戦後とは、戦争の終結後の期間を指す言葉。大きな戦争を一つの時代の区切りとして、戦前・戦中・戦後という区分をする。「戦後」は、戦争による混乱を抜けきっていない時代という意味合いをもつ[1]。しかし終わりを設けず現在までを含めることもある[2]。特にことわりがなければ、第二次世界大戦後の日本を扱う。
占領下の日本
戦後世界秩序の形成
第二次世界大戦当事国のうち連合国の中核であるアメリカ合衆国・イギリス・ソ連の3カ国は大戦中から協議を重ね、連合国50カ国により採択された国際連合憲章に基づいて、1945年10月、国際連盟にかわる国際連合を発足させた。連盟と異なって国際連合は、平和を守るためには最低限度の軍備が必要であるとの立場に立ち、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中華民国からなる五大国を常任理事国とする安全保障理事会を設けた。
連合国は、第一次世界大戦に見られたような、莫大な賠償金を敗戦国に課す方法は、かえって敗戦国に屈辱を与え、更に次の戦争を引き起こすと考え、むしろ敗戦国が二度と戦争に訴える事のないように、敗戦国の憲法や国家構造を平和的なものに変えるための改革を、連合国による比較的長期の占領によって実現する道を実現した。
こうして国際連合を中心とした戦勝国の協調体制と敗戦国への占領を通じて、安定した戦後秩序が生み出されるはずだった。しかし圧倒的な軍事力と経済力を背景にした影響力[3]を持つようになった米ソ二国の間では、異質な国家理念・社会体制を背景として、戦後秩序をいずれかがリードするかをめぐる利害対立が表面化し、戦後の世界は米ソ対立を軸に展開することになった(冷戦)。
ソ連は、ヨーロッパにおいてドイツの猛攻を多大な犠牲を払い食い止めた実績により、ドイツ敗退後の東ヨーロッパ地域に影響力を伸ばしていった。1947年9月、ソ連と東ヨーロッパ共産党の連絡組織である欧州諸国共産党・労働者情報局(コミンフォルム)を結成し、1948年にベルリン封鎖をした。さらに東欧諸国との間の相互援助条約の締結や原爆実験の成功(1949年)によって、西側への対決姿勢を明確にした。ソ連に対抗し、1946年3月に前イギリス首相ウィンストン・チャーチルによる「鉄のカーテン」演説があったのは、東西対立の顕在化を象徴していた。アメリカにおいても、1947年3月、ハリー・トルーマン大統領により、反共演説(トルーマン・ドクトリン)がんされた。アメリカは、ギリシア・トルコへの緊急援助に端を発し、西ヨーロッパの復興援助計画であるマーシャル・プラン(1948年)を進めることによって、ヨーロッパにおける共産主義勢力との対決姿勢を明確にした。ベルリン封鎖へは、空輸を行ない対抗した。さらに1949年4月には、アメリカと西ヨーロッパの共同防衛機構=北大西洋条約機構(NATO)が結成された。同年5月には、米英仏が管理するドイツ連邦共和国、10月にはソ連が管理するドイツ民主共和国がそれぞれ成立した。
アジアでも、中国では国共内戦が、中国共産党の優位が、1948年後半に明らかになりつつあり、1949年10月、毛沢東を主席として、中華人民共和国が成立した。蒋介石の国民党は台湾に逃れ、中華民国政府を存続させた。朝鮮半島でも独立の動きが高まったが、戦後初期にあった統一独立案は放棄され、北緯38度線を境にして、北はソ連軍、南はアメリカ軍によって分割占領されて、それぞれ朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国として、今日に至っている。
一方、戦争中様々な国が、被支配民族を戦争に協力させるために、独立を認めたり、戦後の民族独立を約束したりしたこと、また、戦争の過程で生活基盤が破壊されたことなどに刺激され、アジア・アフリカに広がる植民地では、大戦中から民族解放運動が起こっていた。こうして、大戦の終結から1960年-70年代頃までに、新興独立国家が次々と誕生していった。
日本の植民地や占領地域でも、日本の敗戦とともに、民族独立の動きが活発になり、フィリピンは1946年に、インドネシアは1949年に独立を達成したが、独立を宣言したベトナムにはフランスが軍事介入して、長く戦乱が続いた(インドシナ戦争)。また日本が1945年8月にポツダム宣言受諾するより前に、アメリカ軍によって占領された沖縄や小笠原諸島は、長い間アメリカによる直接統治が続いた。千島列島を含んだいわゆる北方領土や樺太は現在もロシアによる支配が続いている。
占領と改革
日本は、ポツダム宣言[4]を受諾して連合国に降伏した。その結果、1945年・昭和20年9月2日の降伏文書調印から、1952年・昭和27年4月28日の講和条約発効までの約7年間、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ-SCAP)の間接統治に置かれることとなった。10月2日、総司令部(GHQ)が正式に発足をした。GHQは元々アメリカ太平洋陸軍総司令官のダグラス・マッカーサーの下で、日本侵攻を支えていた組織で、占領政策にも関わることになる。
日本を占領・管理するために来日したマッカーサーには、アメリカ政府の方針として1945年9月22日付で「降伏後における米国の初期対日方針」、11月1日に、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」が与えられた。後者には、日本の軍事占領の目的、政治的・行政的改組、非軍事化、経済的非武装化、賠償方針、財政金融方針などについてアメリカ側の方針が記されており、この文書を基本として、日本の改革が行われた。
対日占領政策決定の最高機関としては、ワシントンに極東委員会が置かれていた[5]。機構上は、極東委員会が対日管理機関であり、その下にアメリカ政府があり、アメリカ政府が日本への指令を作成・伝達することになっていた。しかし、極東委員会が実際に機能し始めたのは、占領が開始された半年後の1946年2月26日だった。したがってGHQは重要な改革について、極東委員会の牽制を受けずに断行することができた。また対日参戦について、B29爆撃と原爆投下により、日本を直接的に敗戦に導いたアメリカの政治的地位は、占領政策でも別格の扱いをもたらした。極東委員会の政策は、アメリカ政府を通じた命令の形(統合参謀本部の指令)で最高司令官マッカーサーに伝えられた。アメリカは、拒否権の他に中間指令権を持っていたために、極東委員会の役割はいっそう限定された。東京には、最高司令官の諮問・協議・助言機関として、米英ソ中からなる対日理事会が置かれたが、この機関は農地改革問題以外には、大きな役割を果たさなかった。
このように連合国軍とはいっても、実態はアメリカ軍による単独占領であった。ドイツ占領とは違い、日本占領の場合、総司令部は直接軍政を敷かず、既存の政府の行政機構を利用した間接統治を行なった。総司令部が企画・立案した政策は、覚書・メモ・口述などの形式で命令として、日本政府に伝達された。その命令を、法律・政令・省令・規則などの形式に書き直して日本政府が実施するという形を取った。しかし、アメリカ側が超法規的権力を持っていたことにかわりはなく、アメリカ政府は、日本側が指令を満足に遂行しない場合、日本の人事機構の改変を要求し、直接行動を取る権限をマッカーサーに与えていた。1945年9月11日に行われた東條英機らのA級戦犯容疑者の逮捕、同年10月4日の人権指令[6]、1946年1月4日の公職追放などは、この方針に基づいて日本側への事前通告なしに行われた。
朝鮮半島北部・南樺太・千島列島などはソ連軍が、朝鮮半島南部及び奄美諸島・琉球諸島を含む南西諸島と小笠原諸島はアメリカ軍が占領し、直接統治が行われた。台湾は中華民国に返還されたので、日本の領土は北海道・本州・四国・九州とその周辺の島々に限定された。
敗戦後、混乱の少ない終戦処理を期待して組閣された、皇族である東久邇宮稔彦王を首班とする内閣は、1945年8月17日に発足し、大きな混乱もなく、内地・外地の軍隊の武装解除や、連合国軍の進駐受け入れ、降伏文書調印を無事に終えた。さらに日本政府は、9月20日、いわゆるポツダム緊急勅令[7]を公布し、総司令部の指令に基づいて、法律の制定を待たずに命令ができるようにした。しかし東久邇宮内閣は、「一億総懺悔」[8]「國體護持」[9]を唱え、また戦犯の逮捕の逮捕・処罰方針をめぐり、総司令部と対立した。日本政府は容疑者の処罰・裁判を日本側が行うことを総司令部に申し入れるが、総司令部はこれを認めなかった。さらに10月4日の人権指令[10]を積極的に実行する意思もなかったため、内閣は総辞職することになった。
民主化
東久邇宮内閣に代わり、戦前の政党内閣期に穏健な外交政策を展開[11]した事で知られていた幣原喜重郎が、1945年10月9日、首相に就任した。幣原内閣は、翌年の5月22日に退陣するまで、五大改革指令の実行[12]、いわゆる人間宣言、公職追放、戦争放棄についての基礎的な発案、総司令部の用意した憲法草案の閣議決定、極東国際軍事裁判所の設置など、重要な案件を実行していった。
ついで総司令部は、政府による神社・神道への支援・監督を禁じ(神道指令)、戦時期の軍国主義・天皇崇拝の思想的基盤となった国家神道を解体した。
天皇・政治家の取り扱い
1945年12月、皇族梨本宮守正王や内大臣木戸幸一に逮捕命令が出され、内外で昭和天皇の戦争責任問題が取り上げられるようになると、天皇周辺や政府は、総司令部やアメリカ政府の意向を知ろうと努めるようになった。
一方、総司令部やアメリカは、天皇制を廃止した場合に予想される混乱を避けるために、占領管理に天皇制を利用すべきだと考えていた。このような日米双方の思惑の上に、1946年元旦、天皇が現御神であり、日本民族が他民族に優越するという神話を否定したいわゆる人間宣言と呼ばれる詔書[13]の発表が演出された。同年1月4日に、日本政府に事前連絡がないまま、総司令部から公職追放令が発表された。戦争犯罪人・陸海軍軍人・超国家主義者・大政翼賛会などの政治指導者・軍国主義者に該当する者を、「好ましからざる人物」として公職から追放することを命じた。追放の終わる1948年5月までに、軍人を中心として21万人が罷免された。幣原内閣からも該当する閣僚が出たため、5人の閣僚を入れ替えて、改造内閣を組閣した。
