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自己紹介
ニコニコ略歴 ニコ厨から大百科厨へ
これを友人に見せてもらって感動したのがきっかけでニコニコにアカウント登録。
最初はサブカルチャーには詳しくなかったので見る動画は少なかったがニコニコや大百科で知識をつけ徐々にニコニコにはまっていく。
そしてニコニコで公式アニメ配信が始まると話題作をチェックするようになる。
その後配信アニメを半数以上見るようになりアニメを見ながら大百科を見るようになり大百科に常駐するようになった。
ニコニコ大百科では
社会人になったのでプレミアム会員になったりしたが記事を編集するだけの文章力とセンスが無かった。
画力も無いのでお絵カキコもしていなかったがバッフロンスレに出会い描くのが比較的簡単な県章や惑星バッフロンを描いていた。その後他のポケモンのパーツを写してバフモンを描くようになり福井県の市や市章をアイコンサイズで描くようになり他県の市章も書くようになり白地図や市町村のニコニコテレビくんの旗を描くようになった。基本的にオリジナルの絵は描けない。ニコニコテレビ君の旗の一覧について語るスレのID: RDuY/2HfkC は私です。お絵カキコを記事に追加するついでに記事編集をするようになり百チャレで記事作成もするようになった。そして2018年度百ッカデミー賞で「勝手に福井県知事賞」をもらった。2018年度はあんまり福井県の記事は編集してないけど
自分が作成した記事
- 小鯛ささ漬…若狭小浜名物
- 鯖寿司…棒寿司以外にもバリエーションがあった
- ぼうぜの姿寿司…姿 寿 司
- 浜焼き鯖…福井では普通なのでどのくらい珍しいのかよく分からない
- 東尋坊…福井の名所、純粋に観光地としても良いと思う
- 玄武洞…柱状節理っていいよね
- 荒神谷遺跡…一か所でそれまで日本全国で見つかっていた数を上回る銅剣が出土するとかどういうことなの…
- 恐竜の日…福井県立恐竜博物館の入館料が無料になる日だが案外歴史は浅い?
- すなば珈琲…名前落ちの一発ネタかと思いきや案外手堅い経営。なんとこれしか作らなかったのに百チャレのMVEに選ばれた。我ながら上手くできた記事だとは思うがこれは素材が良かった。すなば珈琲の経歴をなぞるだけでおもしろくなる広報戦略は流石。ツイッターを組み込む構成は他の百チャレ参加記事を参考にしたのでMVEは先達方のおかげです。
- お水送り…若狭小浜の春を告げる風物詩
- 鳥取しゃんしゃん祭…鳥取市を代表する祭。例によってパンダのシャンシャン誕生に便乗してPR。
- 因幡の白うさぎ…お気に入りの鳥取土産
- 眼鏡堅麵麭…名産の眼鏡と想像以上の堅さで印象に残る鯖江土産
- うるしダルマ…オバマ氏に贈られた小浜市の民芸品
オススメ記事
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まず基本。特に戦国時代の人物の一覧はマイナー武将が多くてお勧め。 |
キリスト教と東欧関連はかなり充実している。カタリ派とか一般人が耳にすることが無いような記事まである。 |
今まで描いたお絵カキコ
数が多くなってきたので過去リビジョンに格納→2014年までのお絵カキコ

記念すべき初お絵カキコ。人類に早すぎる動画ランキングで山口県章を見てバッフロンにしか見えなかった。
そして逆に山口県章をバッフロンみたいにしてみた。
バッフロン







↑瞬間!ニコニコ大百科アーカイブズで紹介されました。自分としては顔の位置をどこにしようか考えてじゃあ全部やってしまえというぐらいの発想だったが他人にはどうも不気味に見えたようで。

瞬間!ニコニコ大百科アーカイブズで紹介されました。↑メガシンカが発表されてメガ(サイズ)バッフロンぐらいの発想。地味に手間がかかった。
↑通算3回目の今週の扉絵。前にもバッフロンで扉絵になったので予想しなかったわけではないがそれでも驚き。微グロでごめんね。↓は最終形態ヤマタノバッフロン
水上スキーコラ
まさかの扉絵。本当にただ流行に乗って背景素材にドットを写しただけなので恐縮。
ドット
福井県関連
表地図
お絵カキコした福井の市町村のニコニコテレビ君の旗を実際の位置関係に並べてみた。(敦賀市は他の人が作っていた)
シルエット
シンボルマーク
その他
↑まさかの扉絵。バッフロンの2週後だったからなおさら驚き。Q.何故描いた? A.県民は封筒でよく見かける。県の看板や広告にも付いてたりするから福井県を訪れる機会があれば探してみよう。
福井県の変遷
福井以外
シンボルマーク
ニコニコテレビ君の旗
白地図
千葉
千葉県の成り立ち
