じゃがいも警察とは、史実厨の一種である。中世警察、ジャガトマ警察とも。
異世界ファンタジーの作品(ライトノベル、なろう系など)は、中世ヨーロッパ風の異世界であることがほとんどであり、そんな中世風異世界には史実上のヨーロッパには普及していなかったとされる近世以降の物・概念が登場したりもする。その代表格が「じゃがいも」で、これは新大陸発見以降、アメリカ大陸からヨーロッパに持ち込まれたのである。
そのような史実があるため、異世界に登場したじゃがいもに対して「なんでじゃがいもが中世ヨーロッパ風世界に出てくるんだ」というツッコみも入れる者達が現れる。その者達を揶揄したのが『じゃがいも警察』である。「トマト」も槍玉にあげられやすく、合わせて「ジャガトマ警察」と呼ばれることも。
これ以前にも、アニメに出てきた弓道風謎武術に対して弓道経験者が異を唱えた事象があり、それを揶揄して生まれた言葉「弓道警察」から派生した言葉といえる。
こうした指摘は近年の小説などに限らず、古くは『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』も同様の文句を言われている(厳密には指輪物語の舞台は異世界ではなく有史以前のヨーロッパという設定)。
しかし、じゃがいも警察が言うような、「中世ヨーロッパは~だ」と断言できるようなことは、じゃがいも以外には実際はほとんどない。これは「中世ヨーロッパ」の時間的・空間的範囲について、冷静に振り返って考えれば分かることである。
伝統的に、西洋史における「中世」は前期(5世紀~1000年)、盛期(1000~1300年)、後期(1300~1500)に分けられ、逆に中世とはこの全ての期間の合計をいう言葉である。即ち1000年以上にも渡る、非常に長大な時代なのである。技術の発展や社会の変化が現代より緩慢だったと言っても、いくらなんでも長すぎであり、この期間全てを大した根拠もなく「中世」としてまとめること自体、中世に関する誤解を招く大要因となっていることは否めない。が、今更代えることもできないので、歴史学者たちは渋々使っている。
当然、時代の移り変わりというのは、アグモンがグレイモンになるのとは違い、それぞれの地域や社会において徐々に物事が変化していく、その積み重ねによるものである。そのため中世も初めと終わりとでは何もかもが異なるし、古代の終わりと中世の初め、また中世の終わりと近世の初めとで、明白な差があるものでは決してない。
また地理面から見れば、ヨーロッパとは、西はポルトガルから東はロシア(ウラル以西)、北はノルウェーから南はギリシャまで、非常に広大な地域を指す言葉である。同じヨーロッパでも、ところが違えば地形や気候は大きく異なり、社会や文化はそれ以上に多様なものである。
民族も言語系統で大別すればロマンス語系(フランス、イタリア、スペイン等)、ゲルマン語系(イングランド、ドイツ、デンマーク等)、スラブ語系(ロシア、ポーランド、ブルガリア等)、ギリシア語系(ギリシャ、当時のビザンツ帝国)、あるいはケルト語系、バルト語系、フィン・ウゴル語系、アルバニア語系等々がいて、それぞれも細かに分ければどこまでも分けることができてしまう。またこうした言語による分け方は、近現代の観点から民族を再解釈したようなものであり、当時は全く違った感覚で無数の民族・社会集団・文化共同体を分けていたのである。だから同じゲルマン語系だからと言って、イギリスはフランスよりドイツに近しいというようなことを考えていると、この時代の民族・社会・文化を大きく計り間違えることになる。
現代よりも遙かに重要だった宗教に関しても同様で、単純にキリスト教と言っても、西方教会(カトリック)と東方教会(正教会)の大別は最低限意識しなければならないし、その東西の分かれ方自体が、時期によって非常に異なっていて極めてややこしい。さらに東西それぞれの宗派もあれば異端もあり、教義の変遷もあれば実態の変容もあり、また教会指導者側の観点と世俗社会側の観点、知識人の観点と庶民の観点、国家や地域などからも、宗教の捉え方は千差万別であった。このため当時のカテキズム(教義解説書)等を読んだところで、中世のキリスト教の有り方を理解することはできない。そして勿論、ユダヤ教もある。
さらにより公平に当時のヨーロッパを見るならば、日本人が暗黙裏に「(中世)ヨーロッパ」から排除してしまうような存在、つまり非白人やキリスト教・ユダヤ教以外の宗教のことを考えなくてはならない。例えばレコンキスタ以前のイベリア半島では、アラブ系またはベルベル系のムスリムが支配的な存在だったが、これも定義的には中世ヨーロッパの一部である。また、キリスト教以前のヨーロッパの多神教も、冷静にその期間と地域を計って考えるならば、中世一般において矮小化できる存在では決してなかった。ただ、どうしても文字史料が限られるために、現代から研究しにくいだけのことである。
こうしたことから言えることは、「中世ヨーロッパは~だった」と一概に言えることは、実際にはほとんどないということである。少なくとも、全中世の全ヨーロッパに渡る時代精神というものは存在し得ないし、個々の具体的な現象・傾向も、実際に当てはまるものは極度に絞られる。それこそ、じゃがいもが存在しなかった、ということくらいである。このためじゃがいも警察が指摘するようなことは、はっきり言えば、じゃがいも以外だいたい間違っている。
