比島攻略作戦とは、1941年南方作戦の一環として日本軍によって比島攻略準備としてなされた作戦であり、フィリピンにおいて日本とアメリカとの間に行われた戦いにおいて、日本軍が米軍を圧倒した戦いである。
約7100の島々で構成されるフィリピン群島は、極東の戦略的中心に位置し、日本や中国から蘭印の豊富な石油・鉱物資源に通じる貿易ルートの間に位置している。当時日本領だった台湾からは最短65㎞、すなわち晴れた日には肉眼から見える位置にある。マニラがあるルソン島(10万4680㎞2)、南にあるミンダナオ島(97530㎞2)、続いてレイテ島、パナイ島、セブ島などからなる中央のビサヤ諸島の3地域がある。気候は熱帯性で、乾季と雨季は脊梁山脈と季節風の関係で、東海岸と西海岸では異なる時期に訪れる。極東屈指の天然港であるマニラ湾の入口から50㌔にマニラがあり、その北と南には船を保護するのに十分な大きさの港がある。フィリピンの首都マニラは、東京から2900㌔しか離れていない一方ホノルルから8000㌔、サンフランシスコから11200㌔の距離にある。
フィリピンの人口は1941年には1700万人を数えた。セブ島とルソン島中部が最も人口の多い地域で、マニラは68.4万人で最大の都市であった。諸島には約3万人の日本人がおり、その3分の2以上がミンダナオ島の主要港であるダバオに集中していた。ルソン島には約9,000人のアメリカ市民がいた。 諸島では65以上の方言が話され、ルソン島中部のタガログ語が1937年に国語として選ばれたが、ビサヤ語話者はその2倍いた。多くの方言にはある種の共通点があるものの、島の異なる地域に住む原住民がお互いを容易に理解することは不可能である。
フィリピンは主に農業を営んでおり、主な作物は米(フィリピン人の主食)、コプラ、砂糖、麻、タバコ、トウモロコシなどである。広大な山岳地帯は、金、銀、そして鉄、クロム、マンガン、銅、鉛などの重要な金属の産出地で、フィリピンの60%は森林に覆われており、その多くは広葉樹である。アメリカが長年占領した後も、フィリピンには製造業はほとんどなく、住民のほとんどは家内工業や、砂糖、麻、ココナッツなどの農産物の加工に従事していた。
| 概要 日本軍の戦略 開戦、日本軍の比島攻略作戦 日本軍マニラ制圧 バターンの戦い 南の島々 |
「国家総動員体制」と「資源自給自足」を達成すれば日本軍は不敗である。大日本帝国陸軍始まって以来の天才である永田鉄山の思想に間違いのあろうはずがない。これは東條英機や武藤章・田中新一ら当時大日本を動かしていた日本軍軍部高級将校たちの理想であり、軍部高級将校の各方面の努力によりて遂にその実現にあと一歩まで迫っていたのだ。
大東亜戦争の戦略目標は、まさに蘭印を占領することにあった。そこに、日本軍の死活的切要品である石油の宝庫が横たわっていたことは言うまでもない。いわば、マレーとフィリピンとは、蘭印の奥御殿に達する二つの門であり、この堅門を破ってから奥御殿に殺到するのが大東亜戦争の戦略綱領であった。ジャワ制定は急がねばならない。時を移せば、米英豪の各軍が、蘭印に集結して反攻態勢を固めるであろうし、石油の獲得に大誤算を生じ、戦争の第一目的を失う恐れがある。蘭印の前哨作戦は41年12月17日から開始され、翌42年2月14日のパレンバン空挺戦を経て、3月1日からのジャワ本土攻略戦に発展したもので、慎重かつ勇敢に水も漏らさぬ綿密の計算が計画されたのだった。
比島は米海軍・空軍の前進根拠地であり、日米戦争の作戦目標は第一着にこれを覆滅するのが常然であったのみならず、同群島は日本と南洋を結ぶ航路の真ん中に横たわる地理的関係から見ても、その完全掌握を絶対条件とした。大戦略上の重要性から見れば、蘭印との間に甲乙をつけえない目標であった。しかし比島がどんなところであるかを皆目知らないというのでは、参謀本部の責任が通らぬという立場から、一応はその兵要地誌を記録する意味で若い将校を派遣したことはある。比島攻略参謀長となった前田正美少将が、大尉時代に民間人として入国し、電気器具商に化けて諸種の調査をしたのは軍部内で有名な話だった。
大本営では、1941年の秋にフィリピン諸島奪取の具体的な計画が立てられた。南方軍は1941年11月6日に編成され、指揮下には、第十四軍、第十五軍、第十六軍、第二十五軍が置かれ、10個師団と3個混成旅団で構成されていた。任務は、「南方地域」にある米英蘭の所有地を最短で占領することであった。作戦は三段階に分かれ、第一期作戦は12月8日、マレーとフィリピンを同時に急襲して攻略を進め、第二期はジャワ、スマトラを攻略し、第三期は機を見てビルマ作戦を準備するというものであった。
日本軍のフィリピン防衛評価
日本軍の計画は、フィリピン諸島に関する詳細な知識と、米軍と比島軍に関するかなり正確な見積もりに基づいていた。 日本軍は、米軍と比軍の大部分がルソン島に駐留しており、米軍が1941年7月以降、1.2万から2.2万人に増員されていることを知っていた。将校の8割、下士官の4割が米人で、残りが比島人と考えられ、米人は優秀な兵士とされていたが、熱帯の気候では肉体的にも精神的にも衰えやすく、比島人は熱帯気候に慣れているとはいえ、耐久力や責任感に乏しく、兵士としては米人よりも劣る。日本軍は、フィリピンの陸軍と警察隊の兵力を11万人と見積もり、この戦力は12月までに10個師団12万5千人になると考えていた。だがフィリピン陸軍は歩兵で構成され、工兵や砲兵の部隊はわずかしかなく、装備、訓練、戦闘能力の点で米正規軍に比べて非常に劣っている。すなわち実質的に相手になるのは米正規軍2.2万に過ぎない。敵情総覧によれば、最近に米極東軍(USAFFE)司令官に任命されたダグラス・マッカーサー将軍の隷下にあるとある。この司令官の軍事的手腕についてはまちまちだが概して悪く、「彼の能力はマレーの英軍司令官パーシヴァル中将と同じ」というものもあった。
マッカーサーは一九二二年から二五年までマニラ島駐屯軍司令官として在勤、三十五年以来は比島元帥として『ケソンのダニ』といわれつつ比島の目付役を勤めていた。
日本軍は、マッカーサーが戦車54両の1個大隊を持っていること、港湾の防衛は、4つの沿岸砲兵連隊と1つの対空連隊で構成されていることを正確に知っていた。
日本側は、陸軍に比して空軍の方が遥かに警戒を要すると判断していた。クラークフィールドは重爆用の滑走路を有し、世界的にも名を喧伝されていた「空の要塞」B-17がすでに姿を現していた。それゆえ、日本軍は緒戦における空中戦に重点を置き、それを撃滅したあとは、比島の攻略は一尺千里に進めえるものと考えていた。というよりも、比島の場合は、空中戦を征服したのちでなければ、上陸作戦は冒険に失すると考え方で、大本営作戦部は「航空撃滅後の上陸作戦」という近代戦法の常道に沿って比島攻略を計算したのであった。フィリピンに駐留するアメリカの空軍は、B17重爆35機を中心とし、一流戦闘機72機をもって主力を構成していた。その他の各種合計100機は二流品であって、わが軍と対等の太刀打ちはできない代物であった。米軍機はルソン島の2つの主要な飛行場に駐留していると日本側は考えていた。追撃隊はマニラ郊外のニコルズ飛行場に、爆撃隊はクラーク飛行場に配置されていた。
大本営は防衛軍の概要を把握していたが、防衛計画は読めなかった。フィリピンの守備隊がマニラ周辺で最後の抵抗を行い、敗北した場合は散り散りになって簡単に掃討されるであろう。
| 辻政信「今度の敵は支那軍と比べると、将校は西洋人で下士官は大部分土人であるから、軍隊の上下の精神的団結は全く零だ。 …戦は勝ちだ、支那兵以下の弱虫で、戦車も飛行機もがたがたの寄せ集めである、勝つに決まっているが、唯如何にして上手に勝つかの問題だけだ。」 |
南方軍は直ちに南方地域の奪取計画の準備を始めた。第十四軍(第16師団、第48師団、第65旅団からなる)はフィリピン諸島奪取を、第十六軍が蘭印での作戦、第十五軍がタイを担当することになっていた。第二十五軍は最重要で困難なマレーとシンガポールの征服を任された。これら作戦に対する航空支援は、2つの航空団と1つの独立した航空部隊によって行われる。第5航空群はフィリピン作戦に配属された。
参謀本部第一部の作戦課長服部卓四郎中佐を中心として策定された比島攻略戦の要綱は、
(イ)まず航空撃滅戦を実施
(ロ)一軍をリンガエン湾に、他の一軍をラモン湾に上陸
(ハ)開戦50日ごろにマニラ市を挟撃占領する
ことであった。そして敵軍主力の撃滅はマニラ周辺の戦闘においてこれを予期することになっていた。
本間雅晴(台湾軍司令官)、山下奉之及び今村均各中将が相前後して、参謀総長杉山元元帥の室に出頭したのは41年11月6日であった。ここでこれらの将軍は重要な知らせを受けた。数週間以内に日本は英米と戦争状態に入る。そして彼らは各々軍司令に任命された。本間は比島第一四軍、山下はマレー第二五軍、今村は蘭印第一六軍であった。処理は本間から始まった。説明は細部にわたり、師団の配置、陸海空の援護、各作戦の時期などが示されたのち、本間に要求されていることは、フィリピンの首都マニラの諸隙後、50日以内の占拠であると杉山は伝えた。杉山は本間がかかる軍司令官に任命されたことに恐悦感激し、その命を何も言わずに受諾するものと予期していた。ところが
「50日以内といわれますが、それはどうやって算出された日数ですか?」
「参謀部が割り出したものだ」
「・・・またお伺いしたい。だいたい一四軍だけが、なぜ二個師団だけしかいただけないのでしょうか?」
「諸種の状況を子細に判断して、参謀部が決めたことだ。困難なのは君だけではない。」
「予備としてもう少し兵力をいただけませんか?」
「駄目だ。やれる兵力はない。君は嫌なのか?」
「とんでもない、しかし指定期日までにマニラを確実にとるということは保証できかねます」
だんだん応酬が険悪になったのを見て、今村は破局にならない前に中に入らざるを得なかった。杉山と本間はこれまでにもちょっとした摩擦があり、それ以来互いに虫の好かぬ相手であった。杉山がわがままを通すことができたら、本間がこの任務をもらえたかどうかは疑問であった。しかし日本陸軍ではその男の進路を決める決定的条件は、かつての陸軍大学卒業時の成績順位にあった。本間は今村に僅差で抜かれはしたが、どの学科でも素晴らしい成績を取ったのだった。
段々怒りがこみあげてきた杉山は「君の考えがどうだろうと、50日という目標は一環として組み込まれているので、変更することは許されない。黙って受諾し給え」と言い放った。
・・・今村も山下も「本間、お前が杉山に言った気持ちはわかるよ。俺たちだっていってみようかと思っていたのだ」といった。しかし残された杉山は自分の部屋で本間との諍いを思い出して考え込んでいた「日本の軍人はだ」彼は参謀の一人にこう言った。「こんな命令をもらったら、誇りと喜びをもって挺身すべきなのだ。あの質問は何だ」後の事件が示すように、杉山は本間を許しも忘れもしなかった。(アーサー・スゥインソン 四人のサムライ)
11月10日を皮切りに、陸海軍の上級司令官が出席する会議が東京で開催され、計画遂行のための諸々の詳細が決定された。第一四軍、第一六軍、第二五軍の各司令官は、東條英機首相(陸軍大臣を兼任)、杉山元陸軍参謀総長、寺内大将とともに、大本営の作戦計画を見せられ、戦略の概要を説明され、戦争になった場合の任務を聞かされたのである。この会議の後に行われた陸海軍の司令官同士の議論では、大まかな戦略に若干の修正が加えられ、具体的な作戦計画が最終的にまとめられた。
20日、南方軍は敵対行為の開始日のみを省略して、今後の作戦に関する命令を発表した。最終的な計画は、11月13日から15日にかけて岩国で行われた第14軍司令官・本間正晴中将と第5航空群司令官(小畑秀吉中将)、第3艦隊司令官(塚原西蔵副長)との会議で完成した。ここで3つの重要な取り決めが行われた。まず制空権を完全に確立するために、米空軍を壊滅ないし無力化すること。したがって敵飛行場はできるだけ早期に占領する。ここに友軍航空機を入れて、地上戦闘を援護できるようにする。海軍は空襲の初動からこれに共同し、かつ先遣部隊の揚陸にも共同作戦をとる。
しかしその時間をいつに決めるか? 真珠湾攻撃の時刻より先に出動し始めねばならない。しかしこれを全部正確にするには、敵が動き出さない前に、各部隊は遠路、海を渡らねばならない。このため次の計画も取り決められた。すなわち空襲初動の前日の日没時、田中透大佐、菅野善吉少佐の第四十八師団の二つの部隊は台湾を出港し、ルソン島北岸に進路をとる。彼らの目標はアパリ、ビガン及びラオアグの敵飛行場である。各部隊はのち主幹上陸部隊の両側を防衛する。これと同時に、第十六師団木村直樹少将、坂口静夫少将の二つの部隊は、ミンダナオ島の東880㌔のパラオ島を出港、レガスピとダバオ敵飛行場を攻略し、前進中の友軍南翼を護衛する。
米軍の航空戦力の大部分が排除された時点で、第四十八師団、砲兵4個連隊、戦車二個連隊からなる十四軍本隊は、数日遅れてリンガエン湾に上陸しマニラ、ロザリオ、カバナツアンの西を縦に細く進行する。副部隊はタルラック、サンフェルナンドを経由して西進する。このころ森岡中将十六師団は、ラモン湾上陸、これは東南からマニラに進撃する。本間はこうやってマッカーサー軍を二本刀のホーク状に包囲し、マニラ周辺の決戦に痛棒を加えるつもりであった。かくてマニラ湾を帝国海軍艦船に開放し、十四軍の使命は一応達成するという勘定であった。
この大方針は図上演習において議論の対象になった。前田正美参謀長から提出された質疑は次の3つであった。
1.大本営の比島作戦目標は、マニラ市の占領にあるか、あるいは敵野戦軍主力の撃滅にあるか。
2.もし後者にありとすれば、決戦はマニラ周辺に予期すること困難にして、主戦場はむしろバターン半島に予想さるべき、したがって両者を一挙に遂げることは困難である。
3.バターン半島が主戦場となれば、第十四軍の兵力量は不足であり、少なくともマレー軍や蘭印軍と同等を必要とするであろう。
前田の主張は間違っていなかった・・・が通らなかった。大本営の説くところは「比島作戦の要訣は、政戦両略の中枢たる首都マニラを制するにあり。第三流の比島の弱兵のごときは初めから歯牙にかけるに足らぬ」というのであった。また参謀本部の代弁者は「大本営の大局的意図は、マニラ市の攻略をもって比島作戦の終局と決めている。敵軍がバターン半島という極致に逃げ込むなら、かえって好都合であって、それは勘定戦・封鎖戦の段階に入るもので、主作戦はすでに終局を告げたものと了解されたい」と断言した。敵がどこに逃げようと、当方はマニラに比島政権を樹立して安定工作を推進すればよろしい。後は封鎖放置して彼らの餓死を待てばよい。マッカーサーもバターンを攻められるよりも封鎖されることを恐れていたという。前田は納得してマニラ一本やりの作戦指導を決心したのであった。この構想を徹底することができたら、それは史訓に残る立派な戦略作戦である。(日本軍が実際に実行できるかは?)
