商品貨幣論とは、通貨の成り立ちや通貨の定義に関する学説の1つである。金属主義(Metallism)とも呼ばれる。
国定信用貨幣論とはあらゆる面で正反対の主張をしている。商品貨幣論と国定信用貨幣論の論争は1000年以上も続いてきた。
※日本の法律において「貨幣は金属を素材とする硬貨であり、通貨は紙幣と銀行券と貨幣を合わせた概念である」と定義されている。本記事ではできる限りその定義に従うことにする。
概要
通貨の成り立ち
商品貨幣論は「通貨は物々交換の商品から生まれた」と説明する。
原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった「商品」が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった。その代表的な「商品」が貴金属、とくに金である。これが、貨幣の起源である。
しかし、金そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量をもった金貨を鋳造するようになる。
次の段階では、金との交換を義務付けた兌換紙幣を発行するようになる。こうして、政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。
最終的には、金との交換による価値の保証も不要になり、紙幣は、不換紙幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす。
※『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】(ベストセラーズ)中野剛志』329ページから引用。同氏は、『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』110~112ページを参照して文章を書いている。
「原始社会で物々交換が行われてきたが、その不便さを解消するため基軸となる商品を通貨として扱うようになった」と論じたのは名高い経済学者であるアダム・スミスであり、『国富論』という有名な書でそう述べている。
その思想が現代まで延々と受け継がれている。N・グレゴリー・マンキューは著名な経済学者で、マクロ経済の教科書を書いたことで知られる。マンキュー教科書は世界中の経済学部で使用されているというが、そのマンキュー教科書で商品貨幣論が採用されている。
通貨の定義
商品貨幣論では「『市場に参加する人々が一様に欲しがる商品』が物々交換の基軸商品となり、次第に通貨になっていった」と説明され、さらに「『市場に参加する人々が一様に欲しがる商品』と確実に交換できる引換券が通貨の地位を占めた。その典型例は兌換銀行券である」と説明される。
そこで、「通貨とは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品か、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と確実に交換できる引換券」と定義することができる。
「古代の日本では米や絹や布が通貨として扱われていた。それらは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品だったので、通貨としての地位を得た」とか、「かつては世界中で金貨や銀貨や銅貨が貨幣として扱われていた。それらは金属からできていて、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品だったので、貨幣としての地位を得た」とか、「19世紀頃から金塊との引き換えを中央銀行が保証する兌換銀行券(兌換紙幣)が発行された。それらは市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と確実に交換できるから、通貨としての地位を得た」といった風に商品貨幣論の見地から説明される。
商品貨幣論のほころび
不換銀行券に対して苦戦する
商品貨幣論の最も疑わしい点は、不換銀行券(不換紙幣)を上手に説明できないところである。1971年8月15日のニクソンショックで金塊とアメリカ合衆国ドルの交換が停止されてからは世界中から兌換銀行券が姿を消して不換銀行券ばかりになった[1]。どこの国の不換銀行券も製造原価が17円程度の紙切れで[2]、金塊との交換など一切不可能である。そんなものに1万円とか100ドルといった価値が宿っている。
不換銀行券は、素材自体に価値がなくて「市場に参加する人々が一様に欲しがる商品」と言うことができないし、「市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と確実に交換できる引換券」と言うこともできない。
商品貨幣論の信奉者たちは、困ったので、共同幻想とか魔法とか信認といった言葉を駆使して不換銀行券を説明するようになった。
「不換銀行券は、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と同等の価値ある存在だと皆が共同幻想を抱いている。つまり、ただの紙切れに魔法がかかっている状態である。だから流通している」と説明してみたり、「不換銀行券は、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と同等の価値ある存在だと市場関係者に信認されている。だから流通している」と説明してみたりするのが商品貨幣論の不換銀行券への対処である。
池上彰は商品貨幣論の信奉者で、著書において「物々交換からお金が生まれた」と語っており、インターネット記事において共同幻想という言葉を使って不換銀行券を説明している(記事)。
原始社会の共同体内における物々交換が否定される
さらに、人類学者たちが「いろんな原始的共同体を調査したが、共同体の中で物々交換(barter)が行われている例を発見できなかった」と発表したことも商品貨幣論に対して大きな打撃となった。そのうちの1人がキャロライン・ハンフリーという英国の学者であり、彼女は1985年の論文でそう論じている。フランスのマルセル・モース、アメリカのジョージ・ドルトン、同じくアメリカのデヴィッド・グレーバーもそう述べている。