上記のことに関連して、中世は恐ろしく誤解の多い時代である。それはじゃがいもがあるかどうかではなく、時間的・地理的に広大で捉えにくいということだけでもなく、西洋の伝統において「暗黒時代」と称されて蔑まれ、一次史料など当たらず、ただ偏見のみを根拠とした言説があまりに多く流布されてきたことによる。こうした歴史意識は、それ自体が歴史研究の対象となるほど長く根深いものがあり、非常に複雑な事情が絡んだものであるだけに、払拭が難しい。
とはいえ歴史学の発展と積み重ねは、こうした伝統的な中世論は全くの間違いだと証明するか、大幅な訂正を余儀なくさせるに至っている。今日では実際の史料と科学的な方法論、様々な分野からの多角的な分析に基づく中世像が再構築されており、「暗黒時代」から全く様変わりしたものとなっている。だが、そうした歴史学者の努力は一般にはまだまだ知られておらず、インターネットでは今日も今日とて間違いだらけの「現実の中世」が、さも賢しげに説かれるのである。
以下にはなるべく、そうした通俗的な中世論には依らない、歴史学的に妥当な中世をなるべく記すようにしたい。大幅改訂中。
中世ヨーロッパ諸国は概ね、弱い王権を特徴としていた。いわゆる絶対王政は近世における中央集権化・君主独裁化の傾向を指して言ったものであり、中世に適用して見ることは難しい。ただし、しばしば「最初の絶対主義者」と称されるシチリア王国のフェデリーコ1世や、時期にもよるがビザンツ帝国のように、中央集権を志向した君主や国家は中世にも存在する。これらはいずれも近世・近代の水準には及ばないだろうが、中世だからといって中央集権国家が有り得ないというわけではなく、下記の説明も中世ヨーロッパの地域・時代全体に当てはまることでは到底ないことに注意しなければならない。
日本史でも馴染みの「封建制」は、元々は中世ヨーロッパの特徴的な政治・社会構造を説明するものとして定義された。これは大雑把に言えば、君主や政府が国土を直接治めるのではなく、君主に領地(封土)を与えられたそれぞれの封臣(臣下)が、領主としてその土地を治めるということである。封臣は納税や軍役等の義務と引き換えに、高度な自治権と独自の法で以て領地を統治しており、時には貨幣さえも各自で鋳造していた。こうした主君と封臣の関係は必ずしも良い物とは言えず、むしろ表に裏に対立していることは珍しくない。
さらに封臣も大きな者なら、その下に更なる封臣が存在する。これは元の君主からすれば臣下の臣下、即ち陪臣に当たる。陪臣は君主自身の臣下ではないため、封臣の頭越しに指図することは難しく、陪臣の方も主君の主君は主君ではないという意識が強かった。
また特に西欧においては、世俗の君主たちの権力は、教皇を筆頭とする教会権力によって多かれ少なかれ制限されており、しばしば教会との駆け引きが政治における最大の問題となった。これは協力的で互恵的なものから、血みどろの闘争に至るものまで様々で、特に神聖ローマ皇帝が教皇との争いの末に膝を屈したカノッサの屈辱や、逆にフランス王が教皇を拉致連行して、アヴィニョンに教皇庁を建てることになったアナーニ事件は有名である。
1492年以降の新大陸の「発見」と交易により、旧大陸と新大陸のありとあらゆる事物が移動・交換された現象をコロンブス交換と呼ぶ。このうち新大陸から旧大陸にもたらされた一般的な作物を列挙するなら、まず何と言ってもジャガイモとトウモロコシ、そして順不同にサツマイモ、キャッサバ、ヒカマ、キクイモ、キヌア、アマランサス、トマト、カボチャ類、唐辛子類、ハヤトウリ、落花生、インゲン豆、カシューナッツ、ペカン、アボカド、パイナップル、パパイヤ、バンレイシ類、グアバ、パッションフルーツ、ドラゴンフルーツ、アサイー、ウチワサボテン、向日葵、チアシード、カカオ、バニラ、オールスパイス、サトウカエデ、竜舌蘭、ユッカ、クズウコン、マテ、コカ、タバコ、キナ、パラゴムノキ、サポジラ、等々。また、新大陸の作物が旧大陸の同類作物に取って代わるか、大いに交雑していった物には、イチゴ、ブルーベリー、そして何より木綿がある。
こうした新種の作物や家畜等だけではなく、新大陸の土地・人間を含めた資源全体や、疫病、文化・思想・概念を含めたもの、また旧大陸の同様の事物が新大陸に移入されたこと、新旧の互いの事物が混交して掛け合わされたこと、そしてそのことによる様々な影響や、経済的・社会的・地球的な変化を広く言うのがコロンブス交換である。この影響はじゃがいもがどうとか言うより遙かに巨大な物があり、中世と近世とを区分する強力な根拠となっている。そのため、もしもあなたが超本格的な中世ヨーロッパを描写したければ、コロンブス交換に関する専門書を読むことをお勧めする。
ただ誤解を解けば、近世に初めてヨーロッパの(そして日本の)食卓に、色々な神作物が登場したからと言って、これ以前の中世の一般の食卓が、パンや麦粥やせいぜい塩漬け肉しかなかった、などということは絶対にない。そもそも中世人はほぼ農民であり、例え農奴であったとしても、自分たちの畑に自分たちの食べたい作物を植えて食べていたものである。農業生産の一部の主要作物・換金作物への極度の依存と、主に東欧の、農奴が文字通り奴隷化して、自分が食べる分さえ自由に作れなくなる有り様は、むしろ近世以降に加速していったことである。中世にも絶対にないとは言わないが、一般的な状態からは程遠い。
