ロックバンドX JAPANのヴォーカル担当。1965年10月10日生まれ。千葉県館山市出身。本名は、出山利三(でやま としみつ トシゾウじゃないよ)。
超に超がつくほどのハイトーンボイスの持ち主であり、カラオケなどでまともに歌える男子諸君は数少ない。
90年代~2000年代初頭のバンドブームの火付け役と言っても過言ではないX JAPANではあるが、当時のバンド少年がXの楽曲をコピーする際に最も苦労したのが、ツーバスドコドコを可能とするドラマーでもなければ圧倒的技量を持つギタリストでもなく、Toshlと同じ声域を持つボーカル探しであったのは言うまでも無い。
また、Toshlのような澄んだハイトーンボイスは、国内の様々なバンドに影響を与え、ヴォーカリストに要求されるキーを一気に高くしたとも言われる。(現在でもヴィジュアル系バンドの多くはハイトーンを基調とした楽曲が数多い)
ちなみに、ヴォーカリストとしての技量が一番有名ではあるが、実はYOSHIKIばりのマルチプレイヤーでもあり、ピアノ、ギターのほか、ドラムを叩くこともできる。ピアノやギターは時折ソロライブでも見られるが、ドラムはパートチェンジバンドの時やXのライブでYOSHIKIが煽りを代わった時にプレイする様子を見ることができる。
2015年にWeb上で、自身のスイーツ好きを前面に出した番組「スウィーツKURENAI」を始めると、これが意外に好評だったと見えて、以後テレビ局のバラエティ番組によく出演するようになった。
Toshlがバラエティに出ることに抵抗のあるファンも多いようだが、Xは元々「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」にも出ていたので、それほどバラエティ番組に無縁というわけでは無い。(YOSHIKIも芸能人格付けチェック等に2019年も出演を続けている)
また、2018年より『龍玄とし』名義での活動も行っている。
概要
1970年ごろ 幼稚園のすみれ組で林芳樹(後のYOSHIKI)に出会う。
1993年 ソロ活動を開始するが、その頃から親族のトラブルが発生する。
1997年9月27~29日 3日間のセミナーを受講させられる。
1997年12月31日 X JAPAN、LAST LIVE。
1998年9月 洗脳報道が起こり、MASAYA、守谷とTVで変わり果てた姿でTVに出演する。
1999年 「詩旅」(うたたび)と称して、トーク&ライブで全国でドサ回りを始める。
2009年7月7日 脱走を試みるも失敗し、激しい暴行を受ける。
2009年10月22日 長年に渡る暴力と過労により、訪問先の金沢で肋間神経痛を起こし倒れる。
その直後、入院していた金沢大学附属病院からイベント会社社長の伝手を借りてHoHから逃亡に成功する。
真夜中に病院を抜け出した数時間後には、守谷がToshlを拉致しようと那須から金沢に現れており、
まさに間一髪の逃亡であった。
2010年1月18日 記者会見において、HoHとの決別及び破産申告と守谷香との離婚調停を発表する。
2010年2月24日 YOSHIKIプロデュースによる「Toshi LAST CONCERT“武士JAPAN”」を開催。これを境に、ソロ活動に、ひとまずの終止符を打つ。
2011年1月24~25日 ソロ活動を再開しソロディナーショーを開催する。この後もX JAPANの活動の傍らチャリティコンサートや講演会などを盛んに行う。
2014年7月23日 12年間に及ぶ洗脳時代の内幕を赤裸々に綴った「洗脳」を出版。
2014年8月25日 久々のソロコンサートとなる「CRYSTAL ROCK NIGHT SUMMER LIVE IN DAIBA 未来をEYEしてるゼ」を開催する。このライブはニコニコ生放送でも生中継された。
2018年11月28日 メジャーでは20年ぶり、そして自身初となるカバーアルバム『IM A SINGER』を発売。各種配信サイトで1位を獲得し、オリコンCDランキングでは週間4位の好セールスを記録した。
関連情報
2010年のソロ活動停止から「Toshl」と改名。「l」は「I」ではなく「L」の小文字。
地獄の洗脳生活と脱出
上記の通り、Toshlは1998年から2010年の12年に亘り、倉渕透(以下MASAYA)による洗脳を受け、守谷香からの激しいDVを受けていた。
2014年に発売された洗脳時代を綴った自伝『洗脳 ~地獄の12年からの生還~』を元に、以下に詳細を記したいと思う。
何故なら、二度と被害を出してほしくない、というToshlの願いとは裏腹に洗脳時代のToshlについてをまとめているページがこの広大なインターネットに於いても非常に乏しく、ウィキペディアでは数行の説明だけでほとんど言及にも及ばずと言う事態になっているからである。
二度とToshlのような被害者を出さないため、という彼の意思を尊重し、極力詳細を記したいと思うので、嫌悪感を示す部分が多々あると思われるが、読むのが辛い場合、気持ちが落ち着いてから改めて読んでほしい。
あと、興味ナイ人は長いので飛ばしてねん。
※現在のトシ表記はToshlだが、以下洗脳についての記述では特別な場合を除き旧名かつ当時の表記である『TOSHI』の表記とさせていただきます。
長年にわたり、人を騙し続けること。
それはある意味「人を殺害する」その行為以上に残虐ともいえる。人の心を操り、それをどこまでも繰り返すこと、それが「洗脳」という恐ろしさである。
周囲の裏切り
1992年、TOSHIはソロ・デビューにあたって、個人事務所『イエス・ミュージック・オフィス』を設立する。
このソロ活動自体は、元々X JAPANのリーダーでもあるYOSHIKIがそれぞれのメンバーへと提案し、「全員がソロで一応バラバラに独り立ちし、かつ必要なときがくればバンドとして活動して行くのが理想の形としていいのではないか?」という考えからで、Xの多忙さから実質名ばかりの契約ではあったものの、YOSHIKIもソロミュージシャン単体でのレコード契約を早くに済ませている。
10月21日にHIDEも参加したソロデビューシングル『made in HEAVEN』を発売、さらにPATAも参加した同名アルバムを11月に発売すると、翌年3月には坂崎幸之助や福山雅治もゲスト出演したソロコンサートの開催などで華々しくソロデビューを飾る。
この時に、事務所の社長にTOSHIが就任させたのが長兄、出山謙一だった。
長兄は高校時代に上京し、芸能界を目指したものの夢破れて大手芸能事務所やレコード会社の社員として働いていた。個人事務所設立に当たって、長兄から「自分が事務所の社長をやってあげるよ」と連絡があり、幼い頃から音楽的にも影響を受け、また経歴にも安心し、憧れの存在でもあった彼ならと社長職へ就任させた。
1992年4月に始まった「X TOSHIのオールナイトニッポン」にも共に出演(デヤケンという愛称で登場していた)するなど、彼が果たせなかったタレントへの夢を自身のトークの相手役として叶えるなどして、弟からのささやかなプレゼントと思ってしてしまったこの行為が、後の悲劇の始まりとなる。
長兄は、そのラジオ出演でちょっとした有名人になり、社長としての給与もあったため、長兄の素行は次第に悪化、自分自身が有名タレントにでもなったかのような堕落したものへと変貌して行く。
「社長業を疎かにしないでくれ」と何度もTOSHIは忠告したが、「石井光三のようになりたいんだ」などと言って聴く耳を持たず、さらにその長兄の振る舞いはYOSHIKIをはじめとしたXメンバーやその事務所にもクレームが入るようになり、さらに週刊誌のゴシップネタにもなりかけていた。
結局、こうした思い上がりに加え、縁故採用による身内での事務所経営に困り果てたTOSHIは長兄を解任する。
この際に手切れ金数百万円を手渡ししたが、次期社長に選任した武敦史が会社を乗っ取ったなどという妄言を周囲に漏らしており、これは深くTOSHIを傷つけることとなった。
同じ頃、TOSHIの実母が自分に無許可で生家にファンを入れ、お金を取ってYOSHIKIや自分の幼少期の写真を見せたり、その写真をファンに撮らせたり、デビュー前のビデオを見せたりといったことを行っていた。
このように、自宅に押しかけたりしたファン自体も許せるものではないものの、当時のXに限ったことではないが、この頃は当然インターネットなども無く、そうした「人気バンドのデビュー前」を知るにはファンはそのバンドと縁の深い人物を尋ねる(所謂追っかけ)くらいしか方法が無かった。また、当時のXは社会現象とまで言われるほどの人気であり、過激なファンが他のどのロックバンドよりも数多くいたということもまた事実ではある。とはいえ、このような行為が許されるはずも無く、X関係者やYOSHIKIらにもクレームが度々寄せられるようになった。
さらにその次期社長の武も、もとは経営者としての長兄のアドバイザーになっていたことや、古くからの付き合いである友人ということもあって信頼し、X本体のマネージメント事務所の社長も兼任し、就任に際してTOSHIが責任を負うという契約だったのだが、1年ほど経って不正経理などの金銭トラブルが発覚し、当然解任。
こうしたトラブルで、一見順風満帆に見えたトップスターTOSHIは、その謝罪に追われることになり、日々関係者に平謝りを続けるといったことが続いた。
もともとの家族仲や友人付き合いは悪いほうではなかったものの、これらの出来事でそれまでの自分の中での家族像が崩壊して行く現実や変わっていく友人に「自分自身に問題があるのではないか?」という自己嫌悪とともに深い失望を抱えることになった。
ハムレットと悪女の出会い
1993年4月、TOSHIは『ART OF LIFE』(30分あるX最長の曲)のヴォーカルレコーディングのためにロサンゼルスに滞在していたが、ソロとしての新たな仕事の依頼が舞い込む。
ロック・オペラ『ハムレット』の主役ハムレットを演じてくれないか?というものだった。
※注:劇自体はローリー寺西、聖飢魔II、山本リンダらが出演するロックミュージカルで、後述の団体とは無関係。後にLIVE is BESTに楽曲が収録され、当時の音源で未発表曲「不意に途切れたMelody」を聴くことが出来る。
HIDEはXからの長期離脱を理由に反対していたが、YOSHIKIの鶴の一声で出演が決定する。
この仕事を引き受けた事が後に始まる地獄への入り口だとは、TOSHIはこの時知るすべも無かった。
1993年5月、ハムレットの恋人オフィーリア役の最終オーディションのために、TOSHIは一時帰国し、一般公募3000人から書類選考で30人ほどに絞られ、最終的に2人となった。製作側とTOSHIのマネージメントを務めていた武とで意見が分かれ、交代で一役を演じる「ダブルキャスト」ということで落ち着いたが、そのうち演技力や歌唱力で劣るものの、おとなしい雰囲気が逆に印象的だったのが彼を地獄の釜の底に突き落とすことになる守谷香そのひとだった。
なお、守谷は86年にFM公開放送に出演したのをきっかけに87年にアイドル歌手としてデビュー、88年にはテレビアニメ「キテレツ大百科」のOPを歌ったりもしていたが、泣かず飛ばずで89年以降は歌手活動をおこなっていなかった。
オペラは10月に成功裏に終了し、守谷とTOSHIは暫く疎遠になっていたが、再度レコーディングのため渡米していた94年春ごろから頻繁に手紙が届くようになる。それは、次第に1ヶ月から2週間、そして3日と数も増え、間隔も短くなっていった。
まだ電子メールが一般的でない時代、異国の地で知り合いもいないTOSHIにとって、これは「心の癒し」となっていき、「XのTOSHIではなく、本当のあなたが知りたい」といった甘い言葉に自分の理想の女性像を見出していたTOSHIは先述のトラブルから心の拠り所として守谷に愛情を抱くようになる。
癒しへの傾倒
武の金銭事件以降、憔悴しきっていたTOSHIは、当時ニューヨークでバンカーとして働いていた次兄出山英二を訪ねる。
長兄よりも冷静であり、ビジネスマンとしての能力にも長けていた次兄にダメ元で社長就任を依頼し、暫く考えさせてほしいという答えをもらう(後に社長就任)。
その年の秋、心身ともに疲れ果てたTOSHIは楽曲作りと静養を兼ねてハワイに滞在、帰国後守谷と再会し「がんばった身体さんと心さんをぎゅっと抱きしめてあげてくださいね。」などといった「やさしい言葉」をTOSHIにかけると、涙をためながら俳句調のメッセージカードを100枚ほどプレゼントされる。その1枚にこうあった。
「死ぬときは 手と手を繋ぎ 逝きましょう」
紛れもない彼女からのプロポーズだったが、孤独に喘いでいたTOSHIにはその言葉が心に染み渡った。
かくして、TOSHIは守谷と真剣交際することとなり、精神世界、スピリチュアル、宇宙といった話を聴かされるようになり、TOSHI自身もそうした内容に興味があったことで、彼女の世界に引き込まれていく。
この頃から、ニューエイジ、ヒーリングといったジャンルに傾倒していくが、その背景にはトラブルばかりの現実からの逃避があったという。
また、ソロ活動ではアルバム『MISSION』(1994年)を製作しているが、アルバム内に収録されたシングル『Looming』(1993年)の歌詞に「紅の色が褪せ始めた この丘降りよう 戸惑いと切なさ置いて」というものがあり、当時のファンの間でYOSHIKIらメンバーとの確執でもあるのではないか?と物議を醸していた。
(しかし、92~94年ごろはテレビやラジオ出演時に恋人同士のごとくいちゃついていたり、ハムレットの俳優人顔合わせでまるで保護者のごとくTOSHIと共に現れたりと、今に通ずるじゃれあいもかなりあった)
93年から95年のソロ活動にはそうしたヒーリングへの傾倒からか、主に桑田佳祐らがメインとして主催するアミューズ系ミュージシャンや俳優が集うエイズ啓発活動のアクト・アゲインスト・エイズのコンサートへの出演も含まれた(Xメンバーでは唯一の出演実績保持者)。
1995年、YOSHIKIはXの世界進出を本格化させ、ニューアルバム『DAHLIA』のレコーディングがスタートする。
