兵力を授けて、楚を改めて討伐させる。王翦は勝利した。
紀元前223年(嬴政37歳)、王翦と蒙武が楚を滅ぼす。項燕は死に、楚王は捕らえられた。(項燕の死んだ年、最後の楚王については、『史記』の中でも記述にばらつきが見られる)
紀元前222年(嬴政38歳)、王賁と李信に命じて、わずかに残った燕と代を攻略する。燕王と代王は捕らえられた。
これで、斉以外の六国は全て滅ぼした。天下の人に命じて、天下泰平を祝って、飲酒歓楽をさせる。
紀元前221年(嬴政39歳)、滅ぼされることを恐れた斉が兵力を集め、秦との国交を断ってきた。そこで、王賁と李信、蒙恬に命じて、斉を攻略させる。斉はほとんど無抵抗で降伏した。斉王もまた捕らえられた。斉もまた滅んだ。
ここにおいて、六国を完全に滅ぼし、中国史上はじめて「天下統一」となった。
かつて存在した夏王朝は実はただの大きい都市国家であった。殷(商)王朝にしても中国全土の都市国家連合の盟主に過ぎない。周王朝ですら、各地の都市国家に周の一族を君主として送り込んでいたとはいえ、これもあくまで都市国家連合の盟主である。
秦の天下統一は、まさに、中国史上始まって以来の快挙であった。ついに、念願の太平の世がおとずれたのだ!
これも秦の実力と嬴政の強い信念と絶え間ない努力があったからである。嬴政の心には、韓非が残した教えがすっと残っていた。韓非の思想の実践が、おどろくべき早さによる天下統一の達成を支えてきたのである。
始「皇帝」誕生
中国全体の王となった嬴政はこれまでの王よりも更に抜きん出た存在として「皇帝」を名乗り、一人称を「朕」とした。これが始皇帝(これからは「嬴政」ではなく、「始皇帝」と呼ぶ)であり、清の宣統帝溥儀(フギ)に至るまで2000年以上続く中国の皇帝制度の始まりであった。
始皇帝の皇帝位は代々受け継がれ、自らの子は二世皇帝、孫は三世皇帝と名乗るべしとした。
さらに、始皇帝は戦国時代の終わりから流行していた「五行」の考えをとりいれて、「火徳」である周王朝の後をついで、秦を「水徳」とし、「水徳」は黒色と数字の「六」を重んじるため、秦の官吏の衣や旗を全て黒に統一し、規格の数値として「六」の数を尊ぶことにした。「水徳」は法治を尊ぶので、始皇帝には、ちょうどよかった。
また、殷を倒した周王が、土地を自分の親族や功績のあった部下に分け与えて統治する封建制をとっていたが、その結果各地の王族が力をつけ、結局天下は乱れてしまったという歴史があった。そこで始皇帝はすべての中国の土地に代わりに治める王や諸侯をおかず、全て直轄地にして、皇帝の派遣する官吏が治める郡県制をとった。天下は36の郡に分けられた。
その他、始皇帝のとった政策を羅列する。
- 天下の民の呼称を「黔首(けんしゅ)」として、旧・六国の民も秦の民であることを明らかにし、天下統一のお祝いを行う。
- 天下の武器の没収(日本でいう「刀狩り」)を行い、高さ11メートル以上ある金人(金属製の人形)を12体つくる。
- 度量衡(どりょうこう、長さ・量・重さ)の基準を統一する。
- 法律を統一する。
- 馬車の車軸の幅を統一する(ただし、官吏や軍人用に限る。轍(わだち)をあわせるための統一ではない)。
- 文字を統一する。
- 北の長城(万里の長城)を築き、国境を確定する。
- 全国の富豪12万戸を咸陽に移住させて、中央を強くし、地方の勢力を削ぐ。
- 咸陽の城を拡張する。
- 六国の宮殿を破壊し、新たに同じものを秦につくる。
- 六国にあった城の壁を破壊し、中国内にあった秦や他国を防ぐための長城も破壊する。
- 秦も含め、各地にあった敵国を攻撃するためにあった、水を相手に流すための堤防や施設を破壊する。
- 咸陽から東方に通じる馳道(ちどう)と呼ばれる大きな道路をいくつも建設、後に巡幸に利用する。
もはや、空前絶後の大事業である。もちろん、1年で終わるはずもなく、長年かけて行われた。現在の中国の統一したイデオロギーの基礎を作りあげたことは言うまでもない。ただし、貨幣の統一については、さすがに後回しになり、結局、余り実行できないままで終わっている。
始皇帝は、はかりで書類の重さをはかって、毎日のノルマを決め、ほぼ全てのことを決めて、終わるまでは休むことをせず、精勤した。秦の制度は、君主の権力が大きく、誰も逆らえないほどであった。秦王朝は効率的に動き出した。
全国巡幸と仙人探索
