始皇帝単語

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始皇帝とは王にして中国を統一し最初の皇帝になった人物である。

本名は「嬴政(えいせい)」。

なお、この時代の中国では「姓」の他に「氏(うじ)」という系を表すものがあり、姓が「嬴」であり、氏は「」であるため、「政(ちょうせい)」という呼び方もされる。

近年では、「正(ちょうせい)」が正しい呼び方であるとする研究もあり、「正」と呼ばれることもある。

概要

出生

紀元前450年頃から紀元前221年にかけて、中国はたくさんの々に分かれて本格的な長い戦乱の時代を送っていた(春秋戦国時代の後半にあたる(中国の)戦国時代)。

そんな戦国時代の中期、紀元前350年前後、西の大は商鞅(ショウオウ)という法導によって国家改革に成功する。

さらに、戦国時代末期となり、紀元前262年、は昭襄王(しょうじょうおう、嬴政の曾祖)の下で大躍進を遂げていた。

しかし、嬴政(皇帝即位前はこの名で呼ぶ)は、元々は王になる予定の存在ではなかった。嬴政の父親である異人(イジン)は、昭襄王の孫ではあったが敵国であるに人質として送られた日陰の存在であったのだ。

さらに、は異人に構うことなく、に攻め込んできていた。このの戦いこそが、戦国時代・後期において最大の会戦である「長の戦い」である。この戦いは2年にも及んだ。

人質の価値がない異人は、いつ、殺されてもおかしくない立場であった。

だが、そんな彼にをつけたのは大商人呂不韋(リョフイ)であった。呂不韋は「奇貨おくべし(しいものに金をだし後で利用しよう)」として自らのもつ財産を異人に投資してきた。

また、の宮廷に賄賂を送り、工作を行い、呂不韋は異人を昭襄王の太子である「安君」の正統な後継者とすることに成功した。異人はこの時に、子楚(シソ)と名前を変えている。

紀元前260年、呂不韋はこの報告をもって、の都であるカンタン)にいる子楚(異人のこと)を訪ねる。

しかし、呂不韋が子楚を招いて開いた宴会において、子楚は呂不韋の側室の女性に心うばわれる。呂不韋は、子楚に所望され、「趙姫チョウキ)」と後世に呼ばれるこの女性ゆずわたした。

この趙姫こそが、嬴政のとなる女性であった。

約1年して、紀元前259年、子楚と趙姫の間に嬴政が生まれる。これゆえに、呂不韋こそが嬴政の本当のではないかと疑惑が当時から存在していたようである(詳細については、「wikipedia始皇帝の項目exit」の「実に関する議論」参照)。

秦の都、咸陽へ

話はもどるが、紀元前260年、の大会戦である「長の戦い」は勝利に終わった。将軍である趙括チョウカツ)は戦死し、将軍である白起ハクキ)によって、軍の兵40万人以上が生き埋めとなった。

の人々のへの怒りは相当なものであり、の太子の後継者という立場を得ても、子楚一家があやうい状況であることは変わりがなかった。

の方にもごたごたがあり、白起は解任され、紀元前257年になってやっと、の新たな将軍である王齕(オウコツ)がの都であるカンタン)を包囲する。

子楚はによって監禁され、殺されそうになった。「奇貨」を失いそうになった呂不韋は金をばらまき、子楚をから脱出させ、包囲している軍に走らせる。

子楚と呂不韋の都である咸陽に向かったが、趙姫と数えで3歳になったばかりの嬴政はに取り残された

もっとも、趙姫にいる大きなの出身であり、趙姫と嬴政はそのにかくまわれることとなった。(後述、「始皇帝の趙姫について」参照)

だが、の人々の嬴政に対する敵対心は強く、趙姫実家と敵対する一家からは、ひどい扱いを受けたようである。

この頃、嬴政は、の太子でありながら、への人質となっていた丹(キタン)と知り合いになった。丹は、嬴政と似たような遇の仲間として、友人と思っていたようであるが、嬴政がどのように感じていたかは、史書には記されていない。

紀元前251年、嬴政の曽祖にあたる昭襄王が75歳で死去する。昭襄王が長生きだったため、嬴政の祖である安君は、王を継いだ時点ですでに高齢であった。

「孝文王」となった安君は、即位後、わずか3日で死去する。

そして、孝文王の太子となっていた子楚は王に即位する。

「荘襄王(そうじょうおう)」となった子楚は、から趙姫と嬴政を呼び返した。圧倒的な力を持つの要請をは断ることはできなかった。

そのため、9歳となった嬴政は趙姫とともにから送還される。ついに、嬴政は本来の故であるの都の咸陽(カンヨウ)に入った。すでに子楚の子として、別の女性との間に成蟜(セイキョウ)という男子が生まれていた(※)が、趙姫・嬴政子は、子楚にされており、嬴政が太子となった

※これは通説であり、成蟜も趙姫の子である可性はある。

なお、あの呂不韋は荘襄王により、政治をとり行う丞相(宰相)に取り立てられて、大変、重んじられていた

嬴政の、肩身が狭く、あるいは貧しかったかもしれないでの生活が一変し、最強の現代でいう「第一王子」という立場となった。恵まれ、宰相とも特別なつながりがあるため、太子の地位も安泰である。この時の嬴政は幸せな気持ちでいっぱいだったことは間違いないだろう。

荘襄王のもとで、は順調に力を伸ばし、他の六(斉、楚、)のうち、を討ち、その領土を奪っていった。

秦王となる

しかし、嬴政のである荘襄王もわずか4年で崩御する(紀元前247年)。

それによって、嬴政はわずか13歳で王に即位することとなった。

当然、子ども政治などできるはずもない。政治は、荘襄王の時からの丞相である呂不韋られてしまった呂不韋丞相を一段越えた「相邦(しょうほう)」の地位についた。嬴政は呂不韋を「仲につぐもの)」と呼び、尊んだ。呂不韋の権勢はに並ぶものがないほどであった。

紀元前243年(嬴政17歳)、の太子である丹が人質としてにやってきた。しかし、嬴政は彼をただ冷遇しただけであったと伝えられる。後世に「冷酷」、「疑心が強い」と伝えられる嬴政の性格はすでにあらわれていた。

紀元前241年(嬴政19歳)、斉を除く五国連合軍がを攻撃するが、関(カンコクカン)と蕞(サイ)において撃退する。六連合しても、に勝てる存在ではなくなっていた。

紀元前239年(嬴政21歳)、の成蟜が反乱を起こすが、すぐに鎮圧され、成蟜は戦死した。嬴政はを失ったが、王としての基盤は固まってきた。

また、の大規模な漑(かんがい)工事を行っていた鄭(テイコク)という人物が実はスパイであり、「力を使い、への侵攻を遅らせるために工事を行わせている」という疑惑が流れた。

確認したところ、鄭スパイであることは認めたが、この漑工事はいずれのためになるとした。嬴政はその言葉に「間違いない」と判断し、工事を継続させる。

呂不韋との対立

しかし、呂不韋は、元々自分の側室であった嬴政の母親である趙姫不倫関係にあるというスキャンダルをもっていた。

呂不韋スキャンダル明らかになってはまずいと、「ちんこ」を軸にして輪が回せるほど「ちんこ」がでかい嫪毐ロウアイ)という男を宦官に仕立て上げ、太后となった趙姫の相手をさせることにした。趙姫はすぐに嫪毐を気に入り、子を二人なすほどの関係になった。

