商品貨幣論とは、通貨の成り立ちや、通貨の定義に関する学説の1つである。
金属主義(Metallism
メタリズム)とも呼ばれる。
国定信用貨幣論とはあらゆる面で正反対の主張をしている。商品貨幣論と国定信用貨幣論の論争は1000年以上も続いてきた。
※日本の法律において「貨幣は金属を素材とする硬貨であり、通貨は紙幣と銀行券と貨幣を合わせた概念である」と定義されている。本記事では、できる限りその定義に従うことにする。
概要
通貨の成り立ち
原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった「商品」が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった。その代表的な「商品」が貴金属、とくに金である。これが、貨幣の起源である。
しかし、金そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量をもった金貨を鋳造するようになる。
次の段階では、金との交換を義務付けた兌換紙幣を発行するようになる。こうして、政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。
最終的には、金との交換による価値の保証も不要になり、紙幣は、不換紙幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす。
※中野剛志『 全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』329ページから引用。同氏は、グレゴリー・マンキュー『マンキューマクロ経済学I入門篇【第3版】』110~112ページ
を参照している。
「原始社会で物々交換が行われてきたが、その不便さを解消するため基軸となる商品を通貨として扱うようになった」と論じたのは名高い経済学者であるアダム・スミスであり、『国富論』という有名な書でそう述べている。
その思想が現代まで延々と受け継がれている。グレゴリー・マンキューという人は著名な経済学者で、マクロ経済の教科書を書いたら大ヒットしたことで知られる。マンキューの教科書は世界中の経済学部で使用されているというが、そのマンキュー教科書で商品貨幣論が採用されている。
通貨の定義
商品貨幣論に従うと、通貨とは物々交換の不便さを解消するため、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品が変化して出来上がったものとされる。
そこで、「通貨とは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品」と定義することができる。
古代の日本では米や絹や布が通貨として扱われていた。それらは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品だったので、通貨としての地位を得たのである・・・商品貨幣論の見地からは、このように説明される。
かつては世界中で、金貨や銀貨や銅貨が貨幣として扱われていた。それらは貴金属からできていて、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品だったので、貨幣としての地位を得たのである・・・商品貨幣論の見地からは、このように説明される。
19世紀頃から、金塊との引き換えを中央銀行が保証する兌換銀行券(兌換紙幣)が発行された。それらは市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と交換できるから、通貨としての地位を得たのである・・・商品貨幣論の見地からは、このように説明される。
「通貨とは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品か、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と確実に交換できる引換券」と定義すると、兌換銀行券を含んだ定義となる。
商品貨幣論のほころび
不換銀行券に対して苦戦する
商品貨幣論の最も疑わしい点は、不換銀行券(不換紙幣)を上手に説明できないところである。1971年8月15日のニクソンショックで金とドルの交換が停止されてからは世界中から兌換銀行券が姿を消して不換銀行券ばかりになった。どこの国の不換銀行券も製造原価が24円程度の紙切れで、金塊との交換など一切不可能である。そんなものに1万円とか100ドルといった価値が宿っている。
