広義には、日本の刀剣類を総称する。「刀」とは刀身の片側にのみ刃がある形態の刀剣を指し、刀身の両側に刃のある刀剣は「剣」と呼称される。
単に「刀」とも呼ばれるが、平安時代末期~戦国時代までは「刀」といった場合、もっぱら短刀を示しており、当時は刀剣といえば太刀である。そのため例えば、刀剣で武功をあげた場合は一番「刀」・「刀」の功名とは言わず一番「太刀」・「太刀」打ちの功名と呼称した。
概要
日本刀は我が国が生み出した芸術であり、強力な兵器である。原型は既に古墳時代から存在していたが、一般的にイメージされる日本刀の形となったのは平安時代後期からといわれている。
日本刀は武器の他、古くから武士だけでなくあらゆる身分階層の「成人男子の象徴」として機能しており、14世紀前半に起きた鎌倉幕府滅亡以後は武士及びその従者、僧侶、そして農村の地主以外の刀剣の所持・帯刀者が急増したという。
これは社会情勢の不安定化が進んだためであり、慢性的な食糧難に陥っていた。また、当時の人々は現代人どころか、江戸時代中期の人々と比べても、道徳観念が低く、何かしらの揉め事が発生した場合、拳や武器をもちいた暴力的な解決手段を取ることが多かった。そのため、日常的に殺し合いが頻発し治安が悪化していく。
この血生臭い風習が横行した時代における日本刀は、戦場の武器というよりも、携帯性の高さから強盗や喧嘩の凶器、或いはそれらから身を守る為の護身用の武器であるという面も強かった。
(この問題を解決するために、豊臣政権や江戸幕府が様々な法案を出し、意識改革も行っていくのはまた別の話。)
特に戦国時代には民衆の間で成人に達した男性に脇差か打刀を帯刀する文化が生まれ、戦国時代の後半に来日したカトリック宣教師達に「身分・貧富問わずあらゆる階層の者が刀剣を携帯している」と表されるほどとなる。
一方で織豊時代以降からは権力者を中心に美術作品としても高い評価を得ている。
平安時代後期~鎌倉時代の刀が完成形とも言われており、その用いた材料や正確な製造方法はロストテクノロジーとして未だよくわかっていない。 江戸時代~現代にかけて数多くの刀匠が再現に挑戦しているものの、なかなかうまくはいかないらしい。
「刀は武士の魂」というイメージが強いが、これは明治時代から昭和にかけて日本が軍国主義への道を歩んでいく過程で一般化されたもので、戦国時代中期までは弓矢が武士の象徴であり、戦国時代末期の刀狩りという身分統制を経て初めて「刀は武士の象徴」に変化した。(戦国時代末期にこのような言葉があったわけではなく、後世の学者が便宜的にそう呼称しているだけである。あくまで「象徴」であり「魂」としていないことに注意。)
大東亜戦争後は、GHQにより「日本国内に存在する全ての日本刀」を処分するよう通達がなされ、武器として没収されたのち破棄・破壊されていったが、日本側の努力により、"登録制の美術品"という形にすることで、全て失われるという最悪の事態は避けられた。しかし、このドサクサに紛れて、連合軍兵士が神社仏閣などから日本刀を勝手に没収して本国へ「戦利品」として持ち帰ってしまったため、数多くの名刀が行方不明になっている。
現在はインターネットで購入することも出来るが、高額な買い物になるので実物を見たほうがいいかもしれない。出来のよい無銘の刀や、綺麗な銘入の古刀・業物の刀などは数十万~数千万の価格で取引されているという。「なまくら刀」や「束刀」「数打ち物」と呼ばれる室町時代以降に大量生産された刀などは、10万円台~で購入することも可能。なお刀剣所持については各都道府県の教育委員会への登録が必須となっており、無登録の日本刀を所持するのは銃刀法違反である。
現在、国宝・重要文化財級の日本刀は、博物館にて保管・展示されている事が多いため、興味がある人は行ってみてはどうか。(関連リンクを参照)
