じゃがいも警察 単語

1件

ジャガイモケイサツ

1.9万文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

じゃがいも警察とは、史実厨の一種である。中世警察、ジャガトマ警察とも。

概要

異世界ファンタジーの作品(ライトノベルなろう系など)は、中世ヨーロッパ異世界であることがほとんどであり、そんな中世異世界には史実上のヨーロッパには普及していなかったとされる近世以降の物・概念が登場したりもする。その代表格が「じゃがいも」で、これは新大陸発見以降、アメリカ大陸からヨーロッパに持ち込まれたのである。

そのような史実があるため、異世界に登場したじゃがいもに対して「なんでじゃがいも中世ヨーロッパ世界に出てくるんだ」というツッコみも入れる者達が現れる。その者達を揶揄したのが『じゃがいも警察』である。「トマト」も玉にあげられやすく、合わせて「ジャガトマ警察」と呼ばれることも。

これ以前にも、アニメに出てきた弓道武術に対して弓道経験者が異を唱えた事があり、それを揶揄して生まれた言葉「弓道警察」から生した言葉といえる。

こうした摘は近年の小説などに限らず、古くは『指輪物語ロード・オブ・ザ・リング)』も同様の文句を言われている(厳密には指輪物語舞台異世界ではなく有史以前のヨーロッパという設定)。

中世ヨーロッパとは

しかし、じゃがいも警察が言うような、「中世ヨーロッパは~だ」と断言できるようなことは、じゃがいも以外には実際はほとんどない。これは「中世ヨーロッパ」の時間的・間的範囲について、冷静に振り返って考えれば分かることである。

伝統的に、西洋史における「中世」は前期(5世紀~1000年)、盛期(10001300年)、後期(1300~1500)に分けられ、逆に中世とはこの全ての期間の合計をいう言葉である。即ち1000年以上にも渡る、非常に長大な時代なのである。技術の発展や社会の変化が現代より緩慢だったと言っても、いくらなんでも長すぎであり、この期間全てを大した根拠もなく「中世」としてまとめること自体、中世に関する誤解を招く大要因となっていることは否めない。が、今更代えることもできないので、歴史学者たちは渋々使っている。

当然、時代の移り変わりというのは、アグモングレイモンになるのとは違い、それぞれの地域や社会において徐々に物事が変化していく、その積み重ねによるものである。そのため中世も初めと終わりとでは何もかもが異なるし、古代の終わりと中世の初め、また中世の終わりと近世の初めとで、明な差があるものでは決してない。

また地理面から見れば、ヨーロッパとは、西はポルトガルから東はロシアウラル以西)、北はノルウェーから南はギリシャまで、非常に広大な地域をす言葉である。同じヨーロッパでも、ところが違えば地形や気は大きく異なり、社会文化はそれ以上に多様なものである。

民族も言語系統で大別すればロマンス語系(フランスイタリアスペイン等)、ゲルマン語系(イングランドドイツデンマーク等)、スラブ語系(ロシアポーランドブルガリア等)、ギリシア語系(ギリシャ、当時のビザンツ帝国)、あるいはケルト語系、バルト語系、フィン・ウゴル語系、アルバニア語系等々がいて、それぞれも細かに分ければどこまでも分けることができてしまう。またこうした言語による分け方は、近現代の観点から民族を再解釈したようなものであり、当時は全く違った感覚で数の民族社会集団・文化共同体を分けていたのである。だから同じゲルマン語系だからと言って、イギリスフランスよりドイツに近しいというようなことを考えていると、この時代の民族社会文化を大きく計り間違えることになる。

現代よりもかに重要だった宗教に関しても同様で、単純にキリスト教と言っても、西方教会(カトリック)と東方教会(正教会)の大別は最低限意識しなければならないし、その東西の分かれ方自体が、時期によって非常に異なっていて極めてややこしい。さらに東西それぞれの宗もあれば異端もあり、教義の変遷もあれば実態の変容もあり、また教会導者側の観点と世俗社会側の観点、知識人の観点と庶民の観点、国家や地域などからも、宗教の捉え方は千差万別であった。このため当時のカテキズム(教義解説書)等を読んだところで、中世キリスト教の有り方を理解することはできない。そして論、ユダヤ教もある。

さらによりに当時のヨーロッパを見るならば、日本人が暗黙裏に「(中世)ヨーロッパ」から排除してしまうような存在、つまり非白人キリスト教ユダヤ教以外の宗教のことを考えなくてはならない。例えばレコンキスタ以前のイベリア半島では、アラブ系またはベルベル系のムスリムが支配的な存在だったが、これも定義的には中世ヨーロッパの一部である。また、キリスト教以前のヨーロッパ多神教も、冷静にその期間と地域を計って考えるならば、中世一般において小化できる存在では決してなかった。ただ、どうしても文字史料が限られるために、現代から研究しにくいだけのことである。

こうしたことから言えることは、「中世ヨーロッパは~だった」と一概に言えることは、実際にはほとんどないということである。少なくとも、全中世の全ヨーロッパに渡る時代精神というものは存在し得ないし、個々の具体的な現象・傾向も、実際に当てはまるものは極度に絞られる。それこそ、じゃがいもが存在しなかった、ということくらいである。このためじゃがいも警察が摘するようなことは、はっきり言えば、じゃがいも以外だいたい間違っている。

