「李信」(リ・シン ? ~ ?)とは、春秋戦国時代末期の秦の国の武将であり、原泰久の漫画「キングダム」で秦王政(後の始皇帝)と共に主役を務めている人物である。
概要
李信の事績
李信が仕えた秦王・嬴政は中国の天下統一を目指し、約500年続いた乱世の春秋戦国時代を終わらせるために、東にある六国(斉、楚、燕、趙、魏、韓)の討伐を、秦軍の将軍たちに命じていた。
紀元前228年頃には、李信は、若いながらも、すでに秦の代表的な武将となっていたらしく、燕国(秦と敵対する六国の一つ)の太子である姫丹(キタン)から、
「秦の武将である王翦(オウセン)は数十万の兵を率い、趙国(秦と敵対する六国の一つ)の臨漳(リンショウ)と鄴(ギョウ)あたりに攻め込み、李信もまた、太原(タイゲン)、雲中(ウンチュウ)方面に出兵している」
と言われている。
同年には、秦軍は趙を滅ぼし、趙の王族である趙嘉(チョウカ)が北の地で「代」の国を名乗り、抵抗するだけとなっていた。
紀元前227年、上述の、姫丹の手により、荊軻(ケイカ)の秦王・嬴政暗殺未遂事件が発生する。
暗殺が失敗に終わると、怒りに燃える嬴政は、秦の武将である王翦と王賁(オウホン)の親子に兵を与えて燕の首都の薊(ケイ)を攻略させる。燕王の姫喜(キキ)と姫丹は精鋭を率いて逃亡し、東の遼東(リョウトウ)の土地を守ろうとした。
紀元前226年、数千の兵を率いていた李信は厳しく姫喜と姫丹を追撃する。衍水(エンスイ)というところで姫丹に追いついた李信は、まだまだ多数の兵力を有していたと思われる燕軍相手に勝利し、姫丹を討ち取る功績をあげる(姫喜が子の姫丹の首を秦に差し出したという話も、『史記』の別箇所にはある)。
このため、李信は秦王の嬴政から、勇猛で優れた人物であるという評価を受けていた。斉は秦の同盟国であり、趙(代)と燕はわずかな勢力を残すだけとなったため、残るは魏と楚のみであった。
紀元前225年、嬴政は、王賁に命じて魏を討伐させる。王賁は水攻めにより、魏を滅ぼす。
秦王・嬴政は、南方にあり、唯一、抵抗する国力を有した楚の攻略を決める。そこで、李信と王翦に対して、問いかける。
嬴政「楚を攻め取るには、将軍たちにどれだけの兵をあずければ、事足りようか」
李信「20万人の兵力があれば、楚を攻略できましょう」
紀元前224年(紀元前225年?)、嬴政は、李信に副将として蒙恬(モウテン)と、20万の兵を与える。王翦は病気を理由に故郷の頻陽(ヒンヨウ)に隠居した。
出撃した李信は、蒙恬と二手に分かれ、李信は平輿(ヘイヨ)を蒙恬は寝丘(シンキュウ)を攻めて楚軍と戦って大勝した。
しかし、ここで、かつては、楚の王族の一人ではあったが、秦の相邦(ショウホウ、宰相の地位)になったこともある昌平君(ショウヘイクン)が派遣されていた郢(テイ、かつて楚の都があった土地であるが、すでに秦によって奪っていた)で攻撃することになった(昌平君が反乱を起こしたのか、楚軍があらわれたのか、昌平君とは別に秦への反乱が起きたのかは不明)。
李信は、この敵も打ち破る。しかし、事態が急変したのか、兵を引き返して西に行き、蒙恬と城父(ジョウフ)というところで、合流しようとした(もっとも「郢」は、城父より西にあるため、この「郢」は楚のかつての都であった「陳」であるという説もある)。
しかし、楚の名将であり、楚軍を率いた項燕(コウエン、西楚の覇王となる項羽(コウウ)の祖父)が3日3晩休まずに追ってきていた。李信と蒙恬は、奇襲をうけてしまい、陣に侵入され、大敗する。秦軍は7名の都尉(とい、武将)を討ち取られてしまい、李信たちは敗走する。
嬴政はこれを聞いて激怒し、王翦が正しいと理解して、頻陽に行き王翦に謝罪する。嬴政は、「李信が秦軍をはずかしめた」とまで話して、王翦に60万の兵を与え、李信と入れ替わりに前線を任した。
だが、李信は楚との戦いでの失敗で大きな責をうけることなかった。