・・・と上で書いてあるものの、通常、国宝や重要文化財は納まるところに納まっている(神社、寺院、博物館など)のが常だが、日本刀の場合は他の分類と比較しても圧倒的に個人蔵が多い。理由は色々あるが、①報償として主君から配下の武将に拝領する風習があったこと、②GHQや進駐軍の刀狩りもどきがあったこと、③華族(元大名家)の没落により刀剣が多数売りに出されたこと(紀州徳川家とか徳川宗家とか津山松平家とか)などが考えられる。日本刀は他の文化財と違って研いだり油を差したり定期的に手入れをする必要があるから、たとえ手元に置きたくとも、大事にできない人の手から逃げていく。昔から「名刀は人を選ぶ」と言われる所以はそこにあると筆者は思っている。
日本刀の変遷
この項では、日本刀の種別を時代ごとの変遷に合わせて大雑把に述べる。
- 直刀
- 大昔に製鉄技術が伝わって以来、長く日本では反りの無い刀が製作されていた。これを直刀と言う。詳細については多くは述べないが、発想としては直剣(刺突主体)を切断用にしたものと思えばいい。
- 蕨手刀
- 日本で古代より使われた直刀の一種。柄の部分に反りがある特徴的な形態をしている。この反りが、日本における彎刀の誕生の原点となったと考えられている。
- 彎刀
- 反りのある刀の総称。平安時代中期に誕生し、以来日本の刀のスタンダードとなった。毛抜形太刀(けぬきがたたち)、鋒両刃造(きっさきもろはづくり)などを経て、現在一般的に日本刀と呼ばれる形態、太刀が完成する。
- 太刀
- 鎬、目釘、反りの三要素を持ち、なおかつ刃を下にして佩用する刀のこと。現代まで続く日本刀の基本形はここで完成される。平安時代後期に誕生し、飛び道具や長柄武器の欠点を埋める二次的な武器であった(しかし、巷で言われるような儀礼用ではなく、例えるならば右利きの人にとっての左手の役割に近い。)が時代に合わせてマイナーチェンジを繰り返しつつ日本の戦場を駆け回ったことや17世紀以前の文献から「太刀打」や「一番太刀打ち」など太刀の使用を示俊する言葉が散見されることからそれなりの立場にある武器だった事がうかがえる。ただし、江戸時代以降、打刀一色になってからは本当に純粋な儀礼用になった。
- 五月人形の横に飾ってあるアレである。由来は「断ち」から。
- 打刀
- 形状は太刀と大差ないが、刃を上にして帯刀するものを指しやや短めのものが多い。室町時代以降はこの打刀が主流となっていく。
時代によって形状が変遷し、元々は刺刀とよばれる短刀だったが南北朝時代における武器の長大化に乗っかって大型化したのが始まり。後に戦乱期に大量生産されたり今では信じられない値段で安売りされたり幕末の頃には切っ先が長く反りが薄いものが多くなったりした。
由来は「打つ(=斬る)刀」から - 一般的にイメージされる「お侍さんが腰に差す日本刀」はこれである。
- 脇差
- 武士が主武器(本差)の予備として持ち歩いた小振りの刀で、帯刀するものを指す。いわゆる「小太刀術」とは、この脇差のなかでも大き目な物(刃長55~59cm)を用いた剣術のことである。
- 短い方のアレである。また前述の打刀の予備・補助であり、特に小さいものは取っ組み合いや、合戦場で敵の首を斬り落とすために使われた。
- 大太刀
- あるいは野太刀ともよばれる。定義はやや曖昧だが刃渡り85cm以上の大型の日本刀を指し、背負うように携帯することも多かったため背負い太刀とも呼ばれる。性質としては刀剣というより長柄武器に近い。重量の割に柄が短いため扱いづらく、高価であったため、使い手には技術と財力が要求された。
少なくとも鎌倉時代初頭からその存在が確認され、南北朝時代にもっともよく使わたといわれている。
その後戦術の変化により下火になりつつも、江戸期に入るまで主に戦場で使われたほか、