紀元前220年(嬴政40歳)、始皇帝は自ら大規模な巡幸を行うことにした。巡幸は、後世の中国の皇帝もほとんど行うことはなかったが、始皇帝は馬車に乗り、多くの馬車を従え、家臣や兵を連れて、各地への巡幸を行っている。
天下を統一したばかりの始皇帝は、天下に己が統治者であるという正当性を知らせる必要があった。
そのため、巡幸によって、その勢威と存在を見せつけて、畏怖と畏敬の気持ちを天下の民に与え、不穏な地域を視察するとともに、途中で名山にいる神々を祭ることで天下の主であることを示し、各地に自分の功績と業績を称えた顕彰碑(けんしょうひ)を置くようにと考えた。
また、始皇帝にはもう一つ、ついでの目的があった。天下を制した今、仙人や不老不死になるための薬が実在するか、確認したかった。聞くところによると、東の斉や燕の地の東には広大な海が存在し、そこには仙人が住むという。天下を手にいれた自分なら、不老不死の薬が本当に手に入るかもしれない。そうすれば、天下をずっと治めていられる。
だが、これはあくまでついでだ。天下が安定してからの話であった。
始皇帝は、先祖の霊に天下統一の報告をするために、西へ、かつての秦の地への巡幸を行い、山を祭って帰った。
紀元前219年(嬴政41歳)、今度は完成した馳道を使って、東へと向かう。この時は、李斯や王賁が従った。途中の泰山(タイザン)で「封禅の儀式」を行い、斉の地へ出て、海というものを生まれた初めて見た。始皇帝はおおいに海が見える地を気に入れ、琅邪(ロウヤ)の地で3か月も滞在する。
この時、始皇帝は徐福(ジョフク、あるいは徐巿(ジョフツ)とも)という人物に出会う。始皇帝は徐福に海に出でて、仙人と不老不死の薬を探すように命じる。そこから、各地の名山をめぐり、顕彰碑を建てて、咸陽にもどった。
紀元前218年(嬴政42歳)、琅邪の地がおおいに気に入った始皇帝は、早くも巡幸に出る。前回と似たコースで琅邪を目指した。
しかし、今回は往路で事件が起こった。博浪沙(ハクロウサ)という地で始皇帝暗殺未遂事件が起こった。さいわい、犯人の凶器である鉄鎚は、副車にあたり、始皇帝は無事であった。犯人は韓の宰相の子である張良(チョウリョウ)という男の娘人物であったが、見つからず仕舞いであった。まだまだ、天下は不穏であった。
始皇帝自身もそれを意識してか、韓・趙の不穏な地域を通って巡幸を終えた。
紀元前215年(嬴政45歳)、四度目の巡幸を行う。今回は東北である燕の地にある碣石(ケッセキ)の地をめざした。
始皇帝は、かなり天下は落ち着いてきているという報告を受けていた。間違いなく、大きな反乱は起きていなかった。六国出身の官吏でも優秀な成績をあげて中央に推薦されるような人物もあらわれたし、無職のまま、学問を続けいずれ立身しようと夢見る人物も生きていけるような世の中になっていた。
この時、咸陽を出発する時、遠くで、「ああ、男として生まれたからにはああなりたいものだ」とつぶやく男もいた。ただの富農に過ぎないこの男ですら、文字を学べるほど生活に余裕が生まれているのである。太平の世が続くことで、少しずつ豊かな世の中にはなっていた。
その一方で、始皇帝の政治には批判もあった。全土一律の法律で、あれほど広大な中国において兵役や労役を課しているにも関わらず、天災による遅刻や逃亡者が発生した場合に厳しく法を適用して罰したため、死罪となるものや強制労働を課せられる罪人が続出していた。
強制労働を課した罪人たちには、驪山(リザン)とい始皇帝自身の「陵墓」を生前につくらせていた。これほど偉大な王者の墓は立派にしなければいけない。後に発掘された始皇帝陵を動画でご覧になった方は、当時の技術も考慮にいれると、どれだけ豪華だったかは想像がつくであろう。
始皇帝は身近な顧問として、李斯の部下にあたる法術の士以外に、統治に役立てるため、多くの学者を「博士」として任じていた。学者は特に流派は限らなかったが、やはり、孔子の教えによる儒教思想を重んじる「儒家」が中心であった。
この「博士」たちは、始皇帝の政策に不満を持っているらしい。始皇帝は彼らが余り役に立たないと感じていたが、始皇帝の長子である扶蘇(フソ)は法律よりも博士たち儒家の言葉を重んじているようであった。心やさしい扶蘇は、秦の厳しい法律と数多くの事業による労役のために、多くの民が苦しんでいることに心を痛めていた。
だが、始皇帝から見れば、これはただの理想主義であった。全国一律の法律を課さなければ、必ず不公平が生まれる。法律の運用をゆるくして民を安らかにしようとすれば、かえって情実政治や賄賂が横行し、結局は有力者や横暴な犯罪者だけが得し、貧しい民ばかりが負担を強いられるようになるだろう。
