単語記事: カール・マルクス

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カール・マルクス(Karl Marx1818〜1883)とは、ドイツ出身の思想経済学者である。

概要

主な理論
 ・階級闘争
 ヘーゲルの弁証法・アウフヘーベン
 ・唯物史観(史的唯物論)
 ・価値論
 ・剰余価値
 ・疎外論
著作
 ・デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異
 ・ヘーゲル国法論批判
 ・ヘーゲル法哲学批判序説
 ・ユダヤ人問題によせて
 ・経済学・哲学草稿
 ・聖家族
 ・フォイエルバッハのテーゼ
 ・ドイツ・イデオロギー
 ・哲学の貧困
 ・共産党宣言(共産主義者宣言)
 ・賃労働と資本
 ・ルイ・ボナパルトのブリュメール18日
 ・資本論
 ・フランスの内乱
 ・ゴータ綱領批判
マルクス思想の源泉
 ・イギリス経済学
 ・フランス社会主義
 ・ドイツ哲学
その生涯と人間像
 ・マルクスの生涯
 ・その人柄
 ・マルクスの人間関係
マルクス経済学
主なマルクス学者、思想家
 ・日本
 ・ソ連、ロシア
 ・ドイツ
 ・フランス
 ・イタリア
 ・イギリス
 ・非西欧
日本のマルクス主義
 ・日本のマルクス主義の歴史
 ・日本はマルクス主義国家?
 ・日本共産党とマルクス
 ・ニコニコにおけるマルクス
  関連動画
  関連商品
 ・マルクスの著作
 ・マルクス入門書(初心者向け)
 ・マルクス入門書(自信のある人向け)
 ・マルクス経済学
 ・マルクス政治学
 ・プロレタリア文学
 ・まるくすタン
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  関連項目

フルネーム

カールハインリヒ・マルクス
Karl Heinrich Marx

生誕

1818年5月5日
プロイセン王国・トリーア

死没

1883年3月14日(満64歳没)
イギリスロンドン

研究分野

自然哲学歴史学、政治学、経済学社会

を受けた人物

エンゲルス(友達)、ヘーゲル哲学者)、フォイエルバッハ(哲学者)、スピノザ哲学者)、アダム・スミス経済学者)、リカード経済学者)、シェイクスピア(劇作家)、プルードン社会主義者)、フーリエ社会主義者)、オーウェン(社会主義者)、その他多数

を与えた人物

レーニン独裁者)、スターリン独裁者)、毛沢東独裁者)、その他、極めて多数。一時期、世界の半分を支配した思想である。

20世紀に最も影を与えた思想の一人。科学社会主義共産主義の祖とされている。

一般的には革命的、革新的人物と思われているが実際は古今東西の文献を研究し批判した上での統合(まとめ)的研究がであった。

マルクスから影を受けた人物は非常に多岐に渡り、世界中の歴史を大きく動かした。その影現在でもなお大きい。当然日本も例外ではない。

詳しいことはWikipediaへ→カール・マルクスへ……と言いたい所だけど、人物面はともかく理論面では初心者Wikipediaを見ても恐らくほとんど分からないと思う。なので、マルクスについて疑問があったら下の掲示板に書き込んでみよう。きっとアカども優しいお兄さんたちが答えてくれるだろう。

主な理論

マルクスの理論はよく「間違いだらけ」と批判される。しかしこれはある意味当然のことだ。マルクスが研究したのは彼の生きた19世紀の社会であって、それを21世紀の社会に当てはめても理があるに決まっている[1]。ただし、間違いは修正することが出来る。

19世紀にマルクスが生み出したこれらの理論は以降150年の間に世界中の優れた学者達によって研究され、発展させられた。その為、19世紀のマルクスの著作だけ読んでそれを批判するのはナンセンスである。私たちはマルクスの知らなかった20世紀の歴史を知っている。マルクスの正しい理解、あるいは批判の為には21世紀の今現在の研究書を学ぶことが重要である。


  1. マルクスの理論はマルクスの生前から散々に批判されており、特にマルクス理論の根幹を為す『労働価値説』に関しては徹底的に検が加えられた。現在では当時のマルクスの理論には論理的矛盾が多数存在することが摘されている。

階級闘争

人類の全歴史は階級闘争の歴史、すなわち搾取するものと搾取されるもの、支配するものと支配されるものの間の争いの歴史であった。(共産党宣言、第一章)

資本主義ピラミッド構造。最上位に「資本」が君臨し、上から「方を支配する人(資本家貴族)」、「方を騙す人(職者)」、「方を撃する人(軍人)」、「方の為に食す人(持ち)」、そして最下層に「搾取される人(労働者)」がいる。全ての人間の上に資本がいることに注して欲しい。


階級闘争とは、資本主義においては「本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)の闘争」のことである

マルクス社会で活動し、動かす役は「階級」であるとした。この階級の分け方は様々であるが、最も社会で中心的となるのは、要な生産手段を独占しその社会の支配者という地位を占める支配階級と、支配階級に搾取され等の権利を奪われている被支配階級との対立、要するに「持ちと貧乏」の争いである。人類は農耕、牧畜生活が始まった間から持つ者と持たざる者に分かれた。つまり文明的人類史は階級と共にあるのである。

近代資本主義社会において持ちとは工場や会社を所有する資本家のことであり、これをブルジョワとも言う。貧乏人とは基本的には労働者のことであるが、これは単純に貧乏人全般をしているのではないことに注意。もし働いている人全般をすなら世界大富豪であるビルゲイツ孫正義も労働者の範囲内である。ここでいう労働者とは「労働以外に売るものを持っていない人」のことをしている。土地もお金も信用もないので自分を労働として売って日々を暮らす人々、それがマルクスの想定した労働者、いわゆるプロレタリアート(労働者の意)である。なので厳密に定義に従えば持ちのプロレタリアートや貧乏なブルジョワも存在する。

その中でも特に売婦や浮浪者、前科持ちなどの最下層をルンペンプロレタリアートと呼ぶ。ブルジョワとプロレタリアートの違いは「労働以外に売る物をもっているかどうか」で決まるが、マルクスはルンペンプロレタリアートを人間のクズゴミカスなどと言って毛嫌いし、その定義は厳密には決めなかった。というか実はこの言葉、マルクスが気に食わない人をルンペンプロレタリアートと言っていただけのただの罵倒なのである。

ブルジョワという言葉は日本でもよく使うが、一部を除いてプロレタリアートど普及していない用であろう。なので21世紀の日本プロレタリアートなんて言葉を多用するのはマルクスを学んでいる人か、ガチでやばい人の二択になる。場合によっては警察通報もありうるぞ。 

プロレタリア革命

階級闘争によってプロレタリアートがブルジョワを打倒し解放されること、これがつまり「革命」である。革命というと欧州史で有名な革命といえば清教徒革命や名誉革命フランス革命やだろうが、これらはマルクスの想定した革命ではない。これらは別名「市民革命」と呼ばれ、マルクスが「ブルジョワ革命」と呼んだものであった。ブルジョワ革命王制による政治的、あるいは教会による宗教的な経済活動の制約の打破を的としたもの、つまり「市民(ブルジョワ)が、よりお金を稼げるようにするための革命」なのである。ブルジョワ革命の有名なものには先述の三つの革命に加えてアメリカ独立戦争が有名。古い制度を棄し、資本主義の発展を促したという意味ではマルティン・ルターによる宗教改革もブルジョワ革命に分類されるかもしれない。

資本の発展のためには労働や商品の移動の自由化、私的所有の権利の保障をめて封建制を破壊するのがブルジョワ革命。これと別の的を持つのがマルクスの想定した「プロレタリア革命」である。プロレタリア革命の当面の的は「ブルジョワ政権を打倒しプロレタリアートによる独裁政権を立すること」にある。マルクスはこの革命に関して、平和革命の可性を示唆しつつも基本的には暴力革命を想定した。革命が起きた後は政府的に労働者が自分たちで事業所を作り働く社会を理想としているが、一気にそれをやろうとしても失敗するので、マルクスはまずはプロレタリア独裁政権を打ち立て、徐々に経済を慣らしていく方法を提唱した。

世界で一番初めに起こったプロレタリア革命1871年のパリコミューンであるがこれは短命に終わった。マルクスプロレタリア革命資本主義が最も発展したフランスや、そしてなにより産業革命の先鋭イギリスで発生すると予想したが、結局イギリス革命が起きることはなく、ソ連の誕生した1917年のロシア十月革命を初めとした途上でしかプロレタリア革命が起こることはなかった。

よく誤解を受けがちなのだがプロレタリア革命、搾取を受けて可哀想な労働者が、傲慢強欲な資本家を倒すための正義革命ではない資本主義において搾取は必要不可欠なことであり、搾取を行わない資本家は他の資本家との競争に負けて会社が倒産して労働者に身分を落とすことになる。資本家は資本家で居続けるためには搾取をせざるを得ないのだ。つまり、マルクスが言いたかったのは「可哀想な労働者を助けるために革命をしよう!」ということではなく「労働者の革命が資本家を打倒することは歴史の必然である」という極めて現実義的(物的)なことだったのである。

21世紀の階級闘争

マルクスが、階級闘争理論を生み出してから150年が経った現在、当時とは世界情勢が全く違っている。資本主義の頂点はイギリスではなくアメリカに移ったし、グローバリゼーションはより進み、資本の動きは実にスムーズになっている。それらの変化の結果、マルクスの階級闘争は時代に合わせた変化を余儀なくされた。

まず第一に19世紀にべて現在は資本家(ブルジョア)の姿が見えなくなってしまっていることがある。例えば現在社会でブルジョアと言えばを思い浮かべるだろうか? 大企業社長大物政治家、芸界のトップスター。確かに彼らは高い給料を貰っており、下手すると個人資産は何十億、何億円もあるかもしれない。では、共産革命で彼らをMINAGOROSHIにしたとして、彼らの代わりに社会を労働者が支配することができるだろうか? あるいは例えば日本共産党が与党となったとして、日本マルクスの想像した共産主義に向かっていくだろうか? これはどう考えても不可能である。

今の21世紀の社会ではプロレタリアが倒すべきブルジョアが具体的な姿を取らなくなってしまっているのだ。ではブルジョアは時代の流れとともに消滅したのだろうか? 当然そうではない。労働者は今この間も厳しい労働に耐え、搾取されている。それでは21世紀のブルジョアに当たるものは何なのだろうか?

イタリアマルクス哲学アントニオ・ネグリとアメリカ哲学マイケルハート日本でもベストセラーになった著作「<帝国>」の中で21世紀のブルジョアとは「帝国」であると述べた。帝国というのはどこか一つのすのではなく「この地球を覆う資本主義というシステムそのもの」のことである。この資本主義というシステムは実態がなく曖昧で、それでいて地球上のどこにでもあり再生産と自己増殖を繰り返し続ける。

私たちは普段お金銀行に預けている。銀行お金を預けると数の利子が発生する。今の日本の利子は大抵の場合は極めて少ない額なので気に留めることは少ないかもしれないが、でもよく考えてみてほしい。この利子と呼ばれるは一体どこから生まれているのだろうか? 個人が得られる利子は少ないが今の日本人の個人貯蓄を合計すると1000兆円以上とされている。仮にこのが全て年利0.01%銀行に預けてあったとすると年間1000億円、一日あたり2億7000万という大預けた人が何もしていないのにどこからともなく湧いてきているのである。このお金がどこから出てきているか考えたことのある人がいるだろうか?

もちろんのなる木から取ってきている訳ではない。すなわちこの利子というのが搾取の果実なのである。銀行に預けられた膨大な貨幣は機関を経て世界中の様々な企業や地域に投資され、19世紀のブルジョアと同じ理屈でその場所の労働者から搾取しているのである。搾取しなければ投資は引き上げられ企業なら倒産、地域なら衰退するからだ。ここにおいて貯蓄した人、投資した人、経営者や地域の政治家にも悪意は存在しない[1]日本の個人貯蓄は1000兆円以上が世界に与える影は凄まじい。

そして第二に、プロレタリアートもブルジョアと共に時代を経て姿を隠した。これも同じように想像してみよう。21世紀の社会底辺労働者プロレタリアと聞かれたらどんな人を想像するだろうか?ブラック企業の従業員、派遣労働者。しかしやっぱり彼らが団結して「資本主義を打倒する!」とはどう考えてもならないのである。ここでもネグリらは前著で21世紀のプロレタリアである「マルチチュード」を摘した。

マルチチュードとはえたネットワークのことであり、地球規模の民主主義を成し遂げる可性のある概念である。マルチチュードは19世紀のプロレタリアとは異なり一つの統一された勢でありながら、文字通り多様性(マルチチュード)を失わない存在である。

とまぁ長々と21世紀の革命についてってきてなんだが、ここは19世紀のマルクス革命を解説する場所なので時代を戻して説明を続けたい。

後述することになるがマルクスの思想は「哲学」と「政治学(社会主義)」と「経済学」の三つの要素が入り交じっている。その中で最もマルクス思想の基礎をなしているのは、ズバリ「哲学」である。そこで、次にマルクス革命論の底に流れる哲学的試行法「弁法」を解説する。


  1. 理矢理犯人探しをするとすれば、悪意がある(と思われている)。これが世界融を支配するユダヤ人差別される一因になり、ホロコーストの直接の原因の一つになった。

弁証法・アウフヘーベン(止揚、揚棄)

法とは「二つの矛盾するものが、対立を経て、新たな一つのものになる」という思考法である。

法自体はマルクス独自のものではなく古代ギリシャから続く論理的思考法であるが、特に19世紀のドイツ哲学ヘーゲルのものが有名で、一般的に弁法といえばヘーゲルマルクスの弁法のものを言う。ヘーゲルは自ら弁法という言葉を提起したを訳ではないが、彼の子たちがヘーゲルの著作に見られる手法をして弁法と呼んだ。マルクスはこれに大きく影を受けており彼の理論でも多用されるものなのでここで一緒に説明する。

ヘーゲルの弁法とは、「ある一つの命題(テーゼ、正命題が、それと矛盾する命題アンチテーゼ、反命題と出会った場合、両者はアウフヘーベン(止揚、揚棄)して統合した新しい命題ジンテーゼ、合命題になる」という理論のことだ。

命題とは、「正しいか正しくないかはっきりしている文章」のこと。テーゼとは「残酷な天使のテーゼ」のテーゼである。アンチテーゼまでは聞いたことがあるだろう。アウフヘーベンとは「捨てて持ち上げる、高める」という意味。

ヘーゲルの著書「精神現象学」によれば、全ての存在は本質の内に矛盾を抱えており、それが外化してアンチテーゼとなり本質と対立すると述べた。テーゼとアンチテーゼはどちらが正しいという訳ではなく対等なものである。テーゼはアンチテーゼに否定され、アンチテーゼはテーゼによって否定の否定がなされる。アンチテーゼはテーゼを全に否定しないし、テーゼはアンチテーゼ全に否定するしない。両者はそれぞれを保存しつつ統合して(相互媒介)、より昇された命題を生み出すのである。

図にするとこんな感じ。

     テーゼ⇄アンチテーゼ   

ジンテーゼ

まずテーゼとアンチテーゼがお互いを否定しあう。そうするとアウフヘーベンが起きて二つが合体! ジンテーゼの出来上がり。そしてジンテーゼは再び新しいテーゼとなり新しいアンチテーゼに否定し合う。「正→反→合→正→反→・・・」これを繰り返すことによってより矛盾の少ない議論に達するとヘーゲルは考えた。

分かりやすい例

A太郎飯何にする? おれはカツが食べたい」←テーゼ
B助「そうだなぁ・・・カレーが食べたいぞ」←アンチテーゼ
A太郎「そっか、じゃあカツカレーを食べにいこうぜ」←ジンテーゼ

最初のテーゼがアンチテーゼに否定されつつ保存され、両者が統合された最終結果がでている。

ちょっと分かりにくい例

王制や教会による近世の封建制政治システム」←テーゼ
「生産技術向上や市場拡大による自由経済への欲求の高まり。古い体制が邪魔になる」←アンチテーゼ
「封建制を打倒する宗教革命市民革命などの発生」←ジンテーゼ

二つの例は経済政治を発展させるという唯物史観の考えである。マルクスはヘーゲルに強い影を受け高く評価していたが後に「ヘーゲルは優れた思想であったが頭でっかちで彼の理論は現実的でない。やっぱり現実に応用しないとダメだ」と言って、観念論的だったヘーゲルの理論を物論に応用した。これがマルクス独自の物弁である。

この物弁法を根拠にした歴史観こそが、次で説明する「唯物史観」である。


  1. 他にもマルクスダーウィン進化論についても自然科学の中の弁法を摘して高く評価し、ダーウィンから影を受けている。

唯物史観(史的唯物論)[1]

唯物史観とは「歴史とは経済をきっかけに動いていく」という歴史観である。

以下の文章は「唯物史観公式」と呼ばれており、数学公式みたいなもんでなので長ったらしいけれども全て引用した。もちろん丸暗記する必要はないし、流し読み推奨である。唯物史観とは以下のような歴史観のことを言う。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである

社会の物質的生産諸は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急にせよ、くつがえる。

このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律政治宗教芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾社会的生産諸社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。経済学批判序文)

専門用を用いて一行で述べるならば「経済の発展が既存の経済諸関係に対して矛盾が起きたときアウフヘーベンが発生し新たな社会体制が生まれるという歴史観」となる。

相変わらず駄に難しい表現であるが、要するに上に書いたように「歴史ってのは経済をきっかけにして動いていくのだ」という考え方が唯物史観である。

いつの時代も世の中が進歩して商品の生産経済)が発展すると、既存の社会政治法律)に適合しなくなってきて矛盾を持ち始めるようになる。そうなった時には政治経済に応じて変わっていき、それが連続することによって歴史を作っていく、というのが唯物史観である。経済矛盾を正すために政治が動き、歴史が変わるのだ。

マルクスはこの理論における経済を「下部構造」、政治などを「上部構造と呼んだ。すなわち下部構造が上部構造を規定することになる。政治法律は人の意思や感情で決まるが、反対に経済は人の意思や感情から独立して決定しているからこのような構造を取るのだ。

先述した通りこの唯物史観には「物弁」が用いられている。「古い時代の社会制度」と、経済発展によって生まれた「その経済に合わせた社会制度への欲求」との間に「矛盾」が起きる。この結果、二つの社会制度の間でアウフヘーベン(止揚)が起きて「新しい社会」が生まれていくのである。

マルクスはこの考えを根拠に、歴史は原始共産制→奴隷制→封建制を辿り資本主義を経て必然的に社会主義になり、共産主義へ移行することを論じた。

原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義共産主義

「→」のところでアウフヘーベンが発生している。

なのでマルクスは他の社会主義者と違って具体的な共産主義社会がどのようなものかを説明しなかった。マルクスが示したのは、そこへ至るまでのプロセスであり、そこから先の未来社会はその時の社会経済状態が決めるものであるとして人智では予想しえないと考えていたのである。


  1. 現在では左翼的歴史観日本の場合、言ってしまえば自虐史観)のことをすこともある。

唯物史観に対する批判

    

マックス・ヴェーバー      フランシスフクヤマ

唯物史観に対する批判として次のものがある。

マルクス社会主義革命資本主義が成熟しきったで発生するとし、当時最も資本主義が進んでいたイギリスがまず社会主義革命を起こすと予言した。しかし、社会主義革命は発展途上であるロシア中国キューバなどで勃発した。歴史義的に考えるならば、唯物史観は間違っていたと言える。

社会学者マックス・ヴェーバーは代表作の『プロスタントの精資本主義の倫理(通称、プロ倫)』の中で、資本主義の発展の一因はプロスタントの精性にあるとした。一般的に資本主義は、自由市場の下、欲の正当化によって発展したと考えられていたが、ヴェーバーによれば、資本主義の発展はむしろプロスタントの禁欲性にあるという。歴史の発展を宗教に原因をめたという点で、経済歴史の発展の原因をめたマルクスとは対照になっている。

他には、政治学者フランシスフクヤマが著作『歴史の終わり』の中で「民主主義自由義は人類の最終社会形態である」として人類の歴史民主主義資本主義で終わりとしたものがある。この場合の歴史の終わりとは、人類の発展が終わったり、人類は民主主義資本主義のもと繁栄をするということではなく、今後社会の変化や混乱継続して発生するが、それはどこまでいっても民主主義資本主義に収まるという意味である。人類の段階的発展を否定する点で唯物史観とは対立する。

そもそもマルクス自身が唯物史観に懐疑的だったのでは?という議論も存在する。マルクスの中期著作では唯物史観に関する文章が多く見られ、経済学批判の序文でその理論は完成に至る。しかしマルクス理論の集大成である資本論の序文では唯物史観に関する叙述か削除されている。研究者の間ではこの点から、マルクス唯物史観という仮説を立てたが、後にそれを修正した、あるいはウェイトを軽くしたという可性が摘されている。これを唯物史観プラン変更問題という。

この他、唯物史観経済に重点をおきすぎている、と言う批判があり、その後、革命は複合的要素によって発生するとする社会学者も登場し、現在ではこの見方が流である。

では次に、その今の見方である「重層的決定」を説明する。

重層的決定

唯物史観は、政治宗教芸術など人間の思想は経済によって決まるという理論であるが、これはよく考えるとおかしいところが沢山ある。まずマルクス本人も摘していることだが、芸術の発展と経済的発展は一致しない。たとえば経済的に豊かな日本世界芸術が多く誕生しているわけではない。唯物史観には歴史的にも直感的にも多くの例外が思いつくだろう。

そこで20世紀の哲学者ルイ・アルチュセールはこれを重層的決定という理論でこの矛盾を解決した。重層的決定とは「ある物が決まる時は様々な要因で決定される。ただしそれらの要因には優先度があり、その優先度のことを審級と呼ぶ」という理論である。これを唯物史観に当てはめると「歴史政治は様々な要因によって決まる。特に経済は最終審級であり最後の最後は経済歴史を動かす」ということになる。経済歴史社会を動かす重要な要素ではあるが、しかしあくまで一つの要因でしかない、ということだ。

独の哲学者ヘーゲルは精世界の絶対性によって社会歴史を説明しようとした。マルクスはヘーゲルから影を受け、理論を逆転させ精ではなく物質、つまり経済社会歴史を説明しようとした。アルチュセールはヘーゲルマルクスのように一つの要因で社会歴史が決まるという理論を否定したのだ。なんか急に普通っぽくなってしまったが当時はマルクス学全体に衝撃を与え、アルチュセールショックを起こした。

ところで

観念論

唯物史観の「物論」というのは元々は「世界の根を為すものを自然、すなわち物質にめる考え方」のことをいうが、この物論の対義が「観念論」である。観念論は物論とは反対に「世界の根を意識や精める考え方」。例えば、が人を作ったと考えるのが観念論。人がを作ったと考えるのが物論である。当時は教会や国家が自らの権威のさを保つために観念論が奨励された。とりわけマルクスの生まれたドイツでは観念論の勢いが非常に強かった。

ではあなたは論者だろうか?観念論者だろうか? これは次の三つの質問[2]にあなたがどう答えるかで分かる。

  1. 「あなたは、人間が生まれる前に、地球があったことを認めますか?」
  2. 「あなたは、人間がものを考えるとき、の助けを借りていると思いますか?」
  3. 「あなたは、他人の存在を認めますか?」

もしあなたが全てにYESと答えたならば、あなたは論者である。いまでこそこれらは当たり前のようにYESと答えられるのだが科学が発展しておらず絶対的でなかったマルクスの時代はもちろん日本でも一昔前は「物論か? 観念論か?」の議論学生を中心に繰り広げられていた。例えばマルクスが強い影を受けた独哲学者ヘーゲルは観念論の最重要人物である。

マルクスは当時の秘的、悪くいえば宗教的で非科学的な観念論的思想がはびこる当時から物論的歴史観を展開することによって「共産主義科学」にしたのだ。


2. この三つの質問はレーニンが彼の著書「物論と経験批判論」において観念論の矛盾追求するために作ったものである。

科学的社会主義

ロバート・オーウェン[3]

当時の社会産業革命により経済的にも文化的にも大きく進歩した一方で、伝統的コミュニティの破壊による社会混乱や治安の悪化、そしてなりより現代とはべ物にならないほどの経済格差に襲われていた。そして、その反動社会主義共産主義運動も大変盛んであった。当時代表的だった社会主義社にはフーリエ、サン=シモン、オーウェン、プルードン、バクーニンがいる。

しかし、彼らはあくまで社会主義の提唱を行っただけであり、それを実現するための具体的な方法を民衆に提示することができなかった。実現しない理論は常に想的である。端的に言えば彼らの想定した社会主義は「ぼくのかんがえたさいきょうのしゃかい」だったわけだ。

マルクスは彼らを『想的社会主義』(特にフーリエ、サン=シモン、オーウェンは実名で挙げたため一般的にはこの三人を想的社会主義者と呼ぶ)と批判する一方で、自らは共産主義の実現のために、共産主義の理論よりも現在社会システムである資本主義の分析を研究の中心に据えた。今現実社会考察し、その矛盾摘することにより共産主義現実化する。つまり共産主義科学として研究したのである。マルクスとエンゲルスは想的社会主義者と区別するため、自分たちを科学社会主義者と呼称した。

とはいえ、マルクスらは彼ら社会主義者を見下していたわけではない。彼らの社会主義はたしかに間違っていたが、その原因は歴史的制約にあった。マルクスらよりも数十年前に社会主義の実現をした彼らの時代には、社会主義が人々の間に根付いておらず、それゆえ彼らの試みは上手くいかなかったのだ。ゆえにマルクスらは彼ら社会主義へその失敗を摘しながらも、みずからの思想や活動の礎として評価を与えている。

ところで、この科学社会主義の「科学」とは、いわゆる一般的な科学とは少しニュアンスが異なる。マルクスの言う「科学」とは「決定論」的である、ということを意味する。


3.ロバート・オーウェンは現代の幼稚園の形態を整えたり、生活協同組合、いわゆる生協を生み出した人物である。

決定論

決定論とは「物事は人間の意思や行動に関わらず既に決まっている」という世界観の事をす。「人の運命は最初から全て決まっているのさ」みたいな運命論とか宿命論をイメージして欲しい。

例えば経済決定論ならば「この世の全ては経済によって決まるので人間が何をしようと駄なことである」みたいな考え方になる。マルクス義は、このような絶対的な経済決定論であると批判されることがよくあるが、実のところマルクス経済を絶対とする経済決定論者ではなかった。確かにマルクス1846年に友人に送った手紙の中で「人間には社会形態を決定する自由があるか?決してない」と述べているが、ブリメール18日のクーデタなどの著作の中でマルクス歴史の偶然を認めたりもしている。マルクスが絶対的経済決定論者であるというのは唯物史観を誤解した見方であると言えるだろう。

後年のマルクス研究者の中に、マルクスの『科学』を否定した人たちが何人かいるが、彼らは別に科学を否定して宗教的研究をしていた訳ではない。彼らが否定したのはマルクス科学一般ではなく、マルクスの言う「科学」つまり「決定論」のことなのである。この辺は誤解が多いので注意。

唯物史観に関するよくある誤解

さて今日では歴史の話をするときに「マルクス史観の悪影だ」とか「それは唯物史観だ」という言葉をみかける。しかし、大体においてそれは唯物史観の誤解か、あるいは浅い理解に留まっている。そこで以下に唯物史観のよくある誤解の解消を行っていきたいと思う。

唯物史観が経済決定論であるという誤解

唯物史観に関して、一番多いのがこの「マルクス史観は経済ですべてが決まる」といった誤解だ。

たしかに、マルクスとエンゲルス「歴史の一番究極的契機は下部構造(経済)である」と著作の中で述べているが。しかしこれは「歴史を動かす契機は経済だけである」ということを意味していない。

彼らが歴史における下部構造(経済)と同じくらいに重要視したのは、上部構造の反作用である。つまり下部構造が上部構造を規定するように、それを受けた上部構造もまた下部構造を規定するのだ。(この反作用性についてはヘーゲルの弁法[2]が思い出せる)。

つまり歴史の変化のきっかけとなるのは経済だけでない。第一が経済であることは確かだが、政治法律宗教哲学、思想、さらには戦争侵略などの上部構造が、下部構造である経済に影を与える形で、それらもまた歴史を動かしていく。これを踏まえれば唯物史観経済決定論でないと分かるはずだ。

唯物史観が人間の感情を無視した歴史観であるという誤解

さて2つに、見かける誤解として「マルクスは人間感情や宗教の重要性を否定し、人間を物質に還元してしまった」という摘がある。

これも、おおよそ間違った批判である。人間感情や宗教心も上部構造である以上、反作用として下部構造に影を与えることもあり、歴史を動かす一つの役割であったことは間違いない。

ただし、マルクスらは人間の持つ感情や宗教心は、一人一人は個別なものであったとしても、社会全体の中では合成として働くという摘をしている。これはどういうことか。

たしかに私たちは一人一人異なった個性と感情を持っている。しかし社会では、個人の持つ感情や欲求は、別の個人の感情や欲求によって否定されるということがよくある。ある人が「がしたい」と感じる一方で、別の人が「なんて絶対にしたくない」と感じる。結果として人が持つ感情というものが社会という大多数の人間が集まる場所では均的に均されてしまう。合成とはそのように社会の人々の感情を一つにまとめたもののことだ。

人間感情は合成の内部で互いに互いを否定しあい、結果的に歴史を動かすを急速に失っていく。その結果、全ての人間がもつ自然的な欲求、つまり経済に対する欲求だけが一残る。つまり人間の意思はあっても結局は経済的なが優越するとというわけだ。このことは私たちも普段の経験からよく分かることじゃないだろうか。とはいえマルクスらは人間の感情のを合成の中にきちんと認めている。時たま人間の感情がある偏向を示せば合成も十分に歴史を動かす要素となりえる。

ただし、いかなる場合でも人間の行動は経済的制約を受けることはいうまでもない。いくら熱意や信心があったとことでか飯がなければどうしようもない。

以上をまとめると、唯物史観の考え方では「人間感情は歴史において合成としてのみ、また経済的制約を受けながら、一つの役割を演じる」と言える。このようにみると確かに感情軽視にも思えるが、おおよそ実感にあっているようにも思えるが、どうだろう。

その他の誤解
 

価値論・労働価値説

           

              18世紀の工場労働者と現代の工場労働者

労働価値説とは「物の価値は労働量によって決まる」という考え方である。

労働価値説は別名「価値論」とも言い「物の価値は何で決まるか?」という単純ながらも現在まで結論の出ない深淵なテーマである。今日経済学では物の価値は需要と供給によって決まると教えてもらえるが、マルクスはそこからもう一歩踏み込んで思考した。これを順に説明していく。

商品

マルクス資本主義を分析するにあたり、商品という概念の分析から始めた。というのは、資本主義的生産様式が支配する(つまり資本主義社会では社会の富[1]は商品の集合体として表れるからである。これは人間の体で考えると分かりやすい。人間の体というのは細胞の集まりであるので、人間の体を分析しようと思ったら、まずは細胞を分析すればよい。マルクス資本主義という体の細胞を商品と考えたのである。

使用価値と交換価値

商品というのは、他人と交換する物(またはサービス)のことであり、全ての商品は使用価値交換価値を持っている。使用価値というのはその商品を使用することによる価値であり分かりやすい。弁当という商品は食べられるから価値があるし、という商品は着ることができるので価値がある。問題は後者の交換価値である。ここで一つの物々交換の例を見てみる。漁師がマグロを釣って飾屋に持っていってズボンと交換してもらったとする。この時、

マグロ1匹=ズボン10本

という式がなりたつ。この式は当たり前のように思えるが、実はそう簡単ではない。算数で2+3=5というのは右辺と左辺が数字という質的に同じものである。しかし、当然だがマグロズボンは物として全く別のものだ。全く別のものなのに何故彼らはマグロズボンを交換することができたのであろうか?マルクスはここで両者に共通する尺度の存在を見いだそうとした。マグロズボンの裏側には何か共通するものがあるはずなのだ。つまりその共通するものこそが「労働」なのである。これがマルクス労働価値説[2]である。

それを踏まえれば、上記のマグロズボンの式は、

マグロ1匹釣るのに必要な労働量=ズボン10本作るのに必要な労働量

と言い換えることができる。

この労働価値説のポイントは三つ。

⑴使用価値は交換価値に影を与えない。

上記の式の場合、漁師はズボンが欲しいからマグロ提供し、屋はマグロが欲しいからズボン提供し、ここに交換が成立するが、使用価値が高いからといって交換価値が上がるということはない。交換価値を決めるのはあくまで労働量だけである。

例えば酸素なんかを考えると分かりやすい。酸素は全ての生物生存に必要不可欠な物質であるが、酸素の獲得には労働をほとんど必要としない。そのため、酸素マグロを交換することはできないのである。

ただし交換が起こるためには両方の商品が使用価値を持つ事が必須である。使えない商品なぞはも欲しがらないから交換は起きない。使用価値があるから交換が起きて、その交換率(交換価値)は労働量によって決まるという流れだ。

⑵労働とは、社会的に均的な労働のこと

当たり前ではあるのだが商品を作るのに労働は個人のによって異なる。なので、この式においては社会的に均的な労働を想定する。先ほどの例でいえば、熟練のマグロ漁師と新人マグロ漁師では1本のマグロを釣るための労働量が違うので、均的なを持ったマグロ漁師を想定している。

⑶労働には二種類ある

労働には具体的有用労働的人間労働がある。

具体的有用労働とは、その名の通り具体的に働いて社会的に有用な商品を作り出す労働の事である。マグロ漁師の場合は船をだして、仕掛けを撒いてマグロ釣り上げることであり、屋の場合は布を切りズボンを仕立て上げることである。社会的に有用な商品を作り出すので、具体的有用労働は商品の使用価値を生み出す

しかし実は具体的有用労働と交換価値はまるで関係がないのである。マグロ漁師は交換をする際に、屋がどんなに布を切り、どのような技術を用いてズボンを仕立てたあげたのかは全く気にしないし、逆もそうである。屋にとって漁師がどのようにマグロをつり上げた(具体的にどのように労働した)のかは商品を交換をする時にはどうでもよい事だろう。

交換をするときにお互いが重視するのは、実際にどれくらい人間としてどれだけのエネルギーを発散したかという抽的な労働の量である。これを抽的人間労働と呼ぶ。商品の交換価値は、この抽的人間労働の量で決まり、逆に商品の価値は抽的人間労働が物質化(対化)したものと言える。

労働の二重性(具体的有用労働と抽象的人間労働)

具体的有用労働と抽的人間労働のそれぞれの特性についてもうちょっと詳しく見てみよう。少し難しいので興味ない人はスルーで。

まずは具体的有用労働について。

⑴有用労働は使用価値を生み出すが、同じ使用価値同士は交換はできない。というより、しても意味がない。例えば農家は自分の作ったを別の農家の作ったと交換はしない。これは、自分のと他人のは同じ使用価値を持っているからだ。すなわち、商品の交換をするためには自分とは別の有用労働をしている人間の存在が必須となる。社会的に必要な有用労働を複数の人間が分担して行うことを社会的分業と呼ぶ。社会的分業がなければ(かと交換するための)商品は生まれることができないのである。

ただし社会的分業が行われているからといって必ずしも商品が生まれるとは限らない。例えばインド奴隷社会などでは社会で分担して作ったものは年貢として領に奪われてしまうから、商品の交換は発生しない。

