大東亜戦争とは、1941年12月8日の開戦から1945年9月2日の降伏調印までの大日本帝国と連合国との戦いを呼称したものである。開戦後の1941年12月12日に東条英機内閣が支那事変(日中戦争)を含めた名称として「大東亞戰爭」と閣議決定した事に由来する。
戦後になるとGHQの占領政策のもと「太平洋戦争(Pacific War)」という呼称が使用され、現在ではこちらの名称が事実上の正式名称となっている。
大東亜戦争、太平洋戦争と言う用語
「太平洋戦争」という名称について
太平洋戦争という用語には下記の様な批判が挙げられており、かといって「大東亜戦争」の使用にも抵抗がある場合には、支那事変(日中戦争)と併せて「アジア・太平洋戦争」と呼びかえることがある。イギリスの歴史学者であるクリストファー・ソーン(Christopher G. Thorne)は「極東戦争」という語を用いることを提案したが、広く用いられてはいない。
- 太平洋戦争という用語には米本土からインド洋に至る実際の戦域を反映しておらず、太平洋を挟んだ日米間のみの戦争であると誤解しやすい。
- そもそも太平洋戦争と大東亜戦争では定義される戦域が異なり、混用することは本来不適切である。
- 1879~1884年、南米のボリビア共和国およびペルー共和国とチリ共和国で行われた戦争が「太平洋戦争」と呼ばれており、歴史用語のあいまいさを避ける観点から不適切である。(この戦争に関しては硝石戦争、硫黄戦争という呼称もある)
用語「大東亜戦争」の初出
正確な初出は不明だが、1941年12月12日に東条英機内閣が閣議決定した「大東亞戰爭」が初出と思われる。
現在、誰でも確認できる「国立国会図書館デジタル化資料」においては1900年や1940年が見受けられるがこれは出版年不明の書籍である。
1900年表示の日本水産株式会社営業部調査課が出版した『南方水産業調査資料集. 第一號 總論篇』には昭和16年12月8日、臨戦態勢の完成を~の記述がある。
1940年表示の征南画録刊行会が出版した『大東亜戦争出征記念征南画録』には昭和16年(1941年)12月8日の詔書が掲載されている。
ただし大東亜の語は、1923年(大正12年)4月1日印刷で日本民族協会が出版した『日本民族研究叢書-17-』において「大東亜及び全米国の父 継体天皇-偉大不思議の継体天皇(下)-」といった形で登場している。
用語「太平洋戦争」の初出
1922年(大正11年)、水交社が出版した『太平洋海権論』に「太平洋戦争予想状況」の語が登場している。この書籍はイギリス人であるヘクター・C・バイウォーターの著述を海軍軍令部が軍事研究資料として翻訳した物がもとになっている。
これに続く形で1924年(大正13年)、新政倶楽部が出版した『米国と太平洋』から戦中に出版された書籍にまで「太平洋戦争」の語が用いられている。
大戦前史
1936年2月26日、帝国陸軍内部で統制派と対立していた皇道派の青年将校が「昭和維新断行・尊皇討奸」掲げてクーデターを起こした。財政難解決のため軍縮に動いていた高橋是清大蔵大臣をはじめ、斎藤實内大臣 渡辺錠太郎陸軍教育総監 、松尾伝蔵陸軍大佐、警察官5名を殺害。鈴木貫太郎侍従長 、警察官1名、斎藤實の春子夫人を負傷させた。以後、政治家の多くは暗殺を恐れ、軍の発言を抑えられず軍縮の機会を完全に逸した。(詳細は関連項目の二・二六事件を参照)
1936年11月、広田内閣が日独防共協定を結ぶ。これにより、はっきりとドイツというものを日本の安全保障上の交渉相手として選ぶ事になった。時を同じくして12月西安事件があり、張学良が蒋介石を一時軟禁、その後蒋介石が国共合作を唱える。これにより中国側は、国民党と共産党が、日本帝国主義と戦うということで戦線統一し、一時的な内戦状況を元に戻した。外交上はこの二つの大きな変化、日米関係の悪化から新しい相手との新しい体制への変化、中国大陸の不安定化の問題を抱える事になった。
また日英関係は、共に中国利権を抱える身として、日本としては基本的に改善、有田八郎外務大臣による交渉が進められた。これは経済的な保障をすれば平和の構築が出来るという算段があった。
基本的に関係が悪化しているアメリカと、共通利益を持つイギリスとは違うという「英米可分論」というのが前提にもあった。これを推し進め、英米を引き離してそれぞれと交渉していく事に意味があるというのがこの時期の外交スタンスであった。防共協定にも、アメリカは入らないまでもイギリスは入ることになっていた。