よく指摘されること

この節は、改良工事中です。

始めに: よく指摘されることは、別に正しいことではない。

上記のことに関連して、中世は恐ろしく誤解の多い時代である。それはじゃがいもがあるかどうかではなく、時間的・地理的に広大で捉えにくいということだけでもなく、西洋の伝統において「暗黒時代」と称されて蔑まれ、一次史料など当たらず、ただ偏見のみを根拠とした言説があまりに多く流布されてきたことによる。こうした歴史意識は、それ自体が歴史研究の対となるほど長く根深いものがあり、非常に複雑な事情が絡んだものであるだけに、払拭が難しい。

とはいえ歴史学の発展と積み重ねは、こうした伝統的な中世論は全くの間違いだと明するか、大幅な訂正を余儀なくさせるに至っている。今日では実際の史料と科学的な方法論、様々な分野からの多的な分析に基づく中世像が再構築されており、「暗黒時代」から全く様変わりしたものとなっている。だが、そうした歴史学者の努力は一般にはまだまだ知られておらず、インターネットでは今日今日とて間違いだらけの「現実中世」が、さも賢しげに説かれるのである。

以下にはなるべく、そうした通俗的な中世論には依らない、歴史学的に妥当な中世をなるべく記すようにしたい。大幅改訂中。

中央集権

中世ヨーロッパは概ね、弱い王権を特徴としていた。いわゆる絶対王政近世における中央集権化・君独裁化の傾向をして言ったものであり、中世に適用して見ることは難しい。ただし、しばしば「最初の絶対義者」と称されるシチリア王のフェデリーコ1世や、時期にもよるがビザンツ帝国のように、中央集権を志向した君国家中世にも存在する。これらはいずれも近世近代準には及ばないだろうが、中世だからといって中央集権国家が有り得ないというわけではなく、下記の説明も中世ヨーロッパの地域・時代全体に当てはまることでは到底ないことに注意しなければならない。

日本史でも染みの「封建制」は、元々は中世ヨーロッパの特徴的な政治・社会構造を説明するものとして定義された。これは大雑把に言えば、君政府土を直接治めるのではなく、君に領地(封土)を与えられたそれぞれの封臣(臣下)が、領としてその土地を治めるということである。封臣は納税や軍役等の義務と引き換えに、高度な自治権と独自の法で以て領地を統治しており、時には貨幣さえも各自で鋳造していた。こうした君と封臣の関係は必ずしも良い物とは言えず、むしろ表に裏に対立していることはしくない。

さらに封臣も大きな者なら、その下に更なる封臣が存在する。これは元の君からすれば臣下の臣下、即ち陪臣に当たる。陪臣は君自身の臣下ではないため、封臣の頭越しに図することは難しく、陪臣の方も君の君は君ではないという意識が強かった。

また特に西欧においては、世俗の君たちの権力は、教皇を筆頭とする教会権力によって多かれ少なかれ制限されており、しばしば教会との駆け引きが政治における最大の問題となった。これは協力的で互恵的なものから、血みどろの闘争に至るものまで様々で、特に神聖ローマ皇帝が教皇との争いの末に膝を屈したカノッサの屈辱や、逆にフランス王が教皇を拉致連行して、アヴィニョンに教皇庁を建てることになったアナーニ事件は有名である。

ジャガイモ

1492年以降の新大陸の「発見」と交易により、旧大陸と新大陸のありとあらゆる事物が移動・交換された現象コロンブス交換と呼ぶ。このうち新大陸から旧大陸にもたらされた一般的な作物を列挙するなら、まず何と言ってもジャガイモトウモロコシ、そして順不同にサツマイモキャッサバ、ヒカマ、キクイモ、キヌア、アマランサス、トマトカボチャ類、唐辛子類、ハヤトウリ落花生インゲン豆、カシューナッツ、ペカンアボカドパイナップルパパイヤ、バンレイシ類、グアバパッションフルーツドラゴンフルーツアサイー、ウチワサボテン向日葵、チアシード、カカオバニラオールスパイス、サトウカエデ、ユッカクズウコン、マテ、コカ、タバコ、キナ、パラゴムノキ、サポジラ、等々。また、新大陸の作物が旧大陸の同類作物に取って代わるか、大いに交雑していった物には、イチゴブルーベリー、そして何より木綿がある。

こうした新種の作物や畜等だけではなく、新大陸の土地・人間を含めた資全体や、疫病、文化・思想・概念を含めたもの、また旧大陸の同様の事物が新大陸に移入されたこと、新旧の互いの事物が混交して掛け合わされたこと、そしてそのことによる様々なや、経済的・社会的・地球的な変化を広く言うのがコロンブス交換である。このじゃがいもがどうとか言うよりかに巨大な物があり、中世近世とを区分する強力な根拠となっている。そのため、もしもあなたが本格的な中世ヨーロッパを描写したければ、コロンブス交換に関する専門書を読むことをお勧めする。

ただ誤解を解けば、近世に初めてヨーロッパの(そして日本の)食卓に、色々な神作物が登場したからと言って、これ以前の中世の一般の食卓が、パンや麦やせいぜい漬けしかなかった、などということは絶対にない。そもそも中世人はほぼ農民であり、例え農であったとしても、自分たちのに自分たちの食べたい作物を植えて食べていたものである。農業生産の一部の要作物・換金作物への極度の依存と、東欧の、農文字通り奴隷化して、自分が食べる分さえ自由に作れなくなる有り様は、むしろ近世以降に加速していったことである。中世にも絶対にないとは言わないが、一般的な状態からは程遠い。