ルソン島が確保されると、航空部隊や第四十八師団などのほとんどの部隊が、重要な蘭印やマレーに移送されることになっていた。その際、本間は残った抵抗勢力を掃討し、ルソン島を駐屯させるために第六十五旅団を受け取ることになっていた。第十六師団はその後、南下してビサヤ地方とミンダナオ島を占領する。また、第十四軍司令官は、陸海軍合同の600機の航空部隊の支援を期待していた。しかし、第5航空群の2つの航空旅団のうちの1つと、当初フィリピンに派遣される予定だった海軍航空部隊の一部は、他の作戦に移されてしまった。最後に第5航空群に第24航空連隊が加わったことで、フィリピン作戦に投入された空軍・海軍合同の戦闘機は約500機となった。
フィリピンに対する航空作戦は、Xデーの朝、陸軍の第5航空群と海軍の第11航空艦隊の飛行機がルソン島のアメリカ空軍を攻撃することから始まる。この攻撃はアメリカの航空戦力が破壊されるまで続けられる。安全保障上の理由から、攻撃前の航空偵察や潜水艦による偵察は、上陸地点の高空航空写真を除いて行われないことになっていた。
日本の陸海軍司令部の取り決めにより、陸軍航空部隊はルソン島を横断する線である緯度16度以北で、海軍航空隊はクラークフィールド、重要なマニラ地域を含むの南側の地域を担当する。海軍の零戦は航続距離が長いので、マニラ方面の任務を与えられた。パラオに駐留していた第4空母師団の空母機は、ダバオとレガスピ上陸の航空支援を行う。第一四軍の先遣隊が上陸して飛行場を確保すると、第5航空群の主力はアパリ、ラオアグ、ビガンの各飛行場に進出し、海軍航空隊はレガスピ、ダバオの各飛行場を拠点とする。アパリ近郊の飛行場は重爆撃機に適していると勘違いされ、第5航空群の大部分がそこに命じられた。空軍の前方移動は作戦開始6日目か7日目には完了すると予想され、この週には、第3艦隊の海軍機動部隊が輸送船団を保護し、フォルモサ地域とフィリピン海域で対潜水艦措置を行うことになっていた。フィリピン作戦に投入された海軍水上部隊は、第3艦隊の配下にあった。高橋提督が指揮するこの艦隊は、主に水陸両用の部隊で、巡洋艦や駆逐艦が支援に当たっていた。主な任務は、地雷除去、偵察、目標までの航海中の部隊の護衛、上陸作戦中の部隊の保護など、フィリピンへの上陸作戦を支援することであった。機密保持のためか、陸上目標への水上爆撃の規定はなかった。
戦力の集中
11月初旬、フィリピン作戦に投入された部隊は、指定された出撃地への移動を開始した。第5航空群は、月の後半に満州から台湾南部に到着した。11月23日には、台湾に駐留していた先遣隊のうちの2隊が高雄で船に乗り込み、澎湖諸島の馬公に向けて出航した。 11月27日から12月6日にかけて、第48師団(分遣隊を除く)は馬公、高雄、基隆に集中し、来るべき侵攻のための最終準備を行った。第16師団の最初の部隊は11月20日に名古屋を出港し、5日後に残りの師団が出港した。師団の一部はパラオに、主力は奄美大島に集中した。12月1日、高雄に司令部を設置した本間大将は、南方軍からの最終指示を受け、12月8日に作戦を開始することになった。
| 概要 日本軍の戦略 開戦、日本軍の比島攻略作戦 日本軍マニラ制圧 バターンの戦い 南の島々 |
ケソンは1935年、旧友のマッカーサーをフィリピン軍創設のため雇用した。ルーズベルトは参謀総長とは緊張した関係だったけれどもその功績は認めており、フィリピンの高等弁務官の地位を打診していたのだが、フィリピン国軍「元帥」の地位と高給につられたマッカーサーが選んだのだった。さらにマッカーサーは1937年に米陸軍も退職してしまった。
マッカーサーはスイス式の陸軍予備軍を提案した。平時は小規模な正規軍を維持し、戦時には小規模な常備軍を中心に予備役を招集、たちまち有力な大軍となるという構成であった。マッカーサーは自分の計画に楽観的で自信満々だった。
| 「私の父親の時代にたかだが2万人の反乱軍を鎮圧するのに10万もの米軍兵士が3年も費やした。ゆえに最低で30万もの兵士を上陸させずにフィリピン征服を試みるものがいるとは考えられない。私がやっていることは、単なるフィリピンの安全保障をはるか超えているのだ。フィリピンでの堅固な防衛が、合衆国に如何なる勢力の武力侵攻に対しても立ちはだかる立場をもたらすだろう。」 |
だが、フィリピン陸軍の予備役訓練は失敗と不満が目白押しであった。訓練キャンプは準備が整っておらず、予備役の訓練を受けおける優秀な指揮官はいなかった。最初の徴募兵が訓練キャンプに入ったのは、1937年になってからだった。訓練コースは5か月半の基礎、および応用歩兵訓練で構成されていた。初歩的な軍事指導のほかに、このプログラムは多くのフィリピン人青年に読み書きの講座を提供し、彼らの人生で初めてとなる適切な健康管理や栄養を考慮した食事、体力向上プログラムを供与したのである。しかしながら、訓練期間終了後、各自の村へと帰郷すると、青年たちはすぐさま栄養失調になり、訓練以前のような脆弱な肉体に戻ってしまうのであった。
その一方で、フィリピン陸軍のために武器を調達するのに苦闘していた。フィリピン反乱から30年しかたっていない。マッカーサーが老朽化したライフルを大量に陸軍省から捨て値で新フィリピン陸軍に配備させようとした時、陸軍省と国務省はともに、合衆国への政治的忠誠心が定かではない数万の人々に武器を配備することを拒否した。三年半経過後も、師団単位の訓練、また歩兵隊と砲兵隊の共同戦略訓練を行った師団は皆無であった。唯一、フィリピン正規師団がその夏に軍事演習を行ってはいたが、近代的通信も十分な装備品の供給もない中での演習は茶番に等しいものであった。予備師団の状況はさらに悪かった。たいていの予備役は銃器が不足していた。ほとんどのフィリピン人は英語を話さなかった。彼らは不明瞭な部族語を話し、それは他のフィリピン人でさえ理解できなかった。各フィリピン師団に配属されたアメリカ人将校は途方もない難題に直面し、衝撃を受けたのである。
フィリピン陸軍をめぐるマッカーサーの楽観的な報告は、優秀なフィリピン人司令官から受けていた悲観的な説明とは極端に食い違っていた。実質的に何の近代兵器もない状況で、フィリピン防衛網が機能するにはまだ長い期間が必要であると。ドイツ軍のポーランド蹂躙にケソンが衝撃を受けた39年秋、マッカーサーに「騙されていた」とケソンは苦々しく不満を漏らした。ケソンは訊ねた。
| ケソン「日本軍が侵略を決意したならば何が起きるのだろうか。」 | |
| 「砲弾やその他の需要物資が輸入され続ければ、半年間は戦うことができるだろう」 | |
| 「日本軍が攻撃してくれば、海軍もなしに、どのようにして物資を輸入できるんだ?(#´Д`)、なぜ高価な陸軍を維持し、お金を払う必要があるのか。」 「そして、ミンダナオはどうなるのか?」(ミンダナオはパラオの日本軍基地からたった960㌔しか離れていない) |
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| ミンダナオの防衛は、・・・その・・・無理・・・。 | |
| (#^ω^)ビキビキ「では、何が日本の占領と支配からミンダナオを守ってくれるんだ?」 | |
| あう、むむむ・・・、防衛は、保証できないが、じゅ、順調にすすんでるから |
マッカーサーは防衛の保証を断言できなかった。だがマッカーサーは防衛計画が順調に進行しており、フィリピン諸島は防衛が可能でありうると公式声明を発表し続けた。ケソンはぶぜんとした。
「まるで夢物語だ」と彼はセイヤー高等弁務官に言った。ケソンは、マッカーサーをアメリカへと連れ帰るようセイヤー高等弁務官に要請した。セイヤーは喜んで引き受けるつもりだったが、要請書なしにはしようとしなかった。ケソンは軍事顧問を切る証拠書類を残すつもりはなかった。
ケソンはマッカーサーに会う必要はなく、またこれ以上連絡したくなかったので、これからはフィリピン大統領秘書菅ホルヘ・バルガスと対応するようマッカーサーに通知した。暗に辞任を強制するような意味合いのものであったか。しかしマッカーサーはこの屈辱的な新しいやり方に耐えた。彼にとっては厳しい時代だった。ケソンはフィリピン軍の増強は日本を敵に回すことを意味するのみだと主張し、防衛予算を削減し始めた。フィリピン軍の指揮は低下し、給与に対する不満はくすぶり(米軍一等兵30ドルに対して、彼らは月額7ドルだった)、徴兵年齢の男たちは徴兵を忌諱し始めた。1940年には常備軍は士官468名、兵士3698名に減ってしまった。
当時はケソンフィリピン政府のフィリピン軍と、米軍のフィリピン軍管区があった。フィリピン軍管区の司令官はグルナート少将で、米軍及びアメリカに雇われたフィリピン人のフィリピン・スカウト(米陸軍正規兵として扱われていた)はフィリピン軍管区に属していた。1940年12月「タイム」誌のジャーナリストのセオドア・ホワイトがフィリピンを訪問した。彼はフィリピン軍管区本部まで出向いたが、グルナート在比米軍司令官の広報担当官にマッカーサーと話しても意味がないといわれた。「彼はアメリカ陸軍で大した影響力がないからね」
1940年夏、フランスはナチスドイツに征服された。仏領インドシナ北部は日本軍に占領され、フィリピンの側面をついていた。40年9月27日に日独伊三国軍事同盟が調印された。フィリピン国内には非常事態宣言が発せられたが、総動員には至らず、国防予算は35年の計画の8分の1に過ぎなかった。米国本国は本国から4000㌔しか離れていない欧州の危機に驚愕し、ワシントンから16000㌔離れたフィリピンの防衛は放棄し始めていた。40年10月10日、米国戦争計画部は西経180度以東の太平洋にある全アメリカ軍部隊の撤退を勧告した。これはフィリピン、グアム、ウェーク島の米軍基地を放棄することを意味していた。フィリピンは見捨てられ、比島全体に敗北主義と、悲観論が覆っていた。
1934年に当時フィリピン軍管区司令官だったフランク・パーカー少将は、「日本人移民が急増している。彼らは海岸線を測量している。移民の大半は軍務に適齢のものばかりで、中には日本軍の予備役に入っているものもいた。」とワシントンに報告していた。ケソンはそのような意見を無視した。日本人移民は勤勉である。彼らは役に立つ自転車のセールスマンであり、路傍の写真師であり召使であり、フィリピン人の生活改善に貢献しているではないかというのである。
「後になってから、庭師が日本軍の少将で、マッサージをしてくれていたものが日本軍の大佐だったことを知った」
と、カルロス・ロムロは回想している。日本のセールスマン、写真師、旅行者、雑貨商は、フィリピンの脆弱かつ失敗した防衛体制について詳細な報告書を東京に送っていた。その内容は大日本帝国陸軍の中枢、市谷の参謀本部にとって、誠に喜ばしいものだった。
1941年4月に完成した「戦争計画オレンジ3(WPO-3)」は、20年前に策定された数多くの「カラープラン」の1つであった。計画は戦略的には非現実的で、すでにフィリピンが見捨てられた1941年には完全に時代遅れになっていた。しかし、戦術的には優れた計画であり、その防衛規定はどのような地域的状況下でも適用可能であった。
計画ではリンガエン湾への敵の上陸阻止を求めるものであったが、もしそれが失敗に終われば(フィリピン師団を鑑みれば、それは確実に起こりそうであった)バターンへの部隊を退却しなければならず、アメリカ海軍の増援がくるまでマニラ湾の維持に努めなければならなかった。そして米海軍は、戦闘行為の開始とともに南方への迅速な後退を求めていた(後に日程は特定しない戦線復帰を約束していたが)。トミー・ハート海軍大将率いる極東海軍は弱体で、巡洋艦3隻、駆逐艦13隻、潜水艦18隻、それにジョン・D・バルクリー海軍大尉の指揮する高速魚雷艇6隻に過ぎなかったのである。計画の補給は複雑なものだった。作戦の初期段階で6つのセクターに物資を供給し、長期的な防衛を支える基地を設立するためにバターンに物資を撤収するための準備をしなければならなかった。補給担当者は、3.1万人が、同時にコレヒドールは1万人が180日間持ちこたえるのに十分な物資が必要になるだろうと見積もっていた。物資の大部分はマニラ地区に保管されていたが、マニラ地域のフィリピン軍の倉庫や施設は、戦術的状況が許す限り維持され、最終的には最後の抵抗のためにすべてバターンに移されることになっていた。
WPO-3では、バターンの防衛力が崩壊した後のことについては何も語られていない。
゚+。:.゚ヽ(*´∀`)ノ゚.:。+゚「おそらく、6ヶ月と推定されるその時までには、アメリカ太平洋艦隊は太平洋を横断し、大日本帝国海軍連合艦隊に勝利し、補給線を確保していることでしょう。その間に米国西海岸に集められた人員や物資は、続々とフィリピンに到着し始めます。こうして強化されたフィリピン守備隊は、反撃して敵を海に追い込むことができるのです。」・・・
・・・実は、当時、このようなことが起こると考えていた者は誰もいなかった。海軍関係者の間では、太平洋艦隊が太平洋を横断するには少なくとも2年はかかると言われていた。人員と物資を西海岸に集中させる計画もなく、フィリピンへの移動予定計画もなかった。1941年初頭の陸軍計画担当者は、6ヶ月後には物資が枯渇し、守備隊は敗北すると考えていた。WPO-3にはその様な事は書かれておらず、何も書かれていなかった。
(*´艸`)。o○(その時が来たら何かができるのではないかな?、太平洋を越えて11000㌔離れた場所に取り残された人々を救うために、即興で何らかの計画が立てられるではなかろうか?)(脳内お花畑状態)
現場はたまったものではない。フィリピン師団指揮官のジョナサン・ウェインライト准将はWPO-3を激しく非難した。
| ウェインライト「防衛は積極的であるべきで、受け身ではいったいどうするのか!、防衛は反撃につなげるべきだ」 |
