摩耶(重巡洋艦) 単語


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マヤ

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摩耶(重巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造した高雄重巡洋艦3番艦である。1936年6月30日工。大東亜戦争では緒戦の南方作戦に参加して石炭シグリーを拿捕、駆逐艦ストロングホールドを協同撃沈し、機動掃海艇MMS-51を撃沈。2回のヘンダーソン飛行場撃に参加した他、アッツ島戦では優勢な敵艦隊を退けて団を守りきった。1944年10月23日、パラワンで敵潜の雷撃を受けて沈没

概要

大日本帝國海軍が建造した、高雄重巡洋艦3番艦。艦名の由来は、兵庫県神戸市区等にまたがる六甲山系中央部に位置する、崗岩からなる摩耶山から取られている。建艦を担当した造所が神戸という事もあり、縁が深い摩耶と命名された。初代摩耶(砲艦)も同様の理由で命名されている。「闘 重巡摩耶」(池田清氏著書)によると海軍側は「味方の補助部隊の掩護推進、敵補助部隊の撃退、独立して偵察捜索の幹になるものであるからの同艦種とし、1万トンを標準とする。運動力は33ノット以上、航続距離は14ノットで8000浬以上とする。防御力は20cm弾に対しては間接防御をとし、15cm弾に対しては直接間接防御となす。攻撃力は20cm10門、魚雷61cm片舷四射線を上甲に装備、対射撃を装備する。航空機は3機搭載」の要をした。

世界恐慌倒産しかけていた川崎を救済するため、大蔵省から3000万円の特別融資を受けた上で建造に着手。高雄藤本喜久雄造大佐によって設計された重巡洋艦。単なる妙高級の改良だけに留まらず、全艦に時での艦隊旗艦機施設を持つ。これは仮想敵アメリカの侵攻を確認した時、戦隊巡洋艦部隊揮し夜戦を以って撃破するためである。また用兵側の意見も聞き、揮装置や兵器を充分に取り入れた。艦に必要設備を次々に投入した結果、他にはい独特なデザインと化し、識別を容易なものにしている。艦は全部で10層に分かれている。ワシントン海軍軍縮条約戦艦の建造に制限が掛けられたため、重巡洋艦に期待されてこのような役割を持たされた。しかし前級の妙高べて約3倍もの大きさになってしまい、実戦では不利と非難された。故に高雄愛宕は後の近代化改修で改められた。一方、摩耶1941年に改修する予定だったが開戦によって機会を逃してしまっている。

航空機の発達を見越し、高雄にはE架が採用された。仰70度まで設定可だったが、何故か摩耶だけ55度までしか上がらなかった。一説によると、仰を上げても対空砲として使用するには現実的ではないと判断され、従来どおりの55度に設定されたとされる。E架は対射撃を重視し、対弾の揚弾筒を独立して設置。対艦戦闘と対戦闘の切り替えを速やかに行なえるように考慮されていた。弾は91式徹甲弾を使用。標的艦として戦艦土佐を沈めた時に得たデータにより開発された軍機兵器であった。高雄では、魚雷発射管が上甲に配置されている。従来の巡洋艦は艦内に配置されていたが、被弾の際に艦内へ被害が及ぶとして試験的に艦外へ配置したのだった。加えて次発装填装置を搭載し、前級の妙高べると魚雷発射管の門数は減少したが、同じ時間内で発射できる魚雷の本数は増加した。魚雷発射管を艦外に配置する試みは成功し、後の改装で多くの巡洋艦が改められている。泣き所である弾薬庫を守るため、防御力の強化を実施。妙高より1インチ分厚い、5インチを使用。弾薬庫の舷側防御に充てた。一番から五番までの距離を1m縮めており、浮いた重量を弾薬庫の防御に回したのである。建造中に艦政本部や軍部からの追加要と設計変更を受けたため、艦内は狭く入り組んでいたと伝わる。

排水量9850トン、全長203.76m、出力13万馬力、最大速力35.5ノット。高雄摩耶で建造された形跡がく、民間日本製鉄所が1931年に新造したを充当したのではないかと考えられている。摩耶は、スペック上は対戦闘が可とされた。しかし昭和12年(1937年)に砲術士として乗艦していた男氏は、「摩耶砲術士として勤務したころ、による対射撃訓練が行なわれたことはなく、その後も戦闘射撃訓練を実施した話は聞かない」と言しており対用に用いられた事はかったと思われる。

艦歴

建造まで

1927年度計画で、一等巡洋艦として建造が決定。第11甲級巡洋艦の仮称が与えられた。ところが当時は軍縮条約下にあり、また政府の財政難から建造は非常にゆっくりとしたものだったという。1928年9月11日軍艦摩耶と命名。同時に摩耶用の甲製造の訓海軍に下り、8月末に完成した。12月4日神戸市川崎所艦工場にて起工。4、5枚の薄い鋼材が第四台中央に並べられ、神主台祓いの祝詞を唱えた。その後、摩耶に第一鋲が打たれた。神戸所の鹿島太郎社長は、岡田啓介海軍大臣に「軍艦摩耶9時30分に事起工しました」と電報を打った。1929年5月25日八幡製鉄所が製作した摩耶向けのD鋼材と英国製鋼材を呉鎮守府経由で川崎所に交付。工事は着々と進み、頃にはらしい姿になっていた。来る日も来る日もクレーンの駆動音、をつんざくドリルや打鋲の音が渠内にき渡る。殻担当の森本猛夫造工作部員は、打ち込んだリベットチェックし、密性の確認を丹念に行った。海軍からは引き渡し日の厳守を言われており、荒の日であっても森本担当員は台に赴いた。隣の台では摩耶用のや艦などが組み立てられていた。工員たちは残業をしたが、当時は不景気だった事もあり喜んで作業に従事。会社側は渋い顔をしたが、進日は近づいていった。

1930年8月に入ると、摩耶体は8割方出来上がった。完成図とは異なるところをマーキングしては、図を書き直していく。艦内を縦横に走り回っている配線やパイプ、電線を1本1本確認するのはが折れる作業だったという。8月13日からは機関の積み込みが始まり、艦本ロ号がカントリークレーンにるされて運ばれる。全ての積み込みには三週間を要した。進直前の11月初旬、工員に概念くなった。ささいなミスでも見逃さぬよう、底的な確認が行われた。進水式満潮に合わせるため、11月7日の晩は徹夜となった。作業が終わったのはみ始めた頃だった。

1930年11月8日進水式を迎える。曇天神戸港満潮が近かった。第四台の門は既に開かれ、その周囲を多くの人々が囲んでいる。満潮になる午前8時30分に合わせて進するのである。3万人の群集は、今か今かと進間を待ちわびている。摩耶艦首側には簡便な式場が設けられ、野村三郎呉鎮守府長官、永艦政本部第三部長高雄守雄兵庫県知事、井出謙次大将など重鎮クラスの人物が列席。進10分前、呉鎮守府から派遣されてきた軍楽隊が君が代演奏。続いて伏見殿下が登壇。野村相代理が封書を開け、進書を読み上げる。「軍艦摩耶昭和三年十二月四日その工を起し、今やその成るを告ぐ、ここに進せしむ。」読み終わると同時に進合図が飛び、静まり返った会場で盤木が外された。川崎所の鹿島太郎社長銀色を取り、支綱を切断。1万トン級の巨体はするすると滑り出し、軍楽隊が「軍艦行進曲」を奏で始めた。艦首シャンパンやくす玉を割りながら、しぶきを上げてに乗り出す。そして慣性に従って前へ進み続け、造所の合い約600mほどで停止した。摩耶体に乗っていた工員たちは艦底が浸していないかどうかの確認作業に入った。こうして、摩耶は産を上げたのだった。

1931年1月中旬、機械や補機の取り付け工事が始まった。作業は丸々三ヶを要した。世の中は回復の兆しが見えぬ不景気、更に4月から始まった軍縮により解雇が吹き荒れた。川崎所でも3161名が解雇され、工事の進捗に支障が出始めた。川崎重工自体経営が傾いていて、退職金が支払われないなどの理由で元工員との不和が生まれていた。何がともあれ、晩の頃には艦が出来上がりつつあった。前後のマストも取り付けられ、軍艦らしい貌が見え隠れする。格納庫方位盤、用予備射撃揮所も次いで搭載。重量軽減のため一部に電気溶接技術が投入された。しかし川崎重工には専門の溶接工が7、8名しかおらず技術も未熟であった事から殻への使用は厳禁された。1932年1月28日、五番が搭載され装工事は了。最終調整のためへ回航する事になり、3月2日摩耶は生まれ育った神戸所を出港。機械の運転状況を確かめながら紀淡峡を通過四国を通って豊後に入り、に入渠した。乗り込んできた職工により未了の工事が進められ、25日間の入渠期間を経て出渠した。その姿は軍艦としても遜色ない力強いものだった。データを取るため、出渠から二週間以内に全力試を行う予定となっていた。作戦に参加している前提として燃料、食糧、を満載の三分の一にし、4月上旬から伊予試開始。約1ヶ試の末、良好な結果を残した。5月13日試験を全て終えた摩耶は豊後を通ってへと帰投した。5月15日クーデターによって首相官邸で犬養首相が射殺される五・十五事件が発生。その摩耶の艦内では是非を巡って議論が行われて騒然となった。委員長森本大佐は士官全員を艦長室に招き、一人一人諭した。工直前の1936年6月7日摩耶用の飛行機射出機と予備推進器を積載した特務艦青島を出発。翌8日、造所まで送り届けられた。

そして1936年6月30日工を果たした。午前9時、一番前で引渡し式が行われた。鹿島社長は「軍艦摩耶工事了につき引渡し」と宣言し、森本大佐は「軍艦摩耶受領」と明快に返した。式典は終わり、摩耶軍艦旗が掲げられた。乗組員は後甲集合し、君が代演奏を以って海軍籍に入籍と相成った。すぐさま出港準備がなされ、摩耶は北を離れた。港外で左回頭し、港となる横須賀に向けて回航。横須賀鎮守府予備艦となった。力強く音を立てて摩耶を見送った関係者たち。次の仕事熊野の建造であった。

竣工後

1932年7月5日伊勢神宮から分霊を受けて艦内神社とする。よく勘違いされるが、兵庫県神戸市摩耶上寺ではない。ただ、乗組員との交流はあった模様。参詣に訪れた乗組員が御守りを購入し、艦内の神棚にったエピソードが残されている。上寺からは「摩耶山遠望」という作品が入った額縁が贈られている。ちなみに進時には艦名と縁のある神社かったため、伊勢神宮天照大神る事になった。艦内新聞として「摩耶新聞」が刊行されていた。9月27日東京湾外で開戦技を実施。12月1日姉妹艦の高雄愛宕鳥海とともに第2艦隊第4戦隊へ編入。

1933年2月9日、第4戦隊は第2艦隊とともに別府湾へ入港。総勢29隻が停泊し、兵たちが半舷上陸。町はこれを歓迎し、「無敵艦隊大歓迎」という立て看板が用意された。カフェ旅館遊郭バー兵を優先的に招き、もてなした。数多くの兵が膨大な金額を落としていったので、経済効果は絶大だったそうな。2月13日横須賀にて艦防煙装置を新設。3月3日昭和三陸地震が発生し北海道東北地方が被災した。摩耶の乗員は義捐金を集め、被災地に送っている。6月5日、2名の見学者飛行機射出機を見て回った。7月5日、初めて外洋に進出しへ入港。第四戦隊戦艦陸奥率いる軍に所属し、トラック付近で長門率いる赤軍と特別大演習を実施した。8月18日木更津に帰投。そのまま横須賀へ回航され、8月26日横浜で行われた特別大演習観艦式に参列。昭和天皇が乗艦する比叡の供奉艦となり、他の姉妹艦とともに単縦を編成。摩耶は最後尾についた。観艦式は前例がく、食事には特に注意が払われた。ちなみに観艦式に参加したのは今回のみである。9月12日横須賀に入渠。10月、のちに真珠湾攻撃の総隊長を務める淵田美雄大尉(当時)が分隊長として配属される。約1年間乗務した後、館山航空隊に異動した。10月25日からは機関部の改造工事に着手する。

1934年2月2日、出渠。4月1日戦艦扶桑魚雷装備止に伴って有田雄三雷長が摩耶へ転属となった。5月12日に再び横須賀に入渠し、補助タンク防熱装置の新設を行っている。6月4日、応急揮所から注排揮所に至る伝管を新設。8月5日摩耶艦長の小沢三郎大佐が西神戸市立西第三尋常小学校(のちの摩耶小学校)に来校。軍艦摩耶模型を寄贈した。10月22日から取装置の改造工事を受ける。12月18日合成調理機を撤去し横須賀に保管。代わりに軍需局長から高性調理機を受領。12月2日午前9時15分、半舷上陸が許可されて乗組員は羽を伸ばした。12月8日午前9時32分に防火訓練を行い、午前10時30分にクレーンが右舷中部に横付けされた。12月18日午前0時10分、の中で安方面から上がる火の手を撃。どうやら火災が起きていたようだった。12月20日、工事を了。12月27日午前10時30分、クレーンの横付けを一旦離し、右舷後部に移動させた。

1935年1月12日横須賀で第8、第9電話室防熱処理及び防音装置の新設を行う。鳥海も同様の工事を受けた。続いて3月19日からは速力通信器文字盤の改正工事を受ける。5月10日、宿毛湾に停泊。日本海戦から30周年の節を迎えたという事で、井出元治海軍協会兵庫県副支部長から軍艦旗の奉納を打診されている。6月4日横須賀高雄4隻は前後部予備重タンク吸管を増設。6月27日には、飛行器用線電信儀及び機格納庫を新設。8月、去年贈った模型の返礼として教頭と6年生女生徒2名、母親5名が摩耶を訪問。小沢三郎大佐は総員を甲集合させ、記念品を受け取った。8月1日午前9時30分頃、三重県二見で待機していた陸軍参謀本部の職員が摩耶に便乗。翌2日午後、館山にて退艦した。8月20日、館山沖務中、乗員の及川作一等機関兵のが切断される事故が発生。横須賀鎮守府より軍人傷痍記章が授与された。10月4日演習を終えた連合艦隊品川に停泊。その中には第4戦隊の姿もあった。11月15日、第二予備艦となり横須賀警備戦隊に編入。

1936年2月26日、ニ・二六事件が発生。陸軍青年将校がクーデターを起こし、国会議事堂や警視庁首相官邸といった要所を制圧して都を握。相次いで要人を襲撃し、殺した。この時、摩耶横須賀に停泊していた。横須賀警備戦隊に鎮圧の命が下ったが、摩耶は軍港警備のため停泊し続けていた。7月9日から9月20日にかけて、横須賀で外補強工事を実施。同時に探照灯を新式のものへと換装した。11月30日への給油設備装備を搭載。12月1日、戦列に復帰し第二艦隊第4戦隊に戻った。12月21日に起案された「皇帝戴冠式ニ艦ノ件覚」によると、ジョージ6世の戴冠式には足柄摩耶の参加が予定されていた。諸経費も試算され、88万6000円(当時)が投入される事に。