「原始社会は物々交換が行われていた」というのが商品貨幣論の大前提なのだが、それを人類学者たちが否定したことで商品貨幣論が大きく揺らぐことになった。
※この項の資料・・・『21世紀の貨幣論(東洋経済新報社)フェリックス・マーティン』16~17ページ、『負債論 貨幣と暴力の5000年(以文社)デヴィッド・グレーバー』34~64ページ、英語記事1、英語記事2、キャロライン・ハンフリーの1985年論文
他の理論の躍進を許す
このため商品貨幣論は他の貨幣理論の躍進を許すことになった。
「通貨とは政府の徴税債権の対象物である」と論じる国定信用貨幣論は、21世紀の世界各国で現金通貨に採用されている不換銀行券を説明するのに優れている。
商品貨幣論の特徴
「特定の商品を賞賛する心が通貨を生み出す」と説明する
商品貨幣論は「通貨とは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品」と定義する考え方である。
市場に参加する商人たちが英知を尽くして判断し、市場に出回っている数々の商品のなかから最も優れた商品を選び出す。相対的に最も優秀で、相対的に最も価値が高く、相対的に最も立派である商品が、商人たちの手によって選び出され、物々交換の基軸となり、通貨になる。
つまり「市場に参加する商人たちが一様に『とても優秀で、すごく価値が高くて、実に立派だ』と賞賛する商品が通貨になる」と説明している。もう少し言い換えると「市場に参加する商人たちの賞賛心(賞賛する心)が通貨を生み出す」ということになる。
国定信用貨幣論では「徴税権力に対する恐怖心が通貨を生み出す」と説明される。「恐怖心というネガティブな感情が通貨を生む」というのである。
その一方で、商品貨幣論は「特定の商品に対する賞賛心が通貨を生み出す」と説明される。「賞賛心というポジティブな感情が通貨を生む」というのである。
このように、「通貨を生み出す心理の根源は何であるか」という問いかけに対して、国定信用貨幣論と商品貨幣論は全く逆の答えを用意している。両者は鮮やかな対比を為している。
不換銀行券を兌換銀行券だと信じ込む努力をして、兌換銀行券幻想にひたる
商品貨幣論の信奉者は兌換銀行券幻想に浸ろうとする傾向を持っている。21世紀現在の世界各国で流通しているのは不換銀行券であるが、その事実に目をつぶり、あたかも兌換銀行券が流通しているかのように信じ込もうとする。
不換銀行券が流通している世界の中で兌換銀行券が流通していると信じ込む心理は「兌換銀行券幻想」と呼ぶことができる。
中央銀行が発行する不換銀行券は、中央銀行の負債として発行されている。ただし、中央銀行は「不換銀行券を差し出された際に資産を提供する義務」を無期限に延期している。ゆえに中央銀行にとって不換銀行券は「負債性が極度に薄まった負債」であり、中央銀行の経営を全く圧迫しないものである。
中央銀行が発行する中央銀行預金は、中央銀行の負債として発行されている。ただし、中央銀行は中央銀行預金と交換に提供するものを不換銀行券だけに限定しており、中央銀行預金と引き換えに何らかの資産を提供する義務を抱えていない。ゆえに中央銀行にとって中央銀行預金は「負債性が極度に薄まった負債」であり、中央銀行の経営を全く圧迫しないものである。
商品貨幣論の信奉者は、こうした事実に目を背け、「中央銀行は、銀行券や中央銀行預金といった通貨を発行しすぎると経営の負担になる」だとか、「中央銀行の貸借対照表(バランスシート)において、銀行券や中央銀行預金といった負債が膨らんで負債の部が資産の部よりも大きい額となる債務超過になったら、中央銀行が破綻する」と論じる傾向にある。
つまり、商品貨幣論の信奉者は、中央銀行が発行する不換銀行券を兌換銀行券だと信じ込んでいるのである。または、中央銀行が発行する中央銀行預金を「兌換銀行券と交換できる中央銀行預金」と信じ込んでいるのである。
中央銀行が兌換銀行券や「兌換銀行券と交換できる中央銀行預金」を負債として発行しているのならば、負債の部が巨額になって資産の部を上回る債務超過になったら経営破綻する。ところが、21世紀現在において中央銀行が負債として発行しているのは不換銀行券や「不換銀行券と交換できる中央銀行預金」なので、負債の部の額がどれだけ巨額になろうが中央銀行は一切の引き換えに応じる義務がなく、経営破綻することがあり得ない。
商品貨幣論の信奉者は「21世紀現在、世界各国で流通しているのは確かに不換銀行券だ。しかし、みんなが不換銀行券のことを兌換銀行券であると共同幻想を抱くことで、不換銀行券がみんなに通貨として信認され、通貨として流通しているのだ。不換銀行券を兌換銀行券と信じ込むのは通貨を使用する人々にとっての義務のようなものだ」といった主張を心の中で構築することになる。
商品貨幣論の信奉者の一部は、通貨を流通させて経済を安定させる目的で、不換銀行券を兌換銀行券のように扱っている。
兌換銀行券幻想の副作用として国債恐怖症に感染する
不換銀行券が流通する国において商品貨幣論の信奉者は兌換銀行券幻想を持ち続けることになるが、その副作用として国債恐怖症を発症するようになる。
国債恐怖症を発症すると、「日本は財政破綻する」と叫んだり、「国債は子孫を苦しめる」と叫んだり、緊縮財政をしてプライマリーバランスを大幅に黒字化して国債発行残高を減らそうとしたりする。
実際の日本国債は自国不換銀行券建て国債なので、日本銀行が通貨発行権を駆使すれば簡単に財政破綻を逃れることができる。
また、実際の日本国債は自国不換銀行券建て国債なので、「日銀の金融調整の道具」「経済の状況を示す指標」「民間人が貸出金利を決めるときの便利な指標で、ある種のインフラ[3]」といった程度の存在であり、減らす必要性がない。
商品貨幣論を信奉する者が兌換銀行券幻想に浸りつつ国債恐怖症を発症して「国債は子孫を苦しめる」と語るときはまさに迫真であり、「国債を発行することによって子孫にツケを回し、子孫への増税を招く。国債は子孫からお金を奪い取っているのであり、子孫に対する犯罪行為である。国債発行はまことに罪深い」などと言い、国債発行を主張する政治勢力に罪悪感を植え付けるように懸命に語りかける。