不換銀行券は、素材自体に価値がなくて「市場に参加する人々が一様に欲しがる商品」と言うことができないし、「市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と確実に交換できる引換券」と言うこともできない。
商品貨幣論の信奉者たちは、困ったので、魔法とか共同幻想とか信認といった言葉を駆使して不換銀行券を説明するようになった。
「不換銀行券は、ただの紙切れに魔法がかかっている状態であり、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と同等の価値ある存在だと、皆が共同幻想を抱いている。だから、流通している」
「不換銀行券は、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と同等の価値ある存在だと、市場関係者に信認されている。だから、流通している」
などという説明が行われる。
池上彰は商品貨幣論の信奉者で、この本の表紙で「物々交換からお金が生まれた」と語っている人なのだが、この記事
において共同幻想という言葉を使って不換銀行券を説明している。
原始社会の共同体内における物々交換が否定される
さらに、人類学者たちが「いろんな原始的共同体を調査したが、共同体の中で物々交換(barter)が行われている例を発見できなかった」と発表したことも、商品貨幣論に対して大きな打撃となった。そのうちの1人がキャロライン・ハンフリーという英国の学者であり、彼女は1985年の論文でそう論じている。フランスのマルセル・モース
、アメリカのジョージ・ドルトン
、同じくアメリカのデヴィッド・グレーバー
もそう述べている。
「原始社会は物々交換が行われていた」というのが商品貨幣論の大前提なのだが、それを人類学者たちが否定したことで、商品貨幣論が大きく揺らぐことになった。
※この項の資料・・・フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』16~17ページ、デヴィッド・グレーバー『負債論 貨幣と暴力の5000年』34~64ページ
、英語記事1
、英語記事2
、キャロライン・ハンフリーの1985年論文
他の理論の躍進を許す
このため、他の理論の躍進を許すことになった。
信用貨幣論は「通貨とは、負債を表すデータである」と論じる。
国定信用貨幣論は「通貨とは、政府の徴税権の対象物である」と論じる。
信用貨幣論は2021年の全世界において通貨の大半を占めている預金通貨を説明するのに優れているし、国定信用貨幣論は2021年の世界各国で通貨に採用されている不換銀行券を説明するのに優れている。
商品貨幣論の特徴
商品貨幣論はそれなりに説得力のある説なので、人類の歴史に大きい影響を与え続けてきた。この項で、その特徴を示していきたい。
中央銀行や政府の通貨発行権を軽視する
商品貨幣論を信じている人の一部は、この傾向を持っている。商品貨幣論は「通貨とは、市場に集まる民間商人たちが一様に欲しがる商品である」という説であるが、当然のことながら、そうした商品を軽々しく創造することはできない。
金塊を無から創造することはできない。金塊を手にするには、地球上のさまざまな鉱脈を調査し、地面を掘って鉱石を集め、鉱石を製錬するという大変な手間暇がかかる。
このため、商品貨幣論の信奉者の一部は、中央銀行や政府による通貨発行権をあまりよく理解できない。「通貨というのは金塊のようなものだ。そして金塊を無から創造するなんて不可能だ。ゆえに新たに通貨を発行するのは軽々しくできるものではない」と考える傾向にある。
商品貨幣論の信奉者の一部の目には、通貨発行権というものが、極めて不正でまことにいかがわしく非常に怪しげなものだと映る。このため、通貨発行権を利用した経済政策に対して「打ち出の小槌」「錬金術」という蔑称を与える傾向がある。
ひどい場合は「劇薬」「カンフル剤」「麻薬」「覚醒剤」「依存症をもたらす」という蔑称が通貨発行権を利用した経済政策に与えられることがある。ちょっと言いすぎではないだろうか。
商品貨幣論の信奉者の一部が「通貨発行権に頼らない自分は、正しく、まっとうで、清らかで、高潔である」と誇らしげに語る姿は、たまに見られる。
不換銀行券を兌換銀行券だと信じ込む努力をする
