神風特別攻撃隊(神風特攻隊)とは、大日本帝国海軍(日本海軍)の特別攻撃隊である。命名者は初の特攻隊を編成した、第一航空艦隊主席参謀猪口力平大佐。ここでは並行して行われた陸軍特攻や、航空機以外の特攻も含め、特別攻撃隊全般について述べる。
概要
特別攻撃(特攻)とは、爆弾を搭載した航空機や爆薬を装備した高速艇等で目標に乗組員ごと体当たり攻撃する戦法であり、その戦法を行う部隊を特別攻撃隊(特攻隊)と呼ぶ。第二次世界大戦末期における日本軍の主要戦法として実施された。
「戦死を前提とした体当たり戦法」を「軍事作戦として正式に採用、実施」したほぼ唯一の事例であり、現在でも決死攻撃・体当たり攻撃の象徴的存在として、世界中で『Kamikaze』という代名詞と共に語り継がれている。
名前の由来
命名者となる第一航空艦隊猪口力平主席参謀によれば、故郷鳥取に古くから伝わる古剣術神風流に因んで命名したとのことであるが、1274年と1281年の二度にわたって日本へ攻めてきた元軍の大船団(元寇)を壊滅させた暴風雨(通称「神風」)を意識したとも言われている。
(ただし、「神風」伝説は後の創作である事が判明しており、実際には「元軍は日本軍に撃退され、本国への退却中に暴風雨で壊滅した」が最近の有力な学説。)
一般的に、神風は「かみかぜ」と読まれているが、正しくは「しんぷう」と読む。これは、神風特攻隊初出撃を報じた日本ニュース第232号のナレーションにて「かみかぜ」と読まれた事が定着したためとされる。又、特攻隊の中でも神風特攻隊が特に有名であったため、諸外国では特攻及び特攻隊も含めてカミカゼ(Kamikaze)としている。
特別攻撃隊については、古くから日本軍内で生還の望みが薄い作戦や、その作戦に従軍する部隊を特別攻撃、もしくは特別(攻撃)隊と呼称していたが、体当たり攻撃の印象が強すぎる事から、今や特攻と言えば体当たり攻撃の代名詞となっている。
特攻作戦が開始された背景
1943年頃から、アメリカ軍は近接信管の実戦配備やレーダーを使用した効率的な迎撃システムの構築、新型戦闘機の投入により飛躍的に戦力を向上させていた。それに対して日本軍は有効な対策を打つ事が出来ず、さらにマリアナ沖海戦や台湾沖航空戦における大損害により搭乗員の補充すらままならなくなり、これを補うべく新人の搭乗員でもある程度の戦果が見込める、体当たり攻撃隊の編制が急がれる事となった。
特別攻撃隊の歴史
特別攻撃隊編成まで
航空機による体当たり攻撃は世界的にも珍しい事ではなく、第一次世界大戦中の東部戦線においてロシア軍機が行った行動が世界初の航空機による体当たり攻撃とされる。このような攻撃は個人の判断でしばしば行われており、特に不時着後の救助が困難な太平洋戦線では帰還不能になった航空機による敵への体当たり攻撃が日米両軍で頻繁に行われていた。しかし、戦局の悪化が進むにつれて軍として組織的に検討が始まる事となる。
海軍では、航空機による体当たり攻撃が本格的に検討される前に、まずは人間魚雷(後の回天)を1944年2月に試作決定し、9月に訓練開始と航空機特攻に先んじて準備が進んでいた。
航空機特攻についても、陸海軍それぞれ1944年には本格的な検討に入っていたが、1944年6月のマリアナ沖海戦での敗北と母艦航空隊の壊滅を機に更に検討が加速する事となる。
まずは1944年6月に空母千代田艦長城英一郎大佐がマリアナ沖海戦での惨敗を踏まえ、豊田副武連合艦隊司令長官に、航空機による体当たり攻撃隊の編成を正式に申し出しているが却下されている。また同時期に後に特攻専用ロケット機「桜花」部隊神雷部隊の司令となる岡村基春大佐が、伊藤整一軍令部次長に同様な申し出をしていたが、これも却下された。その桜花は太田正一特務少尉の発案で1944年5月から内々に開発が進んでいたが、通常航空機による特攻隊編成前の1944年8月には航空本部より正式に試作が下命されている。
一方陸軍は参謀本部主導で、特攻に反対していた安田武雄航空総監兼航空本部長が更迭されて、特攻推進派であった後宮淳大将が後任に、菅原道大中将が航空本部次長に任ぜられると、早くも1944年3月には航空機による特攻が内定したが、特攻機の改造や特攻戦術の検討など海軍よりは準備を周到に行った為、実際の特攻隊の編制は海軍に遅れを取ることになった。
神風特別攻撃隊出撃
1944年10月、特攻の産みの親と言われている大西滝治郎中将が、第一航空艦隊司令長官に任命され、ルソン島のクラークフィールド航空基地に着任した。
大西中将は海軍の中で、航空畑を歩んできた海軍航空隊の第一人者であり、現状の日本軍の航空戦力では米艦隊に対抗困難であることを痛感しており、着任前に航空機により特攻を軍令部に進言した。大西中将の進言に対し軍令部及川古志郎総長は『指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない』と特攻を黙認した。その際に、軍令部や海軍省で大西が特攻の名前や発表を相談した形跡があり、大西が出発した後にその確認をとる電文の起案を任された軍令部航空参謀源田実大佐も出発前の大西と会ったときに特攻をやるとは明言されなかったが、やる気であるのはわかっていたと証言している。その他にも大西は軍需局や聯合艦隊で特攻をほのめかす発言をして出発した。
承認は取ったが、実際の編制をするかはまだ迷っていた大西中将であったが、現地に着任すると当時の第一航空艦隊の戦力は実動機が100機に満たないほど消耗しており、レイテへの日本海軍の総力を挙げた反抗(捷一号作戦)も計画されてる状況で、大西中将はもはや特攻しか米軍に対抗する手段なしと特攻作戦の開始を決意。
大西中将は10月19日に一航艦幹部を集め『捷号作戦を成功させるため、敵機動部隊を叩いて敵空母を一時的に使用不能にするには、零戦に250キロ爆弾を搭載して体当たり攻撃させる以外に手段はないと思うのだがどうだろうか?』と特攻隊の編制を提案、幹部も初めは抵抗を感じていたが、結局は全員賛同した為、ついに海軍航空隊による特攻隊、神風特別攻撃隊が編成される事となった。
編制については現場に一任されたが、201空副長玉井浅一中佐は、指揮官は海軍兵学校出身者から選抜して欲しいとの猪口力平一航艦参謀長よりの願いを受けて、海兵第70期の関行男大尉を指名。指名された関大尉は最初は戸惑うが一考した後に引き受けた。(関大尉はその時の胸の内を従軍記者に『天皇陛下や大日本帝国の為じゃなく愛する妻の為に引き受けた』と語っている)
他の隊員は玉井中佐が航空隊の中から志願を募り、志願者の中から選抜された合計24名が初めての海軍特攻隊として出撃することとなった。
一、現戦局ヲ考エ艦上戦闘機24機ヲモッテ体アタリ攻撃隊ヲ編成ス。本攻撃隊ハ、コレヲ四隊ニ区分シ、敵機動部隊ガ東方海面ニ出現ノ場合、コレノ必殺ヲ期ス。成果ハ水上部隊突入前ニコレヲ期待ス。今後艦戦ノ増強ヲ得次第、編成ヲ拡大ノ予定、本隊ヲ神風特別攻撃隊ト呼称ス。
1944年10月21日に、レイテへの大日本帝国海軍連合艦隊の総力を挙げた出撃の援護の為に、敷島隊以下4隊合計24機の神風特攻隊が出撃した。
フィリピンでの激闘
初出撃日となった10月21日は会敵できず、その後も出撃帰還を繰り返すが(21日久納中尉機が未帰還、同日豪重巡オーストラリアが特攻で損傷しており、久納中尉の戦果とも推測されてるが、特攻機が一式陸攻との豪軍の記録や、時間のずれなどから確定には至ってない)、10月25日に栗田艦隊とのサマール沖海戦を戦ったタフィ3を発見し、ついに特攻作戦が開始されることとなった。
栗田艦隊との海戦で損害を被っていたタフィ3に敷島隊以下15機の特攻機が襲い掛かり、護衛空母セント・ロー撃沈の他2隻の護衛空母を大破、他5隻にも損害を与えた。
出撃した機体数を考えれば前代未聞の大戦果といえるものの、肝心の栗田艦隊突入支援という目的は達成できず捷号作戦は失敗し、連合艦隊の水上艦隊はほぼ戦闘能力を失う事となった。
この戦果は、及川軍令部総長より天皇に伝えられ、陛下は『そのようにまでせねばならなかったのか、しかしよくやった。』と絶句しながら、隊員を労ったと言われている。
その後は大西中将の第一航空艦隊の他に、当初は特攻に否定的だった福留繁中将の第二航空艦隊も特攻攻撃に加わり、連日米機動部隊に特攻機が襲い掛かかった。特にレイテ沖海戦で連合艦隊を壊滅させた、第38任務部隊の正規空母の損害が大きく、正規空母フランクリン・ヨークタウン軽空母ベローウッドの大破を初め、損傷による空母の戦線離脱が相次ぐ事となった。
米空母の戦線離脱が相次ぎ戦力が大幅低下したことから、米第三艦隊司令ハルゼー大将が企画し承認されていた第38任務部隊の艦載機による東京初空襲(ドーリットル隊のB25による空襲は正規の艦載機では無い為除外)も中止に追い込まれている。
マリアナ・レイテで日本海軍を壊滅させ、向かう所敵なしだったはずの米海軍は予想だにしなかった難問を背負いこむ事となり、様々な特攻隊対策を講じる必要に追い込まれる。(詳細後述)
しかしその甲斐もなく、1944年12月7日レイテ島のオルモック湾の米軍上陸部隊が、12日にはミンドロ島攻略部隊も特攻の洗礼を受けいずれも多数の撃沈破艦と死傷者を出す事となった。
年が明けて1945年1月2日、ついにフィリピン最大の拠点ルソン島攻略部隊20万名と艦艇850隻が出撃。それを迎撃する日本軍との間でフィリピンでの特攻作戦最大規模の激戦が開始されるが、まずは出撃早々の4日に上陸予定地のリンガエン湾に向かう途中の護衛空母艦隊が特攻攻撃を受け、オマニー・ベイが撃沈され、護衛艦を含む他数隻が撃破される。
6日リンガエン湾に到着してからも、上陸支援部隊に特攻機が襲い掛かり、上陸支援の艦砲射撃をしていた戦艦・巡洋艦に次々と特攻機命中。中でも戦艦ニューメキシコは艦橋に特攻機が突入した為、艦長以下幕僚の多くが死傷、その中にはフィリピン戦を観戦に来ていた、英陸軍第二次世界大戦最高位の戦死者となるラムスデン中将も含まれており、英太平洋艦隊司令フレイザー大将すんでのところで戦死を免れ軽傷を負った。
他にも戦艦カルフォルニア・米重巡ルイビル・米軽巡コロンビア・豪重巡オーストラリアも次々と特攻機の命中で深刻な被害を受け、この後戦場を長期離脱する羽目に追いやられた。この内米重巡ルイビルは第77任務部隊の旗艦であったが、特攻により司令のセオドアチャンドラー少将が戦死している。2日間の特攻で連合軍は中将・少将・大佐という高位の将官が戦死したが、連合軍としては異例の事態であった。またこの一連の被害で、今まで護衛空母や駆逐艦といった比較的防御力の弱い艦艇しか損害を与えていなかった特攻が、戦艦などの重装甲の戦闘艦艇にも一定のダメージを与えうるという実証にもなった。
