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暗君単語

アンクン

暗君とは、君・統治者のうち「的に優れていない」または「政を顧みない」タイプの人のこと。
ニコニコではダメ君が有名か。対義は名君。

暗君が生まれる理由

一般に君主制の長所としては「幼少期から導者に帝王学を学ばせられる」「絶対的な権を集中させることで効率の良い統治が行える」または逆に「権が分散していても権威だけあれば代理人でも正当性が認められる」点にある。

しかし、帝王学が時代とそぐわなくなる、絶対的権が振るえない状況となる、権の分散のしすぎ、そもそも本人に君たる資質がないにも関わらず血筋だけで君とせざるを得ないなどの状況に陥ると、必ずしも本人に責がなくても「暗君」と評されやすい。

また、当然のことながら、その国家や一族を滅ぼしたあるいは滅ぼす結果を招いた人物は、よほど努した事跡や詰みであった情勢が知られていなければ暗君として片づけられる傾向にある。徳がない君を打倒することを認める易姓革命的な歴史観がある中国では「が滅んだ = 君暗君であったから」という志向はなお強い。

一般に暴力的な行動を取って悪政を敷いた君は「暴君」と言われ、曖昧ながらも区別がある。暗君とはあくまで「何かをやったこと」より的な統治の低さを問題にされる君である。ただし、東の安のような障児や阿蘇惟光のような幼君の場合は歴史的に非難されることは少ない。

暗君の称号(中国編)

 皇帝が亡くなると、臣下は皇帝の生前の行状に基づいて、死んだ皇帝に諡を贈った。武帝とか文というのは死後につけられた名称なので、小説を書く場合には生きている皇帝を諡で呼ばないよう注意する必要がある。
 諡には上・中・下の区分があり、暴君暗君だった場合には「戻」「厲」「霊」「」「野」「煬」「」「夷」といった悪諡が送られる事になっていた。が、どんなに悪い皇帝でも悪諡が贈られない一方で、対立者や都合が悪い皇帝には悪諡が贈られる(隋の煬帝)など中立的とは言い難く、唐代以降になると駄に長くなっていたので号や元号で呼ばれるのが一般的になる。
 悪諡が贈られるのはまだいいほうで、されたりすると皇帝から諸侯に降格される、即位そのものを否定されるケースがあった。
 更に「」という言葉には「バカ」という意味があるので、諸侯名につけるといったケースもあった。つまり、バカ○○ということである。「侯」「東侯」などがあるが、徽宗・宗親子がに降った際には皇帝された上で「」「重侯」に封じられている。こんな地名があってたまるか。
 