威圧感があるため味方の戦意高揚や寺社への奉納目的で作られることが少なく無く、時代の要求により
短く刷り上げられることも多かった。 - 長巻の太刀
- 大太刀の派生型で柄の長い太刀であり、長巻と略される。南北朝時代の後半に出現し、大太刀をより扱いやすくするため刀身の根元から中間にかけて革や布を巻きつけ持ちやすくしたことが起源と言われている。薙刀と混同されがちで境目は明確ではない。
(なお、漫画やアニメなど影響か、サブカルチャー上において大太刀などの大型刀剣とともに斬馬刀と通称されることがある。) - 槍
- 分類上は長柄武器であるが、日本刀に含まれることがある。断面が菱形または扁平な三角形の両刃で真っ直ぐな刀身を持ち、柄に差し込まれる茎(なかご)は刀身の数倍あり、かなり長い。南北朝の乱の後半に現れたが、古代に用いられた矛とは異なる武器であるとされている。
出現当初は2mほどの柄に短刀を付けた、いわば薙刀の代用と言えるものであり、あまり目立たなかった。しかし応仁の乱以降は、戦闘動員数が激増し、これまでの散兵戦術から密集戦術主体に変化していったため、柄の長さも3mを超えるようになり、戦国時代の後半から江戸初期にかけて重視されるようになった。特に長い槍は長柄槍とも呼ばれ、これを扱う兵士に数列の横隊を組ませその槍を突き出すよう構えたモノを槍衾と呼んだ。
このような陣形は古今東西洋を問わず、正面突撃には非常に強かったが、山岳等起伏のある土地では使えず騎兵や弓・銃兵の補助が必要であった。なお、太刀や打刀とは製法が異なる。
五箇伝
作刀における五大流派のこと。江戸時代に刀剣鑑定の規準とするために分類された。日本刀には古来主要な五つの生産地があり、その土地の名前を取って○○伝と称する。
- 大和伝
- 大和地方の刀工集団による鍛法。古来日本の中心地であった大和地方は日本の刀工発祥の地とされており、奈良時代の無銘の刀剣は彼らの手によるものと考えられる。
- 千手院派、尻懸派、當麻派、手搔派、保昌派の大和五派を擁す。
- 山城伝
- 山城地方の刀工集団による鍛法。発祥について当時の史料は残っていないが、山城国が平安京遷都によって日本の中心地となった際、刀工集団も移住、発生したはずとされている。
- 刀工としては、国宝「三日月宗近」の三条小鍛冶宗近、「鬼丸」の国綱などがいる。来国行、来国俊ら来一派も山城伝の刀工である。
- 備前伝
- 備前地方の刀工集団による鍛法。中国山地は古代より良質の砂鉄の産地であり、現代の刀工が使う玉鋼も、島根県のタタラ製鉄所で製造されているほどである。また、その他刀剣製作に必要な条件にも恵まれており、備前地方は長く刀剣類の巨大生産地であり続けた。特に中心地であった長船は名高く、「備前長船」は現代でもビッグネームである。また、鍛冶の為に木を切りすぎて洪水で壊滅したことでも有名である。
- 祐定、則光などが有名。佐々木小次郎の「物干竿」は備前長船長光の作とも伝わっている。
- 相州伝
- 五箇伝の中では最も新しい、相模地方の刀工集団による鍛法。相模国鎌倉は鎌倉幕府の中心地であり、鎌倉中期に各地の刀工たちが移住してきた記録が残っている。鎌倉末期には正宗(五郎入道正宗とも)を輩出し、彼の作風は、後の相州伝の基本となった。ゆえに正宗が相州伝の完成者とされている。
- 正宗と、その弟子と伝えられる正宗十哲が有名。
- 美濃伝
- 美濃地方の刀工集団による鍛法。鎌倉中期(弘長年間)に良質の焼刃土を求めて九州から移住した元重に始まるとされている。特に美濃国関には多数の刀工が興り、現在でも関市は刃物の産地として世界的に有名である。
- 「関の孫六」こと兼元、「之定」こと兼定が特に有名である。
製造方法