そういった関係であることを知らず、嬴政は、の信任あつい嫪毐を「長信侯」に封じ、東方に大きな領土を与えることにした。嫪毐呂不韋と権勢を分け合うほどの存在になるほど、大きな力を持つようになった。

紀元前238年(嬴政22歳)、「嫪毐趙姫が、二人の間に生まれた子を王にしようとしている」という内容の密告があった。嬴政が調をすると、嫪毐は反乱を起こした。嬴政は、昌平君ショウヘイクン)と昌文君ショウブンクン)に嫪毐を討伐させる。敗北した嫪毐は逃走したが、捕らえられた。嫪毐裂きの刑にされ、その一党も処刑された

しかし、嬴政は、事の相を知ってしまう。

趙姫が、嫪毐と通じ、子をなしていたのは真実であった。また、が情人に過ぎない嫪毐に権勢を与えたため、反乱が起きてしまった(ただし、趙姫嫪毐の反乱に加担していたわけではない。後述、「始皇帝の趙姫について」参照)

しかも、相邦である呂不韋もまた、趙姫と密通し、それを隠すために、宦官といつわって、嫪毐に勧めていたのである。

これでは呂不韋の「仲」という称号も皮な意味しか持たない。そればかりではない。嬴政の実のであれ、本当の呂不韋であるという噂が信ぴょう性をもってしまうことになるではないか。

嬴政は、元々はの都があった雍(ヨウ)というで、戴冠して元儀式を終えると、この事件の処理を行うことにした。

まず、嫪毐の一族も全て処刑にする。同じを持つものといえども許すわけにはいかない。趙姫嫪毐の間に生まれた、違いの(もしくは)二人も処刑にした。

嫪毐と密通し、増長させた趙姫も嬴政が元儀式を行った雍(ヨウ)に閉する

明けて、紀元前237年(嬴政23歳)、である子楚への功績を考慮にいれて罪を軽くして、呂不韋の相邦を解任し、咸陽から追い出して、河南の領地へと行かせることにした

趙姫については、斉の使者に「にここまで厳しすぎたら、諸侯が背きます」と諫めるものがいたため、咸陽にもどすことにした。

呂不韋嫪毐の問題で、人以外の六人に対する批判が強くなった(嫪毐の出身)。そこで、逐客(ちくきゃくれい)という命を出し、六人をから追い出そうとしたが、側近となっていた楚人の李斯(リシ)に諫められ、撤回する。

李斯は「法法律による統治をする思想の一)」の人物で、法律に詳しい有能な人物であった。嬴政は気に入り、改めて、李斯を最大の心として重用することにする。

紀元前235年(嬴政25歳)、河南に流した呂不韋のもとに食客が次々を訪れていると聞いた嬴政は、呂不韋の反乱を恐れて、へき地であるに行くように命じる。呂不韋は、いずれ一族巻き添えの処刑をうけることを恐れてか、をあおって自害した

こうして嬴政の政が始まった

天下統一へ

嬴政の政当時、中国全土の約半分を支配し、他の六とはべものにならないほどの力を有していた。

また、あの鄭が行った漑工事によって、の本拠地である関中は作のない豊かな土地となっていた。さらに、の法によって、の成人男子は「耕戦の士」となっており、信賞必罰の厳しい軍法で統制されたの兵は強く、六との戦いもおおむね勝利に終わっていた。

そのため、では、に都合のいい平和をもたらすための天下統一める機運が高まっていた。嬴政もまた、反復常ならない六従させるよりも、全に攻略する天下統一による統治を望んでいた。

だが、一方的に攻め、地の利のある六連合して抗戦するとなると、簡単に終わる話ではない。では商鞅の改革から約130年もかけて、名君続き(周の(かなえ)を持ち上げようとして死んだの武王を除く)で、やっとここまでなれたのである。天下統一までは最低でも何十年もかかると予想された。

これから約400年以上後であるが、「三国志」において、人口の約7分の4を有したが、を簡単に滅ぼせなかったことをご存じなら、その困難さがお分かりになるであろう。

しかし、嬴政は、李斯出身の兵法である尉繚(ウツリョウ)に策を授けられる。「金を惜しまず、諸の大臣に賄賂おくり、六連合への対抗をはばむようにせよ」というのだ。李斯に至っては、さらに、「賄賂に応じない大臣は刺客を送って暗殺する」ように進言する。嬴政は二人の進言を採用する。まずは、李斯の進言により、六で最も弱いを攻めることにした

紀元前233年(嬴政27歳)、の攻撃を受けたは、王の一族である非をへの和の使者にたてる。実は、嬴政がを攻めた理由の一つが、「非に会いたい」ということであった。嬴政は、非の記した『非子』という書物を読んで「この人と会えるなら死んでも悔いはない」というほど感銘を受けていた。

非は、「法」の人物で、李斯とは同門の兄弟子の関係にあたり、李斯すらも上回る才を持った人物である。年齢も50歳前後で、嬴政の「師」にふさわしい人物であった。

嬴政は、非が記した『非子』の中でも、「国家の統治のために君法律にもとづいた大きな権力を持つ必要がある」という国家像のビジョンを説いた部分に特に惹かれた。

また、君法律に忠実な「法術の士」の間を分ける、「重人」と呼ばれる邪(よこしま)な権力者を非難した部分についても、呂不韋嫪毐に苦しめられた嬴政からすれば、非常に共感が持てる部分であった。

非子』の内容は、商鞅などの他の法の人物が説く「富強兵のための法」よりもさらに進んだ、よりよい国家をつくる思想であると、嬴政には思われた。非に会った嬴政はすぐに非を気にいった

しかし、嬴政が非を重用することで、自分にとって代わられることを恐れた李斯が、非のことを「非はの王の一族であるから、のことを考えるでしょう。誅殺した方がいいでしょう」と讒言する。確かに、非の献策はのために見せかけてはいるが、の利益にもつながるものではあった。非が故であるのことを思っていることは、間違いはない。

嬴政は非をにつなぐ。後悔した嬴政は、非を釈放しようとした。しかし、非はすでに李斯から勧められて自害していた

事実根ではなかったとはいえ、尊敬する人物に対しての嬴政のこの行動は、「疑心が強い」、「冷酷」と言われても仕方ないことであった。

時期は不明であるが、尉繚からも、嬴政は「恩の情が少なく、足ることを知らない。困っている時は人の下に立つが、志を得ると、人を残酷に扱う人物である。下を得たら、下の人を奴隷のように扱うだろう。久しく交わる人ではない」と言われた上で、を去られようとしたので、引き留めたこともあった。

