シンボリクリスエス 単語

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シンボリクリスエス

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漆黒帝王
Symboli KrisS

JRA「ヒーロー列伝」No.55 シンボリクリスエスexit

シンボリクリスエスとは、1999年生まれのアメリカ生産の競走馬(外国産馬)である。

もしかしてシンボリクリエンス

馬主シンボリ牧場[1]。所属は当時タイキシャトルバブルガムフェローなどで知られた美藤沢和雄厩舎。
名の意味は冠名+名前から。ファンからの略称は「ボリクリ」。

な勝ち
2002年: 天皇賞(秋)(GI)有馬記念(GI)青葉賞(GII)、神戸新聞杯(GII)
2003年: 天皇賞(秋)(GI)有馬記念(GI)

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については
シンボリクリスエス(ウマ娘)」を参照して下さい。

概要

シンボリクリスエス
Symboli Kris S
生年 1999年1月21日
サラブレッド
性・毛色 鹿
生産 アメリカUSA
生産者 Takahiro Wada
馬主 シンボリ牧場
調教師 藤沢和雄 (美)
初出走 2001年10月13日
抹消 2003年12月28日
戦績 15戦8勝[8-2-4-1]
獲得賞金 9億8472万4000円
受賞歴
JRA賞
年度代表馬(2002-2003)
最優秀3歳(2002)
最優秀4歳以上(2003)
競走馬テンプレート

Kris S.(クリスエス)Tee Kay、Gold Meridenという血統。

Kris S.は、競走馬としてはどめぼしい実績を挙げられないまま引退したものの、安価での種牡馬入りを果たした後は、ジェロームEvening Krisブリーダーズカップ・ターフを制したPrizedと競走馬時代の憤をらさんがばかりに活躍を次々と輩出した上に、北リーディングサイアーにもいた名種牡馬。このの後にもイギリスダービーKris Kinが生まれている他、Kris S.に持つとしてはかのZenyattaが存在している。詳しくは当該記事を参照。
Tee Kayは現役中全31戦4勝、内1勝はGIIIマーサワシントンステークス勝利するなどまずまずの成績を残している。シンボリクリスエスはその3年産駒にあたる[2]
Gold Meridenは米国三冠馬Seattle Slewに持つ種牡馬Tee Kay以外でめぼしい産駒サンタ・マリアのSupah Gemくらいで、取り立てて実績が残っているわけでもない。

系はRobertoを祖に持つ、いわゆる「ロベルト系」に属するである。この時点の日本でもロベルト系の流れをむ*リアルシャダイや*ブライアンズタイムが導入され、その産駒達が活躍していたが、彼らとべると染みの薄い、いかにもアメリカといった感じの配合ではあった。そんな具合に一見何も関わりがなさそうなこのは、何の因果日本へとやってくることになるのである。

競走生活

誕生~入厩前(1999~2001年):思いもよらない来日

かのスピードシンボリシンボリルドルフらの生産、果敢な海外挑戦などで知られていたシンボリ牧場であったが、紆余曲折を経て90年代では社台グループ牧場などの後を拝し始めていた。そんな中1994年2代目オーナーであった和田共弘氏が死去。この跡を長男の孝氏が継いで3代に就任することになる。

オーナーとなった孝氏は先代までのヨーロッパ流のスタイルを転換、アメリカ産や市場に対してを向け始めた。その過程で日本へと持ってこられた*シンボリインディが、99年のNHKマイルカップ勝利。新たな方針は一定の実績を挙げることに成功したのである。


時を前後して98年の11月アメリカキーランド繁殖牝馬セールでこのTee Kayがシンボリ牧場によって落札される。Kris S.を受胎済みであった彼女は、翌々の99年1月21日に委託先のミルリッジファームで出産。だがこのどうやら誕生当初ではあまり期待されてなかったようで、1歳に達した際に幼駒セールへと売りに出されてしまう。結果としては取りとなったために売却はされずにすんだが、この時点での彼はセールの売れ残りというとてもバツの悪いポジションに収まってしまっていた。

