キリスト=カエサル説とは、新約聖書に登場する人物イエス・キリストの正体は紀元前1世紀に活躍したローマの政治家ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar; 紀元前100 - 前44年3月15日、以下カエサル)であるとする説である。
本説を訴える主な著作としてはドイツの研究者Francesco Carotta他六名によって書かれた『Jesus Was Caesar: On the Julian Origin of Christianity: An Investigative Report』(2005,未邦訳)がある(同氏がカエサル説を最初に発表した著作は1999年の『War Jesus Caesar? 2000 Jahre Anbetung einer Kopie』)。Carottaの論文等はこちらで閲覧可能。
概要
イエス・キリストの正体については古来多くの論争が交わされて来た。中にはキリストの実在を否定する説(キリスト神話説)やその肉体性を否定する説(キリスト仮現説)もあり、盛んに論じられて来ている。近代に入り人文学分野においても科学的実証主義が標榜されるようになってからは、イエス・キリストを「最も偉大な人間」[比類なき人物]と評して※物議を醸したフランス人思想家エルネスト・ルナン(Ernest Renan; 1823-1892)のように超自然的要素を極力排して一人物キリストを明らかにしようとする試みも為されている。しかしこれらの説でユリウス・カエサルの名前が新約聖書のキリストを巡る物語のモチーフとなった存在として登場する事はなく、歴史学的観点というよりも神学論争として展開されているのが実情である。
「史的イエス」historical Jesusという言葉†もあり、こちらは啓蒙時代に始まる、歴史学的観点からナザレのイエスという人物を探求しようとする試みであるが、やはりキリストとカエサルを結びつけるような研究成果は皆無と言って良い状態であり、Carottaらの成果もアカデミックな研究者の間では無視されている。そのため本説のように新約聖書正典のイエスの背景にある歴史的人物をナザレのイエス以外の人物に求める主張を考察するに際しては、この史的イエスを巡る従来の論争からも一度離れねばならない。
また新約聖書に登場するキリスト以外の人物についてもカエサルと関わりのあった歴史上の人物がモデルになっている可能性が指摘されており、更にキリストのモデルとなった歴史上の人物はカエサル以外にも存在している可能性が高く(ウェルキンゲトリクスなど)、本記事ではそれらについても併せて記載する。
※一方ユリウス・カエサルはルナンに先立つ事半世紀、アメリカ建国の父にして哲学者アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton; 1755-1804)によって「史上最も偉大な人物」と評されている。また同国マサチューセッツ州出身の著作家ウィリアム・ダラント(William Jamaes Durant: 1885-1981)は主著『文明化の物語』の中で、帝政ローマにおいてキリスト教がカエサル崇拝に取って代わっていった歴史について、次のように述べている:「カエサルとキリストは闘技場で相見え、キリストが勝利を収めた」(Caesar and Christ: The Story of Civilization#3, CHAPTER XXX: The Triumph of Christianity: A.D. 306-325)
†この用語はドイツの医学・神学者アルバート・シュバイツアーAlbert Schweitzerの著書The Quest of the Historical Jesusに因む。原題はGeschichte der Leben-Jesu-Forschung、邦題は『イエス伝研究史』。史的イエス像を巡ってはまた、「(福音書の記述から)私達はイエスの生涯と人となりに就いて殆ど何も知る事が出来ない」と断定したドイツのプロテスタント神学者R.ブルトマンの様に、新約聖書を「非神話化」Entmythologisierungしようとする向きもある。
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カエサルと福音書
Carottaの主張の骨子は新約聖書にある福音書の物語はローマ内戦に準えて書かれたもので※、カエサルの生涯、取分けルビコン渡河から暗殺に至るまでをイエスのヨルダン渡河から十字架に懸けられるまでの物語に変換して伝えたというものである。非業の死の後、「神君ユリウス」(Divus Iulius)としてローマ帝国及び其の支配域各地で崇敬される事になるが、キリスト教の登場によりそれに取って代えられたとする。Carottaはこのカエサル史話から福音書へのストーリー転写過程を指してdigetic transposition(物語的転位)と呼んでいる。
彼はカエサルの伝記とイエスの物語との間に圧倒的な数の類似点を見出しており、上著でそれらを証拠として挙げている。以下はその一例である;
・カエサルとイエスはどちらも、北方の隣国で名声を博し始めた:ガリアとガリラヤである。
・どちらも運命を決する川を渡った:ルビコン川とヨルダン川である。川を渡るや、どちらもパトロン/ライバルと出くわした:ポンペイウスと洗礼者ヨハネである。そして、最初の信奉者たちにも:前者はアントニウスとクリオに、後者はペテロとアンデレにである。
・どちらも移動を続けて、最後に首都のローマとエルサレムに到着するのだが、そこで2人は、当初勝利を収めるものの、その後受難の憂き目にあう。
・どちらも女性たちと懇意になり、1人の女性とは特別な関係を築く。カエサルはクレオパトラと、イエスはマグダラのマリアとである。
・どちらも夜に、似た名前の人と出会った。カエサルはビテュニア王ニコメデス4世と、イエスはベタニヤのニコデモとである。
・どちらも民衆と親しくし、どちらも最高権力と衝突した:カエサルは元老院と、イエスはサンヘドリンとである。
・どちらも議論好きな性格だったが、賞賛すべき寛大さも示した:「カエサルの寛恕」とイエスの「汝の敵を愛せよ」である。
・どちらにも裏切り者がいた:ブルータスとユダである。あと、最初に逃げた暗殺者がいた:もう1人のブルータスとバラバである。そして1人から見切りをつけられた:レピドゥスとピラトである。
・どちらも王位に就いたかどで咎められた:ローマの王とユダヤの王である。どちらも赤い皇族のローブ(マント、外套)を着て、冠を被った:月桂冠とイバラの冠である。
・どちらも殺された:カエサルは短剣で刺された。イエスは磔にされたが、わき腹に刺し傷を負った。
◆キリストへの磔刑を執り行った処刑人にロンギヌスLonginusという人物が登場する†が、これはブルータスらと共謀しカエサルを暗殺したグループの首謀者ガイウス・カッシウス・ロンギヌスGaius Cassius Longinusの姓とも共通している。
※紀元前49年-紀元前45年に亙って行われた戦争で、大ローマ戦争Great Roman Civil War、カエサル内戦Caesar's Civil Warとも呼ばれる。カエサルはこの戦役の詳細な記録を『内乱記』Commentarii de Bello Civiliに書き残している。
†ロンギヌスの名および彼に纏わる伝説は『ニコデモ福音書』(別名『ピラト行伝』)に描かれている。
こうした「類似」は教会史の早くから布教者達に認識されており、初期キリスト教会では最も有名な教父の一人、ユスティノス(Justin Martyr; 100-162)はローマ皇帝および元老院に宛てた書簡『第一弁明』First Apologyの中で、新約におけるキリストの物語とカエサル崇拝を含む異教との類似性について次のように記述している。
Τω δε και τον λογον, ο εστι πρωτον γεννημα του θεου, ανευ επιμιξιας φασκειν ημας γεγεννησθαι, ιησουν Χριστον τον διδασκαλον ημων, και τουτον σταυρωθεντα και αποθανοντα και ανασταντα ανεληλυθεναι εις τον ουρανον, ου παρα τους παρ' υμιν λεγομενους υιους τω ∆ιῒ καινον τι φερομεν.
πο σους γαρ υιους φασκουσι του ∆ιος οι παρ' υμιν τιμωμενοι συγγραφεις, επιστασθε· ερμην μεν, λογον τον ερμηνευτικον και παντων διδασκαλον, ασκληπιον δε, και θεραπευτην γενομενον, κεραυνωθεντα ανεληλυθεναι εις ουρανον, ∆ιονυσον δε δια σπαραχθεντα, Ἡρακλεα δε φυγη πονων εαυτον πυρι δοντα, τους εκ Ληδας δε ∆ιοσκουρους, και τον εκ ∆αναης Περσεα, και τον εξ ανθρωπων δε εφ' ιππου Πηγασου Βελλεροφοντην.
τι γαρ λεγομεν την αριαδνην και τους ομοιως αυτη κατη στερισθαι λεγομενους; και τι γαρ τους αποθνησκοντας παρ' υμιν αυτοκρατορας, αει απαθανατιζεσθαι αξιουντες και ομνυντα τινα προαγετε εωρακεναι εκ της πυρας ανερχομενον εις τον ουρανον τον κατακαεντα Καισαρα;
Chapter 21. Analogies to the history of Christ
And when we say also that the Word, who is the first-birth of God, was produced without sexual union, and that He, Jesus Christ, our Teacher, was crucified and died, and rose again, and ascended into heaven, we propound nothing different from what you believe regarding those whom you esteem sons of Jupiter. For you know how many sons your esteemed writers ascribed to Jupiter: Mercury, the interpreting word and teacher of all; Æsculapius, who, though he was a great physician, was struck by a thunderbolt, and so ascended to heaven; and Bacchus too, after he had been torn limb from limb; and Hercules, when he had committed himself to the flames to escape his toils; and the sons of Leda, and Dioscuri; and Perseus, son of Danae; and Bellerophon, who, though sprung from mortals, rose to heaven on the horse Pegasus. For what shall I say of Ariadne, and those who, like her, have been declared to be set among the stars? And what of the emperors who die among yourselves, whom you deem worthy of deification, and in whose behalf you produce some one who swears he has seen the burning Cæsar rise to heaven from the funeral pyre?
同書で用いられている"first-birth of God"πρωτόν γέννημα「神の第一子」という言葉だが、これはローマ神話においても折々用いられた表現で、運命の女神の一人として知られるフォルトゥナ・プリミゲニアFortuna Primigeniaという名にも現れている。同神が祀られた聖殿は現在その遺構がイタリアのパレストリーナにSantuario della Fortuna Primigeniaとして残されている。また彼は同書において紀元前のギリシャ哲学者ソクラテスおよびヘラクレイトスをキリスト教徒に帰する如き言説を行っており†、彼らに於いてキリストの予型を見出していたと考えられている。
ユスティノスはサマリア出身の人物で、ストア派→逍遙学派→ピタゴラス学派→プラトン主義と当時の様々な哲学流派を渡り歩き、その果てにキリスト教徒となった事で知られている。異教徒やグノーシス主義などを激しく論難し、『異端論駁』などの著書を残している※。
※現存するのは『第一弁明』『第二弁明』『ユダヤ人トリュフォンとの対話』の三篇のみ。
†First Apology: Chapter 46. The Word in the world before Christ
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カエサルとユダヤ人
歴史書などでローマ帝国とユダヤ人の関わりが大きく取り上げられるのは主に帝政ローマが確立した紀元後で、紀元前、共和制ローマの時代にどのような関係があったのかという点については触れられる事が少ない。ここではユリウス・カエサルとユダヤ人の間にどのような接点があったのかを中心に見ていく事にする。
ヘロデ大王の父イドメアのアンチパテル(Antipater I the Idumaean; אָנְטִיפָּטְרוּס)はローマ内戦中アレクサンドリアにおいてカエサルを援助し、その勝利に大きく貢献した。この功績により彼はローマの市民権およびユダヤ総督の地位を獲得する。カエサルは更にユダヤ人に対してエルサレム城壁の再建許可を与えるなどの厚遇で応じている。
この背景には前63年にパレスチナがポンペイウスによって征服されローマの属州に組み入れられるという事件があり、ここにユダヤ人達はポンペイウスの対抗馬であるカエサルをその解放者として目を附け始めていたであろう事が窺える。またカエサルはローマ国内におけるユダヤ商人の立場をギリシャ商人と対等なものにするなど、両者の関係は少なくとも表面上頗る良好であった。
しかし前44年にカエサルが暗殺されると、アンチパテルとその跡を継ぐヘロデ大王は暗殺遂行者であるカシウス、ブルータスの側に付く。この「裏切り」が、後の新約におけるユダのキリストに対する離反行為の原型の一つとなったものとみられる。同年、カエサル暗殺の主犯の一人であるカシウスがユダヤ総督の地位につくと統治下のユダヤ人に対して重税を課し、アンチパテルはこれに応じるも民衆の憎悪を買い翌年毒殺されている。
このイドメアのアンチパテルの裏切りに満ちた生涯はイスカリオテのユダの人物像における直接のモデルとなっているものと思われる。イドメアというのはエドムのギリシャ語読みで、パレスチナ南部の死海南岸からアカバ湾に架けての地方を指す。同地域に居住していた人々(エドム人)は前二世紀末にユダヤ王ヨハネ・ヒルカノス1世(John Hyrcanus)によってユダヤ教への強制改宗を受け、以後ユダヤ人として生きることになったが、彼らは当時のユダヤ人主流からは余所者であった(特にファリサイ派の伝統で強制改宗は認められていなかった)。"イスカリオテの"とはカリオテ村の出である事を指すが、イエスの12弟子がいずれもガリラヤ出身である事に対置して用いられており、アンチパテルおよびヘロデ親子がエドム人であった事実に擬えているものと考えられる。
ここに一つの疑問が浮かび上がる。それはアンチパテルを始めとするユダヤ人有力者達はカシウスらのカエサル暗殺計画にどのように係っていたのか?という問いである。暗殺実行犯および共謀者はローマ人からなっており、この中にユダヤ人もしくはユダヤ系の人物は存在が確認されていないが、カエサルの死後カシウス・ブルートゥスの側についている所から察するに暗殺計画の一端を担っていたか、計画の存在を把握していた可能性がある。
『マタイ福音書』ではユダはイエスを裏切った事を後悔し自殺するが、これはアンチパテルがカエサルの死後に仕えたカシウスとの関係が上手く行かず、カエサルの暗殺者を支持した事を後悔しながら死んでいった事が窺える。また『使徒言行録』ではユダは裏切りによって得た報酬で買った土地に転落し死亡した事になっている。これはアンチパテルがユダヤ総督の地位を裏切りによって保ったものの最期はその地のユダヤ人によって暗殺されるという結末を示唆している。
それにしてもユダヤ人がカエサルの暗殺に加担もしくはそれを黙認した理由は何であろうか。共和政体の維持はローマの元老院派にとっての大義名分でありこそすれユダヤ人にとってはそれほど重要な事では無い。
基本的にユダヤ人に対するカエサルの処遇は先程も述べたように厚遇と言う他ないもので、次のようにも記述されている。
「ローマ市内のユダヤ人は既にローマ政治における侮りがたい要素となった。 政治的野心のあるユリウス・カエサル(紀元前100年~紀元前44年)はユダヤ人の力を認識した。 『人民党』のユダヤ人はカエサルを支持した。 カエサルはユダヤ人から受けた支援に対する見返りとして、目に余るほどユダヤびいきを示した。 そして、運よくヨセフス(西暦37年~100年頃、『ユダヤ戦記』の著者)によって記録された”ユダヤ人の利益のためのカエサル法令”は、ユダヤのマグナ・カルタと呼ばれてきた。 カエサルはユダヤ人に兵役を免除し、黄金をエルサレム神殿に船で積み出すことを許可した。 更に、カエサルはユダヤのサンヘドリン(ユダヤ最高議会)の権威を承認した。 しかし、ローマの元老員の中には、これを面白くないと感じる者がいた。 …カエサルの暗殺ののち幾晩も、ユダヤ人集団はカエサルの火葬用の薪の積み重なった場所に来て嘆き悲しんだ。…結局、ローマ帝国を受け継いだアウグストゥス帝はユダヤ人の特権を回復させた」(ハリー・J・レオン著『古代ローマのユダヤ人』)
◆一説によればカエサルは暗殺前ローマ国内の税制および商取引に関する大幅な制度改革を画策していたという話で、それによってユダヤ商人が以前のような恩恵を受けられなくなる可能性があったとすれば、彼らにとって暗殺を是とする理由になり得る。
ユダヤ反乱の歴史
◆ユダヤ人の反乱は年表で見ると以下のようになっている。
フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』及び『ユダヤ古代誌』
帝政ローマ初期の歴史家にフラウィウス・ヨセフス(Flavius Josephus יוסף בן מתתיהו 37-100)という人物が居るが、彼はユダヤ人の出で、66年に勃発した第一次ユダヤ戦争にて反乱軍の指揮官として応戦するがローマ軍に投降、その後ローマ軍側の幕僚としてエルサレム攻略を目撃している。ヨセフスはこの顛末を『ユダヤ戦記』De Bello Iudaicoに記録しているが、Carottaは同書におけるヨセフスの自叙伝について、新約正典の一つ『使徒言行録』Acta Apostolorumにおける使徒パウロの伝承と相通ずる部分が多く見受けられる事を指摘している。
ヨセフスは『ユダヤ戦記』を書いた後にユダヤ人の歴史を纏めた全20巻の大著『ユダヤ古代誌』を書き上げている。『古代誌』 Antiquitates Judaicaeは旧約聖書に描かれている天地創造の時代から先を書いており、アレクサンダー大王やカエサル・新約聖書の時代、そしてユダヤ反乱の時代を収めている。
この『古代誌』は俗に「フラウィウス証言」または「キリスト証言」と呼ばれるイエスについての記述を含んでおり、その真贋を巡って論争が行われてきている。キリスト教徒側で保存されていた文書であったことから、当該箇所については後世加筆が加えられたものではないかという疑いも掛っている。ヨセフスはユダヤ教徒としてサドカイ派、エッセネ派などを渉猟し、最終的にはファリサイ派に属したという。ローマへの投降後ユダヤ教を棄教したという記録は残っていないが、「キリスト証言」の箇所がヨセフス本人によるものであれば彼はキリスト教徒かそれにかなり近い立場であった事が読み取れる事になる。
『古代誌』ではカエサルおよび彼とユダヤ人との関わりについては大きく取り扱っており、エジプト遠征の折ユダヤ人と同盟を結んだ事や、アンチパテルとカエサルの間における友誼、ユダヤ人がローマから浴した栄誉などについて語っている。
フラウィウス朝起源説
カエサル説とは異なる論旨で展開されているのがフラウィウス朝起源説で、こちらはJ.AtwillのCaesar's Messiah: The Roman Conspiracy to Invent Jesusに詳しい。フラウィウス朝は帝政ローマ初期の王朝で、紀元69-96年に帝位に就いたウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスの三帝がこれに属する。ウェスパシアヌス、ティトゥスの二名は第一次ユダヤ戦争の鎮圧に応っており、歴史的に有名なエルサレム占領およびマサダ砦陥落に関与している。本説の提唱者Atwillは三帝の内特にティトゥスを新約におけるイエス・キリストのキャラクターに対しての予型論的存在と主張する。
4福音書の成立は1世紀後半から2世紀にかけてとされるが、フラウィウス朝期はこの初期に当たるため、それらの作者および編者がフラウィウス朝とどのように関わっていたかという点が一つのポイントになる。
先帝ネロはキリスト教徒の迫害で知られており、反キリストを象徴する存在としてまま扱われる事も多いが、その没後を継いだガルバ帝およびフラウィウス朝の三帝についてはキリスト教徒迫害などの記録は特に残されていないようである。却って、フラウィウス朝の皇族がキリスト教に高い関心を持っていた事が資料には伝わっており、この時期にキリスト教のローマ国内での受容を巡って大きな動きが有ったと推察するのは大凡自然な考えではある。
フラウィウス・ヨセフスとフラウィウス朝の関係は密接で深く、それはヨセフスが氏族名であるこの名を賜っている事からも明らかである。
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カエサルとガリア人
カエサルとガリア人の関係もまた本説を語る上で見逃せない要素である。彼は紀元前58年から同51年にかけてガリア・ゲルマニア・ブリタニアへ遠征し、その時の様子を自ら『ガリア戦記』Commentarii de Bello Gallicoに書き残している※。この八年間に亘る遠征(ガリア戦争)でカエサルはガリア全土を征服し、またこの戦争に先立ってガリアの属州総督に着任している。
ここでもカエサルは支配地の領民に対する優遇を行っている。ガリアの族長らがそれまで持っていた特権をそのまま認め、更にローマ市民権の付与や、家門であるユリウスの名も彼等に与えるなどパトロヌス-クリエンテスの関係を構築している。この苛烈な征服活動とその戦後処理における優遇政策は正しく飴と鞭と言う他ないもので、唐王朝における羈縻政策とも通ずるものがある。
その後ガリア地方は帝政期にかけてガロ・ローマ文化時代を迎える。この時代に同地で盛んに信仰されていたドルイド教を始めとする土着宗教と、ローマ人によって持ち込まれたローマの神々との習合や同一視が進む事になり、キリスト教が導入されるまで広く崇拝が行われた。
※本著は全八巻からなる年記物だが、最終巻の第八巻については戦役中カエサル麾下でその副将を務めたアウルス・ヒルティウスが著者となっている。彼はカエサルが関与したエジプトでの争乱について記した『アレクサンドリア戦記』の執筆も手懸けている。
ではカエサルとドルイド教団との間には何か密接な関わりがあったのだろうか。ドルイドは識字階級であったがその多くを専ら口伝によって伝承していた※ため、当時ドルイド側がカエサルという人物をどのように考えていたかを伺い知る事が出来る文字資料は残されていないと思われるが、当のカエサルは『ガリア戦記』においてガリアのケルト人社会の構造について鋭く分析しており、次のような一文を残している。
「ドルイドは聖なる行いをなし、犠牲をささげ、教義を語る。教育を受けようとする若人を集め、その尊敬を受ける。あらゆる言い争いに断をなし、犯罪、殺人、相続、土地争いなどが起きれば、同じように裁判を行い、賠償、罪を定める。..」
「ドルイド僧は最大の敬意を払われ、決定権はすべて彼らが握っていた。 命令を下すのは彼らである。 すばらしい宮殿に住み、黄金色の玉座に座っている王たちは、彼らの召使にすぎなかった。」
このように彼らの社会における実権がドルイド僧の手に委ねられているのを知っていた事から、彼の地に総督として赴任し諸政策を打ち出していくに当たってドルイド達の意見や協力を仰いでいたであろう事は想像に難くない。
一方カエサルに対しガリアの諸部族が反乱を起こした時、そのドルイド僧達の会議により総司令官に選出された人物にウェルキンゲトリクス(Vercingetorix; 紀元前82 - 前46年)がいた。彼はガリアの諸部族を糾合してローマ軍に対して数年に亘り頑強に抗戦し、数々の戦いで勝利を収めるがついに追い詰められ投降したのち投獄、戦役後のカエサル凱旋の際に処刑されている。
彼はカエサルと敵対したのち降伏した人物の中では数少ない刑死した人物であり、その事からも彼が如何にカエサル率いるローマ軍を悩ましめたかが分かる。
このウェルキンゲトリクスもまたイエス・キリストの人物像を形作るにあたって一役買った存在である。カエサルは確かに他殺という形で死を遂げたがそれは公然たる処刑ではなく、飽迄暗殺によるものである。方やウェルキンゲトリクスは凱旋式の最中にローマ民衆の面前で処刑が執り行われており、その様子はガリア出身のローマ住民の多くが目撃していたと思われる。嘗ての若きカリスマ指導者の死は彼に率いられ戦ったガリア諸部族の構成員に大きな衝撃を齎した事は疑いなく、享年34歳乃至は36歳と新約における処刑時のキリストの年齢とも極めて近しい。
※ドルイド僧は暦法などにも通じていた事が知られており、フランスのコリニーでは紀元前1世紀〜紀元2世紀頃のものと推定されるラテン文字によるゲール語太陰太陽暦盤(Coligny Calendar)が出土している。カエサルは『ガリア戦記』で次のようにドルイド達が高い識字能力を有しながらも教義などについての文字記録を残さない事について触れ、その理由についても推量している。「(彼らは)そこで詩句の多数を習得すると言われている。こうして、少なからぬ者たちが、20年にもわたって教え(の場)に残留する。それら(の詩句)を文字で刻み込むことは、神意に背くと考えている。もっとも、ほかの事柄においては、公・私の用件にギリシア文字を用いる。それは、私(カエサル)には、二つの理由で(ドルイドが)定めたことと思われる。というのは、教えが一般大衆にもたらされることは欲していないし、(教えを)学ぶ者が、文字を頼りにして、あまり暗記することに努めなくならないようにである。」
ガリア地方においてキリスト教が比較的スムーズに受け入れられた理由は色々と考えられるが、キリストに纏わる物語を聞いたガリア人の多くがかつての英雄ウェルキンゲトリクスの姿とその生涯を重ねていたとすれば急速な受容の背景として説明がつけられる。またキリスト教の成立においてドルイド僧がその教義の確立に積極的に関わり、ローマ側との「手打ち」としてドルイド教由来の教義を数多く盛り込んだであろう事が考えられる。
"受難"とはキリスト教の用語でイエスの裁判から処刑に掛けて彼の味わったとされる精神的・肉体的苦痛を表す言葉だが、これはウェルキンゲトリクスが虜囚として投獄され、六年に亘る獄中生活ののち公開処刑に至る彼の苦難によく通じており、晩年悪化する持病に苦しんでいたカエサル共々受難というテーマを提供したものと思われる。また彼は味方の手でローマ軍に身柄を引き渡されており、それと引換に部下の身分を保証する約束をローマ軍に取り付けている。こうした経緯はキリストが同胞であるユダヤ人らによって提訴されローマ帝国の裁判によって刑死するという流れと対応する。
※新約においてキリストはサンヘドリンの陰謀によりローマに引き渡されたとされている。方やウェルキンゲトリクスもその身柄がローマ軍に引き渡された経緯について、『ガリア戦記』で次のように記されている。「(来援軍が敗走した)翌日に、ウェルキンゲトリクスは会合を召集して、この戦争を引き受けたことは自らの(野心の)必要性からではなく、(ガリア)共通の自由のためだ、と明言した。運命には従うべきものなのであるから、(敗軍の将として、以下の)どちらの事にも、自ら(の処遇)を彼ら(ガリア人たち)に委ねよう。あるいは(ウェルキンゲトリクス)自らの死によってローマ人たちに償うこと(を欲する)にせよ、あるいは生きたまま(ローマ人たちに)引き渡すことを欲するにせよ、と。これらの事柄について、カエサルのところへ使節たちが遣わされた。(カエサルは)武器が引き渡されること、領袖たちが連行されて来ることを命じた。(カエサル)自身は、陣営の前の塁壁のところに腰掛けた。そこに(アレスィアに籠城していた)将帥たちが連行されて来た。ウェルキンゲトリクスが引き渡されて、武器が投げ捨てられた。」
◆ケルト人によってキリスト教会に持ち込まれた可能性が高い教義として三位一体が挙げられる。古代から伝わるケルティック・シンボルにトリケトラがあるが、これはキリスト教においては三位一体の装飾シンボルに組み合せて用いられている。またケルト十字の元になった太陽十字(サンクロス)は四千年前にまでその起源を遡ることが出来ると言われ、十字架そのものがケルト人によって持ち込まれた可能性もある(当時刑具としてはT字型の方が盛んに使われており、キリストが架けられたのもこのT字型のものであったという説※がある。またタウ(Τ)はフェニキア文字で最後の字であり、✘のようなバツ字形で表記されていた)。
※これについてはルナンが自著『キリスト教起源史 巻一イエス伝』で言及している他、日本の聖書学者秦剛平は刑具として使われたものは十字形に組んだ柱ではなく、一本の杭のような木ではないかと述べている。なおΤ字型の十字シンボルはキリスト教会ではアントニウス十字Anthony's Crossと呼ばれており、歴史的にはフランシスコ修道会が使用していた事で有名。その起源はアンク(エジプト十字)にあるとも云われている。
ドルイド教団とキリスト教会
ところで、これらすべてのドルイドを一人が指導しており、その者は彼ら(ドルイドたち)の間に最高の影響力を持っている。この者が死んだならば、あるいは、もし残りの者たちの中から品格に秀でた者がおれば、継承して、あるいは、もしより多くの者たちが同等であれば、ドルイドの投票で{選ばれる}。
この中で言及されている、総てのドルイドを束ねる「一人の指導者」、ドルイド長ともいうべきその人物は教団における最高指導者の地位にある者となるが、これは後のローマ・カトリック教会におけるローマ教皇に相当すると言える。一方ユダヤ教にもラビという宗教的指導者達が存在するが、その最高権威はサンヘドリンと呼ばれる議会が有していた。無論ローマ教会とて教皇の一存で総てが決するような組織ではないが、組織形態を比較した時カトリシズムのそれはユダヤ教よりも幾分ドルイド教のそれに近い事が判る。
また、投票制により選出されるという点もドルイド長とカトリック教皇に共通している点である。ローマ教会ではコンクラベという選挙システムが長年採用されてきており、この制度は現代にまで受け継がれ、実行されている。ドルイド教団がどの程度体系化された指導者選出体制を有していたかは定かではないが、同じく投票権をもつドルイド高僧達によって投票が行われたであろう事が考えられる。
◆カエサルはゲルマン人についても同様に『ガリア戦記』の中で言及しており、その説明の仕方は主に先だって記述したガリア人についての見聞と対比する形で列挙している。また宗教的・政治的には次のような特質を挙げている。
「(ガリア人の風習と比較して)ゲルマニア人はこれに対し、風習が大いに異なっている。すなわち、神事を司るドルイドも持たないし、供犠に熱心でもない。」
「(官吏たちは)その事の多くの理由を説明する。」
[ガリア人についての節で、「官吏は、(隠すことが)良いと思われることを隠して、有益と判断していたことを、民衆に明らかにする。公儀について、集会を通じてでない限り、語ることは認められていない。」と言及している]
プロテスタンティズムはゲルマン人に由来するGermanという国名で呼ばれるドイツから興った宗派だが、今日プロテスタンティズムはドイツではカトリシズムとほぼ同率※、北欧諸国ではプロテスタンティズムが大勢を占めるている一方、南欧・西欧諸国ではカトリシズムが圧倒的マジョリティであるという点も、歴史的経緯乃至は民族性の違いに加えてこうしたドルイディズムを習俗・宗教文化の基礎に持っているかどうかという部分、更にはカエサルとの関わりについてその「被征服・被統治経験」の有無が一つの分かれ目となっているものと考えられる。
ルターは「万人祭祀」Universal priesthoodと呼ばれる概念を特に強調したが、これはカトリシズムにおいて厳格な教育制度により陶冶を受けた司祭達が特権階級として祭儀に関わる一切を独占する事に対する反感がその根底にある事が伺える。ゲルマン神話・北欧神話に於いても託宣はドルイドのような特権階級ではなく巫覡(ヴォルヴォ)達によっており、こうした祭祀文化の相違が宗派の受容にも現れているものと考えられる。
「反カトリシズム」を巡る問題は複雑でありその事由や歴史的背景に関して各国・各地域により様々だが、ローマ帝国主義の延長線上にある宗教活動としての教会運動に対する反感、そして反発の当事者により明らかには認識されておらずとも、その無意識下でのドルイディズム的風習を感じさせる教義への違和感・不審感などがそれらの内奥にあるといった事が想定される。対してカトリシズムのよく定着している西仏やアイルランドはケルト系として古代からドルイドティズムと深く関係しており、イタリアについても北部はケルト系が侵入し土着のエトルリア人を征服しているなど、やはりドルイドと無縁ではない。同地域で発展してきたトリノ、ミラノ、ブレーシャ、ボローニャといった諸都市もケルト系部族が築き上げた城塞や集落が元になっている。ローマとの関わりも古く、共和制時代前期にはケルト人の侵寇を度々受けており(この前4-2世紀に掛けての200年に亘る戦乱はローマ・ガリア戦争と呼ばれている)、国家としての古代ローマはガリア系諸部族との長きに亘る抗争の中でその土地や人民を版図に収めていきながら歴史を発展させている。ガリア地方のローマ化は歴史学的にもその過程が詳しく語られるが、一方ローマ文化およびローマ人がケルト文化・ケルト人から被って来た影響もまた注意すべき部分である。
※南ドイツは伝統的にカトリシズムの盛んな地域であり、かつての帝政ドイツ時代には鉄血宰相ビスマルクが展開した文化闘争Kurturkampfによりカトリシズム勢力の排除・抑制が図られているが、教会およびカトリック系住民の強靭な反発に遭い、妥協という形で終結している。また南ドイツのバイエルン地方周辺は考古学的にケルト系部族揺籃の地であると推定されるなど、ケルト人の原住地としてその歴史的関わりが深い場所でもある。なおプロテスタンティズムの祖マルティン・ルターは北ドイツのザクセン地方出身である(ザクセンはゲルマン系部族の一つサクソン人に因む)。
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地中海世界覇者としてのカエサル
カエサルの生涯を追う事で分かるのが、彼は地中海世界のあらゆる地域にかけて強く影響を残しているという事である。生地であるイタリア半島は固より、若くして小アジアに亡命しビテュニアに滞在する傍らシチリア属州に軍籍を置き、ローマ帰還を果たすも身を危ぶみロードスに留学、エーゲ海を渡航中海賊に捕えられるなどの憂き目に遭っている。
暫くして再びローマに戻るが今度はヒスパニアに赴任、そこで手腕を発揮し出世を果たす。続いて前項でも触れたガリア、ゲルマニア、ブリタニア遠征やエジプト出征、ユダヤ属州への介入など地中海世界のあらゆる土地に顔を出しては戦火を熾し、見事勝利を収めている。ローマ史のみならず世界史上でも類稀な活躍を果しており、彼のような傑出した人物に対して国内外で崇拝の対象になったとしても何ら不思議は無い。
では何故彼に対する崇拝が直接宗教として後世に伝えられなかったのであろうか?答えは幾つか考えられるが、やはり彼が徹底した実利主義者かつリアリストであったという点が最も大きい。カエサルは若干17歳で既に神祇官の職に就いているなどローマの宗教に対する関わりは深く、更にその20年後には異例の早さで神官職の頂点である最高神祇官に任じられている。しかしこの選出に当たっては多額の金銭による買収工作が行われており、その政治的権威を目当てにしていた事は明らかである。
また前項でも述べたようにガリア人社会におけるドルイドの権勢に鋭い分析を加えるなど、宗教関係者が社会に対して行使出来る力の大きさを正確に測っている。こうした彼の理知的な性格はおよそ宗教家にとり崇拝の対象とするには耐えられないものであった。各地で様々なエピソードを残している事も不都合であると言えよう。
更に存命中その女癖についてや一時期男色に耽っていたという噂で政敵から中傷されており、そうした記録を残している人物を戴くのは、清廉潔白を旨とするような教義を前面に押し出す宗教にとって好ましいものではない。
何より当のローマ帝国が皇帝崇拝という形で彼の業績と帝統を崇めさせる慣しを疾うに実現していたため、これを否定しつつもその信奉者達を転向させるにはカエサルの遺した訓話や思想を積極的に自らの教義として取り込む必要があった。
ガリア人にとってもカエサルの「聖化」は信仰とするにあたって望まれていた事だった。先述の通りカエサルはガリアの征服者にして同地の文明化に大きく貢献した人物である一方、民族的英雄であるウェルキンゲトリクスを追い詰め処断するなど彼らにとっては憎むべき相手でもあった。またそのローマ人風の容貌は彼らにとって馴染みが薄く、ウェルキンゲトリクスのようなケルト族長の風貌により親しみを覚えていた。キリストのイコンとして定番の長髪に口髭を蓄えた姿も、ケルト系信徒の獲得にあたって彼らの耳目を引き寄せるによく適していた※。
イエス・キリストというローマ人でもガリア人でもない一人格に対して民族的英雄と開化を齎した征服者という二人の指導者の生き様を重ね映す事で宗教的偉人としてより理想的な人物像をそこに描き出すのに成功した事、これが同地におけるキリスト教の布教に大きく寄与した。
※ガリア戦争以前にローマの支配下に置かれていなかったガリアの北部地域はガリタ・コマータ(Gallia Comata; 長髪のガリアの意)と呼ばれており、これは土着民達の間で長髪の習慣が有った所から名付けられている。新約聖書に男の長髪を「見苦しく、恥ずべきこと」(コリント11:14)と有るのも異教徒であったガリア人達を暗に非難していたとも考えられる(また、ローマ人やユダヤ人達のガリア人男性に対する印象が反映されていると言える)。その一方で布教に際し長髪の姿でキリストを描いているなど、ガリア地域に置いてこうした姿でキリストを描く事が布教を如何に助けたか、という点も注意すべき部分である。
ユダヤ人の場合はどうであろうか。彼らはガリア人のようにカエサルに対して抗戦し敗北するという経験はしていない。だがカエサル亡き後のローマとの関わりは歴史が示す如く戦乱の時を迎える。
アンチパテルの跡を継いだヘロデ大王はローマ軍の支援を得てハスモン朝を廃しヘロデ朝を創始するが、王の死後国は息子達に受け継がれて4分割統治となる。紀元6年にはユダヤ属州がローマの直轄地となり、二度に亘る反乱(ユダヤ戦争)によって首都エルサレムや神殿の損壊を齎すこととなった。
アレクサンドロス大王とキリスト教
「神の子」という称号はキリストのそれとして今日名が知れるが、歴史上の人物でこの称号を授かった者としてアルゲアス朝のアレクサンドロス三世(Alexander the Great; BC356-323)が挙げられる。彼はカエサルの時代より遡ること三世期、マケドニアより遠征を始めオリエント一帯を支配下に収めたが、その際エジプトのアモン神殿にて「神の子」(アモンの子)という神託を授かっている。また同地にて自らの名に因む新都アレクサンドリアを建設しており、大王の後を継いだプトレマイオス朝によって当時では世界最大規模の大図書館が築かれていた。アレクサンドリアは後のキリスト教においても要所であり、その初期からフィロンなど教会に連なるユダヤ人思想家達の拠点となっていた。アレクサンドリア派と呼ばれる宗派も同都を中心として形成されたものである。
地中海世界の覇者となったカエサルとは異なり、彼の覇業は専ら東方に向けられている。両雄の残した事績やその人物像等の比較論考は史学的にも大変大きなテーマであるが、カエサルのみならずアレクサンドロス三世についても、彼が後のキリスト教においてイエス像の形成に果たした役割について考証する事で、より深い視座からこの現象が見えてくるものと予想される。
アレクサンドロス大王はユダヤ史においても非常に重要な人物の一人である。ハスモン朝は大王の後継(ディアドコイ)から興ったセレウコス朝から独立して建てられた王朝であるが、こうした時期を通じてヘレニズム文化からの影響を強く被っていた。アレクサンドロス・ヤンナイオス(Alexander Jannai/Yannai; אלכסנדר ינאי)などギリシア風の名前を持つ人物も王朝内から出ている。また新約において論難されているファリサイ派との内訌もハスモン朝の歴史を彩っている。旧約聖書においても同王はペルシアの諸王と共に言及されており、前二世紀に成立したとされる預言書の一つダニエル書において「予言」という形で言及されている。
アレクサンドロス大王について、彼を新約におけるイエス・キリストの直接のモデルとなった人物と見做す論考はまずなく、そうしたテーマが主題の著作は疎かそのような言及が行われたという記録もまず見受けられないが、以上からもキリスト教の起源および教会史を語る上では外すことの出来ない重要人物である事が判る。
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アウグストゥスとカエサリオン
カエサルには二人の子息がいた。オクタウィアヌス・アウグストゥスとカエサリオンである。
アウグストゥスは養子であり、カエサルの跡を継ぎローマの初代皇帝の座に就いた人物であるが、カエサリオンはクレオパトラ7世との間に生まれたカエサルの実子であり、プトレマイオス15世としてエジプトのプトレマイオス朝最後のファラオとなるが、アクティウム海戦で敗北したのちアウグストゥスの命によりアレクサンドリアで殺害された、となっている。
だが彼の殺害についてははっきりとした所が薄く、このカエサリオンが実は生きていたという俗説が流れる程であった。それ故かキリストの正体をカエサリオンとする話もあり※、今日まで語り継がれて来た様である。
ここで注目すべきはこの説そのものというよりカエサルとエジプトの関わりである。キリスト教が古代エジプトの宗教から多大な影響を被っている事は予てより指摘されており(映画『Zeitgeist』など)、特にイシスとホルスの関係はほぼそのままマリアとイエスの関係に転写されている事が容易に窺える。
アウグストゥスは皇帝就任後養父カエサルの神格化を加速度的に進めていくが、カエサリオンもまた直接ないし間接的にカエサルに纏わる物語を宗教に練り上げていく上で一定の役割を果たしている事が理解できる。
※当説についてはその拠所としてイエスの名は「イシスの子」に由来するものであり(ここでいうイシスはクレオパトラ7世に相当)、またプトレマイオス15世カエサルとして即位した際に「諸王の王」という称号(これは後にキリストを賛美する言葉の一つとなっているが[黙示録17:14]、紀元前からペルシア王などオリエントの各支配者に対して折々用いられてきた称号でもある)を享けている事などが挙げられている。いずれにしてもカエサリオン当人についてその事績を伺わせるような歴史的資料は殆ど残されておらず、半ば伝説化された形で生存説などが流布しているというのが現況である。
◆プトレマイオス朝下では融和政策を目的としてヘレニズムとエジプト神話の習合により奉じられたセラピス(Serapis: Σάραπις)という合成神が信仰されており、これが後のキリスト信仰の元になったのではないかという説も浮上している。これは述べてきた通り、新約におけるキリスト像の形成に際しては複数の人格がキメラ的に組合わせられた形跡があるという点で通底する。セラピス崇拝はプトレマイオス朝の開祖プトレマイオス一世ソテルPtolemy I Soterがその治下で推し進めていたものだが、彼の称号ソテル(σωτήρ sōtēr; Saviourの意)はギリシャの主神ゼウスを形容する言葉でもあった。
◆アウグストゥス帝はゲルマニアにおける帝国版図の拡大を目論見、将軍プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスを総督に任命し、三個軍団と共に現地に当たらせていたが、ケルスキ族の首領アルミニウス率いるゲルマン人連合軍による謀略により紀元9年に撃滅されている(トイトブルク森の戦いClades Variana; Schlacht im Teutoburger Wald)。この敗戦によりローマはゲルマニアから一端手を引き、内政にシフトする事となった。アルミニウスはその後内訌の中で殺害されるが、今日に至るまでゲルマニア解放の英雄として讃えられている。こうした出来事やその後の歴史が示す如く、ガリア人とゲルマン人のローマとの関わりは異なる展開を見せており、それが原題に至る宗派の受容の違いにも現れているものと考えられる。
フルウィアとマリアムネ
紀元前一世紀をキリスト教成立前史として観望したとき、中でも注目すべき二人の女性貴族がいる。
一人はマルクス・アントニウスの妻フルウィアで、Carottaは彼女がキリスト教の母であるとし、またウル-ゴスペル(原福音書)の作者に目している[Fluvia: Die Mutter Des Cristentimus?参照]。
もう一人はヘロデ大王の妻マリアムネである。ヘブライ語の「מר」(苦い)を語根とするモーセの姉の名「מרים」(ミリアム)をヘレニズム時代に古代ギリシャ語でマリアムネ(Μαριάμη)と呼んだ。そこから派生した名がマリアだが、旧約においては呪われた名として知られ、ミリアムと名付けられた女性も上の人物しか登場していない。
しかしヘロデ朝ではこの名が付いた女性が多数いるなど当時のユダヤ人主流とは一線を画すかのような趣がある。新約に至るやマリアと名のつく女性はイエスの母を含めて8人程存在するなど、まるでヘロデ王家宛らの様相を呈している。
「カエサルの星」と「ベツレヘムの星」
キリスト=カエサル説を支持する有力な傍証の一つに「ベツレヘムの星」がある。これはキリスト生誕時に出現したとされる八芒星を指す。一方カエサル没年の紀元前44年、ルディ(カエサルの戦勝記念祭、7月20日から30日まで開催)期間中に一際明るい彗星が観測された事が記録されており、当時の人々はこれをSidus Iulium ("ユリウスの星") やCaesaris astrum ("カエサルの星")と呼んだ。この星は八芒星としてカエサルの諡である"Divus Iulius"が刻銘されたローマ発行のコインなどに彫られている。
また紀元前12年10月10日にもハレー彗星の観測記録がある。カッシウス・ディオ著『ローマ史』第54巻によればアウグストゥス帝の治世に彗星が数回現れたことがあり、アウグストゥスはそれを養父カエサルの魂と見なし、「カエサルの星」をかたどった貨幣なども鋳造された事が記されている。この時のハレー彗星をベツレヘムの星に比定する説があり、キリスト生誕年とされる紀元前6年または4年とも大変近い。
更に紀元前36年に発行されたコインにはカエサルの霊廟と中央に十字が描かれており、周囲には"Clementia"(慈悲深き者;罪を赦す者)と記されている。
◆ローマは同時期にウェルキンゲトリクスを描いたコインも発行しており、また別のコインではウェルキンゲトリクスの装備品を十字形のトロパイオンτρόπαιον※に掛けた様子と、その両脇にて悲嘆するガリア人を描いた図画がCAESARの文字と共に彫り込まれており、その裏面にはユリウス氏族の守護神ウェヌス・ゲネトリクスVenus Genetrix(母なるウェヌスの意)が象られている。
※古代ギリシアで作られていた戦勝記念碑の一種で、古代ローマに於いてもトロパエウムtropaeumという名で知られ、帝政化後も各地の城市などで飾られていた。トロパイオンには神への奉納品として敗者の装備品一式を掲げる慣わしであった。トロパイオンはtrophyの語源になっている。
◆同帝の治下で活躍した詩人プブリウス・オウィディウス・ナソは『メタモルフォーセス』で世界創造からカエサルの死までを寓話的に描いており、カエサルは星に転身した事でギリシア・ローマの神々に連なる神格化を果たした事を強調している。
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関連動画
キリスト=カエサル説に関するニコニコ動画の動画を紹介してください。
参考文献
Jesus Was Caesar: On the Julian Origin of Christianity: An Investigative Report {2005, Francesco Carotta, Aspekt; 1st edition}
The Gospels as Diegetic Transposition: A possible Solution to the Aporia “Did Jesus exist?”{2007, Francesco Carotta}
Caesar's Messiah: The Roman Conspiracy to Invent Jesus: Flavian Signature Edition {2011,
Joseph Atwill, CreateSpace Independent Publishing Platform}
Divus Julius {1971, Stefan Weinstock, Oxford University Press}
The Jews of Ancient Rome {1960, Harry J Leon, The Jewish Publication Society of America; 1St Edition }
The Origins of Christianity and the Quest for the Historical Jesus Christ {2011, D.M. Murdock and Acharya S}
関連項目
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