1937年2月20日、戴冠式参加の計画が決裁されたが参加は足柄1隻に変更された。理由としては足柄英国派遣に向けた人員配置がなされていたが、摩耶未了だった事、官が座乗する旗艦の方が派遣効果大と判断されたからだった。摩耶ヨーロッパ巡航は計画だけに終わってしまった。3月3日横須賀にて高雄4隻は鋳物工場内アセチレンガス発生器格納所位置変更の工事を受ける。3月8日、飛行演習に参加。ところが坂本中尉機が上に墜落する事故が発生。捜索が行われたが、死体の収容には至らず。生存の見込みしと判断され、大尉に進級し正七位六等を、同乗の西澤曹には八等が受勲された。3月27日空母加賀戦艦長門陸奥榛名霧島重巡高雄等とともに寺島を出発。訓練航へと向かった。4月6日有明海へと戻り、訓練を了。6月16日高雄摩耶横須賀にて、兵員居住設備の工事を受ける。摩耶に投じられた予算は計4994円だった。7月18日摩耶足柄高雄那智神通などが神戸港に入港。5日間、一般人の拝観が許可された。これに伴って地元のには事前に見学に関する通知がなされていた。8月4日午前10時佐世保を出港して寺島へ移動。8月8日に行われた飛行演習中に、坂本中尉西澤善治郎二等航空兵曹が搭乗した艦載機中へ墜落。すぐに捜索が行われたが発見できず、行方不明に。翌9日、生存絶望的として両名を進級させる旨の報告書を作成した。8月10日14時寺島を出港。上にある裏長山列へと向かった。19時35分に投錨するが、辺りはに包まれて視界不良に陥っていた。その頃、中国沿では排日活動や武力衝突が日に日に拡大し続けており…。

1937年7月7日事件により北支で日中の武力衝突が生起。これに伴って第4戦隊佐世保へ回航され、警待機。7月28日、在留邦人と権益保護のため北支方面に陸兵を派遣する事が決まり、第2艦隊は輸送任務の支援を担った。8月13日夕刻、第二次上海事変が発生。現地の邦人と4000名の守備隊が、ドイツ製最新鋭武器に身を固めた中国国民党軍3万の攻撃を受けたのである。翌14日18時15分、大海第14号が発せられ、第3艦隊の揮下に入り陸軍部隊上海輸送支援に従事するよう命じられた。裏長山列にいた摩耶は直ちに帰の途につき、8月15日佐世保へ入港。8月17日午前6時21分に出港し、名古屋の熱田へ回航。8月20日摩耶は第2戦隊や第5戦隊とともに、上海行きの第3師団を護衛して熱田を出発。支那方面艦隊長谷川大将中国沿上封鎖を宣言した。護衛任務中、青島方面の情勢が悪化。国民党軍はあらかさまに戦備を強化し、在留邦人を震え上がらせていた。吉田長官は摩耶や第2戦隊、第5戦隊に対し、速やかに大連及び旅順へ向かうよう命8月20日午前0時16分、上海の眼前にあるに到着。神通駆逐艦8隻に便乗の陸兵を託し、8月21日、第5戦隊とともに団から分離。旅順港へと向かった。8月23日摩耶の九五式水上偵察機1機が襲に参加したが、国民党軍の対空砲火により阿部航空兵曹長と沢三曹が戦死。摩耶初の戦死者を出す。同日20時摩耶が所属する第4戦隊隊に編入された。青島では居留民保護のため、領事館によって婦女子全員男子の一部は退去させていた。陸軍部隊の到着を待って8月27日頃を途に攻撃を開始する予定だった。ところが8月24日22時作戦中止の電報が届いた。慰留民の財産を保護するためにも必要な官民は残留させるべきだと判断したからだった。第4戦隊は大連港を拠点とし、9月からで活動。9月11日と翌12日には高雄とともに一時的な団護衛を行った。9月24日、新たな軍隊区分が発され、第4戦隊は北支部隊に部署。9月20日午後、第4戦隊、第5戦隊軽巡神通偵が連の桟倉庫、変電所、駐車場爆撃

11月4日横須賀図室軌跡自画器側から艦図台に至る伝管を増設。12月3日陸奥や特務艦朝日とともに水中切断器の一部を搭載する。設置場所は暫定的に上甲旧補助釜跡とされたが、調のち適宜設置するよう命じられた。12月8日より近代化改修を行い、2基の毘式40mm機を96式13.2mm機2基に換装した。

1938年1月14日横須賀で補助と関連装置の撤去作業を実施。1939年11月15日、特別役務艦となり12月1日からは砲術学校練習艦となる。1940年2月1日練習艦の任を解かれて警備艦に変更。第4ドックで修理を受け、溶接スパークドリルの音が台を支配していた。艦では信号兵が慌しく手旗信号を送っている。5月1日、第4戦隊に復帰。そこから地獄のような訓練が始まった。間は猛訓練、間は甲整列の連続で休まる暇がかった。訓練かい日であっても、には甲整列の号が下った。帝國海軍お決まりの体罰も横行し、新兵が酷いに遭っている。が、7月本田次郎中佐が新副長に着任すると、次第に改善されていった。9月15日三田連合艦隊の第二期訓練が終了。その日は中秋の名月だったため、労いの意味も込めて甲月見の宴が行われた。横須賀に戻ると、乗員には一週間の片舷休暇が与えられた。見学のため、参議院貴族院の議員が摩耶に来訪。見学が終わり、短艇で艦を離れようとした際、手すきの乗員が登舷礼で見送った。その時の白黒写真が残されている。12月中旬、前期訓練のため第四戦隊横須賀を出港。旗艦愛宕を先頭に、高雄摩耶鳥海の順に単縦を組む。観音崎灯台を抜け、太平洋へと進出。愛宕から「が航跡に続け」と旗旒信号が届き、各艦一線となって続航。時折之字運動や隊形変換などの対潜運動を取りながら航行する。洋上で月月火水木金金の猛特訓を実施し、1ヶが経過した。

1941年2月23日沖縄中城湾へ入港。乗組員にとって、実に約2ヶぶりの上陸だった。日帰りの半舷上陸が認められ、久々休暇を楽しんだ。沖縄を出港した第4戦隊は南西方面に舳先を向け、3月3日台湾南端の高雄へ入港した。市民は艦隊を歓迎し、砂糖パイン缶詰バナナ等が沢山配給されたという。第4戦隊はバシー峡を通り、南洋諸島を巡航。3月下旬、紀伊に入り徳島県小松湾に入港。投錨した。数日後、戦技訓練のため出港。四国土佐に出た第4戦隊魚雷演習撃戦演習、対戦闘演習を実施。これを以って年2回の前期・後期の艦隊演習は終了。慰労会が開かれ、乗員の心身を癒した。4月2日から10日にかけて横浜浅野渠で入渠整備。9月2日から9日にかけてで再び整備を受ける。

訓練を経て、11月17日へと入港。てっきり横須賀に帰るものと思っていた乗組員は虚を突かれた。乗員には休暇が出され、艦内では出撃準備が進められた。妙な動きに、乗員の間では「いよいよ戦争か」といった噂が流れ始めていた。戦争の足音が近づく11月25日愛宕等とともに南方部隊に編入。それに伴って柱から佐伯湾へ回航。そして11月29日午前6時に出港。艦隊は南下し、季節は逆戻りしたかのように蒸し暑くなる。12月1日摩耶は徴用2隻を追い越す。の上には数の大発が載せられていたという。的地は未だ知らされていない。12月2日午前8時もやに包まれた到着。既に56隻もの徴用が停泊していた。午後、臨戦準備第二作業が始められ、ボートの固縛、釣床による艦防備、各所で不要な舷窓閉鎖が行われる。それと同時に艦内には異様な緊感が漂い始めた。現地で旗艦足柄率いる第3艦隊部隊隊に編入され、作戦支援と敵艦隊出現時の迎撃任務を帯びる。12月5日午後12時30分、強の中で南方部隊本隊が出港。動き出す旗艦愛宕に帽振れが下され、姉妹艦の出を見送った。続いて高雄金剛榛名も出港。いずこかに向かっていった。12月6日13時鍋島艦長が全乗組員921名を集めて的を明かした。に対して戦争を仕掛ける――。ようやく定まった的に、乗組員一同は使命感と安堵を覚えた。

開戦直前の12月7日19時、暗が垂れ込めるを出港した。先発した陸軍の輸送団に続いて、南下を始める。高橋中将率いる第3艦隊は、フィリピン上封鎖を命じられた。艦内スピーカーから、長門乗艦の山本五十六長官の言葉が流された。「皇発かかりてこの戦にあり。粉骨砕身、各員その任を全うせよ――。」部隊隊は第2急襲隊の西方を航行し、洋上で運命の開戦を迎える事になる。高雄愛宕近代化改装を済ませていたが、摩耶鳥海は済んでいなかった。このため性が低いまま、運命の開戦を迎える事になる。

大東亜戦争

1941年

南方作戦

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。高橋中将率いる隊は重巡摩耶足柄駆逐艦松風朝風水上機母艦2隻の容だった。最初の攻略標は台湾の対に位置するフィリピン北部の港町アパリとビガンで、アパリ飛行場、ラオアッグ飛行場、ビガン飛行場を占領して制権を獲得する狙いがあった。摩耶は先行上陸隊を乗せた団を護衛して進撃、上には第5飛行団が旋回して援護を行ってくれた。同日未明、団は東寄りの航路に変更。荒により視界は5mに減少、速力も7.5ノットしか出せず予定より遅れていた。午後には真珠湾攻撃の戦果と各戦線の戦況が摩耶に飛び込み、戦意を奮い立たせた。第1航空隊の陸攻4機が対潜を実施してくれたが、第四直は荒に阻まれて団を発見できなかった。視界不良不良による遅延を是正すべく、官の原少将は航路の変更を命じた。翌9日14時30分、潜水艦発見の報により「配置に就け」の号が飛ぶが異状し。12月10日アパリの合いに到着し、田中支隊の上陸を支援アメリカ軍機は1機も出現せず、敵軍の反撃もかったものの悪に悩まされた。何事もく進んでいたが、午前7時30分にロスバノスから飛来したカタリナ飛行艇2機が出現。摩耶は32ノットに増速し、足柄とともに対戦闘を実施。右舷の全高が火を噴き、2機を追い払った。14時15分、足柄の右舷が対戦闘を始める。カタリナ飛行艇5機が暗に隠れて接近していたのだ。すかさず摩耶も仰を最大にして迎撃。すると敵機は10発ほどの爆弾が投下してきた。鍋島艦長は「取り一杯!」と叫び、艦が大きく右舷へ傾く。爆弾摩耶足柄の間に次々と落ち、柱を築き上げた。敵機は二群に分かれて逃走していった。その後、零戦の追撃を受けて1機が撃墜された。敵と入れ替わる形でスコールが来襲し、戦闘に終止符が打たれた。爆撃を受けた事を憂慮し、陸軍支援を行っていた隊は北西へ退避。翌11日、華南の碣石湾へ入港。護衛の軽巡駆逐艦に燃料補給を施した後、に出港。入港前、第4戦隊から派遣されてきた第2駆逐隊が港外の対潜掃討を実施し、入港支援をしてくれた。12月14日14時摩耶に帰投した。

12月17日、第二兵力部署が発され、摩耶隊に編入。機甲師団の第14軍力約3万4200名をリンガエン湾に上陸させる重要な支援任務を受け持つ。12月19日18時、抜錨。リンガエン湾に向かう輸送28隻を護衛する。団は3つのグループに分けられ、摩耶はそのうちの1つを護衛していた。12月22日未明、第14軍力のリンガエン湾上陸を支援する。合いには野や山戦車100輌を満載した陸軍の輸送76隻が展開。上陸のために200隻近い上陸用舟艇が用意され、73隻はの特別大発であった。ところが南シナ台風を悪化させており、波が高かった。また輸送団は陸から離れて投錨するよう命じられていたため、上陸が難航。苦労の末、午前5時17分に最初の舟艇群がアグー海岸へ到達。13分後には台湾歩兵第一連隊と砲兵第48連隊第三大隊の力が上陸。波に洗われ、ずぶ濡れになりながらもバウアン海岸に集結。2時間後には4km南のサンチャゴへの上陸も始まった。アメリカフィリピン軍の抵抗皆無に等しく、戦力と言えばバウアンに配備されていたトロールくらいだった。多数の機関銃で上支隊にかなりの出血を強いたが、形勢不利と見て退却した。先に上陸していた田中支隊の援護でアメリカ軍は撤退。ここから上陸を果たした陸軍は、敵の補給基地があるマニラして進軍を開始した。同日午後2時、敵機1機を発見したが、以降は敵を認めず。作戦後、南シナ台風により大時化と化していた。前甲で作業をしていた松尾忠治二曹が波にさらわれ、行方不明になってしまう。荒のせいで救助艇も派遣できず、今次大戦初の犠牲者を出した。

12月23日午後3時30分、へ帰投。艦内では先述の松尾兵曹の告別式が行われた。12月25日南方部隊第31号により第4戦隊から抽出され、南方部隊本隊(東方支援隊)に編入。榛名、電、雷とともに港をに定める。12月27日午前9時足柄乗員の帽振れに見送られながら出撃。翌28日、シンゴラ行きの第三次マレー上陸団の護衛を命じられる。12月31日午前8時30分、団を護衛して出港。荒潮満潮が前もって対潜掃討を行った域を通過する。重巡1隻、軽巡1隻、練習巡洋艦1隻、駆逐艦16隻、海防艦1隻、特設艦1隻、陸軍輸送56隻からなる計77隻の大規模な団であった。湾外で第一警航行序列を組み、進撃を始めた。 

1942年

蘭印作戦

1942年元旦を、南シナの洋上で迎える。波のうねりは高い。この日の朝食にはが出されたが、カビが大量に付いていたという。まずそう。当時の曇り風速は10mであった。1月2日摩耶名取等は護衛を中断し、団から分離。へと向かった。1月4日午前8時へ一旦帰投。停泊中、妙高被弾損傷の報が入ってきた。駆逐艦に護衛され、1月6日午後12時に出港。印方面の攻略支援すべく、ダバオに向かった。ダバオ付近では船舶への襲がしいとの情報が舞い込んでくる。1月9日、総員防厚への着替えを命じられる。南洋の太陽が容赦なく照りつけ、1月だというのに7月並みの暑さとなっていた。夕食後の楽しみとして、各分隊では輪投げが大流行したとか。1月12日パラオが見えてきた。高雄愛宕摩耶の3隻は九五式水上偵察機を発進させ、対潜を行いつつ進入。湾外では小さな哨戒艇2隻が出迎えてくれた。摩耶を先頭に湾内へと入り、投錨。望楼からは「歓迎す」と手旗信号で送られてきた。1月15日朝食後に6時間の半舷上陸が許された。乗組員は上陸し、エメラルドグリーンられたを満喫した。2日後の午前、第2航空戦隊蒼龍飛龍駆逐隊を連れて入港。その翌日の午前11時頃、開戦後から別行動を取っていた愛宕高雄金剛が入港した。第4戦隊鳥海を除いて全艦がった。1月19日南方部隊第70号が発され、一時的に母艦航空部隊に編入。第4戦隊に復帰すると思っていた乗員たちは少しがっかりした。1月21日16時、出撃。在泊艦艇から帽振れで見送られるが兵員の注空母に集中し、摩耶へは申し訳程度の帽振れしか行われなかった。一方、高雄愛宕は遠く離れているにも関わらず午後の体育を中断してまで帽振れをしてくれた。愛宕近藤中将から摩耶宛に「艦の御成功を祈る」との通信が寄せられた。艦隊の的はアンボイナ港を襲し、連合軍の水上艦を捕捉・撃滅する事にある。