紀元前222年、嬴政に命じられ、王賁と共に燕を攻撃し、燕王・姫喜を捕らえる。その勢いで軍をかえして代王・趙嘉も捕虜とする。
紀元前221年、王賁と共に燕から斉へと進撃する。斉王・田建(デンケン)は降伏し、斉を滅ぼした。これにより、秦は天下を統一した。
その後の李信と『史記』に記された子孫
ただ、近い世代の子孫が残っているため、仮に天下統一直後に死んでいたとしても、少なくとも親族根絶やしにはなっていないと思われる。
李信の活動期から100年ほど後に活動した『史記』に記されている子孫としては、養由基(ヨウユウキ)と共に中国の二代弓聖とされ、水滸伝のチートキャラ「花栄(カエイ)」の元ネタにもなっている「李広(リコウ)」がいる。
李広の孫は、史記の作者の司馬遷(シバセン)と旧知の間柄であった悲運の将「李陵(リリョウ)」であり、李信の猛将の血は子孫に受け継がれた。
この『史記』の李広の列伝によれば、李信の子孫は、「秦の都である咸陽(カンヨウ)に近くにあった槐里(カイリ)県にいたが、隴西(ロウセイ)郡成紀(セイキ)県に移った」とされる。また、李広の家は代々、弓術に習い、伝えていたという。
李広・李陵の先祖を「李信である」と記すことに彼らと同時代を生きた司馬遷が疑いを入れていないところを見ると、李広たちは李信の子孫を名乗っており、それはかなりの信ぴょう性を持っていたようである。
司馬遷は伝聞した記述を疑いなくそのまま記述してしまうところはあるが、できるだけ事実を書き残そうとする編集方針を『史記』の記述に対して行っている。
また、司馬遷自身も秦の出身であり、秦の武将であった司馬錯(シバサク)の子孫を名乗っており、李広の孫の李陵とは知り合いであることから、李広の先祖に関する虚偽の伝聞を書き記す可能性は低い、と思われる。
始皇帝は猜疑心が強いといわれる皇帝であり、始皇帝の死後に実権を握った始皇帝の側近であった趙高は大粛清を行って始皇帝の忠臣をほぼ滅ぼしたと伝えられる。
実際に、蒙恬・蒙毅(モウキ)の兄弟も趙高によって一族皆殺しにされている。そこを生き残っても秦兵のほとんどは秦末の戦乱により、項羽により殺害されており、咸陽もはげしい略奪にあっている。
その後も劉邦(リュウホウ)と項羽との戦いで、劉邦に従った関中にいた男子は戦争で大勢が死に、関中も飢饉などにより、これまた、かなりの人間が死んでおり、どうあがいても絶望。
それなのに、子孫が漢の臣で継続しているのは「すごい」の一言である。
李信の年齢と出身地について
李信については、『史記』などの史書に明確に出自を伝えるものはない。
李信の以前に「李」姓を持つもので秦の国で高い地位を有していた人物は確認されていないため、その出自や年齢を推測することも難しい。
ただ、紀元前225年か224年の楚討伐直前に、「年少壮勇(年齢が若くて勇ましい)」と記されていることから、少なくとも、比較された秦の将軍である王翦(オウセン)よりは若いことは分かる。
王翦は、ほぼ間違いなくこの時には、孫の王離まで成人しており、かなりの高齢であったと考えられるが、李信は、「年少壮勇」とある言葉のニュアンスから見て、かなり若いようにもうかがえる。
秦ではかつて甘羅(カンラ)という人物が12歳で上卿という大臣に就任したこともあり、秦王である嬴政が、腹心として、自分より同年代かそれ以下のかなり若い人物を抜擢することもありえる(嬴政は紀元前225年に35歳)。
嬴政は上記の王翦に大軍を任せることを警戒しており、軍を率いるためには、嬴政からの信頼の方が重視されることもありえるため、『キングダム(漫画)』のように、李信は嬴政と同年代の友人のような年齢である可能性も存在する。
李信の出身地であるが、李信の子孫にあたる「李広(リコウ)」について記された『史記』の列伝に、先祖の李信についての説明の後に、前述した通り、「李信の一族(あるいは子孫)は、元々は(秦の都である)咸陽に近くにあった槐里県にいたが、隴西郡の成紀県に移った」とある。