大事業は後世の役に立つ、そして、秦王朝の勢威をかがやかせれば、反乱を起こすものもなくなり、長い太平の世を築くことができる。
扶蘇に物足りなさを感じた始皇帝は、彼を特に己の後継者である「太子」には任じなかった。まだ、人物の見極めが必要である。
この巡幸の時に、たずねてきた盧生(ロセイ)という人物がまた、仙人を探すと言ってきたので、探すように命じる。彼は徐福と違い、もどってきて、咸陽に帰還した始皇帝を訪れる。仙人は見つからなかったが、海中から「禄図書(ろくとしょ)」という書物を持ってきたという。
始皇帝は、その内容を読む。「秦を亡ぼすものは胡なり」と書いてあった。
「胡」とは中国の北にいる騎馬民族のことである。「匈奴(キョウド)」という勢力が秦の北で力を持ち始めていた。
元々、始皇帝としては匈奴の討伐を視野にいれていた。今回の巡幸も北辺を視察する目的もあった。確かに、匈奴は秦の将来の禍根(かこん)になるだろう。ついに、始皇帝は大規模な外征を行うことにした。
南北への外征
同年、始皇帝は六国を滅ぼした武将の一人である蒙恬に30万の大軍をさずけて、匈奴を攻撃させる。蒙恬は匈奴が存在したオルドス地方を制圧する。匈奴はさらに北、モンゴル高原へと逃れた。
さらに、始皇帝は蒙恬に、「万里の長城」をつくるように命じる。蒙恬は各地に残っていた戦国時代の秦や趙や燕がつくっていた長城を修復してつなぎあわせた。この時の長城は土を突き固めたものか、石をつみあげたものに過ぎず、現在に残るような立派なものではないが、それでも、長さが約5,000キロメートルにもなる大事業である。民の負担は大変なものであった。
その上、始皇帝は咸陽の北からオルドス地方のある「九原(キュウゲン)」まで、「直道(ちょくどう)」という軍事に使うための道を、蒙恬につくらせた。全長約800キロメートル。黒土をつきかためただけの道とはいえ、これまた、難工事であった。
蒙恬はそのまま、「上郡」に兵をまとめて駐屯する。この地の確保が始皇帝の新たな課題であった。
紀元前214年(嬴政46歳)、始皇帝は南方に目を向けて、「南越」討伐を行う。南越とは、現在の中国の「広州」地方、ベトナムに近い地方に住む、異民族であり、統一された国家は形成していなかった。今度は別段、危険な敵ではない。ただ、始皇帝が征服したくなっただけだ。
今後は、50万人の大軍を屠睢(トスイ)という人物に率いらせて、攻略させる。兵糧の輸送のために、南方までつながる運河を建設させた。これまた、大きな負担であった。
攻略は成功したが、南越の民の抵抗も激しく、屠睢は戦死する。さらに、湿度が高く、疫病が流行りやすい気候と土地が兵士たちを苦しめた。だが、始皇帝は南方経営をあきらめなかった。
紀元前213年(嬴政47歳)、さらに内地から南方への移民が行われ、兵への増強も行われた。いくら、秦帝国の威光を示すためとはいえ、これは余りにも大きすぎる負担である。
この頃にあの始皇帝の巡幸を見て、「ああ、男として生まれたからにはああなりたいものだ」とつぶやいた劉邦(リュウホウ)も最下級とはいえ、亭長(ていちょう)という役人の地位を捨てて、盗賊となっていた。
焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)
だが、始皇帝は劉邦のことなど知らず、南北の外征が勝利に終わり、秦帝国がさらに広がったことを喜んだ。
そこで、家臣たちと祝宴を開くことにする。だが、その席で博士の一人である淳于越(ジュンウエツ)が始皇帝に対し、
「かつて、殷や周が繁栄したのは、一族や功臣を各地の君主に封じたからです。陛下(始皇帝)の一族は誰も領土を持っていません。秦の乗っ取りをはかるものがいたら、このままでは誰も助けられません。いにしえを手本にせず、長続きしたものはありません。どうか、ご再考をお願いします」
と、突然、諫めた。
この淳于越の発言は、「昔を持ち出したがる儒家の現実を踏まえていない苦言」と、とらえられがちである。
だが、実際は、さらに広がった国土を秦が直接統治で治めることは難しく、秦から遠地である楚や魏などでは、劉邦のような事例、「刑罰を受けて脱走した後に盗賊となった」黥布(ゲイフ)や「漁師のふりをして実際は盗賊行為をしている」彭越(ホウエツ)のような事例が各地で多発しており、その実態の一部を知っていた淳于越が、全土の直接統治をやめさせることで、民への負担を減らそうとしたものと考えられる。