⑵具体的有用労働は人間の生存にとって必要不可欠であり、人間は自然に対して手を加えることによってしか人間生活を持続できない。あらゆる商品は、原材料をたどれば全て土や鉱物などの自然にたどり着くのだ。そして全ての商品はいずれまた何らかの形(例えば排など)で自然に帰っていく。これを人間と自然の物質代謝と呼ぶ。経済学者ウィリアム・ペティく「労働は富のである、土地(自然)は富の」。

次に抽的人間労働について。

社会には数の仕事が存在し、ライン仕事などでも出来る単純な仕事もあれば、品製造など専門知識を必要とする複雑な労働が存在する。そのため、単純労働と複雑労働を同じものとして扱ってよいのかという疑問がわいてくる。しかし、いかな複雑労働でも一つ一つ紐解いてみれば、それは単純労働を組み合わせたもの。あるいは拡大したものにすぎず、結局は同じ土俵の概念であると言える。

⑵生産が増えると使用価値は上がるが、交換価値は下がる。今まで1時間に2個作っていた商品が、技術革新によって1時間に4個作れるようになった。このとき2個だったものが4個になったので使用価値のg合計は上がったが、今まで30分(1時間/2個)の労働時間が投入されていた商品が、15分(1時間/4個)で作れるようになってしまったため、交換価値は半分になった。

価値形態

価値形態とは、「価値の取っている姿、形のこと」である。価値形態論は資本論読解の序盤にして最難関となる項なので頑って欲しい。

例えば市場50万円のマグロを買ったとする。この時、マグロを価値の自然形態50万円を貨幣形態と呼ぶ。普段私たちが感じることのできる価値はほぼこの二種類である。しかし、この「自然形態=貨幣形態」すなわち「マグロ50万円」という等式に至るまでにはどのような過程を踏んでいるのか?それをここではみていく。

今回は、上で出てきたマグロズボンの例を続けて用いるが、もちろんここで出てくる商品は別になんでもいい。まず一番最初に交換が発生した時の等式は、

マグロ1匹=ズボン10本

となる。この式を日本語でいうと「マグロ1匹はズボン10本と同じ価値を持つ」となる。ここでマグロ1本は、ズボンという商品を用いて自らの価値を表現していることが分かるだろう。このとき、受動的に価値を測定される側(今回はズボン)を等価形態動的に価値を測定する側(今回はマグロ)を相対的価値形態と呼ぶ。

ここで気をつけるのは等価形態と相対的価値形態が同じ商品になることはありえないということである。上にも述べたように同じ商品同士は交換する意味がないのだ。マグロマグロを交換しても何の意味もないのである。故に等価形態と相対的価値形態は、対極的に排除し合う存在と言える。

まずは相的価値形態の特徴について見ていこう。

相対的価値形態は抽的人間労働を通して他の商品の価値を測定することができる。ここにきて価値とは「労働=価値」という単純な式で表すことはできず、その労働が他の商品によって評価されることによってはじめて価値として表現できるのである。つまり今回の例でいえば、マグロの価値は漁師が頑って働いた労働時間ではなく、その漁師さんの労働時間は屋の作ったズボンを獲得することによってはじめて価値として社会に出るのである。仮に漁師が頑ったけれど訳の分からないしか釣れず、市場にもっていったがも欲しがらないので商品の交換が起きなかった場合、漁師の労働は価値を持たず社会に出る事はわない。こ

マグロの価値はズボンによって決定されるために、例えばマグロの漁獲量があがって少ない労働時間でマグロが獲れるようになった場合、マグロの価値は下がり、

①’マグロ1匹=ズボン5本

のようになるかもしれない。逆にマグロの数が減り、マグロ釣りにより多くの労働が必要になった場合は

①’’マグロ1匹=ズボン20

となる。いずれにせよ、ある商品の価値を測定する場合、右辺(今回はズボンの)相対的価値形態によって左辺(今回はマグロ)は評価されるので、左辺は常に固定になる。

次に等価形態について見てみよう。等価形態は、価値を測定される受け身の存在であるが、これには三つの独自性がある。

⑴等価形態(左辺)の使用価値は、その反対物(右辺)の価値の現形態になる。

これは左辺が右辺の持っている価値を具体的に表現するという意味である。マグロ1匹=ズボン10本の場合ならば、ズボンの価値は他人と交換することによって美味しいマグロを食べることによってはじめて具体的な価値として表れるのである。たとえズボンにどれだけの労をかけられていようが、金銀財宝で装飾されていようが、それを欲する人が屋の欲望を満たす商品をズボンと交換してくれなければ、ズボンの価値はゼロなのである。そのため、全ての商品の価値はそれ固有に存在するものではなく、社会的に決定されると言える。例えばはそれ固有に価値があると勘違いされがちであるが、実際にはかと交換し、金銀の代わりに受け取った商品を使用することによってはじめて金銀の価値は具体的に世に出てくるのである。この⑴によって、次の⑵が言える。

⑵等価形態の具体的労働がその反対物(右辺)の抽的人間労働の現形態になる。

一見難しそうであるが、これは⑴を別の言い方しただけだ。具体的労働は使用価値を、抽的人間労働は価値を生み出すことを思い出そう。よって⑴の文章を「等価形態(左辺)の(具体的労働によって生み出された)使用価値は、その反対物(右辺)の(抽的人間労働によって生み出された)価値の現形態になる」と言い換えたのがこの⑵になる。

⑶私的労働がその反対物の社会的労働形態になる。

私的労働とはその名の通り、自分が使うためのものを作る労働である。自分のために作ったものを、商品としてかと交換することによって相手の私的労働は自分のためでなく社会のための労働になるのである。上の例でいえば漁師がマグロを釣るのはそれだけでは私的労働にすぎない。漁師がマグロを釣って自分で食べる分には、社会的には何の意味もない。しかし漁師が釣ったマグロ市場に出して何かを交換しようとすると、漁師の労働は社会的に意味を持ち、そマグロと交換して漁師が得た商品(例えばズボン)は社会的労働形態となる。

ここで最初の①の式に戻ろう。

マグロ1匹=ズボン10本

今まで述べてきたように、マグロの価値はズボンによって表現される。マグロ自体には価値は存在せず、他の商品との関係にある。つまり、最初にいった「全ての商品に使用価値と交換価値がある」というのは実は間違いだったのである。交換価値は何かと交換されることによってしか表現されない。つまり商品一個を見た場合には、その中に存在するのは使用価値、または使用対、そして「価値」であると言えるのである。

この価値は歴史的に段階的発展を遂げており、その形式を価値形態と呼ぶ。上の①の式が第一段階(簡単な、個別的または偶然的な価値の形態と呼ばれる)となる。そして第二段階。当然だが漁師はズボンだけじゃなくて他の商品も欲しがる。もちろんマグロズボンだけじゃなくて他の商品とも交換できる。そしてズボンもまた他の商品と交換できるので。

マグロ1匹=ズボン10本=パン100個=自転車五台=書籍50冊=冷蔵庫8台

このように連続した価値の等式が第二段階(総体的または展開された価値形態)。そしてこれが、

マグロ1匹=ズボン10本
      =パン100
     =自転車五台
     =書籍50
     =冷蔵庫八台

と言ったように基準となる商品一つで他の全ての商品の価値を示すようになる。これが第三段階(一般的な価値形態)。しかし毎回毎回マグロ屋やパン屋や本屋に持っていく訳にはいかない。ではマグロの代わりに基準となる商品には何を用いるべきだろうか?持ち運びやすさ、保存のしやすさ、全ての要素を考えた結果、基準となる商品として「(ないしなどの金属)」が用いられるようになった。

1kg=マグロ1匹
     =ズボン10本
     =パン100
    =自転車五台
    =書籍50
    =冷蔵庫8台

これが第四段階(貨幣形態)であり貨幣の誕生であった。

金銀は持ち運びが楽でグラム単位で取引できるなど貨幣には最適であるが、それでも遠くに運ぶのはコストがかかり、途中で盗賊などに奪われるリスクもある。そこで重要なごとに金銀を預ける場所を作り、そこを兵士が集中的に守ることによって盗賊から財産を守ることを容易にする。そして遠くの人と取引をする場合は近くの預け場所Aに金銀を振込み、代わりに金銀交換チケットを貰う。そしてそのチケットだけを相手に渡せば、その者は近くの預け場所Bに行って相応の量の金銀を受け取ることができる。この預け場所こそが銀行であり、金銀交換チケット[2]である。そしてこの幣と金銀換するシステム本位制本位制)と言う。

仮に1kgが50万円であるとすると、ここでようやくこの項の最初に提示した、

マグロ1匹=50万円

の式にたどり着くことが出来た。私たちは日頃、何の考えもなしに「この商品は何円」と商品の価値を貨幣で評価することに慣れきってしまっているが、そのメカニズムを厳密に観察すると以上のように複雑なプロセスをたどることになるのだ。


  1. 富と一概にいっても「富とは何か?」というのも中々難しい問題である。マルクスのちょっと前には「富とはである」という重義が社会にはびこっていた。重義者によればこそが富であるのだから、金銀を集めることこそがを高める方法だとして、輸出を増やし輸入を制限し貿易差額で金銀を溜め込むという重商と呼ばれる政策に陥った。
    これに対して、近代経済学と呼ばれるアダム・スミスは「富とは物である」とした。はいくら集めても実際に食べることも使うこともできない。故に、富とはでなくで買えるパンなのであると摘した。
    マルクスは更にこれを発展させ、「富とは商品である」と述べた。物と商品の違いは、市場にでるかどうかである。自分のでとれた野菜を自分で食べた場合は市場に出ていないので、マルクス的にはこの野菜は富ではない。こういうと感覚的にはスミスの方が正しいと思えるかもしれないが、資本主義を分析するという的の場合、富=商品としたほうが都合がよいのである。そもそも資本主義が発展していくと自給自足は難しくなっていく。私たち現代日本人も日頃使っているもので自給自足できるものといえば、せいぜいガーデニングでとれた少量の野菜だけであろう。
  2. マルクス経済学において価値とは労働によって決まるが、近代経済学では価値は効用によって決まる効用価値説の立場をとっている。効用とはその商品で得られる満足度のこと。労働価値説は客観的価値論、効用価値説は観的価値論とも言う。これは労働は労働時間によって定量化できるのに対して、満足度は定量化できないことが理由である。例えばミカンリンゴを作る労働時間は数値化できるが、ミカンリンゴを食べる満足度は数字で表せない。
  3. 日本の千円札や一万円札などの幣は正式名称は「日本銀行券」と言い、そのものチケットなのである。ちなみに10円玉などの硬貨は「補助貨幣(補助通貨)」と呼ばれる。

物象化・物神崇拝

上に書いたように、商品の価値は労働によって決まるのであるが、本来これは労働と均等の労働の交換である。しかし労働そのものでは交換できないので市場において労働は商品という形をとる。つまり、人と人の関係が物と物の関係になる。これを(物化)と呼ぶ。そして物化の結果、商品が労働から切り離された固有の価値を持つと錯覚してしまうことを崇拝(フェティシズムと呼ぶ。このフェティシズムとは生足フェチとかフェチとかのフェチと全く同じ言葉である。

化という言葉は資本論の一巻でちょいと書かれている程度だが、後世の著名なマルクス義者ゲオルク・ルカーチによって取り上げられて注されるようになった。

剰余価値

剰余価値というのは「持ち(ブルジョワ、資本家)が貧乏人(プロレタリアート、労働者)から搾取している労働(の価値)」の事であり、これはすなわち搾取のメカニズムを説明している点で肝要となる。

マルクス経済学における非常に重要な理論の一つであり、剰余価値の発見はマルクスの最も優れた功績の一つであった。マルクス剰余価値を発見するまでは、持ちが労働者を搾取している事は何となく分かっていたのだが、一体それがどのようにして搾取が行われているかが明されていなかった。その為、いくら労働者が持ちに文句を言った所で「負け犬の遠え」や「嫉妬」くらいにしか思われていなかったのだ。

しかしマルクス剰余価値を発見したことによって、科学的に持ちの搾取の方法が世間に知らしめられた。マルクスはこの理論を発見するのに10年以上大英図書館に通って研究を行った。この研究過程においてマルクスアダムスミスリカードの提起した労働価値説を更に発展させている。


注意:以下の説明では「増殖価値」と「剰余価値」は同じ意味で使用する。

貨幣から資本へ

前項で商品の発明、そして貨幣という特別な形の商品を説明した。というわけで貨幣というのは本来的には流通を簡易にするための商品の一種に過ぎないのである。貨幣は商品である限り未だ資本にはなっておらず搾取を開始していない。そこで剰余価値による搾取のメカニズムを説明する前に、貨幣と資本の違いを明示しよう。

資本になっていない貨幣の流通過程を図示すると。

商品W-貨幣G-商品W

商品がW(ドイツ語で商品WareのW、貨幣がG(ドイツ語で貨幣GeldのG)

まず私たちは労働をして市場において価値を持つ商品を生産する。そしてその商品を市場に持っていき価値を具現化する、すなわち自分の商品を売ってお金に変える。そしてその売って得たお金を使って生活の為の商品(食べ物や着るもの、住む場所を確保など)を購入する。

この場合においての貨幣はあくまで最終的に食料などの生活手段を買うため、つまり使用価値を購入するための手段なのである。しかしこ貨幣が資本に変化する

中世社会は発展するにつれて、商品の生産において協業が大規模になっていく。協業はやがて工場制手工業(マニファクチュア)を生み、今まで職人が行っていた生産は分業にとって変わられ貨幣の集積が発生する。貨幣の集積が一定以上になると貨幣は質的変化が起きて資本へと転化するのである[1]これを資本制的生産様式呼ぶ。

貨幣が資本に変化すると上記の図が

貨幣G-商品W-貨幣G

となる。これは一つの図とGとWが逆になっているだけであるが、意味としては大きな違いになってくる。この場合だと、商品ではなくお金が最初に来る。そのお金によって任意の商品を買い、そのお金をまた別の場所で売りお金を得る。これにおいて最終的な的が商品の消費という使用価値ではなく、お金という交換価値となっている。交換価値が的になっているので、流通過程において得られたお金はまた再び商品の購入に使われることになり、終わりがなく続いていく。生活のための商品を使用するために交換するのではなく、交換をするために交換をする。この交換価値を的にしたこの式こそが「資本」なのである。一般に資本とはお金や土地、権利書などの物をイメージされるが、マルクス経済学における資本とは、この”関係性”をすのである。

資本は使用価値を的にしていないので延々と流通を繰り返し自己増殖を繰り返し肥大化する。そして融資本が発展していくと、この図がついに

貨幣G-貨幣G'

と商品を経ず、利子によってお金からお金へと変化することになる。


  1. マルクスは「量的増加はやがて質的変化になる」という法則ドイツ哲学者ヘーゲルの著作「大論理学」からヒントを得た。

剰余価値理論

こうして貨幣は資本となり搾取が行える体制になった。しかし一概に搾取と言ってもそのメカニズムは単純ではなく当時の社会主義者の間でも喧々諤々の議論が起こった分野である。ここでは剰余価値理論を価値の増殖という点に注意して説明していく。

普通私たちは経済活動を行う時は、何かを買いそれを買った時以上の値段で売ることによってその差額を利益として受け取る。つまり「安く買って高く売る」が商売の基本である。しかし買った商品そのままでは高く売る事は出来ないので何かそこに付加価値を付けなければならないのだが、大体の場合は労働によって商品に価値を付けるのが普通である。例えば、靴職人の場合を例にとってみよう。

職人の場合

500円で皮などの素材を買う。→それを一足の靴に組み立てる。→それを1000で売る」

この過程の靴を組み立てる行程において靴職人は労働によって商品に500円の付加価値を付けたことになる。

これを式にして表現すると、

貨幣G-商品W-貨幣G'

となる。(既に資本の式になっている)

この場合では自分のお金素材を買って、働いて価値を付けてそれを売っているだけなので、どこにも搾取が起きていないこの例の商品は靴であるが、世間一般にありふれているどの商品についてはこの理屈が成り立るので搾取は起きないのだが、一特殊な商品「労働」についてはこれが成り立たないのだ。

先の例では靴職人を挙げたが、もし最初に素材を買うお金を持っていない人はどうなるであろうか? そういう人は商品を作る事ができないので当然商品を売る事が出来ない。なのでそのような持たざる人たちは自分が持っている一の商品「労働」を売る事によって生計を立てることになる。労働者を雇う人を資本家と呼ぶのだが、ここで先ほどと同じように靴職人を例にとって考えてみよう。しかし今回の場合は靴職人は自分で素材を買うお金がないので資本家に雇われているとする。すると、

「資本家500円で靴の素材を買う→それを靴職人に渡し一足の靴を作ってもらう→資本家はその商品を売り1000円を得る。→資本家けた500円のうち一部の200円を靴職人に賃として渡す」

こうして資本家300円を、靴職人200円を得るのだが……ここで剰余価値の非常に重要なポイントであるのだが資本家は靴職人を雇った時点で彼の作った靴を全てを自分の物にできる。つまり、一足分の賃で二足や三足作らせることも可なのである。もし三足作らせた場合を考えて見ると、

「資本家1500円で靴の素材を買う→それを靴職人に渡し三足の靴を作ってもらう→資本家はその商品を売り3000円を得る。→資本家けた1500円のうち一部の200円を靴職人に賃として渡す」

こうして、資本家1300円を得ることが出来たのだが、靴職人200円のままである。

職人が自分で靴を売っている限りにおいては、働いて生まれた価値は全て自分のものになり自分が満足したら働くのを止めればよい。しかし靴職人が雇われている限り、働いて生まれた価値は賃以外は全て雇用者のものになり雇用者は労働者を限界まで(死ぬギリギリまで、は死ぬまで)働かせようとする。

つまるところ、剰余価値の搾取の理論とは、

労働者が賃以上の働いても余分に生まれた価値(利益)は全て資本家のものになってしまう」というものなのだ。いわゆる「ピンハネ」をイメージすると理解しやすいかもしれない。

これを先ほどの様にGとWで表現すると、

貨幣G-商品W-貨幣G'(貨幣G+剰余価値ΔG)

ΔGの部分が賃以上に働いた余分な労働。

となる。この剰余価値ΔGの部分が資本家に搾取されているのだ。

本家はこの剰余価値を増やすべく、賃の削減、労働時間の延長、労働効率(労働密度)の向上などを常に労働者にめていくのである。

アルバイトで例えると、方が時給1000円で働いた時に一生懸命頑ってお店に時給1000円以上の利益を生んでもそれは全てお店のものになってしまう。この時方が時給以上に生んだ利益が剰余価値である。

しかし、ここでもう一つ重要なポイントがある。

確かにマルクス剰余価値によって資本家が労働者を搾取していると明したが、しかしそれは「本家が悪いで、貧乏人を苦しめるためや自分の贅沢のために搾取をしている」訳ではないのだ。もしある資本家が搾取をしなければ、市場の中で他の資本家に競争で負けてしまい労働者に身を落としてしまう。資本家は自分の意思に関わらず、搾取をせざるを得ないのだ。すなわちマルクス剰余価値理論によってしたことは単純な資本家の弾劾ではなく、むしろ「資本主義において搾取は不可避である」ということだったのである。搾取は悪意の産物ではないのだ。

ではマルクスは資本家を糾弾しなかったのか?これの答えはNOである。資本家が搾取すること自体は自然の法に適ったものであるとしても、搾取を行うために用いた最初の資本は歴史的に見て戦争や詐術による強奪であるからだ。資本家というのは元々強盗であり、人から奪った汚い市場で回することによって潔にし自らを資本家として偉ぶっているだけ。この点はマルクスも弾劾している。

不変資本と可変資本、搾取率

資本は労働者を搾取するのであるが、投下された全ての資本が搾取を行う訳ではない。資本が搾取できるのは資本の中でも労働における部分だけなのである。

例えば1億円出して印刷会社をし、利益を得ようとした資本家がいる。資本家はこの1億円のうち5000万円でビルを借りて、印刷のための機械インクやなどの消耗品を買う。そして残りの5000万円で従業員を雇い実際会社を動かして1億8000万円の利益を得たとする。この時、資本家はビルや印刷機、インクからは買った分の価値しか用いることができず、それ以上の価値増殖は行うことができない。一方で従業員からは前述の通り給料以上の価値を生み出させてそれを搾取することができる。

そこで次の定義を行う。

  • 投下資本=C
  • Cの中で、労働のために支出された資本部分=可変資本
  • Cの中で、機械やビルなどの設備投資に支出された資本部分=不変資本

ここで、可変資本をv、不変資本をcとすると、次の式が得られる。

C=v+c

生産過程の最後に商品として資本が出てくると、それは搾取によって価値増殖を果たしているので最初の投下資本Cよりも増加したC’となっている。この増殖した価値をmと定義すると次の式を得る。

C=v+c
C’=(v+c)+m

資本において搾取を行うのはこの式ではvの部分だけであるので、労働者がどれだけ搾取されているかを示すには増殖価値mと労働への支出である可変資本vの率をめれば良い。

搾取率(増殖価値率)=m(増殖価値)/v(可変資本)

可変資本の部分は労働者が得た給料分の労働であり、必要労働と呼ぶ。

先述の印刷会社の例の場合だと、

  • 投下資本量C=1億
  • ビル機械などの設備投資となる不変資本c=5000万
  • 労働への支出となる可変資本v=5000万
  • 増殖価値mは投下資本と収益の差額=8000万

よって搾取率(増殖価値率)はm/vなので、8000万/5000万になり1.60。すなわち搾取率は160%となる。不変資本が視されているのがポイント

その数字は労働者がどれだけ搾取されているかを示すものであり、同時に投資がどれだけの利益を得られるか、要するに融論における利潤率や利子率に例する。

増殖価値量(搾取量)

本家にとって搾取率は重要であるが、それよりもっと重要なのは総合的な搾取量である。よってここで可変資本の総額をV、増殖価値量(搾取量)をMとすると

M=(m/v)×V

この増殖価値量(搾取量)Mは、労働均価値をk、労働の搾取率をa'/a(これは増殖労働/必要労働の率である)、労働者の人数をnとすると

M=k×a'/a×n

とも表すことができる。

このように「増殖価値量は、増殖価値率と可変資本の総額を乗じたもの、あるいは労働の均価値と搾取率と労働者の数を乗じたもので表せる」。これを増殖価値量の第一法則と呼ぶ。

本家は少しでも多くの増殖価値を欲するために労働者を限界まで働かせるが、しかし労働時間はどれだけ頑っても24時間を突破することは出来ない。一日30時間の労働という矛盾ッッは現実ではありえないのだ。よって可変資本の減少を増殖価値率の増加によって補うのは限界がある。これが剰余価値量の第二法則と呼ぶ。

第二の法則を踏まえれば、M=(m/v)×Vの公式のm/vの部分には限界があるということになる。よって資本家剰余価値を増やしたければVの部分。つまり可変資本を増やさなければならない。これを剰余価値量の第三法則と呼ぶ。ポイントは、剰余価値量を増やすためには投資量を増やすのではなく、可変資本を増やすことである。投資は、材料や機械などの設備投資にあてる不変資本と、労働にあてる可変資本に分けられることを思い出そう。

疎外論

疎外とは初期マルクスの重要な概念である。一般的な哲学における疎外は、「本来、自分のものであるはずのものが、自分から離れてよそよそしくなる」という現のことである。この哲学マルクス独自のもとではなく、元々は独哲学者ヘーゲルがよく用いている言葉であった。

ヘーゲル哲学において、「本質から離れたものが一度外に出て、再び戻ってくる」という現外化、あるいはといった。しかし戻ってくるはずのものが外に出たまま戻らず、むしろ本質と対立しはじめる。ヘーゲルは、これを特に疎外と呼んだ。

ヘーゲルの疎外論は、その後、独哲学者フォイエルバッハによって物論的にアレンジされ、さらにそのフォイエルバッハの著作を読んだマルクスによって継承・発展させられ、彼独自の労働疎外論が誕生した。

経済学・哲学草稿における疎外

マルクスの疎外論を学ぶ上で最も重要な著作は、『経済学哲学稿』である。その中でも第一稿の4章『疎外された労働』において、疎外論のエッセンスが最も現れている。この節でマルクスは「資本主義における賃労働では疎外が発生している」としてした。経済学哲学稿の中でマルクスは4つの疎外を摘した。

1つは、労働生産物からの疎外。労働者は日々、自らの人生重な時間を労働にあてて生産物を生み出す。これは彼らが労働を通じて生産物に自らの命を注ぎ込む行為に他ならない。マルクスはこれを労働の対化と呼んだ。労働者は労働をすることによって自分の観の中にあるものを、生産物という客観的な対に具体化し、外にあるものとして対化して取り扱う。つまり労働生産物とは労働者の本質の一部といえるのだ。

しかし賃労働制では労働者が作った生産物は、全て資本家のものになってしまう。労働者は頑って労働してもその成果は全て資本家の価値を高めるだけで、労働者は頑れば頑るほどに自らの価値が相対的に下がっていってしまうのだ。本来自分で作った労働の成果は自分のものであるはずなのに、それが自分から奪われて(外化して)、逆に自分を縛り、貶める。つまりここに疎外が発生しているのである。

2つ労働に対するやりがいからの疎外。賃労働中の労働者はたいていの場合、苦痛や退屈さを覚え、自由が抑圧された状態にある。しかし人間はもともと自然に対して労働をすることによって日々の糧を得てきた生き物だ。つまり労働は人間の本質なのである。だが賃労働者にとって労働とは彼のものではなく資本家のものである。これでは労働が楽しいはずがない。本来、人間の本質であるはずの創造的労働が、ただ毎日の食事を得るためだけのものになりさがる。これはあまりに動物的だ。これが二つの疎外、生産活動の疎外である。

アダム・スミスをはじめとした古典派経済学者は「労働は退屈で人間にとってさけるべきもの」という考えに疑いをもつことはなかった。しかしマルクスはこれとは逆に。「労働(lavor)というのは本来、人間にとって創造的な活動(work)である」と考え、これが賃労働制によってゆがめられていると言った。人間は賃労働をしている間、自己を感じることができず、労役から解き放たれてはじめて独立した自分となることが出来るようになる。これは労働からの疎外が起きているからこそなのである。

そして上記の二つの疎外が行き着く先が、3つ類的疎外である。これはちょっと言葉だけではピンとこないかもしれない。この「類」という単も元々はヘーゲルやフォイエルバッハが用いていた言葉である。

類的疎外とは、人間は類的存在であるというのがまず前提にある。類的存在とは、人間が動物とは違い「類」を意識の対にすることができる存在であるという意味である。「類」とは人類の「類」のこと。動物は自分と、せいぜい自分のに見える群れの範囲しか思考の対にすることができない。一方で人間は、に見えない遠くの人間や、未来の人間のことまで考えることができるのである。動物とは違って人間は類的存在であるがゆえに、群れを越えた集団や社会(類)を想像することができる。これこそが人間と動物を分つ重要なポイントなのだ。

また人間の類的生活の基本は非有機的自然依存することにあるとマルクスはいう。人間は自然がなければ生きていくことはできない。つまり自然は人間の非有機的身体ということができる。内蔵やみそは血や神経が通っているので有機的身体というのに対して、自然は血や神経が通っていないので非有機的というわけだ。

疎外された労働においては、類としての生活を、個としての生活に変化させてしまう。その過程ではまず第一に人間の本質である自然を疎外し、第二に人間特有の自由な生命活動(類的生活)を疎外する。疎外された労働は自由な類的活動を疎外し、類における人間同士を疎遠にさせる。これこそが第三の疎外、類的疎外なのである。類的に疎外された労働では、まず私たちは普遍的な人類ではなく、ただの1人の個人に成り果てる。そして第二に、その個人としての存在を、人類の普遍的な的としてしまう。

類的存在である人間は、本来は労働を通じて自己を表現することが出来る生き物であるにも関わらず、現在々の労働はただただ苦しいだけの生活の糧を得るための手段になり、人間が動物化してしまっている。これは私たちが類として疎外されているからなのだ。類的疎外とはつまり、人間の本質の疎外のことなのである。

4つめは人間(他人)からの疎外。以上の三つ(生産物、生産活動、類・人間本質)の疎外は個人の中だけでなく、他人の中にあるそれらについても発生する。資本主義では賃労働者は労働者として振る舞うことを強制される。人々は、疎外された労働に基づく価値観でしか他人を評価できず、人間関係は銭勘定で動く疎遠なものとなる。

もし疎外が起きていなかったのなら、人間は自分の労働によって生まれた生産物を他人に与えることにより幸福を感じ、またそこに自己実現を覚えるのだが、しかし社会的分業が極地に達している資本主義社会では、市場に並ぶのは一人の人間が作った労働生産物としての意味を失くし、単なる貨幣で価値を量るだけの商品になる。こうなると人間の興味はどれだけ短い労働で、どれだけ安く商品を買えるかだけになり、それぞれの人間が利益を対立させる。こうして対立した人間達は、お互いに疎外された存在となってしまう。

資本主義社会では、これらの疎外から生まれた生産物はすべてブルジョワの手許に行くことになる。資本主義社会において問題となるのは、単なるプロレタリア貧困だけではない。仮にプロレタリアがそれなりの給料と余暇をもらっていても、賃労働に甘んじる限り、労働は疎外されたままなのである。この疎外された労働から人間を解放するためには、私的所有を止揚し、共産主義社会を実現することが必要であるとマルクスは言う。

それ以降の疎外

マルクス経済学哲学稿や、その後の著作、『家族』や『ドイツイデオロギー』の中で、疎外を解消するには賃労働制の止、私的所有の止=生産手段の有化。端的にいえば「プロレタリアートによる共産主義社会の設立」を提案した。

ところで、マルクスの代表作といえば何と言っても『資本論』なのだが、ここで問題になるのが、「マルクスの思想の集大成である資本論において、疎外論は論じられているのか?」というテーマである。実をいうとこの問題は、マルクスの死後120年以上経った今でも議論が続いている。

「疎外論は資本論以前に既に捨て去られている」とする立場のことを疎外論という。な支持者は新スターリン義、フランスの著名な哲学者ルイ・アルチュセールのアルチュセール学、物、などです。日本の有名なマルクス哲学者、渉もこちらの立場である。

一方で「疎外論は資本論においても残っている」とする立場が疎外論貫徹説という

そもそも、なぜ疎外論説が誕生したかというと、マルクス死後にその一番の親友であったエンゲルスが発表した『フォイエルバッハ論』という著作の中で「マルクスはフォイエルバッハ的な疎外を捨て去った」という記述をし、エンゲルスがいうことならまぁ間違いはないだろうというのが、その発端であった。しかし疎外論説を世に広めたのは何と言ってもソビエトが大きい。

マルクスの理論によれば、「賃労働制がない共産主義社会であれば労働の疎外は発生しない。各自が自由意志に基づいた創造的な労働だけ」になるはずであるが、しかし現実には共産主義国家ソ連において労働者は相変わらず苦痛で退屈な労働を強いられていた。これではマルクスの理論は間違っていたのではないかという疑惑が湧いてしまう。そこでソ連……というかスターリンはエンゲルスの文章を採用(悪用?)し、「疎外論は、資本論におけるマルクス理論の途上にある未熟な思想」という考えを宣伝したのである。

その後、スターリン批判をきっかけにスターリン義は失脚するが、それを受けついた新スターリン義では疎外論に対する批判を継承し、また一方で構造義的マルクス義者のルイ・アルチュセールが「マルクスの思想はドイツ・イデオロギーをに分断されている」とする認識論的切断説を唱え、これもまた世界中に受け入れられ、広められることとなった。

著作

代表的な著作(刊行年順)

著作と刊行年の一覧

1841年

1842年

1843年

1844年

1845年

1846年

1847年

1848年

1849年

1850

1852年

1853年

1954年

1855年

1856年

1857年

1858年

1859年

1860年

1961年

1862年

1863年

1864年

  • 際労働者協会創立宣言

1865年

1866年

1867年

  • 中央評議会代議員への
  • 資本論』第一巻

1869年

  • 第四回一般大会への際労働者協会評議会の報告

1870年

1871年

1872年

1873年

1874年

1875年

1880年

1881年

1883年、マルクス死去

1885年

1894年

その他書簡(手紙)とか稿(メモ)とかが多数[1]。これらはエンゲルスとの共著を多く含んでいる。沢山あってどれを読んでよいか移りするが、とりあえず資本論は抑えておこう。正直、資本論さえ読んどけばなんとかなるみたいな空気はある。

有名な著作であれば前の大書店に行けば売っているのだが、マイナーなものは専門的すぎてあんまり本屋には売っていない。なので神保町で古書巡りをするか大きな図書館に行ってマルクス・エンゲルス全集(Marx/Engels historisch-krirische Gesamtausgabe、MEGAと呼ばれる)か、新マルクス・エンゲルス全集Zweite Marx-Engels-Gesamtausgabe、MEGA。またはMarx-Engels-WerkeMEWと呼ばれる)を探してみよう。旧MEGAはリャザーノフというソ連社会主義者がマルクス思想の普及のために編集したものであるが、後にスターリンと対立して未完成のまま終わったものである。二次大戦後、新MEGAの出版が始まったが、こちらも未だ完成していない。

マルクスは日頃から猛に文献を読みあさって常に新しい知識を蓄えていたので書籍によっては言ってることが違っていることがある。しかしこれは思想のブレではなく過去の自分の思考に縛られないマルクスの思想の進歩なのである。

マルクスの著書は深淵な文章で書かれているので、人や解説書によっては解釈が異なってくることがある。以下の説明も必ずしも正しいとは限らない。なので是非とも本編(過度にめるならマルクスの手によって書かれた無編集の原稿[2])を読み、自分の頭でマルクスの思考を自分なりに解釈をしてほしい。たぶんも読まないだろうけど

集や、高校(当時のドイツではギムナジウムと言う)時代のテストや論文、父親への手紙など、学生時代のマルクスの文章も残っているが、それらには学術的な内容は含まれていない。余談だがマルクス集の内容が「人生をうたい,妖精騎士王女王子が登場する」というものらしいのだが、マルクスもまさか若い時に書いた痛い厨二黒歴史ポエム150年後に地球の裏側で読まれているとは思っても見なかったに違いない。


  1. マルクスとエンゲルスがやり取りした書簡が1544通。他の人への書簡2318通、補遺が16通で合計3787通。マルクスエンゲルス全集のいくつかは書簡だけの巻である。研究者はこれを全部読んでるのだから大した物である。
  2. マルクスの思想はイデオロギーや政治に極めて深く関わっているため、マルクスの著作には歴史的に編集、翻訳、出版の過程において恣意的な改竄や誘導的な表現が用いられてきた(スターリンとかのソ連の正当の手によって)。なので出来る限り人の手が加わっていないものを読むことはマルクスの著作のの理解のためにはどうしても必要なことなのである。しかしその為には難解なマルクスを読めるほどにドイツ語マスターしてドイツに留学し、向こうの図書館に蔵書してある著作を読まなければならない。流石に理があるね。

デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との差異

 

『エピクロス自然哲学デモクリトス自然哲学の差異』とはマルクスの西洋哲学総括した哲学論文である。記念すべきマルクス処女論文。本論文は、マルクス22歳のときにイエナ大学に提出した学位請論文、要するに博士論文。

この論文でマルクスは、ギリシャ哲学の中でも他の人があまり扱ってこなかったアリストテレス以後から、アレクサンドリア哲学までの哲学を範囲としていた。具体的にはアリストテレス以後のストア哲学、懐疑、エピクロスである。

本作では、後にマルクスが打ち立てる政治経済思想の片鱗はまだ見ることはできないが、彼の全ての思想のベースになっている自然に対する考え方、つまり「決定論」に対する興味を垣間みることができ、後々の著作を根幹から理解するという意味でも重要な著作である。