マッカーサー中将はオレンジ3に縛られずフィリピン全土のために戦闘する意向を説明し、ウェインライトにルソン島の部隊の指揮を任命した。
米軍アジア艦隊司令官トミー・ハート海軍大将は、依然として戦争計画オレンジで割り振られた役割を遂行し、アジア艦隊をインド洋へと撤退させるつもりであると述べた。フィリピンも担当地域とするアジア艦隊司令官トーマス・C・ハート海軍大将は有能かつ海軍作戦部、 潜水艦戦隊司令、 海大・陸大、 戦艦 艦長、 水雷基地司令、潜水艦隊司令官、アナポリスの校長などの豊富な実績を持ち、中正温良な性格で海軍エリート街道を突き進み、同僚のマッカーサー(中将)より階級は上であった。
日本の南仏印進駐、マッカーサー現役復帰、フィリピン米軍の再編
41年7月、日本軍はヴィシーフランス政権に働きかけて、インドシナ南部の基地使用を認めさせた。日本海軍は東洋一の自然港カムラン湾に入り、7月25日には3万の日本兵がサイゴンに入場したのである。米国内にいる日本人の資産は凍結され、日本戦に対しパナマ運河は封鎖された。アメリカから日本向けに石油、鉄、ゴムを輸出することは禁止された。
1941年7月26日、マッカーサーの現役復帰はこのような空気の中行われた。それはマッカーサーの物言いや警告のせいではなく、大統領が日本の膨張政策に対して何らかの反対する姿勢を望んだためであった。悲観主義と敗北主義は、結局アメリカがフィリピンのために戦うと思われたとたんに突然霧散した。陸軍省は、フィリピンを見限るとする意思を転換した。ケソンには、以前のような敗北主義がなくなっていた。アメリカ向けのラジオ放送で、彼は言った「フィリピン国民の態度は明確かつ紛れないものだ。我々はアメリカに忠誠を誓う義務があり…、アメリカが戦うことになれば、フィリピンもともに戦うつもりである」。アメリカ極東陸軍(USAFFE)が設立されて、マッカーサー中将が司令官に就任した。フィリピン陸軍はアメリカ陸軍の管轄下におかれ、指揮が統一された。
しかし防衛の現実は厳しかった。41年7月時点でフィリピン軍管区は22532人で構成されており、うち最大の米軍フィリピン師団1万のうち米兵は3000、残り7000がフィリピンスカウトであった。残り1万は空軍2300人、港湾防衛・補給兵(サービスコマンド)などであった。そして41年12月7日までに6083名の米軍が増強されたに過ぎなかった。装備はさらにひどく、兵器が工場からアメリカ東部の港についても、マニラまではさらに6週間の航海が必要だった。
マッカーサーはフィリピン陸軍の動員開始日を9月1日に決定した。しかし動員は順調には進まなかった。例としてフィリピン第31師団では、師団は41年9月1日に動員を開始したが、工兵大隊は10月1日に動員され、歩兵第二連隊は11月1日に、歩兵第三連隊は11月25日にやっと動員された。砲兵の一部も11月25日に編入された。そして砲兵の主力第31野砲連隊は、開戦後の12月12日に動員を開始し、師団がすでにバターンに移動した後の12月26日にようやく2個大隊が編成された。また動員後のフィリピン陸軍の訓練にも多くの困難が伴っていた。多くの部隊では、アメリカ人教官とフィリピン人の間だけでなく、フィリピン人同士の間にも深刻な言葉の壁があった。ビサヤ地方では、士官のほとんどがルソン島中部のタガログ人で、兵士は多くのビサヤ語を話していたため、問題はさらに複雑だった。このような状況を緩和するために異動が行われたが、真の解決策は見つからなかった。彼らの多くは戦闘に入る前にライフルを撃ったことすらなかった。予備役の5か月の訓練もあまり役に立っていなかったのである。米軍将校によると、フィリピン陸軍の部隊の規律には大きな問題があった。宣戦布告されるまで、軍法会議もなかった。
10月末にマッカーサー陸軍中将とハート海軍大将は総合的な合衆国戦争計画案レインボー・5の最新版の冊子を受け取った。この計画は世界全体をカバーするもので、フィリピンを扱ったセクションはオレンジ・3とほぼ同内容であった。すなわち、海軍は撤退し、陸軍はマニラ湾の敵勢力の手に落ちないようにするものであった。海軍の戦線復帰の時期については相変わらず記載がなかった。アメリカ極東軍の役割が決死であることが暗に示され、その運命は見事に散ることにあるが、できる限り最後の抵抗を試みることである。マッカーサーは憤然とし、マーシャルに要請した。彼はフィリピン陸軍の創設が少なくとも列島防衛を可能にし、旧版の戦争計画を時代遅れのものにしたと強く主張するのであった。近代兵器が欠如している現状にもかかわらず、陸軍省が約束した大量の増援物資のおかげで、戦闘準備する十分な時間が確保できれば、フィリピン防衛の目的がようやく実現可能のように思われた。航空部隊は拡充され、11月には10万トンの補給物資が向かっており、さらに100万トンがアメリカ西海岸港湾の埠頭に用意され、輸送船舶を待っているところであった。もし42年春であれば、かなり違った戦いを見せていたただろう。マッカーサーは日本軍は少なくとも雨季の終わる1942年春ごろまでは進行を開始しないだろうといった。しかし諸将はマッカーサーの予測が「熟慮された見解というよりは希望的観測」であると感じていた。独ソ戦に苦しむソ連の崩壊を防ぐため、すでに石油は禁輸され、戦争までもはや時間はなかった。
空軍は確かに急速に拡充されていた。先見の明があり革新者でもあったマーシャルは、合衆国軍の中で最も卓越した軍人であった。彼ほどB-17を信頼している者はいなかった。「空飛ぶ要塞」はアラスカやハワイ、パナマ、フィリピンといった前哨基地を難攻不落にするかもしれない。マーシャルとスティムソンは、たとえB-17が一機たりとも進行中の軍艦への爆弾演習をしたことがなくても、そう望みたがった。しかし当時実戦闘でB-17を使用したのは英空軍のみであり、そこでは役立たずと評されていた。1941年時点で配備されていたB-17は尾部銃、機首銃、密封式燃料タンクを備えていないC型とD型であった。兵器の質はその後なるほど改善されたけど、当時のB-17は新鋭の零戦には到底太刀打ちできるものではなかったのである。
マッカーサーは幻想は抱いていなかった。彼は空軍に敵意を抱いてはいないが、航空兵は自分たちができる以上のことを約束する習慣があるのを知っていた。
ジョージ空軍大佐の報告で、日本軍はフィリピン進行に1000の陸上爆撃機と1000機の戦闘機を投入することができると結論付けた。ジョージは、こうした日本軍の大航空部隊であっても、1000機を用意できればこの諸島が持ちこたえることができると考えた。通常保持してる航空機の25%がメンテナンスや修復中になることを仮定すれば、フィリピン防衛には1500機が必要で、この規模の作戦のためマッカーサーは32の飛行場が必要であるとした。41年秋、彼には7か所の芝生の生えた仮設飛行場から100機に満たない航空機しかなかった。彼はすぐさま、工兵たちにフィリピン全土で飛行場になりそうな場所を探索させた。極東航空部隊のルイス・ブレアトン少将は11月3日に到着し、主任工兵将校であるヒュー・J・ケーシー大佐が着任し、軍用飛行場の建設を始めた。ケーシーは極めて有能な工兵であり、マッカーサーの配下の中でも最重要人物の一人である。冬の間に空軍の状態は目覚ましい改善が見込まれた。しかし当然、日本軍はそれを許さない。
開戦は不可避
11月27日陸軍省はハワイとフィリピンの陸軍司令官に「日本との交渉段階は終わりを迎えているようだ。…いつ敵対行動がとられてもおかしくない状況である」この通達を受け取り次第、マッカーサーは野戦指揮官たちに警告を発し「至急想定しうる自体すべてに対策をとり、必要な行動をすべし」と通達した。海軍省はハートに対してさらに露骨なメッセージを送った。ハートははっきりと「これは開戦警報である」と伝えられていた。ハートは巡洋艦と、さらに旗艦までもルソンから退避するよう出向させたのである。
マッカーサーは日本軍の空軍力の脅威を評価し、陸軍省の警告後の12月1日、極東空軍にマニラから北部の飛行場を基地にしているB-17を、ミンダナオ島にあるデルモンテへ移動するよう命令を下した。ケーシーはミンダナオのパイナップル大農場で、1500人の労働者を動員し、たった2週間でB-17が着陸できる滑走路に作り替えていた。クラーク飛行場から500マイル南にあるデルモンテ飛行場は、ルソンから300マイル北部にある台湾にある数多くの飛行場の日本空軍の攻撃範囲から十分外れていた。一方で新しい空港には重大な欠点があった。快適な将校クラブが設置されていなかったのだ。パイロットはミンダナオ島に行くことを拒否、ブレアトンはマッカーサーの命令を無視した。
一方で、12月4日ケーシーはサザーランド参謀長に、現在デルモンテ飛行場が使用可能であるにもかかわらず、重爆撃機が一機も南部へ送られて来ていないと知らせた。サザーランドは激怒し、ブレアトンの参謀長に電話し、容赦なく叱責した。「お前はマッカーサー将軍がミンダナオ島へB-17を退避させよと命令したことをわかっているだろ。いったいなぜ一機もあそこにないのだ?」ブレアトンは翌日しぶしぶデルモンテ飛行場に16機の重爆撃機を移送したが、残りの19機がクラーク飛行場に配置させたままにしておいた。12月7日日曜日にマニラ・ホテルでパイロットたちとブレアトンの栄誉を称える大パーティを計画していたのだ。パーティは大成功だった。パーティに立ち寄った提督がいまにも攻撃が始まるかもしれないとブレアトンに忠告したにもかかわらず、パーティは午前二時まで続いた。
12月8日午前4時、マッカーサーの部屋で電話が鳴った。電話の相手はサザーランドで、彼は今すぐヴィクトリア街一番地に来てほしいと伝えた。日本軍が真珠湾を攻撃していたのだ。午前5時より、12月8日のヴィクトリア街一番地の司令部で、マッカーサー配下の将校は、めいめいに神経が参るような状況で働いた。今や戦争は始まったのであり、米極東軍の各部隊を警戒態勢に置き、軍隊を移動する輸送機関を結集し、弾薬の配給のため命令を出し、食料補給を統制する権限をフィリピン方面軍に割り当て、さらに数えきれないほどの細かな指示をたくさん出した。
午前6時30分、ミンダナオ近隣の航空母艦から離陸した日本海軍の急降下爆撃機は、ダバオに停泊していた水上飛行機補給線と紹介用飛空艇を攻撃した。ほぼ同時期に台湾から飛来していた日本陸軍戦闘機は、ルソン島最北端の街アパリにあるラジオ局を低空で機銃掃射した。午前7時15分、ブレアトンはヴィクトリア街一番地に到着した。日本軍に反撃するため爆撃機を使用したいと申し出た彼に、マッカーサーは「我々の役割は防御である。しかし、命令に備えて待機せよ」と伝えたのである。
午前8時50分、サザーランドは、ブレアトンが極東空軍本部から電話を受け、依然として攻撃を仕掛けることを願い出ていると伝えたが、彼は爆撃機で攻撃すべき台湾の軍事標的を特定できていなかった。ただ配下の爆撃機が攻撃すべき船舶を発見できるかもしれないと期待していただけだった。マッカーサーは「現状待機せよ」と命じた。
午前10時、ブレアトンはサザーランドに電話をかけ、バギオがたった今爆撃を受けたとの報告が来たと伝えた。サザーランドはまだ爆撃の発令を許可していなかった。まず偵察が必要だとしていた。ブレアトンはいらだって、サザーランドにもし日本軍がB-17が19機配備されたままのクラーク飛行場を攻撃したら、極東空軍はどんな攻勢にも着手できなくなるだろうと伝えたのである。このころ、司令部にもようやくダバオとアパリへの攻撃の確認の知らせが届いた。
午前10時14分、マッカーサーはブレアトンに電話をして台湾への偵察機を飛ばす許可を与えた。上空から撮影した偵察写真に標的に値するものが映っていれば、午後過ぎにB17による爆撃が可能であろう。
戦争が始まると、疑いのある者はすべて迅速かつ静かに身柄を拘束された。マニラの日本人地区に住む日本人市民は自宅に留まるように命じられ、憲兵隊がこの地区の警備を引き継いだ。 開戦初日、マッカーサーは、マニラの敵性外国人の40%、地方の外国人の10%が抑留されたと陸軍省に報告した。 ドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告した2日後の12月13日には、フィリピンに住むドイツ人とイタリア人も抑留された。 外国人はまずマニラのビリビット刑務所で審査され、合格した者はすぐに釈放された。釈放されなかった者は、マニラの南にある収容所に移され、高等弁務官の代表と陸軍士官数名からなる審査会の審査を待つことになった。
12月8日の朝である。もう戸外では「日本航空隊真珠湾攻撃」の号外を売る叫び声がやかましい。アメリカ側官憲に抑えられるのを予想しながらも、戦争勃発に対するフィリピン側の反響をもう東京あてに打電したし、重要書類の焼却も住んでいる。支局全員集まって「万歳」を参照しビールの杯を上げた途端に、物々しい巡警隊員約10名が闖入してきた。そのうちの隊長らしい男は近寄って握手を求める「貴下が責任者か。命令によって逮捕する」。押し込まれたバスはやがてビリビット旧刑務所の門の中に吸い込まれた。そこにはもう同じ運命の邦人たちが数名先着しておりその数は次第に増えていく。フィリピン人巡警の手で一同の所持品検査が厳重に行われる。写真機、刃物はもとより、時計から万年筆まで押収されている。受領証代わりに簡単な紙切れをもらった人もあるが、これが大して役にも立たなかったことは後日の話。
それから厳重な身体検査ののち閉じ込められた鉄層の中は電灯はつかず水道の鉄管が壊れて水が漏れる。便所に行くときだけ監視兵が戸を開けてくれる。
やがて全員再び引き出させて点呼を受ける。トラックが正門から入ってくるところを見ると、どこかへ移されるらしい。一同トラックに分乗し月明下のマニラ市街を進む。人っ子一人歩いていない。とある一軒の建物の前に泊まる。臨時の邦人収容所である。部屋が狭いので床下や庭でごろ寝だ。それでも一日二食とはいえ握り飯と缶詰、湯茶の配給が開始されたのでどうやら餓死は免れた。(秘録大東亜戦史比島編 マニラさまざま 共同通信 牧内正男)