なお、「槐里」は漢代の呼び名であり、「廃丘(ハイキュウ)」と秦の時代は呼ばれていた
廃丘も成紀も秦の本拠地である関中に存在するため、少なくとも李信は生粋の秦人であったと考えられる。これは後述する『新唐書』とも矛盾はしない。
結論としては、「李信の出身は「秦の地」であると考えてよく、年齢は、嬴政と同年代かそれ以下である可能性も充分にありえる。少なくとも王翦より年下であることは間違いない」である。
李信の先祖について
『史記』によると李信の先祖は分からないが、怪しげで有名な11世紀北宋において編纂された唐の正史である『新唐書』「表第十二中・宰相世系二中」によれば、李信の先祖についても延々とさかのぼり、途中に老子(李耳)を挟んで三皇五帝のひとりである顓頊(センギョク)までたどり着く。まあ、そういう性格を有する記述だと思っていただいて差し支えない。
ただ、他に参考とするものがないため、この『新唐書』「表第十上・宗室世系上」によって述べる。
李信は、趙国の宰相であった李兌(リダイ、趙の武霊王や恵文王に仕えた人物)の子孫にあたり、その3代後の李洪(リコウ)の代で秦に移り、李洪は秦の太子太傅に任じられている。
その李洪の子は、李興族(リコウゾク)といい、秦の将軍に任じられている。これを信じると李信の武門の血はここからはじまるようである。
李興族の子の李曇(リドン)は、趙の国の柏人侯(ハクジンコウ)となるが、また、秦にもどって御史大夫となっている。秦に命じられ、一時期、趙の国の大臣となっていたという意味であろう。
李曇の子は、「李崇(リスウ)」といい、秦の隴西の「郡守(ぐんしゅ、秦の役職)」となり、「南鄭公(ナンテイコウ)」に封じられている。李信の先祖が、隴西に本拠を構えるようになったのは、これからであろう。
李崇の子であり「李瑤(リヨウ)」は、秦の南郡の「郡守」となり、「狄道侯(テキドウコウ)」に封じられる。秦のかなり高位の地方官の家柄ということになる。
この李瑤の子が李信であり、字は「有成(ユウセイ)」とされる。
もちろん、完全に信用することは難しいが、李信の家が隴西に根拠を置いていること、秦王の一族でも大臣の子孫でもなさそうな李信が急に史書にその名が登場すること。
また、李信が秦を代表する将軍の一人となっていることを考えると、李信の5代前の李洪や4代前の李興族からの家系については、史実でも『新唐書』と似たような「秦の地方官の家系」であってもおかしくはないとは考えられる。
結論は、「『新唐書』はそのままでは信用しがたいが、李信の5代前ぐらいからは、李信はその記述と似たような家系であってもおかしくはない。ただし、平民などの出身であった可能性も否定はできない」である。
『新唐書』に記されたその後の李信とその子孫
あの怪しげな『新唐書』「表第十二中・宰相世系二中」によると、
李信は秦の大将軍となり、隴西侯(ロウセイコウ)に封じられたという。
「李信は大将軍になっていた!」
と言いたいところだが、他の史書には李信が秦の大将軍になったという事実の記載はない。
ただし、李信が楚の討伐軍を率いた時、王翦は引退していたため、秦の全軍を率いる立場であったとも考えられる。秦では、秦の軍を率いる最高位の将軍を「大将軍」と呼んでいたようであるため、「大将軍」に任じられていた可能性はある。
その後も、王翦や王賁の方が先に死去していた場合、繰り上げで李信が秦軍の最高責任者となった可能性がある(ただし、この場合は大きな戦争はなかったため、「国尉」という立場となる)。
また、隴西侯とは秦の最高の爵位である徹侯(テツコウ)の一つであろう。王賁が徹侯である通武侯、王賁の子である王離が同じく徹列侯である武城侯に封じられているところを見ると、それほど、不自然な爵位とは思えない。
また、隴西に土地が秦からもらえたとすると、子孫が隴西郡の成紀県に移ったことと符号する。意外に、事実かどうかは別として、史実も似たような地位と爵位にあった可能性は存在する。