天皇の退位問題
政界上層部や天皇周辺で退位が問題にされたのは4回ある。
- 1945年8月の敗戦時。戦争責任者を連合国に引き渡すのが苦痛であるとする天皇の意向があり、また弟宮である高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王らは、天皇に退位を求める立場を取っていたとされる。この時は木戸幸一内大臣の意見で退位は否定された。
- 1946年3月頃。終戦後の1946年3月18日から4月9日まで計5回、松平慶民宮内大臣ら側近5人に戦前戦中の回顧談を聞き書きさせた「拝聴録」が作られていた頃。
- 1948年11月。東京裁判の結果が出たあと。当時宮内府長官田島道治がマッカーサーに宛て、天皇は退位しない旨書き送っていた。
- 1952年5月。講和条約が発行するのを受けて、木戸幸一は獄中から、何らかの形で天皇は国民に陳謝すべきであること、天皇制の道義的再建のためにも退位するよう天皇に伝えている。
民主化に関する主な法規
日本国憲法の制定
「日本国憲法」の記事も参照。
五大改革指令が伝えられた1945年10月11日、マッカーサーは幣原に、憲法の自由主義的改革を要請した。これを受けて同月13日の閣議で内閣を中心とした憲法調査方針が決定され、同月27日、松本烝治[14]国務相を委員長とする憲法問題調査委員会が発足した。しかし、1946年2月1日、『毎日新聞』にスクープされた松本試案の保守性[15]に驚いた総司令部は、極東委員会が同年2月下旬に活動を始める前に、総司令部主導で憲法を作り上げなければならないと決意するようになった。
マッカーサーは、民政局(GS)長ホイットニーの下で、民政局次長ケーディスらを中心に起草された、いわゆるマッカーサー草案が2月13日、日本側に提示された。草案の骨子の画期性は、主権在民に基づく象徴天皇制と戦争放棄の2点にあった。総司令部は、厳しい国際情勢のもとで天皇制を維持するためには、このような画期的な憲法改正が必要なのだと説いて、内閣側を説得した。
内閣は、英文草案の翻訳のできた部分から順次閣議にかけるという大急ぎの作業によって同年3月5日、閣議決定するに至った。こうして改正案は、翌日ワシントンのアメリカ政府と極東委員会に届けられた。極東委員会は、この新憲法案が日本の議会にかけられる前に、ポツダム宣言に反するところはないか、またポツダム宣言にいう「日本国国民の自由に表明せる意思」を考慮しているかどうか、十分検討したいとの立場を取った。これに対し、アメリカ政府とマッカーサーは、日本の閣議が自ら決定した憲法を極東委員会が検討するのは、まさに「日本国国民の自由に表明せる意思」に干渉するものに他ならないと反論した。総司令部は、殆ど全面的に総司令部の起草にかかる憲法草案を、このような論理で極東委員会の関与から外すことに成功した。
民間側私案
- 憲法研究会 - 高野岩三郎、杉森孝次郎、森戸辰男、鈴木安蔵をメンバーとする。1945年12月27日、「憲法草案要綱」を発表し、内閣や総司令部にも憲法案を提出した。主権在民、天皇の国家的儀礼行為、寄生地主制廃止、改憲規定を持っていた。民政局次長ケーディスがマッカーサー草案を執筆した際に、この私案を参考にした。
憲法草案の修正
衆議院憲法改正小委員会の議事速記録によると、委員会と小委員会双方の委員長であった芦田均の日本国憲法第9条に関する修正追加があった。芦田は、日本国憲法第9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」との字句を挿入して修正した。この芦田修正を知った極東委員会メンバー国のなかに、こうなると自衛のための軍隊保持が可能になってしまうとの危惧が生まれ、これを受けて、日本国憲法第66条2項の文民条項の追加が要請された。これを受けて、貴族院帝国憲法改正案特別委員会小委員会で修正された。
新憲法による民主化
- 地方自治法 - 1947年公布。この法律は都道府県知事・市町村長を公選とし、地方の政治や行政は、その地方の住民の意思に基づいて行われることや、地方は国から独立した法人格であることなどを規定した。その結果、戦前の内務省時代のような、官の任命による知事とは異なる制度隣、この年の末には内務省も旧警察制度の廃止と同時に解体された。
- 警察法 - 1947年公布。中央集権的な国家警察の原理を改め、自治体警察と国家警察の2本立てとした。自治体警察は、市及び人口5000人以上の町村に置かれ、市町村長の所轄の下に、民間人からなる公安委員会を置き、この自治体警察に管理された。原理上、中央の国家権力から何らの指揮も受けないことになり、経費は自治体が負担することとされた。しかし、財政負担問題と、中央政府の警察権一元化により、1954年6月、改正警察法により、自治体警察は消滅した。
- 民法 - 1947年改正。家中心の戸主制度を廃止し、男女同権の家族制度を定め、戸主の家族員に対する支配権は否定され、家督相続制度に代えて財産の均分相続が認められ、婚姻・家族関係における男性優位の諸規定は廃止された。ただし、夫婦とその子を単位とする戸籍制度は存続した。
- 刑法 - 1947年改正。不敬罪、姦通罪が廃止された。
政党政治の復活
「衆議院」の記事の衆議院総選挙の結果一覧、内閣総理大臣の記事も参照。
民主的改革のなかで、政党も次々と復活、結成された。衆議院は1945年12月18日に解散されて、各党は翌年1月に予定されていた(実際は4月10日になる)総選挙を目指して活動開始した。総司令部は戦前の国家主義的な議会人が衆議院に復活することを好まず、保守的と見られた日本進歩党や日本自由党をパージによって弱体化させるために、1946年1月4日、公職追放令を発した。追放令は、1942年の総選挙で東條英機内閣の推薦を受けて当選した者を全て失格としたため、政界は混乱した。1945年12月、衆議院議員選挙法(現・公職選挙法)も大幅に改正され、女性参政権も認められ、満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、有権者は全人口のおよそ50%にまで拡大した。
こうして新選挙法による戦後初の総選挙が、1946年4月に行われた。戦前からの議員のかなりの部分が公職追放されたので、新人議員が8割を占め、社会主義政党の進出、39名の女性議員が当選した。
第一党となった日本自由党の党首は鳩山一郎であったが、選挙後の5月3日、鳩山に対して総司令部から強引な公職追放の覚書が出され、急遽、吉田茂前外相が鳩山に代わることになり、1946年5月22日、日本自由党と日本進歩党の連立で、吉田茂内閣が誕生した[16]。
「吉田茂」の記事も参照。
新憲法は手続き上、大日本帝国憲法を改正する形を取り、憲法改正案は、1946年6月8日、枢密院で可決され、同月20日の第90回帝国議会に付議された。議会制度の改正は日本国憲法の制定後になされるべきものであったことから、ここでは戦前の制度にしたがって、帝国議会の衆議院と貴族院の審議を経ることになった。草案は8月24日、衆議院で修正可決、10月6日に貴族院でも修正可決された。こうして日本国憲法は、11月3日に公布、1947年5月3日に施行された。
戦後結成ないし復活した政党
- 日本共産党 - 1945年10月-12月に、獄中から釈放された徳田球一、志賀義雄らを中心として、日本共産党が合法活動を開始。
- 日本社会党 - 片山哲を書記長とする。1945年11月、戦前の旧無産政党を糾合して結成。
- 日本自由党 - 1945年11月9日、旧立憲政友会系で戦前の翼賛選挙における非推薦議員を中心に、総裁を鳩山一郎にして結成。所属国会議員は43人。
- 日本進歩党 - 1945年11月16日、旧立憲民政党系で、翼賛体制期には大日本政治会に属していた議員を中心に、総裁を町田忠治にして結成。所属国会議員は273人。
- 日本協同党 - 1945年12月18日、戦前に産業組合運動に従事していた指導者たちによって、修正資本主義を目指す中道政党として、党首を千石興太郎にして結成。
経済の民主化・市場経済化
占領期の経済改革は、財閥解体・独占禁止、農地改革、労働改革の三大改革を中心とする占領初期の改革(経済の民主化)と、「経済安定九原則」及びドッジ・ラインを中心とした占領後期の改革(市場経済化)の二つの改革からなっていた。
経済の民主化は、財閥解体・農地改革・労働組合の結成の三本柱で行われた。所有権を否定するほどの厳しさで財閥解体が推進されたのは、「軍国主義の永久排除」というポツダム宣言の基本原則のうえに、「経済の非軍事化」がアメリカ政府の占領政策の主要目標の一つとされていたからである。これらの改革は、戦前の日本資本主義の、不当に強いとみなされていた国際競争力を解体する事を目的としていた。低賃金労働者を大量に生み出す背景としての農村の地主的土地所有制、封建的経営主義を奉ずる家族的コンツェルン(財閥)、労働運動を抑圧する体制、これらが日本の軍国主義を支えた経済力の温床と見なされていた。
財閥解体
財閥解体を立案したアメリカ側の担当者は、財閥が政治的な面では、軍国主義に対抗する勢力としての中産階級の勃興を抑える働きをし、経済的な面では、労働者に低賃金労働を強制して国内市場を抑圧し、輸出の重要性を高めて帝国主義的侵略への衝動をもたらしたと考えていた。戦前の財閥の特徴は、同族支配[17]・進出部門の独占・経営の多角化にある。財閥の規模は大きなもので、1937年の時点で、全国の会社の株式のうち、三井が9.5%、三菱が8.3%、住友が5.1%、安田が1.7%と、四大財閥だけで24.6%の株を所有していた。
関連法規