キャベツニンジンネギ類やカブ類やインゲン以外の様々な豆など、中世ヨーロッパの一般的な野菜の多くは現代日本人にも染みの物である。リンゴイチジクイチゴ葡萄柑橘類などの果物にもがなく、おそらく現代人より食べていた。おは当然大好きで、も手に入るなら好んで食べ、その加工と保存の方法は非常によく発達したので、香辛料に関する有名な神話にあるよう、腐ったを食わなければならなかったということもない。

さらにイギリスの遺調を見る限り、(イングランドの)中世人の栄養状態は思われるよりは悪くなかったどころか、近世人より良かったことが判明している。詳しく見れば、中世前期の戦乱深まる後半期と、小氷期に突入し、黒死病と大飢饉が人々を襲った14世紀を別にして、イングランドの成人男性身長は概ね170cmを越えていたが、近世以降は徐々に下回っていくのである。

確かにジャガイモ、そしてトウモロコシヨーロッパ農業生産の飛躍的な向上をもたらした。だが古典的なマルサス理論から言えば、(前近代において)人口の増加は食糧の増加を常に上回るため、食糧が満ち足りることはない。それに加えて、現在研究を見れば、都市化と農業人口割合の減少、経済社会構造の変化、気変動、一部の作物への依存、作物の疫病の増加、衆衛生の悪化等の諸要因が相まって、むしろ近世以降の庶民の栄養状態は低下し、飢饉・飢餓が慢性化・深刻化していったのではないかとも言われている。ただ、これがヨーロッパ規模で本当にそうと言えることなのかは分からない。

ついでに、細かいことを言えば、このジャガイモなどは大陸にはかったというだけで、中世という時代に紛れもなく存在していたはずである。中世アンデス(?)とか。そこからすれば、「中世ジャガイモはなかった」というのは多少もにゃもにゃするものがある。

水、公衆衛生

中世人はが汚くて飲めず、しか飲まなかった……というのは有名なデマは当たり前に飲んでいた。大都市を抱える河川の汚染は当時すでに大きな問題になっていたとはいえ、まだ人口の少なく、土地が開拓され切っていない当時は綺麗は多くあったし、井戸雨水の貯は当然として用いられていた。

中世ヨーロッパではそもそも、アルコール消毒作用もまだ分かっていなければ、感染の理解も極めてあやふやなものだった。それでも飲みの清潔さにはよく気を使っていたことは、都市噴水などを汚すことは法で禁じられていることからも分かる。この噴水というのは美観のためのものではなく、市民むための公共の上設備であり、都市公共事業によって引かれてくるものであった。

他にと衛生に関することとしては、中世人は古代ローマ人と異なり風呂に入らなかったという一般のイメージに反し、よく入っていた。もちろん現代日本人並には入っていないが、古代ローマ人と同等以上には入っていただろう。時期差・地域差は論あれども、ヨーロッパ東西のかなり広範な範囲に入浴の習慣は浸透しており、それも都市部や上流層だけではなかった。

公衆浴場の存在は、中世初期からすでにそれなりに確認でき、中世盛期には爆発的に数を増やす。上流階層は録に見える個人の浴槽にゆったり浸かっていたことだろうが、カール大帝は大勢の従者を引き連れて一緒に入るのが好きだったらしい。ベネディクト会などの修院では、身の清めの一環として修士に入浴を奨励しており、また慈善浴場を貧しい人々に提供することもあった。ビザンツ帝国ローマ帝国なので風呂帝国だったが、イベリアのムスリム北欧バルト地域の多神教徒も入浴サウナに明け暮れており、キリスト教化しても受け継がれることになる。追ってフランスでは十字軍が持ち帰った中東風呂が盛況し、ドイツではご当地温泉を巡る湯治観光一般化し、ベルギースパにはスパがあった。

ではなぜ々は中世人は風呂に入らないと刷り込まれているのか。それは直接的には、 近世入浴文化が、一部地域や層を除き急速に衰えたためである。これは梅毒の感染を恐れてのことだから中世では有り得ないのだが(梅毒コロンブス交換でもたらされたというのが定説)、近世後期から近代に再び風呂に入り始めたヨーロッパ人は全にその記憶を失っていた挙句に、自分たちが風呂に入らなくなったのは悪しき中世のせいだと思い込んだのである。

このように、や衛生にわる中世の悪名は、近世近代にもなってからの状況を都合良く押し付けられたものが実際大半である。ただし、そうはいっても、中世衆衛生が良かったと言うわけではない。飲みになるべく気を付けようが、風呂になるべく入ろうが、まあ、大まかに言えば、悪かった。ではそれがどう悪く、どうしてそうなっていて、それでもどのように人々は対処していたのか。以下は異常に頻繁に取り沙汰にされる、「中世人とうんこ」の実態について掘り下げる。

下水道、うんこ

古代ローマ下水道を大々的に整備していたことはよく知られていることであるが、一般にあまり知られていないことに、西欧中世人もローマ人の残した下水道を部分的には使い続けていた。例えば、とりもなおさずローマでは、中世から現代に至るまで古代下水道保守されて稼働し続けており、世界最長の操業年数を持つ下水道としてローマ市民の御自慢の種になっている。

もちろん、東ローマ帝国たるビザンツ帝国下水道を整備しまくっていた。中世きっての世界都市たるコンスタンティノープル(現イスタンブール)の上下水道は、単に古代の遺構を保守し続けるだけの物ではなく、拡大し続ける都市のニーズに合わせて改修と拡を繰り返しており、ここで発展した技術は北隣のブルガリア帝国でも導入された。9世紀までのブルガリアの旧首都リスカにはその遺構が残っており、大規模な貯水槽からレベルを供給して排出する、かなり高度な系があったことが判明している。こうした事例から言って、「中世ヨーロッパ下水道はなかった」というのは間違いなく間違いである。