古代、律令制では現在の千葉県の領域には安房国・上総国・下総国の三国が設置されていた。江戸時代には江戸に近いことも有り大藩は置かれず小藩の領域が錯綜していた。 明治4年4月に廃藩置県が行われるが当初はおおむね藩の領域を県に移行したものだったので房総三国には26県が存在した。 明治4年11月に全国的に府県が整理され(第一次府県統合)安房国と上総国を合わせた領域に木更津県(県庁所在地は望陀郡貝淵村(現木更津市))、下総国西部に印旛県(県庁所在地は葛飾郡加村(現流山市))、下総国東部と常陸国南部を合わせた領域に新治県(県庁所在地は新治郡土浦町(現茨城県土浦市))の3県が設置された。 明治6年6月15日印旛県と木更津県を廃止し新たに千葉郡千葉町(現千葉市中央区)を県庁所在地とした千葉県が設置される。 明治8年5月7日新治県が廃止され利根川以南が千葉県に編入。同日千葉県の利根川以北を茨城県に移管。 同年8月江戸川以西を埼玉県に編入。
| 律令国 | 安房国 上総国 下総国 |
| 明治4年4月 | 宮谷県 菊間県 鶴牧県 鶴舞県 桜井県 久留里県 飯野県 小久保県 佐貫県 松尾県 一宮県 大多喜県 長尾県 花房県 館山県 加知山県 葛飾県 結城県* 古河県* 関宿県 佐倉県 生実県 曾我野県 多古県 小見川県 高岡県(*は現在の茨城県の地域) |
| 明治4年11月14日 | 宮谷県 菊間県 鶴牧県 鶴舞県 桜井県 久留里県 飯野県 小久保県 佐貫県 松尾県 一宮県 大多喜県 長尾県 花房県 館山県 加知山県 → 木更津県 葛飾県 結城県 古河県 関宿県 佐倉県 生実県 曾我野県 → 印旛県 多古県 小見川県 高岡県 → 新治県 |
| 明治6年6月15日 | 木更津県 印旛県 → 千葉県 新治県 |
| 明治8年5月7日 | 新治県の利根川以南 → 千葉県 千葉県の利根川以北 → 茨城県 |
| 明治8年8月 | 千葉県の江戸川以西 → 埼玉県 |
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| 律令国 | 明治4年11月 | 明治6年6月15日 | 赤は明治8年に埼玉県に移管された領域 |
ちばらき
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| 律令国 | 明治4年11月 | 明治6年6月15日 | 明治8年以降 |
山陰
| 石見 | 出雲 | 隠岐 | 伯耆 | 因幡 | |
| 明治4年11月 | 浜田県 | 島根県 | 鳥取県 | ||
| 明治4年‐9年 | 浜田県 | 島根県 | 鳥取県 | ||
| 明治9年4月 | 島根県 | 鳥取県 | |||
| 明治9年‐14年 | 島根県 | ||||
| 明治14年以降 | 島根県 | 鳥取県 | |||
四国
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| 県が整理され松山県(石鎚県)、宇和島県(神山県)、香川県、名東県、高知県が設置される | 石鎚県と神山県が統合され愛媛県となり香川県が名東県に併合される | 名東県から香川県が分離される |
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| 香川県が愛媛県に併合され名東県が淡路島を兵庫県に旧阿波国を高知県に併合される | 高知県から徳島県が分離される | 愛媛県から香川県が分離される |
| 伊予 | 讃岐 | 淡路 | 阿波 | 土佐 | ||
| 明治5年‐6年 | 石鐵県 | 神山県 | 香川県 | 名東県 | 高知県 | |
| 明治6年‐8年 | 愛媛県 | 名東県 | 高知県 | |||
| 明治8年‐9年 | 愛媛県 | 香川県 | 名東県 | 高知県 | ||
| 明治9年‐13年 | 愛媛県 | 兵庫県 | 高知県 | |||
| 明治13年-21年 | 愛媛県 | 兵庫県 | 徳島県 | 高知県 | ||
| 明治21年以降 | 愛媛県 | 香川県 | 兵庫県 | 徳島県 | 高知県 | |
その他
雑記
本当にまとまりなく雑然と書いているのでジャンプ推奨
過去のデータ
2014/10/06(月) 22:41:06
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2014/11/13(木) 23:41:18
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2014/12/23(火) 18:39:25
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2014/12/31(水) 23:56:38
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2015/02/02(月) 23:42:06
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2015/03/12(木) 22:42:47
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2015/05/24(日) 22:43:02