しかし運命とはどう転ぶか分からないもの。取りから少し経った後のこと、シンボリインディの活躍を受けて、日本でのデビューを期待されていた別のがいたのだが、その日本へと移動する前に死去してしまったのだ。そこで代わりに白羽の矢が立ったのがこの。記事冒頭にもある通り、冠名名前を合わせるスタンダートな命名法から「*シンボリクリスエス」と名づけられて、日本の美藤沢和雄厩舎でのデビューが決定することに。いわば代打起用からの日本行きであった。

もちろん当初売れ残りとなっただけあって、このなかなかのネックを抱えており、一言で表すと「体の大きさの割に仕上がりが悪く、かつ疲れが残りやすい」という難儀な代物であった。よほどその具合の悪さは印的だったのか、担当調教師藤沢和雄、現役前半の騎手岡部幸雄調教を度々担当した鹿戸雄一(元騎手・現調教師)は、後年になってからも何かとその酷さ(と成長力)を回顧している。

2歳~3歳春(2001年後半~02年前半):無慈悲な宣告

上記の通り仕上がりの悪さが尾を引いたこともあって、競走馬としてはやや遅めの2歳後半、2001年10月13日東京競馬場1600mで岡部騎手を背にデビュー騎手調教師が共に掲げる「優先義」のモットーもあってかあまり理はさせないという前提の騎乗であったが、ギリギリクビ差分先着して勝利レース後も長いで見ていくために、十分に疲労を取るべく3ヶほどの休養を挟むことに。とりあえず初戦は勝てたということで2歳シーズンは終了。

年が明けた2002年、3歳となったシンボリクリスエスであったが、やはりどうにもイマイチだった様子。上を横山典弘に変え、500万下(現在1勝クラス)の条件戦を2戦するが2着・3着、岡部騎手が戻ったレースでも3着と、届かない着順が続いていく。4度500万下挑戦となった4月6日山吹賞で何とか勝利を収めるもの、この時点のシンボリクリスエスは世代のモノの数にも入っていなかった。

転機となったのは、次走の青葉賞(GII)岡部横山騎手が騎乗出来ないということで、骨折から復帰したばかりの武豊を乗せたシンボリクリスエスは、好位からの先行競馬で抜け出して後続に2身半差をつけ快勝。数々の名を知る武騎手も手ごたえを感じたのか「いいですねこには絶対よくなりますよ!」と絶賛した。こうして将来へのお付きを得て、シンボリクリスエスとその営はダービーへの切符を見事に掴み取った……ん?

かよ!と私は思った……。ダービーじゃないですか、4週間後に……。

―『武豊TV!』 07年放送分から
藤沢和雄回想

迎えた5月26日東京優駿(日本ダービー)(GI)、単勝2.6倍の一番人気は武騎手の乗るタニノギムレットここまで皐月賞NHKマイルカップの両GIで3着と安定した成績を残している。続いて皐月賞を制した蛯名正義騎乗のノーリーズンが5.0倍の2番人気岡部騎手が戻ったシンボリクリスエスは単勝6.2倍の3番人気であった。

レース本番では中団に位置取り、レースを見つつじっくりを脚を溜める形に。迎えた最終直線、わずかに外に持ち出して進出を開始、凄まじい勢いで先団のを差し切っていくシンボリクリスエス。しかしゴール前に大外から飛んできたタニノギムレットの強襲を受けてしまい1身差で2着に。にはよくなる」と言った武豊その人に阻まれる形でダービーはならなかった。
開業から14年、ようやく手が届きかけた「ダービー調教師」の称号を逃した藤沢師は悔しくて悔しくて仕方がなかったという。この5年後に出演した『武豊TV!』でもタニノギムレット営と武騎手に対して辛辣な言葉を向けていた辺り、心が伺い知れる(論ウケ狙いのネタ半分トークである。半分は本気かも)。

(タニノギムレットにそっくりなウオッカを管理する居勝調教師が「(一族の)ロマンですね」と評されて)

藤沢「『ロマン』じゃないですよ、私は……。ダービーチャンスがあったのがシンボリクリスエスで。あのタニノギムレットで、きれーいに豊くんに乗ってかわされた……」
武「スイマセン」
藤沢「……それで(ギムレット一族で)ずーっとやりたいとか、全然『いい話』『ロマン』じゃないですよ……。
どういう番組なんですかこれは?