この論文の特徴は二つ。無神論とヘーゲルである。

マルクスはこの博士論文において無神論を標榜している。表題にもある二人の哲学者、デモクリトスとエピクロスは両者ともに論者である。物論というのはどの思考ルートを通ろうが、最終的には大抵「は存在しない」という無神論へと行き着いてしまう。よって、この二人を取り上げるということは、当時キリスト教国家を掲げていたプロイセン政府、ひいてはヨーロッパ思想界に対する挑戦に他ならなかった。にも関わらず、マルクスは本著の序文において、無神論こそが哲学一の立場であることを示唆し、堂々と学会にこれを提出したのである。

第二の特徴として、本論文の背景にはヘーゲルの姿が存在している。当時のドイツ大学は伝統的ヘーゲル思想に対して果敢に批判を行うヘーゲルと呼ばれる哲学集団がブームであり、マルクスもそれにはまっていた。マルクスはヘーゲルとして、保守的なヘーゲル思想(ヘーゲル、老ヘーゲル)からヘーゲルを救うことを自らの責務と考え、ヘーゲル哲学の中でも理論的に弱いとされた古代西洋哲学を補するという形を取りつつ、自己意識の哲学としての人間学を立し、その意味でヘーゲルを継承するという的をもっていた。後にマルクスはこのヘーゲルとも手を切り、本格的な物論哲学にのめり込んでいくが、それはまた後の話しだ。

内容

この論文は題名の通り、デモクリトスとエピクロスという二人の自然科学者の違いを考察するものである。マルクスが着した、二人の哲学の差異とはずばり「自然の捉え方」であった。「自然」というものを、どのように感じ、哲学するか。その方法論の違いこそが、二人の哲学の決定的な違いであった。

本著は二部構成になっており、一部はデモクリトスとエピクロス哲学一般に関する差異。二部は個別の哲学に関しての差異を考察している。以下、その内容を見ていこう。

一章 エピクロスの自然哲学とデモクリトスと自然哲学の一般的な差異

古代の学者やキリスト教の学者たちは、デモクリトスとエピクロス哲学を同じもの、あるいはエピクロスデモクリトス二番煎じという評価を彼らに与えていた。しかしマルクスは二人の哲学一般には三つの対照的な違いがあると摘する。それは、

  1. 自然学の真理性と確実性について
  2. 自然学の使いについて
  3. 思想と現実との関係そのものについて

の三つである。

まず第一に「自然学の真理性と確実性について」。これは「感覚に現れる世界と、原子の世界の関係」に関する考え方の違いである。もっと簡単にいえばこれは「私たちが実際に暮らしている現実世界と、理論の世界は一体どういう関係にあるのか?」という問いかけである。つまり「感覚に現れる世界」=「現実世界」、「原子の世界」=「理論の世界」というわけだ。

まずデモクリトスは感覚と原子の世界の違いについてこう述べる。

感覚に現れたるものは客観的な現れではなく、観的な仮なのである。の原理は、原子と虚である。その他のすべては単なる見解であり、仮である。

分かりやすくいうと、デモクリトスは「理論の世界こそが客観的であり、実際の世界は全て観的なものである」としたのだ。私たちが周りの世界を観察してもそれは全て私たちのを通した上であり、そこから考察されうるものはすべて観にすぎない。よって真理は理論の中にこそ存在するというのがデモクリトスの立場である。

一方でエピクロスはこれとは反対に、「すべての感覚は真理を伝える」といって実際の世界こそが客観的であると言うのである。

具体的な例をみてみよう。例えば太陽を観察するとする。このときデモクリトス太陽は巨大であるという。私たちのには太陽はそれほど大きくは見えないが、それは太陽が遠く遠くにあるからであり、理論的にはとても巨大なものなのだ。一方でエピクロスは自分のを信じ、「太陽の大きさは拳2つ分である」といってのける。太陽の大きさは彼のに映るものがすべてとエピクロスは考えるからだ。

デモクリトスは「原子(理論)の世界真実」、エピクロスは「感覚(実際)の世界真実」と

2つの「自然学の使いについて」も二人は対照的な立場をとる。これは二人の学問に対する姿勢の差から、二人の自然学の使用法の差異を導き出すことができる。

デモクリトスは、感覚の世界観的なものだとしたが、しかしだからこそ感覚こそが世界を理論から一分離することが可な存在であるとして、経験義、観察義、実義を掲げることとなった。デモクリトスはそのポリシーを実際に行動にうつし、自然学、倫理学、数学を初めとして様々な学問分野に精通する一方、ギリシャからエジプトエチオピアなど広く度をして実際に自分の自然を見て知識を吸収した。

さて一方のエピクロスはどうだろうか。エピクロスは「哲学することで幸福になれる」として、デモクリトスが好き好んだ実義を軽蔑した。そのためエピクロスを「学問の敵」とか「まったくの学」と批判する者たちもいる。だがエピクロスは独学者であることを誇りとし、反対に非独学者を二流の人だと言い返しまでした。

デモクリトスは経験義、実義で知識豊富。エピクロスは経験や知識を重視しない

3つの「思想と現実との関係そのものについて」。これは「この世は必然でできているのか、それとも偶然でできているのか」という論争に言い換えることができる。

デモクリトスは「必然性とは原子の渦巻きであり、この世は必然からできている」という決定論をした。

一方でエピクロスは「原子の動きは恣意的であり、偶然が世界を支配する」という非決定論を唱えた

デモクリトスは「世界は必然でできている」、エピクロスは「世界は偶然でできている」と

二部 エピクロスの自然学(フュジーク)とデモクリトスと自然学の個々の差異

二部では二人の原子に関する個別の観点の差異を説明している。1、2、3章では原子論。4章は時間論、エイドーラ(映像)論。5章では体論を論じている。

第一章 原子は直線から逸れて動く

1章から3章は原子論の話。この原子とは現在化学でいうところの原子ではなく、「世界の根」という意味である。

ピクロスは原子の動きは3種類存在するという。

直接的に落下して動く運動

直線から逸れて動く運動

原子同士が跳ね返って動く運動

と③の運動に関してはデモクリトスも同じ事を言っているし、イメージもしやすいだろう。問題は②の逸れる動き(クリーナーメンという)である。さて原子というものはエピクロスがいうように、何のエネルギーもかかっていないのに自然に曲がるなんてことはありうるのだろうか?

ピクロスによれば、もし②原子がそれることがないのならば、すべての原子は①直線的にしか動かず、よって③お互いにぶつかって跳ね返るということも起こらなくなってしまう。ゆえに③原子の反跳が起きるためには②原子は逸れる動きをしていなければならないのだ。

さらにエピクロスは、もし①原子が直線落下運動しかしない場合、原子はいついかなる時も直線運動をするため、原子は線としてしか存在できない。これはつまり、原子が点として自立できないことを意味する。もし原子が自立できないのであれば、原子は間や時間の支配下においてしか自己を確立することができない、相対的な存在(なにか基準がないと存在できないもの)となってしまう。よって原子が自立して存在するためには、②原子は直線から逸れる運動をしていなければならないのだ。

この②逸れは、何らかの原因があって起こるわけではなく、原子そのものが原因となって発生する。つまりこれは非決定論的な動きといえる。というのは、決定論とは、③ある原子は周りの原子の動き(環境)によってのみ動きを決定するという理論である。それが②一個の原子が自分自身を原因として逸れるということになれば、それは決定論とは矛盾するからだ。エピクロスは逸れは非決定論的に、偶然発生するという。

ところで②原子が逸れて動くことによって、原子にどのような影があるのだろうか。エピクロスによればそれは、原子は特殊は存在者として、他の原子との関係が規定されるような運動との関係のすべてを否定するという結果である。それはすなわち、原子の全なる独立の達成である。原子にとって一の存在は原子自身であり、原子は原子としか関係することはできない。②逸れる運動をすることによって、原子が世界の根である原子であるためには、②逸れの運動が必要不可欠ということになる。

ピクロスは以上の理論を発展させ、この原子を人間に置き換えて人間の最初の自己意識を説明するという試みを行っている。独立した原子が、同じく独立した別の原子と③反跳することによって自らを客体化するように、人間が本当の人間となるためには、単に他の人間と関係するだけではなく、独立した一個の意思と関係(反跳)しなければならない。反跳、すなわち人間が他の独立した存在と関係することこそが、人間にとっての最初の自己意識なのだとエピクロスはいう。

一方でデモクリトスはエピクロスとは反対に、原子には必然的な運動しか認めなかった。デモクリトスは③原子の反跳に理念的(観念論的)な動きがあることを否定し、質料的(物論的)な動きしかないと述べる。ここでいう反跳の理念的な動きとは、原子が独立し自己精を持つという意味である。

第二章 原子の性質(クヴァリテート)

この章では原子の性質に対する二人の考え方の差異を扱う。エピクロスは原子の性質に「大きさ」「形」「重さ」の3種類をあげている。

しかし原子に性質があるというのはおかしな話である。原子が「大きさ」や「重さ」などの性質を持つというのは、軽い原子や大きい原子など、原子に変化があるということを意味する。しかし万物の根である原子は本来変化しないはずだ。しかしそれでも原子は性質を持つ。1章で原子は反跳すると述べたが、それは原子がそれぞれ異なるからこそ反跳が起きるのである。つまり原子は異なる性質を持ち、それに基づく個別性をもっているのだ。

原子は本質的に性質を持たないが、原子は性質を持つという矛盾。エピクロスはこの矛盾を解決するために「本質的原子」と「実在的原子」の二種類の原子を想定した。つまり概念的な本質的原子と、その本質から外化して自立した実在的原子を区別したのである。理論の世界にある前者は本質的に性質を持たないが、実体をもった後者は性質を持つことができるというわけだ。

これに対してデモクリトスは原子の性質については何も考察していない。デモクリトス興味をもっていたのは自然であり、原子の性質が自然とどういう関係をもっていたかだけであって、エピクロスのように本質的原子と実在的原子の矛盾については何も記述を残さなかった。

さて、話をエピクロスにもどす。先述したように、エピクロス原子には大きさ(グリューセ)、形(ゲシュタルト)、重さ(シュヴェーレ)の3種類の性質があるとした。これらの性質は実際に存在しながらも、原子とは本質的に矛盾する概念である。以下、それぞれを考察していこう。

第一に(実在的)原子は大きさをもつ。一方で(本質的)原子は大きさを持たない。デモクリトスがほとんど視した矛盾をエピクロスは重視した。これは、原子にはいくつかの大きさの変化があるだけであり、また原子は限に小さいと解釈することができる。
とはいっても原子はただ小さいわけではない。どれだけ小さかかろうが、単純に小さいだけでは「大きさ」を持ってしまうからだ。1ミリメートルだろうが1ピコメートルだろうが、大きさは大きさである。よって原子はあくまで、限に小さいというだけだ[2]

第二に原子は形をもつ。しかし、(実在的)原子とは抽的な個別性であり、抽的に自己に等しい。つまり、(実在的)原子とは抽的にバラバラの個性を持ち互いに区別されながらも、すべて(本質的)原子と同じものであるのだ。よって(本質的)原子は形を持たず、形の違いも決めることはできない。しかしだからといって抽的個別性である(実在的)原子に限に多様な形があるわけではない。原子の形は有限だ。
一方でデモクリトスは原子の形は限に多様であると考えた。しかし原子の形が限に多様であるとすれば、それは同時に原子が限に多様な大きさを持つことを意味する。限に多様な形と大きさをもった原子は、他のものとの区別することができなくなってしまう。それはもはや形とは呼べないものだ。

第三に原子は重さをもつ。これは特に重要な性質である。(実在的)原子はは抽的な個別性であるが、実在する物質においてこの抽的な個別性はその重さにこそあるからである。そのため原子が実体を持つのなら、重さを持たなくてはいけないのだ。しかし重さとは原子の本質とはっ向から矛盾するものである。
それは、重さは理念的な点として、質料の個別性であり、これは質料の外部にあるからである。原子はこの個別性そのものであり、個別的な存在として考えられた重心である。だからエピクロスにとっては重さは、重さの差異としてしか存在しない。そして原子は体と同じように実体的な重心なのである。

さらに、原子が重さを持つのは本質から外化され、諸々の性質を持つようになった時である。ゆえに2つの原子を見べるときに原子は重さをもつが、原子と虚をべるときは原子から重さはなくなるのである。こうして原子は大きさと形に関わらず、虚の中では等しい速度運動する。また原子が重さを持つのは原子が反跳によって結びついた原子化合物のみである。

以上のように原子の性質を検討してみても1章で逸れ(クリーナーメン)を考察した場合と同じ結論がでてくる。エピクロスは原子の概念において、本質と実存の間に矛盾があることを示すことで、原子論という学問を作り出した。かたやデモクリトスは原子の性質そのものを提示することはない。デモクリトスがこだわるのは原子の質料的な側面である。そして彼は経験的なものを説明するために、仮説的に原子に性質があるといっているだけなのだ。

第三章 分割できない原理(アトモイ・アルカイ)と分割できない要素(アトマ・ストイケイア)

デモクリトスにとって原子はたんに物質の質料的な基体でしかなかったが、エピクロスは原理(アルケー)としての(本質的)原子と、要素(ストイケイオン)としての(実在的)原子の区別を行った。

原理とは知性によって認識される原子であって、間に存在することはない。これが原子(アトム)と呼ばれるのは、それが最小の物質だからではなく、間の中でそれ以上分割できないからである。これは性質をもたないが、その(本質的)原子からうまれた(実在的)原子は、第二の<要素>とみなすことができる。エピクロスはまず一般的な形で虚(ケノン)と、これと異なる物質的なものを区別し、次に物体的なもののうち特殊なもの、すなわち(実在的)原子としての要素について考察する。一方でデモクリトスは「充実体(プレーレス)と虚(ケノン)の両方が要素である」とっている。

分割できない要素(実在的原子)と分割できない原理(本質的原子)の2つの分子は2種類の分子が別個に存在するわけではない。あくまで同一の分子が異なる形で規定されているだけである。デモクリトスが軽く扱ったこの2つを区別することには重要な意味がある。

原子には、存在と本質の間に矛盾がある。そして原子が性質を持つことによっても個々の原子に矛盾が生まれる。原子が性質を持つことによって矛盾とともに機構としては全になり、反跳によって原子は集積し、現する世界を生み出した。そして原子に含まれていた矛盾本質世界から現世界に移動するときにもっともはっきりと姿を見せる。概念としての原子は自然の絶対的で本質的な形式である。しかしこの分子が世界の絶対的な質料となり、その身を落とす。

確かに原子はすべてのものを生み出し、またすべてのものはいつか原子に還る。世界は常に新しい現として形成され、原子そのものは沈殿物のように海底に沈み続ける。ゆえに原子を理念的な概念として考えた場合、現実において原子は世界の質料へとなり、外的な形式でしか存在しないものになるのは必然だ。それは原子は抽的な個別物として完成しており、多様性を理念化することはできないからである。

この抽的な個別物(原子)は、実存からの自由であるが、実存における自由ではない。原子としての原子は虚のうちにしか存在せず、ひとたび実在化してしまえば、世界の質料として沈みこむことしかできないのである。

しかしまさにここにエピクロスデモクリトス哲学的な違いがある。デモクリトスはこの矛盾の一つの契機を対化したにすぎない。しかしエピクロスはこの矛盾をその極地において対化し、現の基礎となる要素としての原子と、虚のうちに存在する原理としての原子を区別したのである。

ピクロスデモクリトスと違うところは、原子と虚の領域である本質世界においても、同じ区別をしめしていることにある。性質をもつ原子だけが全な原子であり、現する世界はこの全な原子、原子そのものの概念にそぐわなくなった原子からしか生まれないのである。エピクロスはこう述べている。性質をもつ原子だけが要素になる、あるいは逆に分割できない要素だけが性質を持つ、と。

第四章 時間

たしかに原子は変化しないものであるが、それは時間の概念がないときの話である。よって(本質的)原子の世界からは時間概念は排除されなければならない。デモクリトスもエピクロスもこの点では一致する。両者が異なるのは、排除された時間がどのように規定され、またどこに移されるかというところである。

デモクリトスにとって時間は意味も必然性もないものであった。彼は原子から生成と消滅という時間的なものを排除するために時間を棄する。抽的な想像する知性(原子)が、実在化し、時間に支配されるようになることは、実在が自立的なあることと矛盾する。こうして時間は本質世界から排除されて、哲学する観の自己意識の中に移される。そして時間は世界そのものとは関わらなくなるのだ。

ピクロス本質世界から時間を排除する。だが、彼にとって時間は現の絶対的な形式となる。エピクロスは時間を<偶有性の偶有性(アクシデンスのアクシデンス)>として定義している。偶有性とは、実体そのものの変化であるが、偶有性の偶有性とは、変化が自己のうちに反していることであり、変遷としての変遷である。この現する世界の純な形式が、時間と呼ばれているのである。

実在する現世界には、受動的な形式と動的な形式がある。受動的な形式とは<合成>であり、動的な形式とは<時間>である。だから合成を存在するものとしての側面から考察すると、原子は合成の背後に、虚のうちに、想像のうちだけ存在する。ところが原子をその概念の側面から考察すると、合成はまったく存在しないか、観的な表のうちにだけ存在する。合成とは、自らにおいて閉じていて、たがいに関心で自立的な原子が、たがいに他の原子と関連付けられていないという関係だからである。

これに対して時間が、有限なものの変化である。変化を変化として考えると、時間が現実的な形式となる。この現実的な形式は、現本質を分離し、現を現として措定しながら、現本質へと還元する。<合成>は、原子から生まれる自然と原子そのものの質料性だけを表現する。一方で<時間>は現世界において、本質世界における原子の概念と同じ役割を果たす。すなわち時間はすべての規定された存在者を、他の存在者との関係のうちに抽出し、滅却し、還元するのである。


[1]必然か偶然か。この論争は現代でも続いており、例えばアインシュタインは「サイコロを振らない」と言って「全ての条件が同じならば同じ結果が起きる」という決定論をした。しかし最近の量子力学では量子の世界では、全ての条件が同じであっても確率的に別の結果がでることもあるという驚くべき結論がだされている。その結果シュレーディンガーの猫やらエヴェレットの多世界解釈みたいな世界やらうんぬんかんぬん……詳しくは割愛

[2]限に小さい。これは数学の極限の概念に似ている。

ヘーゲル国法論批判

『ヘーゲル法論批判』[1]とはマルクス1844年に新婚旅行先のクロイツナッハで書いた[2]ヘーゲルの『法哲学』に関する批判の書である。

本書のテーマは「近代市民社会において、君国家)と議会と市民はいかなる関係にあるべきか?」、あるいは「いかに私欲を持つブルジョワを、益を追及するシトワヤン[3]にすることができるか」ということにある。ここでは共産主義に出会う前の急進的民主主義マルクス[4]の思想が伺える。

本書ではヘーゲル『法哲学』の第三部第三章「国家」の第一節「法」の中の更に第一部門「それ自身としての内体制」が批判になっている。「それ自身としての内体制」の部門は「君権」「統治権」「立法権」の三項から構成されており、ヘーゲルは当時のプロイセン政治状況を鑑みて、「君権」では君の支配の原理を考察し、「統治権」では君による統治を補佐する官僚の原理を考察し、「立法権」では君による立法を補佐する身分制議会の原理を考察する。この君導の国家システムに対して、マルクス民主主義者としての立場から逐次的に批判を加えるのである。

19世紀前半のヨーロッパ資本主義社会が熟しきっておらず、とりわけプロイセンは、英のようにブルジョワ革命を経ていない分、前時代の君主制が強く息づいていた。若きマルクスは、ブルジョワの身分制度から排除された賤民の立場から、プロイセン君主制批判を通じて人間の解放について考えていく。それは「私欲を望むブルジョワが、益を望むシトワヤンへの変貌を遂げる筋を模索する試み」であった。

しかし、この論文の中では二つの空白がある。

①賤民というのが具体的にどういうグループなのかが明確にされていない

②ブルジョワからシトワヤンへ至る方法論が現実的でない

この2つの課題は、この後に書かれた論文の中でより詳細に考察されていくことになる。すなわち

'賤民=プロレタリアートの発見

'社会革を狙う急進的民主主義から更に発展し、資本主義社会を根こそぎひっくり返す共産革命へののり

このようにマルクスはこの『ヘーゲル法論批判』を通じて、急進的民主主義者から、共産主義者へと立場を移行させていくのである。

では、以下に内容をみていこう。

第一項「君主権」

マルクスはまず、君たる権利について批判を加える。ここでマルクスは君権を批判するために、フォイエルバッハの宗教批判の論理をヘーゲルの法哲学批判に応用している。(フォイエルバッハの宗教批判については長くなるので脚注で)[5]

マルクスはフォイエルバッハの宗教批判において対立させられた「秘的な」と「現世的な人間」をヘーゲル政治哲学の「秘的な国家」と「現世的な家族市民社会」と置き換えた。すなわち、国家とは元々、実際の家族市民が集まった社会集団が動的に作ったものであったのが、いつしか逆に国家が理念として秘的な存在として祭り上げられ、家族市民を思弁の中の想的な動きとして見るようになってしまっているとマルクスは言うのである。この国家における家族市民社会にも、フォイエルバッハの「」と「人間」の関係と同じように二重の転倒がある。

第一にマルクスによれば、ヘーゲル家族市民社会のありかたを国家の「現[6]として描き出しているという。この「現」は、カント的な意味で、ある「物自体」[6]の表れと見なされる。しかし元々現実に存在するのは国家ではなく、家族市民社会の方である。そこには、本来は現実的で実体的なものが、不過視の実体である物自体の現であるとみなされるという第一の転倒がある。換言すると、本来はであるべき現実的な家族市民社会が、理念的な国家の述とみなされる転倒である。「現」の背後に「物自体」としての理念が存在し、もともとは実体であるものが現とみなされるという認識論的な転倒。すなわち国家についての認識論的な転倒である。

そして、この認識論的な転倒を強化する第二の転倒がある。というのは、家族市民社会といった現がまず認識された後に、その背後に国家という理念的な物自体を想定するのではなく、まず国家という理念的な物自体が存在し、それが家族市民社会といった現を生み出すと考えてしまうという転倒である。そこでは国家秘化が発生し、この秘的な国家から家族市民社会が発生すると考えられてしまう。ここには本来「現実的な市民社会家族から、理念的な国家が生まれる」ものが「理念的で秘的な国家から、市民社会家族が生まれる」という発生論的な転倒が起こっているのが見て取れる。

この認識論的、発生論的二重の転倒によりヘーゲル国家観から「理念の伝記」、「トートロジー(同義反覆)」[7]、「論理学」という3つの誤りが現れてくる。

ヘーゲルの法哲学では、現実的な人間が国家に到達するのではなく、かえって国家現実的な人間に到達しなければならない。ヘーゲルの法哲学は、生きた人間がその中心から外され、逆に国家という理念的な概念が役となった「理念の伝記」なのである。

またヘーゲルの法哲学トートロジーるものである。なぜトートロジーになるのかというと、ヘーゲルの法哲学の中では人間と国家、述の転倒が起きている。つまり「人間は国家である」というものが、「国家は人間である」と転倒され、更に人間が国家の現とされるのであれば、についてられたことを全て述事前に内包してしまい、結局「国家国家である」ということにしかならないからである。それは現実的な人間を法律という観点から捉えるのではなく、国家という概念から、そこに内包された人間という概念を捉えているだけにすぎない。

を分析的に分解して、その内部に示されたものをる言論理学と呼ばれる。論理学現実世界とは関係に、「A=BB=C、よってA=C」のようにトートロジー的な文章とその関係だけを扱うからである。マルクスは「ヘーゲルでは法哲学ではなく論理学の閑心事である」と言い、「[現実的な]事柄の論理ではなく、[理念的な]論理の事柄を重視する」とヘーゲル批判する。

マルクスは以上のように現実国家についてるべきヘーゲルの法哲学が認識論的、発生論的転倒によって、トートロジー論理学へと後退していることを摘する。そしてマルクスはその根底にある転倒の論理を、プロイセン国家のあり方から考察し、ヘーゲル国家有機体説を批判する。国家有機体説とは、国家が一つの生命体であるとみなす考え方である。

ヘーゲルは、国家の生命は君のうちにあり、民は人間の身体でいえば「」のような器官であると考える。として自らの生存欲求を持ち、それ自体独立した器官ではあるものの、しょせん全体の一部であり、時には犠牲となるべき器官でもある。この国家有機体説は君する以上、君主制にとっては都合のよい考え方である。ヘーゲル国家権が民にあるという理論を批判し、君国家にとって必要不可欠なものであるとする。これに対してマルクスは「国家は一つの抽物に過ぎず、ただ民のみが具体物である」と明確に言う。民こそが国家であり、その原理に基づく政治システムが民制である。民制の国家こそが、の意味での民の国家である。民主主義こそが国家と人間の転倒の論理を回復し、生きた人間を体の地位に戻すのだとマルクスは断言するのである。

第二項「統治権」

ヘーゲルによれば、市民社会は三つの次元で利の衝突が起きる場所である。

①個人・家族同士による利の衝突(ホッブズの「万人の万人に対する闘争」状態)

市民が集まって作り出した身分、団体同士の利の衝突

市民と、市民の上位にある国家の利の衝突

また、際的には国家は1人の個人のように振る舞い、他の国家と利の衝突を行いうる。

ヘーゲルにとって統治の仕事とは、国家がこの③の、市民と、市民の上位にある国家の利の衝突において、欲望渦巻く市民社会の持つ矛盾を「いっそう高い見地と令」をもって解決しようとする営みである。この営みを実現する役割を果たすのは、官僚機構の使命である。

マルクスから見ると、このヘーゲルの官僚観には2つの問題点があるように思われた。ひとつの問題点は、この国家の立場に立つ官僚機構が、市民社会にどのような姿勢で向き合うかがヘーゲルの法哲学ではまったく考察されていないことにある。

ヘーゲル哲学における官僚は、明らか市民社会とは別の存在である。市民社会から剥離した官僚システムが、どのようにして国家市民の対立を調停できるのかということについて、ヘーゲルは述べていない。ヘーゲルにとって官僚とは君の代理人であり、統治権の代弁者である。そんな彼らがどうして市民の利を調整できるだろうか。

第二の問題点。官僚は市民社会から選抜された人材がなるのだが、その私欲を持つ市民(ブルジョワ)がどのようにして、益のみを追及する民(シトワヤン)に到達しうるのであろうかということに関してもヘーゲルは説明していない。一応、ヘーゲルは官僚になる方法自体には①試験による認定、②君からの任命の二つの方法があると言う。しかし①試験による認定とは言っても、そのが何をもって量られるかが分からない限り、ただ形式的に官僚が登場するだけである。いかなる市民有能な官僚なのかを決めるのは君の恣意次第である。また②君による任命について、これも①と同じ事で、ヘーゲル観的な個人の的な地位に適しているかどうかという客観的判断を下すのは君であると考える。これは国家有機体説において君が「頭」あるという論理と一貫した考えである。

ヘーゲルの構想では、ブルジョワからシトワヤンへの変貌は、君の恣意に委ねられる。すなわちブルジョワ市民が、試験をパスしたり君に認められたりした誇りを胸にシトワヤンへその姿を変えるのだ。マルクス摘する二つの問題点。すなわち「市民社会国家の間にある外的な対立の調停はいかにすべきか」ということと「その媒体となる官僚制で働くシトワヤンは自らの私欲(ブルジョワ性)をいかにするか」ということは、ヘーゲル哲学においては、どちらも君主制の頂点に立つ君の特権によって解決されるしかないのだ。

第三項「立法権」

この「立法権」についての考察においてマルクスはまず、民の権利として認められた立法権と憲法の関係について問題にする。立法権は憲法のもとで認められた権利である。そして憲法もまた法律の一つである。すると問題なのは、憲法に認められた立法権を用いて、憲法を修正できるかどうかということである。立法権を保する憲法が、自らを修正する権利を立法権に認めるというのは矛盾しているようにも思える。フランス革命でも立法権によって憲法の修正がなされたが、当時のヨーロッパ憲法では規定によってはそれは不可能であった。マルクスはこの問題に対して「憲法は民意のの表れであり、立法権によって憲法を変える権利は条件に肯定されなければならない」という立場をとる。

この問題は「権を構成する立法権(憲法を制定する議会)」と「権によって構成された立法権(憲法によって制定された議会)」の対立と見る事ができる。前者はまったく法律のないところから種々の法律を作り出す権利を言い、後者は既存の法律を根拠にして新たな立法を行う権利である。フランス革命の際には、シェイエスが著作『第三身分とは何か?』において「憲法を制定する権」と「憲法によって制定された権」を区別し、憲法制定権を持つ議会によって、新たな憲法17911793憲法)を制定したのである。

マルクスは議会の根本的な機民の民意を表現することにあると考えるので、「憲法を制定する議会」の「憲法を構成する立法権」こそが根的なものだとする。しかしヘーゲルの法哲学では、議会にはそのような根的な権は与えられていない。議会はただ憲法によって定められた組みのうちで認められているにすぎない。

ヘーゲルにおける立法権は君による君権や、官僚による統治権のおまけにすぎず、一つのウソであり、儀式であるとマルクス破する。マルクスは「議会とは民の利益のためにあると」いう法的なウソ摘する。ヘーゲルにおける議会は君と官僚を補う一つの要素に過ぎず、民意は代表していないことになる。そこでは君と官僚は議会に優越することになる。議会が代表するのは「民」ではなく「君と官僚に支配される民」の代表である。マルクスは議会の中にプロイセンだけでなく、国家諸機構のあらゆる矛盾の凝縮を発見したのであった。

ヘーゲルの提唱する身分制議会の矛盾プロイセンのような専制君国家において民がブルジョワとシトワヤンに分裂していることによって必然的に生まれざるをえないものである。立法権を持つ議会において民は二重の分裂が発生してしまう。

第一に、代議士となった民は身分と代表の分裂に悩まされる。すなわち、身分制議会では自らが所属する身分の利益と、民の代表としてなすべき共の利益の挟みになってしまうのである。彼は議会において身分としてはブルジョワとして、政治的にはシトワヤンとして振る舞う事を要される。

第二の分裂は、国家の一員としての民の人格と、市民社会の成員としての私人の人格の分裂である。市民社会では市民国家というコミュニティの一員であると同時に、国家の支配外に暮らす私人でもある。第一の分裂は代議士にのみ起こりうるものであるが、第二の分裂は全ての民に共有されるものだ。このような二重の分裂のもとにおいては、私人(ブルジョワ)である市民人(シトワヤン)として行動するためには自らのブルジョワ性を否定するしかない。これはブルジョワがシトワヤンとして行動するときには、ブルジョワ本来のあり方から疎外されるということに他ならない。ブルジョワが自ら私人としての立場を捨てて人として振る舞うことを、マルクスは孤立した原子に例えて「シトワヤンの原子論的なあり方」と形容する。

結論として

中世において、王族、貴族民などなど政治的身分と市民的身分は等しいものであった。しかし近代市民社会の登場によって、こうした身分の違いは意味を持たなくなった。それに取って代わったのは、と教養である。資本主義社会では政治的身分よりも貨幣ののほうた強いのだ。ヘーゲルはそのような近代資本主義社会においてもなお、中世的な身分制議会を構想していた。マルクスは本書において、これを批判したのである。

マルクスは、ブルジョワ(私人)である個人がシトワヤン(人)として、あたかも、それ自体が独立した原子であるかのように政治的につく代表制議会こそが、市民社会国家が分離した近代資本主義社会にもっともふさわしいものだと考えた。またヘーゲルが二院制議会を提唱したのに対してマルクスは一院制をとりあげる。

ヘーゲルが身分に基づく二院制を良しとしたのは、一院制の場合、議員たちが君でなく民の立場につき君向かう可性があったからだ。そこで、絶対的に君の立場にある貴族による上院と、民の立場にある下院を必要とした。ヘーゲルにとって人民とは常によからぬことを企む否定的な知性を持った賤民に過ぎなかったのである。このように書くとヘーゲルがいかにも前時代的な思考をしているように思われるかもしれないが、ヘーゲルが生きた18世紀プロイセンはまだまだ中世の香りの強い国家であり、政治的・歴史的制約もあった。

19世紀人であるマルクスはこうしたヘーゲルの人民観を「奴隷根性」と揶揄し、「賤民の見方」があると考えること自体が「賤民の見方」であると述べた。「ブルジョワ(私人)をどうやってシトワヤン(人)にするか」という課題についても、ヘーゲルはそれは君の恣意と偶然性に依存した官僚制と身分制議会によってなされると言うのに対して、マルクスは人間を体とした民主主義国家によってなされると提唱する。

マルクスは、ヘーゲルがあげる国家の三要素。すなわち君権、統治権、立法権の中でとりわけ立法権を重視した。というのも、立法権のみが市民国家へと進出する契機であるからだ。民的な国家立は、この立法権を通じてなされると彼は考える。政治プロの代理人に任せるのではなく、あくまで民の代表としての政治家を選ぶ。そこでは当然、普通選挙が要されることになる。普通選挙によって選ばれた民の代表が一院制議会の下で立法権を行使して新たなる憲法を制定する。こうして国家市民社会の分裂は回避され、シトワヤンとブルジョワは融合を果たすのである。

しかしマルクスはやがてこの急進的な民主主義的としての立場を放棄することになる。マルクスは自らがしたブルジョワのシトワヤン化が現実的に不可能であると認識するようになったからだ。そしてやがて彼は急進的民主主義による社会革ではなく、よりラディカル(根こそぎ)な社会革の可性を、国家でなく市民社会の中から見つけることになる。すなわちそれこそが、共産主義である。

まとめ

「君権」「統治権」「立法権」の国家の三要素についてヘーゲル批判

ヘーゲルの法哲学の問題点をマルクスは以下のように

「君権」:「理念的な国家」と「現実的な市民」の転倒が起きている

「統治権」:官僚がシトワヤンに至るには君の恣意次第になってしまう

「立法権」:議会は君による支配の一要素に過ぎなくなっている

以上をし、ブルジョワがシトワヤンになるための近代市民社会には普通選挙による代表制議会が必須であるとマルクスは言う。

ヘーゲル:君の立場に立った中世的な議会=身分制議会、君体、二院制、上院は貴族からの選抜etc

マルクス市民の立場に立った近代的な議会=代表制議会、体、一院制、普通選挙etc

しかし代表制議会にも限界を感じる→急進的民主主義から共産主義


[1]ヘーゲル法論批判は、ヘーゲルの著作『法哲学』を批判する論文であるので『ヘーゲル哲学批判』とも呼ばれる。これは後述する『ヘーゲル哲学批判序説』の本論にあたるが、この本論自体はマルクスの生前に出版されず、また思想的にも序説の方が先んじていた。ここでは序説と区別する意味で法論批判で通す。

[2]せっかくの新婚旅行で何を書いているんだろう。

[3]市民。ここでは私欲よりもの利益を優先する民という意味。

[4]マルクス民主主義というと何だかミスマッチに思えるかもしれないが、当時のヨーロッパでは共産主義と急進的な民主主義というのはほぼ同義であった。かの有名な「共産党宣言」も「民主主義者同盟」というパンレットに強い影を受けているように、19世紀の欧州では、共産主義民主主義双子の関係にあったのだ。