「冷酷」で「情に薄く」、「残酷で」、「疑心が強い」、これが史書に記された嬴政の性格であった

六国討伐

紀元前232年(嬴政28歳)、嬴政は、かつて自分が生まれたを討つことにした。を先に攻めなかったのは、非のせめてもの願いをかなえようということかもしれない。

また、非を死なせた李斯の進言を採用したくなかったためか、卑劣な策を使うことへのためらいがあったためか、尉繚の進言した「六連合ははばむ」策を採用していたようであるが、李斯のいう「従わないの臣下を積極的に謀略で始末する」計略は使わずに、正攻法で攻めることにした。

だが、には名将の李牧(リボク)がいた。は、李牧との戦いで、前年に歴戦の武将である桓騎(カンキ)を失っている。この時も、軍は李牧敗北する

やはり、正攻法では時間がかかりすぎる上に、犠牲が大きすぎる。嬴政は李斯の計略を採用した。賄賂に応じない各の要人には刺客が送られた。李斯はまた、嬴政の心として活躍することとなった。

また、この時、の太子であった丹はから脱出し、へ帰していた丹の心には、嬴政への失望と怒りがうずまいていた。

紀元前230年(嬴政30歳)、李斯の進言通り、まず、を攻めることとなった。各からの援軍が小国を滅亡させることは軍にとっては簡単なことであり、嬴政は内史騰(ナイシトウ、内史は官職、騰は名)を派遣し、王安を捕らえさせ、を滅ぼした

紀元前229年(嬴政31歳)、いよいよを攻めることにする。軍には王翦(オウセン)・王賁(オウホン)子、蒙武(モウブ)・蒙恬(モウテン)子、羌瘣キョウカイ)、端和(ヨウタンワ)、そして、嬴政が大抜した(と思われる)若き武将である李信(リシン)という名将・知将・勇将・猛将がそろっている。一気に攻勢にでることにした。

今回は正攻法でなく、謀略により、の大臣である郭開カクカイ)という人物を賄賂で買収し、王に「李牧謀反をたくらんでいる」と讒言させる。計略通り、李牧は処刑された

そのため、軍は圧倒的な強さで、を制した。

紀元前228年(嬴政32歳)、王翦と羌瘣王を捕らえ、は滅ぼした。ただし、王の子の一人がの北部に逃げ、「代王」を名乗りの軍と連合して抵抗してきた。

嬴政は、に住むかつて自分に辛いにあわせた人々の生き埋めを命じた。

この年に趙姫が死去する。

紀元前227年(嬴政33歳)、従を誓い、領土を献上するために使者を送ってきた。「は後回しにして考えてもいい」、あるいは嬴政はそう思ったかもしれない。だが、その使者は丹が送った嬴政の命を狙う刺客であった。嬴政は荊軻(ケイカ)という名の刺客を返り討ちにする

自分が散々刺客を送り込んで各の要人を始末してきたことを棚にあげて、激怒した嬴政は王翦と李信に命じて、と代の攻略を命じる。

紀元前226年(嬴政34歳)、王賁に楚を攻撃させる。王賁も楚に勝利した。もう、二方面を同時に攻撃できるほど、には余裕が生まれていた。の都を落とし、の太子である丹の首も送られてきた王はさらに東の東に逃れた。

紀元前225年(嬴政35歳)、軍の勢いはとどまることを知らず、次は王賁に命じて、攻略させた。は都である大梁(ダイリョウ)にこもったが、王賁攻めにして、3かで制圧した。王も捕らえられた。も滅んだ

斉はの長年の同盟である。これで、まともに力を残している敵国は楚だけとなった。

そこで、李信蒙恬に命じて、20万の軍で楚を討伐させる。だが、楚には名将である項燕コウエン)がいた。李信蒙恬は大敗した。

紀元前224年(嬴政36歳)、王翦にの総力である60万の兵力を授けて、楚を改めて討伐させる。王翦は勝利した。

紀元前223年(嬴政37歳)、王翦と蒙武楚を滅ぼす項燕は死に、楚王は捕らえられた。(項燕の死んだ年、最後の楚王については、『史記』の中でも記述にばらつきが見られる)

紀元前222年(嬴政38歳)、王賁李信に命じて、わずかに残ったと代を攻略する。王と代王は捕らえられた

これで、斉以外の六は全て滅ぼした。下の人に命じて、下泰を祝って、飲歓楽をさせる。

紀元前221年(嬴政39歳)、滅ぼされることを恐れた斉が兵力を集め、との交を断ってきた。そこで、王賁李信蒙恬に命じて、斉を攻略させる。斉はほとんど抵抗で降した。斉王もまた捕らえられた。斉もまた滅んだ

ここにおいて、六全に滅ぼし、中国史上はじめて「天下統一となった。

かつて存在したは実はただの大きい都市国家であった。殷(商)王にしても中国全土の都市国家連合の盟に過ぎない。周王ですら、各地の都市国家に周の一族を君として送り込んでいたとはいえ、これもあくまで都市国家連合の盟である。

天下統一は、まさに、中国史上始まって以来の快挙であった。ついに、念願のの世がおとずれたのだ!

これもの実力と嬴政の強い信念と絶え間ない努力があったからである。嬴政の心には、非が残した教えがすっと残っていた。非の思想の実践が、おどろくべきさによる天下統一の達成を支えてきたのである。

始「皇帝」誕生

中国全体の王となった嬴政はこれまでの王よりも更に抜きん出た存在として皇帝」を名乗り一人称を「朕」とした。これが始皇帝(これからは「嬴政」ではなく、「始皇帝」と呼ぶ)であり、清の宣統溥儀(フギ)に至るまで2000年以上続く中国皇帝制度の始まりであった。

始皇帝の皇帝位は代々受け継がれ、自らの子は二世皇帝、孫は三世皇帝と名乗るべしとした。

さらに、始皇帝は戦国時代の終わりから流行していた「五行」の考えをとりいれて、「火徳」である周王の後をついで、を「徳」とし、「徳」は黒色数字の「六」を重んじるため、の官吏の衣や旗を全てに統一し、規格の数値として「六」の数を尊ぶことにした。「徳」は法治を尊ぶので、始皇帝には、ちょうどよかった。

また、殷を倒した周王が、土地を自分の族や功績のあった部下に分け与えて統治する封建制をとっていたが、その結果各地の王族が力をつけ、結局下は乱れてしまったという歴史があった。そこで始皇帝はすべての中国の土地に代わりに治める王や諸侯をおかず、全て直轄地にして、皇帝派遣する官吏が治める県制をとった下は36のに分けられた。

その他、始皇帝のとった政策を羅列する。

  • 下の民の呼称を「黔首(けんしゅ)」として、旧・六の民もの民であることを明らかにし、天下統一のお祝いを行う。
  • 下の武器収(日本でいう「狩り」)を行い、高さ11メートル以上ある金人(金属製の人形)を12体つくる。
  • 度量衡(どりょうこう、長さ・量・重さ)の基準を統一する。
  • 法律を統一する。
  • 軸の幅を統一する(ただし、官吏や軍人用に限る。轍(わだち)をあわせるための統一ではない)。
  • 文字を統一する。
  • 北の長万里の長城)を築き、を確定する。
  • の富12万戸を咸陽に移住させて、中央を強くし、地方の勢力を削ぐ。
  • 咸陽のを拡する。
  • の宮殿を破壊し、新たに同じものをにつくる。
  • にあったの壁を破壊し、中国内にあったや他を防ぐための長も破壊する。
  • も含め、各地にあった敵国を攻撃するためにあった、を相手に流すための防や施設を破壊する。
  • 咸陽から東方に通じる馳(ちどう)と呼ばれる大きな道路をいくつも建設、後に巡幸に利用する。