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2015/10/02(金) 01:29:54
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2015/12/31(木) 23:55:31
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2016/06/07(火) 01:25:10
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2016/11/24(木) 22:14:18
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2016/12/31(土) 23:24:24
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2017/05/19(金) 19:26:55
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2017/12/31(日) 18:26:34
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2018/12/31(月) 19:12:28
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2019/04/30(火) 19:30:14
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2019/12/31(火) 18:53:56
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2020/11/04(水) 19:46:35
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2020/12/31(木) 19:15:59
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メモ
福井県
県の花 水仙 日本海のきびしい風雪に耐えぬいて寒中に咲くこの花の忍耐強さは、県民性に通ずるといわれています。
県の鳥 つぐみ 毎年晩秋になるとシベリアから本県に渡ってきて、厳しい冬を県民と共に過ごす冬鳥の代表です。
県の木 松 清楚で、岩や砂地にもたくましく育つ生命力は、質実剛健な県民性の象徴といわれています。
県の魚 越前がに 荒々しい日本海でつちかわれ、福井の味として広く定着しており、冬の味覚の王者として親しまれています。
永平寺があることから禅宗の家は多いがそれ以上に浄土真宗(一向宗・門徒)が多い。これは真宗の北陸布教の拠点となった吉崎御坊が現在のあわら市にかつて存在し戦国時代には一向一揆として勢力を持ったためである。一方で嶺南地方では一向一揆の勢力が及ばなかったため禅宗の家が多い。また仏教徒が多いせいか豆腐・厚揚げの一世帯当たりの購入額一位。
車社会のくせにイオンがない。かつては地元企業と協同の店舗があったが撤退した。この店舗がしばらく廃墟のように残されたため県民のイオンへの印象が悪くなり出店が阻まれているらしい。ちなみに他にイオンの店舗がない都道府県は徳島県のみでこちらには系列店が存在する。スーパーは岐阜資本のバローが多い。これは福井資本のユースがバローの傘下に入ったためである。福井資本の企業ではドラッグストアのゲンキーが勢力拡大中。
知名度が低い上にネタにもされない。グンマーとか鳥取砂漠みたいに恐竜が出たら福井みたいなネタにならないものか。
福井弁
なお、一般的な「福井弁」とは福井市周辺で使われているアクセントのものであり、嶺南では一部のおじいちゃん・おばあちゃんを除きほとんど使われていない。また非福井弁話者はおろか福井弁話者自身も訛っていると感じているので福井弁をしゃべらない福井県人に「福井弁しゃべらないの?」は禁句
福井の買い物
一世帯当たりの自動車保有率が高いことからロードサイド型店舗の割合が全国で最も高い。そのくせイオンはない。
コメ購入額全国3位。 コシヒカリは福井生まれのお米です。購入額でも大差で新潟に負けてるけどね。
カニ購入額2位。越前ガニは贈答用。普段は手頃なこっぺがに(メスの越前ガニ)を食べる。
恐竜発掘の歴史