その後もリンガエン湾への特攻出撃は繰り返されてたが、ついに第一航空艦隊・第二航空艦隊とも航空機が尽き、中でも第二航空艦隊は3機を残すのみとなって、福留中将がその3機を率い最後の特攻出撃を計画したが、大本営の命令で第二航空艦隊は解散し第一航空艦隊に編入、福留中将はシンガポールへの転任となった。
第一航空艦隊司令の大西中将も航空兵力尽き、陸戦部隊としてクラーク飛行基地西方山岳地帯に陣地構築していたが、大西中将は間もなく台湾への転属、後に軍令部次長となり終戦まで特攻作戦の指揮をとることとなる。残された搭乗員や整備兵等は飢えや病気と闘いながら、米軍の攻撃を撃退し終戦まで陣地を死守した。
フィリピンでの特攻による合計650機の損失により、きわめて大きな成果を挙げたことは明白である。これらの攻撃の目的だった連合軍の上陸阻止には失敗したが、命中と至近命中は26.8%にも達している。
回天出撃そして硫黄島・丹作戦・九州沖航空戦
航空特攻に先駆けて訓練編成が進められていた人間魚雷回天が1944年10月18日に実戦初出撃、菊水隊と名付けられた潜水艦3隻回天12艇で米艦隊の泊地ウルシー(西カロリン諸島 1944年9月に米軍占領後、工作船・浮きドックを配備し艦船の修理が可能、補給及び兵員の休養施設も整備していた)を攻撃し、大型給油艦ミシシネワを撃沈した。しかし潜水艦1隻が駆逐艦により撃沈され、この攻撃で米軍停泊地の警戒が厳しくなり、以降回天作戦はめぼしい戦果を挙げることができず損害を重ねていくこととなった。
米軍泊地ウルシーに対しては、1945年3月11日に日本本土より遠路はるばる航空特攻も実施、丹作戦と名付けられた銀河24機による攻撃であったが、故障等での不時着が相次ぎ、実際にウルシーに突入できたのは11機、内1機が正規空母ランドルフに命中した。期待に対して戦果は少なかったが、ウルシー泊地は先の回天の効果も併せて、常時警戒態勢を余儀なくされて、補給・休養基地としての役割を制限されることとなった。
1945年2月19日についに米軍は硫黄島に上陸、しかし硫黄島防衛は当初より日本本土決戦に向けての時間稼ぎという方針であり、航空攻撃も限定的なものとなった。2月21日には第601航空隊を主力とする神風特攻第二御盾隊32機が硫黄島に向けて出撃、少数ながらも護衛空母ビスマルク・シーを撃沈、正規空母サラトガを大破、護衛空母1その他艦艇3を撃破する大戦果を挙げ、硫黄島守備隊を援護した。
硫黄島の戦いが終息に向かいつつあった1945年3月18日に、沖縄上陸作戦に向け、ミッチャー中将率いる第58任務部隊の正規空母10隻軽空母6隻艦載機1400機を主力とする合計100隻以上の大艦隊が、日本本土の軍事拠点爆撃を実施。それに対して宇垣纏中将率いる第五航空艦隊と陸軍航空部隊が特攻・通常攻撃の両方で総力を挙げて迎撃した(九州沖航空戦)。
18日には特攻と通常攻撃により正規空母イントレピッド・エンタープライズ・ヨークタウン・ワスプを撃破、翌19日にもフィリピンで特攻機により大破し、修理終えてようやく15日に部隊合流した正規空母フランクリンに特攻機が艦橋先端部に命中、若干の被害を与えた。
その後、フランクリンには双発爆撃機「銀河」が緩降下爆撃で250キロ爆弾を2発命中させた。250キロ爆弾は飛行甲板を貫通し格納庫内で爆発、弾薬が誘爆し大火災が発生した。飛行甲板上の航空機にも次々と引火し、あわや沈没と言う深刻な損害を被ることとなり、終戦まで復帰できず空母としての艦命を終える事となった。
日本軍が特攻主体となる中で、双発爆撃機ながら急降下爆撃が可能と言う銀河の高性能を十分に発揮した攻撃であった。
また、特攻専用機「桜花」を装備した神雷部隊の18機も21日に初出撃した。護衛戦闘機が当初予定の半数しか参加できず、神雷部隊は目標の遥か手前で全機撃墜された。(「桜花」については個別記事を参照されたい)
沖縄決戦
硫黄島を攻略し、来るべき日本本土上陸作戦の前進基地としてついに米軍は沖縄に、参加兵力54万8千人、軍艦318隻、その他艦船1139隻の第二次世界大戦の中でも最大規模の兵力で進行してきた。 日本軍は、陸海軍作戦大綱で進行してくる米艦隊に航空決戦を挑む方針としており、その方針に基づき3月20日に大本営が天号作戦を下令した。
沖縄本島に先立ち3月26日慶良間諸島に米軍上陸、特攻攻撃は小規模であったが、早速駆逐艦1隻を撃沈している。
その後4月1日ついに沖縄本島に米軍が上陸、日本軍はそれを受け4月6日から菊水一号作戦を発令、海軍特攻機218機、陸軍特攻機82機が出撃し、太平洋戦争中最大規模の航空特攻攻撃となった。翌7日も引き続き特攻出撃が続けられ日本軍は2日で355機の特攻機を損失した。一方米軍の損害も撃沈 駆逐艦3隻 戦車揚陸艦2隻 弾薬輸送艦2隻 大破・廃艦 駆逐艦3隻 損傷空母ハンコック・サン・ジャシント他20隻以上と多数に上った。
特に駆逐艦の損害が大きかった。これは沖縄戦での特攻攻撃の特色として、主力艦隊の外周を取り囲む様に配置されたピケットラインの駆逐艦が特攻機の目標となることが多く損害が大きくなったもので、事実かは不明だが米駆逐艦乗組員が乗艦の駆逐艦に『空母はあちら』という意味の矢印を掲げたという逸話も残っている。
『我々はレーダーピケット艦として艦隊中の優秀艦を抜いてこれに宛てた。ピケットラインにつけと命ずることはまるで死刑の宣告を与えるようなものだった。
実際、小奇麗な艶々と光沢のある駆逐艦が ピケットラインにつくために北の水平線に消えていくのを見送るくらい嫌な気持ちのものはない。
駆逐艦の機関も大砲も完全で 乗組員もピチピチしてるのに、数時間も経たないうちに酷い姿になって曳航されながら帰ってくるんだからな』
また海上特攻作戦として、戦艦大和 軽巡矢矧 駆逐艦8隻が沖縄に向け出撃したが、坊ノ岬沖で米軍の攻撃を受け、大和以下6隻が沈没、日本海軍の水上部隊は壊滅した。
菊水作戦はその後十号まで続けられ、陸海軍合計1460機の特攻機が投入された。一号作戦以降で目立った戦果は以下の通り
- 菊水二号作戦 185機損失 第三回神雷桜花部隊の土肥三郎中尉の桜花が駆逐艦マナート・L・エベールに命中、同艦は真っ二つになり3分で轟沈した。
- 菊水三号作戦 165機損失 米空母イントレピッドが3回目の特攻被害で中破、戦線離脱 駆逐艦プリングル・ハーディング撃沈
- 菊水五号作戦 125機損失 護衛空母サンガモンが大破、そのまま本国に回航されて廃艦、他駆逐艦4隻撃沈2隻大破・廃艦と一号作戦以来の大戦果。また英空母隊が特攻機の餌食となりヴィクトリアス・インドミタブル・フォーミダブルが損傷した、内フォーミダブルはドイツ軍より受けた損傷との蓄積で修理困難となり戦後まもなく除籍された。
- 菊水六号作戦 150機損失 第58任務部隊旗艦空母バンカーヒルが二機の特攻を受け大破、戦死402名戦傷264名の膨大な人的損失の他に、九州沖防空戦での同型艦フランクリンと同レベルの深刻な船体への損傷を受け、終戦まで戦線離脱。九州沖航空戦フランクリンと全く同じ経歴で艦生命を終えた。第58任務部隊司令ミッチャー中将は次の旗艦をエンタープライズとしたが、同艦も特攻で大破し戦線離脱。ミッチャー中将は両艦の大破で幕僚の多くを失っただけでなく、旗艦も2度に渡って変更を余儀させられた。
以上の様な陸海軍航空隊による沖縄海上への特攻作戦は、孤立無援で戦う沖縄守備隊第32軍の心の支えにもなっていたという証言もある。
沖縄防衛第三十二軍の将兵の間には、「特攻機を拝みに行く」という言葉があった。 これは内地から沖縄を救うために出撃した特攻機の最後を見届けるという意味である。
『ポツンと白く米粒のように機体を光らせたまま、わが特攻機が飛んでいるんだ。 あ、あっと思う間にボウッと炎を噴いてゆらめきながら海におちるものもあるし、 低くまっすぐに敵艦に突っ込んで、高い火柱をあげるものもある。 空半分を火の海と化した曳光弾もやがてまばらになる。 大太鼓を打ち鳴らすような砲声もはたりとやむ。 そのあとの静寂は、なんとも言えないなあ。
やったなあ、御苦労さんと、なかには地に手をついて沖のほうを拝むものもある。 みんなもそれに習った。晩になるといつも特攻機を拝みにゆく、拝みにゆくんだ。 すごいものだよ。それは。』
沖縄における特攻による連合軍海軍の損害は膨大であり、一時は真剣に沖縄からの一時撤退も議題に登る程であった。 沖縄攻略の指揮をとっていた第五艦隊司令スプルアンス大将も、特攻から受けた大損害による心労が重なり、第三艦隊のハルゼー大将との交代を余儀なくされた。ミッドウェー・マリアナ沖と日本海軍に対し圧倒的勝利を重ねてきた指揮官の初めての挫折となった。
しかしながら、6月に入る頃には米海軍も特攻との激戦による戦訓を積み重ねた結果、特攻対策が完成しつつあり戦果が挙がりにくくなっていた。また日本軍側も沖縄の第32軍の組織的抵抗が終焉に向かうと、本土決戦に向けて航空戦力の温存を図る様になり、沖縄に対する特攻も次第に小規模なものとなっていき、1945年7月以降は散発的なものとなった。
沖縄戦で投入された特攻機は約1900機 内米軍資料によると命中182機 至近命中97機 有効率14.7%とフィリピン戦と比較し、米軍の特攻対策により迎撃が激烈になって成功率が12%も低下している。 しかし、出撃機数が多かった分戦果も多大であり、連合軍は沖縄戦で海軍艦艇36隻撃沈368隻撃破の大損害を被ったが、この多くは特攻から受けた損害であった
十分訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。
一億総特攻
日本は第32軍と陸海軍特攻部隊の奮闘空しく沖縄を失い、ついに本土決戦が現実味を帯びてくることとなった。 海軍は大和特攻により、稼働艦がほぼ壊滅しており、圧倒的な連合軍艦隊に対して有効な戦力はいよいよ各種特攻兵器のみとなっていた。
その為、特攻兵器の開発・生産が急ピッチで進められており、特攻専用機とされたキ115(陸軍名・剣 海軍名・藤花)は量産開始(出撃したとの証言もあり)また特攻パルスジェット機・梅花 地上発射用・桜花等の航空特攻兵器、特殊潜航艇・海龍などの海中特攻兵器等の開発や生産が進められていた。また変わった特攻兵器としては、戦車への特攻を目的とした特攻グライダー・神龍とか潜水具を着用した兵士が爆雷で上陸用舟艇を自爆攻撃する・伏龍も開発・編成が進められていた。
以上のように効果に疑問符がつくような兵器もあったが、特攻機の準備は着々と進めており、1945年8月時点で日本軍残存稼働機10800機の内5350機を特攻機として準備していた。これまでに投入した特攻機が10か月で2550機であり、その倍以上の特攻機が連合軍の九州上陸作戦(オリンピック作戦)に対して投入される計画であった。
また陸海軍の特攻艇(震洋・マルレ)も10000隻以上が日本各地に配置され、主に敵の揚陸艦や上陸用舟艇を攻撃するべく連日訓練をしていた。
