勝ち続けると、すべての馬が敵になる。
その馬は、完全に包囲された。
道は消えたはずだった。
テイエムオペラオー、お前はなぜ走れたのか。"年間全勝のレジェンド"
テイエムオペラオー(英: T.M. Opera O、中: 好歌劇)とは、1996年生まれの日本の競走馬。GI7勝。長く世界最高獲得賞金記録を保持し、「世紀末覇王」と呼ばれた。北斗の拳は関係無い。あっちは世紀末覇者だ。
主な勝ち鞍
1999年: 皐月賞(GI)、毎日杯(GIII)
2000年: 天皇賞(春)(GI)、宝塚記念(GI)、天皇賞(秋)(GI)、ジャパンカップ(GI)、有馬記念(GI)、京都記念(GII)、阪神大賞典(GII)、京都大賞典(GII)
2001年: 天皇賞(春)(GI)、京都大賞典(GII)
この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については 「テイエムオペラオー(ウマ娘)」を参照して下さい。 |
概要
1996年3月13日生まれ。繁殖牝馬20頭足らずの小さな牧場だった杵臼牧場(浦河)で生まれる。
4歳時(当時表記)には皐月賞を制覇し、1999年JRA賞最優秀4歳牡馬(当時表記)に選ばれている。この時点ではGI1勝馬に過ぎなかったが、世紀末である2000年に中央競馬の古馬王道GI[1]を完全制覇し、歴史的名馬へと駆け上がった。その業績と馬名、活躍した時期から「世紀末覇王」と呼ばれた。
2001年、天皇賞(春)の勝利でGI勝利数がシンボリルドルフの最多記録に並んだ。同年中の記録の更新が期待されたものの、その後のGI勝利はなく2001年末の有馬記念で引退した。獲得賞金額は当時の世界最高額18億3518万9000円を記録した。
競走馬を引退後は種牡馬として過ごしていたが、2018年に死亡。
血統
父オペラハウス 母ワンスウエド 母父ブラッシンググルームという血統。
父オペラハウスは英国産馬でキングジョージなどGIを3勝。父父は欧州の大種牡馬・サドラーズウェルズだが、当時の日本ではサドラーズウェルズ系の血統はほとんど成績が残せておらず、米国ダート王者であるサンデーサイレンスの産駒台頭もあって、オペラハウスもあまり期待されていなかった。母は不出走の外国産馬で、1988年産まれの初仔が重賞2着となっていた。母父ブラッシンググルームはフランスで短距離~マイルでGI5勝を挙げた快足馬。5代母にポーテージがおり、ドバイミレニアムやコジーンと同一の牝系に属する。
「ワンスウエドの96」の配合は、血統背景から母の産駒がことごとく短距離馬だったので「安くてスタミナのある牡馬をつけたい」という牧場の方針によるものだったという。
生涯
※以後、当記事では馬齢を、2000年までは旧表記、2001年以降は現表記で記述します。※
1996~98年:デビューまで
1997年の夏、杵臼牧場に鹿児島弁を話す二人の男が訪れた。小柄なほうの男は岩元市三。騎手としては1982年の第49回東京優駿を制したダービージョッキーであり、調教師としてはポレールで中山大障害3連覇の偉業を成し遂げたばかりで、当年のダービーにもテイエムトップダンを送り出している。そしてもう一人の男こそ、テイエムトップダンの馬主である竹園正繼であった。
幼馴染でもある二人はテイエムトップダンのリベンジを期し、未来のダービー馬を求めて牧場を巡っていた。そして一頭の馬が竹園の目に留まる。のちに「光り輝いて見えた」と語られたその馬こそがワンスウエドの96、のちのテイエムオペラオーである。
同年10月、ワンスウエドの96は静内で行われたセリ市に出された。日本軽種馬協会の種牡馬であるオペラハウスの産駒はセリ市に出す義務があり、牧場との直接売買はできなかったのだ。ワンスウエドの96の番となり、竹園はいくらまで吊り上がるのかと心配しながら、スタート価格の1000万円をコール。杞憂だった。誰も競ってこなかったのだ。こうして、のちの活躍を思えばあまりにあっさりと、竹園はワンスウエドの96の馬主となった。
余談だが、竹園オーナーはオペラオーの活躍の後、この時のオペラオーを理想の幼駒の馬体として、それに近い馬を値段にかかわらず購入するという方針を定めているそうである。後に同じ基準で競り落とされたテイエムプリキュアも言ってみればオペラオーのおかげなのだ。
冠名「テイエム」・父から「オペラ」・サラブレッドの王になるようにと「オー」。ワンスウエドの96はテイエムオペラオーと名付けられ、栗東・岩元厩舎に預けられた。ちなみに担当厩務員はオペラオーの入厩直前に岩元厩舎に配属された新人・原口政也だが、彼にとってはオペラオーが初担当馬であった。オペラオーに対する岩元師の第一印象は「普通にいい馬」程度だったというが、調教で抜群のタイムを出し、併せ馬ではすでに勝ち上がっていた後の障害重賞馬ユーセイシュタインを1.6秒差とちぎり捨てる走りっぷりを見せ、デビュー前から早くも評判となった。
そして1998年8月15日の新馬戦(芝1600m)、オペラオーは単勝1.5倍の断然一番人気。しかしレース中に左後肢の飛節を骨折し、6馬身差の2着に敗れる。症状は軽かったが競走馬にとって重要な飛節を故障したことで治療に専念せざるを得ず、未勝利の身分のまま2歳シーズンを棒に振ることが確定。陣営は4月の皐月賞には間に合わないと考え、「ダービー一本」の方針で皐月賞の第2回クラシック登録(3万円)を見送ってしまった。
この新馬戦においてオペラオーの手綱を取ったのは、岩元厩舎所属・デビュー三年目の「競馬学校花の十二期生」の一人・和田竜二であった。初年度から同期の福永祐一に次ぐ勝数を上げ、12期生で重賞勝利一番乗り(しかも長距離のステイヤーズステークス)を達成した若手のホープである。和田騎手は以後3年間に亘り、オペラオーの全レースを担当することになる。
1999年:クラシック三強として
皐月賞・最初の戴冠
年が明け、1月の未勝利戦(ダート1400m)で再始動(4着だった)。2月の未勝利戦(ダート1800m)を勝ち上がると、芝に戻ったゆきやなぎ賞(500万下)も勝利。この後皮膚炎を患い、腱の筋が見えなくなるほど足首が腫れ上がってしまうものの、重賞初挑戦となった「東上最終便」毎日杯(GIII)を2着タガノブライアンに4馬身差で圧勝する。
まさかの急成長・急回復で皐月賞が視野に入ってきたわけだが、竹園は当初の予定通り「ダービー一本」と考えており、皐月賞出走には消極的だった。しかし岩元が、「追加登録料を僕が立て替えてもいい」とまで言って竹園を説得。追加登録料(200万円)を支払い皐月賞への参戦を決めた。
皐月賞(GI)はアドマイヤベガとナリタトップロードの2強対決というのが大方の予想で、オペラオーは11.1倍の5番人気。岩元師は前々での競馬を考えており、後方待機策を取った和田騎手とオペラオーを見て敗戦を覚悟したが、和田騎手は当日の中山競馬場の馬場から外差しが決まりやすいと読んでいた。その読みは当たり、オペラオーは直線坂を上った辺りからワープするような勢いで差し切り勝ち。サドラーズウェルズ系の重いイメージをも切り捨てるような、圧巻の脚であった。