人というのは、自分の行動で他者が楽になると考えると大喜びし、自分の行動で他者が苦しむと考えると罪悪感を感じて苦悩する。罪悪感を強調して人の行動を誘導することを得意とするのは統一教会などのカルト宗教団体だが[4]、兌換銀行券幻想を信じて国債発行を制止しようとする人たちも得意としている。
実際の日本国債は自国不換銀行券建て国債である。日本政府は日銀法第4条に基づいて日銀と協力して国債の借り換えを行うことができる。ゆえに国債発行で子孫が苦しむわけではない。
兌換銀行券幻想の副作用としてリカードの等価定理を主張する
不換銀行券が流通する国において商品貨幣論の信奉者は兌換銀行券幻想を持ち続けることになるが、その副作用としてリカードの等価定理を信じるようになる。
リカードの等価定理とは、「国債を発行して得た資金でA円の給付金を与えて消費を活性化させようとしても、国債の返済のために将来に増税されることを国民が予感し、A円の給付金に関する限界消費性向MPCが0になって限界貯蓄性向MPSが1になり、国民がA円をすべて貯蓄して消費が全く増えず、閉鎖経済の国ならA円だけ投資が増え、大国開放経済の国なら投資や純輸出が増えてその両方の増加額の合計がA円になり、小国開放経済の国ならA円だけ純輸出が増える」という内容の理論である。
リカードの等価定理に近い主張をしているのは幸福実現党であり、「バラマキが増税をまねく」という言葉を2022年の選挙のポスターに採用している。
実際の日本国債は自国不換銀行券建て国債である。日本政府は日銀法第4条に基づいて日銀と協力して国債の借り換えを行うことができ、税金で国債を返済する必要に迫られることがない。ゆえに国債発行で将来に必ず増税が起こるわけではない。
兌換銀行券幻想の副作用として「国債を売り浴びせられたら日本政府が困ってしまう」と主張する
不換銀行券が流通する国において商品貨幣論の信奉者は兌換銀行券幻想を持ち続けることになるが、その副作用として「国債を売り浴びせられたら日本政府が困ってしまう」と信じるようになる[5]。
「長期金融市場の国債市場に参加する商人たちの怒りを買ったら、国債を片っ端から売り浴びせられてしまい、国債の価格が下落し、国債の利回りが上昇し、長期金利が上昇してしまい、世の中の住宅ローンや自動車ローンの金利が上昇し、民間の経済活動を阻害し、民間の経済活動が低調となって日本政府が困ってしまう」というものである。
実際の日本では、中央銀行が不換銀行券や「不換銀行券と交換できる中央銀行預金」を通貨として発行しているので、国債を売り浴びせられても中央銀行が無限に通貨発行して国債をすべて買い取ることができ、国債の価格を好きなように維持することができ、日本政府が困ることがない。
兌換銀行券幻想の副作用として「中央銀行は政府から独立すべき」と訴える
不換銀行券が流通する国において商品貨幣論の信奉者は兌換銀行券幻想を持ち続けることになるが、その副作用として「中央銀行は政府から独立しているべきである」と主張するようになる。
「政府が中央銀行に対して影響力を与えて、中央銀行に通貨発行権を行使させて資金供給オペレーションをさせて、国債市場に参加する企業・銀行の余剰資金を増やさせて、そのあとに国債を発行して~」と言うと、即座に「中央銀行は政府から完全に独立しているべきだ」と言い放ち、「政府が中央銀行に影響力を与えても良いという考えは、まさしく暴論で、とても過激だ」と激しく非難してくる人たちがいる[6]。
そういう人たちをあえて命名すると「中央銀行の独立性をとても重視する人たち」となる。彼らは中央銀行が政府に対して従属することを非常に恐れているので、「中央銀行が政府に従属することに対する恐怖症を煩っている人たち」とでも言うべきだろうか。
実際の日本には、日銀法第4条という法律が制定されていて、「日銀は政府の経済政策の基本方針に整合的な金融政策を実行する組織である」と規定されており、政府の影響をかなり強く受ける組織である。そういう法律があるにも関わらず、「中央銀行の独立性をとても重視する人たち」は、とても熱心に中央銀行の独立を主張する。
「中央銀行の独立性をとても重視する人たち」の原動力も、やはり商品貨幣論である。「不換銀行券は人々の共同幻想で通貨の地位を得ている」という商品貨幣論特有の考え方から、「人々の共同幻想を何が何でも維持せねばならない」と張り切っている。
「政府の意向があっても中央銀行が通貨を簡単に発行することができないという姿を見せておくと、通貨が金塊か何かのように見えるので、人々の共同幻想を維持できる」とか「政府の意向で中央銀行が通貨を簡単に発行する姿を見せてしまうと、通貨が紙切れか何かのように見えてしまい、人々の共同幻想が崩れる」といったように考えるようになる。
小学校低学年程度の子どもを持つ家庭は世の中に多く存在するが、その中には「サンタさんが実在する」という子どもの幻想を維持しようと懸命に努力を重ねる家庭がある。子どもの幻想を維持するため子どもに対して細心の注意を払っており、とても微笑ましい。
商品貨幣論の信奉者も、それと同じぐらい懸命に努力を重ねている。人々の共同幻想を維持するため人々に対して「政府は中央銀行に対して一切影響力を与えていない」と装うなど細心の注意を払っている。麻生太郎副総理兼財務大臣が国会で「これだけ大量に国債が発行されて、普通だったら、おっしゃるように信用がなくなったら金利が上がらなきゃおかしいですね。どうして下がるんですかね」とすっとぼける答弁をしているが[7]、これは典型的な例である。
小学校低学年程度の子どもの「サンタさんが実在する」という幻想を維持しようと努力する両親は、もちろん、サンタさんの存在を本気で信じているわけではない。サンタさんなどこの世にいないことを冷静に受け止めていることが多い。