李信の子は、李超(リチョウ)といい、漢の大将軍となり、漁陽(ギョヨウ)太守に任じられたとされる。他の史書には、このような記載はないし、この時代に漢の大将軍に任じられたのは、「またくぐり」で、「背水の陣」や「国士無双」で有名な韓信ただ一人である。
さらに、3代下の世代に、李広が生まれ、李広の子として、李当戸(リトウコ)、李敢(リカン)の兄弟が生まれている。
この李当戸の子が李陵である。後に、李陵は匈奴に降り、誤った情報を信じた漢の武帝により李陵の家族及び近い親族はことごとく処刑されている。ただし、処刑されたのは、李陵の母と妻子と記されており、どうやら、李敢とその子、李禹(リウ)は処刑されずに、そのまま生き残ったようである。
李陵からさらに時代を下ること500年弱、五胡十六国時代に西涼を建国した「李暠(リコウ)」は李広の16代後の子孫を自称した。これが後世に「隴西李氏(ロウセイリシ)」と呼ばれるもので、後世に中国の名族の一つとなった。
また、李暠から下ること200年ほど、唐の初代皇帝となった「李淵(リエン)」や二代目皇帝となった「李世民(リセイミン)は李暠の7代後、8代後の子孫を称している。
さらに、約100年のちに、あの唐の詩仙「李白」も李暠の9代目の直系子孫が名乗っていた。
これらがすべて真実であれば、李信から下ること800年余を経過して、李信の子孫が統一王朝を開いたことになるのだが、もちろんこの辺りになると真実性は相当怪しい。
唐王朝の一族は、騎馬民族の鮮卑(せんぴ)の出身で隴西李氏を名乗っただけという説が有力であり、李白も西域に住む外国人であった説が根強い。
ただ確実に言えることとしては、李暠なり李淵なり李世民なり李白なりが自らの血統を誇る上で李広や李陵の名前に頼ることが大きかったということである。
それと同時に、『新唐書』が編纂される際、唐の高祖李淵の先祖として李信が選ばれるに足る存在だったということも言える。
ただし、豪族の勢力は相当に根強く、何百年と繁栄することも多いため、「隴西李氏」が李信の直系ではなかったとしても、李信の血筋が滅びずに、残っている可能性は高い。
※その他「李信」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照
李信が仕えた「秦の国」について
秦の「大将軍」について
秦にも「大将軍」という地位が存在したと伝えられ、上述した通り、李信もその「大将軍」に就任した可能性はあると思われる。
秦では通常は決まった指揮官は置かれず、討伐に向かう将軍はそのたびに皇帝(秦王)によって任命された。
秦の軍事の最高責任者は「国尉(こくい)」と呼ばれ、全軍を率いたが、通常は軍を移動する権限は有さなかった。秦では50人以上の兵力を動かす時は、皇帝(秦王)の許可を得る必要があり、その許可を得た証明として、「虎符(こふ)」という割符が渡された。
皇帝(秦王)によって、「国尉」が軍を率いて討伐におもむく時には、「大将軍」と呼ばれた。なお、「虎符」は、大将軍(もしくは将軍)に任命された人物が「虎符」を割った左側が渡され、皇帝(秦王)の軍令を、「虎符」の割った右側を持った使者が伝えることで軍を移動させるこができた(「符号(ふごう)」の言葉の由来)。
戦争が終わると、「虎符」は回収され、「大将軍」は「国尉」にもどり、通常の軍務にあたることとなった。この時に、全ての将軍もまた、兵権が解かれることになった。
秦の軍の指揮系統について
李信は秦軍を率いる将軍となり、その最高位の「大将軍」になった可能性もあると思われる。
秦軍の兵力は、人口の10分の1を補給の労役従事者を含めて、軍として動員するもので、数十万から二百万までの兵力を有していたものと思われる。(当時に中国全土の人口は約2,000万人)
農民は平時には農業を行うが、戦争時には徴兵されるため、「耕戦(こうせん)の士」と呼ばれた。秦が六国の本格討伐を行う直前の紀元前231年には、全国の男子に年齢を登録させ、15~60歳の男子全てに兵役を義務づけて、国民皆兵を行ってる。犯罪者・商人・奴隷は正式な兵士となることはできず、ただ、軍の労役にあてられた。
