サンデーサイレンス(Sunday Silence)とは、アメリカ生まれの競走馬・種牡馬。イニシャルから「SS」とも呼ばれる。
競走馬としての実績もさることながら、引退後、血統面の低評価から本国で埋もれかけたところを日本に輸入され、日本競馬界の血統図を塗り替えた稀代の名種牡馬として知られる。
1986年3月25日生、2002年8月19日没。
父:Halo 母:Wishing Well 母父:Understanding
生涯戦績: 14戦9勝
主な勝ち鞍
1989年:サンタアニタダービー(GI)、ケンタッキーダービー(GI)、プリークネスステークス(GI)、スーパーダービー(GI)、ブリーダーズカップ・クラシック(GI)、サンフェリペハンデキャップ(GII)
1990年:カリフォルニアンステークス(GI)
エクリプス賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬(1989)、米国競馬名誉の殿堂入り(1996)、ブラッド・ホース誌選定「20世紀のアメリカ名馬100選」第31位(1999)
種牡馬成績:
13年連続リーディングサイアー(1995~2007)
14年連続中央リーディングブルードメアサイアー(2006~2019)
13年連続日本リーディングブルードメアサイアー(2007~2019)
血統
1986年3月25日、アメリカのケンタッキー州ストーンファームで誕生。
父ヘイローは1983年の米リーディングサイアーを獲得(サンデーが活躍した1989年にもう一度獲得)した名種牡馬。母のウィッシングウェルは英国三冠牝馬ラフレッシュの末裔であり、自身もGII勝ち馬である(なおこの時の5着馬は後に第1回ジャパンカップを制するメアジードーツである)。そういう風に聞くとなかなか良い血統のように思える。
しかし、ヘイローは人を噛み殺そうとしたことがあるくらいの荒馬で、種牡馬時代には人を噛まないように口に籠を付けられた程だった。このためか、リーディングサイアーになるくらいでありながらそれ程高く評価されていなかった。
更にウィッシングウェルのほうも、母から高祖母までの4頭が未勝利馬・不出走馬と、母系に活躍馬がまるでいない。父のアンダースタンディングも「丈夫さ」だけが取り柄だったような超地味種牡馬。なんで活躍出来たのかふっしぎ~……というような血統であった。後にサンデーサイレンスの運命を決することになったのは、主にこのウィッシングウェルの血統の悪さであった。ちなみにウィッシングウェルも「キ〇ガイなんじゃないか?」と競走馬時代の調教師が言ったほど気が荒かったそうだ。
……この父母から生まれたサンデーサイレンスの気性は……お察しください。
なお、「静寂なる日曜日(のミサ)」という皮肉か何かとしか思えない競走馬名は、メリーランド州に暮らすストロー夫妻が考案したもの。この夫妻は「自分たちが競走馬を持っていて、その子がケンタッキーダービーに出るとしたら……」というゲームをしており、自分たちで編纂した架空の馬名リストをストーンファームへ送り、牧場所有者のアーサー・ハンコック三世がその中から選んだのである。アーサー三世は名前の響きの良さに加えて、愛聴するクリス・クリストファーソンの『サンデーモーニング・カミングダウン』に似ていたのが決め手だったと語る。
競走馬として―運命に噛みついた馬
サンデーサイレンスが再びやって来る
人生という名のトラック(競馬場)では負けたり勝ったり
誰もが救世主を求めている
そんな時、サンデーサイレンスは再びやって来るのさ
86~88年:壮絶なる幼少期
かくしてこの世に生を受けたサンデーサイレンスだったが、くすんだ鼠色の馬体は華奢な上、後脚がものすごくX字に曲がっていた。血統+馬体至上主義が蔓延るアメリカでは、ほとんど論外の醜さであった。
母ウィッシングウェルの馬主トム・ティザムの競馬顧問を務めるテッド・キーファーは、ストーンファームへウィッシングウェルの様子を見に来るたびに「あんなひどい当歳は見たことが無い」「見るのも不愉快」とぼろくそに貶し、牧場長が「こいつにもバラのレイが似合う日が来るかも」と宥めると「あいつにバラのレイが似合うとしたら、墓に入った後だけだ」と切り返した[1]。
11月27日の感謝祭の日、サンデーはウイルス性の腸疾患にかかり、ひどい下痢で生死の境を彷徨う。牧場スタッフと獣医は感謝祭を台無しにされながら1日23リットル前後もの点滴を続けた。とうとう獣医はブチ切れてサンデーを見限り、仕事を放棄したが、サンデーはかろうじて生き延びた。
1987年7月、サンデーはキーンランド・ジュライセールへ出品されるが、血統も悪く馬体も酷く、おまけに気性も仔馬の頃から凶暴そのものだったため、上級のセレクトセールからはじき出される。一般セールでは1万ドルしかつかず、止む無くアーサー三世は1万7千ドルで買い戻し、母の馬主であるティザム氏に買い取りを打診するが、キーファー顧問から「論外です」と説明されていたティザム氏はすげなく拒否した。アーサー三世はリスクヘッジのため、サンデーの所有権を旧友と折半した。
キーファー顧問は後に「あの馬体の欠点は目をつぶってすむ軽いものではなかった」「同じ見た目の馬が1000頭いたら999頭は競走馬としてまず使い物にならない」「あれは突然変異ではないのか」と当時の判断を正当化している。後になって振り返れば、この判断は「節穴顧問の大ポカ」として嘲笑の対象にされそうなものだが、ことサンデーに関する限り「仕方ないよなぁ」と納得させるものがあった。
1988年3月、アーサー三世はカリフォルニア州・トレーニングセールへサンデーを出品するが、希望販売価格の5万ドルには到底届かず、3万2千ドルで再び買い戻す羽目になった。伝手の競馬関係者に売り込みを続けるも実らず、サンデーの所有権を折半していた旧友もいい加減見切りをつけ、所有権を自分の持ち馬の調教費と相殺する形で懇意の調教師に売り飛ばした。
更にトレーニングセールの帰路、サンデーを始めとするストーンファームの馬を乗せた馬運車の運転手が心臓発作を起こし、馬運車は横転。奇跡的にサンデーは2週間の入院+リハビリで済んだが、運転手とサンデー以外の馬は皆死亡する惨事となった。