―『武豊TV!』 07年放送分から
関係者座談会より

師の悲願はこのダービーから15年の時を経て、奇しくもシンボリクリスエスの血を引くレイデオロによって果たされることになる。一族のロマンである。

3歳秋(02年後半):黄金の秋

こうして破れたシンボリクリスエスだったが、営は青葉賞日本ダービー明らかに力量を付けている事を確信。武騎手タニノギムレットへの報復に燃える藤沢師はきっちり仕上げ、を挟んだ神戸新聞杯(GII)で怪から復帰明けのノーリーズンを2身つけて難なく打ち破る。なお、出走を表明していたタニノギムレットレース前に屈腱炎を発症して出走することもなく引退日本ダービーが最初で最後の戦いとなってしまった。

勢いに乗った営は、菊花賞ではなく古混合重賞天皇賞(秋)(GI)への出走を表明する。東京競馬場の改修工事に伴い中山競馬場での開催となる今年の秋天には、同期が次々とターフを去る中でも未だに走り続けていた古強者・ナリタトップロードなど、強ひしめくメンバーを狙っていた。その中で3歳ダービーの時と同じ3番人気に支持されたシンボリクリスエスのみ。2000mへの短縮後に3歳で天皇賞(秋)を制したのは、これまででは彼の先輩にあたるバブルガムフェローただ1頭だけということもあってか、力量はあれど有力であれど、この年齢で勝つには流石に物足りないと下評では思われていた。

ここへ来た理由

何故ここにいるのかと 問われた若者
相手にえ掛かろうとする。

練達の師が彼の肩に手を置く。
止まらなかった身震いが 自然とおさまっていく。

そうだ言葉ではなく 結果で教えてやればいい。
君がここへやってきた ただ一つの理由を。

                                           名馬の肖像 シンボリクリスエスexit

このレースコンビとして組む最後でもある相棒岡部幸雄を背に、抜群のスタートを決めたシンボリクリスエスはこれまた中団最内に取り脚を溜める。終盤になって周りが慌ただしくなっても息を潜め続けて短い最終直線。溜めに溜めた勢いを一気に爆発させて先頭に突っ込んでいく。ナリタトップロードがあの時のタニノギムレットのように外から追い込んでくるものの、今度こそっ先にゴールを駆け抜けた。
こうして短縮後史上2頭の3歳による天皇賞(秋)制覇をやってのけたシンボリクリスエス。岡部騎手の「53歳11ヶ」という最年長GI制覇記録[3]を手向けに念願のGI戴冠を果たした。

次走のジャパンカップ(GI)では当時大人気だった短期外国人ジョッキーオリビエ・ペリエが予定通り騎乗。岡部氏に代わる騎手としてこれ以降シンボリクリスエスを担当している。
前走の勝利もあって1番人気に推されるが、開幕の出遅れがダイレクトを及ぼす形に。最終的には叩き合いに持ち込んで*ファルブラヴの3着と、日本勢の中では最先着ではあったのだが、その分初動が何とも惜しまれる結果に終わってしまった。よほど悔しかったのか、検量室に戻ったペリエ騎手の顔からは血の気が引いていたという。

3歳最後のレースとなった有馬記念(GI)に対しては当初見送る姿勢を見せていたが、人気投票2位に選ばれたこともあり、出走を決定。なお、同様に投票1位だったナリタトップロード香港遠征プランを変更して出走してきた。
当日のオッズ人気では秋華賞エリザベス女王杯を含めてここまで敗で来た3歳の*ファインモーションに1番人気単勝2.6倍の支持が集まったこともあって、2番人気3.7倍に甘んじる結果に。
レースでは彼女と*タップダンスシチーハナ争いをに、々に5番手辺りに取りつきながら追走。中盤タップダンスシチー大逃げのような形でレースが進み、焦った周囲がめに進出を始める中でじっくりと待ち続けるペリエ騎手。最終直線を迎えた間からタップダンスシチーへグイグイ迫っていき、見事半身差に差し切って勝利。年末の大舞台GI2勝を飾った。

これらGIでの成績の良さもあって、2002年JRA賞では「最優秀3歳年度代表馬[4]」に選出。
3歳までは500万下を勝ったばかりだったこのは、「にはよくなる」の予言的中と言わんがばかりに、同じ年の下半期から圧倒的な追い上げを見せて現役トップの座を掴み取ったのだ。