とはいえこれら大規模網の存在は、古代ローマ帝国ビザンツ帝国ブルガリア帝国といった、帝国の名に相応しい強力な国家権力を背景とした、大規模かつ継続的な公共事業を要する物であっただろうし、それも版図の隅々に至るものではなかっただろう。ことに中世西欧の封建的社会構造においては、体系的かつ効果的な下水道の建設や長期間の保守改修は、上記のローマなどの条件に恵まれた一部地域などを除けば、ほぼ不可能であったと見える。このため大都市では、年代が下るにつれて、適切な下設備の欠如から来る深刻な衆衛生上の問題が発生しまくっていたことは事実である。

この問題は中世どころか近世でもまるで解決せず、むしろ中世較にならないほど人口と人口密度が増すにつれ、うん口とうん口密度も較にならないほど増していくため、悪化の一途を辿っていった。最終的な解決は近代ただ中の19世紀にもなって、西欧列強各の威信をかけた巨大プロジェクトとして、近代下水道開発されて導入されるのを待たなければならない。当然史料も中世よりも近世代の方がかに多く、ことにパリロンドンについては、当時の関心の的として極めて詳細な記録が残っており、世界中からモデルケースとして参考にされ、現代まで熱心に研究され続けているため、知られすぎているほどに知られている。

このため、ネットに出回るような中世うんこ描写は、よくよく追えば近世代のロンパリ記録に基づくか、そこから惹起された創作であることがほとんどであったりする。例えば近世パリの、つば広の婦人帽(または日)はから捨てられるうんこ対策だとというのは、これ自体神話なのだが、さらに中世人に転されて「中世人はからうんこを投げ捨てていた」ということになっている。やめろ💢

体系的かつ効果的な下水道はなかったと言ったが、中世西欧にも(ローマの遺構に拠らない)下水道がなかったというのは全に言い過ぎである。例えばパリでは、公共下水道が12世紀から14世紀頃に徐々に建設されていく。開始年代に2世紀もぶれがあるのは、抜き通りのん中に掘られた得体の知れない溝を下水道と呼んで良いのかという定義の話であり、暗渠式の下水道らしい下水道が登場するのが14世紀後半なのである。以降散発的に建てられていった中世パリ下水道は、やがて相互に連結されてセーヌ系と一体化し、を取り囲むように網羅された、近世代の(悪)名高いパリ大下へと発展していくことになる。

ただ一般的に、パリ市民中世末期でも、数も利便性も限られすぎた下水道を利用するよりは、町内会組織でまとめて回収して定の場所に捨てにいくか、回収業者と契約して代わりに捨ててもらうようなことの方が多かったと思われる。その捨て場所はが近ければに、なければ定のゴミ捨て場通り(通り?)に捨てるという、現代人にはちょっと思い浮かべたくもない物ではあったが、とにかくからうんこを投げ捨てていたわけではない。実際、市民の前を汚せば罰金を払わなければならなかったし、そうでなくとも中世パリジャンパリジェンヌが毎自分のうんこを踏み付けて出勤したかったと考える根拠はない。従ってもう一つの有名な神話、「パリ貴婦人ハイヒールうんこを踏まないために中世で発明された」というのも間違いである。本当にやめろ💢💢💢

ロンドンの場合は、下に垂れ流すという以前に、テムズそのものが公共下水道だった。中世ロンドンはテムズの、現在でいうシティオブロンドンを大部分とする小さな物だったが、中世にはまだ統合・地下化されていなかった多くの支や涸れのようなものが内を巡っており、住民はをそのまま下水道として利用し汚物を放り込んでいた。このために、ずばり下水道と名付けられたもあるほどである。そして非常に合理的なことに、トイレの上に設けられた。

これは人口が少なかったうちは、中世に望める衆衛生としては、むしろ最善のことであっただろうが、14世紀の黒死病ロンドンで特に猛威を振るい、市民の推定六割を死に至らしめたのは多分このせいであった。少なくとも当時のロンドンでは自明のことであったため、1357年にエドワード3世がの浚渫や内全般の衛生改善を厳命する怒りの勅を下すに至る。この勅中世の衛生をテーマにした本では必ずといって良いほど出てくる有名なもので、当時のロンドンの様相とエドワード3世の怒りの強さをい知ることができる。以降、ロンドンにも正規の下水道が整備されていくと共に、種々の衆衛生対策が進められ、汚物の取扱に一定の規則・規制が設けられていくことになる。その一つと見えるのがゴングファーマーである。

ゴングファーマー(「移動農家」)と言う職名は、近世チューダー期での物だが、中世各地には類似の職業が成立していた。彼らの仕事は各庭、トイレ、汚水槽・汚物槽(地面に深く掘り、しばしばご近所で共同利用する、要に溜め)から汚物を回収して、別の場所へと運ぶことであり、たく言えば中近世バキューム業者である。チューダーロンドンの場合、回収した汚物の中継集積場が河川敷に設けられ、ここから艀でを離れた集積場へと運んでいた。これは行政議会によって手配された公共事業であり、ゴングファーマーはその危険で不名誉な仕事に見合うだけの高給を貰っていた。中世の同業者がそれだけの好待遇だったかよく分からないが、彼らには都市や領からの給料に加え、回収物を農家に売るという副収入も期待できた。近世日本のような屎尿の再利用を、中近世ヨーロッパ人も考えていなかったわけではなく、パリゴミ捨て場通りでも郊外の農民が直接肥料を調達しに来ていたそうである。