- 持株会社解体指令 - 1945年11月、総司令部が発す。三井・三菱・住友・安田を始めとする15財閥の資産の凍結・解体を命令した。これによって、各財閥の本社活動は停止した。翌年8月、持株会社整理委員会が発足し、持株会社・財閥家族から譲渡された有価証券を一般に売却し、同時に公職追放(経済パージ)も進行し、持株会社を頂点とする株と人による支配は解体された。四大財閥を始めとする10財閥家族56名は、保有株式を持株会社整理委員会に委譲し、一切の会社役員の地位から離れた。
- 独占禁止法 - 1947年4月14日制定。将来に渡って独占を禁止する。国際的に見て最も厳格な法律と言われたもので、トラスト[18]の結成や一切のカルテル行為[19]の禁止、国際カルテルへの加入、会社役員の兼務、法人が他の法人の株主になることを禁止した。しかし、1948年になると、外資導入の妨げになることから、国際カルテルへの加入禁止条項などは緩和された。
- 過度経済力集中排除法 - 1947年12月18日制定。既存の巨大独占企業を分割する措置。市場における自由競争を確保するために、独占的な企業が存在しないことを目的とした。1948年2月には325社が指定を受けたが、この法の実施期間が占領政策の転換期であったために、実際の分割は、日本製鉄、三菱重工業など11社に留まった。この時に銀行が当初から分割の対象にされなかったこともあって、のちに旧財閥系の各社は、銀行を中心に新企業集団の形成に向かった。
農地改革
戦前においては、農地の約47%は小作地で、農民の約70%が小作農もしくは自小作農だった。総司令部は細分化された小作地と高い小作料が、戦前の日本を対外侵略に駆り立てたと理解していたが、ポツダム宣言にも「初期の対日方針」にも、農地改革に当たる構想は見当たらない。急激な変革が食糧生産に悪影響を及ぼす事を考慮して、明記しなかったとされている。GHQは日本政府に対し、寄生地主制を除去し、安定した自作農経営を大量に創出する農地改革の実施を求めた。
農地改革の結果、500万町歩の耕地のうち、200万町歩がその所有者を変え、小作地240万町歩の80%が開放され、自作農が大量に創出された。小作地は10%になり、小作農も5%にまで減少した。残った小作地についても、小作料は公定の定額金納とされた。地主は小作地を売却しなければならず、地価が元々低めに設定されていたことに加え、インフレーションの進行により更に安いものとなり、農村における地主の社会的地位も下落した。
水稲の10aあたりの収穫量は、明治初期の平均は200kg(玄米)、昭和戦前期は約300kgであったが、1960年代には約400kgに達した。こうして、農民の生活水準が上がったため、購買力も上昇し、総司令部の思惑通りに、国内消費市場が拡大した。
関連法規
- 農地改革指令 - 1945年12月9日に出される。総司令部からの農地改革の命令。
- 第一次農地改革 - 1946年2月から、農林省によって推進された。日中戦争下の1938年に制定されていた農地調整法の改正という形を取った。この改正の過程で小作料は金納化され、不在地主の全貸付地、平均5町歩(約5万㎡)を超える在村地主の貸付地は開放の対象となったが、総司令部からはなお不十分とされた。
- 第二次農地改革 - 1946年10月-1950年7月まで実行された。総司令部の勧告案に基づいて、農地調整法の再改正と自作農創設特別措置法の制定によって進められた。総司令部は、イギリス案を骨子とした改革案を日本に提示し、不在地主の全貸付地と都道府県平均1町歩(北海道は4町歩)を超える在村地主の貸付地を国家が強制的に買収して、それを小作人へ優先的に売り渡すこととした。こうして、農地委員会が市町村・道府県に設置された。当初は地主的色彩が濃かったが、第二次農地改革に際して、各市町村の農地委員会委員は地主3、自作農2、小作農5の割合で選出されるようになった結果、改革の実行機関となった。
農地改革表
自作地 53.2% |
小作地 46.8 |
87.0 |
13.0 |
自作 30.0 |
自小作 44.0 |
小作 26.0 |
56.0 |
36.0 |
8.0 |
5反以下 32.9 |
5反~1町 30.0 |
1~2町 27.0 |
2町以上 10.1 |
40.8 |
32.0 |
21.7 |
5.5 |
労働改革
総司令部は1945年10月11日の五大改革指令で、労働者の団結権の確立を求めた。そして、いわゆる労働三法の制定、片山哲内閣の下で、労働省が設立された。
関連法規
- 労働組合法 - 1945年12月制定。団結権・団体交渉権・ストライキ権が保障された。組合員は、戦前の40万人から、1948年には660万人に増大、1949年には組織率が56%に達した。教職員・国鉄労働者など官公庁労働者の組織化が進み、民間でも各企業を単位に全従業員が参加する形(企業別組合)で、労働組合が結成された。戦前の労働総同盟の系譜を引く日本労働組合総同盟や日本共産党の影響力が大きかった全日本産業別労働組合会議などに組織されていった。
- 労働関係調整法 - 1946年9月制定。労使関係が緊迫したような事態に際し、労働組合法によるストライキ権保障を前提として、労働争議の予防・解決を図ろうとしたもの。
- 労働基準法 - 1947年4月制定。週48時間労働、女性及び年少者の深夜就業禁止など、労働条件の最低基準を規定。
教育改革
五大改革指令を具体化させるために、総司令部の中の、民間情報教育局(CIE)が担当した。
- 1945年
- 1946年
- 3月-4月 - アメリカのストッダード、ニューヨーク州教育長官を団長とする二十七名の米国教育使節団が来日する。教育行政について、都道府県と市町村に公選の教育委員会を置くこと、義務教育で六三制を取ること、九カ年を無償の義務教育とすることや、男女共学の採用などを勧告する。
- 6月27日 - 第九十回帝国議会で、教育基本法の構想が文部大臣・田中耕太郎から出される。森戸辰男衆議院議員が「教権の確立」について、教育勅語は新日本を作っていく教育の根本原理としては不十分ではないかと指摘し、「新しき時代に処する教育の根本方針」の必要を問い質したのに対し、田中文相は「民主主義の時代になったからといって、教育勅語が意義を失ったとか、或は廃止せらるべきものだというような見解は、政府のとらざる所」と述べる。
- 6月29日 - 地理の授業再開
- 10月21日 -歴史の授業再開
- 11月-12月 - 文部省とCIEとの間で週二回のペースで検討会議が行われる。この折衝の中で、教育基本法の前文にあった「伝統を尊重し」の文言が削除され、宗教教育についても「宗教的情操の涵養は、教育上これを重視しなければならない」から「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」に修正される。
- 1947年
- 1948年
社会の混乱
インフレ・食糧難
空襲による戦災、軍需産業の崩壊などにより経済機能が麻痺したなかで、軍人の復員、海外居留民の引き揚げにより人口が急増。コメの記録的な凶作(40年-44年の平均米作は911万トン、45年は米作587万トン)もあって、生活物資は極度に不足する。海外から復員すべき軍人は310万人と見積もられ、海外から復員労働者が400万人、引き揚げ者が320万人、その他を加えると、失業者は1400万人に登ると見られていた。敗戦で、朝鮮半島や台湾からの農産物も途絶していた。
日本は、戦争中、「配給制度」を取っていた。コメ、味噌、醤油、砂糖などの食料品、調味料からマッチ、石鹸、ちり紙などの日用品までが、配給されていた。こうした商品を配給以外の手段で手に入れることは法律違反だった。敗戦と共に、この配給制度は麻痺した。コメの配給はわずかで、さつまいもやとうもろこしなどの「代用食」が配給になったが、それも遅配や欠配が続いた。
配給に頼れない国民は、法律違反と分かっていても、農村へ買い出しに出かけ、各地に闇市が生まれ、悪性インフレが進行していた。戦争終結とともに、臨時軍事費での支払い分が決済されたこと[20]や預貯金引き出しによる買い溜め行動が激化したことなどのために、市場への通貨供給量が急増し、1945年11月から、生活物資が急速に上昇し始めた[21]。
現金を持っていない場合は、衣類を売って現金化して、生活物資を買った。着ているものを次々に脱いで食べ物に変えていく様子が、まるでタケノコの皮をむくようだとして、「たけのこ生活」と呼ばれた。
また、エネルギー供給では石炭生産が落ち込んでいた。これは戦時増産に携わっていた朝鮮半島や大陸からの労働者が、徴用令が廃止になったことにより、速やかに本国へ返すという総司令部の方針で、帰国させられたからである。
この頃、日本国民にショックを与える事件が起きた。1947年10月、東京地方裁判所の山口良忠判事当時34歳が、栄養失調のために死亡した。法律違反の闇市で食料品を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生活しようとしたためだった。判事は、「たとえ悪法でも、法律である以上、裁判官の自分は守らなければならない」という趣旨のメモを残していた。
また、小平事件と呼ばれる事件では、小平義雄当時40歳の男が、「食料を手に入れるいい場所を知っている」と若い女性に声をかけては田舎に連れ出し、乱暴して殺していた。結果犠牲になった女性は、七人に登った。
※升=1.8㍑、斗=10升、匁=3.75㌘、貫目=1000匁、円=100銭
闇市場の値段 (1945年10月時点、警視庁経済第3課調べ) | |||
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復員と引き揚げ
