鎌倉武士あだ名・蛮族エピソード集動画

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鎌倉武士あだ名蛮族エピソード集とは、5chなんでも実況J掲示板スレッド鎌倉武士「あ、あいつ俺んちの門横切った、弓で射殺したろ!!exit』から抜き出された鎌倉武士に関するエピソードまとめ動画である。

youtubeにも同じ動画投稿されている。

元となったスレッドの内容には明らかに時代を取り違えているものなど疑問・違和感を覚えるものも多くあるのだが、動画ではそれらも特に注意など入れずに取り込んでしまい、さらに動画による面さ優先の言い回しが加わっているため、視聴する側で注意する必要がある。

動画中で言及された仇名など

動画の検証

動画の内容は、鎌倉武士蛮族あつかいし、鎌倉時代を野蛮な時代として扱っているが、そのほとんどは根拠が不明だったり、資料を読み違えたりしている。

動画切り抜き元となったなんJスレッド鎌倉武士「あ、あいつ俺んちの門横切った、弓で射殺したろ!!」exit 』に書き込まれたエピソード検証する。記事の構成上、できれば先に動画内容とスレッドを確認してほしい。

蛮族説・文化編1

鎌倉武士は、馬小屋の隅に生首を絶やさず、首を切って懸けていた。
また、屋敷の門外を通る修行者がいたら鏑矢で追い立て追物者にしていた。

 真実 

上に書いた通り、創作物の『男三郎絵詞』からの引用であり、架の人物の架の話。
上記の文は、物語悪役三郎台詞であり、鎌倉武士文化ではない。
また、「鏑矢(非殺傷の矢)で追い立て」の部分が、「通行人を的にして殺せ」と改竄して紹介されている事が多い。

蛮族説・文化編2

里見氏は、元と同時に兄弟を皆殺しにする習慣があった。

 真実 

作り話。
念の為、里見氏と新田氏(里見氏の宗筋)の研究の第一人者であり、現・国立歴史民俗博物館教授田中大喜先生に確認を取った所、

「里見氏に限らず、鎌倉時代の武社会で「嫡子が元すると幼い男児を皆殺しにする習慣があった」ということはありえません」という回答を頂きました。

田中大喜教授の連絡先

https://www.rekihaku.ac.jp/research/researcher/tanaka_hiroki/

蛮族説・文化編3

鎌倉時代は、農民による略奪や落ち武者狩りが盛んだった。


 真実 

在り得ない話。
もともと日本には、「農」という農民の共同体すらなく、これが形成され始めたのは鎌倉後期(12世紀)から。(惣の発生)
この「農」の武装化が進み、落ち武者狩りが盛んになったのは、室町中期(15世紀半ば)以降である。

蛮族説・悪行編1

「(陸奥壬生良門)矢を以て暮の翫として人を罰し、畜生を殺すを以て業とす。は河に行てを捕り、は山に交はりて鹿を狩る」

現代語訳「陸奥壬生良門は、矢を常に持ち歩いて人を倒し、を殺して生計を立てていた。を捕り、には山で鹿を狩る」

 真実 

鎌倉武士とは関係の人の話。
『今昔物語集14巻10 悪人に昇る』からの引用
元ネタは『法験記』などの仏法説話。架の人物であり、そもそも壬生良門は武士ですらない。

そして、なぜか、「鹿を狩る」の部分が「人を狩る」に改ざんされている事が多い。

蛮族説・悪行編2

「(讃岐多度大夫)心極めて猛くして殺生を以、業とす。 日暮に山野に行て鹿狩り、河に臨てを捕る。、人の頸を切り、足手を折らざる日は少なくこそありけれ」

現代語訳「讃岐多度大夫は、乱暴者でを殺して生計を立てる。日鹿狩りを捕る。また、人(来)の首もるし、手足を折る事もあった」

 真実 

鎌倉武士とは関係。
『今昔物語 巻十九第十四 讃岐多度五位聞法即出語』からの引用
仏法説であり、架の話。
極悪人大夫がに帰依して改心する話で、鎌倉時代浄土宗系にを与えた物語
舞台鎌倉時代ではない。
大夫も、苗字も忌み名もない為、武士創成期前の族をモデルにしていると思われる。

