志村けんとは、東村山が生んだ日本を代表するコメディアンである。「日本の喜劇王」「コントの神様」とも言える人物であり、ザ・ドリフターズの加入から晩年までお笑いの第一線を走り続けた。本名は「志村康徳(しむらやすのり)」。
概要
ドリフターズのメンバーであり、正式なメンバーの中で一番若かった(志村は1950年2月20日生まれ、最年長はいかりや長介の1931年11月1日生まれ)。
ドリフターズのボーヤ(今で言うところの付き人)を経て荒井注との入れ替わりでメンバー入り。「8時だョ!全員集合」「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」などに出演、国民的人気を得る。自身の出世作ギャグ「東村山音頭」のおかげで「東村山=庭先には多摩湖」とインプットされた日本人は少なくない。
現在じゃんけんにおいて一般的な掛け声である「最初はグー」を世に浸透させた人物でもある。
また、「視聴者投稿による面白VTR」というテレビ番組のジャンルを発案し、日本のみならず全世界にこのジャンルを広めるきっかけを作ったのでも知られている。
出演番組は中国・台湾・インド・タイ・イランなどでも放送されているため、海外でも知名度は高い。
コントにおけるスタイルなど
「全員集合」や「ドリフ大爆笑」における彼の立ち位置は他のメンバーと比べても明らかにねじが一本抜けているような役柄が多かった。(母ちゃんコントなど)また、加藤茶と二人してボケをしていかりやにそろって突っ込まれる事が多かった。ドリフターズの中では一番年下なので他のメンバーの弟的な位置で演ずる事も多かった。加藤の付き人であった事もあり、ゲストが出るコントでは加藤と相方である事が多い。これがその後に「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」につながるとされる。
一方で「志村けんのだいじょうぶだぁ」など自身が冠を務める番組内においては共演者に突っ込みを入れたり、そうかと思えば酔っ払いや婆さん役などのボケ役を恰も本物の如く演ずる事に定評があった。活動晩期ではダチョウ倶楽部の暴走に対して強烈に突っ込みを入れるなど、師匠であるいかりやのような立ち位置に回ることも多かった。
彼がコントにするテーマは「全員集合」以来、一貫して日常を大きく逸脱しない範囲での事象を俎上にすることが多く、非現実的なテーマを取り上げることはほとんどない。この辺りは他のドリフのメンバーにも大なり小なり言えることであるが、彼の場合はそのこだわりを維持するため、ネタとするにはあまりに難解かつ非日常の描写が多い漫画の部分を飛ばす、もしくは破り取るほどである。その一方で床が抜ける程に集めた映画をもとにコントの研究する事が多く、これらの成果をもとにコントを練っていったともいわれる。
そして喜劇人としての演技力の高さに加えて、割合にシンプルな言い回し・身振り手振りで容易に意味を解する事が出来るコントが多いため、海外の人からの人気も高い。これをたどると、師であるいかりや長介の実体験に行きつく。いかりやが駆け出しのバンドマン時代、言葉の壁がある米兵相手にコミックバンドをやっていた経験より、ドリフにおいてもそのノウハウをスライドさせていた。このため、志村の番組がほとんど放映されていないアメリカにおいても彼の人気があるといわれている。
さらに原点をさかのぼると、志村が大きく影響を受けた俳優としてアメリカの喜劇俳優のジェリー・ルイスに行きつく。ジェリーの「底抜けシリーズ」などが多感な時期の志村の感性を刺激し、今に続くスタイルの原型となった。また実家は父親が非常に厳格な人物であり、家庭内の雰囲気も重いものであったが、落語などのお笑い番組を見ている時だけは父親も笑いをこらえていたり、雰囲気も明るくなったのでその経験がお笑いを目指すきっかけとなった。
このようにお笑いに対する姿勢は非常にストイックであり、志村を尊敬、あるいは芸風で影響された芸人は多い。
海外における志村けん人気
海外においても志村けん人気は高く、日本に赴任している米軍関係者より高評価を得るほどとなっている。アメリカでは志村の番組が本放送されてはいないので、この評価は注目される点である。なお「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の「おもしろビデオコーナー」はYouTubeなど動画共有サイトにおける面白動画投稿の発想面での源流の一つとも言われている。
台湾ではドリフ関連の番組は「志村大爆笑」とひとくくりにされるほどに志村けん人気が高い。ウィキペディアも各種言語で記事が作られている所にも人気の高さがうかがえる。
志村と音楽
ドリフターズが元々はコミックバンドという音楽畑出身である為、彼もまた音楽に対する造詣が深い。後述するが、ビートルズの影響で所ジョージの親戚とバンドをやっていた経験もあり、映像ではあまりお目にかかる事が少ないが、ギターを担当してる場面が存在する。これがあってか近年のライフワークの一つである津軽三味線に繋がっている。以前より三味線や琵琶をコントの中で披露する事も多かったが、若手実力派の上妻宏光から指導を受けて本格的に舞台などで披露している。上妻が思ってた以上に上達が早く、志村のセンスの高さがうかがえる。なお、弦楽器全般に通じているようでコントの中で琵琶を弾く場面も存在する。この際、ギターのテクニックの一つであるチョーキングを用いている。
