由良(軽巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造した長良型/改球磨型軽巡洋艦4番艦である。1923年3月20日竣工。日本の軽巡では初めて水上機を搭載した艦となった。関東大震災の救援、第一次上海事変、支那事変、大東亜戦争に参加。開戦劈頭の南方作戦やベンガル湾機動作戦で雑役船及び輸送船を5隻協同撃沈、2隻撃沈、砲艦1隻拿捕する戦果を挙げ、各種進攻作戦にも従事。1942年10月25日、アメリカ軍の爆撃を受けて沈没。日本が失った最初の軽巡洋艦となった。
概要
艦名の由来は京都府北部を流れる由良川から。丹波高地の三国岳西方を源とし、南丹市、船井郡京丹波町、綾部市を西流、福知山市で北東に流れを変え、宮津市と舞鶴市の境界を形成しながら栗田湾に注ぐ。京都の河川が軽巡の名に使われたのは由良が最初で最後。
由良は長良型軽巡洋艦4番艦だが、予算承認されたのが八六艦隊計画ではなく八八艦隊計画の時だったため、4番艦以降を由良型軽巡洋艦と呼称する場合がある。
長良型は改球磨型とも呼ばれ、魚雷発射管を61cmに変更。司令塔と後部艦橋を廃止して前部艦橋を拡大、艦橋内に航空機格納庫を設けて格納庫から1番砲塔上に航空機滑走台を装備した。後に呉式二号二型射出機を装備した事で格納庫を旗艦設備に転用、滑走台は後に撤去された。艦首はスプーン型を採用。艦形は球磨型に似ているが、格納庫を設けた分だけ艦橋が大型化している。日本の軽巡にしては武装面が乏しいが拡張性は優れていて、数々の改装に耐えられるだけの余裕があった。要目は全長162.2m、全幅14.2m、排水量5570トン、出力9万馬力、最大速力36ノット、航続距離は14ノットで5000海里、乗員440名。武装は40口径14cm単装砲7門、40口径8cm単装高角砲2基、八年式61cm魚雷発射管4基、九〇式水上偵察機1機。他国の軽巡洋艦の最大速力が30ノットに収まる中、36ノットの快足を持つ長良型は世界に誇れる艦であった。
長良型を最後にしばらく軽巡洋艦が建造されなかったため、老朽化しつつも潜水戦隊の旗艦に起用されて一線で留まり続けた。
艦歴
戦前
1918年度計画にて、中型二等巡洋艦として建造が決定。1920年3月26日に軍艦由良と命名。艦名の他候補に鈴鹿があった。1921年5月21日、佐世保工廠で起工。1922年2月15日午前10時30分に進水し、翌日艤装員事務所を設置。1923年2月18日に甑(こしき)列島で、2月21日に三重県矢樫目崎沖で全力公試を行った。そして同年3月20日に竣工し、佐世保鎮守府に編入された。4月1日、姉妹艦名取、長良、鬼怒とともに第2艦隊第5戦隊を編制。京都府宮津市に所在する由良神社から分祀を受け、艦内神社として艦長室前で祀っている。境内には「献木軍艦由良」と彫られた石柱が存在する。由良海岸沖に停泊すると、乗組員は必ず由良神社に参拝したという。
1923年8月25日、中国沿岸での警備のため横須賀を出港する。竣工から約5ヵ月後の9月1日午前11時58分、関東大震災が発生。マグニチュード7.9の大地震により東京と神奈川に甚大な被害が及んだ。交通網や通信網が一瞬にして壊滅し、各所で火災が発生。この世に地獄が顕現した。15時、奇跡的に機能を保持していた海軍船橋送信所が独断で第一報を打ち、全海軍に状況が伝わった。災害発生時、由良は連合艦隊の訓練に参加していて裏長山列島に所在。船橋送信所から送られた5通全ての緊急電文が届き、連合艦隊は速やかな帰国が必要と判断。旗艦の戦艦長門は身軽な駆逐艦と軽巡を先発する事に決めた。
9月2日14時、緊急の出港命令が下り、由良は16時頃に裏長山列島を出発。窮する祖国に向けて突き進んだ。16時45分、連合艦隊司令部は第5戦隊に大阪への寄港を命じた。一方で佐世保を母港とする艦は呉で待機するよう命じられ、由良は9月4日に呉へ到着。広島湾で訓練しながら待機する。9月17日に第5戦隊も救援活動へ加わる事になり、名取とともに呉を出発。9月20日に大阪築港に寄港し、支援物資を積載。神戸でも救護資材を積載し、9月23日に支援物資の受け入れ港となっている品川へ入港した。港内には戦艦比叡、霧島、軽巡北上、名取、夕張、木曾、由良、駆逐艦11隻等が停泊しており、各艦とも物資の揚陸や通信作業に従事。食糧の供給や地方との通信は回復しつつあったが、現地の治安が悪化していたため軽巡北上、名取、木曾、夕張等とともに警戒活動を行った。9月27日頃より救援活動の主導が海軍から救護事務局へ徐々に移管されていき、品川沖を去った。
1924年頃、佐世保海兵団を卒業した鶴田義行一等機関水兵が由良に配属された。泳ぎが得意だった彼は翌年開催された明治神宮競技大会にて、200m平泳ぎで優勝。これを機に海軍を辞めて本格的に水泳へ打ち込み、アムステルダムオリンピックで金メダルを獲得した。由良から金メダリストが出る形となった。8月16日の第一次戦闘訓練では軍紀厳正、最大速力における戦闘や故障想定の応急作業が迅速かつ適切と評価された。
1926年9月、由良の舞鶴入港に伴って乗組員全員が由良神社に参詣。由良村では盛大な歓迎を受け、民家で宿泊。良好な関係を築いた。艦からは軍艦由良の威容を収めた写真額を小学校と神社に寄贈し、村からは由良港の名勝を描いた刺繍額が寄贈された。艦と地元民の交流は以降も続けられ、由良小学校の小学生が慰問文を送ったり、乗組員と文通したりしている。12月、軽巡洋艦としては初めて由良に水偵を搭載。試験的な運用だったため、他艦への搭載は見送られた。滑走台を使って発艦するため車輪の付いた機でなければならず、着艦不可能だった。陸上基地に帰投できない場合は搭乗員のみ救助され、機体は放棄するしかなかった。あまりにも勿体無いので、滑走台を使った発進は一度も無かったとか。
1927年3月27日、佐世保を出港して青島に移動。山東省の権益を巡って中華民国内では排日活動が激化しており、最も邦人が多く住む青島付近の警備任務につく。5月16日に佐世保へ帰投。6月13日、魚雷調整中に気化爆発し、1名が右手に重傷を負う事故が発生。艦内で切断手術を受けた。3日後、海軍省人事局から御菓子料3円が送付された。6月20日、第1艦隊第3戦隊に転属。8月24日、美保関北東で行われた夜間訓練に参加。艦隊は甲軍と乙軍に分かれ、乙軍から攻撃を受けた想定で開始された。由良は防御側の甲軍に属し、22時に演習開始。速力16ノットで単縦陣の後方を航行していた。すると由良の右舷後方から乙軍の重巡加古、古鷹、軽巡神通、那珂、夕張が接近してきた。戦艦伊勢や日向とともに探照灯を照射し、那珂と神通を照らし出した。2隻は襲撃を諦めて右に転舵したのだが、これが悲劇の幕開けとなった。駆逐艦蕨と神通が衝突事故を起こし、蕨が沈没。更に余波で駆逐艦葦と那珂が衝突し、葦が大破するという多重衝突事故を引き起こした。のちの世に言う美保関事件である。23時27分、神通からのSOS信号を受信して事故の発生を悟る。23時32分、長門が演習の中止を命じ、由良は僚艦と協力して蕨の生存者を救助した。7月3日、土佐沖で基本教練訓練を実施。混焼缶消煙法や応急作業を行った。10月30日、横浜沖で挙行された大演習観艦式に参列。阿武隈、球磨、長良とともに供捧艦になる誉れを得た。