1月23日午前11時頃、蒼龍飛龍から艦載機が発進しアンボン襲する。しかしこの日は不順であり、的は達せられなかった。アンボンセラにある小さなだが、セレベスニューギニアの中間に位置する要衝でアンボイナ港は南方一と呼ばれる深を持った良港だった。上陸部隊の露払いとして、事前襲を加える事になった訳である。翌24日、襲を強行。明けとともに攻撃隊が飛び立った。しばらくして摩耶に「攻撃成功」の報が入る。アンボン軍事施設や台、飛行場は底的に破壊され、連合軍はジャワ方面に逃亡した。露払いは充分に出来たとして、艦隊は反転北上ダバオへと向かった。やがて1月31日未明に陸海軍部隊が上陸。しかし連合軍は丘陵の上に取っており、遮るものがない海岸の上陸部隊を猛攻撃した。敵の弾着は次第に正確になり、部隊の中に身をせたまま先へ進めない。ただ犠牲者のみが増えていく。遠巻きに見ても分かる劣勢に、合いから支援していた護衛艦艇の乗員はいてもたってもいられなくなり、を取って上陸部隊に加わる。参戦した兵は、斃れた陸兵に代わって部署に就く。日を待ち、暗闇に包まれてから突撃。戦友の屍を越え、が明ければ再びす。これを繰り返すこと三日三晩、ついに敵の要塞を奪取。2月2日にはアンボイナ港と飛行場を占領。全制圧を進め、約2300名の捕虜を得てアンボンは占領された。

1月26日ダバオ到着。乗組員は3組に分けられ、上陸した。ダバオは奪取されたばかりの拠点だったため、西洋人の屋敷は荒らされたままになっていた。翌27日に出港し、出撃拠点パラオへ戻った。パラオでの生活は快適で、敵機襲来の心配もなかった。摩耶には燃料、弾薬、食糧品が詰め込まれ、整備を受けていたが乗組員はのんびりと外で過ごしていた。2月11日の紀元節では相撲と武技競技が行われ、優勝した分隊には艦長からビール1ダースが贈呈された。平和そのものである。東部フィリピンの占領が粗方済んだため、摩耶作戦に転用される。2月15日午後2時、出港準備のラッパが港内にき渡る。旗艦阿武隈駆逐隊が先導し、その後ろを南雲機動部隊自慢の4隻の空母重巡が続く。次なる標は、連合軍の退路となっているポートダーウィンである。2月19日午前6時30分、機動部隊はポートダーウィンの北北西220浬に到達した。4隻の空母から190機の攻撃隊が放たれ、戦果が続々と伝わってくる。真珠湾攻撃以上の猛攻を浴びせ、港湾施設と在泊艦艇に絶大な損を与えた。黄色人種白人が初めて爆撃された例となり、奇襲を受ける形となったオーストラリア軍は南へ遁走している。作戦を終えた機動部隊北上し、のように去っていった。

2月20日未明、バリ島沖海戦が生起。第8駆逐隊の戦果が伝えられた。その後、スターリング湾へ帰投する。ここで南方部隊本隊に転属し、近藤中将揮下に入った。神国丸から燃料補給を受け、顔を見せていた喫線下が再び沈んだ。2月23日午後、後甲で演芸会が行われた。各分隊ともクオリティが高い演芸を見せ、爆笑の渦に包まれた。翌24日午後、足柄潜水艦が出撃していった。間もなく摩耶にも出撃命が下るだろう。2月28日のジャワ総攻撃に備え、壊走する連合軍を狩る事になると思われ、摩耶駆逐艦2、3隻を率いてクリスマス島撃に向かうだろうと予想された。

2月25日午前11時、出撃する機動部隊と連動してスターリング湾を離れる。高雄愛宕駆逐艦3隻とともにジャワ島南方に進出し、東西に分かれて遊する。東南アジアでの戦局は最決したも同然で、進退窮まった敵はジャワ島から続々と脱出を開始していた。ちょうどジャワ南の良港チラチャップから脱出してくる敵商は多く、最良の狩り場だった。作戦域への移動中、基地航空隊より「バリ島の南西方300浬付近に敵駆逐艦2隻、その南方100浬に敵軽巡1隻発見」との報告が入った。これを受けて近藤中将は敵軽巡に対しては高雄愛宕を、敵駆逐艦に対しては摩耶と第4駆逐隊第1小隊を差し向けた。

脱出する敵艦艇との戦闘

3月1日午前2時、「総員配置に就け」の号が下る。艦首右に敵商を発見したのである。駆逐艦野分撃し、これを撃沈する。14時頃、1500トン石炭シグリーを発見。これを拿捕すべく、福留中尉以下9名が内火艇で出発した。いとも簡単にシグリーは拿捕され、バリ島への回航が命じられた。船長からの状況を聞きつつ、シグリー摩耶から離れていった。3月2日、第23航空戦隊から「スラバヤ及びジャカルタ方面より脱出する敵艦隊は豪州に向け逃走しようとするものの如し」と報告を受けた。艦隊は二手に分離し、チラチャップにて待ちせ。摩耶駆逐艦2隻とともに獲物を探す。17時43分、搭載機がジャワ島からフリーマントルへ逃走するイギリス駆逐艦ストロングホールドを発見、戦闘配置が下される。すかさず駆逐艦野分とともに急行し、距離を詰める。彼距離が6000mにまで迫った18時21分、敵艦の右舷艦首側より撃開始。撃を受けたストロングホールド煙幕を展開し、付近の団が逃げる時間を稼ぐ。そして持てる全ての火力摩耶に集中して討ち取ろうと考えた。だが、その思惑は摩耶の正確な射撃によって粉砕された。摩耶の一斉射10発が敵艦を挟み、1発が命中して火災が発生。マスト2本が吹き飛ばされ、3門あるのうち2門を使用不能に追いやる。損傷を負ったストロングホールドは左に傾き始めた。大損を受けた敵の艦長は摩耶の打倒を諦め、時間稼ぎにだけ注力。ひたすら回避にし、限界えた抵抗を続ける。しぶとく戦い続ける敵駆逐艦に手を焼く摩耶側は距離を詰め、野分で挟撃する。摩耶ストロングホールドを「日本で言うなら夕張くらい新鋭駆逐艦」「水上機カタパルト搭載」と評価しているが、実際は1918年就役の老朽艦である。37分の交戦の末に撃沈。放った弾が弾薬庫に命中し、大爆発を起こしたのである。ストロングホールドっ二つに折れ、月光に照らされたへと沈んでいった。一方、異説では午後8時頃に沈没したと記録されている。大本営海軍報道部が1942年5月に刊行した「大東亜戦争帝國海軍」という書籍では、一分の狂いも撃と評されている。実際、恐るべき精度で初弾を命中させている。以降は中々命中弾に恵まれなかったが、回避に専念した快足の駆逐艦を仕留める事が容易ではないのは火を見るより明らかである。

撃沈されたストロングホールドの乗員2、30名は洋上をさまよい、そして前日摩耶に拿捕されたシグリーに発見される。福留中尉は彼らを救助して捕虜にした。すると前から巨大な艦が迫る。敵艦かもしれない。福留中尉覚悟を決めていると、日の丸が見えた。相手は別れたばかりの摩耶であった。捕虜は摩耶の方で引き取ってくれる事になり、50名が摩耶に移った。敢闘した敵兵を労い、負傷者には治療を施すなど厚遇した。移乗作業が終わったのも束の間、再び前方に艦が映った。アメリカ軍砲艦ヤーレである。敵を発見した摩耶は敵砲艦に突撃し、シグリーから離れた。

3月3日午前9時15分、周辺域でイギリス人の漂流者を発見。線に見えるマストはシグリーで、既に人命救助を始めているようだ。ボートに乗っている者、ブイや丸木にしがみ付いている者がいる。昨日、ここが戦場になったようだ。摩耶野分とともに救助活動を始めた。摩耶からシグリーに向けてランチ派遣され、捕虜を満載にして戻ってくる。更に10数名の漂流者が摩耶の方へ泳いでくる。が、見り員が「敵発見」と報告。迎撃のため野分が敵に向かった。その間に摩耶は救助活動を続行。丸木やボートの一団はオールいらしく、必死ハンカチを振って助けをめている。ところが午前10時30分、駆逐艦から「商にあらず、軍艦なり」と報告。摩耶に緊が走り、自身も迎撃に向かう。哀れにも漂流者は見捨てられた。彼らは絶望的な表情を浮かべながらも、ハンカチを振るのを止めなかった。敵の正体はジャワ島から脱出してきた砲艦アッシュビルであった。摩耶戦場に駆けつけた頃にはもうど勝負が付いていた。アッシュビルは大破炎上、左に約45度傾斜していた。やがて逆立ちする形で敵艦は沈んでいった。午前11時頃の事である。結局助けられたのは、シグリーが回収していた41名の漂流者だけだった。彼らは第三分隊居住区に収容された。捕虜は精根尽き果て、死んだように眠っていた。その日の、第4戦隊は合流。高雄愛宕に拿捕されたオランダビントエーハンストロングホールド生存者を移乗させた。

3月4日午前7時、チラチャップからフリーマントルへ逃走しようと南進している敵団を発見。2機の水上機を放ってみたところ、敵の容は駆逐艦2隻、武装商2隻、哨戒艇1隻と報告された(実際はグリムスビー級スループ艦ヤラ、特務艦ヤンキン、小フランコール、機動掃海艇MMS-51の4隻)。午前7時40分、距離18kmの地点から愛宕高雄撃を開始。旗艦愛宕は「摩耶野分は武装商哨戒艇を攻撃せよ」と下。「両舷最大戦速」「左戦」の号が下り、撃開始。駆逐艦も負けじと撃する。ヤラが煙幕り、他の船舶は散開して逃げ始めたが、3隻の敵はたちまち被弾して煙を噴き上げる。武装商(ヤンキン)は左に大きく傾斜し、乗員は脱出を始めた。摩耶の高に撃ちぬかれたMMS-51(255トン)は大破し、火災を起こしながら沈没寸前となる。やがて武装商哨戒艇沈没した。第4戦隊は合わせてオーストラリア護衛艦艇、槽艦、敵商イギリス掃海艇をそれぞれ1隻ずつ撃沈する戦果を挙げた。翌5日正午近く、オランダの武装商がポートダーウィン方面へ逃げていくのが見えた。第4戦隊は追跡し、「停せよ」「降するや否や」と信号を発した。すると武装商旗を掲げ、停止。接近して調べてみると、オランダ海軍の士官と兵学校生徒250名が乗っていた。第4戦隊が発しなかった事に感謝の意を示した。

3月7日13時5分、ケンダリーに帰投。3月11日17時30分、高雄や第27駆逐隊揮下に入れて出港。モルッカ峡を通過し、南太平洋へと進出する。この時、味方の輸送1隻とすれ違っている。南太平洋風速約10m、波浪4mに加え、時折驟が襲い来る荒であった。3月12日未明、父島北東で警部隊と合流するよう命じられる。3月14日午前11時、燃料の都合で第27駆逐隊を分離させる事に。護衛がくなるため、摩耶鍋島艦長は会敵を懸念した。が、翌15日に摩耶高雄も帰投する事が決まり、本格的な整備を受けるべく本土をして出発。は荒れ模様だったが中は何事もなく、南西諸の東側を通過3月18日、特設駆潜艇瓊山丸や和美丸の支援を受けつ正午頃に三浦深くへ入っていく。間もなく横須賀の町並みが見え、乗組員は思い思いに一していた。やがて入港準備のラッパき、横須賀到着。高雄とともに停泊した。翌日から28日まで整備を受ける。

4月14日横須賀を出港。ところが4月18日ドゥーリットル襲が発生。名古屋へ向かう敵機を確認し、摩耶は警備のため三河湾西浦に停泊した。しかし接近しているはずの敵機は発見されず、加えて東京襲を受けたため緊急出撃が下された。錨を上げ、14時時30分に出港。前進部隊作第4号を受信し、野島南方へと疾駆した。すぐに追撃部隊が編入され、翌19日に東京湾外で待機していた愛宕率いる艦隊と合流。逃走する機動部隊を追い、敵の進攻地点とされた場所で索敵を行うも敵情を得られず。更に敵の補給地点を推定し、その付近を索敵したがやはり敵情を得られず。4月20日作戦中止され、反転離脱。翌21日午前4時、念のため艦載機による索敵を行ったが、成果はかった。帰路、駆逐艦巻雲とともにソ連臨検の的で捜索したが、発見できず。ところが4月24日神子灯台付近で発見。停止を呼びかけ、臨検を行った。利敵行為は認められなかったため、解放。翌25日午前10時横須賀に入港。

5月1日午後4時30分、ミッドウェー作戦参加のため高雄とともに横須賀を出港。之字運動を行いながら集結地の柱していた。23時時頃、「配置に就け」を意味するラッパが鳴りく。先行していた水上機母艦瑞穂潜水艦ドラムの雷撃を受け、炎上。「れ敵潜の攻撃を受け、魚雷命中、右23度傾斜、沈没の恐れあり」と緊急電を打ってきた。急報を聞いた2隻は現場域に急行。それに先立って零式水上偵察機を発進させ、対潜に当たらせている。陸軍からも置丸が救援に向かった。被雷から約1時間30分後の翌2日午前0時30分に現場域へ到着する。消火活動により火勢は弱くなりつつあったが、浸しく徐々に沈下していく。鎮火の処が立ったため、航も考えられた。しかし決死の復旧作にも関わらずが止まらず、浮力を失い始めていた。高雄が乗員救助を担当し、摩耶は周辺域の警備を担当。午前0時37分、瑞穂の周辺を回って警護。敵潜水艦が潜んでいる可性も考慮し、爆雷投射を行った。午前1時19分、摩耶に向けて敵潜水艦が2本の魚雷を発射したが命中せず。午前2時35分、高雄摩耶からそれぞれ1機の95式偵が発進。対潜警に従事させる。午前3時10分、摩耶爆雷2発を投下。しかし残弾2発となり、投射をしばらく見合わせる事に。15分後、航準備が了したが…。午前3時30分、瑞穂に総員退艦命が下。乗組員が艦載艇に乗って脱出してくる。ついに助からなかったようだ。間もなく摩耶爆雷を全弾投射し終えた。午前4時16分、高雄摩耶の乗員が敬礼する中、瑞穂は艦尾から沈没していった。准士官以上45名、下士官・兵557名を救助し、そのうち重傷者は17名、軽傷者は14名だった。また准士官以上7名、下士官・兵54名は救助できなかった。対潜警を兼ね、午前5時6分に摩耶は搭載機2機を発進させた。航行中、摩耶横須賀鎮守府に対し95式爆雷6個、燃料300トン、治療品若干数(高雄のみ)を補給するよう要している。13時10分、2隻は横須賀に入港。高雄に収容されていた重傷者17名と軽傷者14名は入院した。補給が済み次第、出港。再び柱した。対潜掃討と護衛を兼ね、駆逐艦3隻が伴走した。5月3日的地の柱へ入港した。5月15日北方部隊作第312号により北方部隊への編入が決定する。

霧に包まれたアリューシャン方面をゆく

5月20日北方部隊第二機動部隊に編入。就役したばかりの商改造空母隼鷹に勇将角田覚治少将が乗艦し、彼の揮下に入ってアリューシャン作戦に参加。5月22日午前6時30分、空母隼鷹龍驤重巡高雄駆逐艦、潮、、電、雷、とともに出港。徳山で燃料補給を行ったのち、雷と電の護衛を受けて15時時頃に関門海峡通過する。は狭く、は澱んでいた。下関市郊外海岸には児童が集まり、手を振りながら「万歳!万歳!」と連呼していた。事狭い峡を突破し、日本海側に出た摩耶駆逐艦2隻は引き続き北上5月24日13時、前進基地の大に到着した。ところが第2機動部隊は寄せ集めの部隊であり、合同訓練の暇さえかった。また護衛の第7駆逐隊珊瑚海海戦から戻ったばかりで、作戦会議に出られなかった者がいるなど連携の面では少々不安を残していた。翌25日午後、総員集合がかかり、乗員が前甲に集まる。彼らの前で副長井中佐アリューシャン作戦概要を説明した。