この勝利は竹園氏、岩元厩舎、和田騎手、杵臼牧場の関係者すべてにとってのGI初制覇である。更に騎手の皐月賞勝利最年少記録も更新し、史上初の「追加登録馬のクラシック競走制覇」という栄誉も得た。ただ、馬の負担を気にする岩元師は和田騎手の苛烈な追込に苦言を呈した。和田騎手は新たな課題として馬に負担の少ない騎乗を模索することとなるが、暫くの間はそれが裏目に出てしまうこととなる。
続く日本ダービー(GI)では、皐月賞の勝利がフロック視されたのか、2強に続く3番人気であった。本番では和田騎手の若さが出たのか、前走とは異なる早仕掛けをナリタトップロードに交わされ、さらにそのナリタトップロードもアドマイヤベガに交わされ、オペラオーは3着に敗れる。テイエムの和田、ナリタの渡辺薫彦という若手二人が、天才・武豊に打ちのめされる結果となった。
秋・すっかりブロコレに……
秋シーズン初戦の京都大賞典(GII)では、一番人気のスペシャルウィークをマークして進むも、当のスペシャルウィークの仕上げがいまいちで後方ままに終わったため、結果的に仕掛けが遅れてツルマルツヨシの3着に敗れる。とはいえ初の古馬挑戦で勝ち馬と0.1秒差、2着メジロブライトとタイム差無しのハナ差に食い込んだのだから、悪くはない結果だといえよう。
いざ菊花賞(GI)! ……と出走したのだが、今度は(やはり不調で後方ままだった)アドマイヤベガをマークして仕掛けが遅れる痛恨のミスを犯し、猛追するもナリタトップロードに届かずクビ差の2着。この菊花賞は後の戦績から見ても「勝てたレース」「勝っておくべきだった」と後々まで批判され続けることになる。
同じような負け方を繰り返した和田騎手に、竹園オーナーはとうとう愛想をつかし、岩元師に騎手の交代を要請する。しかし岩元師にも、愛弟子をどうしても一人前に育てたいという願いがあった。師自身、師匠の布施正調教師に乗せ続けてもらい、遂にはバンブーアトラスと共にダービージョッキーとなった過去があったのである。岩元師は乗り代わりだけは勘弁してほしいと食い下がり、終いには「どうしても乗り替わりというなら転厩してもらうしかない」とまで宣言した。竹園オーナーは折れ、和田騎手の続投を渋々了承した。
岩元師はなんとか弟子に勝ち星をあげさせてやろうと、出走メンバーが手薄だったステイヤーズS(GII)を次戦に選択するが、抜け出して気を抜いたところを同期のペインテドブラックに交わされ、まさかの2着に敗れてしまう。
竹園オーナーの希望もあり、急遽、出走予定のなかった有馬記念(GI)へ強行軍を決行。レースではグラスワンダーとスペシャルウィークと死闘を繰り広げるも、僅かに届かぬ3着だった。とはいえ、菊花賞からステイヤーズS経由という酷いローテで出走した4歳馬がグラスワンダーとスペシャルウィークにタイム差なしのクビ差まで迫ったことはものすごいことであり、ファンからはこれからの成長が大いに期待された。
この99年有馬記念、堺アナウンサーの「やっぱり最後は最強の二頭!」という印象的な実況のせいで3着オペラオーと4着ツルマルツヨシの印象がどうも薄くなっている感じがするレースである。記録映像を観る機会があれば、ぜひオペラオーとツヨシにもご注目あれ。
2000年:世紀末覇王の古馬王道制覇
ただ彼だけが
勝ち続ける。
絶対に負けない。
それがどれほど
困難なことか
ただ彼だけが知る。
2000年1月、最優秀4歳牡馬(しれっと受賞していた)授賞式後の食事会で、竹園オーナーは「今年は1回も負けてはいかん。全勝しろ!」という大号令を下した。和田騎手のみならず、彼を乗せるよう説得した岩元調教師以下厩舎スタッフにも、ほんのわずかな油断も許されない1年が始まろうとしていた。
春、進撃開始
そして2月。鞍上の気迫がオペラオーにも伝わったか、京都記念(GII)でナリタトップロード、ステイゴールドらを競り落として久々の勝利を挙げる。竹園オーナーは少し嬉しくなったのか、久しぶり(菊花賞以来)に和田騎手に声をかけたが、その内容は「今年はもう負けるなよ。全部勝てよ」という厳命&懇願であった。和田騎手は“もう負けられへん。負けたら終わりや”と覚悟を固める。
一か月後。春天の前哨戦・阪神大賞典(GII)では、ラスカルスズカ&ナリタトップロードの菊花賞3着&1着馬を相手に2馬身半差で楽勝。こんなに強い馬だったか……?と競馬ファンが思う間に、本番の天皇賞(春)(GI)もあっさり勝利。1~3着は前走と全く同じテイエム・スズカ・ナリタの3強で決着した。上がりの1000m58.1秒は春天史上最速、4Fの46.1秒も最速、ラスト2ハロン目で観測された11.2秒のラップも最速と、とにかく最速だらけの春天だった。「関西といえば春天」という岩元師は大喜びだったそうだが、和田騎手は「GI一つくらいじゃ乗せ続けてくれた恩返しにならない」と心から喜べなかったという。
宝塚記念(GI)ではグラスワンダーとの再戦が注目されたが、グラスワンダーはレース中に骨折してしまった。和田騎手は不発となったグラスワンダーを警戒していて仕掛けが微妙に遅れてしまったが、最早、他は相手にならず、ここも着差以上の強さで僅差圧勝(2着メイショウドトウ)。
8月には、2000年のJRAヒーロー列伝に選出。ちなみにこの年選ばれたもう1頭は、当時GI未勝利だったステイゴールドだった。
王者の賛歌。
衝撃のGIデビュー。その後の好敵手たちとの熱い勝負。
正攻法で、しかも堂々と戦いあうことで、
風格と威厳を身に着けてきたテイエムオペラオー。
完璧な勝利を重ね、歴史が認める英雄へ――
王者を讃える歌が、力強く、声高らかに聴こえてくる。
春は全勝。馬券も常に圧倒的一番人気だった。それでも大一番のGIでは勝ち方に派手さがなく、負かした相手に目立った古馬が少ないこともあり、競馬ファンの中にはその実力を疑問視する人も少なからずいた。
秋、ジンクスすらも粉砕
秋初戦、京都大賞典(GII)ではナリタトップロードを相手にムチすら使わず僅差圧勝。重賞5連勝である。
次戦・天皇賞(秋)(GI)でもオペラオーは当然のように1番人気に支持されたが、単勝倍率は年内では最も高い2.4倍になった。16頭立の13番という東京芝2000mコースでは不利な外枠[2]を引いた上に、この時点の和田騎手は東京競馬場で一度も勝ったことがなかったのだ。また、当時の秋天で囁かれていた「一番人気必敗のジンクス」も影響していたかもしれない。00年代以前は一番人気に推された馬の勝率がとにかく低かったのである。65年のシンザンから数えて19連敗、84年のミスターシービーが連敗を止めるが、その翌年にはかのシンボリルドルフまでもがあっと驚く敗戦を喫する。そして87年のニッポーテイオーの勝利から99年までの12年間、第二次競馬ブームを彩った当代最強格の名馬が悉く敗北していた[3]。
……しかし!