ビートルズやソウルミュージックの大ファンとしても知られ、「ドリフの早口言葉」「東村山音頭1丁目」「ヒゲダンス」などにその影響を見ることができる。特にヒゲダンスは、志村の提案でテディ・ペンダーグラスというソウルミュージシャンの楽曲「Do Me」のイントロからのフレーズが引用されている。ちなみに志村はビートルズ来日の際にコンサートを見に来ており、写真撮影が禁止されている中で隠し取りを決行。その日の映像は収録されていなかった為、結果的にその写真は非常に歴史的価値の高いものとなった。なお志村がいた日には担当していなかったが、ビートルズ日本公演において前座を務めたうちの一組が後に自身が所属する事になるザ・ドリフターズである。いずれにしても、志村の冠番組でビートルズの楽曲が流れるというように彼がビートルズから強い影響を受けているのは明白と言えよう。
経歴
本名の「康徳」は「徳川家康のような大物になるように」と父親から命名された。芸名の「けん」は父親の名前「憲司」に由来している。
父親は軍人上がりの教育者であり、非常に厳格な人物であった。母親は芸事をたしなみ、志村自身は母親似と言っている。母親は後に「志村けんのバカ殿様」など息子の番組に何度か出演している。3人兄弟の末っ子であり、兄らは公務員であり、髪以外は瓜二つな姿が話題となった。
家庭の方針で都立久留米高校(当時)に入学。この高校はサッカーの強豪校で非常に有名であり、志村自身もゴールキーパーをしていた。また、当時は大卒者を多く輩出することでも知られ、難関校として知られた。なお、志村が合格することはないだろうといわれてたのが、いざ蓋を開けてみると合格者は志村のみであり、自頭の良さが垣間見える。
これと前後して父親が交通事故に遭遇、その後遺症により認識障害となり、物事の判断がつかない状況となった。後にじいさんコントで見られる「めしゃ、まだか?」「婆さんの姿が見えねぇんだけどな」の繰り返しの問答は父親のその時の姿をモデルとしたと言われる。
1968年にドリフターズのリーダーであったいかりや長介の自宅に押しかけ付き人となる。その後脱走したり、付き人仲間とお笑いコンビを組んだりと紆余曲折を経る(なお、芸能界デビューはこの付き人出身者コンビ「マックボンボン」を結成し初舞台を踏んだ1972年とされており、芸歴はビートたけしや笑福亭鶴瓶と同期扱いとなっている)。この際、出席日数が足らず高校卒業が危ぶまれたが無事に卒業しており、この際に大学に行かなかったのは志村だけといわれている。その後志村はかなり時代を下った後に放送大学を卒業している。
脱走劇ののち、付き人をしていた加藤の口添えによってメンバーに復帰する。なお加藤の付き人になると本来は運転手もやるのだが、志村は運転免許を持っておらず(2020年に死去するまで所持していない)、運転は加藤や専属の運転手が行うという異例のものであった。
志村がドリフを離れ一時期独自に活動していたマックボンボンは、相方のボケに対し志村が立ったままの姿勢から足でツッコミを入れるという奇天烈なコントを披露するなど注目され、結成からわずか半年ほどで「ぎんぎら!ボンボン!」(日本テレビ)という冠番組を始めるなど異例のスピード出世を果たす。
しかし、師匠のいかりやはこの急すぎる売れ方に対し「ネタのストックもないのにテレビに出るのは危険だ」と危惧していた。その危惧は的中し、知名度の低さとワンパターンなネタがすぐに飽きられて番組は1クールで打ち切りを食らってしまう。
この打ち切りにショックを受けた相方が失踪。新しい相方を探し再出発したものの、その新しい相方は練習に身を入れず新聞の求人欄で仕事を探す有様で、志村もコンビに対して情熱を無くし自然消滅してしまった。
志村が再びドリフの付き人に戻った後、1974年に大きな転機が巡ってくる。
1974年、荒井注がドリフを突然脱退。それと入れ替わる形で志村が正式メンバーとして加入する。当初はいかりやは自分と同世代の人間を迎えようとしたのだが、加藤茶が自分と歳の近い志村の加入を強く推したため採用された。
当の志村は「ドリフはあくまで下積みの場であり、いつかは独立して一本立ちをする」という心づもりでいたため、当初は戸惑ったもののこれを受け入れることとなる。
なお、当初は名前が「志村ケン」とカタカナ表記になったり、「志村健」と漢字表記になったりしていた。
しかし、ドリフメンバーとなってからすぐに人気者になったわけではなく、1976年の「東村山音頭」のヒットまで泣かず飛ばずの苦難の時代を経験する。世間からは荒井注と比べられ、準メンバー扱いの付き人・すわしんじの方が良かったのではないかという意見も強かった。だが、「東村山音頭」をヒットさせると状況が一変。立て続けに「カラスの勝手でしょ」「ディスコ婆ちゃん」「ヒゲダンス」「バカ殿様」とヒットギャグやキャラを連発させ、加藤茶をも凌ぐドリフ最大の人気者にまで上り詰めた。金田一コントでは背後に気が回らない金田一耕助役を演じ、観客の子供から「志村ー!うしろ!うしろ!」とツッコまれる定番ネタも生まれた。
1981年、競馬のノミ賭博容疑で書類送検をされ、仲本工事とともに約1ヵ月芸能活動を自粛。志村は賭け金が少額であったため、起訴猶予処分が下された。しかし、復帰後は馬にまつわる自虐ギャグでセルフパロディにしてみせる器の大きさを見せつけた。なお、起訴猶予であったため中央競馬の馬主資格を持つことができ、志村は自身の馬を何頭か所有していた。有名どころは「アイーンベル」である。なお、アイーンベルは入着はあったものの勝ち星を挙げることはできず、その他の所有馬も中央競馬では全馬未勝利に終わった(地方競馬転出後勝利した馬はいるが、志村は地方競馬の馬主資格は持っておらず、オーナーが交代している)。