敗戦時、海外にいた軍人は310万人といわれ、民間邦人・居留民も320万人いた。このような膨大な数の日本人が、一夜のうちに俘虜・難民化したが、国内の船舶はほとんど撃沈され、運行のための満足な燃料もないという状態だった。内地の国民生活も苦しかったので、日本政府は8月末の時点では、外地民間人の帰還を諦め、現地定着を方針としたこともあった。しかし、軍人の復員・民間人の引き揚げは1945年11月頃から軌道に乗り、1949年12月末までに、9割強の人々が帰還を果たした。旧満州を除く中国大陸・台湾・北緯16度以北の仏領インドシナなどの中国管轄下からの帰還者の一定地点への集結から帰国までの死亡率が、5%だったのに対し、満洲・北緯38度線以北の朝鮮半島・樺太・千島列島などのソ連軍管轄下では、抑留・強制労働が行われ、ソ連からの引き揚げは1956年ころまでかかった。1946年5月までに中国から帰還した軍人と民間人は、累計で166万人を超え、8割を超える人々が帰還した。ソ連に降伏した60万人の軍人や居留民はシベリアなどの収容に移送され、強制労働に従事させられ、6万人以上が命を落とした。
経済対策
幣原内閣はインフレを抑えるために、国民の手持ちの現金を預金させ(預金封鎖)、新円を発行して、1世帯あたり500円だけを現金で渡す[22] ことにして引き出しを制限すれば、インフレ率を安定させる事ができると考えた(金融緊急措置令,1946年2月16日)。しかし、効果は長続きしなかった[23]。
1946年5月22日、石橋湛山が第一次吉田茂内閣の蔵相に就任した。石橋は、設備や人が余っているならば、大胆に資金を散布して生産を刺激するべきだと考え、国立の銀行の一種として1947年1月、復興金融金庫(復金)を創設し、重要な産業に資金を供給し始めた。復金が設備復興に果たした役割は大きかった。
有沢広巳、大来佐武郎らからなる吉田首相の私的諮問機関である「石炭小委員会」は、復金の融資を最優先でまわして、総司令部に認められた輸入重油を使って鉄鋼生産を行ない、増産されたこの鋼材を炭鉱に投入し、そうして増産された石炭をまた鉄鋼業に回すという構想を準備し、3000万トンの石炭生産を目標に掲げた(傾斜生産方式)。この構想は、1947年6月に成立した日本社会党の片山哲内閣の下で実行され、48年3月に成立した芦田均内閣でも受け継がれた。こうして石炭産業は47年下半期には目標達成し、生産再開の機動力になったが、一方では巨額の融資がインフレ(復金インフレ)を助長した。
大衆運動
労働組合は、この間急速に組織され、国民生活の苦境を背景に、労働組合運動が激化していった。日本共産党と産別会議の指導の下に、1947年2月1日午前0時から、全国一斉に鉄道と電気を止めて、公務員も含めたゼネラル・ストライキが計画された。主体となったのは、国鉄・全逓信従業員組合(全逓)の二大単組を有する全官公庁共同闘争委員会(議長井伊弥四郎)だった。
共闘側の要求は月収1800円だったが、政府は1200円の線を譲らず、調停も失敗してストは不可避かと思われた食料の遅配が深刻な問題となっていただけに、国鉄がストに突入し、都会に食糧が入ってこなくなるだけでも深刻な事態が予想された。日本共産党は、ある時期まで、ストライキから革命的情勢へ導けるようにストを指導していた。しかし、スト突入前日の1月31日のマッカーサーによる中止命令で、二・一ゼネストは中止された。
政界再編
1947年2月、マッカーサーが吉田首相に対して、議会終了後に総選挙を行うべきであると示唆したことをきっかけとして、政界再編が進んだ。日本進歩党の構成メンバー全員と日本自由党から芦田均ら9名と国民協同党から15名の参加者を加えて、民主党(日本1947-1950)が選挙直前に結成され、最高総務委員に斎藤隆夫・芦田均・犬養健らが就任した。解散直前には、この政党が衆議院で第一党となった。
ところが4月25日の衆議院議員選挙では、社会党143、日本自由党131、民主党(日本1947-1950)124で、3党が伯中した。その結果、5月23日、新憲法下最初の首班指名選挙で、衆参両院はほぼ満場一致で、社会党委員長片山哲を首相に選出した。社会党の片山は、社会党・民主党・国民協同党を基盤として連立内閣を組織した。中道政権を望んでいだ総司令部としても、「日本の内政が『中道』を歩んでいる」として、歓迎した。
社会党内閣の成立によって、石炭産業をはじめとする国家管理論が盛んとなった。片山内閣は吉田内閣の路線を受け継いで、傾斜生産方式を柱に、経済緊急政策とその核をなす新物価体系の設定によって、経済再生に取り組んだ。
しかし社会党左派が造反したことによって、1948年2月片山内閣は総辞職をし、3月に、民主党芦田均が民主党・社会党・国民協同党の連立内閣を組閣した。民主党は修正資本主義をかかげ、自由党の「左」・社会党の「右」に位置することを目指し、自由党と対決する姿勢を見せた。一方、アメリカの対日政策は徐々に保守化を見せはじめ、7月22日、マッカーサーは芦田首相に書簡を送り、政令201号を発し、全ての公務員の争議行為禁止、団体交渉権を制限した。政令201号は同年末、国家公務員法改正によって国内法化された。
芦田連立内閣は8ヶ月あまりしか続かず、大手化学肥料メーカーの昭和電工は、復金から30億円に及ぶ融資を受けていたが、融資を拡大するために3000万円の金品を政界・官界にばらまいていたことから、昭電疑獄事件に発展し、芦田内閣は倒れた。
占領政策の転換
国際情勢が、第二次世界大戦終結直後の国際協調主義から、米ソを中心とする東西冷戦体制に移行してくると、日本の占領政策も、自由主義化優先から経済復興・反共の拠点としての位置づけがなされるようになっていった。
1947年半ばから、アメリカ国務省政策企画室長のジョージ・ケナンは、アジア情勢の分析を行なった結果、極東における米ソの対立の鍵として、日本の経済的復興がアメリカにとって重要だと論じるようになった。
アメリカ陸軍省の対日政策の担当者であったウイリアム・ドレーパーJr.陸軍次官は、過度経済力集中排除法をチェックした結果、民主化政策に行き過ぎがあると判断した。さらに議会の多数を占めていた共和党は、日本への援助であるガリオア資金・エロア資金などが、アメリカ納税者の負担でなされていることを問題にし、日本を早く復興させるべきだと考えていた。こうして、アメリカ国内の意見が日本の復興へと一致し始めた。
1948年10月、アメリカの国家安全保障委員会の決定として「米国の対日政策に関する勧告」が極秘裏に採択された。これは芦田内閣が崩壊し、第二次吉田内閣が成立するのと、ほぼ同じくしていた。内容は、占領軍の権限を日本政府に徐々に移譲して、日本を友好国として育成し、更に経済復興のための制約をできるだけ排除して復興を速やかにするものだった。冷戦の時代を反映して、アメリカは占領政策の目的を、非軍事化から経済復興に転換させ、経済政策を市場経済化へ移行した。この決定を具体化させたものの一つが、1948年にワシントンで採択された経済安定九原則だった。この政策を実行するために、デトロイト銀行頭取の自由主義経済派、ジョゼフ・ドッジが、トルーマン大統領の特使として、公使兼GHQ財政顧問として来日した。
第二次吉田内閣は、少数派単独内閣だったため短命が予想されたが、1949年1月の総選挙の結果、元民主党の議員と野党であった日本自由党からなる新党・民主自由党は絶対多数の議席を獲得して、第三次吉田内閣が成立した。民主自由党を与党とする内閣は、保守結集を目指して民主党とも連立を図った。同年2月に来日したドッジの経済安定政策であるドッジ・ラインに基づいた超均衡予算が同時期に組まれた。
ドッジの要求は、㈠国内総需要を抑制して輸出を拡大させる、㈡単一為替レート設定・補助金廃止によって市場メカニズムを回復させて合理化を促進する、㈢政府貯蓄と対日援助で民間投資資金を供給し、生産を拡大させる、の3点で、日本経済の復興・安定・自立を目指した。1949年4月には、1ドル=360円という単一為替レートが設定された。
5月には、アメリカ・コロンビア大学の財政学者、カール・シャウプを団長とする税制の専門家が来日し、日本の税制についての勧告書(シャウプ勧告)を作成した。これはドッジ・ラインに基づく財政運営を税制面から裏付け、直接税中心主義を採用して所得税については累進性を高めるとの発想を導入したが、法人税は優遇されたものとなった。
この間、国務省政策確定部長になっていたケナンは、ワシントンと総司令部の意思疎通を図るために、1948年来日した。マッカーサーの現状認識も反映させて、ケナンは対日政策についての報告書をアメリカ政府に提出し10月には大統領の決裁を得た。報告書では占領政策の重点を改革から経済復興に移すこと、追放を緩和し、中止すること、占領軍経費を縮小すること、賠償を中止すること、講和条約締結を急がぬこと、講和条約は懲罰的であってはならないこと、沖縄については長期駐留を決意すること、日本の警察力を強化することなどが提言された。
紛争激化
アメリカ政府の経済安定政策により、1948年3月下半期から鈍化していた物価上昇は安定化した。その一方で、金詰まり、中小企業の倒産、失業増加など、不況が深刻化(安定不況)する現象も見られた。特に、国鉄の人員整理をめぐる紛争が激化するなかで、1949年7月から8月にかけて、下山事件・三鷹事件・松川事件が連続的に発生した。下山事件では、下山定則国鉄総裁が怪死し、三鷹事件では無人電車が暴走、松川事件では進行妨害により列車が転覆した。当時これらの怪事件は国鉄労働組合・日本共産党によるものと発表され、労働組合側は大きな打撃を受けた。
朝鮮戦争と日本
「朝鮮戦争」の記事も参照。
1950年1月、アメリカ合衆国と大韓民国とは米韓相互防衛援助協定を、同年2月に中華人民共和国とソ連とが中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、米ソは厳しく対峙していた。同年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国側からの攻撃によって、北朝鮮軍と韓国軍との間に戦闘が始まった。瞬く間に北朝鮮軍は、ソウルを占拠し、北朝鮮と韓国軍を助けるアメリカ軍中心の国連軍との戦闘に発展した。
マッカーサーは、指揮下の軍隊を朝鮮半島で使用する全面的権限を国連から与えられ、国連軍の最高司令官も兼ねることになった。日本に配置されていた米軍4個師団のうち、3個師団が急遽、朝鮮半島に派遣された。
特需景気