対して日米関係は、決定的決裂まではいかないまでも、中国大陸に決定的利益が無いだけに、アメリカは理念に傾いた。つまり、日本が中国に対して行っている事を強烈に批難していた。これは、英語を話す中国人が当時アメリカに対して、激しく啓蒙運動をし、アメリカは中国に対し同情的になっていた。日本人がこれに反論しないのも拍車をかけた。貿易関係においては、日本は当時一方的に多くのものをアメリカから輸入する輸入超過国であった。基本的なエネルギーは、全てアメリカから輸入するという状況である。
また、アメリカは、日本の中の親米英派への働きかけ、軍部の力を弱めようとする運動も一貫して行われた。しかし、最終的に軍部に押し切られる様子をおよそ10年間見てきた中で、日本の政策決定に疑問を持つ様になり、後の「ハルノート」の動きになる。つまり、アメリカ側は開戦に至ることを承知で、天皇に止める力は無いだろうと見ていたのである。
そうした中で、アメリカは日本が援蒋ルートを遮断するために北部仏印に進駐したことに対し、屑鉄、鋼鉄の禁輸を発動する。それに対して日本は7月2日「対米英戦を辞せず」「南方進出を強化す」とする南方進出方針を再確認し、資源を求めて南部仏印にも進駐した。これを警告無視と取ったアメリカは、石油輸出の停止を決定。イギリス、オランダもアメリカの方針に追随する形で、日本との貿易を停止した(ABCD包囲網)。資源から精密機械に至るまで、戦争に必要な物資の輸入をほとんどアメリカに依存していた日本は資源の確保が必要になった。その頃、欧州ではナチス・ドイツ快進撃を続けていたので、東南アジアの植民地を支配していた欧州の宗主国は本国が大変で植民地のことなど構っていられなくなった。既に決定していた南方進出方針にさらなるお墨付きと実現性が与えられたわけである。
当初は、1941年の7月、ナチスドイツに呼応する形で、日ソ中立条約を無視して対ソ開戦を行う「北進論」が陸軍内でも主流であったが、この方針決定を受け、関東軍特種演習(通称 関特演)は示威に留まり、東南アジアを占領して帝国版図を拡大する「南進」が推し進められることとなった。
戦争の推移
日米開戦
1941年11月、東条内閣は、日米交渉による戦争回避と対米決戦の両方を推し進めていたが、アメリカよりハルノートの提示がなされ、アメリカによる最後通牒であると受け取った日本は、日米交渉を打ち切り、開戦に向かう。
作戦名(地域) | 年月日 | 戦闘状況 | |
---|---|---|---|
真珠湾攻撃 | 1941年12月8日 | 日本海軍機動部隊がアメリカ海軍太平洋艦隊基地ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、戦艦5隻 駆逐艦2隻 標的艦1隻を撃沈、航空基地にも大打撃を与えた | |
マレー半島上陸 | 同日 | マレー半島コタバルに日本陸軍第25軍が敵前上陸 英領マレーシンガポール攻略作戦開始 | |
フィリピン攻撃 | 同日 | フィリピン米軍クラーク航空機基地を日本海軍航空隊が空爆、米領フィリピン攻略作戦開始 |
日本軍破竹の進撃
日本軍は破竹の進撃で東南アジアの米英蘭植民地をたちまちの内に席巻した。
作戦名(地域) | 年月日 | 戦闘状況 | |
---|---|---|---|
マレー沖海戦 | 1941年12月 | 英軍新鋭戦艦プリンスオブウェールズ他1隻を日本海軍陸攻が撃沈。初めて航行中の戦艦を航空機で撃沈した。 | |
香港作戦 | 1941年12月 | 英領 香港島を占領。 | |
シンガポール作戦 | 1942年2月 | マレー半島を2ヶ月間で踏破した日本軍第25軍が、英国東洋最大のシンガポール要塞へ攻撃開始。海側の防備を固めていた英軍はマレー半島側より進攻してきた日本軍になすすべなく、戦力は圧倒的に勝っていたのに(日本軍36000名に対し英連邦軍9万名)2週間で降伏。マレー・シンガポールで英連邦軍は13万名の捕虜を出し、英国史上最悪の敗戦と言われた。 | |
蘭印作戦 | 1942年2月 | 蘭印スマトラ島パレンバンの油田地帯に日本陸軍空挺部隊が空挺降下し油田をほぼ無傷で確保、その活躍により空の神兵と呼ばれた。またバダビヤ沖海戦で日本海軍が英米蘭豪4か国連合艦隊を完全撃破。その後ジャワ島に日本軍上陸、バンドン要塞が陥落するとわずか日本軍上陸から一週間で連合軍降伏、8万名以上が捕虜となった。 | |