秦では、約1万人程度の独立した軍である「部」と、その下に2千人程度からなるいくつかの「曲」によって構成されている。これは「部曲制(ぶきょくせい)」と呼ばれ、「部」と「曲」の集中と分散を行うことで、戦争を継続し、勝利を重ねた。
李信が燕の太子である姫丹を討ち取った時、率いたのが「曲」であったと考えられる。
- 大将軍
- 将軍
尉裨将(副将軍) - 校尉(「部」(約1万人)を率いる)
- 軍候(「曲」(約2千人)を率いる)
- 二五百主(1千人を率いる)
- 五百主(500人を率いる)
- 百将(100人を統率)
- 屯長(50人を統率)
- 伍長(5人を統率)
という指揮系統となっている。
秦の爵位について
『新唐書』を信じると、李信は最終的には秦の爵位の最高位である「徹侯(てつこう)」になったと考えられる。
秦の爵位は、20階級に分かれていて、戦場で敵兵を討ち取り、その首をとれば、一般兵士であっても、田と宅地が与えられ、爵位があげられた。そのため、兵士たちは、爵位を受けるため進んで敵を討ち取り、そのため、秦軍は精強をほこった。
秦兵が戦死した場合は、爵位は子孫に伝えられたが、脱走した兵士は「車裂き」になり、五人組であった「伍」の兵士たちも連座して処罰を受けた。
敵の首を一つとれば、爵位は一つあがるが、(下から)9級となる「五大夫(ごたいふ)」になることができるものは少なかった。敵の首をとれば、地位があがる制度であるため、秦軍が六国の軍に勝利した時、通常は捕虜となる兵士たちの首が数多くとられ、数万人規模の死者が生まれたという(特に白起(ハクキ)が討ち取った敵の数が多数)。
「官爵」は下から5級の「大夫(たいふ)」から20級の「徹侯(てつこう)」まで存在し、同じ地位に対応する「官職」が存在する。例えば、7級の「公大夫(こうたいふ)」は秦の県令と同じ待遇であり、20級の「徹侯」は秦の最高位の大臣である「三公」(丞相、太尉、御史大夫)と同じ待遇とされた。
「民爵」は、最下級の「公士」から4級の「不更(ふこう)」まで存在した。これに対する官職はなく、全てただの「卒」(兵卒)であり、5級以上から将校になることができた。
高い爵位を持つものは、「秦律」(秦の法律)によって、多くの特権を与えられた。
爵位の高いものは60歳ではなく、56歳で退役することができる上に、兵役・労役に服さなくていい、もしくは金銭や代わりとなる奴隷で免れる特権を得ることができた。
また、爵位によっては奴隷に暴力を加え殺害しても免罪され、罪を犯しても減免され、あるいは、金銭であがなうことができた。また、連座もまぬがれた。
秦では多くの人物が軍功により、広い土地と高い地位を得たため、李信の家のように、仕える王朝が代わってもその家は繁栄し続けた。
秦人の気質と関中の土地について
李信が生まれ育ち、仕えて、死ぬまでいたと思われる秦の国に住む人の気質と秦の土地柄については、『史記』貨殖列伝に詳しく記されている。
秦の存在した「関中(カンチュウ)」の地は、聖人と言われた周の文王と武王が統治した土地であり、そのため、その土地に住む人々は、勤勉で農作業につとめ、土地を大切にして、悪いことをしないように気をつかう気質だったという。
しかし、秦の発展により、次第に、咸陽に四方から人が集まるようになり、商人の増加とともに人口が増え、住民は農業よりも商工業につとめるようになったという。
「性悪論」で知られる儒者の「荀子(じゅんし)」は、「秦は天然の要害により囲まれ、物資は豊かであり、国内はよく統治されている。民衆は飾り気がなく、素朴であり、役人の指導に従っている。その役人たちは法律をきちんと守り、真面目に仕事をしている」と高く評価している。
ただし、荀子は、秦の欠点として、「儒教を無視しているのが短所である(法律に頼りすぎて、儀礼や道徳による教えを軽視している、という意味)」とあげている。