[5]フォイエルバッハの宗教批判を一言で表せば「宗教本質は人間であり、とは人間のことであり、学とは人間学である」ということになるだろう。人間がとして想定するものは全て人間の内面的な本質投影されているにすぎないのだ。例えば「は永遠である」とか「は全知全である」のような言葉ですら、人間の本質(人間の自己意識)の規定だと言える。つまりこれらの言葉は本来「人間は永遠である」とか「人間は全知全である」というべきであった。これが社会において「転倒」されて捉えられていることをフォイエルバッハは摘する。この転倒という言葉はフォイエルバッハの宗教批判において重要句となる。

本来、人間についてられるべきところをと言い換えることで、と述において二重の転倒が生まれている。

まず第一の転倒としてと述それぞれの転倒がある。「人間は〜である」という文章が「は〜である」と言い変わる。つまり、が現世的な「人間」から、秘的な「」へと仮託されることにより、「現世と秘の転倒」が行われている。また述においても、元は人間の自己意識についての特性としてられていたことが、の特性としてられることにより、人間の特性との特性の転倒が行われている。これら、述の転倒は両者とも「人間について言っていることが、についてのことに転倒している」という意味で、認識論的転倒と呼ぶ。

また「は永遠である」とか「は全知全である」といった言葉は、が本当に永遠であったり全知全であると思われているから言われている訳であるが、実際にはこのというのは人間であった。とすると、(という)から(「永遠」とか「全知全」という)述がでてきたのではなく、逆に(「永遠」や「全知全」という)述から、(虚構の存在としてという)がでてきたということになる。ここではが述を生み出したと装っていたものが、実は述を生み出していると理解できる。現実の人間の特性がの特性から発生したかのように思い込まされるという意味で、この転倒のことをと人間の関係についての発生論的な転倒と呼ぶ。

[6]物自体、現カント哲学の前提的概念である。物自体とは、専門用を用いて説明すると、認識観から独立に、それ固有の存在としてのあり方をしているもののこと。これは物質そのものではなく、その本質および精の働きのことをす。その物自体が私たちが認識できる形で表れることを現という。私たちが毎日を生きていてで認知できるものはすべて現である。しかし私たちが観的に認識できる物質の背後には、私たちが認識することのできない本質的かつ観念論的な不過視の存在がある。すなわち物自体なのである。ここでは「国家」と「人民」の、「現」と「物自体」の転倒が起きているとマルクス摘している。

[7]トートロジー(同義反覆)とは「A=A」というような、と述が同じことを言っている文章のことを言う。ex)「カエルとはつまりカエルのことである」「宗教というのは宗教だ」

ヘーゲル法哲学批判序説

大学時代ヘーゲル[1]に 属していたマルクス大学卒業後、新聞記者として働きながら実際の社会の人民の厳しい生活環境と、それ共に発展したコミュニズムやソーシャリズムなどのフラ ンス社会主義を学んだ。それによってマルクスは当時、自らの思想的根幹であったヘーゲルとの思想的対決を強いられることになった。その為にマルクスはヘー ゲルの著作『法の哲学』の中の特に「国家」の章を徹底的に読み返すことになる。

これ以前には宗教批判を行っていたマルクスであるが、フォイエルバッハ [2]によって宗教批判は終了したとして、このヘーゲル哲学批判序説の刊行後は政治国家法律批判へ活動分野を移していった。

マルクスによれば国家批判には哲学宗教批判が不可欠であり、その意味ではこの著作における研究は、哲学分野に留まり国家批判を行わなかったフォイエルバッハらヘーゲルにも欠けていたものであり、開拓的な研究であるとマルクスは自負する。

タイトルに序説とは書いてあるが、本論は結局マルクスの生前に出版されることはなかった。その後、発見された本論は『ヘーゲル法論批判』というタイトルで今に知られている。

内容

本著の論点はドイツにおける人間解放の方法論であった。ここでいう人間解放とは単なる貧困社会差別、抑圧のみをすのではない。マルクスが問題ししたのは人間の本質そのものの喪失である。これをマルクスは人間疎外と呼んだ。マルクスは人間が人間になりきることのできない社会に対して警鐘を鳴らす。「疎外された人間を解放する」というテーマは、後の資本論にも引き継がれるマルクス思想の根底である。

マルクスは人間を解放するためには、ヘーゲルをはじめとする伝統的ドイツ哲学を解体(止揚)することが必須であるとした。なぜ社会革に哲学が必要となるのかというと、マルクスの想定した社会革とは単に政治革や人権活動といった局地的なものではなかった。それでは部分的革に留まり、普遍的人間解放は成し遂げられない。例えばフランス大革命で解放されたのはブルジョワ階級という社会の一部だけであった。すべての人間を解放する社会革命はもっとラディカルなものでなければならない。

またドイツフランスイギリスべて旧体制(アンシャンレジーム)の段階に留まっている。そんなドイツが今更政治革をしたところで、それは英の後追いにすぎない。一方でドイツは法哲学国家哲学においては英を抜きん出ていた。よってドイツにおいてラディカルな国家革を為すためには哲学を解体することが必要だったからである。

マルクスは明言しているわけではないが、彼はヘーゲル哲学を古代ギリシャ以来の西洋哲学完成であると密かに想定していた。したがってヘーゲル哲学の解体は西洋哲学一般の解体であり、形上学[3]一般の解体であった。[4]。しかしそれは大学教室哲学に対して哲学的な議論を挑むことだけをすわけではない。

哲学の解体とはなにか?それは哲学の形式の変更にある。マルクスはヘーゲル批判を通じて、当時流であった抽的な哲学の内容を現実世界に移しいれ、具体化しようと試みたのである。哲学の新しいスタイルは、牙のと揶揄される大学内での研究ごときを捨てて、実際の社会で苦しむ民衆と共に するものであった。それこそがマルクスのいう哲学批判である。マルクスは「の人間解放(社会変革、革命)の為には哲学を終わらせなければならない。しかしその手段は哲学を捨てることではな く、哲学を実現することによってである」とする。ヘーゲルドイツ哲学者は「哲学を終わらせることなく哲学を実現化」しようとしていた。 これをマルクス批判したのである。

しかしそうなるともう一つ問題が出てくる。哲学現実世界へ移す時、それを注ぎ込まれる階級がドイツ には存在していなかったのだ。これはイギリスの清教徒革命フランス大革命のような市民革命ドイツでは起こらなかったことが原因である。そこでマルクスドイツにおいて哲学を実践的に担う階級、鎖に繋がれた階 級を提起する。これがプロレタリアート(賃労働者)である。マルクスプロレタリアートが革命を起こすことによって哲学は顕在化すると述べる。

この ヘーゲル哲学批判序説の冒頭においてマルクスの有名な言葉「宗教はアヘンである」が出てくる。現在ではネガティブな意味で使われることが多いが、本来は 「宗教は過酷な労働環境にある人々にとって『癒し』である」といった意味合いのほうが強い。宗教幻想ではあるが辛い現実を生きる民衆を救ってくれるもの であり、もし宗教批判を行うというのならばそれは同時に、民衆に幻想でない現実の幸福を与えることを要することに等しい。よって宗教批判は民衆から幻想 を剥ぎ取った後に現実の問題、つまり国家批判に繋がるとマルクスは言う。ちなみに、この「宗教はアヘン」という言葉は元々はマルクスの友人であったハイネ集からの引用だとされている。

まとめ

①人間の解放をすためには、宗教批判に留まらず法や政治など現実社会批判することが必要。

②そのためには哲学の実現が必要。哲学の実現とは哲学の止揚(現実化)のこと。

哲学現実化するための媒介はプロレタリアートになる。プロレタリアートが社会革命を起こす。


  1. ヘーゲル青年ヘーゲルとも言い、ドイツ観念論の哲学者ヘーゲルの流れを組んだ学の一つ。。当時のドイツ大学生の間ではブームになっていて、マルクスも参加し強い影を受けていた。 ヘーゲルはヘーゲル批判的に継承していた。
  2. フォイエルバッハ。ドイツ哲学者。ヘーゲルの代表的人物。ヘーゲルキリスト教学を批判し、マルクスに先んじて物論を 確立した。マルクスはフォイエルバッハの『キリスト教本質』によって宗教批判を終わったと述べた。マルクスに強い影を与え、マルクス学においてはヘー ゲルマルクスを結ぶ渡しとされている重要人物。
  3. 上学。感覚や経験をえた抽概念を扱う哲学の一マルクス物論とは対立する存在。マルクスのいう形上学とはおおよそヘーゲルを筆頭にするドイツ観念論のことをしていることが多い。
  4. とはいえマルクスはヘーゲル哲学の全否定をしたかったというわけではなく、むしろヘーゲルに至るまでの哲学の内容は重視していた。たまに聞くようなマルクスがヘーゲルを軽んじていたというのは全くの誤解である。

ユダヤ人問題によせて

ユダヤ人問題に寄せて』は、かつてのマルクス師匠であり、またヘーゲルの代表的哲学者であるブルーノバウアーのユダヤ人論への批判論文である。本論文は1844年、パリ時代にマルクスが出版した独年誌に掲載され、同誌の『ヘーゲル哲学批判序説』と合わせて初期マルクス思想の重要なテクストとされる。マルクスバウアー批判を通じて自らの市民社会論と、の人間解放(類的生活)へののりを論じていく。

本論文『ユダヤ人問題に寄せて』はバウアーの『ユダヤ人問題』と『現在ユダヤ人キリスト教徒の自由になりうる』の二つの論文に合わせて二部構成になっている。その第二部においてマルクスユダヤ人に対する偏見ともとれる表現をしており、それを根拠に「マルクスは反ユダヤだったのでは?」という議論今日に残っている(なおマルクス自身はユダヤであり、また独年誌のメンバーユダヤ出身の者が多かった)。

時代背景

ヨーロッパにおけるユダヤ人歴史は深く長い。その中でユダヤ人は多くの差別を受けながらも、融を支配して歴史を動かしていくこともあった。マルクスが生まれたプロイセンプロスタント教としており、それもあってユダヤ人は多くの点でキリスト教徒から差別されていた。しかしユダヤ人たちは政治的に不利を被りながらも、同時に国家から様々な特権を得ている存在であった。当時のユダヤ人差別は一様ではないが、いずれにせよ私たちがユダヤ人差別ときいてっ先に思い浮かべるであろう「ナチスユダヤ迫」とは一線を画すもとのして考えるべきである。

プロイセンでは18世紀末からユダヤ人キリスト教徒と同じように市民的な権利と義務が与える動きが活発になっていた。しかし1840年に即位したヴィルヘルム4世はキリスト教国家を掲げて、反動的政策を次々と打ち出し、ユダヤ人市民的諸権利を取り上げようとしていたのであった。

ブルーノバウアーはユダヤ人政治的解放を一面では進歩的だとみなしたが、同時にキリスト教国家プロイセンにおけるユダヤ人の解放の限界摘した。彼によればユダヤ人に解放されるためには、普遍的な人間(民)になる。つまりユダヤ教を捨て去る(揚棄する)ことが必要であると考えた。

マルクスの主張

マルクスバウアーのは一面的には正しいが、それは本質ではないと反論する。バウアーによれば、キリスト教国家において法や社会生活はキリスト教の教えの基づいて形成されており、それは時としてユダヤの教義とは相反することになる。よってユダヤ人ユダヤ教徒のままキリスト教国家民となることはできないという。

しかしマルクスによれば、それはプロイセン国家宗教を切り離すことのできない未完成国家であることが原因だという。例えばアメリカのように完成された国家では、国家宗教を前提としてない。つまり政教分離の原則があるのである。アメリカ教を持っていないが、だからといってアメリカ人が無宗教というわけではなく、むしろアメリカ人は信仰の自由が保れみな生き生きとした信仰活動を行っている。つまり宗教を揚棄せずとも民は政治的解放をなしとげることは可なのである。

バウアーはキリスト教国家のみを批判して、国家一般を批判することをしなかった。つまるところ彼の一番の間違いとは(キリスト教国家における)政治的解放と、(国家一般における)人間的解放を明確に区別しなかっため本質を見失ってしまったことにある。政治的解放は人間的解放の一つの段階であるとしても、政治的解放のみではの人間的解放は成し遂げられないのだとマルクスは言う。

マルクスが生涯を通じてしたものは疎外からの人間解放である。そしてマルクス宗教というものを人間疎外の産物であると考えていた。つまりバウアーのいうように宗教を揚棄するためには政治的解放のみならず、人間の本質的な解放が必要なのだ。

バウアーのする政治的解放が成し遂げられたときに発生することは何かというと、それは人間が「的な利益をめる民(シトワヤン)」と「私的な利益をめる私人(ブルジョワ)」に分裂することである。政治国家(公)市民社会(私)の世界は区別され、自らの利益だけを追求する私人(ブルジョワ)が「現世的な人間」とされ、集団の利益を追求する民(シトワヤン)は抽的な「あるべき人間」にされてしまうのが完成された国家である。

しかしマルクスは本当に人間が類的生活(の人間的生活)を送ることができるのはシトワヤンであり、よって人間解放のためにはブルジョワをシトワヤンにする(止揚する)必要があると考えた。そうした時、国家民が類的生活(人間の本質的生活)を営むことのできる場と化すのである。そこに至る具体的方法とそれを担う階級は本稿においては示されていないが『ヘーゲル哲学批判序説』や後の著作にははっきりとその正体が現れている。それはもちろんプロレタリアートによる共産主義革命である。

また第二部ではマルクス国家宗教から離れてユダヤ人を生きた人間として観察した。マルクスユダヤ教の教義は貸しであり、彼らのは貨幣であるという。しかし、それが成立するのはヨーロッパ社会貸しを必要とし、キリスト教徒自身も貨幣をと崇めているからであると摘した。つまりユダ融が支配するヨーロッパというのはユダヤ人が生み出したものではなく、商品経済資本主義本質的なあり方なのである。

キリスト教徒が軽蔑するユダヤ人の偏狭さというのはキリスト教社会の持つ偏狭さであり、またユダヤ教徒が貨幣を物として崇めるのはキリスト教社会が貨幣をとして崇めているからに他ならない。その社会は、人は貨幣人間と化し、社会の原理は自己利益の最大化になるエゴイスティックな世界である。ユダヤの本質資本主義社会本質なのであり、よってユダヤ人が解放されるためには市民社会そのものがユダヤ的なものから解放されなければいけない。それは貨幣への物崇拝からの解放である。

経済学・哲学草稿

マルクスが初めて資本論へと繋がる経済学的な問題意識を明確な形にしたのは、この「経済学哲学稿」からである。この論文は全3編の稿からなり(まぁマルクスの論文は稿ばっかりなんだけど)、稿ゆえに不全な状態で保存されている。経済学哲学稿では疎外論が初めて著書に現れており、加えてこの書ではマルクスの考える「共産主義」が明らかにされている点で有意義な文献である。

元々はヘーゲルや近代経済学への批判のための文章であったのだが、その中でも法律政治経済についての批判を分離してまとめたのが本書。全体を通してアダム・スミスとフォイエルバッハの影が強く見られ、逆に言えば資本論に見られるマルクス独自の経済理論がまだ生まれていない状態である。第一稿ではスミス富論からの引用が多くあり、疎外論もほぼフォイエルバッハの物を継承している。

第一稿は「労賃」、「資本の利潤」、「地代」、「疎外された労働」の四章からなり、最初の三章で具体的な経済分析を行う。第四章では疎外論を展開。人間は類的存在(他者との関係があってこその存在)であるであるというフォイエルバッハの考えを用いて、賃労働がいかに人間から人間らしさを奪うか(疎外されるか)を述べた。

第二稿はドイツ語でわずか4ページの短い稿。というのもそのほとんどは現在失われており読むことが出来なくなってしまっているからだ。内容は当時の社会主義者の間で流行だった、私有財産についての議論。今では私有財産という概念は一定の意味で用いられるが、当時は私有財産とは何か?という議論が盛んであったのだ。プルードンの「私有財産とは盗みである」という言葉もあるほど。

第三稿は全五章構成で最初の二章でマルクスの考えるコミューン思想、つまりマルクス共産主義が描かれている。皆さんは私的所有を排した共産主義という言葉についてどう思うだろうか? 「頑っても報われない社会」、「も努しなくなって衰退する」、「怠け者が得をしてしまう」など否定的なイメージが強いのではないだろうか? 確かに実際のソ連はそのような要素を持っていたのは否めない。しかしマルクスの考える共産主義はそのような"共産主義"とは全く別のものである。

もし仮に共産主義国家民の資産を管理し、それから等に分配する社会であったならば、確実にその社会は衰退する。マルクスはそのような「粗野な共産主義」をしく批判していた。マルクスは私的所有によって「人間は疎外を受けている」、「私的所有をなくすべき」と言っている。しかし、上記の社会システム(実際のソ連のような)では単に、個人の私的所有からの私的所有になっただけで結局は変わっていないのだ。

ではマルクスした本当の共産主義とはなんだったのだろうか? それは「人間的本質を獲得でき、かつ自然に対しても豊かさをめ、人間と自然の関係的に良好で、すなわち世界の安定をつかみ取るコミュニティで形成された社会」である。

何を言っているか分からない? 編者もそうである。

つまるところ経済学哲学稿においてマルクスの理想とする共産主義は非常に抽的かつユートピア的であり、しかもそれを実現するための具体的な方法も何一つ明示されていないのだ。外山恒一お前は。

このように経済学哲学稿の中の初期マルクス共産主義を人類史の必然と置きながらも、まだ哲学的抽的な文章でしかそれを表現できていなかった。しかしその後マルクスは研究を進めるにつれて具体的に共産主義を実現する方法論を編み出していった。つまり、想から科学へと昇を果たしたのだ。

第三章ではヘーゲルの方法論についての再考と哲学一般についての批判を行っている。この辺は哲学についての知識がないと特に読みづらいので事前にヘーゲルの「精神現象学」と「大論理学」くらいは読んでおいたほうがいいだろう。精神現象学社から全1040ページ、大論理学は以文社から全1700ページくらいで出ている。その内容は渋な表現と抽議論オンパレードで読解難易度ハイデガーの『存在と時間』、カントの『純理性批判』と並び哲学三大難読書と呼ばれる程に高い。

第四章は私的所有、第五章は分業について、第六章では貨幣に関しての考察マルクスシェイクスピアの文章を引用しながら貨幣を人の性質を転倒させる婦だと分析した。勇敢、美徳、親切、それらですら結局は貨幣を持つものが有利に得ることができる。しもそういうに感じた経験はあるのではないだろうか?

聖家族

ジャーナリストとしてのマルクスが書いた、極めて時事的な作品。この家族とは慈善的社会主義するバウアー兄弟のことをしている。当時パリで流行ったウジューヌ。シューの小説パリの秘密』を使いながら批判している。

フォイエルバッハのテーゼ

フォイエルバッハのテーゼとは11項に渡ってフォイエルバッハを批判しているマルクスのメモ書きのことである。メモ書きなのですごい短い。著名な論者であるフォイエルバッハを、同じく物論を唱えるマルクス批判することによって「マルクスとフォイエルバッハの物論の違い」を知ることができるという意味でこのテーゼは大きな意義を持つ。

この本に出てくるフォイエルバッハの物論は「ただそこにある物」、つまり客観的な本質というものが存在するというものであった。例えば自然という物を見た時、「人間がそれをどう見ようが"本当の自然"がある」とするのがフォイエルバッハの物論。それに対してマルクスは「たとえ自然であっても、それは人間との関係性においてその本質明らかにされる」と述べた。この関係性から次の11番のテーゼが出てくる。

哲学者達は世界を様々に解釈しただけであるが、重要なことは世界を変革することである。

この文章はマルクス墓標にも刻まれている有名な言葉である。聞いたことねーよとか言わない。

もし世界本質がフォイエルバッハのいう通り、人間と関係なく存在しているのであれば、哲学者の仕事はその本質を解き明かすことだけである。しかしマルクス世界本質は人間との関係によって初めて本質足りうる。要するに「理屈ばっかりこねてないで世の中変えてみろよ」ということだ。

これは一見するとマルクス哲学批判のように見えるがそうではない。マルクスが言いたかったのは「解釈と変革がセットになって初めて哲学なんだ」ということだ。よく「哲学なんて役にたたない学問だよ」とか「哲学とか理屈こねてるだけだろ?」などという言葉が聞かれるが、マルクスから言わせたら役に立たない、理屈をこねてるだけという時点でそれは哲学ではないということになる。

ドイツ・イデオロギー

ドイツ・イデオロギー』はカール・マルクスが自らの「歴史観」、「経済観」そして「ヘーゲルに対する批判」ををまとめた膨大なメモ集である。

マルクスは執筆する途中でこれらのメモ集を出版する意思を失ってしまったため、最初メモ(正確にはボーゲンという)の束は彼の書斎で「ネズミ批判」を受けるのみであった。ネズミ批判を受けるとは要するにネズミられていたということであるが、それをマルクスの死後にまとめて世にだされたのが本作『ドイツ・イデオロギー』である。

ドイツ・イデオロギーの元となったメモにはページ番号がついていなかった。そのため編纂者によってページ順がバラバラであり、当然それによって受け取り方が変わってきてしまう。これを「ドイツ・イデオロギーの編集問題」と呼ぶ。最初はリャザノフ版が出版されたが、その後、リャザノフがソ連で失脚したので、アドラキー版が広く普及することになった。歴史的には一応アドラキー版が流ではあるが、現在ではリャザノフ版の再評価や1960年に出たバガトゥーリャ版、さらに日本版など新解釈で編集されたものが多く出版されている。

ドイツ・イデオロギーに限らないが、マルクス文字はひどく下手くそである。乱筆な上に乱雑な注釈が本文の隣りに並立して書かれており、メモの半分を注釈が占めることもある。その上、関係の落書きまであったり、とどめにネズミられているので読みにくさはこの上ない。マルクス文字を読めるのは親友であるエンゲルスだけであったのだが、エンゲルスもすらすら読める訳ではなく、この遺稿の読解には苦労したという。というかマルクス本人も自分で何て書いたか読めなかったというからふざけている。

ドイツ・イデオロギーは分厚い大著であるが、基本的に問題となるのは第一巻の第一章『フォイエルバッハ』のところである。上記の編集問題でもここが重要視される。というのは、他の章はヘーゲルの著作について、逐次的な批判を行っているのに対して、フォイエルバッハの章ではマルクス経済視点からの歴史観。いわゆる唯物史観が詳細に書かれているからである。その他の部分は研究者でもない限り一生読む事はないだろう。読みたい人は大学か大きい図書館にいってマルクス全集を探してみよう。

タイトルにある『イデオロギー』とは現在よく使われる意味の「政治的思想」ではない。ここでいうイデオロギーとは「虚偽意識」「観念的存在」つまり「実在しないもの」のことをしている。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』の中で、当時の社会の「実在するもの=本質」と「実在しないもの=イデオロギー」の転倒について解説する。イデオロギーがはびこるドイツ社会批判し、現実的かつ実践的な問題の動的解決の重要性を示す本書。マルクスしたのはまさに実践的で動的な運動、つまり共産主義革命である。

哲学の貧困

この哲学貧困は、プルードンの著した「貧困哲学」に対する批判書として書かれたフランス語の本である(マルクスドイツ人)。これ以前のマルクスは「家族」などでプルードンを高く評価していたにも関わらず、この書では当時傑出していた高名な社会主義者であるプルードン批判したことによってマルクスが新しい時代の社会主義を模索し始めていることが分かる。

本書は二部構成になっており、一部はプルードン経済学批判になっている……のだが、結局のところマルクスが述べたかったのは「リカードプルードンより優れた経済学者である」ということだけだった。リカードは当時の経済学会のトップスターであり、経済学が本業ではないプルードンがそれより劣るのはある意味当然である。

共産党宣言(共産主義者宣言)

一つの妖怪ヨーロッパを歩き回っている。共産主義という妖怪が。
支配者階級は共産主義革命に恐れ戦くがいい。プロレタリアートは鎖以外に失うべきなにものも持たない。彼らは勝ち取るべき世界を持っている。の労働者よ、団結せよ!

共産党宣言(共産主義者宣言)とはマルクスとエンゲルスが、

共産主義とは何か?共産主義者は何を望むか?」

社会主義とは何か?社会主義者は何を望むか?」

共産主義社会は、如何なる方法によれば、もっとも速やかに、かつもっとも容易に達成できるか?」

ヨーロッパに広める為に著した「共産主義的信条表明」である。本著はあらゆる言翻訳され世界中の読者に読まれることとなる。

ここ→(共産党宣言)でただで読める。短いので多少本を読むのに慣れていれば2時間くらいで読めるはずだ。この機会にご一読。

共産党宣言というタイトルの通りコテコテ共産主義思想の啓書であり、上にある冒頭の文章と結びの文章は非常に有名である。共産党宣言が書かれた頃は資本論が出版される10年以上前であって、剰余価値理論がまだ確立されていないなど経済理論的空白立ってはいるが、政治パンレットとしての用途の為、較的分かりやすい文章で構成されている。

日本ではあの大逆事件で有名な幸徳と共著で日本語翻訳し、日本二次大戦で敗北するまでの40年もの間発禁になっていたにも関わらず多くの人に読まれていた。

初版タイトルは「共産党宣言」であったが第二版は「共産主義者宣言」にタイトルが変更された。この二つは似ているようで結構意味が違ってくるのがポイント。「共産党宣言」であれば共産運動の中心は共産党であり、共産党が全てのプロレタリアートを先導する(これを前衛党という)という意味が生まれる。後者の「共産主義者宣言」であれば、共産革命プロレタリアートがみんなで団結して行うという意味になる。現在共産党宣言」の方がメジャーなのはレーニンソビエト共産党の権を高めるために名前を広めたためと言われている。

内容

共産党宣言は序文+四章で構成されている。第一章は「階級闘争の歴史と今」、第二章は「共産主義者とプロレタリアート、ブルジョアの関係」、第三章は「共産主義者と他の社会主義者との関係」、第四章は「まとめ」の章となっている。

第一章「ブルジョアとプロレタリア」

「これまでの全ての社会歴史は階級闘争の歴史である」から始まる第一章。

中世から近世のヨーロッパは教会と皇帝国王)が民を支配するいわゆる「封建社会」であった。しかし、アメリカの発見を端に発する大航海時代によって諸植民地を獲得し、経済市場は格段に広がりブルジョアと呼ばれる階級を大幅に発展させた。ブルジョア階級がそのを伸ばしていくにつれて古い時代の住人、教会や王侯貴族との対決が発生する。そして市民革命宗教改革革命独立戦争など)を経てブルジョアは見事に古い制度を打ち倒す。その後、産業革命が発生しブルジョアは近代ブルジョアジーとして一つの完成をみた[1]

近代ブルジョアの誕生は同時に三つのものを生み出した。一つは旧秩序の破壊。二つ経済恐慌。三つ目プロレタリアートである。

①ブルジョア王制や教皇制を破壊したが、それとともに全てのの封建的、長的、牧歌的なものを破壊した。宗教は信頼をなくし、農村などのコミュニティから人の結びつきを奪い、全てを勘定の関係に生まれ変わらせた。しかも欧州だけでなく、欧州が支配する植民地(つまるところほぼ全世界)でである。

②ブルジョアは留まることを知らない欲望によって経済恐慌を引き起こす。これは生産性を高めすぎたことによって過剰生産が生まれて、デフレ不況[2]が起きることを原因とする。作れば作っただけ売れる時代は終わり、作っても商品が売れず商品が余ってしまうと工場は潰れブルジョアは没落する。ブルジョアは自分たちの行為によって自滅するのである。もちろん恐慌が起きれば労働者にも大打撃を喰らい、餓死者が発生したりする。ブルジョアデフレ不況を回避するために新規市場めるか、既存市場を酷使するかの2択を選ばされる[3]

③ブルジョアは封建制との対決において自分の体を労働として売るしかない階級、プロレタリアを生み出した。(階級闘争の項も参照)。プロレタリアは賃労働制の下、ギリギリ生きていけるくらいのお金しかもらえないのだ。そして全ての階級の中でプロレタリアだけが革命的である。なぜならブルジョアはもちろん中流階級は今の生活に満足していて保守的であるからだ。しかし今後ブルジョアプロレタリアだけでなく中流階級の搾取を始めるし、ブルジョア同士の争いによりプロレタリアに没落する人たちも生まれプロレタリアの数が増え続ける。今は個別のプロレタリア運動しかないが、増加するプロレタリア団結し自らのを自覚した時、共産革命は必然となる。


  1. マルクスはブルジョアを「長い発展過程の産物であり、生産様式と交易様式における一連の変革の産物である」と述べた。これは唯物史観の考えをもとにしている。
  2. デフレ不況は現在日本と同じタイプの不況である。
  3. 元々は前者を選択していたのだが、20世紀後半以降地球上にもう新規市場がなくなってしまった結果、後者の方法を取るために利用されたのが新自由主義である。
第二章「プロレタリアと共産主義者」

第二章ではマルクスの想定する共産主義者が具体的にどのような革命をするかについて述べている。「革命が起きたら具体的に俺らプロレタリア)の生活はどう変わるの?」、「ブルジョアが色々文句言ってるけど実際のところはどうなの?」という疑問に答える章であり、中々過な表現でマルクス(とエンゲルス)はそれに答えている。

共産主義者は、私的搾取こそが搾取を生むと考え「私的所有の」をする。

私的所有の止。これだけ聞くと「うわぁ・・・」と思う人も多いのではないだろうか?やっぱり当時でも「私的所有の!?冗談じゃない!!」と文句を言う人がいた。「そんなことしたら働いて得たお金や物をに取られてしまう」というのは今でもよく聞く共産主義への文句である。しかし共産主義者はそれにこう反論する。

「人は共産主義者が、自分たちが頑って働いて得たものを奪うと批難する。しかし々はそんなことをする必要はない。々が奪う前に労働者が働いて得たものは既にブルジョアが奪っていってしまっているからだ」

ブルジョアと初めとした共産主義を批難する人々は「私的所有の止によって土地、所有物、賃、人格、教育家族を、への着を、共産主義者によって奪われ破壊される」と言う。しかし、資本主義の下ではそれらの要素は9割方既に奪い取られているものである。共産主義者が止するのは、本家が独占するブルジョア的私的所有(利子、地代、配当などの不労所得)だけであり、所有一般ではない[4]。よってプルードン社会主義者)がするような「賃の均衡化[5]」はありえない。

共産主義者はプロレタリアをまとめ、先導する存在であり、共産主義プロレタリアや他の社会主義とは対立するものではない。共産主義者がすものは他の社会主義者と一緒、つまり「プロレタリア団結」、「ブルジョア支配の転覆」、「プロレタリアによる政権奪取」である。

そして共産主義者は、革命が起きた際のマニフェストを10項あげる。

  1. 全ての土地の国家所有
  2. 強い累進課税
  3. 相続税100%
  4. 亡命者と反逆者の財産の没収
  5. 全ての融の一つの中央銀行への集中
  6. 全ての運輸の国家への集中
  7. 有工場、共同農業(つまり計画経済
  8. 万人への労働義務
  9. 農業と工業の経営の統合。都市と農村の対立の
  10. 児童労働の止。児童への教育の促進。

これによりプロレタリアは階級から解放されていき、やがて全に階級がなくなったとき政府そのものが止される。そうすれば各々の人間が自由に生きることができ、アソシエーションが生まれるのだ。


4.マルクスは「資本とは共同社会の中から生まれ、資本を動かすのは社会の構成員全てである。よって資本は共同社会全体の産物なのだ。よって資本が個人の所有から社会に移るとしてもそれは社会の所有ではなく所有の性格が変わるだけである」と述べた。資本は本来個人のものではなく、もちろん国家のものでもなく、社会全体のものなのだ。このような考え方はマルクス国家社会論から生まれたものであるが、この辺をソ連中国共産党は間違えていた。多くの共産主義国家は個人の独占する資本を国家の独占する資本にしただけだったので、結果的に今のアメリカなとんでもない格差社会になった。ソ連のような形態は共産主義ではなく国家資本主義であるという摘もある。

5.共産主義について世間でよくイメージされる「賃の均衡」。「一生懸命働いても怠けても給料が一緒じゃやる気がでない。よって共産主義は衰退した」という批難は実はマルクスの思想ではなく、フランス無政府主義的(アナーキズム社会主義プルードンした考えである。

第三章「社会主義的および共産主義的文献」

第三章はマルクスの属する共産主義の観点から他の社会主義批判する章。一言に共産主義社会主義といっても一枚岩ではなく、社会主義の中でも意見の相違が見られ閥闘争があった。そこでマルクスは、自分の属する共産主義と他の社会主義はどう違うのかを批判的に述べていく。

反動的社会主義

反動社会主義とはその名の通り反動的、つまり歴史の流れに逆走して封建社会に戻ろうとする勢のことを言う。ここでは三つの勢を解説する。

この勢に属する者として、まず封建的社会主義があげられる。封建的社会主義者は過去歴史の闘争によってブルジョア敗北した貴族、王族階級である。彼らは自らの地位を取り戻すために政治や執筆などの活動を行ったが今さら彼らの古くさい考えに賛同する者はいない。そこで彼らはブルジョアを打倒するために「私たちの行動はプロレタリアを救うため」という社会主義の御旗を掲げたのである。これが封建的社会主義者の誕生であった。

しかし所詮彼らは古い時代の住人でありプロレタリアも段々とそれに気付いて離れていった。そもそも封建制の下でも搾取は行われていたのであり、更に元を辿ればブルジョアという階級は封建制というシステムが生んだものであるのだから、過去に戻るという形で社会主義を為すのはナンセンスである。

二つ反動社会主義者としてあがるのは小ブルジョア社会主義である。彼らはブルジョア誕生初期に生まれた存在であり、一応ブルジョアではあるが資本が弱く近い将来大資本に負けてプロレタリアに身を落とす可性のある存在である。フランスで発展した。彼らは優れた洞察経済学批判したが、結局は新しい時代に破壊された古い生産制度や交通制度に今の社会らせようとする時代錯誤な考えであり反動的であるというより想的な考えである。

三つ目ドイツ社会主義者または社会主義である。その名の通りドイツで発展した社会主義社会主義という理念はフランスで発展したのだが、それがドイツに輸入される際にフランス社会の実状や生身の人間的な理念を捨て去ってしまった。その結果ドイツ社会主義は難解かつ抽的な概念になり、一般市民には受け入れられず、むしろ官僚や職者などの旧時代の住人がブルジョアと戦う武器として使用されることとなる。その結果ドイツの工業的発展は遅れ大ブルジョアの発展を削ぎ、逆に郊外の小ブルジョアを栄えさせた[6]


6.当時ドイツはまだ統一されておらず分裂状態にあった。これによりドイツ植民地獲得が遅れ、結果的に世界大戦の遠因の一つとなる。

保守的社会主義またはブルジョア社会主義

保守社会主義またはブルジョア社会主義とは、ブルジョアでありながら社会主義に賛同する層である。経済学者、博義者、人義者、労働環境革者、慈善事業動物虐待論者などが属する。彼らは社会主義を曖昧なものに仕立てあげ、プロレタリアの困窮は階級ではなく表面的なものが原因とすることによって根本的な苦しみを取り除かないまま、生活や労働の良によってプロレタリアの解放をめる。

自由貿易をしよう!労働者のために!」、「保護貿易をしよう!労働者のために!」

しかし彼らの本質は「ブルジョアがブルジョアであるのは労働者のためである」という欺瞞に満ちたものであり、抜本的に労働者を救うためではなく極めて利己的な考えが根底に存在する。彼らはプロレタリアに同情して社会主義者になるのではなく、ブルジョアの為に社会主義者になるのだ。彼らが望むのはあくまでブルジョアによる支配である。

批判的・空想的社会主義および共産主義

共産主義に先行する社会主義者たち。代表的なのがサン=シモンフーリエ、オウエンの三名である。彼らは社会の問題を「階級」にあるということを見つけたが、プロレタリアートが未発達な時期に社会主義したために、物質的条件(プロレタリア団結政治運動など)がわず必然的に頓挫した。これらの運動はよくある共産主義に悪いイメージそのままの、人間の欲を否定し悪等を推進する。

彼らはいまだわない社会主義の達成の条件を探し、それを自分たちの創作(要するに妄想)によって作ることになっていった。彼らにとっての社会主義運動とはその自分の考えた妄想社会主義理論を宣伝、実行することなのだ。しかも彼らは自分たちが全ての思想の上に立っていると考え、ブルジョアも含めた全ての階級を救おうとしてしまい、ブルジョアに対して自分たちの訴えを起こし、結果的に反革命的になってしまう。彼らの失敗の原因はプロレタリアの未発達による社会主義の未発達によるものだ。

彼らはやがて革命的思想は失い保守的になる。彼らのような想的社会主義者は自らの思想を正しいと信じ込み、その後資本主義の発展とともに現れたなる社会主義運動を邪魔する存在になってしまうのだ。このような社会主義科学社会主義と対立する社会主義と呼んだ。

サン=シモンフーリエ、オウエンらは社会主義者の代表格であるが、マルクスとエンゲルスは彼らを高く評価している。確かに上述のように彼らの社会主義思想には瑕疵が多いが、それは3人がマルクスよりも前の時代に生まれたことによる歴史の未発達が原因であるとされる。マルクスは彼らの社会主義からも大きく影を受けた。

第四章「種々の反政府党に対する共産主義者の立場」

第四章では共産主義者と、に存在する反政府組織や反政府政党との関わりを説明する。当時のヨーロッパ革命が頻発するほどに国家が安定しておらず、マルクス導する『共産主義連盟』に限らず多くの合法非合法の反政府組織があった。それらの組織は各政治事情を反映して生まれたものであるので、この章の読解には当時のヨーロッパの各の事情を知っておく必要がある。

まずイギリスのチャーティスト、そしてアメリカ農業革者。共産主義者は現在の利益をめるが、彼らは現在だけでなく未来運動をも代表する。次にフランス社会主義民主主義政党フランスでは共産主義者は彼らと合流したが、このことは共産主義者が彼らの妄想批判しないことを意味しない。スイスでは共産主義者は急進を支持するが、けしてスイスの急進がブルジョワ色を持っていることを見逃したりはしない。ポーランドでは共産主義者が農業革命を起こしてくれることを期待されている。

いまだ封建制の残るドイツという共産主義者はブルジョワジーと共に王制、封建制、そして小市民層と戦うが、その戦いが終わった後にはブルジョワが旧勢を倒すために用いた政治的諸条件を次はプロレタリアートがブルジョワに対して向けることになる。共産主義者の中でもドイツ共産主義者は注に値する。なぜならドイツはブルジョワ革命の前にあるからであり(1848年にフランスで発生した革命ドイツに飛び火した三月革命のこと)、またドイツヨーロッパのどのよりもプロレタリアートが発展しているからである。よってブルジョワ革命プロレタリア革命の序章でしかないのだ。[ブルジョワ革命プロレタリア革命の違いは上の方にある階級闘争の項を参照]

共産主義者は現在存在するどの革命運動をも支持する。共産主義者は全ての場所で民主主義的諸政党の協と提携に努める。

共産主義者は社会秩序の転覆によってのみ自分の的が達成できることを然と宣言する。支配階級は共産主義革命に恐れ戦くがいい。プロレタリア共産主義革命において、自分の鎖の他に失うものは何一つとしてない。彼らが得るべきものは一つの世界である。万プロレタリアよ、団結せよ!