先行して好位置をキープ、ラストで抜け出す危なげない走りで、終わってみれば「ジンクス?なにそれおいしいの?」と言わんばかりの歯牙にも掛けない快勝ぶり(2着メイショウドトウ)。オペラオーはこの勝利で史上初の中央主要4競馬場でのGI制覇を達成。ちなみにこの後、00年代以降の秋天では1番人気は馬券に絡むことの方が多くなっていく。
この辺で競馬ファンもようやくこの馬の強さを認めた。ジャパンカップ(GI)でも1番人気は86年のサクラユタカオー以降14連敗していたのだが、ここでは秋天とうってかわって、ジャパンカップの単勝支持率レコードとなる50.5%の支持が集まる。レースでは次世代の代表馬達(二冠馬エアシャカール、日本ダービー馬アグネスフライト、NHKマイルカップ馬イーグルカフェ、オークス馬シルクプリマドンナ)も相手にせず、直線だけの競馬で後の世界王者ファンタスティックライトをも蹴散らし、人気に応えてジンクスを完全粉砕(2着メイショウドトウ)した。獲得賞金額はスペシャルウィークを抜いて日本競馬史上最高の12億円に達し、JRA重賞連勝記録も7に更新する。
伝説の有馬記念、歌われる覇王の凱歌
古馬王道GI完全制覇が掛かった有馬記念(GI)では、青い帽子に7番のゼッケンが与えられた。当然圧倒的な一番人気であり、単勝は1.7倍。2番人気のメイショウドトウが6.8倍という完全な一強ムードだった。
しかし当日の朝、向かいの馬房の馬が暴れ出したのに反応したオペラオーは立ち上がり、天井で顔面を強打してしまう。オペラオーは鼻血を出し、左目も腫れあがって視界不良の状態になってしまった。
レースは逃げ宣言をしていたホットシークレットが出遅れた影響もありスローペースで進行。スタート直後からオペラオーは激しいマークを受ける。前は完全に塞がり、外に出そうにもアドマイヤボス鞍上の武豊が天才的な騎乗で左サイドをブロックしていた。あえて減速して外に出ようとしても、周囲はぴったりとペースを合わせてそれを許さない。その「包囲網」ぶりたるや、一週目のホームストレッチ前に入ってきた時点で一部の観客から怒号が飛び、1コーナー過ぎで各馬のポジションが明らかになるとスタンド全体がどよめくほどであった。後のJRA公式CMですら「その馬は完全に包囲された」と言っちゃうレベルである。
中盤から和田騎手が手綱をグイグイグイグイ押して前に行くよう促すも、オペラオーはこれを無視動くに動けず、短さに定評のある中山の最終直線へ。堺アナウンサーは「テイエムはどうする!? 残り310メートルしかありません!」と絶望感たっぷりの実況を飛ばし、スタンドからは悲鳴が上がる。最後のハロン棒横でなお馬群の真っ只中のオペラオーにほとんどの者が敗北を確信した次の瞬間……
残り200を切った!
テイエムは来ないのか?テイエムは来ないのか?
テイエム来た!テイエム来た!
テイエム来た!テイエム来た!
テイエム来た!テイエム来た!
抜け出すか!? メイショウドトウと!
テイエムッ!テイエムッ!
各馬がラストスパートに入り、馬群が僅かに開けた。首を必死に振りながら隙間を探していたオペラオーはそれを見逃さず、2度の切り替えで真ん中を縫うように突入。抜けきったその瞬間がゴール線。ハナ差、僅か20cm差の、奇跡の勝利(2着メイショウドトウ)だった。
他の馬が弱いのなら兎も角、レース前に負傷し、GIの舞台であんな絶望的なポジションから抜け出して勝った例はそうそうない。「ミスター有馬記念」こと堺アナは入線後に感極まって絶句し、謎の呻き声(ウッ)をあげた。ちなみに本競走は「社台包囲網」と揶揄されることも多いが、社台グループの馬は2頭しか出てない。馬主が結託したという陰謀論は多いが、当然根も葉もないことなので大声で唱えるのはやめよう。
和田騎手はレース後、オペラオーの脚が包囲された時に負ったであろう生傷だらけであることに気付き、涙した。最後まで勝負を諦めなかったオペラオーへの感謝と、反面オペラオーを最後まで信じられなかった自身に対しての情けなさがこみ上げてきたのだという。実は和田騎手自身、レース終盤には「もうオペラオーの背に(何もせずに)しがみつく事しかできない」と勝負を半ば諦めていた。勝利インタビューでも、和田騎手の笑みは最後までぎこちないままであった。竹園オーナーは「馬も騎手も涙が出るほどかわいそうでした」と語っている。
この勝利でテイエムオペラオーは2000年の競馬を年間無敗(重賞8連勝・内GI5勝。春秋天皇賞・2大グランプリ・JCの古馬王道路線制覇)で完走。メイヂヒカリ、テンポイント、シンボリルドルフに続く史上4頭目となる満票で年度代表馬(および最優秀4歳以上牡馬)に選ばれ、秋季GI3競走による報奨金2億円も獲得している。この年は20世紀最後の年、まさに「世紀末覇王」の名に相応しい成績であった。
年明けに「全部勝て」と言われて、本当に「全部勝った」のだから、文句の付けようのない結果である。
2001年:猛将の逆襲、次々世代との対決、そして……
春の日の、最後の栄光
翌2001年の初戦となったのは産経大阪杯(GII)。しかし放牧先の福島県いわき市が豪雪に見舞われ、ろくに調整が行えなかったこともあって、抜け出したところを後ろから交わされ、トーホウドリームの4着。久方ぶりの敗戦を喫した。
2001年4月1日、テイエムオペラオー破れています……。
エイプリルフールではありません、本当に、オペラオーが負けました!
本番の天皇賞(春)では、3コーナーで和田騎手が1発2発とステッキを入れると4コーナーをまくって直線半ばで先頭に立ち、後続の猛追をしのいで僅差圧勝(2着メイショウドトウ)した。天皇賞の勝ち抜け制廃止後、初の3勝(3連覇)達成である[4]
シンボリルドルフ以来、GI競走7勝の記録が達成されたわけだが、このレースの内容に陣営は大きな不安を感じてもいた。岩元師は3コーナーでの連打に「叩いて行ったのは初めてやないかなあ」と首をかしげた。和田騎手によれば、まだバテてはいなかったにも関わらず、何故かゴーサインに「馬が躊躇していた」からだという。この陣営の不安は、残念ながら杞憂のままでは終わってはくれなかった。
宝塚記念(GI)では前年の有馬記念もかくやの徹底マークに合い、4コーナーで鞍上が立ち上がる程の致命的な不利を受ける。そこから猛然と追い込んだものの、先行策をとりロス無く完璧に立ち回ったメイショウドトウに、6度目の対戦にして初めて先着を許し、2着に敗れる。
受けたマークを考えればよく追い込んだとはいえ、負けは負け。優勝していたら海外遠征も検討される予定だったが、この敗戦に加えて、陣営に海外遠征のノウハウや伝手がなかったこともあり、お流れとなった[5][6]。
8月1日、竹園オーナーの記者会見が開かれ、オペラオーの年内引退と、浦河町イーストスタッドおよび門別町HBA日高軽種馬農協門別種馬場での種牡馬入りが発表された。事実上、オーナーの個人種牡馬である。
最後の秋、栄光の落日
秋初戦・京都大賞典(GII)では先に抜け出したステイゴールドを捕まえきれなかったものの、ステイゴールドがナリタトップロード落馬の加害馬と判定されて失格になったので繰り上げ連覇する。この時、以前のような切れが無くなった事に気が付いた和田騎手は早め先頭の作戦を取るよう変更する。ステイゴールド鞍上の後藤浩輝は産経大阪杯と宝塚記念でオペラオーを執拗にマークし、今回は馬を制御できず突っ込んできたため、ブチ切れた竹園オーナーに検量室前で締め上げられた。
然し、それでもなお秋の天皇賞(GI)では外国産馬・アグネスデジタルに差し切られ2着に敗れる[7]。00年初頭からの1年半に亘り中央競馬の中~長距離GIで上位を半ば独占していたオペラオーとその同期たち、99年世代の落日が始まったのである。
ジャパンカップ(GI)では、ダービー馬ジャングルポケットに最後の最後で交わされて2着。