HIDEを筆頭にソロ活動も爆発的人気となり、あと待ち望まれるのはX JAPAN初のアルバムにして、世界デビュー作だけという状況だったが、守谷の影響でメタルロックでのヴォーカリストという立場に違和感を覚え始め、歌声、ピッチ、感情、リズムに加えネイティブな英語発音に拘る完全主義者のYOSHIKIとの間にも次第に亀裂が生じていた。
守谷を擁護するわけではないが、事実このレコーディングは数年に及んだにも関わらず延々終わりが見えてこない状態でXがバンドとして空中分解寸前であり、YOSHIKIが素人ではほとんど違いがわからないほどの細かい部分での要求をTOSHIに指示する、TOSHI自身にもレコーディングで意見を言うことすら許されない険悪なムードが漂っているといったものがメイキング映像で記録されている。
「喉に注射までして一生懸命レコーディングしたのに、YOSHIKIに灰皿を投げられ、能無し!と言われた」「TOSHIがYOSHIKIに曲を提出しても1曲も採用してもらえなかった」「YOSHIKIに自分のソロ作品を聴いてもらうと「眠くなる」と言われ、CDを折られた」「TOSHIが風邪で体調が悪い時にRECがあり、注射をしても声が出なかったので、YOSHIKIに火のついたタバコを背中に押し付けられた」「Xが外国デビューできなかった原因がTOSHIの発音のせいだとしつこくYOSHIKIに言われ続けた」といった後世の一部誇張したテンプレがあるが、真偽はともかく、そのような噂話が後々まで語られてしまうほどの壮絶なレコーディングであったということは紛れもない事実である(後年、このレコーディングをToshlは「芸術(アート)を創って行く作業に等しかった」と振り返っている)。
なお、さらにTOSHIを追い詰めていった背景には、当時のファンの行動もその一つに数えられることがある。
当時、Xは世間で「お騒がせバンド」といった風潮で捉えられることも少なくなく、ハマる人は骨の髄までその音楽に魅了される一方で、流行に乗じたいだけの「にわかファン」がかなり多いことも有名だった(先述の自宅に押しかけるようなファンは大半がこれに分類されていた)。
今でこそ、ニコニコのコメントでTOSHIのヴォーカルを純粋に高評価する者やコール&レスポンスでTOSHIの名前を叫ぶファンも珍しくないが、90年代当時ではこうした彼らの音楽性とは別の「カリスマ性やファッションセンス」を目当てとしている傾向がファン(特に女性)には多く見られていた。
実際、音楽専門雑誌ですら、彼らの音楽性を過小評価している傾向があった(ART OF LIFEに0点がつけられたことすらあったほか、DAHLIAリリース時には「次はもっと早く作ってね!」といった皮肉まで載っていた)。そして、ライブに於いてはその声援の殆どがYOSHIKI、若しくはHIDEに向けられていた。アドリブ的なTOSHIのアカペラパートに入った時でさえ「YOSHIKI~♪」といった声援が飛んでいることも珍しくなかった。癒しコンサートのMCでは度々これを悔しがるような発言が多く見られていたが、それが本心だったのかは定かではない。
このようにフロントマン以外に人気が集中してしまうといった傾向は歌唱者と楽曲製作担当が同じサザンオールスターズやMr.Childrenのようなバンド、B'zやゆず、コブクロのような少人数ユニットにはあまり見られないが、LUNA SEA、GLAYといった歌唱担当へ楽曲担当がオリジナル作品を書き下ろしていくことでバンドの世界観を構築していくバンドには多く見られるもので、時にはそれ自体が解散原因となることも少なくない(有名どころではC-C-Bがこの種の問題で不仲になり、解散に至ったというものがある)。但し、前者のパターンも次第にワンマンバンド化する傾向があるため、一概にどちらが優れた形態とは言い難い。
しかし、「お前たち、会いたかったぜ!!」「気合入れろ!悔い残すなよ!!」といったお約束の煽りに代表されるX JAPANのステージを構築し、大型会場を一つにするその世界観に魅力を感じていたファンも多かったこともまた事実である(煽りに応える5万人の観衆が放つ地鳴りのような声援自体がTOSHIに対する最大の賛辞といっても過言ではない)。
さらに守谷は「見えも格好もいらない。金髪もメイクも必要ない。ありのままのトシでいればいい。」といったアドバイスを入れ込み、TOSHIはそれまでのロングヘアーやサングラスをやめ、ステージ衣装すらジャケットを羽織るだけのスタイルにチェンジした。他のメンバーも徐々にナチュラルメイクに戻していた頃であったため、ファンの中でも単純なスタイルチェンジと捉えていた者も多かったが、YOSHIKIをはじめとしてそのあまりに地味な姿に疑問を抱くものも少なくなかった。既にヴィジュアル系ロックバンドのフロントマンとしての姿はもはや存在しなかった。
こうしたYOSHIKIの要求に応えられることのできない自分自身に激しい憤りを感じ、また自分のヴォーカリストとしてのレベルの低さにも心底自身を失っていたTOSHIはX JAPANのメンバーとして活動を続けることに対する気力も、またその資格もないとすっかり意気消沈してしまう。
1995年3月、次兄が社長就任を承諾するものの、武のトラブルが未だ尾を引いており、CMスポンサーからのクレームが来るなどトラブルはさらに大きくなり、Xに自分がいれば迷惑になる、という考えにまで陥ってしまう。
そんなときに守谷は「Xにいれば貴方はダメになって行く一方だ」といった言葉をかけていた。
そんな折に、DAHLIAツアーはアルバムが無いまま開始され、どの公演も満員の熱狂的な観衆で溢れ返った。
アルバム『DAHLIA』は何とか1996年11月に発売されたものの、それは世界デビュー作ではなく、直近のシングルを網羅したシングルコレクション的な作品となった。
96年の12月、年末ドーム公演を控えたある夜、守谷は1枚のCDをかけた。
このCDこそ、後にTOSHIを破滅に追いやる張本人倉渕透=MASAYAのCDだった。
「この曲を聴くと涙が出る。すばらしい」と泣きながら絶賛する守谷に困惑しながらも、TOSHIは曖昧な返事をしてしまう。その瞬間「もうXなんか辞めていいんだよ! 家族とも縁を切って人の心を癒せるようなこういう作品を歌えばいい!」と訴えた。
TOSHIは感情的になる守谷にそれまでも違和感を覚えていたが、このときに「本気で自分のことを考えてくれている」と思い込み、守谷という存在に依存するような精神状態へとなっていき、周囲とも疎遠になっていく。
X JAPAN 脱退
1997年1月にアルバム、ツアーとも完了したXは再び一時の活動休止状態となる。
そこでTOSHIは2つの大きな決断をする。
『X JAPANの脱退』『守谷香との入籍』の2つである。
親身に接してくれた守谷との新たな人生を歩むこと、トシは彼女のせいで変わってしまったという悪評から守るということでの決意であり、X脱退は新たな人生のスタートとの引き換えにYOSHIKIとの人生を終わりにするということだった。特にX脱退は守谷たっての希望だった。
そして何よりTOSHI自身が、過酷なレコーディングによってX JAPANのボーカルを続ける自信を失っていた。
4月2日、ロサンゼルスのスタジオを訪れたTOSHIはYOSHIKIに脱退を申し入れる。
「わかったよ・・・TOSHI・・・」と意外にあっさりとした言葉が返ってきたが、冷静に「他のメンバーを呼んで話し合っていいか?」とHIDE、HEATHを呼び出す。
この場でHIDEは「またTOSHIくんか!」と憤り、「ヴォーカルがいなくなったらXはどうなる! 俺たちの人生どうなるんだ!!」と怒りをぶちまけた。HIDEは続ける。「どんなことが起こっても、自分たちで解決してきたじゃないか! XはTOSHIくんだけの人生じゃなくて、みんなの人生でもあるんだ! この先、俺たちはどうすりゃいいんだ!」と猛反対した。
そのやり取りをYOSHIKIはギターを爪弾きながら俯いて聞いていた。
「HIDEちゃん、俺も長い間悩みぬいて決めた結論なんだ、もうXに全身全霊で打ち込めない自分がいる。こんな気持ちで自分にウソをついてまでみんなとやっていけない。新たな人との出会いがあって、新たな価値観が生まれた。俺、これからは人を救いたいんだよ」
そういってHIDEを諭したが、「救えばいいじゃん、音楽で!」と返され、「Xではそれはできない。本当の意味で人を救いたい。」と返事をした。HIDEは「ロックバンドでは人を救えないのか!?」と尋ね、TOSHIは「そうだよ」と答える。ギターを弾いていたYOSHIKIの手もこれには止まってしまい、HEATHは何も言わず一点を見つめていた。
HIDEは呆れてしまい、その後暫く二の句が出ない時間が続いた。
YOSHIKIは「ここまで脱退を決めているんだから、今更引き止めることは出来ない」とHIDEをなだめるとTOSHIはいたたまれなくなり、「みんな、本当にごめん、今までありがとう」と言い残すと振り返ることなく立ち去っていった。目には大量の涙が溢れていた。
1997年9月22日、X JAPANは読売新聞上に全面広告を展開、午後緊急記者会見を開き、正式に解散を発表した。
理由はTOSHI脱退に伴う後任ヴォーカリストの不在で、既にTOSHI前提で描かれたYOSHIKIの世界観を表現できる者はおらず、残されたメンバーでの活動も不可能と判断し、このままの状態では解散せざるを得ない状況に陥ったためとYOSHIKIから説明がある。また、最後のシングルを11月に発売予定(結局、翌年3月にずれ込み「THE LAST SONG」として発表)、未定だが解散ライブの検討をしていると語る。この場には普段の奇抜な衣装を封印した全員黒スーツの正装で登場したが、この記者会見にTOSHIの姿は無かった。
それまで、幾度と無く解散説や分裂報道が飛ばし記事で載ったこともあり、この日もファンは会見場周辺に集まり、またいつものようにYOSHIKIの口から「そんな事実は無い」とはっきり否定してくれることを願っていたが、この日は真剣な表情で「本日、9月22日をもってX JAPANは解散します」と語った。この言葉に泣き崩れる者、絶叫して暴れるファン、倒れこむ女性などが相次ぎ、その大人気ロックバンドの突然の解散発表に日本中が大騒ぎになった。
TOSHIは東海林のり子宛のFAXで「4月に脱退を申し入れたのは事実だったが、この会見は知らされていなかった。様々な狂いが修復不可能になったことで歌うことが困難になった」といった内容を送ったが、これにYOSHIKIは激怒し、「THE LAST SONG」のレコーディングはスタッフのみと話を付けてTOSHIとは一切言葉を交わさなかった。
洗脳の始まり
入籍直後より守谷はMASAYAプロデュースの屋久島にあるというリゾートホテルへ行きたいとせがむようになる。
1997年6月、促されるまま島の「レムリアアイランド リゾートホテル」を訪れる。お世辞にもリゾートホテルとは言い難い簡素な宿だったが、奥にある美術館に案内されると、MASAYAの音楽と共に、4月に亡くなったと言う松田のりえなる無名芸術家の作品が数点展示されていた。
その純粋な絵やメッセージに少しの感動を覚えたTOSHIだったが、守谷は館内で大泣きし始める。ホテルスタッフが「いいんですよ」などと慰めの言葉をかけ、TOSHIもどこと無く雰囲気に飲まれて涙を流していた。
チェックアウトのとき、東京南麻布の松田のりえ美術館でMASAYAの内輪コンサートが開催されることを告げられる。「普段は一般人は入れないが、あなた方は特別に許可された」などという誘い文句で、守谷は絶対に行くといっていたが、TOSHIはまだソロの仕事もあったため、曖昧に答えた。結局、8月にそのコンサートには参加する(チケット代が11000円とやや割高である。因みにXは当時でも8000円前後)。
コンサートとは名ばかりで、先述の画家の話などの長々としたトークにカラオケで歌うというプロのロッカーだったTOSHIにすればお粗末以外の何者でもなく、挙句曲が終わるたびに鼻をズーズーと啜り、ティッシュに痰を吐くなどというステージマンとは思えないような行動も目立った。
しかし、周りの客は一様に肩を落とし、俯いたまま涙に暮れていた。その異様な雰囲気に「これは何かおかしな宗教の集まりなのでは?」と疑念を抱いた。この時点でTOSHIはまだ多少は正常な判断能力があったことが伺えるものの、守谷まで同じ様子だったことから「感受性も涙もない自分のほうが異常なのでは?」という考えも浮かんでしまう。後にわかったことだが、この観客はほぼ全員がMASAYA主催団体のスタッフで、TOSHIの最初の考えは何も間違っていなかったのである。
コンサート終演後、MASAYAが突然自分の下に降りて「特別にお話してもいい」という。
守谷はすかさず面談を申し入れ、2階の部屋へと案内されると
「幼少期から歌手デビュー、19で企業を立ち上げ、20代前半で与輪島にあるプリシアリゾートを創建、27歳で一部上場企業の史上最年少役員となり、地位も名声もすべて手に入れたが競争や足の引っ張り合いの虚しさを覚えただけだった。ところが、ある女性社長に誘われてセミナーを受けて人生が変わった」
などという生い立ちを語ると自分の音楽についても「インディーズではあるが、売り上げは高く、日本ゴールドディスク大賞のインストゥルメンタル・アルバム・オブ・ザ・イヤーへのノミネート実績もある」と語った。Xの活動で賞の価値を知っていたTOSHIはすっかりMASAYAに感心してしまう。
そして、セミナーのことを語り始める。
「名が売れずとも、本質的なものが人を感動させる。地球に貢献できる本質的なものだけを作り、それがわかる人だけに売る。それだけで十分豊かだ。自分は数万人にセミナーを受けさせた。これからは癒しの時代。自然界の流れにあった本質的なものだけが生き残る」
と、一見もっともらしいが、冷静に考えれば胡散臭い話を並べ、ステージと同じように鼻をズルズル啜り、痰を吐きながらそうした話をつらつらとTOSHIに語りかけた。その後しばらく守谷はMASAYAのセミナーを受けよう受けようと誘うようになる。