1985年の「8時だョ!全員集合」(TBS)終了後からソロ活動を本格化させる。「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBS)、「志村けんのだいじょうぶだぁ」(フジテレビ)で個人としての人気を不動のものとさせ、「だいじょうぶだぁ太鼓」「変なおじさん」など独自のキャラやギャグも確立させた。
このように順風満帆のように見えたが、1996年に突如死亡説が流布される(後述)。当時出演する番組が一時的に減り(当時出演していたレギュラー番組は深夜の冠番組1本だけであった)、なおかつ他の芸能人のメインの番組にはあまり出演しなかった活動が裏目に出て、「ゴルフ場で倒れた」「宇都宮のがんセンター(栃木県立がんセンター)で死んだ」「亡くなったことは四十九日を過ぎてから発表される」などという具体的な内容の噂が流行した。
最終的には志村本人が登場して「全くの嘘である」と発表する奇妙な事態にまで発展した。これは 芸名と同じ「しむらけん」さんと言う方が実際に亡くなり、それが「志村けんが死んだ」と言う事につながったものと思われる。
この反省からか以降は自分のメイン番組以外へのゲスト出演もこなすようになり、「天才!志村どうぶつ園」(日本テレビ)といったコントではないバラエティ番組の司会を務めるようなった。
新型コロナウィルス感染、急逝
テレビタレントとしてバラエティ番組に出演した一方、晩年まで精力的に新作コントを作り続け、「志村けんのだいじょうぶだぁ」に始まるフジテレビにおける一連のコント番組を中心に生涯コント職人を貫いた。
2020年3月4日に放送された特別番組「志村けんのだいじょうぶだぁ 笑いで頑張れニッポンSP」(フジテレビ)においては新作コントの他、2019年の「M-1グランプリ」で優勝したミルクボーイがゲスト出演し志村けんを題材にした漫才を見て彼らの才能を改めて高く評価するなど、お笑い界の重鎮としてその影響力を誇示していた。
しかし、そんな彼に突然の病魔が襲う。
2020年3月17日から体調を崩して自宅静養を行う。しかし19日に容態が悪化。23日に行われた検査で新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への罹患とそれに伴う肺炎を発症していたことが判明。人工心肺装置を用いた治療などが続いていたものの、2020年3月29日夜に死去した。70歳没。
なお、厚生労働省からのガイドラインにより、遺体からのウイルス感染を防ぐため、「非透過性の納体袋に収容し、密封したまま火葬すること」を指導されているため、家族らは最後の顔を見ることも叶わず、骨を拾うこともできなった。 [1] [2]
志村けん急逝の訃報は命日の翌日、2020年3月30日に公表。その突然の死に世間では衝撃が走り、生前に志村けんと共演した芸能人はもちろんのこと、志村の生まれ故郷である東京都東村山市市長や台湾の蔡英文総統もその死を悼むコメントを発表、アメリカのCNNでもその訃報を「日本のロビン・ウィリアムズの急逝」として報じるなど、国内外に大きく報じられた。
コロナショックの最中での急逝であったため、新型コロナウィルスの感染拡大防止の意味もあり、逝去直後の通夜・葬儀は近親者のみで執り行わた。
2020年4月1日に生放送で急遽放送された「志村けんさん追悼特番 46年間笑いをありがとう」(フジテレビ)の最後にドリフ時代からの相棒的存在であった加藤茶が弔辞を読み上げた。
志村、ひどすぎるぞお前。一番若いお前が俺たち差し置いて天国に行っちゃうなんてね。
まだオレたちとやらなきゃいけないこと、たくさんあっただろうに。
それを1人で先に行っちゃうなんて、お前は馬鹿だよ。天国の長さんもまさかお前が最初に来るなんて思ってなかっただろうな。びっくりしたと思うよ。
長さんの次は、高木ブーだと思ってただろうな。でも久しぶりに2人きりでいろんな話ができるから、長さんも喜ぶんじゃないかな。
ま、いずれそう遠くないうちに、俺たちもそっちに行くと思うから、それまで長さんと酒でも酌み交わしながら、ドリフの新しいネタでも考えておいてくれよ。
5人がそっちに全員集合したら、そっちのお客さんを大爆笑させようぜ。約束だぞ。じゃ、それまでゆっくりと休んでくれ。大好きな志村よ。
志村けんの所属事務所であるイザワオフィスは、新型コロナウィルスの流行が終息した後に改めてファンや関係者によるお別れの会を開く旨を公表している。(リンク)
死亡説について
実際に逝去する以前、1996年に突然出てきた死亡説は当人の出演によって否定されたが、ここまで大きくなった要因はいくつか存在していた。
出演番組の減少
最盛期(1990年代前半)における志村けんの番組は…
- 月曜日…「志村けんのだいじょうぶだぁ」
- 火曜日…「ドリフ大爆笑」(月に1回程度)
- 土曜日…「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」
という具合に1週間の間でテレビで見かけるケースが多く、また季節の折々に「志村けんのバカ殿様」が放映されていた。この他、これらの番組とは別に単発でコント番組が放映されており、放映もゴールデンタイムであったので子供から大人まで広く周知されていた。