もはや、空前絶後の大事業である。もちろん、1年で終わるはずもなく、長年かけて行われた。現在中国の統一したイデオロギーの基礎を作りあげたことは言うまでもない。ただし、貨幣の統一については、さすがに後回しになり、結局、余り実行できないままで終わっている。

始皇帝は、はかりで書類の重さをはかって、毎日ノルマを決め、ほぼ全てのことを決めて、終わるまでは休むことをせず、精勤したの制度は、君の権力が大きく、も逆らえないほどであった。は効率的に動き出した。

全国巡幸と仙人探索

紀元前220年(嬴政40歳)、始皇帝は自ら大規模な巡幸を行うことにした。巡幸は、後世の中国皇帝もほとんど行うことはなかったが、始皇帝はに乗り、多くのを従え、臣や兵を連れて、各地への巡幸を行っている。

下を統一したばかりの始皇帝は、下に己が統治者であるという正当性を知らせる必要があった

そのため、巡幸によって、その勢威と存在を見せつけて、畏怖と畏敬の気持ちを下の民に与え、不穏な地域を視察するとともに、途中で名山にいる神々を祭ることで下のであることを示し、各地に自分の功績と業績を称えた顕碑(けんしょうひ)を置くようにと考えた。

また、始皇帝にはもう一つ、ついでの的があった。下を制した今、仙人や不老不死になるための実在するか、確認したかった。聞くところによると、東の斉やの地の東には広大が存在し、そこには仙人が住むという。下を手にいれた自分なら、不老不死が本当に手に入るかもしれない。そうすれば、下をずっと治めていられる。

だが、これはあくまでついでだ。下が安定してからの話であった。

始皇帝は、先祖の霊に天下統一の報告をするために、西へ、かつてのの地への巡幸を行い、山を祭って帰った。

紀元前219年(嬴政41歳)、今度は完成した馳を使って、東へと向かう。この時は、李斯王賁が従った。途中の泰山(タイザン)で「封儀式」を行い、斉の地へ出て、というものを生まれた初めて見た。始皇帝はおおいにが見える地を気に入れ、琅邪(ロウヤ)の地で3かも滞在する。

この時、始皇帝は徐福(ジョフク、あるいは徐巿(ジョフツ)とも)という人物に出会う。始皇帝は徐福に出でて、仙人と不老不死を探すように命じる。そこから、各地の名山をめぐり、顕碑を建てて、咸陽にもどった。

紀元前218年(嬴政42歳)、琅邪の地がおおいに気に入った始皇帝は、くも巡幸に出る。前回と似たコースで琅邪をした。

しかし、今回は往路で事件が起こった。博浪沙(ハクロウサ)という地で始皇帝暗殺未遂事件が起こった。さいわい、犯人器である鉄鎚は、副にあたり、始皇帝は事であった。犯人の宰相の子である張良チョウリョウ)という男の娘人物であったが、見つからず仕舞いであった。まだまだ、下は不穏であった。

始皇帝自身もそれを意識してか、の不穏な地域を通って巡幸を終えた。

紀元前215年(嬴政45歳)、四度の巡幸を行う。今回は東北であるの地にある碣石(ケッセキ)の地をめざした。

始皇帝は、かなり下は落ち着いてきているという報告を受けていた。間違いなく、大きな反乱は起きていなかった。六国出身の官吏でも優秀な成績をあげて中央に推薦されるような人物もあらわれたし、無職のまま、学問を続けいずれ立身しようと夢見る人物も生きていけるような世の中になっていた。

この時、咸陽を出発する時、遠くで、「ああ、男として生まれたからにはああなりたいものだ」とつぶやく男もいた。ただの富農に過ぎないこの男ですら、文字を学べるほど生活に余裕が生まれているのである。の世が続くことで、少しずつ豊かな世の中にはなっていた

その一方で、始皇帝の政治には批判もあった。全土一法律で、あれほど広大中国において兵役や労役を課しているにも関わらず災による遅刻や逃亡者が発生した場合に厳しく法を適用して罰したため、死罪となるものや強制労働を課せられる罪人が続出していた

強制労働を課した罪人たちには、驪山(リザン)とい始皇帝自身の「陵墓」を生前につくらせていた。これほど偉大な王者の墓は立にしなければいけない。後に発掘された始皇帝陵を動画でご覧になった方は、当時の技術も考慮にいれると、どれだけだったかは想像がつくであろう。

始皇帝は身近な顧問として、李斯の部下にあたる法術の士以外に、統治に役立てるため、多くの学者を「博士」として任じていた。学者は特に流は限らなかったが、やはり、孔子の教えによる儒教思想を重んじる「儒」が中心であった。

この「博士」たちは、始皇帝の政策に不満を持っているらしい。始皇帝は彼らが余り役に立たないと感じていたが、始皇帝の長子である扶(フソ)は法律よりも博士たち儒の言葉を重んじているようであった。心やさしい扶は、の厳しい法律と数多くの事業による労役のために、多くの民が苦しんでいることに心を痛めていた。

だが、始皇帝から見れば、これはただの理想義であった。全法律を課さなければ、必ず不が生まれる。法律の運用をゆるくして民を安らかにしようとすれば、かえって情実政治賄賂が横行し、結局は有力者や横暴な犯罪者だけが得し、貧しい民ばかりが負担を強いられるようになるだろう。

大事業は後世の役に立つ、そして、の勢威をかがやかせれば、反乱を起こすものもなくなり、長い太の世を築くことができる。

に物足りなさを感じた始皇帝は、彼を特に己の後継者である「太子」には任じなかった。まだ、人物の見極めが必要である。

この巡幸の時に、たずねてきた生(ロセイ)という人物がまた、仙人を探すと言ってきたので、探すように命じる。彼は徐福と違い、もどってきて、咸陽に帰還した始皇帝を訪れる。仙人は見つからなかったが、中から「図書(ろくとしょ)」という書物を持ってきたという。

始皇帝は、その内容を読む。「を亡ぼすものは胡なり」と書いてあった。

「胡」とは中国の北にいる騎民族のことである。「匈奴キョウド)」という勢力がの北で力を持ち始めていた。

元々、始皇帝としては匈奴の討伐を視野にいれていた。今回の巡幸も北辺を視察する的もあった。確かに、匈奴の将来の禍根(かこん)になるだろう。ついに、始皇帝は大規模な外征を行うことにした

南北への外征

同年、始皇帝は六を滅ぼした武将の一人である蒙恬に30万の大軍をさずけて、匈奴を攻撃させる。蒙恬匈奴が存在したオルドス地方を制圧する匈奴はさらに北、モンゴル高原へと逃れた。