引退レースの有馬記念(GI)では如何にも疲れており、優勝した菊花賞馬・マンハッタンカフェの追走にも苦労し、メイショウドトウにも再度の先着を許す、生涯最低着順の5着に終わった。
レース後、メイショウドトウと合同で引退式が行われ、世紀末の覇王はターフを去っていった。
種牡馬時代
「シンジケートだと一般の生産者が種付けしにくくなる」「生産者に公平に血を提供したい」との理由からシンジケートは組まれず、オペラオーは竹園オーナーの個人所有として種牡馬活動に入った。だが、社台を筆頭とする大手グループの支援がない状態では、やはり集まる牝馬の質はそれほど高いものではなかった。まぁ、個人所有である点と血統背景を考慮すると相当強気の価格設定だったので、中小生産者がおいそれと手を出せる筈もなく、そりゃそうなるとしか……。
結果、なかなか自身の能力を伝える事が出来ず苦戦続きだったが、障害競走で活躍したテイエムトッパズレ、テイエムエースを輩出している。父のオペラハウスも障害競走で活躍馬を出しており、この点だけは似通ったようだ。
繋養中、心無い見学者に石を投げられたり、たてがみを抜かれたりするという憂き目にあったため、いくつかの牧場を移動した後、関係者以外には所在地を秘匿されることになった。タイキシャトルの件といい、いつの世も悪質な人間は存在するものである。
死闘から解放された世紀末覇王は、ラクダにも例えられるようなのほほんとした風体となり、細々ながら種牡馬活動を続けていたが、2018年5月、心臓麻痺のため22歳でこの世を去った。三冠を分け合ったアドマイヤベガ、ナリタトップロードはすでに早世しており、彼らの後を追うこととなった。
主な産駒
2003生まれ
2004生まれ
評価
負かせそうで、負かせない
先行して、切れる上に息の長い末脚を繰り出す安定感抜群のレーススタイルが持ち味。しかし皐月賞や00年有馬記念で披露した凄まじいまでの追込のように、中位からの差し戦術でも結果を残した。競り合いになったときに先頭を譲らない粘り強さも群を抜いている。
当代随一と言えるレース展開や作戦への対応力に加えて、コース(右・左・根幹・非根幹)・馬場(良~重)・距離(2000~3200)も不問。レース後の回復も早く連戦にも耐え、戦績が極端に崩れない。掲示板を外したことは全26戦中1度もなく、複勝圏外に行ってしまったのも3回だけなのだ。
ナリタトップロードを担当した沖和夫調教師は01年春天の敗戦後に「すでに別格の存在です。パーフェクトの一言」とまで言い切った。この頃のトップロード陣営は、クラシック戦線では「よきライバル」だったオペラオーが「果てしなく遠い目標」に変わってしまったことで、他の陣営以上の敗北感に苛まれていた事情を考慮する必要はあるかもしれないが。
オペラオーの強さが分からない人は、競馬をあきらめて競艇や競輪をやった方が良い。一緒に走らせたくはないけど、私はあの馬のファンですよ。非の打ち所のない名馬です。
―藤沢和雄(調教師・00年前後はマチカネキンノホシ等を担当)
勝負を知ってる馬ですね。ゴールがどこにあるか分かってる。ゴール前でちょっとでも、頭でもクビでも、スッと抜け出せるのが一番強い馬なんですよ。
―池江泰郎(調教師・00年前後はステイゴールドやトゥザヴィクトリー等を担当)
その一方、基本的にはとにかく真面目に走るのだが、勝負根性や賢さの裏返しなのか一度先頭に立つとソラを使いがち(手を抜きがち)になるため、強さのわりに着差がない勝負も多い。特に01年秋天ではアグネスデジタル陣営(白井寿昭&四位洋文)にまさにそこを突かれ、「勝負根性の強いオペラオーから離れて馬場状態の良い外ラチ側から抜く」奇策に出たデジタルを見落として失速したのが命取りとなった。
「うかつに先頭に出せず、さりとて過度の追込は避けたい」和田騎手は、最終的に「強いライバル(主にメイショウドトウ)をマークし、最後の最後でそいつを差し切る」という戦術にたどり着いた。そこから生まれたのが僅差圧勝、ハナ差圧勝という皮肉交じりの賛辞だが、無駄な消耗をしない戦術が覇道を支えていたのであろう事は想像に難くない。
負かせそうな気がするんだけど、負かせなかったね。本当に強かったあの馬は
テイエムとは二度と競馬をしたくない
ちなみにデットーリ騎手は、01年ジャパンカップに出走予定の欧州勢について評価を求められた際に「あの二頭(オペラオー&ドトウ)に勝つとなるとサキーかガリレオでもないと」とコメントしている。また、デットーリ騎手とファンタスティックライトは01年ドバイSCでステイゴールドに僅差で敗北しているのだが、これがきっかけでステイゴールドの00年戦績を見た海外競馬ファンの中には「T.M. Opera O ってのがGI総なめしてるけど何物?」とビビる人もいたとかいないとか。
ファン・業界人気の低さ
競走能力への評価は別にして、現役当時のファン人気はというと、実はそれほど高くなかった。春秋グランプリのファン投票においても一位ではあったものの、前年までの一位と比較して大きく得票を減らしている。
ナリタトップロードのジョッキーといっしょに、あるイベントに出た時、ファンの人に聞いてみたことがあるんですよ。成績は自分の馬の方がいいのに、応援の声は、同じか、下手をするとナリタトップロードのほうが上の時もある。どうして僕の馬は、人気がないんでしょうって
当時の和田騎手の疑問への回答になるかはわからないが、それには以下のような理由があったと思われる。
- 同期のライバルであるアドマイヤベガは母にベガ、ナリタトップロードは父にサッカーボーイ、ラスカルスズカは半兄にサイレンススズカと、根強いファンを持つ馬がいた。父や母のファンがその仔も応援する光景はお馴染みだが、日本での活躍馬が近親にいないオペラオーには、その手の声援は無縁だった。
- 柴田政人と野平祐二は「ファンに人気がないのは毛色が地味だからだろう」と推測している。黒光りする筋肉質な馬体の馬がファンに受けが良いのに対し、オペラオーのような毛色の馬はファンには印象が薄くなりがちなのだという。
- 大きな着差で圧勝したり、最後方からゴボウ抜きを決めたりといった「派手な勝ち方」がなく、好位をキープしてわずかに抜け出す勝利ばかりだった。阪神大賞典や秋天での2馬身半差はいいとして、京都記念はクビ差、春天で3/4馬身差、宝塚クビ差、JCでもクビ差、有馬記念はハナ差。もちろん強いから勝つのだが、ソラを使う癖のせいで生来の真面目さも伝わらず、地味すぎて競馬ファンにはその強さがいまいち伝わりづらかったのだ。有馬記念を見て買いだしたら翌年はろくに勝たなかった事でなんとなくどれくらい強かったのか良く分からない感じになった人もいる。
- 馬券師は往々にして過去のデータや経歴から馬券を購入するが、「最初から強かった馬」と「徐々に強くなった馬(いわゆる上がり馬)」では前者の評価を高くする傾向にある。また賭け事の常として、自身を正当化するため馬券を外す原因となった馬のことを否定する傾向も強い。心理学で言うところの「認知的不協和」である。馬券を外したからというのは論外として、皐月賞馬+クラシックGIは全て複勝圏内なので、上がり馬と見なすのもおかしな話ではあるけれど。
- 名前が……悪く言えば珍妙。血統評論家の吉沢譲治はダービーでオペラオーを本命にして外した際に「こんなダサイ名前の馬がダービーを勝つわけがないよ」「名馬に育つ名前じゃないね」と仲間内で大いに笑われたという。これまでGI馬がいなかった「テイエム」の冠名についても、佐藤洋一郎(サンケイスポーツ誌ライター)のコラムにはテイエムオペラオーについて「T(ティー)が発音できない田舎のオジサンがつけたようなダサイ馬名が嫌い」と評する若者が登場し、妙にオペラオーに厳しかったことで有名な競馬エイトの吉田均は、やたらとテレビで「ティーエムオペラオー」と発音していた。