キャベツやニンジン、ネギ類やカブ類やインゲン以外の様々な豆など、中世ヨーロッパの一般的な野菜の多くは現代日本人にも馴染みの物である。リンゴやイチジク、イチゴや葡萄や柑橘類などの果物にも目がなく、おそらく現代人より食べていた。お肉は当然大好きで、魚も手に入るなら好んで食べ、その加工と保存の方法は非常によく発達したので、香辛料に関する有名な神話にあるよう、腐った肉を食わなければならなかったということもない。
さらにイギリスの遺骨調査を見る限り、(イングランドの)中世人の栄養状態は思われるよりは悪くなかったどころか、近世人より良かったことが判明している。詳しく見れば、中世前期の戦乱深まる後半期と、小氷期に突入し、黒死病と大飢饉が人々を襲った14世紀を別にして、イングランドの成人男性の平均身長は概ね170cmを越えていたが、近世以降は徐々に下回っていくのである。
確かにジャガイモ、そしてトウモロコシはヨーロッパの農業生産の飛躍的な向上をもたらした。だが古典的なマルサス理論から言えば、(前近代において)人口の増加は食糧の増加を常に上回るため、食糧が満ち足りることはない。それに加えて、現在の研究を見れば、都市化と農業人口割合の減少、経済・社会構造の変化、気候変動、一部の作物への依存、作物の疫病の増加、公衆衛生の悪化等の諸要因が相まって、むしろ近世以降の庶民の栄養状態は低下し、飢饉・飢餓が慢性化・深刻化していったのではないかとも言われている。ただ、これがヨーロッパ規模で本当にそうと言えることなのかは分からない。
ついでに、細かいことを言えば、このジャガイモなどは旧大陸には無かったというだけで、中世という時代に紛れもなく存在していたはずである。中世アンデス(?)とか。そこからすれば、「中世にジャガイモはなかった」というのは多少もにゃもにゃするものがある。
中世人は水が汚くて飲めず、酒しか飲まなかった……というのは有名なデマ。水は当たり前に飲んでいた。大都市を抱える主要河川の汚染は当時すでに大きな問題になっていたとはいえ、まだ人口の少なく、土地が開拓され切っていない当時は綺麗な水源は多くあったし、井戸水や雨水の貯水は当然として用いられていた。
中世ヨーロッパではそもそも、アルコールの消毒作用もまだ分かっていなければ、感染の理解も極めてあやふやなものだった。それでも飲み水の清潔さにはよく気を使っていたことは、都市の噴水などを汚すことは法で禁じられていることからも分かる。この噴水というのは美観のためのものではなく、市民が水を汲むための公共の上水設備であり、都市の公共事業によって引かれてくるものであった。
他に水と衛生に関することとしては、中世人は古代ローマ人と異なり風呂に入らなかったという一般のイメージに反し、よく入っていた。もちろん現代日本人並には入っていないが、古代ローマ人と同等以上には入っていただろう。時期差・地域差は勿論あれども、ヨーロッパ東西のかなり広範な範囲に入浴の習慣は浸透しており、それも都市部や上流層だけではなかった。
公衆浴場の存在は、中世初期からすでにそれなりに確認でき、中世盛期には爆発的に数を増やす。上流階層は家財目録に見える個人の浴槽にゆったり浸かっていたことだろうが、カール大帝は大勢の従者を引き連れて一緒に入るのが好きだったらしい。ベネディクト会などの修道院では、身の清めの一環として修道士に入浴を奨励しており、また慈善浴場を貧しい人々に提供することもあった。ビザンツ帝国はローマ帝国なので風呂帝国だったが、イベリアのムスリムや北欧バルト地域の多神教徒も入浴やサウナに明け暮れており、キリスト教化しても受け継がれることになる。追ってフランスでは十字軍が持ち帰った中東式風呂が盛況し、ドイツではご当地温泉を巡る湯治観光が一般化し、ベルギーのスパにはスパがあった。
ではなぜ我々は中世人は風呂に入らないと刷り込まれているのか。それは直接的には、 近世で入浴文化が、一部地域や層を除き急速に衰えたためである。これは梅毒の感染を恐れてのことだから中世では有り得ないのだが(梅毒もコロンブス交換でもたらされたというのが定説)、近世後期から近代に再び風呂に入り始めたヨーロッパ人は完全にその記憶を失っていた挙句に、自分たちが風呂に入らなくなったのは悪しき中世のせいだと思い込んだのである。
このように、水や衛生に纏わる中世の悪名は、近世や近代にもなってからの状況を都合良く押し付けられたものが実際大半である。ただし、そうはいっても、中世の公衆衛生が良かったと言うわけではない。飲み水になるべく気を付けようが、風呂になるべく入ろうが、まあ、大まかに言えば、悪かった。ではそれがどう悪く、どうしてそうなっていて、それでもどのように人々は対処していたのか。以下は異常に頻繁に取り沙汰にされる、「中世人とうんこ」の実態について掘り下げる。
古代ローマが下水道を大々的に整備していたことはよく知られていることであるが、一般にあまり知られていないことに、西欧の中世人もローマ人の残した下水道を部分的には使い続けていた。例えば、とりもなおさずローマ市では、中世から現代に至るまで古代の下水道が保守されて稼働し続けており、世界最長の操業年数を持つ下水道としてローマ市民の御国自慢の種になっている。
もちろん、東ローマ帝国たるビザンツ帝国も下水道を整備しまくっていた。中世きっての世界都市たるコンスタンティノープル(現イスタンブール)の上下水道は、単に古代の遺構を保守し続けるだけの物ではなく、拡大し続ける都市のニーズに合わせて改修と拡張を繰り返しており、ここで発展した水道技術は北隣のブルガリア帝国でも導入された。9世紀までのブルガリアの旧首都プリスカにはその遺構が残っており、大規模な貯水槽から家庭レベルで水を供給して排出する、かなり高度な水道系があったことが判明している。こうした事例から言って、「中世ヨーロッパに下水道はなかった」というのは間違いなく間違いである。