賃労働と資本

賃労働と資本はマルクス経済活動と政治活動の関係性を世間に普及するために書かれたマルクス経済学入門書である。

『賃労働と資本』は元々は1847年にブリュッセルドイツ労働者協会でマルクスが行った講演であるのだが、彼は1848年の革命失敗後、革命運動経済活動の不可分の結びつきを重要視し、『新ライン新聞』に1849年に5号に渡って二年前の講演をめた『賃労働と資本』を掲載した。

本書が書かれた1849年はマルクス自身が経済学完成させていないので、理論的な完成度では後に出版される『経済学批判』や『資本論』にべると見劣りはするものの、逆にいえば簡易な文章でマルクス経済学概要を掴めるので、『賃、価格および利潤』と共にマルクス最初の一冊としてオススメされる本である。

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日

世界史上の有名人物は二度現れるとヘーゲルは書いた。だが、ヘーゲルは次の言葉を付け加える事を忘れていた。一度は悲劇として、二度は喜劇として。

当時のフランス皇帝ナポレオン三世をマルクスジャーナリストとして刺的に描いた名著。資本論マルクス経済学批判だとすると、ブリメールマルクス政治批判の書だと言える。この本も上記の冒頭の文章が有名である。ボナパルティズムという言葉を生んだのもこの本。

この本も例に漏れず実に読みにくい。その理由としてはブリメールフランス政治について書かれている為、フランス政治家の名前やフランスの地名、当時の事件や情勢が説明なしに多用されているのだが、これが日本人にとって取っ付きづらいのだ。しかしマルクスの他書と同じく大きな含蓄を含んでいることも確か。

本書の要点は「代議制についての考察」。ルイ・ナポレオン選挙に当選し、その後クーデターによって第二政を宣言するもわずか17年で崩壊していく様を描きつつ人々の政治への意識を鋭く描写している。ブリメール18日」とは、1799年11月9日のことで、ナポレオン1世が執政政府をクーデターで倒した日である。ボナパルトのクーデターはその再版という意味。つまり、「歴史は繰り返す。ナポレオン1世の時は悲劇として。ナポレオン3世の時は喜劇として」ということになる。

歴史的背景、1848年のフランス2月革命

フランス1848年革命、通称2月革命歴史上初めてのヨーロッパ同時革命であった。1830年のフランス7月革命で即位したルイ=フィリップ選挙権を拡大するなどの政策を取ったが結局得をするのはブルジョワジーだけであり労働者や農民の不満は高まっていた。不満は1848年に最高潮になり革命が発生。フランスで始まった革命ドイツプロイセンイタリアに伝播し急進的な動きを見せた。これは1789年のフランス革命(ベルサイユの薔薇のときの革命)とは違い、労働者を中心としてなおかつ欧州全体を巻き込んでいたため、マルクスの理想とする革命に近かった。社会主義者たちは革命に熱狂し、革命の結果誕生した第二共和制の臨時政府の中には高名な社会科学義者が多く含まれ、すわ社会主義が達成されるかに思われたが・・・

しかし結局革命失敗したナポレオンの甥、ルイ・ボナパルトが、社会主義者に土地を奪われるのを恐れた農民と組んで政治運動を行った結果、臨時政府の社会主義者は四月男子選挙で大敗。フランスは一気に反動(昔に戻ること)に転じた。そしてその後大統領になったルイ・ボナパルトは1951年クーデターを起こし一年後ナポレオン三世として皇帝に即位して第二政が始まった。マルクスはこれに激怒ナポレオン三世政権とそれを支持する者共を散々に罵倒した。

資本論

を行け。後は人のるに任せよ。(資本論序文より)

資本論とはマルクス哲学政治学、経済学の集大成であり、歴史的大著である。

資本論は全三部であるがマルクスが直接書いたのは第一部のみで二部以降はマルクスの遺稿を基にして、エンゲルスが編集している。第四部になる予定だった古典派経済学批判に関する部分はエンゲルスの死後、カール・カウツキーによって「剰余価値学説史」というタイトルで出版された。聖書についで世界で二番に発行部数の多い書物としても有名。アダムスミス富論、ケインズの一般理論と共に経済学史の最も重要な一冊であり、後世に与えた影は図りしれない。

しかし、図書館などで資本論を見た事がある人なら分かると思うのだが、この資本論玉がとびでる程恐ろしく分厚い。日本語版なら出版社にもよるのだが、第一部だけで1000Pをゆうにえている。日経BPクラシックスの資本論は第一部だけで4冊に分けられており、第一部だけで1800P近い。しかも中身もドイツ人特有の婉曲的な表現や難解な哲学、さらに古典文学宗教数学統計学、衛生学に関する知識も要されるので全て読もうと思ったら数ヶ単位を覚悟しなければならないだろう。全な理解となると年単位どころか一生かかっても不可能なのかもしれない。

しかし最近は池上彰や新書で高校生にも理解できる易しい解説書が手に入れられるので、マルクス興味がある人は原著ではなくこちらを読んでみるのをオススメする。マルクスは一番最初の章が難しいことを自覚していたので、「もし難しいと思ったらとりあえず8章から読め」と書き残している(8章はイギリスの労働環境に関する章)。これに習って較的易しい8章から読むのも良いかもしれない。しかし一昔前なら「大学生ならマルクスくらい読んでおけ」と言われていた程なので、自信がある人は是非原著を読んでほしい。そして第一編の第一章の第二節あたりで読むのを諦め本棚の肥やしになるのだ。

なんで資本論はこんなに難しいの?

資本論は労働者に向けて書かれた本なのに、なんでこんなに読むのが難しいの?[1]資本論の読破にチャレンジした者ならもが一度は考える疑問である。この質問に対する答えを一言で述べるなら、「持ち(ブルジョワ)を論破するためには持ちの表現を用いる必要がある」からである。

もし資本論義務教育すら受けていない労働者でも理解できる易しい文章で書いたならば、確かに労働者にも読めるようになるかもしれない。しかし、それでは逆に本当に知らしめるべきドイツの学会では視されてしまうのだ。ブルジョワの立場からしたらしょうもない文章でいくら批判されたところで受け流すことができた。しかし資本論のようにブルジョワ側の高い教養で書かれた批判文ならばブルジョワもスルーすることは出来なかった。このマルクスの豊かな教養こそブルジョワ出身のマルクスだからこそ成し得たことであり、ブルジョワから最も恐れられたマルクスの要素であった。


  1. 資本論が出版された当初、マルクスはこの本がロシアフランス検閲を通るかどうか不安視した。しかし検閲官、意外にも資本論スルー。その理由ロシアフランスも「難しすぎて万人にはよく分からないだろうから」というものだった。

資本論って何が書かれてるの?

よく勘違いしている人がいるが、資本論は「労働者は搾取されている! 万の労働者よ、団結せよ! 革命だぁ! 共産主義だぁ!」みたいなことが書かれている本ではない。(それは共産党宣言)

では資本論とはどのようなことが書かれている本なのであろうか? 一言で表すならそれは、「資本主義の分析」である。

マルクス資本論の冒頭において資本主義を理解するのに「商品」というキーワードを用いている。これは資本主義を構成する最小単位が「商品」であるからである。物事を理解するときはまずその物の一番細かいものを分析しなければならない。例えば、生物を理解するためには細胞や遺伝子を分析する。化学を理解するなら分子や原子を学ぶのと同じようにマルクス資本主義の最小単位を「商品」と定義したのだ。

そしてマルクスはこの商品の歴史的流通過程、特別な商品である「貨幣」の誕生、そして更に特別な商品である「労働」を説明していき、最終的に搾取のメカニズムである「剰余価値」を明らかにした。

その他にもマルクスグロテスクと形容する当時の労働環境ジャーナリスティックに描くことによって資本主義の非人性や構造的矛盾を世に知らしめた。

ぶっちゃけ21世紀の今でも「資本論」って読む価値あんの?

有用であると言える。

むしろ21世紀の今だからこそ読む価値があるとすら言える。ソ連の崩壊をきっかけに地球を覆った「資本主義大勝利w」の意識は2008年リーマンショック融恐慌をきっかけに反動に転じ、世界中で(特にアメリカを初めとした先進国)では資本主義に対する懐疑論が一気に吹き出始めた

私たちの生きている資本主義という社会は一体どういうものなのか? 資本主義という社会システムは本当に正しいものなのか? あるいはそのような大きな観点でなくてもよい。なんで私の給料は上がらないの? なんであいつは持ちなのに貧乏なままなの? なぜ仕事をクビにされたの? なんであの会社は好き放題にできるの? 資本論にはそういったことの構造的な原因を解き明かしてくれる偉大な古典なのである。

歴史の教科書では産業革命時の労働者の労働環境は、を覆うほど悲惨であると述べているが、過労死や過労自殺が未だに存在する日本、そして契約社員をまるでモノの様に扱う現代日本社会はけして当時のことを笑えないのである。もちろん資本論読み解くのは大変であるが、それをえて得られる価値がこの150年前の書物には内包されている。

ただし、(これはマルクス本人も述べていることだが)資本論を読んだからといって読者経済的困難が取り除かれるという訳ではない。当たり前だ。時代の流れは、あくまで個人の意思によるものではなく社会の発展と共に生まれていくもの。つまり苦労して資本論を読んだとしても得られるのは自分の遇への理解と慰めだけであることもまた事実だ。しかし人は理由のある不安よりも、理由のない不安をより恐怖する傾向がある。たとえ知識だけであったとしてもその修得が為であるとはけして言えない。

フランスの内乱

パリコミューンの様子

マルクス率いる共産主義を標榜する団体『インターナショナル』は1970年勃発した普戦争とそれに続くフランス臨時政府とパリコミューンの内乱に関して三つの宣言を出した。その三番の宣言が『フランスの内乱』にあたる。本作と『フランスにおける階級闘争』、『ルイボナパルトのブリメール18日』と合わせてマルクスフランス三部作と称される。マルクス政治学が凝縮されている重要な作品である。

歴史的背景

1870年7月19日。ルイボナパルト(ナポレオン三世)からの宣戦布告によってフランスプロイセン(普戦争は始まった。発端はスペイン王位継承にからむ紛争であり、開戦までには複雑な経緯があった。ボナパルト政はこの戦争で勝利をおさめナポレオンと威を回復すると共にラインを手に入れる領土拡欲望もあった。プロイセンにとっては防衛戦ではあったのだが、プロイセンの有名な血宰相ビスマルクは対フランス戦争に周到な準備をしていた。世界史を習った人ならエムス電報事件とか色々覚えただろう。

戦争はあっという間にプロイセンが圧勝した。フランス侵略戦争は一転プロイセン侵略戦争に代わっていたのである。を突破されたルイボナパルトは病を押して出したがスダンの戦いで包囲され、捕虜となってしまう。敗戦の報を受けたパリでは9月4日市民が立法院に押し寄せ政の止と共和制の成立をめた。第二政の終わりと第三共和制の始まりである。そうこうしてる間にもパリにはプロイセン軍が迫っている。パリ市民土を防衛するために臨時政府を設立し防衛軍を結成した。パリ市民は覚悟を決め、プロイセンとの決戦に備えたのである。

しかし市民の望みは裏切られる。臨時政府は秘密裏にプロイセンとの休戦講和条約の締結を進めていたのである。講和条約を結ぶ為には正式な政府が必要であるためわずか10日の間に投票を行い、ティエールとする新政府がパリに設立された。新政府が講和条約を結ぶための一番邪魔な存在はパリに集まったフランス防軍であった。プロイセンからパリを守るために武装していた防軍はプロイセンではなく同じフランス人と戦うこととなる。こうしてフランスの内乱が始まった。

結論から言えば勝ったのは防軍であった。制圧に失敗した新政府のティエールパリを脱出し、プロイセンの支配するヴェルサイユへと遁走していた。これが3月18日の労働者革命である。防軍を導していた中央委員会は革命の正当性を明確にするために3月26日選挙によってコミューン評議会を選出しパリコミューンが成立。これは普通選挙によって選ばれた世界で最初の労働者による政権であった。

しかしパリコミューンは短命に終わる。プロイセンと手を組んだティエールの反撃によりコミューン政府は壊滅。革命に関わった者はそのほとんどが処刑されてしまったのである。そのあまりの虐殺ぶりは白色テロ(反共産主義、反社会主義テロ)と呼ばれた。その後、を誇っていたフランス社会主義運動空白期間を経ることとなる。

コミューンに対するマルクス

フランスは元々社会主義運動が盛んであり、1848年の2月革命もあってマルクスロンドンにいながらパリポールラファルグ(後にマルクスの次女と結婚する社会主義者)と手紙を送り合って情報を得ていた。マルクスはその手紙からプロイセンフランス戦争が不可避であることを知り、1870年7月いざ普戦争が勃発するやいなや筆を執り、4日後に『第一の宣言』を発してエンゲルスと共に反戦運動を展開した。彼らはフランスのボナパルト政治批判し、プロイセンが防衛戦争から侵略戦争へと展開したのを見てビスマルクの膨政策を暴露した。マルクスフランスプロレタリア革命への確信、しかしプロレタリア組織の未熟を見抜いていた。革命が発生した時、それを導する者がいないことを憂いていたのである。

戦争勃発の二ヶ後にナポレオン三世が捕虜となり第二政が崩壊するとマルクスは『第二の宣言』が発表し、プロイセンが迫っているのに味方同士で争う愚を説いた。そして1871年3月いよいよプロレタリア革命が勃発。革命は時期尚であると危惧していたマルクスであるが、コミューンが誕生するとすぐにその支持にまわった。コミューン戦士たちもマルクスに数通の手紙を送り、その助言をめた。マルクスはそれに応え多くのアドバイスを与えると共に、フランス西南部で人民起を起こさせるべく工作を行ったりもしていた。

しかしコミューン政府はマルクスの努にも関わらず多くのミスを犯してしまった。臨時政府に反撃する時間を与えてしまったこと。農村の農民達との連携の失敗。前述の通り1871年5月パリコミューンはわずか2ヶで崩壊。そのさめやらぬ二日後にマルクスは『第三の宣言』、すなわち『フランスの内乱』を発し、パリコミューンの分析を行ったのである。

ゴータ綱領批判

私はった。そして私の魂を救った

(ゴータ綱領批判結びの文、批判したからにはもう後は知らん、という意味)

ゴータ綱領批難はマルクスの生きている間では最後の重要著作であり、よって最も熟したマルクスの思想が覗けるという点で短いながらも数ある著作の中でも重要度が高いとされる。ただし本書はタイトルの通りゴータ綱領なるものを批判したものであり、ゴータ綱領と本書の成立過程の歴史的知識がないと正しい理解は難しい(単純に内容も容易ではないが)。

ゴータ綱領批判1875年にドイツ中部都市ゴータで開かれた社会主義者大会で、長年争ってきた二つの有社会主義政党「全ドイツ労働者協会(ラッサール)」と「社会労働者党(アイゼナハ)」が合併し「ドイツ社会主義労働者党」となるにあたって新聞に発表された綱領(活動針)に対するマルクス批判の文章である。マルクスは、間違いだらけのゴータ綱領が自分たちが関わったものであると誤解されるのを恐れたのと、この綱領が共産主義の進歩に邪魔になることを考えて厳しくこれを批判した。

共産主義は、初期は『各人がに応じて働き、労働に応じて受け取る(等の権利)』、やがて『各人がに応じて働き、必要に応じて受け取る』社会になる」という二段階発展法が出てきたのも本書。

マルクス思想の源泉

マルクス義が生み出された背景には、三つのがあるとレーニン摘する。すなわち、

  1. イギリス経済学
  2. フランス社会主義政治学)」
  3. ドイツ哲学

の三つである。マルクス批判する人はマルクス義をまるで妄想であって宗教に近いと言う。しかしレーニンに言わせればそれは逆で、むしろマルクス思想は西欧学問の最先端を結集させたものなのだ。実際当時の欧州では経済学イギリスで、社会主義フランスで、哲学ドイツで最も進んでいた。

マルクスはこの三つを見事に組み合わせることが出来たが、逆に言えば他の社会主義者は組み合わせに失敗していたのである。フランス社会主義プルードンやバクーニンは、ドイツ哲学のヘーゲル法を社会主義に応用しようと試みたが、彼らは体系的にドイツ哲学を修学していなかったので不全なものに終わっている。一方でドイツ社会主義者たちはイギリス経済学フランス社会主義を輸入した際、それをドイツ哲学の「物事を観念的に考える」という色に染めてしまい、思考遊戯に終始し、世界を変革する動きには繋がらなかった。

イギリス経済学

イギリス経済学とは、重商義と、それを批判する古典経済学者スミスリカードの流れである。

    
               アダム・スミス       デイビッド・リカード

労働価値説など、マルクス経済学はほぼこの二人のものを受け継いでいると言ってよい。マルクスは彼らの経済学批判的に継承し、発展させてマルクス経済学という独自の学問体系を生み出した。

アダム・スミスの思想、『国富論』

スミスの思想を大まかにめると、

  1. 重商義の批判市場メカニズムの提唱。
  2. 資本蓄積の分析→労働価値説の発展。

スミスの重商主義批判

そもそも重商義とは、一の政府が貿易を通じてけよう。その為に政府が導して自経済の保護をしよう、という考えである。18世紀当時のイギリスは、高い関税をかけて輸入を減らし、一方で輸出奨励を出し自の輸出を増やすなどの政策をとっていた。その為、自内で貧困に喘ぐ人民が多数いるにも関わらず王族や独占資本家金銀貨幣を沢山溜め込んでいた。

それに対しスミスは、の見えざる手[1]を通じた市場メカニズムの提唱、つまり「政府は経済の発展を阻する規制をやめて、フェアな市場を解放すべき」だとした。言い換えれば「本家を含めた民は各自が自分のけのことを考えれば、自然と最も効率の良い経済発展を起こし、ひいては人民のためになる」という経済法則を世にだしたのである。

政府の用な介入をよしとはしていないが、スミス市場自由放任義者ではなく、略奪や契約違反を防ぐ為の国家システムの重要性も強調。その他、交通、通信、教育等も政府の仕事として、経済には関わらないが、フェアな市場の維持をした「小さい政府」標とした。

スミスは、本当の富とは、に存在するお金の量ではなくて、消費できる生産物の量にあるとした。それに従えば、重商義的な政策では民はの豊かさを得られないということになる。いくらお金を持っていても、それを使えなければ人は幸せになれないのだ。


  1. スミスに関して有名な「の見えざる手」であるが、スミスはこの言葉を富論と感情論でそれぞれ一度ずつしか用いておらず、しかも原文では「の(of the GOD)」というはなく「見えざる手」となっている。なぜ「の」がついたのかは色々説がある。
生産性をあげる為には何をすべきか?

スミスは、消費できる生産物の量を増やす為には「分業」が必要であるとした。

例えば、一人で安全ピンを生産しようと思っても一日20本が限界だろう。しかし10人で安全ピンを作った場合は200本どころか48000本作れてしまった。一人あたり4800本である。

スミスの生きたイギリスはまだまだ手工業の時代だったので、特にこのような分業が効果を発揮した。この理屈で言えば、関税などで貿易を制限することは分業を妨げる行為にあたる。では分業を進めるためにはどうすべきか。

スミスは分業を進めるためには「資本の蓄積」が重要であると述べる。資本の蓄積とは、お金を使って材料や具や機械を新しく買って市場規模を大きくすることだ。

資本の蓄積をするためには、持ちはメイドを雇うみたいな「不生産的労働」を止めて、お金をその分を生産的なもの(生産的労働)に使うべきなのだ。スミスは、そうすることによって資本蓄積が進むと考えた。

スミスの労働価値説

スミスは、物の価値とはそれが作られる時に費やされた労働量によって決まるという労働価値説の基礎を発展させた。経済学において、モノの価値がどのようにして決まるかはそれだけで一つの学問になってしまうほど難しい問題である。

スミスの時代には重商義者によって「モノの価値は貨幣によって決まる」とされた。しかしながら、貨幣によって価値が決まると言っても、貨幣自体の値打ちもコロコロ変わるものである。悪鋳貨幣やインフレによって値段が倍になったからといって商品の価値が倍になる訳ではないのだ。

その他に「そのモノがどれほどのモノと交換できるか?」で価値が決まる交換価値説。「そのモノがどれだけ使えるか、便利か、で価値が決まる」使用価値説などというものがあるが、スミスはこれらを「ダイヤモンドパラドクス」と呼ばれる理論で批判した。

このパラドクスというのは、ダイヤモンドは沢山の食べ物と交換することができる。しかしそれ自体はキラキラるだけの石ころである。は全ての生物にとって大変重要なものであるが、だけでお店の商品を買うことは難しい。つまり交換価値と使用価値は矛盾してしまう。これが「ダイヤモンドパラドクス」である。

これを踏まえて、スミスは「モノの価値はそれに対して投下された労働量で決まる」という労働価値説を提唱する。

例えば、小麦を買おうと思ったら、その小麦を収穫する為に農家の人が働いた分だけ、自分も働いて得た何かを相手に渡す必要があるのだ。

かしこれだけでは単に等価交換をしているだけに過ぎない。世の中が発展すると、労働量だけでなく利潤や地代もかかってくる。よって、モノの価値(価格)というのは最終的に「労働量(賃)+利潤+地代」で決定される。これをスミスは「自然価格」と呼んだ。

この自然価格というのは必ずしも市場価格とは一致しない。しかし自然価格より市場価格のほうが高ければ、その商品を作ることによってけがでるため生産が増えて市場価格は下がる。自然価格より市場価格の方が安ければ、その商品を作る業者が減って市場価格が上がる。すなわち「自然価格は市場価格を引き寄せるを持っている」と言える。

スミスの労働価値説には二種類の観点が混在する。

  1. 投下労働説。その商品を作る時に費やした労働の総量。
  2. 支配労働説。その商品によって買える(支配出来る)他人の労働の総量。

(この分け方は間違っていると後にリカード批判される)

この労働価値説は、同じ古典リカードマルクスによって更に深められ、古典派経済学の根幹をなした。


リカードの経済思想、『経済学および課税の原理』

リカードの代表理論は「労働価値説」、「差額地代論」、「較生産費説」と言われる。

リカードにとっての経済学とは「世の中の資分配がどのように行われるものなのか?」を分析するものであった。労働者は労働を売って賃を貰う。資本家は資本を提供して利潤を貰う。地は土地を提供して地代を貰う。アダムスミスはこのように、今日で言う所の民所得がこのように賃、利潤、地代に分配されることを示したが、実際にどのように分配されるかまでは明らかにしなかった。リカードスミスのやり残した、利潤地代がどうやって決まるかの法則、原理を研究したのである。

労働価値説

リカードスミスの労働価値説、すなわち「物の価値はそれを作るのに費やした労働の量で決まる」という労働価値説を更に発展させた。

リカードは、商品の価値はその生産に必要な相対的労働量に依存するのであって、その労働に対して支払われる対価の代償に依存するのではないとし、投下労働価値説を取る。リカードスミスの考えを受け継ぎ、自然価格と市場価格を区別して、賃に関しても市場価値と自然価値があると考えた(自然価値に関してはアダムスミスの項を参照)。

自然価値は、その労働を生産するのに最低限必要な費用である生存費(労働者が命を繋ぐために最低限必要なお金)であるとリカードは述べる。もし賃生存費以上に高くなった場合、労働者は子を産み労働市場に労働者が供給され、需給バランスを取るために賃は下がり、結局賃は労働者の生存費まで下がってしまう。

こうしたメカニズムのために、労働者の賃は長期的には必ず生存費に一致する。この法則は後に賃則と呼ばれた。

差額地代論

リカードは「地代がなぜ発生するのか?」また「地代はどのように決定されるのか?」という議論においても貢献した。

リカードは土地の質(肥沃さ、立地など)の差によって地代は発生すると言う。土地はそれぞれどれだけ農産物を産む事ができるかに差がある。しかし、市場では良い土地から作った物も、悪い土地から作った物も商品自体の質が同じであるならば同じ価格で取引される(一物一価の法則)。こうして元々肥沃な、あるいは立地のよい土地の地は、安い費用で悪い土地の農産物と同じ利益を得る事が出来る。これが差額地代である。

リカードは後の経済学の重要な分析ツールとなった、収穫逓減の法則(費用逓増法則)を用いて地代の発生と決定のメカニズムを説明したのである。

逓減とは段々減っていくという意味。逓増はその逆で、段々増えていくということだ。収穫逓減の法則とは、農作物の生産を増やすにつれて、同じ費用(コスト)を投入しても得られるの収穫物が減っていく(収穫が逓減する)という法則。これは別の面から見ると、一つの農作物を得るのに必要な費用(コスト)は増えていく(費用が逓増する)ことを意味する。

社会の人口と資本が増加することによって、より劣悪な土地が使用されるようになると収穫は逓減し、穀物の価格が上がる。穀物価格が上がれば、人々の生存費が上がる。生存費が上がると賃は上がる(賃生存費なので)。賃が上がり、また地代が上がると次の式から利潤は減っていく。

利潤=生産物の価値−賃−地代

このような考えから、リカードは利潤率は自然法則として減っていく傾向があると推論した。利潤率が下がれば経済の発展は止まり、不気になる。この閉塞を防ぐためにリカード際貿易を行い、穀物価格の高いが安いから穀物を輸入することによって、賃の上昇を防ぐ事が重要と述べた。リカードは穀物論争を通じて、競争原理を際的に拡することこそ、利潤率低下を防ぎ、気を良くする方法だとする。

比較生産費説

貿易を自由化して安い穀物を輸入すれば穀物の価格が下がる。穀物の価格が下がれば地階級には地代が下がるので不利であるが、一方の産業資本家階級には、地代と賃が下がることによって、利潤が増えるから有利であり、ひいては富(民所得)が増えるので、当時議論されていた穀物法のように自由貿易を妨げる政府の介入はすべきでないとリカードは言う。


もちろんこの二人だけでなく、人口論を著したマルサスや、功利義を掲げたベンサムJ・S・ミルなど広く古典派経済学マルクスは学んで批判的に研究に取り入れている。

     

    トマス・ロバート・マルサス   ジュレミーベンサム  ジョン・スチュワート・ミル

マルサスの経済理論、『人口論』

1798年にマルサス匿名で出版した人口論は、その余りのショッキングな内容に大変な反と反発を引き起こした。マルサスは人間には「生きるためには食べることが必要」「生活に余裕があれば生殖を行う」という2つの普遍的原理があるといい、その上で人口と食料生産に関して、以下のように考察した。

人口は幾何級的に増える。つまり1、2、4、8、16、3264、〜と増える。

食料生産は算術的に増える。 つまり1、2、3、4、5、6、7、8、〜と増える。

ここまで見れば何が起こるかはにでも予想が出来る。すなわち、

  1. 食料不足によって沢山の人が餓死する。
  2. 環境が劣悪になって、疫病が流行し、沢山の人が病死する。
  3. 食の奪い合いにより戦争が起こり、沢山の人が戦死する。

これだけでもかなり衝撃的な内容である。当時の反発も凄まじかったのも頷ける。

その為マルサスは、第二版で「人口が増えれば、それにつれて子供を作ろうとする者が少なくなる。よって人口増加のダメージは減る」という徳抑制論を唱え、を柔らかくした。

しかし、深く考えていくとこの徳抑制論は厳しい倫理的問題を抱えていることが分かる。

食料が不足していくにつれて、上記の3つのような問題が起きるのは明らかであるが、実際にそれらの問題は社会全体を等に与えられるのではなく、貧困層を中心に苦しめる。

徳抑制論では「それ故に貧困層は子づくりを控える」という理屈を唱えているが、ならば政府が貧困層に銭的支援をすることは間違っているということになってしまう。なぜならば、もし政府が貧困層にお金を渡してしまえば彼らは生活に余裕ができて子供を作ってしまうからだ。

例えば日本アフリカに募をしたとする。そうなるとそのはそのお金や食料を買う事によって、餓死者や病死者を減らすことができるが、しかしそれは同時にえた人口を抱える事を意味する。過剰人口は上述した問題を誘発し、結果的として貧困は解決しない。アフリカ貧困を解決するには結局は住民たち自身で人口調整をしつつ徐々に発展していくしかない。

この論理は今日でも、安易な食料援助、経済援助は駄だと言うを支えている。

J・S・ミルの経済思想『経済学原理』

ミル著「政治経済学原理」は理論編と政策編から構成され、理論編は静態論と動態論に分かれ、静態論がさらに生産・分配・交換の3部門に分かれている。静態とは時間軸を視した経済分析すること。動態とは逆に経済分析に時間軸を導入する方法論である。このようにミル経済学を体系化し、後の経済学の原理の基本を作った。

賃金基金説

ミルの代表理論といえばまずこの賃説である。賃説とは、簡単にいえば「賃準はその時代における賃を労働者数で割った値に決まる」という説である。賃とは資本のうちで賃に当てられる部分の総量のことである。この説を数式を用いて表すと以下のようになる。均賃をw、賃をK、労働者数をLとすると。

w=K/L − ①

ミルの賃説は当時から「賃などという一定のものは存在しない」という批判を受ける事になった。確かに「賃に割り当てられる資本の量は時間によって変わる」という批判は有効だろう。そこでミルは①の式を動態的な形に変化、つまり時間経過による変化率に着して、式を以下のように発展させた。

wの増加率 ≒ Kの増加率 − Lの増加率 − ②

気をつけるポイントは、①の式では割り算だった式が②では引き算になっていることだろう。これはもう数学の話になってしまうのだが、とりあえずここでは割り算は増加率にすると引き算になるとだけチェックしておこう。(一応下に解説を置いておく)[1]

の想定のもう一つの問題点は、資本は労働者を雇用して賃に支払われる部分と機械設備などに回される部分との率も一定でないことである。労働者でなく機械に回される資本の率が高くなっていけば必然的に雇用も減る。機械が労働者から仕事を奪ってしまう。この二点は当時から摘されていた賃説の論点といえる。

ミルは労働者階級に対して同情的であり、賃生存費に収斂する(一致する)というリカードの説から労働者を救うために、二つのを提示した。一つは労働者階級による精的教養の増加、及び婦人の独立と共に生じる人口の調節である。ミルは、労働者階級の教育準を高め、また婦人の地位が高くなれば人口の増加は抑制されると考えた。人口が抑制されれば労働者の数も減り、労働者需要は増え、賃も高まるという寸法である。もう一つのは労働者自身が組織する協同組合を作る事であった。

静態経済と生活の質

ミルは人間の欲望がどんどん膨らんで経済的に発展することよりも、経済が静止(停滞)する状態の方がより価値のあるものをめる機会を得られると考えた。

ある一定の富を蓄積する(一財産築く)ためには、人間はたくさん労働をしなければいけないが、資本蓄積が進むと利潤率の低下のためもあって経済は停滞(静止的になる)する。しかし十分生きていけるだけの富を確保した後は、人々は高給で働くことよりも自由レジャーを愉しむ時間を望み、生活の質の向上をめることになるとした。ミル自然環境保護問題にも興味を持ち、経済の発展に伴った自然破壊はけっして人類に満足をもたらさないだろうとする。

だが、実際にはミルの予想ははずれ、経済は静止することはなかった。利潤率がどれだけ下がろうが、経済成長がどれだけ止まろうが、経済そのものは決して動きを止めなかった。そんな中に資本主義批判する二つの潮流が生まれた。一つはマルクス共産主義である。マルクスは、資本主義が行き詰まりながらも止まることのない経済の動きは最終的に社会主義にいきつくと予想した。もう一つは社会良思想・労働組合運動の発展である。その思想と運動は後に社会民主主義へと成長していった。また古典派経済学自体も限界革命と呼ばれる新しい分析方法を見つけることによって近代数学との合流を果たし、新古典派経済学へと生まれ変わっていった。