しかし彼らも増大し続ける都市の排を一手に引き受けられるものでは決してなく、どんな手を打ったところで経済発展と人口増加には概して追い付けず、ただただ悪化し続ける都市衆衛生は、14世紀の黒死病から19世紀のコレラまで、深刻な疫病の温床となり続けた。そしてこの因果と帰結は、科学的な機序はともかくとして、常に認識されてはいた。それにも拘わらず、近代まで解決の処を立てることができなかったのがヨーロッパの(そして世界の)衆衛生史の悲劇であり、それは人々の衛生観念が欠如していたためではないのである。まあ、中近世人に正しい衛生観念があったわけではないが。

中世とは全に関係がなくなるが、近代ロンドンの汚染が大悪臭と称される退っ引きならない事態に陥ったのは、皮にも近代技術によって各庭に至る上下水道トイレが整備され、そこからテムズへまた全面的に垂れ流されるようになったのが大きな要因である。緻密な網とトイレゴングファーマーは御役御免となり、ただただテムズに堆積する汚泥の山が、中世黒死病悪夢を、その数十倍の人口と面積においてらせてしまったのである。衆衛生を改善し維持するには、単に物理的なインフラを建設すればいいのではなく、共同体の規模と環境に見合った、体系的で持続可能社会システムを構築しなければならないということがよく分かる。

それは逆に言えば、小規模でまばらな農業共同体においては、各レベルの処理でも実際間に合うということであり、中世人の圧倒的大半が住む農部が、大都市に見られるような衛生状態にあったというのはいかにも考え難い。しかし史料がほとんど何もない領域なので、その実態もほとんど何も分からないのである。ただ一つ、確かに言えることは、そう……中世人はからうんこを投げ捨てていたわけではない💢💢💢💢💢

食器、カトラリー

中世人がフォークを使わず手づかみでものを食べていたというのは有名な話だが、中世フォークがなかったというのは実はかなり語弊がある。古代ローマ人が用いていたフォークは、西欧では西ローマ帝国の滅亡と同時に一端れてしまったものの、東ローマ帝国たるビザンツ帝国では全く支障なく用いられ続けていた。

その後西欧で最初に再導入され始めたのは、ビザンツと交流の深かった北イタリアヴェネツィアで、11世紀頃のことと見られている。そしてイタリア半島全域で、パスタ料理確立されるのと行して急速に普及していき、14世紀には南北賎を通して浸透していたと見られている。

イタリアに次いで、イベリアフランスロマンス語圏に浸透していったが、これらは近世の16、17世紀までに渡る緩慢なものであった。ましてゲルマン語圏やスラブ語圏にまで浸透しきるのは、近代もほとんど近い18世紀頃のことである。

ただし、フォークを手にする前のヨーロッパ人が全に手づかみで食っていたかと言うとそうでもない。当時のナイフは先端が丸まっていない鋭利なものであったため、細身の物なら食べ物を刺して直接口に運ぶ、フォークと全く同じ使い方をしていたようである。ただし、手づかみも普通だった。

フォークのみならず、スプーンがなかったというのは全なデマ旧石器時代人でも使っとるがな。アジア人だってで飯を食ってたぞ。

騎士

もしも中世騎士140字で定義して、何かの作品の騎士を「間違い」だと言う者がいれば、そいつの言うことが100%間違っている。中世という捉えどころがない時代においても、騎士というものほどに複雑で理解が難しい概念しい。いや結構あるかもしれないが、これほど現代に知名度が高く、非常によく研究されているにも拘わらず、実態を捉えることが極めて困難で、異常にややこしい存在というのはそうはない。従って、中世騎士の実態を考える以前の話として、騎士という概念自体がそもそも何なのか考える必要がある。

言葉としての「騎士」

騎士は言うまでもなく日本語である。そして英語ではKnightフランス語ではChevalier、ドイツ語ではRitterスペイン語ではCaballero……と続くが、これらの言葉はそれぞれ単純な対応関係にあるわけではない。さらにまた、中世の前期、盛期、後期、近世以降のいかなる時代においても、これらの言葉やその異表記が、一様に同じ意味で使われていたことはない。騎士という語のそもそもが、非常に多義的で、非常に複雑かつ非常に微妙な言葉なのである。この事実を念頭におかず、中世騎士を論じてはならない。

兵科としての「騎士」

本義としては「騎士」は兵士、特に騎兵のことだと説明されることが多い。例えばフランス語のChevalierは文字通り「騎兵」が原義である。このためいわゆる騎士階級にない騎兵を区別せず、Chevalier、Chevalerie(騎兵科/騎士)の類の語で呼ぶことは中世を通じて一般的なことであり、ことに中世前期から盛期ならその方が当たり前である。つまりに乗って戦場に出てさえいえば、その身分や出自に関わらず、騎士を名乗ることに制約と言えるものはなかった。

英語Knightに至っては、「少年」を語として、中世初期には「扈従」を意味していたに過ぎず、兵士を意味する言葉でさえなかった。それがおそらくノルマン征以降、フランス語のChevalierに対応して、騎兵を含む兵士、そして騎士に意味が近付けられていった。しかしなおも「扈従」の含意が強く、騎士階級のみを特定してすようなものではなかったようだ。それでも14世紀頃までに、騎士階級にない(あるいは騎士階級に限らない)兵士/兵科Men-at-armsまたはSergeant(-at-arms)と呼び分けることが確立され、Knight騎士階級、または騎士階級出身の兵士独立してすようになったと思われる。