とはいえこれら大規模水道網の存在は、古代ローマ帝国、ビザンツ帝国、ブルガリア帝国といった、帝国の名に相応しい強力な国家権力を背景とした、大規模かつ継続的な公共事業を要する物であっただろうし、それも版図の隅々に至るものではなかっただろう。ことに中世西欧の封建的社会構造においては、体系的かつ効果的な下水道の建設や長期間の保守改修は、上記のローマ市などの条件に恵まれた一部地域などを除けば、ほぼ不可能であったと見える。このため大都市では、年代が下るにつれて、適切な下水設備の欠如から来る深刻な公衆衛生上の問題が発生しまくっていたことは事実である。
この問題は中世どころか近世でもまるで解決せず、むしろ中世と比較にならないほど人口と人口密度が増すにつれ、うん口とうん口密度も比較にならないほど増していくため、悪化の一途を辿っていった。最終的な解決は近代ただ中の19世紀にもなって、西欧列強各国の威信をかけた巨大プロジェクトとして、近代下水道が開発されて導入されるのを待たなければならない。当然史料も中世よりも近世代の方が遥かに多く、ことにパリとロンドンについては、当時の関心の的として極めて詳細な記録が残っており、世界中からモデルケースとして参考にされ、現代まで熱心に研究され続けているため、知られすぎているほどに知られている。
このため、ネットに出回るような中世のうんこ描写は、よくよく追えば近世代のロンパリの記録に基づくか、そこから惹起された創作であることがほとんどであったりする。例えば近世パリの、つば広の婦人帽(または日傘)は窓から捨てられるうんこ対策だとというのは、これ自体神話なのだが、さらに中世人に転嫁されて「中世人は窓からうんこを投げ捨てていた」ということになっている。やめろ💢
体系的かつ効果的な下水道はなかったと言ったが、中世西欧にも(ローマの遺構に拠らない)下水道がなかったというのは完全に言い過ぎである。例えばパリでは、公共の下水道が12世紀から14世紀頃に徐々に建設されていく。開始年代に2世紀もぶれがあるのは、目抜き通りの真ん中に掘られた得体の知れない溝を下水道と呼んで良いのかという定義の話であり、暗渠式の下水道らしい下水道が登場するのが14世紀後半なのである。以降散発的に建てられていった中世パリの下水道は、やがて相互に連結されてセーヌ川水系と一体化し、市街を取り囲むように網羅された、近世代の(悪)名高いパリの大下水道へと発展していくことになる。
ただ一般的に、パリ市民は中世末期でも、数も利便性も限られすぎた下水道を利用するよりは、町内会組織でまとめて回収して指定の場所に捨てにいくか、回収業者と契約して代わりに捨ててもらうようなことの方が多かったと思われる。その捨て場所は川が近ければ川に、なければ指定のゴミ捨て場通り(通り?)に捨てるという、現代人にはちょっと思い浮かべたくもない物ではあったが、とにかく窓から道にうんこを投げ捨てていたわけではない。実際、市民は家の前を汚せば罰金を払わなければならなかったし、そうでなくとも中世のパリジャンやパリジェンヌが毎朝自分のうんこを踏み付けて出勤したかったと考える根拠はない。従ってもう一つの有名な神話、「パリの貴婦人のハイヒールはうんこを踏まないために中世で発明された」というのも間違いである。本当にやめろ💢💢💢
ロンドンの場合は、下水を川に垂れ流すという以前に、テムズ川そのものが公共の下水道だった。中世のロンドンはテムズ川北岸の、現在でいうシティ・オブ・ロンドンを大部分とする小さな物だったが、中世にはまだ統合・地下化されていなかった多くの支川や涸れ川のようなものが市内を巡っており、住民は川をそのまま下水道として利用し汚物を放り込んでいた。このために、ずばり下水道と名付けられた川もあるほどである。そして非常に合理的なことに、公衆トイレは橋の上に設けられた。
これは人口が少なかったうちは、中世に望める公衆衛生としては、むしろ最善のことであっただろうが、14世紀の黒死病がロンドンで特に猛威を振るい、市民の推定六割を死に至らしめたのは多分このせいであった。少なくとも当時のロンドンでは自明のことであったため、1357年にエドワード3世が川の浚渫や市内全般の衛生改善を厳命する怒りの勅令を下すに至る。この勅令は中世の衛生をテーマにした本では必ずといって良いほど出てくる有名なもので、当時のロンドンの様相とエドワード3世の怒りの強烈さを窺い知ることができる。以降、ロンドンにも正規の下水道が整備されていくと共に、種々の公衆衛生対策が進められ、汚物の取扱に一定の規則・規制が設けられていくことになる。その一つと見えるのがゴングファーマーである。
