| 基礎データ | |
|---|---|
| 正式名称 | 中華人民共和国 香港特別行政区 中華人民共和國 香港特別行政區 Hong Kong Special Administrative Region of the People’s Republic of China |
| 区旗 | ![]() 花:バウヒニア・ブレイケアナ |
| 区歌 | なし(中華人民共和国の国歌を使用) |
| 公用語 | 中国語、英語 |
| 主都 | 中西区 |
| 面積 | 1,104km2 |
| 人口 | 7,026,400人 |
| 通貨 | 香港ドル(HKD) |
| 時間帯 | UTC+8(HKT) |
中華人民共和国 香港特別行政区(中国語:中華人民共和國 香港特別行政區、英語:Hong Kong Special Administrative Region of the People’s Republic of China)とは、香港島をはじめとした236の島、九龍半島、中国本土南部と接する新界から成る地域の総称。中華人民共和国の行政区画の1つ。世界有数の自由貿易港・国際都市である。元清国→イギリス領(1941~1945年は日本領)。 1997年より中華人民共和国領となったが、資本主義を維持し独立国に近い地位と高度な自治権を持つ。なお、「香港」とは狭義には香港島のことを指す。
中国大陸での中国共産党一党支配とは異なり、香港政府による香港基本法に基づいた独自の政治が行われている。約150年続いたイギリス領時代の状態を維持するとし、中国本土との間には事実上の国境線が引かれ、中国とは異なる政治、司法、経済、税制、教育、思想、主義、文化などの独立した社会体系を持つ。一応中国領土であるが、この特別行政区(香港・澳門)では社会制度が異なる。
これを一国二制度という。
中国政府は、返還後50年(2046年まで)は内政に干渉しないという約束(一応)がある。そのため、中華人民共和国の政策(ネット検閲、情報統制、言論統制、一人っ子政策、文字改革、言語政策など)の対象からも外れる。要は、軍隊と外交権を持たない点を除けば中国とは別の国も同然であり国際的な扱いもそんな感じの地域。
しかし、2014年に香港行政長官選の制度変更などが行われ、中国の支持がないと立候補できなくなるなど中国本土の影響が大きくなっており、2020年代になると一国二制度はほぼ形骸化している。
人口約700万人、面積は東京都の約半分(うち70%は山)。公用語は広東語と英語、通貨は香港ドル(USドルペッグ制)、国別ドメインは「.hk」。法体制は米英法(コモン・ロー)のままで、日本で言う最高裁判所にあたる香港終審法院にはイギリスの裁判官が招聘されている。よって死刑制度は無い。交通はイギリス同様左通行右ハンドル(中国は右通行左ハンドルだが左ハンドル車の走行は法律で禁止)。
イギリス領時代より伝統的なレッセフェール(自由放任政策)に徹し、資本主義の砦として驚異的発展を遂げてきた。2011年現在でも経済自由度指数は17年連続で世界1位となっている(ちなみに中国は135位)。基本的にゼロ関税での輸出入が可能というフリーポートで、買い物において税というものが無い。観光客も香港のどこで買い物をしようと関税も消費税(付加価値税)も掛からないのである。
香港は昔から現在にかけても、共産中国に対する不信感が根強く残っている。要因として、イギリス領だったために共産党政権の影響を受けてこなかったこと、国共内戦や文化大革命、共産主義政策から逃れてきた人々と共に発展した世界有数の自由貿易港であること、天安門事件の存在などがある。
それにより、多くの香港人は返還を前にして中国による自由や人権の侵害を恐れた。返還が決定した1985年より、カナダやオーストラリアなどのイギリス連邦諸国、アメリカなどへの移民が大量に流出していくこととなる。
1989年6月4日、中華人民共和国北京市の天安門広場にて中国共産党が民主化デモを武力弾圧し、多数の死者を出した事件。
近くに返還を控える香港はこれに対しどの国よりも先に反応し、大々的に報道した。ほぼ全ての学校や企業、政府機関では公式に譴責・哀悼が行われ、事件への抗議デモの参加者は100万人にも上り、香港人の怒りと不安を大いに掻き立て、結果的に香港人の海外移住を爆発的に増加させる事件となった。
香港にとって半ばトラウマと化している面もあり、現在でも中国によるチベット弾圧などの非民主的行為にはいち早く反応し、報道している。また、毎年6月4日には香港島のヴィクトリア公園にて追悼集会が開かれている(なお2010年の参加者は15万人)。
前述したことに加え、香港と中国本土の間には非常に大きな経済的格差や生活水準、思想、文化の違いなどが存在していたため、いきなり統一してしまうと大陸の移民が香港に殺到し大混乱になることが懸念された。