朝鮮半島で日本経済は息を吹き返した。アメリカ軍を主体とする国連軍が日本から出動する際に、多くの物資とサービスをドルで調達し、いわゆる朝鮮特需景気が起こった。特需がドルで支払われたことの意味は大きく、これまで外貨不足のために必要物資が十分に輸入できなかった時期だったために、ドル収入をもたらす特需は効果をもたらした。同時期、世界経済も好況に転じており、日本からの繊維品・金属・機械などの輸出が伸びていった。こうして1951年には、鉱工業生産が戦前の水準を超えた。
再軍備・逆コース
朝鮮半島で戦争が勃発したため、アメリカ軍が日本から出動する事態になった。在日アメリカ軍の空白を埋めるために、1950年7月8日、マッカーサーは吉田首相宛の書簡で、国家警察予備隊の創設(7万5000人)と海上保安庁の拡充(8000人増員)を指令した。
第三次吉田内閣はこれに応じて、8月10日に警察予備隊令を公布・施行し、8月23日には第一陣の7000人が入隊した。警察予備隊令は法律ではなく、ポツダム政令で出されていた[24]。
総司令部は、戦争直前の1950年6月、日本共産党中央委員24名を追放し、機関紙『アカハタ』の発行を停止させ、同年7月、官公庁を始め多くの職場で共産主義者を追放した(レッド・パージ)。逆に11月には、旧軍人3250人の公職追放解除が行われ、警察予備隊に旧軍人が応募する事も許されるようになった。
吉田内閣は、警察予備隊はあくまで治安維持のための組織であるとの建前を貫き、アメリカ側の要求を飲んだ。しかし一方で、吉田内閣としては、アメリカのこれ以上の軍備増強要求に強く抵抗していたことも事実であった。その理由は、㈠経済的負担に耐えられない、㈡周辺諸国が反対する、㈢野党の反対とその背後にある国民感情、㈣軍国主義復活の危険などがある。
当時の国内政治的にみれば、吉田首相は、左派の総評・社会党のみならず、リベラルな知識人からもその保守イデオロギーの部分で警戒された。右派としては、芦田均らがナショナリズムの喚起と国防を訴え、吉田首相を批判した。
講和と安保条約
吉田首相は、アメリカとの講和問題の核心がアメリカ軍基地問題であると考えていた。そこで、日本側からアメリカ軍駐留を規模するという形で、基地の存続を認める方針を固めていった。また朝鮮戦争勃発によって、アメリカ軍中流の存続は日本国民の合意を得やすい問題となっていた。吉田首相は、基地を提供することで再軍備増強要求を拒否できると考えていた。しかし、アメリカは国務長官顧問ダレスを派遣して吉田首相と交渉させた。1951年1月末から再開された交渉で、吉田は、「寛大な」講和条約を締結するには、基地提供だけでは不十分で、さらなる再軍備要求に対する確約が必要だと思うに至った。吉田は、警察予備隊とは別に、5万人の保安隊を設け、これを正式の軍隊の発足とする、との秘密の公約をアメリカ側に与えたという。
一方、アメリカはこれ以上講和を延期させれば、アメリカが日本の植民地化を狙っているという共産主義陣営の主張を裏付けることになってしまうと考え、日本を自由主義陣営の一員として迎え、講和を締結する方針を決意した。しかし、当時は日本への宥和的な講和に反対する声も多く、日本の経済的復活を危惧する国も多かったため、アメリカが中心となって、国連総会に集まった各国代表を説得し、講和条約調印の準備が進められた。こうして1951年9月4日から開催されたサンフランシスコ講和会議には、52カ国が参加したが、紛糾を避けるために中華人民共和国と中華民国は招かれなかった。インド、ビルマ(ミャンマー)は条約案への不満から出席しなかった。9月8日、共産圏のソ連、ポーランド、チェコ・スロバキアの3カ国を除く48カ国と日本とが対日平和条約(サンフランシスコ平和条約)に調印した。翌52年4月28日、対日平和条約が発効し、約7年に及んだ連合国による日本占領は終了した[25]。
この間、南原繁、大内兵衛、丸山眞男らの知識人層、日本社会党、日本共産党などは、この講和は西側諸国とだけの単独講和であり、ソ連・中華人民共和国を含む全ての交戦国との全面講和を目指すべきであると主張した。社会党内部ではこの講和問題を巡って、右派は講和条約には賛成だが安保条約には反対し、左派は講和条約にも安保条約にも反対して党内対立が激化し、左右両派に分裂した。
平和条約とともに、日米安全保障条約も9月8日に調印された。これによって、日本へのアメリカ軍駐留が決定されたが、アメリカ軍は日本に対する防衛義務を負ってはおらず、また条約の期限も明記されていなかった。これを機に、アメリカ軍は占領軍という名称から、駐留軍と呼ばれるようになった。この条約に基づいて、1952年2月には、日米行政協定[26]が締結され、日本はアメリカ駐留軍に基地(施設・区域)を提供し、駐留費用を分担することになった。
賠償
日本は、1952年4月に中華民国、同年6月にインド、1954年にビルマと、それぞれ平和条約を結んだ。これらの平和条約締結により、多くの国は賠償請求権を放棄したが、戦時中に日本軍の占領下に置かれたフィリピンインドネシア・ビルマ・南ベトナムの東南アジア4カ国は日本と賠償協定を結んだ。
1952年の平和条約発効により、日本軍の軍人・軍属となった朝鮮人、台湾人は、日本の独立回復に伴って「日本国籍」を喪失して、外国人になったとされ、戦傷病者戦没者遺族等援護法の対象から外れた。その他に、講和会議の場に、中華人民共和国と中華民国が招かれなかったため、日中間の戦後処理への合意が形成されなかったこと、植民地朝鮮についても、南北分断、朝鮮戦争により、合意が形成できなかったことがある。その後、大韓民国政府とは、1965年の日韓基本条約で、朝鮮民主主義人民共和国とは、1990年の日朝関係に関する日本の自由民主党、日本社会党、朝鮮労働党の共同宣言や2002年の日朝平壌宣言で、反省とお詫び、経済協力の実施と賠償請求権の放棄といった政治的決着が取られた。しかし、北朝鮮とは、核開発問題・拉致問題のために交渉は進展していない。また、従軍慰安婦問題や徴用工問題は、アジア女性基金の設立や日韓基本条約の枠組みでの対応が日本政府側からされているが、必ずしも両国で円満な解決を現在に至るまで見せていない。
55年体制の日本
独立回復後の国内再編
第三次吉田内閣の1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効して日本は独立を回復した。アメリカは吉田内閣に「兵力」増強を求め、これを受けて、1952年4月海上警備隊が発足し、更に、これまであった警察予備隊と海上警備隊を合体させて、1952年8月31日、保安庁を設置し、警察予備隊は保安隊に改組され、海上に警備隊を新設した。5月1日の第23回メーデーでは、皇居前広場に集まったデモ隊が警官隊と乱闘を起こし、2人が射殺され、1,230人が検挙される結果となったメーデー事件に発展した。これに対して吉田内閣は講和独立によって、占領期の諸法令が失効するのに対応して、7月に破壊活動防止法を公布・施行し、調査機関として公安調査庁を設置した。立法の過程で、治安維持法の再来を危惧する反対運動が広がった。
この頃追放解除によって、戦前の党人である鳩山一郎や、占領軍の経済政策と意見を異にしていた石橋湛山らが政界に復帰してきた。元々吉田が首相となったのは、鳩山の公職追放という偶発的事態に対応したものだったので、鳩山に政権を渡すべきという意見が、与党・自由党内に起こってきた。8月6日に追放解除になった鳩山一郎は、自由党の中で鳩山派を率い、吉田派と伯仲するまでになった。そこで吉田は、8月28日衆議院を解散し(抜き打ち解散)、10月に総選挙を行ない、かろうじて過半数を確保した[27]。
しかし、第四次吉田内閣も長くは続かなかった。党内分裂の動きが強まる中、1953年2月28日の衆議院予算委員会での吉田首相の「バカヤロー」という失言が元になって、内閣不信任案が可決され、解散となった。この時の総選挙の争点は、再軍備問題であった。吉田派は憲法改正反対、漸次自衛力増強を唱え、鳩山派は憲法改正・再軍備を主張した。左派社会党は再軍備反対、保安隊解散をスローガンにした。総選挙の結果、左派社会党が初めて右派社会党を上回って議席を伸ばし、自由党・改進党は共に議席を減らした。こうして自由党は5月に第五次吉田内閣を成立させたが、改進党への歩み寄りを余儀なくされた。
1954年3月、吉田内閣はMSA協定[28]に調印した。この協定によって、アメリカの経済的・軍事的な援助が受けられることになったので、政府は、既存の保安隊と海上警備隊を統合、航空部隊を新設し、自衛隊を発足させた。それを管轄する官庁として、防衛庁を設置した。
自由党や改進党といった保守系の政治勢力の凋落、社会党勢力の躍進が目立つ中で、自由党内での反吉田の勢力は強くなり、政界再編は必至と見られた。1954年11月、改進党、自由党の鳩山派と岸派、日本自由党の3者が合同し、総裁を鳩山一郎、幹事長を岸信介として、日本民主党が結成された。12月に民主党と左右社会党が共同して内閣不信任案を提出したため、吉田内閣は総辞職した。
吉田によって担われた長期政権は、サンフランシスコ平和条約を締結して日本を国際社会に復帰させ、日米安全保障条約のもとで、国防関係の経費負担を軽減しつつ、経済復興を目指した(吉田路線)。しかし、占領期の終わりにあたり、占領時代の法体系の終了を受けて、国内法を占領期に取られた労働運動や社会運動を抑えるための法律や機構の整備に合わせる必要があった。結果として、破壊活動防止法をはじめ、自治体警察の廃止、警察庁指導下の都道府県警察への一本化、教職員の政治活動抑制のための教育二法制定がなされた。東西冷戦構造が確立、朝鮮戦争が激化するとともに、本格的な米軍基地反対闘争も起こってくるようになった。
米軍基地反対闘争
1952年から翌年の内灘事件と、1955年から59年までの砂川事件が代表的。内灘事件は、石川県内灘の砂丘を米軍の試射場として接収することに反対して座り込みを行なった最初の本格的な反対運動である。砂川事件は、東京都立川米軍基地の拡張に反対した運動で、学生と警官隊の衝突が繰り返された最大の基地反対闘争で、流血事件にまで発展したが、基地拡張は阻止された。この時の基地反対闘争は、労働団体や学生団体は勿論、地元の町村議会、住民を巻き込んだ大規模な反対が起きたのが特徴である。