また、淳于越の感情による反発も入っているであろうが、丞相の李斯や始皇帝が腹心としている趙高(チョウコウ)、蒙毅(モウキ、蒙恬の弟)など法律に詳しい人物たちが、本当の意味で始皇帝や秦王朝に忠誠心があるのか不安を感じていたという事実もあったと思われる。
始皇帝は淳于越の意見をとりあえずは受け止め、臣下たちに議論させることにした。だが、これが思わぬ結果となった。
李斯は、
と、決めつけ、
- 歴史書は秦以外のものは焼き捨て、民間で所持する医学、占い、農林業関係以外の書物は全て焼き捨て、法律を学びたいものは役人を師とするようにさせるように
- 違反者は処刑、政治批判するものは一族皆殺しとすること
と提案してきた。
始皇帝はこの提案を受け入れる。これが有名な始皇帝の「焚書(ふんしょ)」である。これは、敬愛する韓非の意見をさらに徹底したものであった。
これにより、秦の国家で所有するものを除いた書物は医学、占い、農林業関係以外全て焼かれることになった。民間の学者たちの一部には命がけで家の壁の中に書物をかくすものもいた。
始皇帝の目的はあくまで学問と書物を国家に一本化することが目的で、思想そのものの抹殺ではない。だが、国家による言論弾圧には他ならない。もう誰も始皇帝を諫めることはできない。
紀元前212年(嬴政48歳)、咸陽の人口が増え、宮廷の人口が増えてきたので、新しい宮殿造営を行った。「阿房宮(あぼうきゅう)」と仮に名付けられた新宮殿は余りに豪華かつ壮大で、天空を模して、「復道(ふくどう)」という二階建て渡り廊下で、咸陽の宮殿ともつなげられるようにしたものである。
それだけに多くの労力を要し、70万人を越える罪人を驪山の墓と阿房宮に建設に動員する。過酷な秦の法は多くの人間を罪人とし、彼らは労働力として、さらに過酷な労役に使われていた。民の秦への反感はさらに強まっていた。
あの「禄図書」をもたらした盧生が、不老不死の薬を求めて焦る始皇帝にふきこんだ。「宮殿のどこにいるか、誰も知られないようにすれば、きっと『真人』が来て、不老不死になります」と。
始皇帝はそこを聞いて、「朕」という自称をやめ、「真人」と自称し、各地の宮殿を目隠しした通路を渡り歩き、外出先を知らせたものは死罪と定めた。始皇帝の言葉をもらされたと判明した時には、怪しい側近は全て処刑した。
秦の法では術の結果がでなければ処刑となる。恐ろしくなった盧生は、始皇帝に対する罵詈雑言を残して逃亡する。
激怒した始皇帝は、召し抱えた学者である「諸生」たちに不信を感じ調査させた。「諸生」たちの中には、淳于越ら儒学者を中心として「博士」の他に、怪しげな呪術を信じる徐福や盧生のような「方士(ほうし)」も多かった。
方士たちは全然、不老不死になることができる仙人の薬を持ってくることができていない。(始皇帝は「猛毒である水銀を不老不死になる薬として服用していた」という話は有名であるが、史書や発掘調査において明確に証拠のあることではない。後述、「始皇帝の水銀服用について」参照)
調査の結果、あやしげな言葉で人民をまどわしているものが多数いるという報告があった。対象となったものは、怪しげな「方士」ばかりでなく、政治批判を行った儒学者を中心とする学者も多く含まれていた。
他人に次々と罪を転嫁して逃れようとする「諸生」たち460名以上を始皇帝は生き埋めにしてみせしめにした。これが「坑儒(こうじゅ)」である。
始皇帝としては、法支配による政治を目指しており、そのために必要な邪魔となったものたちへの思想弾圧であった。これで、始皇帝を諫めるものどころか、批判するものもいなくなるだろう。
だが、これにたまらず、始皇帝を諫めるものがあらわれた。長子の扶蘇である。
「天下はまだ定まったばかりで、遠方の民はまだ心服していません。諸生たちは孔子の教えをとなえて、手本としていたのです(この扶蘇の発言を見ると、「坑儒」の対象は怪しげな方士たちばかりでなく、儒学を学んだ諸生たちを多数、含んだようである)。それなのに、法を重くして、罰したのでは、天下が安定しないことが心配です」。
扶蘇がたびたび始皇帝を諫めた。始皇帝は怒り、扶蘇を蒙恬のいる上郡に監視役の名目で送ってしまう。
