ディズニーとは、アメリカの大手エンターテイメント企業ウォルト・ディズニー・カンパニー、同社の創業者ウォルト・ディズニー、同社による映画・音楽・キャラクター・テーマパークなどのコンテンツ及びそれらの総体としてのブランドを指す
ウォルト・ディズニー・カンパニー (The Walt Disney Company,WDC) とは、アメリカのメディア・コングロマリットである。日本法人はウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社。
ディズニーはアニメーション映画およびテーマパークで有名だが、「アメリカ3大ネットワーク」のABCを傘下に収め、同放映局や自社TVチャンネルにおける番組放映及び放映番組の制作なども行うメディア・コングロマリットである。本社所在地はカリフォルニア州バーバンク市サウス・ブエナ・ビスタ・ストリート500番地。従業員は子会社含め約20万人。2018年現在のCEO(最高経営責任者)はボブ・アイガー(ロバート・アイガー)
現在、以下の5つの事業を展開している。
1901年12月5日、ウォルト・ディズニー(本名ウォルター・イライアス・ディズニー)はイリノイ州シカゴにて母フローラと父イライアスの4男として生まれる。当時一家は貧しく、父イライアスは何度も事業を失敗し、仕事を変えながら引っ越す生活を繰り返していた。父イライアスはとても厳格で子どもも厳しく育てていたので、ウォルト自身幼少期にはあまり良い思い出がないようである。例外はミズーリ州マーセリンに住んでいた時期で、ウォルトにとって幼少期の重要な出来事はほとんどこのマーセリンの街で起こった、と後年回想している。大人になってもこの時期の経験は心に残り続けていたらしく、ディズニーランドの玄関口であるメインストリートUSAはマーセリンの街並みをモデルとしている。(TDLのワールドバザールもそうである)
1914年に第一次世界大戦が始まると、ウォルトも他の多くのアメリカ人同様に、国粋主義に傾倒し、愛国心が芽生えていた。17歳の時には軍にも志願したが、17歳では若すぎると断られたので、今度は年齢を詐称し、赤十字の救急隊に入隊、フランスに派遣され後方支援を行う。第一次世界大戦が終わり帰国すると、父の会社に用意されていた就職口を蹴り、地元の広告会社でデザイナーとして働き出す。ここで出会ったのが天才アブ・アイワークスである。2人は仕事でもプライベートでも親密になり、「アイワークス・ディズニー社」という広告デザイン会社も立ち上げたが、すぐにウォルトは「カンザスシティ・スライド社」にアニメーターとして雇われることになり、アイワークスを置いて行ってしまう。
1921年になると、ウォルトは独立し「ラフォグラム社」というアニメ会社を設立する。 しかしウォルト・ディズニーは、アーティストとしての才能は抜群でも、経営者にはお世辞にも向いているとは言い難い。それがまず災いしたのがこのラフォグラム社であろう。ウォルトは作品を作るに当たり、芸術家として妥協を許さなかったので、制作資金を湯水のごとく使い、会社はすぐに財政難に陥る。途中、アニメーションの中に実写を組み込むという斬新なアイデアを出し、ルイス・キャロル原作「不思議の国のアリス」を用いてアリス・コメディを制作したが、時すでに遅し。銀行はもはや融資をしてくれなくなり、1922年、ラフォグラム社は1年足らずで倒産する。
さすがのウォルトも半ば諦めかけていると、ウィンクラー社の社長であり、ニューヨークのディストリビューターでもあったマーガレット・J・ウィンクラーからアリス・コメディに関する契約を結びたいと連絡が来る。このチャンスを逃すまいと、ウォルトは兄のロイ・O・ディズニーを説得し、1923年10月16日、2人で「ディズニー・ブラザーズ・カートゥン・スタジオ」を共同設立。ディズニー社誕生の瞬間である。(今から考えれば、このときウォルトが1人で独走せずロイの助けを借りたのはファインプレーであった。ロイは堅実な性格で経営能力もあったので会社の財務などを担当し、予算面からウォルトを支えたのだ)加えて、ウォルトはアブ・アイワークスも誘う。これも今から考えれば超絶ファインプレーだ。
ウィンクラーとの契約により、3年間は「アリス・コメディー」シリーズを制作し、人気を博した。プライベートでは当時ディズニー社で働いていたリリアン・バウンズとの社内結婚も果たす。社屋も新設し、社名を「ウォルト・ディズニー・スタジオ」に変更。アリス・コメディーに続き、1927年に制作した「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」(しあわせウサギのオズワルド)シリーズも大人気となるが、なんと翌年の1928年、契約上、オズワルドの著作権は、ウォルトではなく、ウィンクラーの夫でありウィンクラー社の共同経営者でもあるチャーリー・ミンツにあることが発覚。ミンツは今後オズワルドをウォルト抜きで制作すると決め、ディズニー社の社員の引き抜き工作まで行う。ほぼ全ての社員が引き抜かれたが、アブ・アイワークスはウォルトを裏切らず引き抜きに応じなかった。アイワークス・ディズニー社のときはウォルトは自分を置いてカンザスシティ・スライド社に行ってしまったのに、アイワークスさん、健気…(しかもアイワークスは事前にウォルトに「ミンツが我々の引き抜き工作をしている」と忠告していた。にもかかわらず、楽観的なウォルトはそれを全く信じなかったらしい…)
絶望状態だった中、もうオズワルドの失敗は繰り返さぬと生み出した新キャラクターこそ、あの世界一有名なネズミ「ミッキーマウス」である。ちなみに、オズワルドもミッキーも、デザインを完成させたのはウォルトではなくアイワークスである。実はデザイナーとしての純粋な画力やセンスはウォルトよりもアイワークスのほうが上というのが多くの人の一致した見解である。つまり、皮肉にもミンツが唯一引き抜きに失敗したアイワークスこそが、(ウォルトを出し抜くために)ミンツにとって一番必要な人材だったのだ、アイワークスさんを引き抜けなかった時点で勝負は決まっていた…
ミッキー出演作として、まずは「プレーン・クレイジー」「ギャロッピング・ガウチョ」の2作を制作する。この2作はサイレント映画(無声映画)であるが、当時の映画界はちょうどサイレント映画からトーキー映画(音声のある映画)に移行しようという時代だった。そこでウォルトはトーキー映画を作ろうと提案し、制作されたのが「蒸気船ウィリー」である。したがって制作順ではプレーン・クレイジーが初だが、公開順では蒸気船ウィリーが初作品である。一般的には、初公開作品である蒸気船ウィリーがミッキーのデビュー作とされる。1928年11月18日、蒸気船ウィリーが公開されると、瞬く間にミッキーはスターへの階段を駆け上がっていく。デビュー翌年の1929年から世界恐慌が起こったことも当時のアメリカ人がミッキーのような悪役を倒し成功する典型的なヒーローに惹かれた理由の1つだろう。