クラーク飛行場配備のB-17爆撃機は、三機を除いてすべて離陸していた。ブレアトンは明け方の爆撃にさらされるのを避けるため、夜明け前に離陸せよと命令を下したが、間もなく燃料不足に落ちることになって、爆撃機は1,2時間のうちに着陸しなければならなくなる。ブレアトンはいったん着陸させると燃料を補給し、午後には台湾の飛行場を爆撃するか、それができなければ日本の船舶を爆撃させるつもりであった。午前11時少し前に、マッカーサーはブレアトンへ電話をかけ、この2時間で知りえたすべての敵の航空作戦を報告させた。「日本軍がクラーク飛行場へ激しい攻撃をしかけなかったのはなぜか」マッカーサーもいぶかしがった。その答えは天候にあった。夜明け前に台湾西部にかかっていた霧が日本海軍の第十一航空隊の飛行場を覆っていた。
しかし午前10時15分ごろ、台湾西部にかかっていた霧が晴れると、第十一航空隊は攻撃の準備に入った。正午、極東空軍はクラーク樋場に向かっている飛行中の二つの航空機隊に気付いた。クラーク飛行場では基地へ向かう航空機を迎撃せよと命令が下された。午前中に飛行していた16機のB-17は着陸し、燃料を補給しているところであった。
日本機が殺到してみて驚いたのは、B-17以下多数の優秀機がずらりと地上に並んでいる光景であった。これは、爆破してくれと言わんばかりのものである。自分から目標を提供して遠来の客を遇する御馳走の宴に他ならない。が戦争は始まっているのだ。
迫りくる危険を考慮すれば、ブレアトン配下の極東空軍の司令官が一斉に爆撃機に着陸を許可していたことは驚きである。爆撃機は地上では格好の標的であったので、気をつけるべきことは戦闘機に基地を警備させつつ、同時に2,3機ずつ着陸させて給油し、次の爆撃機が着陸する前に離陸させることであった。しかしながら、当時の極東空軍はこのような常識が欠けていた。
眼鏡をかけ、教授のようないでたちのブレアトンは、陸軍航空隊でも最もパーティ好きであった。彼はやがて来る戦争の大部分を快適さを追求して過ごし、最もやる気がなく、だらしない米軍将校の一人であることを証明することになるのだ。多くの人は個人的には彼が好きだったが、彼の判断は時に燦燦たるものだった。例えば、1943年8月にプロエスティで散々な結果となった低空攻撃をやらせたのはブレアトンである。クラーク飛行場での陸軍航空隊の将校たちのだらしなさは、その秋に米国本国から派遣された飛行士たちには衝撃であった。しかし、ブレアトンはこれに干渉するようなタイプではなかった。
尾崎武夫、野中太郎良少佐の指揮する陸上攻撃機五十四機と、新郷英城大尉の率いる零戦四十三機の約90機の日本軍が上空に現れた午後0時35分ごろ、数分とたたぬ間に、クラーク飛行場に残るB-17はすべて破壊されるか破損した。イバ飛行場では須田佳三中佐の指揮する陸攻五十四機と横山保大尉の率いる零戦四十二機の100機を超える日本軍の戦闘機がレーダー基地を壊滅し、かつ日本軍を迎撃しようとした6機のP-40戦闘機を撃墜した。日本空軍は霧のため時期を失して大慌てで飛び込んだのが、偶然にも完全奇襲の結果となり、帰って最初予想した戦果の三倍四倍という戦績を記録し、文字通りの天祐を祝福したのであった。陸攻も優れていたが、零式戦闘機に至っては、あらゆる面において米国の最新式戦闘機P-40を凌駕し、ゼロ・ファイターの名において米軍のパイロットを戦慄させたその門出の第一戦であった。その時代、日本人はそんなものを作り得たのであった。わが海空軍の損害は陸攻一機に過ぎず、その戦闘技術の優越したわけで、かくして開戦五日目には、比島の空は完全に日本の征服するところとなったのである。
午前9時少し前、マッカーサー司令部から、北方にあるバギオが、日本の爆撃機に攻撃されたことを知らせてきた。またクラークフィールドに日本の空挺部隊を降下させる恐れがあるから警戒を怠らないようにと警告してきた。私は直ちに、クリントン・ピアース大佐の騎兵第26連隊を飛行場の東側に展開させた。
・・・日本空軍は、クラーク・フィールドに襲い掛かってきた。ほとんど赤子の手をねじるような一方的な空襲の真っ最中に、私のフィリピン人の従兵フェレモン・サン・ペドが、仰天して野外に飛び出してきた。そして金切り声を挙げて「マリア様、閣下、私はいったいどうしたらよろしいのですか」私は怒鳴りつけた『ビールを一本持ってこい』。そういわれてやっと彼は我に帰ったように思われた。そして、一杯のビールが私の気分を落ち着かせてくれたのである。(ウェインライトは勇敢で部下の人気も厚い将校だが、彼はアルry)
私はビールを飲み干すと、瓶を彼に渡し、それから司令部に向かって歩き出した。わが高射砲にじっと眼を注いだ。一番砲員の一人が私のすぐそばに倒れている。その顔は血しぶきにまみれていた。その顔は二目とみられない形相であった。「この兵を軍医のところに運んでいけ」と私は命じた。「いやだ、砲側にいるんだ……砲側から連れて行かないでください」
・・・司令部に入ると、ドーリィとさっきの勇敢な若い砲手に銀星章(米国の勲章中、殊勲章の次のもの)の授与を認めた。この二人はおそらく太平洋戦争中、最初の殊勲受賞者であったことと思う。
クラーク飛行場に対する空襲は、14分間で一応終わりを告げた。現場はまさに修羅場さながらであり、B-17の新編成の半数以上が、数戦の破片になって現場の周りに散乱している惨状は、目も当てられなかった。機械工場とか格納庫は残らずなぎ倒され、将校宿舎や兵舎も消し飛んで跡形もなくなっていた。私は193名の死傷者の収容や処理のために、出来るだけ手段を尽くした。93名がクラーク・フィールドにおける戦死者であったが、さらに7名の重症者がその後病院で息を引き取った。(ジョナサン・ウェインライト、捕虜日記)
マッカーサーは電話で極東空軍からクラーク飛行場が攻撃にさらされているとの報を受けた。彼は激怒し、命令に背いてクラーク飛行場にB-17を待機させたブレアトンの参謀長を叱責した。
アメリカはこのクラークフィールドの一線を比島敗戦の大なる一因と認め、数次にわたる査問委員会を開いて責任の究明に当たった。もちろんその規模は真珠湾のそれに比すべくもなく、責任の帰趨も決定しないで長く問題を残したが、爆撃主力を一瞬に喪失した事態の重大性を痛感したことは明白である。比島空軍司令ブレリートン中将が非難されることの第一は、B-17戦隊の大部分をクラークフィールドに駐屯させたこと、第二は日本空軍の来襲時に上空に退避しないで地上に寝かしておいたこと、第三は哨戒を怠ったことの三つである。
第一はマッカーサー命令に違反した不服従の罪を問われるものであった。これについてブレリートン中将の言い分は、12月8日午前2時、開戦の電話を受けて軍司令部に出頭すると同時に、彼は参謀長サザーランド中将に対し「直ちに台湾爆撃に出動したいから、その出撃命令を下されるようマッカーサー長官に申請してくれ」と申し出た、というものである。記録によればサザーランドはこれを握りつぶしてマ長官に伝えず、したがって退避命令の方が生きており、ブレリートンの任務は、重爆撃機のクラークフィールドからの引き上げであったのに、彼はその任を果たさなかったことになっている。だがブレリートンは参謀長を通して申請した台湾爆撃が許されるのを一刻を数えつつ待っており、その間未明出撃の準備を飛行場に命令して夜明けを迎えたのであった。
昼下がりに、ブレアトンは取り乱しながらヴィクトリア街一番地に到着した。彼はマッカーサーへの面会を強く求めた。ブレアトンによれば、彼はワシントンの統合参謀本部のアーノルド陸軍航空司令官から電話を受けていたところで、アーノルドは怒りながらクラーク飛行場でいったいどのようにB-17が壊滅されたかを説明を求めてきたという。マッカーサーはアーノルドに状況を説明するのだろうか。
| 「心配いらないよ、ルイス。君は戻って、この戦争を戦うのだ。」 |
マッカーサーはブレアトン、ブレィディ、そして極東空軍のだらしのない仕事ぶりに激怒したが、公の場では空軍関係者を援護した。陸軍相の上級司令官を含め、部外者たちからの批判に対して、マッカーサーはいつも部下を守る盾の役割を果たしたのである。アーノルドがクラーク飛行場での惨事の説明を求めたとき、マッカーサーは次のように当たり障りなく答えた「極東空軍は、あらゆる可能な警備体制を敷いていた……損害はもっぱら敵軍の圧倒的な優位のためであった……あれだけうまくやれる部隊は他になかった。彼らの勇敢な行為は表彰ものだし、対応もよかった……彼らの戦闘行動には誇りを持ってよい。」
戦争終結とほとんど同時に、ブレアトンは「ブレアトン日記」を出版する形でこの惨事について自分なりの説明をしたが、フィリピンに関する記述は全く日記に基づいていなかった。目的は自分の評価を援護することで、虚偽にもかかわらず、ほぼ狙いは成功したのである。ブレアトンと軍務についた兵士の評価では、誰一人として彼を有能な司令官だと評価しておらず、「ルイ」を酷評していたものが多かった。彼は怠惰、かつわがままで凡庸な人物であったのだ。ブレアトンの爆撃機全体をデルモンテに送らなかった口実は、第7爆撃隊が合衆国から間もなく到着する予定だったからというもので、公式の米空軍史ではこの説明を受け入れている。しかしこれは以前の極東空軍自身の命令やブレアトン自身の主張とも合わず、そもそも第7爆撃隊の大半はデルモンテに爆撃機の十分なスペースが確保されることになっていた12月末か1月初めまで到着する予定はなかった。結局は、彼が古くからのアーノルドの側近だったので、不名誉な形で退役せずに済んだのである。彼の日記は、文書の引用がなく、裏付けもなく信じがたいものである。それがあたかも、フィリピンにおける航空作戦に関する信頼できる同時代資料として、二世代にもわたって著述家や歴史家によって平然と利用されてきたのである。(ペレット、『老兵は死なず』)
マッカーサーは、開戦第一日にしてその最優秀機のほぼ半分を奪われてしまったが、この大惨事の説明はまだ十分なされたことがない・・・。ブレアトン将軍は、台湾空襲を提案したのにすぐ決行させてもらえなかったことでサザーランドを非難し、間接的にマッカーサーを非難している。・・・南のデルモンテ飛行場はまだ完全に受け入れ態勢ができていたわけではなく、また近くアメリカから到着予定の増援爆撃部隊は、ここを根拠地とすることになっていたからだ。・・・ブレアトンは、マッカーサーが戦争前、台湾の偵察を一切禁止していたと主張する。・・・マッカーサーは、戦後の著作や発言の中で、すべての責任について口を拭ったままだった。(Ronald Harvey Spector, Eagle Against the Sun、1984年)
このような攻撃が成功する可能性が高かったかどうかは、サザーランドもブレトンも論じていない。日本軍が台湾に何を持っていたかを知れば、B-17による空襲が成功する可能性は極めて低いとわかる。もし、500機以上の日本軍機がフォルモサに待機していて、いつでも離陸できる状態にあると知らされていたら、誰もこの計画を真剣に考えることはなかっただろう。しかも、B-17は戦闘機の射程外にある台湾まで、護衛なしで飛行しなければならなかった。零戦の大群が迎えてくれるだろう。「強力な空軍が集中しているフォルモサへの攻撃は不可能で、成功の見込みもなかった」とマッカーサーは後に書いているが全く当を得ている。 したがって、攻撃に先立って写真偵察を行うというサザーランドの要求は、完全に正当なものだった。
12月8日の終わり
マッカーサーはハート提督と会議をした。二人とも陰鬱な雰囲気の中にいた。マッカーサーは航空機と人命の損失に明らかにうろたえていた。撃沈するか破損した船舶、100機を超える破壊された戦闘機、多くの人命の損失を伝える長い一覧表であった。
この時、すでに夕方近くになっていた。マッカーサーはマニラの一部のみを灯火管制するよう指示を与えた。英国人が気づいたように、完全停電も、すべての電気をつけておくのと変わらず命や体へ大きな危険をもたらすのである。マッカーサーは空襲の危険が迫っているときだけ、完全停電を実施するべきだと命じた。午後6時にマッカーサーは司令官会議を開いた。張り詰めた陰鬱な雰囲気であった。どれもが悪い知らせばかりで、さらに事態が悪化する見込みであった。
日本軍がフィリピンに最初に上陸したのは、12月8日未明、台湾とルソン島の中間に位置するルソン海峡のバタン島であった。戦闘部隊はすぐにバスコ近くの飛行場を占領し、空軍部隊が上陸して視察した。その結果、戦闘機や偵察機の飛行にはなんとか適しているが、大規模な作戦には拡張が必要であることが分かった。クラーク飛行場の攻撃が成功したことがわかると、日本軍はバタン島の飛行場の建設を中止した。このような基地は不要になったのである。米軍は上陸に全く気が付かなかった。
日本軍は開戦初日の成功に続いて、一連の航空攻撃を行った。数日の間、ブレアトンの残っていた飛行可能な極東空軍のB-17爆撃機、追撃期パイロットは、圧倒的不利にもかかわらず、日本軍戦闘機と交戦するため飛び立った。9日の夜明け前、7機の日本軍の海軍爆撃機がマニラ近郊のニコルズフィールドを攻撃、米軍は2、3機のP-40やその他の飛行機を失い、地上施設が破壊された。9日には部隊の再編成が行われ、特にマニラ地区の対空防御が強化された。
マッカーサーが9日に約束していたフォルモサへの航空攻撃は実現しなかった。 08:00に1機のB-17がフォルモサ上空の写真偵察のためにクラーク飛行場を離陸したが、機械的な問題のために後退、陸軍戦闘機やPBYはルソン島周囲の偵察任務を続けた。敵の目撃情報が多数寄せられたが、調査の結果、根拠のないことがわかった。そのような報告は、ハートが指摘したように、すべての日本の船を「輸送船か戦艦のどちらか」という2つのカテゴリーに分類していた。
