山本昌広(ウマ娘)とは、アニメ『ウマ娘 プリティーダービー ROAD TO THE TOP』に登場する、やたらガタイのいい解説者である。CV:山本昌広
概要
ナリタトップロード、アドマイヤベガ、テイエムオペラオーが三強を形成した1999年のクラシック三冠を題材にした配信アニメ『ウマ娘 プリティーダービー ROAD TO THE TOP』に登場するレース解説者。
女性の実況アナウンサー(CV:本泉莉奈)とともに、作中のレースの解説をしている。なお、作中では名前は出ておらず、キャストでも単に「解説」と表記されている。また、声優としてのクレジットはプロ野球時代の登録名「山本昌」ではなく、本名の山本昌広でされている。
『ウマ娘』のアニメでは、テレビシリーズの第1期・第2期とも元騎手で現競馬評論家・リポーターの細江純子を本人役の解説者として起用しており、またスペシャルウィークの1998年日本ダービーを描いた第1期の第5話では武豊をゲスト解説者としてやはり本人役で登場させていたが、『ROAD TO THE TOP』での山本昌という意表を突いた起用は競馬ファン兼野球ファンの間で大きな話題となった。あまり演技らしい演技の必要のない解説者役とはいえ、落ち着いたアフレコぶりも評判である。
ちなみに現実の1999年では、山本昌はバリバリの現役投手であり、先発の一角として中日ドラゴンズのセ・リーグ優勝に貢献しているが、皐月賞の4月18日、日本ダービーの6月6日はいずれも登板していない(皐月賞・ダービーとも2日後の火曜日の試合で先発している)ため、現役だとしても解説は可能だったことになる(?)。菊花賞の11月7日には既にシーズンが終わっているため解説に支障はない。弥生賞の3月7日には浜松でオープン戦があったようだが、ここに登板していたかどうかは未確認。
アニメ本編での出番・台詞
『ウマ娘』のゲームではレース中に解説者がコメントを挟むが、『ROAD TO THE TOP』では実際の競馬中継と同様、レース中に喋るのは実況アナのみで解説者は黙っている。
第1話・弥生賞
第1話・毎日杯
第1話・皐月賞
実況「さあ、今年もこの日がやってきました。クラシック三冠レースの初戦、皐月賞です」
解説「いやー、待ちに待ったという感じです」
実況「そうですね。本日は雨が降っておりますが、例年にもまして大きな盛り上がりを見せています。注目はなんといっても、1番人気アドマイヤベガと、2番人気のナリタトップロード」
実況「中山レース場、芝2000m。今年の皐月賞は※17名で行われます」
※ワンダーファング(幸英明)、ゲート内で暴れ負傷し発送除外
第2話・日本ダービー特集
実況「全てのウマ娘にとっての夢舞台、日本ダービーがいよいよ目前に迫って参りました。世代最強を決めるレースで栄冠を掴むのはいったい誰なのか」
解説「皐月賞はナリタトップロードとアドマイヤベガの一騎打ちかと思われたところに、テイエムオペラオーという伏兵の登場でね」
第2話・日本ダービー
実況「ついにこの日がやって参りました。若きウマ娘たちが世代の頂点を目指して競う、クラシック戦線の最高峰、日本ダービー! 今年の注目はなんといっても、あの3人の激突でしょう!」
第3話・京都新聞杯
史実
1984年から2015年まで32年間、50歳まで中日ドラゴンズ一筋でプレーし、NPB歴代タイ記録の実働(一軍出場したシーズン数)29年をはじめ、史上最年長ノーヒットノーラン、史上最年長での通算200勝など数々の記録を打ち立てた元プロ野球選手(投手・左投左打)。
本名は「山本昌広」だが、1990年に同じ名字の山本保司が入団したためスコアボードには「山本昌」と表記され、1995年オフに山本保司がトレードで移籍してからも「山本昌」を登録名として引退まで使用した。
1965年神奈川県生まれ。日大藤沢高校から1983年のドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。背番号は入団から引退まで「34」をつけ続けた。
プロ3年目の1986年に一軍初登板を果たすも、4年目までは全く結果を出せずにいた。5年目の1988年、春キャンプの会場だったアメリカにそのまま野球留学という形で残ることになり、ここで代名詞となるスクリューボールを習得。帰国後、そのスクリューを武器に一軍で5勝0敗の成績を残して優勝に貢献、以降は先発ローテの一角としてチームに欠かせない存在となる。
1993年には今中慎二と左のダブルエースで17勝5敗、防御率2.05の成績を挙げて最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得。翌1994年には19勝を挙げ2年連続最多勝を獲得、沢村賞を受賞する。その後2年は故障に苦しんだが、1997年には復活して18勝を挙げ3度目の最多勝と初の最多奪三振を獲得した。