ここまでくると「この馬、呪われてるんじゃね?」と思えてくる。とにかく悲惨な牧場時代を過ごしたサンデーサイレンス。性格が荒むのも無理は無い。ただ少なくとも、アーサー三世はサンデーに強い願いをかけていた。
この頃のストーンファームは、購入したグッバイヘイローが活躍していたものの、競走馬市場の盛り下がりもあって負債がかさみ「倒産」の二文字がちらついていた。元々アーサー三世は名門クレイボーンファームの長男坊でありながら、放蕩癖を問題視されて相続権を弟に持っていかれ、研修として経営を任されていたストーンファームへ飛び出した過去があった。それからの15年間で、必死の努力と借金を繰り返してここまで成り上がってきたアーサー三世は「出来が悪く」「誰からも見放された」サンデーサイレンスに自らの過去を重ね合わせ、その成功を強く願うようになったのだ。
88~89年:現役時代
結局、競走馬としてはやっていけそうだと判断されたサンデーサイレンスは、アーサー三世が権利を持ったまま、もう半分の所有権を得た名調教師、「ハゲワシ」ことチャールズ・ウィッティンガムの厩舎へ預けられた。ウィッティンガム師はトレーニングセールでのサンデーの動きをなんとなく気に入っており、更にキーファー顧問(ちなみにキーファー氏はクレイボーンファームの顧問でもあった)のぼろくそな評価にかえって意地になり、サンデーを立派な一頭の競走馬候補として扱い、調教をつけ始めた。
しかしやっぱりサンデーの気性はめちゃくちゃ荒く、飛んだり跳ねたり鞍上を振り落とそうとしたりで、調教は一筋縄ではいかなかった。ウィッティンガム厩舎一の腕利きであるジョンソン調教助手は一度騎乗しただけで降板を希望。当時世界最多勝利記録を持っていた名騎手ウィリー・シューメイカーが呼ばれたが、調教後に「牧場へ送り返せ!」と怒り狂い、レース騎乗を拒否した。ウィッティンガム師は辛抱強く、サンデーに「我慢すること」を叩きこんでいった。やがてまともに走ることを覚えたサンデーは、調教で抜群のタイムをたたき出し、それを見たウィッティンガム師はアーサー三世に「あの黒いクソッタレは走るぞ!」と電話をかけた。
主戦騎手には、サンタアニタダービーの最年少優勝者であり、82年にジョージ・ウルフ記念騎手賞を受賞した25歳の俊英、パトリック・"パット"・ヴァレンズエラが迎えられた。技量もさることながら、人と馬との付き合いの良さが起用の理由であったが、当時の(そしてサンデー引退後も)パット騎手はコカイン依存症に苦しんでいた。これが後々アクシデントの元になってしまう。
88年10月、デビュー戦は2着(ウィッティンガム師は基本的に「デビュー戦は様子見」と割り切る方針であった)。11月に初勝利を挙げ、12月の一般競走でふたたび2着。休養に入る。
年が明けて89年、3歳になったサンデーは俄然本領を発揮。彼の子孫にも受け継がれる高速のコーナリングが火を噴き始めた。3月2日、始動戦の一般競争を重馬場にも関わらず楽勝すると、19日の初重賞・サンフェリペハンデキャップ(GII)も出遅れながら勝利。パット騎手もその素質に大興奮し、この時点でケンタッキーダービーの有力候補として挙げられるようになった。そして4月8日のサンタアニタダービー(GI)は、同レース史上最大の11馬身という「やり過ぎですよ!」というような勝ち方で圧勝したのだった。
この強さに、ストーンファームには各地からサンデーの買い付け依頼がやってくるようになった。一度は断ったティザム氏もオファーを出したほどである(獣医検査の際に軽い不調が見つかり、取り下げたが)。中には100万ドルを提示する者もおり、アーサー三世は悩みに悩むが、ウィッティンガム師が「私は売らない」と答えたことで所有続行を決めた。まぁ、この時点でウィッティンガム師は自分の所有権の半分を馴染みの医者に譲っており、後にそれを回収して一銭も使わず大もうけしたんだけど
89年ケンタッキーダービー:持つものと持たざる者
ウィッティンガム師は正式にケンタッキーダービー(GI)への出走を表明。いざチャーチルダウンズ競馬場へ向かったサンデーサイレンスだったが、そこには「奴」が待っていた。
前年の最優秀2歳牡馬・イージーゴアである。父アリダーに母父バックパサー、母系も超一流という、嫌味なほどの良血に加え、非の打ち所の無い馬体を誇ったこの光り輝く栗毛の馬は「セクレタリアトの再来」「今、その存在は伝説となりつつある」とまで言われる高評価を受けていた。サンタアニタダービーと同日のゴーサムステークス(GII)では直線だけで13馬身差を叩き出すイカれっぷりで、当然ながらケンタッキーダービーの1番人気である。
サンデーとは正反対の「THE U.S.A.」を体現するイージーゴアであったが、実はこの二頭の陣営にも因縁があった。イージーゴアはアメリカの名家フィップス一族の持ち馬であったが、現馬主のオグデン・フィップスは、アーサー三世の実家クレイボーンファームの主要顧客であり、経営顧問も務めていた(イージーゴアもクレイボーンファーム生産)。そして1972年にアーサー三世の父が死去した際の後継者選定において、アーサー三世の弟を指名し、アーサー三世がストーンファームへ出ていくきっかけを作った顧問の一人がオグデン氏だったのである。追い出された側も、追い出した側も、互いの矜持にかけて負けられない[2]。
更にKCダービーの数日前、パット騎手の恋人が急死する悲劇があった。
5月6日、運命のレース当日。例年のケンタッキー州は最低でも15℃くらいにはなるのに、この日は前日の大雨の影響か、レース史上最低の6.1℃しかなかった。極寒の泥濘というハードコースで行われたこのレース、サンデーサイレンスはスタート直後に左横のトリプルバックを吹っ飛ばして好位を占め、高速コーナリングで最終直線へ。ここでまたしてもノーザンウルフに体当たりをかまし、その後は左右にフラフラよれながら抜け出すという荒すぎる走りで優勝。馬場に加えて酷すぎるヨレのため、勝利タイムはKCダービー最遅だったが、馬場のせいか追い込みきれなかったイージーゴアを2馬身半も負かしたのであった。