9日、ミンダナオ島の13機の重爆撃機はルソン島に前進した。クラーク・フィールドに着陸したB-17は到着後すぐに燃料を補給して離陸し、前日の他の戦闘機のように地上で捕まるのを避けるため、暗くなるまで空に留まった。
12月9日の残りの時間は、マッカーサー司令部に電話をかけたり、指揮下の部隊をできるだけ遮蔽下に入れる作業を指導した。それから北部ルソン部隊用として部下の輸送機関を入手することに着手した。今から考えれば、笑いの種になるような代物ではあったが、私は民間会社から二台の一般乗り合いバスを徴用した。それは、最終的には、バターンへの撤退の際大いに役立った。私はまた、幕僚勤務用、後方業務用及び伝令よとして、数台の乗用車を借りたり買いあげたりした。さらに追加用の車の借用や購入に躍起になったがうまくいかなかったので、若い将校を方々の路上に派遣し、車を片端から止めて現場で徴発の手を打って車を手に入れた。こんな手段は好まなかったが、わが軍が生き延びる主なチャンスはもっぱら機動力に依存していたのでやむをえなかった。
指揮下の地上兵力五個師団は動員途上で、すぐにも役に立つ実戦部隊といえば、騎兵第26連隊、手元の局舎法中隊及びフィリピン・スカウト部隊だけという心細さであった。(ジョナサン・ウェインライト、捕虜日記)
12月10日の空戦、圧倒的な日本軍は米空軍とカビテの米海軍を破壊
12月10日の朝、日本軍海軍機は10:00頃に離陸した。日本軍はマニラの北側で分裂し、一部は陸軍施設を目指して東に向かった。残りの54機の爆撃機は湾内の船舶や小船を攻撃し、残りは海軍基地に向かって進んでいった。日本機接近の第一報は11:15にニールソン飛行場の司令部に届き、戦闘機は直ちにマニラ湾、港湾地域、バターンをカバーするために派遣された。その30分後、日本機はクラーク近郊のデルカルメン飛行場、マニラ近郊のニコルズ飛行場とニールソン飛行場を襲った。ニコルズへの攻撃は非常に激しく、2日前のクラーク飛行場でのパターンが繰り返された。まず高高度の爆撃機が兵舎、事務所、倉庫などを攻撃、続いて戦闘機が低空飛行でやってきて着陸した飛行機や施設を攻撃した。追撃機はマニラ湾上で交戦していたので、現場には対空砲火も戦闘機の保護もなかった。
カビテの海軍基地も注目されていた。爆撃機はカビテの上空を、基地を守る9門の3インチ高射砲の射程距離を超えた6000mの高さから爆弾を投下、ほとんどの爆弾が海軍造船所内に落ちた。攻撃は2時間にわたって行われ、被害は甚大だった。操舵場全体が炎上し、発電所、診療所、修理船、倉庫、兵舎、無線局などが直撃を受け、急速に広がった火災で制御不能に陥った。ロックウェル提督はこの日、500人の兵士が死傷したと推定している。 大型潜水艦シーリオンは直撃を受けたが、シードラゴンはテンダーで間一髪で引き離された。しかし、最も深刻な損失は200本以上の魚雷が破壊されたことであった。
ハート提督はビルの上からカビテの破壊を見ていた。そして、駆逐艦2隻、ガンボート3隻、潜水艦テンダー3隻、掃海艇2隻を南下させ、南のタスクフォース5に合流させた。南に移動したのは海軍だけではなかった。開戦時、マニラ湾には約40隻の大型商船がいて、その多くは貴重な貨物を積んでいた。10日の攻撃では、日本軍はこれらの船に数発の爆弾を投下し、1発の命中弾を得た。ハート提督は11日、船主たちにビサヤ諸島の港の方が安全であると伝え、その日の夜、商業船はマニラ湾を出て行き始めた。
アパリは戦前、人口26,500人のかなり大きな港だった。カガヤン川の河口に位置し、東西南に山脈があり、中央平原・マニラからアパリへの最も直接的なルートは、バレテ峠を通る国道5号線で440㌔あった。
イロコス・スル州の州都ビガンは、ルソン島の西岸に位置し、マニラから国道3号線を北へ約350㌔のところにあり、東にはコルディリェーラ山脈があり、カガヤン渓谷と隔てている。ビガンの約5㌔南には、ルソン島の5大河川の一つアブラ川の河口がある。
アパリとビガンはいずれも、ウェインライト将軍の北ルソン部隊が守る地域にあった。ルソン島北部の広大な地域は、フィリピン陸軍の第11師団(ウィリアム・E・ブローガー大佐が指揮)だけで担当していた。第11師団は、他のフィリピン陸軍予備軍と同様、9月に動員を開始していた。開戦時には、歩兵連隊は1連隊1,500人と認可兵力の3分の2しかなく、砲兵は動員中で、輜重部隊は合流していたがまだ部隊として編成・訓練されていなかった。輸送手段はほぼなく師団は深刻な装備の不足に悩まされていた。
師団の大部分は北サンフェルナンドまでの湾岸に沿って配置され、そこから先は小規模なパトロールしか行っていなかった。師団の1大隊である第12歩兵隊第3大隊は、カガヤン渓谷全体の防衛に割り当てられ、大隊の司令部はトゥゲガラオにあり、1個中隊は50マイル北のアパリに配置されていた。ビガンには部隊はいなかった。
12月7日日本軍上陸部隊は台湾を出港し、10日の早朝、輸送船団はそれぞれの停泊地に到着した。この間、米軍機は一機も目撃されず、「(輸送船団が)敵に発見されなかったのは奇跡だ」。 夜明け前、田中分隊はアパリ沖で、菅野分隊はビガン沖で待機していた。風は強く、海は高かった。
上陸部隊の第一報は、その日のうちにマッカーサー司令部に届き、航空機は直ちに上陸部隊を攻撃するよう上空に命じられた。だがC型とD型モデルのB-17爆撃機の性能は急速に衰えてきており、高性能の敵戦闘機に対抗する可能性はなく、操縦中の戦艦のような動く標的には全く役立たなくなっていた。当時は痛烈な打撃を加え、爆撃隊乗組員の勇気は仲間を奮い立たせるものと信じていたが、現在では、こうした爆撃機はほとんど損害を与えられなかったことはわかっている。たとえそうであっても、B-17のパイロット、コリン・ケリー大尉は合衆国最初の英雄となった。
ケリーは12月10日、(間違いだが)戦艦榛名を撃沈した功績があるとされた。その後ゼロ戦の一団に急襲され、燃料満タンの翼に弾丸が命中、炎上した。ケリーは乗組員に脱出するよう命じ、彼らがパラシュートで脱出すまで燃え盛る戦闘機を操縦し、機とともに海に落下したのである。(ケリー大尉の遺体は後に残骸の中から発見された)。マッカーサーは彼らの行為に対する記憶が鮮明なうちに勲章が授与されるように推薦書を直ちに提出するよう要請した。マッカーサーは自ら、ケリー機の乗組員に勲章を、戦死したケリーに殊勲十字章を授与した。
| 「貴下の胸元にこのような勲章を飾ることができるのは大きな喜びである。・・・コリン・ケリーがここにいないことは私の深い悲しみとするところである。・・・彼は真に忠誠心と勝利の信念をもって、疑問も不満も抱かずこの世を去ったのだ。」 |
実際、ケリー大尉は戦艦を攻撃していないし、榛名も攻撃していない。また、日本艦隊のどの船も沈めていない。この時、フィリピン海域には戦艦はいなかった。航空攻撃は日本軍のゴンザガへの上陸を妨げなかった。実際、日本軍の被害は、掃海艇1隻が座礁し、1隻が重傷を負っただけで、軽微なものであった。 コリン・ケリーが戦死した時の任務は、荒れた滑走路があるルソン島北部沿岸のアパリへの日本軍上陸を妨害する爆撃であった。海岸線に配備されていたフィリピン陸軍部隊は完全に逃亡していた。12月10日の朝、アパリにいた第12歩兵隊第3大隊の中隊は、若い予備役のアルビン・C・ハドリー中尉が指揮していた。夜明けに田中分遣隊の2個中隊が上陸してくると、ハドリー中尉はトゥゲガラオの大隊本部に上陸を報告し、直ちに攻撃して敵を海に追い込むよう命じられた。ハドリー中尉は、敵を恐れ、知る限りでは一発も撃つことなく、慎重に国道5号線を南下していった。
田中部隊を乗せた輸送船団は、水雷戦隊の護衛を受け、今堂々と南海の大海原を進んでいる。・・・ヴィガン攻撃部隊は上陸地点の沖合に差し掛かると、船団からたくさんの舟艇が下ろされ、兵隊がひらりとそれに乗り移る。「全員乗艇終了」と闇夜の中で隊長の声がしたかと思うと行く重責とあった舟艇軍が、エンジンの音も軽く敵陣地を目指して邁進していった。五分、十分・・・・・・・と過ぎた。「わーっわーっ」喚声が沸き起こった。続いて青い信号弾が打ちあがった。奇襲上陸が見事に成功したのだ。
・・・一方アパリ攻略部隊は、悪天候と上陸地点を洗う風浪に悩まされ、上陸舟艇軍の進発を著しく阻まれた。わずかの部隊が予定の上陸を行ったに過ぎなかった。加えて敵機は執拗に反復襲来してきた。わが掃海艇は命中弾を食らって擱座し、機関も損傷する始末だった。そのため兵器資材の荷揚げははかどらず、兵隊の上陸にも数時間を擁した。アパリの敵地上部隊はわずかに一個中隊で、難なく蹴散らすことができた。田中部隊は午後1時40分にはアパリ飛行場を占領。続いてその南にあるムルニゥガン飛行場を奪取して、さらに一部をもって、カガヤン川を渡り、ツゲガラオ飛行場の占拠に向かわせた。(秘録大東亜戦史島編 比島攻略戦記 毎日新聞 上村国友)
日本軍が上陸してきたとき民衆の取った行動の第一は、逃げることだった。日本軍が通過、占領するか、いずれは駐留すると予想できる都市や町の住民は、自発的な脱出を始めた。町周辺の16の村々をわずか1,2週ごとに移り歩く避難生活を送った。学校はなくなり、バナナやアティス、カラマンシーといった果物を探す日々が始まった。いつでも捨て置けるよう住居も粗末で、四本の竹の柱に橋の刃を並べた屋根と床だけの小屋だった。民衆は、自分たちの生まれ育った土地に居ながらにして、難民と化していく。
防衛庁防衛研修所詮資質の「比島攻略作戦」によると、アパリの泊地で日本軍の先遣部隊(田中支隊)が機材の陸揚げを開始したのは12月10日の朝6時、巡洋艦一隻、駆逐艦六隻の護衛に、六隻の輸送船がアパリの泊地に投錨していた。部隊の兵力は約2000人だった。この日の天候が運命を変えた。アパリ付近は風浪が激しくなり、輸送船団は揚陸地点を東へ40キロ余りのゴンサガ街に移動した。日本軍は訓練が行き届いており、作戦に関して厳重な秘密保持を行った。
12月8日、迫りくる日本軍機にアパリの守備部隊が対空砲火を放っているのをパルマさんは目撃した。あくる日の9日、町の住民の9割が脱出していた。当時17歳だったパルマさん一家はシエラマドレ山脈の一角へ逃げ込んだ。母と兄が避難が遅れていた。翌10日、ある人から、ある川の近くでパルマさんの家の車が止まっているのを見たという。次の日その川岸を5キロほどさかのぼったころ、車が道からはみ出ていた。運転座席を中心に弾痕だらけになっていた。運転手が死んでいた。付近を探す、30mほど離れたところに、果たしてパルマさんの母と兄が一緒にこと切れていた。母と兄たちを乗せた車はゴンサガ街方向へ走っていた。上陸した日本軍が目前に現れた。日本兵が機関銃で射撃、運転手は息絶えた。逃げ出した母と兄ともう一人も日本兵に狙撃され、二度と帰らぬ人になった。おろらく日本軍としては、上陸地点を敵に悟られないよう目撃者を消しただけのことなのだろう。
アパリの街はカガヤン川の河口に位置している。対岸にラナオという名の村がある。12月15日、突然「ハポン、ハポン」と誰かが叫ぶのが聞こえた。子供たちは驚いて逃げだした。1,2時間もすると、3隻の番か(丸木舟)で日本兵たちがアパリの方向へ引き上げていくのが見えた。・・・途中で村人の遺体3つ見た。20歳から60歳の男ばかり20人が拉致されていた。拉致された20人余りの男たちは、その日の晩、首を繰られて殺されたらしい、という。マラナオさんの話だと、こうした日本軍による機密保持のためのスパイ疑い住民処刑は2,3日の期間度々繰り返されたという。
上陸は「我が軍の一部をそこまで引き上げ、リンガエン湾地域のすでに弱い防衛力を弱めるため」のフェイントであると考えたウェインライトは、田中分隊に対抗することはしないことにした。 南下する唯一のルートはカガヤン渓谷を下ることであり、バレテ峠の大隊が「かなりの兵力」を阻止できると考えていたため、彼は攻撃に対抗するための準備をしなかった。彼は日本軍の主な上陸は「自分の部隊が最も重きを置いている地域、リンガエン湾」に来ると確信していた。
翌朝早く、田中分遣隊は国道5号線をトゥゲガラオに向けて南下し始めた。第12歩兵隊の第3大隊はカガヤン渓谷を素早く退却し、何の抵抗もなく、12月12日05:30には田中分遣隊の部隊はトゥゲガラオ飛行場に到着した。
アパリと同じ日、ビガン街に別の先遣部隊(菅野支隊、兵力約2000)が上陸している。この知らせを受けた極東空軍は、5機のB-17と、護衛のP-40、P-35にて爆撃した。輸送船「大井川丸」と「高尾丸」は大破し、掃海艇1隻は撃沈されてしまった。また、駆逐艦「村雨」と軽巡洋艦「那珂」(西村昭二少将の旗艦)にも死傷者が出た。10日の攻撃の成功は、極東空軍の最後の共同作業となった。
バンダン港は当日は日本軍が通過していっただけで、村人から死傷者は出なかったという。ところがビガン中心街では、街に入ってきた日本軍はまず町内の警官隊を掃討しており、市民の何人かが巻き添えに死亡した。日本軍は豚や鶏などの家畜、現金を徴発した。
ビガン攻撃隊は、荒波の中で兵員や物資を上陸させることができず、南へ移動し、戦闘機隊に守られながら、ようやく菅野分遣隊を上陸させることができた。少人数の部隊は直ちに国道3号線を北上し、80㌔先にあるイロコス・ノルテ州の州都ラオアグに向かい、翌日に町と飛行場を占領した。
ビガンから何進駐の二台のバスに乗った日本部隊が、ウィリアムズ中尉の指揮するフィリピン人の歩兵一個小隊によって待ち伏せ襲撃された。タグディンと呼ばれる小地点で起こったものだ。日本軍のバスはウィリアムズ隊によって阻止された。道路の一側にあった隠蔽された陣地から突如銃弾が発射され、日本兵がぞろぞろ下車したところにウィリアムズ中尉はピストル片手に突進し、四名の日本兵を倒した。それから小隊は後退した。こうして日本兵を殺したり、こちらが殺されたり、そして後退するという繰り返しの日夜が始まった。やるだけのことをやらなかったわけではなかったけれども……。