1928年12月4日、同じく横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列し、第四列に連なった。この年、由良艦長の働きかけにより由良神社の社格が村社から郷社に格上げされた。
1929年1月15日、佐世保工廠にて後部発射管直上短艇甲板板の補強工事を実施。3月、五十鈴に搭載した萱場式艦発促進装置の試作機で初の射出実験を実施。スプリング(バネ)を使って機体を射出する方式で、見事水偵の発進に成功した事から翌月由良に移設された。それから約4年に渡って運用実験を行ったが、事故が多発したのと火薬式射出機の実装に伴って撤去された。5月8日に幕僚通信事務室明取兼空気抜を、5月10日に長良や名取とともに羅針艦橋速力通信器応信装置を新設。1930年10月26日、神戸沖で挙行された特別大演習観艦式に参加。第二列に加わった。1931年9月16日、羅針艦橋装置を改造。
第一次上海事変
1932年1月28日、第一次上海事変が発生。ひょんな事から中国国民党軍第19路軍と上海特別陸戦隊が武力衝突し、上海市は戦火に包まれた。これを受けて由良は翌日佐世保を出港し、上海沖で集結。揚子江で警備を行う。派遣された艦艇は空母2隻、巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、その他補助艦艇で50隻に及んだため、2月2日に臨時編制された第3艦隊へ編入。指揮系統の一本化を図った。
2月3日午前11時25分、内地回航中の第26駆逐隊を呉淞砲台が砲撃。急報を受けた第3戦隊であったが、堀悌吉司令は冷静に対処。安全な場所で弾薬の準備を行い、それから救援に向かった。由良、阿武隈、那珂の3隻が砲台を40分間砲撃する。まず警告として試射を行い、人がいない事を確認してから砲撃を加えた。砲撃は実に的確であり、多くの有効弾を送り込んで砲台主要部を次々に破壊。敵砲台の火薬庫を爆発炎上させた。また砲弾が民家の方向へ落ちないよう、敵が応戦してくる中で細心の注意を払った。16時30分、下流の高橋砲台を破壊する戦果を挙げた。無事第26駆逐隊を収容した後、公海上に危険な砲台を放置しておく訳にはいかないとして、司令部は呉淞砲台の占領を命じた。2月4日、錨地を出港して攻略を試みる。砲台付近の錨地にイギリス軍艦や汽船が3隻停泊していたため、転錨を要求して立ち退かせた。午前11時20分、第26及び第30駆逐隊とともに砲台と交戦。敵砲台は強烈無比の30cmカノン砲を有しており、決定打を与えられなかった。2月7日未明、呉淞攻略支援のため由良から偵察機が発進。要地を偵察しつつ爆撃を行い、第19路軍を威嚇して陸軍の進軍を援護した。2月13日、陸軍混成第24旅団や横須賀陸戦隊、上海陸戦隊、第9師団とともに再度砲撃。呉淞からの銃撃で部分的な損傷を負った。砲台内には未だ敵兵約3000名、重機関銃10丁以上、軽機関銃80丁、迫撃砲若干、装甲自動車12輌があると見積もられた。2月15日、由良艦載機は第1航空戦隊とともに呉淞砲台に集中攻撃を仕掛け、西方へ敗走する装甲車両や橋梁を破壊して敵兵に大打撃を与えた。
3月1日、由良から発進した九〇式水上偵察機が敵機銃陣地と劉河鎮の陣地を爆撃。24発の30kg爆弾を投下した。由良艦長の谷本馬太郎大佐は堀悌吉司令の命令を忠実に守り、第19路軍のみを狙って攻撃。中国国民に被害が及ばないよう配慮したが、作戦終了後に攻撃が手ぬるいと非難された。停戦条約締結後の3月22日に佐世保へ帰投して修理を受ける。6月15日15時15分、油谷鷹西方海域で飛行訓練のため艦発促進装置を使って九〇式水上偵察機を発進させた。しかしその直後に艦首左舷索道に接触し、海面へ大破転覆する事故が発生。搭乗員を救助した後、原因を調査したが不明だった。7月、呉式二号三型射出機を5番主砲と6番砲塔の間に装備し、滑走台を撤去。ようやく機体の回収が出来るようになった。
1933年7月7日、佐世保工廠で名取ともども野菜格納箱を新設し、8月10日に伝声管を新設。8月25日、横浜沖で行われた大演習観艦式に参列。11月1日、第2艦隊第2潜水戦隊旗艦となる。11月21日に不良機関を換装した。この年から近代化改修を実施。射出機新設、揚収デリック及び旗艦設備設置、格納庫後部への通信、混焼缶の重油専焼化、高角砲撤去等の改正工事を受け、船体を迷彩に塗装した。翌年改装完了。
1934年7月31日、宿毛湾で給油艦鳴戸から400トンの送油を受ける。
夕張と衝突事故を起こす
1934年10月12日、昭和9年特別大演習第三期対抗演習に参加。艦隊は青軍と赤軍に分かれ、由良は青軍に所属した。18時50分、第1戦隊の左斜め後方に配置。無灯火での航行であり、周囲は闇夜に包まれていた。19時45分、右前方に反航する赤軍の水雷艇初雁を確認。照射砲撃を行って撃退するが、主力艦隊からはぐれてしまう。20時6分、速力24ノットに増速して第1戦隊を探し回る。再び初雁と遭遇し、互いに探照灯を照射しながら撃ち合う。20時21分、味方の第4戦隊が初雁を照射。2分後、艦橋見張り員が右舷方向に第1戦隊らしき艦影を発見。単独で航行していた事から赤軍の戦艦伊勢と判断し、襲撃行動に移る。ところが20時26分、相手は味方の軽巡洋艦夕張と判明。既に彼我の距離は3000mにまで縮まっており、由良は慌てて航海安全灯を点灯するも、夕張は反応無し。まだ煙幕が残っていたため視界も悪かった。1分後、ようやく気付いたのか夕張が取舵を取り始めた。距離はグングンと縮まって2000m、1500m、1000mとなっていく。由良も転舵を試みるが避けきれず、20時30分に夕張の艦首が右舷側発射管甲板に衝突。幸いにも被害は抑えられ、夕張に若干の浸水被害があっただけで済んだ。戦闘航海に支障が無いという事で、両艦とも演習を続行した。
1935年3月18日、佐世保工廠に入渠して修理を受ける。7月14日午前10時、佐伯湾で給油艦鳴戸が右舷に横付けし、重油617トンを補給。午後12時58分に横付けを離した。9月3日午前5時55分、大黒島近海で鳴戸の左舷に接近して舫索を取り、1時間後に送油を開始。600トンの補給を受け、午前9時5分に横付けを離す。11月15日、予備艦となり佐世保警備戦隊に編入。
1936年5月21日、佐世保工廠で機関の修理に着手。10月16日15時頃、修理艦船繋留場第五岸壁に繋留中に蒸気噴出事故が発生して6名が死亡した。11月2日、特務士官室と准士官室を改造。12月1日、由良は鬼怒や名取とともに第1艦隊第8戦隊へ編入され、南雲忠一少将が座乗する旗艦となる。1937年5月31日から6月15日にかけて、前部マストの改造工事を実施。度重なる改装により凌波性の悪化を招いており、旧式化に伴って武装や速力面で他国の軽巡との差が開いてきた。だが、阿賀野型の就役まで新鋭軽巡が無かった事から一線で運用され続けた。