戦前に日本領だった南樺太(サハリン)で発見されたニッポノサウルスを除いて日本では恐竜化石が発見されておらず戦後長らく日本で恐竜は見つからないと言われてきた。ところが1978年岩手県で恐竜の化石(モシリュウ)が見つかり熊本県(ミフネリュウ)や群馬県(サンチュウリュウ)で断片的ではあるが恐竜化石が発見されるようになった。そんな中、石川県の桑島で(奇しくも福井県の)女子中学生が持ち帰った石から偶然恐竜の化石が発見された。この発見は福井県から富山県にまたがる地層(手取層)に恐竜化石が含まれることを示し福井県でも恐竜化石の発見が期待されるようになった。1982年福井県勝山市北谷でワニの歯の化石が発見され調査を開始したところ恐竜と同時代のワニの全身骨格が発見されていた。これらの報告から1988年に勝山市北谷で予備調査を行ったところ肉食恐竜の歯が発見されたことから1989年から本格的な化石発掘調査が行われる。その後フクイサウルス(フクイリュウ)をはじめとする国内では他に類を見ないほど恐竜化石が発見され当初は福井県立博物館が発掘調査を行っていたが恐竜博物館設立の構想が持ち上がる。これには恐竜専門の博物館が必要性などの懸念もあったが2000年に開館し2015年には年間70万人が訪れる福井県一の観光スポットとなっている。
- 1989年本格的な化石発掘調査が始まる。
- 1995年発掘されたイグアノドン類(フクイサウルス)の全身骨格が復元される。
- 1996年-1998年第二次発掘調査
- 2000年第二次発掘調査で発見された獣脚類の全身骨格が復元されフクイラプトルの学名が命名される。福井県立恐竜博物館開館。
- 2003年全身骨格が復元されていたイグアノドン類にフクイサウルス・テトリエンシスの学名が命名される。
- 2007年-2010年第三次発掘調査。
- 2010年第三次発掘調査で発掘された竜脚類にフクイティタン・ニッポネンシスの学名が命名される。
- 2013年-2016年第四次発掘調査
- 2015年コシサウルス・カツヤマ命名
福井の国宝
- 明通寺本堂(小浜市) 大同元年(806)、征夷大将軍坂上田村麻呂の創建と伝えられる真言宗の寺院。正嘉2年(1258)の建立とされ、県内最古の木造建築である。
- 明通寺三重塔(小浜市) 高さ約22m檜皮葺の建物である。上層にゆくにしたがって寸法を減らしていくことで、均等のとれた美しい姿が作り出されている。寺の縁起では文永7年(1270)の建立とされる。
- 朝鮮鐘(常宮神社・敦賀市) 社伝によると、慶長2年(1597)に大谷吉継が豊臣秀吉の命を受けて奉納したものであるという。我が国に渡来する朝鮮鐘のうちでは、製作年代が最も古い
- 金銅宝相華文馨(滝谷寺・坂井市) 磬は中国起源の打楽器、平安時代後期の制作と考えられる。
- 梵鐘(劒神社・越前町) 奈良時代の鐘で紀年銘を有するものは、妙心寺鐘、興福寺鐘と本鐘の3点である。
- 普勧坐禅儀 (附 普勧坐禅儀撰述記)(永平寺・永平寺町) 普勧坐禅儀は、曹洞宗の開祖である道元禅師が、宋での修業を終えて帰国した嘉禄3年(1227)に、禅の奥儀を選んで記述した書で、永平寺に伝わる本巻は、帰国から6年後の天福元年(1233)に禅師が自ら書いたものである。
福井の地名
- 福井(ふくい/県名・市名) 元の地名は北ノ庄だったが越前松平家3代松平忠昌が敗北に通じるということから福が居る「福居」と改められた(実際に柴田勝家が自刃し先代が改易されている)。しかし幕府からの文書で「福井」と間違えられ藩側も訂正できず「福井」を用いるようになった。
- 越前(えちぜん/旧国名・市町名)
- 鯖江(さばえ/市名)
- 敦賀(つるが/市名) 福井県の主要都市で県民は何の疑問もなく読んでいるが「敦」に「ツル」の読みはないため初見では絶対に読めない難読地名。初見では「アツガ」や「カクガ」と読まれる。元は「角鹿」で読みは「ツヌガ」だった。「敦」の古代の発音は「トゥン」に近いものだったためトゥンガ→ツヌガと読ませ「敦賀」の字があてられ読みが訛り「ツルガ」となった。
- 美浜(みはま/町名)
- 芦原(あわら/あわら市)
- 九頭竜 九頭竜伝説 黒竜川説 崩れ川説
- 越廼(こしの/福井市)
- 武生(たけふ・むしゅう/越前市・若狭町)
- 三方(みかた/若狭町) 元は「三潟」で三方五湖を指すか
- 上中(かみなか/若狭町) かつて北川流域を中郡と呼びその上流域を上中と呼んだ。対する下流域は下中と呼ばれたが小浜市街地が発達したためその地名は残っていない。
- 足羽(あすわ) 旧郡名や福井市中心部に位置する足羽山や足羽川で県民にはなじみ深い地名だが実は難読。「あしばね」や「あしかが(足利)」ではない。
- 新田塚(にったづか/福井市)
- ホノケ山(南越前町)
- 無悪(さかなし/若狭町)県内一の難読地名。「無悪善」(さがなくばよし)の逸話で知られる小野篁逗留伝説が残る。元は「坂足」か。
- 下タ中(したなか/若狭町) 2文字目はカタカナ。漢字仮名交じりで助詞でも外来語でもないカタカナが含まれる珍しい地名。読みのための補助的なカタカナがいつの間にか大きく書かれるようになった。
- 遠敷(おにゅう/小浜市)県内は元より全国的に見ても屈指の難読地名だが平成の大合併以前は郡名として使われていたので嶺南住民は何の疑問もなく読める。元は「小丹生」で美しき(小)水銀(丹)の産地(生)の意。好字令によって「遠敷」に改められた。読ませ方はオンフ→オニウ→オニュウでこの変化はシンノ→シナノ(信濃)、ナンハ(゛)→ナニワ(難波)と同様。