ウィッティンガム師はこの時点で「この馬は三冠馬になる」と言い切ったという。
89年プリークネスステークス:アメリカン・ドリームの激突
東海岸のフィップス家が所有するイージーゴアと、西海岸のウィッティンガム厩舎を拠点とするサンデーサイレンス。二頭はまさにアメリカの東西対決を体現しており、ファン同士の対決意識も激しかったが、ケンタッキーダービー後はそれが更に激しさを増した。特にイージーゴア(とその他出走馬)が規制薬物の消炎鎮痛剤[3]を使っていたのに、サンデー(ともう一頭)は使っていなかったことが明らかになり、サンデーファンによる格好のイージーゴアファン煽りのネタになった。イージーゴアファンも負けてはおらず、東海岸の競馬マスコミも「前走は馬場のせい」「実力はイージーゴアの方が上」という見方を大体的に予想し、二冠目のプリークネスステークス(GI)でもサンデーは2番人気に甘んじた。
ところが本番一週間前の5月13日、ここまでの過密ローテが災いしたか、ピムリコ競馬場に到着したサンデーは右前足を跛行。3日間を治療に費やすこととなった。更にこの「跛行からの高速回復」が「実はサンデーもヤクを使っているんでは?」という疑惑を生む。
ピムリコ競馬場の馬房は観客や報道陣に開放されていたのだが、連日の取材攻勢にキレたサンデー陣営はサンデーの馬房を閉鎖。マスコミは閉じられた扉の向こうで何をやっているかわかったもんじゃない! と様々な推測を書き立て、アーサー三世はサンデーに対する不当な評価に大いに気落ちしたという。
5月20日、ゲートは開いた。向こう正面で既に馬体を合わせていたサンデーサイレンスとイージーゴア。イージーゴアはサンデーの進路をカットするが、サンデーはそのまま大外から回り込み、逆にイージーゴアを内ラチへ押し込むように進出。イージーゴア鞍上のパット・デイ騎手は馬のやる気を引き出すため、顔をサンデーに向けさせる。サンデーは自らゴアを睨み、お互いメンチを切り合い額をぶつけ合う様な、壮絶な競り合いがゴールまで続いた。最後は内イージーゴア・外サンデーサイレンスがほぼ並んでゴールイン。ハナ差サンデーサイレンスが競り勝って二冠馬に輝いたのだった。
89年ベルモントステークス:イージーゴアの逆襲
アファームド以来、11年ぶりの三冠達成なるか? だが、三冠目のベルモントステークス(GI)の舞台となるベルモントパーク競馬場はイージーゴアが最も得意とするホームグラウンド。ウィッティンガム師は相変わらずサンデーサイレンスのあら捜しをしてくる東海岸メディアをあしらいつつ、サンデーに長距離競走に備えた猛特訓を課した。一方、「持たざる者」サンデーのオーナーブリーダーとして競馬メディアに引っ張りだこのアーサー三世は、昔取った杵柄で、サンデーを称える歌『Sunday Silence』を作詞作曲歌唱して各地で披露していた。ちなみにこの歌、iTunesで絶賛配信中です。
そんなある朝の調教中、事件が起こった。殺到していたマスコミのフラッシュ撮影にビビったサンデーサイレンスがのけ反り、ウィッティンガム師の頭に蹴りを入れかけたのだ。幸い調教助手が咄嗟に馬体を押しのけたために直撃することはなく、ウィッティンガム師は「私の頭は硬いから、蹴った方が蹄を痛めたかも」などと笑い草にしたのだが……。当たっていたらウィッティンガム師はかなり危なかっただろう。
さて6月10日のレース当日、サンデーサイレンスは初めてイージーゴアを上回る1番人気に支持された。ところが、このレースはイージーゴアがひたすら強かった。サンデーはハイペースの中仕掛けを遅らせたイージーゴアに直線で置いてきぼりにされ、8馬身差の2着。三冠の夢は破れたのだった。
レース後、ウィッティンガム師は敗因がウィッシングウェル由来のマイラー向き血統にあると認めた。その一方「マイルから10ハロンがベストの距離でいけないことは何一つない。『このタイプの馬が種牡馬としては一番成功する』と皆が言うじゃないか」と、さながら後の予言めいた発言も残したのだった。
Road to BC
これで調子が狂ったのか、サンデーサイレンスは一気にやる気をなくしてしまった。7月23日のスワップスステークス(GII)では無理に道中で大逃げを打ったのが祟り、ゴール前で力尽きて単勝1.2倍の支持を裏切る2着に終わる。ウィッティンガム師はパット騎手の作戦を批判しつつ、サンデーを休ませる必要があるとして、2か月の休養を与えた。
一方、気持ちを切り替えてエクリプス賞年度代表馬を狙うイージーゴアは絶好調だった。サンデーの休養中にGIをベルモントSから数えて4連勝。東海岸のファンは大盛り上がりである。
目標であるブリーダーズカップ・クラシックに向け暗雲が立ち込めるサンデーサイレンス。しかし、期待出来ない雑草馬が2冠を達成し、上流階級の超良血馬を完封寸前へ追い込んだ、というアメリカンドリームを体現したようなそのスタイルは、イージーゴアにも負けない絶大なファンをつかんでいた。競馬場で売られるTシャツなどのホースグッズ(流石にぬいぐるみはまだなかった)の種類と売上も、イージーゴアのそれより断然多く高かったのだという。馬券は別として。
サンデーの復帰戦は9月24日、ルイジアナダウンズ競馬場のスーパーダービー(GI)。競馬場の支配人は「サンデーサイレンスとイージーゴアがそろって出場した場合、優勝賞金を2倍の200万ドルとする」とぶち上げたが、イージーゴア陣営は結局回避したため、いつも通りの大会となった。
休養と立て直しがうまくいったサンデーは1.4倍の一番人気に見事応える。高速コーナリングからの独走、最後は手綱を緩めて6馬身差で圧勝。イージーゴアとの4度目の対決となるブリーダーズカップへ堂々殴り込みをかけるのだった。
89年BCクラシック:アメリカの頂点へ
米国中距離競走の総決算となるブリーダーズカップ・クラシック(GI)。この年は復活を遂げたサンデーサイレンスと、古馬をも粉砕する怒涛のGI・5連勝でやってきたイージーゴアの激突ということで「このレースに勝った方が年度代表馬」「10年に一度の大一番」とまで評される大盛り上がりを見せていた。東海岸の競馬メディアは「イージーゴア、年度代表馬当確」というVやねん!絶賛記事を乗せ、ウィッティンガム師も「勝つのはうちの馬だ」と事実上の勝利宣言を出した。ウィッティンガム師はイージーゴアが抱えていた球節の不安が連戦で深刻化していることを見抜いていたのだ。