蛮族説・元寇編1

元寇の際、鎌倉武士博多を守るどころか、略奪し焦土に化した。

 真実 

根拠不明の作り話。
八幡古記』に、防戦していた筥崎宮(神社)が、なぜか出火したという記録のみ存在。

蛮族説・元寇編2

元軍は、捕虜の手にを開けてに並べてにしたが、鎌倉武士は捕虜もろとも殺した。

 真実 

作り話(どっかの漫画に載ってた話が元ネタとも?)。
日蓮の『一御書』の「手ヲトヲシテニ結付」の記述を「元軍は、手にを開けて紐を通してに連行した」と解釈する説があるが、鎌倉武士が捕虜もろとも射殺したという記録はない。

蛮族説・元寇編3

鎌倉武士は元軍3万の捕虜を皆殺しにした。

 真実 

な限り助命している。

①元史には、古、高麗人は処刑され、新附軍(南人)は下人)として生かされたとある。(捕虜の何三は日本で富となり、寺の文化財・大般若六百巻の補修事業を行なっている)

高麗史には、高麗人の技者は生かされたとある。

③さらに、11年後に来日した使・金有成は、処刑されたはずの高麗人の捕虜がみな生きている事を知り、改めて高麗から謝意の書が送られている。{出典『高麗史 列伝 金成伝』}

当時の日本の人口は500万程度。そこに3万もの捕虜を抱えた。フビライは再遠征を計画していた為、捕虜返還(戦力返還)はできず、収容所もなく、捕虜が起する危険もあった。また、3万人の衣食住を維持するのは困難である。にも関わらず、可な限り助命していたのである。

蛮族説・元寇編4

勧告に失敗した良弼が、皇帝に送った報告書

『臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、子の(孝行)、上下の礼を知りません

その地は山が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません』

 真実 

彼が滞在した太宰府は、南交易で繁栄しており、既に唐房(チャイナタウンまで存在していた。
特に輸出品の硫黄は、火兵器の原料として、南側が日本依存している状態であった。
対し、南と敵対する元は、日本から安価硫黄を供給する事ができずにいた。
元寇の原因の一つは、この硫黄の入手であり、日本を征しても利益がないなどという良弼のは、当時の現状とかけ離れたものである。

出典{服部英雄 著書 『蒙古襲来と神』 中新書11~18

また、山が多くて田畑を耕す利がないとあるが、太宰府の西南の筑後平野菊池は一大穀倉地帯であり、今もなお、穀倉地帯である。
当時は、ここを支配する菊池一族が富を得て栄えていた。

親孝行や上下の礼を知らないとあるが、
武士団は、当)を筆頭にの子(子)からなる惣領と、その分によって構成されており、
は当として子に崇められ、惣領と分の間には、厳しい上下の礼があった。

もし、異人のから見て、日本人親孝行も上下の礼も知らないと映ったならば、唐房(チャイナタウン)の人々も同様の評を残しているはずであるが、彼の報告書以外にこのような評は見当たらない。

蛮族説・法律編1

鎌倉武士の蛮行を取り締まる為に『御成敗式』が制定された。

 真実 

これは武士の蛮行を取り締まる法ではなく、幕府支配下の全ての身分の人に課された法である。
当時、明文法は古代しかなかった為、承久の乱以降の土地問題に体を置きつつ、不文の慣習法を明文化したものである。

蛮族説・法律編2

鎌倉武士は、女子拉致しまくっていた。その拠に『御成敗式』で女性拉致が禁じられている。

 真実 

室町時代の「ものぐさ太郎」の話に「取婚(誘拐婚)」の話がでる為、鎌倉時代にも取婚があった可性はあるが、幕府支配下の全ての身分に課された法であり、鎌倉武士拉致の常習犯だったという根拠にはなり得ない。
そして、殺人拉致強姦等の禁止は、どこの法律でも禁じられている事である。