4歳(2003年):連覇の鬼

有馬記念を勝った翌2003年藤沢師は(走り切った後の消耗や距離的な部分を考慮して天皇賞(春)々に諦めた上で)「年末の有馬記念に余力を残しながらGIに出走できるローテーション」という逆算から宝塚記念天皇賞(秋)ジャパンカップ有馬記念の年4走での出走計画を発表。今日では外厩などの発達もあってトップホースにはしくないGI直行・ローテであるが、当時は始動の遅さや出走数の少なさで何かと物議を醸した部分でもあった。同時に社台スタリオンステーションでの種牡馬入り予定も発表され、現役は今年1年で最後ということも明らかにされた[5]

ともあれシンボリ牧場での放牧などでじっくりと疲労を抜きながら調整を行い、心身の成長を促して迎えた宝塚記念(GI)。去年の年度代表馬の待ちかねた出走ということもあり、単勝2.1倍の1番人気に支持される。本拠地・フランス競馬スケジュールの都合で騎乗がならなかったペリエ騎手に代わり、今回はケント・デザーモが代打として起用された[6]
レース本番はいつも通りに中団内側に構えて脚を溜め、最終直線でゴボウ抜きの戦術を取る…はずだったのだが、進出を焦り最終コーナーで抜け出しを図ってしまう。タップダンスシチーとのしい競り合いをする中、外からのツルマルボーイネオユニバース、そして3からロングスパートをかけ続けてながら飛んできたヒシミラクルにかわされ、最終的にはタップダンスシチーとの競り合いにも負けてしまう。結果、勝ちヒシミラクルから生涯最低着順の5着で敗北。皮にもこのヒシミラクルはシンボリクリスエスの同期で、距離や疲労を理由に回避した菊花賞天皇賞(春)の勝ちでもあった。


だが万全に万全を期した間隔と仕上げでありながら、掲示板ギリギリの5着で負けてしまったショックこそあったが、営はローテーションの変更をせずに、オリビエ・ペリエともども残り3走のGIへ全力を挑みかかる姿勢を貫いた。

まずは昨年勝利した天皇賞(秋)(GI)。昨年の中山競馬場を経て、改修工事を終えた東京競馬場で従来通りでの開催となったこのレースでは、一度勝った身ながら、前走の負けと絶対不利とされる大外(818番)がいてか、1番人気とはいえ単勝2.7倍というそれなりのオッズがついた。
本番ではいきなり*ローエングリンゴーステディって大逃げで後続を突き放す。この二頭が作り出した前半1000mを56.9通過するスプリント戦並みのハイペースレースが進んでいく傍ら、中団の外から追走してレースを見る形に。最終直線では内に切り替えながら、あえなくズルズルと後退して来る二頭を々と追い抜きつつどんどん加速。ツルマルボーイの追撃も振り切ってあっさりと1身半差ほどでゴールインしている。これでGI3勝
勝ち時計01:58:00大逃げの二頭がペースを引っったこともあって貫レコード更新となった。ちなみにこの勝利により、当時史上初の天皇賞(秋)連覇を達成[7]

前年のリベンジがかかったジャパンカップ(GI)ではまたしても単勝1.9倍の1番人気に支持される中、もはや定番の中盤追走。
タップダンスシチー大逃げを図る中、おりしも芝が重馬場ということもあり、前走と同じくわざわざ後退して来るだろう相手を捕まえにいくこともないと判断してか、3手前まで然と構えて……タレてくるはずのタップダンスシチーが先頭を走り続けている。流石に不味いと思って捕まえにいくペリエ騎手とシンボリクリスエス、しかしここに来て重馬場が牙を剥く。悪ではタップダンスシチーとの差が中々埋まらないのである。そうこうしている内にか先頭でタップダンスシチーゴールイン。ここで記録した2着との着差・9身差は、グレード制採用後の中央GIにおける最大の着差である。かたやシンボリクリスエスは、菊花賞ザッツザプレンティの3/4身差で去年と同じ3着に甘んじることになった。