しかし、1992年から1993年にかけて大人気を誇った「志村けんのだいじょうぶだぁ」と「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」が終了、「だいじょうぶだぁ」の後継である「志村けんはいかがでしょう」→「志村けんのオレがナニしたのヨ?」→「けんちゃんのオーマイゴット!」まではゴールデン時間帯での放映であったが、1996年9月からの「志村X」は24時20分からの放映になった。
またこの当時の志村はバラエティ番組への出演は極めて少なかった。実際、憑依芸人と例えられるほどに印象深く、そして卓越した演技力があったが、演技を離れると非常に照れ屋で、口数も少なかったと言われ、この手のトーク中心の番組を敬遠していた。実際、「笑っていいとも」で桑野信義が出演した際、テレフォンショッキングの出演依頼を拒否するという具合に徹底していた。また、他のドリフメンバーが出演したことのある「徹子の部屋」にも生涯一度も出演しなかった。
その為、放映が夜中となり、ゴールデン時間帯で志村を見るとなると不定期のドリフ大爆笑やバカ殿様となり、急な露出の減少が死亡説の要因の一つとなった。
噂の混同
この手の噂は尾びれ背びれがつくのが常である。
まず志村けんと殊更言われたのは実在する「しむらけん」さんという人物が亡くなったからと言われる。「志村けん」とは芸名であり、本名は「志村康徳」である。新聞で芸名を持つ人物が死去した場合は、本名が乗るのが常である。しかしながら、今のように芸名か本名を一発で調べられるような時代ではなく、また本名についてそこまで周知されているとは言い難かった。
次に「亡くなったことは四十九日が過ぎてから発表される」の出どころであるが、同じ年に渥美清が死去しており、この際に荼毘に付してからの発表がなされたため、これがなぜか志村けんと結びついたとされる。
このほか「今放映されている分は生前取り貯めたもの」というのは詳細は不明である。ちなみにこの手の急逝の場合、放映中に「※このドラマは○月×日に収録したものです」というテロップが流れるのが常となっている。
直接関係あるかどうかは分からないが、「志村けんのだいじょうぶだぁ」では視聴者を泣かす意味でコントとしては全く例を見ない笑いを排除した、死別などをテーマとしたいわゆる「シリアス無言劇」が放映されたこともあり、この手の話題に肉付けしたとも考えられるかもしれない。
「宇都宮のがんセンターで死亡」、「尾瀬で死亡」、「群馬でゴルフ中に死亡」など北関東での死亡に集中しているのは志村姓が北関東に多いことが挙げられている。
いずれにせよ、人気の高さゆえに様々な憶測を呼んだということは確かである。
パソコン通信の勃興
直接的ではないのだが、この時期Windows95が爆発的に広がり、パソコン通信も急速に広がりを見せてきた。それまではこの手の噂は口伝えのようなものが常であり、噂の広がりは限定的で地域も限定されていたのだが、パソコン通信の広がりによって噂が容易に広範囲に伝わる要素ができた。
髪の毛について
ドリフターズの中では一番の最年少だったにもかかわらず、ぶっちぎりで薄毛となっている。デビュー当時の1970年代はやや癖毛気味のふっさふさであり、割合に2枚目で売り出す事も多かった。ジュリーこと沢田研二とのコントにおいても彼の人気に負けずに黄色い声援を浴びる事も多かった。
だが、志村人気が出てきた1980年代頃から徐々に後退が始まってきた。この時、まだ志村は30代半ばである。この頃、彼は後ろ髪を縛るヘアスタイルにしていた。これはとある俳優(ミュージシャンと言う説もあり)から影響受けたと言われる。
その後は順調に後退が進み、晩年は前半分近くにまで至っていた。その状況を自らネタにする事があるが、コント内ではカツラ等のかぶり物率が極めて多く、地毛で出演するコントは少ない傾向がある。
故郷・東村山
彼の出身は東京都東村山市である。志村の自宅は別にある為、本人が東村山市に戻る回数はそれほど多くはない。それでも、志村けんの出身地として東村山市は多くの人々に知られている。東村山音頭が大ヒットした当時は多くの子供たちが、今で言う所の聖地巡礼の如く、歌詞に出てくる1丁目~4丁目を探していたが、実際には存在しない住所である。
東村山市は東京都の北西部に位置し、歌詞にもある多摩湖(村山貯水池)は人口湖ながらも非常に風光明美である。また、沿線を走る西武新宿線によって、都心から30分圏内という地の利の良さからベッドタウンとしての発展を遂げてきた。しかし、東村山音頭がリリースされた当時は1964年の北多摩郡からの分離、市制の設置から時期が経っておらず、所ジョージの歌にもあるように、まさに「東京の外れ!大外れ!!!!」というイメージであった。そうでなくとも、そんな市を知らないと言う人が多くいた状態であった。
「8時だョ!全員集合」で「少年少女合唱隊」でオチの場面で東村山音頭を披露、バレエの衣装を身にまとい、股間に卑猥な物を連想させる頭部といういでたちに代表される衣装や、割合につかみやすいテンポでたちまち大人気となった。当時、志村は正式メンバーになって数年が経過したものの、鳴かず飛ばずの状態であったが、たちまちにそれを払しょくした。
無論、東村山の地名も全国へと知れ渡ることとなった。これにより1976年には当時の市長より感謝状を贈られているが、よく言われる名誉市民に選ばれたというのはこの時ではない。なお、感謝状を贈られた際に駅前にケヤキの木が植樹された。その名も「志村けんの木」である。その他、地元の商工会の愛称は「あい~ん」といい、また志村の幼馴染が経営する和菓子屋には「だいじょうぶだぁ饅頭」などが販売されている。
