摩耶(重巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造した高雄型重巡洋艦3番艦である。1936年6月30日竣工。大東亜戦争では緒戦の南方作戦に参加して石炭船シグリーを拿捕、英駆逐艦ストロングホールドを協同撃沈し、機動掃海艇MMS-51を撃沈。2回のヘンダーソン飛行場砲撃に参加した他、アッツ島沖海戦では優勢な敵艦隊を退けて船団を守りきった。1944年10月23日、パラワン水道で敵潜の雷撃を受けて沈没。
大日本帝國海軍が建造した、高雄型重巡洋艦3番艦。艦名の由来は、兵庫県神戸市灘区等にまたがる六甲山系中央部に位置する、花崗岩からなる摩耶山から取られている。建艦を担当した造船所が神戸という事もあり、縁が深い摩耶と命名された。初代摩耶(砲艦)も同様の理由で命名されている。「激闘 重巡・摩耶」(池田清氏著書)によると海軍側は「味方の補助部隊の掩護推進、敵補助部隊の撃退、独立して偵察捜索の主幹になるものであるから英米の同艦種とし、1万トン型を標準とする。運動力は33ノット以上、航続距離は14ノットで8000浬以上とする。防御力は20cm砲弾に対しては間接防御を主とし、15cm砲弾に対しては直接間接防御となす。攻撃力は主砲20cm砲10門、魚雷61cm片舷四射線を上甲板に装備、対空射撃砲を装備する。航空機は3機搭載」の要求をした。
世界恐慌で倒産しかけていた川崎造船を救済するため、大蔵省から3000万円の特別融資を受けた上で建造に着手。高雄型は藤本喜久雄造船大佐によって設計された重巡洋艦。単なる妙高級の改良型だけに留まらず、全艦に平時での艦隊旗艦機能施設を持つ。これは仮想敵アメリカの侵攻を確認した時、水雷戦隊や巡洋艦部隊を指揮し夜戦を以って撃破するためである。また用兵側の意見も聞き、指揮装置や光学兵器を充分に取り入れた。艦橋に必要設備を次々に投入した結果、他には無い独特なデザインと化し、識別を容易なものにしている。艦橋は全部で10層に分かれている。ワシントン海軍軍縮条約で戦艦の建造に制限が掛けられたため、重巡洋艦に期待されてこのような役割を持たされた。しかし前級の妙高型と比べて約3倍もの大きさになってしまい、実戦では不利と非難された。故に高雄と愛宕は後の近代化改修で改められた。一方、摩耶は1941年に改修する予定だったが開戦によって機会を逃してしまっている。
航空機の発達を見越し、高雄型にはE型砲架が採用された。仰角70度まで設定可能だったが、何故か摩耶だけ55度までしか上がらなかった。一説によると、仰角を上げても対空砲として使用するには現実的ではないと判断され、従来どおりの55度に設定されたとされる。E型砲架は対空射撃を重視し、対空弾の揚弾筒を独立して設置。対艦戦闘と対空戦闘の切り替えを速やかに行なえるように考慮されていた。主砲弾は91式徹甲弾を使用。標的艦として戦艦土佐を沈めた時に得たデータにより開発された軍機兵器であった。高雄型では、魚雷発射管が上甲板に配置されている。従来の巡洋艦は艦内に配置されていたが、被弾の際に艦内へ被害が及ぶとして試験的に艦外へ配置したのだった。加えて次発装填装置を搭載し、前級の妙高型と比べると魚雷発射管の門数は減少したが、同じ時間内で発射できる魚雷の本数は増加した。魚雷発射管を艦外に配置する試みは成功し、後の改装で多くの巡洋艦が改められている。泣き所である弾薬庫を守るため、防御力の強化を実施。妙高型より1インチ分厚い、5インチ甲板を使用。弾薬庫の舷側防御に充てた。一番砲塔から五番砲塔までの距離を1m縮めており、浮いた重量を弾薬庫の防御に回したのである。建造中に艦政本部や軍令部からの追加要求と設計変更を受けたため、艦内は狭く入り組んでいたと伝わる。
要目は排水量9850トン、全長203.76m、出力13万馬力、最大速力35.5ノット。高雄と摩耶の主砲は呉工廠で建造された形跡が無く、民間の日本製鉄所が1931年に新造した砲を充当したのではないかと考えられている。摩耶の主砲は、スペック上は対空戦闘が可能とされた。しかし昭和12年(1937年)に砲術士として乗艦していた筑土龍男氏は、「摩耶の砲術士として勤務したころ、主砲による対空射撃訓練が行なわれたことはなく、その後も戦闘射撃訓練を実施した話は聞かない」と証言しており対空用に用いられた事は無かったと思われる。
1927年度計画で、一等巡洋艦として建造が決定。第11甲級巡洋艦の仮称が与えられた。ところが当時は軍縮条約下にあり、また政府の財政難から建造は非常にゆっくりとしたものだったという。1928年9月11日、軍艦摩耶と命名。同時に摩耶用の甲鉄製造の訓令が呉海軍工廠に下り、8月末に完成した。12月4日、神戸市の川崎造船所艦船工場にて起工。4、5枚の薄い竜骨用平鋼材が第四船台中央に並べられ、神主が船台祓いの祝詞を唱えた。その後、摩耶に第一鋲が打たれた。神戸造船所の鹿島房太郎社長は、岡田啓介海軍大臣に「軍艦摩耶9時30分に無事起工しました」と電報を打った。1929年5月25日、八幡製鉄所が製作した摩耶向けのD鋼材と英国製鋼材を呉鎮守府経由で川崎造船所に交付。工事は着々と進み、夏頃には船らしい姿になっていた。来る日も来る日もクレーンの駆動音、耳をつんざくドリルや打鋲の音が船渠内に響き渡る。船殻担当の森本猛夫造船工作部員は、打ち込んだリベットをチェックし、水密性の確認を丹念に行った。海軍からは引き渡し日の厳守を言われており、荒天の日であっても森本担当員は船台に赴いた。隣の船台では摩耶用の砲塔や艦橋などが組み立てられていた。工員たちは残業をしたが、当時は不景気だった事もあり喜んで作業に従事。会社側は渋い顔をしたが、進水日は近づいていった。
1930年8月に入ると、摩耶の船体は8割方出来上がった。完成図とは異なるところをマーキングしては、図を書き直していく。艦内を縦横に走り回っている配線やパイプ、電線を1本1本確認するのは骨が折れる作業だったという。8月13日からは機関の積み込みが始まり、艦本ロ号がカントリークレーンに吊るされて運ばれる。全ての積み込みには三週間を要した。進水直前の11月初旬、工員に昼夜の概念は無くなった。ささいなミスでも見逃さぬよう、徹底的な確認が行われた。進水式を満潮に合わせるため、11月7日の晩は徹夜となった。作業が終わったのは空が白み始めた頃だった。
1930年11月8日に進水式を迎える。空は曇天、神戸港は満潮が近かった。第四船台の水門は既に開かれ、その周囲を多くの人々が囲んでいる。満潮になる午前8時30分に合わせて進水するのである。3万人の群集は、今か今かと進水の瞬間を待ちわびている。摩耶の艦首側には簡便な式場が設けられ、野村吉三郎呉鎮守府長官、永村艦政本部第三部長、高雄守雄兵庫県知事、井出謙次大将など重鎮クラスの人物が列席。進水10分前、呉鎮守府から派遣されてきた軍楽隊が君が代を演奏。続いて伏見宮殿下が登壇。野村海相代理が封書を開け、進水命令書を読み上げる。「軍艦摩耶、昭和三年十二月四日その工を起し、今やその成るを告ぐ、ここに進水せしむ。」読み終わると同時に進水合図が飛び、静まり返った会場で盤木が外された。川崎造船所の鹿島房太郎社長が銀色の斧を取り、支綱を切断。1万トン級の巨体はするすると滑り出し、軍楽隊が「軍艦行進曲」を奏で始めた。艦首でシャンパンの瓶やくす玉を割りながら、水しぶきを上げて海に乗り出す。そして慣性に従って前へ進み続け、造船所の沖合い約600mほどで停止した。摩耶の船体に乗っていた工員たちは艦底が浸水していないかどうかの確認作業に入った。こうして、摩耶は産声を上げたのだった。
1931年1月中旬、主機械や補機の取り付け工事が始まった。作業は丸々三ヶ月を要した。世の中は回復の兆しが見えぬ不景気、更に4月から始まった軍縮により解雇の嵐が吹き荒れた。川崎造船所でも3161名が解雇され、工事の進捗に支障が出始めた。川崎重工自体経営が傾いていて、退職金が支払われないなどの理由で元工員との不和が生まれていた。何がともあれ、晩夏の頃には艦橋が出来上がりつつあった。前後のマストも取り付けられ、軍艦らしい風貌が見え隠れする。格納庫、方位盤、主砲用予備射撃指揮所も次いで搭載。重量軽減のため一部に電気溶接技術が投入された。しかし川崎重工には専門の溶接工が7、8名しかおらず技術も未熟であった事から船殻への使用は厳禁された。1932年1月28日、五番砲塔が搭載され艤装工事は殆ど完了。最終調整のため呉工廠へ回航する事になり、3月2日に摩耶は生まれ育った神戸造船所を出港。機械の運転状況を確かめながら紀淡海峡を通過。四国沖を通って豊後水道に入り、呉工廠に入渠した。乗り込んできた職工により未了の工事が進められ、25日間の入渠期間を経て出渠した。その姿は軍艦としても遜色ない力強いものだった。データを取るため、出渠から二週間以内に全力公試を行う予定となっていた。作戦に参加している前提として燃料、食糧、水を満載の三分の一にし、4月上旬から伊予灘で公試開始。約1ヶ月の公試の末、良好な結果を残した。5月13日、試験品目を全て終えた摩耶は豊後水道を通って呉へと帰投した。5月15日、クーデターによって首相官邸で犬養首相が射殺される五・十五事件が発生。その夜、摩耶の艦内では是非を巡って議論が行われて騒然となった。艤装委員長の森本丞大佐は士官全員を艦長室に招き、一人一人諭した。竣工直前の1936年6月7日、摩耶用の飛行機射出機と予備推進器を積載した特務艦青島が呉を出発。翌8日、造船所まで送り届けられた。
そして1936年6月30日、竣工を果たした。午前9時、一番砲塔前で引渡し式が行われた。鹿島社長は「軍艦摩耶工事完了につき引渡し候」と宣言し、森本大佐は「軍艦摩耶受領候」と明快に返した。式典は終わり、摩耶に軍艦旗が掲げられた。乗組員は後甲板に集合し、君が代の演奏を以って海軍籍に入籍と相成った。すぐさま出港準備がなされ、摩耶は北浜岸壁を離れた。港外で左回頭し、母港となる横須賀に向けて回航。横須賀鎮守府予備艦となった。力強く音を立てて摩耶を見送った関係者たち。次の仕事は熊野の建造であった。
1932年7月5日、伊勢神宮から分霊を受けて艦内神社とする。よく勘違いされるが、兵庫県神戸市の摩耶山天上寺ではない。ただ、乗組員との交流はあった模様。参詣に訪れた乗組員が御守りを購入し、艦内の神棚に祀ったエピソードが残されている。天上寺からは「摩耶山遠望」という作品が入った額縁が贈られている。ちなみに進水時には艦名と縁のある神社が無かったため、伊勢神宮の天照大神を祀る事になった。艦内新聞として「摩耶新聞」が刊行されていた。9月27日、東京湾外で公開戦技を実施。12月1日、姉妹艦の高雄、愛宕、鳥海とともに第2艦隊第4戦隊へ編入。
1933年2月9日、第4戦隊は第2艦隊とともに別府湾へ入港。総勢29隻が停泊し、水兵たちが半舷上陸。町はこれを歓迎し、「無敵艦隊大歓迎」という立て看板が用意された。カフェも旅館も遊郭もバーも水兵を優先的に招き、もてなした。数多くの水兵が膨大な金額を落としていったので、経済効果は絶大だったそうな。2月13日、横須賀工廠にて艦橋防煙装置を新設。3月3日、昭和三陸地震が発生し北海道や東北地方が被災した。摩耶の乗員は義捐金を集め、被災地に送っている。6月5日、2名の見学者が飛行機射出機を見て回った。7月5日、初めて外洋に進出し馬公へ入港。第四戦隊は戦艦陸奥率いる青軍に所属し、トラック島付近で長門率いる赤軍と特別大演習を実施した。8月18日、木更津に帰投。そのまま横須賀へ回航され、8月26日に横浜沖で行われた特別大演習観艦式に参列。昭和天皇が乗艦する比叡の供奉艦となり、他の姉妹艦とともに単縦陣を編成。摩耶は最後尾についた。真夏の観艦式は前例が無く、食事には特に注意が払われた。ちなみに観艦式に参加したのは今回のみである。9月12日、横須賀工廠に入渠。10月、のちに真珠湾攻撃の総隊長を務める淵田美津雄大尉(当時)が分隊長として配属される。約1年間乗務した後、館山航空隊に異動した。10月25日からは機関部の改造工事に着手する。
1934年2月2日、出渠。4月1日、戦艦扶桑の魚雷装備廃止に伴って有田雄三水雷長が摩耶へ転属となった。5月12日に再び横須賀工廠に入渠し、補助缶給水タンク防熱装置の新設を行っている。6月4日、応急指揮所から注排水指揮所に至る伝声管を新設。8月5日、摩耶艦長の小沢治三郎大佐が西灘村の神戸市立西灘第三尋常小学校(のちの摩耶小学校)に来校。軍艦摩耶の模型を寄贈した。10月22日から舵取装置の改造工事を受ける。12月18日、合成調理機を撤去し横須賀工廠に保管。代わりに軍需局長から高性能な乙型万能調理機を受領。12月2日午前9時15分、半舷上陸が許可されて乗組員は羽を伸ばした。12月8日午前9時32分に防火訓練を行い、午前10時30分にクレーンが右舷中部に横付けされた。12月18日午前0時10分、雨の中で安浦方面から上がる火の手を目撃。どうやら火災が起きていたようだった。12月20日、工事を完了。12月27日午前10時30分、クレーンの横付けを一旦離し、右舷後部に移動させた。
1935年1月12日、横須賀工廠で第8、第9缶室電話室防熱処理及び防音装置の新設を行う。鳥海も同様の工事を受けた。続いて3月19日からは速力通信器文字盤の改正工事を受ける。5月10日、宿毛湾に停泊。日本海海戦から30周年の節目を迎えたという事で、井出元治海軍協会兵庫県副支部長から軍艦旗の奉納を打診されている。6月4日、横須賀工廠で高雄型4隻は前後部予備重油タンク重油吸管を増設。6月27日には、飛行器用無線電信儀及び機銃格納庫を新設。8月、去年贈った模型の返礼として教頭と6年生女生徒2名、母親5名が摩耶を訪問。小沢治三郎大佐は総員を甲板に集合させ、記念品を受け取った。8月1日午前9時30分頃、三重県二見桟橋で待機していた陸軍参謀本部の職員が摩耶に便乗。翌2日午後、館山にて退艦した。8月20日、館山沖で公務中、乗員の及川源作一等機関兵の指が切断される事故が発生。横須賀鎮守府より軍人傷痍記章が授与された。10月4日、演習を終えた連合艦隊は品川沖に停泊。その中には第4戦隊の姿もあった。11月15日、第二予備艦となり横須賀警備戦隊に編入。
1936年2月26日、ニ・二六事件が発生。陸軍の青年将校がクーデターを起こし、国会議事堂や警視庁、首相官邸といった要所を制圧して帝都を掌握。相次いで要人を襲撃し、殺害した。この時、摩耶は横須賀に停泊していた。横須賀警備戦隊に鎮圧の命令が下ったが、摩耶は軍港警備のため停泊し続けていた。7月9日から9月20日にかけて、横須賀工廠で外板補強工事を実施。同時に探照灯を新式のものへと換装した。11月30日、曳船への給油設備装備を搭載。12月1日、戦列に復帰し第二艦隊第4戦隊に戻った。12月21日に起案された「英國皇帝戴冠式ニ艦船特派ノ件覚」によると、ジョージ6世の戴冠式には足柄と摩耶の参加が予定されていた。諸経費も試算され、88万6000円(当時)が投入される事に。