・・・日本軍が海岸平地に差し掛かったのは12月21日のことであった。そして、サン・フェルナンド北方5マイルのサン・ジュアンの近くに布陣した歩兵第13連隊の一個大隊と12連隊の一個大隊と日本軍との間に衝突が起こった。(第13及び12連隊の米人先任将校、モーゼス中佐、ノーブル中佐及びジョー・ガナール少佐の三名は、わが軍における最も素晴らしい実践指揮官であった・・・が)敵の兵力で側面を包囲されたうえ、経験がなかったわが方の部隊は分散し、主力から分断された。撃破された部隊の散り散りになった残存兵が、山中に逃げ込んで東方に進み、その後2週間のうちに、ぼつぼつと本隊に戻ってきた。(ジョナサン・ウェインライト、捕虜日記)
本間は当初、田中分隊と菅野分隊を配置したままにするつもりだったが、アメリカの反撃がないことが明らかになったため、接収した飛行場を保持する小守備隊を残し、2分遣隊の大部分をリンガエン湾に送り、第一四軍主力上陸に迎えることにした。田中大佐は、ルソン島の北端を国道3号線に沿ってビガンまで行進し、そこで菅野と合流する。その後、海岸道路を南下してリンガエン湾に向かう。前田参謀長は12月14日にアパリに到着し、田中大佐と話をした後、彼を両分隊の指揮官に任命し、彼に新しい任務を与えた。12月20日に、田中分遣隊と菅野分遣隊は合流し、22日の朝、リンガエン湾北岸北サン・フェルナンドに到着した。
米軍アジア艦隊(タスクフォース5に編成された)の戦力の大部分は、南に拠点を置いていた。旗艦の重巡ヒューストンは、パナイ島のイロイロにいた。8日の夜、2隻の駆逐艦と航空母艦ラングレーは、闇夜に紛れてマニラ湾を抜け出し、パナイ島で巡洋艦と合流した。グラスフォードは、ハート提督からの命令で、小さな艦隊を蘭領ボルネオ島に南下させ、石油を調達して残りの部隊を集結させた。こうして開戦初日の終わりまでに、米軍アジア艦隊は南に向かって航行し、12月10日にはフィリピン海域を離れたのだった。
| 炎上するカビテ |
11日の朝、カビテの火災はこれまで以上に激しく燃えていた。明らかに造船所を救える見込みはなかった。11日の空襲がなかったのは、台湾上空の天候が悪かったためである。米軍航空戦力は低下、P-40は22機しか就役しておらず、P-35は5機から8機、そして旧式のP-26もわずかながら運用されていた。16機の重爆撃機がまだ就役していたが、応急修理・故障・整備不良のため9機は戦術的な任務には適していなかった。残存機は偵察に使用することが決定された。追撃機はクラークとニコルズに拠点を置き、重爆撃機はデルモンテに撤退した。12日の朝、日本軍を妨害する米軍の飛行機はほとんどなかった。
日本軍は12日正午、クラークとカビテを攻撃。翌13日には200機近い日本軍機がルソン島上空にてデルカルメン、クラーク・フィールド、バギオとターラック、ニコルズ、カバナトゥアン、バタンガスを攻撃、その日の終わりには、フィリピンにおける米軍の航空戦力は事実上破壊されていた。
戦争が始まったとき、巡洋艦ペンサコーラ号に護衛されていた七隻の船団は、ハワイ沖南西からフィリピンに向かっていた。船団は約5000人の兵士、18基のP-40、52機のA-24、20門の大砲、何千トンもの火薬を運んでいた。いったん攻撃が始まると船団は向きを変え、ハワイに向かって引き返し始めたのである。しかし12月13日、マッカーサーはマーシャルから、ペンサコーラ船団は豪州北東を経由して再びフィリピンへ向かうよう指令されたという励みになるニュースを受け取った。
マッカーサーはハートに会いに行った。海軍はペンサコーラ船団をうまく誘導できるだろうか。ハート提督には全くその展望はなかった。マッカーサーはハートの悲観的な態度に強い不満を表したメッセージをマーシャルにあてた。「彼の状況判断では、船団が到着する前に完全に日本軍に封鎖されてしまうだろうという……フィリピンは絶望的だというのが彼の見解のようだ」。マーシャルは、大統領がフィリピンの戦略的重要性を認識し、あらゆる可能な支援を派遣すると三日後に回答した。しかし、ハート提督は依然としてペンサコーラ船団をフィリピンに向かわせることを約束しようとはしなかった。
アジア艦隊司令官は、自らの裁量と状況に応じて、「イギリスとオランダの港に基地を移す」ことを許可されていた。ハート提督は12月14日、第10哨戒航空団の残りの爆撃機を、3隻のテンダーと、人員と予備部品とともに南方に送り出した。 アジア艦隊の参謀長を含む参謀たちは、飛行機と船で後に続いた。フィリピン海域に残っていたのは、27隻の潜水艦に加えて、駆逐艦2隻(1隻は修理中)、モーター魚雷艇6隻、テンダー2隻、ガンボート3隻、各種小舟だった。ハート提督自身は、マニラに残ることを決めた。
ミンダナオ島の重爆撃機の立場は、今や不安定なものとなっていた。日本軍は、残存する米軍機を発見するために大規模な偵察を行っていた。今のところデルモンテフィールドは発見できていないが、この最後の砦が発見されて破壊されるのは時間の問題だった。さらにフィリピンにはB-17のスペアパーツ、エンジン、プロペラなどはなく、B-17の整備がますます困難になっていた。地上での破壊を避けるために、重爆撃機は昼間も上空にいなければならない日もあった。彼らはミンダナオ島とルソン島の間を行ったり来たりしていた。このような状況下では、残された重爆撃機がフィリピンで効率的に活動できないことは明らかだった。そこでブレトン将軍は12月15日、B-17をオーストラリア北西部のダーウィンに移動させる権限を要求した。サザーランドはその日のうちにこの計画を承認し、マッカーサーの同意を得た。12月18日の夕方には、10機の爆撃機がダーウィン郊外のバチェラー・フィールドに到着した。19日、デルモンテの飛行場は初めて空母「龍城」から日本機の大規模な空襲を受けた。
12月15日までにフィリピンの航空戦力はほんの一握りの戦闘機にまで減少していた。 間もなくやってくる日本軍の本陣上陸を防ぎ、補給路を確保するための希望は、今やこれらの数少ない飛行機とアジア艦隊の潜水艦にかかっていた。
フィリピンの平和から戦争への移行は突然のものだった。民間人もフィリピン兵士も、最初の衝撃に耐えれない。フィリピン人は、その豊かな想像力で敵の活動に関する報告をしてくるので、米軍のスタッフは荒唐無稽な話の中から真実を探すのに忙殺された。最初の空襲では、日本の爆撃機は「少なくとも一部に白人パイロットが乗っている」という説が信憑性を帯び、陸軍省に報告された。マニラでは、日本への短波通信を聞いたという住民が多くいたが、陸軍当局が最も慎重に捜索しても、短波通信機は見つからなかった。ある日は、艦隊が太平洋を渡って救援に向かっているというニュースが流れ、またある日は、マニラの水道に毒が入っていて、港周辺に毒ガスが撒かれているというニュースが流れた。
市民はより不安になった。数多くの空襲警報は誤報であり、マニラでは空襲警報が頻繁に鳴り響き、サザーランド将軍はサイレンを鳴らす前に陸軍本部を通すよう命じなければならなかった。ブラックアウトも緊張と不吉な雰囲気を高めた。街の犯罪者たちはこの暗闇と利用し、警察は犯罪を取り締まり敵スパイの活動報告のため必要なら発砲するよう命令されていた。歩哨、空襲監視員、警察官がお互いに撃ち合うこともあり、混乱はさらにひどくなっていった。最終的に、USAFFEはすべての銃器の提出を命じた。
マニラは、攻撃を受けている現代都市の兆候をすべて示した。店の窓は粘着テープで覆われ、入り口は土嚢で塞がれ、店や公共施設には即席の防空壕が作られた。交通機関は陸軍に徴用され、ガソリンは配給制になった。街の交通は乱れ、住民は地方に避難し、田舎の人も同じように都会に集まってきた。ラジオ局や電信局は満杯で、外界へのメッセージをすべて処理するのは不可能だった。人々はお金を引き出すために銀行に殺到した。数日後、紙幣の引き出しは週に200ペソに制限された。フィリピン人は銀貨を貯め込み、その結果、小銭が足りなくなった。このような混乱した日々の中で、軍と民間の当局は、人々の信頼を回復するために緊密に協力した。
12月16日、マッカーサーは英字新聞「マニラ・ヘラルド」の編集者であるカルロス・ロムロに電話し、翌日出頭するよう命じた。ロムロは翌日早朝、フィリピン陸軍予備役少佐の気象をつけた借り物の軍服を着て出頭した。彼の仕事は、町中に拡散しているうわさに対抗するため、マニラ市民に情報を伝えることであった。諜報活動、敵を支援する第五列員、何千人もの日本軍落下傘部隊に関するうわさが広がっていた。
| 「彼らに情報を提供しろ、しかし怖がらせるな。いつも本当のことを言うのだ。人はそれに耐えられるものだ。」 |
防空壕が建設され、人々は空襲警報にあまり注意を払わなくなった。連邦議会は緊急会合を開き、ケソン大統領に2000万ドルの防衛費を用意した。アメリカは同額を民間人の救援に拠出した。政府職員には、家族をマニラよりも安全な場所に移すために、3ヵ月分の給料の前払いが行われた。しかし、戒厳令を敷くまでには至らず、1~2週間後にはフィリピン人も落ち着き、首都での生活も平穏になった。
フィリピン兵も市民と同じように緊張していた。彼らの多くは、日本軍の第五列(本来味方であるはずの集団の中で敵方に味方する人々、つまり「スパイ」などの存在を指す)を信じていた。照明弾、ロケット弾、奇妙な光、降下してくる空挺部隊、切断された電線、中断された通信手段、これらすべてが証拠として挙げられた。噂は民間人と同じように軍人の間で広く流布し固く信じられていた。USAFFEの補給将校補佐であるフランク・F・カーペンター・ジュニア少佐は、マニラの北15マイルにある町を訪れた際、米軍の輸送船団や弾薬の不足、アパリへの上陸など、一般のアメリカ兵が知らない軍事的な話を聞いた。また、米軍の制服を着たドイツ人が目撃されていることや、マニラには民間人の服を着た1,500人の日本兵が住んでいて、「適時に行動を起こす準備をしている」と聞かされた。カーペンター少佐は、米兵の制服を着た第五列が情報を流して不満を募らせていると判断し、情報将校に調査を依頼したのである。
公式記録には、秘密の無線送信機、美しいスパイ、第五列のバーテンダーなどの話は一切記されていない。落下傘部隊の頻繁な報告も、調査の結果すべてが虚偽であることが判明した。戦後の日本軍将校への尋問や日米の記録の研究では、日本軍の第五列がフィリピンに存在したという信念を裏付けるものはない。攻撃する日本軍を助ける努力がなされたとしても、それは散発的で個人的なものだったに違いない。
フィリピン陸軍の動員継続と、物資徴発
開戦当初はフィリピン軍の動員という課題は続いていた。開戦と同時に、残りのすべての部隊が直ちに動員された。ビサヤ地方とミンダナオ島では、戦争が始まった時点で動員が半分ほど完了していた。マッカーサー司令部からの命令で、12月9日に第72歩兵隊と第92歩兵隊(PA)がルソン島に派遣された。これらの部隊は、志願兵、ROTC士官候補生、まだ招集されていない、あるいは報告を怠った予備兵から構成されていた。
戦争が始まってすぐに、アメリカ連邦政府はすべての調達機関に、地元の市場で購入して必要なものを満たすように命じた。方面軍司令官は、ありったけの自動車やトラックの新車、中古車を購入し、大量の衣類や食料も購入した。信号隊は、写真、ラジオ、電話などの機材をすべて購入し、医療隊は、島内にあるすべての医薬品、包帯、手術器具を集めた。
諸島の商業の中心地であるマニラは、既存の在庫を補うための物資を求めていた。マッカーサーの命令により、準軍人は大規模な石油会社からマニラ近郊に保管されているバルク石油製品をすべて引き取った。戦が長引けば、食料が不足することは明らかだったので、彼は特に地元から食料を調達しようとした。陸軍はマニラの中国人商人から125ポンドの精米袋を数千個確保し、マニラの船からは港に停泊中の船からも大量の食料を確保した。マニラの港湾地域は急速に拡大する軍事施設で混雑し、パシグ川の河口には貨物船などがひしめき合っていた。
日本軍の初上陸に対する米軍司令部の直後の反応は冷静なものだった。マッカーサー将軍は、フィリピンの人々は戦争の衝撃に「冷静に」耐えており、「混乱やヒステリーの兆候は見られない」と楽観的に報告している。サザーランド将軍は、「我々は部隊を分散させず、本攻撃と思われるものを待った」と述べている。
日本軍の上陸によってマッカーサーが行った唯一の計画変更は、12月16日に北ルソン部隊に与えられた新しい任務だった。それまではウェインライト将軍がルソン島北部全域の防衛を任されていたが、彼の命令は敵を海岸で迎え撃ち、海に追いやることだった。主な抵抗線は海岸である。このような任務は、空軍や海軍の支援がない状況では、利用可能な手段では実行不可能であった。16日、北ルソン部隊は、ルソン島のラユニオン州サンフェルナンド以北の防衛責任から解放され、同市を通る東西線の北側で敵を阻止することだけが要求された。
上陸から数日後には、日本の計画が明らかになってきた。まず、日本の空軍と海軍は、フィリピン諸島をあらゆる可能な援助から遮断し、日本の地上軍は、ルソン島の北端と南端、そしてミンダナオ島の敵勢力がほとんどいない場所に前進基地を確保する。敵の大規模な攻撃はまだ先であるが、そうなれば目標は首都マニラになる。年が明ける前に、初期の悲観論者が抱いていた最悪の恐れが実現することになった。先行上陸が完了する前に、本間将軍の第14軍の主力はすでにルソン海岸に近づいていた。
マッカーサーはケソンとセイヤーにコレヒドールに出発する準備をしておくように連絡させた。ケソンは悄然とした。彼はマッカーサーと面会を要求した。ケソンは残虐で強欲な敵の支配下にいる市民を犠牲にして政治家が逃げ出すことが、何を意味するか容易に想像できた。