日本刀の定義および製造は、幕末の刀工である水心子正秀の残す書物によって定義され、玉鋼(たまはがね・和鋼とも)を材料として古式に則った作法でもって作られることが現行の法律によって決まっている。よって、新しく日本刀を製作しても、玉鋼(和鋼)を用いた伝統的な製法によるもの以外はすべて、日本刀としては扱われない。
まずは玉鋼の精錬。
砂鉄を原料として伝統的な製鉄方法「たたら吹き」で精錬される(現在の玉鋼の精錬は日立金属が取り扱っている)。
炭素量の少ない「柔らかい鋼」を背に「硬い鋼」を刃として組み合わせる。だから切れ味は鋭いのに、折れにくい。
次に鍛造。
槌で打って鋼を圧着し、形を整え、鍛造効果で硬度は増す。でも背側の鋼は柔らかいから、砕けにくく、しなやか。
しかも脱酸効果もあって鋼の純度は上がる。
そして熱処理。
水焼入れをするのだが、焼き入れ速度(鋼を冷ます速度)が速ければ速いほど、鋼は硬く・もろくなる。
だから刀身に泥を塗り、刃だけを露出させて焼き入れをする。(刀の刃紋はこれで出来る)
当然刃先は硬くなるが、刀身は冷却速度が遅いのでしなやかさを保つ。
これらの製造過程を経て鍛え上げられた日本刀を切断した後に電子顕微鏡で観察したところ、超鉄鋼に匹敵する,極めて小さな針状の結晶が絡み合い強度を高める微細な組織が観察された。
工学とか知らない人にとっては意味不明だろうが、この技術は成立年代的に考えて、オーバーテクノロジーもいいとこである(ただし一部を除けば日本独自の物ではない)。完全な経験の積み重ねのみで到達したというのだからなお恐ろしい。
日本刀の威力
その威力は様々な諸説があるのだが、最低で拳銃で発射したガバメントの弾丸、ウォータージェット程度ではびくともしない事はトリビアの泉で判明している。最適な角度であれば兜も割れる。
基本的に、漫画にあるような「人体を一刀両断」というのはなかなか難しい。プロの介錯人でさえ、人の首をはね損ねる場合もある。それだけ人間の骨というのは硬いのだ。が・・・
日本刀の中にはとんでもなく恐ろしい斬れ味を持つ名刀が多数存在する。 有名な物の一つに「童子切」と呼ばれる日本刀がある。源頼光の愛刀であり、天下五剣の一振りで現在国宝に指定されている。
江戸時代に試し切りの達人が、罪人6人の死体を重ねて童子切を振り下ろしたところ、死体6体がバッサリと切断され、なおも勢いが止まらずに土台まで刃が食い込んでしまったという。
源頼光が酒呑童子の首を切り落としたと言われているこの名刀は、東京国立博物館に保存されている。
現在の技術で作られた超硬合金製なら車のドアすら切れるということもつい最近になって判明し、試し切りを行った藤岡弘、は「リアル斬鉄剣」と発言した[1]。全盛期の刀の切れ味は、ティッシュを乗せたらスパンと斬れてしまうくらいだったらしい。
有名な逸話としては「日本刀で首を刎ねられた者は死ぬまで斬られたことに気づかない」であろうか。日本刀の出来と斬る者の腕次第でそういうこともあるかも知れないが、基本的に一瞬でも冷たい感触があるため気づかない事はないと思われる
海外での日本刀の評価
室町時代から戦国時代にかけて日本の倭寇(海賊)が現在の朝鮮半島および中国近海でかなりの猛威を振るったせいもあってか、中国などにおいても日本刀の存在が知られることになった。
11世紀宋代の大文学者、欧陽脩は『日本刀歌』なる詩を書いており(一説に「日本刀」という語の初出とも言われる)、「玉石を泥のように切る剣の伝説があるけど、最近、日本って国で同じぐらい凄い剣ができたらしいよ。めっちゃ高いけど、拵えもすげー美しいし、しかも持ってるだけで悪霊を払ってくれるんだって!」などと、かなり大げさに褒め称えている。サムライソードLOVEなガイジンの元祖といえる。