支那事変
1937年7月7日、盧溝橋事件が発生。北支で日中の武力衝突が発生した。7月11日22時38分、戦艦陸奥より「第1水雷戦隊と第8戦隊は直ちに出港準備を整え、準備出来次第佐世保に回航。24時間待機となせ」との信令が送られた。翌12日午前0時30分、第1水雷戦隊とともに伊勢湾を出発し、7月13日午前5時30分に佐世保へ入港。第1艦隊長官に待機完成の電文を打ち、軍港内で各種物件を積載する。7月15日16時、待機中に第1水雷戦隊と合同訓練を実施。翌16日19時25分、訓練中の第8戦隊を第1艦隊長官が視察。7月18日早朝、対支作戦に備えて一水戦と対抗陸戦演習を行う。互いに陸戦隊を上陸させ、海軍墓地南方山地で会敵して模擬戦。午前6時頃に演習終了。8月1日18時30分から一水戦と対抗演習を、21時から襲撃教練を、23時から連合照射訓練を実施。互いに錬度を高めあった。8月6日13時、支那方面の作戦を担当する第3艦隊に編入。翌7日午前8時13分、再び24時間待機を下令。輸送予定の陸戦隊用の兵器類は予め艦内に載せておく事になった。8月8日午前3時30分、第1水雷戦隊と再度陸戦対抗演習を実施。第8戦隊側の陸戦隊は由良副長が指揮を執った。8月9日23時14分、第1水雷戦隊宛ての電文を受信し、旗艦川内に取り次いだ。
8月10日14時30分、由良は第8戦隊を率いて佐世保を出港。在泊艦艇から登舷礼で見送られ、後方からは第1水雷戦隊が続航した。15時53分に24ノットに増速し、戦雲が渦巻く上海に向かった。翌11日15時38分、上海に到着。大阪商船埠頭に投錨し、その外側に川内が投錨。同日夜に佐世保第一特別陸戦隊と呉第二特別陸戦隊を揚陸した。上空を飛び去るF4Uコルセアが何度か確認され、呉淞砲台には鉄兜を付けた国民党軍正規兵の姿が見られ、周辺から住民が退去し始めるなど上海は不穏な雰囲気に包まれていた。
8月13日16時54分、ドイツ製最新鋭武器で身を固めた国民党軍3万が日本人租界と守備隊4000名に襲い掛かった事で第二次上海事変が勃発。接近する敵機が確認されたため、17時22分に航空機防御を実施。その3分後、上海陸戦隊本部が爆撃された。8月14日午前5時8分、第3艦隊司令部より第1水雷戦隊や第10戦隊と協力して虹橋飛行場爆撃を命じられ、午前5時30分までに水偵の発進準備を整えた。ところが悪天候に阻まれ、午前6時7分に延期となった。午前10時53分、ノースロップ型攻撃機5機が出現。これを皮切りに敵の熾烈な空襲が始まり、対空戦闘に追われる。午前11時40分、延期となっていた虹橋飛行場爆撃が命じられ、空襲下で由良から水偵が飛び立った。13時15分、由良は錨地を出発して揚子江下流に移動。遊弋及び監視任務を行う。17時43分、僚艦とともに呉淞付近を砲撃。苦戦を強いられている守備隊を援護するため、第8戦隊の各艦から乗組員を派遣して陸戦隊520名を編制し、22時44分に駆逐艦へ移乗。23時45分に錨地を出発して上海に向かった。8月15日午前5時30分、由良は戦隊を率いて錨地を出撃。第21駆逐隊とともに市政府付近の敵陣地を砲撃する。翌16日午前5時25分、第2駆逐隊や第21駆逐隊第2小隊とともに仮泊地を出発。午前6時25分より市政庁南方の敵陣地に猛攻を加える。上海特別陸戦隊が弾着観測を行っていたが、通信不良のため的確な射撃指導を受けられなかった。それでも敵に相応の被害を与える事に成功した。午前9時17分、砲撃終了。一方、由良から発進した水偵が龍華及び虹橋飛行場を爆撃。返す刀で大場鎮、江湾鎮、市政庁南方の敵陣地を爆撃し、浦東の敵砲兵陣地の偵察を試みたがこちらは発見できなかった。この日の戦闘で由良は通常弾130発を発射し、艦載機は3発の爆弾を投下した。日没後、ブロックハウス付近で投錨して警戒待機。
8月18日、由良は給油艦神威の護衛につく。午後12時50分、ノースロップ型攻撃機6機が襲来し、神威と夕暮の間に爆弾4発が投じられた。対空射撃で追い払う。8月20日早朝、由良と鬼怒の艦載機が杭州北方の状況を偵察。続いて松江驛の鉄道路線に2発の爆弾を投じて大損害を与えた。付近を走っていた敵兵員輸送列車に国民党兵が満載されていたため、50mまで接近したのち機銃掃射を実施。最も有効な銃撃となった。
8月21日、第3艦隊司令の長谷川清中将は増援の第3師団と第11師団を送るべく艦隊を編制し、由良の第8戦隊は制圧部隊に部署した。制圧部隊は輸送船団の護衛と陽動牽制砲撃を担った。8月22日午前、南雲少将指揮のもと由良と鬼怒は七了口方面で陽動。獅子林砲台と劉河鎮右岸にある国民党軍を砲撃し、反転離脱する鬼怒と別れて由良は単艦揚子江を遡行。七了口と揚林口付近の敵陣地を砲撃して帰路につき、13時に呉淞沖へ帰投した。18時45分に再度出発し、翌23日午前0時頃に揚子江入り口付近で上海派遣軍司令官松井石根大将以下幕僚を駆逐艦から収容。直ちに上江し、呉淞砲台前へ移動して第3師団と第11師団の上陸作戦を支援。松井大将は艦橋から砲声を聞きながら、両師団の上陸を見守っていた。国民党軍の猛烈な銃撃を受けながらも上陸に成功。午前3時頃、水産学校方面の敵陣地を照射砲撃して陸軍を助けた。一方、由良の艦載機は劉河鎮、呉淞方面等の敵陣地を偵察した。8月24日、南雲少将の命令により呉淞沖へ監視配備につく。8月27日、新編された第3航空戦隊に艦載の水偵を供出。
揚子江は首都南京に通じる河でもあり、両岸には国民党軍の陣地が多数存在していた。8月29日、宝山城に篭城する国民党軍の陣地を砲撃。9月1日、鬼怒や海風、春雨、子日、山風、隼、千鳥とともに激しく抵抗する呉淞砲台劉河鎮方面を砲撃し、9月6日、陸軍第3師団の降伏勧告に従わない宝山城の国民党軍に向けて二度目の艦砲射撃を実施。これがトドメとなり、同日中に第3師団は宝山城を制圧した。連絡を密にする必要性を感じた松井大将は、呉淞砲台の南側にある水産学校の埠頭に商船瑞穂丸を向かわせ、由良に横付けしたのち移乗した。旗艦任務を帯びていたため、僚艦と比べて積極的に前線へ出る事は少なかった。9月15日午前9時、鬼怒、名取、川内とともに水偵を発進。南京空襲に策応して揚子江沿岸の敵艦艇を爆撃する。9月20日早朝、再び名取、鬼怒、川内と協同で水偵を発進させる。午前10時、南京南東の句容上空で敵戦闘機6機と交戦し、1機を撃墜するも編隊が乱れて散り散りとなる。由良の水偵は鬼怒機と母艦へ帰投。しかし川内所属機が未帰還となり、由良の搭乗員が敵機多数に囲まれていたと証言した。第二次空襲では南京東方でカーチスホーク9機に包囲されたが、鬼怒所属機が1機を撃墜。被害こそ無かったが、再び散り散りとなる。帰路、由良所属機が行方不明の川内機を捜索したが何ら手がかりを得られず。「開戦以来勇戦奮闘多大の功績ある貴隊の飛行機の消息不明なるは実に遺憾の極みなり」と報告している。その後、乗組員で編制した陸戦隊収容のため鬼怒と接岸。9月26日午前5時、第7悌団の護衛任務につくため呉淞を出港。由良不在の間、名取が指揮を執る事になった。無事任務を完遂し、16時に泊地へ帰投した。翌27日13時15分、由良所属機と駆逐艦初春が不時着した戦闘機の捜索に参加。福山まで飛んだが、手がかりを得られず。