ところがレース一週間前、よりにもよってこのタイミングでパット騎手がコカイン検査に引っ掛かり60日間の騎乗停止を食らってしまう。代打として招かれたのは、この年に競馬殿堂入りする米国競馬のヒーロー、クリストファー・ジョン・"クリス"・マッキャロン騎手だった。そんなこともあって1番人気(単勝1.5倍)はまたもイージーゴア。サンデーは2番人気(3.0倍)に落ち着いた。
スタート立ち遅れたイージーゴアを尻目に3~4番手の好位を占めたサンデーサイレンス。軽い手ごたえで先頭を伺いながら直線へ。イージーゴアは手応えが悪く、デイ騎手はおっつけっぱなし。ああ、これは楽勝だな……と思ったら、突然伸び始めるイージーゴア。余裕ぶっこいてたクリス騎手もこれには仰天、泡を食って追い出しに掛った。追い込むイージーゴア、伸びるサンデー。クリス騎手が外から迫るイージーゴアをちらりと振り返ってから5秒後、サンデーはイージーゴアを首差抑え、コースレコードでゴール板前を駆け抜けたのだった。
この年、サンデーサイレンスが獲得した年間賞金は北米の新記録であった(457万8454ドル)。ウィッティンガム師は「この馬はこれまで私が担当してきた中で最高の馬だ」と称え、「来年はもっと強くなる」と太鼓判を押したが、サンデーは膝の剥離骨折を発症。骨片の摘出手術を行い、こちらもダメージを受けていた軟骨のケアのため、休養に入った。
サンデーサイレンス人気は絶頂にあった。だがウィッティンガム師は、ある懸念を感じていた。アメリカ競馬では優秀な牡馬は3歳で早期引退=種牡馬入りすることも珍しくない。しかしサンデーの場合、いくら来年度も現役続行すると宣言したとはいえ、サンデーを「競走馬」ではなく「種牡馬候補」として見学にくる生産者がほとんどいなかったのだ。
ただこの時、日本からBCクラシック観戦に来ていたとあるブリーダーが、熱心にサンデーの種牡馬権利を欲していた。引退後に日本で繋養させてほしいという打診を、当然アーサー三世は断るが、代わりにリスクヘッジとして自らの所有権の半分(つまり全体の1/4)を250万ドルで売却した。後にこの取引がサンデーの運命を決定することになる。
90年:ただ燃え尽きて
1月、エクリプス賞では242票中223票を得て年度代表馬、並びに最優秀3歳牡馬に選出。3月に調教が再開され、「ここからきっかり3ヵ月でレースに出られるように仕上げてみせる」との宣言通り、6月3日のカリフォルニアンステークス(GI)に出走した。この時クリス騎手は落馬して後続馬に轢かれ、全治5か月の重傷を負っていたため、騎乗停止が明けたパット騎手が呼び戻された。復活したコンビは単勝1.1倍の圧倒的人気に応え、見事優勝する。どいつもこいつも回避して3頭立てでしたが
続けて6月24日、ハリウッドゴールドカップ(GI)へ出走。イージーゴアを破る大金星を挙げた*クリミナルタイプとの対決が注目されたが、サンデーは日ごろの勝負根性を発揮できず、ハナ差の2着だった。クリミナルタイプは前年の強豪2頭を破った実績が評価され、この年の年度代表馬に選出されることになる。
そしてサンデーサイレンス・イージーゴアの再戦を主目的に組まれた8月の特別招待競走・アーリントンチャレンジカップを目標に調教をしていた矢先、靭帯の損傷が発覚。剥離骨折でこの少し前に引退したイージーゴアの後を追うように、サンデーも引退となってしまった。
競走馬としての総括
通算成績は14戦9勝(内GI・6勝)・2着5回。連対率100パーセントを達成している。総獲得賞金は496万8554ドルで当時の世界3位。1989年エクリプス賞・米国年度代表馬と最優秀3歳牡馬を受賞。文句なしの名馬である。
イージーゴアとの名勝負は現在でもアメリカ競馬界の語り草である。対戦成績ではサンデーサイレンスの3勝1敗だが、サンデーサイレンスは小回り中距離が得意で、イージーゴアは大飛びなステイヤーであったため、対決の舞台に得意条件が多かったサンデーサイレンスの方が有利だったとも言われる。ちなみに、2頭の勝負は常に人気薄の方が優勝するという結果に終わっている。
真っ黒な馬体にシャドーロールの姿は産駒のジェニュインを思い浮かべてもらえば分かり易い(シャドーロールの色が違うけど)。脚運びが滑らかで、いつ手前を変えたのかも分からない程だったそうである。加速しながらコーナーをこなせる器用さもあった。そしてあまりの酷さに騎手が怒って騎乗拒否を起こすほどの気性難と引き換えに得た、無類の勝負根性。どれも後に産駒に良く伝える事になるこの特徴が、デビュー前の評価を覆した「突然変異」に繋がったのであろう。
1996年、ライバルのイージーゴアに1年先んじてアメリカ競馬殿堂入り。20世紀のアメリカ名馬100選では31位。ここでも34位のイージーゴアに勝っている。
種牡馬として―生まれ変わる馬屋の意地
ノーザンテーストと同じくらい走ると信じてるサンデーサイレンスの子を走らせればね、そのうち、何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね
わたしは生まれ変われないが、わたしのね、馬屋の意地は生まれ変われるんだ。
馬屋の全知全能を賭けた交渉だね、サンデーサイレンスは
血と知と地 ― 馬・吉田善哉・社台
時はサンデーサイレンスのデビュー前、1971年に遡る。当時、まだ一介の中小牧場に過ぎなかった日本の社台ファームは、ケンタッキー州に初の海外牧場としてフォンテンブローファームを設立した。社台ファーム創業者の吉田善哉は、22歳の長男・吉田照哉を場長としてアメリカへ送り込み、かねてからの夢であった海外ホースマンとの繋がりを模索し始めたのだった。
フォンテンブローファームは名門クレイボーンファームの近所に設立されたが、それはアーサー三世のストーンファームの近所であることも意味していた。当時クレイボーンから飛び出したばかりの29歳のアーサー三世は、年が近く、同じ長男で、同じ苦労人の照哉氏と知り合い、学生時代に音楽をしていた共通点から意気投合。照哉氏に米国競馬界の知識を伝授することになった。