商品貨幣論を信じている人の一部は、この傾向を持っている。2021年現在の世界各国で流通しているのは不換銀行券であるが、その事実に目をつぶり、あたかも兌換銀行券が流通しているかのように信じ込もうと努力する。
中央銀行が発行する不換銀行券は、中央銀行の負債として発行されている。ただし、中央銀行は「不換銀行券を渡された際に資産を提供する義務」を無期限に延期している。ゆえに中央銀行にとって不換銀行券は「負債性が極度に薄まった負債」であり、中央銀行の経営を全く圧迫しないものである。
商品貨幣論の信奉者の一部は、こうした事実に目を背け、「中央銀行は通貨を発行しすぎると経営の負担になる」だとか「中央銀行の貸借対照表(バランスシート)において負債の部が資産の部よりも大きい額となる債務超過になったら中央銀行が破綻する」と論じる傾向にある。つまり、中央銀行が発行する銀行券を兌換銀行券だと信じ込んでいるのである。
中央銀行が兌換銀行券を負債として発行しているのならば、負債の部が巨額になって資産の部を上回る債務超過になったら経営破綻する。ところが、2021年現在において中央銀行が負債として発行しているのは不換銀行券なので、負債の部の額がどれだけ巨額になろうが中央銀行は一切の引き換えに応じる義務がなく、経営破綻することがあり得ない。
商品貨幣論の信奉者の一部は「2021年現在、世界各国で流通しているのは確かに不換銀行券だ。しかし、みんなが不換銀行券のことを兌換銀行券であると共同幻想を抱くことで、不換銀行券がみんなに通貨として信認され、通貨として流通しているのだ。不換銀行券を兌換銀行券と信じ込むのは通貨を使用する人々にとっての義務のようなものだ」といった主張を心の中で構築することになる。
商品貨幣論の信奉者の一部は、「通貨を流通させて経済を安定させよう」という良心に従い、不換銀行券を兌換銀行券のように扱っている、というわけである。
不換銀行券が流通している世界の中で兌換銀行券が流通していると信じ込む心理は「兌換銀行券幻想」と呼ぶことができる。
金本位制の理論的裏付けになり、自由貿易とグローバリズムを支える
商品貨幣論の結晶の1つは金本位制である。
金本位制とは「紙幣は金塊と交換可能な兌換銀行券(兌換紙幣)のみとする」という制度である。金塊の量によって紙幣発行の量が制限されるので、通貨発行権が大きく制限されることになる。
19世紀には多くの国が金本位制を採用した。そのため金塊が事実上の世界通貨となり、各国紙幣同士の交換が非常に簡単になり、その結果として自由貿易が盛んになり、グローバリズムが地球を覆うことになった。
アメリカの商人が木材を他所の国から買いたいと思ったとする。ドイツの木材には「○○マルク」という値が付いていて、日本の木材には「○○円」という値が付いている。そう言われるとすぐに価値が分からないのだが、すべての国が金本位制に加入していると、すぐに計算できる。「ドイツの木材は金塊~g分の値が付いていて、日本の木材には金塊~g分の値が付いているのか」とすぐ計算できる。
「自由貿易は繁栄と豊かさをもたらす」という立場の人にとっては、商品貨幣論や金本位制は歓迎すべき理論と言えよう。
ちなみに「自由貿易は繁栄をもたらすわけではなく、デフレ不況をもたらす」という論者もいるので、紹介しておきたい。中野剛志が「1860~92年のヨーロッパは自由貿易体制にあり、特に1866~77年は貿易自由化のピークだった。しかしこの時代のヨーロッパは大不況の真っ最中だった。それと同じ時期のアメリカ合衆国は関税をしっかり掛ける保護貿易を採用していたが、その時期に経済発展を遂げた」「大陸ヨーロッパ諸国は1892~94年に景気回復したが、これは各国が保護主義化した時期と同じである。しかもこの時期の方が貿易を拡大させている。同じ時期のイギリスは相変わらず自由貿易体制だったが、不況に苦しんでいた」「戦後の日本が参加したGATTは、現在のWTO
よりもずっと各国の保護主義を認める内容である。戦後の日本は『緩やかな保護主義』の中で経済成長したのであり、自由貿易で経済発展したのではない」「戦後の日本の輸出依存度(GDPに占める輸出の割合)は一貫して20%を下回っており、10%を下回った時期もある。日本は貿易立国ではなく、内需大国である」と語っている。
※この項の資料・・・中野剛志『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】』の306~317ページ。同氏は、Paul Bairoch