なお、女子に限定している点を挙げ、女子誘拐が多かったとの摘があるが、少年への拉致強姦も古くから存在するにも関わらず、多くので、これを禁ずる法はなかった。
日本で初めて少年12歳以下)への強姦が禁じられたのは、1880年(明治13年(旧刑法347条))。
日本で初めて男性(成人)への強姦が禁じられたのは、2017年刑法177条の改正時である。
(イギリスでは、1994年の法改正により、男性による男の強は刑事罰となったが、女性による男性への強姦はいまだ合法である)

蛮族説・暴君編1

源頼朝は、褒美に「美濃・尾」を与えるといって部下をだまし、「身の・終わり」を与えると言って死刑にした。

 真実 

長田子の地元に伝わる、単なる伝説
正史吾妻鑑)では、長田子は頼朝に仕えておらず、治承四年十月十四日に頼朝軍に敗れて討死している。
上記の伝説が生まれた原因は、長田子が源頼朝源義朝裏切り、だまし討ちにした事が原因。

蛮族説・暴君編2

頼朝は、大軍を率いて味方にきた上総広常の領土を奪う為に、謀反濡れ衣を着せて誅殺した。

 真実 

広常を失う事は、大戦力を失う事に繋がる。
もし、領土欲しさの誅殺ならば、先に広常の戦力で平家討伐してから行うべきである。

広常が疑われた原因として、彼の「下乗下の礼」すら守らない不遜な言動の数々が上げられる。
{出典『吾妻鏡』治承五年(1181)六月小十九日}

が、最も有力とされる“本当の誅殺理由”は、彼が朝廷に従わず、大逆人・平将門のように関東独立を望んでいた為である。
頼朝自身も「謀反心ノ者ニテシカバ。カカル者ヲ郎従ニモチテハバ。頼朝マデハジト思ヒテ(朝廷への反逆心を持つ者を従える事は、頼朝の恥と思った)」と、後白河法皇に報告している。
{出典 『愚管抄』第六}

学者が異説を唱えるのは自由だが、「領土欲しさ」などという非合理な説を唱える史学者はいない。

蛮族説・忘恩編

源頼朝ら一族は、平家に助命してもらったに、恩を忘れて挙兵して平家を滅ぼした。

 真実 

源氏の一斉挙兵は、以仁王旨が原因。旨は天皇の論旨に次ぐ命書。

蛮族説・謀反編

鎌倉幕府は、天皇に逆らって承久の乱を起こし、ボコボコにした。

 真実 

承久の乱を起こしたのは後鳥羽上皇であり、これは幕府の自衛戦争。幕府側は上皇を傷付ける気はなく、北条義時は、

「賢くも問へる男をのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向かひを引くことは、いかがあらん。さばかりの時は、を脱ぎの弦つるを切りて、ひとへに畏りを申まうして、身を任せ奉るべし」

と、上皇自ら討伐に来るなら降せよと命じている。{出典 『増』 二巻 新島守}さらに、戦後上皇の「部下が勝手にやった。は知らん」という言い訳を認め、配流に留めている。

蛮族説・骨肉編

鎌倉武士は、保元の乱鎌倉時代ではないが)や幕府創設期に、同士で争い殺し合っている。

 真実 

世界史と、日本戦国時代較すれば、はるかにましである。

日本戦国時代は、
戦国三傑も、徳川家康は嫡子・信康を切腹させ、織田信長・信行を殺し、豊臣秀吉は甥・秀次とその妻子39名を処刑している。
北陸英雄上杉謙信)と戦い、督を譲っただけでなく、殺されたという説があり、
東海英雄今川義元は、倉の乱で玄広恵探自害させ、
東北英雄伊達政宗は、を擁立する殺されかけ、
信長美濃を統一した斉藤三は、息子の義に敗れて戦死し、
北九州英雄大友宗麟を殺し、戦闘に巻き込まれたを死なせている。
戦国最強と呼ばれる武田信玄は、・信虎を追放し、息子・義信を切腹させた。
推定で、鎌倉時代の数十倍は争いが起きている。