さらに、始皇帝は蒙恬に、「万里の長城」をつくるように命じる蒙恬は各地に残っていた戦国時代がつくっていた長を修復してつなぎあわせた。この時の長は土を突き固めたものか、石をつみあげたものに過ぎず、現在に残るような立なものではないが、それでも、長さが約5,000キロメートルにもなる大事業である。民の負担は大変なものであった。

その上、始皇帝は咸陽の北からオルドス地方のある「九原(キュウゲン)」まで、「直(ちょくどう)」という軍事に使うためのを、蒙恬につくらせた。全長約800キロメートル土をつきかためただけのとはいえ、これまた、難工事であった。

蒙恬はそのまま、「上」に兵をまとめて駐屯する。この地の確保が始皇帝の新たな課題であった。

紀元前214年(嬴政46歳)、始皇帝は南方を向けて、「南越」討伐を行う。南越とは、現在中国の「広州地方ベトナムに近い地方に住む、異民族であり、統一された国家は形成していなかった。今度は別段、危険な敵ではない。ただ、始皇帝が征したくなっただけだ。

今後は、50万人の大軍を屠睢(トスイ)という人物に率いらせて、攻略させる。兵糧の輸送のために、南方までつながる運河を建設させた。これまた、大きな負担であった。

攻略は成功したが、南越の民の抵抗しく、屠睢は戦死する。さらに、湿度が高く、疫病が流行りやすい気と土地が兵士たちを苦しめた。だが、始皇帝は南方経営をあきらめなかった。

紀元前213年(嬴政47歳)、さらに内地から南方への移民が行われ、兵への増強も行われた。いくら、帝国の威を示すためとはいえ、これは余りにも大きすぎる負担である。

この頃にあの始皇帝の巡幸を見て、「ああ、男として生まれたからにはああなりたいものだ」とつぶやいた劉邦リュウホウ)も最下級とはいえ、亭長(ていちょう)という役人の地位を捨てて、盗賊となっていた。

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

だが、始皇帝は劉邦のことなど知らず、南北の外征が勝利に終わり、帝国がさらに広がったことを喜んだ。

そこで、臣たちと祝宴を開くことにする。だが、その席で博士の一人である越(ジュンウエツ)が始皇帝に対し、

「かつて、殷や周が繁栄したのは、一族や功臣を各地の君に封じたからです。陛下(始皇帝)の一族はも領土を持っていません。乗っ取りをはかるものがいたら、このままではも助けられません。いにしえを手本にせず、長続きしたものはありません。どうか、ご再考をお願いします」

と、突然、諫めた。

この越の発言は、「昔を持ち出したがる儒現実を踏まえていない苦言」と、とらえられがちである。

だが、実際は、さらに広がった土をが直接統治で治めることは難しく、から遠地である楚やなどでは、劉邦のような事例、「刑罰を受けて脱走した後に盗賊となった」黥布ゲイフ)や「漁師のふりをして実際は盗賊行為をしている」彭越(ホウエツ)のような事例が各地で多発しており、その実態の一部を知っていた越が、全土の直接統治をやめさせることで、民への負担を減らそうとしたものと考えられる。

また、越の感情による反発も入っているであろうが、丞相李斯や始皇帝が心としている趙高チョウコウ)、毅(モウキ蒙恬)など法律に詳しい人物たちが、本当の意味で始皇帝やに忠心があるのか不安を感じていたという事実もあったと思われる。

始皇帝は越の意見をとりあえずは受け止め、臣下たちに議論させることにした。だが、これが思わぬ結果となった。

李斯は、

  • 愚かな学者たちが、いにしえをただ理想化し、政治批判して、民をまどわしている
  • これではの権威は落ち、批判のための徒党が生まれてしまう

と、決めつけ、

  • 歴史書は以外のものは焼き捨て、民間で所持する医学占い、農業関係以外の書物は全て焼き捨て、法律を学びたいものは役人を師とするようにさせるように
  • 違反者は処刑、政治批判するものは一族皆殺しとすること

と提案してきた。

始皇帝はこの提案を受け入れる。これが有名な始皇帝の「焚書(ふんしょ)」である。これは、敬する非の意見をさらに底したものであった。

これにより、国家で所有するものを除いた書物は医学占い、農業関係以外全て焼かれることになった。民間の学者たちの一部には命がけでの壁の中に書物をかくすものもいた。

始皇帝の的はあくまで学問と書物を国家に一本化することが的で、思想そのものの殺ではない。だが、国家による言論弾圧には他ならない。もうも始皇帝を諫めることはできない

紀元前212年(嬴政48歳)、咸陽の人口が増え、宮廷の人口が増えてきたので、新しい宮殿造営を行った。「房宮(あぼうきゅう)」と仮に名付けられた新宮殿余りかつ壮大で、天空を模して、「復(ふくどう)」という二階建て渡り廊下で、咸陽の宮殿ともつなげられるようにしたものである。

それだけに多くの労力を要し、70万人を越える罪人を驪山の墓と房宮に建設に動員する。過酷なの法は多くの人間を罪人とし、彼らは労働力として、さらに過酷な労役に使われていた。民のへの反感はさらに強まっていた。

あの「図書」をもたらした生が、不老不死めて焦る始皇帝にふきこんだ。「宮殿のどこにいるか、も知られないようにすれば、きっと『真人』が来て、不老不死になります」と。

始皇帝はそこを聞いて、「朕」という自称をやめ、「真人」と自称し、各地の宮殿目隠しした通路を渡り歩き、外出先を知らせたものは死罪と定めた。始皇帝の言葉をもらされたと判明した時には、怪しい側近は全て処刑した。

の法では術の結果がでなければ処刑となる。恐ろしくなった生は、始皇帝に対する罵詈雑言を残して逃亡する。

激怒した始皇帝は、召し抱えた学者である「諸生」たちに不信を感じ調させた。「諸生」たちの中には、越ら儒学者を中心として「博士」の他に、怪しげな呪術を信じる徐福生のような「方士(ほうし)」も多かった。

方士たちは全然、不老不死になることができる仙人のを持ってくることができていない。(始皇帝は「猛である水銀不老不死になるとして用していた」という話は有名であるが、史書や発掘調において明確に拠のあることではない。後述、「始皇帝の水銀用について」参照)

調の結果、あやしげな言葉で人民をまどわしているものが多数いるという報告があった。対となったものは、怪しげな「方士」ばかりでなく、政治批判を行った儒学者を中心とする学者も多く含まれていた。

他人に次々と罪を転して逃れようとする「諸生」たち460名以上を始皇帝は生き埋めにしてみせしめにした。これが「坑儒(こうじゅ)」である。

始皇帝としては、法支配による政治しており、そのために必要な邪魔となったものたちへの思想弾圧であった。これで、始皇帝を諫めるものどころか、批判するものもいなくなるだろう。

だが、これにたまらず、始皇帝を諫めるものがあらわれた。長子の扶である。

下はまだ定まったばかりで、遠方の民はまだ心していません。諸生たちは孔子の教えをとなえて、手本としていたのです(この扶の発言を見ると、「坑儒」の対は怪しげな方士たちばかりでなく、儒学を学んだ諸生たちを多数、含んだようである)。それなのに、法を重くして、罰したのでは、下が安定しないことが心配です」。