民衆の「政府は中央銀行に対して一切影響力を与えていない」という幻想を維持しようと努力する人たちも、中央銀行の独立の重要性を本気で信じているわけではない。日銀法第4条によって日銀が政府の経済政策の基本方針に整合的な金融政策を行う組織になっていることを冷静に受け止めていることが多い。「中央銀行の独立性が大事だ」と力強く主張するのに「日銀法第4条を削除・改正して日銀の独立性を高めよう」と主張しない人が多く見られる。
兌換銀行券幻想の副作用として均衡財政論を支持する
不換銀行券が流通する国において商品貨幣論の信奉者は兌換銀行券幻想を持ち続けることになるが、その副作用として均衡財政論を支持するようになる。
均衡財政論とは、「政府は税収の範囲内に支出を抑制すべきだ」というものであり、代表的な論者はジェームズ・マギル・ブキャナン・ジュニアである。
一般の家庭では家計簿を付けていて、収入と支出を均衡した状態や、収入の方が支出よりも多い黒字の状態を目指す。均衡財政論の支持者は「家計簿を作るときのように地方公共団体の財政や政府の財政を考えましょう」と提案することを好むのだが[8]、そうした姿を家計簿財政という。
兌換銀行券幻想の副作用として中央銀行や政府の通貨発行権を軽蔑する
不換銀行券が流通する国において商品貨幣論の信奉者は兌換銀行券幻想を持ち続けることになるが、その副作用として、中央銀行や政府の通貨発行権を利用する政策を軽蔑するようになる。
商品貨幣論は「通貨とは、市場に集まる民間商人たちが一様に欲しがる商品である」という説であるが、当然のことながら、そうした商品を軽々しく創造することはできない。
金塊を無から創造することはできない。金塊を手にするには、地球上のさまざまな鉱脈を調査し、地面を掘って鉱石を集め、鉱石を製錬するという大変な手間暇がかかる。
このため、商品貨幣論の信奉者は、中央銀行や政府による通貨発行権をあまりよく理解できない。「通貨というのは金塊のようなものだ。そして金塊を無から創造するなんて不可能だ。ゆえに新たに通貨を発行するのは軽々しくできるものではない」と考える傾向にある。
商品貨幣論の信奉者の目には、通貨発行権というものが、極めて不正でまことにいかがわしく非常に怪しげなものだと映る。このため、通貨発行権を利用した経済政策に対して「打ち出の小槌」「錬金術」「金の成る木」という蔑称を与える傾向がある。
ひどい場合は「劇薬」「カンフル剤」「麻薬」「覚醒剤」「依存症をもたらす」という蔑称が通貨発行権を利用した経済政策に与えられることがある。ちょっと言いすぎではないだろうか。
商品貨幣論の信奉者が「通貨発行権に頼らない自分は、正しく、まっとうで、清らかで、高潔である」と誇らしげに語る姿は、たまに見られる。
商品貨幣論の利用価値
商品貨幣論というのは利用価値の高い理論である。
商品貨幣論を信奉する人は兌換銀行券幻想を作りあげてその中に入り浸るようになる。兌換銀行券幻想に入り浸る人は国債のことをはなはだ恐れるようになり、国債恐怖症を発症する。
国債恐怖症を発症した人は緊縮財政を盛んに支持するようになる。緊縮財政を実行すると財政政策が縮小してクラウディングアウトの逆となって実質利子率が下落し、企業が借り入れする際の利払い費用が減り、企業が税引後当期純利益を増やしやすくなり、株主資本主義者にとって好ましいことになる。
株主資本主義が実践されて企業の体力が増強されると自由貿易に対応できるようになり、自由貿易を絶対的に支持する新自由主義者にとって極めて好都合なことになる。
以上のようにたどれば明白なように、新自由主義者や株主資本主義者にとって商品貨幣論は非常に利用価値の高い理論である。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想
この項目は、商品貨幣論の分析から少し離れています |
商品貨幣論と「物々交換こそが経済の原型である」という思想は表裏一体
商品貨幣論と「物々交換こそが経済の原型である」という思想は非常に親和性が高い。
商品貨幣論が「物々交換こそが経済の原型である」という思想を作り出しているのか、あるいは逆に「物々交換こそが経済の原型である」という思想が商品貨幣論を作り出しているのか。これはどちらも否定しがたく、どちらの考えも有力である。
本項目では、商品貨幣論に関する理解を深めるため、「物々交換こそが経済の原型である」という思想について分析する。
貸借対照表で「物々交換で成立している原始共同体」を考える
「物々交換で成立している原始共同体」のことを貸借対照表で考えてみよう。「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持つ人は、「物々交換で成立している原始共同体」というものが世界に実在すると主張している。
原始共同体の中で、弓を作るのが上手いAさんが弓を2つ持ち、サンダルを作るのが上手いBさんがサンダルを2足(2セット)持っていて、AさんとBさんが弓1つとサンダル1足を物々交換するとする。
弓を作るのが上手いAさんの貸借対照表は、物々交換を境として次のように変化する[9]。
物々交換前のAさん | 物々交換後のAさん | |||
資産の部 | 負債の部 | 資産の部 | 負債の部 | |
弓2つ | 弓1つ | |||
サンダル1足 |
サンダルを作るのが上手いBさんの貸借対照表は、物々交換を境として次のように変化する。
物々交換前のBさん | 物々交換後のBさん | |||
資産の部 | 負債の部 | 資産の部 | 負債の部 | |
サンダル2足 | サンダル1足 | |||
弓1つ |
このように、Aさんの貸借対照表もBさんの貸借対照表も、資産の部だけが変化していて、負債の部はずっと空白のままで変化しない。
物々交換は負債が発生しない取り引きということがわかる。「物々交換で成立する世界」というものは「負債を抱える人が存在しない世界」ということになるし、「すべての人の資産総額と純資産総額が同一の世界」ということになるし、「すべての人の自己資本比率が100%の世界」ということになる。
貸借対照表で「借りパクで成立している原始共同体」を考える
一方で、「借りパクで成立している原始共同体」を貸借対照表で考えてみよう。「借りパクで成立している原始共同体」というものは古今東西の各地で見られるものである。詳しくは信用貨幣論の記事を参照されたい。