これに対し中国側は国際社会(というか英米)の承認を得るためにも「一国二制度」を提唱し、「五十年不變(返還後50年は現状を維持する)」や「港人治港(香港は香港人が治める)」などを約束するとして、香港などに対し念入りに安全を言い聞かせた。しかしながら香港のクリストファー・パッテン総督は返還を前に香港の民主化を加速させたため、中国との関係は緊張した。世界のメディアも「香港は中国に飲み込まれる」と信じ、香港の繁栄は終わると論じた。
そして香港返還は予定通りの1997年7月1日、歴史的豪雨に見舞われる中で行われた。この日は返還記念日として香港の祝日となっているが、毎年大規模な民主化(反中国共産党・香港政府)デモが行われる日でもある。
中国人が自由に香港に出入りできるようになれば、治安の悪化(実際に区境を挟んですぐ隣の深センは治安が悪い)は不可避である。また、「英領香港」パスポートは世界でも比較的有利な扱いを受けていたが、「中華人民共和国」パスポートは信用度が低く、世界中を飛び回って商売をしていた香港人にとってパスポートが後者に代わってしまうことは致命的だった。そこで、返還後も引き続き香港人を優遇してもらえるよう世界中に働きかけたが、そのためには「中国本土人」と「香港人」を明確に分ける、つまり「国境」を設けて別々のパスポートを発行する必要があった。
よって、香港と中国本土の間には事実上の国境線と出入国管理所が存在する。中国と香港では税制も異なるため当然、税関もある。中国本土人が観光などで香港に入る場合はパスポートと通行証(ビザのようなもの)が必要で、通行証は政府に申請して審査に通れば発行してもらえる。また外国同様、勝手に住み着けば不法滞在で逮捕される。なお、香港人が中国本土に入る場合、制限は殆ど無い。ちなみに外国人の場合でも、出入国管理の法律自体が異なるため、香港に入国するのと中国に入国するのでは条件が異なる。
したがって、中国本土と香港の間の電話は国際電話、飛行機は国際線扱いとなり、国別コードも異なる。
そして現在、香港のパスポートには、イギリスの置き土産である(中国政府は存在を認めてない)「海外在住イギリス国民(BNO)」パスポートと「香港特別行政区(HKSAR)」パスポートがある。中国パスポートに比べはるかに信頼性が高く、日本へもビザ無しで入国することができる。
このようなことに加えイデオロギーの問題もあるので、香港人に対し「中国人」と言うと訂正されたり、あるいは怒りを買うこともある。大陸人観光客のマナーの悪さや「野蛮」といったイメージから、香港では中国本土人を蔑視し差別する傾向にあるのも大きな理由の一つである。香港人の前で「中国ってさ~」などと言うのも控えたい。
中国本土と台湾では政策として北京語(日本で言う「中国語」)を標準語に定めており、テレビや授業、音楽など公の場では北京語が使用され広く普及しているのに対し、香港の標準語は広東語(粤語)である。なお北京語と広東語は音声学的には別言語で、2言語間の会話は不可。ただ字体は違うが、漢字での意思疎通は可能である。
学校は英語で授業をする英語学校と広東語の主に2種類、テレビも同様で、音楽や映画は広東語。返還前後から北京語の勉強も義務化されたためサッパリと言う人は減ったものの、現在も英語に比べると通用度は低く、もし話せてもネイティブでも聞き取れないほど訛りが酷い場合が多い。しかしながら、広東語・英語・北京語のトリリンガルも珍しくはない。
繁体字と呼ばれる、画数の多い伝統的な漢字(日本で言う旧字体)。台湾と同じと言われるが、香港のほうがより古いためにやや画数が多かったり、微妙な差はある。
更に、広東語を表記するために香港が作った独自の漢字も多数存在する。例えば日本でも有名な広東語「無問題(モウマンタイ)」は本来香港では「冇問題」と表記するが、「冇」は香港独自の漢字で日本には存在しないため、「無」を当てている(香港でも「無」の字は使われるし意味も同じだが、用法と声調が異なる)。
公式な文書やテレビの字幕などでは北京語と同様の文語が用いられるが、広告、ネット掲示板、漫画など砕けた表現を用いる場では広東語で表記(広東語は口語なので厳密に言えば当て字)されることが多い。
広東語の文は中国語に対し、方言字(口偏のついた字が多い)の使用や、分かりやすいところでは「是」が「係」、「不」が「唔」に置き換わっていることなどで見分けられる。
現代中国語(普通話)の声調が4種類なのに対し、広東語は9種類。古中国語の発音や語彙、文法を最もよく保存している言語と言われる。響きとしては現代中国語よりもタイ語、ベトナム語、チワン語などと類似しており、共通する特徴も見られるため、元はタイ語系の言語に古中国語が被さったクレオール言語であったと考えられている。感覚的な特徴としては、発音すると声のトーンが全体的に低くなる。文末語気助詞(語尾に付いて感情を表す。日本語の「~だぞ」「~かな」的なもの)は漢語の中でも最多で、100種類以上が常用されている。なお普通話のピン音のような決まった発音表記法は無く、学習者泣かせでもある。
余談だが、返事が「はい」であることから日本語の「はい」は広東語に由来するという説がある。
香港の広東語の特徴としては、英語からの借用語が多数ある(例:タクシー→的士)などが挙げられる。というか10%ぐらい英語である。