ミッキーが人気になると、ディズニー社は他社商品にミッキーを利用するライセンスを付与し、ライセンス料を受け取るというビジネスを開拓する。食器、歯ブラシ、時計、ラジオなど、いろいろな商品にミッキーがデザインされ、ライセンス料による収益は映画の興行収入と同じかそれ以上のものとなった。ご存知の通り、ディズニー社は現在でもこのビジネスを積極的に行っている。
ディズニー社はミッキーシリーズに並行して、1929年の「スケルトン・ダンス」(骸骨の踊り)以降、「シリー・シンフォニー」といわれる一連のシリーズを開始。1932年には、「シリー・シンフォニー」シリーズの1つであり、世界初のフルカラーアニメーション作品である「花と木」(Flowers and Trees)が公開。花と木は、ちょうどこの年から創設されたアカデミー賞の短編アニメ部門を受賞。以後、ディズニー社はアカデミー賞の常連となる。
1934年になると、ウォルトはグリム童話の1つ「白雪姫」を原作とした長編作品を作ろうなどという突飛なことを言い出す。当時のアニメは、ギャグを中心とした短編作品が主流であり、「ストーリー性」のある長編作品を作るという発想自体がほとんどなかった。そもそも長編作品を作るだけの予算・制作期間・人員が確保できないという事情もある。ウォルトは毎日のように白雪姫の話を聞かせ徐々に社員を説得し、制作にこぎつけるが、やはり莫大な予算と制作期間がかかることになる。公開前には「ディズニーの道楽」とも揶揄された。しかし、1937年12月21日、世界初の長編カラーアニメーション映画「白雪姫」が公開されると、観客は白雪姫の虜となり、それまで「自動で動く紙芝居」「子供だまし」としか思われていなかったアニメーションが芸術として認められ、計8部門のアカデミー賞を受賞し、莫大な制作費用を余裕で回収するさらに莫大な収益を上げることになる。
だが、白雪姫の大成功も束の間、この後、ウォルト自身やディズニー社に畳みかけるように危機が訪れる。
白雪姫の大成功の後、ウォルトとロイは両親に家をプレゼントするが、この家が欠陥住宅で、ガス漏れ事故があり、母フローラが死亡。一方、ディズニー社は白雪姫に続いて、イタリアの童話を原作とした「ピノキオ」と、クラシック音楽とアニメーションを融合させた世界初のステレオ音声映画「ファンタジア」の制作を行う。作品としてはどちらも名作だが、公開当時、既に第二次世界大戦が始まっており、海外への輸出がほとんどできなくなったことと、ステレオ音声映画を上映できるような音響設備のある映画館がほとんどなかったことで大赤字に。白雪姫で儲けたお金をほぼ使い果たす。事態はそれだけでは終わらない。
実は白雪姫の大成功の後、ディズニー社は生産体制の確立のため人員を大幅に増やしており、幹部と末端社員の給与面での格差が非常に大きくなっていた。人員増に伴い、株式を発行して資金を捻出した上で、充実した設備の新社屋も建設したが、幹部しか利用できない福利厚生施設もあった。不満を募らせていた社員たちは、労働組合の結成も視野に入れ始めるが、ウォルトはなんと全社員の前で「組織に貢献した者が優遇されるのは当然だ。君たちも文句を言う暇があったら、指示される前に自分で考えて働きなさい」という趣旨の大演説をしてしまう。もちろん彼にしてみれば正論を言っただけだなのだろうが、言うまでもなくこの演説は火に油を注ぐ結果となり、大半の社員が労働組合に入った。さらにその後、グーフィーの生みの親である大物アニメーター「アート・バビット」を組合活動を理由に解雇。(犬をモチーフとした人気キャラクター「グーフィー」を生み出したアート・バビットは最後まで「会社の犬」になることに抵抗したのだ)これが命取りとなった。
1941年のある朝、ウォルトが会社に行くと、社員たちが大行進。赤字の原因の1つでもある映画「ピノキオ」が操り人形から本物の人間になっていくストーリーであることになぞらえて、ピノキオの絵とともに「我々は会社の操り人形ではない」と書かれたプラカードを掲げる者もいた。ストライキの開始である。(約半数の社員がストライキに参加した)楽観的で、自分の部下にストライキを起こされるなど考えもしていなかったウォルトは、これに大変なショックを受け、これ以降、まるで人が変わってしまった、と言われる。ストライキが続く中、ウォルトは国務省の要請により南米への親善旅行に出発。(この旅行中にウォルトは父イライアスの訃報を聞くことになる)社長不在となった旅行中、ストライキはロイが組合と交渉し解決した。(もう最初からウォルトは創作活動とかに専念して経営面は全部ロイに任せていたほうがよかったんじゃ…)なお、ウォルトは、憎むべき対象が欲しかったのか本気でそう思い込んでいたのか、この件を「共産主義者の陰謀」によるものだと決めつけた。これをきっかけに反共産主義者となり、赤狩り(レッドパージ)への資金提供や、下院議会での赤狩りを目的にした委員会における証言なども行う。
ストライキが解決すると、今度は、第二次世界大戦の影響により、会社が米軍に接収され、アメリカを擁護し敵国を非難するいわゆる「プロパガンダ映画」を制作することになる。ドナルドダックを主人公とし、ナチスドイツのヒトラーを皮肉るプロパガンダ映画(総統の顔)などである。「空軍力の勝利」という、もうタイトルからしてプロパガンダ丸出しの映画もある。
戦後はアニメパートと実写パートのある「南部の唄」や、実写映像を駆使した「あざらしの島」など、従来とは異なる方向性も模索し始めた。(「あざらしの島」以降、大自然の映像を用いた「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」シリーズがスタート)ウォルト自身は蒸気機関車に夢中になり、自宅に精密なジオラマも作っていた。しかしながら、結局のところ、大衆が最もディズニーに期待しているのは昔も今もアニメーションである。そこで1950年に公開された「シンデレラ」は古典的なディズニーアニメーションとして歓迎されたが、同時に、初の完全実写映画である「宝島」も公開されたほか、クリスマスにはABCでディズニー提供の特別番組が放映され、映画から「テレビ」という新しい産業にも足を踏み入れていた。この特別番組は新聞が「ウォルト・ディズニーはその気になればいつでもテレビ業界を乗っ取ることができる」と書き立てるほど、驚異的な高視聴率を記録した。また1955年にスタートした「ミッキーマウス・クラブ」は伝説的な子供向け番組である。