「東村山音頭」ののちもコントの中で「東村山の実家」や「故郷の東村山」などと東村山出身であることをセリフに入れることもあって、「志村けん=東村山」は幅広い世代に定着していた。このことから志村を名誉市民にという声は以前からあり、2014年に東村山市が市制施行50周年を迎えた際にも動きがあったとされるが、本人が辞退していたという。一方で、市制施行50周年を記念して、東村山市の広報に市長との対談が掲載され、その際に前述の「志村けんの木」に設置するためのプレート用にと、原盤に志村が直筆したりもしている。
2020年3月、志村が新型コロナウイルスによる肺炎で急逝すると、悼む人々が自然に東村山市の「志村けんの木」に献花に訪れはじめる。市は整理のためにと急遽献花台を設置したが、それが報道されるとコロナウイルスの感染警戒の中さらに人が集まる事態となって献花台も取りやめられ、代わりに追悼メッセージを受け付けることとなった。市には2万2千件を越えるメッセージが集まり、やはり「志村けんを名誉市民に」との声も多く寄せられた。
その後、遺族と所属事務所の同意が得られたことを受け、市長提案により志村の名誉市民選定の同意を求める議案が東村山市議会に提案され、2020年6月25日に全会一致で承認。東村山市で3人目となる名誉市民となった(ちなみに認定の証状には本名の「志村康徳」ではなく「志村けん」と記載されている)。直後に行われた顕彰式の最後には、出席者全員で「アイーン」のポーズをとって志村を偲んだ。
なお、志村が生前名誉市民への打診を断っていたのはシャイな性格に加え、以前に打診を受けた頃には三鷹市に住んでおり、「今は東村山市に住んでいない」ことも理由にあったという。しかし、打診を受けた遺族は、独身で生涯を閉じた志村は東村山市内にある志村家代々の墓に入ることになったことから「東村山で永遠に眠ることになったのだから名誉市民を受けてもいいのかな」と承諾した理由を語っている。
他の芸人との関係
半世紀近い彼のキャリアの中においては数多くの芸人との絡みや噂が存在した。
ドリフターズ関連を見れば、いかりや長介との不仲説がたびたび囁かれた。80年代における「ドリフ大爆笑」においてはコントのコーナーでも「加藤・志村」と「いかりや・高木・仲本」と言う組み合わせが多かった。志村もいかりやに対しては一時期、「あの人のコントは面白くない」と批判ともとれる発言をしていた。当のいかりやは逆に志村の才能を高く評価していた。ちなみにいかりやの死でいの一番に駆け付けたのは志村と加藤であり、愛憎相半ば的なものがあったとされる。加藤茶は元々付き人であった事やドリフ脱走から復帰までの顛末よりプライベートを含めた親密な付き合いがあり、共に番組を持ったり、志村の番組にもたびたび出演していた(後述)
加藤以外のメンバーでは高木ブーとの共演が近年多くなっている。
歌謡界では沢田研二とは全員集合以来、共にコントをしてきた事もあり、仲が良い。しかし、プライベートで絡む事が少なく、近年は徐々に交流を深めている。吉幾三は志村の著書において「また飲みに行きましょう」と言う程の仲であり、酒を含んだ状態でコントでたびたび出演している。その際はピー音がたくさん入れられ、まともに意味が通らない状況にもなる。研ナオコとは夫婦コントやCMで昔から共演しており、仲の良さがうかがえる。
俳優の柄本明は怪優の誉れが高い個性派俳優であるが、志村と共演する時は喜劇俳優と言う普段見せない姿を披露する。特に芸者コントは明らかに志村が押され気味であったり、ツッコミに集中したりと非常に異色かつ方々からの評価の高いコントであり、個性派俳優のキャリアをいかんなく発揮する狂気の役どころは必見である。なお、柄本は常々「志村さんとしかコントはやらない」と言っている。
ビートたけしは1980年代から1990年代において互いの番組を競い合ってきたライバルであるが、「タケシムケン」という番組で共演した事で尊敬しあう仲となった。本来はお互い同期なのだが、たけしからは志村の方が先に売れていたこと、また志村からはたけしの方が年上であること理由として、お互いの立場を尊重し合う間柄となっている。なお、ネット上に流布しているフライデー襲撃事件後における美談はデマであると断言されているが、たけし軍団のメンバーがたけしの事を「殿」と言うのはバカ殿様の影響があると言われるように互いに何らかの良い刺激を持っているのは確かである。そして志村とたけしの間で決して欠かせないものとして志村の三味線とビートたけしのタップダンスのコラボレーションがある。バンドマンとして弦楽器を得意とする志村と、師匠・深見千三郎ゆずりのタップダンスは一見の価値がある。ちなみに今ではたけし軍団に所属していないがジョーダンズの山崎まさやは志村の弟子であった。
タモリや明石家さんまとは芸風の違いから、あまり共演は見られないが決して険悪という事ではない。タモリが長年司会を務めた「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングで出演依頼の電話がかかってきたものの「ゴルフがあるから行けない」と断ったこともあるが、番組終了間際にゲスト出演をしている。明石家さんまは志村けんの急逝直前に「天才!志村どうぶつ園」のゲスト出演オファーがあり久々に共演できることから乗り気ではあったものの他の仕事とのスケジュール調整が上手く行かず結局断ってしまったことを告白している。