| ケソン「私は市民とともにとどまり、彼らと運命を共にするつもりだ。」 | |
| 「大統領閣下、貴殿は非常に勇敢な方なので、そうした返事を予測していました。貴殿が敵の手に落ちることを防ぐことが私の義務であります」 |
それはマッカーサーが絶対に果たすべき義務であった。
1941年初めに米英の協議で、戦争基本戦略「レインボー計画」が具体化された。連合国の主努力は対独戦であり、決定的な戦場は大西洋と欧州ある、対日戦は防衛的なものだ。
1941年12月10日、ペンサコーラの輸送船団をブリスベンに送ることが決定されたとき、海軍作戦部長のスターク提督は合同委員会に対し「カビテでの破壊と艦隊の停泊地としてのマニラの不便さを考慮して」アジア艦隊をフィリピンから撤退させることを決定したと述べた。スターク提督の意見では、ルソン島の防衛は海軍省の極東戦略に寄与しないらしい。スタークは、ハートが艦隊の主要水上部隊をボルネオ島に派遣する命令を承認し、アジア艦隊司令官に対して、自分の撤退を遅らせないように注意した。
フィリピンへの増援をどうするかという重要な問題について、海軍作戦部長は、ペンサコーラ輸送船団が航空機と大砲を積んでいることを指摘し、「ダーウィン港とその周辺の防衛に非常に重要になるかもしれない」と加えた。しかし、この船団をマニラに集結させる必要性については何も言わなかった。なぜなら、この援軍はマッカーサーに向けられたものであり、ワシントンではオーストラリアから北上する船を安全に輸送するための努力が払われていたからである。陸軍の計画担当者は、フィリピンの運命について海軍の悲観論を共有していたが、12月10日以降フィリピン強化計画を強く支持するようになった。スティムソン氏は戦後、マッカーサー元帥を支持した理由を次のように語っている。
私は彼ら(3人の民間人補佐官)に、現在我々の前に立ちはだかっている問題、すなわち極東で可能な限りの努力をすべきか、それとも海軍のように極東を絶望的なものとして扱うべきかという問題を提起した。・・・もし我々が敗北主義者の理論に屈したら、日本の南西太平洋への進出占領という悲惨な影響を与えるだけでなく、心理的には中国や現在非常によく協力して戦っている4つの国すべてを落胆させることになるでしょう。これは大統領にも受け入れられ、陸軍はオーストラリアのポートダーウィンに強固な基地を作るための措置を取っている。
陸海軍の計画担当者は、フィリピンがもはや防衛できないことを認めており、米国の限られた資源を「防衛可能なものを防衛する」ために使用すべきだと主張する者もいた。しかし、この問題は完全に軍事的なものではなかった。スチムソンは、「政治的には、この防衛を可能な限り強力に支援することがさらに重要であった。この重大な瞬間にフィリピンを放棄すれば、フィリピンの人々や極東の他の国々がアメリカを高く評価することは期待できないからだ」と述べている。 スチムソンとマーシャルがマッカーサー将軍を強く支持し、参謀本部に敗北主義的な態度が見られることに断固として反対したのは、このような配慮からであった。この努力には、大統領の支持も得られた。
この努力には、米軍の活動拠点としてのオーストラリアの利用が必然的に含まれていた。日本軍の進出で、フィリピンに到達するためには、オーストラリアから北上するしかなかったのである。このような可能性は、戦前の計画では想定されておらず、開戦当初の即興的なものとして発展したものだった。
マーシャル将軍は、オーストラリアにおけるアメリカの先進的な基地の設立を監督するために、ドワイト・D・アイゼンハワー准将を選んだ。アイゼンハワーは、マッカーサーのスタッフとして3年間勤務した経験があり、この任務に最適な人物であった。アイゼンハワーは12月12日にワシントンに呼ばれ、2日後にマーシャル将軍に報告した。アイゼンハワーに極東の状況を説明した後、マーシャルは突然、「我々の行動指針は何か」と尋ねた。
アイゼンハワー「その答えは自分の価値を決めることになる」と考え、答えを準備するための時間を求めて確保した。戦争計画課の机に戻って回答を練り、何時間か考えた後、自分の答えをマーシャル参謀総長に提出した。アイゼンハワーは、フィリピンの守備隊が長く持ちこたえられる可能性はないことを認めた上で、守備隊を支援するために可能な限りのことをすべきだと宣言した。リスクと費用がかかっても、アメリカがフィリピン連邦を助けるために断固とした努力をすることを妨げるべきではない。アジアの人々の信頼と友情は、米国にとって重要なものであり、失敗は許されるかもしれないが、放棄は決してしてはならない。アイゼンハワーは、マッカーサーを助けるためには、豪州を軍事基地にして、そこから物資を北上させてフィリピンに送ることが必要だと考えていた。
アイゼンハワーの考えは、マーシャルやスティムソンの考えとぴったり一致しており、大統領の承認もすでに得ていた。アイゼンハワーはテストに合格し、マーシャルは彼にフィリピンを救うために最善を尽くすように言った。それからの数ヶ月間、アイゼンハワーは戦争計画課の太平洋セクションの責任者として、そして同課のチーフとして、フィリピンの強化という仕事にほぼ専念した。
フィリピンでは、陸軍と海軍の司令官の間に強い意見の相違があった。ハート提督は、自分の艦隊を撤退させるべきだというワシントンの上層部の意見に同意し、すでに水上部隊の大部分を南下させていた。マッカーサーは、フィリピン喪失の必然性を受け入れようとしなかった。その代わり、彼は極東で攻撃戦略を陸軍省に求めた。敵は拡大しすぎている、ここで日本の本島に対して北から強力な航空攻撃を仕掛け、このような攻撃が成功すれば、心理的ダメージを与え、本国を守るために広範囲に分散している航空部隊を呼び寄せざるを得なくなるだろう。
だがその空襲を実行するために必要な航空機や空母は、この時点では入手できず、マッカーサーの大胆な計画は棚上げされた。しかし、それから5ヶ月後の1942年4月18日にドーリットルが東京を空襲したことは、マッカーサーの提案した対日攻撃に合致していたが、彼が期待していた結果を得るには遅すぎたということは、少なからず興味があることだ。
マッカーサーはハートの悲観的な態度に強く反対した。大統領は14日、海軍長官代理に語った。
| 大統領「フィリピン人を助けるつもりであるから、海軍はそれに協力しなければならない」 |
海軍は態度を多少修正せざるを得なくなった。海軍作戦部長は、ハートがペンサコーラ船団のマニラへの安全な輸送を保証できないことを認識した上で、「適切な場合には、実際に可能な限りの支援を通す努力をする」ことを提案した。スターク提督はこの生ぬるい命令を受けて、ハートに「陸軍と協力して」、特に必要な物資を「可能な限り」航空機で輸送するように指示した。さらに、マニラを出発する際には、海軍の物資を陸軍に引き渡し、すべての海兵隊をマッカーサーの指揮下に置くように指示された。
日本軍は12月12日にはレガスピに、20日にはダバオにも先遣部隊を送り込んだ。
レガスピ
南ルソンは、パーカー将軍のフィリピン陸軍(PA)2個師団があった。西側にウェストポイントを卒業した元フィリピン陸軍副参謀長のビンセンテ・リム准将が指揮する第41師団(PA)が、東側にはアルバート・M・ジョーンズ准将の第51師団(PA)があった。第51師団はもちろん装備も訓練も不十分だった。師団の下士官はビコラニア語の方言を話し、ルソン島中部出身の将校の大半はタガログ語を話していたため、訓練は更に困難であった。
本間将軍は南ルソン上陸に、第16師団から約2500名の部隊を編成した。この部隊は木村支隊と呼ばれ、パラオで輸送船に乗り込んだ。強力な海軍部隊もパラオ基地を出港し、8日の夜明けには、ダバオの東約190㌔に到着、ここから空母「龍城」がダバオへの攻撃を開始した。その後海軍は北東に向きを変え、翌朝早く、前日の午前9時にパラオを出港した木村支隊の輸送船と合流した。
12月11日の11時、この軍はサン・ベルナルディノ海峡の東200㌔にて分かれ、駆逐艦2隻に護衛された1隊はサン・ベルナルディノ海峡に向かい、もう1隊は軽巡洋艦1隻と駆逐艦2隻に護衛されて南下し、スリガオ海峡に向かった。深夜までに両隊は目的地に到着し、機雷の敷設を開始した。サン・ベルナルディノ海峡を哨戒していた米潜水艦SS-39は日本の駆逐艦2隻に攻撃されて追い払われ、日本軍には何の損害もなかった。 龍城の飛行機がレガスピのアルバイ湾に向かう輸送船団を防御し、木村分遣隊は12月12日の早朝にレガスピへ上陸を開始した。反撃はなかった。飛行場とマニラ鉄道の終点を支配し、数時間後、レガスピを確実に掌握した木村大将は、北西と南東に先遣隊を送った。翌日、強力な海軍援護部隊はパラオに戻り、次の上陸に備えた。
日本軍のレガスピ上陸の報告は、レガスピの鉄道駅長からだった。彼の電話が鉄道中央部からマニラの米軍司令部に切り替えられ、次のような会話が交わされたという逸話が残っている。
駅長「港に日本船が4隻あり、ジャップが上陸してきています。どうしましょう?」
USAFFE OFFICER「とにかく電話を切らずに報告を続けてください。」
駅長「すでに20人ほどのジャップが上陸していますが、さらに増えています」 一瞬の沈黙。「駅の外には約300人のジャップがいます 私はどうすればいいですか?」
USAFFE OFFICER「Just sit tight.」
駅長「Sir, 数人のジャップが、前に将校を連れて、こちらに来ています。」
USAFFE OFFICER「彼らが何をしたいのか見てみましょう。」
駅長「そのジャップは、彼らをマニラに連れて行くための列車を渡して欲しいと言っています、閣下。どうすればいいですか?」
USAFFE OFFICER「1週間後に次の列車が出ると伝えてください。渡してはいけません」
駅長「Okay sir.」
レガスピの日本軍に対し、12月12日に米軍の2機の戦闘機が日本軍の飛行場を攻撃し、3人が死亡、2人が負傷した。その2日後デルモンテ基地のB-17の6機のうち3機がこの地域に到着、日本の掃海艇と駆逐艦と思われる輸送機を攻撃したが、掩護されていない爆撃機は日本の戦闘機には勝てず、すぐに急いで退却したが、B-17の1機だけがデルモンテに戻ることができ、他の機体は基地の近くに不時着してしまった。日本軍はせいぜい4機の戦闘機を失っただけだった。
ジョーンズ将軍の第51師団(PA)は、道路や鉄道の橋を破壊し、遅延作戦を行った。 木村分遣隊はレガスピから国道1号線に沿ってナガに向かって北西に移動した。地上部隊が最初に接触したのは12月17日で、日本軍斥候隊がラガイ近くの橋で作業していた第51工兵大隊の解体分遣隊に遭遇、工兵隊はなんとか橋を破壊し、峡谷の近くの岸に陣取ったので、日本軍は撤退した。翌日、木村分遣隊はナガに入った。日本軍はナガから北西に向かって橋や道路を修復しながら進み、19日には歩兵1大隊と推定される部隊でシポコに到着した。
12月21日、師団長は、連隊長ヴァージル・N・コルデロ中佐に、第52歩兵隊のB中隊とC中隊を連れてシポコに移動するよう命じた。マット・ドブリニク中尉のフィリピン軍は、めずらしくも日本軍を追い払った。彼らは敵に大損害を与え、自らも約15%の死傷者を出した。12月23日、ジョーンズ将軍はアティモナン沖に日本軍の侵攻部隊が現れたため、部隊にビコール半島からの撤退を命じた。第51師団(PA)は敵の前進を遅らせ、木村分遣隊と、間もなくラモン湾に上陸する第16師団の主力部隊との即座の合流を阻止はした。
ダバオ
比島南部では、第16軍のボルネオ攻略の拠点を提供する目的で、ミンダナオ島のダバオとスールー諸島のホロ島の2つの上陸作戦が予定された。第16軍第56師団の下に、2つの分隊が編成され、全部隊の兵力は約5,000人であった。ダバオを占領すると、三浦支隊は第一四軍の管理下に戻り、第一六軍の坂口分隊ボルネオ島に向かう途中のスールー・ホロ島に移動することになっていた。軍は12月17日にパラオを出発した。高木提督海軍部隊の護衛は、駆逐艦戦隊が直接支援し、巡洋艦戦隊と空母「龍城」が近接援護部隊を構成した。19日の午後、龍城はダバオの東約320㌔地点から6機の飛行機を発進させ、ダバオ湾の東側の先端であるサン・アウグスティン岬の無線局を攻撃し、水上機母艦の千歳は独自の飛行機を発進させてダバオ上空を偵察した。午前0時、空母艦載機の援護を受けた三浦支隊の部隊がダバオ北部に、坂口分隊の部隊がダバオ南西部の海岸に上陸を開始した。
この地区を防衛していたのは、第101歩兵第2大隊長ロジャー・B・ヒルスマン中佐率いるフィリピン陸軍約2000人であった。上陸部隊に対抗したのは機関銃隊だけで、敵に多数の死傷者を出した後、日本軍の砲弾の直撃を受けて壊滅した。 負傷者が出たため、日本軍がホロ島作戦のために温存していた坂口分遣隊の部隊を投入する必要があった。その日の朝10時30分頃、ヒルスマン大佐は、ビサヤ・ミンダナオ軍の砲兵隊を構成する8門の2,95インチ砲のうち3門を残して、北西の丘陵地帯に通じる道を通って兵を引き揚げた。ダバオに残っていた部隊も撤退して、街を囲む高台に防御陣地を築くように指示された。
坂口分隊は市の南西部で抵抗を受けず北東に移動して市内に入り、三浦大佐の部隊と接触、15時には市と飛行場が占領された。坂口支隊の出発が遅れたのは、三浦分遣隊の予想外の死傷者が出たことと、B-17の攻撃によるものだった。豪州のバチェラー飛行場から来た9機の爆撃機が、22日の日没に日本軍を攻撃したのである。この空襲は、日本軍にとって完全な不意打ちであったが被害は軽微であった。
翌朝、輸送船団はダバオを出発し、24日に到着した。防御側の300人の警察隊はわずかな抵抗しかできず、翌朝には日本軍はジョロの町を制圧、 ダバオとジョロから、日本軍はボルネオ島への攻撃を開始する体制を整えていた。