ミルの社会改革論

ミルスミスリカードのように経済を絶対的自然法則として捉えず、経済政策によって社会革することが出来ると考えていた。リカードの言う通り、経済自然法則によって地に分配が多く行くとしても、そこから政府の手による再分配を行うことによって社会の幸福度を上げるという考えを彼は持っていた。

ミルの分配論は功利の立場から生産と分配の二分法をとった。すなわち、生産は市場に任せて、分配は政府の仕事、ということである。競争と再分配の両立だ。この思想は政府の仕事を重視する点で、自由義者とは趣が異なり、後の福祉国家の原となった。これを現実義的経済思想とか折衷的資本主義と呼ぶ。

具体的には「政治経済学原理」の中で、相続税と累進課税の可性を示唆したこと、労働者の協同組合(アソシエーション)を支持したこと、労働時間の法律的制限を示した事などがある。

ベンサムの功利義、いわゆる最大多数の最大幸福から出発したミルであるが、彼はベンサムを更にえ、資本主義の大前提となる私的所有の革にまで着手していった。これは明らか社会主義の分野に属するものである。ミルは当時のフランスの著名な社会主義者サン=シモンらと、妻であるハリエッタの社会革思想から影を受け、これらの経済思想に到達したのであった。


J・S・ミルの社会思想、『自由論』

もう一つの代表作『自由論』は近代の自由の概念を定式化し、日本にも『自由の理』というタイトルで輸入され、日本自由義の礎となった。

ミル自由論は一言に集約される。それは、

他人に迷惑をかけない限り、何をやっても良い」である。

ミルによれば、どんなに馬鹿げたことであっても、それは許容されなければならない。方がどれだけ別の人を馬鹿だと思っても、方が直接的に迷惑をかけられていない限り、その人を止める権利はない。方にあるのはその人と付き合うのを止める権利だけである。

ミルはその理由を3つの論で説明した。

  1. 社会によって間違いとされることでも、実は真実であったということは多々ある。
  2. 仮に間違っている事でも、その中に正しいことが一部入っている可性があるし、大抵の場合入っている。
  3. 間違っている事を全て排除していると、人々が正しいことを認知することがなくなり、段々と形骸化していってしまう。よって間違いを許し、生き生きとした議論をすることによって正しさを再認識する必要がある。

フランス社会主義

当時のフランス社会主義には大きく分けて二つある。

      
フランソワノエルバブーフ  アンリ・ド・サン=シモン  ルイ・オーギュスト・ブランキ
     
      シャルルフーリエ   ピエールジョセフプルードン  ミハイル・バクーニン

マルクスは基本的には後者のアソシエーションビジョンを引き継いでいたが、革命時の過渡期の手段として前者の有化の考えを取り入れていた。すなわち、働く者自身が自治する事業体を身近な所で作れる社会を理想とするが(アソシエーション)、部分的にそれを成し遂げようとしても失敗するので一時的に労働者が革命で政権を握り産業を有化する手法(営化)を提案する。このような革命過渡期の政権のことをプロレタリア独裁政権と呼ぶ。

そして革命政権が資本主義経済協同組合的な経済に作り替えていくにつれて、国家の経営もだんだんと現場の自治や当事者同士の調整に委ねられていく。そうなればやがて国家は政府ともども不要になっていき消え去る。そこに残るのは人間が搾取されることなく生きることのできるアソシエーションのみである。

ドイツ哲学

ドイツは伝統的に観念的思想が発達していた。その中でも特にマルクスに影を与えたのは、

のヘーゲル思想の潮流である。『疎外論』や『弁法』など、マルクス思想の哲学的基礎は、この2人の思想を批判的に継承することによって生み出された。

 
 
      
  ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル  ルートヴィッヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ

観念論のヘーゲル物論のフォイエルバッハ、そしてマルクスは最初観念論のちに物論と続いているのがポイント。流れとしては、ヘーゲルの観念論的思想をフォイエルバッハが物論的に継承し、その後マルクスがフォイエルバッハの残していた観念論的部分を消し去り物論を徹底することにより、マルクス独自の史的物論(物論的弁法)が誕生した。ヘーゲルの観念論をマルクス物論として継承したことを、『逆立ち』と呼ぶ。

疎外論に関してもマルクスはヘーゲルとフォイエルバッハから用を用いている。ヘーゲル哲学は到底ここで説明できないほど複雑な哲学大系であるが、簡単に言えば「人間の理性」というものを重視した思想である。ヘーゲル哲学が「観念論」とも呼ばれるのは、このようにヘーゲルが人間の精理性。この観念論はマルクス物論とは対極の思想になる。ヘーゲル哲学において、人類が皆持っている理性が徐々に普遍的になっていく。この普遍的理性は身分や民族、時代すらえてみんなに当てはまり発展していくもののことだが、その精的存在である理性が物質として現実に生み出される時に色々と現実界の物質的な制約を受けて、理性通りには実現できなくて矛盾した姿に曲される。これをヘーゲルは「疎外」と呼んだ。しかしヘーゲルは同時に、長期的には疎外を理性が貫かれるとする。

これをっ向から批判したのがフォイエルバッハである。彼は理性ではなく一人一人の生身の人間、つまり個人の「感性」が本当に大事なものだとした。この「感性」というのも私たちが普段使ってる感性とは少し意味が異なる哲学であるが、本欲求、身体、暮らしの事情のようなニュアンスのものと考えてよい。

更にフォイエルバッハはヘーゲルの用いた「疎外」を全く別の意味で用いた。「理性」というのは、本来はそれぞれの人間の「感性」を満たすための手段に過ぎない。にも関わらず「理性」は生身の人間を離れて一人歩きを始め、それ自体が的みたいになって、人間の「感性」を殺してしまう。

マルクスの理論ではこの二人の「理性」の箇所が「お金」や「資本主義」、「労働」というもので置き換えられて述べられている[1]。本来人間にとって有益なシステムであるはずの「お金」や「資本主義」や「労働」が実際に施行してみると、恐慌や失業などのマイナスの要素も生み出してしまう。(ヘーゲル的疎外)

そしてやがてそれらは人間の手を離れ一人歩きを始める。その結果、労働者は搾取され、機械の導入により伝統技や職人文化が破壊されていくのだ。(フォイエルバッハ的疎外)


  1. その後20世紀後半に、フランス哲学アルチュセールによって「本当にマルクスはヘーゲルの手法を経済に当てはめただけかどうか?」という問題提起がなされ、以後大きな論争が生まれている。

フォイエルバッハの『キリスト教の本質』

キリスト教本質』はフォイエルバッハによるキリスト教批判論だ。

本書の内容を一言でいえば「人間は自らの姿に似せてを作った」ということになる。フォイエルバッハはこの本を通じて「とは人間の自己意識であり、また学とは人間学である」ということをし、その前提を踏まえた上で、キリスト教徒の人間解放の模索を行う。

本書の内容を吟味する前に「そもそも宗教批判するとはどういうことか?」ということを私たちは考えなければいけない。宗教というものが人間のそれぞれの価値観に基づく純な信仰心であるならば、それを批判することはナンセンスであるだろう。結論からいえばフォイエルバッハが批判の対にしたのは(マルクスもそうだが)、正確には宗教ではなく、宗教を学問的に扱う学であった。

フォイエルバッハのこれ以前の著作『哲学キリスト教について』によると、宗教哲学は人間の内にある二つの精活動に基づいている。哲学の土台は「思考」であり、宗教の土台は「心情」と「想」である。このように宗教哲学根本からして違うものなのだ。よって哲学に対して、「その哲学聖書と違う」などという宗教的観点からの批判は筋違いであるし、逆に哲学宗教に対して批判を挑むこともない。だが学となれば話は別である。

学は宗教的な事を学問的な「知性の法則」あるいは「真理」としてする。純な信仰心のえて、理性の領域に侵入してきた宗教学は哲学と矛を交えるには十分すぎるものだ。フォイエルバッハは宗教的な「」と、学的な「」を区別し、後者をむしろ「不信仰」であると批判する。そんなフォイエルバッハのキリスト教批判を体系的にまとめたのが本著『キリスト教本質』である。

上述した通り『キリスト教本質』の本旨は「とは人間である」ということだが、これを専門用を用いて「とは類概念であり、しかも人間の類概念である」と言い換えてみよう。ここで一つ重要かつ難解な「類」という概念がでてくる。この「類」という哲学はフォイエルバッハがヘーゲルから拝借した概念であり、彼の著作読解のための重要句になる。

「類」というのは、集団の中で、自分の持つ自我と区別された、私の外に存在する諸集団。例えば人間の類とは、自分以外の人類という集団と、その本質のことである。この「類」は「個」とは対称の概念であり、それぞれが個性を持つ「個」とは逆に「類」は集団の普遍的かつ本質的性質を持つ事になる。例えば、私たち一人一人はそれぞれが「個」であり、それぞれの性格や特性は普遍的とは言いがたい。一方で人間の「類」は、人類の普遍的な本質なのである

キリスト教本質』の緒論は「人間の本質一般」と「宗教本質一般」という二つの章から成り立っている。まずは「人間の本質一般」から見ていこう。

人間の本質一般

まずフォイエルバッハは「人間とは一体なにか」という問題に着手する。これは人間の本質。つまり人間と動物を区別する要素はなにかという問いかけだ。通常、それは「意識」とされているが、単に意識のみでは、意識のうちに自分の存在を認める「自己感」とか、さまざまなものを感知して区別する「感覚的識別」も含めることになってしまう。動物だって「自分」の存在は知っているし、ABが違うものであると判断する感覚を持っている。よって人間と動物の区別には「意識」というものを更に限定しなければならない。

フォイエルバッハによれば、人間と動物を区別する意識とは「類を対とする意識」である。動物は自分を対とする自己感を持つが、自分の所属する類を「類」として対することはできない。例えば、一頭のは、自分を他のと区別して認識することはできるが、自分がという「類」であることは理解できない。動物はそれぞれの個で完結した「一重の生活」を送るが、人間は自らの「類」に関わる「内的生活」と、自分という「個」に関わる「外的生活」の「二重の生活」を送っているのだ。フォイエルバッハはこのようにまず、人間が自らの類を対とすることができる「類的存在」であることを強調する。

人間が意識の対とする「類」は、「理性」と「意思」と「心情」で構成されている。個々の人間は、人間の「類」するこの三位一体に与ることによって、はじめて人間として存在するのである。ここで、人間の「類」としての「理性」、「意思」、「心情」は全であり、限であることを摘したい。それぞれの人間個人は有限な存在であることはでも知っている。だがそれは人間が「類」の限性を知っているからこそ、逆に個人の有限性を認識できるのである。例えば「心情」の一種である「」を見てみても、1人の人間の「」は有限であるが、類のしての「」は限なのだ。

更にフォイエルバッハは人間に対してもう一つの規定を与える。それは「人間は自らが対とするものにおいて、自分自身を意識する」という規定である。人間は、意識の対とするものの中に自分自身を見つけ出すのだ。しかし逆にいえば自分の本質の中にないものを意識の対とすることはない、ということになる。したがって、例えば方が「限」というものを認識するときは、自らの思考の限性を確しているのである。故に人間が「」というものを考えるとき、それは「」を人間の類的本質として捉えていることに他ならないのである。

宗教の本質一般

次にフォイエルバッハは「宗教本質とは一体どういうものか?」というテーマを考える。しかしこの質問の答えは既に何度も繰り返している。「宗教本質とは人間」なのだ。そもそも宗教が信仰する「」というのは物質的に感知できるものではなく、人間の内面に存在する概念である。それゆえに「」はより人間の本質に近く、意識の対になりやすい存在といえる。

前項に述べたように、人間は自らの意識の対を通じて自分が何であるかを意識する。すると、ここにも「とは人間のことである」という命題が表れる。人間は自分の中にあるを意識し、その中に人間の本質を見いだすのである。にも関わらず、学者たちはこのことを自覚していない。その原因は、学者に限らず普通の人間は、自分の本質を自分の中に見いだす時には、それを自分の外に置いてしまうからである。言い換えれば、人間固有の本質は、まず何か別の物の本質として対になるということだ。例えば生まれたての赤ちゃんは、自らも人間ではあるのだが、人間というものを意識するときは周りの大人の中にそれを見いだす。そういう意味で宗教というのは人間の幼児的な本質なのである。しかし赤ちゃんが成長するにつれて自らの人間本質を意識するようになるように、宗教歴史的発展を経てとして外部におかれた人間本質を自らの中に回収し、自己認識を一段と深めていくと考えることもできる。

とはいえ宗教宗教である限り、として崇め奉られる人間本質は外部に置かれることになる。人間本質を自らの外に置きとする行為は、偶像崇拝と言える。キリスト教を筆頭に、どの宗教も前時代の宗教を偶像崇拝であると批難するが、フォイエルバッハによれば、どれだけ時代が発展したとしてもそれが宗教である限り、偶像崇拝から逃れることはできない。人間の本質をそれとは区別してとして外部に置いて偶像として崇拝し、それを人間と対立させる。それこそが宗教本質であるからだ。だが学者はこの真実からを逸らす。ゆえにこれを暴くのが哲学者の使命となる。

フォイエルバッハは以上の考察を踏まえて、「本質は人間の本質である」と繰り返す。この規定からすれば、的なものと人間的なものの対立は幻想であり、実際にはそれは「類」としての人間の本質と、「個」としての人間の対立に他ならず、宗教の対と問題は人間的なものに過ぎないということになる。ところで、何故人間は自分の本質を外に置いてそれを崇拝するのか。それは「類」としての人間本質限であるのに対して、自分という「個」が有限なものであるからだ。「類」の限への憧れが宗教であり、自らの本質を「個」と「類」に分裂させる。この意味で、宗教は人間の自己分裂なのである。

宗教とは、個としての人間が自分の外に類的本質を偶像としてに仕立て上げこれを崇めることである。このことからフォイエルバッハは、宗教のもう一つの本質を発見する。それは「人間の外に置かれたが、その本質の上で人間的であればあるほど、の人間性は否定される」ということである。ある本質がその外部に置かれ、戻る事なく元の本質と対立することを「疎外」という。つまり、が人間的であればあるほど、人間はますます自らの人間性を疎外するのだ。

人間はを富ませるために自分は貧しくならねばならず、が万であるためには、人間は無能でなければならない。なぜならば人間が自分の中から取り去ったものはの中で保存されるからである。人間は自らの人間性を切り売りしてに与える。これは逆の視点から見れば、が人間から人間性を奪っているということに他ならない。ここからまた宗教は人間に対して二面的な性格を持つことになる。それは一面においては人間の類的本質のうちに保存するという点で人間的な本質を持ち、多面においては個々の人間から類的存在を疎外させるという意味で非人間的な本質を持つ。

フォイエルバッハが批判の対としたのは後者宗教の非人間的本質であった。すなわちキリスト教の非人間的側面を批判することによって、フォイエルバッハは人間の解放をしたのである。

以上の序文に続く本論ではこの宗教の二面性に応じて「人間の本質との一致における宗教」と「人間の本質との矛盾における宗教」の二部構成になっている。一部では、キリスト教矛盾を暴きながらも肯定的な態度を示し、二部は否定的な叙述がなされている。以下ではその中の議論のいくつかを紹介する。

本論

本質はまず知性にある。の知性は限であり、は全知全。しかし序論において本質は人間の類的本質であることが明された。実は人間の類的本質こそが限かつ全知全だったのだ。もちろん個々人の理性は有限である。しかし類としての理性限である。

更に、徳的にも全な存在である。よっては人間自身の良心として、人間に対して裁きを与える。その一方で慈悲深く人間を許す事もある。これも同様に、人間の類的本質徳的に全であることを示している。というのは人間のなのである。中には「人間のに遠く及ばない」という人もいるかもしれない。しかし、その人は「個」と「類」の区別ができていないのだ。すなわち個々の人間のは有限にしてには及ばずとも、類としての人間の限であり真実なのである。

ところでフォイエルバッハによれば人間が人を愛することは、他人と感情を共にする同情という行為である。人間はその生身のと身体のうちに苦しみを知らなければ他人の苦しみは理解できない。となれば、もしも身体も持たない知性のみの存在であるは、人間を愛することができないということになってしまう。が人間をするためには受し、自らも苦痛を知らなければならない。つまりこれこそがイエス=キリストの誕生の秘密であるのだ。

最初に述べたように人間の類的本質の三要素は「知性」「意思」「心情」である。「知性」と「意思」のみの存在であったイエスとなり地上に降り立つことによって「心情」をも備え、更に人間に近づいたのだ。こうしての中で「知性」と「意思」と「心情」が三位一体に統一される。

だがこの三位一体は単に孤独な個人において「理性」と「意思」と「心情」が統一されているわけではない。そこには複数の人間の統一。キリスト教的にいうところの「私との統一」によって成立することをも示している。ここでは「私」=「個」、「」=「類」と置き換えてみよう。が孤独な存在であるのなら、人間の「私と(個と類)の統一」を満足させることはできない。そこでは自らの中に自己とは異なった第二の位格[1]を措定[2]する。すなわちとしての(第一位格)と子としての(第二位格)の統一である。そして更にそこに第三位格である精霊までも加わっていく。三位一体とは実は、人間の子関係に見られるの共同体を宗教的に表現したにすぎないとフォイエルバッハは言う。となれば、三位一体への信仰と共に、なぜマリア信仰が登場したかも説明がつくはずである。であり子であるのなら、もまたなものであるのは当然である。このようにフォイエルバッハはキリスト教の規定が実は人間の規定あることを明らかにする。

またフォイエルバッハによれば、キリスト教は現世における人間の生活を不可能にする。それはなぜかというと、フォイエルバッハは、まずキリスト教とそれ以前の古代の異教徒の違いに注する。例えばキリスト教以前のギリシア人は、人間を常に宇宙自然との繋がりの中で捉えていた。つまり彼らは自分の観性を世界の直観[3]によって制限していたのだ。しかしキリスト教が広まると人間は宇宙自然から自分を切り離し、もっぱら自分に意識を集中させた。キリスト教徒は、観性に対立する自然を否定することによってのみ、自らの永遠な観的生活を確保できると考えているのである。よってキリスト教徒は自由を尊重するが、しかしフォイエルバッハに言わせればこの自由自由でなく、実は心情や想の自由にすぎない。人間は自然との繋がりの中でしか生きていくことはできないにも関わらず、キリスト教徒は想のうちで自分が自然から自由であると考えている。それはいわば「想の昇天」なのである。

異教徒はまた、人間を常に類や共同体の視点のもとで捉えていた。彼らは死すべき者としての「個」を共同体から区別し、「個」を全体(類)に従属させた。一方でキリスト教徒は、「類」を軽視し、「個」としての人間だけを尊重する。キリスト教では「類」と「個」の関係が逆転してしまったのである。しかしいくらキリシタンが「個」としての自分を「類」と見なしたところで、「類」と「個」の区別は厳然として存在する。「個」の知理性も有限だが、「類」の知理性限であるからだ。ある時代の人間にとっては不可能なことでも、数年先の人間ならば可になることもある。個人はそこでイヤでも自分が制限されているという感情を持つ。それはとてつもない苦痛だろう。そしてその苦痛から逃れるために、限の存在を直観し、補する。この限の存在こそがキリスト教におけるなのである。

こうしてキリスト教徒は、によって個としての自己の不全さを補い、自己を充足させる。しかし、この充足はどこまでも心情の上での充足であり、想である。キリスト教徒は自らのうちにを持つ。しかしその反面に「」すなわち、他人や自然といった「類」を必要としなくなってしまう。キリスト教徒にとって物的な標は棄すべきものなのだ。ここで「なぜキリスト教が人間の真実の生活を不可能にするか」の答えがでた。真実の生活を送るためには「類」とした統一。すなわち他人や自然との協が必要なのだ。しかしキリスト教徒は「類」をに与え、自らは「類」を軽んじている。これでは現世の生活が幸福であるとは言いがたい。個人の人間は元々制限された有限にして不全な存在である。そんな「個」が「類」として限になるためには、複数の「個人」が強しあい、お互いに相手の不全さを補うしかない。ここにこそ人間の真実な生活が存在する。に人間的な生活を送る事ができるのは、「類」とした人間全体だけなのだ。

フォイエルバッハはこうした観点から、キリスト教における信仰と矛盾についても摘する。宗教本質と人間の一致にあったが、キリスト教徒は、と人間の別離をしている。だが、とは相手との同一化を図る行為であるのだから、相手()と別離をす信仰とは矛盾することになってしまう。上に述べたようにキリスト教徒は自らの内にあるに充足をめ、「類」の代表者である他人によって補おうとしない。に対する信仰が深まれば深まるほど、人間と人間は引き離されてしまうのである。信仰はまた「本質的に党的」であり、自分たちのグループに属さない異教徒を排斥する。信仰は敵と味方をはっきりと区別する。一方では非党的であり、したがって自然、信仰と矛盾してしまうのだ。もしキリスト教徒だけに向けられるのであれば、そんなものはもう隣人でもなんでもない。

したがって、現世における人間の真実の生活を得るためには、疎外され、キリストに与えてしまった全人類的な普遍のを人間の手に取り戻すことが肝要になる。「人間がから人間を取り戻す」というテーマは理論の話ではなく、より実践的な人間革の問題であった。フォイエルバッハは、キリスト教によって奪われた、人間のの回復を強調するのである。そしてその行為はキリスト教への攻撃ではなく、キリスト教をより高みへ登らせることであると彼は確信していた。


[1]位格。ペルソナが持つ、と子と精霊という三つの存在様式のこと。第一位格はである、第二位格は子である(キリスト)、第三位格は精霊であるす。

[2]措定。ある命題を、自明なものあるいは任意の仮定として、推理によらないで直接的に肯定しすること。

[3]直観。推理によらず、直接的・間的に、物事の本質をとらえること。第六感で物事を判断する意味の「直”感”」ではない。

フォイエルバッハの『哲学改革のための暫定的提題』『将来哲学の根本命題』

哲学革のための暫定的提題』と『将来哲学根本命題』はルートヴィッヒ・フォイエルバッハの哲学革、キリスト教批判の論文である。

フォイエルバッハは『哲学革の必要性』の中で「人類はいまこれまでとは全く違った時代に差し掛かっている」とのべ、哲学革の必要性を論じている。新しい時代にめられる哲学は、これまでの時代にめられる哲学とは異なるものだと彼は考えたのである。そこで、旧来の(というかヘーゲルの)「哲学のための哲学」から、新時代の「人間が必要とする哲学」への哲学革を試みたのが今回の二つの論文である。

哲学革のためにフォイエルバッハが着手したのは、近世まで哲学と密接に関わっていたキリスト教の否定であった。近世における学、宗教哲学は区別が区別できないほど近似していた。その中でキリスト教を否定しようとする哲学があっても、それは内容的にはキリストの教えと繋がりを保ち、継承する側面を持ってしまっていた。しかしフォイエルバッハの想定する新しい哲学は、キリスト教全に手を切り、更にはキリスト教に取って代わることすら自らの義務と課していた。哲学は、キリスト教がこれまでの哲学に対して優れていた長所を取り入れ調和し、哲学のまま宗教にもならなければいけないのである。

人類が必要とする新しい哲学は当然、「人間」を中心とする。しかしその「人間」はキリスト教徒が言うところの「上と地上の分裂で生きているような抽物」ではなく、「現実的な国家の中で生きる物質的」な人間である。新しい哲学上の楽園ではなく、地上の国家を重視するのである。おそらくその国家共和制[1]国家になるだろう。教皇も国王普通の人と何ら変わることのない人間であるのだから、国家の元首は民の中から民的に選ぶことは当然である。

哲学改革のための暫定的提題

近世の宗教の課題は「現実化と人間化」にあった、と『根本命題』の中でフォイエルバッハは言う。遠く離れた彼岸に住むさまを、私たちが住む地上の1人の人間として見なす行為は初めて実践的に遂行したのはプロスタントである。プロスタントにとってとはイエス・キリストであった。知っての通り、現実的にはイエス・キリストは一人の普通の人間である。プロスタントはこのキリストという人間を、人間として信仰するという意味で、の人間化には成功していた。
プロスタントは、がそれ自体なんであるかを特に問題としない。しかし、プロスタント宗教的な実践の上で視するだけで、理論の上ではを依然として存続させてしまった。その理論上のというのはプロレスタントにとっては彼岸的、つまり現実世界から遠く離れた場所におわす天国的な存在であった。
フォイエルバッハによれば、このようにプロスタントにとってすら彼岸的となった自体を、合理的、科学的に検するのが思弁哲学である。思弁哲学が対とするのは合理化されたであり、理性学であった。そしてその思弁哲学こそがフォイエルバッハが批判の対とする旧来の哲学であった。

『暫定提題』の中でフォイエルバッハはこの思弁哲学についての批判をくわえる。近世的な思弁哲学スピノザ[2]から始まり、シェリング[3]に再され、ヘーゲルにおいて頂点を迎える。その内容はまさにの合理化であって、そうした意味では思弁哲学はフォイエルバッハが忌避したキリスト教を継承する哲学であった。ゆえにこれはされなければいけない。『キリスト教本質』でもそうであったが、フォイエルバッハ哲学本質は「人間学」である。よってここでいう思弁哲学とは、「思弁や観念から、人間の体を人間の手に取り戻す」ことにある。フォイエルバッハにとってとりわけ批判になったのは思弁哲学大家、ヘーゲルである。

ヘーゲル越的な「」なるものを、自己意識を持つ「精」に理論的に変形させた(この「精」とは私たちが普段使っている用法とは大きく異なる概念であることには留意したい)。その精は弁法的[4]に自らを発展させながら、世界のうちに(国家歴史などの)様々な形を生み出し、絶対精(絶対知)へと高まっていくものである。
フォイエルバッハによれば、ヘーゲルが「精」を研究した論理学[4]は「論理学とされた学」である。学者たちは地上の全ての事の御業として、それらを学の上界(形上)のもとのする。一方のヘーゲルも全ての事論理学の論理の中に閉じ込めてしまう。例えそれが国家経済のような物質的な現であっても、ヘーゲルにかかれば「精」という形上の内に収まってしまうのである。あらゆる事を形上の動きと見なすという点で学とヘーゲル論理学は似た存在なのである。

キリスト教本質』において、「とは人間の本質が外部に対化されたもの」ということが明らかにされた。ヘーゲルにおける「精」もまたこれと同じことがいえる。つまり、ヘーゲル論理学における「精」は、実は人間の精投影物であるのだ。「精」は人間の体や感性から離れて、人間から外化したものとして絶対化される。またヘーゲルは人間の抽的知性のみを的絶対存在であると認めた。ヘーゲルは人間の抽的知性を(絶対者)の思考とすることによって、地上の全事を「精」の動きを捉える論理学の中に取り込むことができたのである。

フォイエルバッハはこのヘーゲル思弁哲学革するために、と述の転倒の回復を提唱する。と述の転倒とはなにか? 例えば「ABである」という文章があったときにABは述になる。フォイエルバッハによれば、キリスト教学やヘーゲル論理学ではABの転倒が起きているという。学において例えば「は永遠である」という文章があったとする。しかし、『キリスト教本質』において、とは人間の本質(類的規定)であることが明されている。ということは「永遠である」とは人間の本質についての記述であることになる。人間の本質についての記述から、である「」という概念が生み出されるというと述の転倒。これがヘーゲル論理学における「精」でも同じ現が発生しているのである。
本来、人間の本質についてっていることがヘーゲル論理学では「精」のものとして記述される。このと述の転倒を元の位置に戻す。すなわち今まで述にされていた人間の本質を、に位置に置くことによって、宗教的倒錯現を解消するのである。「精全」であるのではなく、「人類は全」と言う事によって思弁哲学され、それに変わって、現実に即した人間義の哲学、つまり哲学が誕生するのである。ヘーゲルの思弁哲学は、「存在」を「思考」の述としか考えなかった。しかし本来は「存在」がになることが正しいのだ。「存在」から「思考」は生み出されるが、「思考」から「存在」は生み出されない。フォイエルバッハがしたのは理念の世界から、人間の生きる現実への復帰だったのである。

フォイエルバッハは、哲学とは実際に存在するものを認識するものでなければならないとする。その存在を捉えるのには「感性」と「直観」の働きと、それを生みだす「頭」と「心情」という体内器官が必要である。頭動性や自由や観念論のであり、心情は受動制や欲求や感覚論のである。フォイエルバッハによれば、の存在を認める旧来の有論においては頭と心情が分裂してしまっている。というのは心情は自らの本質こそがであると感じているにも関わらず、観と客観を区別する役割を持つ頭という器官は自らの本質を外的な存在、つまり人ならざるに変えてしまう。そこで新しい哲学である人間学はこの頭と心情の分裂の阻止を試みる。心情と頭が一体になって働く人間こそがまさしく現実的な人間であり、現実生活と密着した哲学者であるからだ。

将来哲学の根本命題

フォイエルバッハは、頭や思考ばかりを重視するドイツ観念論に、フランス的な「感性」や直観を導入することを望んでいた。「感性」それが『根本命題』におけるキーワードである。フォイエルバッハは、人間が体を備えた感性的存在であることを強調し、現実に存在するすべての物事は感性を通じてのみ与えられるとする。ところでこの「感性」というのは、いわゆる五感のみをす訳ではない。それはフォイエルバッハが「感性」と「」を同一視していたことからも分かる。

フォイエルバッハのした哲学は、存在するものをあるがままに表現する、自然科学と協調する哲学であった。存在するものをあるがままに捉えるとは、現実に存在する一つ一つの個別の存在を、まさしく一つ一つ個別の存在であるとして見なすことをす。「思考」ではこの視座を持つ事はできない。というのは「思考」は物事を抽化し、一般化して見てしまう作用があるからだ。よって「思考」では全体を一つのものと見なしてしまい、物事を個別に捉えることができないのである。その代わりになるのが「感性」である。というよりもフォイエルバッハは人間の持つ、個別物を捉えるに「感性」と名前を付けだという方が正しいだろうか。こうするとフォイエルバッハ哲学における「感性」と「」がなぜ同じ概念であるかも分かるだろう。「」とは、他のでもない個別的な人物に対して絶対的価値を認めることに他ならないからだ。

フォイエルバッハの重視する「感性」とは観的で表層的な評価を下しやすい、という批判もあるかもしれない。しかし人間の物の見方、すなわち最初の直観[5]は対そのものを見ているわけではなく、表と想像の直観なのである。例えば、ある人が一輪を見ているとしよう。しかし実はその人が見ているのはそのものではなく、その人が認識しているを想像して見ているだけなのだ。よってヘーゲルは感性の対物(ここでは一輪)を回避し、形上の世界に閉じこもろうとするが、フォイエルバッハは逆にそのに到達することをす。それは今まで想像の中で見ていたものを、実際に見えるようにする論みである。そしてその的を達成するためには、自己の制を打破する「教養」が必要であるとフォイエルバッハは言う。自己の制を打破する「教養」とは一体なんだろうか。

繰り返しになるが、フォイエルバッハにとって存在とは「感性」の対になる事物である。そしてそれはまた「」の対になるものでもある。ヘーゲルまでの旧来の哲学では「『思考』されることのできないものは存在しない」というが、フォイエルバッハの新しい哲学は「『』されることのできないものは存在しない」ことになる。もちろんの対イヌネコでもよく、必ずしも人間に限らないが、それでも人間はとりわけ重要なの対である。というのは人間をする場合、愛している自分の正体もまた明らかにされるからである。私が何者であるかは、私が他の人間を愛することを通じて、私自身にも明らかになる。つまり、人間の本質は「」の対によってのみ露にされるということだ。

ここでもう一つのフォイエルバッハ哲学の重要ワード「私と」という概念を紹介しよう。「私」とはそのままの意味で自分という1人の人間をす。一方で「」とは、「私」以外の1人以上の他人のことをす。この「」はたった1人であっても、「私」とは異なる存在であり、また「私」にとって全人類を代表する存在でもある。

フォイエルバッハの言う「感性」すなわち「」は人間と人間の統一を促す効果を持つ。人間と人間の統一とは、自分と自分以外の人間の統一。つまり「私」と「」の統一のことである。

フォイエルバッハの新しい哲学とは人間中心哲学であると何度も述べた。そしてその「人間」とは孤独な1人の人間ではなく、「」と統一された人間のことなのである。もう一度、復習すると「私」とは自分という個人のこと。「」とは「私」でない全人類の中の1人以上の他人のことである。それを踏まえてフォイエルバッハの新しい哲学、人間学の特徴を見ていく。

①新しい哲学は「私」と「」の区別をする立場をとる

②新しい哲学は「私」と「」の対話をする。すなわちそれがの弁法であり、哲学をすることである(ヘーゲル哲学=弁法であることを思い出そう)。

③新しい哲学において「私」と「」を区別した上で統一したものがであり、したがって宗教本質である。

フォイエルバッハの提唱する哲学とは、まず「私」と「」を区別し、その区別に基づいて、めて統一する(これを「類を実現する」と呼ぶ)という人間哲学である。それは理論的であると同時に実践的な哲学であり、また従来のキリスト教に取って代わる事のできる宗教でもある。

また、新しい哲学は「私」と「」の対話として成立する。そしてそれこそがの弁法(対話)である。弁法(独:ディアクティーク)のは、対話(ディアローク)であった。つまりの弁法とは対話する相手がいなければ成り立たないものなのである。ヘーゲル哲学のことを弁法と呼ぶが、フォイエルバッハに言わせれば、それは自らの論理学の中に閉じこもった独(モノローグ)なのである。

ある思想が真実であることは、「私」という1人の人間によってではなく、「私」と「」という複数の人間を待って初めて保される。だが、デカルトの「思う故にあり」以来、近世哲学は「」を視し、孤独な「私」を出発点としてしまった。近世哲学は「私」と「類」と同一視し、自我の思想を人類の思想であると言う。フォイエルバッハはこれを批判するために「」という概念を発明したのである。極めて複雑なこの世界自然を個人の知的で認識することは限界があるものだ。それどころか、ある物が存在するかどうかですら「」なしには保されることがない。ある存在が本当に存在するということを明するには、自分1人がその存在が「ある」と認めただけでなく、他人が同じくそれを感覚し、「ある」と認めることが必要なのである。この点からもフォイエルバッハの感覚義がエゴイスティックな義でないことが伺える。フォイエルバッハ哲学とは常に「」の存在を意識するヒューマニズム(人間義)なのである。

ここで前に出した質問に戻ろう。今まで見えないものを見るための非的な「教養」とは何か? それはもちろん豊富な知識のことではない。フォイエルバッハのいう「教養」ある人とは、自分とは異なった個別性を持つ「」の存在を認め、世界実在が複数の他人によって支えられていることを認められる人のことである。それは「」を愛することのできる人間ということもできるだろう。


[1]共和制国家元首を民から選ぶ政治システムのこと。対義君主制共和制民主主義が民共和制である。日本の場合は民主主義であるが、天皇陛下がいるので立君主制民主主義である(首相国家元首ではない)。

[2]スピノザオランダ哲学者。スピノザ哲学は汎論という名で知られている。デカルトが「」と「精」と「物体」という三つの実体を認めたのに対して、スピノザは「」のみが一の実体であると考え、精的現も物体的現もすべてそうした一にして限な「」の表れであると考えた。スピノザによれば、とは精と物体の両方を含む自然自然)であり、すべて(パン)が(テオス)であることから彼の哲学は汎論(パンティズム)と呼ばれるのである。スピノザ自然の思想(詳しくは脚注で)は自然以外には存在しないというもので、キリスト教の立場からは無神論に等しいものであった。というのは、全てがであるのならば、特殊な存在としてのなんてどこにも存在しないことになるからである。