暫く後、美術館を再度尋ねると、MASAYAから松田の遺品であるぬいぐるみとその中に入っていた30cmほどの遺髪を見せるなどといった常軌を逸した行動をとるが、やはり守谷は泣き濡れている。「セミナーを受けたからこんな才能が開花した」「受けなければ表面的なヒーリングになるだけ。セミナーを受けない奴は人間じゃない!」などと自信満々に語るのだった。「MASAYAの曲を歌うことはできるのか」「TOSHIもMASAYAのようなアーティストになれるのか?」などと守谷は尋ね、TOSHIもMASAYAという人物に魅了されはじめ、セミナーへの興味を深めていった。
帰宅するとすぐにスタッフから電話があり「今はセミナーをやっていないが、MASAYAに頼めば特別に開催する。受けたいですか?」という勧誘だった。守谷に促されるまま「受けたい」と答えてしまったTOSHI宅にすぐに申し込みのFAXが送られてきた。
自己啓発セミナー
1997年9月上旬、説明会当日にTOSHIは39度の高熱を出す。
朦朧とする意識の中で団体の執拗な勧誘電話と守谷のヒステリックな態度に折れ、参加する。
説明会の中で模擬的なセミナーも行われたが、やはりあの異様な雰囲気が漂う。
「変な宗教なのではないか?」という疑念は未だ晴れなかったが模擬セミナーが行われた後、MASAYAがこれ以上の具体的な内容は守秘義務に触れる、受けることで自分の本質に気付き、本来の役割に気付くことが出来る、などと語った。直後にスタッフが現れ、セミナーの申し込み用紙が手渡され、「ここで自分の意思で決めるように」と迫る。
スケジュールの調整もあったため、持ち帰ろうとしたが、スタッフは執拗に「その抵抗があなたのパターンです。他人の顔色を伺うのはやめ、自分の意思で決めなさい!」などと説得が続いた。守谷からも同様の説得が続く。
逃げ場がなくなったTOSHIは熱で判断力が低下していた中、とうとう名前、参加日、費用振込日を記入してしまう(費用は一人7万、二人で14万とトンでもない額だった)。当日参加しなければいい、と安易に考えていたが、これこそが取り返しの付かない事態へのカウントダウンだった。
X解散会見の5日後、「アイランドセルフトレーニング」なるホームオブハート主催のセミナーについに参加してしまう。
守谷以外の誰にも知られぬようにここまで来てしまったが、なおも躊躇するTOSHIにもはや逃げ道は無く、言われるがまま建物の地下室へと案内された。
部屋には男女十数人が既に座っていた(これもTOSHIと女性一人を除き全員スタッフ)。
ついに始まったセミナーはホワイトボードに「これは自分をみるトレーニングです」と書かれた工程からはじまった。
どうしていいのかわからずキョロキョロしていたが、その後、MASAYAが現れ「周りの様子を気にした人、何が起こったか心配になった人、どうすればいいのか不安だった人、どういう意味なのか裏を疑った人は? それがあなたの人生です」と語る。TOSHIは「たしかにその通りかもしれない」と興味を惹かれていく。
次に行われたのが「出会いの実習」というものだった。ルールは部屋を歩き回って出会った相手に「近づきやすいです」「近づきにくいです」「よくわかりません」の3つから1つを選んで相手に伝える、というものだった。
TOSHIはほぼ全員に「近づきやすい」と答えたが、逆にほぼ全員から「近づきにくい」と言われ、妻からですら「よくわかりません」と返答を受けた。
こうしてショックを受けたTOSHIだったが、MASAYAは「よく見られたくてうそを言った人はいないか? 顔色を伺って本当のことを言わなかっただけでは? 自分もこう言うから相手にもそれを望むよう媚びているかも知れません」と語り、ますます興味を惹かれていってしまう。
その後、「100%参加」「トレーナーの指示には絶対服従」「内容は他言しない」「天気会話禁止」といったグランドルールの説明が行われ、例によって鼻をズーズー啜りながら2時間近くも続けられた。
さらに、「ここから先へ参加するかどうかを自分で決めろ。帰宅するなら費用は返金する。」とあった。しかし、参加しないと答える人は皆無で、興味を惹かれていたTOSHIはなし崩し的にその先へも入ってしまう。
2日目に入り、「シェアー」という幼少期の悲惨な体験、その時の気持ちを洗いざらい話し、その体験を共有するという実習が行われた。その体験談はひどい物、罵倒が汚いほどMASAYAに褒められる。普通のことを言ってしまうと「こういうことがあっただろう?」と誘導して記憶が歪められて行く。TOSHIも兄や母に対する話を行ったが、次第に本当に肉親から虐待を受けたかのように思い込んでしまう。
さらに続く「セラピー」という実習では床に丸めたマットを憎い人物に見立てて怒りを身体全体で表現するということが行われ、思うように出来ず、また最後の良心から肉親を憎むこともできず度々嘔吐してしまう。
MASAYAは「本当のことも言えない、抵抗があるから吐いてしまうんだ」「そんなものは親がお前をおとなしくさせるために植えつけた。捨てて自由になってぶち壊せ」などと大声を上げる。周りの男性もそうした言葉を伝えるとTOSHIはタガが外れたかのように「テメエのせいでこんな弱虫になったんだ!」と自分でも信じられないような言葉で暴れ始めた。
さらに奥の照明もない倉庫(セラピールーム)で、おもちゃのナイフを渡され、さらに行為は続く。心身虚脱状態になったTOSHIは記憶を完全に歪められ、憎悪が植えつけられ、心が変貌していった。
さらに「ほしいものダイヤード」「完了の実習」「想像瞑想」「インディアンゲーム」といった実習が重ねられMASAYAはすごい、セミナーは素晴らしいと考えも改まってしまう。
そして「フィードバック」という実習が行われる。
この実習は「本当のあなたは無垢で素晴らしいのに、今はこんな状態なんだ、と相手に気付かせるため」「お互いの信頼関係が無ければできない」などといった説明の後、集団での暴行、暴言をひたすら浴びせかけられるというものだった。
あまりのすさまじさに泣き叫ぶTOSHIだったが、泣き出す気力も失うと「涙も出ないほど俺たちが言ってることが聞こえないほど、もう凝り固まったエゴの塊なんだよこの化け物アゴ男!」などとさらに暴行は激しくなる。
そして、MASAYAの「大空を飛ぶ鳥のように」という曲が流れると「自分は最低のエゴ人間に成り下がったと泣いてもいいんだよ」とあまりの恐怖と怒号、そして体中の激痛で大泣きするとMASAYAが「本当は無垢な自然界の子なのに競争社会であの親の子だと信じ込まされてエゴ社会で認められようとした自分を嘆け」「万物の子で万物に貢献するために生み出されたのにその名前を信じ込まされ「良い、悪い、勝ち、負け」を信じ込まされ社会の価値観を刷り込まれた大バカヤロウ!!」などという大声をマイクで流す。
さらに暴行には女性も加わり「いい加減にしろエゴ人間!」「ギラギラした気持ち悪い劣等男!」と聞き覚えのある声がした。守谷香だった。罵倒罵声悲鳴嗚咽が部屋中に響き渡りTOSHIも頭が真っ白になって行く。夢なのか現実なのか、時間の感覚さえ無くなって気が遠のいて行く。
3日目のセミナーでTOSHIは完璧にMASAYAの思想に染め上げられ「兄弟に劣等感を抱き、親に認められたくてスターになったが、幸せにはなれなかった。地球や子供たちに貢献することだけを貫いて生きていくのが大切だと気付いた」と涙ながらに語った。そして「命の名前」という実習でTOSHIは「愛」と答える。MASAYAは「松田が同じ名前だった、彼女がお前を導いたのかもしれない」などという偶然の一致に運命を感じさせた。これでさらにMASAYAに心酔してしまう。
最後に「卒業式」が行われ、刺激と感動に満ちたセミナーはすべて終わった。
飴と鞭による悪魔の契約成立
最初のセミナーの最後に「クリエーショントレーニング」と称した90日間ものセミナーへの参加を強要され、「今決めないのがあなたのパターンなのです!」といったスタッフの口説き文句に脅され、渋々参加を決めたTOSHI。
セミナー終了の翌日からホームオブハートから頻繁に連絡が入るようになり、「君が愛をえらぶように」「大空を飛ぶ鳥のように」2曲の直筆歌詞FAXが送られてきたりもした。「こうしたことはMASAYAがあなたを特別だと認めているからだ」といった甘い文句をスタッフも電話口で語るようになる。守谷も、すごいことだと大喜びで、フィードバックの豹変ぶりは自分のためを思ってのことだった、と考えるようになった。
これこそが、オウム真理教をはじめとしたカルト団体の常套手段であり、元々の人間的思考を破壊し、自らの考えを暴力と謝礼を与えて徹底的に刷り込ませるマインドコントロール、『洗脳』そのものであった。
次のセミナーの内容は例のセミナーへ誰かを誘って来い(エンロールと呼ばれる)、何人を実際に連れてこられるか?という勧誘で、自らノルマを課し、コミットと呼ばれる契約をMASAYAと結ぶというもの。これを90日間行うのが第二のセミナーだった。この際、他の参加者も当然勧誘人数を宣言したが、実は周りの人間はTOSHI以外全員仕込まれたサクラだった。
既に芸能人として、ロックヴォーカリストとして確固たる知名度を得ていたTOSHIは、このことに躊躇するが、スタッフらはまたフィードバックを始め「お前がV系などという気味の悪い連中を生み出したんだ!」「世界の若者をダメにした極悪人」と罵倒され、妻からは「セミナーを受けて更正させろ!」と野次が飛ぶ。
そして、その暴力行為に恐怖を覚えたTOSHIは1000人エンロールすることを契約してしまう。
メジャーとの決別、さらなる泥沼
こうして、ホームオブハートにすっかり魅了されてしまったTOSHIは、メジャーの音楽界に対しても不信感を抱くようになる。セミナー受講前の7月より、TOSHIは世界的ヴァイオリニストの葉加瀬太郎とのコラボレーションを展開していたが、このプロジェクトにも否定的となり、歌詞なども自分で受けたセミナー内容に全面的に書き換えた。このときに発売されたアルバムがBMG、ひいては2014年9月現在最後のメジャー流通となったソロアルバム『壊れた世界でカナリヤは歌う』だった。前作『碧い宇宙の旅人』でもヒーリングに傾倒しており、ソロのファンからは少なからず疑問の声もあった。
この当時、既にMASAYAの世界観への影響が垣間見える動画が下記のもので、これはメジャーシーンの最終期にあたる作品である。
そして、最後のメジャーソロシングルとなる『さようなら』を自ら書き下ろし、メジャーミュージックシーンへの別れを告げる。
7月頃になると、勧誘活動も事務所社長の次兄の知るところとなり、そういった記事を出そうという動きも察知していた。この当時は化粧品のタイアップも決定しており、スキャンダル、ましてや洗脳などというイメージが付けば関係者に多大な迷惑がかかることを次兄は危惧していたが、この期に及んでTOSHIが心配していたのはMASAYAらの方で、騒動になれば彼らに迷惑をかけてしまうと考えていた。
次兄のアドバイスを受け入れて、一旦MASAYAの元に決別のFAXを送り、あっさりとOKは出たものの、家では毎日妻がセミナーと同じことを行い、罵倒、暴力、そして次兄への悪態を散々並べて回った。そして、セミナーを受けなかったことで生き地獄へ落ちることへの恐怖を覚えたこと、そして妻が彼らとなんら変わらない存在だったことで、結局ホームオブハートから離れることはできなかった。
3週間ほど経ったときに妻に促されるまま再びホームオブハートを訪れるとMASAYAは「ここがおまえのふるさとだから、いつでも帰って来い」と優しい言葉をかける。この時点で、唯一家族の中でも信頼できる存在で、かつ最後の逃げ道であった外界とのつながり、即ち次兄との関係をも閉ざすことになってしまう。
マスコミの報道は回避され、無事新曲のプロモーションも成功したが、セミナーへの傾倒はいっそう激しくなり、立て続けに間髪いれず複数のトレーニングを受けさせられることになる。中には「MASAYAのラジオ収録」「オススメ本「スーパーマインド」の読破」などおおよそトレーニングとは言い難いものも含まれた。最後には基本的にフィードバックが加えられた。さらに加えてレクチャーのテープやビデオ、CDやMASAYAの映した写真、松田のりえの複製画など二束三文にもならないゴミを妻と二人分購入させられる。
これを重く受け止めた次兄は最後の良心を見せる形で「Xの権利はすべて次兄のもの」「ソロ活動の金額と権利の一部を家族の下へ」といったとんでもない契約書に目の前でカッターを使って血判を押させる、という暴挙を行った。TOSHIはもはやこの契約書の中身すらわからない状態で言われるがまま次兄の書面にサインと血判を押してしまう。既に人間としてのまともな思考能力すら残っていない状態だったことを次兄は確かめたかったのだ。
MASAYAの指示で覚書は破棄させてもらえたものの、次兄の出した条件はホームオブハートとの関係を一切絶てというものだった。これまたMASAYAの指示で表面上は縁を切ったことを次兄に告げた。
お金はエネルギー交換
MASAYAのレクチャー、そしてスタッフのフィードバックによって「MASAYAのような自我が薄い人間が使うお金は美しい、地球に貢献する美しいものを創造し、提供するものだ」「お前のようなエゴの人間が使う金は地球を破滅させる! だからMASAYAに使ってもらうことが地球への貢献だ!」「そしてMASAYAの生み出したものを一般人が買うことが彼らの地球への貢献なのだ!」ということを徹底的に刷り込まれたTOSHIは1997年が終わるその頃には、Xやソロ活動で身を粉にして稼いだ貯金のほぼ全額が底を付いてしまう。守谷との入籍から僅か10ヶ月のことだった。
この時点で、守谷とTOSHIは別居状態で、MASAYAらは未成年含む男子禁制の施設で共同生活を送り「妻はそこでトレーニングを頑張っているのだな」と信じ込んでいた。既に結婚生活は破綻しており、妻はMASAYAの側近と化して団体からの指示伝達、金銭の徴収、そして罵倒暴力という役割を担うことになりTOSHIのお目付け役となっていった。こうして、MASAYA、守谷香による奴隷関係が確固たるものとして構築されて行く。