10月2日午前8時30分、名取とともに給油船隠戸へ横付けして燃料補給。200トンの送油と清水の補給を受けた。同時に名取と水偵を発進させ、鎮江方面に繋がる水路を偵察。下流の永安洲東側に逸仙型が1隻座礁しているのが確認され、上流では駆逐艦と靖天型から乗組員が退避している様子が見られた。3隻への爆撃命令が下り、午後に川内、鬼怒、由良の水偵が攻撃。川内機の爆弾2発が逸仙型に命中し、大破傾斜させた。10月3日、上海派遣軍を支援すべく七了口上流方面に陽動をかける事になった。10月6日午前、まず第8戦隊と川内の水偵4機は二手に分かれ、七了口・福山間の海岸揚陸地点を偵察。10月8日午前9時30分、由良より水偵が出撃し、福山を爆撃した。
10月9日午前8時、揚子江上流偵察のため出港。駆逐艦五月雨とともに遡行し、午後12時30分に銭涇口付近にいる約20名の国民党軍に向けて砲撃。壊走せしめた。五月雨は「白茆河より上流は古い塹壕が2~3個確認できるだけで異状なし」と報告した。13時30分、呉淞沖を出撃して上江。18時までに七了口沖へ到着し、23時に偽上陸用の輸送船団を率いて出港。白茆河に向かった。10月11日から翌12日にかけて、第8戦隊は劉河鎮を陽動砲撃して陸軍の支援を実施。10月13日、兵力牽制の目的で水雷艇千鳥と七了口白茆河陣地を砲撃し、陽動のため陸軍が偽上陸を仕掛けた。抵抗は殆ど無かった。22時に呉淞沖に到着。10月14日正午、長谷川長官は新たな軍隊区分を発令し、第8戦隊は中支沿岸封鎖部隊に部署。10月15日、単独で浦東陣地を砲撃。国民党軍の前線を破壊し、陸軍の進撃を献身的に助けた。10月19日14時、梅散群島を出港。三門湾を経由して翌日午前7時48分に緑華山へ到着した。10月20日、南支部隊に転属。上海南方60kmにある杭州湾の金山衛への上陸を企図したH作戦が発令され、新たに第10軍が編制された。10月22日から24日まで、H作戦の準備として鬼怒、夕立、村雨を率いて杭州湾東方島嶼の敵無線施設及び見張り所を偵察。特に異状は認められなかった。佐世保に停泊中の重巡足柄に将旗を掲げた豊田長官は軍隊区分を発令し、由良率いる第8戦隊は足柄率いる監視本隊に編入となった。内地から続々と輸送船が出発し、各所で集結を始めた。
11月1日午前8時、陸軍第6師団長の谷中将が汽船で由良に来訪し、護衛艦隊司令官の南雲少将と上陸作戦について最後の打ち合わせと署名調印を行った。午後には各艦長と船長が由良に集まり、作戦会議を行っている。11月2日に護衛艦隊の編制が発表され、由良は第2護衛隊へ部署。船団の直接護衛を担当した。午前7時に出港準備が下令され、午前8時に陸軍第2船団32隻を護衛して八口浦泊地を出港。泊地侵入教練を行いながら上陸地点を目指す。毎日18時に由良が川内経由で翌朝午前6時の集合地点を指定し、落伍する船が出ないようにしていた。翌3日午前9時5分、済州島西方を南下する第2船団の前方を警戒していた由良は125度方向30kmに第1船団の船影を認めた。そこで第2船団は変針を行い、ちょうど第1船団の前を進むよう航路を変更した。2つの船団は1つに統合され、由良は船団前方の左正横に占位した。夜、船団は増減速訓練を実施しながら艦尾航海灯以外の灯りを全て消して航行。11月4日午前8時30分、鬼怒と水偵を発進。要地の偵察を行ったのち、午前11時まで船団の上空援護を実施した。午前8時42分、由良は第2船団に対して「進入隊形制れ」を下令し、午前10時30分までに隊形を整えた。18時10分、川内の左舷正横2500mをイギリス駆逐艦が反航通過して船団に近づいてきた。由良と第16号掃海艇は英駆逐艦と同航して追跡を開始する。やがて木曾と駆逐艦から煙幕が展開されたため、英駆逐艦を見失った。18時30分、由良と鬼怒は川内の前方で合流。杭州湾予定錨地に向けて船団を誘導する。
11月5日午前6時15分、濃霧の中で陸軍部隊を満載した上陸用舟艇が出発。護衛艦艇は探照灯を照射して陸地までの誘導に努め、15分後に金山衛城への奇襲上陸に成功。早くも午前10時50分には金山衛城で日章旗が翻った。19時3分、陸地へ向かう陸軍の舟艇を鬼怒とともに探照灯で照らし出すよう命じられ、一晩中照射し続けた。11月6日、上海に「日軍百万杭州北岸上陸」と書かれたアドバルーンが掲げられ、上海派遣軍の士気は大いに盛り上がった。逆に国民党軍には大きな衝撃が走り、退路を断たれる事を危惧して南京への退却を始める。しかし左側海岸線陣地には敵の強固な防衛線があり、上陸した小坂井部隊の戦況が思わしくなかった。15時19分、由良は駆逐艦を独山方面に派遣。いざ到着してみると戦況が好転していたため、第9駆逐隊第2小隊は独山の国民党軍陣地を砲撃した。その後、由良は錨地にて監視任務に従事。11月8日午前2時10分、金山衛城右方の李宅の海岸に架橋すべく作業員と資材を供出するよう下令される。丸太、ボルト、ナット等の資材を駆逐艦初春に移し、午前9時から作業を開始した。11月14日、由良の水偵は僚艦の水偵と協同で独山・乍浦・海塩間を爆撃。由良からも艦砲射撃を加えた。13時に支那方面艦隊から護衛艦隊の編制を解かれたが、由良には新たに丁集団への作戦協力が命じられた。11月15日18時20分、陸軍との協力任務により由良は丁集団司令部との連絡役となった。杭州方面の戦況が落ち着き、戦線が内陸の方へ移動したため、11月20日18時に第8戦隊は支那方面艦隊から除かれて連合艦隊に復帰。支那事変の緒戦から戦ってきた由良に、ようやく帰国が許されたのだった。
1938年4月10日、佐世保を出港して南支方面で活動。4月14日に基隆へ帰投する。9月7日、大本営は国民党軍最大の補給路となっている広東省を攻略すべくA作戦を発令。2ヶ月以上かけて陸軍三個師団と航空一個師団の大戦力を用意し、輸送船は100隻を超えた。10月9日、馬公を出港する106隻の輸送船を護衛。10月11日黎明、駆逐艦が展開する煙幕の中で白耶士(パイヤス)湾口に突入。23時30分から上陸が始まった。国民党軍は漢口防衛のため広東省の戦力を引き抜いており、全くの奇襲となった。上陸部隊は強力な抵抗は受けず、快進撃を続けて10月21日に広東省を攻略。最大の援蒋ルートを遮断した。翌日、珠江を遡行する乙作戦が開始。由良率いる第8戦隊は主隊となり、全作戦の支援を担った。強大な虎門要塞が立ちふさがったが、10月23日に陥落。11月9日、乙作戦完了に伴って参加艦艇は原隊に復帰し、11月16日に佐世保に帰港。