原始共同体の中で、弓を作るのが上手いAさんが弓を2つ持ち、サンダルを作るのが上手いBさんがサンダルを2足(2セット)持っていて、AさんがBさんのサンダル1足を借りパクするとする。
弓を作るのが上手いAさんの貸借対照表は、借りパクを境として次のように変化する。
借りパクする前のAさん | 借りパクした後のAさん | |||
資産の部 | 負債の部 | 資産の部 | 負債の部 | |
弓2つ | 要求があったら弓2つを差し出す債務 | 弓2つ | 要求があったら弓2つを差し出す債務 | |
サンダル2足を要求できる債権 | サンダル1足 | 要求があったらサンダル1足を差し出す債務 | ||
サンダル1足を要求できる債権 |
サンダルを作るのが上手いBさんの貸借対照表は、借りパクを境として次のように変化する。
借りパクされる前のBさん | 借りパクされた後のBさん | |||
資産の部 | 負債の部 | 資産の部 | 負債の部 | |
サンダル2足 | 要求があったらサンダル2足を差し出す債務 | サンダル1足 | 要求があったらサンダル1足を差し出す債務 | |
弓2つを要求できる債権 | 弓2つを要求できる債権 | |||
サンダル1足を要求できる債権 |
このように、AさんもBさんも、資産の部と負債の部の両方が変化している。「借りパクで成立している原始共同体」は、全ての構成員が債権・債務と隣り合わせになって生きており、全ての構成員が頻繁に債権を主張したり債務を背負ったりする世界である。
負債恐怖症の人たちに支持される
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する物が増えたり減ったりするだけの世界が経済の原型である」と考えるものであり、「負債を全く抱えずに通貨などの資産を持っているだけの状態が人類にとって本来の姿だ」という思想をもたらす。
世の中には負債を恐れる人たちがいる。「負債は身を滅ぼす」「ひとたび借金すると借金取りのヤクザが家にやってきて平和を破壊され、暴行・脅迫を伴った苛烈な取り立てに悩まされ、人身売買されて外国に売り飛ばされ、日本の地を二度と踏めなくなる」といった具合に、負債や借金を極度に恐れる人たちである。そういう人たちは負債恐怖症をわずらった人たちと言うことができる。
実際は、いくらヤクザであっても、暴行・脅迫を伴う借金取り立てをするのはなかなか難しい[10]。
現実はどうであれ、負債・借金を恐れる負債恐怖症の人は数多く存在する。そうした人たちにとって、「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、危険きわまりない負債というものを根本から否定してくれる思想であり、とてもありがたいものである。
リバタリアニズムを生む
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する生産物が増えたり減ったりするだけの世界が、経済の原型である」と考えるものである。そうした世界では、人々が債権・債務と隣り合わせになっていない。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想が強くなると、「負債を全く背負っていない状態が人間の本来の姿だ」という思想が生まれる。
「負債を全く背負っていない状態が人間の本来の姿だ」という思想を持っていると、「誰かによって負債を先天的に課せられているのは、とても異常なことで、とても悪いことだ」と考えるようになる。そして、税金や「政府・国家に対して貢献する義務」を強烈に批判する精神を生み出す。
税金や「政府・国家に対して貢献する義務」を強烈に批判する人たちのことをリバタリアン(リバタリアニズム信奉者)という。
以上をまとめると、「物々交換こそが経済の原型である」という思想は「先天的に課せられる負債」を否定できる思想であり、リバタリアニズムと非常に相性が良い、となる。
インフレ恐怖症を生む
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する物が増えたり減ったりするだけの世界が経済の原型である」と考えるものであり、「負債を全く抱えずに通貨などの資産を持っているだけの状態が人類にとって本来の姿だ」という思想をもたらす。
「負債を全く抱えずに通貨などの資産を持っているだけの状態が人類にとって本来の姿だ」という思想は、「すべての人が『通貨を保有していて金銭負債を抱えていない人』である」という錯覚を生み出す。
企業は銀行から通貨を借りて機械を買って生産し、家計は銀行から通貨を借りて車を買って通勤するものであり、世の中には金銭負債を抱えている人が多いというのが現実だが、その現実に反して、「世の中には『通貨を保有していて金銭負債を抱えていない人』だけが存在している」という錯覚を持ちやすくなる。
インフレというのは通貨の価値が下がる現象であり、「通貨を保有していて金銭負債を抱えていない人」の財務状況が悪くなり、「通貨を保有しつつ金銭負債を抱えていて、保有通貨の額が金銭負債の額よりも多い人」の財務状況がやはり悪くなり、「通貨を保有しつつ金銭負債を抱えていて、保有通貨の額と金銭負債の額が等しい人」の財務状況が全く変化せず、「通貨を保有しつつ金銭負債を抱えていて、保有通貨の額よりも金銭負債の額が多い人」の財務状況が良くなる(詳しくはインフレーションの記事を参照のこと)。
ところが、「世の中には『通貨を保有していて金銭負債を抱えていない人』だけが存在している」という錯覚を持っていると、「インフレによってその通貨圏の中で暮らす全員の財務が悪化する。インフレは通貨圏に属する全員にとっての重大な損失である」という錯覚を引き起こし、インフレ恐怖症へ突き進んでいくことになる。
「インフレになると、一部の人が損をして、一部の人が損得無しで、一部の人が得をする。全員が損をするわけではない」と言って聞かせても、かたくなに「インフレは通貨圏に属する全員にとっての重大な損失である」と言い張るようになる。