ゴングファーマー(「移動農家」)と言う職名は、近世チューダー朝期での物だが、中世各地には類似の職業が成立していた。彼らの仕事は各家庭、公衆トイレ、汚水槽・汚物槽(地面に深く掘り、しばしばご近所で共同利用する、要に溜め穴)から汚物を回収して、別の場所へと運ぶことであり、平たく言えば中近世のバキューム業者である。チューダー朝期ロンドンの場合、回収した汚物の中継集積場が河川敷に設けられ、ここから艀で市街を離れた集積場へと運んでいた。これは行政と議会によって手配された公共事業であり、ゴングファーマーはその危険で不名誉な仕事に見合うだけの高給を貰っていた。中世の同業者がそれだけの好待遇だったかよく分からないが、彼らには都市や領主からの給料に加え、回収物を農家に売るという副収入も期待できた。近世日本のような屎尿の再利用を、中近世のヨーロッパ人も考えていなかったわけではなく、パリのゴミ捨て場通りでも郊外の農民が直接肥料を調達しに来ていたそうである。
しかし彼らも増大し続ける都市の排泄を一手に引き受けられるものでは決してなく、どんな手を打ったところで経済発展と人口増加には概して追い付けず、ただただ悪化し続ける都市の公衆衛生は、14世紀の黒死病から19世紀のコレラまで、深刻な疫病の温床となり続けた。そしてこの因果と帰結は、科学的な機序はともかくとして、常に認識されてはいた。それにも拘わらず、近代まで解決の目処を立てることができなかったのがヨーロッパの(そして世界の)公衆衛生史の悲劇であり、それは人々の衛生観念が欠如していたためではないのである。まあ、中近世人に正しい衛生観念があったわけではないが。
中世とは完全に関係がなくなるが、近代ロンドンの汚染が大悪臭と称される退っ引きならない事態に陥ったのは、皮肉にも近代技術によって各家庭に至る上下水道と水洗トイレが整備され、そこからテムズ川へまた全面的に垂れ流されるようになったのが大きな要因である。緻密な水道網と水洗トイレでゴングファーマーは御役御免となり、ただただテムズ川に堆積する汚泥の山が、中世の黒死病の悪夢を、その数十倍の人口と面積において蘇らせてしまったのである。公衆衛生を改善し維持するには、単に物理的なインフラを建設すればいいのではなく、共同体の規模と環境に見合った、体系的で持続可能な社会システムを構築しなければならないということがよく分かる。
それは逆に言えば、小規模でまばらな農業共同体においては、各家庭レベルの処理でも実際間に合うということであり、中世人の圧倒的大半が住む農村部が、大都市に見られるような衛生状態にあったというのはいかにも考え難い。しかし史料がほとんど何もない領域なので、その実態もほとんど何も分からないのである。ただ一つ、確かに言えることは、そう……中世人は窓からうんこを投げ捨てていたわけではない💢💢💢💢💢
中世人がフォークを使わず手づかみでものを食べていたというのは有名な話だが、中世にフォークがなかったというのは実はかなり語弊がある。古代ローマ人が用いていたフォークは、西欧では西ローマ帝国の滅亡と同時に一端廃れてしまったものの、東ローマ帝国たるビザンツ帝国では全く支障なく用いられ続けていた。
その後西欧で最初に再導入され始めたのは、ビザンツと交流の深かった北イタリアのヴェネツィアで、11世紀頃のことと見られている。そしてイタリア半島全域で、パスタ料理が確立されるのと平行して急速に普及していき、14世紀には南北貴賎を通して浸透していたと見られている。
イタリアに次いで、イベリア諸国やフランスのロマンス語圏に浸透していったが、これらは近世の16、17世紀までに渡る緩慢なものであった。ましてゲルマン語圏やスラブ語圏にまで浸透しきるのは、近代もほとんど近い18世紀頃のことである。
ただし、フォークを手にする前のヨーロッパ人が完全に手づかみで食っていたかと言うとそうでもない。当時のナイフは先端が丸まっていない鋭利なものであったため、細身の物なら食べ物を刺して直接口に運ぶ、フォークと全く同じ使い方をしていたようである。ただし、手づかみも普通だった。
フォークのみならず、スプーンがなかったというのは完全なデマ。旧石器時代人でも使っとるがな。アジア人だって匙で飯を食ってたぞ。
もしも中世の騎士を140字で定義して、何かの作品の騎士を「間違い」だと言う者がいれば、そいつの言うことが100%間違っている。中世という捉えどころがない時代においても、騎士というものほどに複雑で理解が難しい概念は珍しい。いや結構あるかもしれないが、これほど現代に知名度が高く、非常によく研究されているにも拘わらず、実態を捉えることが極めて困難で、異常にややこしい存在というのはそうはない。従って、中世の騎士の実態を考える以前の話として、騎士という概念自体がそもそも何なのか考える必要がある。
騎士は言うまでもなく日本語である。そして英語ではKnight、フランス語ではChevalier、ドイツ語ではRitter、スペイン語ではCaballero……と続くが、これらの言葉はそれぞれ単純な対応関係にあるわけではない。さらにまた、中世の前期、盛期、後期、近世以降のいかなる時代においても、これらの言葉やその異表記が、一様に同じ意味で使われていたことはない。騎士という語のそもそもが、非常に多義的で、非常に複雑かつ非常に微妙な言葉なのである。この事実を念頭におかず、中世の騎士を論じてはならない。
本義としては「騎士」は兵士、特に騎兵のことだと説明されることが多い。例えばフランス語のChevalierは文字通り「騎兵」が原義である。このためいわゆる騎士階級にない騎兵を区別せず、Chevalier、Chevalerie(騎兵科/騎士道)の類の語で呼ぶことは中世を通じて一般的なことであり、ことに中世前期から盛期ならその方が当たり前である。つまり馬に乗って戦場に出てさえいえば、その身分や出自に関わらず、騎士を名乗ることに制約と言えるものはなかった。