セイロン沖海戦 | 1942年2月 | 日本機動部隊がインド洋進撃し英東洋艦隊を圧倒。空母1重巡2仮装巡洋艦1撃沈、英東洋艦隊は撤退。 | |
フィリピン作戦 | 1941年12月~1942年5月 | マニラを12月30日に占領した日本軍は、バターン半島で激戦の後、残存兵力をコレヒドール要塞に追い込んだ。その間にフィリピン司令マッカーサーが豪州に逃走。コレヒドール要塞には米軍がかねてより準備していた多数の重砲があり、日本軍と激しい砲撃戦の末5月6日降伏、程なくフィリピン全土の米比軍も降伏。米比軍は45000名の死傷者と83000名の捕虜を出した。 | |
ビルマ作戦 | 1941年12月~1942年6月 | 東南アジアからの英軍の駆逐と、米英の中国支援ルート(援蒋ルート)を分断する目的で、タイより英国領ビルマに進撃した日本軍は、1942年3月には首都ラングーンを占領、マレーシンガポールと同様に数が勝る英米中の連合軍を圧倒し、1942年6月にはビルマ全土を日本軍が掌握、米英中は5万名もの死傷者・捕虜を出して撤退した。ビルマの占領により日本軍の南方作戦は完遂された。 |
日本軍快進撃の要因
- 空母機動部隊や、当時世界最高水準の戦闘機であった零戦・隼など、日本軍の先進性が欧米の想定を大きく上回っていた
- 日中戦争で実戦経験を十分に積んでた上に、猛訓練により練度は当時世界最高水準であった
- 英国はナチスドイツとの戦争で植民地に十分な戦力を配置する余裕がなく、またオランダは既に本国をナチスドイツに占領されており、植民地に増援を送ることができなかった。
攻守逆転
開戦から破竹の進撃を続けてきた日本軍であったが、米軍の反撃体制が整うにつれてその攻守が大きく入れ替わることになる
作戦名(地域) | 年月日 | 戦闘状況 | |
---|---|---|---|
ドーリットル空襲 | 1942年4月 | 敗戦が続き、また米西海岸での日本軍潜水艦の跳梁に米国民士気が低下していた為、国民士気鼓舞の為、ドーリットル中佐率いるB25爆撃機隊が空母より日本本土初爆撃を決行、後の空襲と比較すると損害は軽微だったが、日本軍の受けた衝撃は大きかった。 | |
珊瑚海海戦 | 1942年5月 | 史上初の空母同士の海戦、日本軍は軽空母祥鳳を喪失しながら正規空母レキシントンを撃沈し戦術的には勝利を収めたが、海から要衝ポートモレスビーを攻略するという作戦目的は果たすことができなかった | |
ミッドウェー海戦 | 1942年6月 | 中部太平洋ミッドウエー島の占領と米空母隊撃滅を目論んだ日本軍であったが、逆に日本軍正規空母赤城加賀蒼龍飛龍4隻喪失の大敗、米軍はヨークタウン1隻のみの喪失。開戦以来日本の快進撃を支えてきた機動部隊の主力が壊滅し、日本海軍の戦力は大きく損なわれた、以後戦争の主導権は米軍に移ることとなった。 | |
ガダルカナル島攻防戦 | 1942年8月 | 米軍の反攻作戦「ウオッチタワー作戦」が発動し、ソロモン諸島ガダルカナル島上陸。同島の占領のため、両軍ともに激しい戦闘を繰り広げた。 | |
ニューギニアの戦い | 1942年3月~ | 米豪連絡線分断によるオーストラリア孤立化と、ラバウル基地防衛の為にニューギニアの要衝ポートモレスビーの攻略を目指す。海路からの進攻は珊瑚海海戦の結果で断念し、陸路によるの攻略もソロモン初諸島の失陥により失敗。増援も退却も出来ず、残された地上部隊は終戦までに殆どが餓死と病死で18万名の死者を出す事となった | |
ガダルカナル島撤退 | 1943年3月 | 半年に渡る消耗戦の末、日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定。約2万人の戦死者のほとんどは餓死、病死であったという。その後もソロモン諸島での戦闘は続行。 |
日米戦局逆転の要因
1. 国力の差
日本 | アメリカ | 比較 | |||||||
GDP(1943年) | 2,063億$(敗戦までの最高値) | 15,830億$ | 7.7倍 | ||||||
工業力(1938年) | 世界総工業生産力の3.8% | 同 28.7% | 7.6倍 | ||||||
軍艦建造数 | 正規空母 | 9 | 軽空母 | 9 | 正規空母 | 22 | 軽空母 | 93 | 6.4倍 |
戦艦 | 2 | 巡洋艦 | 7 | 戦艦 | 10 | 巡洋艦 | 39 | 5.4倍 | |