また所ジョージとは1990年代以降共演が増えた。二人は出生地が近い事(駅でいえば1駅隣)やお互いに犬好きである事、志村が所の親戚とバンド組んでいた事から実は浅からぬ縁が存在している。後述のように歌をこさえている。
後輩関係で見ると早いうちに桑野信義と田代まさしのセンスに目をつけて、自らの番組に出演させている。二人とも志村を「師匠」と呼び、実質師弟関係ともいえる。なお、田代に関しては数々の犯罪行為より断絶状態となっている。
ダチョウ倶楽部は共通の友人の紹介から関係が始まり、今では志村の番組においては欠かす事の出来ない存在となっている。特に上島竜兵は志村を深く敬愛し、師匠と呼んでいる。嫁より師匠と言って憚らないほどである。志村もかなり目にかけているようで、志村の誕生日において、周りを女性タレントが囲む中で志村の脇と言う一番おいしい位置にいた所からもそれがうかがえる。
またタカアンドトシの芸風も高く評価している。彼らが芸風について悩んでいたところ、志村が一喝したらしい。ところが晩年は千鳥の大悟を懇意にしており、上島竜兵がやきもちを焼くレベルと言われていた。
その他、松本人志(ダウンタウン)は大尊敬する芸人の一人に志村けんを挙げ、志村逝去直後の「ワイドナショー」(フジテレビ)においては「(志村急逝から1週間近く経っても)毎日1回は志村さんのことを考えますね」とショックを隠しきれないコメントを出した。岡村隆史(ナインティナイン)も志村けんの芸を研究しコピーして披露するなど多大な影響を受けており、生前の志村けんが「自分の後継者がいるなら岡村」と発言するほど相思相愛な関係であった。
女性関係ではいしのようことは結婚寸前までの仲であった事が知られる。それ以降も何人かの女性との浮名が今でもと噂され、もうすぐ古希を迎えるにもかかわらずどの女性とも結婚には至ってはいない。これには慰謝料絡みなど諸説流れているが、志村が根っからの芸人であり、仕事の方にリキを入れてしまい愛想を尽かされてしまうからであると言われている。売れていないころに付き合っていた女性を妊娠させて周りから大反対を喰らったという過去を持つ(子供は認知したが、その後は行方知れずになったらしい)。
海外に目をやると、アメリカの俳優レスリー・ニールセンと何回か日本の番組で共演した事がある。「裸の銃を持つ男」の俳優として絶大な人気を誇っていた彼が日本のコメディ番組に出るというのは非常に異例であり、伝説となっている。1990年代後半、「ミスター・ビーン」の人気が高まると演者のローワン・アトキンソンとの共演を熱望する声があった。結局は方向性のずれなどの問題から共演には至らなかったが、志村が自身のコントにおいてミスタービーンのネタを取り入れた場面があるように与えた影響は少なからず存在する。
加藤茶と志村けん
志村がドリフターズに弟子入りするに当たって、加藤茶の付き人になったのはよく知られている。
しかし志村から見れば7歳ぐらいの差であり、また性格も趣味も似通っていたということもあってかすぐに意気投合、また志村が運転免許を持っていなかった(なお、死ぬまで持ってなかった模様)為に運転は加藤が運転する、当時は加藤の母親も一緒に住んでおり家ではご相伴に預かるなど師弟関係というよりは年齢からしても兄弟や友達みたいなものになっていった。
加藤自身も今でいえばダウンタウンの浜ちゃんが志村をどつくような感じで加藤を叩いてたように恐れ知らずな志村の可能性を確信していた節もあり、非常に懇意にしていた。脱走後の復帰に際してもいかりやに口添えをしてスムーズに復帰を出来たのは加藤の尽力あってであるともいえる。そしてその感は的中、志村は大ブレイクを果たす。
以降は志村を陰に日向に支え、全員集合が終了して「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」では二人で番組を持ち、以降も他のドリフターズのメンバーとは距離を置いた活動している時も加藤とは「志村けんのバカ殿様」で共演してるようにまるで初めからコンビであったかのような非常に親密な関係を保っていた。
そしてプライベートでもラスベガスなどへ海外旅行をしたりと公私にわたって仲の良さがあった。綾菜現夫人も加藤が志村と話すときは互いにしか通じないような喋りをしたと証言するほどである。
ちなみに今もって伝説のネタである「威勢の良い風呂屋」は志村と加藤のアイデアである。
このように加藤にとって、志村とは弟子や付き人、ドリフターズのメンバーといった関係だけではなく、兄弟であり、相方であり、親友であったとも言えるだろう。
東八郎と志村
芸人として影響を受けた人物の一人に東八郎がいる。Take2の東MAXこと東貴博の父親である彼はかつて東京の演芸のメッカであった時代の浅草が生んだ代表的コメディアンの一人であり、バカ殿においては桑野信義以前に爺役を務めた人物である。
若き日の志村は東や自身が子供たちから笑われることに対して思うところがあったようで、その疑問を東にぶつけたところ、「コメディアンは子供に笑われるのは当たり前であり、その人が馬鹿でないことはわかる人にはわかる。むしろ変に文化人ぶったらおしまい(要約)」と志村に説いた。
志村はこれに強烈な感銘を受け、生涯事あるごとに説いていたほどである。
お笑い一筋
お笑いにおけるキャラクター性や演技力の高さから、ドリフターズのメンバーはピンで活動する際には、お笑い番組だけに、留まらずテレビドラマや映画などに出演することもよくある。