フォンテンブローファームは78年に売却され、照哉氏も帰国することになったが、それからもアーサーとテルヤの親交は続いていた。善哉氏の狙いは見事に成功し、これが20年余後に実を結ぶことになる。
ちなみに完全な余談ではあるが……。74年当時のクレイボーンファームではとある日本人青年が不法就労しており、照哉氏と親交を持っていた。不法は半年でバレ、国外退去命令を受けた青年に、照哉氏は転職先としてイギリスの厩舎を紹介し、コンコルドの切符まで手配してやった。やがて帰国したその青年は、自らの牧場を作り、クラブ法人「ラフィアン」を起こし、日本競馬界の名物馬主……マイネル軍団総帥・岡田繁幸としてその名を轟かせる。後年、岡田総帥は種牡馬サンデーサイレンスを「最高傑作」と評価し、その血脈を自らの軍団に取り入れようと奮闘するのであった。
極東へ
閑話休題。再び、1990年。アーサー三世は「アメリカでの」「種牡馬サンデーサイレンス」の成功を信じ、種牡馬入りのために1000万ドル(1株25万ドル×40口)のシンジケートを組んだ。だが、株の買付希望数は3株、実際に持ち込まれた種付け希望の牝馬はわずか2頭。どう見ても付き合い上の義理です本当にありがとうございました(ノ∀`)。血統的な評価があまりにも低く、幼少時のセリで毎回買い戻されたことで、米国生産者はほぼ完全に「種牡馬サンデーサイレンス」を無視していたのだ。
これでは成功などするはずがなく、ストーンファームの経営もいよいよ立ち行かなくなる。アーサー三世はとうとう折れ、旧知のテルヤの父、Mr.ヨシダの話に乗ることを決断した。
善哉氏がサンデーにほれ込んだのは、自宅でビデオ観戦したプリークネスステークスがきっかけだった。そして、照哉氏と現地観戦したBCクラシックで本格的に獲得を決意したのである。照哉氏も照哉氏で、かつてノーザンテーストを見出した相馬観がうずいたのか、BCクラシック直後に「売ってくれ!」とアーサー三世に頼み込んだらしい。89年9月に繋養していたディクタスが死亡したこともあり、その後継として、これまでの社台の馬とは異なる血統のサンデーは大変魅力的であったのだ。
この頃には日本屈指の大牧場に成長していた社台ファームはその資金を惜しみなくつぎ込み、前回購入した所有権にさらに上乗せして、総額1100万ドル(当時の貨幣価値で16億5000万円)を支払ったという。
かくしてサンデーサイレンスは、初年度からいきなり25億円(4150万円×60口)という当時史上最高額のシンジケートを組まれて来日した。善哉氏はアメリカで「日本のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」と笑いものになったそうだが、しかし、これがサンデーサイレンスの、そして日本競馬界の運命を大きく変えることになる。
日本に輸入されたサンデーサイレンスはさすがに人気であり、たちまちシンジケートの株は満口となった。だが、当時は日本でも既に*リアルシャダイや*トニービン、*ブライアンズタイムといった様々な人気種牡馬が名を連ねていたこと、それに種付け料が1100万円と高めだったこともあり、外部からはさほど優秀な繁殖牝馬は集まらなかった。サンデーサイレンスの成功を信じた善哉氏は社台の名繁殖牝馬にこぞってサンデーサイレンスをつけさせたが、自身はサンデー産駒のデビューを見ることなく、1993年にこの世を去った。
サンデーサイレンス旋風
生まれた産駒に対する競馬関係者からの評価はそれ程高くはなく、史上に残る大失敗か? とも思われたのだが……。予想を覆して産駒は大活躍。なにしろ初年度の産駒がいきなり産駒初出走初勝利を挙げ、初重賞制覇となった札幌3歳ステークスではいきなりワンツーフィニッシュ。GI・朝日杯3歳ステークスもフジキセキが制する……と、あまりに好調な滑り出しを見せたのだった。
フジキセキに至っては三冠間違いなし、といわれる強さを誇っていたが、不幸にも彼は故障で脱落を余儀なくされた。それでいてなお、その年のクラシックの勝ち馬は以下であった。
レース | 馬名 | 父名 |
---|---|---|
桜花賞 | ワンダーパヒューム | フォティテン |
皐月賞 | ジェニュイン | サンデーサイレンス |
オークス | ダンスパートナー | サンデーサイレンス |
日本ダービー | タヤスツヨシ | サンデーサイレンス |
菊花賞 | マヤノトップガン | ブライアンズタイム |
クラシックタイトルの過半数を獲得してしまったのだ。前年に朝日杯を勝った三冠馬とオークス馬を出したブライアンズタイムほどの衝撃はなかったとはいえ、(社台以外の)日本競馬関係者はこれには脱帽せざるを得なかった。アメリカ競馬関係者の衝撃たるや言わずもがなである。そしてサンデーは、翌年以降もそのブライアンズタイムを超える勢いで毎年のようにGI馬を輩出した結果、一気に人気種牡馬としての地位を確立したのだった。
決定的だったのが種付け数で、当時年間数十頭までが当たり前だった中で、サンデーは100頭越えの種付け数をマシーンの如く毎年こなし、これが結果的に僅か2世代でリーディングサイアーとなる原動力となった。
あまりの活躍ぶりに「産駒が早熟なだけでは?」と疑う声も多かった。然し、そんな声もサイレンススズカが連勝をひた走ったあたりから小さくなり、スペシャルウィークが古馬王道を駆け抜けた頃には鳴りを潜め、ステイゴールドが7歳にして香港ヴァーズのゴール線に突っ込んだ結果、完全に沈黙した。
アメリカではダートでしか走っていないサンデーサイレンスだが、サンデーサイレンスの産駒は芝で主に活躍(中央競馬のダートGIを勝ったのはゴールドアリュールのみ、地方競馬のダートGIを含めてもイシノサンデーが加わるのみである)。様々な距離のレースで活躍し、サンデーサイレンスの産駒はまさに日本競馬界を席巻した。13年連続リーディングサイアーというとてつもない記録[4]がそれを物語る。