駆逐艦 | 63 | 潜水艦 | 167 | 駆逐艦 | 903 | 潜水艦 | 214 | 4.9倍 | |
船舶建造(軍艦以外) | 300万トン | 3,300万トン | 11倍 | ||||||
航空機製造 | 79,123機 | 324,750機 | 4.1倍 | ||||||
戦車製造数 | 4,524両 | 77,247両 | 17倍 |
以上の通り、国力に圧倒的な差があり、兵器を初めとする物資の生産や開発、修理の能力に大きな乖離が生じた
北はアリューシャン、南はニューギニアやビルマまで戦域を拡大した後、より中部太平洋やインドまで戦域の拡大を画策したが、日本軍の輸送能力を主とする国力を遥かに超える戦域であり、日本に広げた拠点を維持する能力はなかった。その為、海上輸送路を米潜水艦に脅かされ(詳細後述)前線に物資を輸送する事ができず、戦死者より遥かに多い餓死・病死者を出す事となった。また、海上輸送路が脅かされることにより折角占領した南方資源地帯から資源を本土に輸送することが困難になり、生産力も低下した。
3. 科学技術力の差
大戦初期は世界水準に達していた日本の兵器も、連合軍が次から次へと新鋭兵器を開発する中で、その技術開発競争に追従する事が出来ず急激に陳腐化していった。またレーダー等のエレクトロニクスの分野は、当時の日本が基礎的な技術が未成熟だった上、軍首脳の無理解により開発が進まず、連合国と圧倒的な差がつくことになった。
※レーダーに関する話題でよく例に出されるのが「八木・宇田アンテナ(通称:八木アンテナ)」と「マイクロ波マグネトロン」である。前者は指向性の良い高性能アンテナであり、後者は波長の短い電波を発信する装置である。
両方ともレーダーの性能を飛躍的に向上させる発明として各国で研究され、連合国の勝利に大きく貢献した。
戦局の悪化
ミッドウェー及びソロモンでの戦力喪失により、日米の攻守は完全に逆転し日本軍は防戦一方となった。また1942年以降大量に就役した米潜水艦による通商破壊戦が効果を挙げており、日本の継戦能力は日を追って失われていくことになる。
作戦名(地域) | 年月日 | 戦闘状況 | |
---|---|---|---|
アッツ島玉砕 | 1943年5月 | 米軍がアリューシャン列島アッツ島上陸し、同島守備隊全滅。この戦いから玉砕という言葉が多用されることとなった。 | |
絶対国防圏決定 | 1943年9月 | 御前会議にて裁可された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」と定められたが、特にマリアナ諸島のサイパン島が最重要拠点とされた。 | |
学徒出陣開始 | 1943年10月 | 徴兵が猶予されていた高等教育諸学校(文系)の在学生の徴兵猶予措置が撤廃され、多くの学生が徴兵され戦場に送られた。 | |
カイロ・テヘラン会談 | 1943年11月 | 対日・対独戦況の好転により、米英中によるカイロ会談、米英ソによりテヘラン会談と連合軍側の会談が立て続けに行われ、今後の戦争遂行方針やソ連の対日参戦について協議された。 | |
タラワ・マキン島玉砕 | 1943年11月 | 米軍がマーシャル・ギルバート両諸島攻略、タラワ・マキン守備隊は圧倒的な米軍に対して善戦し、伊175号潜による護衛空母リスカムベイの撃沈もあり米軍は大損害を被った。 | |
インパール作戦 | 1944年2月 | ビルマ-インド国境の要衝インパールを攻略する目的で7月まで続けられた。第15軍司令官、牟田口中将の補給を軽視した強引な作戦計画により作戦は失敗。インパールからの退却路には白骨が散乱し「白骨街道」の異名をとった。 | |
大陸打通作戦 | 1944年4月~12月 | 南方資源地帯の海上輸送が困難になった為、陸路での資源輸送路の確保と、中国軍の撃滅を目的とし、支那派遣軍が総力を投入した。日本軍は作戦目標をほぼ達成して中国戦線における優位を決定的にし、米国の戦争計画を変更に追い込む事に成功した。 | |
マリアナ沖海戦 | 1944年6月 | 日本軍は太平洋戦争上最大の機動部隊で米機動部隊を迎え撃ったが、米軍は新鋭エセックス級を主力とする日本軍の倍の15隻の空母と大量の新鋭機、レーダーやⅤT信管等の先進のエレクトロニクスで日本軍を圧倒、日本機動部隊は空母3隻を失う大敗を喫し、以後空母による作戦能力を失う。 | |