そして5月26日正午(13時とも)、隼鷹を旗艦とした第二機動部隊を護衛して大を出港。津軽海峡を出た後、一路東進龍驤隼鷹高雄駆逐艦3隻、洋丸とともに冷たく、が多い不気味域を突き進む。津軽海峡を出るまでは恵まれていたが、日後は急変。濃霧と荒に見舞われ、給油作業が困難になった。幸いにして北方は敵潜水艦の出現が少なく、穏な航が続いた。5月29日、敵軍に悟られないよう厳重な線封鎖が施され、ミッドウェー作戦に挑む艦隊とは互いに連絡が取れなくなった。5月末とは言っても、北方は冷たい。ひとたびみぞれのようなが降れば、角田艦隊は行動を束縛されるのである。また北方域は浅瀬が多く潮流もいため、一定の速力を出しておかないとが効かなくなり、座礁や衝突の危険性があった。日く、15時には沈んでしまう。他にも荒濃霧の存在が角田艦隊を悩ませたが、不断の努力により概ね計画通りに推移した。6月2日、最北の拠点であるに寄港。翌日出港し、と氷が支配する北洋へ漕ぎ出した。アリューシャン作戦支援すべく、第2機動部隊に先立って伊25伊26がダッチハバー方面に潜入していた。

6月3日伊25からコジャックに入港するシカゴ重巡洋艦情報がもたらされた。23時(現地時間)、ダッチハバーの南西約180里に到達。隼鷹龍驤から攻撃隊が発進し、港内の飛行艇線局、重タンク、飛行場、兵舎を爆撃。またダッチハバー南西のマクシン湾に敵駆逐艦5隻の停泊が認められた。6月4日午前5時45分、再び隼鷹龍驤から攻撃隊が発進。これを支援するため、摩耶高雄からもそれぞれ2機の九五式水上偵察機が参加。ところがウムナクから発進したP-40戦闘機に襲撃され、高雄所属機が全滅摩耶所属機も甚大な被害を受けたが、どうにか帰投した。この日の攻撃は悪に阻まれたため、中止となった。6月5日、ダッチハバーから飛来したB-17爆撃機5機が第2機動部隊を攻撃。対戦闘が行われる中、連合艦隊より電文が届く。それは3隻の空母が大破炎上したという事を知らせるものだった。同時に第2機動部隊は南下して第1艦隊と合流するよう命じられる。だがB-17爆撃を受けている時に背中は向けられないとして、官の角田少将は攻撃後に南下する事とした。摩耶の高や機が火を噴いたが撃墜には至らず。被害は至近弾のみに留まった。15時26分、航空機を収容して南下を開始した。摩耶暗号室では、はるか南方で戦っている南雲機動部隊暗号を傍受した。解読の結果、文面は「旗艦を長良に変更せよ」だった。室長小林甲一兵曹は首をかしげた(隼鷹に届いた命文は摩耶には届いていなかった)。旗艦を変更するなんて、余程の事があったのだろう。その後、彼は通信長と艦長にこの事を報告した。

6月6日午前3時15分、細萱長官はアリューシャン作戦の延期を下。しかし山本五十六長官は敵航空隊の西進を防ぐため、要地占領を狙って作戦の続行を望んでいた。午前7時連合艦隊より北方部隊復帰を伝える電文が発せられた。この電文は午前11時30分頃に受信され、南下中だった第2機動部隊は引き返した。ミッドウェー敗北に伴って作戦にも変更が生じ、一時的な占領を予定していたアッツ島及びキスカ島を恒久的占領に方針転換。アダックの破壊占領は中止となった。更に作戦決行日を1日繰り下げている。第二艦隊は占領作戦支援すべく、基地航空隊や潜部隊とともにアッツ島南方で索敵。出現するであろう敵艦隊へ警を強めた。6月7日22時27分、輸送団がキスカ島に到着。舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊が奇襲上陸し、何ら妨を受ける事3時間で要部を握した。兵2名が捕虜となった。一方、アッツ島攻略も並行して行われ、21時30分に輸送団が泊地に進入。23時20分、濃霧の中を突っ切る形で舟艇が一斉に陸地へと向かった。6月8日午前0時10分に晴れ、敵は認められず。上陸成功の信号を各部隊大本営に送った。双方ともに血占領を果たし、無人島ながらアメリカ本土の一部を手中に収めた。摩耶が属する支援隊は間の濃霧に紛れて撤退する事になり、戦艦日向の22号電探によって集結に成功。キスカ島アッツ島を奪還しに来るであろう敵艦隊の出現に備えた。6月18日14時北野邦夫三等兵が浪に飲まれ、行方不明になる。6月20日午前0時30分、大への帰投を命じられ、帰路につく。6月24日午前9時30分、大へ帰投。山本五十六長官から感状が授与された(実際に手渡されたのは1943年3月15日)。

6月28日に柱へ回航され、7月12日よりで整備を受ける。7月14日に前進部隊作第1号が発され、瀬戸内海西部で待機。7月18日には艦載機航空隊に供出。機種の更新が済んでいない機は、更新を待ってから供出された。8月2日北方部隊信電113号・第五艦隊機密第020829番電を受信。補給を終えた後、第10駆逐隊駆逐艦五月雨を率いて出港。横須賀まで回航された。

魔のソロモン戦線に挑む

8月7日報が駆け巡った。遮断作戦の一環でソロモン諸島ガダルカナル島に飛行場を建設していたのだが、そこへ万単位アメリカ軍が来襲。わずかな設営隊と守備隊を蹴散らし、占領してしまったのだ。同時に敵艦隊の出現とツラギへの上陸も確認され、海軍は動員できる戦力を集めてガダルカナル島攻撃へ向かわせた。後の世に言うソロモン戦線の形成である。8月8日深夜に生起した第一次ソロモン海戦の大戦果は、柱に停泊中の摩耶にも届いた。姉妹鳥海の奮戦を聞き、羨望と感を覚えたという。内地で停泊中の艦艇にも出撃命が下り、8月10日付で摩耶は前進部隊に所属。8月11日17時近藤中将が乗艦する旗艦愛宕妙高羽黒水上機母艦千歳戦艦陸奥軽巡由良駆逐艦9隻とともに柱を緊急出撃。翔鶴瑞鶴を基幹とした第3艦隊の先鋒として、一足先にトラック急行した。南下すれば南下するほど暑くなり、居住区は蒸し風呂状態と化した。8月17日午前10時トラックに到着。上には航空隊が乱舞し、港内には大小の艦艇や輸送が停泊していた。ガの状況は時間を追うごとに悪化し、敵の潤沢な物資や兵力が絶え間なく送られていた。更にガ東海域に敵機動部隊が確認されたため、8月21日19時トラックを出撃。遅れて本土からトラックに向かっていた第三艦隊と洋上で合流、之字運動をしながら敵をめて南下を開始する。8月23日行方不明になっていた軽巡由良の搭載機を発見し、搭乗員を収容。

8月24日、両軍の機動部隊が接近した事で第二次ソロモン海戦が生起する。摩耶愛宕を旗艦とする第二艦隊(前進部隊)に所属して参加。重な航空母艦を守る囮の役割が与えられた。しかし予想された攻撃はく、しばらくは穏だった。やがて旗艦愛宕マストに対戦闘の信号旗が揚がる。見ると、前方から2、30機の米軍機が迫っていた。味方空母を発見できなかったエンタープライズ搭載機などが矛先を向けてきたのである。敵機は上に達すると編隊を解き、思い思いに攻撃を仕掛けてきた。各艦が対空砲火を上げる中、摩耶の直上約1000mから艦爆が急降下爆撃を仕掛けてきた。高と機が狂ったように撃たれるが、敵機の急降下は止められず、ついに投弾された。「面一杯、急げ!」と艦長が叫ぶ。摩耶は大きく波を立てながら艦首を右へググッと向ける。爆弾2発は左舷前方100mに着弾し、飛沫艦首にかかった。14時20分、対戦闘は終わった。艦隊は隊形を整え、28ノットの速力で南下を始めた。逃走する敵機動部隊の捜索も行ったが、結局発見できなかった。燃料不足を懸念した近藤長官は21時40分に追撃中止を命。速力を24ノットに落とし、反転離脱。中で給油日本丸と会同し、燃料補給を受ける。9月5日午前10時30分、トラックへ帰投。

9月6日摩耶は錨地から離れた合いに停泊。トラックから侵入しようとする潜水艦に対抗すべく、火器を満載した内火艇していた。9月7日、猛スコールを浴びながら帰艦した。9月9日15時30分(14時30分とも)、索敵のため第4戦隊は他部隊とともにトラックを出撃。9月12日午前4時、第4、第五、第六戦隊重巡から1機ずつ零式偵を発進(摩耶羽黒は機体の更新が出来てなかったのか九五式偵)。索敵に従事した。敵を見なかったため、午前9時45分に偵を揚収。第二警航行序列に移行。9月13日午前9時36分、190度方向線上に敵飛行艇が触接しているのを確認。また午前10時15分にはツラギ空母1隻、戦艦2隻、駆逐艦2隻が確認され、緊が走る。午前11時に索敵機を収容し、之字運動を行いながら敵をめて遊する。9月14日午後12時55分、ガダルカナル島北東で哨戒機に発見される。13時35分、B-17爆撃機8機が出現。各艦とも速力を24ノットに上げ、熾対空砲火を放つ。B-17爆撃機南方へと飛び去っていった。妙高が僅かな損を負った程度で、艦隊運動し。9月15日、燃料不足になりつつあった駆逐艦に燃料を分け与えた。9月16日未明、進出してきた給油日本丸と合流し、午前5時から高雄愛宕摩耶の3隻に補給を行った。9月18日より索敵を再開したが、結局敵艦隊を発見する事は出来なかった。9月20日トラックへの帰投命を受けて反転北上9月23日午前9時30分にトラックへ帰投した。

9月30日、開戦から摩耶揮してきた艦長の鍋島大佐が退艦。乗組員一同は上甲集合し、内火艇で去っていく鍋島大佐を見送った。鍋島大佐も見えなくなるまで手を振っていた。部下に優しかった彼の人望の厚さがえる場面と言えよう。後任には松本大佐が着任した。頭が切れる秀才タイプで、愛煙だった。

決死のヘンダーソン飛行場砲撃

10月6日、前進部隊作第59号により当分の間、摩耶は第5戦隊官の揮下に入る。敵軍に奪取された飛行場はヘンダーソン飛行場と改名され、エアカバー提供する厄介な存在と化していた。10月9日に第17軍部がガダルカナル島に上陸して戦況を確かめたところ、陸軍の飛行場奪還は困難と判断された。となれば、この飛行場を黙らせるには艦砲射撃しかない。まず最初に青葉率いる第6戦隊が飛行場撃に向かい、続いて摩耶妙高撃を加える事になった。10月11日午前3時40分、先戦艦金剛榛名が護衛を伴って出撃。少し遅れて午前5時摩耶グループトラックから出撃した。伴走者は重巡妙高軽巡五十鈴及び駆逐艦3隻(巻波長波高波)である。敵空母出現に備えて隼鷹飛鷹翔鶴瑞鶴も出撃しており、敵のを引き付ける囮の役割を担った。第一警航行序列を組み、針路90度、速力20ノットで大洋駆ける。午前6時より之字運動を開始。13時、速力を16ノットに落とす。16時35分、之字運動を止める。同日深夜サボ青葉率いる第6戦隊が敵艦隊と遭遇し、撃退されたとの報告が入った。摩耶妙高は迎撃のため南下を開始したが、敵情が得られず。これ以上の深追いは作戦に支障が生じるとして予定の航路に戻った。13日間に挺進攻撃予定とし、敵への突入を再開した。ちなみに第6戦隊は後退したが、この時に敵艦隊も後退したため摩耶を阻む障害くなった。

10月12日午前6時17分、之字運動再開。13時5分、護衛の五十鈴駆逐艦に燃料補給すべく日本丸が接近。給油を行う。18時に作業了。針路14度、速力16ノットで敵す。19時以降、敵潜水艦出現の算大として見り警を強化。23時、速力を18ノットに上げる。10月13日午前、レンネル南西及び東方に敵機動部隊が出現、午後にはツラギ付近に敵戦艦が出現したとの報告を受ける。先行きを暗くする、物量に任せた敵の布であった。摩耶たちと同じく飛行場撃に向かっている金剛榛名支援するため、敵艦隊の南方に進出。敵の注意を引き付けた。これは見事成功し、2隻の戦艦は迎撃を受けなかった。午前10時6分、陸軍が飛行場の奇襲に成功したとの報告が入った。14時2分、五十鈴より艦載機が発進。ツラギと方面の偵察を行った。ツラギ近に敵の大部隊、ルンガ駆逐艦2隻と輸送2隻、サボ西方30浬に巡1隻を発見。重な情報をもたらした。10月14日、ヘンダーソン飛行場の詳細な情報が入ってきた。敵の飛行場には何度も輸が行われており、終息の兆は見えなかった。

船舶も盛んに出入りしている。半、先発していた鳥海衣笠がヘンダーソン飛行場への撃に成功。この快報は進撃中の摩耶にも届いた。「飛行場全面、火のと化し誘爆中。」次は摩耶の出番である。10月15日午後12時35分、針路230度に変針してガに舳先を向ける。速力31ノットに上げたが、すぐに26ノットに下げた。護衛の駆逐隊が先行し、摩耶妙高の前方につく。サンクリスバル南東90浬に敵輸送2隻、敵巡洋艦1隻、敵駆逐艦3隻が出現。これを攻撃するため味方の機動部隊が出動し、一部の兵力を分して夜戦を企図した。多くの仲間に支えられながら、域をして進撃を続ける摩耶17時魚雷をいつでも使えるよう即時待機。20時25分、タサファロンガの辺に到達。座礁して果てた子丸、九州丸、吾妻山丸の残骸をにした。彼らの念がひしひしと伝わってくる。21時摩耶の三座水上偵察機が観測のために発進した。摩耶は先行する妙高背中を追っている格好だった。45分後、搭載機が飛行場に弾を投下した。

22時27分、撃開始(第二水雷戦隊戦闘詳報によると22時22分)。ズシーンという音がき渡った。撃の衝撃でレシーバーモールス信号が聞こえなくなり、受信機も使えなくなった。しばらくすると復旧したが、受信不能電報は20通に達した。一方、飛行場にはの炎が踊っていた南海の孤を焼き尽くさん勢いで夜空を照らす。仲間念とともに強力な火力を飛行場へぶつける。22時45分、ルンガから敵のサーチライトが照射された。午後10時50分、反転しつつ撃。護衛の駆逐艦も盛んに撃している。「飛行場南東約2kmの原一帯大火災誘爆中なり」「飛行場の南方地付近火災、同地は対照射せず」「飛行場北端五ヶ所炎上中」「西方2km軍需品炎上らしき火災を認む」と観測機から次々に情報が入ってきた。観測機は戦果確認のため高度300mで偵察。途中、駐機している大機を発見したため、約50発の撃を行った。23時20分、撃終了。摩耶は450発の弾を発射し、妙高駆逐艦3隻と合わせて1179発を撃ちこんだ。身がになるまで撃ち込み、飛行場は大火に包まれた。飛行場撃は見事成功し、々と帰投した。帰路、レカタ基地に進出していた各艦の搭載機を収容。三連続の撃に、ヘンダーソン飛行場は大打撃をこうむった。海兵隊の稼動爆撃機はわずか1機にまで減少し、航空燃料はたった1日分だけしか残らなかったという当時の大損を伝える話が残されている。金剛榛名鳥海衣笠摩耶妙高の身を賭した撃により、10月14日に第二師団の後詰めが事に上陸。しかし重火器の揚陸には時間を要し、飛行場を復旧させた敵軍の執拗な妨を受けた。