咸陽の西にある(李信が封じられたとされる)隴西の土地などは、異民族が多く、畜産物は豊かであった。
また、咸陽から見て南にある巴(ハ)と蜀(ショク)の地は、四方が険しい山にあるが、桟道(さんどう、山を歩くための道)で各地とつながっており、物の交易が盛んであった。巴と蜀は物資が豊かであり、馬や牛、銅・鉄・水銀・竹や木でつくった器物、奴隷なども交易に使われた。
この咸陽周辺と隴西、巴・蜀の地までを含む秦の本拠地である(広義の)関中の土地は、非常に豊かであり、土地は天下の3分の1にあたるが、人口は天下の3分の1に過ぎないのに、富は天下の10分の6を有すると言われた。
この豊かさをもって、関中を本拠地とした秦及び漢は天下を有することができるようになった。
秦はこのように純朴な民と豊かな物資により、各国に対して連勝し続けたものと考えられる。
なお、関中の地は灌漑の影響で、次第に土地に塩害が起きるようになり、後漢時代には豊かではなくなってしまい、食糧の生産力は落ちるようになった。
秦人に関する法律について
秦では一家は、家族とそれに仕える臣妾(しんしょう、奴婢のこと)がいることが多かった。一般庶民の家でも臣妾を有し、一家は平等ではなく、子が親に対し、臣妾が主人に対し、訴えることは許されなかった(ただし、自由に子や臣妾を殺害し、傷つけていいわけではなく、近隣の人々や里典(りてん、里の長)が訴えることはできた)。
当時の家屋のモデルケースによると、2部屋ある家屋に、夫婦と子2人、臣妾2人、犬が一匹いた。
なお、人々は、食事は1日3回とり、鶏が鳴く早朝に起きた。入浴は、顔や足は毎日洗ったが、頭は3日に1回、体は5日に1回洗ったと伝えられる。
個々の家は、「伍」制度により、五戸が一組となって、相互に犯罪の告発の義務と連帯責任が負わされていた。ただし、不正確な告発である場合は、告発者が罰せられた。
里典や里老は、叫び声があった場合、現場に駆け付ける義務があり、不在であっても事件が起きた場合、責任が問われた。
喧嘩などで相手を傷つけた場合、労役刑が課せられた。犯罪の報告文はしっかりとかかれた。
迷信も存在し、人々で生まれた日で赤子の運命を占い、「鬼(き、中国では幽霊のこと)」の存在を信じる人の多かった。
秦では法律は社会のすみずみまで行きわたっており、秦の法治を支えていたが、法律によって役人たちも不公平な裁判を行った場合、辺境の地に強制的に移住させられた。
秦の法治は厳しかったが、法による厳罰を前提にしておらず、ケースによって罰の重さは異なり、拷問で自白させるのではなく、理詰めで追い詰めることが求められた。拷問は、相手が強情で犯行が明白であり、かつ、法に照らして拷問の対象となった相手のみに許され、さらに、その場合は報告が求められ、役人の横暴はチェックされる形となっていた。
秦では必ずしも過酷な法律でガチガチに民衆をしばり、支配していたとは言い切れない部分も存在する。
秦軍の「指揮官」と「戦車」について
秦軍を率いる将軍などの指揮官について、創作作品の漫画では、馬に乗って、自ら武器を振るい、戦場を指揮することが多いが、史実では「戦車」に乗って指揮している。李信もまた、「戦車」に乗って軍を指揮したと考えられる。
「戦車」とは、戦争用につかわれた馬車のことで、秦軍では最も地位の高い兵種である。戦車一台につき、「車士」が三人が乗車する。秦代の戦車は馬が一頭立てであることが多く、この場合は二人が乗車した。
「車士」の中で、一名は「御史(ぎょし)」または、「車馭(しゃぎょ)」と呼ばれ、馬車を操縦する。一般の馬車は座って操縦したが、戦車の操縦は機敏な動きを要求されるため、立ったまま、馬車を操縦した。狙われやすいため、彼らの鎧は腕や足、首までを防御するものであった。
「御史」の爵位は3級以上であり、将軍の馬車を操縦する場合は、将軍に代わって指揮することもあった。そのため、将軍の「御史」の爵位は6級にまでのぼった。