英語のKnightに至っては、「少年」を語源として、中世初期には「扈従」を意味していたに過ぎず、兵士を意味する言葉でさえなかった。それがおそらくノルマン征服以降、フランス語のChevalierに対応して、騎兵を含む兵士、そして騎士に意味が近付けられていった。しかしなおも「扈従」の含意が強く、騎士階級のみを特定して指すようなものではなかったようだ。それでも14世紀頃までに、騎士階級にない(あるいは騎士階級に限らない)兵士/兵科をMen-at-armsまたはSergeant(-at-arms)と呼び分けることが確立され、Knightは騎士階級、または騎士階級出身の兵士を独立して指すようになったと思われる。
しかし騎士と兵士/騎兵とが必ずしも呼び分けられていなかったからと言って、今日日イメージされる社会階級としての騎士が存在しなかったわけではなく、通常の騎兵との区別が意識されていなかったわけでもない。
いわば騎士階級というものが、単なる兵士層からいつ頃分離したのか、そもそも本当に起源が兵士なのかは諸説有る。だが今日の我々が想像する「騎士」は概ね、11-12世紀のフランスにおいて発達し、近世初期までにヨーロッパの広い地域へその概念・制度が敷衍し、特有の様式や文化を共有するようになり、かつ強力なエリート兵士の供給源となった、準貴族的な社会階級としての騎士のことであり、またはこうした騎士たちを限定化・抽象化・理想化した観念である。このような騎士階級についてより詳細に知りたければ、まあ、Wikipediaを読めば良いと思う。
ただ、注意すべき点は、まずこの「騎士」はフランスを中心として、その周辺に広まったものにすぎないことである。このため基本的にフランスから離れれば離れるほど、このような騎士階級やその近似を見つけることは難しいし、距離的には近くても、様々な要因のために成立しなかったか、ごく小規模だった地域は少なくない。例えばスイスはアルプスの地形故か、都市的な経済構造や文化のためか、騎士階級と言えるものは見えず、むしろ騎士殺しで有名なスイス傭兵を西欧中に派遣することになる。
別の注意点は、仏英独西などの狭い地域に限定しても、幼少期から城主の側に近侍して、高度な修練課程や戦場での下働きを経て一人前となり、平時には馬上槍試合で競い合い、戦時には重装騎兵として敵陣に騎馬突撃を行う、華麗で勇猛で洗練された馬上の戦士たち、という決まり切ったイメージで実際の騎士階級を捉えるには、例外があまりに多すぎるし、典型と言える物でさえないということである。
基本的に、騎士階級の男たちがみな重装騎兵だったとは限らず、さらには兵士だったとさえ限らず、軍役は代納金に代えるかそもそもなく、ひたすら自分の畑を耕したり耕させていたりする、その辺の農民や地主と変わらない騎士の姿は珍しくない。例えばイングランドでは、百年戦争に際して国中の騎士たちを徴兵しようとしたものの、大方代納金を払って拒否したため、より下層の庶民階級が軍の主力となった。なお、この庶民兵でもフランスの騎士たちを殺戮できたことが、戦場での騎士の衰退の端緒となる。
こうした富裕農民・中小地主としての騎士、時にお金も土地さえも持たないような騎士たちが、後のイギリスのジェントリやドイツのユンカー、スペイン・ポルトガルのイダルゴ/フィダルゴといった類似の準貴族・下級貴族階級の主要な源流となっている。騎士が戦場での役割を失い、もはや騎士とは呼ばれなくなっても、彼らはその地位と性格を保つ社会階級として、依然として存在していたのである。
そうは言っても、騎士は戦ってこそ騎士である。中世後期には、騎士道文学等の影響もあり、高貴で強力なエリート戦士として騎士のイメージが定着し、最狭義の「騎士」は彼らのみを指すものとなった。いわば職業軍人としての騎士と言える。実際軍役にある騎士は、(戦時には)給料が支払われていたようである。
ただし戦場に出る騎士の中でも、壮麗な騎馬突撃を行う勇猛果敢な重装騎兵という感じのものは、やはり一部である。給料が多少出たところで、馬を養うだけならまだしも(畑とかに使えるし)、年代を経るにつれて重く嵩張り高価になるばかりの重装備を買い揃えるのは厳しい。特に中世も終わり頃から近世初期のいわゆるフルプレートアーマーや、お馬さんまで覆い尽くすバーディング(馬鎧)一式となると、もはや兵士個人に戦車を買えと言うに等しい。大方の騎士は帷子鎧を着て、せいぜい胸当ての類や、兜や籠手などを部分的に身に付けるので精一杯だったことだろう。それでも、着ると着ないとでは段違いだが。
加えて一般に、騎士だからと騎馬突撃するものとは全く限らず、実際の交戦時には歩兵として戦うことは当たり前だった。それはまず第一に、中世盛期・後期のほとんどの戦闘は会戦・野戦ではなく、城や砦での要塞戦であり、敵陣に騎馬突撃を行える機会自体がそうなかったということ。そして第二に、稀少な会戦現場に馬で駆け付けても、騎馬戦術が有効と見なければ、賢い騎士たちなら下馬していたということである。まあ、フランス騎兵がイングランド長弓兵に無茶な突撃を繰り返して惨敗したクレシーの戦いのようなものもあるが……
それでも戦略上、騎兵や重騎兵を揃えて、その機動力で要地や集落に素早く到達して確保したり、その野戦能力を誇示して敵を牽制・威圧することは、特に平野部の戦争では効果的なことだっただろう。それを担える代表的な存在が騎士であったと言える。ただもちろん、実際の騎士たちがどう戦ったかは、時代や地域や個々の戦争によっても激しく異なることなので、もしもあなたが超本格的な中世の騎士の戦いを描きたければ、こんなネットの駄文より個別の論文や専門書を参考にすること。