「物権こそが経済を考える上での出発点なのだ」という思想が生まれる
「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持つ人は「物々交換で成立している原始共同体」というものの存在を強く支持する。
この「物々交換で成立している原始共同体」とは、構成員が個人として独立していて、構成員同士が相互の物権を尊重する社会である。
物権というのは財産権の1つである。財産権というものは物権と知的財産権と債権の3つに大別することができ、物権の代表は所有権である。
ちなみに、所有権を尊重する考えというものは近代以降のものである。17世紀の英国の思想家ジョン・ロックが所有権を尊重することを述べ、1789年フランス人権宣言の第17条で「所有権は神聖不可侵」としており、1804年ナポレオン民法典の第544条で所有権の絶対性を確立した[11]。このナポレオン民法典は民法の手本として世界各国に伝播していった。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持つ人は、「人類は物権とともに生まれた」といった感覚を持っている。そのため「物権こそが経済を考える上での出発点なのだ」という信条を持ちやすい。
一方、21世紀の人類学者たちは「借りパクで成立している原始共同体」の存在を強く主張している。構成員が個人として独立しておらず、構成員が相互の物権を尊重しない社会が原始共同体の姿だったのだ、と語っている。それぞれの構成員は多くの債権を持ちつつ多くの債務を負っていて、構成員同士が債権・債務の関係で密接に結びついているのが原始共同体だったと論じている。
21世紀の人類学者たちのいうことをそのまま受容すると、「借りパクこそが経済の原型である」という思想を持つことになり、「人類は債権とともに生まれた」といった感覚を持つことになり、「債権こそが経済を考える上での出発点なのだ」という信条を持ちやすい。そして信用貨幣論や国定信用貨幣論のような「通貨というものは債権・債務の関係から生まれるのだ」という論理を支持するようになっていく。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は物権重視主義であり、「借りパクこそが経済の原型である」という思想は債権重視主義であって、両者は水と油のように正反対であることが分かる。
物権と債権は、同じ財産権であるが様々な点で対照的な性質を持っている。そのことについては債権の記事を参照のこと。
直接金融の「株式の発行による資金調達」に対する偏重を生む
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する物が増えたり減ったりするだけの世界が経済の原型である」と考えるものであり、「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想をもたらす。
ここまではいつもと同じである。
企業が資金を調達する方法のなかの主要な方法は、大別すると3通りがある。1つは間接金融の銀行融資で、銀行から借り入れるものである。1つは直接金融の債券売却で、社債やCP(コマーシャルペーパー 短期社債)を発行して債券市場に売却し市場関係者から資金を集めるものである。そして最後の1つは直接金融の株式売却で、株式を発行して株式市場に売却し市場関係者から資金を集めるものである。
銀行借り入れと社債発行は、企業にとって、貸借対照表(バランスシート)の資産の部の数字と負債の部の数字が同時に増える現象である。資産の部には「銀行預金●円」と書いて、負債の部には「長期借入金◆円」などと書く[12]。仕訳するなら借方に「銀行預金●円(資産)」、貸方に「長期借入金◆円(負債)」などと書く。
一方で株式発行は、企業にとって、貸借対照表の資産の部の数字と純資産の部の数字が同時に増える現象である。資産の部には「銀行預金●円」と書いて、純資産の部には「資本金◆円」と書く。仕訳するなら借方に「銀行預金●円(資産)」、貸方に「資本金◆円(純資産)」と書く。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持って「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想を抱えている人は、「企業にとって株式を発行して資金を調達することが本来の姿だ」という発想に至りやすい。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持って「すべての人の自己資本比率が100%である状態が人類にとって本来の姿だ」という思想を抱えている人は、「企業にとって、株式を発行して資金を調達して自己資本比率を100%にまで引き上げることが本来の姿だ」という発想に至りやすい。
そして、「間接金融から直接金融に転換しよう」とか「貯蓄から投資へ」といった標語を掲げ[13]、株式を発行して資金を調達することを奨励するようになる。
間接金融にも長所があり、見直されるべきところがある。間接金融だと貸し手の銀行と借り手の企業の間で地域経済や周辺産業や為替レートや外国事情に関する情報の交換が濃密に行われ、企業の情報コストが安くなり、企業が情報を安価に入手できる[14]。間接金融だと、企業が銀行から資金と情報の両方を調達する状態になるので、企業の成長を促す環境が整備されやすい。
直接金融の「社債を発行して資金調達」は、社債保有者と企業の間で濃密な情報交換が行われる可能性が低い。直接金融の「株式を発行して資金調達」においても、株主と企業経営者の間で濃密な情報交換が行われる可能性があまり高くない。直接金融は、企業に情報を供給して企業を育てるという機能がやや弱い。
セイの法則が導かれる
「物々交換こそが経済の原型である」という思想からセイの法則(セーの法則、販路法則)という経済理論が発生する、と論じられることがある(記事)。
セイの法則とは、フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイが提唱したもので、「供給はそれ自体が需要を作り出す」と説明される考え方である。