「車士」のなかでも、「戦車」の右側に立ち、「矛(ほこ)」を持って直接戦う人物は「参乗(さんじょう)」または、「車右(しゃゆう)」と呼ばれる。一頭立ての戦車の場合は、乗らなかった。
「参乗」の爵位は4級以上であり、直接、戦闘を行うため、肩鎧(かたよろい)のついた防具を身につけて、長い柄を持った矛を振るって戦ったが、戦車に機動性が欠けるため、それほど活躍はできなかったとされる。
「参乗」としては、秦の次の時代であるが、漢の劉邦(りゅうほう)に仕えた樊噲(はんかい)などが有名である。
「車士」のもう一名である、「戦車」の左側に立ち、「弓」を使って遠距離から攻撃する人物は「乗長(じょうちょう)」または、「車左(しゃさ)」と呼ばれる。
「乗長」の爵位は5級以上であり、馬車の指揮も行った。将軍たち指揮官もこの役割にあたった。李信の家が弓術に長けていたのは、「騎射」ではなく、元々は「戦車からの射術」に長けていたためと思われる。
特に、指揮官が乗る戦車には、指揮官専用の「指揮車」があった。指揮官は4頭立ての指揮車に乗り、指揮車で軍を指揮し、作戦を指示した。
楚漢戦争までは、漢の劉邦は馬車の上で指揮を行ったが、機動力の劣る戦車は次第に廃れてしまい、馬車は次第に運搬用となった。漢代以降は、指揮官は、馬上で指揮するようになり、戦車兵はいなくなっている。
- 騎兵が主力の遊牧民との戦いに機動力が劣るため、対応できないこと
- 歩兵に射程距離が長い「弩(ど)」(クロスボウ)の保有が増えたため、狙われやすいこと
- 中国の戦争における戦場が、平原が多い中原ばかりでなく、丘や谷が多い地帯や沼が多い地帯が多くなり、戦車では自由に動けないこと
が挙げられる。
当時の下僕などについて
『キングダム(漫画)』では李信は戦災孤児であり、「下僕」の出身とされる。
この下僕とは、「親を失った平民の子供が、比較的豊かな村の長などに衣食住を与えられる代わりに使用人として働いている状態」を意味するものと思われる。
『キングダム(漫画)』の李信はそのまま大人になった場合、戦場で手柄を立てる予定であったようである。
秦では平民男子は、「名籍(個人の名や爵位、出身地の名簿)」や「戸籍」に登録される。平民は、やがては、一般兵士としての兵役が課せられ、秦には敵首をとれば、爵位を与えられる制度があるため、戦場での立身出世はあり得ない話ではない。
周では、犯罪者の妻子は国家が没収して、「奴婢(ぬひ)」にし、男性は労役、女性は米つきや炊事に従事させられた。奴婢はまた、借金によりなるものもいた
などがいた。
当時の中国における臣妾は余り農業には従事せず、危険な労役や酒造りなど家庭内労働を行い、労働力としては補助的な存在であった。
彼らは、銭で、売買して販売されるような立場であったが、借金により臣妾となった人物は、契約期間がきれることや、返済ができれば臣妾の身分から解放された。
「下僕」は身分としては平民であるが、労役や兵役の義務と(残っていれば)親の財産を継ぐまでは、あくまで使用人の立場であったものと考えられる。
当時の「弓」について
李信が長じていたと思われ、子孫の李広は間違いなく優れていた弓術について、李信や李広は「弩(ど)」(クロスボウ、石弓)ではなく、「弓」を使っていたものと思われる。
弓は、すでに当時、開発されていた弩に比べて、威力は劣るが、連発することができる。ただ、弓は個人の力量が大きくものをいい、弓の弦(げん)を引いたままにして、相手に命中させなければならず、かなりの腕力を技量が要求される。さらに、揺れる馬上や戦車の上で使うことは高度な技術が要求された。
弓の射程は約300メートルであったが、目視が必要なため、約100メートル先から射た。鉄の鎧をつけた相手には、約70~80メートル先から狙い、強弓である場合は、鉄の鎧をも貫いたと言われる。
弓は中国ではすでに神話の時代から存在したとされ、春秋時代には、楚の養由基(ヨウユウキ)という名手が知られ、前漢では李信の子孫にあたる李広が名を残している。