の『Economics and World History:Myths and Paradoxes
』、Kevin H.O'Rourke
の『Tariffs and Growth in the Late 19th Century
』、David S.Jacks
の『New Results on the Tariff-Growth Paradox
』を参照している。
市場を権力者よりも上位の存在と位置づける
商品貨幣論というのは、もともと通貨というのは様々な商品のなかから市場に参加する民間商人が選び出したものである、という考えである。ゆえに、商品貨幣論の信奉者は、市場というものを神聖視し、市場の意向をひたすら気にする傾向がある。
商品貨幣論を信奉すると、政府や中央銀行といった権力者よりも市場の方がずっと偉いのだ、という感覚を持つことになる。経済政策を決める際には常に市場や格付け会社にどう評価されるか意識すべきだと論じ、「そんな政策では、市場から高い評価をいただけない」とひたすら弱腰になる。市場に対して弱気になる傾向がある。
商品貨幣論の信奉者が、理論でもって通貨発行権のことを否定するときは、次のような口上を述べることが多い。
通貨は、市場に信認される必要がある。政府の影響を強く受ける中央銀行に通貨発行権があると法律上定められているが、市場の信認を得られない量の通貨を発行すると通貨価値が暴落することになる。ゆえに、通貨発行権というのは、市場の信認を得られる範囲内に強く制限されている。
商品貨幣論の信奉者は、とにかく、市場の信認という言い回しが大好きである。市場こそが国家の主権者である、というような調子で、市場を尊重することになる。
1990年代の日本国政府は、近隣諸国の動向をひたすら気にしていて、近隣諸国の評価を得るための外交をしていた。そうした外交は土下座外交と呼ばれた。
2020年現在の日本国政府は、市場や格付け会社の動向をひたすら気にしていて、市場や格付け会社の評価を得るための財政政策をとるべきだと安倍晋三首相や麻生太郎副首相が国会で答弁している。こうした財政政策を土下座財政と呼ぶことができるだろう。
商品貨幣論を信じると、次第に土下座財政へ傾いていくことになる。
商品貨幣論の問題点
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商品貨幣論と対をなすのは国定信用貨幣論である。この2つは水と油で、非常に仲が悪い。
国定信用貨幣論の支持者が、「商品貨幣論の問題点」を論じたてる風景は多く見られる。
「クラウディングアウトが発生するので国債発行は有害である」と主張する
先ほども述べたように、商品貨幣論の信奉者の一部は、不換銀行券を見て「あれは兌換銀行券のようなものだ」と信じ込む傾向がある。
「金塊の埋蔵量は有限であり一定である、それゆえ金塊を裏付けとする兌換銀行券の発行可能量も有限であり一定である、ならば不換銀行券の発行可能量も有限であり一定なんじゃないか」というのが商品貨幣論支持者にありがちな推論と言える。
不換銀行券の発行可能量は無限なのだが、そういう現実を無視して「不換銀行券の発行可能量は兌換銀行券のように有限なのではないか」と信じ込む心理は、兌換銀行券幻想と呼ぶことができる。
「市場に回る不換銀行券の総量が有限かつ一定、つまり固定された枠(プール)を一定量の不換銀行券が右に左に移動する」という推論を、ステファニー・ケルトンは「お金のプール論(the Finite Pool of money)」と名付けた。
「政府は、国債を発行することで、国債市場に参加する企業・銀行の持つ資金を吸い上げている。国債を発行しまくると市中銀行の持つ日銀当座預金が少なくなり、銀行間取引市場における日銀当座預金の貸出金利が上昇する。市中銀行は銀行間取引市場の金利よりもさらに高い金利で融資することになり、借り入れをとりやめる企業が続出してしまう。こうして民間の経済活動が阻害される。ゆえに国債を発行することは経済にとって有害である」といった考え方をクラウディングアウトという。
実際の日本では、中央銀行が不換銀行券を発行しているので、中央銀行がいくらでも通貨発行することができ、クラウディングアウトが起こらない。市中銀行の持つ日銀当座預金が少なくなって銀行間取引市場の金利が急上昇したら、中央銀行が不換銀行券を好きなように発行して買いオペをする。
「日本は国債のせいで財政破綻する」と主張する