- 実際のレースの展開はともかく、結果だけ見れば波乱が無さすぎた。8連勝中の単勝倍率は最大でも2.4倍、馬連ですら半分は200円台の配当で、阪神大賞典なんぞ複勝もワイドも全ての組み合わせが元返し。穴党派の馬券師にとっては面白みがなさすぎる。胴元のJRAにとっても売上が減るので喜ばしい事態ではない。
- レースの2~3着が大体ドトウにトップロードにラスカルスズカの1999年クラシック世代ばかり。これで一着がいつも同じでなければ「群雄割拠」として盛り上がったのだろうが、代り映えのしない決着に競馬ファンは飽きてきた。
- 00年以降に99年世代と走った前年までのGI馬たち(メジロブライト、シルクジャスティス、マチカネフクキタル、グラスワンダー、セイウンスカイ、エリモエクセルら)は不調ばかりで見事に一度も馬券に絡むことができず、そのファンたちにとっては決して面白い時代ではなかった。
- 特に、一つ前の98年世代は人気が高く、中でも、父はリーディングサイアーで母は在来牝系に属し、幼くして母を亡くした背景と、99年JCの日本総大将として凱旋門賞馬含む外国馬を迎え打ったスペシャルウィークの人気は絶大だった。そのスペシャルウィークにオペラオーは3歳時の京都大賞典でこそ先着していたが、有馬記念では逆に先着を許し、スペシャルウィークのファンに世代交代を印象づけることができていなかった。それにも関わらず翌年には賞金記録や古馬王道全連対といったスペシャルウィークの記録をオペラオーが塗り替えてしまったため、スペシャルウィークのファンからすれば「スペシャルウィークが引退したから出来たんだ」というネガティブな印象がつきまとった。
- そうした人たちの中には、オペラオーに負けたのは実力ではなく運だったとして、オペラオーを「ラキ珍(ラッキー珍馬)」(運だけで勝った珍しい馬、の意味)と呼ぶ口さがない人たちもいた。どう聞いても負け惜しみです。
- 中にはオペラオーだけではなく、オペラオーに勝てないオペラオーと同期の馬たち全てが弱いのだと言う人もいた[8]。
- 1997年の末を境に第二次競馬ブームは収束期に入り、競馬人気自体が下火となっていく時期に差し掛かっていた。
- オペラオーの血統は零細の上、外国系。サドラーズウェルズ系の馬は日本ではそこまで走っておらず、何ならオペラオーがその走りで、母系も日本になじみがない。血統で売っている馬産関係者からすると「オペラオーが勝つ=既存の主流ブランドの価値が下がる」ため、生活に関わってくるのだ。
- 生産者が小規模牧場。馬主も重賞常連ではあるものの決して大手ではない。そのような陣営がタイトル=賞金を根こそぎ持っていってしまう。
なにしろ2000年はトニービンが約1000頭、サンデーサイレンスに至っては2000頭近い産駒を送り出している横でわずか359頭しか産駒が出走していないオペラハウスがリーディング4位。その賞金の大半がオペラオー由来という状況は、他陣営にしてみればたまったものではない。 - 騎手が特に目立ちもしない、そこまで上手くもない(と思われていた)デビュー数年の若手。実績ある者が素質馬を任される騎手業界において、そんな若手がすごくいい馬に乗り続けて勝ち続けている状態は、歴戦の騎手にとっては穏やかではいられない。00年有馬、01年宝塚での「包囲網」は何としても一矢報いようとした騎手達の執念によるものという話も。
- 波乱が無く似たような結末が多いのは、スポーツとしてはともかく、賭博興行としては決して良好とは言えない状態である。人気だった競馬番組『スーパー競馬』出演者の吉田均は「1強が勝ち続ける競馬はつまらない、飽きてくる。(アグネスフライトが皐月賞馬エアシャカールを破った)ダービーのように次々と新しい馬が出てこないと」と、競馬の未来を心配するコメントを出す始末であった。同番組では本命党の大御所解説者・大川慶次郎が99年12月に死去してから出演者が穴党中心の面子に代わっており、それも影響していたかもしれない。
- 阿部珠樹はオペラオーの人気のなさを「反時代性」によるものと分析している。軽快なサンデーサイレンス産駒の全盛期にサンデーサイレンスとは全く無縁の欧州血統、騎手の自由化が進められていた時代に自厩舎の若手を乗せ続け、海外遠征が過熱していた時代に国内専念。オペラオーは時代の傾向にことごとく反した馬だったのだとしている。
- 競馬情報を提供して商売しているマスコミはその性質上、日常的に出入りする大手の馬主や馬産関係者、ベテラン騎手らと懇意である。このような閉鎖的とも言える状態では関係に忖度の入った報道になるのは避けられないが、逆に零細陣営は必要以上に叩かれることとなる。
要は、見た目が特徴的なわけでもなく、因縁のある血統でもなく、騎手や陣営も特に目立つわけでもなく、波乱の高額配当もなく、安定して強すぎたのだ。かつて「葦毛の怪物」オグリキャップが人気を得た事例[9]とは対照的に、オペラオーはアイドルホースになりそうな条件をことごとく外してしまっていた。
時代と共に再評価される馬
過去の競走馬を調べる新たな競馬ファンが最初に目にするのは、現役当時のファン人気ではなく、その馬が積み立てた実績や識者からの評価である。現役時は人気の面でミスターシービーの後塵を拝していたシンボリルドルフが、今や知名度では圧倒しているように、後世の印象のカギを握るのは「記録」なのだ。
テイエム今年、8戦全勝! 素晴らしい記録を樹立しました! あのシンザン、ブライアン、ルドルフでさえねぇ、「年間の全勝」というのは出来なかったわけなんですからねぇ
堺アナが興奮して(ウッ)実況したように、兎にも角にも2000年の戦績は物凄く、この年だけで他の歴史的名馬とも張り合えると言っても過言ではない。99年と01年こそ勝ち切れないレースも多かったが、それでも掲示板は確保し、GIも2勝している。戦績を通して2度の先着を許した相手もナリタトップロードとメイショウドトウという同世代馬2頭しかおらず、その点では覇王の面目を保ったまま引退したといえよう。
オペラオー引退から20余年が経つが、古馬王道完全制覇の達成馬はいまだに現れていない。秋古馬三冠ですらゼンノロブロイのみである。海外挑戦もあったとはいえディープインパクトでさえ成し得てはおらず、中~長距離のGIが6戦に増えた後のキタサンブラックでも年間GI4勝に留まり、その出来息子イクイノックスも年度を跨いでのGⅠ6連勝の記録こそ並んだが(種牡馬入りの為リスク回避したとはいえ)こちらも年間4勝で打ち止めとなった。たとえ年間無敗にこだわらなくとも、古馬王道GIを完走し尚且つ年間5勝するという目標自体が至難すぎるのである。
また、古馬王道の全勝ではなく全連対(全競走2着以上)にまで条件を緩めてみても、達成馬はタマモクロスとスペシャルウィーク、年を跨いでのメイショウドトウのみ。ドトウはもっと評価されるべき。着順すら気にせず春秋の天皇賞・2大グランプリ・ジャパンカップ全てに皆勤しただけという競走馬ですら稀少であり、2年以上皆勤した競走馬ともなると、このテイエムオペラオーとステイゴールドただ2頭しかいない(ドトウは00春天は出走せず)。出走レースを絞ることが多い昨今、その過酷なローテーションをこなして結果を出し続けたことも評価されている。
ゴール目前、
目の前に立ちふさかるライバルたちの群れ。
そのわずかな隙間を異次元の末脚で抜け出した。
ハナ差で掴み取った年間無敗という奇跡。
この伝説にたどりつく馬は、いまだ現れない。
この広告が出された年には、オジュウチョウサンがオペラオーのJRA最多重賞連勝記録を18年ぶりに更新。更に2年後には、アーモンドアイがGI「7勝」の壁を遂に破り、新たな伝説を築くことになった。しかし年間全勝・古馬王道完全制覇という、奇跡の地は未だただ1頭オペラオーが知るのみである。
果たして彼に並ぶヒーローは、今世紀中に登場するのであろうか?