続けて、テーマパーク事業にも乗り出し、1955年7月17日にはカリフォルニア州アナハイムに「ディズニーランド」がオープン。50年代にパーク内は次々と拡張され、人気は鰻登りに。60年代にはウォルトの集大成ともいわれる映画「メリー・ポピンズ」が公開されたほか、1964年にはニューヨーク万博でディズニー社が4つのパビリオンを提供し、国際的な知名度やブランド力も一気に上がっていく。(ちなみにこのときニューヨーク万博に提供したパビリオンの1つは、後にディズニーランドにオープンし人気アトラクションとなるイッツアスモールワールドである)だが、ここで1つの時代が終わりを告げる、ウォルト・ディズニーが1966年12月15日、癌で亡くなった。
ウォルトの死後はロイや、カードン・ウォーカー、ドン・テータムが会社を引き継ぐが、1970年代に入ると、ロイも亡くなり、黎明期のディズニー社を支えてきたベテランアニメーターも引退していき、ディズニーアニメーションの人気は下落していく。当時、売り上げの多くがテーマパーク事業によるものになっていた。競争力を回復させるために「タッチストーン・ピクチャーズ」という従来のディズニー映画とは別枠の新ブランドも作った。
転機が訪れたのは、1984年にマイケル・アイズナーとフランク・ウェルズがディズニーのトップに就任してからのことである。1989年の「リトル・マーメイド」を火付け役として人気が復活し、アニメ映画として史上唯一アカデミー賞作品賞にノミネートされた「美女と野獣」や、「アラジン」「ライオンキング」など、空前の大ヒット作品を連発。黄金期の再来である。このことは「ディズニー・ルネッサンス」と呼ばれている。ディズニー・ルネッサンスの最大の立役者であるマイケル・アイズナーは、ディズニー社における「中興の祖」ともいうべき人物であり、アイズナーがトップであった時期のことを「アイズナー体制」と言うこともある。1991年にはダウ平均株価の銘柄に加わり、1993年には映画会社「ミラマックス」を買収、ディズニー社の業績は回復していく。(ミラマックスは2010年に売却)
アイズナーなどの功績により輝かしい復活を遂げたディズニー社は1995年、世界最大の売上高を誇るテレビ局であるABC(当時の社名は「キャピタルシティーズ/ABCインク」)の買収に打って出る。買収額は約190億ドル(当時のレートで約1兆6700億円)で、当時としては米国史上2番目に買収額の高いM&Aであった。この買収により、ディズニー社はABC系列の8つのTV局、21のラジオ局、7つの日刊新聞、スポーツ専門局のESPNの経営権を獲得し、一気に世界最大規模のメディア・ネットワークを手に入れた。190億ドルという途方もないほど高い買い物だが、この買い物は190億ドルをはるかに超える利益をディズニー社にもたらしたと言える。現在のディズニー社は売上高の4割、営業利益の6割がメディア事業によるものだからである。この買収以降、ディズニー社の株価、売上は急激に増えていく。
一方で90年代後半になると、ディズニーの配給したピクサーのCGアニメーション映画「トイ・ストーリー」が大ヒット。ディズニー・ルネッサンスの立役者の1人でもあるジェフェリー・カッツェンバーグが独立し設立したアニメ会社「ドリームワークス」の人気も上がっていき、2000年代前半まで、一時この2社に押され気味になる。また、ロイ・O・ディズニーの息子であり、すなわち、ウォルト・ディズニーの甥であるロイ・E・ディズニーは経営方針をめぐってマイケル・アイズナーと対立することになる。アイズナーは、強力なリーダーシップを発揮してディズニー・ルネッサンスへと導いたが、リーダーシップが強いということは、ロイ・E・ディズニーなどの創業者一族に対しても物怖じせず意見を言ったりウォルトが築き上げたディズニーから新時代のディズニーへと改革をしていったりするということでもあり、これがロイ・E・ディズニーにとっては気に食わなかったのだろう。ロイ・E・ディズニーは「SaveDisney」((アイズナーから)ディズニー社を守れ)というスローガンまでかかげ、2005年にはアイズナーを辞職に追い込んだ。
2005年にアイズナーが辞職した後、後継者となったのがロバート・アイガー(愛称でボブ・アイガーと呼ばれることが多い)である。ロバート・アイガー率いるディズニー社は2006年にピクサーを企業買収し子会社化に成功。2010年にはコミック大手の「マーベル」を買収し傘下にし、2013年にはルーカス・フィルムも買収しスターウォーズの新シリーズの制作も行うなど、ディズニー社の勢力を広げていく。同時に、2010年代になると、「塔の上のラプンツェル」「アナと雪の女王」が記録的な大ヒットとなり、ディズニーアニメーションの人気も再び回復し好調になる。傘下に収めたピクサー、マーベルの人気もさらに上がっていく。さらには実写映画も大好調でハリウッドにおける記録を次々と塗り替えている。アイズナー体制の下でもディズニー社の業績は右肩上がりだったが、ボブ・アイガーによっても業績はとんでもなく上がっていく。2005年以降、わずか十数年でディズニー社の株価(時価総額)は約450億ドルから約1700億ドルと3倍以上に、売上高は約320億ドルから約550億ドルと、凄まじい成長を遂げている。
近年は、40年代50年代に娯楽の中心が「映画」から「テレビ」に移行していったように、「インターネット」や「スマートフォン」が(特に若者にとっては)娯楽に欠かせない存在になりつつある。そこでディズニーはインターネット上の動画集約サービスであるHuluの株主になったり、ストリーミング技術事業者である「BAMTech」を買収したりしている。また、2018年にはESPNのストリーミング配信サービスをスタートし、2019年にはネットフリックスの対抗馬として、ディズニー独自のストリーミング配信サービスをスタートすると発表しており、インターネット分野への進出も本格的に始めようとしている。
そうしたこともあり、ディズニーはHuluの経営権を狙い、ハリウッドにおけるビッグシックス(6大映画会社。ディズニー社自身もビッグシックス)の一角である21世紀フォックスの買収に動き出す。実はHuluはディズニーが株式の30%、21世紀フォックスが同様に30%を保有しているので、21世紀フォックスを買収し30%分を手にすれば計60%となり、51%以上の株式を保有することになるので、経営権を持つことができるのだ。もちろんそれだけが21世紀フォックス買収の理由というわけではないが、大きな目的の1つであることは明らかである。同時に、ビッグシックスの一角を買収するとなれば、長年ビッグシックスによる均衡状態が続いたハリウッドの業界地図も変わり、ハリウッドにおけるディズニー社の勢力がますます強まることになる。一時買収合戦もあったが、結局、ディズニー社が買収合戦を制した。買収額は約713億ドル。日本円にして約8兆円。もはや小国の国家予算である。