1937年2月20日、戴冠式参加の計画が決裁されたが参加は足柄1隻に変更された。理由としては足柄は英国派遣に向けた人員配置がなされていたが、摩耶は未了だった事、司令官が座乗する旗艦の方が派遣効果大と判断されたからだった。摩耶のヨーロッパ巡航は計画だけに終わってしまった。3月3日、横須賀工廠にて高雄型4隻は鋳物工場内アセチレンガス発生器格納所位置変更の工事を受ける。3月8日、飛行演習に参加。ところが坂本中尉機が海上に墜落する事故が発生。捜索が行われたが、死体の収容には至らず。生存の見込み無しと判断され、大尉に進級し正七位旭六等を、同乗の西澤二空曹には旭八等が受勲された。3月27日、空母加賀、戦艦長門、陸奥、榛名、霧島、重巡高雄等とともに寺島水道を出発。訓練航海へと向かった。4月6日に有明海へと戻り、訓練を完了。6月16日、高雄と摩耶は横須賀工廠にて、兵員居住設備の工事を受ける。摩耶に投じられた予算は計4994円だった。7月18日、摩耶や足柄、高雄、那智、神通などが神戸港に入港。5日間、一般人の拝観が許可された。これに伴って地元の街には事前に見学に関する通知がなされていた。8月4日午前10時、佐世保を出港して寺島水道へ移動。8月8日に行われた飛行演習中に、坂本龍中尉と西澤善治郎二等航空兵曹が搭乗した艦載機が海中へ墜落。すぐに捜索が行われたが発見できず、行方不明に。翌9日、生存は絶望的として両名を進級させる旨の報告書を作成した。8月10日14時、寺島水道を出港。黄海上にある裏長山列島へと向かった。19時35分に投錨するが、辺りは霧に包まれて視界不良に陥っていた。その頃、中国沿岸では排日活動や武力衝突が日に日に拡大し続けており…。
1937年7月7日、盧溝橋事件により北支で日中の武力衝突が生起。これに伴って第4戦隊は佐世保へ回航され、警戒待機。7月28日、在留邦人と権益保護のため北支方面に陸兵を派遣する事が決まり、第2艦隊は輸送任務の支援を担った。8月13日夕刻、第二次上海事変が発生。現地の邦人と4000名の守備隊が、ドイツ製最新鋭武器に身を固めた中国国民党軍3万の攻撃を受けたのである。翌14日18時15分、大海令第14号が発せられ、第3艦隊の指揮下に入り陸軍部隊の上海輸送支援に従事するよう命じられた。裏長山列島にいた摩耶は直ちに帰国の途につき、8月15日に佐世保へ入港。8月17日午前6時21分に出港し、名古屋の熱田へ回航。8月20日、摩耶は第2水雷戦隊や第5戦隊とともに、上海行きの第3師団を護衛して熱田を出発。支那方面艦隊司令の長谷川清大将は中国沿岸の海上封鎖を宣言した。護衛任務中、青島方面の情勢が悪化。国民党軍はあらかさまに戦備を強化し、在留邦人を震え上がらせていた。吉田長官は摩耶や第2水雷戦隊、第5戦隊に対し、速やかに大連及び旅順へ向かうよう命令。8月20日午前0時16分、上海の眼前にある馬鞍群島に到着。神通や駆逐艦8隻に便乗の陸兵を託し、8月21日夜、第5戦隊とともに船団から分離。旅順港へと向かった。8月23日、摩耶の九五式水上偵察機1機が克州空襲に参加したが、国民党軍の対空砲火により阿部航空兵曹長と桜沢三空曹が戦死。摩耶初の戦死者を出す。同日20時、摩耶が所属する第4戦隊は主隊に編入された。青島では居留民保護のため、領事館によって婦女子全員や男子の一部は退去させていた。陸軍部隊の到着を待って8月27日頃を目途に攻撃を開始する予定だった。ところが8月24日22時、作戦中止の電報が届いた。慰留民の財産を保護するためにも必要な官民は残留させるべきだと判断したからだった。第4戦隊は大連港を拠点とし、9月から黄海で活動。9月11日と翌12日には高雄とともに一時的な船団護衛を行った。9月24日、新たな軍隊区分が発令され、第4戦隊は北支部隊に部署。9月20日午後、第4戦隊、第5戦隊、軽巡神通の水偵が連雲の桟橋倉庫、変電所、駐車場を爆撃。
11月4日、横須賀工廠で海図室軌跡自画器側から艦橋海図台に至る伝声管を増設。12月3日、陸奥や特務艦朝日とともに水中切断器の一部を搭載する。設置場所は暫定的に上甲板旧補助缶釜跡とされたが、調査のち適宜設置するよう命じられた。12月8日より近代化改修を行い、2基の毘式40mm機銃を96式13.2mm機銃2基に換装した。
1938年1月14日、横須賀工廠で補助缶と関連装置の撤去作業を実施。1939年11月15日、特別役務艦となり12月1日からは砲術学校練習艦となる。1940年2月1日、練習艦の任を解かれて警備艦に変更。第4ドックで修理を受け、溶接のスパークとドリルの音が船台を支配していた。艦橋では信号兵が慌しく手旗信号を送っている。5月1日、第4戦隊に復帰。そこから地獄のような訓練が始まった。昼間は猛訓練、夜間は甲板整列の連続で休まる暇が無かった。訓練か無い日であっても、夜には甲板整列の号令が下った。帝國海軍お決まりの体罰も横行し、新兵が酷い目に遭っている。が、7月に本田甚次郎中佐が新副長に着任すると、次第に改善されていった。9月15日、三田尻沖で連合艦隊の第二期訓練が終了。その日は中秋の名月だったため、労いの意味も込めて甲板で月見の宴が行われた。横須賀に戻ると、乗員には一週間の片舷休暇が与えられた。見学のため、参議院と貴族院の議員が摩耶に来訪。見学が終わり、短艇で艦を離れようとした際、手すきの乗員が登舷礼で見送った。その時の白黒写真が残されている。12月中旬、前期訓練のため第四戦隊は横須賀を出港。旗艦愛宕を先頭に、高雄、摩耶、鳥海の順に単縦陣を組む。観音崎灯台を抜け、太平洋へと進出。愛宕から「我が航跡に続け」と旗旒信号が届き、各艦一線となって続航。時折之字運動や隊形変換などの対潜運動を取りながら航行する。洋上で月月火水木金金の猛特訓を実施し、1ヶ月が経過した。
1941年2月23日、沖縄の中城湾へ入港。乗組員にとって、実に約2ヶ月ぶりの上陸だった。日帰りの半舷上陸が認められ、久々の休暇を楽しんだ。沖縄を出港した第4戦隊は南西方面に舳先を向け、3月3日に台湾南端の高雄へ入港した。市民は艦隊を歓迎し、砂糖やパインの缶詰、バナナ等が沢山配給されたという。第4戦隊はバシー海峡を通り、南洋諸島を巡航。3月下旬、紀伊水道に入り徳島県の小松島湾に入港。投錨した。数日後、戦技訓練のため出港。四国土佐沖に出た第4戦隊は魚雷戦演習や砲撃戦演習、対空戦闘演習を実施。これを以って年2回の前期・後期の艦隊演習は終了。慰労会が開かれ、乗員の心身を癒した。4月2日から10日にかけて横浜浅野船渠で入渠整備。9月2日から9日にかけて呉工廠で再び整備を受ける。
訓練を経て、11月17日に呉へと入港。てっきり母港横須賀に帰るものと思っていた乗組員は虚を突かれた。乗員には休暇が出され、艦内では出撃準備が進められた。妙な動きに、乗員の間では「いよいよ戦争か」といった噂が流れ始めていた。戦争の足音が近づく11月25日、愛宕等とともに南方部隊に編入。それに伴って柱島から佐伯湾へ回航。そして11月29日午前6時に出港。艦隊は南下し、季節は逆戻りしたかのように蒸し暑くなる。12月1日、摩耶は徴用船2隻を追い越す。船の上には無数の大発が載せられていたという。目的地は未だ知らされていない。12月2日午前8時、朝もやに包まれた馬公到着。既に56隻もの徴用船が停泊していた。午後、臨戦準備第二作業が始められ、ボートの固縛、釣床による艦橋防備、各所で不要な舷窓の閉鎖が行われる。それと同時に艦内には異様な緊張感が漂い始めた。現地で旗艦足柄率いる第3艦隊比島部隊主隊に編入され、作戦の支援と敵艦隊出現時の迎撃任務を帯びる。12月5日午後12時30分、強風の中で南方部隊本隊が出港。動き出す旗艦愛宕に帽振れが下令され、姉妹艦の出陣を見送った。続いて高雄、金剛、榛名も出港。いずこかに向かっていった。12月6日13時、鍋島艦長が全乗組員921名を集めて目的を明かした。米英蘭に対して戦争を仕掛ける――。ようやく定まった目的に、乗組員一同は使命感と安堵を覚えた。
開戦直前の12月7日19時、暗雲が垂れ込める馬公を出港した。先発した陸軍の輸送船団に続いて、南下を始める。高橋伊望中将率いる第3艦隊は、フィリピン諸島の海上封鎖を命じられた。艦内スピーカーから、長門乗艦の山本五十六長官の言葉が流された。「皇国の興発かかりてこの聖戦にあり。粉骨砕身、各員その任を全うせよ――。」比島部隊主隊は第2急襲隊の西方を航行し、洋上で運命の開戦を迎える事になる。姉の高雄と愛宕は近代化改装を済ませていたが、摩耶と鳥海は済んでいなかった。このため性能が低いまま、運命の開戦を迎える事になる。
1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。高橋中将率いる主隊は重巡摩耶と足柄、駆逐艦松風、朝風、水上機母艦2隻の陣容だった。最初の攻略目標は台湾の対岸に位置するフィリピン北部の港町アパリとビガンで、アパリ飛行場、ラオアッグ飛行場、ビガン飛行場を占領して制空権を獲得する狙いがあった。摩耶は先行上陸隊を乗せた船団を護衛して進撃、上空には第5飛行団が旋回して援護を行ってくれた。同日未明、船団は東寄りの航路に変更。荒天により視界は5mに減少、速力も7.5ノットしか出せず予定より遅れていた。午後には真珠湾攻撃の戦果と各戦線の戦況が摩耶に飛び込み、戦意を奮い立たせた。第1航空隊の陸攻4機が対潜哨戒を実施してくれたが、第四直は荒天に阻まれて船団を発見できなかった。視界不良と天候不良による遅延を是正すべく、司令官の原少将は航路の変更を命じた。翌9日14時30分、米潜水艦発見の報により「配置に就け」の号令が飛ぶが異状無し。12月10日朝、アパリの沖合いに到着し、田中支隊の上陸を支援。アメリカ軍機は1機も出現せず、敵軍の反撃も無かったものの悪天候に悩まされた。何事も無く進んでいたが、午前7時30分にロスバノスから飛来したカタリナ飛行艇2機が出現。摩耶は32ノットに増速し、足柄とともに対空戦闘を実施。右舷の全高角砲が火を噴き、2機を追い払った。14時15分、足柄の右舷が対空戦闘を始める。カタリナ飛行艇5機が暗雲に隠れて接近していたのだ。すかさず摩耶も仰角を最大にして迎撃。すると敵機は10発ほどの爆弾が投下してきた。鍋島艦長は「取り舵一杯!」と叫び、艦が大きく右舷へ傾く。爆弾は摩耶と足柄の間に次々と落ち、水柱を築き上げた。敵機は二群に分かれて逃走していった。その後、零戦の追撃を受けて1機が撃墜された。敵と入れ替わる形でスコールが来襲し、戦闘に終止符が打たれた。爆撃を受けた事を憂慮し、陸軍の支援を行っていた主隊は北西へ退避。翌11日、華南の碣石湾へ入港。護衛の軽巡と駆逐艦に燃料補給を施した後、夜に出港。馬公入港前、第4水雷戦隊から派遣されてきた第2駆逐隊が港外の対潜掃討を実施し、入港支援をしてくれた。12月14日14時、摩耶は馬公に帰投した。
12月17日、第二兵力部署が発令され、摩耶は主隊に編入。機甲師団の第14軍主力約3万4200名をリンガエン湾に上陸させる重要な支援任務を受け持つ。12月19日18時、抜錨。リンガエン湾に向かう輸送船28隻を護衛する。船団は3つのグループに分けられ、摩耶はそのうちの1つを護衛していた。12月22日未明、第14軍主力のリンガエン湾上陸を支援する。沖合いには野砲や山砲、戦車100輌を満載した陸軍の輸送船76隻が展開。上陸のために200隻近い上陸用舟艇が用意され、73隻は超大型の特別大発であった。ところが南シナ海の台風が天候を悪化させており、波が高かった。また輸送船団は陸岸から離れて投錨するよう命じられていたため、上陸が難航。苦労の末、午前5時17分に最初の舟艇群がアグー海岸へ到達。13分後には台湾歩兵第一連隊と砲兵第48連隊第三大隊の主力が上陸。波に洗われ、ずぶ濡れになりながらもバウアン海岸に集結。2時間後には4km南のサンチャゴへの上陸も始まった。アメリカ・フィリピン軍の抵抗は皆無に等しく、戦力と言えばバウアンに配備されていたトロール船くらいだった。多数の機関銃で上島支隊にかなりの出血を強いたが、形勢不利と見て退却した。先に上陸していた田中支隊の援護でアメリカ軍は撤退。ここから上陸を果たした陸軍は、敵の補給基地があるマニラを目指して進軍を開始した。同日午後2時、敵機1機を発見したが、以降は敵影を認めず。作戦後、南シナ海は台風により大時化と化していた。前甲板で作業をしていた松尾忠治二曹が波にさらわれ、行方不明になってしまう。荒天のせいで救助艇も派遣できず、今次大戦初の犠牲者を出した。
12月23日午後3時30分、馬公へ帰投。艦内では先述の松尾兵曹の告別式が行われた。12月25日、南方部隊電令第31号により第4戦隊から抽出され、南方部隊本隊(東方支援隊)に編入。榛名、電、雷とともに母港を馬公に定める。12月27日午前9時、足柄乗員の帽振れに見送られながら出撃。翌28日、シンゴラ行きの第三次マレー上陸船団の護衛を命じられる。12月31日午前8時30分、船団を護衛して出港。荒潮と満潮が前もって対潜掃討を行った海域を通過する。重巡1隻、軽巡1隻、練習巡洋艦1隻、駆逐艦16隻、海防艦1隻、特設艦船1隻、陸軍輸送船56隻からなる計77隻の大規模な船団であった。湾外で第一警戒航行序列を組み、進撃を始めた。
1942年の元旦を、南シナ海の洋上で迎える。波のうねりは高い。この日の朝食には餅が出されたが、黒いカビが大量に付いていたという。まずそう。当時の天候は曇り、風速は10mであった。1月2日、摩耶や名取等は護衛を中断し、船団から分離。馬公へと向かった。1月4日午前8時に馬公へ一旦帰投。停泊中、妙高被弾損傷の報が入ってきた。駆逐艦暁と響に護衛され、1月6日午後12時に出港。蘭印方面の攻略を支援すべく、ダバオに向かった。ダバオ付近では船舶への空襲が激しいとの情報が舞い込んでくる。1月9日、総員防厚服への着替えを命じられる。南洋の太陽が容赦なく照りつけ、1月だというのに7月並みの暑さとなっていた。夕食後の楽しみとして、各分隊では輪投げが大流行したとか。1月12日、パラオ諸島が見えてきた。高雄、愛宕、摩耶の3隻は九五式水上偵察機を発進させ、対潜哨戒を行いつつ進入。湾外では小さな哨戒艇2隻が出迎えてくれた。摩耶を先頭に湾内へと入り、投錨。望楼からは「歓迎す」と手旗信号で送られてきた。1月15日、朝食後に6時間の半舷上陸が許された。乗組員は上陸し、エメラルドグリーンの海で彩られた島を満喫した。2日後の午前、第2航空戦隊の蒼龍と飛龍が駆逐隊を連れて入港。その翌日の午前11時頃、開戦後から別行動を取っていた愛宕、高雄、金剛が入港した。第4戦隊は鳥海を除いて全艦が揃った。1月19日に南方部隊電令第70号が発令され、一時的に母艦航空部隊に編入。第4戦隊に復帰すると思っていた乗員たちは少しがっかりした。1月21日16時、出撃。在泊艦艇から帽振れで見送られるが兵員の注目は空母に集中し、摩耶へは申し訳程度の帽振れしか行われなかった。一方、高雄と愛宕は遠く離れているにも関わらず午後の体育を中断してまで帽振れをしてくれた。愛宕の近藤中将から摩耶宛に「貴艦の御成功を祈る」との通信が寄せられた。艦隊の目的はアンボイナ港を空襲し、連合軍の水上艦を捕捉・撃滅する事にある。