55年体制の成立
1954年12月、日本民主党の鳩山一郎が、国会解散を条件に左右社会党の支持を取り付けて組閣した。鳩山内閣は戦前期に政党政治家であった者を閣僚に多数登用した点で、官僚出身者を多く登用した吉田内閣とは対照的だった。鳩山内閣は、吉田路線との差異を出すためもあり、中国・ソ連との国交回復と再軍備を意図する憲法改正の意向を示した。
「鳩山一郎」の記事も参照。
2月に行われた総選挙では、日本民主党は第一党となって第二次鳩山内閣を組織したが、過半数を割り、左派社会党の躍進によって、たとえ日本民主党と自由党が憲法改正に賛成しても、憲法改正に必要な議席の2/3を保守勢力だけで占める事は困難となった。
社会党は、講和問題をきっかけとして長年、左派と右派とが対立してきたが、二者が合同すれば改憲阻止勢力として、政権を担当する事も夢ではなくなると考え、1955年10月13日、社会党を再統一した。これによって衆議院の467議席のうち、社会党は156議席を占めることになり、委員長には左派の鈴木茂三郎、書記長には右派の浅沼稲次郎が就任し、改憲反対をスローガンとした。
これに対して保守勢力は、社会党の再統一を見た財界が保守勢力の分裂状況に再考を促したこともあり、保守系の結集のために動いた。その結果、保守合同により党名を自由民主党とし、11月には結党式が行われて、衆議院に299名、参議院に118名を占める勢力が誕生した。
こうして、保守勢力が議席の2/3を、革新勢力が1/3を分け合う態勢となった。このバランスを大きく崩すと、憲法改正問題が具体的に引き起こされるので、保守革新ともに基本的にはこの数のバランスを保つような政策を展開することになった。このような安定的体制を55年体制と呼ぶ。
第三次鳩山内閣
自由民主党は第三次鳩山内閣を成立させ、鳩山は自主憲法の制定(憲法改正)と再軍備(防衛力の増強)をスローガンに掲げたが、1956年に憲法調査会法を公布し、国防会議を発足させたに留まった。
外交では、1953年3月にヨシフ・スターリンが死去したこともあり、ソ連国内に雪解けムードが生じた。また、鳩山がアメリカに対して一定の距離を置いた「自主外交」路線を取ったこともソ連の好感を得た。その結果、1956年10月19日、鳩山はモスクワで日ソ国交回復に関する共同宣言(日ソ共同宣言)[29]に調印した。平和条約の調印にはならず共同宣言となったのは、日本側が国後島・択捉島を含めた北方四島返還を求めたのに対し、ソ連側が国後島・択捉島はソ連の領土として決着済みであるとの態度を崩さなかったからである。鳩山一郎は、日ソ共同宣言を最大の成果として、内閣を総辞職。政界を引退した。
経済の復興
1950年代、独立を回復した日本は経済成長の前提を整える事ができた。特需景気の最中である1952年5月、国際通貨基金=IMFと国際復興開発銀行=世界銀行への加盟が承認され、1955年には課税及び貿易に関する一般協定=GATTにも加入した。ドルを基軸通貨とし、自由・無差別・多国間交渉主義を原則とするIMF・GATT体制=ブレトン・ウッズ体制に参加したことで、日本は経済的にも国際社会への復帰を果たした。
1954年末ころから1957年半ばにかけて、連続31ヶ月の大型好景気が続き、有史以来の好景気ということから、新聞等によって神武景気と命名された。輸出が急激に伸び始め、国際収支の危機も解消した。スエズ戦争によって国際物価が大暴落するという偶然にも支えられて、造船・鉄鋼・電気機械・石油化学など、重化学工業を中心とした設備投資の時代を迎えた。
1955年、日本は経済の主要指標で戦前の最高水準を突破し、1956年の『経済白書』は「もはや戦後ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」と書いた。
安保条約の改定と安保闘争
鳩山内閣の退陣を受けて、自由民主党総裁選を争ったのは、石橋湛山と岸信介であった。新総裁となった石橋は1956年12月に組閣するが、在任中に病に倒れ、1957年2月、岸に内閣を譲った。岸は、「日米新時代」を唱えて、日米安全保障条約の持つ対米従属性を改めようとして、1958年10月から安保改定に着手した。
岸内閣は、安保改定に伴う国内の混乱を事前に予測して、1958年、警察官の権限強化を規定した警察官職務執行法(警職法)を国会に提出するが、同法案は審議未了・廃案となった。このような岸の政治手法は、保守対革新の対立を際立たせた。社会党・共産党などの革新陣営は、安保改定により日本がアメリカの世界戦略に結び付けられる事になり、再び戦争に巻き込まれるとの論陣を張った。
「岸信介」の記事も参照。
1960年1月、岸はワシントンに赴き、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)・日米地位協定に調印した。その内容は、㈠日米経済協力と日本の防衛力強化の協調、㈡共同防衛義務、㈢在日米軍の重大行動に関する事前協議制を確認、㈣条約期限は10年(その後は自動延長により継続)の4点である。これは旧条約の不備を補い、米国とより対等な条約を締結しようというものであった。
これに対して革新団体や全学連(全日本学生自治会総連合)をはじめとする各種の学生団体は、安保改定阻止国民会議[30]に結集した。1960年5月19日、岸内閣は、衆議院で新安保条約の批准について強行採決をし、1ヶ月後の自然成立を狙った。岸は「あくまで新安保の成立を期する。声なき声の支持あり」と述べて、強硬な姿勢を崩さなかった。これを機に反対運動は急速に盛り上がり、安保改定阻止国民会議や全学連の学生らが、連日国会を取り巻いた(安保闘争)。新安保条約は参議院の議決を経ずに、6月19日、自然成立し、岸内閣はその責任を負う形で総辞職した。こうした中で,予定されていたアイゼンハワー米大統領訪日も中止された。
旧安保条約の問題点
問題とされていたのは次の4点である。
- 在日米軍の日本防衛義務が明文化されていなかったこと
- 条約の期限が明示されていなかったこと
- 在日米軍の行動範囲と目的に関する問題で、在日米軍の行動範囲とされる「極東」について明確な定義がなされていないこと
- 内乱条項といって、日本の国内紛争に対して、アメリカ軍の介入を認めていたこと
岸の外交姿勢
岸は、米国との間に一定の距離を置くことで、米国にとっての日本の重要性を高めようとしていた。改定条約調印のため、米国を訪問する前、東南アジア6カ国(ビルマ、インド、パキスタン、セイロン、タイ、台湾)を訪問し、東南アジア・オセアニア9カ国(南ベトナム、カンボジア、ラオス、マラヤ連邦、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン)を回って、東南アジアの経済発展に影響力を持つ日本とのイメージを作りにいっている。
保守政権の安定化
池田内閣
「池田勇人」の記事も参照。
1960年7月、岸内閣から内閣を引き継いだ池田勇人は、革新勢力との対決を鮮明にした岸内閣とは異なり、「寛容と忍耐」をスローガンに、政治の季節から経済の季節への移行を図った。池田内閣が閣議決定した「所得倍増計画」は、10年間で実質国民所得をほぼ2倍にすることを目指した経済計画のことで、当時の経済成長のテンポを考えれば、手の届かない計画ではなく、実際の成長もこれを上回った。このスローガンによって、同年11月に行われた選挙は296議席を得る自民党の勝利に終わったが、社会党も23議席伸ばして145議席を得て、衆議院議席の1/3を確保し、55年体制は維持された。
池田内閣は政経分離の方針を掲げて中華人民共和国との貿易を拡大し、一連の貿易自由化を推進した。この頃の日本は、台湾を唯一正当な中国政府と認めていたため困難が予想されたが、1962年、中華人民共和国との間に,準政府貿易であるLT貿易を開始することができた。LTは、交渉に当たった、廖承志(りょうりょうし)、高碕達之助の頭文字を取ったものである。
1963年、日本はGATT12条国から、貿易自由化を原則とする11条国に移行し、翌年には、IMF14条国から為替自由化を原則とする8条国に移行した。続いて同年OECD(経済協力開発機構)へも加盟し、これによって資本の自由化が義務付けられ、日本は先進国への仲間入りを果たした。
こうした池田内閣の姿勢は、経済的には、1964年のオリンピック東京大会開催に伴う高速道路網の整備や、東海道新幹線開通などに代表される。政治的には、その後の日本の国際社会に於ける政治姿勢の原型を形作り、驚異的な経済成長を続けることによって国際的な発信力を高めていこうとするものであった。米ソの冷戦が続いていた時期似合っても、経済的に安定した日本の存在が、それ自体で西側諸国にとって意味あるものだった。
佐藤内閣
1964年11月、池田から後任の自民党総裁として佐藤栄作が指名された。この政権は、3次に渡り組閣し、戦前・戦後を通じて最長連続政権となった。
佐藤は、池田内閣がほとんど行わなかった外交的懸案に取り掛かった。まず1965年6月、韓国との間で日韓基本条約の調印にこぎつけた。
また佐藤内閣は、所得倍増計画を掲げた池田内閣との違いを見せるため、「社会開発」をスローガンにした。おりから静岡県で起こった石油コンビナート進出反対運動の成功に衝撃を受けた政府は、1965年、厚生大臣の諮問機関として公害審議会を設置し、翌年、「公害に関する基本的施策について」の答申を出した。これを踏まえて、1967年、環境基準規制を明文化した公害対策基本法を制定し、1970年の公害対策基本法改正を経て、1971年の環境庁の設置へとつながっていく。
日韓基本条約締結過程
日韓国交正常化は、順調に進んだわけではなかった。韓国の初代大統領・李承晩は、徹底した反日政策を取り、朝鮮半島周辺の公海上に韓国の主権を唱え、その領域への日本漁船の立ち入りを禁止する、いわゆる李承晩ラインを設定した。日本側においても35年に及んだ日本の朝鮮支配は韓国にとっても良かったのだとする不用意な発言(久保田発言)が日韓会談上で飛び出すなど、両国の齟齬は続いた。