- 三分一・四分一(さんぶいち・しぶいち/小浜市)
嶺北
白装束集団で一時話題になったが現在は消滅している模様。永平寺があるので曹洞宗が多いと思いきや圧倒的に浄土真宗の家庭が多い。ニコ生でテクノ法要を行っている照恩寺lv295181381
河川はほぼ九頭竜川水系なので都市間の移動は川沿いに沿ったものになる。
嶺南
福井県立恐竜博物館
- 行楽シーズンには渋滞が発生するほど。
- アクセスの問題がなければ行って損は無い恐竜好きもそうでない人も福井旅行の際には検討してほしい博物館。
- 骨格標本のほかにリアルに復元されたロボットやジオラマもある。リアルすぎて小さい子供は泣く。ドームなので悲鳴が鳴り響く。
- 研究機関としては勝山の化石発掘研究の前線基地で博物館の辺鄙な立地はそのせい。
- 恐竜博物館や研究機関として国内に並ぶのは国立科学博物館ぐらいで恐竜専門としては日本一と言える。
- 福井県以外でも日本国内の研究機関による化石発掘には大抵関わっている。
- また日本国内にとどまらず中国やタイでも発掘を行い成果を上げている。
- PRのために都会の恐竜イベントに収蔵品を貸し出しているが常設展示されていないものを貸し出しているので博物館で展示が欠けることはなく博物館で見れない標本を見ることができる。
見どころ
- ティラノサウルスロボ - 展示室の中央に鎮座する実物の3分の2サイズでリアルに復元されたティラノサウルスロボ。博物館の紹介でよく登場するある意味博物館の顔。迫力があるので小さい子供は泣く。
- ティラノサウルス全身骨格 - 肉食恐竜、ひいては恐竜全体の代名詞的存在ティラノサウルスの全身骨格。
- カマラサウルス全身骨格 - 9割以上を実物化石を使って復元された世界的にも貴重な復元骨格。しれっと福井県産恐竜と一緒に博物館オリジナルグッズに使われていて博物館の目玉になっている。
- ブラキオサウルス全身骨格 - 岡山県の株式会社、林原から購入した化石。ブラキオサウルスの全身骨格の常設展示は国内では珍しい。
- ダイノシアター - 左右の200インチの大型スクリーンに草を食む草食恐竜やそれを狙う肉食恐竜のCG映像が映し出され右から左へ観客を恐竜がまたぐ演出も。やはり迫力があるので小さい子供は泣く。
- 恐竜ジオラマ - 中国四川省の恐竜の様子を等身大ジオラマで再現し草食恐竜を肉食恐竜が襲う様子や上空に翼竜がいる。迫力があるので(ry ドームの先端部なので声が良く響く。
- エドモントサウルス - 一部に皮膚も残るいわゆるミイラ化石の複製。脆い皮膚化石の型を取る許可は滅多に下りないので複製とはいえ貴重。
- 地球の科学ゾーン - 地層や岩石など地学についての展示ゾーン。地球からの贈り物と銘打って美しい鉱物や宝石の展示もある。
- 福井の恐竜ゾーン - ある意味もう一つのメイン展示。福井県産恐竜の実物化石や復元骨格が展示されている。
- 生命の歴史ゾーン - 生命の誕生から動植物の上陸や恐竜・哺乳類・鳥類への進化、最後に人類まで化石やジオラマが展示されている。無脊椎動物や恐竜以外の爬虫類、哺乳類の化石もここで展示されている。
- 化石クリーニング室 - 化石のクリーニング作業はバックヤードで公開されずに行われているのが一般的だがその様子をガラス越しに見学することができる。
- 季節に合わせた衣装の恐竜 - 年中行事に合わせて恐竜が様々な格好をして展示される。特に恐竜ひな人形はリアルな恐竜の顔におすべらかしと十二単という公式が病気インパクトの大きな見た目になっている。
北陸
- 北陸財務局 - 石川・富山・福井(新潟は関東)
- 北陸農政局 - 新潟・富山・石川・福井
- 北陸信越運輸局 - 石川・富山・新潟・長野(信越が長野と新潟を指す。福井は中部運輸局管轄)
- 北陸総合通信局 - 富山・石川・福井(新潟は信越)
- 東海北陸厚生局 - 富山・石川・岐阜・静岡・愛知・三重(新潟は関東信越、福井は近畿)
- 北陸地方整備局 - 山形(荒川水系)・福島(阿賀野川水系)・新潟・富山・石川・福井(港湾空港部)・長野(信濃川・関川・姫川水系)・岐阜県(神通川水系)
- 管区行政評価局 - 関東-新潟 中部-石川・富山 近畿-福井
- 中部森林管理局 - 富山・長野・岐阜・愛知(新潟は関東、石川・福井は近畿中国)
- 中部経済産業局 - 富山・石川・岐阜・愛知・三重(新潟は関東、福井は近畿)
- 新潟漁業調整事務所 - 秋田~富山 境港漁業調整事務所 - 石川~島根
コシヒカリ
1944年、新潟県農業試験場で当時北陸で主要品種であった農林1号のいもち病耐性を高めようと農林22号と交配が行われた。その後戦中の人手不足で育種が一時中断された。