しかし、志村けんはお笑いだけに力を入れる方針から、ドラマには出ておらず、人生において一度しか映画に出演したことがない。
しかもその出演作は鉄道員(ぽっぽや)だけで、「高倉健にオファーされたから断りようがなかった」という理由から。
但し、ドリフが主催した喜劇映画には数本出演しており、数少ない彼のスクリーンでの活躍を今に伝えている。ドリフ映画はDVD化されていないものの、フィルムは現存するためWOWOWの追悼特集では志村の出演したドリフの作品がオンエアされている。
だが2012年では割合考えが軟化していったのか、どういうわけか『ロラックスおじさんの秘密の種』というCGアニメ映画の吹き替えで、主演を務めている。また、これまたどういうわけか2014年の妖怪ウォッチ映画では大妖怪マスターニャーダの声の担当もしている。
とはいえ、基本的にはお笑い一筋であり、ドラマなどへの出演は極めて少ない。
晩年には連続テレビ小説(NHK)「エール」に出演し、山田洋次監督の映画「キネマの神様」でも初主役を務める予定であったが、志村の急逝により「エール」は生前に収録した分のみの出演、「キネマの神様」での主演は幻に終わってしまった。
「キネマの神様」で志村が演じるはずであった役は古くからの盟友であった沢田研二が代演することとなる。
コミカライズ化
志村人気がピークであった1990年代前半、コロコロコミックにおいて竹村よしひこによってコミカライズ化されて「わ~お、ケンちゃん」として連載された。学校コントそのままにいかりや長介をモチーフとしたおこりや先生やその当時のタレントをイメージした同級生が多数出演した。何故か板橋区の設定になっているが、これは同区内において「志村」と名のつく地名があるからであろう。アニメ化こそされなかったが、割合に人気があった。
この他、いくつかの漫画においてパロディ化やネタを使ったものがある。
キャラクターグッズ
古今東西、古くは天地真理やピンクレディーなど、人気タレントは自身をモチーフとした商品が多く登場していた。
喜劇俳優として一時代を築いた志村も例外ではない。1987年にPCエンジン用のソフトとして「カトちゃんケンちゃん」が販売された。これはその当時に放映されていた「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」をモチーフとしたものであり、この当時におけるテレビゲーム黎明期にタレントを模したゲームは「たけしの挑戦状」や「さんまの名探偵」が知られている。今もってその難易度の高さは語り草となっているが、行き過ぎた理不尽さはないので玄人筋の評価が高いゲームとなっている。
一番有名なのはサンヨー食品から販売されていた「ケンちゃんラーメン」であろう。1980年代より販売されており、かなり長い間販売されてたので自身も「8年たっても新発売」とだいじょうぶだぁでネタにしたほど。CMで「おーい、ケンちゃんラーメン、新発売だよーだ!」と365日新発売であったり、ケンちゃんパズル(時期によってはケンちゃんボールペン)があったりでリアルタイム世代には結構知られている商品である。現在は残念ながら製造されていない。
持ちネタ
- そりゃそーだ!
相槌を打つ場面においてみられた。 - アーミーマー
全員集合の学校コントで見られたネタで「I my me」の1人称変化をネタにしたものである。その後には「ゆーやーゆー」と2人称変化につなげたりした。つなげる際に合いの手を入れてテンポを良くする事もあった。 - スイカの早食い
読んで字のごとくであるが、異様に早く食う。コントでは薄くしてあるのだが、薄くしてなくても問題ない。スイカマンの元ネタともなっている。 - とんでもねえ、あたしゃ神様だよ。
お願い事をした人の前に現れた際の問答の一部分であり、今でもネット界隈ではたまに問答があった際の返しとして使用されるケースがある。耳が遠い為に聞き間違いが半端ではなく、「雨を降らせて」とか「子供が出来ます様に」という願いを「ボラギノール」と聞き違える程である。呆れて帰った参拝者を尻目に自身がお願い事をして、別の神様を呼び寄せる場面につながるが、呼んだ神様も耳が遠いというオチである。アメリカのあるコントに範をとったと言われる。 - ストリップ
一般的にドリフでストリップと言えばカトちゃんであるが、志村もストリップネタを披露する事がある。加藤の「タブー」に対して、志村は「Cherry Pink and Apple Blossom White」が使用される。 - だいじょうぶだぁ~、ウェ、ウェ、ウェ
アイーンが有名になる以前における志村けんを代表するネタであり、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で3連タイコを叩きながら、 この台詞を唱える。この際には「だいじょうぶだぁ」と「ウェ、ウェ、ウェ」の前に太鼓を入れる。また、「だいじょうぶだぁ~」と「ウェ」の部分を切り離して使う事もあり、語尾に「ウェ~」とつなげる事も少なくなかった。このネタは志村の親族が関係する実体験が元ネタである。このネタはその後、自身の冠番組の名称の由来となっていく。 - コイケバカタレ
「志村けんのだいじょうぶだぁ」に見られた台詞であり、5時起きの夫婦ネタで志村扮する夫役の寝言でしばしば発せられた。これ以外にも「コイケ!」という口癖の役があった。このコイケなる人物はその当時のスタッフの名前であり、楽屋ネタを使用する事が少ない志村にあっては珍しいネタである。 - だっふんだ!