もっとも、欧陽脩は古文(秦・漢代とそれ以前の文章)復興運動の中心的人物であったため、『日本刀歌』全体の趣旨は「ま、中華文明の精髄である古文>>>日本刀なんだけどね。日本人さんは教養も高くて真面目って話だから、こっちでは散逸した古文も大量に保存しているらしいけど、法律が厳しくて逆輸入が難しいらしい。なんとかして手に入らないかなー(チラッ)」というものであるが。
大陸での刀は青竜刀のように大きいか、あるいは片刃の直刀だったようで、特に明王朝時代の大陸では倭寇(海賊)が跋扈していたが、両手持ちですばやく扱うことが出来るし、自国産より頑丈で鋭利かつ長大な日本刀の使い手にはかなり難渋していた模様。次第に「倭刀」という名前で受け入れられることになっていった。(先代の王朝である元もそうであるが、当時の彼らにとっては日本刀剣は長く鋭利なモノである認識だったようだ。)
倭寇や秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)により、日本の刀、種子島鉄砲、それを使った軍編成が知られると、中国でも一部この編成を取り入れることになった。
時代を経て、明、清の時代には、「苗刀」という形で一部形を変えつつも作られていくことになる一方、日本剣術が形を変えて大陸でも劈掛拳の一部に残っているとも言われている。
また戦国時代、倭寇だけでなく少なくない浪人が海外に傭兵として進出したこともあり、日本刀も多分にもれずあちこちへと広がっていった。もっとも、江戸時代になり鎖国になったこともあったせいか、日本人傭兵は次第に数はへっていき、日本刀も神秘的な武器と考えられてしまった一因のひとつともいえる。
こういったこともあり現代において、海外ではなぜか最強の武器扱いされることがあり、特にRPGではその威力が絶賛されるほど。日本人より夢を見ているのは気のせいだろうか。
ただ注意してほしいのは、こうした夢を見ている理由である。
海外の日本刀の取り扱いは日本に住む我々が考えるような、"古来製法に基づき作られた刀"という形ではなく、もっと広範囲で"日本刀のような形状をした刀"すべてを指す。
なので、ここらへんがややこしいのだが、海外でも「日本刀に模した刀」や「日本の刀鍛冶の製法を一部取り入れた刀」など色々入り乱れており、それら全部ひっくるめて「日本刀」扱いなのである。
なので、その中には単純に鋼を磨いただけの代物から、前述にもあるように、現代の製鉄技術や加工技術もあるとかなりの切れ味をもつ刀まである。勢い、逆刃まで作った人までいるみたいですね。
なので最近はこういう「日本刀」を使った犯罪、事件もわりと多く目にするようになってきている。
このように日本における日本刀製造が美術品という分野で細々と作られている一方で、海外では現代技術を存分に盛り込んだものが「日本刀」扱いされて、どんどん作られているのもまた現実だったりする。なので、海外での日本刀評価や時々起こる事件を知るときはそこらへんを踏まえてみる必要もあるだろう。
日本刀の噂のあれこれ
日本刀(太刀・打刀・大太刀・長巻)は突くのが正しいのか
何が正しいかはともかく、江戸時代以前の場合は切ることの方が多かったと思われる。根拠としてまず形状から、ある程度長い刃部を有し片刃で突きを阻害する反りが備えていること。
次に同時代性があり、当時の風俗・文化を知る史料としては、比較的信頼性の高い「平家物語」「太平記」「信長公記」などの軍記物や「雑兵物語」のような兵法書からは「突く」「刺す」より、「切る」「打つ(叩く)」という使用方法が多く散見されること、
またそれらの史料の中の「太刀打ち」「鎬を削る」「火花を散らす」など切ることが主な使用方法であることを示俊する表現方法が使われていることなどが挙げられる。
(16世紀に来日したスペインポルトガル人宣教師らの報告書では、スペインポルトガルの剣と比較して、日本刀を斬撃主体の武器であるとみなしている。)
日本刀は引いて切るもの?刃で受けないもの?