更に凄まじかったのが、種牡馬の種牡馬としての能力である。これだけ活躍したサンデーサイレンスも、その子孫の系統は、これまでの日本競馬史同様、縮小再生産されるだろうと思われていた。実際、後継種牡馬達も、重賞馬をそれなりに輩出するが、当初期待された孫世代からのGI馬はしばらく出てこなかった。当のサンデーサイレンスがまだ生きていて、大量の優秀な繁殖牝馬を独占している状態だったのだから当たり前である。
2002年にサンデーが死亡すると、その産駒と入れ替わるように、2003年にザッツザプレンティ(ダンスインザダーク産駒)が菊花賞を制覇。以後、フジキセキ、ダンスインザダーク、ステイゴールド、スペシャルウィーク、アドマイヤベガ、アグネスタキオン、マンハッタンカフェ、ゴールドアリュール、ダイワメジャー、ハーツクライ、ディープインパクトらの後継種牡馬からでるわでるわ、続々と孫世代からもGI馬を輩出。内国産種牡馬としても、フジキセキは通算勝利数、重賞勝利数を更新し、アグネスタキオンついでマンハッタンカフェが51年ぶりの中央リーディングサイアーとなった。極めつけにディープインパクトが父に匹敵する活躍(2012-2022リーディングサイアー)をして存分にその血を広めていった。GI馬を輩出した後継種牡馬だけでも2桁に達し、後継種牡馬全体に至っては100頭以上を数えている。
サンデーサイレンス系は今や日本を席巻しており、その極めて高い遺伝力から日本国内で産まれた後継種牡馬もよく走る馬を次々と輩出した結果、外国産と比べて不利と見られていた内国産種牡馬を保護する観点から設けられていた父内国産馬という区分が事実上消滅するほどの繁栄ぶりを誇っている。何しろ2011年のダービーでは、出走した18頭のうち16頭の父の父がサンデーサイレンス、他の2頭は母の父がサンデーサイレンスだった。
外国産種牡馬が主流だった時代では少数派だった「過去に日本のGIレースで活躍した馬の仔たちが、今のGIレースで活躍する」という光景[5]がサンデーの孫世代以降当たり前になった。このことは競馬ファンにより強い親近感を与える効果にも繋がり、競馬ファンの裾野を拡げた功績の大きさは計り知れない。
一方で、最終的に3000万円を超えるまでに高騰した種付け料と、それ以上の価格で取引される産駒達により、社台グループと、社台と懇意な馬主が「独り勝ち」し、多くの中小牧場や個人馬主が倒産・撤退を余儀なくされたという負の面も生んだ。実際の競馬においても、勝つのはこれら社台系列の生産者・馬主・厩舎(・騎手)ばかりではないか……という「社台の運動会」指摘に繋がっている。無論、この状況は善哉氏を始めとする吉田一族の全知全能の努力と決断が結実したものであり、彼らが責められる謂れはどこにもないことは留意しておくべきであろう。残酷な言い方だが「他の生産者の努力と決断が報われなかっただけ」の話である。ラムタラとか……。
良くも悪くも、サンデーサイレンスは日本の競馬そのものを変えてしまったのだ。
ここまで血の偏りが濃くなったことから、「セントサイモンの悲劇が再び引き起こされるのでは?」という心配もされたが、後継種牡馬・繁殖牝馬の世代が進んだことによりいわゆる「奇跡の血量」(4×3のインブリード)と言われる近親交配が可能な世代に至ったことから、これも杞憂に終わりそうな状況である。
世界へ広がるサンデーの血
ステイゴールドが2001年にドバイシーマクラシックと香港ヴァーズを制したように、サンデー産駒の活躍時期は戦後続いてきた日本競馬の海外への挑戦が結実し始めた時期でもあった。そして、それと同時に日本馬の血統が海外へも進出し始めた時期でもあった。勿論、過去にはハクチカラがインドに輸出されたりタカオーがビルマに輸出されたこともあった。しかし、サンデーの子孫たちは言ってしまえばそのような二流国ではなく、英仏米といったパート1国へと進出し始めたのである。
- 重賞未勝利だったディヴァインライトの産駒から英1000ギニー馬ナタゴラが登場。
- ディープインパクト産駒からはフランス1000ギニーを勝ったBeauty Parlour、英2000ギニーを無敗で制したSaxon Warriorやジョッケクルブ賞(仏ダービー)を勝ったスタディオブマン、英オークスを最大着差で駆け抜けたSnowfallが登場。12頭のラストクロップからAuguste Rodinが現れ本家英ダービーを勝利。Auguste Rodinは同年愛ダービー、BCターフも制覇。
- ハーツクライの産駒からは米GI馬ヨシダが同国で種牡馬入りしてサンデーサイレンスの血をアメリカに持ち帰った他、Continuousが英セントレジャーを勝利。
- アメリカ、次いでブラジルに渡ったアグネスゴールドが2019/20年-2021/22年の3期連続でブラジルリーディングサイアーを獲得。15頭のGI馬を輩出したことで国際保護馬名となった。
- アメリカやオーストラリア、アルゼンチンで種牡馬活動を行っていたハットトリックがカルティエ賞最優秀2歳牡馬、フランス年度代表馬を獲得した産駒Dabirsimを皮切りに、世界中で活躍する産駒を輩出。2022/23のブラジルリーディングサイアーをアグネスゴールドから奪取。
殊に、Continuousのセントレジャー勝利により、サンデーサイレンス系によってイギリスクラシック競走完全制覇を達成した。日本の競馬を語るにおいてもはや絶対に外せない存在となったが、世界にも存分に勢力図を広げている歴史的種牡馬、それがサンデーサイレンスなのである。
運命に嚙みついた馬、ここに眠る
とはいえ、1つだけサンデーサイレンスにも持ち得なかった物があった。それは寿命である。
2002年に体調を崩したサンデーは、5月の負傷がもとでフレグモーネを発症。3度の手術も実らず、8月に蹄葉炎を発症し、18日に眠るように息を引き取った。まだ16歳(人間換算で50~56歳ぐらい)だったので、まだまだ種牡馬として活躍出来ただろう、とあまりに惜しまれる死であった。[6]
ライバルの1頭であったブライアンズタイムが28歳(人間だとおよそ80~92歳!)で死ぬ直前まで種付けしていたことを考えると残念でならない[7]。