「だいじょうぶだあ」と並んで志村黄金期を代表するネタであるが、これはオチに使われる。変なおじさんに扮装した際にのみ見られるもので、所謂顔落ちの際に発せられる台詞である。顔落ち自体は志村の得意ネタで全員集合やドリフ大爆笑でも頻繁に見られたものである。 - 婆さんコント
ひとみばあさんを代表とする様々なお婆さんに扮するコント。志村を代表するコントとして広く知られる。舞台女優の故・太地喜和子より絶賛され、劇団員へそれを参考にすべしと言った程である。ひとみばあさんのインパクトが非常に強烈なので、お婆さんコントを「ひとみばあさん」と言う事もある。 - アイーン(怒っちゃやーよ)
近年、割合に使用頻度の高いネタで顎と手を突き出すポーズで、手の位置はウルトラセブンがエメリウム光線を出すポーズに似たものとなっている。元々は「怒っちゃやーよ」であり、いかりやがキレてる場面において使用される事が多かった。 また、相手を威嚇する時は無言で素早くこのポーズを取るというパターンもあった。
志村関係の歌
全員集合時代でいえば「東村山音頭」が非常に有名であるが、その他にも「七つの子」の替え唄を歌い、これまた全国の子供たちが真似をした。その人気はPTAから苦情が来るほどであった。
その後、時代が下って「志村けんのだいじょうぶだぁ」になると兄貴分の「クレージーキャッツ」の歌である「ウンジャラゲ」をカバー、これもまた大人気となり「だいじょうぶだぁ」内で視聴者投稿があるほどであった。番組末期においては「爺さん婆さんコント」の中からも歌を出した。
近年では研ナオコとのコンビで歌を出したりと、ちょくちょく歌を出している。
また、所ジョージは志村をモチーフとした歌を制作している。「長介が嫌いですぐ辞めた―♪」という歌詞の「志村けんの歌」と「東京の外れ!大外れ!!」の「東村山ラプソティー」が知られている。
発言録
気取らないこと。とにかく飾らない。
自分を大きく見せようとする段階で人はうそをつくし、それはすぐに見破られるものですよ。自著『志村流』より
常識を知らないと本当のツボというものがわからない。
常識は基本線で、お笑いはその常識をひっくり返すところで、コントとして成り立っている。
だから笑えるワケよ。
お笑いに限らず、常識をバカにする奴に、常識を超えたことは絶対にできない。自著『志村流』より
仕事が終わったら、仕事のことはなるべく考えないようにしています。でも、仲間と店で酒を飲んでいても、隣のサラリーマンを見て、『この人がこんなことしたら面白いだろうなー』とすぐにお笑いに結び付けてしまう。職業病ですね。家で映画のDVDを観ていても、『これは!』と思ったら、一時停止ボタンを押したり、巻き戻してスローにして見直したりしちゃうから。夢にネタが出てくることもある。どこからが仕事なのか、自分でもよくわからなくなっている
笑ってるとさ、また頑張ろうって思えるじゃない
余談・その他
- いかりや長介の付き人になるため本人の家に押しかけた際には、当初は定員だからということでいかりやに断られたという。しかしそのわずか1週間後に「すぐ来い」と後楽園ホールに呼び出され、「一人辞めたから、使うから」と言われる。「卒業したらお願いします」と志村が返答したところ、「いやいや、いますぐ」と即採用が決まり、さらにその翌日から東北に1週間巡業に連れて行かれたという。ちなみに卒業式の日だけ何時間かもらったので卒業式には出られた。 [3]
- まだ生活が苦しかった新人時代においては、ラーメン屋で他の新人仲間たちと共にご飯を注文しておき、ラーメンを食べ終わった先輩たちが帰っていった後に、残りの汁にご飯を入れて食べていたという。ちなみに先輩がラーメンを汁を飲み干すところまでしてしまった時には、文句を言ったとか。[4]
- ある放送作家によると、無類の女好きでもあり20代女性がタイプだったという(美形や巨乳ならなお良し)。相手がタレントなら番組での共演を持ち掛けたり、座長公演の舞台に呼んだりして近づき、飲みに誘って口説くのがパターンだったとされる。付き合うことになった女性にはカードを渡して「好きなように使ったらいい」と言い、別れることになった時は、まとまった金額を相手に渡していた。 [5]
- 芸能リポーターの城下尊之によると、女もそうだが酒はもっと好きで、酒の席での評判も良かったとされる。金払いが良く、高級店を何軒はしごしても全ておごりになったとか。 [6]
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- 芸人の一覧
- ドリフターズ
- 田代まさし
「だいじょぶだぁ」「バカ殿様」における元相方。例の一件さえなければ殿堂入りしていたであろう名コンビ。黒歴史化が惜しまれる。 - 沢田研二
1970年代を代表するスーパースター。にもかかわらず、体当たりで志村とコントを繰り広げた。志村のキャリア初期を語る上では決して外せない人物。
志村けん幻の主演映画となってしまった「キネマの神様」で、志村が演じるはずだった役を受け継いだことでも知られる。 - ケンちゃんラーメン
「サッポロ一番」でおなじみのサンヨー食品から発売されていたカップラーメン。いつも心は新発売。 - 変なおじさん
- バカ殿
- ひとみばあさん
- 志村
主に背後への注意が疎かな志村と、そうではない志村との曖昧さ回避の記事として建てられている。当記事より作成されたのが早い。 - スイカ
- 東村山音頭
- ヒゲダンス
- 最初はグー
脚注
- *志村けんさんの遺体、兄も会えず。「顔を見られずに別れなくてはならなくて、つらい」 (ハフィントン・ポスト 2020年03月31日 11時15分 JST)
- *志村けんさん 新型コロナで力尽く…兄・知之さん悲痛 感染防止のため「お骨を拾うこともできない」 (スポニチ 3/31(火) 5:30)
- *文春ロングインタビューより (週刊文春 2012年10月11号)
- *志村けんの「下積み時代」最初のバイトは顕微鏡の台座削り (SmartFLASH 2018年8月31日)
- *志村けん伝説「酒と女と笑い」捧げた70年 交際女性にはカードで“お小遣い” (日刊ゲンダイ 3/31(火) 15:00)
- *志村けん伝説「酒と女と笑い」捧げた70年 交際女性にはカードで“お小遣い” (日刊ゲンダイ 3/31(火) 15:00)
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