敵の虎口から脱するため、10月16日午前3時50分に速力を20ノットに上げる。午前4時40分、上に味方戦闘機が到着。午前8時聖川丸飛行隊が戦艦3隻、大巡1隻、駆逐艦5隻を発見したと報告。午前9時20分にはベロで敵の大部隊が確認された。雷撃隊が攻撃に向かったが、不順で中止となっている。午前10時、単縦を組んで航行。翌17日午前5時30分、給油日本丸より補給を受ける。補給了後、之字運動をしながら本隊との会合地点に向かう。午前7時、神祭により拝式を挙行。16時20分、之字運動中止。23時25分、速力18ノット、0度に変針。同日、第二艦隊や第三艦隊力と合流。補給を受けた後、本隊とともに索敵を行った。ガダルカナル島方面の索敵を行ったが、敵情は得られず。分かった事は、敵駆逐艦2隻がいせのように味方の揚陸地点を撃している事くらいであった。陸軍の総攻撃の準備が了するまで、力艦隊は適宜ソロモン諸島北東の索敵に従事した。10月18日、第4戦隊は第二航空戦隊、第15駆逐隊、第31駆逐隊とともに本隊から分離。ブイン基地に不時着した飛鷹艦攻を収容した。10月19日ガダルカナル島陸軍第2師団による飛行場総攻撃の日時が決定したため、艦隊は支援的を帯びてガ北方で遊する事になった。10月20日、ガ東方で燃料補給を受けて戦闘準備を整えた。しかし陸軍の都合で総攻撃が延期に次ぐ延期となり、手持ち沙汰な艦隊は南北を往来する羽になる。その間に飛鷹機関故障にも回れ、トラックに後退している。10月22日15時30分、給油極東丸から補給を受ける。21時30分、了。前進部隊作第63号により、ソロモン東方に出現の算がある機動部隊の索敵を実施。もし敵情を得なければ北上退避の予定だった。

10月23日エスピリットサント北方650里にてカタリナ飛行艇に発見される。その後、1機のカタリナが出現し、翌24日午前1時重巡筑摩を雷撃したが命中せず。10月24日深夜、いよいよ陸軍が総攻撃を開始。これを支援すべく、近藤竹中将率いる第2艦隊の前進部隊して南下を始めた。敵の力艦隊はソロモン諸島南方を常に遊しており、会敵は避けられない状態となった。同日17時陸軍は飛行場攻撃を開始。21時には飛行場占領と報告してきた。しかしこれは誤報だった。陸軍の敢闘に続けと言わんばかりに、力艦隊もガした。10月25日午前7時8分、比叡霧島が触接中の飛行艇を発見。前進部隊の後方を進撃中の機動部隊飛行艇を発見し、通信傍受の結果、敵に位置を察知されたと判断した。

10月26日午前1時30分、敵機に発見され、爆撃と触接を受ける。被害こそかったが、南太平洋海戦の前戦が静かに幕を開けた。一旦、日本艦隊は北上して退避。更に陸軍の攻撃は不成功だった事が判明し、不吉な空気が流れ始める。摩耶明けとともに偵察機を放ち、敵の発見に注力。午前4時50分、サンタクルーズ北北東に敵の有力な機動部隊を発見。味方空母から攻撃隊が飛び立つのと同時に、前進部隊は敵が潜む域への進出を命じられる。、味方機の攻撃により敵空母は壊滅混乱状態に陥ったとの快報が入ってきた。敵の攻撃は空母や前衛の比叡等に集中したため、大した攻撃は受けなかった。戦後、敗走する機動部隊を追撃するため前進。前進部隊285号により午後11時30分に94式偵を発進させ、五十鈴飛行長の揮下に入れた。すると偵察機から「炎上中の敵空母に対し敵駆逐艦2隻撃中」「弾投下により敵駆逐艦南方遁走中」と報告が入った。摩耶機や長良機、五十鈴機に誘導されながら暗くなりつつあるを疾駆。すると前方に、放棄され炎上するホーネットを発見。周囲を取り囲み、駆逐艦による航を試みるが火勢が強く近寄る事も出来ない。結局、雷撃処分する事になった。戦終結後の10月28日午前0時5分、前進部隊の下へ給油神国丸が合流。逐次補給が始まった。午前0時30分、摩耶高雄愛宕への補給が始まる。午前8時55分に作業了。10月30日トラックへ帰投した。入泊後、摩耶は第5戦隊から離脱し原隊に復帰。

11月1日、高速輸送団の間接的護衛のため、再びヘンダーソン飛行場へ赴く事になった。艦攻撃用の徹甲弾を陸揚げし、代わりに零式弾を500発装填。11月3日正午駆逐艦陽炎涼風高波に護衛されて鈴谷天龍ともども出港。5日にショートランドへ寄港し、現地で飛行場撃の準備を整える。ところがショートランドは連日しい襲を受けており、対警報い日はかったという。鳥海衣笠から20cm零式弾475発の補充を受ける。11月6日午前5時47分、外南洋部隊作第218号により、摩耶は第7戦隊とともに支援隊を結成。9日、10日、11日の三日間を使って対陸上間接射撃訓練を行った。軽巡洋艦天龍駆逐艦夕雲巻雲風雲満潮が護衛に就いた。ところがショートランドへの襲により満潮行動不能となり、代艦として朝潮が加わった。

11月13日午前5時40分、ショートランドを出撃。今回の相棒重巡洋艦鈴谷であった。泊地から出港する際、愛宕の軍楽隊が勇壮な軍艦行進曲を奏でてくれた。それとは別に比叡率いる挺身隊も撃に向かったが、アメリカ艦隊の妨を受け第三次ソロモン海戦が生起。2隻の戦艦を失う手痛い敗退を受けた。この敗報を聞いた摩耶では、乗組員が妙に殺気立っていた。「今度こそ摩耶もおだぶつか」というが囁かれ、松本艦長の訓示も悲愴に満ちたものだった。更に松本艦長は「今度こそ、いよいよ最期かもしれない。今はみなの好きなものを食べるよう、遠慮なく申し出させよ。」と計科に命じ、夜食お汁粉大盤振る舞いになった。だが、摩耶たちは上手く敵の内懐へ飛び込む事に成功した。20時鈴谷摩耶から索敵機が飛び立ち、陸上撃観測及び照明弾投下の任務を帯びて先行。51分後、戦闘が下される。22時20分、ガ西端を確認。速力を20ノットに上げ、突撃。23時4分、サボ東方域に敵を認めず。そして23時30分、索敵機が照明弾を投下。撃を開始する(鈴谷戦闘詳報参考。異説では翌14日午前1時30分に撃開始)。鈴谷とともにヘンダーソン飛行場を撃。摩耶は485発を撃ち込み、を取る。ガ陸上観測所は「相当の効果あり」と送信した。実際、部隊からも飛行場に誘爆が認められた。護衛隊の天龍夕雲巻雲風雲朝潮が敵魚雷艇2隻の接近を阻み、2隻を守った。23時42分、護衛の駆逐艦摩耶は接近する敵魚雷艇を発見。左舷前方に探照灯の照射を行ったが、異状を認めず。4分後、各艦30度の斉射を終え、反転し離脱を図る。ところが鈴谷に向かって伸びていく雷跡を摩耶が発見。電話鈴谷危機を知らせる。24ノットに増速し、回避運動。特に異状がかった事から回避したとされた。23時59分、煙幕を確認し摩耶探照灯を照射するが敵し。

11月14日午前0時4分、撃終了を下天龍より左舷前方に怪しい物体があると報告してきたが、やはり異状は認められず。背後にある飛行場からは、断続的に誘爆する音が聞こえてくる。あとは安全圏まで逃げ切るだけ。午前2時38分、摩耶機がレカタ基地に着陸。一気呵成に撃する摩耶の前に現れた敵は、わずか魚雷艇2隻のみだった。連合軍の反撃が微弱だったのは、前第三次ソロモン海戦一夜によるだった。比叡率いる挺身隊が、アメリカ艦艇に大小の損を与えていたおかげで警備を担当する艦が一掃され、手薄になっていたのだ。サウスダコタ及びワシントンサボから360浬の地点にいて、27ノットの速力で走っても12時間は掛かる状態だった。比叡隊を退けて安堵していた矢先の撃に、隙を突かれた敵軍は愕然とした。この報告を受け、いつも強気なルーズベルトですらガダルカナル島争奪戦の敗北予感し、撤退を考えたという。しかし重巡では飛行場の全破壊は不可能で、戦果は航空機全壊18機、損傷32機(内訳は急降下爆撃機1機、戦闘機17機全壊、戦闘機32機以上損傷)に留まったという。通常弾を使用した弊で、1発の加範囲が狭くなってしまったのだ。午前4時28分、敵艦上機4機が部隊を追跡。何かしらの電報を打っていた。午前6時ニュージョージア南方で待機していた第8艦隊と事合流。第四警航行序列の隊形で、急いで北上を始める。駆逐艦4隻が前方で横一列になり前路警、左に衣笠五十鈴鳥海が、右に鈴谷摩耶天龍が続航した。中で明けを迎えてしまい、機回復したヘンダーソン飛行場より飛来した哨戒機に運悪く発見される。最初に現れたのは敵戦闘機7機とドーントレス急降下爆撃機7機、アベンジャー雷撃機6機だった。執拗な航空攻撃により衣笠魚雷4本を受けて落。更に敵空母から発進したドーントレス16機が出現。午前7時26分、500ポン爆弾を投弾しにきたドーントレス摩耶対空砲火で撃墜。しかし墜落時にマスト接触し、甲上に突。機員3名が即死した。第4及び第6から出火し、高弾に誘爆して左舷高にも火災が発生。ドーントレスから飛び出たガソリンが甲上に飛び散り、引火。爆発が起きた甲ポッカリとが開いた。最大速力が29ノットに低下。危うく魚雷発射管に火の手が及びそうになるも、咄嗟の判断で魚雷16本を投棄したため、事なきを得た。敵機突入の際に乗員の1人が部を負傷している。ドーントレス搭乗員の遺体は後部高うつ伏せの状態で斃れていた。被は焼けただれ、下半身はく、上半身は裸だった。おぞましい死相を見て驚いた兵が中へ投棄しようとしたが、これを見ていた雷長が止めた。午前8時10分頃、鎮火に成功。衣笠が撃沈される被害を出すも、どうにか敵機を振り切って離脱に成功。よろよろと走りながらショートランドした。戦死者38名、負傷者47名。こげになった遺体は後甲に並べられ、負傷者は第一分隊のデッキに収容された。13時ショートランド着。補給を受けた。部を負傷は乗員は満足な治療を受けられず、3日後に膜炎で亡くなった。

11月16日、外南洋部隊支援隊の西村祥治よりカビエンへの回航を命じられる。翌17日、天龍鈴谷摩耶の順でショートランドを出港。駆逐艦潮と涼風が対潜掃討のため左右に同行。摩耶は最後尾についた。カビエン到着後、間警備用の哨戒艇を1隻派遣。また鈴谷とともに艦載機派遣し、偶数日の対潜を担当。泊地を中心に約70浬を範囲に定めた。しばらくの間、摩耶カビエンで休養と整備を受ける。11月20日、戦死者の慰霊祭が挙行された。だがその直後に米軍機が襲来し、対戦闘被害かった。11月23日無人島への上陸が許可された。ショートランドべてカビエンは襲が少なく、乗員はのんびりと羽を伸ばす事が出来た。12月2日午前7時カビエンを出港。翌3日にショートランドへ到着。ガダルカナル島へ向かう駆逐隊を途中まで護衛したあと反転離脱し、12月5日午前10時ラバウルへ寄港。現地でソロモン作戦支援の任を解かれ、トラックに戻る事になった。護衛として駆逐艦春雨揮下に入れ、ラバウルを出港。しかし12月8日午前3時トラック南方摩耶と護衛の駆逐艦は敵潜スカルピンに発見される。だが距離が遠すぎたためスカルピンは雷撃できず、午前7時45分にトラックに到着。12月30日トラックを出港。本土で整備を受けるため、また北方任務に参加するため横須賀した。

1943年

再び霧と氷の世界へ

1943年1月5日横須賀入港。8日から16日にかけて横須賀修理を受ける。1月30日摩耶北方部隊に編入され、作戦域をアリューシャン方面へ変更する。同時に人事異動があり、一部の兵が艦を降りた。見送る戦友の中にはを浮かべる者もいたという。1月12日より魚雷調整班から搭載魚雷の整備を受ける。テストの結果、優良なる成績を収め、1月27日摩耶へ引き渡された。一度は出渠したものの、整備が未了だったため2月12日から16日まで再度入渠。2月20日横須賀を出港。2日後の午前9時に大へ入港。翌23日に大を出港したが、中で大吹雪に襲われて中線が断裂する事故が起きた。2月26日筵(ほろむしろ)へと進出。しばらく筵で待機する。2月末、峡からのため摩耶偵が発進したが、濃霧による視界不良占守島の山岳に突し、搭乗員2名が殉職した。彼らは飛行場撃の際、弾着観測を行った古であった。数日後、遺体が発見され、荼毘にふされた。遺が入った白木を、松本艦長はいつまでも撫でていたという。

3月7日那智とともにアッツ島へ向かう輸送団を護衛。摩耶零式水上偵察機1機と九五式水上偵察機を輸送し、3月13日へと戻った。3月17日洋丸から重1058トンの補給を受ける。乗組員には占守島への上陸が許可され、士官引率で内を見て回ったという。3月20日北方部隊は「三月下旬熱田島に高速団に依る緊急輸送及び敵艦隊捕捉撃滅の件」を発。その実行戦力に摩耶が選ばれる。3月23日17時、第5艦隊旗艦那智軽巡多摩駆逐艦初霜若葉とともに筵を出港。アッツ島への輸送人員や物資を積んだ浅香丸と崎戸丸を護衛し、第二次輸送に従事していた。1回は成功したものの、先から敵艦隊が出し始めており、防備のため第5戦隊が護衛していた。3月25日を揚陸予定日に定めたが、千島列島東にて発達した低気圧によりは大荒れの状態になっていた。状況を鑑み、細萱子郎中将は予定日を1日繰り下げた。その後、回復傾向になったものの、アッツ島守備隊からの現状報告を聞いて念のためもう1日繰り下げ、3月27日とした。3月26日午前11時駆逐艦と三丸以外の艦が集結。残った2隻の合流を待ったが、断念した。

優勢な敵艦隊との対決 

3月27日午前2時団は単縦を組んでアッツ島に向かった。しかしアッツ島への輸送は暗号解析で敵に読まれており、既に有力な艦隊が待ちせをしていた。アッツ島西方で待ち構えていた敵巡洋艦リッチモンドレーダーにより輸送団を探知。駆逐艦電が接近する敵艦に気付いて通報したが、阿武隈は相手を駆逐艦及び三丸だと誤った報告をし、対策が後手に回る。午前3時13分、ようやく追跡者の正体が敵だと判明し、団を北へ退避させつつ摩耶那智が迎撃に向かった。