X JAPAN THE LAST LIVE
97年の年末には脱退したX JAPANの最後の花道が設けられることになり、12月26日には、31日のラストライブに先駆けてケジメとしてX JAPAN最後のミュージックステーションに出演し、『紅』『Forever Love』を披露、さらに解散ライブの後には紅白歌合戦への出場も決定していた。脱退したバンドのラストステージへ出演することには抵抗があったものの、Xのマネージメント側からの強い要請で渋々承諾した。
実は、解散会見の約1週間後9月28日にHIDEから怒りの電話が入っていた。TOSHIは既にセミナーに没頭していた頃である。
それは週刊誌の記事に「TOSHIにはまったく知らされていない解散劇」などといった記事が出たことだった。
メンバー最年長でもあり、滅多に怒ることの無いHIDEがこんな電話をしてきたことに驚きを隠せないTOSHIだったが、週刊誌の内容はTOSHIも知らず、HIDEに平謝りし、セミナーを受けたことで気付かされたことを電話口ではあるが、HIDEにすべて伝えていた。
Xメンバーにセミナーのことを話したのはこのときが最初であった。
HIDEは変わり果てたTOSHIのその話をゆっくり、そして親身に「うん、うん」と聞いてくれ、「TOSHIくん、今度一緒にゆっくり飲みに行こうよ! またその話、聞かせてよ!」と怒りの様相から一転してまた逢おうという話で電話が終わった。
なお、HIDEのマネージャーである実弟が出版した本には、解散ライブの後にもHIDEはTOSHIを数時間にわたってX復帰を本気で説得したが、TOSHIは完全にホームオブハートに魅了されてしまい、まるで聞く耳を持たなかったらしく、帰り道で「あいつはもうダメだぁ!!!」と、諦めの言葉を発すると共にその変貌をとても悲しんでいたという。
THE LAST LIVEはそんな中、セミナー受講を断って参加した最後のステージだったが、当日になっても朝9時から地下室で3時間にもわたる暴行を受け、歌う声すら間々ならず、放心状態で東京ドームへと向かう。
『X JAPANはヴィジュアル系とかいう、最も自我の強いおぞましい集団の頂点に君臨する悪の権化だ』
こうしたMASAYAらの言葉が頭から離れず、ついに解散コンサートは始まってしまう。
おなじみのオープニングRusty Nailからいつものように「いーくぞぉぉぉ!!!」といった叫びで数曲歌い、MCでは言葉に詰まるような状態で、「気合入れていけー!!!」と普段どおりを振舞ったが、それでも頭のあの声は消えない。テレビでこのライブは生中継されており、余計なことを喋ればどうなるかわからなかったからである。
またMCがやってきたが、言葉を失い、何もいえない状態だったTOSHIの前に意外な人物が闇を取り払う。
HIDEだった。喚声にかき消される中、HIDEはTOSHIをこう励ました。
悪魔の囁きを振り払ったTOSHIは、「せめてこの場を楽しもう」と仲間たちとの最後のステージで全てを出し切り、4時間の解散コンサートを完走、ほとんど歌う気力も残っていない状態で最後のNHK紅白歌合戦に出場し、ガラガラ声ながらもForever Loveを歌唱し、そのX JAPANヴォーカリストとしての活動に終止符を打った。
しかし、この一瞬のコミュニケーションがHIDEとTOSHIの最後の挨拶になり、最後の会話ともなったあの電話での約束を果たすことなく、HIDEは宇宙の暇人となって永遠に旅立ってしまう。
HIDEの死
Xとしての活動を終えたTOSHIはソロコンサートなどを中心に活動し、MCにはセミナー内容をこっそり盛り込んだりと徐々にその活動にも影響が出始めていた。そして、毎日のように「フィードバック」による罵倒暴行も続いていた。
そんな折、1998年5月2日午前、次兄から携帯に連絡が入る。
あまりの突然の訃報に言葉を失った。その日はセミナーが入っていたが、タクシーで安置所へ向かった。
既にPATA、HEATHが到着しており、HIDEの両親もその場にいた。今にも起きてきそうなHIDEの顔に未だ現実を受け入れられなかった。 HIDEのソロ活動時に共に全国を回ったサポートバンドのメンバーらが遺体を取り囲んで「起きろよ!!何寝てんだよ!!」「ふざけんなよ!!!」と泣き叫ぶ一幕もあった。(余談ながら、この間にhideを慕うDeshabillzが葬儀場に向かう途中で交通事故を起こし、メンバーが亡くなるという更なる悲劇も起こっていた)
その姿に妻の姿がフラッシュバックしたTOSHIは「予定がある」と告げて一足先に帰宅した。
しかし、妻やMASAYA、ホームオブハートのスタッフらは親友を、十数年連れ添った仲間を失った男に対して信じられないような言葉を浴びせかける。
「お前のような自我の強い人間はMASAYAが何を言っても聞こえてなかったんだ! だから最後はヒデのように自殺してしまうほど愚かなエゴ人間に成り下がったんだ!」
「ヒデが死んだことでお前も思い知っただろう! お前もここを離れて一歩でも外に出たらすぐに自我の強いエゴ人間たちに取り入れられて、お前の人生は地獄と化し、最後は自殺するんだよ!」
当時、全ての報道で『元X JAPANギタリストのhideが自殺』とされていたことを鵜呑みにしたスタッフによる暴挙だったが、TOSHIは関係者からHIDEがここ数日首を痛めていたこと、牽引治療を行っていたことなどを聞かされており、自殺ではない=事故だったという事実を知っていた。
この言葉には、TOSHIも身体を強張らせていたが、それを抵抗と看做したMASAYAらはさらに暴行罵倒を繰り返す。その時のTOSHIに出来る抵抗はそれが精一杯だった。
葬儀当日、TOSHIは朝9時から3時間にわたる暴行を受けながらも出席。既に送迎車も売り払ってしまうほどの困窮にあり、マネージャーの自家用車で会場入りする有様だった。会場周辺は泣き叫ぶファンの嗚咽が響き渡り、パニックとなっていた。会場には大遅刻してしまうが、YOSHIKIのピアノでForever Loveを届ける。朝方の暴行で泣き叫んだため、ガラ付いた声であったが、声を振り絞ってステージと同じメイクで眠るHIDEに鎮魂歌を届けた。出棺の際、何度も崩れ落ちそうになるメンバーを傍らで支えた。
式が終わると「HIDEの分まで輝いて生きていく」と約束したが、その言葉に自分でも疑問を持った。「ホームオブハートでこれからずっと生きて行くのか?」と。
実はこの葬儀には元メンバーのTAIJIも参列しており、殆どホームレス状態だったTAIJIにYOSHIKIが歯の治療費として300万円を手渡していたことが明らかになっているが、実際にはTOSHIの状況もそれに匹敵するほど深刻だったのである。
HIDEの死を境にさらにセミナーの深みにはまったTOSHIは、1ヶ月後に次兄の先導でBMGビクターからテイチクへと移籍。今でこそテイチクはアイドルのCDなども売っているが、当時は流通網も販売力も圧倒的に他社より規模が小さく、演歌歌手の主戦場となっており、TOSHIのようなロック歌手はまず所属するような会社ではなかった。
そのテイチクで発売したのが、後のホームオブハートライブでの代表作となる15thシングル『君はいないか』だった。この曲は、当時「亡くなったHIDEに捧げる曲」として大々的にプロモーションされ、NHKのタイアップもあり、そこそこのセールスになったが、作詞作曲はMASAYAによるものだった。「自分の曲を歌わせてやる。少しでも人々の心の痛みを癒せ!」という指示だった。
しかし、TOSHIは人の、ましてや仲間の「死」を金のために利用するということがどうしても受け入れられなかった。 この楽曲自体は何年も前から存在しており、HIDEの死とはまるで関係が無かったからである。
MASAYAからは「もうメジャーになんか出たくないが、お前に関わったんだから仕方が無い。多くの人に聴いて貰う事で本質的に生きようとする方向に向かう可能性がある。お前の歌は自我が強くて最低だが、この曲にはそういう美しいエネルギーが入っている」と説明を受けた。
この頃から、X時代の逆立ちヘアーの写真を持ってテレビや雑誌に登場して「このころは本当に悲惨だった。こいつはね、可愛いんですよ。でもね、こいつはもう死んじゃったかな。HIDEと一緒に」などとX時代を否定する発言も度々行うようになる。
これもMASAYAの指示によるものだったことは言うまでも無い。
ホームオブハート営業
『君はいないか』を発売した後、物販を可能にするというスタッフトレーニングなるセミナーを多額の受講料と引き換えに受けさせられてしまったTOSHIは、とうとうホームオブハートのCDや商品を売ることができる立場になってしまう。
Xファン、家族、友人、そして次兄にも関連性を疑われていた際に物販はしていないと言い張っていたものの、これでもはや後戻りできなくなるところまで来てしまい、信じてくれていた人たちを排除、裏切ってしまい、社会からTOSHIはますます孤立していった。
こうして、プロモーション活動の合間に全国各地のホテル、旅館、喫茶店、レストラン、CDショップとありとあらゆる施設に電話をかけて営業を行った。時には、変装して飛び込み営業を行ったこともあったが、訪問先にて「あれ? 元X JAPANのTOSHIさんじゃないですか?」と問いかけられることも多々あり、その度に「よく似ているといわれるが、違います」などと誤魔化していた。
これを重く見た次兄は最後の手段として兵糧攻めに打って出てTOSHIに対する一切の給料支払いをストップする。言動がおかしくなり、その給料全てが団体に渡っていることは、もう次兄にも完全に見破られていた。団体か、次兄側かは未だ不明だが、自宅から盗聴器すら発見されていた。実際、後述の騒動は次兄がマスコミに流したというリークが届いたが、真偽のほどはわかっていない。
しかし、ホームオブハートからの金銭要求は留まる事を知らず、クレジットカードが焼け付くと、ついにTOSHIは消費者金融(要はサラ金、ヤミ金)にまで手を染めるようになり、「借金→団体への支払い→僅かな稼ぎで返金→借用枠を利用してまた借金」という負のスパイラルへと突入してしまう。
洗脳騒動
1998年9月7日、「週刊現代」が『元X JAPAN TOSHIがカルト集団に洗脳された』という記事を出した。
しかし、MASAYA側はTOSHIに「次兄が仕掛けた捏造だ」と言い聞かせ、MASAYAのコンサートへのゲスト出演などは取りやめず、堂々とマスコミの取材を受けるように指示。
しかし、これがさらに騒動を激化させることとなり、瞬く間に全国ニュースになってしまう。取材を受けるTOSHIに対し、Xファンから「TOSHI大丈夫か!? 帰って来い!!」と怒号が飛ぶこともあった。
そして、激化する騒動に対し「受けて立て」とMASAYAは指示した。
このことは却って火に油を注ぐ形になり、「洗脳されたカリスマロック歌手」というイメージが世間に形成されてしまうのにそう時間はかからなかった。
それでも最初はTOSHI一人でワイドショーに出演して釈明していたのが、次第に妻と共に、最終的にはMASAYAを含めた三人で番組に出演しては反論を繰り返した(MASAYAは倉渕雅也名義だったこともある)。当時はオウム真理教事件の余波覚めやらぬ頃でもあり、直近に横綱貴乃花が同じように洗脳騒動で報道があったこともより世間の関心を高める要因となっていた。ニコニコユーザーの中、あるいは現ユーザーの両親の方々にも、リアルタイムで当時のニュースを観た人がいるかもしれない。そのぐらい、この騒動はTOSHIを「時の人」と化してしまい、大きくなっていたのである。
しかし、情けない事ながら既に給料も無く、消費者金融の融資すら受けられない状況だったTOSHIにとって、このテレビ出演は不本意な形ではあるが、3万円ほどの「ギャラ」が発生したため、数少ない当時の収入源のひとつともなっていた。
人の噂も七十五日というように、暫くすると騒動は鎮静化したものの、TOSHIは「カルト団体の広告塔となった洗脳歌手」というレッテルそのものを払拭することはできず、2年半続いたFMラジオ番組も打ち切りとなり、大きな代償を払う羽目になってしまった。
そして、MASAYAらに「お前のせいでホームオブハートはカルト団体に仕立て上げられた! もう外も歩けない!」「マスコミ報道でみんなを困らせ、恩を仇で返した化け物」「信用も失い、金も無くなってみんなご飯もたべられなくなったんだ」などという口実を与える結果にもなり、国民金融公庫や銀行でのローン申し込みなど5000万円近くを支払った末に、友人から2000万円ほど借金、X JAPAN時代の愛用品やトロフィーの売却などで金を工面し、さらに生命保険まで解約する事態となるなど、さらに搾取は激しくなって行く。
完全支配体制から始まった詩旅
1998年10月10日、33歳のバースデーにMASAYAの指示で事務所の商号を「株式会社トシオフィス」へと改名。
役員らを旧会社から一新し、TOSHIは代表取締役として就任したが、それは名ばかり幹部であり、何の権限も持たせてもらえず、金銭の管理は全てMASAYAと守谷香が握っていた。「自我の強い」TOSHIが「貢献」できるのは彼らに金を貢いでいくことだけであった。
さらに、MASAYAはテイチクとの契約を解除し、自ら運営するレムリアアイランドレコードへの移籍をも命令。わずかシングル1作という形で同社を去ることにより、数千万円の違約金が発生し、さらに借金は膨らんでしまう。
これを「独り立ちするための新たな一歩」と希望を信じたTOSHIだったが、さらなる破滅への道を進んでいることに、未だ気付いていなかった。
12月、億単位近い金をホームオブハートに支払うとMSAYAから「お前のために曲を作った。これで日本中の人を癒してこい。レムリアからお前のCDを出してやる!」などと口説かれて作品を渡される。これに「ようやく認めてもらえた」と感じたTOSHIは、ただ単に自分の借金が膨らんで彼らの私腹を肥やしただけだというのに「ありがとうございます。本当に申し訳ありませんでした」と涙すら流す始末だった。