こうした戦場での騎士の活躍や、後述の騎士団(騎士修道会)の名望と並行して、騎士道文学で強くて誇り高くて女にモテる騎士の理想像が世に流行して浸透していくと、騎士という肩書きは、大いなる名誉と矜恃を伴う物となっていった。こうなると猫も杓子も騎士と名乗りたがるようになり、称号、勲章、尊称、自称としての「騎士」というものが大いに発達していくことになる。
13世紀から、正式な「騎士」になるための込み入った儀式、いわゆるアコレードが見られるようになった。身を清めて王に頭を垂れ、剣で肩を叩かれ騎士に叙任される、という今日のイメージはここにある。実際の儀式のやり方は様々な物があり、その位置付けも様々なら、当初はそもそもなかったわけだが、こうした儀式や通過儀礼を用いて騎士を騎士たらしめる動きは、年代とともに強まる傾向にあった。それと同時に、騎士階級とは到底言えない高位貴族たちもが、騎士のアコレードを好んで受けるようになっていった。例えば百年戦争初期の1346年、イングランドからフランスに上陸したエドワード黒太子は、最寄りの教会にて父エドワード3世から騎士に叙任されている。
これとは別に、名誉称号や勲章としての「騎士」を規定したものが、およそ14世紀から今日まで続く、イギリスのガーター騎士団に代表されるような、形式上の「騎士団」である。このペーパー騎士団の一員として叙任される騎士は、日本語でしばしば騎士爵、勲爵士などと訳されるように、貴族の爵位の下位として位置付けられることもあるが、専ら君主や大貴族ばかりが立ち並ぶものもある。15世紀のハンガリー発祥のドラゴン騎士団はまさにその類で、格好付けすぎの名前と相まって非常に鼻持ちならない印象がある(個人の感想)。
一方、庶民も王侯貴族のみが「騎士」を独占することを許さなかった。例えばイギリスの「Sir」は、元来が騎士の尊稱であり、現在までそうした規程自体は残っているにも関わらず、14世紀にはすでにみんなSirだった。準騎士と言える「Esquire」の語も、16世紀までには騎士/貴族の子弟のみならず公職者や地主階級一般の敬称になっており、やがてSirと変わらないものになった。そして「騎士」自体、騎士たる何かを持つらしい男たち全員の自称、尊称、蔑称に変じて、今日に至っている。
こうした騎士への強烈な憧憬を生み出す、おそらく最大の要因となったものが、いわゆる騎士道文学(ロマンス)というものである。騎士階級がフランスで確立されて各地に広ったのとほぼ同じくして、騎士道文学もフランスで隆盛してから各地へと流行していった。特に12世紀の北フランスの吟遊詩人、クレティアン・ド・トロワの存在は無視できない。彼は大貴族の夫人に囲われた文化人であり、その作品はどちらかといえば貴婦人受けを狙った物であったろうが、老若男女貴賎上下とを問わず馬鹿受け。この影響力は絶大な物があり、以降ヨーロッパ各地で後追いの騎士道文学が発展していくことになった。
こうしたクレティアン的騎士道文学の騎士の像は、現実の騎士をモチーフとしつつも、ほとんど純然たる創作の産物だったと見え、さらに時を経るほど高度に形式化され理想化されていった。このため騎士道文学から中世の騎士の実像を読み解くことは不可能なのだが、一方で当の騎士たちがこのような騎士道文学の騎士の姿に影響され、時代を経るにつれ、自らそう振る舞うように内面化していったという点は興味深い。
騎士としての強烈な名誉意識、信心深さ、礼節や誠実さ、慈悲と寛容、高潔で公平な決闘の精神、忠誠心、貴婦人への崇高な愛と誓い(宮廷愛)等々。これらはあくまで理想に過ぎないが、騎士として努めるべき規範ではあった。そしてこうした理想像を原型に、足したり引いたり割ったり掛けたりして、より抽象的な精神や美意識や、またはより具体的なスタイルやマナーとして洗練されていったものが、即ち「騎士道」である。が、この今日的な意味で騎士道が確立される頃には、すでに現実の騎士たちは戦場から一掃されていたか、虫の息だった。
ファンタジー世界の騎士には、ほとんどセットで付いてくる「騎士団」。これは英語ではOrder、またはMilitary Orderと呼ばれた中世の宗教的軍事組織を発端としている。色々な界隈から有名なテンプル騎士団、今日にも存続する聖ヨハネ騎士団(現マルタ騎士団)、後のプロイセンの原型となったドイツ騎士団の三種がその最代表である。これらはいずれも、第一次十字軍の後の12世紀、聖地と聖地の巡礼者の保護を目的に、ローマ教皇の承認と権威の元に設立・発展していったものである。
Orderという語は騎士とは本来関係ない、修道会を意味する言葉であり、研究者には騎士修道会と訳されることが多い。その文字通り、構成員は騎士であると同時に修道士であり、むしろその方が本分であったと言える。ただし、十字軍国家の重要戦力として軍事化が進むと共に世俗化が進み、かつ十字軍国家の衰退に伴い、三者三様に異なる道を進むことになった。まずドイツ騎士団は十字軍国家に早々見切りを付け、東欧へ自らの領土拡大を邁進しに行き、テンプル騎士団は軍事組織というよりも、西欧を跨がる国際金融業者として幅を利かすようになり、聖ヨハネ騎士団は地中海の島々を転々としながら、ムスリムの船をひたすら狩りたくる大海賊と化した。騎士修道会とは?