両軍が接近した事でアッツ島戦が生起する。日本側の戦力は重巡2隻(摩耶那智)、敵側の戦力は重巡1隻、軽巡1隻、駆逐艦4隻であった。濃霧が発生する関係上、終始遠距離撃戦となった。午前3時42分、那智撃した事で戦闘開始。初弾がリッチモンドを挟叉するという高い錬度を見せ付けた。摩耶距離2000mから敵巡洋艦リッチモンドを狙って撃。敵巡洋艦リッチモンドソルトレークシティ那智に集中火を浴びせる。那智魚雷8本を放って反撃するも、全て回避されたうえに右舷艦が被弾。要員11名が死亡、21名が負傷する。更にメインマストを吹き飛ばされ、線機を喪失。旗艦の役割を果たせなくなってしまう。続々と命中弾を浴びた那智は高の電力をも失い、戦闘不能に陥る。火力こそ日本側が優勢だったが、アリューシャン方面特有の濃霧が正確な射撃不可能なものにした。対する敵艦隊は濃霧の中でも相手の位置が分かるレーダーを有しており、数の上でも日本側を圧倒していた。事実那智はあっと言う間に戦闘不能へ追いやられてしまっている。気すら味方しない絶望的な状況で、1隻だけとなった摩耶の苦闘が始まった。摩耶リッチモンドを測距して撃するが、濃霧によって艦把握距離感を狂わされ、実際はソルトレークシティを撃っていた。それでも撃開始から約30分後、ソルトレークシティに20cm弾を叩き込み、艦載機炎上・投棄させた。そこから立て続けに3発の命中弾を与え、浸による傾斜を発生させる。注で復元されたが、摩耶の猛攻は続き、燃料タンクへの浸ソルトレークシティの速力が落ち始めた。午前6時50分、ついにソルトレークシティ全停止させた。トドメを刺す絶好のチャンスであったが、敵駆逐艦3隻が摩耶に向けて突撃を開始。またリッチモンドと敵駆逐艦1隻が煙幕を展開し、ソルトレークシティを覆い隠した。いかに摩耶でも1対5では圧倒的に不利だったが、猛然と反撃。伸びてきた5本の魚雷を回避し、敵駆逐艦ベイリーに20cm弾2発、コグランに1発の命中弾を与えて乗員5名を倒した。しかし戦闘している間にソルトレークシティ機関を復旧させ、東方へと急速に離脱。他の敵艦も倣うように離脱を始めた。両軍の距離が離れていった事でアッツ島戦は終結した。ソルトレークシティ異常が発生し、10度方向にしか動けなくなった。

優勢な敵艦隊を見事撃退した摩耶たちであったが、細萱中将は敵に与えた損の大きさを理解せず、また敵機の出現を恐れた事から輸送作戦の中止を命団を護衛していた電の艦長は、部の弱姿勢を非難している。細萱中将4月1日付けで更迭された。3月28日筵に帰投。3月31日那智初霜若葉とともに出港。4月3日横須賀へ入港し、横須賀修理を受けた。4月15日駆逐艦の護衛で出港し、4日後に大へ入港。4月27日に出港し、占守島に進出した。

5月12日筵出港後にアメリカ軍アッツ島上陸の急報が飛び込む。これを受けて5月21日(異説では25日)、敵艦隊撃滅及び緊急輸送のため巡洋艦那智木曾阿武隈駆逐艦五月雨長波若葉初霜、神等とともに筵を出撃。アッツ島救援に向かったが、悪に阻まれて待機させられる。足止めを喰らっている間にアッツ島守備隊は玉砕。この悲報を受け、救援艦隊は筵に引き返した。艦艇と誤認するよう仕向けるため、摩耶には迷彩カムフラージュが施された。5月17日洋丸から520トンの送を受ける。末、海軍工機学校に入校するため、駆逐艦五月雨から退艦してきた新入生が摩耶に便乗。青森県野辺地で退艦した。6月16日171とともに洋丸へ横付け。256トンの重を供給される。7月10日19時筵を出港。木村昌福率いるキスカ島撤退部隊支援すべく、第5戦隊旗艦那智軽巡多摩駆逐艦及び波とともにキスカ島した。撤収作戦のため出現するであろう敵水上艦隊に備えての采配でもあった。しかし不良に悩まされ、キスカ島突入日が1日ずつズレていく。艦隊に緊迫の時が流れた。ところが7月15日午前9時50分、木村作戦中止を決定。これには摩耶の乗員からも不満が噴出した。「飛行機を怖がって戦が出来るか」「五艦隊は動かん隊だ」と陰口をいた。もが木村の采配を冷笑していた。18日までに収容部隊筵に帰投した。第五戦隊参謀は木村官の中止命を非難している。筵の重備蓄量が少なかったため、以降のキスカ島撤退作戦には参加していない。ゆえに奇跡作戦に立ち会えなかった。残った摩耶は整備作業と任務に従事し、皆の帰る場所を守った。乗組員の精神を癒したのは、釣りであった。筵はカレイの宝庫で、適当に糸を垂らすだけで面い程釣れた。釣り上げられたは、食卓る食材と化した。

7月29日、旗艦阿武隈率いる救出部隊奇跡の撤退作戦を演じて筵へ帰港。収容された陸軍兵が摩耶に向かって帽子や旗、手を振っていた。彼らが満載してきた陸兵を摩耶へ移乗させ、帰準備に取り掛かった。7月31日連合艦隊より所属軍港での整備ののちトラックへの進出を命じられる。8月3日、前進部隊作第249号・前進部隊機密第021630番電により摩耶島風五月雨長波は前進部隊本隊に編入。北方部隊の任を解かれ第4戦隊に復帰。駆逐艦島風に護衛されながら筵を出発。8月6日横須賀へ入港。横須賀に入渠し、取機の修理レーダーの装備が行われた。同日中、邀撃部隊作第10号によりトラック進出と輸送任務が課せられた。

トラック方面進出

8月15日、人員と物資を積載し、鳥海とともに駆逐艦島風長波に護衛されながら出港。艦隊の揮は摩耶が執った。中は何事もなく、事にトラックへ入港する。9月に入ると、トラック港外で鳥海撃訓練を実施。その時の写真が残されている。9月5日鳥海島風長波とともに輸送任務に従事。第64防隊、第65防隊、第87警備隊を横須賀からラバウルへ輸送した。9月15日、兵学校卒業した新兵を迎える。

神出な敵艦隊に艦隊決戦を挑むべく、Z号作戦が発トラック在泊中の艦艇が実行戦力に選ばれ、摩耶が所属する第4戦隊も参加が決定。瑞鶴に座乗する小沢三郎中将率いる機動部隊と、愛宕に座乗する栗田健男中将率いる二個艦隊が用意され、翔鶴金剛榛名妙高能代阿賀野など計24隻が加わった。9月17日トラックを出撃して東進。敵艦隊との会敵をす。翌日の9月18日、敵空母タラワマキン、ナウル襲。ちょうど東方向だったため、艦隊は進撃を続けた。9月20日マーシャル諸島ブラウンに入港。ここには第61警備隊の基地用レーダーがあり、前進拠点には打ってつけだった。翌21日には遅れてトラックを出発してきた瑞鳳も合流し、戦力を拡充。敵の動向をっていると、敵艦隊は足ハワイへと引き上げてしまった。会敵の機会を失い、9月23日トラックへ帰投した。空振りに終わったZ号作戦だったが、闘志はまだ消えていなかった。戦艦武蔵に乗り組んでいた連合艦隊部付き暗号解析班は、近いうちに敵艦隊が攻勢に出る事を把握。今度こそ敵艦隊と会敵すべく、10月17日に出港準備が下された。翔鶴瑞鶴瑞鳳を中心に輪形を組み、摩耶もまた勇んで出撃する。トラックには敵潜が跋扈していると考えられたため、24ノットの高速で敵の包囲網を突破。以降は15ノットに落とした。しかし前回の事もあり、本当に会敵出来るかどうか半信半疑であった。そこで伊36潜にハワイを偵察させてみたところ、港内に戦艦空母それぞれ4隻の停泊を報じてきた。やはり敵の力はハワイにいたのだった。それでも進撃を続け、10月19日ブラウンへ到着。同泊地では摩耶鳥海が一組になり、対潜を実施している。10月23日に再び敵機動部隊との決戦を企図し、東進古賀連合艦隊長官の判断により、ウェーキ付近で敵を待ちせる事にしたが、敵艦隊は出現せず。やむなく10月26日トラックへと帰投した。

運命を分けた一弾

11月1日連合軍はタロキナ地区へ上陸してきた。これを受けて連合艦隊トラック在泊の有力艦艇にラバウルへの進出を下決戦を挑む事にした。出港は11月2日の予定だったが、襲の様子を見て1日繰り上げて出港。第4、第7、第8戦隊第二水雷戦隊等とともに軍需品や兵員を乗せて、ラバウル急行した。中のカビエン北方連合軍の襲を受け、日章丸が被弾落鳥海波が支援のため分離している。ところが11月4日頃からB-24の触接を受け、敵軍に行動を監視される。アメリカ軍にとって重巡部隊ラバウル進出は脅威であり、ハルゼーは頭を抱えた。そこで破れかぶれにラバウル襲する事を決断し、第38任務部隊を差し向ける。そうとは知らずに重巡部隊は4日中に入港した。湾内には30隻近い輸送が停泊。長を旗艦とする潜部隊の姿もあった。

11月5日午前6時10分、ラバウル港内で洋丸に横付け。燃料補給を受けつつ第三戦闘待機。午前7時55分、補給了。引き続き第三戦闘待機。午前9時17分、ラバウル警報が出される。零戦71機や彗星5機が飛び立ち、重巡部隊は湾外へ移動する。警報から1分後、摩耶艦内に「配置に就け」の号が飛ぶ。敵機の大編隊約200機接近と報告されたが、すぐに約90機に修正された。機関に火をくべて移動を図るが、午前9時24分に40度方向から敵編隊が接近。襲隊形を取っており、明らかにこちらを狙っている。を右へ旋回し、対戦闘を開始。同時に両舷微速で港外への脱出をす。午前9時29分、敵の艦載機に襲撃され、1発の直撃弾を受けて大破炎上(または中破とも)。艦内のあちこちで被害が生じ始める。もくもくを煙が噴き上げ、乗組員が防火作業のため右往左往した。電力が失われたのか室内全てが消失し、通装置も停止。気温が上昇し始める。左舷後部機械室、工業部導所(爆発炎上により指揮官以下6名が戦死)との連絡が途絶し、艦内に切り替わる。前部給気路より爆炎が侵入し、艦内で火災発生。更に左舷巡航タービンが離脱し、伝管の一部を封鎖。右舷前部機械室からは非常報知器がき渡り、鳴り止まない。取機からは蒸気が噴き出し、ここでも非常報知器が鳴らされる。被弾の衝撃機関の圧力が急降。右舷機関室の消火が急がれた。午前9時32分には飛行甲火災に見舞われ、操縦室は室温上昇により呼吸困難を誘発、在室不可能となった。その前部入り口で1名が戦死していた。午前9時46分、戦死者2名が発生。総員が救助に当たった。最終的に戦死者70名と負傷者約60名を出した。不幸中の幸いであったのは、アベンジャー雷撃機が抱えていた航空魚雷の精度が極めて悪い事だった。

応援に来た重巡部隊トラックに突き返す事が決まり、夕刻から続々と艦が出発していった。しかし機関を破壊された摩耶は出港できず、しばらくラバウルに留まる事になる。現地で応急修理を行い、出港の時を待った。搭載の零式偵1機と搭乗員を758に供出し、ハ号作戦の戦力に充てられた。襲後の16時8分、洋丸に横付けし、消防の援助を受けた。引火を防ぐため、洋丸に重を移していく。17時30分、右舷への傾斜7度を確認。21時15分、洋丸が離れる。日付が変わった翌6日午前0時、左舷前部機械室の鎮火に成功。はつたか丸の横付けを受けつつ、機械室の排作業を開始。11月7日午前10時35分より、排作業再開。山彦丸から300トンポンプを借用し、作業に勤しむ。13時35分、横付けしてきたはつたか丸に戦死者2名の遺体を引き渡す。ラバウルには未だに襲の兆があり、たびたび対戦闘が発されて作業を妨されている。翌8日午前10時機械室からの排了。午後12時20分、岩手丸が横付け。250トン供給を受ける。13時30分からは再びはつたか丸が横付けする。11月9日午前1時15分、「配置に就け」の号が下り、対戦闘

11月11日、再びラバウル襲を受ける。敵空母3隻が増援として現れ、より苛襲を仕掛けてきた。午前6時58分、警報が発せられ185機の敵機が殺到。午前7時5分、摩耶側も敵機100機以上を確認。50分後、30機以上の敵機編隊が接近し、対戦闘。これ以上の被害を避けるため、南東方面艦隊鹿任一中将は在泊艦艇の退避を下。夕刻16時30分、摩耶軽巡能代駆逐艦波、波の援護を受けて脱出。同じく損傷していた潜水母艦長駆逐艦五月雨とともにトラックへの逃避行を始める。翌12日午前0時25分、1機の敵機が触接。21分後、右10度に敵機を発見。臨戦態勢を整えたが、攻撃は受けなかった。が明けてからも敵機の触接が続き、気の休まる暇がかった。午前10時10分、上に直掩機が飛来。北上を続けていた11月13日能代波、波の3隻が摩耶の護衛から離脱。先行してラバウルから脱出していた阿賀野潜水艦スキャンプの雷撃で航行不能に陥る事態が発生し、救援をめていたのだ。残された艦艇は摩耶艦長の揮下に入り、逃避行を続けた。護衛を丸ごと引っこ抜かれた摩耶たち損傷艦。その一群にび寄る暗殺者がいた。午後12時5分、右70度に敵潜水艦を発見。駆逐艦爆雷攻撃を行い、撃退に成功した。幸い敵機の追撃はく、事虎口を脱した。

11月14日トラックに帰投。翌15日、艦政本部の杉山六蔵部長摩耶を視察し、損傷の具合から横須賀での大修理が決定。思ったより重傷だったため工作明石が出動、更に第一から第4戦隊工作兵が応援に駆けつけ、応急修理を実施。11月25日了した。続いて本格的な修理のため本土へ帰投する事に。伴走者は同じく本土に帰投する瑞鳳雲鷹冲鷹と護衛の駆逐艦4隻。空母3隻にはニューギニア方面から撤退してきた人員や機材を搭載。艦長の加藤四郎大佐が最先任だったため、摩耶が総揮を担当。11月30日に出港する。ところがトラックから冲鷹に向けて打たれた電報を敵軍に解析され、敵潜水艦スケート、セイルフィッシュ、ガンネルが待ちせを図る。トラックの北を単縦通過し、外洋に出ると対潜警のため隊形変更。先頭に摩耶が占位し、その後ろを瑞鳳が続航。瑞鳳の左90度に雲鷹が、雲鷹の後ろに冲鷹がついた。その外側を4隻の駆逐艦が警護した。速力20ノットを維持しながら之字運動を行い、本土をす。11月30日潜水艦スケートに捕捉される。1.4kmまで迫ると、雲鷹を狙って魚雷3本を発射。幸い、命中せず。駆逐艦爆雷を投下したが、逃げられている。12月2日硫黄島に潜んでいたガンネルレーダーで6つの物体を探知。やがて摩耶率いる艦隊を発見、空母へ向けて4本の魚雷を放ったが全て外れる。ガンネルは追跡を諦め、艦隊から離れていった。翌3日ウルトラ情報を受けたセイルフィッシュレーダーで1万2000m離れた艦隊を探知。だが接近できず、攻撃を断念している。しかし日後に浮上し、再びレーダーで探知。波は山のように高く、毎40mの強が吹きつける悪下。視界が利かなかったため、セイルフィッシュレーダーを頼りにび寄る。12月3日深夜、艦隊は八丈島の東約360kmの域を航行していた。季節外れの台風により、上は強暴風雨で視界不良。更に高い波浪が艦隊を翻弄していた。艦隊は予定の航路を通るため、敢えて回せず直進。暴風雨しさを増し、ついには隊形維持すら困難になってしまった。摩耶は発信号で僚艦に連絡し、18ノットに速力を落とした。列は乱れており、各々が単独で航行しているような状況だった。レーダーで艦隊を探知した敵潜セイルフィッシュが接近。この時の形は摩耶瑞鳳冲鷹雲鷹の単縦だった模様。翌14日午前0時12分、セイルフィッシュは4本の魚雷を発射。冲鷹に1本が直撃し、落。そしてそのまま討ち取られてしまった。