こうして、90年代最終年の99年2月にシングル『愛の詩をうたいたい』、3月には同名のアルバムを発売することになり、熊本のCDショップを皮切りに『詩旅』と称した全国各地のドサ周りが始まることとなる。この時のTOSHIは、メイクはおろか、トレードマークだったサングラスすら捨て、アコースティックギターを片手に薄黄色のタータンチェックのボタンダウンのシャツにベージュのコットンパンツ、靴はローファーといったかつてのヴィジュアル系ロックバンドとはかけ離れた姿で各地を回った。既にステージ衣装代どころか、普段着る物にも困るほど困窮していた末の姿でもあり、このようなラフな格好で罵倒のネタを極力少なくするためでもあったが、結局これも罵倒のネタに使われてしまう。
元X JAPANヴォーカリストが生唄を披露、という雷名は絶大で、CD即売会は毎回大盛況となり、200~300枚ほどのCDは全て売り切れ、毎度20万円ほどの売り上げをたたき出していたという。レムリア時代のCDはメジャーのそれと比較しても、異常に高単価(通常のマキシが1000円前後の時代にオマケも何も無いシングルで2000円以上のものはザラだった)であり、それも大きな売り上げを上げる一因だった。そして、全国のCDショップ、ショッピングセンター、スーパーマーケット、楽器店、レンタルビデオ屋、果ては移動屋台のトラックに至るまでイベント会場へ自分でアポ取りを行い、歌える場所ではどこへでも営業に行き、CDを売り歩いていた。
筆者含め、もしかすると、ニコニコユーザーの中にもこの頃のTOSHIのコンサートを観たことがある、という人が結構いると思われる。そのぐらい、どこかで行われる何かの歌イベントには頻繁に出演していた。
次第に定期コンサートを開く支援者が現れ、各地からの出演依頼も舞い込むようにはなったが、そこにかつて東京ドーム5万人の観客を熱狂させていた姿はどこにもなかった。
下記の動画はその詩旅でドサ回りをしていた頃の映像である。どのようなことをMCで語っていたのか、どんな作品を歌って、そしてコンサートを行っていたのか、その雰囲気を感じ取っていただければ幸いである。
2001年を超えたあたりとなると、大抵のイベント施設は回りきってしまい、次なるターゲットとなったのが「マスタートレーニング」なる「時間があるんだからXが通用しないおじいちゃんやおばあちゃんのところに言って癒されて来い」という老人ホームや少年院、中学高校での予餞会ゲストなどといった慰問福祉ボランティアと称してCD売り上げを稼ぐ手法へと変化した。中にはこうした学校施設で感想文を送ってくれるところもあったが、『その手』の平和や仲良しな話題を好む教師にはすこぶる好評だったらしく、素晴らしいライブでした、という感想文を学校側が独自にインターネット上に公開していたこともあった(そして、MASAYA側もそれを紹介していた)。
また、グループホームやショートステイ施設などでは先述の通り高齢者を相手にしていたわけだが、これも実際の目的を知らない人々を聞こえのいい話題で結果として騙したに過ぎず、TOSHIは大きな罪悪感を抱いたという。
また、最初のうちはB面扱いの楽曲やアルバム用の楽曲もきちんと作っていたレムリアレコードだが、次第に売り上げが稼げるとみると、メインタイトル作のオーケストラバージョンやアコースティック版といった『別作品』で曲数を稼いだり、アルバムも5,6曲が全部同じ曲のバージョン違い、 複数枚で1枚分にも満たない収録時間といった手抜きともとれるような杜撰なCD作品が目立つようになっていった。そして、ほぼ全てのCDでクレジットも無ければTOSHIの写真すら使われていなかった。
楽曲に関しても、幸か不幸か、TOSHIの澄んだハイトーンボイスはX時代の楽曲に比較すると低いキーではあったものの、きちんと宣伝文句の通り、傷ついた人々にとっては『癒し』効果を発揮してしまっていた。
タイトルも『INOCHI』『 しあわせにしたかった〜おじいちゃんの本当の心〜』『自分〜抱いてやりたい〜』『世界がひとつであれば』とやはり「その手」のものが好みであろう人々をターゲットにしていたほか、『Perfect Love完全な愛〜傷あとからはじめよう』『Beautiful Love Song』などといったYOSHIKIへの当て付けとも思えるような題名すら見受けられた。
このCDにはレムリアへのアンケートはがきが付属しており、これをうっかり送ってしまうとその日からホームオブハートの執拗な勧誘が始まるのだという。TOSHIは図らずもMASAYAによるセミナー受講者を自分の考えもしなかった形で大幅に増やしてしまうことになった。
当然、この金はTOSHIの元に入るはずもなく、最低限の生活費と経費以外は全て妻とMASAYAの元へと振り込まれていき、ますます借金地獄へと突入して行くことになる。 ただ、結果的に後のX再結成の際には、このような形とはいえ歌を続けていたことに加え、ハイトーンヴォーカリストが喉を壊して元の声を失う例が多い中で、図らずもその楽曲が声帯を酷使しなかったことでヴォーカリストとしての技量は解散前よりずっと上がっていた。
この間にもTOSHIやYOSHIKIが表での活動をしない中で、熱心な草の根ファン活動はずっと続いており、老舗インターネットサイトWhite Poemを筆頭としたコミュニティでの語らいから、TSUTAYAファン投票によるベストアルバムの発売、フィルムコンサートの開催などがあり、X JAPANの現役時代を知らない世代がベスト盤から入門して純粋に音楽性に惚れ込んでファンになることも少なくなくなり、さらに海外映画のテーマ曲に起用される、世界的有名バンドがX JAPANのカヴァーを全世界発売するといった出来事もあり、解散中においても新たなファン層は拡大の一途を辿っていた。特に2001年には、自民党のCMにForever Loveが起用されたことが大きな話題となった。
一方、古くからのファンはTOSHIの近況についても理解していたため、「戻ってきてくれるのであれば一番うれしいが、もう今彼が幸せならばそれでいいのではないか?」とその活動内容に苦言を呈しつつも、98年の洗脳騒動の再来を防ぐ意味や危険な団体であるという情報もあって、大きなことは起こさないようにというのが暗黙の了解であった(実際のところ、TOSHIのコンサートでもXの話題は基本的にタブーで、X時代のCDにサインを拒むことも多々あった)。
なお、この間2003年3月19日、TOSHIは家族の中で最も信頼していた父を亡くしたが、そのことを長きに渡って知ることは無かった。
児童虐待事件
2004年4月6日、イベント終演後に突然取材陣に囲まれ「虐待しているんですか!?」という質問をされる。
何がなんだかわけがわからぬままタクシーに乗り走り去ったTOSHIはそのことを本部へと報告したが、次のコンサート前にMASAYAから那須のホームオブハートに児童相談所が警官を引き連れてやってきたという連絡を受けた。その内容は2日後にNHKニュースで報道され
『施設内でMASAYAと集団生活を送る子供たちに対し、強制労働、学校に行かせないなどの外出制限を行い、事務所トシオフィスではダンボールで子供を育てているという虐待が行われているという通報があり、児童虐待防止法に基づき立ち入り調査を行い、児童が保護された』
といった内容だった。後にTOSHI脱会後の強い味方となる紀藤正樹弁護士率いるMASAYA関連問題の被害者会の通報だった。
その影響は前回の洗脳騒動の比ではなく、警察が動いたこともあり完全に『事件』として扱われ、当然TOSHIも関与を疑われてしまう。TOSHIはMASAYAの指示で当時できたばかりだった自身の公式ページに反論を乗せるなどしたが、事は収まらず、民事訴訟による泥沼の裁判にまで発展していく(刑事告発については、ホームオブハート側に嫌疑無し=起訴するための証拠が不十分で不起訴となった)。
再びマスコミの囲み取材が殺到する事態となってしまうが、TOSHI本人は後述の通り施設内部の様子はまったく知らなかったため、「虐待? 私がですか!?」といったような受け答えが度々見られた。ファンや一般人からは「しらばっくれてるんじゃない!」といった論調も強かったが、このときのTOSHIは本当に何も知らず、それが素の反応だったのである。
また、幾つかのテレビ局ではそれまで極秘取材していたと見られる施設内部の映像と思しきビデオが何度か流され、ダンボール内で生活する乳幼児や自分のことを虎だと思って四足歩行している児童の様子などが記録されており、概ね被害者会の言葉通りのものが映し出されていた。しかし、それが盗撮による証拠能力なしと判断されたのか、未だにこの件は刑事事件としては一切扱われていない。
MASAYAが度々「学校に行かせるなど異常な親のすることだ」「学校は間違った知識で洗脳し、純粋さを破壊する」「いじめと戦争だけの場所」「本質的なことを学べるのは自分のセミナーだけ」などと否定的な発言をしていたことや、MASAYAに代わって子供たちから電話口の罵声を浴びせられることも少なくなかったため、TOSHI自身も「もしそれが本当なら恐ろしいことだ」と思いつつも、「そういう風に疑う自分が間違っている」と正常思考を打ち消してしまう自分もいた。実際のところ、生活の様子がどのようなものだったかは未だに判然とせず、名ばかり事務所だったトシオフィスにも、那須本部にも荷物を取りにいった1,2回しか行かなかったため、真実は現在もTOSHIですらわからないという。
ただ、このように閉鎖された世界で育てられ、MASAYAの理論しか教えられず、大きくなっても彼らの都合のいいロボットにされてしまうのかもしれない子供たちのことを思うと今も非常に苦しい気持ちになるのだという。
意外な人物との再会
2006年8月、長野県山間部の街で癒しのコンサートの準備をしていたとき、楽屋に一人の男が訪ねてきた。
「TOSHI、久しぶり!」と声をかけてきたその男は、かつて妻を舞台オーディションに合格させた後、金銭トラブルを起こしたことで縁を切ったはずの武敦史だった。12年ぶりに再会した武はTOSHIに向かってこう切り出した
「実はYOSHIKIがX JAPANを再結成するというんだが、TOSHIも参加する気はないか?」と。
彼に出会ったことが知られでもすれば「悪いエネルギーがあるからだ」などとまた罵倒の対象になってしまうと感じたTOSHIは、絶対悪と教え込まれたX JAPANの再結成にも魅力を感じるはずもなく、武を追い返した。しかし、武は9月になっても現れ、今度はトシオフィスの取締役(名義のみ)を通じて同じ話題を振ってくるのだった。
「もし、X JAPANのヴォーカリストに復帰するなら、3億円出す! 半分の1億5000万円は即金で支払う!!」
どんなに金額を積まれたところで、TOSHIはやる気を見出すことが出来ない以上は無理だ、迷惑だから帰ってくれとやはり追い返してしまう。
妻やMASAYAの下にも現れたことで、そのことはホームオブハートの知るところとなったが、MASAYAは会話内容について問いただし、『3億円』の言葉を聞いて「本当に3億って言ったんだな!?」と同席した監視人にもそれが事実であるかを確かめると「じゃあ一度、彼に会って話をしてみよう」と驚愕の言葉を発したのだった。
MASAYA自身、それまで散々こき使ってきたアゴ男の持つヴォーカリストとして声の価値が世界的に認められていることも知らず、それほどの大金になるとは夢にも思っていなかったのだろう。
翌10月上旬にセットされた会談の場で、武は「いろいろTOSHIがMASAYAさんにご迷惑おかけいたしました。今度は私がMASAYAさんや香ちゃん(守谷)、ホームオブハートさんのことをマスコミ、敵対する連中から命がけでお守りします」と頭を下げると、MASAYAはいつものサクセスストーリーとTOSHIを救ってやった自慢話をはじめる。
肝心の「X JAPAN再結成の話」は「お金については、話の土俵に上がっていただけるのなら契約金3億円。うち1億5000万円はすぐにでもお渡しできます。」と語った。
MASAYAはこれに「トシはどうしても嫌だといっていますが、私が言えば説得することはできます。トシの全権は私が握っていますから。条件として癒しのソロ活動も継続できるようにお願いします」と返した。
そしてTOSHIには「お前にX JAPANという巨大な利権があることで、それを奪いたい奴らがマスコミを使って俺を攻撃するんだ。もしこっち主導でX JAPANを再結成できれば利権は俺のものということで確定して、お前の家族や悪質な連中からの攻撃は止む。ガス抜き、利権抜きのようなものだ」「MASAYAの汚名を注いで復帰させることも出来る」と車内で吹き込むと
「ともかくすぐに1億5000万円もらえ! そして残りをいつまでに支払って貰えるか確認してすぐ払わせろ! いいな!!」
と、TOSHIに命令した。結局は金なのか?と「宇宙的犯罪者」とまで罵られ、徹底的にX JAPANを否定された上で暴行を受けきたTOSHIはすぐに納得することはできなかったが、妻からの「お前がまともに純粋な金を持ってこないから仕方なく腐ったX JAPANなんかに金をもらわなきゃならないんだ」「その腐った金もMASAYAに使ってもらうことで美しいものに変えて貰うしかないんだよ!」という激しい暴行で正当性をねじ込み、ついには
という遺言状まで書かされ、弁護士同伴で後日公証役場に届け出さされた。
この頃になると、各種インタビューでも「メジャー復帰を検討している」といった発言がいくつかあったが、その実情がこの3億円契約だった。
YOSHIKIとの会話
TOSHIは、未だXの再結成プロジェクトがあるなどということは信じられなかった。
YOSHIKI自身も、何度かインタビューで「HIDE無しのXは考えられない」「再結成は永久に無い」とまで語っていたことは、TOSHIのみならずファンであれば誰もが知る共通認識だった。実際、「再結成してほしいアーティスト」といった特集でJUDY AND MARYやBOOWYなどと並んで上位をキープする常連でもあり、YOSHIKIが何かの理由で帰国する度に『X JAPAN再結成か!?』といったスポーツ新聞や週刊誌の見出しが出ることは毎度のことだった。PATAやHEATHも後に再結成の話が自分の下に来た際は「毎年そんな話があるけどまたか」といった風で信用していなかったという。