階級としての「騎士」

しかし騎士兵士/騎兵とが必ずしも呼び分けられていなかったからと言って、今日イメージされる社会階級としての騎士が存在しなかったわけではなく、通常の騎兵との区別が意識されていなかったわけでもない。

いわば騎士階級というものが、単なる兵士層からいつ頃分離したのか、そもそも本当に起兵士なのかは諸説有る。だが今日々が想像する「騎士」は概ね、11-12世紀のフランスにおいて発達し、近世初期までにヨーロッパの広い地域へそ概念・制度が敷し、特有の様式や文化を共有するようになり、かつ強力なエリート兵士の供給となった、準貴族的な社会階級としての騎士のことであり、またはこうした騎士たちを限定化・抽化・理想化した観念である。このような騎士階級についてより詳細に知りたければ、まあ、Wikipediaを読めば良いと思う。

ただ、注意すべき点は、まずこの「騎士」はフランスを中心として、その周辺に広まったものにすぎないことである。このため基本的にフランスから離れれば離れるほど、このような騎士階級やその近似を見つけることは難しいし、距離的には近くても、様々な要因のために成立しなかったか、ごく小規模だった地域は少なくない。例えばスイスアルプスの地形故か、都市的な経済構造や文化のためか、騎士階級と言えるものは見えず、むしろ騎士殺しで有名なスイス傭兵西欧中に派遣することになる。

別の注意点は、英独西などの狭い地域に限定しても、幼少期からの側に近侍して、高度な修練課程や戦場での下働きを経て一人前となり、時には試合で競い合い、戦時には重装騎兵として敵に騎突撃を行う、麗で勇猛で洗練された上の戦士たち、という決まり切ったイメージで実際の騎士階級を捉えるには、例外があまりに多すぎるし、典と言える物でさえないということである。

基本的に、騎士階級の男たちがみな重装騎兵だったとは限らず、さらには兵士だったとさえ限らず、軍役は代納金に代えるかそもそもなく、ひたすら自分のを耕したり耕させていたりする、その辺の農民や地と変わらない騎士の姿はしくない。例えばイングランドでは、百年戦争に際して中の騎士たちを徴兵しようとしたものの、大方代納金を払って拒否したため、より下層の庶民階級が軍の力となった。なお、この庶民兵でもフランス騎士たちを殺戮できたことが、戦場での騎士の衰退の端緒となる。

こうした富裕農民・中小地としての騎士、時にお金も土地さえも持たないような騎士たちが、後のイギリスのジェントリやドイツユンカースペインポルトガルイダルゴ/フィダルゴといった類似の準貴族・下級貴族階級の要な流となっている。騎士戦場での役割を失い、もはや騎士とは呼ばれなくなっても、彼らはその地位と性格を保つ社会階級として、依然として存在していたのである。

職業としての「騎士」

そうは言っても、騎士は戦ってこそ騎士である。中世後期には、騎士文学等のもあり、高で強力なエリート戦士として騎士イメージが定着し、最狭義の「騎士」は彼らのみをすものとなった。いわば職業軍人としての騎士と言える。実際軍役にある騎士は、(戦時には)給料が支払われていたようである。

ただし戦場に出る騎士の中でも、壮麗な騎突撃を行う勇猛果敢な重装騎兵という感じのものは、やはり一部である。給料が多少出たところで、を養うだけならまだしも(とかに使えるし)、年代を経るにつれて重く嵩り高価になるばかりの重装備を買いえるのは厳しい。特に中世も終わり頃から近世初期のいわゆるフルプレートアーマーや、おさんまで覆い尽くすバーディング()一式となると、もはや兵士個人に戦車を買えと言うに等しい。大方の騎士は帷子を着て、せいぜい胸当ての類や、や籠手などを部分的に身に付けるので精一杯だったことだろう。それでも、着ると着ないとでは段違いだが。

加えて一般に、騎士だからと騎突撃するものとは全く限らず、実際の交戦時には歩兵として戦うことは当たり前だった。それはまず第一に、中世盛期・後期のほとんどの戦闘は会戦・野戦ではなく、や砦での要塞戦であり、敵に騎突撃を行える機会自体がそうなかったということ。そして第二に、稀少な会戦現場にで駆け付けても、騎戦術が有効と見なければ、賢い騎士たちなら下していたということである。まあ、フランス騎兵イングランド兵にな突撃を繰り返して惨敗したクレシーの戦いのようなものもあるが……

それでも戦略上、騎兵や重騎兵えて、その機動力で要地や集落に素く到達して確保したり、その野戦力を誇示して敵を牽制・威圧することは、特に平野部の戦争では効果的なことだっただろう。それを担える代表的な存在が騎士であったと言える。ただもちろん、実際の騎士たちがどう戦ったかは、時代や地域や個々の戦争によってもしく異なることなので、もしもあなたが本格的な中世騎士の戦いを描きたければ、こんなネットの駄文より個別の論文や専門書を参考にすること。

名誉としての「騎士」

こうした戦場での騎士の活躍や、後述の騎士団(騎士会)の名望と並行して、騎士文学で強くて誇り高くて女にモテる騎士の理想像が世に流行して浸透していくと、騎士という肩書きは、大いなる名誉と恃を伴う物となっていった。こうなるとも杓子も騎士名乗りたがるようになり、称号、勲章、尊称、自称としての「騎士」というものが大いに発達していくことになる。