中国の有名な暗君

王】
西周最期の君。寵妃である褒姒を笑わせるために、諸侯の軍を参集させる烽火を乱用。結果、本当に異民族の侵攻があったにも関わらずも助けに来なくなるという、イソップ童話(オオカミ少年)を地で行く逸話を残す。
王莽
最初にして最後の君前漢を簒奪して新を創設したはいいが、前漢の関係者に一代で滅ぼされて結果的には簒奪失敗という形になった。奸臣の代表として上げられることが多いが、一応は位についたので暗君の項に。
王莽の治世が短命に終わった理由としては、いくら高邁な理想を抱いても否定できない現実があり、従って理想をいかに現実にすり寄らせるのが重要で大変なのにも関わらず、現実視して儒教至上義を強行したという点である。結果、内が大混乱に陥ってしまい反乱が発生、滅ぼされることとなった。現代では王莽の施策は革新的なものだったと評価するもある。成功していたら始皇帝曹操並の評価になっていたかもしれないが、現実には失敗しているので、否定的に評価せざるをえない。また、実像よりも貶められているが歴史なんていうのは「正義が勝つ」ではなく「敗者が悪」なので仕方がないのかもしれない。
ちなみに「嘉量」につけた銘文が神崎蘭子熊本弁になっている等、いくつかのエピソードから実は中二病にかかっていたのではないかという形跡が見られる。
劉禅
最後の君。その幼名「阿斗」が中国ではどうしようもない人物をす言葉になるほどの人気のなさ。日本においては「在位40年は歴代皇帝トップクラス」「そもそも無理ゲー」という評価が強く、彼の記事を見ても分かる様にその評価をどうするか考えることは三国志ファンが必ず通るである。
【恵
西の二代。あの司馬懿の子孫で司馬炎息子とは思えないほどの暗君マリーアントワネットより千五年前に「穀物がないのならばを食べればいいではないか」という言葉を吐いたという。西が短命王で終わったことや、異民族時代である五胡十六国時代の遠因となった人物。ただし、司馬炎も統一後には堕落、が皇族を抑圧した事によって簡単に簒奪できた教訓から、では皇族の権を強めてしまい、統率に優れた皇帝が治めなければ分裂してしまう体制にしてしまったことも考慮に入れる必要がある。ココらへんは明も同じか。
なお、恵は幼少時から発達障害の兆を示していたらしく(言動が頓なのはそのため)、重臣達からは即位に反対のが上がっていた。そんな皇太子されなかったのは賈南風を代表する賈の支持(圧)があったことと、恵の子(孫)が利発だったのでその才皇帝が期待していたからである。しかしそれは大失敗であり、後に同じ失敗を後の慕容垂もやらかしている。
嵆紹の逸話があるのがある意味で救い。
【蕭宝巻】
斉の第6代皇帝。内向的性格で、幼馴染の寵妃のためにな後宮工事を施す。反乱のさなか、衛兵に殺され首を蝋で固められて反乱勢の手土産にされるという屈辱的な最期を迎える。死後、諸侯に落とされ「愚かな東の侯」という意味での号を与えられた。
【宣(北周)】
北周の四代目皇帝。名君であった父親から資質を疑われて体罰を含めたスパルタ教育を受けたが、それが却って人格をませたそうで、父親が死んだ時には「死ねばよかったのに」とボヤいたそうである。即位すると名将であった叔父など、有能臣を相次いで粛清政治を顧みずに遊び惚けたことから皇后父親である楊堅の台頭を招き、その死後に北周は滅ぼされることとなる。南北の最後を飾る三バカトリオの1人であるが、逸話が刑を加える時に色々な理由をつけて殴打数を二倍した、程度しかないのが残念なところである。
【後(高緯)】
斉の第5代皇帝奸臣を近づけ忠臣を退けた典的な暗君。次々に土を失う中にあっても「まだ一生遊ぶには十分な土がある」という奸臣の甘言(?)に納得してしまい、結果自分も含めた一族皆殺しの結果を招く。
【後(陳叔宝)】
陳の最期の皇帝。隋軍に宮廷を包囲された際も逃げ隠れするなどの醜態をさらす。亡を招いたことやその過程で妃が殺されたにも関わらず、何ら恥じる様子もなく連行先の長安で楊堅に仕えた。あまりの情けなさに殺されることもなく寿を全うすることができたという。
【徽宗 (佶)】
7代皇帝にして、水滸伝諸悪の根源。文人・画人としては中国史においてトップクラスに入る才人であったが、庭園を造るために南方から奇岩・大石を多大な労を費やして運ばせる(おかげで楊志が地を見ることになる)、趣味人ではあったが倫理に問題があった童貫・蔡らを起用して、自身の趣味と贅沢のために重税を課して民を苦しめる、などといった所行を行う。ある意味オタクに権を持たせたらこうなったという好例かも知れない。
それだけならまだなんとかなったのかも知れないが、時は北方中華の領地であるべき地を占領していたに取って代わられる時代であり、と同盟して旧地を奪還しようとしたもののの軍隊が予想以上に弱すぎて失敗。に助けてもらったせいで、予想していた成果が得られなかったことからの残存勢と協してを攻撃しようとするが明るみに出てしまい、背信に激怒した侵略を開始。たちどころに首都開封は陥落。北は滅亡し、徽宗は息子宗ともども北方に連れ去られて、生涯を閉じることとなった。
は伝統的に文官の権が強く、軍事が弱かったのだが、それを考えても酷い。
万暦帝 (朱鈞)】
明王朝14代皇帝。10歳で即位した時には名臣である居正の摂政によって安定した治世を送るが、居正が亡くなって親政を開始するや否や政治を放棄。25年間も政治もせずに後宮に引きこもってニートしていたというのはインパクトとしてはかなり強い。
明は皇帝の独裁権が非常に強いため、有能な人物が皇帝になれば効率良く回るが、無能な人物が位につけばも当てられない状態になってしまう。政界も儒教的な理想論を振りかざす連中と、現実的な政治を行う連中とで対立してしまい、居正ほどの名臣が現われることはなかった。一収拾をつけることができた皇帝政治関心で奢侈と貯蓄に明け暮れていたのだから、どれだけ政治混乱していたのかはいうまでもない。
国家財政を回復するべく重税に重税を重ねて民間が疲弊し、反乱が続出したのはもちろんの事、秀吉朝鮮遠征にがいって、ヌルハチの勃を見逃したことが明王朝の滅亡へとつながってしまう。このため正史の「明史」では「明は万において滅びる」と酷評している。