しかし、今回はマネージメント側が出向いてきたということもあり、MASAYA主導で再結成に向けて動くよう命じられたTOSHIは、まずリーダーのYOSHIKIが本当にそんなことを考えているのか?と直接本心を確かめてみることにした。TOSHIの携帯電話には絶縁状態でこそあったが、消すことが出来なかったのかYOSHIKIの番号がまだ残っており、アメリカのスタジオへと電話をかける。
「YOSHIKI、TOSHIだよ・・・ 久しぶり・・・」「X JAPANをまたやりたいって言ってるって聞いたんだけど本当?」とぎこちないながらも9年半ぶりにYOSHIKIに尋ねた。
しかし、YOSHIKIから返ってきたのは「え? 俺そんなこと言った覚えはないけど・・・ むしろTOSHIがX JAPANをやりたがってるって聞いてるよ・・・」というものだった。武はYOSHIKIをダシにTOSHIをその気にさせようとしていたのだった。と、TOSHIの本には書かれているが、この部分に関しては、複数の説があり、実際にはYOSHIKIが水面下でTOSHIを参加させるために武を使って動いていたとも、VIOLET UKに注力していたYOSHIKIがXを動かそうとするはずがなく、本当に武が二枚舌を使っていた、とも言われるが、実際のところは定かではない。
ともかく9年半ぶりにお互いの声を聞いた両者は月末に会う約束をすると電話を切った。
10月19日に、武は約束どおりトシオフィスの口座へ1億円を振り込み、TOSHIはみずほ銀行の複数支店を回って現金でその金全てをホームオブハートへと手渡し、さらに11月13日、12月18日の2回に分けて全額がTOSHI側へと支払われた。武は「辞めたかったら、いずれ辞めてもいい。もう俺は次のヴォーカリストを用意しているから、そいつが育つまで面倒を見てやってくれ」などと今後のビジョンをTOSHIに語った。
しかし、これほどの大金を手に入れてなお妻は「MASAYAのお陰で再結成できたんだから、お前の金なんてびた一文もない! こんな金じゃ、お前のせいでMASAYAがこうむった迷惑料にしたら何の足しにもならない! もっとちゃんと稼いで来い!」などと罵倒した。
2006年10月下旬、約束どおりYOSHIKIはTOSHIとの再会を果たした。
MASAYAや妻から諸悪の根源と呼ばれ続けていた彼にこれまで思いを馳せることは無かったが、不思議と「また一緒にやりたいね」といった言葉が出てきたという。
現実感がまったく沸かない『X JAPANの再結成』だったが、この後急速にそれは具体化していくこととなった。
Without You
12月になると、X再結成を表立って進めていた武が事件を起こしプロジェクトから外されてしまう。
このまま計画が白紙撤回となるかに思われたが、後任者が就いたことで2007年3月にロサンゼルスでYOSHIKIとTOSHIの面談をセットする。
97年の脱退以来、10年ぶりにTOSHIはYOSHIKIのスタジオを訪れた。
何度もMASAYAや妻からかかってくる罵声や無茶な要望を受けながら、その暗い表情に「TOSHI大丈夫?」と心配気に言葉をかけてくれたという。MASAYAとの出会いや近況、彼に出会って救われたことなどの話をしている間でもそれは変わらなかった。YOSHIKIも未だTOSHIがホームオブハートの強い影響下にあることを察していた。
しばらくすると、「HIDEを想って作った曲があるんだけど、聴いてみる?」と言った。TOSHIは「是非聴いてみたい」答え、YOSHIKIに一番いい音で聴こえる特等席に案内されると、以前のように直筆の歌詞カードを手渡すとコンピューターに保存されていた音源が流れ始めた。
この曲は、YOSHIKIのソロアルバムやソロツアーでも披露されていた作品で、歌詞のみがテロップで流され、何度か「TOSHI用にボーカルを想定して作った。彼が戻ってきたら演りたい。」と語っていた作品で、ファンの間でもそこそこ有名だった。
そして「この曲、TOSHIに歌ってほしかったんだよ。ちょっと歌ってみる?」と昔のようにグランドピアノの右隣に案内され、「このキーでどうかな?少し苦しいキーの方がいい。心地よく歌えるキーより少し高いほうがずっと良くなる」とYOSHIKI流のいつものキー設定で演奏が始まり、TOSHIも歌を付けた。
10年ぶりのセッションが終わると、「素晴らしいね」と自分の想定していた作品になっていたことに満足したようすだった。TOSHIは思わず「X JAPANをまたやらないか?」と訪ねてみたが、この時点では「まだわからないよ」としか答えられなかった。このことは友人の小室哲也にも伝わっていたらしく、このジャムセッションが最初に公になったのは小室のMy Space上にあるブログだった。
帰国してそのセッションのことをMASAYAに話すと、すぐにホームページに掲載することを命じられる。小室の文書掲載とほぼ同時期にTOSHI&YOSHIKIのアメリカでの顛末はTOSHIのページにも掲示され(たが、どういうわけかすぐに削除されていた)、ファン、マスコミらに知られるところとなり、「X再結成」が本格的に動き出して行く(但し、この時点ではYOSHIKIサイドは英語で「そのような事実は無い」と否定する文面をネットに掲載していた)。
なかなか前進はしなかったが、2007年1月には古巣のソニーミュージックから無印X時代のオリジナルアルバム2枚がデジタルリマスター仕様で再発売されるなど、徐々に外堀からX再結成への期待が高まる状態でもあった。
8月には、二人だけで酒を交わし、かつて言葉も無いまま解散ライブ、HIDEの葬儀を去ったとは思えないように10年の溝はあっという間に埋められた。昔話に花咲く中で「世界中にXファンが広まっている」「知らぬ間に世界中に自分たちの音楽が広がっていたんだね」といった未来のことも語れるようになっていった。
『X JAPANとしての活動をもう一度やろうよ』
酒の席ではあったが、TOSHIは素直にこの言葉が出たという。YOSHIKIは「前向きな気持ちはあるけど、ハリウッドミュージカル映画のためのレコーディングが終了したばかりなので、すぐに答えは出せない。でもこの間のWithout Youは是非一緒にやろう。まずそのレコーディングからはじめよう。」と答えた。スケジュール的な問題や再結成に向けた調整などといった面もあったが、現実的にはMASAYAの支配下にあるTOSHIのことが再結成に向けての決断を渋らせる大きな要因でもあった。
しかし、6月4日のスポーツニッポン紙のインタビューにYOSHIKI自身が「僕の決意は固まっている。ファンの人生でもあったバンドだから慎重に進めたい」と再結成プロジェクトを公にし、ファンの間でも『今回は本当だ!』と歓喜の声が挙がった。
X JAPAN 世界進出
YOSHIKIとの酒の席から暫く経ったとき、「人気スプラッタ映画シリーズの『SAW』最新作の主題歌を手がけられるかもしれないビッグチャンスを掴んだ! ここにX JAPAN再結成と世界デビューを重ねる」という再結成の構想を語った。
しかし、時間的な問題があり、1週間で全てのレコーディングを終え、楽曲を仕上げる必要があった。YOSHIKIは「TOSHIの言うことを、本当に信頼してもいいよね?」と釘を刺し、後ろめたい気持ちで「大丈夫」と答えたものの、『YOSHIKIと共にもう一度音楽をやりたい』という気持ちに偽りは無かった。
こうしてX JAPAN10年ぶりの新曲『I.V.』のレコーディングが開始された。
癒しの曲しか歌っていなかったTOSHIにとって、YOSHIKIがアメリカでのエッセンスを散りばめたそのロックを歌いこなせるかが不安だったというが、10年の時はYOSHIKI自身のプロデューサーとしての手腕も大きく引き上げており、的確なディレクションと英語発音指導のお陰でTOSHI自身「最高のヴォーカルパフォーマンスを引き出してくれた」と語っている。
結果として、2007年9月上旬に世界中の200曲以上の様々なアーティストの楽曲の中からI.V.は『SAWIV』のメインテーマ曲として採用、この瞬間X JAPANは再結成と同時に念願の世界進出を果たした。
10月18日、公式ページにも関わらずそれまでまるで更新されずじまいで、簡単なディスコグラフィとメンバー紹介、来歴、ロゴ程度しか載っていなかった開店休業状態のX JAPANオフィシャルサイトに『緊急告知』と題された活動再開の通知と『SAWIV』のテーマ曲決定に伴う世界デビュー、22日20時のアクアシティお台場でのプロモーションビデオ撮影とパブリックビューイングの開催が掲載された。
この撮影で、MASAYAからは癒し音楽のコンサートの素顔普段着での出演ではなく、解散時点のサングラスをかけた服装に戻すようスタイルについても細かく指示を受けた。
やはり抵抗はあったものの、それも「自我の強い自分の浅はかさ」と打ち消し、ロックヴォーカリスト X JAPAN TOSHIへと容姿だけでも戻した。
35万ドルをかけた大掛かりなPV撮影は無事完了し、1万人を越すファンがお台場に集結した。
この頃になると、ファンも結婚をしていたり、子供が生まれていたりと、それぞれの10年を歩んでおり、解散、HIDEの死、その後の様々な騒動をそれぞれに乗り越えてきたことで、かつてのような過激なファンは少なくなっており、本当にX JAPANの音楽を純粋に愛する人々が会場に多く集まっていた。
中にはリアルタイムでX JAPANを知らないはずの10代や、親子2世代にわたるファン、日本国外からもファンが現れたほか、10年間封印していたコスプレ姿を再び解禁して現れた人もいた。
会場ではきちんと隊列を作ることを指示している者や「もし撮影に支障が出るような真似をすればYOSHIKIが泣く!!」と騒ぎを起こさないよう自主的に態度を改めるように求める人が現れたりと、それぞれの行動にきちんと責任を持つ、という意識も芽生えていた。ファンマナーの悪さを活動末期に指摘されていた分、解散に至った責任の一端が自分たちファンにもあると認識していたのかは不明である。
ビデオ撮影が終わると、メンバー5人から復活にあたっての挨拶があり、YOSHIKIの口から「Next Spring ... We'll perform in TOKYO」と春にライブを行うことが発表された。
こうして2007年10月22日、X JAPANは完全復活を果たした。
↑は数少ない当日の様子を撮影した動画の生き残り。10月22日~23日にかけてニコニコでも大騒ぎになり、当日の様子が結構アップされていたが、ほとんど消えている模様。また、この時期にX関連のMADやVOCALOIDカヴァーがかなり増えた。
上記の動画でインタビューの際にTOSHIはマイクを向けられているが、何も喋っていない。後にこれはMASAYAらの罵倒のネタになるのが怖かったため、何の言葉も発することができなかった、と語っている。
X復活と同時にソロでの活動名を『TOSHI HEALING』と変更し、公式ページには来歴にしか載っていなかった『X JAPAN』の文字が大々的に使われる、頑なに拒んでいた「元X JAPAN」という肩書きがあちこちで使われるなど、より人々の目に触れやすい状態へと大幅に改編リニューアルされた。また、詩旅で販売していたCDがデジタル配信(iTunes Store)されたのもこの頃である。また、レムリアアイランドレコードも『ヒーリングワールド』なる名称へと商号変更した。
また、この少し前の2007年10月5日(金)より、CRKラジオ関西(関西アニラジ系大手AM局 558kHz)で久々のレギュラー番組『愛の詩をうたいたい』がスタートしていた。内容は言うまでもなく、ホームオブハートの教えに関することばかりであったが、時に生唄を披露(MASAYA楽曲)したり、ホテルサンシャイン青山の支配人がゲスト出演したこともあったりと、後の脱会にも繋がる人脈の広さが感じられる面もあった(復活ライブ直前に突如最終回となった)。
なお、この当時のトシオフィスの公式ブログが現存している。興味あればご覧あれ。
ホームオブハートからの新たな指示
MASAYAらに数億の金が入った2006年10月以降もTOSHIの生活は苦しくなる一方だった。
X JAPANが復活したこの頃になると、TOSHI HEALING名義の4枚組みベストアルバムを皮切りに洗脳騒動を知らないX JAPANファンを引き込むためだったのか、急激にTOSHIのソロ作品は増加し、ほぼ1~2ヶ月に1作は何かしらのMASAYAプロデュース作品がリリースされていた。しかし、一般作品に比べるとその価格があまりにも暴利だったのはまったく変わらなかった(さすがにiTunes配信では一般価格に合わせていた)。
最初期の『EARTH IN THE DARK』こそ、MASAYA作品ということは知られていたが、それなりに予算がかけられたためかまずまずの評価を得たものの、無名シンガーや妻とのデュエット、エコ・ハードロックなるジャンルで出したTOSHI with T-EARTHの作品などはあまりのクオリティの低さからすさまじいまでの酷評を受けていたほか、そのヒドすぎる出来がニコニコの素材になったりもしていた。Amazonでは、当時の作品の一部が今も購入可能だが、星1~3つの評価が殆どで、ベストアルバムに至っては『史上最低のベストアルバム』とまで散々に叩かれている。ちなみに、MASAYA書籍やCDもAmazonでは取り扱っているが、スタッフと思われるアカウントからの自演がひどい状態である。
また、この時期にTOSHIの妻、守谷はWANKU(わんくぅ)なる名前で再デビューしているが、十数年歌手活動をおこなっていなかったこともあってか、歌唱力はまるでないという評価だった(この芸名自体も意味不明である。犬の鳴き声とは思われるが・・・ 過去に自分は犬だと思ってるなる発言があったが、犬を食べるという意味なのだろうか?)