サイパン島玉砕 | 1944年6月 | マリアナ沖海戦で敗北し援軍の目途も無くなったサイパン島は玉砕し、日本の入植民(主にサトウキビ農家)1万人も亡くなる悲劇となった。この防衛線でサイパン守備隊が水際撃滅作戦をとって早々に大損害を被り、結果的に玉砕を早めてしまったことが後の島嶼防衛戦の教訓として活かされる事となる。 | |
東條内閣崩壊 | 1944年7月 | 絶対国防圏の一角 サイパン陥落の引責で東條内閣崩壊 小磯内閣発足 | |
ペリリュー島の戦い | 1944年9月~11月 | サイパンの教訓を活かし、水際撃滅作戦をとらず、無駄な突撃も戒め徹底的なゲリラ戦術に徹した日本軍守備隊の前に、米軍はガダルカナル殊勲の海兵第一師団が一時は全滅判定を受け陸軍師団と交代させられる大損害を被った |
大日本帝国の最期
絶対国防圏の崩壊は、日本本土への本格的な空襲開始と、資源海上輸送路の断絶を意味しており、もはや日本軍に勝利の見込みはなかったが、連合軍に大損害を与えて有利な講和条件を引き出す事を目的として、絶望的な抵抗が続けられる事となる。
作戦名(地域) | 年月日 | 戦闘状況 | |
---|---|---|---|
B-29本土空襲開始 | 1944年6月 | 中国成都よりB-29が八幡を空襲、B-29による本土初空襲。但し成都よりはB-29をもってしても距離的に九州を空襲するのがやっとで、日本軍迎撃による損害も多かったことから中止された | |
台湾沖航空戦 | 1944年10月 | 台湾沖に襲来した米空母部隊に向け。陸海軍合同で航空攻撃を実施、大本営は殆ど戦果がないにも関わらず、空母19隻撃沈破などと架空の大戦果を発表し、この後の作戦判断に大きな影響を与えることになった。 | |
レイテ島の戦い | 1944年10月 | 米軍がフィリピン奪還の為、レイテ島に上陸。日本海軍は残存戦力を集結し米艦隊を迎え撃つも(レイテ沖海戦)組織的戦闘が不可能となる大敗を被った。その後のフィリピンでの戦いは、1945年3月に米軍がマニラ占領し日本軍の組織的抵抗は終わったが終戦まで山中に籠っての散発的な抵抗となった。日本軍はフィリピン全域で52万名の戦死者を出したが、この内80%の40万人は餓死・病死と推定されている | |
特別攻撃開始 | 1944年10月 | 神風特別攻撃隊出撃 護衛空母セント・ロー撃沈 他3隻撃破、特攻は最初の出撃で大戦果を挙げたため、その後も続けられていくこととなる。多くの前途ある若者を「統率の外道」の作戦で失う悲劇で、日本軍指導部の非人道性や無能さを象徴する作戦と言われる場合も多いが、一方では、米艦隊の対空能力の飛躍的向上により、航空機の通常攻撃では米艦隊に有効な打撃を与えることすら困難になっていた中で、米艦56隻撃沈し正規空母19隻を含む381隻(修理不可で除籍された艦も含む)を撃破した特攻攻撃は、米軍の戦略爆撃調査団からは、太平洋戦争中で日本軍の編み出したもっとも効果的な艦船攻撃法と結論づけられ、米軍の指導部からも有効な作戦であったと評価されている | |
B-29東京初空襲 | 1944年11月 | マリアナ諸島よりB-29が東京初空襲、以降全国の都市がB-29による戦略爆撃により、大きな被害を被った。 | |
ヤルタ会談 | 1945年2月 | 米英ソ三国が今後の戦争遂行や戦後処理について協議。ここでソ連の対日参戦が決定された | |
硫黄島の戦い | 1945年2月~4月 | 約22000名の日本軍守備隊に対して、米海兵隊3個師団10万名の圧倒的戦力で攻め込むも、栗林中将率いる守備隊はサイパンの教訓に基づいた徹底した持久戦術で抵抗、米軍は日本軍を大きく上回る28686名の死傷者を出し、未だに米軍史上有数の激戦の一つに挙げられる。 | |
東京大空襲 | 1945年3月 | 未明に330機のB-29による東京の住宅密集地を狙った無差別爆撃で10万人の犠牲者を出す惨劇となった。一方B-29は日本軍の迎撃により12機撃墜42機撃破 また5月には3月を上回るB-29が470機で東京来襲したが26機撃墜86機撃破の損害を被っている。 | |
沖縄戦 | 1945年4月~6月 | 太平洋戦争中最大の激戦となり、日本軍は9万名の戦死者と10万人の住民の犠牲者を出す悲劇となった、一方米軍も司令官バックナー中将の戦死も含め84000名の死傷者を出し、欧州戦線も含め第二次世界大戦の中で最大級の損害を受けた戦場となった。 | |