また、世界史を向ければ、内戦の半分は「争い」である。
古代オリエントでは、先王が死去する度に、兄弟戦争が起きた為、中世オリエントを支配者したオスマン帝国は、対策として、嫡男の王位継承と同時に、兄弟を皆殺しにする掟を定めた。(また妊娠している先王のは、生きたまま袋に詰めてに沈められた)

ローマに支配される以前のエジプトプトレマイオス)も、王位を巡る身内争いは多く、クレオパトラと戦って殺され、彼女自身も、と戦ってを死なせている。
そして、ローマ帝国も身内間の暗殺が多く、歴代皇帝の七割が暗殺・死刑・不審死している。

李氏朝鮮でも、「王子の乱」等の身内争いが頻繁に起きている。
中国史においては、大抵の歴代王で起きている事である。

それらに較して、鎌倉武士争いは、頻度も規模も小さく、連座(連帯処刑)も少なく、はるかに穏健である。

蛮族説・族滅編

鎌倉幕府は内ゲバで、仲間だったはずの梶原氏、和田氏、畠山氏、三浦氏、安達氏(氏)、企氏、名越氏を族滅した。

 真実 

落しただけであり、滅んでいない。
敗れたな首謀者が戦死・殉死・死刑となったが、その後も存続している。

梶原氏は、落後も多数の分日本各地で栄えている。

和田氏は、和田の乱で首謀者(和田義盛)らは討死・処罰を受けたが、関係の(義茂・宗実ら)一族は存命である。(義盛のの義胤に至っては、北条側についている)

畠山氏は、畠山の変で首謀者(畠山重忠)らは討死・処罰を受けたが、関係の(重清、重宗)の一族は存命であり、本家は復され、室町時代には三管領の一つにまでなっている。

三浦氏は、宝治合戦で、本家の首謀者が討死・自害したが、絶えてはおらず、孫の三浦義継の代で石井氏を名乗り本家三浦氏の名跡は分が継いでいる。

安達氏は、霜月騒動で一時は落したものの、間もなく地位を回復している。鎌倉幕府最後の執権北条高時安達氏である。

企氏は、当比企能員武士を止めて妙本寺の僧侶になり、幼い男児は和田義盛の預かりの下で配流となった為、一時断絶。しかし、例のごとく多くの一族は健在であり、の時員の子孫が後に本貫地に戻って復している。

名越氏は、1272年の二月騒動で討伐を受け、当らが死亡。後に冤罪と分かり、その後も普通に存続。

(後述の「実際の鎌倉武士像」の「寛大な戦後処理」項の通り、当時は、敗れても一部の首謀者が処罰されるだけである為、一族自体が滅びるなどあり得ない)

史書・軍記物語での鎌倉武士像

以下は、インターネットミームによらない、史料・軍記物語に基づく鎌倉武士像である。

文献が必ずしも真実だけを記しているとは限らない。が、少なくとも、なぜ、鎌倉武士が長らく『武士の模範』とされてきたか、理解するすべにはなるだろう。

(1)女殺しの禁忌

鎌倉武士の美徳の一つに、女殺しの禁忌が上げられる。

源平合戦(1180年)以前、平治の乱1159年)の三条殿夜襲の際、乱戦に巻き込まれた女性殿上人らが殺され、火災から逃れるべく井戸に飛び込んだ官女らが溺死し、信西と間違えられた女童らがられる事件が起きた。女性が殺されたのは、後三年の役1083年)以来、76年ぶりの出来事である。

が、これ以降、女性が殺される例は皆無である。

平家滅亡時(1185年)も、鎌倉幕府(北条得宗)滅亡時(1333年)も、敗者側の女性一人として殺されていない。
鎌倉武士が活躍した12世紀後半~14世紀の間、女性が殺された例はなく、むしろ敵側でも保護・救済されている。
な例を挙げると、