世界史での有名な暗君

ジョン欠地王
説明不要、もはや阿斗と並んで暗君二つ名とすら思える暗君ジョン失地王とも。あまりの人気のなさにこの王以降、ジョンの名は王の名として憚れているとされるほど(実際は王族ではしい訳ではないのだが)。近年ではリヴァプール港の整備や軍の育成など、再評価する向きもある。なによりも前代の王がライオンハートことリチャード1世なため、較されると同時にそのツケを支払わされたという面もある。なにしろのせいで十字軍軍事費&の身代という大な出費を抱えた状態で即位したのだから。
アンゲロス王皇帝全員
東ローマ帝国の王。一部の皇帝ではなく、初代イサキオス2世から全ての皇帝暗君という希有な王奢、売官、反乱、略奪、暴政、ビザンチン外交を地で行く浅はかな陰謀etc…。あまりのことに5代19年の短命王で終了する。Wikipediaにすら「歴代皇帝全員無能」と書かれ、コーエーの往年のゲーム蒼き狼と白き牝鹿・元秘史」ではアンゲロブラザーズ」と呼ばれ、ジョン欠地王とならび全員ネタ人物である。
コンスタンティノス11世】
東ローマ帝国最期の皇帝。ただし、彼が即位した時点では情勢はほぼ詰みであったこと、にも関わらず外交・戦闘面でイスラームを相手に奮戦したことから現在世界史的な評価では暗君とはされていない。最後は演説の後にオスマン軍に突撃して姿を消したため、人として考える人や「いつか復活して帝国を復活させる」と考える人も。
輩はである」で日本語で愚図な人物をす「オタンチン」と掛けた罵倒が作られた程度。
【ルイ16世
ブルボン朝の王。フランス革命を招き、王を滅ぼした上で自らはギロチンにかけられるという最期を遂げた。ただし、革に手を付けようと三部会を招集したことがフランス革命の遠因であるように、必ずしも暗君とは言い難い事跡は存在する。上記のコンスタンティノス11世と並び時代が悪すぎ、遅すぎの典的な君
ルートヴィヒ2世
バイエルン第四代王。女嫌いで生涯独身を通し、神話芸術世界に生きた夢想というテンプレ的浪費。通称「狂王」。位された挙句不可解な状況で死するが、精異常者だったとも、位の口実としてそのような鑑定がされたともいう。ワーグナー支援し、バイロイト祝祭劇場の建築費やニーベルングの指環の上演に出資した。彼の建築したノイシュバンシュタイは、同時代においてはただの楽でしかなかったが、その後重な観光として地域経済に貢献している。