1947年福井県農業試験場が設置されたが育種材料が不足していたため1948年に新潟県農業試験場から持て余していた育種材料20粒ほどを譲り受けた。この中にコシヒカリの先祖となる種籾が含まれていた。後にコシヒカリとなる系統の評価は「熟色(≒品質)は良いがいもち病に弱くて倒れやすい」と食糧増産の時代にあっては評価は芳しくないものでお蔵入り寸前だったが熟色の良さが捨てがたく細々と育種が続けられた。福井地震が起こり圃場の液状化や用水路の損傷で多くの系統が壊滅的打撃を受ける中、後のコシヒカリの系統は強湿田で栽培されていたため難を逃れることができたという。1953年越南17号の適応性試験がいくつかの県で行われたが評価は今一つで福井県でも奨励品種に採用されなかった。しかし新潟県では「栽培法を工夫すれば短所を克服できる」と千葉県も引き込んで奨励品種に採用し越南17号は農林100号として農林省登録された。同時に品種の命名も行われ新潟県と福井県にゆかりが深いことから「越の国(古代の北陸を指す呼称)に光り輝く品種」となるよう願いを込めて「コシヒカリ」と名付けられた。その後次第にコシヒカリ奨励品種とする県が増加していったがやはり栽培の手間や質より量の政策もあって新潟県でも山間部向けに奨励するのみだった。魚沼地方でコシヒカリが定着したのは他に適したコメの品種が無かった中で耐低温性など偶然にも魚沼に適した性質だった。また魚沼でも栽培に手間がかかるのは変わらなかったが零細農家が多かったため何とか克服できた。
コシヒカリの倒れやすい性質は機械化に致命的な欠点だった。室内育苗など栽培方法の発達でむしろ機械化に適した品種となった。
コシヒカリが流通し始めた当初は関東市場ではササニシキが優位を占めていた。コシヒカリはそれを避けて全国まんべんなく取引したために後の躍進につながる。
コシヒカリのふるさと福井
現在日本で最もポピュラーな米といえばコシヒカリである。日本で最も有名なブランド米と言えば「魚沼産コシヒカリ」であり生産量も日本一なことからコシヒカリは新潟県のお米というイメージが強い。しかし福井県民は声を大にして言いたい。
確かに元となる交配が行われたのは新潟県だが育種が行われたのは福井県である。品種改良は一回の交配で終わるものではなく育種によって性質が固定されて初めて品種の誕生となるためコシヒカリという品種が生まれたのは福井県と言える。最終的に真価を見出したのは新潟県ではあるが…
コシヒカリの来歴は元となる交配は新潟県で行われ育種は福井県で行われた。品種改良は一回の交配で終わるものではなく性質にばらつきのある子孫の中から有用なものを選抜してそれが世代を重ねても安定するように育種を行う。育種によって性質が固定されて初めて品種の誕生となるためコシヒカリが生まれたのは福井県と言える。
福井県での育種は始まって早々福井地震に見舞われる。設備や圃場が壊滅的な打撃を受ける中、後にコシヒカリとなる系統は奇跡的に難を逃れた。また同じ年に九頭竜川の氾濫による浸水被害を受けるも空梅雨で水不足であったのでかえって恵みになったという強運の逸話が残る。
コシヒカリはイモチ病に弱く倒れやすいという欠点があるが終戦直後の食糧増産の時代にあっては致命的な欠点であったが熟色(≒品質)の良さが捨てがたく細々と育種が行われた。(当時食味は評価の対象外だった)
福井県で育種されたコシヒカリは「越南17号」の系統名が与えられ20府県ほどで適応性試験が行われたが評価はいまひとつでそれは福井県でも同じだった。しかし新潟県と千葉県では前向きな評価がされ両県で奨励品種に登録されることになった。そこで農林省から新品種に認定されることになり命名にあたって福井県は新潟県に命名を委ね「越(こし)の国(北陸の古名)に光り輝く品種」になるよう願いを込めて「コシヒカリ」と名付けられた。
ちなみに福井県が奨励品種に採用したのは1972年のことでコシヒカリの誕生から16年後のことだった。福井県で育てた以外は新潟県の功績じゃね?
福井の歴史
都道府県の歴史の書き出しは縄文時代、古くても旧石器時代から始まるのが普通である。しかし福井県の歴史の始まりはもっと古い。1億2000万年前、そう恐竜時代(白亜紀前期)である。
原始 縄文時代
鳥浜貝塚 縄文人の暮らしはかつては狩猟採集中心の貧しい暮らしだったと思われていた。1962年からの発掘調査によって縄文人の豊かな生活が明らかとなった。今でこそ三内丸山遺跡など大規模な縄文遺跡の発掘により豊かな縄文人の暮らしが定着するようになったが当時はそれまでの縄文観を覆す大発見だった。装飾品、木製品、ウルシ、栽培植物(ヒョウタン、エゴマ、、ゴボウ、アサ、ウルシ)、赤色漆塗り櫛、縄文のタイムカプセル
- 日本書紀に武烈天皇の太子時代、平群真鳥が滅ぼされる際にあらゆる塩に呪いをかけたが角鹿(敦賀)の塩にだけ呪いをかけ忘れたうっかりさんだったので以後天皇は角鹿の塩のみを食すようになったとある。
- この角鹿の塩は現在の敦賀のみならずそこに集積される越前・若狭産の塩を指したと思われこの逸話は親平群派に瀬戸内の塩を止められたため越前・若狭の塩を頼るようになったことを示すと思われる。
- 律令によって越前国は北陸道唯一の大国とされ三関の一つ愛発の関が置かれた。
- 越前国司に任命されることは出世の第一歩だった。