13世紀から、正式な「騎士」になるための込み入った儀式、いわゆるアコレードが見られるようになった。身を清めて王に頭を垂れ、で肩をかれ騎士に叙任される、という今日イメージはここにある。実際の儀式のやり方は様々な物があり、その位置付けも様々なら、当初はそもそもなかったわけだが、こうした儀式通過儀礼を用いて騎士騎士たらしめる動きは、年代とともに強まる傾向にあった。それと同時に、騎士階級とは到底言えない高位貴族たちもが、騎士アコレードを好んで受けるようになっていった。例えば百年戦争初期の1346年、イングランドからフランスに上陸したエドワード黒太子は、最寄りの教会にてエドワード3世から騎士に叙任されている。

これとは別に、名誉称号や勲章としての「騎士」を規定したものが、およそ14世紀から今日まで続く、イギリスガーター騎士団に代表されるような、形式上の「騎士団」である。このペーパー騎士団の一員として叙任される騎士は、日本語でしばしば騎士爵、勲爵士などと訳されるように、貴族爵位の下位として位置付けられることもあるが、専ら君や大貴族ばかりが立ち並ぶものもある。15世紀のハンガリー発祥のドラゴン騎士団はまさにその類で、格好付けすぎの名前と相まって非常に持ちならない印がある(個人の感想)。

一方、庶民も王侯貴族のみが「騎士」を独占することを許さなかった。例えばイギリスの「Sir」は、元来が騎士の尊であり、現在までそうした規程自体は残っているにも関わらず、14世紀にはすでにみんなSirだった。準騎士と言える「Esquire」の語も、16世紀までには騎士/貴族の子のみならず職者や地階級一般の敬称になっており、やがてSir変わらないものになった。そして「騎士」自体、騎士たる何かを持つらしい男たち全員自称、尊称、蔑称に変じて、今日に至っている。

理想としての「騎士」

こうした騎士への強憧憬を生み出す、おそらく最大の要因となったものが、いわゆる騎士文学(ロマンス)というものである。騎士階級がフランス確立されて各地に広ったのとほぼ同じくして、騎士文学フランス盛してから各地へと流行していった。特に12世紀の北フランスの吟遊詩人、クレティアン・ド・トロワの存在は無視できない。彼は大貴族の夫人に囲われた文化人であり、その作品はどちらかといえば貴婦人受けを狙った物であったろうが、老若男女賎上下とを問わず馬鹿受け。この力は絶大な物があり、以降ヨーロッパ各地で後追いの騎士文学が発展していくことになった。

こうしたクレティアン的騎士文学騎士の像は、現実騎士モチーフとしつつも、ほとんど純然たる創作の産物だったと見え、さらに時を経るほど高度に形式化され理想化されていった。このため騎士文学から中世騎士の実像を読み解くことは不可能なのだが、一方で当の騎士たちがこのような騎士文学騎士の姿にされ、時代を経るにつれ、自らそう振る舞うように内面化していったという点は興味深い。

騎士としての強な名誉意識、信心深さ、礼節や実さ、慈悲と寛容、高潔で決闘の精神、忠心、貴婦人への崇高なと誓い(宮廷)等々。これらはあくまで理想に過ぎないが、騎士として努めるべき規範ではあった。そしてこうした理想像を原に、足したり引いたり割ったり掛けたりして、より抽的な精神や美意識や、またはより具体的なスタイルマナーとして洗練されていったものが、即ち「騎士」である。が、この今日的な意味で騎士確立される頃には、すでに現実騎士たちは戦場から一掃されていたか、の息だった。

「騎士団」

ファンタジー世界騎士には、ほとんどセットで付いてくる「騎士団」。これは英語ではOrder、またはMilitary Orderと呼ばれた中世宗教軍事組織を発端としている。色々な界隈から有名なテンプル騎士団、今日にも存続する聖ヨハネ騎士団(現マルタ騎士団)、後のプロイセンの原となったドイツ騎士団の三種がその最代表である。これらはいずれも、第一次十字軍の後の12世紀、聖地聖地巡礼者の保護を的に、ローマ教皇の承認と権威の元に設立・発展していったものである。

Orderという語は騎士とは本来関係ない、修会を意味する言葉であり、研究者には騎士会と訳されることが多い。その文字通り、構成員は騎士であると同時に修士であり、むしろその方が本分であったと言える。ただし、十字軍国家の重要戦力として軍事化が進むと共に世俗化が進み、かつ十字軍国家の衰退に伴い、三者三様に異なるを進むことになった。まずドイツ騎士団十字軍国家々見切りを付け、東欧へ自らの領土拡大を邁進しに行き、テンプル騎士団は軍事組織というよりも、西欧を跨がる際金融業者として幅を利かすようになり、聖ヨハネ騎士団地中海々を転々としながら、ムスリムをひたすら狩りたくる大海賊と化した。騎士会とは?