1940年5月1日、第9、第13、第21潜水隊を統合した第5潜水戦隊が新編され、由良はその旗艦となる。11月15日、第5潜水戦隊は連合艦隊に所属。
1941年2月24日、佐世保を出港して南支方面で活動。3月3日に基隆へ入港した。9月1日、昭和16年度戦時編制が発令。出師準備に伴って9月13日から22日にかけて佐世保工廠に入渠し、舷外電路や弾薬を装備。10月20日、第5潜水戦隊司令に醍醐忠重少将が着任。由良に乗艦して将旗を掲げた。対米英戦争が避けられなくなった11月26日、伊62や伊64を率いて佐世保を出港してパラオに向かう。道中の11月28日、南方部隊電令第10号により、第5潜水戦隊は南方部隊マレー部隊に編入。パラオ回航が取りやめとなり、マレー部隊の集結地三亜への回航を命じられた。12月2日に海南島三亜港へ到着。旗艦鳥海に乗艦する小沢治三郎中将の指揮下に入り、潜水戦隊にはシンガポールから北上反撃に現れるイギリス艦隊の捕捉攻撃、シンガポール海峡での機雷敷設と天候偵察等の任務が下された。20時8分、小沢中将はマレー部隊電令作第10号を以って作戦の概要を説明した。12月4日、先遣兵団第一次上陸船団が第1護衛隊とともに三亜を出撃していった。
12月5日、潜水艦4隻と三亜を出撃。アナンバス島北方に潜水艦を配備した後、自身はインドシナのカマウ岬南方に移動。ここで開戦を迎える事になる。
大東亜戦争
南方作戦・蘭印作戦
1941年12月8日午前2時10分、真珠湾攻撃が始まる約1時間前に侘美支隊が上陸成功を打電。大東亜戦争が幕を開けた。由良は沖合いでマレー作戦の支援を行う。15時、ノルウェー貨物船ワヘリオスを臨検。ワヘリオスは野分にも臨検されていた。マレー作戦最大の障壁とされたのがイギリス海軍の一大拠点シンガポールに鎮座する新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスであった。事前の航空偵察の結果、港内から動く様子が無かったので安心かと思われたが…。翌9日15時15分、由良の指揮下にいる伊65が「2隻のレパルス型敵戦艦、針路340度、速力14ノット」という重要な電文を南遣艦隊旗艦鳥海と第5潜水戦隊旗艦由良に発した。由良でもこの電文が受信されたが、通信状態が悪かったため30分の遅れが発生している。夜になってようやく九四式水上偵察機を発進させたが、1機はプロコンドル島山中に墜落した。
プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは開戦日の時点で既に出撃しており、マレーに上陸を行っている第25師団に攻撃を仕掛けてくる危険性が現れた。サイゴンやツドウムから陸攻隊が出撃し、計53機で索敵。第2艦隊司令の近藤信竹中将も南遣艦隊に捜索を命じ、鈴谷、熊野、最上、三隈、初雪、白雪、吹雪、鬼怒、由良、潜水艦10隻が索敵に参加。血眼になって二大戦艦の行方を追った。しかし悪天候は英艦隊に味方し、視界不良で尻尾を掴む事すら出来なかった。夕刻の18時30分頃、鬼怒や熊野の水偵とともに英戦艦を発見して触接。日没を迎えた事で周囲は宵闇に閉ざされてしまい触接を失うも、敵戦艦の乗員に「我々は見張られている」と緊張を強いた。南方部隊主隊を率いる小沢治三郎中将は水上艦艇による夜戦を企図してマレー部隊に集結を命じ、由良と鬼怒は第7戦隊と合流すべく移動を開始。ところが合流する前の12月10日にマレー沖海戦が生起し、航空攻撃により二大戦艦は撃沈された。マレー方面の制海権を一気に握った事で攻略作戦の前倒しが決まり、由良はボルネオ島攻略作戦のためカムラン湾に寄港するよう命じられる。この日、プロコンドル島近海に墜落した重巡鈴谷の三号機を発見し、搭乗員を救助している。
12月11日、カムラン湾到着。湾内には既に41隻の輸送船が集結していた。13日午前7時30分、川口支隊が分乗した輸送船10隻と護衛艦艇が出港。船団の後ろに由良と特設水上機母艦神川丸がついた。道中は敵に出くわす事は無く、12月15日午前0時にミリの北西約200海里に到達。午前3時頃、伊64から敵船団らしき艦影を見たとの通報が入り、索敵機が発進する一幕があったものの、味方潜水艦以外に艦影は見当たらなかった。夕刻、ミリの約40海里まで来るとミリ方面に黒煙が立ち昇っているのが見えた。イギリス軍が油田に放火したものと推測された。23時30分、船団は泊地への入泊を開始。イギリス軍の抵抗は微弱で、翌16日の夜明けにはミリとセリアは占領された。しかし12月17日朝から連合軍の熾烈な反撃が始まり、度重なる空襲を受ける。オランダ空軍のドルニエ飛行艇に駆逐艦東雲が撃沈された。12月22日午前15時、駆逐艦2隻と掃海艇2隻が護衛する陸軍輸送船香取丸、日蘭丸、日吉丸、海軍特設艦船北海丸、第三図南丸、第二震洋丸がミリを出港。その後ろから由良と神川丸が追随してクチン攻略作戦に参加。翌23日朝、クチンの北約120海里に到達。しかし午前9時30分、ドルニエ24型飛行艇が遠距離に出現。一度は上空援護の零戦に追い払われたが、16時50分に再度出現したため、神川丸が零式観測機1機を放った。17時30分、神川丸を伴って攻略船団から分離。沖合いで上陸支援を行った。20時40分、オランダ潜水艦K XIVが泊地に侵入して兵員輸送船日吉丸と香取丸が沈没させられ、北海丸も損傷。12月24日にはK XIVによる雷撃で狭霧が撃沈されるなど被害続出。それでも何とか攻略は成功。12月25日にクチンを離れ、翌日第5潜水戦隊の潜水艦と合流。12月27日にカムラン湾に帰投し、修理を受けた。英領ボルネオの攻略には成功したが、駆逐艦2隻と第6号掃海艇を喪失し、5隻の輸送船が損傷する手痛い損害を受けた。
1942年1月16日に修理が完了し、1月19日にシンゴラに移動。ここで司令の醍醐少将が由良を降り、陸路でペナンに移動。これに伴って第5潜水戦隊から除かれ、単独でマレー部隊に所属した。1月22日にサンジャックへ寄港し、1月24日出撃。重巡熊野や鈴谷、駆逐艦綾波、磯波とともにエンドウの攻略支援を行った。2月1日、小沢中将はスマトラ南部パレンバン及びバンカ島の攻略を行うL作戦を発令。午前0時50分、由良にカムラン湾への帰投を命じ、午前5時にアナンバスを出発。2月3日にカムラン湾へ戻り、次の作戦に備える。パレンバンは重要な油田地帯であると同時に蘭印作戦の主目標たるジャワ島に対する前進拠点となりえた。またL作戦はマレー方面の連合軍の退路を断ち、増援を防ぐ意味合いも含まれている。作戦の重要性は大きかった。攻略船団は三分割されており、由良は2番目に出撃する主力を警護する主隊に編入。