その死はAP通信の速報で世界にも報じられた。亡骸は火葬され、現在は社台スタリオンステーションの一角に、善哉氏の遺品と共に埋葬されている。
サンデーサイレンス産駒は2018年のビュレットライナー(ディープインパクトと同じ2002年生まれ)を最後に全て引退し、現役馬はいなくなった。
サンデーの死から時は流れ、2021年。日本からブリーダーズカップへ遠征したラヴズオンリーユーとマルシュロレーヌは、サンデーサイレンスの血を引く馬として初めてBCを制覇した。極東の島国で生まれ変わり続けた「馬屋の意地」は、あの死闘から32年を経て、米国競馬の祭典に再びやってきたのである。
Sunday Silence→Stay Gold→Orfevre(JPN Triple Crown)→Marche Lorraine(21 BC Distaff)
Japan has connected the Sunday Silence line for 30 years and returned to the Breeders' Cup in the United States.
A long, long story of horseman's frendship.
血統表
Halo 1969 黒鹿毛 |
Hail to Reason 1958 黒鹿毛 |
Turn-to | Royal Charger |
Source Sucree | |||
Nothirdchance | Blue Swords | ||
Galla Colors | |||
Cosmah 1953 鹿毛 |
Cosmic Bomb | Pharamond | |
Banish Fear | |||
Almahmoud | Mahmoud | ||
Arbitrator | |||
Wishing Well 1975 鹿毛 FNo.3-e |
Understanding 1963 栗毛 |
Promised Land | Palestinian |
Mahmoudess | |||
Pretty Ways | Stymie | ||
Pretty Jo | |||
Mountain Flower 1964 鹿毛 |
Montparnasse | Gulf Stream | |
Mignon | |||
Edelweiss | Hillary | ||
Dowager | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Mahmoud 4×5(9.38%)、Blue Larkspur 5×5(6.25%)
種牡馬成績
- リーディングサイアー:1995年~2007年
- リーディングブルードメアサイアー:2006年~2019年
- 2011年末までの通算勝利数:中央2752勝、日本国内3757勝
- 2011年末までの通算GI級競走勝利数:75勝
年度 | 生年別GI優勝産駒(直仔のみ) |
92年 | ジェニュイン、タヤスツヨシ、ダンスパートナー、フジキセキ、マーベラスサンデー |
93年 | イシノサンデー、ダンスインザダーク、バブルガムフェロー |
94年 | サイレンススズカ、ステイゴールド |
95年 | スペシャルウィーク |
96年 | アドマイヤベガ、スティンガー、トゥザヴィクトリー |
97年 | アグネスフライト、エアシャカール、チアズグレイス |
98年 | アグネスタキオン、ビリーヴ、マンハッタンカフェ、メジロベイリー |
99年 | アドマイヤマックス、ゴールドアリュール、デュランダル |
00年 | アドマイヤグルーヴ、オレハマッテルゼ、スティルインラブ、ゼンノロブロイ、ネオユニヴァース、 ピースオブワールド、ヘヴンリーロマンス |
01年 | スズカマンボ、ダイワエルシエーロ、ダイワメジャー、ダンスインザムード、ハーツクライ、ハットトリック |
02年 | エアメサイア、ショウナンパントル、スズカフェニックス、ディープインパクト |
03年 | フサイチパンドラ、マツリダゴッホ |
主なサイアーライン
※個別記事があり、かつ種牡馬入りした(もしくはその予定のある)馬のみ
*サンデーサイレンス 1986
|ジェニュイン 1992
|タヤスツヨシ 1992
||グランシュヴァリエ 2005
|フジキセキ 1992
||ダイタクリーヴァ 1997
||カネヒキリ 2002
|||ロンドンタウン 2013
||*キンシャサノキセキ 2003
||ダノンシャンティ 2007
||サダムパテック 2008
||イスラボニータ 2011
|マーベラスサンデー 1992
|イシノサンデー 1993
|サイレントハンター 1993
|ダンスインザダーク 1993
||ツルマルボーイ 1998
||ザッツザプレンティ 2000
||スリーロールス 2006
|バブルガムフェロー 1993
|ロイヤルタッチ 1993
|ステイゴールド 1994
||ドリームジャーニー 2004
||ナカヤマフェスタ 2006
||オルフェーヴル 2008
|||エポカドーロ 2015
||ゴールドシップ 2009
||フェノーメノ 2009
||リヤンドファミユ 2010
||オジュウチョウサン 2011
||レインボーライン 2013
||ウインブライト 2014
||インディチャンプ 2015
||エタリオウ 2015
|スペシャルウィーク 1995
||リーチザクラウン 2006
||トーホウジャッカル 2011
|メイショウオウドウ 1995
|アドマイヤベガ 1996
|アグネススペシャル 1997
|アグネスフライト 1997
|アッミラーレ 1997
||ハッピースプリント 2011
|エアシャカール 1997
|ゴールドヘイロー 1997
||トウケイヘイロー 2009
|ニューイングランド 1997
|アグネスゴールド 1998
||Ivar 2016
|アグネスタキオン 1998
||アドマイヤオーラ 2004
|||アルクトス 2015
||ディープスカイ 2005