始皇帝としては、蒙恬のもとで現実を学ばせるつもりであったと思われるが、「扶蘇を遠ざけ、扶蘇が帝位をつがないのでは」と周囲に思わせたこと、「扶蘇が帝位につくと蒙恬や蒙毅ら蒙一族がかなり近い存在となること」が確定したことなど、これは、後に、大きな失敗につながった。
ただ、始皇帝の周囲に対する人間観察は浅いということは、始皇帝が「猜疑心が強い」という評価は、実際はあたっていないということかもしれない。
「祖龍」の死
紀元前211年(嬴政49歳)、東郡に隕石が落ち、その隕石には「始皇帝の死後の秦の滅亡」が預言されていた。史書によれば、始皇帝は近隣の住民全てを虐殺したという。
その隕石を調べた使者が帰る時、始皇帝がかつて長江(ちょうこう)にささげた玉璽(ぎょくじ)を持ってきた「今年祖龍死す」と告げたものがいた。
「祖龍」とは、始めての皇帝である自分のことではないか、始皇帝はそう思った。
占いにより、また、5度目の巡幸にでることを決定する。これが始皇帝にとっての最期の旅であり、そして、秦の滅亡への旅路の始まりであった。
紀元前210年(嬴政50歳)、始皇帝は、左丞相の李斯、末子の胡亥(コガイ)、側近の趙高と蒙毅を連れて、巡幸にでる。皇帝の命令をつかさどる印璽と割符は趙高が管理することになった。
今度は南方からでて、南郡、会稽(カイケイ)と秦への反感が強い楚地方を中心に回った。会稽ではふしだらな風習が強かったこの地方の風紀をあらためたことを誇った。
これは始皇帝の母の趙姫に対する思いからであろうか。だが、会稽の人々には余計なことであったかもしれない。
会稽から北上し、呉の土地を巡幸している時に、遠くで「あいつにいつか取って代わってやるぞ!」と叫ぶ若者がいたことに始皇帝は気づかなかった。楚の国は、「残り三戸になっても秦を滅ぼすものは楚」とまで言われており、秦に対する反感はいまだ強かった。
始皇帝はさらに北上して、あの琅邪に向かった。この時、すでに体調は思わしくなかったのであろう。不老不死の望みをあきられきれない始皇帝は、徐福を探し出す。徐福は探し出されてきた。あれから九年も経つが、仙人も薬も見つかっていない。
苦し紛れに「大鮫(さめ)に邪魔されて蓬莱山(ホウライザン)の薬が手に入らない」と言い訳する徐福に対し、みずから、海にでて、手で弩(ど)による矢で、大鮫を射殺す。これで、不老不死の薬を手に入ると思い、始皇帝は西へと巡幸を続けた。
しかし、平原津(ヘイゲンシン)という古い渡し場まで来たところで病魔が始皇帝を襲う。山川の神のたたりと考えた始皇帝は蒙毅を呼んで、山川の神々に祈りをささげて、平癒を祈るように命じる。蒙毅はすぐに出発した。
始皇帝はいまだ後継者となる太子も定めぬまま、さらに西へと向かった。しかし、沙丘(サキュウ)というところで危篤となった。始皇帝は沙丘宮という宮殿の平台(ヘイダイ)に横たえると、死を覚悟する。二世皇帝に誰がふさわしいか、決まっていた。
そこで、腹心の趙高を呼んだ。趙高に、上郡にいる扶蘇にあてて手紙をかかせ、印璽を押させた。
「軍を蒙恬に預けて、わが亡がらとともに咸陽にもどり、葬儀を行うように」
手紙を趙高の手で封印(竹簡をまるめてとじる紐を粘土で固めてそこに印を押すこと。これにより、開けられたかどうかが分かる)された。
しかし、手紙が上郡に送る使者に渡る前に、始皇帝は死去した。不老不死を信じたとされる始皇帝であるが、彼の墓となる驪山の始皇帝陵は築かれ続けている。始皇帝も人間であり、誰にも等しく死が訪れることは理解していた。
始皇帝の死は隠され、その遺体は巡幸の帰還とともに、咸陽へと運ばれた。
その後の秦王朝
だが、始皇帝が不老不死に望みをかけ、後継者を選ぶことを遅らせたことが最悪の事態を招いた。
始皇帝の遺言を預かった趙高は、巡幸に同行していた胡亥と李斯と図り、始皇帝の遺言をいつわり胡亥を二世皇帝とする提案をする。蒙恬に丞相の座を奪われることを恐れた李斯もこれに加担する(始皇帝が巡幸中に李斯や趙高に暗殺された説もある)。
扶蘇には趙高が書いた「始皇帝からの死を命じる手紙」が届けられる。扶蘇は自害し、蒙恬は逮捕された。蒙毅に恨みがある趙高は、蒙恬と蒙毅を捕らえると殺害した。
胡亥は「晩年の始皇帝」の表面的に簡単に真似しやすいところだけを見習った。すなわち、「恐怖政治」と「暴政」である。胡亥の兄弟姉妹はほとんどが殺害された。
民は阿房宮の建設とさらなる限度のない労役に苦しめられた。諫める臣下は、全て処刑されるか、投獄された。趙高は、そのように胡亥を操り、ただ、政敵を始末した。