1月23日午前11時頃、蒼龍と飛龍から艦載機が発進しアンボンを空襲する。しかしこの日は天候不順であり、目的は達せられなかった。アンボンはセラム島の脇にある小さな島だが、セレベスとニューギニアの中間に位置する要衝でアンボイナ港は南方唯一と呼ばれる水深を持った良港だった。上陸部隊の露払いとして、事前に空襲を加える事になった訳である。翌24日、空襲を強行。夜明けとともに攻撃隊が飛び立った。しばらくして摩耶に「攻撃成功」の報が入る。アンボンの軍事施設や砲台、飛行場は徹底的に破壊され、連合軍はジャワ方面に逃亡した。露払いは充分に出来たとして、艦隊は反転し北上。ダバオへと向かった。やがて1月31日未明に陸海軍の部隊が上陸。しかし連合軍は丘陵の上に陣取っており、遮るものがない海岸の上陸部隊を猛攻撃した。敵の弾着は次第に正確になり、部隊は砂の中に身を伏せたまま先へ進めない。ただ犠牲者のみが増えていく。遠巻きに見ても分かる劣勢に、沖合いから支援していた護衛艦艇の乗員はいてもたってもいられなくなり、銃を取って上陸部隊に加わる。参戦した水兵は、斃れた陸兵に代わって部署に就く。日没を待ち、暗闇に包まれてから突撃。戦友の屍を越え、夜が明ければ再び砂へ伏す。これを繰り返すこと三日三晩、ついに敵の要塞を奪取。2月2日にはアンボイナ港と飛行場を占領。全島制圧を進め、約2300名の捕虜を得てアンボンは占領された。
1月26日、ダバオ到着。乗組員は3組に分けられ、上陸した。ダバオは奪取されたばかりの拠点だったため、西洋人の屋敷は荒らされたままになっていた。翌27日に出港し、出撃拠点のパラオへ戻った。パラオでの生活は快適で、敵機襲来の心配もなかった。摩耶には燃料、弾薬、真水、食糧品が詰め込まれ、整備を受けていたが乗組員はのんびりと外で過ごしていた。2月11日の紀元節では相撲と武技競技が行われ、優勝した分隊には艦長からビール1ダースが贈呈された。平和そのものである。東部フィリピンの占領が粗方済んだため、摩耶は蘭印作戦に転用される。2月15日午後2時、出港準備のラッパが港内に響き渡る。旗艦阿武隈や駆逐隊が先導し、その後ろを南雲機動部隊自慢の4隻の空母や重巡が続く。次なる目標は、連合軍の退路となっているポートダーウィンである。2月19日午前6時30分、機動部隊はポートダーウィンの北北西220浬に到達した。4隻の空母から190機の攻撃隊が放たれ、戦果が続々と伝わってくる。真珠湾攻撃以上の猛攻を浴びせ、港湾施設と在泊艦艇に絶大な損害を与えた。黄色人種の国に白人の国が初めて爆撃された例となり、奇襲を受ける形となったオーストラリア軍は南へ遁走している。作戦を終えた機動部隊は北上し、風のように去っていった。
2月20日未明、バリ島沖海戦が生起。第8駆逐隊の戦果が伝えられた。その後、スターリング湾へ帰投する。ここで南方部隊本隊に転属し、近藤中将の指揮下に入った。神国丸から燃料補給を受け、顔を見せていた喫水線下が再び沈んだ。2月23日午後、後甲板で演芸会が行われた。各分隊ともクオリティが高い演芸を見せ、爆笑の渦に包まれた。翌24日午後、足柄や潜水艦が出撃していった。間もなく摩耶にも出撃命令が下るだろう。2月28日のジャワ総攻撃に備え、壊走する連合軍を狩る事になると思われ、摩耶は駆逐艦2、3隻を率いてクリスマス島砲撃に向かうだろうと予想された。
2月25日午前11時、出撃する機動部隊と連動してスターリング湾を離れる。高雄、愛宕、駆逐艦3隻とともにジャワ島南方に進出し、東西に分かれて遊弋する。東南アジアでの戦局は最早決したも同然で、進退窮まった敵はジャワ島から続々と脱出を開始していた。ちょうどジャワ南岸の良港チラチャップから脱出してくる敵商船は多く、最良の狩り場だった。作戦海域への移動中、基地航空隊より「バリ島の南西方300浬付近に敵駆逐艦2隻、その南方100浬に敵軽巡1隻発見」との報告が入った。これを受けて近藤中将は敵軽巡に対しては高雄と愛宕を、敵駆逐艦に対しては摩耶と第4駆逐隊第1小隊を差し向けた。
3月1日午前2時、「総員配置に就け」の号令が下る。艦首右に敵商船を発見したのである。駆逐艦嵐と野分が砲撃し、これを撃沈する。14時頃、1500トン級石炭船シグリーを発見。これを拿捕すべく、福留中尉以下9名が内火艇で出発した。いとも簡単にシグリーは拿捕され、バリ島への回航が命じられた。船長から船の状況を聞きつつ、シグリーは摩耶から離れていった。3月2日朝、第23航空戦隊から「スラバヤ及びジャカルタ方面より脱出する敵艦隊は豪州に向け逃走しようとするものの如し」と報告を受けた。艦隊は二手に分離し、チラチャップ沖にて待ち伏せ。摩耶は駆逐艦2隻とともに獲物を探す。17時43分、搭載機がジャワ島からフリーマントルへ逃走するイギリス駆逐艦ストロングホールドを発見、戦闘配置が下される。すかさず駆逐艦嵐や野分とともに急行し、距離を詰める。彼我の距離が6000mにまで迫った18時21分、敵艦の右舷艦首側より砲撃開始。砲撃を受けたストロングホールドは煙幕を展開し、付近の船団が逃げる時間を稼ぐ。そして持てる全ての火力を摩耶に集中して討ち取ろうと考えた。だが、その思惑は摩耶の正確な射撃によって粉砕された。摩耶の一斉射10発が敵艦を挟み、1発が命中して火災が発生。マスト2本が吹き飛ばされ、3門ある主砲のうち2門を使用不能に追いやる。損傷を負ったストロングホールドは左に傾き始めた。大損害を受けた敵の艦長は摩耶の打倒を諦め、時間稼ぎにだけ注力。ひたすら回避に徹し、限界を超えた抵抗を続ける。しぶとく戦い続ける敵駆逐艦に手を焼く摩耶側は距離を詰め、野分と嵐で挟撃する。摩耶はストロングホールドを「日本で言うなら夕張型くらい新鋭駆逐艦」「水上機用カタパルト搭載」と評価しているが、実際は1918年就役の老朽艦である。37分の交戦の末に撃沈。放った砲弾が弾薬庫に命中し、大爆発を起こしたのである。ストロングホールドは真っ二つに折れ、月光に照らされた海へと沈んでいった。一方、異説では午後8時頃に沈没したと記録されている。大本営海軍報道部が1942年5月に刊行した「大東亜戦争と帝國海軍」という書籍では、一分の狂いも無い砲撃と評されている。実際、恐るべき精度で初弾を命中させている。以降は中々命中弾に恵まれなかったが、回避に専念した快足の駆逐艦を仕留める事が容易ではないのは火を見るより明らかである。
撃沈されたストロングホールドの乗員2、30名は洋上をさまよい、そして前日摩耶に拿捕されたシグリーに発見される。福留中尉は彼らを救助して捕虜にした。すると前から巨大な艦影が迫る。敵艦かもしれない。福留中尉が覚悟を決めていると、日の丸が見えた。相手は別れたばかりの摩耶であった。捕虜は摩耶の方で引き取ってくれる事になり、50名が摩耶に移った。敢闘した敵兵を労い、負傷者には治療を施すなど厚遇した。移乗作業が終わったのも束の間、再び前方に艦影が映った。アメリカ軍の砲艦ヤーレである。敵を発見した摩耶は敵砲艦に突撃し、シグリーから離れた。
3月3日午前9時15分、周辺海域でイギリス人の漂流者を発見。水平線に見えるマストはシグリーで、既に人命救助を始めているようだ。ボートに乗っている者、ブイや丸木にしがみ付いている者がいる。昨日、ここが戦場になったようだ。摩耶は野分や嵐とともに救助活動を始めた。摩耶からシグリーに向けてランチが派遣され、捕虜を満載にして戻ってくる。更に10数名の漂流者が摩耶の方へ泳いでくる。が、見張り員が「敵船発見」と報告。迎撃のため嵐と野分が敵船に向かった。その間に摩耶は救助活動を続行。丸木やボートの一団はオールが無いらしく、必死にハンカチを振って助けを求めている。ところが午前10時30分、駆逐艦嵐から「商船にあらず、軍艦なり」と報告。摩耶に緊張が走り、自身も迎撃に向かう。哀れにも漂流者は見捨てられた。彼らは絶望的な表情を浮かべながらも、ハンカチを振るのを止めなかった。敵船の正体はジャワ島から脱出してきた砲艦アッシュビルであった。摩耶が戦場に駆けつけた頃にはもう殆ど勝負が付いていた。アッシュビルは大破炎上、左に約45度傾斜していた。やがて逆立ちする形で敵艦は沈んでいった。午前11時頃の事である。結局助けられたのは、シグリーが回収していた41名の漂流者だけだった。彼らは第三分隊居住区に収容された。捕虜は精根尽き果て、死んだように眠っていた。その日の夜、第4戦隊は合流。高雄と愛宕に拿捕されたオランダ船ビントエーハンにストロングホールドの生存者を移乗させた。
3月4日午前7時、チラチャップからフリーマントルへ逃走しようと南進している敵船団を発見。2機の水上機を放ってみたところ、敵の陣容は駆逐艦2隻、武装商船2隻、哨戒艇1隻と報告された(実際はグリムスビー級スループ艦ヤラ、特務艦ヤンキン、小型油槽船フランコール、機動掃海艇MMS-51の4隻)。午前7時40分、距離18kmの地点から愛宕と高雄が砲撃を開始。旗艦愛宕は「摩耶と嵐、野分は武装商船と哨戒艇を攻撃せよ」と下令。「両舷最大戦速」「左砲戦」の号令が下り、砲撃開始。駆逐艦も負けじと砲撃する。ヤラが煙幕を張り、他の船舶は散開して逃げ始めたが、3隻の敵はたちまち被弾して黒煙を噴き上げる。武装商船(ヤンキン)は左に大きく傾斜し、乗員は脱出を始めた。摩耶の高角砲に撃ちぬかれたMMS-51(255トン)は大破し、火災を起こしながら沈没寸前となる。やがて武装商船と哨戒艇は沈没した。第4戦隊は合わせてオーストラリア軍護衛艦艇、油槽艦、敵商船、イギリス掃海艇をそれぞれ1隻ずつ撃沈する戦果を挙げた。翌5日正午近く、オランダの武装商船がポートダーウィン方面へ逃げていくのが見えた。第4戦隊は追跡し、「停船せよ」「降伏するや否や」と信号を発した。すると武装商船は白旗を掲げ、停止。接近して調べてみると、オランダ海軍の士官と兵学校の生徒250名が乗っていた。第4戦隊が発砲しなかった事に感謝の意を示した。
3月7日13時5分、ケンダリーに帰投。3月11日17時30分、高雄や第27駆逐隊を指揮下に入れて出港。モルッカ海峡を通過し、南太平洋へと進出する。この時、味方の輸送船1隻とすれ違っている。南太平洋は風速約10m、波浪4mに加え、時折驟雨が襲い来る荒天であった。3月12日未明、父島北東で警戒部隊と合流するよう命じられる。3月14日午前11時、燃料の都合で第27駆逐隊を分離させる事に。護衛が無くなるため、摩耶の鍋島艦長は会敵を懸念した。が、翌15日に摩耶と高雄も帰投する事が決まり、本格的な整備を受けるべく本土を目指して出発。天候は荒れ模様だったが道中は何事もなく、南西諸島の東側を通過。3月18日、特設駆潜艇瓊山丸や和美丸の支援を受けつつ正午頃に三浦水道の奥深くへ入っていく。間もなく横須賀の町並みが見え、乗組員は思い思いに一服していた。やがて入港準備のラッパが響き、横須賀到着。高雄とともに停泊した。翌日から28日まで整備を受ける。
4月14日、横須賀を出港。ところが4月18日、ドゥーリットル空襲が発生。名古屋へ向かう敵機を確認し、摩耶は警備のため三河湾西浦沖に停泊した。しかし接近しているはずの敵機は発見されず、加えて東京が空襲を受けたため緊急出撃が下令された。錨を上げ、14時時30分に出港。前進部隊電令作第4号を受信し、野島崎南方へと疾駆した。すぐに追撃部隊が編入され、翌19日に東京湾外で待機していた愛宕率いる艦隊と合流。逃走する米機動部隊を追い、敵の進攻地点とされた場所で索敵を行うも敵情を得られず。更に敵の補給地点を推定し、その付近を索敵したがやはり敵情を得られず。4月20日に作戦中止され、反転離脱。翌21日午前4時、念のため艦載機による索敵を行ったが、成果は無かった。帰路、駆逐艦巻雲とともにソ連船臨検の目的で捜索したが、発見できず。ところが4月24日夜、神子元島灯台付近で発見。停止を呼びかけ、臨検を行った。利敵行為は認められなかったため、解放。翌25日午前10時、横須賀に入港。
5月1日午後4時30分、ミッドウェー作戦参加のため高雄とともに横須賀を出港。之字運動を行いながら集結地の柱島を目指していた。23時時頃、「配置に就け」を意味するラッパが鳴り響く。先行していた水上機母艦瑞穂が米潜水艦ドラムの雷撃を受け、炎上。「我れ敵潜の攻撃を受け、魚雷命中、右23度傾斜、沈没の恐れあり」と緊急電を打ってきた。急報を聞いた2隻は現場海域に急行。それに先立って零式水上偵察機を発進させ、対潜哨戒に当たらせている。陸軍からも笠置丸が救援に向かった。被雷から約1時間30分後の翌2日午前0時30分に現場海域へ到着する。消火活動により火勢は弱くなりつつあったが、浸水激しく徐々に沈下していく。鎮火の目処が立ったため、曳航も考えられた。しかし決死の復旧作業にも関わらず浸水が止まらず、浮力を失い始めていた。高雄が乗員救助を担当し、摩耶は周辺海域の警備を担当。午前0時37分、瑞穂の周辺を回って警護。敵潜水艦が潜んでいる可能性も考慮し、爆雷投射を行った。午前1時19分、摩耶に向けて敵潜水艦が2本の魚雷を発射したが命中せず。午前2時35分、高雄と摩耶からそれぞれ1機の95式水偵が発進。対潜警戒に従事させる。午前3時10分、摩耶は爆雷2発を投下。しかし残弾2発となり、投射をしばらく見合わせる事に。15分後、曳航準備が完了したが…。午前3時30分、瑞穂に総員退艦命令が下令。乗組員が艦載艇に乗って脱出してくる。ついに助からなかったようだ。間もなく摩耶は爆雷を全弾投射し終えた。午前4時16分、高雄と摩耶の乗員が敬礼する中、瑞穂は艦尾から沈没していった。准士官以上45名、下士官・水兵557名を救助し、そのうち重傷者は17名、軽傷者は14名だった。また准士官以上7名、下士官・水兵54名は救助できなかった。対潜警戒を兼ね、午前5時6分に摩耶は搭載機2機を発進させた。航行中、摩耶は横須賀鎮守府に対し95式爆雷6個、燃料300トン、治療品若干数(高雄のみ)を補給するよう要求している。13時10分、2隻は横須賀に入港。高雄に収容されていた重傷者17名と軽傷者14名は入院した。補給が済み次第、出港。再び柱島を目指した。対潜掃討と護衛を兼ね、駆逐艦3隻が伴走した。5月3日に目的地の柱島へ入港した。5月15日、北方部隊電令作第312号により北方部隊への編入が決定する。
5月20日、北方部隊第二機動部隊に編入。就役したばかりの商船改造空母隼鷹に勇将角田覚治少将が乗艦し、彼の指揮下に入ってアリューシャン作戦に参加。5月22日午前6時30分、空母隼鷹、龍驤、重巡高雄、駆逐艦曙、潮、漣、響、電、雷、汐風とともに出港。徳山で燃料補給を行ったのち、雷と電の護衛を受けて15時時頃に関門海峡を通過する。水道は狭く、海水は澱んでいた。下関市郊外の海岸には児童が集まり、手を振りながら「万歳!万歳!」と連呼していた。無事狭い海峡を突破し、日本海側に出た摩耶と駆逐艦2隻は引き続き北上。5月24日13時、前進基地の大湊に到着した。ところが第2機動部隊は寄せ集めの部隊であり、合同訓練の暇さえ無かった。また護衛の第7駆逐隊は珊瑚海海戦から戻ったばかりで、作戦会議に出られなかった者がいるなど連携の面では少々不安を残していた。翌25日午後、総員集合がかかり、乗員が前甲板に集まる。彼らの前で副長井上乙彦中佐がアリューシャン作戦の概要を説明した。