2月10日、第38師団の輸送船25隻を護衛して出撃。重巡5隻、駆逐艦3隻、龍驤が随伴した。2月12日早朝、アナンバス島北北東で船団を1つに統合。由良を一時的に第3水雷戦隊の指揮下に入れた後、小沢中将はシンガポール方面から脱出する敵艦船攻撃を命じ、同日20時に川内、由良、第11駆逐隊はシンケップ島東方に向かった。2月13日、由良は川内と協同で特設巡洋艦の撃沈を報じた。敵の正体は特設掃海艇ヤラク(75トン)とされる。第11駆逐隊の吹雪、朝霧、初雪、白雪も戦果を挙げ、バンカ北方海域の制圧に成功した。夜間はベルハラ水道東口の哨戒を実施。川内、初雪、白雪は船団護衛に戻ったが、由良は駆逐艦吹雪、朝霧を率いて船舶攻撃の任を続行。2月14日、シンガポール南方で陸軍の小規模船団が英特設哨戒艇リー・ウォーの襲撃を受けたとの報せを受けて急行。現場に到着すると、1隻の海上トラックが炎上させられていた。これまでの戦闘でリー・ウォーは弾切れを起こしており、由良、吹雪、朝霧から猛攻を浴びて沈没寸前となる。もはやこれまでと悟ったリー・ウォーは12ノットで突進し、炎上中の海上トラックの左舷に体当たりして道連れ。これがリー・ウォー(707トン)の最期だった。由良の献身的な援護もあって、船団は2月15日にバンカ島西端ムントクに入泊。午前8時30分までに敵飛行場は制圧された。同日、スマトラ西方を北上する連合軍艦隊が発見されて緊張が走ったものの、味方の航空攻撃により撃退された(ジャワ沖海戦)。夕刻には第38師団がパレンバンに突入、前日降下した第一挺進団とともに戦果を拡張する。その間に由良と朝霧は英雑役船フクー・ウォー(953トン)を撃沈、翌16日にイギリス砲艦を拿捕し、2月17日には由良の攻撃で特務船を撃沈した。作戦を完遂させた由良は、2月18日午前10時にムントク沖を出港。アナンバスに向かい、第3水雷戦隊の指揮下から離れた。
2月20日、アナンバスを出港。L作戦の成功を確信した司令部は、総仕上げに入りつつある蘭印作戦に全戦力を集結させるため、翌日由良を蘭印部隊に編入。既に東部ジャワ攻略船団は出発しており、駆逐艦響、暁、水無月、長月を率いて合流を目指した。2月21日午前8時、アナンバス北方約100海里で陸軍第16軍を乗せた輸送船56隻と合流。2月22日正午頃、シンカワンの北西約80海里に到達。ここで蘭印部隊指揮官からジャワ上陸を1日延期させる命令が下り、船団は14時に反転。五水戦旗艦名取からの信号によると、ジャワ海で有力な敵艦隊が発見されたとの事だった。2月23日14時、再び反転して元の針路に戻った。16時頃に連合軍潜水艦が発見されたため、船団とともに之字運動を取りつつ南下。間もなく全艦艇に燃料補給を施す事になり、まず最初に由良と名取に曳航給油を実施。給油艦鶴見から送油を受け、2月24日午後に完了した。翌25日16時、船団はカリマタ海峡を突破してジャワ海に入った。敵の本丸は眼前である。2月26日朝、船団はバタビアの北東約215海里に到達。何度か敵機の触接を受けたが、攻撃は無かった。2月27日午前5時30分、バタビアの北方約140海里に到達。ここで主力と東海林支隊が分離する事となり、由良は駆逐艦4隻と輸送船10隻を護衛してスンダ海峡を通過。上陸地点に向かった。ところが午前9時35分、熊野の艦載機が大巡1隻、軽巡2隻、駆逐艦2隻からなる敵艦隊をバタビアの310度35海里にて発見。午前10時40分、第5水雷戦隊司令部より敵艦隊の攻撃を命じられ、午前11時15分に反転する東海林船団から分離。名取と合流すべく西へ急行した。名取や第11、第12駆逐隊と合流して敵艦隊への攻撃を試みたが、会敵しなかったため翌28日午前1時20分に名取から船団護衛に復帰するよう命じられた。午前4時15分、船団の護衛に復帰。
3月1日午前0時、バンタム湾に第16軍主力を乗せた攻略船団が入泊した。その15分後、湾の北方を警戒していた駆逐艦吹雪が連合軍巡洋艦2隻を発見。インド洋への脱出を図った米重巡ヒューストンと豪軽巡パースが襲撃してきて、バタビア沖海戦が生起。この時、由良は二号方面へパトロールに行っていたため夜戦には参加できなかった。海戦の結果、掃海艇1隻と輸送船1隻を撃沈されたが、2隻の敵巡洋艦は討ち取られた。海からの脅威を排し、坂口支隊、第48師団、東海林支隊等がジャワに上陸。16時5分、南緯6度4分、東経108度0分を西進中にオランダ潜水艦に発見され、2本の雷撃を受ける。すんでのところで回避し、爆雷で反撃しつつ長月に対潜掃討を指示した。1時間13分の間に25個の爆雷を投下したが、逃げられている。また二号方面には12機の敵機が襲来している。3月3日、陸軍からの要請でオランダ軍の砲兵陣地があるカンダンハウエルの町を艦砲射撃。この日を境に敵機と敵潜の襲撃が激減した。翌4日15時5分、米潜の雷撃で給油艦襟裳が放棄された。駆逐艦松風とともに現場へ駆けつけ、艦長以下生存者162名を収容した。
3月5日、占領したシンガポールから発せられた機密馬来部隊命令作第18号でD作戦及びU作戦が策定され、由良はD作戦への参加が決定。ジャワ攻略も終局に近づいた3月6日、由良はシンガポールに寄港。このシンガポールにはスマトラ北部攻略を行うT作戦の艦艇が集結しており、由良を第1護衛隊に編入して作戦に組み込んだ。3月8日、シンガポールのケッペル西港から近衛師団小林支隊を乗せた船団9隻とともに出港。マラッカ海峡を北上して目的地に向かった。3月12日午前2時35分、練習巡洋艦香椎や第19、第20駆逐隊とサバンとクタラジャへの上陸支援を実施。無血占領を達成し、3月15日にペナンに帰投。
次はアンダマン諸島攻略を企図したD作戦に参加。3月20日午前8時、陸軍第28師団、第9特別根拠地隊の一部、海軍第12特別根拠地隊を乗せた輸送船2隻と出港。3月23日午前4時にポートブレアへ入泊し、午前6時30分より上陸を開始。ロス島、アタランタ岬南海岸、スネーク島西海岸の三ヶ所に上陸し、大した抵抗を受ける事無く港と飛行場を制圧。イギリス人幹部23名とインド兵300名は無条件降伏した。13時30分、敵大型機1機が飛来したが磯波の対空射撃で撃退された。3月24日、陸軍の要地攻略部隊が大発3隻に分乗して出発。第19駆逐隊第1小隊とともに警護し、ヘイブロック島まで送り届けた。しかし同島は飛行場はおろか民家すら見当たらなかったので上陸を中止。アンダマン海峡東口の偵察を行って20時に帰投した。島内の掃討作戦は3月27日に完了。
東南アジアを粗方制圧した帝國陸海軍は、第二段作戦としてインド洋への攻勢に転じる。3月26日、南雲機動部隊のインド洋機動作戦に先立ち、小沢中将率いる水上艦隊もベンガル湾北部で通商破壊を行う事に。アンダマン諸島を離れ、3月28日に作戦拠点のメルギーへ入港。既に参加艦艇が集結を終えていた。
ベンガル湾機動作戦
4月1日14時、駆逐艦綾波、夕霧、朝霧、汐風を率いて出撃。タボイ島西方海域に向かった。この通商破壊には重巡鳥海(旗艦)、鈴谷、熊野、三隈、最上が参加し、軽空母龍驤も支援するという豪勢な戦力となっていた。4月3日午前7時45分、由良は補給のため単身ポートブレアに回航。翌4日午前7時25分、本隊に復帰した。4月5日13時40分、龍驤が先行して前方の索敵及び爆撃を実施。20時30分、小沢中将は艦隊を三分割し、由良は鳥海、夕霧、朝霧と中央隊を編制。南雲機動部隊によるセイロン空襲で島内やインド方面からイギリス船舶の脱出が相次いでおり、獲物は多かった。