日本刀は意識して引いて切るのが正しいだの刃で受けてはいけないだの、そうで無いだのと言われているが、実際には流派によって異なるため正しいとも誤りともいえない。(同じ動作でもそれを行う理由が流派ごとに異なる場合もある。)また流派を宣伝するときは「~というやり方が正しく~というやり方は間違い」と断言している場合も多く、これが誤解の原因となっている場合が多い。また、流派の教えがどうであれ、(可能・不可能かはともかく)剣術で推奨される動きと実際の刀の使い方は必ずしも=とはならない。
(ちなみに、柳生心眼流や浅山一伝流などでは多少の破損を忍んで敢えて刃で受けることで、相手の行動を制限したり、足払いなど別の技につなげる技はある。また「引いて切る」に関しては否定的[2]な指導者も多い)
日本刀(主に打刀や太刀)の実用性について
賛否両論だが、尾ひれがついて極端な意見になることが多い。
例えば、「日本刀は首狩り用で戦闘では役に立たず儀礼用である。」、「最新の研究では飛び道具による死者がほとんどであり、太刀や刀による死者はほとんどいない。」「鎧兜は切れぬので有効ではない。」等の否定意見がある。これに対する反論として「首を獲るのは小脇差や短刀の役目で首獲りの方法も横になった敵兵の上に馬乗りになり押さえつけて首を切り落とす」というもので、太刀や打刀のように刃長のある刃物ではこのような行為は不便であり、刃長を長くする必要がないのだが、これらの中程度の刀剣が発達した説明がつかない。(打刀に関しては、戦国時代末期~江戸初期にお貸し刀という粗悪な刀がお貸し槍・鎧等とともに下級兵士向けに貸し与えられている。)
また、儀礼用であるのならば反りや刃先を付け殺傷力を強化したりわざわざ硬軟の鋼材を組み合わせの上で焼き入れを行うという蛮用を考慮したりする等の明かに戦闘を考慮した構造は不自然であること。そして、飛び道具の死因が高いというのは研究家の鈴木眞哉氏の戦国時代の軍忠状や注文の統計が原型と思われる。
(原型としたのは上述の主張と鈴木氏の主張が食い違う場合があるからである。例えば、太刀や打刀で首を確保したのだとよく主張されるが、鈴木氏は首を確保するのはあくまでも短刀・馬手差しの役目であるとしている。)
しかし、この軍忠状からわかるのは概ね死因ではなく戦場から生還できた者たちによる自己申告(=負傷原因)であり死因はほとんど不明である。
(軍忠状などに傷とその原因を記録するのかというと、たとえ戦闘で首を確保したり、先陣を切ったりするような、戦闘の勝敗に関わる手柄を挙げることができなくても、負傷はしっかりと戦闘に参加したという証(誉傷)として、一種の手柄として評価されるからである。傷の理由を併記するのも傷の原因によって貰える恩賞が変わるためである。また、戦死に関しては特別扱いで死因は問われることがない。)
くわえて片方の軍勢による内訳であり、申告が士分(正規の武士)のみに絞られがちであること、敗走した側は軍忠状を作成することが少ないこと[3]、攻撃側の状況が不明であること、さらに戦の形態には平野での会戦・攻城戦・海上戦・奇襲など、特性が異なるにもかかわらずこの統計ではそれらすべてを一緒くたにしてしまってあるため、戦闘の全容ををあきらかにするのは不十分であり鵜呑みにしてはいけないことが挙げられる。他にも鈴木氏が信頼性が高いと評した宣教師の報告や雑兵物語などにも太刀・刀の戦場での活躍が描写されているが、氏はこのことに関しては一切触れていない。
(16世紀後半に日本を訪れたキリスト教カトリック派司祭であるパードレ・ガスパル・ビレラは、日本人の合戦の仕方に対し、「(市民は遠くで戦闘を見物している。)まず互いに弓を撃ちあい、さらに接近し槍を使い、最後には剣を交えて戦う」としている)