米軍は今までの経験上、日本軍の死力を尽くした特攻で大損害を受ける事は十分に想定しており、その数は約1000隻の艦艇の撃沈破と、沖縄戦を超える空前絶後の損害を覚悟していたが、それでも九州に侵攻する連合軍艦隊は史上最大の作戦ノルマンディを超える5000隻以上は確実であり、仮に1000隻が損害を受けても作戦遂行に支障はないと分析していた。
そんな中でも、日本は軍のみならず、一億特攻 一億玉砕のスローガンの元に、一般国民にも上陸してくる連合軍への捨身攻撃を指導しており、国家破滅に向かって転がり落ちていく状況であったが、ポツダム宣言受諾により本土決戦前に終戦となった。
この少し前、最高戦争会議に、会議のメンバーでもなかった大西中将(この時は軍令部次長)が乗り込み『日本男子をあと二千万人特攻に出せば、日本は戦争に勝てる』と会議の出席者に詰め寄るが、ここに至っては誰も大西中将を取り合う者はおらず、その後も降伏回避の為に関係者に様々な工作を行うが実らず、8月15日に全国に対し、終戦を告げる玉音放送が行われた。
大西中将は玉音放送の翌日16日に自宅にて割腹自決を行い、介錯や治療を拒み15時間苦悶の上で亡くなった。特攻の産みの親とされ、最後は2000万人特攻との自説を強弁するなど評価が分かれる大西中将であるが、『前途有為な青年をおおぜい死なせた。俺は地獄に落ちるべきだが、地獄の方で入れてくれんだろう』と親しい知人に泣きながら話したという証言もあり、軍人として戦局好転の為に特攻を推進しつつも、心ならずも部下将兵を死地に追いやった罪の意識に囚われていたものと思われる。その思いは遺書でも慮ることができるであろう。
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い 聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
諸士は国の宝なり
玉音放送後、第五艦隊司令として多数の特攻機を送り込んだ宇垣中将も、他に志願した10機と共に彗星艦爆で沖縄方面に出撃し未帰還となった(終戦後の出撃であった為戦死とはならず、大将への昇進も敵わなかった)。
他方で陸軍特攻の指揮官だった第六航空軍司令の菅原道大中将は、日頃自身が最後に特攻すると公言していたものの、終戦時に部下から共に特攻することを勧められると「死ぬばかりが責任を果たすことではない」と拒否。宇垣の行動に対しては「単に死に急ぐは、決して男子の取るべき態度にあらず」と評した。後年菅原の息子は父は自決すべきだったと批判しつつも、若者を道連れにしなかったのはせめてもの救いだと複雑な心境を述べている。
1944年10月以降10か月に渡って、日本軍・連合軍両軍に多大な犠牲を生じさせた特攻は、宇垣中将らの未帰還でその幕を下ろす事となった。
特別攻撃隊の効果
特別攻撃の戦果
特攻は、その一号となった敷島隊(正確には悪天候で帰還を繰り返しており4度目の出撃)が1944年10月25日護衛空母セント・ローを撃沈 他2隻大破して以降、終戦直前の1945年7月28日の第三龍虎隊による駆逐艦キャラハン撃沈まで(損傷は8月13日上陸支援輸送艦ラグランジ)、10ヶ月間に渡って米艦隊に莫大な損害を与え続けた。
総合戦果
艦 種 | 正規空母 | 軽空母 | 護衛空母 | 戦 艦 | 巡洋艦 | 水上機母艦 | 駆逐艦 | その他 | 合 計 |
撃沈・廃棄 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 40 | 29 | 73 |
損 傷 | 16 | 4 | 13 | 11 | 12 | 5 | 141 | 71 | 273 |
※撃沈・廃棄には特攻によりその場での沈没は免れたが、その後自沈処分されたり、工廠に回航するも修理断念でそのまま除籍された艦も含む。
主な撃沈・廃棄艦
艦種 | 艦名 | 特攻年月日 | 状況 |
---|---|---|---|
護衛空母 | セント・ロー | 19年10月25日 | 特別攻撃初の撃沈艦。レイテ沖で、海軍敷島隊隊長関大尉機の零戦が命中(敷島隊の内の他機で関機ではないとする説もあり)爆弾が格納庫内で爆発し航空燃料・魚雷が連鎖的に誘爆し30分で爆沈。 戦死者143名負傷約400名 |
護衛空母 | オマニー・ベイ | 20年1月4日 | フィリピンのスルー海、陸軍特攻進襲隊99式襲撃機もしくは一誠隊の隼いずれかが搭載していた2発の爆弾を投弾後に体当たり命中。爆弾は甲板上に並んでいた艦載機の燃料や爆弾を誘爆させ大火災、鎮火が困難となった為、総員退艦後駆逐艦の魚雷で処分された。戦死者98名負傷65名 |
護衛空母 | ビスマルク・シー | 20年2月21日 | 硫黄島沖、海軍第2御盾隊の特攻機2機が後部エレベーターに命中し、爆弾が格納庫で爆発。同艦は特攻で大破したサラトガや他護衛空母の艦載機を一時的に収容しており、多くの艦載機が燃料も抜かずに格納庫に駐機していた為、たちまち航空燃料に引火、搭載していた航空魚雷も誘爆し大爆発、特攻機命中後わずか15分で総員退艦命令、その後横転して沈没。戦死者・行方不明者は350名に及んだ |
護衛空母 | サンガモン | 20年5月4日 | 沖縄沖で菊水第五作戦の特攻機1機が命中大破、戦死者46名戦傷116名。修理の為ノーフォークに回航されるも全損判定で除籍。本艦はセント・ローが撃沈された同日に敷島隊の零戦から機銃掃射を受け1名の戦死者と数名の戦傷者を出しており、2回目の特攻損害で廃艦となった。その後船体をタンカーに改造し民間で使用され、最後は大阪で解体された。 |
駆逐艦 | アブナ・リード | 19年11月1日 | 海軍天兵隊等の特攻でスリガオ海峡で99艦爆1機命中右に横転後沈没し23名戦死56名負傷 |
大型給油艦 | ミシシネワ | 19年11月20日 | 人間魚雷回天菊水隊の回天1艇命中、満載した大量の燃料ごと(航空機2000機分・駆逐艦約20隻分の燃料に相当)横転して沈没戦死63名負傷95名、特攻で沈没した中では満載排水量最大の艦(満載排水量25833トン)。あまりに大量の燃料ごと沈没した為、未だに燃料が海上に漏れ出ており、周辺海域の汚染が懸念されている |
駆逐艦 | マハン | 19年12月7日 | 海軍千早隊・陸軍勤王隊等の特攻によりオルモック湾で1機命中大破18名戦死31名負傷、同日自沈処分 |
輸送駆逐艦 | ワード | 19年12月7日 | オルモック湾で1機命中大破炎上5名負傷、同日自沈処分、ちなみに本艦は真珠湾で日本軍の攻撃前に特殊潜航艇を撃沈し太平洋戦争の戦端を開いた艦であった |
駆逐艦 | レイド | 19年12月11日 | 海軍第一金剛隊の1機がスリガオ海峡で命中し爆沈150名戦死 |
弾薬輸送艦 | ジョン・バーク | 19年12月28日 | 海軍月光隊の高橋・大友両一飛曹が搭乗する夜間戦闘機月光(米軍記録では99艦爆)が命中。弾薬を満載していた為大きなキノコ雲を残し一瞬で爆沈、乗組員69名は全員戦死。付近を航行していた陸軍の警備艇もその衝撃で沈没、他にも多数の損傷艦と死傷者を出した。その時の映像が残っており現在でも見る事ができる。
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輸送駆逐艦 | ブルックス | 20年1月6日 | 海軍金剛隊各隊・陸軍鉄心隊等の大規模特攻でリンガエン湾で1機命中大破3名戦死11名負傷、カルフォルニアサンペドロに回航後除籍、廃艦 |
掃海駆逐艦 | ロング | 20年1月6日 | リンガエン湾2機の命中で横転し沈没戦死者1名35名負傷、翌日に本艦生存者を救助した駆逐艦ホーヴェイが航空雷撃で撃沈され24名が戦死したが、その中にはロングから救助された乗組員も含まれており、乗艦が2日連続で撃沈されるといった不幸を味わうこととなった |
輸送駆逐艦 | ベルナップ | 20年1月11日 | 日本側に出撃記録ないがルソン沖で特攻により大破戦38名戦死49名負傷フィラデルフィアに回航後除籍、廃艦 |
高速駆逐艦 | ディカーソン | 20年4月2日 | 慶良間沖、第二銀河隊等の特攻で1機命中大破炎上艦長以下54名戦死97名負傷、2日後現地で自沈処分、沖縄戦初の戦果 |
駆逐艦 | ブッシュ | 20年4月6日 | 菊水一号作戦 沖縄沖で1機命中で撃沈94名戦死32名負傷 |
掃海駆逐艦 | エモンズ | 20年4月6日 | 菊水一号作戦 特攻機5機命中し翌日自沈処分64名戦死71名負傷 |
駆逐艦 | コルホーン | 20年4月6日 | 菊水一号作戦 特攻機99艦爆3機が命中し翌日自沈処分35名戦死21名負傷 |
駆逐艦 | ロイツェ | 20年4月6日 | 菊水一号作戦 特攻機1機命中して大破7名戦死 サンフランシスコハンターズポイント造船所に回航後除籍、廃艦 |
駆逐艦 | ニューコム | 20年4月6日 | 菊水一号作戦 特攻機2機命中大破43名戦死51名負傷、破壊の度合いが特に酷くサンフランシスコに回航後除籍、廃艦 |
駆逐艦 | モリス | 20年4月6日 | 菊水一号作戦 特攻機1機命中大破12名戦死45名負傷 ロイツェ・ニューコム2艦と同様にサンフランシスコまで回航後除籍、廃艦 |
弾薬輸送船 | ホッブス・ビクトリー | 20年4月6日 | 菊水一号作戦、同型艦のローガン・ビクトリーも轟沈し、2艦合計で28名戦死11名負傷。2艦には大量の弾薬が搭載されており、その弾薬ごと沈んだため、一時的に沖縄の米軍の上陸部隊が弾薬不足に陥り、日本軍防衛線背後への陽動上陸作戦の断念等、作戦計画を大きく狂わせた。 |
駆逐艦 | マナートLアベール | 20年4月12日 | 菊水二号作戦 特攻ロケット機桜花が命中し真っ二つとなり3分で轟沈79名戦死34名負傷 |
駆逐艦 | スタンリー | 20年4月12日 | 菊水二号作戦 同じく桜花が船首に命中、弾頭は船体を突き抜けて海上に落下したが、船体は中破3名負傷、修理されずそのままロングビーチでモスボール処理 1972年にスクラップ売却 |
駆逐艦 | プリングル | 20年4月16日 | 菊水三号作戦 1機命中撃沈65名戦死102名負傷 |
駆逐艦 | ハーデング | 20年4月16日 | 菊水三号作戦 1機命中大破23名戦死10名負傷、ノフォークまで回航後除籍、廃艦 |
駆逐艦 | ハッチンス | 20年4月27日 | 陸軍特攻艇マルレの攻撃で艦首部分を大破座礁20名負傷、後にワシントン.ブレマートンに回航後除籍、廃艦 |
駆逐艦 | ハガード | 20年4月29日 | 海軍第9建武隊 陸軍第18振武隊等により沖縄沖で1機命中大破11名戦死40名負傷 ノフォークまで回航後除籍、廃艦 |
敷設駆逐艦 | アーロン・ウォード | 20年5月3日 | 海軍振天隊・陸軍特攻誠第35飛行隊等により沖縄沖で5機命大破戦死45名49名負傷 ニューヨークまで回航後除籍、廃艦 |