皮肉なことに、始皇帝が『韓非子』の教えに従い、皇帝権力を増大し、法を厳しくしているため、誰も胡亥に逆らえるものはいなかった。胡亥も『韓非子』の都合のいい部分を持ち出し、李斯たちの諫めを聞かず、権力をふるった。
余りの暴政に各地で反乱が起きた。陳勝(チンショウ)・呉広(ゴコウ)というものがまず、反乱を起こした(陳勝・呉広の乱)。
反乱は次第に広がり、秦への反感が強かった楚の地では「あいつにいつか取って代わってやるぞ!」と叫んだ項羽(コウウ)とその叔父・項梁(コウリョウ)、そして、あの劉邦と、黥布が決起した。
「六国出身の官吏でも優秀な成績をあげて中央に推薦されるような人物」であった蕭何(ショウカ)まで、秦の役人でありながら反乱に加わった。「無職のまま、学問を続けいずれ立身しようと夢見る人物」であった韓信も武将として立身しようとして反乱に投じた。
他の国でも韓では「始皇帝を暗殺しようとした」張良、魏では彭越、趙では張耳(チョウジ)と陳余(チンヨ)が決起した。もう反乱はとどめられるものではなかった。
胡亥は趙高によって反乱をただの盗賊の仕業だと伝えられ、それを信じ、さらなる恐怖政治と暴政を行う。当初は胡亥におもねっていた李斯も、余りの暴政に胡亥を強く諫めようとして処刑された。
胡亥が、反乱の実態を知り、趙高をとがめようした時にはすでに手遅れであった。胡亥は趙高によって自殺に追い込まれた。その趙高も次の秦王(すでに天下を有していないため、秦王を名乗る)となった子嬰(シエイ)によって殺害された。
秦は最終的に次世代の英雄である、項羽と劉邦によって滅亡させられる。秦は劉邦によって滅ぼされ、始皇帝の一族は項羽によって滅ぼされた。
秦王朝は完全に滅びたが、「秦」の名は、西方に伝わり、「中国」をあらわす言葉の語源として、「シナ」、「ティーナイ」、「チャイナ」、「ヒーナ」、「シーヌ」、「チナ」などと呼ばれ、言葉としては現在にまで生き残っている。
評価
史記を記した司馬遷(シバセン)は、賈誼(カギ)の「過秦論(かしんろん)」を引用して、始皇帝を次のように評している。
「始皇帝はどん欲な心を持ち、自分だけの知力に頼り、家臣を信用せず、民に親しまず、王者の道を捨てて、一家の権力だけにこだわり、諸子百家の書物を焼き捨て、刑罰を厳しくして、策謀や武力を優先して、仁義のある政治を行わずに、暴虐さをもって天下を統治した。秦は戦国時代に天下を取った方法で、天下を治めようとした。始皇帝が古代の聖人を見習い、仁義の政治を行ったなら、後継者に暗君がいたとしてもすぐに秦が滅びるようなことはならなかったであろう」
かなり厳しい評価であるが、実は、司馬遷は「世間の人は秦を極端に批判するが、秦にもよいところがあるので認めなければいけない」と主張しており、司馬遷自身も先祖が秦人であることもあって、当時としてはかなりの秦の擁護派に入る。
このことから分かるように、始皇帝は後世から罵詈雑言に近い批判を受け、あたかも、始皇帝が晩年に行った南北の外征や「万里の長城」や「阿房宮」の建設、焚書坑儒が、始皇帝の統治当初から、恒常的に行っていたかのような印象をもたれるに至った。
秦を滅ぼした項羽や劉邦は、史書の粉飾を積極的に行う人物ではなかったが、それでも、後世の人の始皇帝を否定する気持ちは強く、儒学が中国の王朝において主流の思想になったこともあって、そういった印象は長い間続いた。
近年になってからも、始皇帝は「隋の煬帝(ようだい)」と並ぶ「中国史を代表する暴君」にあげられることが多かった。
しかし、同時に、近年では再評価も進み、始皇帝について、好意的な扱いをする創作作品や特集番組、動画も増えてきている。
実際に、始皇帝が開始した「皇帝制度」、「王朝の五行の徳による循環」、「郡県制」、「度量衡の統一」、「法律の統一」、「文字の統一」、「万里の長城建設」、「移住政策」、「道路の建設」は多くの中国の王朝で受け継がれ、そのまま、運用されており、その偉業はやはり、「空前絶後」といえる。
創作作品では、始皇帝は「真面目で理想主義的な君主」もしくか、「仕事熱心ではあるが冷酷非情な暴君」とされることが多い。
始皇帝について
始皇帝の母・趙姫について
始皇帝の母にあたる趙姫は、なぜか、史書にも姓(氏)名が記されず、趙の国で生まれたことしか分からないため、「趙姫」と呼ばれている。
この趙姫については、創作や歴史解説などで、「趙の国の歌妓(歌や舞、夜の相手などで男性を喜ばせる仕事の女性)であった」とすることや、「嫪毐と図り、始皇帝を殺害しようとした」とされることが多い。