ちなみに、経済学の大きな流れを大雑把に説明すると、「セイの法則はサプライサイド経済学を生みだし、サプライサイド経済学は新自由主義(市場原理主義)の源流の1つとなった」となる。
銀行の融資方法として又貸し説を支持するようになる
A銀行がBに融資するときのA銀行は「Bと連名で証書を作ってBに対する金銭債権を確実に得てから、負債として銀行預金を発行してBに銀行預金を与える」という形式を採用している。これを信用創造(預金創造)という。
BがA銀行に対して「与えられた銀行預金を現金にしたい」と申し出た場合、A銀行は短期金融市場の銀行間取引市場のコール市場へ参加して日銀当座預金を他の銀行であるC銀行から借用し、借りてきた日銀当座預金を現金に換えて、その現金をBに渡している。A銀行にとって、Bに対する金銭債権の金利とC銀行に対する金銭債務の金利の差額が収入源となる。
BがA銀行に対して「与えられた銀行預金をD銀行の口座に振り込みたい」と申し出た場合、A銀行は短期金融市場の銀行間取引市場のコール市場へ参加して日銀当座預金を他の銀行であるC銀行から借用し、借りてきた日銀当座預金をD銀行に送金している。A銀行にとって、Bに対する金銭債権の金利とC銀行に対する金銭債務の金利の差額が収入源となる。
BがA銀行に対して「与えられた銀行預金をEに振り込みたい。EはA銀行に口座を持っている」と申し出た場合、A銀行はBの銀行預金を減らしてEの銀行預金を増やしている。A銀行にとって、Bに対する金銭債権の金利とEに対する金銭債務の金利の差額が収入源となる。
以上が、21世紀現在における世界各国の市中銀行が行う融資の方法である。
ところが、この現実どおりに教育をしない人物がいる。N・グレゴリー・マンキューという経済学者で、彼の書いた教科書は世界中で採用されているのだが、その教科書の中の至る所に「銀行は、預金者から集めた現金を貸し出している」という記述が記載されている。この説明を又貸し説という。
N・グレゴリー・マンキューや、マンキュー教科書を採用する経済学者たちが、又貸し説を好むことの理由は謎に包まれている。経済学の七不思議の一つと言いたくなるほどである。
その理由をあえて挙げるならば、「『物々交換こそが経済の原型である』という思想を信じているから」となる。「物々交換こそが経済の原型である」という思想に染まりすぎると、債権・債務の関係性を分析して経済の事象を説明しようとする気運がやや薄れてしまう。その結果として、債権・債務のことをあまり深く考えない又貸し説を好むようになる。
商品貨幣論の信奉者たち
古くはアリストテレスが『政治学』で商品貨幣論を述べた。
17世紀になって、イギリスのジョン・ロックが商品貨幣論を提唱した。『統治二論』という著作に商品貨幣論についての記述がある。さまざまな場所で「貨幣の価値は金属の価値によって決まる」「貴金属の量だけしか貨幣を発行できない」と論じた。ジョン・ロックの時代は重金主義(重商主義)の全盛期で、「国家の国力は、所有する金属の量によって決まる」と多くの人に論じられていたが、ジョン・ロックもそのうちの一人であった。また、ジョン・ロックは銀貨を改鋳して銀貨の質を高める政策を提唱して、大規模なデフレ不況を引き起こしている。
18世紀イギリスにはアダム・スミスが登場し、『国富論』で「原始社会は物々交換があり、そこから基軸となるべき商品が貨幣となっていった」と論じた。アダム・スミスの商品貨幣論は現在の経済学者たちによって引き継がれていくことになる。
日本の商品貨幣論(金属主義)の信奉者というと、新井白石とされる。当時、勘定奉行の荻原重秀が貨幣の改鋳を行い、金貨の質を落としてインフレに導いていた。新井白石はこれに猛反発し、「金貨の質を落とすのは、国家の威信を落とす」と発言し、荻原重秀を追放して貨幣の再改鋳をして、金貨の質を高めている。貨幣の再改鋳をして2年後に徳川吉宗が将軍になり、新井白石は引退させられることになるが、徳川吉宗は新井白石の作った金銀をそのまま20年間継承した。徳川吉宗の時代は庶民がデフレ不況に苦しんだ。
江戸時代の小判のサイズや金塊含有量を表にしてまとめるとこうなる。
時期 | 名称 | サイズ(g) | おおよその金含有量(g) | 発行開始時の権力者 | 備考 |
1601~ | 慶長小判 | 17.76 | 14.97 | 徳川家康 | |
1695~ | 元禄小判 | 17.76 | 10.19 | 荻原重秀 | インフレをもたらした |
1710~ | 宝永小判 | 9.33 | 7.86 | ||
1714~ | 享保小判 | 17.76 | 15.41 | 新井白石 | 1716年に徳川吉宗が継承、1736年まで発行 |
ジョン・ロックも新井白石も「貨幣の質を高めるべき」と言い、通貨価値を高めて、デフレ不況を引き起こしている[15]。
暗号資産(暗号通貨、仮想通貨)
暗号資産の性質
インターネットが高速化した2010年代以降になって暗号資産(暗号通貨、仮想通貨)というものが発達してきた。特に有名なものがビットコインである。
暗号資産はインターネットに接続したコンピュータでマイニング(mining 採掘)という数値処理をすると生成される。生成量が増えるとマイニングが難しくなるのであまり多く生成させることができない。希少性を重視している。
暗号資産は金塊に非常によく似た存在といえる。どちらも、新規創出をマイニング(mining 採掘)と表現するし、どちらも希少性が非常に高い。暗号資産のことをデジタルゴールドと呼ぶ人も多い。
暗号資産は「コンピュータゲームの中の希少アイテム」に似ている。どちらもコンピュータによって生成されるものであり、どちらも生成させるのに時間がかかって希少性が高い。
負債ではなく資産
信用貨幣論の見地からすると、「暗号資産は通貨に該当しない」となる。信用貨幣論は「通貨は負債を表すデータである」と定義するのに対し、暗号資産は確かにデータなのだが、「誰かの負債」として発行されているのではなく、「誰かの資産」として生成されている。