4月6日、由良、夕霧、龍驤は中央隊から分離し、独自に行動。午前9時55分、カリンガパトナムの東方14海里でカルカッタからカラチに向かっていた蘭商船バタビア(1279トン)を龍驤との集中砲火で撃沈。午前10時45分にバニュワンギ(2073トン)を夕霧と協同で撃沈。午前11時45分に英武装商船タクツァン(3471トン)を単独で撃沈。立て続けに3隻を撃沈する戦果を挙げた。20時10分、狩り場のビザガパタム沖から退却。会合点へと向かう。翌7日午前6時30分に北方隊と、午前8時30分に南方隊と合流し、午前9時に針路140度速力15ノットでニコバル諸島方面に向かった。4月8日23時、ペナンで燃料補給を行うため艦隊から分離。4月10日午前9時15分にペナンに帰投した。短い通商破壊だったにも関わらず全体で21隻撃沈(約13万7000トン)、8隻大破という大戦果を挙げた。第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報には「ベンガル湾北部における敵の交通線を破壊したる功績は特に顕著なりと認む」と綴られている。翌11日、ペナンを出発し、シンガポールを経由して4月20日に佐世保へ帰港。開戦から実に4ヶ月以上が経過していた。
5月3日から佐世保工廠に入渠し、整備を受ける。5月9日、米潜の雷撃で大破した那珂に代わり第2艦隊第4水雷戦隊の旗艦に指定。
ミッドウェー海戦
5月5日、軍令部はミッドウェー作戦を発令、由良率いる第4水雷戦隊は近藤信竹中将率いる攻略部隊本隊に編入された。攻略部隊はミッドウェー及びキューア島の攻略して潜水艦基地や航空基地の設営を目的としていた。5月11日に出渠し、19日に修理完了。同日15時に佐世保を出港し、ミッドウェー作戦に参加する艦隊の集結地となっている柱島に移動。5月20日14時到着。猛訓練を開始したが、作戦までの期間が短く単艦の訓練さえ不十分だった。5月21日19時、駆逐艦峯風と朝雲を率いて出港。翌22日に連合艦隊第1回応用教練に参加し、5月23日午前11時56分に補給を受ける。13時32分、山雲とともに柱島へ戻った。5月25日22時、柱島泊地を出港。クダコ水道南口で第2駆逐隊第2小隊と合流、伊予灘において第一類戦闘訓練を実施。駆逐艦叢雲が標的艦を務めた。翌日正午に戦闘訓練を終了。13時44分、呉へ寄港した。5月27日に燃料と真水を積載。最後の戦備を整え、5月28日正午に呉を出港。
5月29日午前4時、第4水雷戦隊旗艦として柱島泊地を出撃。攻略部隊本隊より1時間早めに出発し、予定航路を通ってミッドウェー方面に向かった。6月2日午前4時から17時10分にかけて第1回重油補給を実施。6月3日午前7時より駆逐艦2隻を標的とした主隊内戦闘訓練を開始。6月4日午前5時から第2回重油補給を行った。同時期、攻略部隊を乗せた船団がミッドウェー島の航空兵力に発見されてしまう。第2艦隊司令部は空襲を予期して緊張していた。
6月5日の朝を迎えた。午前4時28分、重巡利根の水上偵察機が敵部隊を発見したと通報し、南雲機動部隊の方向に向けて変針。ところが午前8時40分、空母3隻被爆大火災の悲報が飛び込んできた。午前9時、近藤中将は機動部隊の支援を決断し、針路30度、24ノットの速力で移動を始めた。25分後に28ノットへ増速。15時以降、魚雷即時待機が下令され、同時に連合艦隊司令部から夜戦を命じられて準備を完成。一戦交えるはずだったが途中で中止命令が下り、主力部隊との合流が命じられた。6月6日午前4時25分、戦艦大和率いる主力部隊と合同。その頃、ミッドウェー島砲撃に向かった第7戦隊が敵機の熾烈な空襲を受け、最上と三隈が敵中で孤立させられていた。窮地に立たされている2隻を救うべく、午前9時に針路180度に向けて進撃開始。駆逐艦荒潮と朝潮に付き添われた満身創痍の最上を救出したが、三隈は撃沈されていた。その後、主力部隊より敵機動部隊をウェーク島の味方哨戒圏に誘引して反撃する旨を伝えられ、正午頃に南下。しかしこの意図は敵に見破られており、早々に引き揚げてしまった。6月7日、山本五十六長官は作戦の中止と日本への帰投を命じた。6月8日午前8時30分、夕立が敵潜水艦を探知。瑞鳳から対潜哨戒機が飛び立つ一幕があった。午前9時10分、第8戦隊と第4水雷戦隊は主力部隊から分離し、玄洋丸から燃料補給を受ける。6月10日午前3時55分、主力部隊と合流。17時25分、対潜哨戒機が由良の60度方向5km先に爆弾を投下。潜水艦を探知したようだが、実際にはいなかった。
6月13日17時50分、柱島に帰投。6月17日15時5分から18時7分にかけて燃料と真水の補給を受ける。6月24日午前7時5分から午前10時55分まで燃料補給。6月26日13時、小松島に向けて出港。翌27日14時30分に到着した。
ソロモン戦線へ
8月7日午前5時20分、ソロモン諸島ガダルカナル島とツラギに数万のアメリカ軍が襲来したとの凶報が内地に届いた。この危急を受け、8月10日に軍隊区分が発令され、由良は前進部隊に所属。8月11日に戦艦陸奥を中心とした第2艦隊とともに柱島を出撃し、8月17日に前進拠点のトラック諸島に到着した。8月20日、ガ島周辺に敵機動部隊が確認されたため、連合艦隊司令部は電令作第224号を発令して第2艦隊と第3艦隊にガダルカナル島北方への進出を命令。翌日トラックを出撃、遅れて内地から出撃していた第3艦隊と洋上で合流する。しかし今回の会同は臨時で決まったものであり、事前の打ち合わせ等は一切無かった。8月21日午前8時45分、ショートランドの130度530海里に索敵機が艦種不明の敵部隊を発見。午前9時16分に打った「我空戦中」の電文を最後に消息を絶った事から、敵空母の出現が確実視された。両軍とも索敵機を繰り出し、互いに位置を探りあったが発見には至らなかった。
8月24日未明、第二次ソロモン海戦に参加。由良は機動部隊と行動を共にし、午前4時に南下を開始。東側の警戒任務についていたが、敵情について味方からの報告が一切無く、午前8時40分にやむなく水偵を飛ばして自ら情報収集する始末だった。少数の敵飛行艇や機動部隊を発見できなかった敵艦上機から散発的に攻撃を受けた程度で、千歳が損傷した事を除けば被害は無かった。14時45分、機動部隊から夜戦を命じられ、針路170度に変針しつつ28ノットに増速。しかし敵艦隊を発見出来ず、日没に伴って反転する。9月5日にトラックへ帰投。