[3]シェリングカント、フィヒテ、ヘーゲルと並ぶドイツ観念論の代表人物。

[4]論理学。ヘーゲル論理学は、現代でいう論理学とは全く別のものである。後者の数1で習うようなA∈Bみたいなのを数理論理学、形式論理学記号論理学という。それに対してヘーゲル論理学は「即時」,「対自」,「即かつ対自」というように「矛盾」を容認する弁法をす。ヘーゲルは自らの論理学を形式論理学より優れたものであると考えていた。(参考サイトヘーゲル論理学と記号論理学

[5]直観。推理によらず、直接的・間的に、物事の本質をとらえること。第六感で物事を判断する意味の「直”感”」ではない。

その他

レーニンが述べたのはこの3カテゴリだけだったので一般的にはマルクス思想のはこの三種類だけとされているが、もちろんマルクスはそれ以外にも多くの思想、学者や文筆から影を受けている。

例えば、古代ギリシャ哲学者のアリストテレスとエピクロス

            

             アリストテレス          エピクロス

マルクスアリストテレス政治学から商品の使用価値と交換価値の発想を取り入れた。エピクロスマルクス卒論の研究対であり、ヘーゲル、フォイエルバッハと共にマルクス哲学の根幹を担っているとする研究者(フランシーヌ・マルコヴィッツ)もいる。

近世の哲学スピノザ、ルソー、ヴォルテール

      

   バールーフ・デ・スピノザ    ジャンジャック・ルソー       ヴォルテール

ルソーの『人間不平等起源論』

『人間不等起論』とはジャンジャック・ルソーが1753年に書いた文明批判の書である。

本書のテーマタイトルにもある通り、「人間社会における不等はどのように生まれたか?」にある。ルソーは現代社会における政治的不等を不正とみなし、その不正がいかにして生まれたかを人類史の原始にまで遡って解明する。

自然状態の人間

ルソーは不等の起をさぐるために、まずもっとも自然な状態にある人間を考える。いわば原始時代の人間だ。人間からあらゆる自然的な観念や、人工的なを取り去ったときにあとに残るのは一匹の動物としての人間である。この動物は弱々しいけれど、他の動物よりも有利に自分たちを組織していた。

そしてそれゆえに彼らの欲求シンプルで、それを満たすことも簡単であった。おが減ったら飯をたべ、疲れたら寝る。彼らの欲望はただ命を伸ばすだけの自己保存の欲求であった。彼らは本質的に動物なのだ。とはいえいつの時代も、ただ生きることが難しい。彼らは常に過酷な自然病気に脅かされて、生き残るのは身体の強い者だけであった。

かしこのような未開人でも他のイヌネコのような動物と大きく違うところがある。それは彼らが自由な意思をもっていることにある。動物はただ自然に従って自分の行動を決めるのに対して、未開人は人間であるがゆえに自由な意思に基づいて行動をとることができる。人間の持つ自由の意識。これこそが他の動物にはない、人間独自の魂の精性なのである。

また、人間は自分のダメなところをめ、自分を完成するをもっている。しかし、このこそがくせ者なのだ。人間はこのをもっているがゆえに堕落するが、とりあえずこの未開の段階ではこの性質はまだ可性でしかない。以上のように未開人自然状態の中で生きるために必要なものはすべて本の中にもっているのだ。

また自然状態においては人間は善人でも悪人でもない。自然状態では人間はなんの徳的関係ももっていないし、また共通の義務ももっていないからである。しかし未開人の中にも「自己保存の衝動」と「憐れみ」という2つの感情がある。後者の「憐れみ」は徳の基礎をなすものである。この「憐れみ」は自然の感情であって、人間が自己のための活動から離れ、他人との相互扶助や相互補助をしようとするためのものである。そしてまた「憐れみ」の感情は社会状態における法律や徳の代わりをなすものなのだ。

自然状態で生きる未開人には産業もなく言葉もなかったが、戦争侵略も、不等もなく、平和で幸福な毎日を送っていた。

不平等の起源と発展

では不等はどうやって生まれるのか。ルソーは不等には2種類存在するという。体や精の差異から生まれる自然的不等と、社会的な要素から生まれる政治的不等である。前者は自然から生まれたものであるので、人間にはどうしようもない。そこで問題になるのが後者である。

この政治的不等の起を解き明かすのが本書の課題である。ルソーはそのきっかけは私たち人類のの発展と、自然の精の進歩であったという。そこから生まれた格差が、所有権と法律によって固定化され、正当化される。それこそがルソーの考える人社会の不等の起と発展であった。これを順に見ていこう。

自然状態において、人間は自己保存のために自然と闘争する必要性を学んだ。そして、それによって人間精の数々の関係をあらわす観念が生まれたのである。これが人間の精発達の第一歩であった。それらの観念がまた人間同士で、互いの利益のための行動のルールを作り出した。

こうした人間の精の啓発につれて、産業も良されていく。原始の産業といえばまず屋の建築である。これによって人間は家族という概念を持つようになった。こうした人間同士の結合から最初の心情の発達が生まれた。またこの家族というものは私有財産の起でもあった。さらには家族はやがて政治社会に繋がっていく重要なとなった。

人間が社会を持ち、その精と心情が発達するにつれて、人間は徐々に物事を価値で評価するようになっていく。価値評価のはじまりは、グループの中でダンスや歌が上手い人が尊敬を集めることであった。ここに自尊心という心情が人間に芽生えた。しかしそれは一方で不等の第一歩であり、悪徳の始まりであった。この自尊心から虚栄と軽蔑が、不名誉と羨望が生み出された。

とはいえ、自給自足の技術で暮らす原始の状態では人間はいまだ自由であり、幸福なままであった。私有財産を確立の不等が生まれたのは、人が生きるための労働において大勢の他人の手を借りるようになってからである。そしてそれを本格的に促進したのは冶農業の発達であった。これが私有財産の観念を人々の間に根付かせ、社会の中に分業を生み出したのである。

こうして人間の価値は単に財産の量だけでなく、その特殊な才、長所などによっても見られるようになり、そのため、人間は他人から尊敬されるにたる人にならなければいけないという感情を持つようになる。ここから見せびらかしと人を騙す詐術が生まれ、それにともなってあらゆる悪が社会にでてきたのである。

人間の最初の所有からは競争と対抗が発生する。それは利益の対立であり、他人を犠牲にしても利益を得たいという隠された欲望である。人間は貪欲的になり、野心的になり、また邪悪なものになった。こうして人間社会戦争状態が生まれた。

国家の誕生

こうした戦争状態を緩和し、制御することは政治の問題である。そもそも財産というものは正当に得られたものではなく、おおよそが略奪によって築き上げられたものである。そうした財産を戦争状態の中で守るために、財産所有者が考えたことは、何らかの結社(国家)をつくることであった。彼らは人々に向けてこういうのである。「互いに争うのを止めよう。法を作りそれに従おう。そして住民を守り、外敵を撃退し、私たちを結びつける権を統一しよう」

こうして社会法律というものが生まれた。しかしこれは人間の自然自由永久に破壊し、そして私有と不等の法を固定化させるものに他ならなかった。これにより、全人類は、少数の富裕層の野心のために労働と隷属と悲惨にさらされることとなった。このようにして生まれた政府は、財産を持たないものが持つものに騙されて契約して生まれた権である。この契約は富者の利己心が支配していて、不正なものである。

原始の国家君主制であれ、貴族制であれ、民制であれ、その為政者はすべて選挙で選ばれた人物であった。その後、為政者に富が問題でなくなり、その才覚などが重要視されてくると、選挙プロセスが面倒になり、やがて政治の世襲化が行われるようになる。つまり政治の不等とはまず富者と貧者の区別を、第二に強者と弱者の区別を、第三に人と奴隷の区別を生み出した。

この三番の状態は政府が全に解体されなかったり、合法的な基礎の上に再建されない限りずっと続くものである。またこの第三段階においては、専制政治が共和廃墟の上にたつ怪物としてあらわれる。ここでは人民は法律ももたず、ただ彼らの上には実を持つ僭だけが存在する。

そしてこのとき以来、風俗や徳は問題ではなくなってしまう。なぜならば、徳に何の希望も持たない専制政治が支配するところでは、専制は他の人の存在を許さないからである。僭がなにか命令を下せば、議論が起きることもなく奴隷たちは盲目的にそれに従う。それが一の徳なのだ。そして、これこそが不等の最終地点である。

かしこの段階ではすべての人間はふたたび等を取り戻す。彼らは何者でもなく、臣民人の意思以外に法を持たず、また人はその情念以外には何の規則も持たない。ここでは善の観念と正義の原理は自然状態と同じように消え失せてしまっている。すべては人の法だけに従うことになり、一つの新しい自然状態が生まれる。だが、そんなものは度を過ぎた腐敗から生まれたものであり、純自然状態ではない。


他にイギリス経済学ではないが、スミスより更に以前の経済学者のペティケネーマルクスに強い影を与えた。

       

ウィリアム・ペティ          フランソワ・ケネー

ウィリアム・ペティスミス以前に算術的経済学子を形成したことから『経済学の始祖』と呼ばれた。ペティの考案した労働価値説はマルクス経済学の背になる理論である。

ケネーに関しての詳細は記事を参照して頂くとして、マルクスケネーの代表作『経済表』からヒントを得て再生産表式完成させた。再生産表式は後にアメリカ経済学者ワシリー・レオンチェフによって産業連関表となり近代経済学に合流することとなる。

産業連関表とは産業ごとの生産・販売額を表にしたものであり、日本でも総務省が毎年発表しているくらい実際的な経済分析である。経済学部生や公務員試験経済学を学んだ人なら見たことがあるだろう。

文筆シェイクスピアにゲーテ、ダンテ

     

ウィリアム・シェイクスピア  ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ  ダンテアリギエーリ

マルクスは多くの文学に触れていたがその中でも取り分けシェイクスピアを好み、資本論の中でもシェイクスピアの『夏の夜の夢』や『ハムレット』、『ヴェニスの商人』などの戯曲を多く引用している。

自然科学者では化学者のリービッヒに、進化論のダーウィン

              

         ユストゥス・フォン・リービッヒ      チャールズダーウィン

リービッヒは当時最も進んだイギリス農業を分析し、人口密度の高くなった工業地帯の食料を賄うため生産を高めた結果、土壌から農業生産物に必要な化学物質が失われ、自然破壊が起きていると摘。土壌から有益な化学物質が失われることをリービッヒはlift、すなわち盗みと表現した。マルクスはこのリービッヒの分析を、農村から工業地帯への人口の移動。階級間の搾取の分析へと発展させた。

ダーウィンは、生物環境に適応して進化するという進化論を唱え、これが自然の弁法としてマルクスの史的物論のヒントとなった。マルクスは史的物論を元に、進化論は社会にも当てはまると言い、資本主義はやがて淘汰され次の社会が来るという社会進化することとなる。このことに感謝してマルクスダーウィン資本論の一巻を献本している。

マルクスは他にもライプニッツとかマキャベリとか本当に色々読んでいたようである。。

その生涯と人間像

若い頃のマルクス

マルクスの生涯

活動・生活 要著作 歴史
1818 0歳 プロイセン王国リーアにて誕生
1830 12歳 フリードリヒヴィルヘルム・ギムナジウムに入学 フランス7月革命
1835 17歳 ボン大学法学部入学
1836 18歳 ベルリン大学法学部に移る
1840 22 フリードリヒヴィルヘルム四世即位(独)
1841 23 ベルリン大学卒業、イェーナ大学より博士号取得 学位論文『デモクリトス自然哲学とエピクロス自然哲学の差異』
1842 24歳 ライン新聞』の編集者になる
1843 25 イェニーと結婚パリへ移住 ヘーゲル法論批判ユダヤ人問題について、ヘーゲル哲学批判序説
1844 26歳 『独年誌』刊行。エンゲルスと意気投合し共同作業開始 経済学哲学稿
1845 27歳 パリを追放され、ブリュッセル フォイエルバッハのテーゼの執筆、ドイツイデオロギー執筆開始
1847 29歳 ロンドン義人同盟にエンゲルスと共に加盟。後に共産主義者同盟となる 哲学貧困
1848 30 ベルギーから追放。パリへ。それからケルンへ。ケルンで『新ライン新聞』発行 共産党宣言 2月革命、独で3月革命
1849 31 パリに追放された後、ロンドンへ亡命 賃労働と資本
1850 32 『新ライン新聞・政治経済評論』を発行
1851 33歳 大英博物館に通い詰め、経済学研究に没頭。『ニューヨーク・トリビューン』に寄稿開始 ルイ・ナポレオンクーデター、太天国の乱
1852 34 共産主義者同盟解散 ルイ・ボナパルトのブリメール十八日 ナポレオン三世による第二
1857 39 経済学批判要綱 世界恐慌
1859 41 経済学批判 イタリア統一戦争
1861 43歳 南北戦争イタリア成立
1864 46歳 第一次インターナショナル際労働者協会)がロンドンで創設され、宣言と規約を執筆
1865 47歳 、価格および利潤
1866 48 ドイツ連邦解体
1867 49 資本論一巻
1870 52 戦争勃発、第三共和制成立
1871 53 フランスの内乱 ドイツ帝国成立、パリコミューン
1872 54 第一次インターナショナルハーグ大会に出席。バクーニンを除名。本部をニューヨークに移す。
1875 57 ゴータ綱領批判を執筆 ドイツ社会主義労働者党』結成
1876 58 第一次インターナショナル解散
1883 3月14日64歳で逝去
1885 資本論二巻を刊行
1889 第二インターナショナル創立
1894 資本論三巻を刊行 日清戦争勃発

マルクスの誕生と青年期(1818~1841)

カール・マルクス1818年5月5日に、ドイツ西部ライン地方(ラインラント)の歴史都市リーアで誕生した。トリーア(Trier)はローマ帝国時代以来の都市で、大司教座が置かれており、現在ドイツ連邦共和国ラインラント=プファルツ州に属している場所である。カールが生まれた当時のドイツは、土がバラバラの状態であり、現在のような統一国家は成立していなかった。彼の出生地トリーアに至っては、彼の生まれる数年前までナポレオンが支配するフランス領であったほどである。

カール父親ハインリッヒ・マルクス母親ヘンリエット・マルクスは共にユダヤ人であったが、カールが6歳の時に一家ってプロスタント宗する。父親ラビユダヤ人祭)の血統を継いでおり、トリーアの上級裁判所で弁護士してとして働いていたので、マルクス較的裕福な生活を送っていた。父親からカールへの手紙は今でも残っていて、そこから見るにカール少年は両親から過保護と言えるほどにされていたようであった。

マルクスというと貧しい労働者の味方であり、本人も極貧というイメージがあるが、このように彼の生まれは世襲貴族ではなかったものの、かなり上位の貴族に近かった。しかしユダヤであるので全に上位階級であると言う訳でもない。少年期マルクスは堅苦しく皮屋であり、ものごとを小難しくに考える子どもであったのだが、後のイェニー夫人との恋愛では、ユダヤの息子プロイセンの高官のというを乗り越えるためにイェニーに情たっぷりのポエムを送ったり、相手の親に直談判したりと情熱的な行動もとっている。

12歳の時に少年マルクスはトリーアギムナジウム(ドイツエリート養成のための中高一貫校)に入学し5年間在学した。成績は抜群!とまでは行かなかったけれども有能な生徒ではあった。今でも残っている彼の卒業書によると「彼は良好な才を有し、古代ドイツ語および歴史において非常に良い、数学においては良い、そしてフランス語においてはまぁまぁの成績を示した。(中略)彼の将来が期待できる」と評価されている。

残っているカールの論文の中で一番評価が高かったものは『ヨハネ伝第十五章第一から第十四節によるキリスト信仰者の同盟について。その起および本質その条件的必然性およびその結果の叙述』という小難しいタイトルのものであった。その他にも卒業論文である『職業選択論』で高い評価を得ているが、先生からは、やや表現が大手すぎるというダメ出しも食らっている。ちなみにこの頃の日本は徳十二代将慶の時代であり、まだ船すら来ていない。

その後マルクス少年1835年10月ボン大学に法学研究のために進学するが、当時のボン大学には政府の介入が始まっており、マルクスはより自由な学めてベルリン大学へ転学した。同時にの友人であるイェニーと婚約をする。在学中のマルクス法学の各教科に加えて、文学論理学地理学、学の勉強に励み、更に当時のベルリン大学で流行っていた青年ヘーゲル(ヘーゲルとも。当時流行っていたヘーゲル批判的に発展させた一)から大きな影を受けた。1838年にはの死という悲劇に会うが、それでもめげず1841年にイェーナ大学に学位請論文を提出してマルクス哲学博士となった。当時の大学現在日本のようにでも入れる訳ではなく、マルクスは知的エリートだったと言える。

夢破れてジャーナリズムへ(1941~1943)

ブルーノバウアー(1809~1892)と現在ボン大学

大学卒業後、マルクスボン大学の講師への就職を希望し、当時ヘーゲルとして『共観福音書の歴史批判』という書籍を著し脚を浴びていた旧友ブルーノバウアー教授の下へ向かった。マルクスは彼と共に学を研究し、さらに『学新聞』という新聞を刊行して実績を得ようとした。活動の一環としてマルクスバウアーは『ヘーゲルに対する最後の審判の切り札』というパンレット検閲の緩いライプツィヒで出版する。このパンレットは一見キリスト正当を擁護するもののように見えるが、その実はキリスト教批判する無神論者のヘーゲル批判するものであった。

しかし、以前から当局に睨まれていたバウアーはこの論文の出版により、いよいよもって不を買ってしまい、出版数ヶ後にして、このパンレットプロイセン警察から販売を禁止されて、バウアーは教授大学をクビになってしまった。これによってバウアーのコネによって大学教授の地位を得ようとしていたマルクス論みは、その見込みがほとんどなくなってしまったので、やがて彼は教授になる夢を諦めた。

その後マルクス重いを背負ったが、兵役を不合格になったため、当時彼が興味を覚えていたジャーナリズムを職業とするべく、ベルリン大学時代にマルクスが参加していた『博士クラブ』というサークル仲間だったルーテンベルクを筆に、マルクスと同様にラインラントユダヤ人であったモーゼス・ヘスを助手にして、青年ヘーゲル政治を訴える『ライン新聞』を創刊した。編集者のほとんどは23歳のマルクスより年上であったが、彼らのほとんどはマルクスの偏屈な性格に辟易しながらもその才を高く評価していた。

ライン新聞』は1842年1月1日に第一報が出版された。しかしこの時、マルクス母親とのトラブルや婚約者イェニーの父親フォン・ウェストファレン男爵の逝去などで、トリーアに引き止められていたので第一号には参加できなかった。5月の初めになってようやくマルクスは落ち着いて原稿を書き始め、すぐに編集部で一番熱心な執筆者となった。その原稿のほとんどはプロイセン政府に対する遠慮のない攻撃であった。

その頃の時事問題について書かれたマルクスの原稿は今となっては読む意味の薄いものになっているが、当時としては検閲にビクビクした軟弱なジャーナリズムに慣れきっていた読者たちに新鮮な印を与えたのである。マルクスの名は高まり、ライン新聞はドイツの全土で最も有な反政府的新聞となった。1842年10月にはマルクスの功績が認められてルーテンベルクに代わってライン新聞の編集長に就任することとなる。

6ヶに渡るマルクスジャーナリズムの仕事は彼から大学時代にあれほどのめり込んだ哲学への興味を失わせることとなった。さらにマルクスはこの時期に、後に一生の友人となるエンゲルスとの初対面を果たしている。

マルクスジャーナリストとして全方面にケンカを売って売って売りまくった。プロイセン検閲当局にケンカを売り、親玉のプロイセン政府にケンカを売った。マルクスは政府の出版法を批判し、婚姻法を批判し、また、州所有ので貧しい農民が枯れ木を集める事を禁止した法律批判した。マルクスでなく自分の知人にもケンカを売りまくった。まず被者になったのはマルクスの前にライン新聞の編集長をしていたルーテンベルクである。彼はマルクスの友人であったのに、マルクスの記事にこき下ろされてしまった。マルクスはそれに飽き足らず、かつて自分の師であったブルーノバウアーをインチキ野郎!と批判したのである。

かを批判することばっかりやっていたマルクス、当然色々な人から嫌われてしまう。そしてとうとう1843年1月プロイセンからライン新聞を発禁にされてしまった。新聞の筆を追放(記念すべきマルクスの初追放!)されたマルクスは、自分に相応しい仕事はないかと新しい活躍の舞台を探し始める。補に上がっていたのは当時急進として名をあげていた著述アーノルド・ルーゲが編集を勤める『学問および芸術のためのドイツ年誌』という長ったらしい名前の新聞であったが、この新聞はライン新聞が発禁になる3ヶ前に既に発禁になっていた。

しかし、この『ドイツ年誌』をフランスで復活させようという運動があったので、マルクスはそれに乗ることに決めた。これにより定収入を得るがついたマルクスは、学生時代に婚約していたイェニー(4歳年上)との結婚を決心する。

彼は、が亡くなってからイェニーが移り住んでいたクロイツナッハ(現バート・クロイツナッハ)へと赴き、1843年の6月12日イェニー、本名『ヨハンナ・ベルタユーリア・イェニー・フォン・ウェストファレン』と結婚した。彼がイェニーに婚をしてから7年の出来事であった。マルクス11月の末までクロイツナッハに留まり、政治・社会に関する書物を読みあさって読書ノート(通称『クロイツナッハ・ノート』)を作った。その中にはモンテスキューの『法の精』、ルソーの『社会契約論』、マキャベリの『君論』などの研究が含まれていた。

1843年11月の終わりにマルクス夫妻はパリへと移住する。永遠の亡命者マルクスの始まりであった。

パリでの日々(1843~1845)

アーノルド・ルーゲ(1802~1880)と1844年の『独年誌第1・2合併号』

したマルクスはアーノルド・ルーゲに加え、助太刀として若くして成功した詩人ゲオルク・ヘルヴェークと、名だが志のあるモイレルを迎えいれた。しかし発起人であるルーゲはこの『独年誌』の刊行に際して、余り無計画であった。彼らはこの新聞を際的なものにしたかったため、彼らドイツ人だけでなく当時著名だったフランス人に原稿の執筆を頼み込んだのだが、それらは全て断られてしまった。

彼らには確かに実績があり、ある程度有名ではあったもののそれは全てドイツに限るものであり、フランスでの彼らは何者でもなかったのである。結局『独年誌』の第一号1844年に発行されたが、執筆者のほとんどはドイツ人ばかりになったしまった。

マルクス創刊号に有名な『ユダヤ人問題によせて』と『ヘーゲル哲学序説批判』を掲載したけれども、執筆者の中で詩人であるハイネヘルヴェークを除き、ドイツえて際的に人気のある人物はいなかった。『独年誌』はわずか1号廃刊となってしまう。

この失敗は期待が大きかっただけに本人達には非常に残念なものに映ったのである。元々の気があったルーゲは気を病み、楽観的でけんかっマルクスと溝を深めてしまった。マルクスは第三者への手紙の中でルーゲのことを『山師(詐欺師の意)』だとか『老いぼれロバ』だとかバカにしたことが原因でルーゲと全に決別する。以後、お互い30年以上ロンドンに在住したにも関わらず二度と会うことはなかった。

その後、マルクスは、プルードン、バクーニンを初めとしたフランス人やロシア人の知識人と交流を深めたりしつつパリ発行の雑誌に寄稿をして収入を得始めた。マルクスの記事はパリの『進歩的文化人』には好意的に迎えられたが、時の政府や伝統的文化人にはで見られ、結局プロイセン首相であった地理学者のアレキサンダー・フォン・フンボルトフランス内閣に働きかけ再びパリを追放される(2年ぶり2度)。マルクスはエンゲルスの援助を受けてベルギーへお引っ越し。

そして共産主義へ・・・(1845~1848)

ヴィルヘルム・ヴァイトリング(1808~1871)とチャーチストたちの反乱の様子

マルクスブリュッセルに来てから6ヶが経つころ、彼はパリにいた時のような労働者に対する頓着な態度を捨てて、いよいよ共産主義へと傾倒していくこととなる。

そのきっかけは1845年にエンゲルスと共にロンドンに6週間の旅行をしたことであった。エンゲルスはロンドンで彼と親交のあった『労働者教育同盟』のメンバーマルクスに紹介することになったのだが、マルクスはこれにいたく好感を持ったのである。ベルギーに戻ってきたマルクスはすぐにこれを真似て『ドイツ労働者教育協会』を設立した。彼のな協者にはプロイセンの元将校ヨーゼフ・ヴァイデマイアー、後にマルクス資本論げたシュレージエン出身の学校教師ヴィルヘルム・ヴォルフ、そしてマルクスの義エドガー・フォン・ウェストファレンであった。

マルクスが再び政治活動を始めたということはまたかにケンカを売るということに他ならない。今回のターゲットになったのはドイツ社会主義ヴィルヘルム・ヴァイトリングであった。彼は熱意ある社会主義者であったが、この熱意が、情熱よりも理性を重視するマルクスには到底受け入れるものではなかったのだ。ヴァイトリングは感情論共産主義る、いわゆる社会主義者であった。マルクスヴァイトリングに堪え難い嫌悪を吐露し、ありとあらゆる共産主義運動から全ての社会主義者を追放することをした。

更にマルクスブリュッセル共産主義際的喧伝運動の中心に据えるべく1846年のに『共産主義通信委員会』なるものを設け、諸共産主義者の協機構を打ち立てた。マルクスはこの機構を広めるためにエンゲルスをパリへと派遣する。エンゲルスのパリでの任務はマルクス導の下にある際組織を設立することであったが、数年前マルクスパリ失敗したように今回もその仕事は中々上手くいかなかった。マルクスの知名度は相変わらずパリではゼロに等しく、エンゲルスはフランスの有社会主義者であるカベーやルイ=ブランを尋ねて協を仰いだが体よく断られてしまっていた。

パリでのエンゲルスの活動が滞る一方で、ロンドンでは幾分かマルクス論みに適う素養があった。ロンドンには既に『ドイツ労働者教育同盟[1]』という組織が活発に活動していたし、何よりイギリスには労働者達が政治革をすチャーチスト運動が広がっていたからである。1845年には『ドイツ労働者教育同盟』とチャーチストが中心となって、「万人は兄弟である」をモットーにした『友愛民主主義者』という組織が結成されていた。

1847年に機は熟し、ロンドンに各組織の代表者が集まり、際的な『共産主義者連盟』を結成することが決まった。しかしマルクスがなくてロンドンに行けなかったため欠席を余儀なくされる。ブリュッセルからはヴィルヘルム・ヴォルフが、パリからはエンゲルスが出席していた。その次の会議にはマルクスも一念発起してを絞り出し、を渡って参加をきめる。

その会議の参加者は名だたる社会主義者が参加していたのだが、高等教育を受けていたのはマルクスとエンゲルスのみであり他は全て学な労働者であったので、組織はこの二人が導で運営されることになる。そこでマルクスとエンゲルスは『共産主義者連盟』を代表し「共産主義とは何か?」を示すパンレットを執筆することに決める。これがかの有名な『共産党宣言』である。共産党宣言は後にマルクスブリュッセルに帰ってきてから完成され、ロンドンに送られた。

しかし共産党宣言が印刷され発売される直前にヨーロッパで大事件がおきた。それが世に言う2月革命である。1848年2月24日に労働者と資本家の対立が最高潮に高まったパリ革命が発生し、フランス王ルイ・フィリップイギリスに亡命したのである。

この革命は後にヨーロッパ全土に広がっていくのであるが、マルクスの渇望していたこの労働者による革命は逆に『共産主義連盟』に大きな負担となってのしかかった。混乱によって9月ブリュッセルで開催されることになっていた第一回の『民主主義大会』は中止になり、共産党宣言も実際起こってしまった革命の前では味気を失ってしまったのである。

さらに革命の火が自に及ぶことを恐れたベルギー政府は自にある怪しい組織の弾圧を始めたのである。ヴィルヘルム・ヴォルフは警官に逮捕され拷問を受け、マルクスもその直後に外追放を命じられた。お金のなかったマルクスはそれでもベルギーウダウダやっていたので一家って逮捕され、もう一晩たりともブリュッセルにいてはならないと最終告知を受ける。こうしてマルクスベルギーを追放され(三年ぶり三回パリへと亡命するのであった。


  1. ドイツ労働者教育同盟。ヴァイトリングを中心としたドイツ共産主義活動を担いパリで活動していた『正義者同盟』が1839年に内部分裂を起こした後に1840年にロンドンで発生した分である。発起人は植字工のカール・シャッペル、靴職人ハインリッヒ・バウエル時計職人のヨーゼフ・モール。この組織は正義者同盟と違って秘密結社でない然たる組織であり、アカデミックな共産主義を宣伝した。

革命の年(1848~1849)

ゲオルク・ヘルヴェーク(1817~1875)と1848年のフランス二月革命の様子

ベルギーを追放されたマルクスだが、捨てる神あれば拾う神ありパリからの追放命令が取り消されていたので今度はパリへと向かった。パリに到着したマルクスとその仲間たちは速活動を再開する。『ドイツ民主主義委員会』という組織を結成し、合議の結果ヘルヴェークを会長が選出された。マルクスは重要なポストに自分がつけなかったことに激怒し、ヘルヴェークをこきおろした上で『共産主義者連盟』の活動にのめり込んでいった。この時、マルクスヘルヴェークの熱な支持者である元新聞記者のボルンシュテットを嫌がらせのために連盟から追放している。ヘルヴェーク自身は連盟には参加していなかったので難を逃れることができた。

一方フランスで発生した革命ドイツにも飛び火し、三月革命を発生させていた。そこでマルクス革命に乗じて共産主義を宣伝するためにドイツケルンへと移動して、革命王制を倒してくれることを期待した自由義的ブルジョワジーたちの援助を得て1848年6月1日に『新ライン新聞』を創刊しその筆となった。しかしがブルジョワであることはマルクスの新聞経営を難儀なものにした。彼らスポンサー絶対王政を嫌っていたが、それ以上に共産主義を嫌っていたからである。そして、そのブルジョワたちは革命の火が下火になるにつれて、絶対義の次に出てきたプロレタリアートによる共産主義という怪物を警し始めていく。

このころマルクス30誕生日を迎えており、政治的活動の絶頂の時期を楽しんでいた。革命は彼の予想通りに動き、近いうちに全ヨーロッパを自らの意思の下に支配できると考えていた。そこでマルクスはブルジョワ達と手を切り、プロレタリアートの支持によってのみ活動を続けることを試みた。しかし当時の労働者といえばほとんどが共産主義のことをまるで分かっていない者ばかりで、一部共産主義を知る人も社会主義者たちによってめられていた。更に、田舎に行ったことのなかったマルクスの理論の中には、人口のけして少なからずを占めていた農民の介在する場所がなかった。マルクスにとって農民は洞窟で暮らす土人と一緒であり、マルクスは、覚めていない(科学共産主義について分かっていない)労働者や農民、さらに自治をちらつかされてオーストリアハンガリー帝国に協するに至った帝国周辺の異民族労働者についてはこれを「ルンペンプロレタリアート(人間のクズ)」や「半革命」として辛辣に罵倒している。

『新ライン新聞』はそれから三ヶ以上穏に続いていたが、やはりと言うべきかの末には官との衝突が起こった。1848年9月17日に巨大な野外デモケルンに近いラインで開催され、そこにエンゲルスを初めとした『新ライン新聞』のメンバーが参加していたため新聞は発行停止をくらい、デモの参加者たちはこれ以上ドイツに留まっていることは危険と判断し外逃亡を図った。エンゲルスもスイスに亡命する。

マルクスデモに参加していないので追放を免れたが、三週間にわたる新聞の発行停止はマルクスにとって痛手であったが、その頃にはマルクスは編集部の更なる独裁者と成り果てていた。暴君マルクス欧州革命の失敗を薄々感じ初めていたが、自らの自信が失われることは一切なかったのである。

調子に乗ったマルクスは、仲間二人と共に『ラインラント地方民委員会』の名において税の支払いの拒否と民兵(ミリシア)の集結を呼びかけた。当然プロイセン当局はこれに怒り、『新ライン新聞』ではなく、マルクスとその二人の仲間を治安妨の罪で告訴した。しかし裁判は1849年に開かれたが、マルクスは得意の弁舌を用いて陪審員を論破してしまい、三人って罪の判決を獲得する。これにより『新ライン新聞』の名は世に知れ渡ることとなったが、当局から睨まれたマルクスは、結局革命全に終結した後にプロイセン籍の剥奪とプロイセンからの追放を命じられる。(1年ぶり4度

プロイセンを亡命しパリへと戻ったマルクスは偽名を使って警官のを逃れていたが、7月になって結局取っ捕まる。警察はブルターニュ地方のモルビアンというド田舎に行くならフランスに留まっていていいよとマルクスに通告した。マルクスは物価の安いスイスでエンゲルスと一緒になることを思いつくも、最終的に彼は革命的精は乏しいものの個人的自由較的保されていて、何より彼の研究に必要不可欠な大英博物館のあるロンドンに移住することを決定する。マルクス1849年の8月9月ロンドンへと移動し(数ヶぶり5度の追放)、数週間後家族もやってきた。この後、マルクスは生涯の残り半分、30年以上をロンドンで過ごすことになる。

ロンドンでの極貧生活(1849~1856)

    

19世紀ロンドンと影。左はロンドン博覧会の様子、右は悲惨な貧民層の生活

1849年のロンドンにやってきたマルクス一家はキャンバーウェルの名士の集う郊外で、具付きのを借りてそこに住み始めた。マルクスにはその頃、三人の子どもがいた。母親と同じ名前のイェニー5歳、ラウラ4歳、そしてエトガー2歳である。それに加え、ロンドン到着後にはもう一人の息子ギードーが生まれていた。妻イェニーと四人の子、そしてメイドを含めた6人がマルクス家族であった。マルクスイギリスでは政治的な友人はいたのだけれど、普通友達は相も変わらずゼロであった。楽観的なマルクスロンドンでの生活は揚々としたものであると考えていたが、その一方で生活手段や収入を得る方法は全く考えていなかったので、後年ロンドンでの一家の極貧は凄まじいものになるのであった。

その年の終わりにエンゲルスがスイスから帰ってくると、マルクスは『新ライン新聞評論』というドイツ語で書かれた新聞を創刊した。これはハンブルクで発行されたのだが、寄稿者はほとんどマルクスとエンゲルスだけであった。『新ライン新聞評論』にはエンゲルスは革命歴史マルクス革命哲学の原稿を投稿していたのだが、マルクスがそんな甘い原稿しか書かないはずがなく、当時ロンドンにいたドイツ人亡命者たちを毎度のこと批判しまくってケンカを売りまくった。しかし皮なことにこの新聞の購読者はそのロンドンドイツ人亡命者だけであったのだ。その後『新ライン新聞評論』は資繰りに行き詰まり、1850年の最初4ヶにはに一回出せていたものが次に11月号を出して、それっきり休刊になってしまった。マルクスの手元には既に一銭のもなく、イェニーが病気の子にを与えんと必死になっていたにも関わらず貸では差し押さえが行われてしまった。

仕方がないのでマルクスレスター・スクエアのドイツホテル一週間ばかり身を寄せた後に、ロンドンで一番貧しい外国人亡命者の住むソーホーのディーン二十八番地の下層室2室に住むことになった。彼らは今後6年間をここで過ごす。