肉体面について
- 2001年、JRAの競走馬総合研究所が1年をかけてオペラオーの強さを科学的に検証したことがあった。研究所でもバリバリのGI馬のデータを取るのは初めてだったという。
その結果、オペラオーは心臓の大きさが平均の1.5倍、1回の拍動で送られる血液量は1.8倍という、大きく強い心臓が高い心肺機能を生み出していることが分かった。また、心拍数も標準的なサラブレッドの36~40回/分に対してオペラオーは25回/分、上がった心拍数を元に戻す副交感神経の働きも平均の2~3倍で、疲労によって体内にたまる乳酸の量は通常より20~30%少ない、疲れにくい体を持っていたことも判明した。研究所は「テイエムオペラオーは傑出した持久力を持つ馬であることが科学的に証明された」とコメントしている。 - 賀張共同育成センターの槇本一雄センター長によれば、オペラオーは歯の生え替わりの時期が遅かったという。サラブレッドの多くは2歳から4歳にかけて体の成長にあわせて歯の一部[10]が乳歯から永久歯へと生え替わっていくが、オペラオーはダービーが終わった4歳夏の時点でも歯の生え替わりが始まっていなかった。これは一般には「奥手(晩成)」とされる馬に見られる傾向だという。
- JRAと共同研究を行った神奈川歯科大学によれば、テイエムオペラオーは骨格が左右対称で、右利きでも左利きでもない「両利き」の馬だったという。
- 岩元師曰く、現役当時のオペラオーは頭もよく、回復も早く、健康そのものだったそうだが、蹄壁(爪)が少し脆い馬だったという。一度鉄心を踏んづけたことがあり、大慌てで治療したとか。
最盛期は00年の秋。それ以降はやはり、その時と比べると落ちるところがあったらしい。岩元師は00年秋天後~JC前の頃、坂路調教中のオペラオーを後ろから見たとき後光が差した気がして、隣の原口厩務員に「凄い馬になったな」と呟いたことが、深く心に残っているという。
獲得賞金について
テイエムオペラオーの生涯獲得賞金額18億3518万9000円は当時の世界最高記録だった。2000年に導入された秋古馬三冠達成ボーナス2億円を含めると賞金額が20億円を超えるため、引退直後はメディアで「史上初の20億円ホース」と報道されることが多かった。その後、世界的な賞金額の上積み傾向もあり、世界記録は2017年に米国のアロゲート[11]によって更新された。日本記録としても2017年にキタサンブラックへ1位を譲り、その後はアーモンドアイやイクイノックスがさらに記録を伸ばしている。秋古馬三冠ボーナスを含めた場合は2017年以降も長らく国内で唯一の20億円ホースであったが、こちらも2023年にイクイノックスが秋古馬三冠未達成のまま総賞金22億円を獲得したことで1位の座を譲ることとなった。
とはいえ、オペラオーの総獲得賞金を現在のレース賞金で計算した場合は30億円を超えるとのことで、その偉業の唯一無二っぷりは今も健在である。近年の名馬が連なる歴代獲得賞金ランキングの中に20世紀生の馬が残っている様は語り草となっており、ランキング更新のニュースが流れるたびにオペラオーの凄さを再確認するファンも少なくない。
単年の獲得賞金額に関しては、三冠ボーナスを含めずとも、次点のアドマイヤムーンに2億円近く大差をつけて、長らく1位を保持していたが、こちらも2023年にパンサラッサによって遂に更新された[12]。
因みに最大のライバル、メイショウドトウも500万円の安値で買われたものの9億2千万円稼いでおり、結果的に両馬とも馬主に購入時の184倍もの賞金をもたらしたことになる。
顕彰馬について
テイエムオペラオーは日本中央競馬会における26頭目の顕彰馬である。テイエムオペラオーが投票対象になったのは2003年なのだが、顕彰馬になったのは2004年である。今でこそ抹消から1年以上20年以内の馬が投票対象とされているものの、2003年まではこの基準がなく、タケシバオーら20年以上昔の名馬たちにも票が分散したことが影響しているとみられている。当然そうした馬たちに投票する理由も相応にあるのだが、古馬王道全勝を成し遂げたテイエムオペラオーが落選したことに対しては流石にJRAへ抗議が殺到した。オペラオーに対し否定的な競馬ファンからも「オペラオー程の成績で顕彰馬となり得ないのであれば、今後一体どのような馬が顕彰馬たりうるのか」というような意見があったそうな。
そういったこともあって、2004年から抹消後の年数の基準が設けられ[13]、87.8%の圧倒的な得票[14]で顕彰馬となった。
運命の相棒・和田竜二について
先述した通り、競走馬は成績が向上するにつれて、より実績のある騎手を呼んで交替させていくものである。だが、岩元調教師の後押しもあって、テイエムオペラオーには和田竜二が最後まで乗り続けた。当時若干21~24歳であった和田騎手は、オペラオーの勝利後にアントニオ猪木の真似をしてスタンドを煽っていたが、先述したオペラオー人気の低さを気にしてのパフォーマンスでもあったという。2014年のインタビューでは「あの頃の自分は気を張り過ぎて、競馬以外の時間は廃人のようでした」と振り返っている。
和田騎手が乗り続けたことで、色々な批判があったことも事実である。和田騎手の元にも批判の投書が多数届き、引退レースの翌日に騎乗しに行った名古屋競馬場でも物凄い野次を浴びたという。代表的な例としては、境勝太郎調教師が菊花賞後に「ダービーは早仕掛けで負け、菊花賞は遅すぎて負けた。オペラオーは乗り方次第では三冠馬だった」とコメントしている。シンボリルドルフを手がけた「ミスター競馬」野平祐二元調教師も「オペラオーは三冠を取れる器で、古馬の連勝ももっと伸ばせていた」と評していた。
ただし、和田騎手の騎乗が決定的な敗因となったレースは、菊花賞以降はむしろ少ない。特に2001年の秋以降は能力に陰りが見え始めたオペラオーをよく導いている。1999年後半のブロンズコレクター状態については、ちょうど歯の生え替わりが始まりオペラオーが肉体的に不安定な時期にあったことや、過酷なローテーション[15]の影響も考慮すべきであろう。
たらればの話ではあるが、自らの騎乗術を確立したベテランではなく、師の教えに沿って負担をかけない走法に徹し無理な挑戦をしなかった(できなかった)新人騎手だったからこそ、オペラオーは息の長い活躍ができたのかもしれない。あの時のオペラオーを任されたのが和田騎手でなければどうなっていたのか、というifの想像は、競馬ファンの酒のつまみの一つになっている。その中でも「武や岡部の代わりに00年の和田をディープやルドルフに載せて7冠達成できんの?=覇王最強だろ!」という関係者各位に大変失礼な極論は、最強馬論争における禁じ手としてネタにされている。
オペラオーには、僕はすごく、沢山のモノをもらったような気がします。
ただ……あの馬に、何も、返せなかったような……。僕自身(そんな気)が、するので。これから、一流の男となって、あの馬に、認められるような、騎手になりたいと思います。
オペラオーの話からは外れるが、これ以降の和田騎手はコツコツと勝利を積み重ねつつ、堅実に入着を拾う仕事人として成長していった。積極的に前目につけて追いまくる闘志あふれる騎乗で人気薄の馬を掲示板内にねじ込むスタイルは、騎乗依頼のほとんどに応える姿勢も相まって、多くの中小馬主から厚い信頼を寄せられている。乗る馬の質もあってGIには中々手が届かなくなったが(そもそも並の騎手にとってはGI一勝ですら一生に一度あるかないかの勲章である点は留意しておきたい)、2021年には歴代通算23位となる大台の1400勝を達成しており、紛れもない名騎手と表せる人物になった。
2012年にはワンダーアキュートでJBCクラシックを制覇し、11年振りにGI(Jpn1)を制覇。そして2018年、オペラオーの死去一月後に行われた宝塚記念ではミッキーロケットで中央GIを17年ぶりに制覇した。この時は奇しくもメイショウドトウに敗れた01年宝塚と同じ4番出走で、かつドトウのタイムを0.1秒上回っていた。和田騎手も勝利インタビューで「オペラオーが後押ししてくれたと思います」と語り、往年のオペ&和田ファンにとっては感動の一日となった。