商品貨幣論は通貨発行権をあまり重視しない理論である。「中央銀行や政府には通貨発行権なんてないんじゃないか、通貨を増殖させることは不可能なんじゃないか」と考えがちである。
このため、商品貨幣論の考え方に染まって通貨発行権のことを忘れると、「日本は国債のせいで財政破綻する」という考えに至りやすい。そして、国債恐怖症を発症する。
実際は、日本国債は100%自国不換銀行券建てなので、日本銀行が通貨発行権を駆使すれば簡単に財政破綻を逃れることができる。
「日本は財政破綻する」と主張する人々の言動を観察すると、次のことに気付くことができる。彼らは、日本国債によって日本政府に課せられている支払い義務が「兌換銀行券の円を支払う義務」だと信じ込んでいるように見受けられる。「兌換銀行券の円」なら日本銀行が簡単に通貨発行権を行使できず、日本政府も財政破綻する可能性が出てくる。
現実世界において、日本国債によって日本政府に課せられている支払い義務は「不換銀行券の円を支払う義務」である。「不換銀行券の円」なら日本銀行がごく簡単に、しかも無限に通貨発行権を行使できるので、日本政府が財政破綻する可能性は完全にゼロとなる。
不換銀行券のことを兌換銀行券と信じ込もうとする、不換銀行券が流通する世界においても脳内に「兌換銀行券が流通する世界」を構築してその中で生き続けようとする、というのは商品貨幣論の信奉者らしい傾向である。
インフレ恐怖症の原因となる
「政府が中央銀行に対して影響力を与えて、中央銀行に通貨発行権を行使させて買いオペさせ、国債市場に参加する企業・銀行の余剰資金を増やさせて、そのあとに国債を発行して売却して資金を得て予算を組み、豊富な資金で財政支出して国内経済にお金を供給し、緩やかなインフレをもたらしましょう」というインフレ誘導の政策が提示されることがある。
そういう、インフレ誘導の政策を示されると「そんなことをしたら、通貨の信認が失われ、ハイパーインフレになる」と反論してくる人たちがいる。こういった、インフレを極度に嫌う反応をインフレ恐怖症という。
人はなぜインフレ恐怖症を発症するに至るのか、その原因は長らく謎とされていた。
近年では、商品貨幣論の考えがインフレ恐怖症の遠因となっているのではないかという論考が挙がるようになった。「2021年現在の世界各国で流通している通貨は不換銀行券で、人々の通貨に対する信認だけで成立している。政府がインフレを誘導して通貨価値を故意に下げると、人々の通貨に対する信認を損ねることになり、人々が一斉に通貨に対する共同幻想から目を覚ましてしまい、人々が通貨のことをただの紙切れと認識するようになり、ハイパーインフレが起こる」という商品貨幣論らしい考え方がインフレ恐怖症を支えているのではないかという説である。
「不換銀行券は人々の共同幻想で通貨の地位を得ている」という商品貨幣論特有の考え方から、「不換銀行券を通貨として流通させるには、人々の共同幻想を維持せねばならない」というと戒めの心と「人々の共同幻想をうっかり壊したら全てが終わり経済が崩壊する」という恐怖の心が発生する、というわけである。
「中央銀行は政府から独立しているべき」と訴える
「政府が中央銀行に対して影響力を与えて、中央銀行に通貨発行権を行使させて買いオペさせ、国債市場に参加する企業・銀行の余剰資金を増やさせて、そのあとに国債を発行して~」と言うと、即座に「中央銀行は政府から完全に独立しているべきだ」と言い放ち、「政府が中央銀行に影響力を与えても良いという考えは、まさしく暴論で、とても過激だ」と激しく非難してくる人たちがいる。
そういう人たちをあえて命名すると「中央銀行の独立性をとても重視する人たち」となる。彼らは中央銀行が政府に対して従属することを非常に恐れているので、「中央銀行が政府に従属することに対する恐怖症を煩っている人たち」とでも言うべきだろうか。
実際の日本には、日銀法第4条という法律が制定されていて、「日銀は政府の経済政策の基本方針に整合的な金融政策を実行する組織である」と規定されており、政府の影響をかなり強く受ける組織である。そういう法律があるにも関わらず、「中央銀行の独立性をとても重視する人たち」は、とても熱心に中央銀行の独立を主張する。
「中央銀行の独立性をとても重視する人たち」の原動力も、やはり商品貨幣論である。「不換銀行券は人々の共同幻想で通貨の地位を得ている」という商品貨幣論特有の考え方から、「人々の共同幻想を何が何でも維持せねばならない」と張り切っている。