ただし彼ら三つの騎士修道会はいずれもよく訓練されていて、指揮系統が整備された戦争のプロ集団であり、中世盛期の軍隊としては最高峰の位置にあった。教会の宣伝もあって、その存在は騎士の鑑として西方ヨーロッパの隅々まで認知され、巨大な名望と巨額の寄進を恣とした(テンプル騎士団の金融業はこれが元手である)。そしてヨーロッパ各地において、彼らに肖った「騎士団」が続々と設立されていくことになる。だが、これらは当初の騎士修道会から懸け離れた組織であったり、先述のガーター騎士団やドラゴン騎士団のような、組織でさえない何かだったりした。
その中にあって、最も元来の騎士修道会に近く、かつ現代のファンタジー騎士団に最も近い物は、レコンキスタを戦うイベリア諸国で設立された様々な騎士団がある。特に後にスペインとして合流する諸国家の、カスティーリャ王国のカラトラバ騎士団、レオン王国のサンティアゴ騎士団とアルカンタラ騎士団、アラゴン王国のモンテサ騎士団が代表である。これらは騎士修道会として組織されたが(後に世俗化)、しばしば王立騎士団と称されるように、教皇や教会より国王や国家との関係に依存した点に大きな違いがある。騎士団は特有の領地を治め、高い自治権と様々な特権を享受した代わりに、おおよそのところ国王に忠実で強力な戦力で有り続けた。感覚的には国家の常備軍に近い存在だったとも言える。ただし、これら騎士団の兵力は騎士だけではなく、領地から徴兵された一般の兵士たちが多く用いられた。
長くなったがまとめると、騎士はまず非常に多義的で複雑で微妙な言葉であり、フランスでは元々騎兵を指す一般的な名詞であったが、後に独特な様式を持った準貴族的な社会階級として発達・確立し、より広い地域にその概念・制度・様式・文化が普及したもので、この騎士たちは軍役に行ったりサボったりしつつ、通常は地主か自作農か何かとして生活していたが、戦場の騎士たちは重装騎兵かそれほど重装でも騎兵でもない兵士として活躍して尊敬を集め、かつ騎士修道会が強くて有名になったり、騎士道文学が凄く流行ったりしたため、騎士の名前は強い名誉と矜恃を伴うようになり、猫も杓子も騎士を名乗り出すようになち、騎士や騎士修道会に肖る称号や勲章が発達していき、また騎士道文学を原型とした騎士道が整えられていった一方で、現実の騎士たちは戦場から駆逐されてしまい、もはや騎士とも呼ばれなくなったものの、それぞれの土地の準貴族階級として、近世以降も存続していった、多分だけどなんかそのような存在ないし概念、というようなことである。う、うーん……。
つまり......史実に忠実な異世界に転生したら、あなたのヒロインとの馴れ初めはヒロインが窓から投げ捨てたウンコをあなたが頭から被ってしまったことで、そのヒロインも字は読めず、宗教キチガイで、食事も手掴みで食べる女である。
街はウンコだらけで、酷使された農民たちは疲弊していて寿命も短く黒死病でバタバタ死んでいく。王は教皇に頭が上がらず、地方の領主からは徴税吏を追い返されたり、勝手な自治を領地でされたりする。あなたはアリウス派を信仰しているとか難癖つけられて連行されるかもしれないし、ヒロインは「キリスト教を信じないと地獄に落ちる」などと脅してくる。
っていうかあなたが持ち込んだ異世界にとっては未知のウイルスや細菌のせいでパンデミックが起き、医術も低くて、瀉血なんて血を抜く健康法を床屋が行っている・・・そんな異世界が舞台でそんな女がヒロインである。
もうさ、だったら諦めていっそのこと古代ギリシャ風異世界とか古代エジプト風異世界なんてどうでしょう?一昔前流行った核兵器や超兵器の使用で文明も社会も崩壊した近未来とかどうでしょう?古代ギリシャ風異世界に転生した主人公が古代ボクシングで古代オリンピックのチャンピオン目指す話とか、古代エジプト風異世界から現代に蘇ったミイラ主人公が全国の小学生にトラウマを植え付けるも、最期はヒロインに見捨てられて死亡する話とか、文明崩壊後で日本政府も無くなった20XX年、三重県と滋賀県が全面戦争に突入した世紀末架空戦記とか。
掲示板
775 ななしのよっしん
2025/02/10(月) 17:46:08 ID: 5H115E8Mw2
>>771
記事にあるようにファンタジーの本題は「中世ヨーロッパ」でも「いわゆる中世ヨーロッパ」でもなく「中世ヨーロッパ風」であり「中世風」なので
「いわゆる中世ヨーロッパ」を大事にしている人がわざわざ「中世ヨーロッパ風」界隈に入り込もうとする謎行動するからじゃがいも警察になっちゃうんだろうね
776 ななしのよっしん
2025/02/10(月) 19:55:19 ID: KvlSsdQxxm
>>774
コーカソイドという範疇なら奈良時代…聖武天皇の時代にペルシア人が謁見しているという記録あるね
>>775
アーサー王と円卓の騎士とか中世騎士の代名詞みたいなイメージで
両刃の長剣のエクスカリバーにフルプレート、巨大な石の要塞のキャメロット城みたいに描かれるけど
アーサー王は5世紀くらいの古代一歩手前くらいの時代の人物という事になっているので
時代を照らし合わせたらエクスカリバーはスクラマサクスのような片刃の鉈のような蛮刀、鎧はロリカかチェインメイル、キャメロット城は土塁と木造の砦の可能性があるらしいけど
当の英国人(スコットやウェールズも含め)たちが時代考証とか関係なしに
上記のロングソードとプレートアーマーのアーサー王&円卓の騎士像を描いているのだから
まして個人が創作した架空ファンタジーに時代考証なんて野暮なのよね
777 ななしのよっしん
2025/02/10(月) 20:09:30 ID: cjXDp0VXYg
今のアーサー王伝説は基本的に、12世紀のフランスの騎士道文学の系譜が、なぜか本家を差し置いて残っているものだから、
5~6世紀のイギリスというかブリテンの時代考証をしろというのもなんか変な話ではある
ただ現代アーサー王小説にはそこらへんの考証がしっかりしたものが色々あって割と面白いよ
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最終更新:2025/02/18(火) 06:00
最終更新:2025/02/18(火) 06:00
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