オペラオーと和田騎手の深い絆(何度かオペラオーには会いに行ったそうだが、嚙みつかれ追い返されたこともあったらしいけど)は競馬ファンにはとりわけ人気の高い題材であり、新たに競馬史に触れたファンからも「オペラオー調べてたら和田ファンになってた」という声がちらほら上がるほど。おかげで「テイエムオペラオー産駒ワダリュージ」だの「リュージと離れたくないから古馬王道を蹂躙した覇王」だの「ウマ娘のオペラオーは馬の擬人化ではなく和田の美少女化」だの、様々なネタでいじられ続けている。
戦績
日付 | レース名 | 格付け | 開催競馬場 | 距離 m | 天気 | 馬場 | 頭数 | 騎手 | 人気 | 着順 | |
1 | 1998/08/15 | 3歳新馬 | 京都 | 芝1600 | 曇 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 2 | |
2 | 1999/01/16 | 4歳未勝利 | 京都 | ダ1400 | 晴 | 良 | 16 | 和田竜二 | 2 | 4 | |
3 | 1999/02/06 | 4歳未勝利 | 京都 | ダ1800 | 晴 | 良 | 10 | 和田竜二 | 1 | 1 | |
4 | 1999/02/27 | ゆきやなぎ賞 | 500万下 | 阪神 | 芝2000 | 曇 | 稍 | 14 | 和田竜二 | 2 | 1 |
5 | 1999/03/28 | 毎日杯 | GIII | 中山 | 芝2000 | 曇 | 良 | 14 | 和田竜二 | 3 | 1 |
6 | 1999/04/18 | 皐月杯 | GI | 東京 | 芝2000 | 雨 | 良 | 17 | 和田竜二 | 5 | 1 |
7 | 1999/06/06 | 東京優駿 | GI | 東京 | 芝2400 | 晴 | 良 | 18 | 和田竜二 | 3 | 3 |
8 | 1999/10/10 | 京都大賞典 | GII | 京都 | 芝2400 | 晴 | 良 | 10 | 和田竜二 | 3 | 3 |
9 | 1999/11/07 | 菊花賞 | GI | 京都 | 芝3000 | 晴 | 良 | 15 | 和田竜二 | 2 | 2 |
10 | 1999/12/04 | ステイヤーズS | GII | 中山 | 芝3600 | 曇 | 良 | 14 | 和田竜二 | 1 | 2 |
11 | 1999/12/26 | 有馬記念 | GI | 中山 | 芝2500 | 晴 | 良 | 14 | 和田竜二 | 5 | 3 |
12 | 2000/02/20 | 京都記念 | GII | 京都 | 芝2200 | 晴 | 良 | 11 | 和田竜二 | 1 | 1 |
13 | 2000/03/19 | 阪神大賞典 | GII | 阪神 | 芝3000 | 雨 | 稍 | 9 | 和田竜二 | 1 | 1 |
14 | 2000/04/30 | 天皇賞(春) | GI | 京都 | 芝3200 | 曇 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 1 |
15 | 2000/06/25 | 宝塚記念 | GI | 阪神 | 芝2200 | 雨 | 良 | 11 | 和田竜二 | 1 | 1 |
16 | 2000/10/08 | 京都大賞典 | GII | 京都 | 芝2400 | 曇 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 1 |
17 | 2000/10/29 | 天皇賞(秋) | GI | 東京 | 芝2000 | 曇 | 重 | 16 | 和田竜二 | 1 | 1 |
18 | 2000/11/26 | ジャパンカップ | GI | 東京 | 芝2400 | 晴 | 良 | 16 | 和田竜二 | 1 | 1 |
19 | 2000/12/24 | 有馬記念 | GI | 中山 | 芝2500 | 晴 | 良 | 16 | 和田竜二 | 1 | 1 |
20 | 2001/04/01 | 産経大阪杯 | GII | 阪神 | 芝2000 | 曇 | 良 | 14 | 和田竜二 | 1 | 4 |
21 | 2001/04/29 | 天皇賞(春) | GI | 京都 | 芝3200 | 雨 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 1 |
22 | 2001/06/24 | 宝塚記念 | GI | 阪神 | 芝2200 | 晴 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 2 |
23 | 2001/10/07 | 京都大賞典 | GII | 京都 | 芝2400 | 晴 | 良 | 7 | 和田竜二 | 1 | 1 |
24 | 2001/10/28 | 天皇賞(秋) | GI | 東京 | 芝2000 | 雨 | 重 | 13 | 和田竜二 | 1 | 2 |
25 | 2001/11/25 | ジャパンカップ | GI | 東京 | 芝2400 | 晴 | 良 | 15 | 和田竜二 | 1 | 2 |
26 | 2001/12/23 | 有馬記念 | GI | 東京 | 芝2500 | 晴 | 良 | 13 | 和田竜二 | 1 | 5 |
その他記録(達成当時)
- 生涯獲得賞金 18億3518万9000円[20]
- 年間獲得賞金 10億3600万4000円[21][22]
- 1走あたりの獲得賞金額 7058万4192円[23]
- 中央平地GI 7勝[24]
- 中央平地GI 6連勝[25][26]
- 中央平地GI 年間5勝(5戦無敗)
- 中央平地GI 9連続連対[27]
- 中央平地GI 11連対
- 中央平地重賞 12勝[28]
- 中央平地重賞 8連勝[29]
- 中央平地重賞 年間8勝(8戦無敗)
- 賞金王在位 6236日(約17年1ヶ月)
- 1番人気での8連勝
- 15戦連続1番人気[30]
- 主要4競馬場[31]でのGI勝利[32]
- 史上初。
- 天皇賞 3勝(3連覇)
- 満票での年度代表馬選出
- ジャパンカップでの単勝支持率 50.5%[33]
- 賞金総額の日本記録更新[34]
血統表
*オペラハウス Opera House 1988 鹿毛 |
Sadler's Wells 1981 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Fairy Bridge | Bold Reason | ||
Special | |||
Colorspin 1983 鹿毛 |
High Top | Derring-Do | |
Camenae | |||
Reprocolor | Jimmy Reppin | ||
Blue Queen | |||
*ワンスウエド Once Wed 1984 栗毛 FNo.4-m |
Blushing Groom 1974 栗毛 |
Red God | Nasrullah |
Spring Run | |||
Runaway Bride | Wild Risk | ||
Aimee | |||
Noura 1978 黒鹿毛 |
Key to the Kingdom | Bold Ruler | |
Key Bridge | |||
River Guide | Drone | ||
Blue Canoe | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Nasrullah 4×5(9.38%)、Nearco 5×5(6.25%)
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
JRA顕彰馬 | |
クモハタ - セントライト - クリフジ - トキツカゼ - トサミドリ - トキノミノル - メイヂヒカリ - ハクチカラ - セイユウ - コダマ - シンザン - スピードシンボリ - タケシバオー - グランドマーチス - ハイセイコー - トウショウボーイ - テンポイント - マルゼンスキー - ミスターシービー - シンボリルドルフ - メジロラモーヌ - オグリキャップ - メジロマックイーン - トウカイテイオー - ナリタブライアン - タイキシャトル - エルコンドルパサー - テイエムオペラオー - キングカメハメハ - ディープインパクト - ウオッカ - オルフェーヴル - ロードカナロア - ジェンティルドンナ - キタサンブラック - アーモンドアイ - コントレイル |