(2)寛大な戦後処理

源平合戦期と鎌倉時代には、用な大量殺戮が行われた例はない。
敗者側で処刑されるのは、惣領本家)の男子と遺恨のあった郎党だけである。
将来的に危険とされた惣領の男児も処刑される事はあったが、他預かりや他への養子で済む事が多い。また、下人(徒歩で参戦する召使)は、元から処罰対外である。


□平家に対する戦後処理の例

滅亡したというのは、史学上の表現に過ぎず、平家は滅亡していない。
処刑されたのは、惣領本家)で生き残った男子と遺恨があった郎党のみである。
惣領人間でも、平時忠平頼盛宗実などは処刑されていない。
郎党も、遺恨のない者は殺されていないどころか、武藤資頼、飯富季貞、湯浅宗重、原田種直などは、源氏側に再雇用されている。
その他の支族も誅殺されておらず、平家の血筋は健在である。(戦国時代織田信長平家の血筋である)


□三浦氏に対する戦後処理の例

前述の「族滅編」で最大勢力であった三浦氏の場合、死因は全て「討死」「殉死」であり、戦後処理で死刑になった者はいない。
一族の妻子が追放され、縁者は罷免されただけである。
惣領の幼い男児も殺されず、加藤の監視下による養育の上、孫の代で「石井氏」をしている。
{出典 『吾妻鑑』 宝治元年6月5~30日}


□女性に対する戦後処理

女性の場合、惣領の妻女は出が原則である。
(平の最上位の女性・建礼門院らは光院で、北条の最上位の女性・海円成らは円成寺で家している)
その他、一族妻女は、処罰しか、一時的な追放のみである。
(宝治合戦、三浦一族の未亡人たちが一時的に鎌倉から追放されている{出典 『吾妻鏡』 宝治元年(1247)六月大二十五日})
それどころか、前述「女殺しの禁忌」の通り、敗者の未亡人に対して、勝者側が支援する例が多々見られる。


(3)清貧

藤原氏は金色堂を、室町幕府金閣寺を、豊臣政権は聚楽第を、徳幕府は日光東照宮など数々の建造物を建てたが、鎌倉時代にはこういった贅沢な建造は見られない。
最高権力を得た北条得宗も質素であり、北条宣時が残り物味噌で済ませた逸話は、江戸時代の「名君訓(室巣・著)」にも、武士の清貧の模範として紹介されている。


(4)戦の掟を厳守

敵味方で開戦時刻を決め(奇襲の時は省略)、開戦時には、大将名乗りを上げ、鏑矢を放ち、鬨のを上げるのが、戦争作法である。
名乗りには、大将自己紹介、見継(戦功の人となる役)を頼んだ仲間へのアピール等の役割があった。
1180年の小合戦では、名乗りを上げた所、両軍に同郷の者が多い事が分かり、停戦している)

鎌倉後期に台頭し始めた作法を守らない悪党との戦いにおいても、鎌倉武士はこの作法を守り続けた事で知られる。
悪党 = 簡潔にいうと朝廷・幕府に従わず、他領を侵犯する勢力。1333年の「四月三日合戦」に登場した頓宮又次郎子は、自ら「山賊」と名乗っているように、武士ではない者も多い)

これは、幕府滅亡時、鎌倉幕府が少数の悪党勢力に手こずった原因の一つとして挙げられる。
具体例を挙げると、

(5)鎌倉武士の忠誠心

若干裏切り者の例もあるが、鎌倉時代武士の忠心は高く、その中でも、北条仲時従の自決は、武士の模範として代々語り継がれている。

1333年、六波羅探題から落ち延びた北条仲時は、行く手を敵に阻まれると432名の人を気遣い、が首を手土産に降するように命じ、その場で割して果てた。
この時、人の糟屋宗は、