がたびたび始皇帝を諫めた。始皇帝は怒り、扶蒙恬のいる上に監視役の名で送ってしまう。

始皇帝としては、蒙恬のもとで現実を学ばせるつもりであったと思われるが、「扶を遠ざけ、扶位をつがないのでは」と周囲に思わせたこと、「扶位につくと蒙恬毅ら一族がかなり近い存在となること」が確定したことなど、これは、後に、大きな失敗につながった

ただ、始皇帝の周囲に対する人間観察は浅いということは、始皇帝が「疑心が強い」という評価は、実際はあたっていないということかもしれない。

「祖龍」の死

紀元前211年(嬴政49歳)、東隕石が落ち、その隕石には「始皇帝の死後のの滅亡」が預言されていた。史書によれば、始皇帝は近隣の住民全てを虐殺したという。

その隕石を調べた使者が帰る時、始皇帝がかつて長江(ちょうこう)にささげた玉璽(ぎょくじ)を持ってきた「今年祖龍死す」と告げたものがいた

「祖」とは、始めての皇帝である自分のことではないか、始皇帝はそう思った。

占いにより、また、5度の巡幸にでることを決定する。これが始皇帝にとっての最期の旅であり、そして、の滅亡への旅路の始まりであった。

紀元前210年(嬴政50歳)、始皇帝は、左丞相李斯、末子の胡(コガイ)、側近の趙高毅を連れて、巡幸にでる。皇帝の命つかさどる印璽と割符は趙高が管理することになった。

今度は南方からでて、南、会稽(カイケイ)とへの反感が強い楚地方を中心に回った。会稽ではふしだらな習が強かったこの地方紀をあらためたことを誇った。

これは始皇帝の趙姫に対する思いからであろうか。だが、会稽の人々には余計なことであったかもしれない。

会稽から北上し、の土地を巡幸している時に、遠くで「あいつにいつか取って代わってやるぞ!」と叫ぶ若者がいたことに始皇帝は気づかなかった。楚のは、「残り三戸になってもを滅ぼすものは楚」とまで言われており、に対する反感はいまだ強かった。

始皇帝はさらに北上して、あの琅邪に向かった。この時、すでに体調は思わしくなかったのであろう。不老不死の望みをあきられきれない始皇帝は、徐福を探し出す。徐福は探し出されてきた。あれから九年も経つが、仙人もも見つかっていない。

苦し紛れに「大(さめ)に邪魔されて蓬莱山(ホウライザン)のが手に入らない」と言い訳する徐福に対し、みずから、にでて、手で(ど)による矢で、大を射殺す。これで、不老不死を手に入ると思い、始皇帝は西へと巡幸を続けた。

しかし、平原(ヘイゲンシン)という古い渡し場まで来たところで病魔が始皇帝を襲う。山川の神のたたりと考えた始皇帝は毅を呼んで、山川の神々に祈りをささげて、癒を祈るように命じる。毅はすぐに出発した。

始皇帝はいまだ後継者となる太子も定めぬまま、さらに西へと向かった。しかし、沙丘(サキュウ)というところで危篤となった。始皇帝は沙丘宮という宮殿台(ヘイダイ)に横たえると、死を覚悟する。二世皇帝がふさわしいか、決まっていた。

そこで、心の趙高を呼んだ。趙高に、上にいる扶にあてて手紙をかかせ、印璽を押させた。

「軍を蒙恬に預けて、わが亡がらとともに咸陽にもどり、葬儀を行うように」

手紙趙高の手で封印(簡をまるめてとじる紐を粘土で固めてそこに印を押すこと。これにより、開けられたかどうかが分かる)された。

しかし、手紙が上に送る使者に渡る前に、始皇帝は死去した不老不死を信じたとされる始皇帝であるが、彼の墓となる驪山の始皇帝陵は築かれ続けている。始皇帝も人間であり、にも等しく死が訪れることは理解していた

始皇帝の死は隠され、その遺体は巡幸の帰還とともに、咸陽へと運ばれた。

その後の秦王朝

だが、始皇帝が不老不死に望みをかけ、後継者を選ぶことを遅らせたことが最悪の事態を招いた

始皇帝の遺言を預かった趙高は、巡幸に同行していた胡李斯と図り、始皇帝の遺言をいつわり胡二世皇帝とする提案をする。蒙恬丞相の座を奪われることを恐れた李斯もこれに加担する(始皇帝が巡幸中に李斯趙高に暗殺された説もある)。

には趙高が書いた「始皇帝からの死を命じる手紙」が届けられる。自害し、蒙恬逮捕された。毅に恨みがある趙高は、蒙恬毅を捕らえると殺した。

は、二世皇帝に即位する。

は「晩年の始皇帝」の表面的に簡単に真似しやすいところだけを見習った。すなわち、「恐怖政治」と「暴政」である。兄弟姉妹はほとんどが殺された。

民は房宮の建設とさらなる限度のない労役に苦しめられた。諫める臣下は、全て処刑されるか、投された。趙高は、そのように胡を操り、ただ、政敵を始末した。

なことに、始皇帝が『非子』の教えに従い、皇帝権力を増大し、法を厳しくしているため、も胡に逆らえるものはいなかった。胡も『非子』の都合のいい部分を持ち出し、李斯たちの諫めを聞かず、権力をふるった。

余りの暴政に各地で反乱が起きた。陳勝チンショウ)・広(ゴコウ)というものがまず、反乱を起こした(陳勝広の乱)。

反乱は次第に広がり、への反感が強かった楚の地では「あいつにいつか取って代わってやるぞ!」と叫んだ項羽コウウ)とその叔父項梁コウリョウ)、そして、あの劉邦と、黥布が決起した。

「六出身の官吏でも優秀な成績をあげて中央に推薦されるような人物」であった蕭何ショウカ)まで、の役人でありながら反乱に加わった。「無職のまま、学問を続けいずれ立身しようと見る人物」であった韓信も武将として立身しようとして反乱に投じた。

他のでもでは「始皇帝を暗殺しようとした」張良では彭越では張耳チョウジ)と陳余チンヨ)が決起した。もう反乱はとどめられるものではなかった。

趙高によって反乱をただの盗賊の仕業だと伝えられ、それを信じ、さらなる恐怖政治と暴政を行う。当初は胡におもねっていた李斯も、余りの暴政に胡を強く諫めようとして処刑された。

が、反乱の実態を知り、趙高をとがめようした時にはすでに手遅れであった。胡趙高によって自殺に追い込まれた。その趙高も次の王(すでに下を有していないため、王を名乗る)となった子(シエイ)によって殺された。

は最終的に次世代の英雄である、項羽劉邦によって滅亡させられる劉邦によって滅ぼされ、始皇帝の一族は項羽によって滅ぼされた。

全に滅びたが、」の名は、西方に伝わり、「中国」をあらわす言葉の語として、「シナ」、「ティーナイ」、「チャイナ」、「ヒーナ」、「シーヌ」、「チナ」などと呼ばれ、言葉としては現在にまで生き残っている