こうしてもともとはアニメ会社として設立されたディズニー社は今や、アニメーションのみならず、テーマパーク、実写映画、TV番組、コミック、スポーツ観戦、動画配信サービス…と「娯楽」に関するほとんどの分野において業界トップクラスに君臨しており、エンターテイメント企業として比類なき超巨大ブランドを形成している。
ケーブルネットワークの運営や、米国内TV局・ラジオ局の運営、TV番組の制作・配給などを行っている。
1996年にアメリカ4大ネットワークの一角であり、世界最大のTV局であるABC(アメリカンブロードキャスティングカンパニー)を買収したことにより、ディズニーは世界最大規模のメディア・ネットワークを手中に収めた。
日本ではディズニーといえばテーマパークや劇場映画のイメージが強いが、実は現在ディズニーの屋台骨となっているのはメディア・ネットワーク事業であり、ディズニー全体の売上高の4割ほどを稼ぎ出す。
ディズニーブランドのケーブルネットワーク。160ヶ国以上の国において30以上の言語で、総数100以上のチャンネルを有する。
主なチャンネルは「ディズニー・チャンネル」、「ディズニー・ジュニア」、「ディズニーXD」、「ディズニー・シネマ」、「ディズニー・シネマジック」、「Dlife」、「ラジオ・ディズニー」など。
日本では、BS放送としてディズニーの子会社であるウォルト・ディズニー・ジャパンが「ディズニー・チャンネル」「ディズニー・ジュニア」「ディズニーXD」を、同じくディズニーの子会社であるブロードキャスト・サテライト・ディズニーが「Dlife」を運営している。
1983年4月18日に放送開始。主に6歳~14歳の子供をターゲットにし、ディズニー映画はもちろんのこと、ライブアクション・コメディやアニメシリーズ、オリジナル映画などを放送する。また、他社制作番組も放送する。
主な番組に、「リロ・アンド・スティッチ ザ・シリーズ」「フィニアスとファーブ」「シェキラ!」「悪魔バスター★スター・バタフライ」「ディセンダント」など。
2006年に放送されたオリジナル映画「ハイスクール・ミュージカル」はサウンドトラックがビルボードのアルバムチャートランキングで1位を獲得したほか、続編として劇場用作品が制作されるなど大ヒットを記録した。
主に2歳~7歳の幼児及びその保護者をターゲットにし、ディズニーのキャラクターやストーリーを用いた幼児向け学習番組を中心に放送している。
ディズニー傘下のABCが運営していたケーブルネットワーク「ソープネット」は2012年にディズニー・ジュニアへ移行することを発表し、2013年にはすべての配信事業者がディズニー・ジュニアへ移行し、ソープネットは運営終了となった。
主に6歳~14歳の子供をターゲットにし、自社制作及び他社制作のライブアクションシリーズやアニメ番組を放送する。
番組にはスターウォーズやアベンジャーズ、スパイダ―マンなど、比較的ヒーロー系のものが多い。全世界130以上の国や地域で視聴することが可能。
ディズニー・シネマやディズニー・シネマジックは主にヨーロッパで運営されているチャンネルである。ディズニー映画やディズニーのテレビ用アニメシリーズなどを視聴することができる。
ディズニー所有の米国内ラジオ局で放送される児童、ティーンエイジャー、家族をターゲットにしたラジオ・ネットワーク。1996年からディズニー傘下のABCラジオネットワーク内でスタートした。ラテンアメリカでも視聴可能。
ディズニー傘下のスポーツ専門局。1979年9月7日設立。ESPNは「Entertainment and Sports Programming Network」の略。1984年にABCに買収されABC傘下となり、1996年に今度はABCがディズニーに買収されたため、ABC傘下のESPNも必然的にディズニー傘下となった。現在、ディズニーがESPNの株式の80%を所有し、残りの20%をハースト・コーポレーションが所有している。
ESPNはナショナル・フットボール・リーグ(NFL)、ナショナル・バスケットボール・アソシエイション(NBA)、メジャー・リーグ・ベースボール(MLB)、ウィンブルドン選手権、USオープン・テニス、マスターズ・ゴルフ・トーナメントなど、多くの主要なスポーツリーグやスポーツ大会の放映に関する権利を有している。
現在、米国内ではESPN、ESPN2、ESPNEWS、ESPNクラシック、ESPNデポーツ(スペイン語チャンネル)、ESPNU(大学スポーツ専門チャンネル)、SECネットワーク、ロングホーン・ネットワーク(テキサス州立大学競技専門チャンネル)の8つのチャンネルを有している。また、ESPNラジオや隔週のスポーツ専門雑誌ESPNザ・マガジン、女性スポーツファン&女性アスリート向けのespnWなどの運営も行っている。
さらに、ESPNは「ESPNクラシック・カナダ」や「ディスカバリー・カナダ」、「アニマル・プラネット・カナダ」などのチャンネルをカナダで運営するCTVスペシャルティ・テレビジョン・インクの株式を30%保有している。また、アジアを中心にスポーツ番組を提供しているESPNスター・スポーツの株式を50%保有していたが、こちらは2012年にジョイント・ベンチャーに売却している。
近年、視聴者数の減少が目立ってきており改革が迫られている中、2018年にストリーミング配信サービスを開始し、注目されている。
ディズニー傘下のABCの運営する米国内ケーブルネットワーク。1977年4月29日にCBNがCBNサテライト・サービスとして運営を開始。その後、フォックスグループのものになったが、2001年5月31日にディズニーがフォックス・ファミリー・チャンネルを買収し、それに伴いABCファミリーに改名された。さらにその後、2016年にフリーフォームに改名され、現在に至る。
主に14歳~34歳をターゲットにし、オリジナルのライブアクションシリーズや、ディズニー映画、「25デイズ・オブ・クリスマス」などの祝日用番組も放送する。
ディズニーは米国の以下の地域において以下の8つのテレビ局を所有している。すべてディズニー傘下のABCの系列局である。