日本史、戦国までの有名な暗君

後白河天皇
同時代の人間からは「和類少なき暗」と揶揄されたという。現在では・義仲・頼と互に渡りあった権謀術数に長けた天皇という評価が強く、結果的に安時代から続いた摂関政治トドメをさした人物とも言われている。当代の評価と現代の評価が食い違う典例。頼に「日本国第一の大天狗」と言わしめたあたり、ただの暗君ではないのだろう。
藤原泰衡】
奥州藤原氏最期の当。頼に怯えて、匿っていた義経と自身の兄弟を殺。それでも頼の侵攻を防げずに亡。最期は命乞いをした挙句に逃亡先で臣に暗殺される。まさに暗君役満的立ち回りだが、滅亡の時点で情勢的には詰みだろう。
【北条高時】
鎌倉幕府第14代執権。闘や田楽に政治を顧みず、皇室を軽んじた上で新田義貞や足利尊氏らの反乱を招き最期は自害したとされる。もっとも、当代の記録では「病気がち」とされており、また遊好きはの悪癖であったとされることからこの評価は疑わしいとされる。
後醍醐天皇
上記人物を打倒し、建武の新政を行うも武士たちの反感を買い騒乱の時代へ突入。日本史上前代未聞の二人の天皇が併存するという南北朝時代を招く。ただし、太平記英雄扱いされている楠木正成の評価が上がる分、彼を使いこなせなかった君が中傷されたという側面は存在する。明治以降は南正当論が幅を利かせたため中の祖とする歴史観も戦前は存在したが、昭和軍人たちからは逆に軍人の言うことを聞かなかった天皇と揶揄されたという。このようにどの時代においても毀誉褒貶がしい。
足利義政
室町幕府第8代将軍。政を顧みないどころか、自の跡継ぎにさえ関心であり作庭やに没頭。結果、応仁の乱を招き戦国時代への遠因を作った。文化面での業績は大きく、銀閣に代表される東山文化を作りあげた。

戦国時代の有名な暗君

朝倉
越前朝倉11代今川義元に続く、織田信長やられ役その2。若狭を占領して領土を広げたまではよかったが、地位に安住した結果、信長に滅ぼされてしまった。戦国時代に生まれてしまったことが不運としか言いようがない人物。
今川氏真
説明不要、戦ファンタジスタ。ただ、言うまでもなく桶狭間でのの死である意味詰みであり、同情の余地はかなりある。高い教養もあり、江戸時代まで高家として子孫や名を残せた点は評価すべきだろう。上記と同じく生まれた時代を間違えたタイプ大河ドラマおんな城主直虎」では相変わらず武将としてはサッパリ駄ながら、文化人としてはまさにファンタジスタな面も含めてかなりカッコよく描かれた。
北畠具房
伊勢国司北畠の第9代当ピザデブであったことがコーエーにバレた途端、グラフィックが特段にネタキャラ化してしまった悲劇の人物。一族皆殺しにあった挙句、生き恥をさらせとばかりに殺されることもなく寿を全うした点では上述の陳の後と似る。
武田勝頼
甲斐武田20代暗君とされるのは甲陽軍鑑の歴史観によるものであり、現代の作品では信長ライバルとして強な人物に描かれることが多い。信長の野望でも高評価である。実際先代の武田信玄の時点での判断ミスいているとも言えなくもないし。
北条氏政
後北条氏の4代。勝頼と同様、甲陽軍鑑の被者。しかも彼の場合、自の味方であるハズの北条記においてさえ敬語をつけてもらえないというdisられっぷり。しかし最近では再評価が進んでいて、大河ドラマ真田丸でも「権謀術策に長けた武将」みたいな扱いだった。
一条兼定
説明不要、「働きたくないでおじゃる」。もっとも、むやみに働き過ぎたことが彼の低評価につながっているのだが。コーエー作品ではどれもえげつないほどの低であり、暗君プレイの代表格である。
宮部長房
宮部継潤息子。戦英雄バカ息子その1。関ヶ原において判断ミスの連続で、東軍→西軍というウルトラCな裏切りを行う。死没から400年後、信長の野望において世界ギリワンとして注されるも、その同輩は斎藤道三松永久秀藤堂高虎と押しも押されぬ高スペックの武将であり、彼だけが知名度・共に大きく見劣りするという恥辱プレイであった。