駆逐艦 | リトル | 20年5月3日 | 沖縄沖 2機命中で撃沈戦死30名79名負傷 |
駆逐艦 | ルース | 20年5月4日 | 菊水五号作戦 沖縄沖で2機命中撃沈150名戦死94名負傷 |
駆逐艦 | モリソン | 20年5月4日 | 菊水五号作戦、沖縄沖で2機命中撃沈152名戦死102名負傷 |
敷設駆逐艦 | シェイ | 20年5月4日 | 菊水五号作戦 第七次桜花特攻隊の桜花が一機命中 戦死27名 戦傷91名 炸薬は不発であったが 弾頭が船体を突き破り損害甚大、本土で除籍、廃艦 |
護衛駆逐艦 | オバーレンダー | 20年5月9日 | 海軍忠誠隊 陸軍特攻誠第33飛行隊等により1機命中大破24名戦死51名負傷、その後慶良間沖で自沈処分 |
護衛駆逐艦 | イングランド | 20年5月9日 | 沖縄沖、1機命中大破37名戦死27名負傷 フィラデルフィアに回航後除籍、廃艦、本艦はマリアナ沖海戦時に1隻で日本軍の潜水艦6隻を沈めた殊勲艦であったが、航空特攻により艦生命を終えた。 |
護衛駆逐艦 | ヒューWハドレイ | 20年5月11日 | 菊水六号作戦 桜花により大破30名戦死65名負傷 ハンターポイントまで回航後除籍、廃艦。本艦は特攻機の猛威にさらされ通常特攻機4機と桜花が命中しても撃沈されなかった強運艦である。また対空戦闘で23機の特攻機を撃墜した(あくまでも米軍記録)殊勲艦であったが、受けた損害は深刻であり修理できず即スクラップとなった |
駆逐艦 | エバンス | 20年5月11日 | 菊水六号作戦 4機命中大破32名戦死29名負傷 サンフランシスコまで回航後除籍、廃艦 |
駆逐艦 | ザッチャー | 20年5月20日 | 沖縄沖、陸軍第五十振武隊 3機命中大破14名戦死53名負傷 ワシントンブレマートンまで回航後除籍、廃艦 |
護衛駆逐艦 | ベイツ | 20年5月25日 | 沖縄沖、菊水第七号作戦 1機命中21名戦死35名負傷、転覆し沈没 |
輸送駆逐艦 | バリー | 20年5月25日 | 沖縄沖、菊水七号作戦で1機命中大破30名負傷 その後沖縄に停泊していたが、6月28日に曳航中練習機白菊の特攻で慶良間沖で沈没 |
駆逐艦 | バトラー | 20年5月25日 | 沖縄沖、菊水七号作戦で1機命中大破9名戦死、サンフランシスコに回航後除籍、廃艦 |
駆逐艦 | ドレクスラー | 20年5月28日 | 沖縄沖、海軍琴平水心隊・陸軍四十五振武隊等の特攻で2機命中転覆し沈没158名戦死51名負傷 |
駆逐艦 | シュブリック | 20年5月29日 | 沖縄沖、海軍振天隊・陸軍特攻第二十戦隊等の特攻で1機命中大破32名戦死28名負傷、ピュージェットサウンドに回航後除籍、廃艦 |
駆逐艦 | ウィリアムディツター | 20年6月6日 | 沖縄沖、陸軍第百五十九振武隊等の特攻で1機命中大破10名戦死27名負傷、サンディエゴに回航除籍、廃艦 |
駆逐艦 | ウィリアムDポーター | 20年6月10日 | 沖縄沖、陸軍第百十二振武隊1機至近弾、船体に亀裂が走り後横転沈没。61名が負傷したが奇跡的に戦死者はいなかった。 |
駆逐艦 | トゥイッグス | 20年6月16日 | 沖縄沖、特攻部隊不明 彗星が1機が魚雷を投下後にそのまま体当たりし撃沈。艦長以下152名即死または行方不明、救助後42名死亡34名負傷。但し彗星が雷撃することは無い為、同艦海兵が、爆弾を魚雷と見間違えたか、天山等の雷撃機を彗星と見間違えたか不明 |
護衛駆逐艦 | アンダーヒル | 20年7月24日 | 人間魚雷回天多聞隊の勝山中尉艇がルソン沖で命中、船体が真っ二つになって轟沈、艦長以下122名が戦死。回天が外洋で撃沈した唯一の艦 |
駆逐艦 | キャラハン | 20年7月28日 | 海軍第三龍虎隊93式練習機(通称赤とんぼ)の特攻で撃沈47名戦死73名負傷、特攻による最後の撃沈艦。第三龍虎隊は5機編成であったが、他に駆逐艦1隻大破、1隻損傷と有効率60%の大戦果であった。赤とんぼが大戦果を挙げた理由としては、機体が木製でありレーダーに映りにくく、VT信管も反応しなかった為とも言われている。 |
主な損傷艦
艦種 | 艦名 | 特攻年月日 | 状況 |
---|---|---|---|
正規空母 | フランクリン | 19年10月30日 | 海軍葉櫻隊の特攻でミンダナオ島東方で零戦2機命中、大破56名戦死60名戦傷、20年3月15日に合流するまで4か月以上修理の為、戦線離脱 |
20年3月19日 | 九州沖航空戦、第五航空艦隊の通常・特攻両用攻撃により室戸岬沖で艦橋上部に特攻機が命中した。その後第762海軍航空隊の爆撃機銀河による緩降下爆撃で250キロ爆弾二発を被弾。爆弾は二発とも格納庫で爆発し、弾薬や航空燃料の誘爆及び大火災を発生させた。多くの乗組員が戦死又は脱出するも、残った乗組員により鎮火に成功し、沈没をかろうじて逃れた。戦死724名負傷265名は損傷艦としては米海軍史上最悪の人的損失であり、第二次世界大戦中最悪の損傷でもある。 | ||
正規空母 | レキシントン | 19年11月5日 | レイテ湾、海軍左近隊大谷上飛曹もしくは三浦二飛曹の零戦が命中し中破。通信機器と電気系統を使用不能にする甚大な被害を与え、戦死50名132名負傷。3か月以上戦線離脱を余儀なくされた。 |
正規空母 | エセックス | 19年11月25日 | 海軍香取隊の特攻でルソン沖で彗星1機命中、中破15名戦死44名戦傷、ウルシーに後退して修理1ヶ月間戦線離脱 |
正規空母 | イントレピッド | 19年10月30日 | 海軍初櫻隊・陸軍至誠隊等の特攻でサマール島沖で99艦爆1機命中、小破10名戦死6名負傷、作戦行動に影響なし |
19年11月25日 | エセックス中破と同日同場所、零戦2機命中、大破炎上63名戦死58名負傷の甚大な損害、修理の為真珠湾に後退 | ||
20年3月18日 | 海軍菊水部隊彗星隊各隊により九州南東海上にて至近弾、軽微な損傷、死傷者なし | ||
20年4月16日 | 菊水第三号作戦 沖縄沖で爆装零戦1機が命中1機至近弾で中破、飛行甲板とエレベーター破壊で10名戦死87名戦傷、本艦は大戦中4回と最多の特攻被害艦となった。現在は海上宇宙航空博物館となっている | ||
正規空母 | タイコンデロガ | 20年1月21日 | 海軍新高隊の特攻で台湾沖で零戦2機命中大破、143名戦死203名戦傷の甚大な被害を出し、ピュージェットサウンドまで後退し修理、沖縄戦末期まで戦線復帰できず。余談であるが映画永遠の0で主人公宮部が特攻したのが本艦と言われている。 |
正規空母 | サラトガ | 20年2月21日 | 海軍第二御盾隊の特攻で硫黄島沖で特攻機3機命中、水平爆撃により500キロ爆弾1発命中(投下機は海中に墜落)また撃墜された特攻機の搭載爆弾が喫水線で爆発。特攻した3機の内最後に舷側に体当たりした零戦が隔壁を貫通し格納庫で爆発。その際にガソリンパイプを切断し火災が発生、格納庫内の艦載機ともども大火災に発展した。合計123名戦死192名戦傷、航空機36機炎上の深刻な損害を受けた。戦後原爆標的艦として使用され除籍。 |
正規空母 | ランドルフ | 20年3月11日 | 米軍基地西カロリン諸島ウルシーにて、菊水部隊梓隊の銀河13機の襲撃を受ける。1機が船体後部に命中して艦尾部分を破壊。大火災を発生し中破した。25名戦死106名負傷 |
正規空母 | ハンコック | 20年4月7日 | 菊水1号作戦、沖縄沖で爆装零戦が甲板上の艦載機に突入し大火災が発生、甲板上の16機の艦載機が炎上し、25名が戦死、37名が行方不明、71名負傷。3か月近く戦線復帰できなかった。 |
正規空母 | エンタープライズ | 20年5月14日 | 3月18日と4月11日に特攻で2度に渡り軽微な損害を受け、ウルシーで修理を受けた後に沖縄で第六筑波隊富安中尉の零戦の特攻により大破。13名戦死68名負傷、人的被害に対し船体の被害は深刻で、ピュージェットサウンドに修理の為後退、終戦まで復帰できず。戦後は復員艦として使用された後、除籍 |
正規空母 | バンカーヒル | 20年5月11日 | 海軍特攻第七昭和隊の安則中尉と小川少尉の零戦2機が爆弾を投弾後体当たりを行い(内、安則中尉機の投下した500kg爆弾は飛行甲板を貫通し海上で爆発)、両機の体当たりにて発生した火災が搭載していた艦載機の燃料・弾薬に連載的に引火し大破炎上、一時は総員退艦も危ぶまれたが、ダメージコントロールで沈没は免れた。戦死者402名負傷者264名は特攻単独での最大の損害であり、船体のダメージも大きかったため、終戦まで戦線を離脱した。終戦後は予備役となり、実験艦等に使われた後1966年にスクラップ売却された。 |
軽空母 | ベローウッド | 19年10月30日 | 海軍葉櫻隊の特攻により1機命中、出撃準備していた艦載機に引火し大破大火災、92名戦死と艦載機30機全てを喪失し、修理の為ハンターズポイントまで後退 |
護衛空母 | スワニー | 19年10月25日 | 特攻機初の戦果となったセントローと同日に敷島隊1機が突入、翌26日には海軍大和隊2機が命中し、2日間で合計3機命中で大破し2日間で107名の戦死者と160名戦傷の膨大な損害を出したが沈没は免れた。修理の為ハンターズポイントまで後退 |
護衛空母 | マニラ・ベイ | 20年1月5日 | 海軍特攻第十八金剛隊の2機が命中し中破、14名戦死56名戦傷。突入箇所で命中機2機の内1機の搭乗員の遺品の財布と日章旗が発見され、その遺品を持ち帰った乗組員の子孫の尽力で1995年に命中機は丸山隆中尉機と判明し、遺品は50年ぶりに遺族に返還された。 |
戦艦 | ニューメキシコ | 20年1月6日 | リンガエン沖における上陸支援任務中、海軍金剛隊各隊又は陸軍鉄心隊の特攻機1機が艦橋に命中、英国の観戦武官として乗艦していたラムズデン中将と本艦艦長以下の艦首脳陣30名が戦死、87名が負傷するも、上陸終了まで任務を続行し、その後真珠湾に修理の為に後退。ちなみにラムズデン中将は第二次世界大戦中英国陸軍且つ特攻による最高位の戦死者となった |
20年5月12日 | 第五艦隊旗艦インディアナポリスが特攻により損傷した為、臨時旗艦としてスプルアンス司令が搭乗していたが、海軍特攻生気隊・陸軍特攻誠第百二十戦隊の疾風1機が命中1機至近弾で中破、戦死者54名119名戦傷、スプルアンス司令もあやうく戦死するところであった | ||
戦艦 | カルフォルニア | 20年1月6日 | ニューメキシコと同日同場所、艦砲射撃中に特攻機1機が命中、中破し45名戦死155名負傷、修理の為ピュージェットサウンドに後退した。この日は戦艦2隻の他巡洋艦4隻も損傷しており、大型艦艇の損害が多い日となった |