- 恵美押勝の乱では押勝が近江から越前へ逃亡を図ったが愛発の関が閉じられたため失敗した。
- 若狭は御食国として朝廷に贄を納め平城京跡から大量の若狭国からの木簡が出土している。
- 平安時代になると愛発の関が廃され相対的に越前の地位は低下する。
- 紫式部の父藤原為時は詩歌に秀でたため越前国司に任じられた。
- 源平期には越前・若狭ともに平家一門の知行国となり越前は平清盛の長男重盛の知行国としていたが彼が没すると後白河上皇が越前を取り上げてしまったため清盛と後白河院の対立の引き金となった。
- 源義仲が北陸を攻め上ってくると越前の有力武士斎藤氏の一族で平泉寺長吏の斉明は平家方から義仲方に寝返り越前から平家を追い落とした。しかし平家軍が反撃に出ると斉明は再び平家方に寝返る挙に出て義仲軍を加賀まで押し返すが倶利伽羅峠の戦いで平家軍は大敗北、再び越前は義仲軍に征服された。
- 源頼朝が鎌倉幕府を開くと越前・若狭の武士は平家や義仲方にくみしたこともあり守護は鎌倉御家人が派遣された。
- 承久の乱では幕府への不満から朝廷方についた在地武士が多く没落に拍車をかけた。
- 鎌倉後期には越前守護は後藤氏が若狭守護は北条得宗家が世襲するようになった。
- 南北朝時代には南朝方の新田義貞らが越前敦賀金ヶ崎城に入城するも北朝方の斯波氏はこれを攻略。義貞は落城前に脱出しその後も越前を脅かすも藤島の戦いで討ち死にし越前の北朝勢力は盤石となった。
- 越前守護は有力足利一門で管領家の斯波氏が務めた。
- 越前守護斯波義敏は享徳の乱の際に鎌倉公方足利成氏討伐軍の総大将に任じられるが関東出陣前に対立していた越前守護代甲斐氏を攻め敗北するという失態を演じ将軍足利義政の怒りを買った。
- これにより義敏は斯波氏の当主を更迭させられるが後継者争いが表面化し応仁の乱にもつながっていく。
- 応仁の乱で朝倉孝景(英林)は当初西軍に属し奮戦していたが越前国主の座を認められる見返りに東軍に寝返った。これが戦国大名朝倉氏の誕生である。
- 若狭守護は南北朝初期には安定しなかったが足利氏一門の一色氏が世襲するようになった。しかし足利義教の命により一色氏が安芸武田氏に討たれるとその功により武田氏が守護となった。なお若狭武田氏が安芸武田氏の分家とみなされることがあるがこれは誤解である。若狭武田氏は安芸武田氏が安芸から若狭に本拠を遷したもので本家そのものなのである。更に当時は甲斐武田氏も衰退していて若狭武田氏は幕府での重用と官位の高さから武田氏の本家とみなされていたという説もある。
- 若狭武田氏は幕府で重用されたが応仁の乱で東軍の主要な兵力を出すなど中央の戦に駆り出されることが多く領国支配を固めることができなかった。重臣逸見氏の謀反は応仁の乱の和睦で丹後を放棄した際に出兵していた逸見氏を見殺しにする形になったことが遠因ともされる。
- 若狭武田氏は足利将軍家とも婚姻関係を結び将軍就任前の足利義秋(義昭)が頼ってくるがすぐに見切りをつけられ越前朝倉氏を頼りに行った。
- しかし朝倉氏も上洛する姿勢を見せず義秋は朝倉氏にも見切りをつけ尾張の織田信長を頼り越前を去っていった。
- その後若狭武田氏は弱体化し朝倉氏を頼ることになり最後の当主元明が朝倉氏に保護という名の拉致され若狭を離れ若狭武田氏は滅亡した。その後元明は本能寺の変の際に明智方にくみしたとされ完全に滅亡した。
- 若狭武田氏滅亡後も粟屋氏が国吉城で朝倉氏に頑強に抵抗し織田信長の朝倉討伐まで耐え抜いた。
- 織豊時代には重臣や一門などが越前・若狭を支配した。
福井の産業
- 近代以降繊維産業で知られた。
- 技術は群馬県桐生から導入されたものだが他の産地を抑えて発達した要因は比較的早い時期に鉄道が開通したことと人件費が安かったことが挙げられる。
- 現在でも福井県内の製造業で従業員数や事業所数では繊維業が最も多いがバブル崩壊以降の不況で生産額では1位ではなくなった。
- 近年生産額が増加している電子機器などの産業は県外資本の企業が多い。
日本遺産
- 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 ~御食国若狭と鯖街道~
- 荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~
- きっと恋する六古窯 -日本生まれ日本育ちのやきもの産地-
オレボステーションとは、株式会社大津屋が福井市で展開しているダイニングコンビニである。略称はオレボ。
概要
オレボステーションとは福井のローカルコンビニチェーンであるが基本的に福井市の中心部で展開しているので福井市民以外はあまり縁が無いかもしれない。しかしその独創的な経営手法から業界では注目されている。
オレボステーションを運営する大津屋は創業天正元年(1573年)と言う酒造会社で昭和まで酒造を続けていたが社会情勢の変化から経営に限界を感じ業務転換、1981年に福井県初となるコンビニエンスストア「オレンジBOX」を開店する。当初は競合店が存在しないことから経営は順調であったが80年代後半から大手コンビニチェーンが福井県に進出すると経営が悪化、そこで始めたのが店内調理の総菜の提供であった。そこから店内調理の規模を拡大しイートインスペースを備えたダイニングコンビニ「オレボステーション」を2004年から展開していく。