江戸時代以降

 江戸時代も中期以降、幕府同様のどのも財政難に苦しめられることになる。
 あの手この手と財政策に腐心するが、手っ取りいのは増税であるが余がないのは民間も同じであり、膨れあがる年貢に耐えかねて一が発生。その結果、易という事態に発展することもあった。
 ……が、自の状況が苦しいにも関わらず遊にふけるがいたのも事実である。また、高直しといって実際の石高(内高)を公式の石高(表高)に直すという行為も行われた。官位や江戸における席次などは表高によって決まるので、格の上昇を狙っての高直しが頻繁に行われた。ただし、表高が上昇すると軍役や税などの負担も上昇するので賢いなら行わなかった。
 高直しをするということは内高と表高の差額で余裕があった分を吸い取られるということを意味しているため、民によっては全くメリットのない行為であった。しかも、実際には分割相続によって格式が減少した分を取り返すために内高がそれ以下にも関わらず、それ以上あったと申告して認められるケースも多かった。例えば7万石の石高しかないにも関わらず、10万石と申請して認められた場合、領民は7万石分の収入しかないにも関わらず10万石相応の年貢を納めなければならないので、その分だけ地を見ることにもなった。このため、見栄のために高直しを行う暗君も多かった。

加藤明成】
加藤嘉明息子。戦英雄バカ息子その2。年貢にも利息をつけ、商人からも売り上げを巻き上げるというジャイアンスネ夫合体したような暴政を敷く。見限った臣が幕府に報告することを恐れて徹底粛清。しかし、かえってバレてしまいあえなく易。
黒田忠之】
黒田長政息子。戦英雄バカ息子その3。長政は彼の狭量さに気づいており、絶縁した上で百姓か商人か出するか選べと迫ったという。後見役の栗山が命がけでこれを阻止したが、長政の死後は口うるさい栗山を迫臣団の対立も化してお騒動に発展。これも栗山が全ての責任を負うことで、加藤明成と異なり易は免れた。
真田信利】
沼田初代当真田信之の孫。沼田真田の分領であり、世していた事から叔父に当たる真田信政が統治していた。祖の信之が隠居すると信政が本家を相続、信利が沼田分領を統治することとなった。ところが信政が信之に先立ってしまい、隠居の信之は信政の子である幸を後継者に名。信利は長子の子である自分が本家を継ぐべきだとし、幕府を巻き込んだ騒動に発展した。しかし、幕府の裁定により本家は幸が継ぐこととなり、その代わりに沼田分領を分離独立させることによって信利は大名として取り立てられることとなった。
本家を継げなかったトラウマからか、表高3万石のところを高直しで14万石として申告。江戸邸も奢な物に造り替えるなどして領民は重税にあえぎ窮乏していった。
修を請け負ったものの納期に間に合わなかったことがきっかけで悪政が判明。易という処分が下されることとなった。
伊達綱宗】
仙台3代伊達政宗の孫。政宗の数奇部分だけを引き継いでしまったかのような性格で、あまりの放蕩振りにお騒動へと発展。結果、督を息子に譲って隠居を余儀なくされる。
ただし、仙台朝廷を含んだ複雑な縁戚関係と幕府からをつけられやすい経歴があり、隠居を巡って実像以上に暗君さが喧伝されたのではという説もある。趣味では多大な功績を残しており、その遺物は現在でも仙台市博物館で見ることができる。
倉勝
2代目の重政は原に着任すると高4万3千石でありながら10万石相応の()を建てる、領内の石高を倍以上に見積もることによって過大な税を取り立てる、キリシタンに過酷な刑罰を追わせる、更にはキリシタンを根絶やしにするためにルソン(フィリピン)遠征を企てるといった事から司馬遼太郎日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない」と言わしめた人物である。その一方で関ヶ原や大阪の役を勝ち組として乗り切ったことや前任地の大和五条では名君として称えられているという評価できる面を持った人物でもある。
その息子である勝父親以上の悪党であった。作にも関わらず重税を取り立てる、人頭税や住宅税といったありとあらゆるものに税を設けて厳格に取り立てるといった、考えうる限りの手段で民を搾り尽くした。更には年貢が納められない農民たちから妻やなどを人質に取り、収められなかった時には人質達にを着せて火をつけ、もがき苦しませながら焼死させたともいう。やっていることが時代劇悪役そのまんまである、というより彼の悪政ぶりが時代劇テンプレートを作ったと見るべきだろう。