荒れた潜水艦包囲網を潜り抜け、12月5日横須賀へ帰港。21日から第四渠で修理近代化改装を実施。対火力の強化、バルジを装着しての復元性の改善、雷装の換装、その他戦訓の反映がな要であった。工事期間を6ヶとしたが、突貫工事で工期を短縮。まず三番を撤去するという思い切った案を採用。代わりに高を増備した。撤去されたE架でも一応対戦闘が可だったが、それでも発射速度や俯仰・旋回速度が遅く、急な戦況の変化に向かない欠点があったのだ。12cm単装高4基を撤去し、より高性な12.7cm連装高を上甲両舷に3基ずつ設置。更に25mm三連装機13基、単装9門、13mm単装36門を追加装備した。12.7cm連装高は、11名の員によって運用される半自動である。弾嚢包の装填も半自動式になっており、帝國海軍にしては高度に機械化されただった。また信管調定機構は非常に優れたもので、技術力に勝る同盟ドイツが12.7cm連装高提供依頼してきたほど。次にバルジを装着し、排水量が1万3350トンに増加。新たに21号電探と22号電探が装備され、機要員や高要員が待機する甲室も新設された。魚雷兵装にも手が加えられた。九二式61cm4連装水上発射管4基と換装し、次発装填装置も搭載。搭載本数は6本になり、以前の2倍の量を撃てるように改良。この改装により、防巡洋艦と呼べるほど対力が向上。雷兵装も強化され、強く生まれ変わった。増強された対力は日本重巡随一とされる。改装後の要排水量1万3350トン、全203.759m、最大幅20.72m、6.44m、出力13万馬力、最大速力34.25ノット。乗組員も996名に増加した。参考までに開戦時は921名である。他の姉妹艦とべて、少し容姿が変わった。計画では瑞雲を搭載する予定だったが、間に合わなかった。この改装工事中摩耶古参乗員のどが異動となり、代わりに新進気鋭の乗組員が補充された。松本艦長も横須賀鎮守府に転出となり、摩耶を去った。そんな中、東郷平八郎元帥の孫にあたる東郷良一少尉摩耶に乗艦してきた。「じじいじじい」という口の通り、生まれをに掛けない破天荒な快男子だったとか。同時に井上少尉が航長として着任。先のラバウル襲では、被弾した摩耶五十鈴の艦上から双眼鏡で見ていた。強く生まれ変わった摩耶の姿を見て、思わず感嘆のを放ったという。

12月26日、最後の艦長の大江賢治大佐が着任。同じく横須賀に入渠していた夕張艦長と兼任だった。

1944年

1944年2月17日トラックアメリカ軍大空襲を受けた。第4ドックに入渠していた摩耶にもそのニュースが届いた。3月6日、出渠。4月5日と6日に東京湾内で試が行われ、4月7日に再就役した。10日、永井貞三中佐が副長に着任。4月16日午後1時、島風に護衛されて横須賀を出港。半、串本潜水艦に雷撃されるも被害なし。

戦艦大和と合流し、動物園から寄贈されたサルが乗艦した。池田大佐率いる第33警備隊の隊員と物資を積載。駆逐艦4隻(島風早霜山雲雪風)を伴って4月21日に出港。中で山雲早霜が分離し、護衛は2隻に減った。艦内では乗組員がサル飼育し、上官に敬礼するよう仕込んでいた。4月26日マニラ寄港。夕刻、猛スコールに襲われる。そのせいで食糧品を受け取りに行ったランチが定刻を過ぎても戻ってこず、西山顕一大尉が心配した。22時頃になってようやく帰艦。スコール摩耶を見失って迷っていたとの事。新米少尉池田艇長は可哀想になるくらいを絞られた。翌27日、搭載物件を機帆船や大発に移して陸揚げする。4月29日に出港し、リンガをす。4月30日、護衛に浜風朝霜が加わる。5月1日19時リンガ泊地へ到着。人員1600名と機材2000トンの輸送に成功した。力艦や空母が集結するこの泊地で、あ号作戦に向けての訓練に従事する。5月11日、艦隊は大鳳に率いられ、リンガを出発。決戦予定域に近いタウイタウイ泊地へと移動した。5月15日タウイタウイ泊地へ到着。73隻の艦艇が一ヶ所に集結する姿は、まさに勇壮であった。入港の際、摩耶の姿が写真された。実は改装後の姿を撮った写真は非常に少なく、モデラーや歴史の頭を悩ませている。

あ号作戦

5月19日、第1機動艦隊の集結が了。タウイタウイ泊地は南西方面では数少ない、大艦隊を収容できる良港であった。南方310kmには産地のボルネタラカンがあり、訓練用の重は確保されていた。湾口には厳重な防備が施され、潜水艦が侵入出来ないほど。しかし湾外では敵潜水艦跳梁跋扈し、訓練を妨げられた。トラック環礁と違って、湾内では空母が発着艦訓練が出来るだけの広さはく、加えて状態の日が多かったため訓練が出来ない日が続く。対潜掃討に向かった駆逐艦も5隻が撃沈され、暗いを落とす事になる。また南部の環礁を囲む椰子の背が低く、戦艦の高いマストが外側から見える弊もあった。防諜面ではあまり好ましくない泊地と言える。翌20日、豊田副武連合艦隊長官は「あ号作戦」開始を発。同日中小沢三郎中将(摩耶元艦長)が旗艦大鳳上で訓示を行った。

6月11日アメリカ軍の大戦力がマリアナ諸に襲来。手始めに襲を始めた。6月13日、あ号作戦決戦準備発に伴ってタウイタウイ泊地を出港。翌14日にギマラスへ入港し、夕刻17時から玄洋丸に横付けして燃料補給を行う。灰色に覆われており、先行きを暗示しているかのようだった。不燃対策として燃えやすいものは全て陸揚げされた。そして6月15日アメリカ軍サイパンへの上陸を始めた。事前の猛襲により基地航空隊は壊滅しており、現地の守備隊は苦戦を強いられた。豊田長官から「あ号作戦決戦発動」が下午前8時、ギマラスを出港。攻囲を受けるサイパンを救うため、アメリカ艦隊が待ち構える域へと向かっていった。しかし出港直後から潜水艦キャバラに発見されてしまう。人知れず追跡を受け、その位置情報通報されるが、幸運にも敵本隊は受信に失敗していた。午前10時大江艦長は「総員甲集合」と命を出し、伝が走った。4番の後ろで木台の上に大江艦長が立った。彼を囲むように乗組員が集まる。皇居拝の後、艦長の低いいた。戦局の大勢と彼の戦力差、を決する決戦になる事を全乗員に伝えた。17時30分、サンベルナルジノ峡を突破し太平洋に出る。20時38分、小沢艦隊側も敵潜水艦が位置情報通報している事を知る。6月16日午前8時、敵機動部隊硫黄島方面で襲を行っているとの情報が入る。これを受けてパラオ西方の索敵を行うが、捕捉できず。15時30分、第一補給部隊と渾作戦から復帰してきた艦隊と合流。摩耶通しで洋上補給を受けた。翌17日15時30分、補給了。

6月17日15時、旗艦大鳳より「機動部隊は今より進撃、敵を索め之を撃滅せんとすを確信し、各員奮励努力せよ」と信号が届いた。この日の夕食には武運を祈って赤飯が振る舞われた。戦闘の慌しい合間を縫って、初級士官はガンルームに集まって冷が酌み交わされた。その時、ひょっこりと大江艦長が入ってきて「これが貴様たちの見納めである。輩の美声を聞かせてやろう」と言って、頭山節を2節歌った。6月18日午前5時空母艦載機による索敵を行う。全員戦闘装に着替え、配食は握り飯となった。15時40分頃に敵母艦群らしきものを発見。いよいよ決戦の火蓋が切られる。

6月19日マリアナ沖海戦に参加。午前3時30分、水上偵察機が索敵のため飛翔。これを皮切りに次々と索敵機が発進していく。第4戦隊は、前衛を務める第3航空戦隊の護衛についた。敵機動部隊日本艦隊を発見していない事もあり、戦闘は生起しなかった。西方から、航空機の編隊が接近した。大鳳を旗艦とする本隊から発進してきた味方の航空隊なのだが、駆逐艦が誤って対空砲火を上げてしまう。それにつられて周りの艦艇も対空砲火を上げ、同士討ちをしてしまう一幕があった。一友軍機だと理解していた戦艦武蔵から「友軍機を射撃するは遺憾なり」との電信が送られてきたが、「友軍機にあらず、すみやかに撃を開始せよ」という返信が返ってきた。味方機はバンク(を振り、味方だと知らせる行為)をし同士討ちは収まったが、撃たれた側は激怒していた。誤射をしなかったのは戦艦武蔵だけだと言われている。一方、本隊では敵潜の跳梁により虎の子の翔鶴と旗艦大鳳を喪失する。大鳳沈没の報は、乗員一同に落胆をもたらした。午後2時頃、大破炎上している大鳳の横を通る。立ち上る煙、左に大きく傾いた体、が見ても助からない状況だった。後甲に集まっていた大鳳乗員が摩耶に向かって手を振っているのが見えた。すると突然大鳳が傾斜を深め、集まっていた乗員が振り落とされる。あっという間の出来事だった。旗艦を瑞鶴に移し、一度西方に退却した小沢艦隊だったが、栗田中将率いる第2艦隊に夜戦を命じる。このため摩耶戦艦愛宕等とともに進撃を始めたが、謀だとして本から夜戦中止を下された。23時57分、連合艦隊より戦力の整頓のため西方に退避、損傷艦は内地及び訓練地に回航するよう命じられる。

6月20日午前4時機動部隊が潜んでいるであろう東方域の索敵を開始。午前7時、第1、第2補給部隊と会同し燃料補給を受ける。ところが午後3時5分、傍受した敵の通信によると既に小沢艦隊は発見されている事が判明。補給艦艇に対し、速やかに西方へ退避するよう命じる。摩耶に搭載された対電探は驚くべき高性を発揮し、200km離れた場所から敵機の襲来を探知していた。その甲斐あってか、小沢艦隊の上には75機の零戦が待機。16時、敵哨戒機に発見され、いよいよ機動部隊の逆襲が始まる。16時15分、摩耶艦載の2号機が敵機動部隊発見の報を出す。艦載機が敵発見の誉れを得た事で、艦内に活気が戻ってきた。17時東方から216機の敵機が襲来。残存艦艇が対戦闘を始める。零戦が迎撃に向かったが、多勢に勢で23機が撃墜されてしまった。摩耶千代田を守る輪形に加わり、戦艦金剛榛名駆逐艦朝霜等とともに数の敵機を迎え撃つ。空母に攻撃が集中したが、摩耶にも50機以上の敵機が襲い掛かる。摩耶対空砲は間断なく放たれ、斉射の振動が艦を揺らす。榛名が巨大な柱に隠された事で「榛名沈」と思われたが、崩れた柱の中から榛名が出てきたため安堵した。F6Fやドーントレスの襲撃により艦隊は回避運動を強いられ、母艦に帰投寸前だった友軍機は着艦の機会を逃す。そして燃料切れで1機、また1機と不時着していく。上には敵機と友軍機が入り乱れ、思うように対空砲火が撃てない状況が続く。17時30分、2機のドーントレスが矢のように降下してきた。対空砲を撃ちまくるが、敵は投弾。「面一杯!」と大江艦長が叫ぶ。摩耶体をよじり、爆弾は左舷30mに着弾。後続の敵機も投弾し、右舷側すれすれのところを通って中にした。至近弾である。中で爆発した爆弾の破片が四散して、艦内数ヶ所を貫通した。舷側バルジに浸し、2度傾斜。一連の攻撃で乗員16名が死亡、40名が負傷した。左舷には数の小破孔が生じていたという。右連管室に火災が発生し、大江艦長の示により魚雷8本が投棄された。乗組員の努力で消火に成功。佐藤太郎氏著書「戦艦武蔵」によると後甲被害が生じていたとの事。わずか15分程度の戦闘だったが、日本側は飛鷹を喪失する。

敵の襲を退けた後、小沢艦隊は生き残った空母や艦艇を率いて反撃に転じた。間雷撃のため空母から山が飛び立ち、水上艦艇には夜戦が命じられた。偵が発進し、明朝の会敵を狙って突進。しかし先発した雷撃隊が敵を発見できず。機動部隊航空兵力も少なく援護を期待出来ない事から、21時5分に作戦中止。豊田大将から、あ号作戦そのものの中止を命じられ、反転。退却を開始した。マリア決戦に敗れた日本艦隊は翔鶴大鳳飛鷹航空機300機以上、そして母艦搭乗員の78を失う大損を受けて沖縄へ遁走。襲に巻き込まれた給油艦2隻を自沈処分させられるおまけ付きである。一方、アメリカ軍は20機が撃墜。着艦失敗や燃料切れで80機を喪失した。乾坤一擲のあ号作戦が失敗に終わり、艦では沈痛な空気が流れた。言葉を発する者はおらず、静まり返っていた。敵空母は1隻も沈められず、こちらは大空母3隻を喪失。決戦兵力を失ったばかりか、西太平洋の制権さえ失ってしまった。大江艦長は何も言わず、直立不動のまま外を見つめていた。

6月22日13時沖縄中城湾へ仮泊。救助された翔鶴生存者は摩耶へ移乗した。翌23日に出港し、宿毛湾から出港してきた駆逐艦波・沖波と合流。護衛されながら6月25日横須賀へ入港する。あ号作戦部隊の任務を解かれ、敗北事実せられた。マリアナ沖海戦の教訓により対兵装の更なる強化を受ける。25mm機を21基に増やし、13号電探が追加された。これに伴って要員も増やされ、最終的に1071名となった。同時に、体に対する浮力維持や防火対策も施された。至近弾片によって破損した左舷バルジを修理するついでにペンキやリノリウムが剥がされ、カーテンやソファーなどの引火しやすい不急品は陸揚げされた。中甲や下甲などの隔は、やむを得ないものを除いて全て閉鎖され、防区画を貫いているパイプは潰しされた。勢いを増したアメリカ軍硫黄島への攻撃を強め、襲や艦砲射撃が増えてきた。7月3日襲があり、と翌4日には巡洋艦隊による艦砲射撃が行われた。大本営硫黄島への攻略企図があると判断し、第2艦隊の艦艇に敵巡洋艦隊を撃破するよう命摩耶への工事も一旦中止され、燃料を満載して待機。ところが、これ以降アメリカ軍の攻撃はかった。索敵機を飛ばしてみるも発見できず。予想された小笠原諸島への襲もかったため、危機は去った。出撃準備は7月5日に解除され、燃料豊富リンガ泊地で訓練を行うよう下した。

決戦の機運

7月8日大海421号にて連合艦隊長官に陸軍部隊(第28師団の歩兵三個大隊、砲兵一個大隊、速射一個大隊、高射砲一個大隊、工兵の一部)の輸送が命じられた。呂号輸送作戦と呼称された任務は第11戦隊導で行われ、機動部隊からは摩耶駆逐艦2隻が、呉鎮守府からは練習巡洋艦鹿島応援として増された。7月12日、出渠。第二艦隊は捷作戦を予測して戦備を整え、南方へ向かう事になった。内地では訓練用の重すら事欠く始末であり、燃料が豊富南方に進出した方が都合が良かった。駆逐艦朝雲とともに横須賀を出港し、を経由して14日に門へ到着。現地で長良練習巡洋艦鹿島駆逐艦浦風冬月清霜と合流した。門にて宮古島石垣島方面の防衛を担当する第28師団兵員を積載し、中津錨地に集結。摩耶浦風朝雲とともに第二輸送隊を結成し、翌15日に仮泊地を出発。7月16日未明に豊後通過し、7月17日夕刻に中城湾へ到着した。ここで輸送部隊は各々の的地に向かって離散。翌18日午前4時駆逐艦2隻を引き連れて中城湾を出港。午前10時30分、宮古島に到着し、物資と人員を揚陸。輸送任務を了させた。その後は原隊復帰のため南下し、7月20日17時マニラへ入港した。7月29日シンガポールへ入港。間もなくリンガに回航された。