マンハッタン計画 | 1945年7月 | マンハッタン計画にてアメリカの原爆が完成。 | |
ポツダム会談 | 1945年7月 | 米英ソがポツダムにて会談 ポツダム宣言を発表するも、小磯内閣の後を継いだ鈴木内閣がこれを黙殺。 | |
広島に原爆投下 | 1945年8月6日 | テニアン島より出撃したB-29エノラゲイ号が広島に原爆投下、広島では被爆後4か月以内に9万~16万の死者が出たと推定されている。 | |
長崎に原爆投下、ソ連対日宣戦布告 | 1945年8月9日 | テニアン島より出撃したB-29ボックスカー号が長崎に原爆を投下、73884名の犠牲者。また同日ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄し満州に侵攻開始、多くの入植民が逃げ遅れ多数の死者を出した。 | |
終戦の御聖断 | 1945年8月9日 | 御前会議にて昭和天皇の御聖断によりポツダム宣言受託を決定。15日に全国民に向けて玉音放送を行った。玉音放送阻止を狙った一部少壮将校による反乱が起こるも鎮圧された(宮城事件) | |
降伏文書署名 | 1945年9月2日 | 戦艦ミズーリ艦上にて重光葵外務大臣(政府全権)と梅津美治郎参謀総長(大本営全権)が降伏文書に署名し、正式に戦争が終結した |
太平洋戦争の被害(太平洋戦域のみ)
人的損失
日本
日本の戦争犠牲者としてよく引用される310万名の戦争犠牲者は、太平洋戦争だけではなく、昭和12年の盧溝橋事件以降で戦争を起因とした死亡者の総数である。(従って日中戦争やノモンハン事件の戦死者、戦中戦後に外地で行方不明や自然死した軍人・軍属も含まれる)
- 太平洋戦域(含む東南アジア) 軍人・軍属 1,539,400名
- 中国大陸 軍人・軍属 455,700名
- 満州・朝鮮大陸 軍人・軍属 73,200名 シベリア捕虜抑留死 55,000名
- 一般市民 日本本土 約500,000名 外地300,000名
アメリカ
- 戦死107,903名 戦傷171,898名 戦闘以外の死亡48,380名 合計328,181名
- 戦死者内訳 米陸軍(含陸軍航空隊)73,430名 海軍35,129名 海兵隊29,622名
- 上記戦死者以外に、戦闘区域外で任務・訓練で39,898名の死者あり。
英連邦・オランダ
- 英・印軍他英連邦軍(除オーストラリア軍) 戦死傷者227,131名
- オーストラリア軍 戦死26,601名 戦傷15,488名 戦闘外死亡6,041名 同負傷149,489名 一般市民死亡800名
- オランダ軍 戦死14,800名
※戦死者には捕虜収容時の死亡者も含む
中国
ソ連
東南アジア諸国
艦艇の損失
各国 | 空母 | 戦艦 | 巡洋艦 | 駆逐艦 | 潜水艦 | ||||
日本軍 | 19 | 8 | 36 | 135 | 131 | ||||
米軍 | 10 | 2 | 10 | 82 | 52 | ||||
英連邦 | 1 | 2 | 6 | 8 | 4 | ||||
オランダ軍 | 2 | 5 | 8 |
航空機の損失
- 日本軍 航空機全損失 50,000機 内戦闘損失 20,000機
- アメリカ軍 航空機全損失 27,000機 内戦闘損失 8,900機
- アメリカ軍航空機損失の内 B-29全損失 774機(内任務による損失513機)
航空主兵主義への転換
大東亜戦争開始までの世界的な海軍戦略は大艦巨砲主義が主流であった。
しかし、真珠湾攻撃やマレー沖海戦に始まり、戦争の初めから航空機が重要な役割を果たした。そして珊瑚海海戦において遂に人類は初めて空母同士の艦隊決戦を経験する。
戦争中は終始海上航空戦力の優劣が戦局を左右したため、表舞台においては、太平洋戦線は、空母と空母の戦争であったとも言える。これにより、海戦の主役は戦艦から航空母艦とその艦載機へと変化した。(詳しくは大艦巨砲主義の記事も参照)
日本軍の補給・兵站
大日本帝国軍に於いて輜重は明治の徴兵令にあるように歩兵、騎兵、砲兵、工兵と言った兵種と共に輜重兵と言う固有の兵種として制定された。
しかしながら、陸軍士官学校を卒業した士官候補生が輜重兵将校になるのを避けていた傾向もあり、実際に昇進面でも輜重兵科は冷遇され、これを輜重軽視と見る向きもある。ぶっちゃけ必死に勉学に励み士官になったのならば華々しく活躍して武勲をあげられる兵科になりたいのは当たり前の心情とも言えるが、初期には小隊規模だった輜重兵部隊も次第に規模を拡大し、昭和11年には輜重兵連隊が創設されている。