世が世なれば某越後の縮緬(ちりめん)問屋のご隠居一行暴れん坊な上様に成敗されるところであるが時代がすぎた。圧政に耐えかねた民衆の怒りが原の乱となって爆発。鎮圧はされたものの悪政の責任を取らされる形で易の上、斬首された。武士の最後の名誉である切腹すらも許されなかった事実が、どれだけ重大な罪であったかということを物語っている。
なお、江戸時代で大名クラス斬首刑にされたのは彼だけである……というよりも、最後といってもいいだろう。
本多政利】
大和新田本多忠勝の曾孫。実本多政勝は15万石の本多を継いでいたが本来は傍系、先代が死んだ時、その実子が幼児で本多には「幼君が後を継いではならない」という忠勝の遺訓があったため代わりに相続したものである。このため、後継は先代の子である政長に決まっていたが、当然のことながら実子の政利に継がせたいと思っていた。
政勝が死ぬと、政利は幕閣への工作を開始。その結果、9万石を政長に、6万石を政利に分割相続させるという判定が下された。これが世に言う「9・6騒動」であったが政利は全てを継げなかったことに不満で事もあろうに、その政長を殺したと伝えられている。しかし、それでも9万石は継げなかった。
その後の政利は転封を繰り替えすが領民臣への暴虐といった悪政によって易となり、閉されて生涯を閉じることとなった。
池田綱政】
岡山池田4代岡山後楽園を作った人物で、有能臣に任せて新田開発や河川修を行うなど岡山の財政を回復させた、といえば実績的には名君なのだが、その内実は幕府隠密の報告書や親族の日記から「生まれつきバカ」「愚か者で分別がない」「特に色を好むことには限度がなく、手当たり次第に女に手を出した」と散々な評価。実際に70人以上の子供を作っている。
遺言で「公家コスプレで葬ってくれ」といい残すなど、のそのキャラを一言で言い表すなら「氏に憧れ続けた」といっても過言ではなく、四書五経といった当時の学問にはもくれず、ラノベ的な文学源氏物語世界に耽溺した人生を送った。その評価の割には政治がうまくいったのも父親が残した有能臣に丸投げしたからに他ならない。劉禅や、今川氏真一条兼定あたりが江戸時代に生まれていたらこんな感じになっていたのだろう。
この辺りが、戦を知る世代と知らない世代ので、これ以降、大名の貴族化が進むのだが、父親池田政が江戸時代の名君と評価は高いが堅物だっただけに、コントラストがいっそう際だつことに。
磯田史の「殿様の通信簿」において、作者志村ケンバカ殿シリーズバカ殿に一番近い人物」説していたので、ネタとして出してみた次第である。
浅野長矩】
浅野頭」としていわずとしれた忠臣蔵忠臣蔵の影で美化されがちではあるが、理由はどうあれ、仕事の最中に発作的に衝動を起こして上役をりつけるという行為は立DQNである。臣達を路頭に迷わせてしまっただけではなく結果、最終的には死なせてしまった(後世に英雄としてり継がれるとは言え)のだから罪作りな人物である。
同時代の史書にも「実は女好き」(wikiでは否定されていたが)はともかく「経質で民に厳しく、方の下女に非を働いたので近いうちに易されるだろう」と書かれていたのだから、忠臣蔵みするのも危険だろう。再評価の結果、評価が下がってしまう傾向にある人物だといえる。
南部利済】
南部12代目父親長男でありながら政治抗争で嫡された人物であり、母親は庶民出身の未亡人であったため、その治世から「利済は浮気でできた子で、南部の血は引いていない」と噂された。
この当時の盛は加増を伴わない高直しによる負担増や作などによって苦しめられていた。利済も当の座につくと政を立て直そうとしたが失敗、経済のために盛に遊を建設したことが反感を招き、重税を課す一方で贅沢に走ったことから三陸地方を中心としたエリアで一を起こされてしまう。その責を取る形で隠居して長男に後を譲ったものの、仲が悪かったことから圧をかけて引退追い込み、そのにすることによって院政を敷いた。が、また、一を起こされてしまい結局は幕府に呼び出されて江戸下で謹慎させられる羽になった。
津軽信順】
弘前津軽10代。この当時の弘前も財政難で苦しんでいた。先々代のはそれなりに有能であったが、父親である先代は加増を伴わない高直しで経費が膨らみ、重税などでカバーしようとしたため一を起こされる有能とはいえないであった。おまけに幕府内での地位を上げる手段として、信順の将軍を迎えたが、その運動のために多額の現をばらまいたため先々代の苦労がの泡になってしまった。
その息子の信順は父親以上の暗君で、参勤交代はと女に入り浸って期日に遅れる、贅沢三昧で遊び惚けるなど奢侈の限りを繰り広げた。このため弘前の負債も大なものとなってしまい、これには幕府も捨ててはおけず、強制隠居をさせられる羽になってしまった。