ウォルト・ディズニーはよく2人の娘(ダイアンとシャロン)を連れて遊園地に行っていたが、あるとき、娘たちは楽しんでいるが、父親である自分はベンチに座っているだけということに気づき、父親も含め家族全員で楽しめるような遊園地が必要だと考えるようになった。というのがテーマパークを作ろうとした動機と言われているが、これは「神話」の側面もあり、どこまで実話かはわからない。
テーマパーク事業のためにウォルトは、ディズニー社とは別に、WEDエンタープライズ社という会社を自費で起業する。(WEDはウォルトの本名のウォルター・イライアス・ディズニーの頭文字)もっとも、実質的には、ウォルトが選んだディズニー社の一部の社員がWEDエンタープライズ社の社員も兼任するという形だったのだが。
WEDエンタープライズ社で働く者は「イマジニア」と呼ばれた。イマジニアとは「イマジン」と「エンジニア」という2つの単語を組み合わせたウォルトによる造語である。このことから、後にWEDエンタープライズ社は「ウォルト・ディズニー・イマジニアリング社」に社名を変更しており、現在でもディズニーパークを設計・開発するのはウォルト・ディズニー・イマジニアリング社で、そこで働く者はイマジニアと呼ばれている。
ちなみにウォルトは最初、会社の隣に「ミッキーマウス・ビレッジ」を作ろうとしたが、後に「ディズニーランド」に改名し、開発計画が大きくなるにつれ土地も足りなくなり、もっと広い土地を探し始めた。
ところで、テーマパークを作るには膨大な初期費用がかかる。そこでディズニーランドを作るには「スポンサー」が必要だった。ウォルトは大手TV局に話を持ち掛けるがことごとく断られる。しかしABCだけは違った。1950年のクリスマスにディズニーの提供によりABCで放映された特別番組は大好評で、ABCはディズニーに継続的に番組を提供してもらうことを望んでいたのだ。そこでディズニーは「番組を提供するから、その代わりにディズニーランドに出資してくれ」と交渉し、これが成功する。 (この際、ディズニーランドの全体の見取り図は、かつてディズニー社で働いていた美術監督を呼びよせ、ウォルトがつきっきりでどこに何を描くか詳細に指示し、わずか2日ほどで書き上げた)かくして、ディズニーランド計画はABCがスポンサーとなり本格的に動き出す。(これまでも話題に出ているがABCとはこれより40年以上後の1995年にディズニーに買収されることになるあのABCである。ABCとディズニーは何かと縁があるのだ…)
1955年7月17日にカリフォルニア州アナハイムに「ディズニーランド」がオープン。この日はカリフォルニア州知事もかけつけ、何十台ものTVカメラで現地の模様が生中継され、後の大統領である俳優ロナルド・レーガンなどもリポーターとなっていた。だが、この日の実態は酷い有様だった…記録的な猛暑、アトラクションの不具合、トイレの不足、レストランに並ぶ長蛇の列、フェンスを越えての無断入園…後に「ブラック・サンデー」と語り継がれることになる。まぁ、そうした苦労もあったが、50年代にパークは次々と拡張されていき、人気は右肩上がりとなっていく。
ディズニーランドの何がそれまでの遊園地と違うのか。それは「ストーリー」の有無である。メリーゴーランドやジェットコースターがあったとして、それらには何か関連性があるわけではないし、遊具にストーリーがあるわけでもないが、ディズニーランドはエリア内と各施設に1つあるいは複数のストーリーがあり、アトラクション、レストラン、ショップ、トイレ、植物、ごみ箱などあらゆる周辺設備はそのストーリーに沿って配置され、それぞれに関連性が持たされている。例えば、TDLの「アリスのティーパーティー」は構造的にはコーヒーカップが回るだけのありふれたものだが、そこに映画「不思議の国のアリス」のストーリーが重なることによって、他の遊園地には絶対にない唯一無二のものとなる。「ジャングルクルーズ」と「ウエスタンリバー鉄道」は本来別々のアトラクションだが、(架空の)同じ会社が運営しているというストーリーがあり、それぞれに関連性がある。ディズニーはもともと映画人であり、ディズニーランドをゲストが五感を使い体感できる一種の映画とも考えていた。そのためディズニーランドにはストーリーがあるのである。
また、それまでの遊園地は混雑を避けるために複数の入り口を用意していたが、ディズニーランドの出入り口は1つである。ディズニーランドはメインストリートUSA、TDLはワールドバザール、ゲストは否応なしにそこから出入りするほかない。これは「ストーリー」の始まりを規定するものである。
もう1つ重要なのは、ディズニーランドは何もディズニー映画だけがテーマではないということである。ディズニーランドはアメリカという国の(美化された)歴史と理想を描く場所でもある。すなわち、「過去へのノスタルジー」と「理想の未来」である。前者は西部開拓時代をテーマにしたフロンティアランド(TDLのウエスタンランド)、後者は未来の科学技術などをテーマにしたトゥモローランドがそれに当たる。ディズニーランドでは「現在」という概念が意図的に排除されている。(現在の悩みなど忘れて、古き良き時代と希望溢れる将来へと旅立とう、ということ)ディズニーランドがアメリカという国の(美化された)歴史と理想を描いているということこそ、ディズニーランドが「アメリカ文化の象徴」といわれるゆえんであり、大多数のアメリカ人が本来単なるテーマパークに過ぎないディズニーランドに並々ならぬ感情を抱く理由でもある(その感情が「好き」などの肯定的な感情か「嫌い」などの否定的な感情か、という違いはあるが)
また、ディズニーランドは人気が出るにつれ、多くの国の首脳や要人も訪れるようになったが、これが一種の正当性を高めていった。旧ソ連の最高指導者フルシチョフが、アイゼンハワー大統領との首脳会談のためアメリカに公式訪問する際、ディズニーランドに立ち寄ろうとしたら、警備上の理由で却下され、20世紀フォックスの映画スタジオで行われた昼食会の場で「私はディズニーランドに行きたいのにセキュリティ上の理由で無理だと言われた。一体何故なのか!ディズニーランドには秘密のロケット基地でもあるのか?コレラやペストでも流行しているのか?それともギャングが私を殺そうとしているとでも?」と叫び、公然とブチ切れたエピソードはとても有名である。
日本の昭和天皇も1975年にディズニーランドに訪問したが、このとき在米日本大使館は昭和天皇の訪問先の選定について外務省に対し「暴力と悪のイメージが結びつきやすいハリウッドではなく、子供の世界であり、幸せや喜びを連想させるディズニーランドの方が圧倒的によい」と伝えている。