輸送手段としては旧来の馬による輸送となり、直接馬に荷物を乗せる駄載や輜重車を一頭、もしくは二頭で曳く輓馬が主体であった。昭和期には自動車が配備される部隊も出来たが規模は小さく、馬が主体である事には変わりはなかった。
当時の輸送量としては自動車が一台でおよそ1500kgに対して駄載は一頭で100kg、輓馬は一頭で曳く二輪輜重車で200kg、二頭で曳く二頭曳輜重車で400kgとなっていた。一台辺りの輸送量は自動車が優れているのだが、数を揃えれば馬でも十分な輸送量が確保できた。それとは別に自動車には燃料の問題、生産数と必要資源の問題、運転手の確保やメンテナンスの問題、車の踏破性能と戦地の地形があった。
ただし、結局のところ日本軍に於いては歩兵は徒歩が主体であり、砲兵も自動車化されてない部隊は分解した砲を背負子で臂力搬送したり駄載で運んだりしていた。これは軍自体が大東亜戦争に至るまでの長きに亘る事変の中で中華民国を相手に勝てていた事による油断があったのと、そもそも軍の主体を自動車化する様な国力が無かったと言える。
他の大戦参戦国も、当初は米軍を除けば日本軍と大差なく、戦場での輸送力の主体はあくまでも馬であったが、後にアメリカからの大量の車両のレンドリースにより、車両での輸送力が劇的に向上している。特にソ連はトラック等の輸送車両をレンドリースから頼る代わりに、戦車等の兵器生産に工業力を集中できることとなり、大量の戦車や火砲を生産しドイツを圧倒することとなった。
また、日本軍の兵站の中でも糧食に関しては特に大きな問題を抱えており長きに亘る事変の段階で破綻していたとも言える。
長きに亘る事変に於いて内地からの糧食輸送が不足した状態を現地調達に頼り、賄えてしまったのである。これは非常の手段としては間違っていないが本質的に輸送能力が足りていない問題は未解決のままで大東亜戦争に突入してしまったのである。
その為、日本軍の作戦立案に当たっては糧食の兵站を十分考慮しないケースも多く、多くの餓死者を出すこととなった。一説には日本軍全戦没者210万人の内60%に当たる120万人余りが餓死もしくは病死したという推計もある。
日本軍の海上輸送とその護衛への評価
米軍が島国である日本の命脈である輸送船舶に打撃を与える中、昭和17年(1942年)10月に海軍軍令部に護衛課、昭和18年(1943年)11月に海上護衛総隊が発足するも、最後まで米潜水艦に有効な対策を講じることができず、莫大な船舶とその船員を失う事となった。
主な原因として、艦隊決戦への偏重・平時の総力戦に対する準備不足が挙げられる。
戦前の日本海軍には、長期戦に備えた艦艇の乗組員や仕官の教育体制が整備されておらず、開戦後は艦艇の急激な増加に伴い乗組員の質が極端に低下してしまった。また対潜戦術やソナー、船団運行のノウハウなどの研究も行われておらず、すべてにおいて総力戦への備えが不足していた。
潜水艦対策については第一次世界大戦で国家存亡の危機まで追い詰められた大英帝国ですらも、その備えを遥かに潜水艦技術の発達が上回り、第一次世界大戦時と同様にドイツ軍Uボートによって徹底的に苦しめられ(Uボートによる商船の喪失は1457万トンと日本の倍近い損失)チャーチルも回想録で「戦争中、私を最も怯えさせたものはUボート」と言ったほどであった。
しかし、同じ潜水艦で苦しんだ日英の明暗はくっきり分かれ、英国は米国の技術的戦力的支援や、自助努力としても、専門組織による対潜戦術・船団運用の研究と、多大な犠牲によるノウハウの蓄積で、乗組員の速成教育の準備や予備役の充実なども図り、Uボートの脅威を制圧したのに対して、日本は多大な犠牲によるノウハウの蓄積もできず、まともな対策もなく最後まで米国の潜水艦になすすべが無く、海上護衛は破たんした
- 米英は制空権を確保していたため、大量の対潜哨戒機を運用できた。対潜哨戒機はレーダーや投光器を活用し多数のUボートを撃沈した。日本軍も大戦末期に対潜哨戒機や新型ソナーを開発したが、敵制空権下では十分な運用ができなかった
- 英は多数の護衛駆逐艦・フリゲート艦を就役させ、船団の護衛にあたらせた。日本軍も同様な目的で海防艦を建造したが数も少なく、また米英と違い敵の制空制海圏での運用を余儀なくされ、逆に敵艦載機や敵潜水艦の餌食となる艦も多かった