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編集内容についての説明/コメント: 北周の宣帝と池田綱政追加。
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暗君について語るスレ

43 : ななしのよっしん :2018/07/19(木) 15:27:31 ID: WoFV5wp8Ec
なぜ豊臣秀頼がない
44 : ななしのよっしん :2018/08/01(水) 13:20:04 ID: xOFPiIRyCh
統治してないからだろ
45 : ななしのよっしん :2018/08/24(金) 20:47:50 ID: rCUV3Vs/RY
秀頼は評価不と言った方が正しい、まあ家康はでかくなった秀頼見て
過剰なまでにビビってたらしいが
46 : ななしのよっしん :2018/09/03(月) 23:42:05 ID: m0zvmT4ufp
>>41
父親の宗は義と同じく自身で兵を率いていないにも拘らず
期の名君とされていて、
しいて義との違いを挙げれば宗滴の存在くらいなんだよね。
軍事行動における序列第一位をはっきりできたかどうかが大きいかもしれない。
47 : ななしのよっしん :2018/09/06(木) 00:03:30 ID: 1OoxfOPy+/
万暦帝は何もしなかったのもそうだけど亡くなってから直ぐ明が滅んじゃったから暗君扱いされているのもあるはず
明の初期・中期の君だったらただの君で終わっていたんじゃ
48 : ななしのよっしん :2018/09/06(木) 00:06:43 ID: 1OoxfOPy+/
ココで挙げられてない人物をあげると
西ローマ帝国皇帝:ホノリウス
いな
https://bushoojapan.com/tomorrow/2015/09/04/58318
49 : ななしのよっしん :2018/10/08(月) 19:29:08 ID: 9d/o0nfeTD
朝倉は何がだめって、織田を筆頭とする時代の変化に対してどういう態度でいくのかという一大事を中途半端にやっちゃったことが。戦うなら戦う、臣従してでも名を守るなら守るで、どっちかにしてればたとえ失敗しても暗君とまでは言われなかっただろう。みんなそれで想をつかして最後はほとんどもついてこなかったってのが泣ける。
50 : ななしのよっしん :2018/10/14(日) 07:40:50 ID: K7JHC1R1xU
綱吉のような
厳しい法で庶民を締め付けて
不満が膨れ上がったが、一方で治安が
大幅に向上し法治政治がやりやすくなったのも
事実」というタイプのはどうなるんじゃろ?
51 : ななしのよっしん :2018/10/27(土) 21:00:37 ID: K7JHC1R1xU
ロマノフ王ニコライ二世暗君に入らないか?

個人としてはともかく有能な識者を遠ざけたり
よせばいいのに戦争やっては負けて叛乱起こされ
最期には一家皆殺しにされてるが
52 : ななしのよっしん :2018/10/28(日) 08:46:50 ID: BxNuBUasm+
池田綱政は英のアウグスト1世モデルでもあるね(後宮ではクソ以下だが政治は高い、
先代がチート級の名君など)。
急上昇ワード
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