なお、時代はずれるが南北朝時代の軍忠状の統計を行った歴史学者トーマス・コンラン氏の調査によると全体的に弓箭による負傷率が高いことからこの弓箭こそが南北朝時代の戦闘においてもっとも重要な兵器であるとしていながらも、殺害効率は太刀(薙刀も含めていることに注意)に大きく劣るとしている。
鎧兜に対し刀剣が有効でないことに関しては事実である。しかし、中世の多くの兵士は軽装で高位の兵士でも特に、膝周りは脆弱気味であった。(今川義元を槍で突きかかった服部一忠は、太刀で膝を切られたため首級を逃し、織田信長の家臣である森三左衛門は、千石又一と馬上にて切り合ったが膝を切られたため退いている。)
なかには裸同然の者もいたようで、戦国時代末期には羽織のみの兵士(鉄砲足軽のみ?)も現れた。
(平安末期から鎌倉時代の高位の兵士が着込んだ大鎧は、右手や膝や太ももが無防備である。その補助に当たった郎党も頭部はガラ空きの場合が少なくなかった。戦国時代に主力になった雑兵・足軽の鎧は胴の防御が優先される場合が多く、手足は無防備になりがちであり、下級兵士向けの兵法書である「雑兵物語」には手足を狙って切ることが勧められている。)なお、古い時代の太刀の使い方に、敵の頭部を兜ごと殴るというものがあるが。あくまでも相手の動きを一時的に鈍らせたり、兜を脱落させるためのもので負傷させるための用法ではない。
日本刀は2~3人しか斬れない?
この話の元ネタは山本七平著の「私の中の日本軍」が初出だとされており、著者の経験から来たものだという。
ただし、この経験というのも本文中から読み取れるのは「戦友の死体を軍刀で切断した際、軍刀に不具合を感じた。」という物のみであり単に死体を切ったときの感想である可能性が高い。
また、日中戦争に刀鍛冶師として従軍した成瀬関次の著書や時代は異なるが16世紀の日本を訪れた宣教師の報告など4人以上切った記録もあるが誇張の可能性もあり断定はできない。結局真相は闇の中である。
また、この逸話を引き合いに出して日本刀は役に立たなかったとする意見もある。しかし結局は「近代以前の白兵戦において一人の兵士が一つの兵器を使用した際の殺傷数の平均値」がどの程度であるか把握していない限り無意味な意見である。
日本刀の一覧
基本的にどの刀も「刀工の名前」で呼ばれる。
「三日月」や「童子切」など刀工名とは別に名前がつくものや、「小烏丸」のように刀工名が冠されない刀もある。
実在の日本刀 |
架空の日本刀 |
日本刀に関係のある人物・キャラクター
記事量が大幅に増える可能性があるため、こちらについては基本的に「ニコニコ大百科」に記事があるもののみ記載とする。
実在の人物※「剣豪」の記事も参照されたい。 |
架空の人物・キャラクター |
関連動画
関連静画 + お絵カキコ
関連商品
関連リンク
関連項目
- 武器
- 武器・防具の一覧
- 太刀
- 打刀
- 脇差
- 大太刀
- 長巻
- 日本
- 兵器
- 妖刀
- 剣術
- 剣道
- 剣豪
- 伝統芸能
- 真剣白刃取り
- 刀語
- 刀剣乱舞
- しんけん!!
- 聖剣の刀鍛冶
- 刀使ノ巫女
- 刀
- 天下五剣
- 無銘
- 武士
- 刀は武士の魂
脚注
- *2004年のフジテレビ番組『たけし&マチャミの世界に誇る日本の技術に驚いてみませんか?SP』にて。ただし、こちらは日本刀の定義である玉鋼を材料としていないため、日本刀としては扱えない。
- *場面によっては使うこともあるが常用する技法ではなかったらしい
- *言い換えれば軍忠状の負傷や戦死の記録は、敗走した方、落城した方からの反撃による受傷ともいえる。
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