店内調理を始めたきっかけは何の気なしに暇な店舗で家庭用のホットプレートを使って焼きそばを販売したところあっという間に完売したことで、その後社長の「自分がしてほしいことをやればいい! やろう!」という考えから「弁当を買っても車の中で食べるのは寂しい」→イートインコーナー設置、「温かい汁ものや麺類もほしい」→店舗内に「オレボ食堂」
特徴
惣菜バイキング
店内および直営工場で手作りされた惣菜が毎日約30種類量り売りされている。和・洋・中、肉・魚・野菜、煮物・炒め物・揚げ物・サラダのバリエーション豊かな品ぞろえで栄養バランスが気になる人も安心。地域密着ということで福井の家庭料理や学校給食のメニューもある。そのため昼は会社員や学生の昼食に、夕方は会社帰りの女性が家族の夕飯に利用されている。
弁当・おにぎり
店内および直営工業で手作りされていて人気は「スパムおにぎり」。このスパムおにぎりはテレビで沖縄やハワイの食文化として紹介されていたのを見て「材料は店にあるからやってみよう」と言うことで始めたものだという。このように思いついたらやってみる姿勢から
コンビニ
あくまでコンビニであるので一般的な大手メーカーの商品も売られているがあまり全国に流通しない地元メーカーの商品や他県のローカル商品も販売している。
オレボ食堂
店内で調理しているなら料理を提供してしまえということでソースカツ丼やおろしそばと言った福井名物やどんぶり・麺類が提供されている。
関連動画
オレボステーションに関するニコニコ動画の動画を紹介してください。(特にない場合はこの部分を削除してください)
店舗情報
関連商品
オレボステーションに関するニコニコ市場の商品を紹介してください。(特にない場合はこの部分を削除してください)
関連リンク
関連項目
福井メガネの歴史
福井で眼鏡枠の生産は明治38年、増永五左衛門によって足羽郡麻生津村生野(現福井市)で始められた。
五左衛門は村の冬場の稼ぎのために当初福井で盛んになっていた絹織物の羽二重工場を作っていたが福井で大火が起こりその煽りを受けて羽二重工場は閉鎖された。そんな折大阪に働きに出ていた五左衛門の弟の幸八が眼鏡作りを持ちかけた。折しも日露戦争が起こり戦況を伝える新聞も普及して眼鏡需要の増加が予感された。
とはいえ眼鏡仕様がまだ一般的でなかった時代に村で眼鏡作りを呼び掛けても人が集まらずやっと集まったのは4人であった。しかしその4人の技術習得に対する熱意は相当だったようで最初に大阪から職人を招いて指導を受けた安物の「真鍮枠」製造の技能は半年で習得してしまい翌年新たに職人を招いて上物の「銀縁枠」や「赤銅縁」の指導を受けたという。
ちなみの当時は村に電気は通っていなかったので手作業での眼鏡製造である。
五左衛門の工場は帳場制という欧州のギルドにも似た制度をとり徒弟を抱えた親方数人に大将の五左衛門が仕事を請け負わせる制度で職人同士の競争を促し技術向上につながった。
ここまでの話は現在の福井市での話であるが生野は鯖江市に接している集落であり眼鏡工場に人が集まるようになると現在の鯖江市出身の職人も増えていた。そして増永五左衛門の親戚筋の青山彦左エ門が明治40年ごろに今立郡河和田村小坂(現鯖江市)に作った工場が鯖江の眼鏡作りの始まりとなる。なおこの工場は青山家の事情で明治41年に閉鎖されるが河和田出身の職人が独立するようになると鯖江に眼鏡工場が造られるようになり大正末期から昭和の初期には眼鏡産地の基礎を固めた。そして太平洋戦争後、鯖江歩兵三十六連隊の土地が民間に払い下げられるとそこに眼鏡工場が多く建設され日本トップクラスの眼鏡産地の地位を確立した。また戦時中の空襲で東京や大阪の眼鏡産地は大きな被害を被ったが鯖江は被害を免れたことも戦後鯖江が日本一の眼鏡枠産地になった一因である。
時代を戻して大正3年に欧州で第一次世界大戦が勃発すると日本は軍需景気で好況となり福井の眼鏡産地でも眼鏡工場が増え始める。大正の半ばには福井で眼鏡用レンズの生産が始まり「モミジ印レンズ」の製品名で知られた。
大正末期アメリカから通称「米金」と呼ばれた金張り枠が大量に輸入されるようになり福井の眼鏡産地は打撃を受けた。そこで福井市で唯一金属メッキ業を営んでいた木村菊次郎に相談し試行錯誤の末金メッキ法を確立させた。
セルロイド枠が流行り金属枠が売れなくなると枠の耳掛け部分にセルロイドを巻く通称「モダン」という方法を編み出しそれまでの金属枠の在庫を一気にさばけたという。昭和の初めにはセルロイドを金属枠に巻く方法からセルロイド板をくり抜く方法が考案される。
最後に
ご訪問ありがとうございました
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