手痛い敗北から気が付けば年末、泣いても笑ってもこれがこのの現役最後のレースとなった有馬記念(GI)ラストランということもあってか、ファン投票・オッズ人気でともに1位に選ばれている。
メンバーはこれで4度対決となる宿敵タップダンスシチーの他、同藤沢厩舎から後輩にあたるダービー2着菊花賞4着の素質ゼンノロブロイなども出走表明しており、油断の出来ない面々がっていた。

当日は単勝2.6倍を背負い、812番からスタートしたシンボリクリスエスとペリエ騎手いつものようにゼンノロブロイらと中団に位置取りつつ、逃げてハイペースを作り出す先団勢を見る形に、もはや定番も定番である。かしこの日の彼らはここからが別物だった。

明らかジャパンCのときよりも、怒りを感じるね。タップダンスシチーに入って、あの9身3/4差を思い出してさ、めらめらと燃えてきたのかな」
私にもシンボリクリスエスの戦闘意欲があふれるほどに伝わってくる。
「たしかに、くやしさに満ちているな。ペリエだって、今日ジャパンCのくやしさをらしたいしね。タップダンスシチーのつかまえどころがむずかしいレースになるだろうけど、ペリエだからなぁ、しっぺ返しをするよね

―『60YEARS伝説〈上〉』(2014年刊)から
吉川良(作家競馬コラム筆者) パドックでの同業者との会話

ジャパンカップの反省と言わんがばかりに、3逃げを捉えてから凄まじい加速を始めるシンボリクリスエス。中団勢からは最終コーナーで抜け出して々に先頭に立った間、脚の回転が他より何倍も違って見える動きで後続を突き放し始める。ここからの中山の直線は短いぞ
1身…2身…2着との差はまだまだ伸びる3身…4身…伸びは止まらない、5身…6身…後方集団までようやく直線に差し掛かかりきったか、7身…8身…ゴールに突っ込んで9
勝ち時計02:30.05。91年ダイユウサク有馬記念レコード更新、2着のリンカーンとの着差は9[8]。もちろんこれもグレード制採用後のJRAGIでの最大着差タイ

Easy Travel! チョウハッピー

―『60YEARS伝説〈上〉』から
オリビエ・ペリエ 表式にて

文句なしの大圧勝とGI総計4勝の実績を手土産にその日の内に中山競馬場引退式を行い、そのままターフを去ることとなったシンボリクリスエス。
なお年明けの2003年JRA賞でも昨年度に引き続いて「最優秀4歳年度代表馬[9]」に選出されている。

種牡馬入り後~死去(2004~2020年):一翼を担って

当初の予定通り社台SSにて種牡馬入りを果たしたシンボリクリスエスだが、初年度の2004年から216頭の繁殖牝馬に種付けを行うなど人気を博しており、その初年度産駒からサクセスブロッケン、2年産駒からストロングリターン、5年産駒からはアルフレードといった具合に幸先よくGIを輩出。以降も2013年辺りまでは安定して1年に200頭前後の種付けを行っていた。6年産駒からは自身初のクラシックホースとなるエピファネイアそのしばらく後にルヴァンスレーヴと最終的には総計5頭のGIをこの世に送り出す事に成功している。特筆すべきは(上記のGIを含めて)輩出した重賞の9割以上がなことだろうか[10]重賞の詳細に関しては、以下「産駒」の欄を参照。
その後、高齢化による受胎率の低下や後継種牡馬たちの登場などもあり、2016年ブリーダーズスタリオンステーションに移動[11]。最終的には2019年シーズンの種付けを最後に種牡馬引退。ちょうど後継代表としてされたエピファネイア産駒が走り出した時期と入れ替わるような形で現役を退くこととなった。

その後は千葉シンボリ牧場で功労として安らかに余生を過ごしていたが、翌2020年9月に蹄葉炎を発症、約3ヶ後の12月7日に起立不能となった末、翌日の8日に死去。21歳での大往生であった。奇しくもその1年ほど前には、彼のオーナーブリーダー・和田氏もへと旅立っていた。