ただし彼ら三つの騎士会はいずれもよく訓練されていて、揮系統が整備された戦争プロ集団であり、中世盛期の軍隊としては最高峰の位置にあった。教会の宣伝もあって、その存在は騎士の鑑として西方ヨーロッパの隅々まで認知され、巨大な名望と巨額の寄進を恣とした(テンプル騎士団の金融業はこれが元手である)。そしてヨーロッパ各地において、彼らに肖った「騎士団」が続々と設立されていくことになる。だが、これらは当初の騎士会から懸け離れた組織であったり、先述のガーター騎士団やドラゴン騎士団のような、組織でさえない何かだったりした。

その中にあって、最も元来の騎士会に近く、かつ現代のファンタジー騎士団に最も近い物は、レコンキスタを戦うイベリアで設立された様々な騎士団がある。特に後にスペインとして合流する諸国家の、カスティーリャ王のカラトラ騎士団、レオンのサンティア騎士団とアルカンタラ騎士団、アラゴンのモンテサ騎士団が代表である。これらは騎士会として組織されたが(後に世俗化)、しばしば王立騎士団と称されるように、教皇や教会より国王国家との関係に依存した点に大きな違いがある。騎士団は特有の領地を治め、高い自治権と様々な特権を享受した代わりに、おおよそのところ国王に忠実で強力な戦力で有り続けた。感覚的には国家の常備軍に近い存在だったとも言える。ただし、これら騎士団の兵力は騎士だけではなく、領地から徴兵された一般の兵士たちが多く用いられた。

騎士とは……

長くなったがまとめると、騎士はまず非常に多義的で複雑で微妙な言葉であり、フランスでは元々騎兵す一般的な名詞であったが、後に独特な様式を持った準貴族的な社会階級として発達・確立し、より広い地域にその概念・制度・様式・文化が普及したもので、この騎士たちは軍役に行ったりサボったりしつつ、通常は地自作農か何かとして生活していたが、戦場騎士たちは重装騎兵かそれほど重装でも騎兵でもない兵士として活躍して尊敬を集め、かつ騎士会が強くて有名になったり、騎士文学が凄く流行ったりしたため、騎士名前は強い名誉と恃を伴うようになり、も杓子も騎士名乗り出すようになち、騎士騎士会に肖る称号や勲章が発達していき、また騎士文学を原とした騎士が整えられていった一方で、現実騎士たちは戦場から駆逐されてしまい、もはや騎士とも呼ばれなくなったものの、それぞれの土地の準貴族階級として、近世以降も存続していった、多分だけどなんかそのような存在ないし概念、というようなことである。う、うーん……。

(以下未改定。)

当然のように字が読める
農民や職人読み書きなんて不要でしょ。中世末期でも庶民の識字率は1~2割がザラ。同時期に4割近くが漢字読み書き可で、ひらがなだけなら9割近くが読めたのではないかとされる日本異常なのである。寺子屋は偉大。
貨幣経済
未発達です。農民は自給自足が基本。農民の生活もみじめで重税を課せられ、領にいろいろこき使われ、居住も職業選択の自由もありません。ただし末期には貨幣経済が発達し、農民に余力が生まれ、それによって荘園制の崩壊につながっていった。
宗教が弱い
当時のキリスト教は絶対であり、異端者やキリスト教徒でないものはほぼ人権がなかった。それに割とみんな本気で信じていて、最後の審判を本気で恐れていたようだ。
魔女裁判
ジャンヌダルクの処刑のようにあるにはあるが、どちらかというと近世以降盛んだった。それより異端への弾圧である。ワルドやボゴミの撲滅に躍起になっていた。
セックス
教会が認めているのは子作りのための正常位だけ。そもそも正常位ってのも教会にとっての正常であって、バックから犯すのはのすることである、とされた。子作りに結び付かないフェラチオアナルセックスなんて言語断、バレたら即異端認定されかねない重罪である。
プロテスタント
未登場。なのでプロテスタントモデルの宗はないかあっても異端。あるのはカトリックギリシャ正教だけで、しかも正教の勢力圏はギリシャブルガリアセルビアなどの東欧の方で、みんなが憧れたりなろう系異世界モデルにする西欧にはないのであるのはカトリックだけ。
パジャマ
ありません。全裸で寝ます。それはそれでラッキースケベネタになりそう。
女騎士
99.9%いません。運が良ければいるけどポケモン色違いに遭遇するより難しい。
その他いろいろ

つまり......史実に忠実な異世界転生したら、あなたのヒロインとのれ初めはヒロインから投げ捨てたウンコをあなたが頭から被ってしまったことで、そのヒロインも字は読めず、宗教キチガイで、食事も手掴みで食べる女である。

ウンコだらけで、酷使された農民たちは疲弊していて寿命も短く黒死病でバタバタ死んでいく。王は教皇に頭が上がらず、地方の領からは徴税吏を追い返されたり、勝手な自治を領地でされたりする。あなたはアリウスを信仰しているとか難つけられて連行されるかもしれないし、ヒロインは「キリスト教を信じないと地獄に落ちる」などと脅してくる。

っていうかあなたが持ち込んだ異世界にとっては未知のウイルス細菌のせいでパンデミックが起き、医術も低くて、瀉血なんて血を抜く健康法床屋が行っている・・・そんな異世界舞台でそんな女がヒロインである。

もうさ、だったら諦めていっそのこと古代ギリシャ異世界とか古代エジプト異世界なんてどうでしょう?一昔前流行った核兵器超兵器の使用で文明も社会も崩壊した近未来とかどうでしょう?古代ギリシャ異世界転生した主人公古代ボクシング古代オリンピックチャンピオンす話とか、古代エジプト異世界から現代にったミイラ主人公が全小学生トラウマを植え付けるも、最期はヒロインに見捨てられて死亡する話とか、文明崩壊後で日本政府くなった20XX年、三重県滋賀県が全面戦争に突入した世紀末架空戦記とか。

関連項目

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

  • なし

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/02/18(火) 06:00

ほめられた記事

最終更新:2025/02/18(火) 06:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP