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鎌倉武士あだ名・蛮族エピソード集とは、5chのなんでも実況J掲示板のスレッド『鎌倉武士「あ、あいつ俺んちの門横切った、弓で射殺したろ!!
』から抜き出された鎌倉武士に関するエピソードのまとめ動画である。
元となったスレッドの内容には明らかに時代を取り違えているものなど疑問・違和感を覚えるものも多くあるのだが、動画ではそれらも特に注意など入れずに取り込んでしまい、さらに動画主による面白さ優先の言い回しが加わっているため、視聴する側で注意する必要がある。
動画中で言及された仇名など
- 蛮族
- 山賊
- 獣
- チンピラ
- マジキチ
- 野蛮
- 蛮人
- 畜生
- ヤクザ
- ならず者
- キチガイ
- 何代も続いた由緒正しい大泥棒
- フォールアウトのレイダー
- 盗賊の成り上がり
- 首狩り族
- 鎌倉武士「乞食や生臭坊主に人権なんてないぞ」
- 商人の一行は御仏のお恵やから○して略奪してええぞ
- あ、あいつ俺んちの門横切った 弓で射○したろ!!
- 街中にいる乞食や修行僧を的にアーチェリーもしたぞ
- 生首絶やすなの精神
- 修練場に生首おいてたのは死体になれるためだったのかトロフィー感覚だったのか
- 「なんか今日隣の家うるせぇな…○そ」!! →一族皆殺し
- 流行語は族滅
- 平和になった後の鎌倉御家人バトルロイヤルで族滅した有力御家人の皆様
- この孤独の中から誕生した足利氏
- 元服の前に乳兄弟を○すのが習わしの里見氏
- 獣どものを人にした北条泰時の御成敗式目
- 元寇とかいう島国の蛮族VS平原の蛮族の戦い
- 地の利を得て蛮族ぱあw-が増してなかったら危なかったかもな
- 元寇に反対した 趙良弼さんの日本人の報告
- 1度目の元寇はモンゴル人が人質を盾にして攻めてきたが関係なく矢を射かけまくった
- 2度目の時はモンゴルに倣って人質を盾にして攻撃した
- 人質作戦が全然きかなくて元軍の記録に「鎌倉武士は人の心がない」と書かれた
- 博多が略奪されるのは目に見えていたので、敵が来る三日前に博多を鎌倉武士団が略奪しつくした
- 相手の船に牛馬の腐乱死体をぶん投げた
- 元軍が壊滅した跡、取り残された元軍の内、宋人は助命したが、高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆○しにした
- 一説によると九州の他の地の蛮族どもが勝手に元軍攻撃して、報酬よこせと言ってきたらしい
- 鎌倉武士どもがキチガイすぎて元寇が神風で勝てたという風に捏造記録された説好き
- 調べれば調べるほどキチガイ同士の戦いで頭おかしくなりそう
- こんな奴らに統治能力があったのが凄い
- 世紀末の800年ぐらい前に勝手に世紀末をおっ始める連中
- 頼朝とかいう身内○し(殺したのは身内だけじゃないが)の英才の被害者たち
- 平清盛 助命してやったのに子孫を次々と○される
- 源義仲 平家を壊滅させた英雄だが嫉妬嫉妬アンド嫉妬され朝廷とうまくいかなかったことに付け込まれ討ち取られる
- 源義高 義仲と頼朝と仲良くするために人質として預け大姫(頼朝の娘)と婚約。頼朝は自分の息子と思って育てると約束していたにもかかわらず復讐を恐れて殺害される
- 藤内光澄 大姫が心を病んだのはお前が義高を○したせいだなどと無茶な罪を着せられ打ち首にされる
- 上総広常 流人時代の頼朝の下に大軍を率いて味方してくれたというのに広大な領地を奪うために謀反の罪を着せられ粛清される
- 源義経 平家追悼で多大な功績をあげたというのにろくな恩賞を与えず朝廷から恩賞をもらったことを咎めて殺害
- 長田忠至 義朝(頼朝の父)殺害の下手人。命の危険を顧みず一族総出で出頭、「懸命に働けば美濃・尾張をやる」の言葉に感激して奮戦。しかし戦後に「身の終わりをやる」と言われ○された
- 藤原泰衡 命令に従って義経を○してやったというのにやっぱり追悼され部下に○される
- 河田次郎 泰衡を○して首を持ってきてやったというのに主人○しは不忠の極みと言いがかりをつけられ○される
- 源範頼 頼朝暗殺の誤報を心配する政子に「後にはそれがしが控えておりまする」と手紙を送って安心させようとしたら謀反の疑いをかけられ流罪の後に暗殺される
- さすが戦の天才義経公のお兄様やね(ニッコリ)
- 頼朝の男兄弟9人全員ろくな死に方してなくて草も生えない
- 嫉妬嫉妬&恐怖。もうこれスターリンだろ
- 河内源治棟梁の皆さんの最期
- どんだけ身内で殺し合いしてんだよ
- 戦があると弁当持って観戦しに行く百姓
- 合戦終わったら死体から鎧と刀剥いで売りに行くぞ
- ついでに敗残兵も○して武器防具奪って売り捌くぞ
- 合戦で敵兵に○されたやつより、逃げる途中で落ち武者狩りされたやつの方が何倍も多かったらしい
- 集団で囲んで拳大の石を大量に投げつけて○す
- 農民が略奪したくてたまらんから定期的に戦争しないと領地経営出来なかったとか
- なんで農民までキチガイなんですかね……
- そらこの時代の農民と武士の区別曖昧だし
- 逆に落ち武者を匿うケースも結構あるのでセーフ
- もうこれイスラム国だろ
- そらこんなことしてりゃ天皇につきたくなるやるが一定多数おるのもわかるわ
- でもまあ戦場で○すのが仕事だから多少はね
- こんなことしてっから、なろうに異世界転生する直前の鎌倉武士が結婚式襲って皆○しにしたっていう外道な描写がされるんやぞ
- 結婚式なんて開いて女呼んで酔っぱらうとか襲ってくださいみたいな隙見せるほうが悪い
- 北条政子の演説で号泣して天皇を○しに行くピュアな人たちだぞ
- だからこうして茶道を広めて人間にする
- 茶道は武器を持たないし、大声で威嚇しないでお互いゆっくりしゃべれるからな
- なお完全矯正まで400年近くかかった模様
- 江戸時代までに矯正できてましたか……?
動画の検証
動画の内容は、鎌倉武士を蛮族あつかいし、鎌倉時代を野蛮な時代として扱っているが、そのほとんどは根拠が不明だったり、資料を読み違えたりしている。
動画の切り抜き元となったなんJのスレッド『鎌倉武士「あ、あいつ俺んちの門横切った、弓で射殺したろ!!」
』に書き込まれたエピソードも検証する。記事の構成上、できれば先に動画内容とスレッドを確認してほしい。
蛮族説・文化編1
鎌倉武士は、馬小屋の隅に生首を絶やさず、首を切って懸けていた。
また、屋敷の門外を通る修行者がいたら蟇目鏑矢で追い立て追物者にしていた。
上に書いた通り、創作物の『男衾三郎絵詞』からの引用であり、架空の人物の架空の話。
上記の文は、物語の悪役・三郎の台詞であり、鎌倉武士の文化ではない。
また、「蟇目鏑矢(非殺傷の矢)で追い立て」の部分が、「通行人を的にして殺せ」と改竄して紹介されている事が多い。
蛮族説・文化編2
作り話。
念の為、里見氏と新田氏(里見氏の宗家筋)の研究の第一人者であり、現・国立歴史民俗博物館准教授・田中大喜先生に確認を取った所、
「里見氏に限らず、鎌倉時代の武家社会で「嫡子が元服すると幼い男児を皆殺しにする習慣があった」ということはありえません」という回答を頂きました。
https://www.rekihaku.ac.jp/research/researcher/tanaka_hiroki/
蛮族説・文化編3
在り得ない話。
もともと日本には、「農村」という農民の共同体すらなく、これが形成され始めたのは鎌倉後期(12世紀)から。(惣村の発生)
この「農村」の武装化が進み、落ち武者狩りが盛んになったのは、室町中期(15世紀半ば)以降である。
蛮族説・悪行編1
「(陸奥国の壬生良門)弓矢を以て朝暮の翫として人を罰し、畜生を殺すを以て業とす。夏は河に行て魚を捕り、秋は山に交はりて鹿を狩る」
現代語訳「陸奥の国の壬生良門は、弓矢を常に持ち歩いて人を倒し、獣を殺して生計を立てていた。夏は川で魚を捕り、秋には山で鹿を狩る」
鎌倉武士とは無関係の人の話。
『今昔物語集14巻10 悪人も兜率天に昇る』からの引用。
元ネタは『法華験記』などの仏法説話。架空の人物であり、そもそも壬生良門は武士ですらない。
そして、なぜか、「鹿を狩る」の部分が「人を狩る」に改ざんされている事が多い。
蛮族説・悪行編2
「(讃岐国多度郡の源大夫)心極めて猛くして殺生を以、業とす。 日夜朝暮に山野に行て鹿・鳥を狩り、河海に臨て魚を捕る。亦、人の頸を切り、足手を折らざる日は少なくこそありけれ」
現代語訳「讃岐国多度郡の源大夫は、乱暴者で獣を殺して生計を立てる。日夜、鹿や鳥を狩り、川海で魚を捕る。また、人(家来)の首も斬るし、手足を折る事もあった」
鎌倉武士とは無関係。
『今昔物語 巻十九第十四 讃岐国多度郡五位聞法即出家語』からの引用。
仏法説であり、架空の話。
極悪人・源大夫が阿弥陀仏に帰依して改心する話で、鎌倉時代の浄土宗系に影響を与えた物語。
舞台は鎌倉時代ではない。
源大夫も、苗字も忌み名もない為、武士創成期前の豪族をモデルにしていると思われる。
蛮族説・元寇編1
元寇の際、鎌倉武士は博多を守るどころか、略奪し焦土に化した。
根拠不明の作り話。
『八幡ノ蒙古記』に、防戦していた筥崎宮(神社)が、なぜか出火したという記録のみ存在。
蛮族説・元寇編2
元軍は、捕虜の手に穴を開けて船に並べて盾にしたが、鎌倉武士は捕虜もろとも殺した。
作り話(どっかの漫画に載ってた話が元ネタとも?)。
日蓮の『一谷入道御書』の「手ヲトヲシテ船ニ結付」の記述を「元軍は、手に穴を開けて紐を通して船に連行した」と解釈する説があるが、鎌倉武士が捕虜もろとも射殺したという記録はない。
蛮族説・元寇編3
可能な限り助命している。
①元史には、蒙古、高麗、漢人は処刑され、新附軍(南宋人)は奴(下人)として生かされたとある。(捕虜の何三は日本で富豪となり、森光寺の指定文化財・大般若経六百巻の補修事業を行なっている)
③さらに、11年後に来日した国使・金有成は、処刑されたはずの高麗人の捕虜がみな生きている事を知り、改めて高麗から謝意の国書が送られている。{出典『高麗史 列伝 金成伝』}
当時の日本の人口は500万程度。そこに3万もの捕虜を抱えた。フビライは再遠征を計画していた為、捕虜返還(戦力返還)はできず、収容所もなく、捕虜が蜂起する危険もあった。また、3万人の衣食住を維持するのは困難である。にも関わらず、可能な限り助命していたのである。
蛮族説・元寇編4
『臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。
その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません』
彼が滞在した太宰府は、南宋交易で繁栄しており、既に唐房(チャイナタウン)まで存在していた。
特に輸出品の硫黄は、火薬兵器の原料として、南宋側が日本に依存している状態であった。
対し、南宋と敵対する元は、日本から安価な硫黄を供給する事ができずにいた。
元寇の原因の一つは、この硫黄の入手であり、日本を征服しても利益がないなどという趙良弼の主張は、当時の現状とかけ離れたものである。
出典{服部英雄 著書 『蒙古襲来と神風』 中公新書11~18頁}
また、山水が多くて田畑を耕す利がないとあるが、太宰府の西南の筑後平野と菊池川は一大穀倉地帯であり、今もなお、穀倉地帯である。
当時は、ここを支配する菊池一族が富を得て栄えていた。
親孝行や上下の礼を知らないとあるが、
武士団は、当主(父)を筆頭に家の子(子弟)からなる惣領家と、その分家によって構成されており、
父は当主として子に崇められ、惣領家と分家の間には、厳しい上下の礼があった。
もし、異国人の目から見て、日本人は親孝行も上下の礼も知らないと映ったならば、唐房(チャイナタウン)の人々も同様の評を残しているはずであるが、彼の報告書以外にこのような評は見当たらない。
蛮族説・法律編1
これは武士の蛮行を取り締まる法ではなく、幕府支配下の全ての身分の人に課された法である。
当時、明文法は古代の律令しかなかった為、承久の乱以降の土地問題に主体を置きつつ、不文律の慣習法を明文化したものである。
蛮族説・法律編2
鎌倉武士は、女子を拉致しまくっていた。その証拠に『御成敗式目』で女性の拉致が禁じられている。
室町時代の「ものぐさ太郎」の話に「辻取婚(誘拐婚)」の話がでる為、鎌倉時代にも辻取婚があった可能性はあるが、幕府支配下の全ての身分に課された法であり、鎌倉武士が拉致の常習犯だったという根拠にはなり得ない。
そして、殺人・拉致・強姦等の禁止は、どこの国の法律でも禁じられている事である。
なお、女子に限定している点を挙げ、女子誘拐が多かったとの指摘があるが、少年への拉致・強姦も古くから存在するにも関わらず、多くの国で、これを禁ずる法はなかった。
日本で初めて少年(12歳以下)への強姦が禁じられたのは、1880年(明治13年(旧刑法347条))。
日本で初めて男性(成人)への強姦が禁じられたのは、2017年の刑法177条の改正時である。
(イギリスでは、1994年の法改正により、男性による男性の強姦は刑事罰となったが、女性による男性への強姦はいまだ合法である)
蛮族説・暴君編1
源頼朝は、褒美に「美濃・尾張」を与えるといって部下をだまし、「身の・終わり」を与えると言って死刑にした。
長田父子の地元に伝わる、単なる伝説。
正史(吾妻鑑)では、長田父子は頼朝に仕えておらず、治承四年十月十四日に頼朝軍に敗れて討死している。
上記の伝説が生まれた原因は、長田父子が源頼朝の父・源義朝を裏切り、だまし討ちにした事が原因。
蛮族説・暴君編2
頼朝は、大軍を率いて味方にきた上総広常の領土を奪う為に、謀反の濡れ衣を着せて誅殺した。
広常を失う事は、大戦力を失う事に繋がる。
もし、領土欲しさの誅殺ならば、先に広常の戦力で平家討伐してから行うべきである。
広常が疑われた原因として、彼の「下乗下馬の礼」すら守らない不遜な言動の数々が上げられる。
{出典『吾妻鏡』治承五年(1181)六月小十九日}
が、最も有力とされる“本当の誅殺理由”は、彼が朝廷に従わず、大逆人・平将門のように関東独立を望んでいた為である。
頼朝自身も「謀反心ノ者ニテ候シカバ。カカル者ヲ郎従ニモチテ候ハバ。頼朝マデ冥加候ハジト思ヒテ(朝廷への反逆心を持つ者を従える事は、頼朝の恥と思った)」と、後白河法皇に報告している。
{出典 『愚管抄』第六}
学者が異説を唱えるのは自由だが、「領土欲しさ」などという非合理な説を唱える史学者はいない。
蛮族説・忘恩編
源頼朝ら一族は、平家に助命してもらった癖に、恩を忘れて挙兵して平家を滅ぼした。
源氏の一斉挙兵は、以仁王の令旨が原因。令旨は天皇の論旨に次ぐ命令書。
蛮族説・謀反編
鎌倉幕府は、天皇に逆らって承久の乱を起こし、ボコボコにした。
承久の乱を起こしたのは後鳥羽上皇であり、これは幕府の自衛戦争。幕府側は上皇を傷付ける気はなく、北条義時は、
「賢くも問へる男をのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向かひて弓を引くことは、いかがあらん。さばかりの時は、兜を脱ぎ弓の弦つるを切りて、ひとへに畏りを申まうして、身を任せ奉るべし」
と、上皇自ら討伐に来るなら降伏せよと命じている。{出典 『増鏡』 二巻 新島守}さらに、戦後の上皇の「部下が勝手にやった。俺は知らん」という言い訳を認め、配流に留めている。
蛮族説・骨肉編
鎌倉武士は、保元の乱(鎌倉時代ではないが)や幕府創設期に、肉親同士で争い殺し合っている。
日本の戦国時代は、
戦国三傑も、徳川家康は嫡子・信康を切腹させ、織田信長は弟・信行を殺し、豊臣秀吉は甥・秀次とその妻子39名を処刑している。
北陸の英雄・上杉謙信は兄(晴景)と戦い、兄は家督を譲っただけでなく、殺されたという説があり、
東海の英雄・今川義元は、花倉の乱で弟・玄広恵探を自害させ、
東北の英雄・伊達政宗は、弟を擁立する母に毒殺されかけ、
信長の舅で美濃を統一した斉藤道三は、息子の義龍に敗れて戦死し、
北九州の英雄・大友宗麟は弟を殺し、戦闘に巻き込まれた父を死なせている。
戦国最強と呼ばれる武田信玄は、父・信虎を追放し、息子・義信を切腹させた。
推定で、鎌倉時代の数十倍は骨肉争いが起きている。
また、世界史に目を向ければ、内戦の半分は「骨肉争い」である。
古代オリエントでは、先王が死去する度に、兄弟間戦争が起きた為、中世オリエントを支配者したオスマン帝国は、対策として、嫡男の王位継承と同時に、兄弟を皆殺しにする掟を定めた。(また妊娠している先王の妾は、生きたまま袋に詰めて川に沈められた)
ローマに支配される以前のエジプト(プトレマイオス朝)も、王位を巡る身内争いは多く、クレオパトラの姉は父と戦って殺され、彼女自身も、弟と戦って弟を死なせている。
そして、ローマ帝国も身内間の暗殺が多く、歴代皇帝の七割が暗殺・死刑・不審死している。
隣国の李氏朝鮮でも、「王子の乱」等の身内争いが頻繁に起きている。
中国史においては、大抵の歴代王朝で起きている事である。
それらに比較して、鎌倉武士の骨肉争いは、頻度も規模も小さく、連座(連帯処刑)も少なく、はるかに穏健である。
蛮族説・族滅編
鎌倉幕府は内ゲバで、仲間だったはずの梶原氏、和田氏、畠山氏、三浦氏、安達氏(城氏)、比企氏、名越氏を族滅した。
没落しただけであり、滅んでいない。
敗れた主な首謀者が戦死・殉死・死刑となったが、その後も存続している。
②和田氏は、和田の乱で首謀者(和田義盛)らは討死・処罰を受けたが、無関係の弟(義茂・宗実ら)一族は存命である。(義盛の弟の義胤に至っては、北条側についている)
③畠山氏は、畠山の変で首謀者(畠山重忠)らは討死・処罰を受けたが、無関係の弟(重清、重宗)の一族は存命であり、本家は復興され、室町時代には三管領の一つにまでなっている。
④三浦氏は、宝治合戦で、本家の首謀者が討死・自害したが、絶えてはおらず、孫の三浦義継の代で石井氏を名乗り、本家・三浦氏の名跡は分家が継いでいる。
⑤安達氏は、霜月騒動で一時は没落したものの、間もなく地位を回復している。鎌倉幕府最後の執権・北条高時の母は安達氏である。
⑥比企氏は、当主の比企能員が武士を止めて妙本寺の僧侶になり、幼い男児は和田義盛の預かりの下で配流となった為、一時断絶。しかし、例のごとく多くの一族は健在であり、弟の時員の子孫が後に本貫地に戻って復興している。
⑦名越氏は、1272年の二月騒動で討伐を受け、当主らが死亡。後に冤罪と分かり、その後も普通に存続。
(後述の「実際の鎌倉武士像」の「寛大な戦後処理」項目の通り、当時は、敗れても一部の首謀者が処罰されるだけである為、一族自体が滅びるなどあり得ない)
史書・軍記物語での鎌倉武士像
以下は、インターネットミームによらない、史料・軍記物語に基づく鎌倉武士像である。
文献が必ずしも真実だけを記しているとは限らない。が、少なくとも、なぜ、鎌倉武士が長らく『武士の模範』とされてきたか、理解するすべにはなるだろう。
(1)女殺しの禁忌
源平合戦(1180年)以前、平治の乱(1159年)の三条殿夜襲の際、乱戦に巻き込まれた女性と殿上人らが殺され、火災から逃れるべく井戸に飛び込んだ官女らが溺死し、信西と間違えられた女童らが斬られる事件が起きた。女性が殺されたのは、後三年の役(1083年)以来、76年ぶりの出来事である。
平家滅亡時(1185年)も、鎌倉幕府(北条得宗家)滅亡時(1333年)も、敗者側の女性は誰一人として殺されていない。
鎌倉武士が活躍した12世紀後半~14世紀の間、女性が殺された例はなく、むしろ敵側でも保護・救済されている。
主な例を挙げると、
- 平家滅亡の決定打となった壇ノ浦の合戦(1185年)で平家の女性は入水自殺を試みたが、その多くは源氏側に救助され、近くの下関で余生を送っている。
※下関の赤間神宮の先帝祭は、彼女らが平家の命日に詣でた事が由来である。{出典 田端泰子著書『日本の中世4 女人、老人、こども』中央公論新社} - 建礼門院(平清盛の娘)すらも救助され、身分が判明すると、より丁重に扱われている。{出典 『平家物語』第十一巻「能登殿最期」}
- 鎌倉幕府最大の内紛である宝治合戦(1247年)では、首謀者(三浦泰村、光村、家村)の妻子は追跡・捕獲されたが、出家させられただけである。
その他、一族の妻子は一時的に鎌倉から退去処分を受けたが、半月後には三浦一族の未亡人らへの支援が決定し、幕府の平盛時が担当になっている。
{出典 『吾妻鑑』 宝治元年6月5~30日} - 鎌倉幕府滅亡時の北条一族の女性に至っては、居住地の本貫地(韮山)を安堵され、一門を弔う為の円成寺の建立も許され、さらに足利直義(幕府を滅ぼした側)から援助まで受けている。
- 個人の例でも、 木曽義仲の妾で女武者でもある巴御前は、敵将を討ち取った直後、甲冑を脱いで“女性の姿に戻った”為、敵中を安全に突破できており、その後も頼朝から処罰を受ける所か、彼のはからいで和田義盛の妻となっている。{出典 『平家物語』第九巻「木曽最期」、『源平盛衰記』第35巻「巴関東下向事」}
- 建仁の乱で、幕府軍を多数射殺した板額御前も、敗戦後は処罰を受けず、浅利義遠の妻として迎え入れられている。{出典 『吾妻鑑』建仁元年6月29日}
- さらに、源頼朝暗殺を企てた侍女・唐糸ですら、女性であった為に処刑されず、岩牢に数年幽閉された後、(娘の嘆願により)釈放されている。{出典 『唐糸草子』 幽閉された岩屋は「唐糸やぐら」の名で現存}
- また包囲戦中でも、女性は脱出の自由が保証されており、包囲側は、時には女輿や女房車に乗っているだけで女性と判断し、乗員の性別を確認せずに脱出を許可する事もあった。(鎌倉時代ではないが、保元の乱の時の二条天皇、以仁王の乱の以仁王、鎌倉末期の後醍醐天皇などは、女装したり女性用の車に乗る事で脱出に成功している)
- 鎌倉時代は、惣領制(長男一人が全て相続)が主流となっても女性の相続権は認められており{出典 『御成敗式目』 第19条 第23条}、武士の歴史上、最も女性が優遇され、大切にされた時代である。
(2)寛大な戦後処理
源平合戦期と鎌倉時代には、無用な大量殺戮が行われた例はない。
敗者側で処刑されるのは、惣領家(本家)の男子と遺恨のあった郎党だけである。
将来的に危険とされた惣領家の男児も処刑される事はあったが、他家預かりや他家への養子で済む事が多い。また、下人(徒歩で参戦する召使)は、元から処罰対象外である。
□平家に対する戦後処理の例
滅亡したというのは、史学上の表現に過ぎず、平家は滅亡していない。
処刑されたのは、惣領家(本家)で生き残った主な男子と遺恨があった郎党のみである。
惣領家の人間でも、平時忠や平頼盛や平宗実などは処刑されていない。
郎党も、遺恨のない者は殺されていないどころか、武藤資頼、飯富季貞、湯浅宗重、原田種直などは、源氏側に再雇用されている。
その他の支族も誅殺されておらず、平家の血筋は健在である。(戦国時代の織田信長も平家の血筋である)
□三浦氏に対する戦後処理の例
前述の「族滅編」で最大勢力であった三浦氏の場合、死因は全て「討死」「殉死」であり、戦後処理で死刑になった者はいない。
一族の妻子が追放され、縁者は罷免されただけである。
惣領家の幼い男児も殺されず、加藤尚景の監視下による養育の上、孫の代で「石井氏」を興している。
{出典 『吾妻鑑』 宝治元年6月5~30日}
□女性に対する戦後処理
女性の場合、惣領家の妻女は出家が原則である。
(平家の最上位の女性・建礼門院らは寂光院で、北条氏の最上位の女性・覚海円成らは円成寺で出家している)
その他、一族妻女は、処罰無しか、一時的な追放のみである。
(宝治合戦後、三浦一族の未亡人たちが一時的に鎌倉から追放されている{出典 『吾妻鏡』 宝治元年(1247)六月大二十五日})
それどころか、前述「女殺しの禁忌」の通り、敗者の未亡人に対して、勝者側が支援する例が多々見られる。
(3)清貧
藤原氏は金色堂を、室町幕府は金閣寺を、豊臣政権は聚楽第を、徳川幕府は日光東照宮など数々の豪華な建造物を建てたが、鎌倉時代にはこういった贅沢な建造は見られない。
最高権力を得た北条得宗家も質素であり、北条宣時が酒の肴を残り物の味噌で済ませた逸話は、江戸時代の「名君家訓(室鳩巣・著)」にも、武士の清貧の模範として紹介されている。
(4)戦の掟を厳守
敵味方で開戦時刻を決め(奇襲の時は省略)、開戦時には、大将が名乗りを上げ、鏑矢を放ち、鬨の声を上げるのが、戦争作法である。
名乗りには、大将の自己紹介、見継(戦功の証人となる役)を頼んだ仲間へのアピール等の役割があった。
(1180年の小坪合戦では、名乗りを上げた所、両軍に同郷の者が多い事が分かり、停戦している)
鎌倉後期に台頭し始めた作法を守らない悪党との戦いにおいても、鎌倉武士はこの作法を守り続けた事で知られる。
(悪党 = 簡潔にいうと朝廷・幕府に従わず、他領を侵犯する勢力。1333年の「四月三日合戦」に登場した頓宮又次郎入道親子は、自ら「山賊」と名乗っているように、武士ではない者も多い)
これは、幕府滅亡時、鎌倉幕府が少数の悪党勢力に手こずった原因の一つとして挙げられる。
具体例を挙げると、
- 1331年の笠置山の戦いでは、城内の悪党は名乗りを上げず、鏑矢も射返さなかった為、鎌倉武士は「留守だ」と誤解して矢の射程まで接近してしまい、大打撃を受けている。{出典 『太平記』笠置軍事付陶山小見山夜討事}
- 1333年の上赤坂城の戦いでは、名乗りを上げる鎌倉武士に対して、城内の悪党たちが笑いものにした例がみられる。{出典 『太平記』赤坂合戦事付人見本間抜懸}
(5)鎌倉武士の忠誠心
若干裏切り者の例もあるが、鎌倉時代の武士の忠誠心は高く、その中でも、北条仲時主従の自決は、武士の模範として代々語り継がれている。
1333年、六波羅探題から落ち延びた北条仲時は、行く手を敵に阻まれると432名の家人を気遣い、我が首を手土産に降伏するように命じ、その場で割腹して果てた。
この時、家人の糟屋宗秋は、
「宗秋こそ先自害して、冥途の御先をも仕らんと存候つるに、先立せ給ぬる事こそ口惜けれ。(中略)暫御待候へ。死出の山の御伴申候はん」
現代語訳「私こそ先に自決して、あの世の案内をするつもりでしたのに、先立たれるのは口惜しい事です。(中略)しばしお待ちを。死出の山へお供致します」
と、仲時の腹から抜いた短刀を自らの腹に刺して後を追った。その後も家人たちは続々と殉死し、仲時の首を手土産に降伏しようとする者はおらず、全員が殉死している。
彼らが自害した蓮華寺(滋賀県米原市)には、彼らを弔う五輪塔と、432人の内、姓名が確認できた189人の名を記した国指定書跡『陸波羅南北過去帳』がある。
また、宝治合戦では、わずか半日程度の戦闘後、当主の三浦泰村が自害すると、続いて一族郎党五百名が殉死している。{出典 『吾妻鏡』 宝治元年(1247)六月五日}
1333年の鎌倉幕府滅亡時においては、北条高時の為に、一族と家人五名が露払い(冥土の道案内の為に先に死ぬ事)を行い、高時自害直後は、一族郎党870人がその場で殉死し、それを後から伝え聞いた者たちも続々と殉死し、殉死者は6000を越えたといわれる。
高時の殉死者の数は誇張だと考えられるが、主人が死ぬ度に百人以上の殉死者が出るのは、鎌倉時代だけである。
※郎党には、家人(世襲で仕える”家の人”)と家来(”家に来る”自由契約者)の区別があり、家人は、主人と共に死ぬ事を喜びとした(これを「縁」という)為、主と共に殉死する事が非常に多かった。
(近世では、家人と家来は同意語となる)
(6)鎌倉武士の親子愛
鎌倉時代の「曽我兄弟の仇討」は、日本三大敵討ちの一つであり、江戸時代は武士の親孝行の模範として、能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵の題材となっている。
また、子に褒美を与えてもらう為に先駆けの討死(名誉死)を選んだ本間資貞と、褒美よりも父に殉じる道を選だ息子・資忠の逸話は、儒教には見られない日本独特の親子愛として知られる。
{出典 『太平記』赤坂合戦事付人見本間抜懸}
鎌倉時代は、塩飽聖遠、塩田国時、北条基時のように、まるで父が子に殉ずるかのような自決の例が多くみられる。
(7)鎌倉武士の文武両道
1331年、討幕計画の疑いで、藤原為明が捕らえられた。
しかし、為明の供述書を見た鎌倉の使者は、涙を流して非礼を恥じ、彼を釈放した。
供述書に記されていたのは、たった一首の和歌だった。
「思いきや 我が敷島の 道ならで 浮き世の事を 問はるべしとは」
現代語訳「思わぬ事だ。和歌の道ではなく、俗世の事(陰謀)を私に問おうとは」
これは武骨な坂東武者ですら、歌道に通じていた事を物語る逸話である。
{出典『太平記』僧徒六波羅召捕事付為明詠歌の事}
鎌倉幕府三代将軍の源実朝も歌人として知られ、彼の和歌は今も広く読まれ続けている。
(小倉百人一首の93番目が、彼の和歌)
また、辞世の句が一般の武士に普及し始めたのも、鎌倉時代である。
前述の「鎌倉武士の親子愛」で記した本間資貞の息子・資忠は、父の討死を知ると、後を追うべく敵の城内へ突入し、父が倒れた同じ場所で自決した。
後日、彼が出陣前に鳥居の柱に書きつけた辞世の句が発見された。
「待てしばし 子を思ふ闇に 迷ふらん 六の街の 道しるべせん」
現代語訳「しばし、お待ち下さい。子供を思うあまり、黄泉路に迷っておられる事でしょう。私が、六道(輪廻転生先)の道しるべとなりましょう」
本間親子は、所領を持たない無足の御家人であり、親子二人だけで参戦していた。
鎌倉武士は、そんな貧しく地位の低い身であっても、読み書きができたのである。
(同時代の西洋では、諸侯ですら多くが文盲であった事を考えれば、これは驚異である)
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