李広は、虎と間違えて石を射て、石を貫いたという伝承を有し、「漢の飛将軍」と呼ばれ、三国志の弓の名手と知られる呂布も(おそらく)李広にちなんで「飛将軍」と呼ばれた。
『三国志演義』で弓の名手とされる黄忠も李広のイメージが投影され
創作における李信
原泰久『キングダム(漫画)』
本作の主人公が李信であり、「信」として登場する。(第一話の冒頭で李信である事が解り、李信であることはすでに公式で発表されている)
元々は下僕の出身であったが、武芸をきたえて、立身して天下の「大将軍」となることを夢見ていた。ある事件により、秦の王である嬴政(後に秦の始皇帝、本作品の準主役)と知り合い、その友人として、秦の天下統一を目指して戦うことになる。
凄腕の暗殺者である羌瘣(キョウカイ)、山の民の王である楊端和(ヨウタンワ)と出会い、秦の将軍である蒙驁(モウゴウ)や王騎(オウキ)との出会いの中で成長を続け、年の頃が近い設定となった王賁や蒙恬らと共に、秦の実権を握る呂不韋(リョフイ)や、趙や楚などの六国と戦っていく。
李信は、武勇はすぐれ、「本能型」の武将としての多大な才能を有し、正義感と優しい心を有するが、思慮が浅い側面があり、仲間の助けを得て、戦争に勝利を重ねて、「天下の大将軍」を目指していく。
作品に登場する嬴政・羌瘣・楊端和・王賁・蒙恬・蒙驁・王騎・呂不韋らは、全て史書に登場する実在の人物をモデルとしているが、河了貂(カリョウテン)、壁(ヘキ、正確には史書の解釈違いから生まれた人物、昌文君(しょうぶんくん)の項目参照)などの架空の人物も多数、登場する。
関連書籍
「秦漢 雄偉なる文明 図説中国文明史4」(創元社)劉煒 (著)、 稲畑 耕一郎 (監修)、 伊藤 晋太郎 (翻訳)
秦については、史料が少ない上に、断片的であるため、一般向けに大系的にまとめられている書籍は案外ないが、こちらの書籍は、カラーであり、写真や図解が豊富なうえに、難しい漢字には「ふりがな」がふられているため、歴史の概説書の中では読みやすい。
また、おそらくは中国における学説をもとに推測もまじえて、秦の文化や法制度、建造物、軍事なども大系的にまとめられていており、歴史を理解するとともに、創作などで秦代を舞台にする作品を作る時はとても便利である。
漢代についても同じ書籍に記されているため、秦の文化などへの理解を補うためにも、とても役立てる。
この項目のうち、「秦の「大将軍」について」、「秦の軍の指揮系統について」、「秦の爵位について」、「秦軍の「指揮官」と「戦車」について」は主にこの書籍を参考にしている。
「武器と防具〈中国編〉」(新紀元社) 篠田 耕一
中国の歴史上における武器や防具ばかりでなく、攻城兵器、守城兵器、近代までの火器、戦車まで記されている書籍。
その武器や防具がどの時代から使われ、主にどの時代で使われたかまで記されており、武器や防具の構造についてもかなり詳しく説明されている。そのため、その時代のその武器が存在したかどうか、時代考証にも使えるため、創作の資料としても便利である。
また、その武器や防具の使用例や出典についても記されていることが多く、武器については架空を含めてその名手が紹介されている。
そういった意味でも、中国の歴史ものの創作にはかなり有用な書籍である。また、これを読めば、戦争の歴史や創作についてもより深く楽しむことができる。
この項目では、「当時の「弓」について」、は主にこの書籍を参考にしている。
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
子孫 |
関連人物 |
関連リンク
- 【外部】WEB YOUNG JUMP > 連載漫画一覧 > キングダム
- 【外部】キングダム資料集
- 【外部】『キングダム』 集英社ヴォイスコミックステーション-VOMIC- ※全8回のラジオドラマ
- 3
- 0pt