しかし、1961年5月に朴正煕政権が成立した後は、韓国側の対日姿勢に変化が生じ、韓国側の日本への請求権について、無償・有償援助を合わせて5億ドルの経済協力を行う線で交渉は進展を見た。佐藤内閣で基本条約が締結され、1910年の韓国併合の年以前の諸条約の失効を確認し、日本と韓国の外交関係を正式に樹立できた。条約で、日本は韓国を「朝鮮にある唯一の合法的な政府」と位置づけた。
公害対策基本法
公害対策基本法は、その第一条に「経済の健全な発展との調和を図りつつ、生活環境を保全すること」という、講和条項がついたものだった。しかし、地方のコンビナート建設は地域住民の反対に遭い、1970年には、光化学スモッグやヘドロ公害が多発し、住民運動が活発になった。また、地方選挙では、福祉と大企業進出阻止を呼びかける革新首長が続々と登場した。こうして政府も、同年、公害対策基本法の全面的改定を図った公害関係の14法案を臨時国会に提出し、いずれも成立した。
沖縄返還
1965年、アメリカはベトナム戦争において北ベトナムへの空爆=北爆を開始した。これまでのように、南ベトナムへ軍事援助を行うことによって、北ベトナムと戦わせるかたちから、介入の度合いを高めることになった。これに対して、小田実らは、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を結成し、高校生や大学生らの広い支持を得た。沖縄を中心とした米軍基地は、対ベトナム戦争の遂行にとって不可欠なものとなり、基地の街は、一定の経済的繁栄を享受出来たが、米軍兵士による犯罪、核兵器を搭載した空母などの日本への寄港も問題化した。
1967年、佐藤首相は衆議院予算委員会で、核兵器について「持たず、作らず、持ち込ませず」(非核三原則)と表明した。しかし、なかなか説得力を持ち得ず、翌年の1968年、核兵器を搭載したと思われた米空母エンタープライズの佐世保入港反対闘争が、新左翼を中心に行われた。
一方、沖縄では祖国復帰運動が高まっていた。沖縄は、1945年4月から6月にかけての太平洋戦争最終局面において、アメリカ軍との本格的な地上戦が行われた地域であった。戦争終結後、沖縄は米軍の直接軍政下に置かれた。米国の支配は苛烈を極めた(銃剣とブルドーザー)。サンフランシスコ平和条約による日本独立回復後も、アメリカによる占領継続が認められ、沖縄はアメリカの施政権下に置かれた。
このような事情が背景にあり、それに加えて1960年代のベトナム戦争本格化によって、米軍基地の拡大に伴う基地用地の接収が問題となった。このような不正常な状態は、アメリカ施政権下にあるからだとして、祖国復帰運動が本格化した。
佐藤内閣は沖縄返還交渉に取り組み、1969年11月、佐藤・ニクソンによる日米首脳会談で、3年後の沖縄施政権返還の基本合意が作られ、日米共同声明の形で発表された。そして1971年、沖縄返還協定が調印され、1972年5月の協定の発効をもって沖縄の日本復帰が実現し、沖縄県が復活した。
沖縄返還密約問題
1971年6月、調印された沖縄返還協定で、アメリカの資産買い取りや、核兵器撤去費用として、日本側が支払う3億2000万ドルの他に、本来ならばアメリカが支払うべき軍用地の復元費400万ドルを日本側が肩代わりするとの密約があったというもの。2000年、この密約を裏付けるアメリカ側の公文書が発表され、日本側も2009年から2010年にかけての鳩山由紀夫内閣において、外務省に設置された有識者会議が、広義の密約があったこと結論づけている。
高度経済成長
1970年代の記事も参照。
1950年代半ばから70年代はじめにかけての、日本の驚異的な経済成長を支えた国際環境は、IMF・GATT体制=ブレトン・ウッズ体制である。世界経済の不安定さと通貨危機から、第二次世界大戦が勃発したと考えたアメリカは、戦後何よりも自由貿易を理念とする開放的な国際経済秩序を目指した。日本は、ブレトン・ウッズ体制に組み込まれ、1950年代の特需景気のあと、1955年-57年の神武景気、1958年-61年の岩戸景気、1962年-64年のオリンピック景気、1965年-70年のいざなぎ景気が、間断なく現れた。
成長の要因は5つにまとめられる。
- 国民の貯蓄性向の高さを背景に、政府が郵便貯金などを原資とする財政資金を、社会資本の充実・景気調整の手段などに活用する財政投融資を行なったこと
- 1975年の高校進学率が90%になるような、高い教育水準が労働力の生産性を高め、技術革新を容易にしたこと
- 中東の大油田の開発が進み、サウジアラビア・クウェートなどから安い原油が日本にも入ってくるようになり、原油価格が、1958年から著しく下落したこと。原油価格に対して、石油価格は対抗できなくなり、電力をはじめ大口需要者が燃料を石炭から石油に転換し、石油を低廉でかつ大量に輸入できたこと=エネルギー革命
- 国民全体の所得が伸びつつあり、家電製品や自動車などの国内市場が拡大したこと。所得の伸びには、農業基本法制定などによる農業経営の大規模合理化や、米価引き上げ策により、農家の収入増を図ったことがあった
- 外国為替の固定相場制が、実質的には円安を進行させ、日本の輸出拡大に資したこと
こうした経済の高度成長は、家電製品を普及させ、日本人の生活に消費革命を起こした(大衆消費社会)。1950年代後半には、白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫の三種の神器が、1960年代後半には、車・クーラー・カラーテレビが3Cと呼ばれ、一般人の注目の的となった。
食生活も豊かになり、肉類や乳製品も普及した。米食が減少するとともに洋風化が進み、インスタント食品や冷凍食品が普及、外食産業も発達してきた。食品産業は量産化出来る規格化された食品を、スーパーマーケットやコンビニエンスなどに供給するようになった。
しかし、あまりにも急速な工業化は、地域社会に深刻なダメージを与えた。生産面の技術革新はあっても、それに伴う有害な副産物の処理技術を日本はまだもっていなかった。工業地帯では大気汚染・水質汚濁・騒音・地盤沈下などが続発し、コンビナート建設反対などをスローガンとして闘った革新勢力が、自治体選挙で勝利していった。東京、横浜、京都、大阪の大都市圏では革新自治体が成立した。
こうした中で、1960年代に、被害者が企業を告発した四大公害訴訟が行われ、1971年から73年にかけて、原告側勝利の判決が相次いだ。佐藤内閣は、1967年に制定した公害対策基本法を、70年、より徹底した法律へと全面的に改定し、71年、公害対策行政を一本化した環境庁を発足させた。
「公害」の記事も参照。
戦後文化
庶民
敗戦後の混乱で、多くの人々は、明日の食糧にも事欠く生活を強いられた。1945年には、軽快なリズムの「リンゴの唄」が大流行した。
ラジオの音楽番組もこの頃誕生する。1946年1月に放送が開始されたNHK「のど自慢素人音楽会」は、番組名を「のど自慢」に変えて、現在に至るまで人気番組として定着している。美空ひばりも、歌手デビューする前には、この「のど自慢素人音楽会」にでていた。
映画界では、1943年に『姿三四郎』でデビューした黒澤明監督が、1946年に『わが青春に悔なし』を撮り、いち早く日本映画の旗手となり、1950年の『羅生門』はヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞、世界的な映画監督として評価されるようになり、1954年のヴェネツィア映画祭で『七人の侍』が銀獅子賞を獲っている。他にも、衣笠貞之助監督は、『地獄門』で1954年カンヌ映画祭グランプリを受賞、溝口健二監督は1954年ヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を受賞している。
テレビ放送は、1953年開始された。これは戦前戦後の最大の娯楽産業であった映画を衰退させた。1958年の映画の入場者数は11億2745万人だったが、これは戦後のピークであり、二度と書き換えられることはなかった。テレビの急速な普及の背景には、短期的には、1959年4月の皇太子と美智子妃の結婚パレード中継、東京オリンピック開催が挙げられる。1970年代は、世帯普及率90%を超えるまでになった。
週刊誌は、新しく創刊されたものが、市場を開拓した。これまで週刊誌は、読売、朝日、毎日などの新聞社が発刊していたが、1950年2月、新潮社が『週刊新潮』を創刊、1954年には『週刊朝日』などが100万部を超えるようになった。
オリンピック・博覧会
日本でオリンピックを開催するのははじめてのことだった。1940年開催予定となっていたものは、第二次世界大戦により中止された。大会は、1964年10月10日から15日間、第18回オリンピック大会として、東京で開催された。規模も過去最大となった。94カ国が参加し、代々木競技場・日本武道館・渋谷公会堂などが建設され、東海道新幹線開通、首都高速道路建設、道路拡張などが非常な早さで進められ、この時期を境に東京の風景が一変した。
「日本万国博覧会」の記事も参照。
1970年3月15日から9月13日まで、大阪千里丘陵で、日本万国博覧会が開催された。「人類の進歩と調和」をテーマに謳い、アメリカやソ連などの宇宙開発大国が「月の石」や人工衛星を展示するなど、参加各国による工夫に富んだパビリオンの魅力もあって、参加者は6400万人に登った。
関連動画
政治
文化
関連コミュニティ
関連項目
- 戦前/戦中
- 第二次世界大戦/太平洋戦争/大東亜戦争
- 日本のいちばん長い日 - 玉音放送をめぐる事件(宮城事件)にスポットライトを当てた作品
- 憲法はまだか - NHKドラマ。のちに小説化された。日本国憲法制定までのいきさつが描かれている
- アメリカ合衆国
- 冷戦
- 戦後レジーム
- 昭和
- 1940年代/1950年代/1960年代/1970年代
- 日本史
- 歴史
- 政治