その後、ディズニーランドをさらに進化させたものが「オーディオアニマトロニクス」という技術である。これは「オーディオ」と「アニメーション」と「エレクトロニクス」という3つの単語を組み合わせた造語で、音声に合うように機械を動かす技術のことである。これによりアトラクションの人形などが歌や言葉に合わせて生の人間のような自然な動きをすることが可能になる。1963年6月23日にオープンしたアトラクション「魅惑のチキルーム」で初めて実用化され、今では世界のディズニーパークにとって欠かせない存在となっている。
こうしてディズニーランドが軌道に乗ったらウォルトはすぐに次なる計画に動き出した。「ディズニーワールド」、そしてEPCOTである。EPCOT(エプコット)とは『Experimental Prototype Community of Tomorrow』の頭文字で実験的未来都市という意味である。ウォルト・ディズニーは交通網をはじめとした都市機能が高度に効率化した想像上の未来都市を実際に作ってしまおうという壮大な計画を考えていたのである。フロリダに広大な土地を買い、1965年にディズニーワールド計画を発表。また、それまでずっとウォルト個人の所有だったWEDエンタープライズ社を正式にディズニー社の子会社にする。しかし、彼はその完成を見ることなく、翌1966年に亡くなった。
ウォルトの意志を受け継いだロイはディズニーワールド計画を着々と進め、1971年10月1日、ウォルト・ディズニー・ワールド(マジックキングダム)がオープン。そのわずか2か月後、12月20日にロイ・O・ディズニーも亡くなる。1982年にはウォルト・ディズニー・ワールドにエプコットがオープンした。 翌1983年には初の米国外パークであるTDLがオープン、1998年にはクルーズ船事業もスタートし、2011年にはハワイのアウラニに初の多目的ファミリー向けリゾートがオープンするなど、着実に事業拡大している。
世界には現在、カリフォルニアに2つ、フロリダに4つ、東京に2つ、パリに2つ、香港に1つ、上海に1つ、計12のディズニーをテーマにしたテーマパーク(ディズニーパーク)がある。12のディズニーパーク合計の(2017年の)年間入場者数は約1億5000万人であり、日本の総人口を余裕で上回っている。
世界のテーマパーク業界でディズニーに次ぐ大手は、名古屋のレゴランド・ジャパンなどを運営するマーリン・エンターテイメンツや、大阪のユニバーサルスタジオジャパンなどを運営するユニバーサルであるが、マーリン・エンターテイメンツが運営するテーマパークの年間入場者数は合計で約6600万人、ユニバーサルが運営するテーマパークの年間入場者数は合計で約4900万人であるから、ディズニーの約1億5000万人というのがいかに圧倒的な数字かわかるだろう。マーリン・エンターテイメンツの2倍以上、ユニバーサルの3倍以上である。
テーマパーク別に見ても、世界のテーマパーク年間入場者数ランキングでは、TOP3をディズニーが独占し、しかも、TOP10のうち4位と10位以外の8つをディズニーが占めている。(ちなみに4位と10位はユニバーサル系である)また、世界に12あるディズニーパークのうち11のパークが上位20位以内にランクインしている。(最も順位の低い残る1つのパークでも22位である)
日本には東京ディズニーリゾート(TDR)が存在するが、これはディズニーが直轄して運営しているのではなく、オフィシャルホテルを除きディズニーに関わる諸権利を株式会社オリエンタルランド(OLC)に委任するというライセンス方式で運営されている。
ウォルトは言う。 「永遠に完成しない物語。それがディズニー」だと。またこうも述べている。「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」
ディズニーランド、ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーの2つのパーク、3つのホテル、レストランやグッズショップなどの総合施設であるダウンタウン・ディズニーで構成される。
1955年7月17日にオープンした世界初のディズニーパーク。
アドベンチャーランド、クリッターカントリー、ファンタジーランド、フロンティアランド、メインストリートUSA、ミッキーズ・トゥーンタウン、ニューオーリンズ・スクエア、トゥモローランドの8つのエリアがある。
シンボルは眠れる森の美女の城(Sleeping Beauty Castle)。
また、2019年にはスターウォーズをテーマにした新エリアがオープンする予定。
ブエナ・ビスタ・ストリート、カーズランド、グリズリー・ピーク、ハリウッドランド、パシフィック・ワーフ、パラダイス・ピア、バグズ・ランドの7つのエリアがある。
「ミッキーのファンウィール」という中央にミッキーの顔がデザインされた大きな観覧車がシンボル的存在。夜には世界最大級のウォーターショー「ワールド・オブ・カラー」が行われる。
マジック・キングダム・パーク、エプコット、ディズニーハリウッドスタジオ、ディズニーアニマルキングダムの4つのパーク、18のホテルがあり、さらに、以下の施設で構成される
アドベンチャーランド、ファンタジーランド、フロンティアランド、リバティースクエア、メインストリートUSA、トゥモローランドの6つのエリアがある。
世界のテーマパークでも年間入場者数が2000万人を超える唯一のパークであり、世界テーマパーク入場者数ランキングではもはや不動の1位である。
近未来をテーマにしたフューチャー・ワールドと、メキシコ・ノルウェー・中国・ドイツ・イタリア・アメリカ・日本・モロッコ・フランス・イギリス・カナダの計11ヵ国のパビリオンを中心としたワールド・ショーケースの2つのエリアに分かれる。
シンボルは大きな球体という外観のアトラクション「スペースシップ・アース」
アニメーション・コートヤード、コンシェルジェ・レーン、エコー・レイク、ハリウッド・ブルーバード、マペット・コートヤード、ピクサー・プレイス、サンセット・ブルバード、トイストーリーランドの8つのエリアがある。
もともとは「ディズニーMGMスタジオ」という名前だったが2008年に「ディズニー・ハリウッド・スタジオ」に改名。
2019年にはスターウォーズをテーマにした新エリアがオープン予定。
シンボルである「ツリー・オブ・ライフ」を中心に、アフリカ、アジア、ディノランドUSA、ディスカバリー・アイランド、オアシス、パンドラ・ワールド・オブ・アバター、ラフィキズ・プラネット・ウォッチの7つのエリアがある。
夜にはツリー・オブ・ライフでのプロジェクションマッピングのエンターテイメントショー「ツリー・オブ・ライフ・アウェイクイン」が行われる。