ビットコインなどは、国際会議でも、日本の法律でも、暗号資産(Crypto Assets)と呼ばれるようになってきた。
商品として扱われている
暗号資産は、商品貨幣論の見地からすると通貨になるかもしれない存在である。
暗号資産は金塊によく似た存在で、ネット上において多くの人に高値で売買されている商品である。商品貨幣論の支持者の一部にとっては、「新たなる通貨の到来だ」という印象を受けるだろう。
ただ、暗号資産というのは「非常に難しい計算問題の答え」といった程度の存在なので、全く価値を感じない人の方が圧倒的に多い。商品貨幣論は「通貨は、市場に参加する全員に欲しがられる商品である」というものである。商品貨幣論の見地からも、通貨に該当しなさそうである。
政府が通貨発行益を得られない
暗号資産は、国定信用貨幣論の見地からすると、政府がその気になれば通貨にすることができる存在である。国定信用貨幣論は「政府が徴税すれば、その対象物が自動的に通貨になる」という考え方である。
ただ、暗号資産は希少性が極端に高く、政府ですら簡単に生成させることができない。政府にとって、暗号資産を通貨にしているようでは通貨発行益(シニョレッジ)を得られず、政府購入を増やせず、軍事的危機や経済的危機に対応できない。それゆえ、わざわざ暗号資産を通貨に採用する政府は極めて少ないと思われる。
2021年6月8日にエルサルバドルがビットコインを法定通貨に採用したが、それに続く国は2021年10月の時点でまだ出現していない。エルサルバドルは、自国通貨があまり定着せず米ドルを通貨に採用している国であり、ドル化の国である。
まとめ
暗号資産は、信用貨幣論との親和性が全くない。
暗号資産は、商品貨幣論との親和性が、ちょっとだけある。
暗号資産は、国定信用貨幣論との親和性が、ほとんどない。
関連動画
関連リンク
Wikipedia記事
コトバンク記事
関連項目
脚注
- *1971年8月15日の時点で兌換銀行券だったのはアメリカ合衆国ドルだけだった。ちなみに、1933年4月5日から1971年8月15日までのアメリカ合衆国ドルは、外国政府に対して金塊兌換に応じていたが、米国民に対して金塊兌換に応じていなかった。ゆえに、この期間のアメリカ合衆国ドルは兌換銀行券でもあり不換銀行券でもあるという二重の性質を持っていた。詳しくは金本位制の記事を参照のこと。
- *2011年度において日本銀行券の製造原価は1枚17円程度だった。『日本銀行(筑摩書房)翁邦雄』100ページ
- *例えば、銀行が民間の個人・企業に30年間の貸し出しをするときの利子を決めるときは、新規発行の30年物国債の利回りを参考にする。
- *統一教会は、「あなたが教団に献金しないと子孫が苦しむ」などと信者に吹き込んで信者に献金させることを得意としている。母の国使命完遂決断式におけるハッキリ宣教師もそのようなことを述べている。
- *2020年4月13日の衆議院決算行政監視委員会において、麻生太郎副総理兼財務大臣は、「(プライマリーバランス黒字化目標)を放棄するという考えはありません。(中略) 日本が返す気がないとなれば、途端に日本の国債を売り浴びせられるというようなことにもなりかねませんので」と答弁しており、「国債を売り浴びせられたら日本政府が困ってしまう」という思想を述べている(資料)。
- *NHKの大ベテラン記者である野口修司は、「自国不換銀行券建て国債は中央銀行が買い取ることができるので財政破綻しない」という指摘に対して「天下の暴論」と表現していた。また、「中央銀行の独立性は、そんなに重要ではない」というアメリカの経済学者の指摘に対して「かなり過激」と表現していた(記事)。
- *2014年3月5日参議院予算委員会における答弁である(資料)。
- *「家計簿 財政」で検索すると、「○×市の財政を家計簿にたとえてみました」というような市区町村のウェブサイトが次々とヒットする。
- *耐用年数が1年以下の物品資産や、少額の物品資産は、貸借対照表の資産の部に書き入れないことが通例である。原始社会における弓やサンダルについては、「耐用年数が1年を越えてなおかつ高額な物品資産である」と考えて、資産の部の固定資産の項目に書き入れることにする。
- *そのあたりの事情は『土壇場の経済学(南風社)青木雄二・宮崎学』や『カネに勝て! 続・土壇場の経済学(南風社)青木雄二・宮崎学』などを読むと学習することができるだろう。
- *フランス民法典第544条の原文は「La propriété est le droit de jouir et disposer des choses de la manière la plus absolue, pourvu qu'on n'en fasse pas un usage prohibé par les lois ou par les règlements.」というもので、absolue(絶対的)という語が入っている。「所有権は物を支配して処分する権利であるが、その中で最も絶対的な手段である」といった意味である。
- *銀行借り入れなら「短期借入金」とか「長期借入金」と書き、CPなら「短期社債」と書き、社債なら「社債」と書く。
- *「貯蓄から投資へは日本政府が好む標語である。1990年代後半の金融ビッグバンの頃から日本政府が「貯蓄から投資へ」という標語を使うようになり、2001年~2006年の小泉純一郎内閣も「貯蓄から投資へ」という標語を好んで使っていた(資料)。
- *『真説 経済・金融の仕組み(日本評論社)横山昭雄』92ページ
- *「世の中に流通する貨幣の数量でインフレ・デフレが決まる」という貨幣数量説風な考え方で説明すると、「ジョン・ロックや新井白石が貨幣の質を高めて、世の中に流通する貨幣の量を減らしたので、デフレ不況になった」となる。一方で「需要と供給でインフレ・デフレが決まる」という考え方で説明すると、「ジョン・ロックや新井白石が貨幣の質を高めて政府が発行する貨幣の量を減らして政府購入を減らしたので、総需要が減って実質GDPが減ってデフレ不況となった」となる。
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