「政府の意向があっても中央銀行が通貨を簡単に発行することができないという姿を見せておくと、通貨が金塊か何かのように見えるので、人々の共同幻想を維持できる」とか「政府の意向で中央銀行が通貨を簡単に発行する姿を見せてしまうと、通貨が紙切れか何かのように見えてしまい、人々の共同幻想が崩れる」といったように考えるようになる。
商品貨幣論と又貸し説明
銀行の融資方法
A銀行がBに融資するとき、A銀行はBと連名で証書を作ってBに対する金銭債権を確実に得てから、Bに対して銀行預金を与える、という形式を採用している。これを信用創造(預金創造)という。
BがA銀行に対して「与えられた銀行預金を現金にしたい」と申し出た場合、A銀行は銀行間取引市場へ参加して日銀当座預金を他の銀行であるC銀行から借用し、借りてきた日銀当座預金を現金に換えて、その現金をBに渡している。A銀行にとって、Bに対する金銭債権の金利とC銀行に対する金銭債務の金利の差額が収入源となる。
BがA銀行に対して「与えられた銀行預金をD銀行に振り込みたい」と申し出た場合、A銀行は銀行間取引市場へ参加して日銀当座預金を他の銀行であるC銀行から借用し、借りてきた日銀当座預金をD銀行に送金している。A銀行にとって、Bに対する金銭債権の金利とC銀行に対する金銭債務の金利の差額が収入源となる。
BがA銀行に対して「与えられた銀行預金をEに振り込みたい。EはA銀行に口座を持っている」と申し出た場合、A銀行はBの銀行預金を減らしてEの銀行預金を増やしている。A銀行にとって、Bに対する金銭債権の金利とEに対する金銭債務の金利の差額が収入源となる。
以上が、2021年現在における世界各国の市中銀行が行う融資の方法である。
グレゴリー・マンキューの又貸し説明
ところが、この現実どおりに教育をしない人物がいる。グレゴリー・マンキューという経済学者で、彼の書いた教科書は世界中で採用されているのだが、その教科書の中の至る所に「銀行は、預金者から集めた現金を貸し出している」という記述が記載されている。この説明を又貸し説明という。
グレゴリー・マンキューは聡明な人物である。様々な計算式を駆使して、時には微分積分を操り、難しい経済現象を平明に解き明かしている。そんな賢い彼が、なぜか現実を受け入れない。
なぜ又貸し説明を採用するのかの考察
グレゴリー・マンキューや、マンキュー教科書を採用する経済学者たちが、又貸し説明を好むことの理由は謎に包まれている。経済学の七不思議の一つと言いたくなるほどである。
その理由をあえて挙げるならば、商品貨幣論を信じているから、となる。商品貨幣論は「物々交換から通貨が生まれた」と論じており、「物々交換こそが経済の原型である」という思想をもたらすものである。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想に染まりすぎると、債権・債務の関係性を分析して経済の事象を説明しようとする気運がやや薄れてしまう。その結果として、債権・債務のことをあまり深く考えない又貸し説明を好むようになる。
商品貨幣論とセイの法則
商品貨幣論と「物々交換こそが経済の原型である」という思想は非常に親和性が高い。
商品貨幣論が「物々交換こそが経済の原型である」という思想を作り出しているのか、あるいは逆に「物々交換こそが経済の原型である」という思想が商品貨幣論を作り出しているのか。これはどちらも否定しがたく、どちらの考えも有力である。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想からセイの法則(セーの法則、販路法則)という経済理論が発生する、と論じられることがある(記事)。セイの法則とは、フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイが提唱したもので、「供給はそれ自体が需要を作り出す」と説明される考え方である。
ちなみに、経済学の大きな流れを大雑把に説明すると、「セイの法則はサプライサイド経済学を生みだし、サプライサイド経済学は新自由主義(市場原理主義)の源流の1つとなった」となる。
商品貨幣論の信奉者たち
古くはアリストテレスが『政治学』で商品貨幣論を述べた。
17世紀になって、イギリスのジョン・ロックが商品貨幣論を提唱した。『統治二論
』という著作に商品貨幣論についての記述がある。さまざまな場所で「貨幣の価値は金属の価値によって決まる」「貴金属の量だけしか貨幣を発行できない」と論じた。ジョン・ロックの時代は重金主義(重商主義)