評価

史記を記した司馬遷シバセン)は、賈誼(カギ)の「過論(かしんろん)」を引用して、始皇帝を次のように評している。

「始皇帝はどん欲な心を持ち、自分だけの知力に頼り、臣を信用せず、民にしまず、王者のを捨てて、一家の権力だけにこだわり、諸子の書物を焼き捨て、刑罰を厳しくして、策謀や武力を優先して、仁義のある政治を行わずに、暴虐さをもって下を統治した。戦国時代下を取った方法で、下を治めようとした。始皇帝が古代聖人を見習い、仁義の政治を行ったなら、後継者に暗君がいたとしてもすぐにが滅びるようなことはならなかったであろう」

かなり厳しい評価であるが、実は、司馬遷は「世間の人はを極端に批判するが、にもよいところがあるので認めなければいけない」としており、司馬遷自身も先祖が人であることもあって、当時としてはかなりの擁護派に入る

このことから分かるように、始皇帝は後世から罵詈雑言に近い批判を受け、あたかも、始皇帝が晩年に行った南北の外征や「万里の長城」や「房宮」の建設、焚書坑儒が、始皇帝の統治当初から、恒常的に行っていたかのような印をもたれるに至った

を滅ぼした項羽劉邦は、史書の粉飾を積極的に行う人物ではなかったが、それでも、後世の人の始皇帝を否定する気持ちは強く、儒学が中国の王朝において流の思想になったこともあって、そういった印は長い間続いた

近年になってからも、始皇帝は「隋の煬帝(ようだい)」と並ぶ「中国史を代表する暴君」にあげられることが多かった。

しかし、同時に、近年では再評価も進み、始皇帝について、好意的な扱いをする創作作品や特集番組、動画も増えてきている

実際に、始皇帝が開始した「皇帝制度」、「王の五行の徳による循環」、「県制」、「度量衡の統一」、「法律の統一」、「文字の統一」、「万里の長城建設」、「移住政策」、「道路の建設」は多くの中国の王朝で受け継がれ、そのまま、運用されており、その偉業はやはり、「空前絶後」といえる

創作作品では、始皇帝は「で理想義的な君」もしくか、「仕事熱心ではあるが冷酷非情な暴君」とされることが多い。

始皇帝について

始皇帝の母・趙姫について

始皇帝のにあたる趙姫は、なぜか、史書にも姓(氏)名が記されず、で生まれたことしか分からないため、「趙姫」と呼ばれている。

この趙姫については、創作歴史解説などで、「の歌(歌や舞、の相手などで男性を喜ばせる仕事女性)であった」とすることや、「嫪毐と図り、始皇帝を殺しようとした」とされることが多い。

だが、これは史実とは異なる。

前者は、趙姫について『史記』において、「呂不韋にいた何人かのにいる舞いに優れた美女」の一人であり、呂不韋本妻でなかったと思えるような記述があるために生まれた誤解であると考えられる。

史記』には、「の大きな」と明記されており、本文の通り、趙姫実家は、趙姫子をかくまえるほど勢力のあるであった。

では音楽や舞踊を好み、あちこちの富の元へいく女性は多いとされ、趙姫もこのような女性の一人であったと考えられる。行動や特技が後世の歌に近いため、誤解を受けたものと考えられるが、趙姫は、職業として行っていたものではなく、低い身分の生まれではない。

※ただし、これについては、創作作品やネット上の意見で生まれた説ではなく、中国の明代や清代の歴史学者も、「趙姫の一族は、子楚の身分や、呂不韋資産によって大きなとなった」と考えていたため、歴史解説書などでも「の歌」と紹介されることが多い点は注意。

また、後者については、嫪毐王(後の始皇帝)の玉璽と太后(趙姫)の玉璽を偽造して兵士を徴発し、決起している。もし、趙姫嫪毐の反乱に加担していたのなら、玉璽を偽造する必要はない。そのため、趙姫嫪毐の反乱に加担していないと考えるべきである。

これは、趙姫嫪毐の反乱後、雍に閉されたため、受けた誤解であると考えられる。趙姫閉されたのはあくまで反乱を起こした嫪毐にここまで大きな権力を与えたことが理由である。

なお、趙姫嫪毐との間に生まれた子はあくまで嫪毐の子であったから処刑されただけで、未亡人であった当時としては、趙姫は密通の罪にはあたらなかった可性もある。

始皇帝の水銀服用について

始皇帝は、不老不死のために水銀の入った(丹、たんやく)を用していたという説がある。

だが、これは史書に明記されたことではない。

始皇帝が不老不死して、仙人や仙を探していたのは史実ではあるが、方士たちからを受け取って、その怪しげなを飲んでいたという記述は史書には確認できない。

また、始皇帝陵など様々な発掘がされているが、始皇帝の飲んでいたと考えられる水銀を含んだが発見されたという事実もない。

これは、上記の

以外に、

  • 始皇帝の墓である始皇帝陵に水銀が流れる河やが存在したこと
  • 後世の中国皇帝に、長寿を願って水銀が含まれる丹用する人物が多かったこと

が理由として考えられる。

実際に、方士たちが怪しげな不老不死となるための水銀が含まれる「金丹(丹)」を開発しようとしたのは、前漢末か、後漢初期であり、始皇帝からは約200年後のこととなる。

ただし、これはネット説ではなく、欧の学者にも始皇帝が水銀を含めたを飲んでいたと考える学者が、英語の論文なので読めていないが、存在するようであるため、ソースとしては「ない」とまではとは言えない点は注意したい。

始皇帝を諫めた芸人・優旃(ユウセン)

ほとんど、人間的な温かみのあるエピソードが残らない始皇帝であるが、『史記』滑稽(こっけい)列伝には始皇帝を二度まで諫めた小人の芸人である優旃の話が残っている。

優旃は冗談が巧みであったが、語ることは大きな理にかなっていた。現代でいうなら、「社会お笑い芸人」に近い存在であろうか。

ある時、始皇帝が宴をしていた時、が降り、宮殿の階段の近くにいた兵士たちがでぬれ、体を冷やしていた。

これを見た優旃は、兵士たちに休憩をしたいかとたずねると、兵士たちが同意したため、自分がをかけたら、「はい!」というようにと伝えておいた。

優旃は始皇帝がくると、兵士たちに呼びかけた。

優旃「楯を持った兵士たちよ!」

兵士たち「はい!」

優旃「お前たちは、背が高いのに、の中に立っているばかりで何の役に立つのか? わしは、背は低いが、きちんと休んでいるぞ!」

始皇帝はこれを聞いて、兵士たちを半分ずつ交代にして休ませることにした。

また、ある時、始皇帝は皇帝狩り場を広げて、東は関から、西は雍や陳倉(チンソウ)まで広げようと語った。

これを聞いた優旃は、

「ようございます! をその中に放してください。そして、賊が東から襲ってきても、鹿で追い払えば、それで充分でしょう」

始皇帝はこの優旃の言葉により、この計画を取りやめている。

優旃は始皇帝の死後も二世皇帝となった胡に仕え、胡も一度は諫めている。

優旃はの滅亡後、に伝えたが数年後に亡くなったとされる。

エピソードとしては短いが、優旃の話を聞くと、始皇帝が全ての諫言を聞き入れなかったわけでないことが分かる。

創作における始皇帝

本宮ひろ志『赤龍王』

司馬遼太郎項羽劉邦』と『史記』、久文雄の『史記』(原作久保田太郎)のうち『項羽劉邦』をベースとした漫画作品。

北斗の拳ドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。

始皇帝は劉邦役にしたこの作品において、連載開始直後の巻頭カラーで登場する。始皇帝は、威厳はあるが威圧的な顔つきの皇帝として描かれる。いわゆる少年漫画の「ラスボス」である。