そして5月26日正午(13時とも)、隼鷹を旗艦とした第二機動部隊を護衛して大湊を出港。津軽海峡を出た後、一路東進。龍驤や隼鷹、高雄、駆逐艦3隻、油槽船帝洋丸とともに冷たく、霧が多い不気味な海域を突き進む。津軽海峡を出るまでは天候に恵まれていたが、日没後は急変。濃霧と荒天に見舞われ、給油作業が困難になった。幸いにして北方は敵潜水艦の出現が少なく、平穏な航海が続いた。5月29日、敵軍に悟られないよう厳重な無線封鎖が施され、ミッドウェー作戦に挑む艦隊とは互いに連絡が取れなくなった。5月末とは言っても、北方の海は冷たい。ひとたびみぞれのような霧雨が降れば、角田艦隊は行動を束縛されるのである。また北方海域は浅瀬が多く潮流も早いため、一定の速力を出しておかないと舵が効かなくなり、座礁や衝突の危険性があった。日没は早く、15時には沈んでしまう。他にも荒天や濃霧の存在が角田艦隊を悩ませたが、不断の努力により概ね計画通りに推移した。6月2日、最北の拠点である幌筵島に寄港。翌日出港し、霧と氷が支配する北洋へ漕ぎ出した。アリューシャン作戦を支援すべく、第2機動部隊に先立って伊25と伊26がダッチハーバー方面に潜入していた。
6月3日、伊25からコジャック島に入港するシカゴ型重巡洋艦の情報がもたらされた。23時(現地時間)、ダッチハーバーの南西約180海里に到達。隼鷹と龍驤から攻撃隊が発進し、港内の飛行艇や無線局、重油タンク、飛行場、兵舎を爆撃。またダッチハーバー南西のマクシン湾に敵駆逐艦5隻の停泊が認められた。6月4日午前5時45分、再び隼鷹と龍驤から攻撃隊が発進。これを支援するため、摩耶と高雄からもそれぞれ2機の九五式水上偵察機が参加。ところがウムナク島から発進したP-40戦闘機に襲撃され、高雄所属機が全滅。摩耶所属機も甚大な被害を受けたが、どうにか帰投した。この日の攻撃は悪天候に阻まれたため、中止となった。6月5日、ダッチハーバーから飛来したB-17爆撃機5機が第2機動部隊を攻撃。対空戦闘が行われる中、連合艦隊より電文が届く。それは3隻の空母が大破炎上したという事を知らせるものだった。同時に第2機動部隊は南下して第1艦隊と合流するよう命じられる。だがB-17の爆撃を受けている時に背中は向けられないとして、司令官の角田少将は攻撃後に南下する事とした。摩耶の高角砲や機銃が火を噴いたが撃墜には至らず。被害は至近弾のみに留まった。15時26分、航空機を収容して南下を開始した。摩耶の暗号室では、はるか南方で戦っている南雲機動部隊の暗号を傍受した。解読の結果、文面は「旗艦を長良に変更せよ」だった。室長の小林甲一兵曹は首をかしげた(隼鷹に届いた命令文は摩耶には届いていなかった)。旗艦を変更するなんて、余程の事があったのだろう。その後、彼は通信長と艦長にこの事を報告した。
6月6日午前3時15分、細萱長官はアリューシャン作戦の延期を下令。しかし山本五十六長官は敵航空隊の西進を防ぐため、要地占領を狙って作戦の続行を望んでいた。午前7時、連合艦隊より北方部隊復帰を伝える電文が発せられた。この電文は午前11時30分頃に受信され、南下中だった第2機動部隊は引き返した。ミッドウェー敗北に伴って作戦にも変更が生じ、一時的な占領を予定していたアッツ島及びキスカ島を恒久的占領に方針転換。アダック島の破壊占領は中止となった。更に作戦決行日を1日繰り下げている。第二艦隊は占領作戦を支援すべく、基地航空隊や潜水部隊とともにアッツ島南方で索敵。出現するであろう敵艦隊へ警戒を強めた。6月7日22時27分、輸送船団がキスカ島に到着。舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊が奇襲上陸し、何ら妨害を受ける事無く3時間で主要部を掌握した。米兵2名が捕虜となった。一方、アッツ島攻略も並行して行われ、21時30分に輸送船団が泊地に進入。23時20分、濃霧の中を突っ切る形で舟艇が一斉に陸地へと向かった。6月8日午前0時10分に霧が晴れ、敵影は認められず。上陸成功の信号を各部隊や大本営に送った。双方ともに無血占領を果たし、無人島ながらアメリカ本土の一部を手中に収めた。摩耶が属する支援隊は夜間の濃霧に紛れて撤退する事になり、戦艦日向の22号電探によって集結に成功。キスカ島とアッツ島を奪還しに来るであろう敵艦隊の出現に備えた。6月18日14時、北野邦夫三等水兵が激浪に飲まれ、行方不明になる。6月20日午前0時30分、大湊への帰投を命じられ、帰路につく。6月24日午前9時30分、大湊へ帰投。山本五十六長官から感状が授与された(実際に手渡されたのは1943年3月15日)。
6月28日に柱島へ回航され、7月12日より呉工廠で整備を受ける。7月14日に前進部隊電令作第1号が発令され、瀬戸内海西部で待機。7月18日には艦載機を乙航空隊に供出。機種の更新が済んでいない機は、更新を待ってから供出された。8月2日、北方部隊信電令第113号・第五艦隊機密第020829番電を受信。補給を終えた後、第10駆逐隊と駆逐艦五月雨を率いて出港。横須賀まで回航された。
8月7日、凶報が駆け巡った。米豪遮断作戦の一環でソロモン諸島ガダルカナル島に飛行場を建設していたのだが、そこへ万単位のアメリカ軍が来襲。わずかな設営隊と守備隊を蹴散らし、占領してしまったのだ。同時に敵艦隊の出現とツラギ島への上陸も確認され、帝國陸海軍は動員できる戦力を集めてガダルカナル島攻撃へ向かわせた。後の世に言うソロモン戦線の形成である。8月8日深夜に生起した第一次ソロモン海戦の大戦果は、柱島に停泊中の摩耶にも届いた。姉妹艦鳥海の奮戦を聞き、羨望と感激を覚えたという。内地で停泊中の艦艇にも出撃命令が下り、8月10日付で摩耶は前進部隊に所属。8月11日17時、近藤中将が乗艦する旗艦愛宕、妙高、羽黒、水上機母艦千歳、戦艦陸奥、軽巡由良、駆逐艦9隻とともに柱島を緊急出撃。翔鶴や瑞鶴を基幹とした第3艦隊の先鋒として、一足先にトラック島へ急行した。南下すれば南下するほど暑くなり、居住区は蒸し風呂状態と化した。8月17日午前10時、トラック島に到着。上空には航空隊が乱舞し、港内には大小の艦艇や輸送船が停泊していた。ガ島近海の状況は時間を追うごとに悪化し、敵の潤沢な物資や兵力が絶え間なく送られていた。更にガ島南東海域に敵機動部隊が確認されたため、8月21日19時にトラック島を出撃。遅れて本土からトラックに向かっていた第三艦隊と洋上で合流、之字運動をしながら敵を求めて南下を開始する。8月23日、行方不明になっていた軽巡由良の搭載機を発見し、搭乗員を収容。
8月24日、両軍の機動部隊が接近した事で第二次ソロモン海戦が生起する。摩耶は愛宕を旗艦とする第二艦隊(前進部隊)に所属して参加。貴重な航空母艦を守る囮の役割が与えられた。しかし予想された攻撃は無く、しばらくは平穏だった。やがて旗艦愛宕のマストに対空戦闘の信号旗が揚がる。見ると、前方から2、30機の米軍機が迫っていた。味方空母を発見できなかったエンタープライズ搭載機などが矛先を向けてきたのである。敵機は上空に達すると編隊を解き、思い思いに攻撃を仕掛けてきた。各艦が対空砲火を上げる中、摩耶の直上約1000mから艦爆が急降下爆撃を仕掛けてきた。高角砲と機銃が狂ったように撃たれるが、敵機の急降下は止められず、ついに投弾された。「面舵一杯、急げ!」と艦長が叫ぶ。摩耶は大きく波を立てながら艦首を右へググッと向ける。爆弾2発は左舷前方100mに着弾し、飛沫が艦首にかかった。14時20分、対空戦闘は終わった。艦隊は隊形を整え、28ノットの速力で南下を始めた。逃走する敵機動部隊の捜索も行ったが、結局発見できなかった。燃料不足を懸念した近藤長官は21時40分に追撃中止を命令。速力を24ノットに落とし、反転離脱。道中で給油船日本丸と会同し、燃料補給を受ける。9月5日午前10時30分、トラック島へ帰投。
9月6日夜、摩耶は錨地から離れた沖合いに停泊。トラック北水道から侵入しようとする米潜水艦に対抗すべく、火器を満載した内火艇が哨戒していた。9月7日、猛烈なスコールを浴びながら帰艦した。9月9日15時30分(14時30分とも)、索敵のため第4戦隊は他部隊とともにトラック島を出撃。9月12日午前4時、第4、第五、第六戦隊の重巡から1機ずつ零式水偵を発進(摩耶と羽黒は機体の更新が出来てなかったのか九五式水偵)。索敵に従事した。敵影を見なかったため、午前9時45分に水偵を揚収。第二警戒航行序列に移行。9月13日午前9時36分、190度方向水平線上に敵飛行艇が触接しているのを確認。また午前10時15分にはツラギ沖で空母1隻、戦艦2隻、駆逐艦2隻が確認され、緊張が走る。午前11時に索敵機を収容し、之字運動を行いながら敵を求めて遊弋する。9月14日午後12時55分、ガダルカナル島北東で哨戒機に発見される。13時35分、B-17爆撃機8機が出現。各艦とも速力を24ノットに上げ、熾烈な対空砲火を放つ。B-17爆撃機は南方へと飛び去っていった。妙高が僅かな損害を負った程度で、艦隊運動に影響無し。9月15日、燃料不足になりつつあった駆逐艦に燃料を分け与えた。9月16日未明、進出してきた給油船日本丸と合流し、午前5時から高雄、愛宕、摩耶の3隻に補給を行った。9月18日より索敵を再開したが、結局敵艦隊を発見する事は出来なかった。9月20日、トラックへの帰投命令を受けて反転北上。9月23日午前9時30分にトラックへ帰投した。
9月30日、開戦から摩耶を指揮してきた艦長の鍋島大佐が退艦。乗組員一同は上甲板に集合し、内火艇で去っていく鍋島大佐を見送った。鍋島大佐も見えなくなるまで手を振っていた。部下に優しかった彼の人望の厚さが窺える場面と言えよう。後任には松本毅大佐が着任した。頭が切れる秀才タイプで、愛煙家だった。
10月6日、前進部隊電令作第59号により当分の間、摩耶は第5戦隊司令官の指揮下に入る。敵軍に奪取された飛行場はヘンダーソン飛行場と改名され、エアカバーを提供する厄介な存在と化していた。10月9日に第17軍司令部がガダルカナル島に上陸して戦況を確かめたところ、陸軍の飛行場奪還は困難と判断された。となれば、この飛行場を黙らせるには艦砲射撃しかない。まず最初に青葉率いる第6戦隊が飛行場砲撃に向かい、続いて摩耶と妙高が砲撃を加える事になった。10月11日午前3時40分、先陣の戦艦金剛と榛名が護衛を伴って出撃。少し遅れて午前5時、摩耶のグループもトラック島北水道から出撃した。伴走者は重巡妙高、軽巡五十鈴及び駆逐艦3隻(巻波、長波、高波)である。敵空母出現に備えて隼鷹、飛鷹、翔鶴、瑞鶴も出撃しており、敵の目を引き付ける囮の役割を担った。第一警戒航行序列を組み、針路90度、速力20ノットで大洋を駆ける。午前6時より之字運動を開始。13時、速力を16ノットに落とす。16時35分、之字運動を止める。同日深夜、サボ島沖で青葉率いる第6戦隊が敵艦隊と遭遇し、撃退されたとの報告が入った。摩耶と妙高は迎撃のため南下を開始したが、敵情が得られず。これ以上の深追いは作戦に支障が生じるとして予定の航路に戻った。13日夜間に挺進攻撃予定とし、敵陣への突入を再開した。ちなみに第6戦隊は後退したが、この時に敵艦隊も後退したため摩耶を阻む障害が無くなった。
10月12日午前6時17分、之字運動再開。13時5分、護衛の五十鈴や駆逐艦に燃料補給すべく日本丸が接近。給油を行う。18時に作業完了。針路14度、速力16ノットで敵陣を目指す。19時以降、敵潜水艦出現の算大として見張り警戒を強化。23時、速力を18ノットに上げる。10月13日午前、レンネル島南西及び東方に敵機動部隊が出現、午後にはツラギ付近に敵戦艦が出現したとの報告を受ける。先行きを暗くする、物量に任せた敵の布陣であった。摩耶たちと同じく飛行場砲撃に向かっている金剛と榛名を支援するため、敵艦隊の南方に進出。敵の注意を引き付けた。これは見事成功し、2隻の戦艦は迎撃を受けなかった。午前10時6分、陸軍が飛行場の奇襲に成功したとの報告が入った。14時2分、五十鈴より艦載機が発進。ツラギとガ島方面の偵察を行った。ツラギ近海に敵の大部隊、ルンガ岬に駆逐艦2隻と輸送船2隻、サボ島西方30浬に乙巡1隻を発見。貴重な情報をもたらした。10月14日、ヘンダーソン飛行場の詳細な情報が入ってきた。敵の飛行場には何度も空輸が行われており、終息の兆候は見えなかった。
船舶も盛んに出入りしている。夜半、先発していた鳥海と衣笠がヘンダーソン飛行場への砲撃に成功。この快報は進撃中の摩耶にも届いた。「飛行場全面、火の海と化し誘爆中。」次は摩耶の出番である。10月15日午後12時35分、針路230度に変針してガ島に舳先を向ける。速力31ノットに上げたが、すぐに26ノットに下げた。護衛の駆逐隊が先行し、摩耶と妙高の前方につく。サンクリストバル島南東90浬に敵輸送船2隻、敵巡洋艦1隻、敵駆逐艦3隻が出現。これを攻撃するため味方の機動部隊が出動し、一部の兵力を分派して夜戦を企図した。多くの仲間に支えられながら、目標海域を目指して進撃を続ける摩耶。17時、魚雷をいつでも使えるよう即時待機。20時25分、タサファロンガの浜辺に到達。座礁して果てた笹子丸、九州丸、吾妻山丸の残骸を目にした。彼らの無念がひしひしと伝わってくる。21時、摩耶の三座水上偵察機が観測のために発進した。摩耶は先行する妙高の背中を追っている格好だった。45分後、搭載機が飛行場に吊光弾を投下した。
22時27分、砲撃開始(第二水雷戦隊戦闘詳報によると22時22分)。ズシーンという轟音が響き渡った。砲撃の衝撃でレシーバーのモールス信号が聞こえなくなり、受信機も使えなくなった。しばらくすると復旧したが、受信不能の電報は20通に達した。一方、飛行場には紅蓮の炎が踊っていた。南海の孤島を焼き尽くさん勢いで夜空を照らす。仲間の無念とともに強力な火力を飛行場へぶつける。22時45分、ルンガ岬から敵のサーチライトが照射された。午後10時50分、反転しつつ砲撃。護衛の駆逐艦も盛んに砲撃している。「飛行場南東約2kmの草原一帯大火災誘爆中なり」「飛行場の南方高角砲陣地付近火災、同陣地は対空照射せず」「飛行場北端五ヶ所炎上中」「西方約2km軍需品炎上らしき火災を認む」と観測機から次々に情報が入ってきた。観測機は戦果確認のため高度300mで偵察。途中、駐機している大型機を発見したため、約50発の銃撃を行った。23時20分、砲撃終了。摩耶は450発の砲弾を発射し、妙高や駆逐艦3隻と合わせて1179発を撃ちこんだ。砲身が真っ赤になるまで撃ち込み、飛行場は大火に包まれた。飛行場砲撃は見事成功し、悠々と帰投した。帰路、レカタ基地に進出していた各艦の搭載機を収容。三夜連続の砲撃に、ヘンダーソン飛行場は大打撃をこうむった。海兵隊の稼動爆撃機はわずか1機にまで減少し、航空燃料はたった1日分だけしか残らなかったという当時の大損害を伝える話が残されている。金剛&榛名、鳥海&衣笠、摩耶&妙高の身を賭した砲撃により、10月14日に第二師団の後詰めが無事に上陸。しかし重火器の揚陸には時間を要し、飛行場を復旧させた敵軍の執拗な妨害を受けた。