「宗こそ先自害して、途の御先をも仕らんと存つるに、先立せ給ぬる事こそ口惜けれ。(中略)暫御待へ。死出の山の御伴申はん」
現代語訳「私こそ先に自決して、あの世の案内をするつもりでしたのに、先立たれるのは口惜しい事です。(中略)しばしお待ちを。死出の山へお供致します」

と、仲時のから抜いた短刀を自らのに刺して後を追った。その後も人たちは続々と殉死し、仲時の首を手土産に降しようとする者はおらず、全員が殉死している。
彼らが自害した蓮華寺(滋賀県米原市)には、彼らを弔う五輪と、432人の内、姓名が確認できた189人の名を記した定書跡『陸波羅南北過去帳』がある。

また、宝治合戦では、わずか半日程度の戦闘後、当三浦泰村自害すると、続いて一族郎党五名が殉死している。{出典 『吾妻鏡』 宝治元年(1247)六月五日}

1333年の鎌倉幕府滅亡時においては、北条高時の為に、一族と人五名が露払い(土の案内の為に先に死ぬ事)を行い、高時自害直後は、一族郎党870人がその場で殉死し、それを後から伝え聞いた者たちも続々と殉死し、殉死者は6000を越えたといわれる。
高時の殉死者の数は誇だと考えられるが、人が死ぬ度に人以上の殉死者が出るのは、鎌倉時代だけである。

※郎党には、人(世襲で仕える”の人”)と来(”に来る”自由契約者)の区別があり、人は、人と共に死ぬ事を喜びとした(これを「縁」という)為、と共に殉死する事が非常に多かった。
(近世では家人家来は同意語となる)


(6)鎌倉武士の親子愛

鎌倉時代の「曽我兄弟討」は、日本三大敵討ちの一つであり、江戸時代武士親孝行の模範として、浄瑠璃歌舞伎浮世絵の題材となっている。

また、子に褒美を与えてもらう為に先駆けの討死(名誉死)を選んだ本間資貞と、褒美よりもに殉じるを選だ息子・資忠の逸話は、儒教には見られない日本独特のとして知られる。
{出典 『太平』赤坂合戦事付人見本間抜懸}

鎌倉時代は、遠、塩田時、北条基時のように、まるでが子に殉ずるかのような自決の例が多くみられる。

(7)鎌倉武士の文武両道

1331年、討幕計画の疑いで、藤原為明が捕らえられた。
しかし、為明の供述書を見た鎌倉の使者は、を流して非礼を恥じ、彼を釈放した。
供述書に記されていたのは、たった一首の和歌だった。

「思いきや が敷の ならで 浮き世の事を 問はるべしとは」
現代語訳「思わぬ事だ。和歌のではなく、俗世の事(陰謀)を私に問おうとは」

これは武坂東武者ですら、歌に通じていた事を物語る逸話である。
{出典『太平記』僧徒六波羅召捕事付為明詠歌の事}

鎌倉幕府三代将軍の源実朝歌人として知られ、彼の和歌は今も広く読まれ続けている。
(小倉百人一首の93目が、彼の和歌)

また、辞世の句が一般の武士に普及し始めたのも、鎌倉時代である。
前述の「鎌倉武士」で記した本間資貞の息子・資忠は、の討死を知ると、後を追うべく敵の内へ突入し、が倒れた同じ場所で自決した。
後日、彼が出前に鳥居の柱に書きつけた辞世の句が発見された。

「待てしばし 子を思ふ闇に 迷ふらん 六のしるべせん」
現代語訳「しばし、お待ち下さい。子供を思うあまり、黄泉路に迷っておられる事でしょう。私が、六道輪廻転生先)のしるべとなりましょう」

本間子は、所領を持たない足の御家人であり、子二人だけで参戦していた。
鎌倉武士は、そんな貧しく地位の低い身であっても、読み書きができたのである。
(同時代の西洋では、諸侯ですら多くが文盲であった事を考えれば、これは驚異である)

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