冒頭で、「王が下をとられたならば、万民全てが王の奴隷となるだけです。私は万民の敵となる王に協力する気にはなれませぬ」と進言して、始皇帝のものから辞去しようとする尉繚に対し、

「煮殺せィ!!」

と語るような恐怖政治を行う人物である。史実どおり、始皇帝は厳しい法による統治と思想統制を行い、民に七割の税を課すような人物として扱われている。(ただし、史実ではは労役が多かったが、税そのものはそこまでは高くない)

始皇帝が悪役となることが多かった時代の典的な始皇帝像といえる。

原泰久『キングダム(漫画)』

2021年10月において、週刊ヤングジャンプにおいて連載中の作品。

始皇帝の王時代を描いており、嬴政と呼ばれ、作品において準役にあたる(主人公の武将であった李信)。

史実とは違い、幼少時代から、である趙姫毒親で頻繁に暴力ふるわれ、かくまってくれるの一族もなく、に恨みを持つにいるの民にいたぶられていた。

そのため、心を失っていたが、ある出会いによって、心を取り戻し、平和のために中国統一を志すようになる。

嬴政は、表面上は厳格で傲慢であるが、実は優しく情熱的な人間として描かれる。

この作品では、は七では最強とはいえ、圧倒的な力を有していない。また、一応は史実上では味方であるはずの呂不韋趙姫とは露に対立し、師となる尉繚が登場していない。

そのため、天下統一が史実以上に困難となっているが、友人である李信たちの助けを得て天下統一している。

関連書籍

始皇帝大全ビジュアルブックexit』(ぴあ編集部)

漫画動画で始皇帝を知った人が、書籍で始皇帝を調べたくなった時にまず、おすすめできるのがこちら。

全編フルカラーな上に、電子書籍も存在している。

内容は最新の研究を反映し、限られた文字で要約して説明している。また、豊富なイラスト、図解、そして、地図もあるため、とても分かりやすい。

史記』の翻訳や始皇帝の概説書を読んで、難しく感じた場合も、この本に立ち戻って、図や地図、関連部分を読めば理解がしやすいであろう。

そのため、初心者ばかりでなく、上級者にもおすすめできる書籍といえる。

秦の始皇帝』exit (講談社学術文庫)  吉川忠夫

歴史上の始皇帝について本格的に調べようとした人におすすめの書籍。

書いている人は学者であるが、内容は特別に難しくはい。また、読者を飽きさせないための様々な工夫をしながら、学術的なことを含めつつ、巧みに説明している。

1986年に出版されたものの再版であるが、いまだに色あせない始皇帝に関する名著である。

秦の始皇帝―多元世界の統一者exit』 (中国歴史人物選) 白帝社 籾山明

こちらは、1994年に出版されており、研究更新もかなり反映したものとなっている。

時系列での、文化に力を置いた歴史解説からはじまり、始皇帝の統一までの歴史は4章までで割とあっさりしている。

だが、5章からの「統一政策」から新たな研究がきっちり、反映されている。

特に、7章の1980年代の出土文献である「簡」の内容の詳細な研究紹介している。内容も具体的で、この時代の生活実態に大変、興味が持てる内容となっている。

人間・始皇帝exit』 (岩波新書) 鶴間和幸

始皇帝研究で知られた著者が、長年の自身の研究と最新の研究を反映させて、新書として、出版された。2021年現在日本では始皇帝研究を要約して学ぶために最も手軽な書籍である。

添付された参考史料・文献と、出典を明記した年表は本格的に調べるためにとても便利。

内容は一般書にしてはかなり難しいので、『史記』の翻訳と上記の書籍を読んでから、読むことをおすすめする。

それでも足りないという人は、間和幸『始皇帝全史exit』、A・コットレル『秦始皇帝exit』、西嶋定生『秦漢帝国exit』などを読んで、また、挑戦してみよう。

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140 ななしのよっしん
2023/11/04(土) 14:58:53 ID: cBVk3KHVdg
統一王プロパガンダに利用されている?
清朝ならまだしもが利用されているなんて聞いたこともない
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141 ななしのよっしん
2023/11/04(土) 15:04:49 ID: pFYFMug/6a
chinaやぞ
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142 ななしのよっしん
2023/11/10(金) 11:45:59 ID: 1UZjYso4U/
キングダム嬴政もいずれ書を焼くのか
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143 ななしのよっしん
2023/11/29(水) 07:43:44 ID: WtJaEXk3+j
死因普通過労死の可性はある。1人で法、政治、軍の統括とそれに伴う事務仕事やってた様なもんだし。李斯蒙恬とかがいても、重要案件はやっぱ始皇帝が判断しないと行けないし。
まして、晩年は天下統一してるから仕事量が単純計算六倍(実際は官僚機構や法思想が他ほど根付いてないからそれを教育するシステムを作る手間も加わるので、必要な労力はそれ以上)。
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144 ななしのよっしん
2024/01/02(火) 17:43:41 ID: uxXibj0R+s
ウィキによると近年の研究から分かったこととして

始皇帝王として即位した時の
楚系統の外戚(陽太后、昌平君昌文君)と
系統の外戚(趙姫呂不韋ロウアイ
が対立していた模様

そして、その権力闘争で楚系統の外戚が勝利したというのが重要で
始皇帝の妻(王妃、後の皇后?)は楚出身だった可性が高いらしい

なかなか興味深い見解と感じたので書き込みさせてもらった
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145 ななしのよっしん
2024/01/06(土) 23:06:29 ID: OcISdV/xuQ
この人もそうだけど未来人みたいな考え方している古代人好き。
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146 ななしのよっしん
2024/03/02(土) 22:35:35 ID: Boml8lGM3r
>>135
その流れから学力の話だと思うお前の存在で説立やん
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147 ななしのよっしん
2024/03/08(金) 00:40:51 ID: sRoftzn+IT
学力は同じではないかもしれないけどある程度は相関するよ。
たしかに学力だけあっても社会で役に立たなかったり、一方で学力はなくても社会で役に立つケースも多くあるけど
結局のところ、期待値としては学力があったほうが較的マシなことのほうが多いから義務教育があり、大学を頂点とした教育制度があるわけで。
これを否定して知学力と違うと言うのであれば、では一体なにをもって知をはかるのかお教え願いたいものですね。
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148 ななしのよっしん
2024/04/08(月) 01:40:41 ID: fVkY6y6dHt
の低そうなレスバ仕掛け初めてて
基礎教育終えた学力でこのボンクラな↑の存在が「知学力の相関」の有明してるのは皮
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149 ななしのよっしん
2024/05/01(水) 15:24:41 ID: sRoftzn+IT
ろくな論拠もなく否定だけするならにだってできますよね
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