東京ディズニーランド、東京ディズニーシーの2つのパーク、4つのディズニーブランドのホテル、6つの独立経営のホテル、総合ショッピング施設のイクスピアリ、ボン・ヴォヤージュ、モノレールのディズニーリゾートラインがある。
運営はオリエンタルランド(OLC)がディズニーとのライセンス契約に基づき行う。東京ディズニーリゾートの業績に基づき、OLCはディズニーにロイヤリティを支払う。
1983年4月15日に米国外にオープンした初のディズニーパーク。
アドベンチャーランド、クリッターカントリー、ファンタジーランド、トゥモローランド、トゥーンタウン、ウェスタンランド、ワールドバザールの7つのエリアがある。
アメリカンウォーターフロント、アラビアンコースト、ロストリバーデルタ、メディテレニアンハーバー、マーメイドラグーン、ミステリアスアイランド、ポートディスカバリーの7つのエリアがある。
ディズニーランド・パークとウォルト・ディズニー・スタジオ・パークの2つのパーク、7つのホテル、総合ショッピング施設のディズニー・ヴィレッジ、27ホールのゴルフ施設がある。
さらに、ホテル、ショッピングセンター、オフィスなどのタウンセンターから成る「ヴァル・ド・ヨーロッパ」とエコツーリズムの目的地である「ヴィレッジズ・ネイチャー」が段階的に開発中で、現在までに半分ほどが開発済みである。
ディズニーランド・パリはフランス政府との契約に基づき開発されており、また、運営もユーロ・ディズニー・アソシエーツS.C.Aなどの合弁会社を通じて行われる。しかし、ディズニーは2017年にユーロ・ディズニー・アソシエーツS.C.Aの持株会社であるユーロ・ディズニーS.C.Aを買収した。
1992年4月12日にオープン。もともとは「ユーロディズニーランド」という名称だった。
アドベンチャーランド、ディスカバリーランド、ファンタジーランド、フロンティアランド、メインストリートUSAの5つのエリアがある。
バック・ロット、フロント・ロット、プロダクション・コートヤード、トゥーン・スタジオの4つのエリアがある。
映画ファンタジアの魔法使いの弟子でミッキーが被っている帽子をモチーフとした外観の「アート・オブ・ディズニー・アニメーション」がシンボル的存在。
香港ディズニーランドと3つのホテルがある。運営はディズニーの香港子会社が行い、所有権を持っているのは香港インターナショナル・テーマ・パーク・リミテッドである。香港インターナショナル・テーマ・パーク・リミテッドは香港特別行政区政府(HKSAR)が53%の株式を、ディズニーが残りの47%の株式を保有しているジョイントベンチャーである。
ディズニーは香港ディズニーランド・リゾートの業績に基づきロイヤリティを受け取る。
アドベンチャーランド、ファンタジーランド、グリズリーガルチ、メインストリートUSA、ミスティックポイント、トゥモローランド、トイストーリーランドの7つのエリアがある。
上海シェンディ・グループ・有限公司が57%、ディズニーが残りの43%の持分を保有しているジョイントベンチャーが運営している。ディズニーは上海ディズニーリゾートの業績に基づきロイヤリティを受け取る。
上海ディズニーランド、2つのホテル、ショッピングやレストランなどの総合施設ディズニー・タウンがある。
アドベンチャーアイル、ファンタジーランド、ガーデンズ・オブ・イマジネーション、ミッキーアベニュー、トゥモローランド、トレジャーコーブ、トイストーリーランドの7つのエリアがある。
シンボルは「エンチャンテッド・ストーリーブック・キャッスル」。このお城はTDLのシンデレラ城などとは違い、特定のプリンセス・特定の作品をモチーフにしたものではなく、すべてのディズニープリンセスをイメージしたお城となっている。高さは約60メートルで世界のディズニーパークの城としては最大の高さである。(ちなみにTDLのシンデレラ城は約51メートル)
2011年に多目的ファミリー向けリゾートとしてオープン。ディズニーがテーマパークを中心としたリゾ-ト以外のリゾートをオープンしたのは初。プールで泳いだり、夜に野外でディズニー映画を鑑賞したり、エンターテイメントショーを楽しんだりできる。ミッキーやミニーなどのディズニーキャラクターと合うこともできる。また、このリゾートは後述するディズニー・バケーション・クラブの中心となる施設でもある。
ディズニーバケーションクラブに加入した会員(メンバー)は世界各地のディズニー・バケーション・クラブ・リゾートの宿泊施設の共有持分を分譲することができる。各施設で利用可能な住戸はバケーション・オーナーシップ・プランに基づいて販売され、メンバーが所有していない住戸は一般のホテルルームとして利用可能。
ディズニーをテーマにしたクルーズ船で船旅を楽しむことができる。多くのツアーではバハマにあるディズニーの所有する私有の小島「ディズニー・キャスタウェイ・ケイ島」に訪れることができる。(というか、ディズニー・キャスタウェイ・ケイ島に行くにはディズニークルーズラインを利用する以外にない)
現在、以下の4隻がある。
また、ディズニーは2021年から2023年にかけ新たに3隻のクルーズ船を導入することを発表した。新型船3隻は既存の4隻よりも大型船になる予定。
日本では、2019年に日本の京都、高山、小田原、東京を巡るツアーがスタートする
アニメ映画、実写映画、ホームビデオ用作品の制作のほかレコーディング音楽やライブイベント制作などを行う。
ディズニーは自社制作映画を「ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ」、「タッチストーン・ピクチャーズ」、「ピクサー」、「マーベル」、「ルーカス・フィルム」、「ディズニー・ネイチャー」の各ブランドの下で映画を配給している。配給は全て「ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ」が行う。
また、UTVのブランドの下でインド映画の制作も行っているほか、2010年から2016年にかけ、ドリームワークスの制作したライブアクション映画をタッチストーン・ピクチャーズのブランドの下で配給していた。
ミラマックス・フィルム・コーポレーションは1993年にディズニーに買収され一時ディズニー傘下となったが、ディズニーは2010年にミラマックスを投資グループに売却している。
日本の代表的なアニメスタジオである「ジブリ」とも配給契約を結んでおり、「もののけ姫」以降、米国においてジブリ作品をディズニーが配給している。