戦艦 | メリーランド | 20年4月7日 | 菊水一号作戦で第四建武隊か第三御盾隊の零戦が第三砲塔付近に命中、戦死31名負傷38名の損失と第三砲塔が使用不能となる損傷を被ったが、沖縄に向かっていた大和との海戦を望み、艦長が損傷を受けた事を報告しなかった。しかし大和は同じ頃に米艦載機の攻撃で撃沈され、その望みは叶わなかった。 |
重巡洋艦 | オーストラリア | 19年10月21日 | 特攻1号とされる敷島隊の突入以前に、レイテ湾で日本軍機の特攻攻撃を受けて艦長以下30名の戦死者を出している。同日出撃したのは久納中尉以下3機の大和隊(零戦)で、未帰還は久納中尉のみだが、本艦に特攻したのは一式陸攻との戦闘記録である上に出撃時間もずれており、久納機であるかは不明。その為久納中尉も特攻1号とは認定されてない(特攻による戦死とは後日認定された。)その後も本艦は特攻攻撃を受け続け合計4回(6回とする説もあり)最終的に1月6日に2機の命中で大破、合計86名の戦死者を出して修理の為にイギリスに後退し、終戦まで復帰できず |
重巡洋艦 | ルイビル | 20年1月6日 | 第七艦隊隷下第77任務部隊旗艦、スリガオ海峡戦で西村艦隊撃破に活躍した艦であったが、リンガエン湾で上陸部隊支援中に2日に渡って陸軍特攻の99式襲撃機計2機が命中。第77部隊司令セオドアチャンドラー少将が大火傷を負い翌日死亡、他に41名戦死。セオドアチャンドラー少将は特攻攻撃で戦死した米海軍最高位の将官となった。その後修理の為本土に後退し沖縄戦途中より復帰、6月5日にも再度特攻攻撃を受け小破8名戦死37名負傷 |
重巡洋艦 | インディアナポリス | 20年3月31日 | 第五艦隊旗艦としてスプルアンス司令の乗艦であったが、陸軍特攻誠第三九飛行隊の1機が艦尾に命中し中破、戦死者9名負傷者20名を出し旗艦から外された。後に本艦は旗艦には復帰せず、原爆輸送の極秘任務に従事して、任務後に回天特攻母艦伊58号の通常魚雷攻撃で撃沈され883名の戦死者を出している |
軽巡洋艦 | ナッシュビル | 19年12月13日 | マッカーサーの旗艦としてニューギニアからレイテに上陸するまで、マッカーサーが乗艦していた。その後第78任務部隊の旗艦となり、ミンダナオ島に進行中に海軍第二金剛隊の5機の零戦の内1機が命中し大破、第78任務部隊の幕僚多数を含む133名の戦死と190名の戦傷を出し修理の為ピュージェットサウンドに後退 |
攻撃輸送艦 | ラグランジ | 20年8月13日 | 水陸両用部隊を輸送し上陸作戦を支援する、現代の強襲揚陸艦の様な任務を行なっていた輸送艦。沖縄沖で神風特攻第4御盾隊の彗星4機の内1機が命中し大破、21名が戦死し89名が負傷した。本艦が第二次世界大戦における米海軍の最後の損傷艦となった。本艦は応急修理されたが2か月後に除籍された |
特別攻撃の戦果についての評価
大型艦に対する戦果について
上記の通り、米海軍の損害は莫大な数に上るが、巡洋艦以上の撃沈艦、特に特攻が主目標にした正規空母の1隻の撃沈も無かったのが、しばしば特攻攻撃に効果が薄かったとする評価に繋がっている。
特攻により撃沈された3隻の護衛空母が商船改造の安物であり、戦時急造された補助艦艇であることから否定的なイメージを持たれることが多い。しかし、特攻で撃沈されたカサブランカ級航空母艦は、商船の船体ベースの設計ながらも、護衛空母としては初めて機関のシフト配置を採用した意欲作であり、決してただの安物ではない。排水量は基準7800トン 満載時10800トンと、空母としては小型であるが当時の巡洋艦並みの威容を誇るれっきとした大型艦である。
ちなみに、カサブランカ級護衛空母「ホワイトプレインズ」は、レイテ沖海戦において栗田艦隊と砲撃戦を演じ、重巡洋艦「鳥海」を砲撃で大破させる戦果を上げた。
搭載機も30機と他国の軽空母並みの搭載量であり、大西洋の戦いでは充実した対潜装備も相まってドイツ軍のUボート相手に猛威を振るっていた。(大西洋での米護衛空母の損失ブロック・アイランド1隻のみ)
特攻に限らず、大戦後半は日本を含む枢軸軍が米軍大型軍艦を沈めるのは非常に困難となっており、1944年以降で枢軸軍が沈めた巡洋艦以上の米軍大型軍艦は以下の2隻のみである。(独伊は大戦全期間に渡って、米軍の巡洋艦以上の撃沈艦なし)
艦種 | 艦名 | 喪失年月日 | 状況 |
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軽空母 | プリンストン | 19年10月20日 | 第二航空艦隊の彗星の急降下爆撃で500キロ爆弾1発を被弾。爆撃から5時間後に弾薬庫び引火し大爆発。本艦で108名戦死、艦を横付けして消火支援してた軽巡バーミンガムも爆発に巻き込まれて233名戦死、426名戦傷の大損害を被った。その後、味方駆逐艦により雷撃処分。 |
重巡洋艦 | インディアナポリス | 20年7月30日 | テニアン島への原爆輸送任務の復路、伊58号の魚雷3発が命中。内1発が主砲弾薬庫誘爆を誘発して横転、沈没。チャールズ・B・マクベイ3世艦長は戦後に本艦沈没の責任を取らされて、軍法会議で有罪となり不名誉除隊させられている。 |
大戦後半に米軍大型艦の沈没が激減した理由は以下が考えれれる。
- 米軍の大戦中に就役した新鋭艦の防御力が、他国艦船と比較して著しく高かった。
- 米軍の対空・対潜水艦能力が大戦中盤以降、他国と比較してずば抜けて高いレベルに向上しており、枢軸軍の航空機や潜水艦が容易に攻撃位置まで達することができなかった。特に水上艦に大打撃を与える魚雷を米軍艦に命中させる事が、航空機・潜水艦ともに非常に困難となっていた。(爆弾は特攻機も含め相当数命中しているが、上部構造物を破壊しても沈没まで至らせるのは困難だった)
- 米軍のダメージコントロールが、日本軍との戦いの中で改良・熟練されており、応急処置により致命的ダメージに至ることを抑止できた。(沈没した2艦は弾薬庫が誘爆するという不運に見舞われ致命的ダメージとなった)
- 大戦後半は米軍が圧倒的に制空・制海権を確保している上に、多数の艦船で大艦隊を編成しており、大ダメージを受けた艦艇を他艦船が救援し、最終的には曳航して安全地域まで後退させることが可能であった。特攻による大破艦の中でも、大戦前中盤の様に米軍が制空・制海権を完全に確保できていない状況であれば、自沈処分まで至る様なダメージを受けた艦も多かった。
以上の通り、特攻でも米軍大型艦の撃沈は困難となってはいたが、直接廃艦まで至らなかった損傷艦の中でも、エセックス級正規空母バンカーヒル及びフランクリン(緩降下爆撃による)は修理はされたが、戦時中に就役した他のエセックス級空母は全て近代化改装を施されて、ベトナム戦争など後年まで活躍してるのに対し、両艦は米軍損傷艦の中で最悪の損傷レベルであった為、両艦とも終戦後間もなくモスボール処理の上予備艦にされて、港に係留されたまま(形式的な艦種変更されたり実験には使われたが)後年にスクラップとして売却された。
他にも、太平洋戦争中の米軍の最高殊勲艦であった米空母エンタープライズとサラトガ・英空母フォーミダブルは、特攻で大破後は戦闘艦として復帰できず、復員船としての使用を経て、戦後まもなく除籍され、標的艦やスクラップ売却により艦歴を終えている。また護衛空母サンガモンは修理を断念しそのまま廃艦となった。
また、特攻で大きな損害を被った駆逐艦にしても、日米両軍による激しい水上艦同士の海戦で失われた米海軍の駆逐艦が16隻、日独両軍の潜水艦が沈めた駆逐艦が15隻、合計しても約4年間で31隻に過ぎないのに対して、特攻はわずか10か月で日独の水上艦・潜水艦による損失よりも多い40隻の駆逐艦を、撃沈ないし再起不能による廃艦に追い込んだ。
特攻の破壊力について
航空機による艦船にもっとも打撃を与える攻撃方法は、雷撃か高高度からの水平爆撃であるが、特攻はそれが困難となり開始された作戦でもあり、それらの攻撃よりは威力が劣ることが多い。
しかし、体当たり攻撃という性質上、命中時の威力は搭乗員の技量に大きく依存するため、一概には言えない。
理想的な攻撃方法
特攻の理想的な攻撃法として繰り返し訓練されたのは、敵艦まで低空飛行で接近し、その後急上昇して敵艦の弱点(空母なら飛行甲板上のエレベータ)に急降下で体当たりする、というものであったが、激しい対空砲火の中、回避運動を行う敵艦に命中する事は、特攻の大半を占めていた未熟な搭乗員には極めて困難な攻撃方法であり、そのような攻撃が出来たケースは少ない。(この攻撃方法は、映画版「永遠の0」にて映像で見ることが出来る。対空砲弾の描写や横滑りによる回避運動など、フィクション作品ながら大変凝った考証が行われている)
また、通常の急降下爆撃ではダイブブレーキを使用する事で急降下時の速度を制御するが、ダイブブレーキを装備していない戦闘機の場合は際限なく加速してしまい、速度超過による操縦困難、機動性の低下や最悪の場合空中分解を引き起こす。降下角度を深く取ればとるほど命中時の速度と破壊力が上がる反面、操縦が困難になるため、理想的攻撃を行うには高い技量が必要だった。
逆に言えば高い技量があれば可能という事であり、理想的な攻撃であれば大型艦相手でも大きなダメージを与える事が出来た。
- 沖縄沖で空母エンタープライズの前部エレベーターに富安中尉の零戦が命中、その衝撃でエレベーターは上空100m以上に吹き飛び、エンタープライズは艦底部まで損傷し、終戦まで復帰できない程の深刻なダメージを負った。
- 硫黄島で空母サラトガの舷側に体当たりした第2御盾隊(第601航空隊)の零戦が、舷側を貫通して格納庫で爆発し、大火災を発生させた。
- フィリピンのリンガエン湾で戦艦ニューメキシコの艦橋に第22金剛隊の零戦が命中、戦艦の艦橋を破壊し搭乗していた艦長のフレミング大佐以下30名の同艦幕僚が戦死、87名が負傷。
特攻の構造的欠陥
基本的に航空機は体当たり攻撃など全く考慮されておらず、爆弾と比べれば機体本体の強度(弾体強度)は無いに等しい。特攻攻撃は通常攻撃と比較すると機体の質量が加わるので、発生する運動エネルギーは爆弾単体より遥かに大きいが(物理法則では運動エネルギーは質量に比例し、速さの二乗に比例する)衝突時に機体の破壊・変形が生じ、機体本体より発生する運動エネルギーを減殺してしまうため、その大きな運動エネルギーをそのまま目標の破壊力に転換することができない。
これは「爆弾より先に機体が衝突する」以上避けられない、いわば構造的欠陥であり、この欠陥は機首に爆弾を装備する特攻専用機「桜花」の開発により解消されたものの、空中発射式という「桜花」の特性上、特攻機を大半を占めていた通常の爆撃機、戦闘機を置き換える事は出来なかった。
また、特攻機にはダイブ・ブレーキを装備していない機体も多かったため、命中率確保のためには浅い降下角度かつ低速で突入せざるを得ず、上記の理想的な攻撃を実現できる特攻機が少なかった。