だが、これは史実とは異なる。
前者は、趙姫について『史記』において、「呂不韋の家にいた何人かの邯鄲にいる舞いに優れた美女」の一人であり、呂不韋の本妻でなかったと思えるような記述があるために生まれた誤解であると考えられる。
『史記』には、「趙の大きな家の娘」と明記されており、本文の通り、趙姫の実家は、趙姫母子をかくまえるほど勢力のある家であった。
趙の国では音楽や舞踊を好み、あちこちの富豪の元へいく女性は多いとされ、趙姫もこのような女性の一人であったと考えられる。行動や特技が後世の歌妓に近いため、誤解を受けたものと考えられるが、趙姫は、職業として行っていたものではなく、低い身分の生まれではない。
※ただし、これについては、創作作品やネット上の意見で生まれた説ではなく、中国の明代や清代の歴史学者も、「趙姫の一族は、子楚の身分や、呂不韋の資産によって大きな家となった」と考えていたため、歴史解説書などでも「趙の国の歌妓」と紹介されることが多い点は注意。
また、後者については、嫪毐は秦王(後の始皇帝)の玉璽と太后(趙姫)の玉璽を偽造して兵士を徴発し、決起している。もし、趙姫が嫪毐の反乱に加担していたのなら、玉璽を偽造する必要はない。そのため、趙姫は嫪毐の反乱に加担していないと考えるべきである。
これは、趙姫が嫪毐の反乱後、雍に幽閉されたため、受けた誤解であると考えられる。趙姫が幽閉されたのはあくまで反乱を起こした嫪毐にここまで大きな権力を与えたことが理由である。
なお、趙姫が嫪毐との間に生まれた子はあくまで嫪毐の子であったから処刑されただけで、未亡人であった当時としては、趙姫は密通の罪にはあたらなかった可能性もある。
始皇帝の水銀服用について
始皇帝は、不老不死のために水銀の入った薬(丹薬、たんやく)を服用していたという風説がある。
だが、これは史書に明記されたことではない。
始皇帝が不老不死を目指して、仙人や仙薬を探していたのは史実ではあるが、方士たちから薬を受け取って、その怪しげな薬を飲んでいたという記述は史書には確認できない。
また、始皇帝陵など様々な発掘がされているが、始皇帝の飲んでいたと考えられる水銀を含んだ薬が発見されたという事実もない。
これは、上記の
以外に、
が理由として考えられる。
実際に、方士たちが怪しげな不老不死となるための水銀が含まれる「金丹(丹薬)」を開発しようとしたのは、前漢末か、後漢初期であり、始皇帝からは約200年後のこととなる。
ただし、これはネットの風説ではなく、欧米の学者にも始皇帝が水銀を含めた薬を飲んでいたと考える学者が、英語の論文なので読めていないが、存在するようであるため、ソースとしては「ない」とまではとは言えない点は注意したい。
始皇帝を諫めた芸人・優旃(ユウセン)
ほとんど、人間的な温かみのあるエピソードが残らない始皇帝であるが、『史記』滑稽(こっけい)列伝には始皇帝を二度まで諫めた小人の芸人である優旃の話が残っている。
優旃は冗談が巧みであったが、語ることは大きな道理にかなっていた。現代でいうなら、「社会派のお笑い芸人」に近い存在であろうか。
ある時、始皇帝が酒宴をしていた時、雨が降り、宮殿の階段の近くにいた兵士たちが雨でぬれ、体を冷やしていた。
これを見た優旃は、兵士たちに休憩をしたいかとたずねると、兵士たちが同意したため、自分が声をかけたら、「はい!」というようにと伝えておいた。
優旃は始皇帝がくると、兵士たちに呼びかけた。
優旃「楯を持った兵士たちよ!」
兵士たち「はい!」
優旃「お前たちは、背が高いのに、雨の中に立っているばかりで何の役に立つのか? わしは、背は低いが、きちんと休んでいるぞ!」
始皇帝はこれを聞いて、兵士たちを半分ずつ交代にして休ませることにした。
また、ある時、始皇帝は皇帝の狩り場を広げて、東は函谷関から、西は雍や陳倉(チンソウ)まで広げようと語った。
これを聞いた優旃は、
「ようございます! 鳥や獣をその中に放してください。そして、賊が東から襲ってきても、鹿が角で追い払えば、それで充分でしょう」
始皇帝はこの優旃の言葉により、この計画を取りやめている。
優旃は始皇帝の死後も二世皇帝となった胡亥に仕え、胡亥も一度は諫めている。
エピソードとしては短いが、優旃の話を聞くと、始皇帝が全ての諫言を聞き入れなかったわけでないことが分かる。
創作における始皇帝
本宮ひろ志『赤龍王』