以降は投手タイトルの獲得こそないものの、左の先発として毎年安定した成績を残し、ほとんどの選手が引退する40歳を過ぎても先発ローテの一角を担い続けた。2006年9月16日の阪神戦では最年長記録となる41歳1ヶ月5日でのノーヒットノーランを達成。2008年8月4日の巨人戦では、42歳11ヶ月にして史上24人目の通算200勝を完投で達成した。
2009年以降は故障も相次いでさすがに衰えを隠せなくなったものの、2010年には45歳にして完封勝利を達成、2013年には48歳にして5勝を挙げるなど活躍し、数々のNPB最年長記録を打ち立てた。50歳を迎えた2015年限りで現役を引退。通算219勝165敗、防御率3.45。2022年には野球殿堂入りを果たしている。
その現役生活の長さゆえ「衣笠祥雄から大谷翔平まで対戦したことがある」「赤ん坊の頃に抱っこした、チームメイトの息子がドラゴンズに入団して後ろを守っていた」「約90年の日本プロ野球史の1/3の期間で現役」「現役期間中発売されたパワプロシリーズのどれを起動しても山本昌がいる[1]」「バック・トゥ・ザ・フューチャーで、元の時代でもデロリアンでタイムスリップした未来でも投げていた」という嘘のようで本当の話が多い。
ウマ娘で言うとミスターシービーが三冠を達成した年にドラフト指名され、キタサンブラックが菊花賞を勝った年に引退しているので、2023年時点でウマ娘化された競走馬のほぼ全員の現役時代を現役プロ野球選手として過ごしている(現役時代が全く重なっていないのはマルゼンスキー(1976〜1977年)とデアリングタクト(2019〜2023年)のみ。サトノダイヤモンドは公式戦最終登板の1ヶ月後のデビューだが、2016年にも引退試合のため一時的に選手登録されているのでそれも含めればカバーしている)。
引退後は主に野球解説者・野球評論家として活動しているが、指導者の道も目指しており、2017年には指導資格を取得。弟が監督を務める母校の日大藤沢高校や、阪神タイガースで臨時コーチを務めたこともある。
また、前述のスクリューボールと高いコントロール、球速はMax143km/h[2]のため技巧派と思われがちだが、本人曰く速球派とのこと。実際2006年では、直球の割合が約45%で、松坂大輔(46%)とほぼ同じ割合だった。また、直球の回転数は普通の投手で平均37回転、松坂で41回転、藤川球児で45回転のところ、山本は52回転と豪速球で知られる投手以上の値を叩き出しており、打者からは「130〜140km/hなのにとんでもなく速く見える」と言わしめた。
ラジコン、昆虫採集、競馬、車など現役時代から多趣味で知られ、特にラジコンは地元名古屋で数々の大会に優勝し、2002年には全国大会で4位入賞。また、チームメイトの山崎武司と一緒に主催していた大会は世界チャンピオンが参戦するレベルになるなどすさまじい熱の入れようで「本業はラジコン、趣味で野球」とまで言われた。また、車についてもランボルギーニ・ミウラ等のスーパーカーを複数所持している他、初めてフェラーリを買った時、実はまだ免許を持っていなかったというエピソードも。
競馬はもともと『ダービースタリオン』シリーズを熱心に遊んでいた(本人曰く1992年頃からだそうで、SFCの『全国版』からか。競馬雑誌で『ダビスタ』を語る際に乱数調整の話から始めるガチ勢)が、野球のツキを使ってしまわないようにとリアルで馬券は買わないようにしていたらしい。しかし現役晩年に二軍暮らしが長くなった頃から馬券を買うようになり、その頃から一口馬主を始めたという。
会員であるサンデーサラブレッドクラブ(サンデーレーシング)では、アルアイン・シャフリヤール兄弟の出資者として知られる。競馬番組にもよく出演しており、フジテレビの「みんなのKEIBA」にも不定期出演。出資馬のシャフリヤール(鞍上・福永祐一)が勝った2021年の日本ダービーでの出演(佐々木主浩も同席)の際には、喜びの余り天井に頭をぶつけた。
なお、アニメの解説者は前述の通りやたらとガタイがいいが、ご本人も(投球フォーム故かあまり長身というイメージがないが)身長186cmという長身である(現役時代の登録数値。実際は188cmあるという話も)。
また、1998年シーズン前に、CBCテレビのドラゴンズ専門番組「サンデードラゴンズ」で立てたシーズン10勝の公約を達成できなかったため(9勝9敗)、同年のオフに罰ゲームとして立浪和義、大豊泰昭、益田大介、渡邊浩幸、荒木雅博とともに中京競馬場の芝コースを走ったことがある。
詳細は当該記事へ→山本昌
年表
関連動画
関連項目
脚注
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