敵の虎口から脱するため、10月16日午前3時50分に速力を20ノットに上げる。午前4時40分、上空に味方戦闘機が到着。午前8時、聖川丸飛行隊が戦艦3隻、大巡1隻、駆逐艦5隻を発見したと報告。午前9時20分にはベロナ島近海で敵の大部隊が確認された。雷撃隊が攻撃に向かったが、天候不順で中止となっている。午前10時、単縦陣を組んで航行。翌17日午前5時30分、給油船日本丸より補給を受ける。補給完了後、之字運動をしながら本隊との会合地点に向かう。午前7時、神嘗祭により遥拝式を挙行。16時20分、之字運動中止。23時25分、速力18ノット、0度に変針。同日夜、第二艦隊や第三艦隊主力と合流。補給を受けた後、本隊とともに索敵を行った。ガダルカナル島方面の索敵を行ったが、敵情は得られず。分かった事は、敵駆逐艦2隻が腹いせのように味方の揚陸地点を砲撃している事くらいであった。陸軍の総攻撃の準備が完了するまで、主力艦隊は適宜ソロモン諸島北東の索敵に従事した。10月18日、第4戦隊は第二航空戦隊、第15駆逐隊、第31駆逐隊とともに本隊から分離。ブイン基地に不時着した飛鷹艦攻を収容した。10月19日夜、ガダルカナル島の陸軍第2師団による飛行場総攻撃の日時が決定したため、艦隊は支援の目的を帯びてガ島北方で遊弋する事になった。10月20日、ガ島東方で燃料補給を受けて戦闘準備を整えた。しかし陸軍の都合で総攻撃が延期に次ぐ延期となり、手持ち無沙汰な艦隊は南北を往来する羽目になる。その間に飛鷹が機関故障にも回れ、トラックに後退している。10月22日15時30分、給油船極東丸から補給を受ける。21時30分、完了。前進部隊電令作第63号により、ソロモン東方に出現の算がある米機動部隊の索敵を実施。もし敵情を得なければ北上退避の予定だった。
10月23日、エスピリットサント島の北方650海里にてカタリナ飛行艇に発見される。その後、1機のカタリナが出現し、翌24日午前1時に重巡筑摩を雷撃したが命中せず。10月24日深夜、いよいよ陸軍が総攻撃を開始。これを支援すべく、近藤信竹中将率いる第2艦隊の前進部隊に伍して南下を始めた。敵の主力艦隊はソロモン諸島南方を常に遊弋しており、会敵は避けられない状態となった。同日17時、陸軍は飛行場攻撃を開始。21時には飛行場占領と報告してきた。しかしこれは誤報だった。陸軍の敢闘に続けと言わんばかりに、主力艦隊もガ島を目指した。10月25日午前7時8分、比叡と霧島が触接中の飛行艇を発見。前進部隊の後方を進撃中の機動部隊も飛行艇を発見し、通信傍受の結果、敵に位置を察知されたと判断した。
10月26日午前1時30分、敵機に発見され、爆撃と触接を受ける。被害こそ無かったが、南太平洋海戦の前哨戦が静かに幕を開けた。一旦、日本艦隊は北上して退避。更に陸軍の攻撃は不成功だった事が判明し、不吉な空気が流れ始める。摩耶は夜明けとともに偵察機を放ち、敵の発見に注力。午前4時50分、サンタクルーズ諸島北北東に敵の有力な機動部隊を発見。味方空母から攻撃隊が飛び立つのと同時に、前進部隊は敵が潜む海域への進出を命じられる。早朝、味方機の攻撃により敵空母は壊滅混乱状態に陥ったとの快報が入ってきた。敵の攻撃は空母や前衛の比叡等に集中したため、大した攻撃は受けなかった。海戦後、敗走する米機動部隊を追撃するため前進。前進部隊信令第285号により午後11時30分に94式水偵を発進させ、五十鈴飛行長の指揮下に入れた。すると偵察機から「炎上中の敵空母に対し敵駆逐艦2隻砲撃中」「吊光弾投下により敵駆逐艦は南方遁走中」と報告が入った。摩耶機や長良機、五十鈴機に誘導されながら暗くなりつつある海を疾駆。すると前方に、放棄され炎上するホーネットを発見。周囲を取り囲み、駆逐艦による曳航を試みるが火勢が強く近寄る事も出来ない。結局、雷撃処分する事になった。海戦終結後の10月28日午前0時5分、前進部隊の下へ給油船神国丸が合流。逐次補給が始まった。午前0時30分、摩耶、高雄、愛宕への補給が始まる。午前8時55分に作業完了。10月30日、トラック島へ帰投した。入泊後、摩耶は第5戦隊から離脱し原隊に復帰。
11月1日、高速輸送船団の間接的護衛のため、再びヘンダーソン飛行場へ赴く事になった。艦船攻撃用の徹甲弾を陸揚げし、代わりに零式弾を500発装填。11月3日正午、駆逐艦陽炎、涼風、高波に護衛されて鈴谷や天龍ともども出港。5日にショートランドへ寄港し、現地で飛行場砲撃の準備を整える。ところがショートランドは連日激しい空襲を受けており、対空警報の無い日は無かったという。鳥海と衣笠から20cm主砲零式弾475発の補充を受ける。11月6日午前5時47分、外南洋部隊電令作第218号により、摩耶は第7戦隊とともに支援隊を結成。9日、10日、11日の三日間を使って対陸上間接射撃訓練を行った。軽巡洋艦天龍、駆逐艦夕雲、巻雲、風雲、満潮が護衛に就いた。ところがショートランドへの空襲により満潮が行動不能となり、代艦として朝潮が加わった。
11月13日午前5時40分、ショートランドを出撃。今回の相棒は重巡洋艦鈴谷であった。泊地から出港する際、愛宕の軍楽隊が勇壮な軍艦行進曲を奏でてくれた。それとは別に比叡率いる挺身隊も砲撃に向かったが、アメリカ艦隊の妨害を受け第三次ソロモン海戦が生起。2隻の戦艦を失う手痛い敗退を受けた。この敗報を聞いた摩耶では、乗組員が妙に殺気立っていた。「今度こそ摩耶もおだぶつか」という声が囁かれ、松本艦長の訓示も悲愴に満ちたものだった。更に松本艦長は「今度こそ、いよいよ最期かもしれない。今夜はみなの好きなものを食べるよう、遠慮なく申し出させよ。」と主計科に命じ、夜食はお汁粉の大盤振る舞いになった。だが、摩耶たちは上手く敵の内懐へ飛び込む事に成功した。20時、鈴谷と摩耶から索敵機が飛び立ち、陸上砲撃観測及び照明弾投下の任務を帯びて先行。51分後、戦闘が下令される。22時20分、ガ島西端を確認。速力を20ノットに上げ、突撃。23時4分、サボ島東方海域に敵影を認めず。そして23時30分、索敵機が照明弾を投下。砲撃を開始する(鈴谷戦闘詳報参考。異説では翌14日午前1時30分に砲撃開始)。鈴谷とともにヘンダーソン飛行場を砲撃。摩耶は485発を撃ち込み、仇を取る。ガ島の陸上観測所は「相当の効果あり」と送信した。実際、砲撃部隊からも飛行場に誘爆が認められた。護衛隊の天龍、夕雲、巻雲、風雲、朝潮が敵魚雷艇2隻の接近を阻み、2隻を守った。23時42分、護衛の駆逐艦や摩耶は接近する敵魚雷艇を発見。左舷前方に探照灯の照射を行ったが、異状を認めず。4分後、各艦30度目の斉射を終え、反転し離脱を図る。ところが鈴谷に向かって伸びていく雷跡を摩耶が発見。電話で鈴谷に危機を知らせる。24ノットに増速し、回避運動。特に異状が無かった事から回避したとされた。23時59分、白煙幕を確認し摩耶が探照灯を照射するが敵影は無し。
11月14日午前0時4分、砲撃終了を下令。天龍より左舷前方に怪しい物体があると報告してきたが、やはり異状は認められず。背後にある飛行場からは、断続的に誘爆する音が聞こえてくる。あとは安全圏まで逃げ切るだけ。午前2時38分、摩耶機がレカタ基地に着陸。一気呵成に砲撃する摩耶の前に現れた敵は、わずか魚雷艇2隻のみだった。連合軍の反撃が微弱だったのは、前夜の第三次ソロモン海戦第一夜による影響だった。比叡率いる挺身隊が、アメリカ艦艇に大小の損害を与えていたおかげで警備を担当する艦が一掃され、手薄になっていたのだ。サウスダコタ及びワシントンもサボ島から360浬の地点にいて、27ノットの速力で走っても12時間は掛かる状態だった。比叡隊を退けて安堵していた矢先の砲撃に、隙を突かれた敵軍は愕然とした。この報告を受け、いつも強気なルーズベルトですらガダルカナル島争奪戦の敗北を予感し、撤退を考えたという。しかし重巡の砲では飛行場の完全破壊は不可能で、戦果は航空機全壊18機、損傷32機(内訳は急降下爆撃機1機、戦闘機17機全壊、戦闘機32機以上損傷)に留まったという。通常弾を使用した弊害で、1発の加害範囲が狭くなってしまったのだ。午前4時28分、敵艦上機4機が砲撃部隊を追跡。何かしらの電報を打っていた。午前6時にニュージョージア島南方で待機していた第8艦隊と無事合流。第四警戒航行序列の隊形で、急いで北上を始める。駆逐艦4隻が前方で横一列になり前路警戒、左に衣笠、五十鈴、鳥海が、右に鈴谷、摩耶、天龍が続航した。道中で夜明けを迎えてしまい、機能が回復したヘンダーソン飛行場より飛来した哨戒機に運悪く発見される。最初に現れたのは敵戦闘機7機とドーントレス急降下爆撃機7機、アベンジャー雷撃機6機だった。執拗な航空攻撃により衣笠が魚雷4本を受けて落伍。更に敵空母から発進したドーントレス16機が出現。午前7時26分、500ポンド爆弾を投弾しにきたドーントレスを摩耶の対空砲火で撃墜。しかし墜落時にマスト接触し、甲板上に激突。機銃員3名が即死した。第4及び第6缶から出火し、高角砲弾に誘爆して左舷高角砲甲板にも火災が発生。ドーントレスから飛び出たガソリンが甲板上に飛び散り、引火。爆発が起きた甲板はポッカリと穴が開いた。最大速力が29ノットに低下。危うく魚雷発射管に火の手が及びそうになるも、咄嗟の判断で魚雷16本を投棄したため、事なきを得た。敵機突入の際に乗員の1人が腹部を負傷している。ドーントレス搭乗員の遺体は後部高角砲甲板にうつ伏せの状態で斃れていた。被服は焼けただれ、下半身は無く、上半身は裸だった。おぞましい死相を見て驚いた水兵が海中へ投棄しようとしたが、これを見ていた水雷長が止めた。午前8時10分頃、鎮火に成功。衣笠が撃沈される被害を出すも、どうにか敵機を振り切って離脱に成功。よろよろと走りながらショートランドを目指した。戦死者38名、負傷者47名。黒こげになった遺体は後甲板に並べられ、負傷者は第一分隊のデッキに収容された。13時、ショートランド着。補給を受けた。腹部を負傷は乗員は満足な治療を受けられず、3日後に腹膜炎で亡くなった。
11月16日、外南洋部隊支援隊の西村祥治司令よりカビエンへの回航を命じられる。翌17日、天龍、鈴谷、摩耶の順でショートランドを出港。駆逐艦早潮と涼風が対潜掃討のため左右に同行。摩耶は最後尾についた。カビエン到着後、夜間警備用の哨戒艇を1隻派遣。また鈴谷とともに艦載機を派遣し、偶数日の対潜哨戒を担当。泊地を中心に約70浬を哨戒範囲に定めた。しばらくの間、摩耶はカビエンで休養と整備を受ける。11月20日、戦死者の慰霊祭が挙行された。だがその直後に米軍機が襲来し、対空戦闘。被害は無かった。11月23日、無人島への上陸が許可された。ショートランドと比べてカビエンは空襲が少なく、乗員はのんびりと羽を伸ばす事が出来た。12月2日午前7時、カビエンを出港。翌3日にショートランドへ到着。ガダルカナル島へ向かう駆逐隊を途中まで護衛したあと反転離脱し、12月5日午前10時にラバウルへ寄港。現地でソロモン作戦支援の任を解かれ、トラック島に戻る事になった。護衛として駆逐艦春雨を指揮下に入れ、ラバウルを出港。しかし12月8日午前3時、トラック南方で摩耶と護衛の駆逐艦は敵潜スカルピンに発見される。だが距離が遠すぎたためスカルピンは雷撃できず、午前7時45分に無事トラック島に到着。12月30日、トラック島を出港。本土で整備を受けるため、また北方任務に参加するため横須賀を目指した。
1943年1月5日、横須賀入港。8日から16日にかけて横須賀工廠で修理を受ける。1月30日、摩耶は北方部隊に編入され、作戦海域をアリューシャン方面へ変更する。同時に人事異動があり、一部の水兵が艦を降りた。見送る戦友の中には涙を浮かべる者もいたという。1月12日より魚雷調整班から搭載魚雷の整備を受ける。テストの結果、優良なる成績を収め、1月27日に摩耶へ引き渡された。一度は出渠したものの、整備が未了だったため2月12日から16日まで再度入渠。2月20日、横須賀を出港。2日後の午前9時に大湊へ入港。翌23日に大湊を出港したが、道中で大吹雪に襲われて空中線が断裂する事故が起きた。2月26日に幌筵(ほろむしろ)へと進出。しばらく幌筵で待機する。2月末、幌筵海峡から哨戒のため摩耶の水偵が発進したが、濃霧による視界不良で占守島の山岳に激突し、搭乗員2名が殉職した。彼らは飛行場砲撃の際、弾着観測を行った古株であった。数日後、遺体が発見され、荼毘にふされた。遺骨が入った白木の箱を、松本艦長はいつまでも撫でていたという。
3月7日、那智とともにアッツ島へ向かう輸送船団を護衛。摩耶は零式水上偵察機1機と九五式水上偵察機を輸送し、3月13日に幌筵島へと戻った。3月17日、帝洋丸から重油1058トンの補給を受ける。乗組員には占守島への上陸が許可され、士官引率で島内を見て回ったという。3月20日、北方部隊司令は「三月下旬熱田島に高速船団に依る緊急輸送及び敵艦隊捕捉撃滅の件」を発令。その実行戦力に摩耶が選ばれる。3月23日17時、第5艦隊旗艦那智や軽巡多摩、駆逐艦初霜と若葉とともに幌筵を出港。アッツ島への輸送人員や物資を積んだ浅香丸と崎戸丸を護衛し、第二次輸送に従事していた。1回目は成功したものの、先月から敵艦隊が出没し始めており、防備のため第5戦隊が護衛していた。3月25日を揚陸予定日に定めたが、千島列島東にて発達した低気圧により海と天候は大荒れの状態になっていた。状況を鑑み、細萱戊子郎中将は予定日を1日繰り下げた。その後、天候は回復傾向になったものの、アッツ島守備隊からの現状報告を聞いて念のためもう1日繰り下げ、3月27日とした。3月26日午前11時、駆逐艦薄雲と三興丸以外の艦船が集結。残った2隻の合流を待ったが、断念した。
3月27日午前2時、船団は単縦陣を組んでアッツ島に向かった。しかしアッツ島への輸送は暗号解析で敵に読まれており、既に有力な艦隊が待ち伏せをしていた。アッツ島西方で待ち構えていた敵巡洋艦リッチモンドがレーダーにより輸送船団を探知。駆逐艦電が接近する敵艦に気付いて通報したが、阿武隈は相手を駆逐艦薄雲及び三興丸だと誤った報告をし、対策が後手に回る。午前3時13分、ようやく追跡者の正体が敵だと判明し、船団を北へ退避させつつ摩耶と那智が迎撃に向かった。