この時期には、列車移動は自由席、宿泊施設は最安値のビジネスホテルという指示が、周囲の目を誤魔化すためか、列車は指定席、宿は普通の安ホテルへと僅かながら待遇が改善されていた。
地方巡業はさらに過密スケジュールになり、さらには韓国、上海などの海外公演まで行うようになっていた。
しかし、それまで行っていた福祉施設への営業活動は突然停止を命じられた。
理由は「これまで福祉訪問なんてくだらないことをしていた時間をいろいろな経営者とあったりしてMASAYAを応援してくれるような人たちを作れ」「俺が作った作品やホテル会員権を売りつけてコンサートのチケットが捌けるような営業をして売り上げを上げろ!」というものだった。
その命令から、毎日のようにコンサートの合間合間を縫って各界のお偉方と面談や会食などを行うようになる。この時期にロート目薬100周年で「大切なもの」を提供したロート製薬とは、その後も脱会後に「未来をEYEしてる」でVロートの50周年に再び起用されるなど、深いつながりを持つこととなった。少なくとも4000人以上の多ジャンルの人々と出会い、後にこれがTOSHIを救うきっかけとなり、この指示はホームオブハートにとって命取りとなった。
破壊、無謀、創造
YOSHIKIがファンに約束した春の復活ライブは『X JAPAN 攻撃再開 2008 I.V.〜破滅に向かって〜』と題されて、破壊の夜、無謀な夜、創造の夜の計3日が3月28日~30日にかけて行われることになり、発売と同時に全公演が一瞬で完売し、超プラチナチケットと化した。
リハーサル中はホームオブハートの監視もなく、TOSHIの気持ちをわずかではあるがリラックスさせる貴重な時間となった。解散時にあれほど不仲を強調されたYOSHIKIも、TOSHIの現状を察知して「どんなTOSHIだろうと、全てを受け入れて、一緒にやって行こう。何でも力になる!!」と、メンバーの中でもっともTOSHIを気遣ってくれていた。
こうして始まった破壊の夜は、かつてファンに向けて単独公演では最後に披露した楽曲『THE LAST SONG』で開始された。この日はHIDEのホログラムに用いる音響装置に不具合があったため、2時間も開演が遅れたが、シルエットから現れたTOSHIの姿にファンは一斉に歓喜の声をあげ、中には涙を流す者すらいた。著名人の参戦も多く、マキシマム・ザ・ホルモンや小倉智昭などが後日テレビやブログ上でライブレポートを紹介した。また、解散までXを追い続けていたロッキンママこと東海林のり子の姿もあり、「この日が来るとは思っていなかった」とその復活を誰よりも喜んでいた。 しかし、この間TOSHIの楽屋ではひっきりなしに妻からの罵声電話がかかってきており、その度にスタッフを追い出して一人罵声を聞いていた。
破壊の夜はWOWOWで生中継されており、その他の公演はDMMで生配信された。TOSHIは、恐らく画面の向こうから監視しているであろうMASAYAらに気を配りながらライブを続けていた。事実、このライブは「TOSHIが帰って来た」といった評が多い中で、アコースティックコーナーが設けられたり(この際に癒しソロを演奏すると勘違いしたファンから「バカヤロー」といった声もあがっていた)と、未だMASAYAの影響が強いことも示唆されており「体育会系のノリだった一方で、途中ですます調になったりしてMCの内容が以前と比べると変わっている」「喋っていることが何かヘンだった」「TOSHIの様子に違和感がある」といった声もかなり聞かれていた。MASAYAの影響がまだ強かったこともあってか、3日間の公演ではVIOLET UKに混じって当時のTOSHIソロ新曲の『EARTH IN THE DARK』が幕間に流されるといったこともあった。
実際、当時のTOSHIがMASAYAの強い影響下にあったことが顕著に現れているインタビューが残されている。→こちら
そんなライブではあったが、十数年ぶりのSilent Jealousyの演奏や、ART OF LIFEの再演など復活に相応しい充実した内容だった。なお、2日に分割されてはいたが、ART OF LIFEが演奏曲のひとつに選ばれたのは、HIDEが演奏中にほぼその場から動いていないためで、当時の3Dホログラム技術では動き回る映像での競演は不可能だったことに起因している。
裁判での疑念
「東京ドーム3日を満員にするようなアーティストがみすぼらしいのはダメだ」
MASAYAの指示で出会った経営者たちはTOSHIの姿を見て、チケットを購入してくれたり、食事をごちそうしてくれたり、グリーン車の切符を手配してくれたり、さらに宿泊に高級ホテルを用意してくれたり、お小遣いを手渡してくれる人すらいた。自由になる金が一切無いTOSHIにとって、これは業者や消費者金融の返済に充てる貴重な収入源だった。
さらにhide memorial summitでのX JAPANに影響を受けた数多くのフォロワーとの出会い、そうした後輩バンドとの音楽での付き合いが、長年限られた空間での閉じた人間付き合いしかなかったTOSHIには新鮮な刺激となった。
TOSHIの元々の人柄が良かったこともだが、この人々との本当の意味での暖かいふれあいは、それまで洗脳セミナーで叩き込まれた一般社会は悪だ、とする心の壁をゆっくりと融かしていっていた。これは同時にMASAYAや妻に対する疑念を僅かずつだが感じられるようになるきっかけとなる。
さらにTOSHIにとってその疑念を決定付ける出来事が発生する。
2008年12月9日、この日はホームオブハート関連の損害賠償訴訟の控訴審が行われていた。開廷前にMASAYAは出廷に関して「法務省の役人を父親に持つ俺がなんでエゴの強い社会的なやつらに裁かれなくちゃいけないんだよ」などと言いながら、妻も「全部テメェのせいなんだよ! MASAYAがどんな屈辱的な思いをしてるか全然わかってねえんだ! このケダモノ!」などと罵倒しながら、TOSHIを激しく踏みつけ、何度も何度も蹴り付けていた。TOSHIは泣きながら謝っていた。しかし、裁判所に入るときには一緒に手を繋いで入れなどという指示もしていた。
午後2時に開始された裁判で、原告側の紀藤弁護士は「守谷香と出山利三は入籍後まもなく別居しており、守谷は栃木県那須町でMASAYAとともに暮らしている出家信者である。女性ばかりの出家信者の中で、MASAYAの側近中の側近であり、TOSHIはMASAYA,守谷の絶対支配の中で意のままに働かされ、ほぼ全ての金銭を搾取され続けている末端の信者である」と指摘した。これは紛れも無い真実そのものだった。
しかし、この時期にはTOSHIはmixiやブログの中で「外部的には守谷とトシは仲良く一緒に暮らしているというパフォーマンスをしろ」と命令されていた。2008年ごろになると、Wikipediaをはじめとするネット百科サイトが一般にも大きく認知されるようになり、ほぼ忘れられていた両人が夫婦であることなどがインターネット上からでも簡単にわかるようになったことも、そういった虚偽記載を命じる一因だった。
当時の虚偽の一部が今もネット上に現存している。興味あればご覧になっていただきたい。
裁判でMASAYAは毅然としたビシッとした態度を取るのかとTOSHIは期待していたが、実際にはその真逆の光景が目の前に繰り広げられた。尋問に対してMASAYAは「住所は~その~、あの~、わからないんですが・・・」ともじもじとした態度で、質問にもしどろもどろのウソと誤魔化しばかりで、感情的になって狼狽するような情けない姿を晒し、TOSHIはこっちが恥ずかしくなるような気持ちだった。
挙句の果てに裁判長から「セルフコントロールの達人のはずでしょう? それに相応しい振る舞いをしてくださいよ」などと窘められる始末だった。このあまりに違いすぎるMASAYAの姿を見たTOSHIは大きなショックを受けたが、それでも守谷は「紀藤弁護士たちはタジタジだった。顔が青ざめていた」などと言っていた。「自分の自我が強いせいで、MASAYAの発言や態度の本当の意味を理解できていないだけだ」などと考えようとしたが、この裁判でのMASAYAの失態はその後疑念が大きくなっていくきっかけとなった。
後に、この裁判は原告側の完全勝訴に終わっている。なお、この裁判は日本の司法史上で初めてマインドコントロールによる搾取を違法であると認定したもので、非常に画期的な判例であると後に紀藤弁護士は語っている(ここテストに出ますよ。後々公務員試験や司法試験でホント出るかも。)
なお、一審での判決文が紀藤弁護士率いるMASAYA問題のサイトで全文公開されている→MASAYA・MARTHこと倉渕透グループ問題を考える会
最初の逃亡、そして失敗
2009年2月、那須でのミュージックビデオ撮影のために、TOSHIは初めてMASAYAの邸宅を訪れる。
対外的には関連商品のショールームと偽っていたそこには、TOSHIの稼いだ数億の金で作られた美術館のような白亜の城が建っていた。駐車場にはいくつもの高級外車が立ち並び、屋内プールまであったという。ベッドルームには何故かMASAYAと、見覚えのある守谷の衣類が散乱していた。
それまで、「金もなく、子供たちは食べるにも困っており、もう自殺するしかない」などと言っていたのがウソのようなゴージャスぶりで、毎回違う外車に乗ってくる理由も「対外的に上手く行っている事をアピールするため」という説明を受けていた。一方、TOSHIはこの頃、ステージ衣装すらデザイナーの友人に借用し、晩御飯はコンビニおにぎりとおでん、それに飲み物といった500円ほどで済ませているような生活だった。5月ごろからは肋骨が締め付けられるような痛みにも襲われていた。
また、この頃はMASAYAらが上京して高級ホテルに呼び出し、毎度のごとく暴力と罵声を浴びせかけていた。この時にMASAYAは守谷の横でクチャクチャとラーメンやステーキを食べながらその様子を見ており、「おい、アゴ、お前も食え!」などと罵ったという(さすがに残飯を食う気にはなれなかったという)。その姿はかつての青年実業家のイメージとはかけ離れた、TOSHIの金でぶくぶくに太った肥満体の寒気のするような気持ち悪さを持った中年オヤジだった。
そして2009年6月下旬、やっとの思いで稼いだ500万円を手渡した際に守谷により「こんなんじゃ全然足りない!」などと罵倒を受けてる際、「どうせ金だけなんだろ!」と初めてこれまでの疑念から生まれた本音を吐いた。守谷はその言葉に泣き出したが、もはやTOSHIにはそれがウソ泣きであることはわかりきっていた。そして、7月3日、守谷に楯突いたことに対して激しい暴行を受けその際「やくざに売り飛ばす」という脅迫を受けた。この言葉に、TOSHIは「これはもはやトレーニングなどではない。単なる集団リンチだ!」という事実にようやくたどり着き、ホームオブハートからの「逃亡」を決意する。
MASAYAは過去に暴力団関係者の名前を幾度も挙げており、さらに街宣右翼のトラブルもあったことで、その言葉には大変な恐怖と現実味を覚えたことが最大の理由だった。
その日から、携帯電話にかかってきた電話には一切出なくなり、如何にして逃亡を図るか、を思案している中でYOSHIKIからX JAPAN新曲(時期的に「Jade」か「Scarlet Love Song」と思われる)のレコーディング依頼が入る。このときが最後のチャンスと考えたTOSHIは、『誰にも言わないこと』を条件に引き受ける。しかし、2009年7月7日、何処から嗅ぎ付けてきたのかは不明だが、X JAPANのレコーディングスタジオには守谷が鬼の形相で待ち構えていた。逃げるように守谷を振り切ってレコーディングを続けた。「どうか終わらないでくれ」と祈る気持ちも虚しく、12時間後にレコーディングが終了。
一気に走り去って逃げるしかないと決意したTOSHIだったが、待ち構えていた幹部らが拉致、道中では激しい暴行を繰り返す。こうして初めての逃亡は失敗に終わった。
肋間神経痛による入院、そして奇跡の逃亡成功
こうして、最初の逃亡では、那須まで車で連れて行かれ、車の中で2時間半にわたる暴行を受ける。那須に着くとMASAYAから「アゴ男を殺せ」と命じ、「お前みたいな奴はやくざに売り飛ばす」という声も聞こえた。数時間にわたる激しい暴行に何度も意識を失いながら「本当に申し訳ありませんでした。これからも続けさせてください。よろしくお願いします。」と土下座してようやく開放された。時間は朝の4時を回っていた。
もう2度と逃亡は不可能かと絶望していたTOSHIであったが、12年間にも及ぶ肉体的・精神的拷問により体が限界を迎えてしまった。
10月22日、肋間神経痛を発症。声を発することもできなくなり、コンサート先で訪れていた金沢で倒れてしまう。奇しくもこの日は2年前にX JAPANが復活を遂げた日でもあった。
守谷らの追跡を恐れたTOSHIは「誰にも連絡しないでくれ」と頼んだが、その時イベントに関わっていた三上さん(仮名)がよかれと思い、守谷に連絡を入れてしまった。
案の定、守谷は「たたき起こせ」などと病院を脅迫。TOSHI宛にも何通もの脅迫メールが送られてきた。
TOSHIは再び守谷が拉致しに来る事を察知し、三上に「ここを出る。奴らが自分を連れ戻しに来る」と恐怖に震えたが、その尋常ではない脅え方に三上は知人に連絡を取り、真夜中の病院から逃亡した。
その時に連絡を取った三上の知人は警察OBで、TOSHIのライブにも顔を出していた知り合いでもあった。その小田さん(仮名)が山の上に持つ自宅に「事情は話せないが、暫く泊めてもらいたい」と説明し匿ってもらい、遂に逃亡する事に成功する。
TOSHIによれば数時間後の朝方には守谷一味が那須から車で金沢の病院へと姿を現しており
「病院中を探し回り他人の病室まで勝手に開けて押し入り受付や看護婦に尋問する」
という明らかな誘拐目的の行動をとっており、実に間一髪の逃亡であったことが窺える。 脅迫メールの内容を三上に伝えると「そのような非常識な態度を取ることには本当に驚いた」と厳しい表情で答えたという。
この逃亡先であった小田氏の家長、「お父様」と呼ばれる人物との出会いが、後のTOSHIにとって本当の意味での人生の師匠との出会いだった。
小田の家で、ようやく自分が洗脳されていたことを自覚し、彼らの真の目的が自分の金を搾取することであり、地球や子供の未来といった甘い言葉で騙し、セミナートレーニングと題した集団リンチもTOSHIを支配するためだけの演技だったことに、ついに気付くことができた。
当時、「洗脳が解けるのがあまりにも遅すぎるじゃないか」といったファンや一般層の声が多数聞かれたが、それほどカルトの洗脳というものは一度染め上げられるとその思想を変えることは困難であり、後にこれの再現番組で競演し、同じようにカルトのマインドコントロールから脱出した飯星景子は「カルトは入る自由はあっても、抜ける自由は無い」と説明している。通常、カルトが芸能人を広告塔に抱えた場合、幹部に据える、豪邸を与える、金銭面での不自由を無くすなどといった高待遇となることが多い中、TOSHIの場合、まるで逆の状況に陥れられた上で脱走に成功したという点を考えると、非常に幸運だったといえる。
10月26日、Toshlは守谷、MASAYA宛に決別する旨の手紙を送付する。
翌27日、三上にお金を借りて代理人を立てMASAYA側とのやり取りを一任し、一切の連絡をしないようにという通知をしてもらう。その日から毎日金を出せという脅迫のFAXが代理人のもとに届くようになった。
Toshlが自伝で記した物によると
・「ホーム・オブ・ハートは日々の売り上げが無くなり、お金が無くなり、負担が出来ないので、トシオフィス、トシ個人、守谷個人の税金未納分(総計3億円)、その他、家賃、借金、経費などの全ての金はトシが払え」
・「現状戦っている裁判は一緒に戦ってくれ、また裁判費用はトシが払え」
・「トシがいなくなって全く金が入って来ないので知り合いの社長さんなどホーム・オブ・ハートにお金を出してくれる人を紹介してくれ」
・「トシ個人やトシオフィスが破産した場合も、守谷がトシオフィスから借りている1億円以上の金の返還請求が守谷に来ない様にしろ。税務署も来ない様にしろ。」
・「すでにホーム・オブ・ハートが受け取っている今後予定されているコンサート・イベント等の収入は、返金しなければならないが、それはトシが返金してくれ」
・「トシの病気が治って、MASAYAの曲を歌いたいと言うなら、歌わせてやる」
・「MASAYAにこれ以上迷惑をかけられないから、ホーム・オブ・ハートを離れると言うメッセージをブログに出せ」