|
競馬テンプレート |
---|
中央競馬の三冠馬 | ||
クラシック三冠 | 牡馬三冠 | セントライト(1941年) | シンザン(1964年) | ミスターシービー(1983年) | シンボリルドルフ(1984年) | ナリタブライアン(1994年) | ディープインパクト(2005年) | オルフェーヴル(2011年) | コントレイル(2020年) |
---|---|---|
牝馬三冠 | 達成馬無し | |
変則三冠 | クリフジ(1943年) | |
中央競馬牝馬三冠 | メジロラモーヌ(1986年) | スティルインラブ(2003年) | アパパネ(2010年) | ジェンティルドンナ(2012年) | アーモンドアイ(2018年) | デアリングタクト(2020年) |
|
古馬三冠 | 春古馬 | 達成馬無し |
秋古馬 | テイエムオペラオー(2000年) | ゼンノロブロイ(2004年) | |
競馬テンプレート |
脚注
- *芝の中~長距離GI。テイエムオペラオー現役中の開催は天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の5競走。
- *完全な余談だが、東京芝2000mコースは「欠陥」と断じる人もいる特殊な構造のコースである。発走直後にいきなり第2コーナーに突っ込むため、外枠の馬はポジション取りと外回りのカーブにスタミナを消費してしまう。そして最後の直線が長く切れ味も必要となるため、展開を支配しやすい内枠が極端に有利なコースなのである。02年の東京競馬場改修でも大して改善されなかったため、JRAは枠順というランダム要素として、意図的にこのコース形状を設定しているのかもしれない。
- *オグリキャップ、メジロマックイーン、トウカイテイオー、ライスシャワー、ビワハヤヒデ、ナリタブライアン、サクラローレル、バブルガムフェロー、サイレンススズカ、セイウンスカイ……。特に88~90年オグリキャップは3連敗、91年メジロマックイーンは圧勝後に斜行で降着処分。更に94年ビワハヤヒデは屈腱炎発症→引退、98年サイレンススズカに至っては予後不良と、競走キャリアを失った馬もいた。
- *ちなみに、次に3勝を達成するのは2017年のキタサンブラックだが、3連覇ではない。1位入線だけならばメジロマックイーンがそうなのだが、1991年の秋天は降着処分(先述の東京芝2000mコースの欠陥のせい)である。
- *陣営が海外遠征に消極的だった理由の一つには、岩元師が「ヨーロッパなんて行ったら口蹄疫で帰ってこれなくなるぞ」と言ったように英国での口蹄疫流行の問題もあった。英国では2001年初頭から口蹄疫が流行しており英国最大の競馬開催であるチェルトナムフェスティバルも中止に追いやられるほどだった。ウイルスは偏西風に乗ってドーバー海峡を渡り、3月には凱旋門賞が開催されるフランスでも発症が確認されていた。
- *陣営が海外遠征に消極的だった理由の一つとして、JRAの海外遠征支援縮小の影響も指摘されている。1999年までの支援制度では報賞対象はGIIやGIIIも含めた海外重賞の1~5着馬とされており、海外GI出走ならば5着であっても約2000万円、1着ならば最高で約2億5000万円の報奨金がJRAから支払われていた。ところが2001年になるとJRAはGII・GIIIへの報奨金を打ち切り、GIであっても1着以外は報賞制度の対象外とし、その報奨金も最高で5000万円までと従来の約1/5にまで減額した。この制度変更を『Number』誌上で扱った片山良三は、制度変更は「イチローのいないオリックスのようにはなりたくなかった」JRAの意思のあらわれだろうとしている。
- *この勝利は、かつて外国産馬が出場可能であった1956年のミツドフアーム以来となる外国産馬の勝利であった。天皇賞は2000年から外国産馬にも再解放され、同年の秋天(春天は外国産馬の出走なし)でメイショウドトウとイーグルカフェ2頭の出走は1958年のマサタカラ以来となるものであった。
- *オペラオーら1999年クラシック世代は、少なくともオペラオーの一強体制となる以前には「強い世代」と評されることのほうが多かった。境勝太郎は「右を見ても左を見ても良い馬が綺羅星のごとく」と評し、野平祐二も「とにかく凄い」「レベルが高い」と称え、大川慶次郎は「待ちわびていた強い世代の登場」に喜んでいた。特に長距離戦での戦績が凄まじく、00年の春天の後には長岡一也らから「戦後最強の長距離世代」とまで呼ばれるほどだった
- *珍しくて目立つ葦毛、地方から来たと言う物語性、数々の名騎手とのコンビ、そして何より平成三強+etcとの勝ったり負けたりの名勝負。血統の地味さはオペラオーと似たようなものだが、母系を辿れば天皇賞牝馬クインナルビーがいる、といった人気を得る条件が揃っていた。
- *人間とは違って馬では全ての歯が生え替わるわけではない。
- *GIの2戦だけで14~15億稼いでいる。
- *但し、サウジカップの1着賞金1000万米ドルによることは留意しておきたい
- *なお2004年は本投票とは別に、選定基準の変更で対象外となった登録抹消後21年以上の馬に対しても1人2票での投票が行われ、タケシバオーが顕彰馬に選出された。
- *2014年まで行われた1人2票制の投票では最高の得票率だった。
- *3月末の毎日杯を勝った時点で既に年4戦、そこから皐月賞への急遽参戦→ダービー。後半は京都大賞典→菊花賞→ステイヤーズS→有馬記念で、年間10戦である。ちなみに同年のナリタトップロードとスペシャルウィークは年間8戦、グラスワンダーは5戦。また、有馬記念出走予定馬の中でオペラオーと同じく京都大賞典→菊花賞→ステイヤーズSと走っていたペインテドブラックは、どうしても長距離連戦の疲労が抜けなかったため直前の12月22日になって有馬記念への出走を断念することになった。
- *タマモクロス、スペシャルウィークに続く3頭目。
- *スーパークリークに続く2頭目。
- *メジロマックイーンに続く2頭目。
- *グレード制導入以後では、イナリワン、メジロパーマー、グラスワンダーに続く4頭目。グレード制導入以前のリユウフオーレル、シンザン、スピードシンボリを含めれば7頭目。
- *2017年にアロゲートが更新。日本記録としては同じく2017年にキタサンブラックが18億7684万3000円で更新。
- *2023年にパンサラッサが更新。
- *次点はアドマイヤムーンの8億3518万3300円。
- *2006年にディープインパクトが1億389万6500円で記録を更新。
- *2020年にアーモンドアイが記録を更新。
- *2013年にロードカナロア、2023年にイクイノックスがタイ記録達成。
- *地方交流重賞を含めると、2012年にスマートファルコンもタイ記録達成。グレード制以前の八大競走と宝塚記念をGI級とみなせばシンザンも該当。
- *メイショウドトウとのGI6戦連続1位2位
- *地方交流重賞を含めると、2010年にスマートファルコンが記録を更新。
- *平地競走では現在も最多記録。障害競走では2018年にオジュウチョウサンが9連勝を記録。
- *2010年にブエナビスタが記録を更新。
- *阪神、京都、東京、中山。
- *グレード制以前の八大競走と宝塚記念をGI級とみなせばシンザンも該当。
- *2006年にディープインパクトが61.2%で記録を更新。
- *どこまでを計算に含めるかによるが、例えば秋古馬三冠のボーナスを含めると20億3518万円9000円でアーモンドアイの19億1526万3900円(海外賞金は当時のレートで金額が上下する場合があり、他に19億1202万9900円、19億1524万8000円などの表記もある)を上回るが、秋古馬三冠ボーナスは獲得者が2頭しかいない事もあり、ノーカン扱いされてしまう事が多い。
これらの他にも距離割増賞、内国産馬奨励賞、市場取引馬奨励賞が存在し、これらだけでも3億円程度を稼いでいる。
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