以上の理由から、特攻機の対艦攻撃能力は、艦艇の喫水線に大きなダメージを与えられる雷撃や、重力による加速で莫大な破壊力を有する水平爆撃と比較すると、決して破壊力が勝ってるとは言えなかった。
余談であるが、沖縄戦時、神風特攻第5建武隊石野二飛曹の零戦が戦艦「ミズーリ」の右舷舷側に体当たりしたが、先述の通り機体は破壊され、戦艦の分厚い装甲を少し凹ませただけに止まった(また、石野機は爆弾を搭載していなかった)
この特攻は「ミズーリ」側から撮影された写真が残っている。「ミズーリ」の舷側よりも低い超低空で突入する石野機が写っており、彼の技量の高さを窺い知ることが出来るだろう。
搭載爆弾の威力不足
特攻機に搭載される爆弾の破壊力不足が、特攻の成果を減じたという指摘もある。
特に陸軍は、特攻開始当初には艦船の装甲に大ダメージを与える事ができる爆弾を保有しておらず、50kgの陸用爆弾2発を搭載した特攻機も出撃させていた。(後に海軍より徹甲爆弾を支給を受け搭載した)
米軍も日本軍の特攻機が搭載する爆弾の威力不足を指摘している。
『45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大型艦を沈めたという膨張された主張に彼等自身騙され、大型艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を無視した』
(米軍戦略爆撃調査団報告書summary report pacific warより抜粋)
日本軍も下記の通り特攻機に搭載する爆弾の大型化を進めたが、大型化を進めるほど搭載機の運動性は低下し被撃墜率が上がると言う悪循環で、期待通りの戦果を挙げる事ができなかった。
- 機首に1.2トンの炸薬を搭載した特攻専用機「桜花」の開発。
- 重量2.9トンの超大型爆弾「桜弾」(成型炸薬弾)を搭載した、陸軍四式重爆飛龍の特攻機を投入。
- 800kg爆弾搭載に改造された「彗星43型」を投入。
- 零戦の搭載爆弾を250kg爆弾から500kg爆弾に変更(零戦最終型の戦爆モデル62型の実戦投入)。
日米両軍の評価
陸軍特攻開始前に、対艦攻撃の研究と訓練を行っていた陸軍の鉾田教導飛行学校は、陸軍参謀本部の航空特攻戦法の検討開始に際して
・体当たりの最大の欠点は落速の不足にあり,爆弾の落速の二分の一程度では装甲甲板を貫徹できない
・通常攻撃と比較し、武装や戦闘能力で不利
との評価を下した意見書を提出していた。同学校は陸軍航空審査部と共同で海軍より96式陸攻を借用し航空雷撃の研究や、浜名湖や沖縄で99式双爆や一式戦を使った反跳爆撃(スキップボミング)の訓練もしていたが結果は芳しくなく、参謀本部が海軍の成功を目にし、この意見書を無視する形で特攻隊編成を強行することとなった。
最終的な日本陸軍の特攻の威力に対する総括は、沖縄の陸軍航空隊特攻を担当した第六航空軍の参謀が戦後の米戦略爆撃調査団の事情聴取に以下の通り供述している。
『特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる』
(米軍戦略爆撃調査団報告書Japanese.air.powerより引用、米軍はこの総括に対しては冷静で論理的な軍事的選択と結論付けている)
事実、特攻機は艦艇に突入するとその搭載燃料で大きな火災を発生させる事も多く、米軍の特攻対策マニュアル「Anti-suicide Action Summary」においても、特攻機による火災の威力は焼夷弾と遜色なく、もっとも警戒すべき特攻機の効果の一つとされており、兵士の火傷防止策として、ヘルメット及び長袖の軍服の正当な着用、火傷防護クリームの塗布等が義務化されていた。また火災による艦載機や弾薬誘爆による損害拡大を防止するため、艦艇の消火設備の増強と消火マニュアルの整備も行われた。
火災は艦船にとって最も深刻な損傷のひとつである。火災が原因で沈没した船は枚挙に暇が無く、沈没まで至らずとも戦闘継続に大きな支障をきたしてしまう事が多かった。日本側も特攻機の焼夷効果は認識しており、出撃の際はたとえ近距離の出撃であっても、燃料タンクを満タンにして出撃していたという。
通常攻撃と特攻の比較
特攻の「命中直前まで操縦できる」事は通常攻撃に対して大きなアドバンテージであり、米軍の迎撃が熾烈化した大戦後半期において高い有効率を挙げている。
日本軍は大戦後期も特攻と並行して航空機による通常攻撃も実施しており、相応の戦果を挙げてはいたものの、当時の日本には通常攻撃で戦果を挙げられるほどのベテラン搭乗員はほぼ枯渇しており、新米搭乗員でも実施可能な特攻が主体となっていった。
通常航空攻撃による撃沈艦(米軍公式資料・米軍戦闘詳報等より引用)
通常攻撃による損傷艦(撃沈艦と同資料より引用)
- 空母 フランクリン※ワスプ※エンタープライズ・ヨークタウン・エセックス
- 戦艦 ペンシルバニア※
- 駆逐艦 タウッシング他合計14隻
- 補助艦艇 掃海艇スカーミッシュ ドック艦シャドウェル他合計17隻
- 輸送艦 リバティ船 ケープロメオ他合計16隻
- 合計53隻
※フランクリン 九州沖航空戦にて爆撃機「銀河」に爆撃され大破、第二次世界大戦の米軍損傷艦の中で最悪レベルの重篤な損傷を受けて再起不能となった。
※ワスプ 九州沖航空戦で、戦死者101名を出す大損害を被ったが、特攻によるものとする資料も存在する。
※ペンシルバニア 沖縄で終戦直前の8月12日に931海軍航空隊の天山による雷撃を艦尾に受けて大量に浸水しあわや沈没という大損害を受けた、人的損失は20名の戦死に止まったが、本艦を旗艦として座乗していた戦艦部隊のオルデンドルフ司令が肋骨数本を折る重傷を負った。
芙蓉部隊について
特攻と通常航空攻撃の対比の際によく引き合いに出される美濃部正少佐率いる芙蓉部隊(戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊)については、美濃部司令が特攻を敢然と拒否し艦上爆撃機彗星の夜間爆撃で特攻に引けを取らない戦果を挙げたとされている。
芙蓉部隊の戦果(対艦船)と言われているのは、戦艦1 巡洋艦1 大型輸送船1隻を撃破したというものであるが、米軍の公式記録を見る限り
沖縄戦で戦艦が通常航空攻撃で損傷したのは、8月12日のペンシルバニアの大破のみであるが、これは海軍931航空隊の天山が夜間雷撃による戦果と確認されている。
また沖縄で通常航空攻撃による巡洋艦の損傷はなく、戦果誤認と思われる。
また芙蓉部隊が輸送船を撃破したとされるのは、4月6日からの菊水一号作戦であるが、菊水一号作戦期間中の通常航空攻撃による損傷は、駆逐艦タウッシング小破のみであり、通常攻撃による輸送艦の損害はない。
同期間中の輸送艦損害としては、戦車揚陸艦347号 戦車揚陸艦447号 貨物船ローガンヴィクトリー 貨物船ポップスヴィクトリー 中型揚陸艦876号の撃沈があるが、米軍側記録では、その全てが特攻機の戦果とされている。
以上より、対艦船については芙蓉部隊が確実に挙げたと認定できる戦果はなく、特攻に匹敵する戦果を挙げたとは言いがたい。しかし、芙蓉部隊隊員の生還率は特攻隊員とは比較にならず、搭乗員達は数多くの実戦経験を得る事が出来た事、そして反復攻撃が前提(さらに言えば回数を重ねるほど練度も上がる)の通常攻撃と、一回限りの特攻とでは単純な有効性の比較が難しい事を留意すべきである。
なお、飛行長である美濃部少佐自身も特攻の有効性を認めており、戦争最末期には「最大の戦果を挙げる方法」として特攻隊の編成を行ったことも付け加えておきたい。
まとめ
沖縄戦で米海軍が主に特攻によって被った、36隻沈没368隻損傷、(作戦機能喪失など)深刻な損傷艦は合計108隻、他に大損害を受けた83隻も併せ、現在に至るまで米海軍史上最大の損害である。
戦術として、発案者すら認める外道戦法であるが、圧倒的戦力を有する米艦隊に対し、質、両共に劣っていた日本軍が効果的な打撃を与える事が出来た数少ない戦術の一つであったことも事実であり、一概に評価を下すことは出来ない。
特別攻撃による人的損失
航空特攻
回天特攻
連合軍
特攻が原因となる死傷者の公式な統計資料は特にないので、全体の死傷者統計より推計する他ないが、特攻を開始して以降の米海軍の艦船損害の殆どが特攻による損害であり、その期間の人的損害のかなりの割合が特攻による損失と推計される。
- フィリピン戦 5,166名
- 硫黄島戦 1,331名
- 日本近海(含九州沖航空戦)1,008名
- 沖縄戦 4,904名
- 沖縄戦後 (含回天作戦中に撃沈された重巡インディアナポリスの損失) 1,207名
- 他に、特攻により撃沈破された輸送艦の乗組員及び陸軍・海兵隊兵士 896名
- 特攻作戦開始以降の米海軍等の戦死者 合計14,512名
連合軍死傷者合計
- 米海軍の死傷者合計は特攻が開始された1944年以降の太平洋戦域の合計で45,808名、これは第二次世界大戦(含む対独伊戦)を含めた死傷者数100,392名の45.6%、太平洋戦域での死傷者71,685名の63.9%にも上る。
- 米軍以外でも英・豪軍で、英軍の第二次世界大戦での最高位の戦死者となるハーバード・ラムズデン中将以下数百名の死傷者あり。
以上により連合軍が被った人的損失は、航空特攻・回天特攻による日本軍の人的損失を大きく超えるものと推定される。
また戦傷者以外でも、特攻による心理的ショックによる戦線離脱者も発生している
特別攻撃の心理的効果
また特攻は米兵にとって非常に恐ろしいものであり、戦争を通じて多くの戦争神経症(いわゆるPTSD)患者を発生させた。特攻攻撃が開始された1944年10月末に空母ワスプで、乗組員の内100人余りを抽出して健康診断した結果、戦闘行動に耐えられる乗組員はわずか30人足らずだったという調査結果もある。
また沖縄戦では、米軍史上最悪の14,077名の戦闘疲労症(戦争による精神疾患)の疾患者を出すに至ったが、この中の、相当な割合が、特攻攻撃に四六時中曝され続けた米海軍将兵である。
これは将官についても同様で、ミッドウエーで日本海軍を打ち破った立役者スプルアンス提督は、沖縄でのあまりの特攻の被害に精神的に追い詰められ、艦隊司令をハルゼー提督と交代させられている。また米空母艦隊司令ミッチャー大将も、旗艦が二度に渡り特攻で大破した為、幕僚多数を失うと共に自らも体調を崩し、戦後まもなく若くして亡くなっている。
これらのようにそのあまりの恐ろしさに兵員やその家族に不安を与えると判断した報道機関は特攻の存在を伏せ、後に存在を明らかにした。こうした背景もあり戦後、アメリカなどで身を省みない攻撃や命を捨てた体当たり攻撃の事をカミカゼと呼ぶようになったという。
特別攻撃隊員について
特攻は志願か強制か?