司馬遼太郎『項羽と劉邦』と『史記』、久松文雄の『史記』(原作:久保田千太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。
北斗の拳やドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。
始皇帝は劉邦を主役にしたこの作品において、連載開始直後の巻頭カラーで登場する。始皇帝は、威厳はあるが威圧的な顔つきの皇帝として描かれる。いわゆる少年漫画の「ラスボス」である。
冒頭で、「秦王が天下をとられたならば、万民全てが王の奴隷となるだけです。私は万民の敵となる王に協力する気にはなれませぬ」と進言して、始皇帝のものから辞去しようとする尉繚に対し、
「煮殺せィ!!」
と語るような恐怖政治を行う人物である。史実どおり、始皇帝は厳しい法による統治と思想統制を行い、民に七割の税を課すような人物として扱われている。(ただし、史実では秦は労役が多かったが、税そのものはそこまでは高くない)
始皇帝が悪役となることが多かった時代の典型的な始皇帝像といえる。
原泰久『キングダム(漫画)』
2021年10月において、週刊ヤングジャンプにおいて連載中の作品。
始皇帝の秦王時代を描いており、嬴政と呼ばれ、作品において準主役にあたる(主人公は秦の武将であった李信)。
史実とは違い、幼少時代から、母である趙姫が毒親で頻繁に暴力をふるわれ、かくまってくれる母の一族もなく、秦に恨みを持つ邯鄲にいる趙の民にいたぶられていた。
そのため、心を失っていたが、ある出会いによって、心を取り戻し、平和のために中国統一を志すようになる。
嬴政は、表面上は厳格で傲慢であるが、実は優しく情熱的な人間として描かれる。
この作品では、秦は七国では最強国とはいえ、圧倒的な国力を有していない。また、一応は史実上では味方であるはずの呂不韋と趙姫とは露骨に対立し、師となる尉繚が登場していない。
そのため、天下統一が史実以上に困難となっているが、友人である李信たちの助けを得て天下統一を目指している。
関連書籍
『始皇帝大全ビジュアルブック』(ぴあ編集部)
漫画や動画で始皇帝を知った人が、書籍で始皇帝を調べたくなった時にまず、おすすめできるのがこちら。
内容は最新の研究を反映し、限られた文字で要約して説明している。また、豊富なイラスト、図解、そして、地図もあるため、とても分かりやすい。
『史記』の翻訳や始皇帝の概説書を読んで、難しく感じた場合も、この本に立ち戻って、図や地図、関連部分を読めば理解がしやすいであろう。
そのため、初心者ばかりでなく、上級者にもおすすめできる書籍といえる。
『秦の始皇帝』 (講談社学術文庫) 吉川忠夫
歴史上の始皇帝について本格的に調べようとした人におすすめの書籍。
書いている人は学者であるが、内容は特別に難しくは無い。また、読者を飽きさせないための様々な工夫をしながら、学術的なことを含めつつ、巧みに説明している。
1986年に出版されたものの再版であるが、いまだに色あせない始皇帝に関する名著である。
『秦の始皇帝―多元世界の統一者』 (中国歴史人物選) 白帝社 籾山明
こちらは、1994年に出版されており、研究の更新もかなり反映したものとなっている。
時系列での、文化に力を置いた秦の歴史の解説からはじまり、始皇帝の統一までの歴史は4章までで割とあっさりしている。
だが、5章からの「統一政策」から新たな研究がきっちり、反映されている。
特に、7章の1980年代の出土文献である「雲夢秦簡」の内容の詳細な研究を紹介している。内容も具体的で、この時代の生活実態に大変、興味が持てる内容となっている。
『人間・始皇帝』 (岩波新書) 鶴間和幸
始皇帝研究で知られた著者が、長年の自身の研究と最新の研究を反映させて、新書として、出版された。2021年現在の日本では始皇帝研究を要約して学ぶために最も手軽な書籍である。
添付された参考史料・文献と、出典を明記した年表は本格的に調べるためにとても便利。
内容は一般書にしてはかなり難しいので、『史記』の翻訳と上記の書籍を読んでから、読むことをおすすめする。
それでも足りないという人は、鶴間和幸『始皇帝全史』、A・コットレル『秦始皇帝』、西嶋定生『秦漢帝国』などを読んで、また、挑戦してみよう。
関連動画
関連項目
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