両軍が接近した事でアッツ島沖海戦が生起する。日本側の戦力は重巡2隻(摩耶と那智)、敵側の戦力は重巡1隻、軽巡1隻、駆逐艦4隻であった。濃霧が発生する関係上、終始遠距離砲撃戦となった。午前3時42分、那智が砲撃した事で戦闘開始。初弾がリッチモンドを挟叉するという高い錬度を見せ付けた。摩耶も距離2000mから敵巡洋艦リッチモンドを狙って砲撃。敵巡洋艦リッチモンドとソルトレークシティは那智に集中砲火を浴びせる。那智は魚雷8本を放って反撃するも、全て回避されたうえに右舷艦橋が被弾。要員11名が死亡、21名が負傷する。更にメインマストを吹き飛ばされ、無線機能を喪失。旗艦の役割を果たせなくなってしまう。続々と命中弾を浴びた那智は高角砲の電力をも失い、戦闘不能に陥る。火力こそ日本側が優勢だったが、アリューシャン方面特有の濃霧が正確な射撃を不可能なものにした。対する敵艦隊は濃霧の中でも相手の位置が分かるレーダーを有しており、数の上でも日本側を圧倒していた。事実、那智はあっと言う間に戦闘不能へ追いやられてしまっている。気象すら味方しない絶望的な状況で、1隻だけとなった摩耶の苦闘が始まった。摩耶はリッチモンドを測距して砲撃するが、濃霧によって艦影把握や距離感を狂わされ、実際はソルトレークシティを撃っていた。それでも砲撃開始から約30分後、ソルトレークシティに20cm砲弾を叩き込み、艦載機を炎上・投棄させた。そこから立て続けに3発の命中弾を与え、浸水による傾斜を発生させる。注水で復元されたが、摩耶の猛攻は続き、燃料タンクへの浸水でソルトレークシティの速力が落ち始めた。午前6時50分、ついにソルトレークシティを完全停止させた。トドメを刺す絶好のチャンスであったが、敵駆逐艦3隻が摩耶に向けて突撃を開始。またリッチモンドと敵駆逐艦1隻が煙幕を展開し、ソルトレークシティを覆い隠した。いかに摩耶でも1対5では圧倒的に不利だったが、猛然と反撃。伸びてきた5本の魚雷を回避し、敵駆逐艦ベイリーに20cm砲弾2発、コグランに1発の命中弾を与えて乗員5名を倒した。しかし戦闘している間にソルトレークシティは機関を復旧させ、東方へと急速に離脱。他の敵艦も倣うように離脱を始めた。両軍の距離が離れていった事でアッツ島沖海戦は終結した。ソルトレークシティは舵に異常が発生し、10度方向にしか動けなくなった。
優勢な敵艦隊を見事撃退した摩耶たちであったが、細萱中将は敵に与えた損害の大きさを理解せず、また敵機の出現を恐れた事から輸送作戦の中止を命令。船団を護衛していた電の艦長は、司令部の弱腰姿勢を非難している。細萱中将は4月1日付けで更迭された。3月28日に幌筵に帰投。3月31日、那智、初霜、若葉とともに出港。4月3日に横須賀へ入港し、横須賀工廠で修理を受けた。4月15日、駆逐艦白雲の護衛で出港し、4日後に大湊へ入港。4月27日に出港し、占守島に進出した。
5月12日、幌筵出港後にアメリカ軍のアッツ島上陸の急報が飛び込む。これを受けて5月21日(異説では25日)、敵艦隊撃滅及び緊急輸送のため巡洋艦那智や木曾、阿武隈、駆逐艦五月雨、長波、若葉、初霜、神風等とともに幌筵を出撃。アッツ島救援に向かったが、悪天候に阻まれて待機させられる。足止めを喰らっている間にアッツ島守備隊は玉砕。この悲報を受け、救援艦隊は幌筵に引き返した。米艦艇と誤認するよう仕向けるため、摩耶には迷彩とカムフラージュが施された。5月17日、帝洋丸から520トンの送油を受ける。月末、海軍工機学校に入校するため、駆逐艦五月雨から退艦してきた新入生が摩耶に便乗。青森県野辺地で退艦した。6月16日、伊171とともに帝洋丸へ横付け。256トンの重油を供給される。7月10日19時、幌筵を出港。木村昌福司令率いるキスカ島撤退部隊を支援すべく、第5戦隊旗艦那智や軽巡多摩、駆逐艦野風及び波風とともにキスカ島を目指した。撤収作戦妨害のため出現するであろう敵水上艦隊に備えての采配でもあった。しかし天候不良に悩まされ、キスカ島突入日が1日ずつズレていく。艦隊に緊迫の時が流れた。ところが7月15日午前9時50分、木村司令は作戦中止を決定。これには摩耶の乗員からも不満が噴出した。「飛行機を怖がって戦が出来るか」「五艦隊は動かん隊だ」と陰口を叩いた。誰もが木村司令の采配を冷笑していた。18日までに収容部隊は幌筵に帰投した。第五戦隊参謀は木村司令官の中止命令を非難している。幌筵の重油備蓄量が少なかったため、以降のキスカ島撤退作戦には参加していない。ゆえに奇跡の徹底作戦に立ち会えなかった。残った摩耶は整備作業と哨戒任務に従事し、皆の帰る場所を守った。乗組員の精神を癒したのは、釣りであった。幌筵はカレイの宝庫で、適当に糸を垂らすだけで面白い程釣れた。釣り上げられた魚は、食卓を彩る食材と化した。
7月29日、旗艦阿武隈率いる救出部隊が奇跡の撤退作戦を演じて幌筵へ帰港。収容された陸軍兵が摩耶に向かって帽子や旗、手を振っていた。彼らが満載してきた陸兵を摩耶へ移乗させ、帰国準備に取り掛かった。7月31日、連合艦隊より所属軍港での整備ののちトラック島への進出を命じられる。8月3日、前進部隊電令作第249号・前進部隊機密第021630番電により摩耶、島風、五月雨、長波は前進部隊本隊に編入。北方部隊の任を解かれ第4戦隊に復帰。駆逐艦島風に護衛されながら幌筵を出発。8月6日に横須賀へ入港。横須賀工廠に入渠し、舵取機の修理とレーダーの装備が行われた。同日中、邀撃部隊電令作第10号によりトラック進出と輸送任務が課せられた。
8月15日、人員と物資を積載し、鳥海とともに駆逐艦島風・長波に護衛されながら出港。艦隊の指揮は摩耶が執った。道中は何事もなく、無事にトラック島へ入港する。9月に入ると、トラック港外で鳥海と砲撃訓練を実施。その時の写真が残されている。9月5日、鳥海、島風、長波とともに輸送任務に従事。第64防空隊、第65防空隊、第87警備隊を横須賀からラバウルへ輸送した。9月15日、兵学校を卒業した新兵を迎える。
神出鬼没な敵艦隊に艦隊決戦を挑むべく、Z号作戦が発令。トラック在泊中の艦艇が実行戦力に選ばれ、摩耶が所属する第4戦隊も参加が決定。瑞鶴に座乗する小沢治三郎中将率いる機動部隊と、愛宕に座乗する栗田健男中将率いる二個艦隊が用意され、翔鶴、金剛、榛名、妙高、能代、阿賀野など計24隻が加わった。9月17日、トラック諸島を出撃して東進。敵艦隊との会敵を目指す。翌日の9月18日、敵空母がタラワ、マキン、ナウルを空襲。ちょうど東方向だったため、艦隊は進撃を続けた。9月20日、マーシャル諸島のブラウン島に入港。ここには第61警備隊の基地用レーダーがあり、前進拠点には打ってつけだった。翌21日には遅れてトラックを出発してきた瑞鳳も合流し、戦力を拡充。敵の動向を窺っていると、敵艦隊は足早にハワイへと引き上げてしまった。会敵の機会を失い、9月23日にトラック島へ帰投した。空振りに終わったZ号作戦だったが、闘志はまだ消えていなかった。戦艦武蔵に乗り組んでいた連合艦隊司令部付き暗号解析班は、近いうちに敵艦隊が攻勢に出る事を把握。今度こそ敵艦隊と会敵すべく、10月17日朝に出港準備が下された。翔鶴、瑞鶴、瑞鳳を中心に輪形陣を組み、摩耶もまた勇んで出撃する。トラック近海には敵潜が跋扈していると考えられたため、24ノットの高速で敵の包囲網を突破。以降は15ノットに落とした。しかし前回の事もあり、本当に会敵出来るかどうか半信半疑であった。そこで伊36潜にハワイを偵察させてみたところ、港内に戦艦と空母それぞれ4隻の停泊を報じてきた。やはり敵の主力はハワイにいたのだった。それでも進撃を続け、10月19日にブラウン島へ到着。同島泊地では摩耶と鳥海が一組になり、対潜哨戒を実施している。10月23日に再び敵機動部隊との決戦を企図し、東進。古賀連合艦隊長官の判断により、ウェーキ島付近で敵を待ち伏せる事にしたが、敵艦隊は出現せず。やむなく10月26日にトラックへと帰投した。
11月1日早朝、連合軍はタロキナ地区へ上陸してきた。これを受けて連合艦隊はトラック在泊の有力艦艇にラバウルへの進出を下令。決戦を挑む事にした。出港は11月2日の予定だったが、空襲の様子を見て1日繰り上げて出港。第4、第7、第8戦隊や第二水雷戦隊等とともに軍需品や兵員を乗せて、ラバウルへ急行した。道中のカビエン北方で連合軍の空襲を受け、日章丸が被弾落伍。鳥海と涼波が支援のため分離している。ところが11月4日、昼頃からB-24の触接を受け、敵軍に行動を監視される。アメリカ軍にとって重巡部隊のラバウル進出は脅威であり、ハルゼーは頭を抱えた。そこで破れかぶれにラバウルを空襲する事を決断し、第38任務部隊を差し向ける。そうとは知らずに重巡部隊は4日中に入港した。湾内には30隻近い輸送船が停泊。長鯨型を旗艦とする潜水部隊の姿もあった。
11月5日午前6時10分、ラバウル港内で國洋丸に横付け。燃料補給を受けつつ第三戦闘待機。午前7時55分、補給完了。引き続き第三戦闘待機。午前9時17分、ラバウルに空襲警報が出される。零戦71機や彗星5機が飛び立ち、重巡部隊は湾外へ移動する。警報発令から1分後、摩耶艦内に「配置に就け」の号令が飛ぶ。敵機の大編隊約200機接近と報告されたが、すぐに約90機に修正された。機関に火をくべて移動を図るが、午前9時24分に40度方向から敵編隊が接近。空襲隊形を取っており、明らかにこちらを狙っている。主砲を右へ旋回し、対空戦闘を開始。同時に両舷微速で港外への脱出を目指す。午前9時29分、敵の艦載機に襲撃され、1発の直撃弾を受けて大破炎上(または中破とも)。艦内のあちこちで被害が生じ始める。もくもくを黒煙が噴き上げ、乗組員が防火作業のため右往左往した。電力が失われたのか室内灯全てが消失し、通風装置も停止。気温が上昇し始める。左舷後部機械室、工業部指導所(爆発炎上により指揮官以下6名が戦死)との連絡が途絶し、艦内橙灯に切り替わる。前部給気路より爆炎が侵入し、艦内で火災発生。更に左舷巡航タービンが離脱し、伝声管の一部を封鎖。右舷前部機械室からは非常報知器が響き渡り、鳴り止まない。舵取機からは蒸気が噴き出し、ここでも非常報知器が鳴らされる。被弾の衝撃で機関の圧力が急降。右舷機関室の消火が急がれた。午前9時32分には飛行甲板も火災に見舞われ、操縦室は室温上昇により呼吸困難を誘発、在室不可能となった。その前部入り口で1名が戦死していた。午前9時46分、戦死者2名が発生。総員が救助に当たった。最終的に戦死者70名と負傷者約60名を出した。不幸中の幸いであったのは、アベンジャー雷撃機が抱えていた航空魚雷の精度が極めて悪い事だった。
応援に来た重巡部隊をトラック島に突き返す事が決まり、夕刻から続々と艦船が出発していった。しかし機関を破壊された摩耶は出港できず、しばらくラバウルに留まる事になる。現地で応急修理を行い、出港の時を待った。搭載の零式水偵1機と搭乗員を758空に供出し、ハ号作戦の戦力に充てられた。空襲後の16時8分、國洋丸に横付けし、消防の援助を受けた。引火を防ぐため、國洋丸に重油を移していく。17時30分、右舷への傾斜7度を確認。21時15分、國洋丸が離れる。日付が変わった翌6日午前0時、左舷前部機械室の鎮火に成功。はつたか丸の横付けを受けつつ、機械室の排水作業を開始。11月7日午前10時35分より、排水作業再開。山彦丸から300トンポンプを借用し、作業に勤しむ。13時35分、横付けしてきたはつたか丸に戦死者2名の遺体を引き渡す。ラバウルには未だに空襲の兆候があり、たびたび対空戦闘が発令されて作業を妨害されている。翌8日午前10時、機械室からの排水を完了。午後12時20分、岩手丸が横付け。250トンの真水供給を受ける。13時30分からは再びはつたか丸が横付けする。11月9日午前1時15分、「配置に就け」の号令が下り、対空戦闘。
11月11日、再びラバウルが空襲を受ける。敵空母3隻が増援として現れ、より苛烈な空襲を仕掛けてきた。午前6時58分、空襲警報が発せられ185機の敵機が殺到。午前7時5分、摩耶側も敵機100機以上を確認。50分後、30機以上の敵機編隊が接近し、対空戦闘。これ以上の被害を避けるため、南東方面艦隊司令の草鹿任一中将は在泊艦艇の退避を下令。夕刻16時30分、摩耶は軽巡能代や駆逐艦藤波、早波の援護を受けて脱出。同じく損傷していた潜水母艦長鯨や駆逐艦五月雨とともにトラック島への逃避行を始める。翌12日午前0時25分、1機の敵機が触接。21分後、右10度に敵機を発見。臨戦態勢を整えたが、攻撃は受けなかった。夜が明けてからも敵機の触接が続き、気の休まる暇が無かった。午前10時10分、上空に直掩機が飛来。北上を続けていた11月13日、能代、早波、藤波の3隻が摩耶の護衛から離脱。先行してラバウルから脱出していた阿賀野が米潜水艦スキャンプの雷撃で航行不能に陥る事態が発生し、救援を求めていたのだ。残された艦艇は摩耶艦長の指揮下に入り、逃避行を続けた。護衛を丸ごと引っこ抜かれた摩耶たち損傷艦。その一群に忍び寄る暗殺者がいた。午後12時5分、右70度に敵潜水艦を発見。駆逐艦が爆雷攻撃を行い、撃退に成功した。幸い敵機の追撃は無く、無事虎口を脱した。
11月14日、トラック島に帰投。翌15日、艦政本部の杉山六蔵部長が摩耶を視察し、損傷の具合から横須賀での大修理が決定。思ったより重傷だったため工作艦明石が出動、更に第一から第4戦隊の工作兵が応援に駆けつけ、応急修理を実施。11月25日に完了した。続いて本格的な修理のため本土へ帰投する事に。伴走者は同じく本土に帰投する瑞鳳、雲鷹、冲鷹と護衛の駆逐艦4隻。空母3隻にはニューギニア方面から撤退してきた人員や機材を搭載。艦長の加藤与四郎大佐が最先任だったため、摩耶が総指揮を担当。11月30日に出港する。ところがトラック島から冲鷹に向けて打たれた電報を敵軍に解析され、敵潜水艦スケート、セイルフィッシュ、ガンネルが待ち伏せを図る。トラック島の北水道を単縦陣で通過し、外洋に出ると対潜警戒のため隊形変更。先頭に摩耶が占位し、その後ろを瑞鳳が続航。瑞鳳の左90度に雲鷹が、雲鷹の後ろに冲鷹がついた。その外側を4隻の駆逐艦が警護した。速力20ノットを維持しながら之字運動を行い、本土を目指す。11月30日夜、米潜水艦スケートに捕捉される。1.4kmまで迫ると、雲鷹を狙って魚雷3本を発射。幸い、命中せず。駆逐艦が爆雷を投下したが、逃げられている。12月2日夜、硫黄島近海に潜んでいたガンネルはレーダーで6つの物体を探知。やがて摩耶率いる艦隊を発見、空母へ向けて4本の魚雷を放ったが全て外れる。ガンネルは追跡を諦め、艦隊から離れていった。翌3日早朝、ウルトラ情報を受けたセイルフィッシュがレーダーで1万2000m離れた艦隊を探知。だが接近できず、攻撃を断念している。しかし日没後に浮上し、再びレーダーで探知。波は山のように高く、毎秒40mの強風が吹きつける悪天候下。視界が利かなかったため、セイルフィッシュはレーダーを頼りに忍び寄る。12月3日深夜、艦隊は八丈島の東約360kmの海域を航行していた。季節外れの台風により、海上は強烈な暴風雨で視界不良。更に高い波浪が艦隊を翻弄していた。艦隊は予定の航路を通るため、敢えて迂回せず直進。暴風雨は激しさを増し、ついには隊形維持すら困難になってしまった。摩耶は発光信号で僚艦に連絡し、18ノットに速力を落とした。陣列は乱れており、各々が単独で航行しているような状況だった。レーダーで艦隊を探知した敵潜セイルフィッシュが接近。この時の陣形は摩耶、瑞鳳、冲鷹、雲鷹の単縦陣だった模様。翌14日午前0時12分、セイルフィッシュは4本の魚雷を発射。冲鷹に1本が直撃し、落伍。そしてそのまま討ち取られてしまった。