ウォルト・ディズニーの創設したアニメスタジオであり、一般の人がディズニー映画と聞いてイメージするのがウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの劇場長編作品であり、ディズニーのブランドイメージそのものである。白雪姫、ピノキオ、シンデレラ、ふしぎの国のアリス、ピーターパン、眠れる森の美女、リトルマーメイド、美女と野獣、アラジン、ライオンキング、リロ&スティッチ、塔の上のラプンツェル、アナと雪の女王などなど…数々の傑作アニメーションを世に送り出してきた。
黎明期のディズニーで活躍した9人のアニメーター「ナイン・オールドメン」を輩出したのもこのスタジオである。
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ作品は通常、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズのブランドの下で配給される。
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ作品の続編やスピンオフを、劇場映画・テレビ用作品・ホームビデオ用作品として制作するアニメスタジオ。
当初は「シンデレラⅡ」や「ピーターパン2 ネバーランドの秘密」、「リロ&スティッチ2」など続編作品を中心に制作してきたが、ディズニー傘下のピクサーのジョン・ラセターなどによる改革があり、スピンオフ作品やオリジナル作品に重点を置き始めた。
特に人気を博しているのがピーターパンに登場する妖精ティンカーベルを主人公としたスピンオフシリーズである。このシリーズ及びそのキャラクターは「ディズニー・フェアリーズ」としてブランド化もされている。
コンピュータ・グラフィック(CG)によるアニメーション作品を制作するアニメスタジオ。1986年設立。もともとはディズニーとは別会社であったがトイストーリー以降、ピクサー作品の配給をディズニーが行っていた。
一時方針の違いで仲違いしかけたが、2006年にディズニーがピクサーを買収し、ディズニーの完全子会社となった。現在はピクサー作品もウォルト・ディズニー・ピクチャーズのブランドの下で配給される。ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオよりも歴史は浅いが、既に同スタジオに負けず劣らずの人気とブランド力がある。
ディズニーのライブアクション映画(実写映画)を中心に制作している。特に、ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」の世界観をテーマにした実写映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」は歴史的な大ヒット作品となった。
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ作品、ピクサー・アニメーション・スタジオ作品も通常、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズのブランドの下で配給される。
2009年4月22日に公開した「アース」からスタートした、自然保護区などでの動物たちに密着する一連の実写ドキュメンタリー映画シリーズ
1984年に、低迷期にあったディズニーが、人気回復のために創設した映画ブランドで、ディズニーとしては比較的大人向けの作品を制作するのが特徴である。これにより、それまで子供向け、ファミリー向けという自社のブランドイメージにいわば「縛られていた」ディズニーが大人向け映画をタッチストーンの下で制作できるようになり、作品の幅が広がったともいえる。
代表作に「天使にラブ・ソングを…」や「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」など。
1996年設立。もともとはディズニーとは別会社であったが、2010年にディズニーが買収。アメコミ、ヒーロー系の作品を中心に展開している。
「スパイダーマン」「Xーメン」「ファンタスティック・フォー」「アベンジャーズ」「アイアンマン3」などの作品の制作・配給の権利はディズニー買収以前にマーベルが第三者にライセンス許諾していた。「アベンジャーズ」や「アイアンマン3」はディズニーが買い戻した。
「スパイダーマン」に関しては映画製作をソニー・ピクチャーズが行い、グッズ販売などをディズニーが行う契約をディズニーとソニー・ピクチャーズが締結した。
言わずと知れた映画シリーズ「スターウォーズ」の権利を保有する。2013年にディズニーが買収し、エピソード7以降をディズニーの下で制作してるほか、スピンオフ作品であるローグ・ワンなども展開している。
ちなみに、ルーカス・フィルムのコンピュータ・アニメーション部門をスティーブ・ジョブズが買収し、立ち上げた会社こそがピクサーである。一旦は買収され独立した自社の部門が、巡り巡って両社とも「ディズニーの子会社」になるという形で再び関連会社となるとは、当時は夢にも思わなかったであろう。
2017年、ディズニーは21世紀フォックスの買収を発表したため、21世紀フォックス傘下の20世紀フォックスも当然、今後、ディズニー傘下となる。
ディズニー映画の映画音楽、テレビ番組用音楽、テーマパーク用音楽などの制作・配信・販売などを行っている。
ディズニー映画やディズニーのテーマパーク用の音楽を中心としたレーベルである「ウォルト・ディズニー・レコード」とポピュラー音楽やロック、ヒップホップなどの成人向けレーベルである「ハリウッド・レコード」のレーベルがある。また、ハリウッド・レコードにはカントリーミュージックに特化した「DMGナッシュビル」というサブ・レーベルがある。
また契約を結んでいるアーティストによってライブエンターテイメントを行うディズニー・コンサート、著作権を管理するディズニー・ミュージック・パブリッシングも含まれる。
ディズニーのライブ・エンターテイメント・イベントの開発・制作などを担当する。ブロードウェイ・ミュージカルやその他のミュージカルの制作や、フェルド・エンターテイメント制作の「ディズニー・オン・アイス」及び「ディズニー・ライブ!」へのライセンス付与も行っている。
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最終更新:2024/05/05(日) 14:00
最終更新:2024/05/05(日) 14:00
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