と「テメェーの頭はハッピーセットかよ?」と言いたくなるような支離滅裂で共通している事と言えば「金くれ」だけな手前勝手な要求ばかりであった。
そのような金が無いことはMASAYAらが一番知っているというのにこの要求にはTOSHIも怒りを覚えた。
やっと届いた経理書類で、TOSHIに個人、会社で数億の未納税金があること、借金の未払い金支払い義務が課せられていること、健康保険料が10年以上も未納となっていたことが初めて発覚。度重なる返還請求で、ついに実印、銀行印、預金通帳などを取り戻すことが出来た(当然のように残高はほぼ0だった)。
なお、この当時Toshlが送付したと思われる手紙がHoH側が発表したコメントに掲載されている。
小さくて見辛いが「今の仕事をすべてヒーリングワールドも他の事業も本当に申し訳ありませんがもうやめたいと考えました」という決別の旨と「代理人を立て解決する」という文言があることから本物であることが推察される。
興味あればご覧あれ。
また、10月30日時点では、まだこれら決別が表になっておらず、ニュースサイトなどにはMASAYAらが記入したと思われる虚偽のブログコメントがそのまま引用されていた。
実は、この時期にYOSHIKIの自伝本『YOSHIKI 佳樹』に対抗してか、2009年11月4日発売予定でワニブックスより、『シャウト ~ヴォーカリストTOSHI魂の告白~』と題した自伝本の出版がアナウンスされたが、こうした事情もあってか、発売中止となっている。
もう一度歌うことへの決意
11月になっても、TOSHIはまだ山の家でお世話になっていた。
静かな日々を送る中で自分が歌うことでトラブルが増え、大切なものが失われていく。
このようなことから本気で歌手の引退を決意した。
しかし、お父様との食事でお父様が昔トシという名前の子を亡くしたことなどを聞かされ、茶室を共にしたりといった交流があり、少しずつその意識も変わっていった。同じ頃にX JAPANのミュージックビデオ撮影の依頼があり、病院ではそれまで受けてきた暴力の傷跡を消すための治療も始めていた。
2009年12月31日、YOSHIKIのロサンゼルスのスタジオを訪れたTOSHIは、事情を聞いていたYOSHIKIから心配の声をかけられ、「自分もいろいろあって大変だった」と話したという。
YOSHIKIの自宅でYOSHIKIブランドのワインなどを振舞われると、『Born To Be Free』という名の新作ができたことを聞かされる。「自由になる為に生まれてきた」というそのタイトルに感銘を受けたTOSHIは早速YOSHIKIとのセッションを始めた。病気で声を失っていたTOSHIはこのときに声を取り戻した。
もう失うものなど何も無い、自分に残されたのは歌うことだけ、と確信を得たTOSHIは再びステージに立つことを決意する。
そして年が明けた1月15日、mixi上にそれまでの経緯の全てを告白。
18日には代理人弁護士事務所で記者会見を開き、自らの口でそれまでの洗脳されたホームオブハート生活の全てを白日の下に晒した。下記の動画はその会見をノーカット収録した前後編。
紀藤弁護士との和解、被害の実態
元々敵対していたことからやや躊躇したものの、お父様のアドバイスもあり、承諾。
この場で紀藤と被害者の面々と初めてきちんとした形で話を行うことができた。部屋に入るなり、TOSHIはこれまでの非礼の数々を詫びる。紀藤は彼が洗脳を受けていたことも重々承知していたため、「本当に出てきてくれてよかった」とやさしい言葉をかけてくれたという。そして、どうしても伝えたかったと語る被害の実態を耳にすることになった。
ここで語られた被害は「守谷によって勧誘され、罵倒暴力によってマインドコントロールされ、財産、架空ローンで数千万の被害を受けた」といった金銭面での被害の話、「MASAYAから猥褻行為を何度もされた」という女性被害者、「罵声を受けたことで未だに娘が後遺症を残している」という現在、「娘が暗い部屋でダンボールに入れられ、フタを閉めて監禁状態にされた」「離婚を強要され、9歳の娘は学校に行くことを禁じられ、その間幼児の面倒をダンボールで見るように命令された」という児童虐待事件の真実、さらに「自分もTOSHIを罵倒したことがあったのだが、ふと周りを見ると、ベッドの上でMASAYAと守谷が性行為を始めていた。」といったこれまで謎に包まれていたMASAYAと守谷の真の関係を初めて知ることができたという。また、「TOSHIさんはX JAPANの活動である程度お金や人生を取り戻すことが出来るかもしれないが、離婚で子供や夫を失った被害者はお金や人生を取り戻すことはもうできない」といった話もあったという。
自分だけでなく、一般にもこれほどの被害があったことをTOSHIはこのときまで知る術もなかった。
さらに、守谷が勧誘してきたときの態度が、自分に近づいてきた頃とまるで同じだったことで、この洗脳劇が全て最初から仕組まれていたことを知った。最初からMASAYAと守谷はグルで、最初から自分を取り込む目的で近づいたと考えれば腑に落ちる点も多々あると感じたという。
「今の自分に何が出来るのか?」を紀藤に問うと、「最も避けたいことは、これ以上被害者を一人も出さないということである」という返答だった。この言葉を受けてどんなことでも協力することを誓った。
後にこれは2010年4月23日、著名人本人が出席することは極めて異例となる紀藤ら被害者団体との合同記者会見として結実した。
MASAYAと守谷の実態
洗脳から脱したこと、被害の本当の姿を知ることができたTOSHIは、それまで出会ってきた人々に謝罪をして回った。
みな、TOSHIの置かれていた状況は理解しており、異口同音に「本当に出てきてくれてよかった」と彼の脱会を歓迎したという。
そして、それまでTOSHIに伏せられていたMASAYAらの行いを知ることになった。「MASAYAと守谷が二人で泊まるホテルの部屋を取れ」「ハートマークのびっしり書かれたFAXが何枚も送られてきた。常軌を逸した行動は他にも多数あり、自分の妻からも守谷は信用するなと釘を刺された」といったものや、有名画廊のオーナーから「MASAYAは昔から詐欺師と呼ばれ有名だった」、大手芸能プロダクション役員から「守谷は業界で昔から要注意人物扱いだった」といった話を聞かされた。
『何故もっと早く自分にそのことを告げてくれなかったんだ』
そういう思いはもちろんあったが、もし自分が同じ立場だったとしても、伝えることはできなかったかもしれないという思いもあるという。
破産手続きにあたり、TOSHIは被害の実情を解明し、証拠とするための『陳述書』の作成に取り掛かる。
何度もフラッシュバックに襲われ、頭痛や吐き気に苦しみながらもそれを作成した。その助けになってくれたのもまた、紀藤や被害者たち、お父様らの協力者だった。
この陳述書作成を元に出版されたのが、TOSHIのホームオブハート時代をまとめた書籍で、本記事作成時の多大な資料となった『洗脳 ~地獄の12年からの生還~』である。紀藤弁護士があとがきを書いており、ホームオブハートのみならぬ洗脳についての恐ろしさを語っており、必見。
出版動機は、未だMASAYAらが自分の名前を使って金儲けをしているいことへの怒り、そして馴染みの店でMASAYAのCDが売れていたことを発見し「これはマズイ!」と感じて「二度と被害者を出してはならない」という先ほどの強い決意からだった。
なお、TOSHIの脱会後に、ホームオブハートは全商品を「ありがとうセール」などと称してそれまでとは比べ物にならないほどの安価でネットに放出している(元が高すぎだったので、ある意味適正価格になっていた)。
さらに、それと前後してMASAYAは表記をMARTHに変更。そのほか、クーマンなどといった表記もあるが、全て同じ人物である。
1からのスタート、そして現在
合同記者会見を2ヵ月後に控えた2010年2月8日、TOSHIは新たな公式サイト『武士JAPAN』を開設。
この日から、『1から人生をやり直す』という自戒の意味を込めて、名前の表記を“Toshl”へと変更した。
2月24日、東京赤坂BLITZにてソロミュージシャンTOSHIのラストコンサート『TOSHI LAST CONCERT“武士JAPAN”』がYOSHIKIプロデュースで開催された。
会場のチケットはすぐにSOLD OUTとなり、その公演では「TOSHIくん、おかえり~」といった観客からの歓迎の声が多数聞かれた。コンサートにはPATA,SUGIZO,HEATH,YOSHIKIも参加した。ステージはソロデビュー曲『made in HEAVEN』で開幕し、この日のために書き下ろした新作、PATAやSUGIZO、HEATHらの楽曲、YOSHIKIプロデュースのVIOLET UK、さらにアンコールではX JAPAN作品の演奏と、真の意味でソロとXの集大成的なライブとなった。
4月23日、破産前にToshl及びMASAYAと守谷香に起こされていた裁判についてHoH側から申し出により勝訴的和解が成立。同時にトシ個人および(株)トシオフィスの破産に関する民事訴訟を起こした。
その後、X JAPANのヴォーカリストToshlとしての活動も再開し、8月15日、16日には日産スタジアムでTAIJIも出演した野外公演も成功させた(このライブは真夏開催であったが、終始長袖で、サングラスもかけっぱなしであり、曲数も少なめだった。未だホームオブハートから受けた暴行の傷跡が消えていないことを伺わせるライブでもあった)。
また、『Toshl』としてのソロ活動も開始し、「クリスタルピアノのキミ」が2010年9月にYOSHIKIプロデュースで発売された。2011年には東日本大震災のチャリティーにも参加し、被災者に歌声を届けた。
その後も小規模なコンサートを何度か開催している。しかし、小規模といっても、ホームオブハート時代のそれとは異なり、きちんと『歌手』として相応しいディナーショーやライブハウスといったステージでの活動で、ソロミュージシャン、天才ヴォーカリストToshlは完全に復活を遂げた。Toshlの掲げるロックはhideのPSYBORG ROCKならぬ、CRYSTAL ROCKと称した、YOSHIKIのものとも異なるそのハイトーンヴォイスを活かした新形態であった。
2014年7月16日、2010年の破産宣告から続いていたToshl個人および(株)トシオフィスの破産に関する民事訴訟裁判が勝訴的和解に至ったと発表があった。
同時に関連して行われたToshlとトシオフィスの破産に関する手続きも9月で終了する見込みであると発表された。
2014年8月9日にはニコニコ生放送に登場。
先述の『洗脳』の書籍のPRと新たに結成したバックバンドでのお披露目ライブの告知を含めての出演。
本を読んでいたユーザーからは多数の反響があり、プレミアム会員からの質疑応答にも答えていた。
そして8月25日には「CRYSTAL ROCK NIGHT SUMMER LIVE IN DAIBA 未来をEYEしてるゼ」が行われた。
ライブでは2009年以来5年振りとなるWeek End(X アレンジVer)を始め、HIDE作曲の「Miscast」や「Celebration」といった超レア曲に加えてhideの「ピンクスパイダー」を6年振りにカバーするなどHIDE曲が多めに演奏されるスペシャルライブだった。
特に、「Miscast」は「洗脳のメロディ」というワードが歌詞に存在することから、二度と演奏されないのでは?といわれていただけにファンの驚きは大きかった。
8月22日には『中居正広の金曜日のスマたちへ』のスペシャルに紀藤弁護士と共に出演。2時間全編使ってToshlの特集となったこの番組は、上記の洗脳時代が、出演者もソックリな人物を用いてかなり詳細に再現ドラマ化され、大反響を呼ぶ(MASAYAはM、守谷香はKという表記だった)。同じくカルトの統一教会から脱会した飯星景子や、レギュラーのベッキー、大竹しのぶらもその壮絶な人生には絶句していた。
この放送でToshlは、脱会してから初めてテレビカメラの前でHIDEの死について語り、「当然、自分がそこで(バンドを)辞めてなかったら、みんな違う人生がそこにありますので、(HIDEが)そうはなってなかっただろうなぁという気持ちは、やはりあります」と自責の念を吐露した。
番組ラストにはX JAPANが地上派テレビで最後に披露した作品である『Forever Love』をピアノ弾き語りで熱唱。キーは下げられていたが、中居より『X JAPAN Toshl、完全復活ですね』と労いの言葉をかけられた。
なお、メインMCの中居はXラストステージの紅白の司会でもあり、放送局のTBSはラストライブを後日放送した局でもあった。
YOSHIKIもTwitter上で「テレビ辛くて観てられない」「本当はもっともっと複雑」とコメントした。これに伴ってToshlの自伝本は5万部を超えるベストセラーになり、これを書いている時点で3版まで増刷されている。
番組中では、被害額10億円と語られたが、9月25日の記者会見ではToshl本人の口から15億円に上ると明かされた。
そして、何より、人間にとって一番の財産といえる若さと時間を奪い去ったホームオブハートの罪はあまりにも深い(Toshl自身も、最もパワフルな30代という時代を彼らに捧げてしまったことを強く悔いているという)。
ただ、洗脳被害に遭った月日ではなく、X JAPANから離れた10年間については、「あのまま行っていて、本当に世界にチャレンジできたのかは分かりません。もしこうだったらと、いろいろ言っても、時は返ってこない。いままでの時間が必要だったと割り切って考えています」と答えている。
なお、この時点でも絶縁状態にある母や兄たち肉親とは未だ復縁できていないことをインタビューで明かしており、洗脳の傷跡やその後の新たな確執の存在を伝えている。
そんな彼は、2014年10月、ついにニューヨーク『マディソン・スクエア・ガーデン』のステージに立った。
X JAPANとしては2015年に20年ぶりの日本ツアーを行い、18年ぶりの紅白歌合戦出場も果たした。
2016年にはアルバム発売も予定されており目が離せない。
一方でソロ活動の方はその後もシングル発売、ディナーコンサート開催など順調に行い、
2015年7月20日には「魔夏の夜Toshlロック祭り」
2016年4月29、30日には「春の稲妻Toshlロック祭り」
をそれぞれ開催した。
2014年のライブ同様、現在や過去のソロ曲に加えて近年X JAPANでは演奏されていないX時代の曲も演奏され、多くのファンを喜ばせた。
また洗脳が解けた以降はX時代から時折垣間見えた「三枚目キャラ」を全面的に出すようになり
・「Celebration」ではペンライトを持ってモンキーダンスをする
・X JAPANの日本ツアーのMCでは各地の方言を使ってMCをする、YOSHIKIにダメ出しする
・TV番組でドッキリを仕掛けられても逆に謝ったり笑って受け流す
・同じくTV番組の「本人がそっくりさんに化けても正体がバレない」という企画で「トシ郎」という名前でものまねショーに出演し「Forever Love」を披露する
というX JAPAN解散前の姿からすると想像も付かないようなお茶目な一面を開花させている(?)
ここまで読んでくれているユーザーの皆様は、MASAYAが一体どんなコンサートを開催しているのか、気になった方もいるだろう(そうでもない?)。
ニコニコには、勇敢なユーザーが動画をアップしてくれているので、最後にその勇士をとくとご覧いただこう。
また、Toshlの告発本によりあまりに「MASAYA」の悪名が知れ渡った事から現在は
・TAKERU
・MARTH
・倉渕雅也
といった別名義で活動している為、注意が必要である。
この記事を読んでいる人の心を代弁して一言、
記者会見や陳述書の作成が一段楽した頃、Toshlは、お父様に「本当に幸せに生きていくにはどうすればよいか?」を訪ねたという。その答えはこうだった。
『清廉に生きていくこと』
これからもToshlは清廉に生きていき、私たちの魂を揺さぶる素晴らしい歌を届け続けてくれることだろう。
「人はどんな時でもやり直せる」
今日の終わりがどんな小さな一日であろうが、自分におって残された「命」。
清廉に今ここに生きていきたい。
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