特攻を語る際の最大の争点になるところであるが、航空特攻だけでも4400名の隊員が出撃して戦死しており、その遺書・手記また生存者の回想を検証する限りにおいては、様々なケースがあったというのが実情のようである。
志願について
海軍の航空特攻隊(神風特攻隊)を編成したいとの大西中将の進言に対し、大本営の及川軍令部総長が承認した際に『あくまでも自由意志に基づき、決して命令をしないように』という条件であった為、特攻作戦はあくまでも志願制により開始された。
志願の方式には特に決まった形式は無かった様で、様々な形式により志願が行われていた。
- 志願書の記入(志願書も熱望・望む・望まないのいずれかに丸をする書式、志願者が名前を書いて封筒に入れて出す書式と複数あり)
- 上官からの申し出に口頭や態度で応える形式(希望者は一歩前にという上官の申し出に対し、希望者が一歩踏み出す様な形式)
- 志願者が部隊や上官に直接志願の申し出をする形式
志願者の条件としては、独身であること・長男ではないことと等定められていたが、これは特攻出撃が増加するにつれ有名無実化されていった。
志願者が非常に多く且つ熱烈だったというエピソードは多く残されている。
- 神風特攻隊の初の編制部隊となった第201海軍航空隊で、志願を募ったところ全員が志願した為、玉井副長ら航空隊幕僚が選考した。
- 甲種飛行予科練習生16期生に、桜花特攻搭乗員の志願を募ったところ全員が志願した為、何度にも渡る選考の上に最終的には面接や操縦試験で選抜した。
- 海軍人事省で予備士官(学徒出陣兵が中心)で当時の志願状況を確認したところ、殆どの隊員が志願書の熱望や望に丸をしており、さらには何重にも熱望に丸をしている予備士官も多く、各部隊は厳選して隊員を選考できた。
- 特攻志願に係る悲劇として陸軍藤井一中尉(特攻により2階級特進で中佐)の話が有名である。藤井中尉は妻帯者でありまた飛行学校の教官でもあった為、2度の特攻志願は却下された。その夫の覚悟を知った妻が夫の希望を叶わせるために入水自殺し、妻の死に報いる為3度目の志願書を血判で出したところ、事情を知った陸軍もようやく受理し、昭和20年5月28日沖縄方面に出撃して戦死した。
- 回天搭乗員の募集に対しては、秘密兵器であった為「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」 という抽象的ながら特攻兵器を暗示させる募集であったが、応募が殺到した。その時の様子を元回天隊員は以下の様に述懐している。
『10月18日に、特攻要員志願者募集があった。おそらく(海軍対潜学校第4期生)全員が志願したのではないかと思う。そういう雰囲気だった。志願しなくても特に罰を受けることはなかったようだ。』
『学生隊長だった隈部大佐が志願者を面接し、20日には採用者が発表になった。隈部大佐は立派な人だった。採用に当たって、長男は採用しなかったと思う。当時の日本の家族制度では、長男が家を継ぐことになっていた。私は四男であった。』
志願の理由は国の為、家族の為と様々であり、また時代背景や価値観等様々な要因もあったが、熱烈な志願者が多数いたのはれっきとした事実である。
また戦後に多数の軍首脳・特攻作戦関係者・特攻隊員の生存者に聴取して作られた、米国戦略爆撃調査団報告書は以下の通り、自発的な志願と結論付けている。
入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍パイロットが自殺的航空任務に、すすんで自発的に奉仕したことはきわめて明らかである。
志願強制について
一方で、出撃を強制されたもしくは志願を強制された事実も見られる。
まずは特攻一号となった関大尉は、第一航空艦隊主席参謀猪口大佐の最初の特攻は海軍兵学校出身者で選抜して欲しいとの要望により、『指名』されたものであり、純粋な志願ではなかった。201空副長玉井中佐からの指名に対して即答はせず、一晩考えた上に引き受けている。
その引き受けた胸の内と、特攻に対しての批判的な見解を報道記者にしている。
『もう日本もおしまいだよ、僕みたいな優秀なパイロットを殺すなんて、僕なら体当たりせずとも敵空母に500キロ爆弾を命中させる自信がある。』
『僕は天皇陛下とか日本帝国の為にいくんじゃない、最愛の妻のためにいくんだ、命令とあらば仕方がない、日本が負けたら妻がアメ公に暴行されるかもしれない、僕は彼女を守るために死ぬんだ。最愛のものの為に死ぬ どうだ素晴らしいだろう』
他にも、強制されたもしくは志願を強制された事例としては、以下の様な証言や意見もある。
- 希望書を出した覚えがないのに、出撃者名簿にいつの間にか記載されていた(元特攻隊員・江名武彦氏証言)。
- 希望調査書には「熱望」「希望」「否」の回答があったが、「操縦員として未熟」などの理由を挙げて「否」を付けた者は「修正」と称した殴打を受け、結局全員が自発的に志願したことにされた(元特攻隊員・手塚久四氏証言)。
- 部隊のみんなが志願したので、仕方なく志願した。
- 大戦末期は部隊ごと特攻隊編成の指名があり、所属していた部隊が特攻に指名された為、出撃を余儀なくされた。(大井海軍航空隊の事例など 大井航空隊は練習機白菊による訓練部隊であったが、爆装白菊での特攻隊として編成された。)
- 特攻士官の主要構成員となった予備士官は当初から特攻を前提とした訓練が中心であり、実質的には志願強制されているも同然だった。
- 情報が十分になく判断力が失われている中で、軍に騙される形で志願した。
- 高等教育を経ている特別操縦見習士官よりも年若い少年飛行兵の方が特攻への熱意を持ちやすかったという。後述する振武寮で特攻帰還者への「再教育」に辣腕を振るった倉澤清忠陸軍少佐は以下のように証言している。
「(少年飛行兵は)12、13歳から軍隊に入っているから洗脳しやすい。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、小遣いをやって国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃう」
以上の通り、自発的な志願制が前提とされた特攻であったが、出撃の強制や、上述の手塚久四氏の証言にもある通り、暴力的あるいは精神的な「修正」「指導」によって「自発的に」特攻を志願するよう仕向けられる「志願の強制」の証言も多く見られ、志願制は形骸化していたと指摘する声もある。
特攻拒否について
特攻は表向き志願制であった為、志願前であれば志願書にその旨記載することで拒否できるという建前になっていた(志願後に出撃を拒否すると命令不服従で処罰の対象となる)。実際にパイロット個人や所属部隊が多大な戦果を挙げていた場合は特攻を拒否したまま終戦を迎えたケースも多い。
有名な特攻拒否の例を以下に挙げる。
- 海軍航空隊の撃墜王岩本徹三中尉がフィリピンの第二航空艦隊在籍時に拒否
- 紫電改での活躍が有名な343空の飛行長志賀淑雄中佐が、部隊への特攻参加の打診を拒否、343空司令源田大佐も志賀中佐を支持した
- 海軍芙蓉部隊は隊長美濃部正少佐の方針で、所属の第三航空艦隊からの特攻指示を拒否し彗星艦爆の夜間通常攻撃で戦果を挙げた
- 第203海軍航空隊戦闘第303飛行隊長岡嶋清熊少佐が部下から特攻隊員は出さないと拒否し続けた
但しこうした実績や、有力者とのコネクションのない一般の隊員が拒否することは、実際はかなり困難だったという指摘もある。
特攻帰還者
特攻で出撃するも機体の不調や、中には精神的な躊躇による故意的なものも含めて、帰還や不時着により生還した特攻隊員もかなり存在した。(陸軍の沖縄特攻では第六航空軍が作成した振武隊編成表によれば、振武隊隊員1,276名中605名が生還、海軍航空隊も沖縄戦で延べ1,868機が出撃し896機が帰還もしくは不時着している)
帰還した特攻隊員は再度の出撃を待つか、特攻以外の他の隊へ転属することもあった。上述した江名武彦氏は海軍の特攻要員として二度の帰還を経験しているが、二度目はそのまま茨城の原隊まで戻され、格別責められることは無かったという。
また知覧特攻平和会館初代板津忠正館長は、昭和20年5月28日に沖縄方面に向け特攻出撃したが、エンジントラブルで徳之島に不時着、その後2回の出撃命令も天候不順で出撃できず、4回目の出撃が8月15日に決まっていたが、日本の降伏により九死に一生を得ている。
一方で帰還を恥ずべきこととして帰還者を責めるケースも見られた。その代表格とされるのが陸軍第六航空軍の特別攻撃隊「振武隊」の生還者の一部を隔離再教育したとされる「振武寮」である。
同隊では帰還者の一部(合計80名)を福岡市内の「振武寮」に収容して、軍人勅諭の書き写しなどの精神教育を行うとともに、忠誠心や愛国心を欠く「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵り、殴打などの体罰も含め、再度の特攻に赴くよう「再教育」を施した。米軍の戦闘機に撃墜され帰還し振武寮に収容された大貫健一郎陸軍少尉の証言によると、帰還した隊員らに最初に向けられたのは第六航空軍司令菅原中将による「軍の面汚しが。貴様たちが生きて帰ってきたために何人の米兵が生きたと思うのか!」という怒声であったという。
なお振武寮で「再教育」に辣腕を振るったとされる倉澤清忠陸軍少佐は、戦後会社社長となり社会的に成功を収めたものの、死去するまで特攻隊関係者の報復を恐れて護身用の拳銃と軍刀を隠し持っていたという。倉澤氏はあくまで特攻は自発的志願によるもので批判される謂れはないとしつつも、自分のしたことで恨みに思われるのも仕方ないところはあると述懐している。
但し「振武寮」は軍公式文書等ではその存在を確認できず、収容された隊員や関係者も少なく、概要は一部関係者の証言によるもののみで、またその存在期間も長くて20日弱のごく短期であったと言われており、詳細はよく判っていない。
特攻隊員の待遇
特攻隊は、各部隊から志願(原則として)により選抜された隊員が、予定戦力となり、特攻配置の部隊に移動して、出撃が決まると隊名が付されて特攻隊員になり、特攻隊が編成された。
特攻により戦死した隊員は、特別進級(いわゆる特進)の栄誉を受けることが原則であった。この特別進級は、普段どんなに功績を上げても2階級進級なのに比べ、兵なら下士官、下士官なら士官と最大でも4階級特進もあり、それにより遺族恩給の額も大幅に変わってきた。
出撃前日には豪華な食事が提供されたが、殆どの隊員は手を付けなかった。
まとめ
以上の通り、特攻は志願制を前提とし、多数の熱烈な志願者がいた一方で、強制的に志願者にされた者がいたのも事実であり、書籍・ネット上等様々な媒体で見られる、特攻賛美派による特攻は全て志願であったという意見も、特攻否定派の殆どが強制か実質強制とする意見も、いずれも正確ではないものと思われる。
しかし、志願及び強制であっても、特攻は最悪の作戦であり、二度と繰り返してはいけないという結論については、異論はないだろう。
米軍の対策
特攻で指揮下の艦隊が大損害を受け、その対策に頭を悩ましていた第3艦隊司令ハルゼー大将と第38任務部隊司令ミッチャー中将が、ワシントンの海軍首脳部と協議した結果、サンフランシスコで19年11月24日から26日まで3日間に渡って最初の特攻に対する集中対策会議が開かれる事となり、その会議で様々な特攻対策が定められた。またこの会議以降も継続的に特攻への対策が講じられることとなる。
- 特攻隊の基地とおぼしき航空基地への爆撃を徹底強化(沖縄戦ではB29まで投入)また戦闘機を常時警戒飛行させ、特攻攻撃出撃を阻止。
- 第38任務部隊(後に第5艦隊の指揮下に入って第58任務部隊に改称)の空母群を従来の4任務群から3任務群に集約し、各任務群の哨戒能力や対空能力の強化を図る。