広東語は声調が複雑なので、歌詞の声調に合った曲を作るか、曲のメロディーに合った声調の歌詞をつける必要があり、作詞作曲にあたって広東語への深い知識が必要とされる。また、外国語の曲をカバーする際にはどうしても歌詞の意味を変えざるをえない。このような言語は他に、ベトナム語などがある。
香港音楽界では1970年代に登場したサミュエル・ホイがほぼ初めて完全な広東語で歌ったとされる。それまでの香港では、広東語での作曲が困難なことから英語もしくは台湾からの北京語の歌が主流であった。
またラップにも向かないとされるのか、広東語の曲でもラップ部分だけ英語か北京語ということがしばしば。しかしながら広東語ヒップホップアーティストは少数ながら存在し、人気を博しているものもある。
ちなみに中国語(北京語)ポップスの広東語カバー、また広東語ポップスにも多い、中国語の歌詞(文語)をそのまま広東語読みで歌っただけのものは厳密に言えば完全な「広東語の歌」ではない。
名前の起源は香港島南岸にある地域・香港仔(アバディーン)であると言われている。この香港仔は明朝期(1368年 - 1644年)の地図には「香港村」と書かれており、新界の香木を輸出するために移されていた場所であったことから「香木を積み出す港」→「香港」と呼ぶようになったという説が最も有力である。これが広まり、島全体、やがては租借地全体を「香港」と呼ぶようになったとされる。
「香港」の広東語読みは「Heung Gong」、カタカナであえて表すなら「ヒョンゴン」であるが、英軍が初めてアバディーンに上陸した際、地名を知らなかったため地元民に名前を尋ねたところ案内役の蛋民(水上生活者)が広東語の下位方言である蛋家話で「ホンコン」と言ったことから、英語で「Hong Kong」と呼ばれるようになりそれが日本にも伝わったとされる。
ちなみにこの蛋民とは、陸に土地を持たず海上の船を家として漁業、水運、商業などを営みながら生活している人々で、1940年代初頭には15万人以上(当時の香港の人口の1割弱)を占めていたが、徐々に陸で暮らすようになり現在はごく少数である。海上シーフードレストランと並んでアバディーンの観光名物にもなっている。
元々は清国の領地だった。しかし大英帝国との貿易において、中国茶の輸入の対価として清では禁止されていたアヘンを密輸入し販売していたため、清側が英側との貿易を拒否した事が原因で1839年11月3日に第1次アヘン戦争が勃発。圧倒的な差で勝利した英国は1842年8月29日に南京条約を締結し、所謂不平等条約のほか香港の永久割譲を承認させた。しかし内地に入る事は認められていなかった。
反英運動が清国内で巻き起こり、アロー戦争(第二次アヘン戦争)が勃発したが清国はまたしても英仏連合軍に敗北したため、1860年に北京条約を結び九龍半島も割譲されるハメとなった。更にイギリスは清に迫って1898年7月1日より現在の香港を99年の条件付で租借した。イギリスは巨費を投じて港湾施設を整備し、寂れた寒村から国際的要港へと発展させた。同時に海軍の拠点も作り、シンガポールと並んで極東における艦隊の停泊地となった。1937年、支那事変が勃発。日本海軍の支那方面艦隊が中国沿岸を海上封鎖し、上海を奪取して中国国民党軍を締め上げた。国民党軍は物資不足に陥ったが、命綱となったのがイギリスが領有する香港であった。米英仏は国民党を支援しており、欧米から送られてくる物資が香港を通って本拠地重慶まで運び込まれた。当然、日本にとって香港は目の上のコブだったため、対米英戦争が迫ってくると香港の攻略を練り始めた。攻略のため支那派遣軍に第23軍を送ったり、事前に諜報や偵察を行うなど徹底した準備が進められた。
1941年12月8日、真珠湾攻撃や南方作戦と時同じくして香港に第23軍第38師団が突入。イギリス軍と交戦状態に入った(香港の戦い)。イギリス軍は強固なトーチカ群、沿岸砲、要塞を有しており、香港で半年間は日本軍を食い止められると意気込んでいた。しかし天運味方せず、第38師団の前に僅か17日で陥落。日本軍に水源地を奪われた事が敗因だった。香港からイギリス軍が駆逐され、終戦を迎えるまで日本軍による軍政が敷かれた。故に1942年から1945年までは、唯一日本の支配下に収まっていた。
太平洋戦争後再びイギリス領に復帰。1997年7月1日に99年の租借期限が切れて中国に返還された(香港島及び九龍半島の一部は永久割譲されたことになっていたが、中国側の交渉により「譲渡」された)。
(Hong Kong Golden Forum)。とにかく何でもありのフリーダム地帯で、香港の言論の自由を確認できる。
によると温暖夏雨気候(Cwa)に属する。掲示板
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最終更新:2025/12/10(水) 21:00
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