荒れた海と米潜水艦の包囲網を潜り抜け、12月5日に横須賀へ帰港。21日から第四船渠で修理と近代化改装を実施。対空火力の強化、バルジを装着しての復元性の改善、雷装の換装、その他戦訓の反映が主な要目であった。工事期間を6ヶ月としたが、突貫工事で工期を短縮。まず三番主砲塔を撤去するという思い切った案を採用。代わりに高角砲を増備した。撤去されたE型砲架でも一応対空戦闘が可能だったが、それでも発射速度や俯仰・旋回速度が遅く、急激な戦況の変化に向かない欠点があったのだ。12cm単装高角砲4基を撤去し、より高性能な12.7cm連装高角砲を上甲板両舷に3基ずつ設置。更に25mm三連装機銃13基、単装砲9門、13mm単装砲36門を追加装備した。12.7cm連装高角砲は、11名の砲員によって運用される半自動砲である。弾嚢包の装填も半自動式になっており、我が帝國海軍にしては高度に機械化された砲だった。また信管調定機構は非常に優れたもので、技術力に勝る同盟国ドイツが12.7cm連装高角砲の提供を依頼してきたほど。次にバルジを装着し、排水量が1万3350トンに増加。新たに21号電探と22号電探が装備され、機銃要員や高角砲要員が待機する甲板室も新設された。魚雷兵装にも手が加えられた。九二式61cm4連装水上発射管4基と換装し、次発装填装置も搭載。搭載本数は6本になり、以前の2倍の量を撃てるように改良。この改装により、防空巡洋艦と呼べるほど対空能力が向上。水雷兵装も強化され、強く生まれ変わった。増強された対空能力は日本重巡随一とされる。改装後の要目は排水量1万3350トン、全203.759m、最大幅20.72m、平均吃水6.44m、出力13万馬力、最大速力34.25ノット。乗組員も996名に増加した。参考までに開戦時は921名である。他の姉妹艦と比べて、少し容姿が変わった。計画では瑞雲を搭載する予定だったが、間に合わなかった。この改装工事中に摩耶の古参乗員の殆どが異動となり、代わりに新進気鋭の乗組員が補充された。松本艦長も横須賀鎮守府に転出となり、摩耶を去った。そんな中、東郷平八郎元帥の孫にあたる東郷良一少尉が摩耶に乗艦してきた。「じじいはじじい、俺は俺」という口癖の通り、生まれを鼻に掛けない破天荒な快男子だったとか。同時に井上団平少尉が航海長として着任。先のラバウル空襲では、被弾した摩耶を五十鈴の艦上から双眼鏡で見ていた。強く生まれ変わった摩耶の姿を見て、思わず感嘆の声を放ったという。
12月26日、最後の艦長の大江賢治大佐が着任。同じく横須賀に入渠していた夕張艦長と兼任だった。
1944年2月17日、トラック島がアメリカ軍の大空襲を受けた。第4ドックに入渠していた摩耶にもそのニュースが届いた。3月6日、出渠。4月5日と6日に東京湾内で公試が行われ、4月7日に再就役した。10日、永井貞三中佐が副長に着任。4月16日午後1時、島風に護衛されて横須賀を出港。夜半、串本沖で米潜水艦に雷撃されるも被害なし。
呉で戦艦大和と合流し、呉動物園から寄贈されたサルが乗艦した。池田大佐率いる第33警備隊の隊員と物資を積載。駆逐艦4隻(島風、早霜、山雲、雪風)を伴って4月21日に出港。道中で山雲と早霜が分離し、護衛は2隻に減った。艦内では乗組員がサルを飼育し、上官に敬礼するよう仕込んでいた。4月26日、マニラ寄港。夕刻、猛烈なスコールに襲われる。そのせいで食糧品を受け取りに行ったランチが定刻を過ぎても戻ってこず、西山顕一大尉が心配した。22時頃になってようやく帰艦。スコールで摩耶を見失って迷っていたとの事。新米少尉の池田艇長は可哀想になるくらい油を絞られた。翌27日、搭載物件を機帆船や大発に移して陸揚げする。4月29日に出港し、リンガを目指す。4月30日、護衛に浜風と朝霜が加わる。5月1日19時にリンガ泊地へ到着。人員1600名と機材2000トンの輸送に成功した。主力艦や空母が集結するこの泊地で、あ号作戦に向けての訓練に従事する。5月11日、艦隊は大鳳に率いられ、リンガを出発。決戦予定海域に近いタウイタウイ泊地へと移動した。5月15日にタウイタウイ泊地へ到着。73隻の艦艇が一ヶ所に集結する姿は、まさに勇壮であった。入港の際、摩耶の姿が写真撮影された。実は改装後の姿を撮った写真は非常に少なく、モデラーや歴史家の頭を悩ませている。
5月19日、第1機動艦隊の集結が完了。タウイタウイ泊地は南西方面では数少ない、大艦隊を収容できる良港であった。南方310kmには産油地のボルネオ島タラカンがあり、訓練用の重油は確保されていた。湾口には厳重な防備が施され、米潜水艦が侵入出来ないほど。しかし湾外では敵潜水艦が跳梁跋扈し、訓練を妨げられた。トラック環礁と違って、湾内では空母が発着艦訓練が出来るだけの広さは無く、加えて無風状態の日が多かったため訓練が出来ない日が続く。対潜掃討に向かった駆逐艦も5隻が撃沈され、暗い影を落とす事になる。また南部の環礁を囲む椰子林の背が低く、戦艦の高いマストが外側から見える弊害もあった。防諜面ではあまり好ましくない泊地と言える。翌20日、豊田副武連合艦隊長官は「あ号作戦」開始を発令。同日中に小沢治三郎中将(摩耶元艦長)が旗艦大鳳上で訓示を行った。
6月11日、アメリカ軍の大戦力がマリアナ諸島に襲来。手始めに空襲を始めた。6月13日、あ号作戦決戦準備発令に伴ってタウイタウイ泊地を出港。翌14日にギマラスへ入港し、夕刻17時から玄洋丸に横付けして燃料補給を行う。空は灰色の雲に覆われており、先行きを暗示しているかのようだった。不燃対策として燃えやすいものは全て陸揚げされた。そして6月15日、アメリカ軍はサイパン島への上陸を始めた。事前の猛烈な空襲により基地航空隊は壊滅しており、現地の守備隊は苦戦を強いられた。豊田長官から「あ号作戦決戦発動」が下令。午前8時、ギマラスを出港。攻囲を受けるサイパン島を救うため、アメリカ艦隊が待ち構える海域へと向かっていった。しかし出港直後から米潜水艦キャバラに発見されてしまう。人知れず追跡を受け、その位置情報を通報されるが、幸運にも敵本隊は受信に失敗していた。午前10時、大江艦長は「総員甲板に集合」と命令を出し、伝令が走った。4番砲塔の後ろで木台の上に大江艦長が立った。彼を囲むように乗組員が集まる。皇居遥拝の後、艦長の低い声が響いた。戦局の大勢と彼我の戦力差、帝國の興廃を決する決戦になる事を全乗員に伝えた。17時30分、サンベルナルジノ海峡を突破し太平洋に出る。20時38分、小沢艦隊側も敵潜水艦が位置情報を通報している事を知る。6月16日午前8時、敵機動部隊が硫黄島方面で空襲を行っているとの情報が入る。これを受けてパラオ西方の索敵を行うが、捕捉できず。15時30分、第一補給部隊と渾作戦から復帰してきた艦隊と合流。摩耶は夜通しで洋上補給を受けた。翌17日15時30分、補給完了。
6月17日15時、旗艦大鳳より「機動部隊は今より進撃、敵を索め之を撃滅せんとす。天佑を確信し、各員奮励努力せよ」と信号が届いた。この日の夕食には武運を祈って赤飯が振る舞われた。戦闘航海の慌しい合間を縫って、初級士官はガンルームに集まって冷酒が酌み交わされた。その時、ひょっこりと大江艦長が入ってきて「これが貴様たちの見納めである。我輩の美声を聞かせてやろう」と言って、白頭山節を2節歌った。6月18日午前5時、空母艦載機による索敵を行う。全員が戦闘服装に着替え、配食は握り飯となった。15時40分頃に敵母艦群らしきものを発見。いよいよ決戦の火蓋が切られる。
6月19日、マリアナ沖海戦に参加。午前3時30分、水上偵察機が索敵のため飛翔。これを皮切りに次々と索敵機が発進していく。第4戦隊は、前衛を務める第3航空戦隊の護衛についた。敵機動部隊が日本艦隊を発見していない事もあり、戦闘は生起しなかった。西方の空から、航空機の編隊が接近した。大鳳を旗艦とする本隊から発進してきた味方の航空隊なのだが、駆逐艦が誤って対空砲火を上げてしまう。それにつられて周りの艦艇も対空砲火を上げ、同士討ちをしてしまう一幕があった。唯一友軍機だと理解していた戦艦武蔵から「友軍機を射撃するは遺憾なり」との電信が送られてきたが、「友軍機にあらず、すみやかに砲撃を開始せよ」という返信が返ってきた。味方機はバンク(翼を振り、味方だと知らせる行為)をし同士討ちは収まったが、撃たれた側は激怒していた。誤射をしなかったのは戦艦武蔵だけだと言われている。一方、本隊では敵潜の跳梁により虎の子の翔鶴と旗艦大鳳を喪失する。大鳳沈没の報は、乗員一同に落胆をもたらした。午後2時頃、大破炎上している大鳳の横を通る。立ち上る黒煙、左に大きく傾いた船体、誰が見ても助からない状況だった。後甲板に集まっていた大鳳乗員が摩耶に向かって手を振っているのが見えた。すると突然大鳳が傾斜を深め、集まっていた乗員が振り落とされる。あっという間の出来事だった。旗艦を瑞鶴に移し、一度西方に退却した小沢艦隊だったが、栗田中将率いる第2艦隊に夜戦を命じる。このため摩耶は戦艦や愛宕等とともに進撃を始めたが、無謀だとして本国から夜戦中止を下令された。23時57分、連合艦隊より戦力の整頓のため西方に退避、損傷艦は内地及び訓練地に回航するよう命じられる。
6月20日午前4時、米機動部隊が潜んでいるであろう東方海域の索敵を開始。午前7時、第1、第2補給部隊と会同し燃料補給を受ける。ところが午後3時5分、傍受した敵の通信によると既に小沢艦隊は発見されている事が判明。補給艦艇に対し、速やかに西方へ退避するよう命じる。摩耶に搭載された対空電探は驚くべき高性能を発揮し、200km離れた場所から敵機の襲来を探知していた。その甲斐あってか、小沢艦隊の上空には75機の零戦が待機。16時、敵哨戒機に発見され、いよいよ米機動部隊の逆襲が始まる。16時15分、摩耶艦載の2号機が敵機動部隊発見の報を出す。艦載機が敵発見の誉れを得た事で、艦内に活気が戻ってきた。17時、東方から216機の敵機が襲来。残存艦艇が対空戦闘を始める。零戦が迎撃に向かったが、多勢に無勢で23機が撃墜されてしまった。摩耶は千代田を守る輪形陣に加わり、戦艦金剛、榛名、駆逐艦朝霜等とともに無数の敵機を迎え撃つ。空母に攻撃が集中したが、摩耶にも50機以上の敵機が襲い掛かる。摩耶の対空砲は間断なく放たれ、主砲斉射の振動が艦を揺らす。榛名が巨大な水柱に隠された事で「榛名轟沈」と思われたが、崩れた水柱の中から榛名が出てきたため安堵した。F6Fやドーントレスの襲撃により艦隊は回避運動を強いられ、母艦に帰投寸前だった友軍機は着艦の機会を逃す。そして燃料切れで1機、また1機と不時着水していく。上空には敵機と友軍機が入り乱れ、思うように対空砲火が撃てない状況が続く。17時30分、2機のドーントレスが矢のように降下してきた。対空砲を撃ちまくるが、敵は投弾。「面舵一杯!」と大江艦長が叫ぶ。摩耶は船体をよじり、爆弾は左舷30mに着弾。後続の敵機も投弾し、右舷側すれすれのところを通って海中に没した。至近弾である。海中で爆発した爆弾の破片が四散して、艦内数ヶ所を貫通した。舷側バルジに浸水し、2度傾斜。一連の攻撃で乗員16名が死亡、40名が負傷した。左舷には無数の小破孔が生じていたという。右連管室に火災が発生し、大江艦長の指示により魚雷8本が投棄された。乗組員の努力で消火に成功。佐藤太郎氏著書「戦艦武蔵」によると後甲板に被害が生じていたとの事。わずか15分程度の戦闘だったが、日本側は飛鷹を喪失する。
敵の空襲を退けた後、小沢艦隊は生き残った空母や艦艇を率いて反撃に転じた。夜間雷撃のため空母から天山が飛び立ち、水上艦艇には夜戦が命じられた。水偵が発進し、明朝の会敵を狙って突進。しかし先発した雷撃隊が敵を発見できず。機動部隊の航空兵力も少なく援護を期待出来ない事から、21時5分に作戦中止。豊田大将から、あ号作戦そのものの中止を命じられ、反転。退却を開始した。マリアナ決戦に敗れた日本艦隊は翔鶴、大鳳、飛鷹と航空機300機以上、そして母艦搭乗員の78%を失う大損害を受けて沖縄へ遁走。空襲に巻き込まれた給油艦2隻を自沈処分させられるおまけ付きである。一方、アメリカ軍は20機が撃墜。着艦失敗や燃料切れで80機を喪失した。乾坤一擲のあ号作戦が失敗に終わり、艦橋では沈痛な空気が流れた。言葉を発する者はおらず、静まり返っていた。敵空母は1隻も沈められず、こちらは大型空母3隻を喪失。決戦兵力を失ったばかりか、西太平洋の制空権さえ失ってしまった。大江艦長は何も言わず、直立不動のまま外を見つめていた。
6月22日13時に沖縄の中城湾へ仮泊。救助された翔鶴の生存者は摩耶へ移乗した。翌23日に出港し、宿毛湾から出港してきた駆逐艦岸波・沖波と合流。護衛されながら6月25日に横須賀へ入港する。あ号作戦部隊の任務を解かれ、敗北の事実は伏せられた。マリアナ沖海戦の教訓により対空兵装の更なる強化を受ける。25mm機銃を21基に増やし、13号電探が追加された。これに伴って要員も増やされ、最終的に1071名となった。同時に、船体に対する浮力維持や防火対策も施された。至近弾片によって破損した左舷バルジを修理するついでにペンキやリノリウムが剥がされ、カーテンやソファーなどの引火しやすい不急品は陸揚げされた。中甲板や下甲板などの隔壁は、やむを得ないものを除いて全て閉鎖され、防水区画を貫いているパイプは目潰しされた。勢いを増したアメリカ軍は硫黄島への攻撃を強め、空襲や艦砲射撃が増えてきた。7月3日に空襲があり、と翌4日には巡洋艦隊による艦砲射撃が行われた。大本営は硫黄島への攻略企図があると判断し、第2艦隊の艦艇に敵巡洋艦隊を撃破するよう命令。摩耶への工事も一旦中止され、燃料を満載して待機。ところが、これ以降アメリカ軍の攻撃は無かった。索敵機を飛ばしてみるも発見できず。予想された小笠原諸島への空襲も無かったため、危機は去った。出撃準備は7月5日に解除され、燃料豊富なリンガ泊地で訓練を行うよう下令した。
7月8日、大海指第421号にて連合艦隊司令長官に陸軍部隊(第28師団の歩兵三個大隊、砲兵一個大隊、速射砲一個大隊、高射砲一個大隊、工兵の一部)の輸送が命じられた。呂号輸送作戦と呼称された任務は第11水雷戦隊主導で行われ、機動部隊からは摩耶と駆逐艦2隻が、呉鎮守府からは練習巡洋艦鹿島が応援として増派された。7月12日、出渠。第二艦隊は捷作戦を予測して戦備を整え、南方へ向かう事になった。内地では訓練用の重油すら事欠く始末であり、燃料が豊富な南方に進出した方が都合が良かった。駆逐艦朝雲とともに横須賀を出港し、呉を経由して14日に門司へ到着。現地で長良や練習巡洋艦鹿島、駆逐艦竹、浦風、冬月、清霜と合流した。門司にて宮古島・石垣島方面の防衛を担当する第28師団兵員を積載し、中津錨地に集結。摩耶は浦風、朝雲とともに第二輸送隊を結成し、翌15日に仮泊地を出発。7月16日未明に豊後水道を通過し、7月17日夕刻に中城湾へ到着した。ここで輸送部隊は各々の目的地に向かって離散。翌18日午前4時、駆逐艦2隻を引き連れて中城湾を出港。午前10時30分、宮古島に到着し、物資と人員を揚陸。輸送任務を完了させた。その後は原隊復帰のため南下し、7月20日17時にマニラへ入港した。7月29日にシンガポールへ入港。間もなくリンガに回航された。