- 経済
脚注
- *1956年7月に発表された経済白書の結語には、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して《もはや「戦後」ではない》と記述され流行語にもなった
- *現在もなお戦争の直接・間接の被害者・加害者が生存している、記憶に残っているため。第一次世界大戦の追悼式典は現在も続けられている。日本では、第二次世界大戦の戦争体験者に関することやいわゆる“戦後レジーム”といった占領政策の影響がテーマになる。
- *1947年時点の実質GDPはソ連3699億ドル、アメリカ12872億ドル。
- *日本の戦後処理方針と日本軍隊の無条件降伏を勧告したもの。対日戦争を戦っていた米英が、1945年7月17日から8月2日、ドイツ・ポツダムに、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われたポツダム会談期間中に合意に達し、会談に招請されていなかった蒋介石に、電信で意見を求めた結果、米英中の3カ国の宣言として、7月26日に公表されたものである。まだ対日参戦をしていなかったソ連には、公表後に詳細が知らされ、対日参戦後にソ連も加えられた。当初、鈴木貫太郎内閣は宣言を「黙殺」していたが、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した。最終的に日本側は、8月14日の御前会議で受諾を決定。宣言は、軍国主義勢力の排除、連合国による日本占領、カイロ宣言(1943年12月1日、米英中三国首脳が、対日戦争の目的・戦後処理の原則などについて発した宣言)の履行、日本の主権を本州・北海道・九州・四国および連合国が決める諸小島に制限すること、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義・基本的人権の確立など、全13項からなっていた。
- *アメリカ、イギリス、中華民国、ソ連、オーストラリア、オランダ、フランス、インド、カナダ、ニュージーランド、フィリピンの11カ国。のちにビルマ、パキスタンが加わり、13カ国から構成された。このうち米英ソ中には拒否権があった。緊急を要する問題については、アメリカ政府に、委員会の決定を待たずに指令を発する権限が与えられていた(中間指令権)。
- *自由の指令。正式には「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」。共産主義者を含む政治犯の即時釈放、思想警察の全廃、内相及び警察首脳の罷免、一切の弾圧法規の撤廃を求めた指令を言う。アメリカ側が政治犯の即時釈放を求めたのは、日本政府が戦争終了後も政治犯を釈放しなかったため。治安維持法違反で投獄されていた哲学者の三木清は、9月末に獄死している。
- *正式には、勅令542号「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件」
- *「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると国会等で述べた発言。戦争責任を軍部や政治指導者から全国民へと希釈するものとして批判された。
- *この場合、大日本帝国憲法に基づいた天皇制を守ること。
- *つぎの幣原内閣では、この指令に基づき共産党員など政治犯約3,000人を釈放、治安維持法など15の法律・法令を廃止した。
- *いわゆる幣原外交。第一次世界大戦後に成立した国際秩序であるベルサイユ・ワシントン体制を尊重し、列強(特にアメリカ・イギリス)協調と中国への内政不干渉を唱えた。
- *い幣原が10月11日に初めてマッカーサーを訪問した際に、マッカーサーが幣原に口頭で述べた5点の示唆。㈠大日本帝国憲法改正(憲法の自由主義化)と婦人参政権の付与、㈡労働組合の結成奨励、㈢教育制度改革、㈣秘密警察などの廃止、㈤経済機構の民主化(財閥解体)。幣原内閣は、この指令に基づいて共産党員を始めとする政治犯の釈放、治安維持法・特別高等警察(特高)の廃止を行ない、12月には衆議院議員選挙法を改正し、女性参政権も認めた。ただし、総司令部の指令は重要な案件ほど文書には残されず、占領軍への批判も、プレス・コード(新聞発行綱領)で禁止され、新聞などの出版物は事前検閲を受けた。
- *五箇条の御誓文の文句が引かれており、明治天皇が本来目指した良き立憲国家の伝統を昭和天皇が戦後に引き継ぐという認識が表されている。詔書の目的は、あとに続く公職追放や預金封鎖など混乱が予想される事態を考慮して、天皇が国民に対して占領政策への協力を呼びかけるためだったとされる。本証書の作成には、日米双方の人々が多く関わっており、学習院大学英語教師のレジナルド=プライス、石渡荘太郎宮内大臣、吉田茂外相、GHQ民間情報教育局長ケネス=ダイク、同局顧問ハロルド=ヘンダーソン、ダグラス・マッカーサー、幣原喜重郎首相、天皇などの手が加えられている。極東委員会の日本訪問を1946年1月9日に控え、GHQとしては、天皇と天皇制が穏健なものであり、狂信的な尊崇の対象とならないことを、対外的にアピールする必要があった。
- *商法学者。憲法の専門家ではないが、本人の人脈が買われて憲法問題調査委員会委員長に任命されたと言われている。
- *統治権を天皇に置き、天皇は神聖にして不可侵と規定した。1945年12月8日の衆議院予算委員会で表明された、憲法改正の条件、「憲法改正四原則」が元になっている。
- *背景としては、対日理事会の構成国であるソ連などから総司令部に対して、鳩山への不信任が表明されたことが考えられる。
- *三井の場合は、三井本社が会社の株式を保有しており、会社の経営上の主要な問題は全て本社の許可を必要とし、会社の重役人事も本社で行われるようなシステムであった。
- *企業合同。同一業種の複数の企業が株式の買収や持合い、受託をおこなったり、また、持ち株会社を設立し同種企業を傘下に持つなどにより事実上企業として一体化させる。代表的なトラスト企業は、スタンダード石油。
- *企業連合。価格・生産計画・販売地域等の協定。特に官公庁などが行う入札制度における事前協定は談合という。
- *敗戦で失職した軍人・軍属の計700万人に退職金が一斉に支払われ、軍需産業には、戦争中の未払い代金が支払われた。
- *日本銀行の調査によると、東京の小売物価指数は、敗戦の翌年の1946年、前年比6倍に達した。47年には、2.7倍、48年には3倍に達した。
- *都市の勤労者世帯の平均月収は1742円であった。平均支出は2125円で、差し引き401円の赤字だった。預金封鎖により、当時の金額で約500億円が金融機関に回収された。1947年のインフレ率は125.3%。
- *1947年、当時の経済安定本部(後の経済企画庁、現在の内閣府の一部)は、第1回の『経済白書』(当時の正式名称は『経済実相報告書』)を発表しこの中で、「国も赤字、企業も赤字、家計も赤字」と表現したい。これは、分かりやすく、流行語ともなった。
- *日本の再軍備は、外交交渉や国内的議論・国会の審理を一切経ないままなされた。同種の再軍備が同時期になされた西ドイツの再軍備も朝鮮半島がきっかけであるが、アメリカ政府は元よりフランスやイギリスとの交渉、国内的には、自由民主党(FPD),社会民主党(SPD),キリスト教民主同盟(CDU)との間の議論も経て、議会による厳格なコントロールが確立された上で成立したのとは対照的である。
- *南西諸島、小笠原諸島は、米による信託統治が予定されていたが、アメリカはこれを国際連合に提案せず施政権下に置いた。奄美諸島は1953年12月25日、小笠原諸島、硫黄諸島、南鳥島、沖ノ鳥島は1968年6月26日、沖縄諸島は1972年5月15日に最終的に返還された。奄美諸島ではこの日を「痛恨の日」、沖縄諸島ではこの日を「屈辱の日」と呼んでいる。
- *アメリカ軍人の刑事裁判上の特権、基地の無償提供、防衛分担金などの支払いが規定されている。1960年には、日米地位協定に継承された。
- *選挙結果は、自由党が合計240名で、そのうち吉田派72名、鳩山派68名、中間派99名。また改進党85名、右派社会党54名、労農党4名、共産党0名、諸派無所属26名だった。なおこの解散は日本国憲法下で初の7条3項のみによる解散だったので、解散権が内閣の全くの自由によるのか、衆議院からの不信任案の可決・信任案の否決をへなければいけないのか、その合憲性が争われた。結果として最高裁が統治行為論でもって、違憲審査を採らなかったので、現在まで合憲的とされている。
- *MSAは1951年にアメリカで制定された相互安全保障法(Mutual Security Act)の略称。MSA協定とは、相互防衛援助協定、農産物購入協定、経済的措置協定、投資保障協定の4つの協定からなる。アメリカが対外援助、軍事、技術援助を統括する目的で作った相互安全保障法により日本が援助を受ける協定のことである。
- *宣言の内容は、㈠日ソの戦争状態の終結と国交回復、㈡日本の国連加盟をソ連が支持すること、㈢日本に対する賠償請求権の放棄、㈣平和条約締結後に、歯舞群島・色丹島を返還することの4点。しかし、1960年に日米新安保条約が調印されると、ソ連は米軍の日本からの撤退と日ソ平和条約調印との引き換えに、歯舞群島・色丹島を返還しても良いと通告してきた。しかし、その後も日本とソ連(ロシア)との間では、未だに平和条約締結はなされていない。だが、共同宣言という形で日本とソ連が合意に達したことで、それまで日本の国連加盟を拒否していたソ連は反対を取り下げ、1956年12月、国連総会は日本の国連加盟を全会一致で可決した。
- *1959年3月、警職法改悪反対国民会議を発展的に継承する形で、社会党・総評などを中心に134の革新団体が結集して結成されたもので、5月20日に10万人、5月27日に17万5000人の人々が国会を包囲したと言われている。
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