- 米軍は大量の護衛空母を建造し一部を英軍にレンドリースしている。それらの護衛空母は独海軍や空軍による攻撃の懸念が殆ど無かったため、主に対潜哨戒機の哨戒海域外でのUボート狩りに注力できて、多大な成果を挙げることができた。日本軍空母部隊は米空母より圧倒的に劣勢であり、潜水艦対策に向ける余裕はなかった
- 米英はUボートの海上にわずかに突き出たシュノーケルを発見できるレーダーや、Uボートの短波通信を傍受して方向・位置を推定できた短波方向探知機、ヘッジホッグや誘導対潜魚雷等の新兵器等の潜水艦対策で、科学力・技術力を十分に活かしたが、日本にはそのような科学力・技術力は無かった。
一時はUボートに怯えたチャーチルも「対Uボート戦の末期(と初期)では立場が逆になった。狩られるのは商船ではなくUボートになったのである」と高らかに勝利宣言をすることになったが、ないないづくしの日本には到底及ばない領域だったと言えよう。
太平洋戦争への評価
多くの将兵と市民が死傷し、都市は焼き払われ、国土は荒廃した。戦争目的の是非に関わらず、その不適当な作戦や戦術、腐敗した軍の体質等は批判される事が多い。当時「華の都」と称されていた帝都東京、横浜や大阪などの主要大都市は見るも無残なほど焦土と化した。焼夷弾により炎上する名古屋城を見た人々は、逃げるでもなく涙を流しながら呆然と立ちすくんでいたという。大都市はおろか全国の各地方都市まで空襲で焦土化し、日本国内のインフラは完全に破壊された。戦争の被害が余りにも大きすぎた為、日本人の心に非常に深い傷を与えた。
当時の日本の立場からすれば、ABCD包囲網により資源不足に陥った点、ハル・ノートが海外領土の放棄や軍事同盟の破棄を迫る(一度締結した条約を一方的に破棄することは、その国の国際的信用を失う行為である)など到底受け入れられるものではなかった点から、自存自衛のための戦争であるとの主張も理解できないわけではない。
しかし、連合国側から見れば、自作自演で中国を侵略し傀儡国を打ちたて(満州事変)、自分達との戦争準備のために資源地帯に進駐した挙句(南部仏印進駐)、貿易の継続を求められても、到底承諾できるはずもなく、その他の戦場となった地域の人々にも、戦争の結果日本ではなくなった地域の人々にもそれぞれの言い分がある。
日本は戦争に敗れ、戦争の目的である東南アジアの資源自衛および経済圏の確保は短期間に終わったが、この戦争の影響により、アジアにおける欧米の植民地体制は維持不能となり、戦後のアジア各国の独立につながり、日本が戦争に際して掲げた「欧米植民地体制の打破」という目標というか理念(悪く言えばプロパガンダ)だけは結果的にある程度達成されたともいえる。一方で、日本と西欧の退場により太平洋におけるアメリカの覇権は盤石なものとなった。
戦後
日本は敗戦によって海外領土を失い、その領域は明治初期の範囲から千島列島の南半分と樺太の南半分を除いた物となった。しかし、日本固有の領土である北方領土は日本の主権が回復した後でもソ連に占領されたままであった。ソ連を引き継いだロシア連邦が成立しても、北方領土問題は現在も未解決である。
戦後日本に軍政を敷いた占領軍は、プレスコードを発布し報道・出版に対し検閲を行った。
これは発売・放送される新聞、ラジオ、雑誌、文庫本から教科書に至るまで全てのものが対象となり、日本を肯定賛美するような記事があれば即座に訂正が施された。
また教育や庶民文化にも介入し、連合軍が軍国主義的と見做した制度や慣習を破壊すべくつとめた。
その結果、先人達が築き上げてきた多くの伝統的日本文化が断絶した。
例えば「日本刀」は、国宝や代々伝わる家宝など問わず、日本国内に存在する全ての刀を強制処分するように通達がなされたが、知識人らが何度も嘆願したおかげで何とか全廃棄は免れたという経緯がある。
また、その一環として旧日本軍の戦争犯罪に関する宣伝なども行われたが、これらの政策には占領軍当局の日本に対する無知・誤解、彼ら自身のプロパガンダに基づくものなども少なくなかった。
こうした政策は冷戦が深刻化し日本を西側陣営に確保する必要性が高まって緩和されたが、現在でも日本の教育・政治・言論など様々な分野に根深く影響を残している。
関連動画
関連項目
- 歴史
- 日本史
- 大日本帝国
- 皇軍 / 日本軍
- 絶対国防圏
- 戦前
- 二・二六事件
- 支那事変
- 国家総動員法
- 大政翼賛会
- 総力戦研究所
- 第二次世界大戦
- アジア・太平洋戦争
- 太平洋戦争
- 戦争
- 国家総力戦
- 軍事関連項目一覧
- 25
- 0pt