の全盛期で、「国家の国力は、所有する金属の量によって決まる」と多くの人に論じられていたが、ジョン・ロックもそのうちの一人であった。また、ジョン・ロックは銀貨を改鋳して銀貨の質を高め通貨量を大幅に減らす政策を提唱して、大規模なデフレ不況を引き起こしている。
18世紀イギリスにはアダム・スミスが登場し、『国富論
』で「原始社会は物々交換があり、そこから基軸となるべき商品が貨幣となっていった」と論じた。アダム・スミスの商品貨幣論は現在の経済学者たちによって引き継がれていくことになる。
日本の商品貨幣論(金属主義)の信奉者というと、新井白石とされる。当時、勘定奉行の荻原重秀
が貨幣の改鋳を行い、金貨の質を落として通貨量を増やしてインフレに導いていた。新井白石はこれに猛反発し、「金貨の質を落とすのは、国家の威信を落とす」と発言し、荻原重秀を追放して貨幣の再改鋳をして、金貨の質を高めて通貨量を減らしている。貨幣の再改鋳をして2年後に徳川吉宗が将軍になり、新井白石は引退させられることになるが、徳川吉宗は新井白石の作った金銀をそのまま20年間継承した。徳川吉宗の時代は庶民がデフレ不況に苦しんだ。
江戸時代の小判のサイズや金塊含有量を表にしてまとめるとこうなる。
時期 | 名称 | サイズ(g) | 金含有量(g) | 発行者 | 備考 |
1601~ | 慶長小判![]() |
17.76 | 14.97 | 徳川家康 | |
1695~ | 元禄小判![]() |
17.76 | 10.19 | 荻原重秀![]() |
インフレをもたらした |
1710~ | 宝永小判![]() |
9.33 | 7.86 | ||
1714~ | 享保小判![]() |
17.76 | 15.41 | 新井白石![]() |
1716年に徳川吉宗が継承、1736年まで発行 |
ジョン・ロックも新井白石も「貨幣の質を高めるべき」と言い、通貨価値を高めるため通貨量を減らして、デフレ不況を引き起こしている。
暗号資産(暗号通貨、仮想通貨)
近年は暗号資産(暗号通貨、仮想通貨)が発達してきた。特に有名なものがビットコインである。
希少性が高く、金塊とよく似ている
暗号資産は、マイニング(mining 採掘)という数値処理をするとその分だけ生成される。生成量が増えるほどマイニングがどんどん難しくなるので、あまり多く生成させることができない。希少性を重視している。
暗号資産は金塊に非常によく似た存在といえる。どちらも、新規創出をマイニング(mining 採掘)と表現するし、どちらも希少性が非常に高い。暗号資産のことをデジタルゴールドと呼ぶ人も多い。
負債ではなく、資産
信用貨幣論の見地からすると、「暗号資産は通貨に該当しない」となる。信用貨幣論は「通貨は負債を表すデータである」と定義するのに対し、暗号資産は確かにデータなのだが、「誰かの負債」として発行されているのではない。
ビットコインなどは、国際会議でも、日本の法律でも、暗号資産(Crypto Assets)と呼ばれるようになってきた。
商品として扱われている
暗号資産は、商品貨幣論の見地からすると通貨になるかもしれない存在である。
暗号資産は金塊によく似た存在で、ネット上において多くの人に高値で売買されている商品である。商品貨幣論の支持者の一部にとっては、「新たなる通貨の到来だ」という印象を受けるだろう。
ただ、暗号資産というのは「非常に難しい計算問題の答え」といった程度の存在なので、全く価値を感じない人の方が圧倒的に多い。商品貨幣論は「通貨は、市場に参加する全員に欲しがられる商品である」というものである。商品貨幣論の見地からも、通貨に該当しなさそうである。
政府が通貨発行益を得られない
暗号資産は、国定信用貨幣論の見地からすると、政府がその気になれば通貨にすることができる存在である。
国定信用貨幣論は、「政府が徴税すれば、その対象物が自動的に通貨になる」という考え方である。
ただ、暗号資産は、希少性が極端に高く、政府ですら簡単に生成させることができない。政府にとって、暗号資産を通貨にしているようでは通貨発行益を得られず、財政を好転させることができない。それゆえ、わざわざ暗号資産を通貨に採用する政府は存在しないと思われる。
まとめ
暗号資産は、信用貨幣論との親和性が全くない。
暗号資産は、商品貨幣論との親和性が、ちょっとだけある。
暗号資産は、国定信用貨幣論との親和性が、ほとんどない。
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