リンガ到着後は、血の滲むような猛特訓が行われた。水雷戦術のベテランで、勇猛果敢な大江賢治艦長は敵輸送船団の泊地へ殴りこむ事を想定し、連日連夜、訓練の陣頭指揮を執った。全ては捷作戦のため栗田健男中将の下、艦隊の対空砲戦訓練、対潜警戒訓練、電測射撃訓練、夜間水上戦闘訓練、泊地突入訓練、魚雷戦訓練等が灼熱の洋上で行われた。日常的に暴力が横行し、自殺者が出るような過酷な訓練や環境だったと伝わる。いかんせん今回は航空機の支援を得られないとして、全滅もありうる戦況だった。だが、その事が乗組員の戦意を奮い立たせた。乗組員の唯一の楽しみは、夜間訓練が終わった後の休憩であった。井上団平航海長は士官室で冷たいビールを飲み、ある者は将棋をさしたり、あるグループはトランプを楽しんだりと思い思いに過ごした。断片的ながら敵情も入っており、決戦の日は近づきつつあった。8月1日、第2艦隊は第1遊撃部隊に改名。しかしながら南洋のうだるような暑さは乗員を苦しめた。新しい変化を求めて、早く作戦が始まって欲しいと願う者もいた。士気の低下を恐れた第2艦隊は慰労のため、相撲大会や短艇競技を計画したり、巡回映画の派遣や演芸大会が催された。8月下旬、摩耶の後甲板が映画館になった。艦尾に設けられた即席のスクリーン前に、乗員が集まる。高峰秀子主演の「秀子の応援団長」と「一本刀土俵入り」が上映された。しかし途中で降り出した雨によりフィルムが切れてしまった。それでも上映会が終わってしばらくの間は女優秀子の話題が尽きなかったのだという。士官から水兵に至るまで、彼女は愛されていた。演芸大会も大変賑わった。各分隊ごとに優劣を競ったが、一番人気だったのは女性が登場する新派悲劇であった。橋本清兵曹主演の12分隊が第1位の栄誉を掴んだ。
9月2日、特設運送船北上丸より生鮮食品の補給を受ける。9月4日、摩耶の乗員の橋口寛大尉が第一特別基地隊大迫基地へ転属する。9月上旬、6日間のみだが休養のためセレター軍港に回航。乗組員はジョホールの街に上陸して休暇を楽しんだ。9月15日、北上丸から食糧品の補給を受ける。9月24日にも北上丸から食糧品の補給を受けている。10月上旬、再びセレター軍港に入港し、最後の上陸をした。
10月16日、連合艦隊司令部より「敵は比島中部方面に来攻の算大なり。栗田第一遊撃部隊は即時出動準備を完了せよ」との電文が入った。翌17日、レイテ湾スルアン島の海軍見張所から「敵艦発見」の緊急電が飛んだ。いよいよアメリカ軍のフィリピン奪還が始まったのだ。午前8時10分、リンガ泊地で訓練していた栗田健男中将指揮下の第1遊撃部隊は、「速やかにブルネイに進出すべし」との命令電を受ける。このため10月18日午前1時に出港。前進拠点のブルネイへと急いだ。昼間速力は18ノットに定め、対潜哨戒を厳重にしながら突き進んだ。航行中、出港前の旗艦愛宕で開かれた砲術長会議に参加した菊田砲術長が会議の内容を詳しく伝えた。ナトゥナ群島沖を通過した時、捷一号作戦が発令される。航海中にも戦況は変わり、翌19日には敵マッカーサーが率いる陸軍が上陸し橋頭堡を築く。道中で2回対潜警報が出されたが、攻撃は無かった。
10月20日午後12時15分、ブルネイ入港。燃料補給が行われるはずだったが、タラカンを出発した船団が米潜水艦の襲撃を受け、被害こそ無かったが到着が遅れていた。このため先行する形で戦艦が駆逐艦や巡洋艦に燃料補給をする事になった。その日の晩、戦艦大和が横付けし燃料補給が始まる。摩耶の甲板士官だった東郷良一少尉が両手一杯にビールを担ぎ、「クラス会だ!」と叫びながら大和へ乗り込んでいったという。酒盛りしながら夜遅くまで語り合った。第2艦隊司令部と連合艦隊司令部は協議し、レイテ突入計画を策定したが、最も苦慮したのが進撃路の選定だった。ブルネイからレイテ湾までの航路は四通りあり、どれも一長一短で安全なものは無かった。10月21日、給油艦入港に伴って補給作業が始まる。給油艦、大和、摩耶、浜風の順に横一列となり、順次燃料補給が開始された。摩耶の横には駆逐艦朝雲が横付けし、重油を補給。旗艦愛宕に各指揮官が参集し、作戦前の最後の打ち合わせを行う。レイテ湾の敵船団を撃滅するため部隊を編成し、摩耶は戦艦大和や武蔵が伍する主力隊(栗田艦隊)に編入された。摩耶では慌しく出港及び戦闘準備が行われた。艦橋や重要戦闘配置は釣り床で覆われ、前後部マストのフラッピングも同様に施された。ランチや内火艇は収容されてロープで固定された。21時、「酒保開け」が下り、各配置ごとに摩耶神社に詣でてから各所で酒宴が開かれた。午後遅く、大江艦長が帰艦。レイテ湾への突入は25日午前0時とし、ブルネイ出撃は22日午前8時と定まった。艦内の喧騒も収まった深夜、大江艦長は水雷長の宇都宮大尉を呼び止めてシンミリと語りかけた。「明日出撃したら生きては帰れないよ。何しろ飛行機の掩護が無いんだから。」「私なんぞは子供も死んでしまったし、いまさら生きる望みも無いんだよ。(大江艦長の息子は名取に乗り組んでいたが撃沈され生死不明となっていた)」と呟いた。今度こそ摩耶はダメかもしれない。口にこそ出さなかったが、乗組員も薄々そう思っていた。
10月22日午前5時、全艦艇の燃料補給が完了。補給した重油量は1万5000トンだった。8時、栗田艦隊はブルネイを出港。在泊艦艇がこれを見送った。摩耶は、先頭を進む第2水雷戦隊の後ろを続航する。出港直後にスコールに見舞われたが、すぐに海は静穏になった。天候は晴れ。栗田艦隊は18ノットに増速。午前10時3分、アベノロック北方を通過。午後12時45分、針路を15度に変えてパラワン水道入り口に向かった。レイテ湾を目指す栗田艦隊の前途は多難だった。第一に敵潜水艦、第二に空襲、第三に敵水上艦艇。3つの関門が、不動の山のように鎮座していたのである。まず最初に立ちはだかるのは敵潜水艦が跋扈する海。なるべく高速で魔の海域を突破したかったが、これでは燃料が持たない。そこで昼間は18~20ノット、夜間は16~18ノットの速力で突破を図る。出港直後から対潜警報が何度も出され、乗員の心身は疲労していった。連合艦隊長官から「敵潜水艦に対し警戒を厳にされたし」と電報が届いた。傍受した敵潜水艦のやり取りから察するに、かなりの数が潜んでいてるようだった。各艦の見張り員は食い入るように海面を睨み、14時31分には能代が、15時35分には高雄が潜望鏡の発見を報じたが、いずれも流木であった。17時52分、前路哨戒の九六式陸攻が敵潜発見を通報したが、これも誤報であった。精神的負担は重なるばかり。21時、軽巡矢矧が魚雷音らしきものを探知し、赤色信号銃を発射。艦隊は緊急斉動で左に回避運動を取ったが、結局矢矧の虚探知と判断された。23時、栗田艦隊は之字運動を中止。速力を16ノットに定めた。既に敵の哨戒圏に入っており、対空警戒もしなければならなかった。日付が変わった頃、艦隊はパラワン水道に差し掛かった。パラワン水道を北上してシブヤン海に入り、サンベルナルジノ海峡を通過。25日にレイテ湾へ到達する予定だった。
10月23日早朝、栗田艦隊は予定通りパラワン水道を北上していた。日の出直前でまだ海は薄闇に包まれていた。前方には、米潜水艦2隻が息を潜めて待ち伏せていた。午前5時20分、愛宕より全部隊宛に「作戦緊急発信中の敵潜水艦の感度極めて大」と警告を発する。10分後、栗田艦隊は18ノットに増速。之字運動A法を行った。早朝訓練終了直後の午前6時33分、米潜ダーターが6本の魚雷を発射、旗艦愛宕の右舷に4本が命中して撃沈される。高雄には2本が命中し、大破落伍。艦隊は混乱に陥る。そして摩耶にも魔手が迫った。ダーターと共同で襲撃していたデースは、重巡2隻と金剛級戦艦1隻を認めた。大物を狙おうとしたデースは妙高と羽黒を無視し、金剛級戦艦に照準を定めた。その戦艦こそ、摩耶だったのである。艦橋の大きさから戦艦と誤認されたようだ。皮肉な事に、改装で力強い姿になった事が命運を尽きさせてしまった。異説として愛宕が雷撃された際に艦隊が一斉回頭したが、その時に運悪く魚雷の射線上に入ってしまった(つまり流れ弾に当たった)とするものがある。
愛宕が被雷した事で、摩耶艦内は慌しくなった。「配置に就け」を意味するラッパが吹かれた後、危険を知らせるブザーが鳴り響いた。軍医長が血相を変えて士官室に飛び込み、「愛宕がやられた!戦闘だ!」と仮眠を取っていた主計長を叩き起こす。士官室は戦闘時には治療所となる。これを聞いて、主計長は戦闘配置の艦橋へと向かっていった。既に艦内封鎖が行われ、艦橋の各階へのラッタルの出口は全てハッチが下ろされている。ハッチ中央にくり抜かれたマンホールを通り、昇っていく。上から降りて来る者、下から上がってくる者が押し合いへし合いになる。左舷には、高雄と愛宕の姿が見える。艦内スピーカーから「各員交替で、戦闘服装に着替え」という声が聞こえてくる。東郷良一少尉は戦闘配置の号令を聞くと、すぐにラッタルを駆け下りていった。これが彼の最期の姿だった。水中聴音室から緊急ブザーが響いた。「右前方に怪しき音源」「左40度、雷跡!」およそ、1400mの地点から魚雷が飛んできた。昨晩から敵潜水艦に追跡されている事は分かっていた。しかし敵の静穏技術は想像以上だった。先に被雷した愛宕の水中聴音器に反応は無く、見張り員がゴポッと吹き上がる気泡を1回見ただけで、後は何の証拠も予備動作も見せなかった。海上は凪いでいたにも関わらず発見できなかったのだ。
午前6時57分、デースから4本の魚雷が放たれ、真っ直ぐに伸びてきた。艦長の大江賢治大佐は「面舵一杯」を下令。そばに立つ航海長井上団平中佐は左舷前方から来る雷跡を見て、艦を右へ旋回させると艦の左舷側に直角で命中する(つまり当たり判定が増える)と判断し、「戻せ!取り舵一杯!両舷機関前進一杯!」と下令。副長は、次に起こりうる損傷を想定して「防水」を令した。左舷測的所では「向かってくる、近い!近い!」と宮野兵曹が絶叫。気泡の先端から約500m、摩耶は未だ回頭しない。艦首に直撃する寸前にようやく動き始めたが、全てが遅かった。それぞれ錨鎖庫、一番砲塔、第七缶室、後部機関室に直撃。轟音とともに黒煙が噴き出し、大火災に見舞われる。護衛の駆逐艦や全速で対潜掃討を行うが、戦果不明。突然の出来事に、艦長は呆然と直立。艦は左に傾き、騒然となる。「消火!」「右舷注水!」「注水指揮所はどうしたか!?」「総員、右舷に寄れ!」「一番弾庫注水」「お写真下ろせ!」と命令と怒号が飛び交う。構造上の問題もあり左舷への傾斜を深めていく。やがて火薬庫に引火し、ぐんぐんと海中へと引きずり込まれる。訓練の成果か、非常時の中にあってもテキパキと乗員は動いた。2本の煙突からは黒煙が噴き出し、汽笛が狂ったように鳴り響いている。飛行機用のガソリンに引火し、炎の壁が甲板上を嘗め尽くす。狭い通路は人で埋め尽くされ、傾斜も手伝って飛行甲板にも行けない。副長から「傾斜復旧の見込みはありません」と報告を受ける。頷いた大江艦長は「この戦いは終わった。ただいまから天皇陛下の万歳を三唱する」と呟き、旗甲板に出て、絞るような声で「天皇陛下万歳」と両手を高く上げた。「摩耶もいよいよか」。そう判断した乗組員たちは、つられるように万歳三唱と君が代の斉唱を行った。
もはやこれまでと判断した大江艦長が「総員退艦」を命じるが、この時には既に艦橋にまで海水が浸入していた。副長が「総員上がれ!」「総員退去!」と怒鳴る。主計長は、総員名簿を持った主計兵曹と一緒に脱出。艦の傾斜はより深くなり、乗組員は右へ右へと押し戻される。甲板はもう立ってられないほどだった。壁が床になり、床が壁になる。摩耶は既に転覆しかけていた。右舷の水線下が露わになり、赤い船腹を見せている。よく見るとフジツボのような貝殻が付着している。艦橋を見渡すと、井上航海長と大江艦長しか残っていない。井上航海長は艦長に脱出を促した後、靴を捨てて艦橋から脱出。海面を泳ぎ、艦から離れた。摩耶の勇姿を称え、彼は「軍艦摩耶万歳!」を三唱した。まるで断末魔のように艦尾を空高く上げ、突き出たスクリューがゆっくりと回っていた。艦首を海中に突っ込み、逆立ちするような格好になっていく。海へ飛び込んだ生存者は、艦が沈没する際に発生する渦潮に巻き込まれないよう必死に離れた。艦橋上部だけがしばらく浮いていたが、ついに海中に没する。沈む寸前まで、スクリューが回っていたという。被雷からわずか8分で沈没してしまった。片桐大自氏著書「聯合艦隊軍艦銘銘伝」によると4分とされる。大江艦長、永井副長、高城機関長など総勢336名が戦死した。沈没が早かったため、機関科や機械室の要員は先ず助からなかった。快男子だった東郷良一少尉も戦死。魚雷の直撃に巻き込まれ、即死したと言われている。摩耶の生存者が海面に投げ出されていたため、爆雷攻撃が上手く出来なかった。
菊池征男氏著書の「帝国海軍戦艦大全」によると、稲妻のような閃光が前方に迸った後、戦艦武蔵の防空指揮所から摩耶がポッキリ折れるのが見えたという。艦首と艦尾を空へ突き出した後、艦内に誘爆が発生。轟音とともに沈んでいった。軍艦旗を降ろす暇さえ無かった。敵潜水艦の襲撃もあり、生存者は約3時間ほど漂流を強いられた。幸いな事に、気温が高かったため絶命する者は少なかった。サメは自分より大きな生き物を襲わないという事で、着ている物を全部脱いだ上で足首にフンドシを巻いた生存者もいる。午前9時、生存者726名は駆逐艦秋霜に救助された。体中が重油まみれになっていたので、ぬるぬると滑って中々這い上がれなかったという。その後の15時45分、戦艦武蔵に移乗する。各々突然の出来事に、乗艦の沈没が理解できない様子だった。その後の対空戦闘に備え、武蔵乗員とともに配置に就いた。戦闘の際、武蔵の乗員に負傷者が出た時には交代要員として奮闘した。ところが武蔵は後のシブヤン海海戦で撃沈され、117名が死亡。--集中攻撃を浴び、命中弾多数を受けた武蔵は傾斜が酷くなりつつあった。沈没は不可避と考えた猪口敏平少将は、摩耶の生存者を巻き込むまいと司令部に駆逐艦への移乗を懇願。すると大型駆逐艦の島風が差し向けられた。10月24日18時30分、砲術長以下605名は駆逐艦島風に移乗。島風でも配置に就いた(そのうち5名が戦傷で亡くなった)。
1944年12月20日、除籍。摩耶、愛宕、鳥海の3隻は撃沈され、生き残った高雄も第5戦隊に転属した事から伝統を誇った第4艦隊は解隊された。戦後の1984年10月23日、生き残った永末英一元主計長等が摩耶山天上寺に軍艦摩耶之碑を建立した。また名古屋市に軍艦摩耶会が存在している。ちなみに永末元主計長は潮書房光人社出版の「重巡十八隻」にて、「重巡摩耶で体験した総員退艦せよ」という題名で自身の体験談を綴っている。
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最終更新:2025/12/08(月) 09:00
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