リンガ到着後は、血の滲むような猛特訓が行われた。雷戦術のベテランで、勇猛果敢な大江賢治艦長は敵輸送団の泊地へ殴りこむ事を想定し、連日連、訓練の揮を執った。全ては捷作戦のため栗田健男中将の下、艦隊の対空砲戦訓練、対潜警訓練、電測射撃訓練、水上戦闘訓練、泊地突入訓練、魚雷戦訓練等が灼熱の洋上で行われた。日常的に暴力が横行し、自殺者が出るような過酷な訓練や環境だったと伝わる。いかんせん今回は航空機支援を得られないとして、全滅もありうる戦況だった。だが、その事が乗組員の戦意を奮い立たせた。乗組員の一の楽しみは、間訓練が終わった後の休憩であった。井上長は士官室で冷たいビールを飲み、ある者は将棋をさしたり、あるグループトランプを楽しんだりと思い思いに過ごした。断片的ながら敵情も入っており、決戦の日は近づきつつあった。8月1日、第2艦隊は第1遊撃部隊に改名。しかしながら南洋のうだるような暑さは乗員を苦しめた。新しい変化をめて、作戦が始まって欲しいと願う者もいた。士気の低下を恐れた第2艦隊は慰労のため、相撲大会や短艇競技を計画したり、巡回映画派遣や演芸大会が催された。8月下旬、摩耶の後甲映画館になった。艦尾に設けられた即席のスクリーン前に、乗員が集まる。高峰秀子演の「秀子の応援団長」と「一本土俵入り」が上映された。しかし途中で降り出したによりフィルムが切れてしまった。それでも上映会が終わってしばらくの間は女優秀子の話題が尽きなかったのだという。士官から兵に至るまで、彼女されていた。演芸大会も大変賑わった。各分隊ごとに優劣を競ったが、一番人気だったのは女性が登場する新悲劇であった。橋本清兵曹演の12分隊が第1位の栄誉を掴んだ。

9月2日、特設運送北上丸より生鮮食品の補給を受ける。9月4日摩耶の乗員の橋口大尉が第一特別基地隊大迫基地へ転属する。9月上旬、6日間のみだが休養のためセレター軍港に回航。乗組員はジョホールに上陸して休暇を楽しんだ。9月15日北上丸から食糧品の補給を受ける。9月24日にも北上丸から食糧品の補給を受けている。10月上旬、再びセレター軍港に入港し、最後の上陸をした。

10月16日連合艦隊部より「敵は中部方面に来攻の算大なり。栗田第一遊撃部隊は即時出動準備を了せよ」との電文が入った。翌17日、レイテ湾スルアン海軍所から「敵艦発見」の緊急電が飛んだ。いよいよアメリカ軍フィリピン奪還が始まったのだ。午前8時10分、リンガ泊地で訓練していた栗田健男中将揮下の第1遊撃部隊は、「速やかにブルネイに進出すべし」との命電を受ける。このため10月18日午前1時に出港。前進拠点ブルネイへと急いだ。間速力は18ノットに定め、対潜を厳重にしながら突き進んだ。航行中、出港前の旗艦愛宕で開かれた砲術会議に参加した菊田砲術長が会議の内容を詳しく伝えた。ナトゥナ通過した時、捷一号作戦が発される。航中にも戦況は変わり、翌19日には敵マッカーサーが率いる陸軍が上陸し橋頭堡を築く。中で2回対潜警報が出されたが、攻撃はかった。

10月20日午後12時15分、ブルネイ入港。燃料補給が行われるはずだったが、タラカンを出発した団が潜水艦の襲撃を受け、被害こそかったが到着が遅れていた。このため先行する形で戦艦駆逐艦巡洋艦に燃料補給をする事になった。その日の晩、戦艦大和が横付けし燃料補給が始まる。摩耶の甲士官だった東郷良一少尉が両手一杯にビールを担ぎ、「クラス会だ!」と叫びながら大和へ乗り込んでいったという。盛りしながら遅くまで語り合った。第2艦隊部と連合艦隊部は協議し、レイテ突入計画を策定したが、最も苦慮したのが進撃路の選定だった。ブルネイからレイテ湾までの航路は四通りあり、どれも一長一短で安全なものはかった。10月21日給油艦入港に伴って補給作業が始まる。給油艦、大和摩耶浜風の順に横一列となり、順次燃料補給が開始された。摩耶の横には駆逐艦朝雲が横付けし、重を補給。旗艦愛宕に各指揮官が参集し、作戦前の最後の打ち合わせを行う。レイテ湾の敵団を撃滅するため部隊を編成し、摩耶戦艦大和武蔵する力隊(栗田艦隊)に編入された。摩耶では慌しく出港及び戦闘準備が行われた。艦や重要戦闘配置は釣り床で覆われ、前後部マストのフラッピングも同様に施された。ランチ内火艇は収容されてロープで固定された。21時、「保開け」が下り、各配置ごとに摩耶神社に詣でてから各所で宴が開かれた。午後遅く、大江艦長が帰艦。レイテ湾への突入は25日午前0時とし、ブルネイ出撃は22日午前8時と定まった。艦内の喧騒も収まった深夜大江艦長は雷長の宇都宮大尉を呼び止めてシンミリと語りかけた。「明日出撃したら生きては帰れないよ。何しろ飛行機の掩護がいんだから。」「私なんぞは子供も死んでしまったし、いまさら生きる望みもいんだよ。(大江艦長の息子名取に乗り組んでいたが撃沈され生死不明となっていた)」といた。今度こそ摩耶はダメかもしれない。口にこそ出さなかったが、乗組員も薄々そう思っていた。

10月22日午前5時、全艦艇の燃料補給が了。補給した重量は1万5000トンだった。8時、栗田艦隊はブルネイを出港。在泊艦艇がこれを見送った。摩耶は、先頭を進む第2戦隊の後ろを続航する。出港直後にスコールに見舞われたが、すぐには静穏になった。晴れ栗田艦隊は18ノットに増速。午前10時3分、アベノロック北方通過午後12時45分、針路を15度に変えてパラワン入り口に向かった。レイテ湾を栗田艦隊の前途は多難だった。第一に敵潜水艦、第二に襲、第三に敵水上艦艇。3つの関門が、不動の山のように鎮座していたのである。まず最初に立ちはだかるのは敵潜水艦跋扈する。なるべく高速で魔の域を突破したかったが、これでは燃料が持たない。そこで間は18~20ノット、間は16~18ノットの速力で突破を図る。出港直後から対潜警報が何度も出され、乗員の心身は疲労していった。連合艦隊長官から「敵潜水艦に対し警を厳にされたし」と電報が届いた。傍受した敵潜水艦のやり取りから察するに、かなりの数が潜んでいてるようだった。各艦の見り員は食い入るように面を睨み、14時31分には能代が、15時35分には高雄が潜望の発見を報じたが、いずれも流木であった。17時52分、前路九六式陸攻が敵潜発見を通報したが、これも誤報であった。精神的負担は重なるばかり。21時軽巡矢矧魚雷音らしきものを探知し、赤色信号を発射。艦隊は緊急斉動で左に回避運動を取ったが、結局矢矧の虚探知と判断された。23時栗田艦隊は之字運動を中止。速力を16ノットに定めた。既に敵の圏に入っており、対もしなければならなかった。日付が変わった頃、艦隊はパラワンに差し掛かった。パラワン北上してシブヤンに入り、サンベルナルジノ峡を通過。25日にレイテ湾へ到達する予定だった。

最期

10月23日栗田艦隊は予定通りパラワン北上していた。日の出直前でまだは薄闇に包まれていた。前方には、潜水艦2隻が息を潜めて待ちせていた。午前5時20分、愛宕より全部隊宛に「作戦緊急発信中の敵潜水艦の感度極めて大」と警告を発する。10分後、栗田艦隊は18ノットに増速。之字運動A法を行った。訓練終了直後の午前6時33分、潜ダーターが6本の魚雷を発射、旗艦愛宕の右舷に4本が命中して撃沈される。高雄には2本が命中し、大破落。艦隊は混乱に陥る。そして摩耶にも魔手が迫った。ダーターと共同で襲撃していたデースは、重巡2隻と金剛戦艦1隻を認めた。大物を狙おうとしたデースは妙高羽黒無視し、金剛戦艦に照準を定めた。その戦艦こそ、摩耶だったのである。艦の大きさから戦艦と誤認されたようだ。皮な事に、改装で力強い姿になった事が命運を尽きさせてしまった。異説として愛宕が雷撃された際に艦隊が一斉回頭したが、その時に運悪く魚雷の射線上に入ってしまった(つまり流れ弾に当たった)とするものがある。

愛宕が被雷した事で、摩耶艦内は慌しくなった。「配置に就け」を意味するラッパが吹かれた後、危険を知らせるブザーが鳴りいた。軍医長が血相を変えて士官室に飛び込み、「愛宕がやられた!戦闘だ!」と仮眠を取っていた計長を叩き起こす。士官室は戦闘時には治療所となる。これを聞いて、計長は戦闘配置の艦へと向かっていった。既に艦内封鎖が行われ、艦の各階へのラッタルの出口は全てハッチが下ろされている。ハッチ中央にくり抜かれたマンホールを通り、昇っていく。上から降りて来る者、下から上がってくる者が押し合いへし合いになる。左舷には、高雄愛宕の姿が見える。艦内スピーカーから「各員交替で、戦闘装に着替え」というが聞こえてくる。東郷良一少尉戦闘配置の号を聞くと、すぐにラッタルを駆け下りていった。これが彼の最期の姿だった。水中聴音室から緊急ブザーがいた。「右前方に怪しき音」「左40度、雷跡!」およそ、1400mの地点から魚雷が飛んできた。昨晩から敵潜水艦に追跡されている事は分かっていた。しかし敵の静穏技術は想像以上だった。先に被雷した愛宕水中聴音器に反応はく、見り員がゴポッと吹き上がる気泡を1回見ただけで、後は何の拠も予備動作も見せなかった。上はいでいたにも関わらず発見できなかったのだ。

午前6時57分、デースから4本の魚雷が放たれ、っ直ぐに伸びてきた。艦長の大江賢治大佐は「面一杯」を下。そばに立つ航長井上団中佐は左舷前方から来る雷跡を見て、艦を右へ旋回させると艦の左舷側に直で命中する(つまり当たり判定が増える)と判断し、「戻せ!取り一杯!両舷機関前進一杯!」と下。副長は、次に起こりうる損傷を想定して「防」をした。左舷測的所では「向かってくる、近い!近い!」と宮野兵曹が絶叫。気泡の先端から約500m、摩耶は未だ回頭しない。艦首に直撃する寸前にようやく動き始めたが、全てが遅かった。それぞれ錨鎖庫、一番、第七室、後部機関室に直撃。音とともに煙が噴き出し、大火災に見舞われる。護衛の駆逐艦や全速で対潜掃討を行うが、戦果不明。突然の出来事に、艦長は呆然と直立。艦は左に傾き、騒然となる。「消火!」「右舷注!」「注揮所はどうしたか!?」「総員、右舷に寄れ!」「一番弾庫注」「お写真下ろせ!」と命と怒号が飛び交う。構造上の問題もあり左舷への傾斜を深めていく。やがて火庫に引火し、ぐんぐんと中へと引きずり込まれる。訓練の成果か、非常時の中にあってもテキパキと乗員は動いた。2本の煙突からは煙が噴き出し、汽が狂ったように鳴りいている。飛行機用のガソリンに引火し、炎のが甲上をめ尽くす。狭い通路は人で埋め尽くされ、傾斜も手伝って飛行甲にも行けない。副長から「傾斜復旧の見込みはありません」と報告を受ける。頷いた大江艦長は「この戦いは終わった。ただいまから天皇陛下の万歳を三唱する」とき、旗甲に出て、絞るようなで「天皇陛下万歳」と両手を高く上げた。「摩耶もいよいよか」。そう判断した乗組員たちは、つられるように万歳三唱と君が代の斉唱を行った。

もはやこれまでと判断した大江艦長が「総員退艦」を命じるが、この時には既に艦にまでが浸入していた。副長が「総員上がれ!」「総員退去!」と怒鳴る。計長は、総員名簿を持った計兵曹と一緒に脱出。艦の傾斜はより深くなり、乗組員は右へ右へと押し戻される。甲はもう立ってられないほどだった。が床になり、床がになる。摩耶は既に転覆しかけていた。右舷の線下が露わになり、を見せている。よく見るとフジツボのような殻が付着している。艦を見渡すと、井上長と大江艦長しか残っていない。井上長は艦長に脱出を促した後、靴を捨てて艦から脱出。面を泳ぎ、艦から離れた。摩耶の勇姿を称え、彼は「軍艦摩耶万歳!」を三唱した。まるで断末魔のように艦尾を高く上げ、突き出たスクリューゆっくりと回っていた。艦首中に突っ込み、逆立ちするような格好になっていく。へ飛び込んだ生存者は、艦が沈没する際に発生する渦潮に巻き込まれないよう必死に離れた。艦上部だけがしばらく浮いていたが、ついに中にする。沈む寸前まで、スクリューが回っていたという。被雷からわずか8分で沈没してしまった。片桐大自氏著書「聯合艦隊軍艦銘銘伝」によると4分とされる。大江艦長、永井副長、高城機関長など総勢336名が戦死した。沈没かったため、機関科や機械室の要員は先ず助からなかった。快男子だった東郷良一少尉も戦死。魚雷の直撃に巻き込まれ、即死したと言われている。摩耶生存者が面に投げ出されていたため、爆雷攻撃が上手く出来なかった。

菊池征男氏著書の「帝国海軍戦艦大全」によると、稲妻のような閃光が前方に迸った後、戦艦武蔵の防揮所から摩耶がポッキリ折れるのが見えたという。艦首と艦尾をへ突き出した後、艦内に誘爆が発生。音とともに沈んでいった。軍艦旗を降ろす暇さえかった。敵潜水艦の襲撃もあり、生存者は約3時間ほど漂流を強いられた。幸いな事に、気温が高かったため絶命する者は少なかった。サメは自分より大きな生き物を襲わないという事で、着ている物を全部脱いだ上で足首にフンドシを巻いた生存者もいる。午前9時生存726名は駆逐艦秋霜に救助された。体中が重まみれになっていたので、ぬるぬると滑って中々這い上がれなかったという。その後の15時45分、戦艦武蔵に移乗する。各々突然の出来事に、乗艦の沈没理解できない様子だった。その後の対戦闘に備え、武蔵乗員とともに配置に就いた。戦闘の際、武蔵の乗員に負傷者が出た時には交代要員として奮闘した。ところが武蔵は後のシブヤン戦で撃沈され、117名が死亡。--集中攻撃を浴び、命中弾多数を受けた武蔵は傾斜が酷くなりつつあった。沈没は不可避と考えた口敏少将は、摩耶生存者を巻き込むまいと部に駆逐艦への移乗を懇願。すると大駆逐艦島風が差し向けられた。10月24日18時30分、砲術長以下605名は駆逐艦島風に移乗。島風でも配置に就いた(そのうち5名が戦傷で亡くなった)。

1944年12月20日、除籍。摩耶愛宕鳥海の3隻は撃沈され、生き残った高雄も第5戦隊に転属した事から伝統を誇った第4艦隊は解隊された。戦後1984年10月23日、生き残った永末一元計長等が摩耶上寺に軍艦摩耶之碑を建立した。また名古屋市軍艦摩耶会が存在している。ちなみに永末元計長は潮書房人社出版の「重巡十八隻」にて、「重巡摩耶で体験した総員退艦せよ」という題名で自身の体験談をっている。

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