マルクスは食べるものも着るものもほとんどなく、部屋にはいつも借取りがやってきてドアいていた。それでもマルクスは原稿を買うために虎の子の妻の食器や自分のオーバーを売ったりしていたのである。そんな貧生活のさなか、マルクス夫妻に二人のフランチェスカとエレアノールが誕生した。しかし一家の住むソーホーは不衛生極まりない場所であり、食べるものにも事欠くマルクス一家の子ども達は次々に死んでいった。ギードーとフランチェスカは幼いうちに死んだ。1853年にフランチェスカが死んだ時にはマルクスには葬式をするどころか、埋葬をするすらなかった。1855年にはエトガーが亡くなり、マルクスの子どもは丁度半分になってしまった。

その後マルクスは妻イェニーの実家の遺産が入り込み、やっとこさ貧民ソーホーを脱出しヘイヴァスト丘のグラフトン高台にある具を買って移り住んだ。しかし相変わらずマルクスの手元にはなかった。ロンドンドイツ人亡命者に良い仕事はまわって来るはずもなく、その頃のマルクスの収入はたった二つしかなかった。アメリカの新聞『ニューヨーク・トリビューン』の不安定な原稿料と、そしてなによりエンゲルスの援助である。私たちは、マルクスがエンゲルスを存分に搾取することによって自らの研究を続けることができたという歴史の皮をここに見ることができる。

ちなみにこの頃、1853年に日本ではようやく船が来航し開芽が見えている。

政争(1849~1853)

   

アウグスト・ヴァリッヒ(1810~1878)とナポレオン3世(1808~1873)

マルクス革命の火から遠く離れたロンドンでも政治活動を止めることはなかった。マルクスは、そのうちヨーロッパで小ブルジョワ的革命が起きた後プロレタリア革命が起きると考えており(これは永続革命論と呼ばれ、後にトロキーによって取り上げられた)、周りにその予言を吹聴していた。

1849年にドイツフランスで活動停止となった『共産主義者連盟』であるが、連盟自体はいまだ健在であった。組織の幹部であったモール戦争で既に亡くなっていたが、植字工のシャッペルと靴職人ハインリッヒ・バウエル1849年のロンドンにやってきて、マルクスと合流した。エンゲルスの旧友であるアウグスト・ヴァヒッリ、そしてプロイセンヴィルヘルム・リープクネヒトコンラートシュラムを加えて1850年3月に彼らは再び活動を再開した。彼らは少人数ではあったけれどもいずれヨーロッパプロレタリア革命は起こるという希望があり、志があった。

しかしマルクスの予想は大はずれする。マルクス革命が進むと予言したフランスではナポレオン3世の下で反動化、つまり古い政治体制に戻ってしまったのである。マルクスはこのことに激怒し、著作『ブリメール18日のクーデタ』でナポレオン3世政権を痛批判したが、予言を外したマルクスには冷ややかな線が注がれてしまった。

特にマルクスと反したのはヴァリッヒであった。マルクスの独裁的な性格を快く思っていなかったヴァリッヒはシャッペルと共にマルクスに反抗明を出した。マルクスは一応はそれを多数決で押さえ込んだものの、このままではいけないと考えて『ドイツ共産主義者連盟』の本拠地を自分の独裁に都合のいいドイツケルンに移動することに決めた。これによりマルクスとヴァリッヒとは全に決別し、ヴァリッヒは連盟を脱退し新しい組織『際委員会』を創立した。これによりマルクス率いる旧連盟は著しくを失うこととなったが、ヴァリッヒの組織もルイ・ブランなど他の非共産主義的組織と合併したりして勢いはしょぼかった。

さらに連盟がケルンに移動したことによってもう一つの問題が発生した。それはドイツではロンドンと違って政治活動に対する規制が強かったことである。マルクスが内部分裂を起こしている一方でプロイセン政府はロンドンのいるドイツ人亡命者達への警を一切緩めていなかったのだ。

そのプロイセン政府が最も警していたのが、マルクスの『共産主義者連盟』であった。プロイセン政府は連盟の実を飛び抜けて過大評価していたのである。プロイセン政府に残る報告書によると「共産主義者連盟はヨーロッパ350の社会主義組織を揮し、全構成員は5万人をえる」と書かれている。当然これは現実から大きく離れたものであった。

プロイセン政府はどうにかして連盟のメンバー逮捕したかったのだが、一応プロイセンも近代国家であり表現の自由と出版の自由が保されていたので、中々マルクス一味を拘束することはできなかった。政府はどうにかして連盟が政府転覆の計画や暴力煽動を企画しているという拠を手に入れたかったが見つからないので最終的に拠は偽造して連盟のメンバー逮捕するに至った。このでっち上げられた拠をもとに連盟のメンバー11名が18ヶの監禁の後に1852年10月の末に裁判にかけられることになる。マルクスは裁判での勝利をめて被告人に有利な拠を集めようとしたのだけれど、マルクスのいるロンドンから検閲をくぐり抜けてプロイセン拠の品を送るのは困難であった。

最終的に裁判では雑な偽造の拠を裁判官に却下させることには成功したのだが11名中7名が他のところで有罪判決をくらい、これによってプロイセンでの『共産主義者連盟』の命運は尽きた。判決後数週間の後に連盟もヴァリッヒの組織も解散。これからマルクスは10年以上際的革命組織に属することはなかった。

種々のジャーナリズム(1851~1862)

    

クリミア戦争セヴェストーポリ要塞の様子と1864年ニューヨークトリビューン

フランスでは反動化、ドイツでは裁判に負け、マルクスヨーロッパでの共産主義運動は最イギリスでしか遂行することはできないと思われた。マルクスイギリスの労働者たちによるチャーチスト運動に期待をかけた。マルクスが頼ったのは彼の旧友のハーニィとアーネスト・ジョーンズであったが、ハーニィはマルクスと仲の悪かった団体とも親密にしていたのでやがて疎遠に、というかお約束マルクスの罵倒→ケンカ別れになった。もう一方のアーネスト・ジョーンズイギリス生まれドイツ育ちの傑物であった。ジョーンズは『人民新聞』なる週刊誌を創刊し、1852~1854年の間マルクスはこれに頻繁に原稿を送っていた。

マルクスは『人民新聞』に先んじて1851年から経済的困難のためにアメリカの新聞『ニューヨーク・トリビューン』にも寄稿しており、これはマルクス一の定期的な収入であった。この『ニューヨーク・トリビューン』という新聞は1841年にホレースグリーリという理想義的な印刷業者によって創刊された後に、アメリカブームだったフランス社会主義フーリエの影を受けたものになっていた。1848年時点でトリビューントマス・マッケルロースチャールズアンダーソン・デーナによって経営されていた。

彼らは1848年の欧州の諸革命に強く興味を抱き、デーナは欧州に視察旅行に出るのだがそこで彼は『新ライン新聞』の編集者として活躍をしていたマルクスと出会う。その会見がきっかけとなって1851年にトリビューンマルクスに対して週二回の寄稿を依頼した。マルクス貧乏から脱出するために喜んでこの申し出に飛びついた。しかしマルクスはこの新聞が自分の政治針と別の針を示していることに気付き、更にマルクス英語が書けなかったので、エンゲルスに「の代わりに原稿書いといて。あ、原稿料はの物だからね?」と頼み込んだ。こうして一年マルクスの原稿はマルクス名義ではあったものの全てエンゲルスによるものであった。1852年のになってマルクスは原稿を自分で書き始めるがドイツ語で書いたものをエンゲルスへ送って英訳してもらうという方式をとっていた。しかしエンゲルスの英語が酷いものであると評判を聞いたので、1853年1月から自分で英語で書くようになった。性格悪すぎである。

マルクスが最初に送った原稿は、当時変化を続けていたイギリス政治に関するものであった。当時のイギリスではダービー首相とディズレーリ蔵相を中心とした保守党が躍進していた。マルクスアメリカ読者イギリス要な政党に関する鋭い分析を提供した。マルクス保守党と、それに対抗する急進を厳しく批判した。

1853年にはマルクスは当時のヨーロッパで最も注されていたトピックの一つである東方問題(欧州トルコロシア外交)に関して興味を持ち始めた。マルクスは当時の東方問題についての知識人デヴィット・アーカートの著述を研究し始めてアーカートを信奉するようになり、民衆から支持を受けていた親ロシアイギリス政治家のパーマーストン卿を二人で批判していたが、毎度のことすぐにケンカを始めた。しかしマルクスはアーカート経済支援視できなかったし、アーカートの方も欧州に関する知識豊富なマルクス重であったので二人の関係はしばらく続いていた。アーカートはその後、イギリス女王の政府の外交政策を研究し批判するための『外交委員会』なる組織し、組織発行新聞の『フリー・プレス』に原稿を書いてくれるようマルクスに依頼したが、原稿料の支払いは不安定であったし、途中ケンカして中断を挟みながら1857年の全に寄稿は止まった。

この頃マルクスが原稿を送っていた新聞には他に、ジョーンズの『人民新聞』とデーナの『ニューヨーク・トリビューン』があったが、その二つの方も継続が怪しくなっていた。『人民新聞』はイギリスと同盟であったフランス批判することを止めなかったため、非国民的だとかれて売り上げを減させた。結局『人民新聞』は1858年に急進の『モーニング・スターに身売りして独立の存在を失った。『ニューヨーク・トリビューン』でもマルクスは多くのトラブルを起こしていた。マルクスは自分の記事が編纂されて面に載ることに抗議して、結局1855年以降マルクスの記事は署名で掲載されるようになった。マルクスは『ニューヨーク・トリビューン』に対する不信感を強めながらも経済的理由の為、嫌々原稿を書き続けたが、それも50年代にヨーロッパを襲った大不況によって彼の仕事減していた。1855年にはラッサールの紹介で働いていた『新オーデル新聞』も廃刊になった。

それから数年の後にマルクスは再び収入のほとんどをエンゲルスに頼ることとなる。デーナは必死マルクス仕事を回していたが、マルクスは編集の「売れるために刺的な文章」という要に嫌悪感を抱いていた。それも南北戦争によって読者の関心が欧州からアメリカに移ったことにより1862年のマルクスへの原稿の依頼は0になりマルクスジャーナリストとしての仕事全に終わりを迎えた。

第一次インターナショナル(1862~1864)

  

1861年のマルクス(左) マルクス一家とエンゲル一家(右)

1864年資本論一巻の刊行(1867年)に先立つ形で、マルクスは『際労働者同盟』、いわゆる『第一次インターナショナル』の創立に参加し、すぐにそこでの導者となった。

元々マルクスインターナショナルの発起人ではなく招聘される側であった。インターナショナル誕生のきっかけは1862年のイギリス博覧会である。この々しい場所にかのナポレオン3世の支援により渡英したフランスの労働者200人がやってきて、イギリスの労働者代表とグレートクイーンフリー・メーソン会館で会談したのである。会談は成功に終わり「フランス及びイギリスの労働者の同盟のための万歳三唱」をもって議事は終了した。これが一連の事件の全ての出発点となった。

歴史的に海外の動きもあった。1863年にはアメリカリンカーン奴隷解放が宣言されイギリスの労働者団体はこれを喜んで迎え入れた。また同年、ポーランドロシア分割支配地域で反ロシア叛乱が発生。ポーランド革命政府(臨時民政府)はポーランド独立、全民の等を宣言し、封建制を打破する政治的、社会革命を推進しようと試みたが、これが帝政ロシアの圧を受けることは火を見るより明らかであった。そこで、当時イギリスで有な労働者団体の導者であった夫人靴工のジェイムズ・オッジャーは集会を開き、イギリス政府はポーランド支援すべきであるとした。オッジャーイギリス政府を動かすためにはフランス労働者の支援が必要であると考えた。イギリス世論をポーランド支持に向けたかったナポレオン三世は再びフランス労働者団体を支援し、英労働者団体の会談は再び行われ『際労働者同盟』の創立が検討された。その後ポーランド叛乱は欧州の同情があったにも関わらずロシアの圧倒的武によってすぐに鎮圧されてしまったが際的な労働運動の炎は消えなかった。こうして会談は続き、ついに1864年、様々な団体を巻き込みつつ『第一次インターナショナル』は誕生したのである。

ここに至ってマルクスは一切の運動に関わっていない。マルクスはこの団体が誕生した時に、議事をフランス語翻訳する係として呼ばれただけである。しかしこの招聘はこの団体の未来を大きく変えることとなった。『際労働者同盟』の集会にはイギリスフランスドイツイタリアスイスそしてポーランドの六カが集まり、労働者の諸問題についてってはいたものの、共産主義的な要素はほとんどなかった。いつも通りマルクス会議の参加者をバカにして少し批評をしてみると、労働者たちはまるでマルクスについていけなかった。参加者たちはインテリではあったものの、労働運動についてはまるで素人であったからだ。マルクスは団体の規約を決める仕事を経て、すぐにインターナショナル導者的立場へと躍り出た。

しかし、インターナショナルにおいてマルクスが実質的導権を握ってはいたのだが、組織には三つのマルクスに対抗する閥があった。

当初最も勢いがあったのはイギリスの労働者組合閥である。彼らは組織設立の原動になり、インターナショナルの本部は最初から最期までずっとロンドンにあったし、なにより運営の多くの部分を彼らが捻出していたからだ。インターナショナル会議ロンドンで開かれた時、マルクスイギリス人に彼の経済物論や革命理論をハツラツと演説したが、イギリス人の反応は薄かった。彼らにとって労働者階級の利哲学経済学関係のものだったのだ。

1866年にジュネーブで開かれた第一回年次大会ではマルクスプルードン義者たちと労働運動政治運動の関連性について諍いを起こした。ついでマルクスはバクーニンとも意見を一致させることが出来ず、結局インターナショナルは組織が出来て間もないにも関わらず分裂の兆しが既に見え隠れし始めていた。

1867年資本論」の第一編を刊行。

晩年の活動

オットー・フォン・ビスマルク
彼は1878年に社会主義者鎮圧法をだしマルクスを苦しめた。

内部分裂の兆と財政難を抱えながらも第一次インターナショナルは、いくつかの大会を成功に収めていた。1867年には第一回ジュネーブ大会、67年に第二回ローザンヌ68年と69年にはそれぞれブリュッセルバーゼルで大会が開催されている。わけても第一回大会は(閥争いはあったものの)大きな盛り上がりを見せて、そこでインターナショナルの行動針が決定された。労働運動があるところにインターナショナルの活動があり、マルクス貧困健康問題に苦しみながらも資本論の執筆と行してインターの運動に参加していた。

しかしやはりというべきか、徐々にインター内の内部分裂がしくなってくる。プルードン現在社会制度を良していくをし(義)、政治闘争やストライキには反対していた。かたやバクーニンは極左に走り、国家政治そのものを否定する無政府主義者であった。マルクスとエンゲルスは彼らとは逆に政治闘争やストライキを重視し、革命によって政治を労働者の手に収めようとするプロレタリア独裁をした。

第4回大会ではマルクスとバクーニンがするどく対立する。ついにはそれまで病欠していたマルクスが初めて参加した72年の第5回ハーグ大会でマルクスはバクーニンの除名を可決してしまった。更にマルクスインターナショナルの総務委員会をニューヨークに移すことを決議した。こうしてマルクスの初めての大会参加はインターの分裂と移転を決める大会となってしまった。

マルクスがこうした判断をした背景にはパリコミューンの敗北があった。1871年に普戦争プロイセンの勝利で終わると、パリ世界で初めて労働者が政治を握ったパリコミューンが成立した。マルクスコミューンを高く評価し、3つの明をだしてこれを援助した。それは今日では『フランスの内乱』というタイトルで彼の要著作の一つとなっている。

しかしパリコミューンは内乱の果てに僅かな期間で崩壊してしまった。パリコミューンがある間はインターナショナルもこれを支援するために一致団結する必要があった。それがコミューンの瓦解によってインター内の意見対立が一気に吹き出すことになってしまったのだ。1876年、アメリカフィラルフィアで第一次インターナショナルは正式に解散してしまう。インターナショナルが失敗に終わるとマルクスは気落ちして、彼の体は一気に老衰に向かってしまった。エンゲルスはマンチスターの工場を売り払い、ロンドンに移住までしてマルクスを援助した。

だがマルクスが落ち込んでいる間も世界の動きは止まることを知らない。血宰相ビスマルク導の下で普戦争で勝利したプロイセンドイツ統一へと導いた。これにより英から遅れていたドイツでも資本主義が発展し、同時に労働運動も躍進していく。その右を担ったのがラッサールの「ドイツ労働総同盟」であり、左にはマルクスリープクネヒトやベーベルらの「ドイツ社会労働党アイゼナハ)」があった。右と左1875年にゴータの大会で合併し、名を「ドイツ社会主義労働党」とめた。この時に表されたゴータ綱領をマルクスは気に入らず、これを鋭く批判する。この批判書『ゴータ綱領批判』はマルクスの最期の要著作となった。

巨星墜つ

あっちに行け、出て行け!臨終の言葉なんてものは十分に言い足りなかった馬鹿者達のためにあるんだ!マルクス最後の言葉、政婦が「臨終の言葉を言ってください」と頼んだことに対して)

人類は頭一つだけ低くなった。(エンゲルス、マルクスの死に際して)

1870年代になるとマルクス肝臓を病み始める。これはストレスが原因とされているが詳細は分からない。温泉治療などを繰り返すようになり、これによりマルクスは一時的に健康を回復するが、今度は妻イェニーが肝臓にかかり、長い闘病生活の果てに1881年に没す。マルクスはこの長年の貧困生活を共に過ごした夫人の葬儀にドクターストップによって参列できなかったので墓前で弔辞を読んだのはエンゲルスであった。そして妻の死後、カールに追い打ちをかけるように彼の最の長女ジェニーまで折してしまう。

妻の死後マルクスはほとんど廃人のようになり、衰弱していく。彼の体には既にありとあらゆる病魔が取り付いていた。そして1883年3月14日、肘掛け椅子に座ったままで天国?への路につく。享年65歳であった。彼の墓はイギリスロンドンハイゲイ墓地にあり、現在でも彼の墓前にを添える人は絶えないという。

ちなみに墓地観光は有料。立像が墓標に立てられておりかなり立っている。ちなみにこの墓標は結構デカい。→
し首のように見えなくもない。

さらに余談ではあるが、彼の死から三ヶ6月5日に次世代の経済学巨人ジョン・メイナード・ケインズが誕生している。

その人柄

ニートマルクス

ドイツが生んだ偉大なニート世界に最も影を与えたニートとも。

成人しても定職につかず親の遺産を食い潰しながら生活し、それが尽きた後は資本家の友人にたかり続けるというニートの鑑。後に記者の職を得たり、著書が売れたりもしたが、収入に見合わないアッパーミドルの生活を続けたために常に計は火の。親からは「資本の研究ばっかしてないで資本を稼いでこい」と言われる始末。

そのくせ、たまに講演を引き受けたりしても見栄をって報酬をめなったとか。結局のところ、足らない分は労働者から搾取して財を成した友人に出し続けてもらうということに。友人にお金をたかる文句もひどいもので、「たとえば子供たちを退学させ、まったくのプロレタリアート的住宅に移り、メイドに暇をやり、じゃがいもで暮らすようなことは、育ち盛りのたちにとってほとんどふわさしいことではないだろう」などと、自分のたちをだしにした挙句、労働者の生活を馬鹿にしたような事まで書く外道である。そこまでたかられても支援を続ける友人の寛大さにはに恐れ入るが、その友人も、身内の葬儀を伝えた手紙の返信で心された時にはさすがにぶちきれたとか何とか。もし、労働者の天国と地獄があるのなら、間違いなく地送りであったろう。

マルクスがこのようにニートだったことから、たまに「マルクスの考えた共産主義社会は、働かなくても大丈夫ニート天国」と誤解している人もいるが、当然そんなことはない。

メイド萌えマルクス

レンシェンさん

こんな銭感覚破綻者がどうにか生活を続けられたのはしっかりもののメイドさんのおかげ。マルクス夫人イェニーさん父親は枢密顧問官という高級官僚であり上流貴族に属していためイェニーさんは一人でマルクスいだ訳ではなく、子供の頃から一緒に行動してきた自分の姉妹同然の専属メイドさんを伴っていた。それがヘレーネ・デムート、レンシェンさんである。

このレンシェンさんというメイドさんは給料も貰えないことも多いのにマルクスに数十年務め、マルクスの死後エンゲルスの下で暮らし、死後はマルクスの墓に埋葬されるほどなのに、女癖の悪いマルクスときたら、レンシェンさんに手を出して妊娠させてしまい、さらには生まれた子供の処遇もやはり友人に丸投げした(友人の子として里子に出した)というどうしようもないダメ人間っぷり。

だけど、伝統的なマルクス研究者の間では、これはマルクス批判者による根も葉もない誹謗中傷だとしてしていることが多い。レンシェンさんの息子フレデリックが「自分の父親マルクスである」と書いた手紙マルクス、エリノアがフレデリック違いのと記した手紙が現存しているが、手紙そのものの信憑性も疑わしいという意見もある。果たして相はどうなのか?

ちなみにマルクス正妻のイェニーさんの間には7人の子供が生まれたがほとんどは栄養失調で亡くなってしまい、生き残ったのは3人のだけだった。

悪筆マルクス

マルクスは極端な悪筆でも知られ、その文章は本人かエンゲルスしか読めなかったとの事で、エンゲルスは著書の刊行などにあたって必死で彼の文章を読み解こうとしたためにを悪くしたというくらいである。

マルクスの死後、全世界社会主義者の望みは、マルクスの書斎に残されている、まだ世に出ていない膨大な稿が出版されることであった。しかしマルクスの書いた文字読み解けるのはこの世でエンゲルスだけであったので、極めて大量の編集作業はエンゲルスに一任されることになってしまった。しかもエンゲルスも容易にマルクスの書体を読み解ける訳ではなく、エンゲルスはマルクスの書体を『文字的書体』と読んで必死読み解かなければならなかった。その作業がエンゲルスの寿命を縮めたのかは分からないが、エンゲルスは資本論三巻の出版から8ヶ後にこの世を去る。エンゲルスは、自分の死後、自分がめきれなかった稿を出版させるために、生前、子のカウツキーマルクス書体の解読法を伝授していた。

マルクスの悪筆の頂は「nienur論争」である。「nienur論争」とはマルクス手書き稿であんまりに字が下手すぎて「nie」と書いてあるか「nur」と書いてあるか分からない場所があるのだが、ドイツ語では「nie」は「決して〜ではない」という意味であって、nur」は「〜でしかあり得ない」という意味になる。つまり受け取り方によって文章の意味が逆になってしまうのだ。マルクスは果たして「nie」と書いたのか「nur」と書いたのか。それを知るのは天国マルクスだけなんだろう。

他にもロンドン時代に鉄道局の書記になろうとしたが字が下手なことを理由に断られたりしている。

マルクスの性格

30年にわたって大英図書館に通い詰め、研究および著述活動に専念した生の学者であり、はともかく、その学識の高さは多くの人の認めるところだった。ただし、その性格は自信傲慢不遜、異論や妥協を認めない頑固さに非常に高い攻撃性を持っており、非常に付き合いにくい人物とされていた。

マルクスはけっして弱きを助け強きをくじく正義の味方などではなく、自分のと才を発揮することにしか興味がなかった。マルクスは自分の理論に一切に過ちがないと信じていた。自らの理論を批判する者はみなバカクズだと考え、矛盾論破せずにおくことは知的配信を推進することだと周りに漏らしていた。マルクスの辛らつな舌鋒は、資本家のみならず他の社会主義活動家想的社会主義者)にも向けられ、むしろ一度彼に賛同しつつもその後離反した者に対して最も彼の敵意は向けられた。

そのマルクスの姿勢こそが(日本の新左翼にも見られたような)粛清や分乱立の元となっているともされる。この性格は生まれつきであり、大学在学中は父親息子カール余りに高すぎるプライドをどうにかするために何通も手紙を書いているがほとんど効果はなかった。

一方で自分の支持者に対しては大人物として振る舞い、そのため労働者にはよく慕われていたという。現在、一般に考えられているマルクス後者イメージによるところが大きいのだが、学者や革命べて労働者の数の方がかに多いことを考えれば、自然なりゆきであったと言えるだろう。

シェイクスピア読するなどの芸術的感性もあり、芸術に関する論文も発表している。

長女ジェニーからカールパパへのアンケート

ロンドン在住、長女ジェニーは当時流行っていたアンケート遊びに夢中になっていた。カールをはじめ、さまざまな人の回答を聞いて『告白帳』なるノートにまとめていたらしい。

質問 マルクスの回答
すべき徳とは? 男なら。女なら弱さ
あなたの長所は? 頑固に努すること
あなたが幸福だと感じること 闘争すること
あなたが不幸だと感じること すること
あなたが最も後悔している悪しき行い 簡単にだまされること
あなたが最も嫌悪する行為 おべっかをつかうこと
あなたが拒否するもの マーティン・タッパー[1]
何をしてるのが好きか 本を漁っているとき
好きな詩人 シェイクスピアアイスキュロス[2]、ゲーテ
好きな散文作家 ディドロ[3]
あなたの英雄 スパルタクス[4]、ケプラー[5]
あなたのヒロイン グレートフェン[6]
好きな
好きな色
好きな名前 ラウラ、ジェニー[7]
好きな食べ物
好きな格言 人間的なことで嫌いなものはない 
モットー 全てを疑ってかかれ
  1. マーティン・タッパー1810~1889):イギリス詩人
  2. アイスキュロス(BC525~BC456):ギリシャ三大悲劇詩人の一人
  3. ディドロ(1713~1784):フランス哲学
  4. スパルタクス:ローマ帝国時代に奴隷叛乱を組織した人物
  5. ケプラー1571~1630):ドイツ天文学
  6. グレートフェン:ゲーテの著作『ファウスト』の登場人物
  7. ラウラ、ジェニーマルクスの長女と次女の名前

マルクスの人間関係

イェニー(ジェニー)

イェニー・マルクス1814~1881)

マルクスの妻。マルクスを生涯に渡って支えた伴侶である。

元々はマルクスゾフィーの級友であり、旧姓はイェニー・フォン・ウェストファレン実家プロイセン政府の役人をしているトリ-アの名であり、彼女の父親1756年にヨーロッパを巻き込んで起こった七年戦争の際の功績で帰属に列せられていた。彼女の柄と美貌をもってすれば良い夫をもつ事が出来たはずなのに、なんの因果かイェニーはマルクスに落ちてしまった。

カールはイェニーに何通も愛の詩を書いて送り、その中のいくつかはイェニーの一生の宝物になった。付き合った当初はゾフィーによって交際は隠されていたが、やがて二人の関係はマルクスに知られるようになった。しかし問題はイェニーの方のである。当時の感覚ではプロイセンの名門官吏のお嬢様と訳の分からんユダヤ人の男がに落ちることは良くないこととされていたからだ。しかしカールは最終的に勇気を出してイェニーの実家ウェストファレン告白手紙を送ったのだ。残念ながらその手紙も、その手紙がどう受け取られたのかも記録は残っていないが、紆余曲折を経ながらも二人は結婚をすることになる。

しかしイェニーとカール結婚生活はけして幸せなことばかりではなかった。マルクスは一切の経済観念と生活を持たずマルクス一家は常に極貧と共にあったからだ。マルクスは子どもに貧困の苦しみを与えることを嫌がったため、しわ寄せがいったのは妻であるイェニーであった。食べるのも着るものもなく、夫は政治活動や抽的思考に耽ってばかりであり、彼女は精を病みつつも必死で夫をサポートした。

想像してみてほしい。女の夫は有名大学の哲学科を卒業したは良いものの働くことを卑しいと考えていて仕事にも就かず毎日図書館にこもって本ばかり読んでいる。彼は異常プライドが高く口が悪いので友達はほぼゼロ。口癖は「まぁ見てなって、いつか革命起こして世界を変えてやるからよ」。正直こんな夫は嫌だと思う。

それでもマルクス一家が破綻を来さずにいられたのは、外に対しては崩のように批判をするマルクス家族に対してだけ(あとエンゲルス)は人間味を見せていたからである。マルクスにとって家族(あとエンゲルス)は世界一信じられる他人であった。世紀の革命の妻として生きた彼女が幸せだったかどうかは本人にしか分からない。

エンゲルス

もじゃもじゃー(1820〜1895)

マルクスるにおいてエンゲルスを外すことはあり得ない。

マルクスにとってエンゲルスとは、親友であり、同僚であり、パトロン経済支援者)であり、戦友であり、そして何よりマルクスの一番の理解者であった。マルクスにとってのエンゲルスは、サトシにおけるピカチュウハッピーセットにおけるしょぼいおもちゃのように切っても切れない存在である。

前半生とマルクスとの合流

エンゲルス、本名フリードリヒ・エンゲルスは1820年11月28日に当時プロイセン領だったラインラントバルメンの『カスパル・エンゲルスとその息子達』という名前の商社を営む有な紡績資本家長男として生まれた(マルクスの2つ下)。要するにブルジョワ出身である。エンゲルスは文学が好きで頭明晰な青年であり現在でも彼が若い頃に書いた海賊物語宗教ギリシャ叙事が残っている。彼は大学への進学を希望していたが1837年彼が18歳になった時にギムナジウム(ドイツエリート養成所、日本高校生くらいの歳)を退学し経営者としてのを歩み始める。その後、彼はブレーメンで通信員として働きながら、地方新聞に投稿して文筆としての才を開させ始める。彼は一生を通じて深淵ではないが速筆を活かして多量の文章を残している。

1841年10月兵役に召集されたエンゲルスは、12ヶベルリンのクプファーグラーペン砲兵隊に送られた。この時に彼は軍事に関して興味を覚え、これを人生趣味とする。彼は軍務の間にベルリン大学の聴講生としてヘーゲルの洗礼を受けた。後、マルクスも世話になったバウアーなどのベルリンインテリゲンツィア達と交際を持った。彼は1842年の前半に『ライン新聞』やルーゲの『ドイツ年誌』に原稿を送ったりしていた。1842年のに兵役期間が終わると、エンゲルスはマンチスターの『エルメン・ウント・エンゲルス』社に勤務すべく出発した時に、彼は『ライン新聞』の事務所を訪ね、マルクスとの初対面を果たす。後に一生の友人となる二人であったが、マルクスかを批判することに全を尽くしていた時期であったし、エンゲルスもそんなにはを割って話さなかったので、始めての邂逅は冷たいものであったという。エンゲルスはマンチスターでも勤務の合間をぬって『ライン新聞』にイギリス社会経済に関する論文を送り続けた。更にイギリスの急進義者の仲間を見つけ、これと仲間になっている。

イギリスに来て一年ちょいが経ったころ、彼は父親に呼び戻され途中立ち寄ったパリでエンゲルスはマルクスに運命の再会を果たす。二人は意気投合しすぐに友人同士になった。人付き合いがへたくそで、ほとんどの友人とけんか別れをしていったマルクスにとってエンゲルスは一の一生と通じての友達であったと言えよう。エンゲルスは当時マルクス企画していた『独年誌』に原稿を寄稿したが、残念なことにこの雑誌はわずか一号廃刊になってしまった。

その後、彼は予定通り父親の経営する会社で働いていたのだが、働くことにほとほと嫌気がさしており、マルクスにグチの手紙を何通か書いている。そのストレスを彼はドイツ社会主義者モーゼス・ヘスの仲間達とつるむことによって発散していた。当時ヘスは労働者階級の利益と『の工業的、農業的その他の住民の状態の容赦なき暴露』に尽くすような新しい新聞の創刊を計画していた。エンゲルスはこの時に大著『1844年における労働者階級の状態』を完成させた。この著作によって彼はイギリスブルジョワジーの集団的殺、窃盗、その他罪を然に暴露する。これは後のマルクス歴史的大作『資本論』にも強く影を与えている。

1845年エンゲルスはマルクスパリを追放されたというニュースにする。彼はマルクスが移住するために西ドイツシンパから大をかき集めて援助した。ブリュッセルに移住したマルクスは、パリ時代にエンゲルスが書いていたブルーノバウアーらとの古い論争を扱った小冊子を5倍の長さに拡大してこれを『家族ブルーノバウアー会社に対して』と題して出版した。これは二人の始めての共著となる。一方働くことが心底嫌になったエンゲルスは父親に直談判。息子に甘かったエンゲルパパはこれを許したので、エンゲルスはマルクスの待つブリュッセルに飛んでいくのであった。

ブリュッセルマルクスと合流したエンゲルスはそれからマルクスに頼まれてパリへと向かう。エンゲルスはパリでの退屈な生活と任務に勤しみながら、趣味である外国語の勉強に精をだす。その後マルクスとともに『共産主義者連盟』の導者となるも1848年の革命によりドイツに亡命、そしてドイツでも追放されスイスへと更なる亡命のに出る。1849年の初めにはドイツに帰ってきたエンゲルスはにバーデンとプファルツで募集された反乱軍に参加したが戦闘を一度したきりで戦争敗北し、再びスイスへと亡命する。

1849年の終わりにスイスからロンドンへ行きマルクスと再び合流。それから彼は収入を得るために父親と和解して嫌々ながらもマンチスター事務員の仕事に就き、マルクス経済援助を送り続けた。

人柄と功績

外見に頓着であったマルクスとは対照的にエンゲルスは人当たりのよい紳士であった。性格はハツラツとしており、変化を恐れずどんな環境にも染むことが出来る才を持っていた。ミリオタであり、ディープな軍事知識を持っていたためマルクスたちから「将軍」というあだ名をつけられる。学習意欲豊富で数学を初めとした自然科学や、そしてなにより人生を通して哲学学(古代英語、古代北欧、ゴートペルシャ語など)に熱中した。

マルクスコミュ障ぶりを示すエピソードとして、エンゲルスが同棲中の彼女が亡くなったことをマルクスに知らせた時、マルクスは返答として「君の彼女が亡 くなったのか、そりゃ残念だね。でも私も今借生活ですごく辛いんだ。君も辛い辛い。おあいこだね。というわけでを送ってくれないか?(意 訳)」という手紙を送った。流石にこの手紙にはエンゲルスも怒って"四日ほど"マルクス視したらしい。

エンゲルスは生涯まともな職業を持たなかったマルクス経済支援をし、自らも共著(『家族』、『ドイツイデオロギー』)、あるいは編纂(『資本論二巻、三巻』)という形でマルクス思想の形成に参加した。中には共著といいつつそのほとんどをエンゲルスが書いた著作もある。例えばマルクスの著作として名高い共産党宣言であるが、これを書いたのは9割方がエンゲルスである。『ドイツ・イデオロギー』も下書きはほとんどがエンゲルスによって書かれている。マルクスの思想の普及に関する貢献も大きく、マルクスの『唯物史観』や『社会主義』などはマルクスでなくエンゲルスが用いた言葉であった。

これらのことから、マルクス義は、別名マルクス=エンゲルと呼ばれることがあり、「エンゲルスの思想≒マルクスの思想」と捉えられることが多い。要は「どの本をどっちが書いたか分からないなら一緒にしちまおーぜ」ってことなのだが。

一方で現代の線からエンゲルスへの批判も存在する。エンゲルスがいかにマルクスを信奉し、思想をみ取っていたとしても所詮は別の人間であり、結局のところ『マルクス理論≠エンゲルス理論』というである。「スターリンの始まりはエンゲルス(「マルクス思想の歪みはエンゲルスから始まった」という意味)」と言われることもあり、マルクスとエンゲルスの思想を引き離して研究する動きも見られる。

著作

ハイネ

ハインリッヒ・ハイネ17971856)

大学時代のマルクスは、人付き合いが苦手で、暇さえあれば婚約者のイェニーに「が心の甘美なるイェニー」とかいうクッソ気持ちわるい民謡集や自分で書いた