|||キョウエイギア 2013
|||サウンドスカイ 2013
|サンライズペガサス 1998
|マンハッタンカフェ 1998
|ミスキャスト 1998
|メジロベイリー 1998
|アドマイヤマックス 1999
||ケイティブレイブ 2013
|ゴールドアリュール 1999
||エスポワールシチー 2005
||スマートファルコン 2005
||コパノリッキー 2010
||ゴールドドリーム 2013
||クリソベリル 2016
||ナランフレグ 2016
|デュランダル 1999
|オレハマッテルゼ 2000
|サクラプレジデント 2000
|ゼンノロブロイ 2000
||ペルーサ 2007
|ネオユニヴァース 2000
||アンライバルド 2006
||ロジユニヴァース 2006
||ヴィクトワールピサ 2007
|リンカーン 2000
|スズカマンボ 2001
|ダイワメジャー 2001
||カレンブラックヒル 2009
||コパノリチャード 2010
||ブルドッグボス 2012
||アドマイヤマーズ 2016
||セリフォス 2019
|ハーツクライ 2001
||ウインバリアシオン 2008
||ジャスタウェイ 2009
|||マスターフェンサー 2016
|||ダノンザキッド 2018
||ワンアンドオンリー 2011
||シュヴァルグラン 2012
||スワーヴリチャード 2014
||Yoshida 2014
||サリオス 2017
|ハットトリック 2001
|ブラックタイド 2001
||キタサンブラック 2012
|||イクイノックス 2019
|||ブラックブロッサム 2019
||タガノエスプレッソ 2012
|レゴラス 2001
|アドマイヤジャパン 2002
|ディープインパクト 2002
||ダノンシャーク 2008
||ダノンバラード 2008
||トーセンラー 2008
||トーセンレーヴ 2008
||リアルインパクト 2008
|||ラウダシオン 2017
||スピルバーグ 2009
||ディープブリランテ 2009
||キズナ 2010
|||バスラットレオン 2018
|||ジャスティンミラノ 2021
||エイシンヒカリ 2011
||サトノアラジン 2011
||トーセンスターダム 2011
||ミッキーアイル 2011
||グレーターロンドン 2012
||ダノンプラチナ 2012
||リアルスティール 2012
||サトノダイヤモンド 2013
||シルバーステート 2013
||ディーマジェスティ 2013
||マカヒキ 2013
||アルアイン 2014
||サトノアレス 2014
||サングレーザー 2014
||グローリーヴェイズ 2015
||Saxon Warrior 2015
||Study of Man 2015
||ダノンプレミアム 2015
||フィエールマン 2015
||サトノジェネシス 2016
||ダノンキングリー 2016
||ロジャーバローズ 2016
||ワールドプレミア 2016
||コントレイル 2017
||Auguste Rodin 2020
|マツリダゴッホ 2003
|マルカシェンク 2003
その他のニコニコ大百科に記事があるサンデーサイレンスを父系に持つ競走馬についてはサンデーサイレンス系の記事を参照。
関連動画
関連項目
- 競馬
- 競走馬の一覧
- サンデーサイレンス系
- ウィッシングウェル(Wishing Well サンデーサイレンスの母親)
- ヘイロー(Halo サンデーサイレンスの父親)
- ジョージ・アンドリュー・ポープ・ジュニア(サンデーサイレンスの牝系をカリフォルニア州でつないできた馬産家)
脚注
- *ケンタッキーダービー優勝馬にはバラのレイがかけられる(そのため「Run for the Roses」という異名がある)。つまり「(ケンタッキーダービーを勝つような)一流になれる馬じゃない」というような意味。
- *これだけだとオグデン氏とその他の顧問が悪役に見えてしまうので彼らの名誉のため補足すると、彼らはハンコック父の遺言で正式に委託され、公正な観点からハンコック弟を指名しただけである。当時のアーサー三世は音楽と酒に傾倒する典型的なドラ息子で、信用が得られなかったのも仕方がない有様だったのだ。
- *フェミルブタゾン。人間用で言うならイブプロフェンやロキソプロフェンのような鎮痛剤に近い。通常の治療用としては問題ないが、競走前に「競走中の痛みを和らげて走らせ続ける」用途で用いられることが多く、制限がかけられている。
- *それまでの記録はノーザンテーストの10年連続、中央競馬11年連続が最高。
- *サンデーサイレンス以前の、例えば1991年のダービーでは出走20頭中10頭が父外国産馬。更に前の1981年のダービーでは出走27頭中22頭が父外国産馬。
- *ただし、早世が悪いことばかりではなかったのも事実である。ノーザンテーストやブライアンズタイムの血統が孫の代で衰退した理由の一つに、自身が種牡馬として余りに息の長い活躍をしたために優秀な繁殖牝馬を独占してしまい、後継種牡馬達が交配相手に恵まれなかった(近い世代の有力牝馬の大半が自身と同父、または父親のお手つき)ことがあるからだ。サンデーサイレンスの場合、ちょうど息子たちが種牡馬としてのピークを迎えたタイミングで、それまで父親が独占していた繁殖牝馬が一斉に開放されたことが、孫世代でも優秀な牡馬を多数輩出する結果に繋がった面もある。
- *年齢換算は、前者はWow Horsesというサイトに掲載されている「馬齢4歳=人間の20歳、馬齢24歳=人間の70歳」に基づき、4歳以降の数式「10+馬齢×2.5」の数式を用いたものとして、後者は前者の数式が人間の平均寿命70歳が短く見積もり過ぎていることから、古馬となってからの加齢を1年につき3歳とみなし、「20+(馬齢-4)×3」に補正して計算した場合の年齢。年齢換算については諸説あるため併記している。
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