- 正規空母の標準搭載機を艦上戦闘機36機艦上爆撃機36機艦上攻撃機18機から艦上戦闘機72機艦上爆撃機15機艦上攻撃機15機に変更し艦載戦闘機を倍増。艦爆・艦攻減による攻撃力低下は、艦戦(ⅤF)の一部を戦闘爆撃機(ⅤBF)として運用することによって対応し、増加搭載する戦闘機は海兵隊戦闘機(ⅤMF)より補充。
- レーダー装備の駆逐艦を、主力艦隊の外周に配置しレーダーピケットラインを展開、早期警戒を徹底強化。またこの駆逐艦には直援の戦闘機を配置し、駆逐艦への特攻攻撃の防止を図る。
- 対空火器の増強、特に特攻機に有効だったボフォース40ミリ機関砲装備数を強化。米主力空母エセックス級は4連装8基32門から18基72門に大幅強化(5インチ対空砲のⅤT信管は高価で装備数も少なかった為、特攻機にはあまり効果がなかったwikipedia参照)また艦対空ミサイルも特攻機対策で英米で開発され、実際に試射されている。
- 特攻被害477例を学者を動員し徹底検証し、効率的な艦の回避運動や対空火器の集中方法について研究、これは大西洋でのUボート対策と併せて、後に大々的に官民に導入されたオペレーションリサーチのさきがけとなった。
これらの対策もあって、特攻攻撃の成功率をフィリピン戦での26.8%から、沖縄戦14.7%と大幅に低下させて、かなりの効果を上げることができたが、結局米軍は終戦まで特攻を完全に防ぐまでの有効な対策は持ちえなかった。
航空機以外の特別攻撃
- 回天 航空特攻より早い1944年2月に最初の特攻兵器として、人間が操縦する魚雷の開発が決定された。これは後に回天と名付けられた。酸素魚雷2発分の炸薬量で戦艦も一撃で撃沈可能との期待も大きく、早速1944年11月に実戦投入され、初陣のウルシー環礁への攻撃で米軍の大型給油艦ミシシネワを撃沈している。しかし米軍の対潜水艦能力の高さもあり、回天母艦の潜水艦が撃沈されることも多く、戦果は撃沈3隻損傷5隻とその期待と犠牲に見合う戦果を挙げることができなかった。余談であるが、原爆をマリアナに運搬した重巡インディアナポリスを撃沈したイ58号潜水艦は回天を搭載していたが、インディアナポリスを撃沈したのは通常の魚雷攻撃であった
- 桜花 特攻専用の有人ロケット機、母機である爆撃機から発射され,個体ロケットエンジンにより最高1000キロ以上の高速で敵艦に体当たり攻撃を行う、航空特攻が開始される前の1944年6月から研究が開始され、1945年3月に初めて実戦投入されたが、戦闘機の迎撃により、母機の一式陸攻もろとも撃墜されることが多かった。その後も戦果は振るわず、駆逐艦マナートLアベール撃沈と3隻の駆逐艦大破廃艦と数隻の損傷に終わった。但し命中した際の破壊力はすさまじく,マナートLアベールは、1200キロの爆薬で船体が真っ二つに折れ、3分で轟沈するほどだったものの、余りにも高過ぎる威力から船体を貫通して反対側の海面で爆発することもあったという。また本土決戦用に地上発射型の桜花も計画され、実際に発射台も作られたが、実戦には投入されなかった。
- 震洋(海軍)マルレ(陸軍) 特攻用の小型艇 いずれも艇首に爆薬を搭載し、敵艦に水上で体当たり攻撃を行う。航空特攻より早く1944年中ごろには開発完了し、フィリピン戦・沖縄戦に投入されたが砲爆撃や地上戦に巻き込まれて全滅した部隊も多かった。戦果は歩兵揚陸艦等7隻撃沈他多数損傷、駆逐艦ハッチンスを大破座礁させて廃艦に追い込み、攻撃輸送艦(強襲揚陸艦)ウォーホークを大破させ100名近い死傷者を出させている。また本土決戦用に多数製造され、隊員の訓練も行われたが、事故により多数の犠牲者を出している。
- 伏龍 簡易潜水具を着用した隊員が海底に潜み、敵艦や上陸用舟艇を爆雷で攻撃する、とても兵器とは呼べない代物。幸いにも実戦には投入されなかったが、訓練により犠牲者を出している。
特別攻撃への評価
米軍側の評価
米軍側の評価としては、特攻の戦術的有効性と、特攻隊員の勇敢さ、忠誠心を評価する報告が多い。
以下はごく一部であるが、米軍の公式文書から軍の上層部から末端に至るまでの特攻への見解を紹介する。
日本人によって開発された、最も有効的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された。
44ヵ月続いた戦争のわずか10ヵ月の間に、米軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機(自殺航空機)による成果であった。
しかし、特攻は高くついた。特攻を実施した10ヵ月間に日本軍は2550機を犠牲にして、連合軍の各種艦船に474機命中させた。成功率は18.6%であった。
「オリンピック」作戦に対抗して、九州防衛の為の特攻機が準備され、これより規模の小さい準備が「ジッパー」作戦に対抗してシンガポール防衛の為になされた。
これらの特攻機の使用により、上陸作戦時の連合軍艦隊が、連合軍が計画した多様な効果的対策に関わらず大きな損害を受けたであろうことは疑問の余地はない。
アメリカが被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった。
延べ2000機のB29が日本の都市と産業への直接攻撃から、 九州のカミカゼ基地を攻撃する為に振り向けられた。
日本がより大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない。
降伏時、日本は本土にカミカゼ攻撃用として利用可能な9000機以上の航空機を有し、 少なくとも5000機は我々が計画していた侵攻に抵抗するために自殺攻撃用の装備をすでに備えつけていた。
約13000名の米兵が戦死したが、その内4000名は海軍だった
我が海軍が被った損害は、戦争中のどの海戦より遥かに大きかった。
航空機の攻撃だけで26隻の海軍艦艇が沈み、損傷を受けたものに至っては368隻にも及んだ、中には手の付けられない程のものもあった。
特攻は非常に有効な兵器で、我々は軽視することはできない、私はこの作戦地域内にいた者でなければ、特攻が艦隊に対しどのような力を持っているか理解することはできないと信じている。それは安全な高高度から効果ない爆撃を繰り返している、我が陸軍航空隊の重爆撃機隊とは全く対照的である。
特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20航空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する
特攻機は通常攻撃の4倍から5倍の命中率を挙げている。
通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。
我々は日本軍が手ごわいということはあらかじめ知っていたが、ここまでやるとは思っていなかった。
我々はカミカゼがこれほど多数の兵士を殺傷し、艦船を破壊していることを日本軍に認めさせる事が許せなかった。
カミカゼは米艦隊の撃滅には成功しなかったが、多大な損害を与えた。通常の攻撃ではとてもこんな成果は上げられなかったであろう。
統計が正しいものならば、日本軍は失った航空機の12%で、米軍損傷艦艇の77%、米海軍死傷者中80%をやっつけたことになる。素晴らしい戦果と言えよう。
またカミカゼにより多数の米高速空母がハリツケになった事も大きな成果である。
日本軍の特攻攻撃がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう。
事実、沖縄戦の段階では米海軍士官の中には、特攻が連合軍の進行阻止に成功するかも知れないと真面目に考え始める者もいたのである。
日本での評価
現代日本では、第二次世界大戦での悲惨な敗戦により、旧陸海軍に対する批判が根強く、特攻隊は旧軍首脳部の愚かさの象徴として否定的に捉えられることが多い。特に終戦記念日には各報道機関で特集が組まれ、評論家達による感情的な意見が多い。
実際に、特攻の戦術的有効性は別の話として、このような戦術をとらざるを得ない状況に陥った原因は、紛れも無く当時の日本軍上層部の戦略の失敗であり、その尻拭いを、事もあろうに現場の将兵達に行わせ、それすらも失敗(無条件降伏)した、という点において、当時の軍上層部は厳しくその責任を追及されるべきである。
断じて、「特攻隊への賛美」や「特攻の自己犠牲精神」などの美しい面ばかりを取り上げ、それらの責任をうやむやにする事はあってはならない。
それがより行き過ぎる形で、特攻を拒否すると本人や家族が処罰された、薬物を打たれ人事不省で出撃させられたた、などのデマ同然の批判にも繋がっている。(実際には、本人の拒否で家族が処罰される事はありえず、薬物に関しても例えば覚せい剤は当時世界中で市販されていた薬品のひとつであり、B-29迎撃に従事したパイロットにも、「夜間飛行での暗視用」として普通に支給されていた)
また一方で、昨今の偏向教育の反動や周辺国の国策から保守的思想の広がりにより、従来から特攻批判の思想と対立してきた特攻の賛美、特攻の肯定などの考え方が広がり、実世界でもネットでも両者の論戦が激しくなっており、いわゆる歴史認識問題と同様に簡単には結論が出ない状況にある。以下に、当時の日本軍に所属した将兵の証言を載せる。
統率の外道だよ
(おそらく最も有名な言葉。特攻によって日本が戦争に勝っても自決していただろうといわれている)我々は今回の戦いにおいて劣勢を覆すべく、様々な努力をしてきた。しかし、やる事成す事全て誤算と敵に裏をかかれる失態を晒すだけの結果となり…挙句そのつけを若い人達、国民に強いている。……我々は甘かった。本当に甘かった…。
(終戦直前の発言、この数カ月後に自殺した)
この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。神ならぬ身、生きる道あってこそ兵の士気は上がる。表向きは作ったような元気を装っているが、影では泣いている。
こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった
生還率ゼロの命令をだす権利は指揮官と言えども持っていない
(フィリピン戦時、大西瀧次郎に対して その後二人は意気投合し夜通し話し込んだとの事)
搭乗員の練度不足を特攻戦法の理由の一つにあげておられるが、指導訓練の創意工夫が足りないのではないか。私のところは、飛行時間二〇〇時間の零戦操縦員も、みな夜間洋上進撃が可能です。
(沖縄戦における作戦会議にて 実際、彼の部隊では徹底的な訓練の合理化を行っていた)劣速の練習機が何千機進撃しようとも、昼間ではバッタのごとく落とされます。
2千機の練習機を繰り出す前に、ここにいる古参パイロットが西から帝都に侵入されたい。
私が箱根上空で零戦で待ち受けます。 一機でも侵入できますか?
(同上 また、練習機を消耗すれば以降の搭乗員育成にも支障をきたす)
戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。
私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻また止むを得ず、と今でも考えています。戦いの厳しさは、現代のヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません
(彼が反対したのはあくまでも「非効率的な特攻」であり、特攻の戦術的有効性は認めていた)
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