ロベルト系の血を引く彼の産駒は、同時期に衰退を始めたブライアンズタイム産駒たちに取って代わるように内で繁栄。2022年現在世界的にやや押され気味なロベルト系の中では*グラスワンダーラインと共にしく盛を極めている。
直孫の代の話題でいうと、後継種牡馬エピファネイア産駒から初年度に三冠デアリングタクトが登場。更に2年産駒ではエフフォーリアというが出現。このエフフォーリア、奇妙にも「ダービー2着の後に」「天皇賞(秋)有馬記念を制覇して」「3歳でその年の最優秀3歳年度代表馬に選ばれる」というどこかで聞いたことのあるような活躍を見せている[12]
一方他では、種牡馬入りしたばかりのルヴァンスレーヴも初年度から連続して200近くへの種付けを行うなど、ダート方面の種牡馬としての高い期待が見て取れるだろうか。
上記の通り、圧倒的な産駒重に対してからはめぼしい戦績のは出なかったものの、一代おいたとしては輩出した顔ぶれがごっそりと層を厚くしており、G1だけでもオジュウチョウサンレイデオロアルクトスアカイイトソングラインといった面々が挙がる。この内レイデオロは先述した通り、祖と同じ藤沢厩舎に入厩し、師にとって悲願であったダービーの他、天皇賞(秋)も制覇している。

生まれてすぐは期待にもされずセールに出されて、あえなく取り。寂しく売れ残ってしまっていたは、奇妙な偶然から日本に渡り、世界的な名手たちに支えられ、多くのライバルとの戦いを経て、何度もの敗北にまみれた末に、ついには時代を代表する存在へと大成を遂げた。そんなシンボリクリスエスの血脈は代を重ねて着々と異に根付きつつある。
今日もターフで、ダートで、あるいは厩舎で、外厩で、もしくはテレビで、ラジオで、ネットで……彼の子孫たちは多くの人々を賑わせて続けているだろう。

余談・逸話

血統表

Kris S.
1977 黒鹿毛
Roberto
1969 鹿毛
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Bramalea Nashua
Rarelea
Sharp Queen
1965 鹿毛
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Bridgework Occupy
Geale Bridge
Tee Kay
1991 黒鹿毛
FNo.8-h
Gold Meriden
1982 黒鹿毛
Seattle Slew Bold Reasoning
My Charmer
Queen Louie Crimson Satan
Reagent
Tri Argo
1982 黒鹿毛
Tri Jet Jester
Haze
Hail Proudly Francis S.
Spanglet
競走馬の4代血統表

クロス:Royal Chager 5×5(6.25%)

主な産駒

太字GI級競走を優勝した競走馬、及びそのGI級勝ち

2005年産

2006年産

2007年産

2008年産

2009年産

2010年産

2011年産

2013年産

2014年産

2015年産

2017年産

関連動画

関連静画

関連コミュニティ

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *ちなみに生産者は、生まれた牧場の「ミルリッジファーム」名義ではなく、アメリカでの方式に則っての所持者である「Takahiro Wada」名義になっている。
  2. *2年産駒が不受胎に終わったため、このは3年産駒ではあるが2番ということになる。
  3. *この記録2023年大阪杯武豊が「54歳」で破るまで20年間トップに君臨し続けた。
  4. *281票中で前者は280票・後者277票での選出。
  5. *「スタッドイン後はシンボリ牧場社台グループとの間で所有権を折半する」という共同所有契約での種牡馬入り。
  6. *ちなみにかつての戦・岡部幸雄も、02年有馬記念でのコイントスへの騎乗を最後に一旦左膝の治療に入っており、そのリハビリにも1年以上の歳を費やしていた。デザーモ氏の起用は岡部氏のこの事情もあったと思われる。
  7. *この後ではアーモンドアイ2019・20年での連覇を果たしている。
  8. *この有馬記念での最大着差記録2022年現在破られていない。参考程度に近年の有馬記念での圧勝として記憶に新しい13年オルフェーヴルの着差が8身、19年リスグラシューの着差が5身である。
  9. *287票中で前者は257票・後者220票での選出。
  10. *2022年にようやく産駒のプリティチャンス地方交流重賞を制した頃には、シンボリクリスエスの後2年が差し掛かっていた。
  11. *ブリーダーズSSで過ごした種牡馬生活の数年間では、後継の一頭であるストロングリターンと同時繋養されていた。シンボリクリスエスの種牡馬引退後、使っていた放牧地・厩舎は彼に引き継がれているようだ。exit
  12. *極めつけに年度代表馬に選出された際の票数が、シンボリクリスエスと全く同じ277だったこともちょっとした語りとなった。
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