9月9日14時30分、敵艦隊捕捉のためトラックを出撃し、第2艦隊とともにガ島東方で遊弋。9月13日午前9時36分、190度方向の水平線上に敵飛行艇が触接しているのが確認され、午前10時15分にはツラギ沖で空母1隻、戦艦2隻、駆逐艦2隻が出現。艦隊決戦を求め、之字運動しながら遊弋する。翌14日午後12時55分、ガダルカナル島北東で敵の哨戒機に発見される。13時35分、B-17爆撃機8機から空襲を受けたため24ノットに増速して対空戦闘。B-17は南方へ飛び去っていった。9月15日午前4時、健洋丸が横付けして洋上補給を受ける。全艦艇の給油が完了した9月18日から索敵を再開する。海戦の機運が高まりつつあったが結局敵艦隊は現れず、9月20日午後に艦隊から分離。給油船玄洋丸から給油を受け、白露と時雨に護衛されて9月22日にショートランドに寄港した。翌日ラバウルに向けて出発するも、引き返した。ショートランド泊地はアメリカ軍から連日激しい爆撃を受けており、日の出と日没前には必ず敵機が襲来した。
9月25日朝、「敵機襲来、総員配置につけ」の号令とともにブザーが鳴らされた。B-17爆撃機2機から投弾された250kg爆弾1発が後部7番砲塔の砲身に直撃し、落雷のような轟音が艦内に響く。若干の浸水も認められ、沈没するかに見えたが、実際は小破で済んだ。しかし士官室から上甲板に出てきた通信長・国生直扶中尉が爆風の直撃を喰らい、肉片すら残さずに戦死してしまった。あと数cm左右へズレていたら弾薬庫が誘爆して轟沈していたという。繰り返される空襲により、毎日駆逐艦6隻をガ島に送り込む計画に遅延が発生。少しでも遅れを取り戻そうと軽巡の投入が行われ、由良率いる第4水雷戦隊は外南洋部隊(第8艦隊)に編入された。10月5日、ブーゲンビル島キエタを目指して出港するが、同日中に戻された。10月9日、ラバウル所在の第8艦隊司令部とガ島輸送作戦について打ち合わせをするため出発。道中の10月11日、米潜水艦スカルピンが由良を雷撃。艦橋前方に魚雷を命中させたと報告したが、実際には回避されていて無傷だった。その後、由良からの砲撃で追い払われた。
10月11日深夜、サボ島沖海戦が生起。飛行場砲撃に向かっていた第6戦隊が敵艦隊と遭遇し、旗艦青葉が大破、古鷹が沈没する被害を受けた。第6戦隊との通信状況から、有力な敵が輸送任務中の水上機母艦千歳と日進を攻撃する危険性が浮上。既に帰路についているものの敵中で孤立した2隻を救うべく、翌12日午前2時に川内、天霧、浦波、磯波、時雨、白露とともにショートランド出港。由良は日進の保護に向かい、同日14時に日進隊とショートランドに帰還。任務を達成してみせた。10月14日、鼠輸送のため日進、川内、朝雲、暁、雷、白雪とショートランドを出撃。22時にエスペランス岬へ到着し、1129名の兵員、4門の野戦砲、4門の速射砲、弾薬、備品の揚陸に成功。10月15日に帰投。
10月16日23時35分、信電令作第69号により今度は川内、龍田、駆逐艦15隻からなる鼠輸送に参加。10月17日午前2時15分に出港し、北水道出口において各隊集結。川内、由良、龍田の順で単縦組を組む。午前11時、村雨がB-17型らしき1機の出現を報告。16時42分、第2水雷戦隊が護衛から離脱。タサファロンガ方面に向かった。20時30分に解列して駆逐隊が泊地内へ進入。由良は沖合いで警戒任務についた。兵員2100名、野戦砲、対戦車砲の揚陸に成功し、傷病兵や沈没船の乗員331名を収容。22時に駆逐隊が出発。10月18日午前4時、輸送任務を終えた駆逐隊と合流してショートランドへ向かう。午前4時45分、チョイスル島沖にて左前方1km先から4本の雷跡が伸びてきた。米潜グランパスによる雷撃で、1本が左舷に命中。幸い不発であり、前部清水タンクに小規模な浸水が認められた程度だった。第6駆逐隊が対潜制圧を実施した。同日午前9時30分にショートランド入港。
10月20日正午、増援部隊信電令作第63号により駆逐艦秋月を旗艦として由良、春雨、夕立で第二次突撃隊を編制。17時、秋月で作戦の打ち合わせが行われた。10月23日15時30分、陸軍第2師団の総攻撃に呼応して出撃。秋月、第2駆逐隊、由良の順で北水道を通過。16時15分に第一警戒航行序列に占位してガダルカナル島に向かうも1日延期となったため、16時30分に反転。17時45分、ショートランドに戻った。
最期
1942年10月24日15時30分、駆逐艦秋月、春雨、夕立、村雨とともにショートランドを出撃。第2師団の第三次総攻撃を援護するためガ島方面に向かった。15時45分に19ノットに増速し、第三警戒航行序列に占位する。21時頃、陸軍から「総攻撃の成功及び飛行場奪還」の速報が入った。翌25日午前3時40分、由良から九四式水上偵察機が発進。島内を偵察してみたところ、米軍機の存在が確認されなかった。ここに至り総攻撃の成功を確信した第二次突撃隊は突進を開始。散々悩ませてきた航空機の脅威が無くなったため、艦隊決戦にのみ注意を向けた。ところが「飛行場占領は誤り」という信じられない電報が入ってきた。既に第二次突撃隊は敵制空圏内の奥深くにまで入り込んでおり、午前5時30分にはB-17型爆撃機2機も確認された。慌てて反転離脱を図る中、ガ島守備隊からルンガ泊地に数隻の米艦艇が確認されたため、攻撃に向かった駆逐艦白露、雷、暁を支援するべく午前8時12分にルンガ方面へ舳先を向ける。インディスペンサブル海峡を通過した後は敵陣地を砲撃する予定だった。だが上空に味方の航空機は1機も無く、完全にエアカバーを欠いた状態だった。そして恐れていた事態が発生した。
10月25日午前10時55分、インディスペンサブル海峡北口でドーントレス7機から2発の至近弾と後部への直撃弾1発を受けて大火災が発生。機械室を破壊された事から徐々に速力が低下していく。午前11時20分、一旦北方へ退避。午後12時25分、3機のP-39エアコブラが出現するも猛烈な対空射撃で撃退。被害無し。次に13時30分、ドーントレス4機に襲撃されたがこの攻撃も不成功に終わった。しかし度重なる空襲を受けたため上空直衛機の派出を要請。同時にレカタ基地へ退避していた九四式水偵を呼び戻し、由良の上空援護に回した。その間にも浸水が由良の船体を蝕み、防水の見込みが立たず。このままでは全機械室が使用不能になってしまうだろうと予測された。やむなくフアラ島に乗り上げる事とし、駆逐艦が警護についた。15時頃、ようやく鎮火に成功するが、その希望を打ち砕くかのようにB-17爆撃機6機が襲来。たちまち3発の直撃弾を受けてしまう。再度大炎上し、航行不能に陥る。15時20分より春雨、夕立、村雨が由良乗員の収容を開始。16時15分には総員退艦が命じられ、5分後に春雨と夕立へ由良の雷撃処分が命じられる。18時30分、春雨と夕立から放たれた魚雷で船体が両断され、艦首部が沈没。まだ艦尾部が浮いていたため、19時に夕立が砲撃で撃沈処分した。
1942年11月20日、除籍。最初に喪失した軽巡洋艦となった。
関連項目
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