日本軍のこれらの上陸に対し、フィリピン陸軍は碌な抵抗をせず撤退した。だがマッカーサーはこれらの上陸に対して依然として増援を送るなどの目立った動きは見せなかった。彼は主力軍の上陸を待っていたのである。
予定された時間に本間の計画は動き始めた。大空襲部隊の米空軍奇襲が見事に成功した。三日目には米軍航空兵力は事実上消滅し、米海軍も戦力も焼失していた。田中連隊長は支隊をアパリとゴンザガに敵の抵抗なく上陸させた。菅野善吉少佐は西岸ビガンで激しい反撃にあったが、岸に近づき陸に這いあがった。報告は、北部ルソンの地上軍主力部隊の反撃少なしとあった。木村少将16師団支隊は、レガスピに上陸を終わり、ルソン島の狭い尾部を北上しつつあった。大本営のフィリピン征服計画の第一段階は、楽観的な見方をしていた人たちの期待以上に成功していた。翌1週間も滑りよく進み、たった2週間以内に第5航空群はルソン各地に飛行場に設置、海軍はカミグイン諸島、レガスピ、ダバオに独自の水上機基地を持っていた。
本間は杉山に「計画通り順調進撃中」と報告することができた。実際この作戦は計画から実践までの傑作のひとつではないかと思われた。
マニラ攻略のための主作戦は、リンガエン湾への大規模な上陸作戦と、ラモン湾への副次的な上陸作戦の2つである。上陸作戦に投入される部隊は、11月下旬には集結し始めていた。森岡中将第16師団(第9歩兵と第33歩兵を除く)主力7000名は、11月25日に大阪を出発、12月3日に奄美大島に到着し、12月17日ルソン島ラモン湾目指して奄美大島を発った。この部隊の中国における戦績を知って、本間は多く期待していなかったが航海は順調に進んでいた。
12月6日にはリンガエン湾の主力、第四八師団(田中分隊、菅野分隊を除く)の全部隊が澎湖諸島の馬公と、台湾の高雄と基隆に集結した。第四八師団は1940年末に台湾で編成されまだ実戦経験がなかったが、当時点で日本陸軍の中で最も優れた自動車化師団であった。各歩兵連隊の1個大隊は自転車を装備し、師団の砲兵は第四八山岳砲兵からなっていた。部隊には、第四八師団のほかに、第一六師団の第九歩兵と、馬車式75ミリ砲8門を持つ第二二野砲の一部が所属し、第四と第七戦車連隊の80~100両の軽・重戦車が含まれていた。この船団は3つに分かれており、17日に台湾北部の基隆から21隻、次に18日に澎湖諸島の馬公から28隻、最後に18日17時に台湾の高雄を出発した。本間は最後の船団にいた。各輸送船団には多数の上陸用舟艇が含まれており、太平洋戦争で最も活躍したのは、大発動艇のA型(陸軍)という大型の上陸用舟艇であろう。漁船のような外見で、重さ5トン、全長15m、14-16km/h、短距離の場合は100~120人を収容でき、特大型は戦車を搭載できた。各輸送船団の護衛艦(軽巡洋艦2隻、駆逐艦16隻、巡視船など)による直接支援に加えて、第3艦隊司令官の高橋伊望中将が率いる大規模な海軍部隊(空母2隻、戦艦2隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、水上機母艦2隻、駆逐艦数隻)が、遠方をカバーした。
集中と積込期間中は、多くの混乱があった。最大限の秘密が守られ、計画の全容を知っているのはごく少数の将校に限られていた。部隊の指揮官には、ごくわずかな指示しか与えられず、ほとんどが暗闇の中で仕事をしていた。重要な命令は実行直前に出され、検討や準備の時間はほとんどなかった。にもかかわらず各輸送船団は12月17日までに搭乗し、出航の準備が整った。船内では不安が続いていた。今でも行き先は知らされていない。地図を見ることができるのは、一部の将校に限られていた。この作戦の成功にすべてがかかっていた。
本間は3つに分かれた船団のうち、最後の船団にいた。彼の船は帝海丸で、これに乗っていた報道班員今日出海も本間にあった。
本間中将は背は高く、生まれつき司令官のような男であった。
| 『君が今君か』 |
当時私は有名ではなかったが、彼は私の名を知っていた。
それから私に支給された変な徴用服を指して、笑いながら
| 『誰がこんな格好をさせたのか、マニラの街で困るぞ』 |
といった。
(四人のサムライ)
12月21日の夜遅く、重装備の陸軍輸送船76隻が、強力な海軍の護衛の下、リンガエン湾に入港し、停泊した。主力の攻撃が始まったのだ。輸送船に乗っていたのは、本間中将の第一四軍の主力である43,110名であった。
日本の計画では、リンガエン湾の海岸に沿った3つの地点に上陸し、22日の午前5時に開始されることになっていた。 上陸用舟艇の往復時間は2時間で、その後は1時間となる。初日のうちに、各艦艇は合計10往復することになる。上陸のために選ばれた位置は素晴らしく、山と海岸の間には狭い平地があり、それに沿って国道3号線が走っていたが、これは硬い路面の優れた双方向の高速道路だった。バウアンでは、国道3号線と交差する道路があり、山の裂け目を通って東に向かってバギオに至り、そこから南に折れてロサリオ付近で再び国道3号線に合流していた。上陸した海岸の南側には、ルソン島の中央平原が広がっていた。国道3号線は、マニラに通じる道路網に直結している。
上陸
リンガエン部隊の目的地までの航海は、何の問題もなかった。米軍の飛行機や船は現れなかった。12月22日、天候は寒く、空は暗く、断続的に雨が降っていた。この時点で事態は悪化し始めた。出足はうまくいったとは言えない。B-17の編隊に爆撃され、海岸から155㎜砲の砲撃が始まった(このフィリピンスカウト第86野戦砲兵大隊は輸送船3隻と駆逐艦2隻を撃沈したと主張しているが、実際には本間将軍を緊張させた以外には何の損害も与えなかった)。この砲撃は日本側戦艦が1時間も報復射撃してやっとやんだ。午前5時過ぎ、最初の部隊がアグーの南の海岸に降り立った。5時30分には第1歩兵隊、第48山砲兵隊第3大隊の主力と戦車が、カバの南約2マイルにあるアリンゲイに上陸を開始した。兵員の上陸用舟艇への移動は、高波のために非常に困難であった。軽舟は岸に向かう途中で激しく揺さぶられ、人員と装備は水しぶきで濡れてしまった。無線機は塩水に浸かって使えず、第一波の上陸時には通信ができなかった。本間は帝海丸の艦橋から、上陸用舟艇のかえってくるのをイライラして待った。何も見えなかった。岸から何の信号も送ってこなかった。
湾内の米潜水艦にとっては絶好の標的となった。S-38は浅瀬に入り、停泊地の西数㌔で水雷で陸軍輸送船「隼鷹丸」を沈めた。しかし、全体的に潜水艦が得た成果は期待外れだった。
輸送船が突如火を噴き、船尾から沈み始めた。本間「痛撃を食ったらしい。…発急襲部隊は岸に孤立化……・この時万一反撃されていたならば万事休すであった」(本間裁判口述書)。第2波は予定通り上陸できなかった。
だがこのような上陸計画の失敗も何ら作戦の遅滞をもたらさない、米軍・フィリピン軍は上陸に対して何の準備もできていなかったようだ。
米軍の反応
リンガエンへの日本軍の上陸は、USAFFEの上層部を驚かせなかった。マニラを目的地とする大規模な部隊を上陸させるには論理的な場所だったからだ。12月20日から21日の夜、USAFFEは受け取った情報に基づいて、駐留部隊に、「100隻から120隻の」日本軍が南下しており、21日の夜までには湾口の沖合に到着予想と警告した。だが警告にもかかわらず、何の行動も起こせないうちに、上陸は始まっていた。この時リンガエン湾の防衛は、湾の南端の第21師団(PAフィリピン陸軍)、北サンフェルナンドまでの北側の第11師団(PA)のフィリピン陸軍2個師団が担当していた。歩兵第71部隊はわずか10週間の訓練で第11師団に編入され、バウアン・ナギリアン地区に配属された。クリントン・A・ピアス大佐率いる第26騎兵隊(PSフィリピン・スカウト)は、日本軍の進撃経路であるロサリオの南約20㌔に移動していた。
フィリピン防衛はほぼ海上交通路の制海次第だ。海軍が撤退してその防衛をしないと決めれば、万事休すである。海軍撤退の意志が非常に強かったので、ハートはリンガエン湾に機雷を施設させることさえしなかった。例えそこに侵攻軍の主力が錨を下ろすことが明白であったにもかかわらず。
アジア艦隊は退去していたが、ハートの潜水艦部隊は依然としてフィリピン諸島近辺で作戦を展開していた。その時リンガエン湾に80隻以上の日本船舶がいたが、潜水艦部隊はただの一隻も撃沈していなかった。「潜水艦の目標としてこれは格好のものだったろうに」マッカーサーはサザーランドに苦々しい顔をしていった。実際は日本の輸送船を攻撃していた。魚雷には磁石雷管(ハートが数年前に魚雷局を指揮していた時開発されていた)が装備されていたが、その肝心の雷管が作動しなかったのである。海軍が理由を割り出すまでに、さらに一年半を擁することになるのである。
リンガエン橋頭保の強化
バウアンでは、フィリピン陸軍第12歩兵大隊が50口径1挺、30口径機関銃数挺を携えて、迫り来る日本軍と対峙していた。神島隊が海岸に近づくと、フィリピン軍はこれを銃撃した。50口径銃は日本軍に大きな死傷者を出したが、30口径は弾薬の不具合で発射機構が詰まり、早々に戦線離脱していた。死傷者にもかかわらず、日本軍は突き進んで海岸に足場を築き、フィリピン軍は撤退した。バウアンの海岸の背後には、ドナルド・バン・N・ボネット中佐の第71歩兵隊(PA)がいたが、経験の浅いフィリピン人には、迅速で突然の猛攻はできなかった。神島第二大隊は上陸直後にバウアンに入り、日本軍の進撃を前にフィリピン歩兵第71部隊は後退(逃走)した。ボネットは、日没までにフィリピンの夏の都バギオを通って南に撤退する命令を出した。
バウアン南方アリンゲイには、今井大佐隊が上陸した。今井大佐の任務は、部隊をダモルチスとロサリオに向けて南下させることであった。早朝、連隊は海岸沿いの道路を移動し、16時までにダモルティスの北でに早朝に上陸した第48偵察連隊と第4戦車連隊に合流した。
アリンゲイ南方アグーでは、柳大佐の第47歩兵隊と第48山岳砲兵隊の一個大隊が上陸した、当初は無抵抗であった。柳大佐は自動車輸送を待たずに内陸部のアリンガイ街道に向かい、そこから南下してロサリオに向かった。一方、第11師団長のウィリアム・E・ブローガー准将は、歩兵の一個大隊を送り込んでいたが、その後の銃撃戦で日本軍はやすやすとフィリピン軍を撃退し、フィリピン軍はダモルティスに急いで退却した。
こうして22日の午後には、日本軍は3つの歩兵連隊とそれを支援する砲兵、戦車の部隊を上陸させたが、第一四軍の主力はまだ輸送船に乗っていた。
リンガエンの部隊が前進している間、本間大将はリンガエン湾の船に留まっていた。進撃部隊から何の連絡もないので、本間大将は不安を募らせていた。午後5時半に本間は停泊地を変更することを決め、南のダモーティス沖に移動を命じた。(移動は賢明であった。翌日12月23日の上陸作戦は順調に進んだ。)
フィリピン・スカウト第26騎兵隊の本隊がロサリオに向けて前進、偵察小隊はダモルティスに向けて急進した。町に人がいないことを確認すると、海岸沿いの道を北上し、数マイル行ったところで日本軍第四八偵察連隊と第四戦車連隊の前進部隊と遭遇し、ダモルティスに後退した。
一方、ロサリオにいた第26騎兵隊は、ダモルティスへ到着、13時、騎兵は日本軍から攻撃を受けた。ピアス大佐は、陣地を維持できず、ウェインライト将軍に助けを求めた。同じ頃、ウェインライト将軍は、自転車や軽自動車に乗った敵軍がダモルティスに近づいているという情報を得た。ウェインライト将軍は、この緊急事態に対応するため、臨時戦車群司令官ジェームズ・R・N・ウィーバー准将に戦車一個中隊の派遣を要請した。ガソリンが不足していたため、ウィーバーは第192戦車大隊C中隊の5両編成の小隊しか提供することができなかった。これらの戦車は、アグー付近で敵の軽戦車と遭遇した。司令部の戦車は道を外れたところで直撃を受け、炎上した。他の4両はいずれも47mm対戦車砲火を受け、ロサリオに戻ることに成功したが、その日のうちに爆撃で失われた。16時になると、先にアリンゲイに上陸していた第一台湾砲兵隊と第四八山岳砲兵隊が攻撃に加わった。ピアス大佐は完全に劣勢を知り、ダモルティスの東に撤退、19時は、日本軍は町を完全に支配していた。
その日の午後、ウェインライトは第26騎兵隊を第71師団に編入し、クライド・A・セレック准将に、ウルダネータにいる第71師団(第71歩兵隊を除く)を約40㌔北のダモルティスに派遣し、日本軍南下を防ぐよう命じた。第26騎兵隊は第71師団の右翼をカバーし、ロサリオの東側にあるロサリオ-バギオ道路の分岐点を保持して、バギオにいるボネット少佐の部隊、第71歩兵隊(第1大隊を除く)がバギオから南下して合流できるはずだった。16時30分頃、セレック将軍は米軍の抵抗の中心となっていたロサリオに到着した。そこでは日本軍がダモルティス街道の西からだけでなく、北西からも柳大佐の第四七歩兵隊が進出していることを知った。セレックはピアス大佐の第26騎兵隊の疲弊を知り、騎兵たちにロサリオにゆっくりと後退するように命じた。この時、日本軍はかなりの兵力をダモルティス-ロサリオ間の道路に沿って前進させていた。偵察隊を支援する192部隊C中隊の戦車隊は、臨時戦車群司令官ウィーバー将軍から20時にロサリオに後退するよう命令を受けたと主張し、定刻になると撤収を開始した。最後の戦車がアメリカ軍の戦線を通過したとき、第26騎兵隊の後衛が日本軍の戦車に侵入された。その後の混乱した行動の中で、日本軍の戦車は、暗闇の中で奮闘する兵士や恐怖におびえる乗り物のない馬と一緒になって、守備隊を切り刻んでいき、大きな犠牲を出した。ロサリオの西数マイルにある小さな川に架かる橋を燃える戦車で塞いだトーマス・J・H・トラプネル少佐の大胆な行動だけが日本軍を止め、完全な敗走を防いだ。
ボネットと北方部隊に対しては、さらに北上しナギリアン道に出てバギオに進み、それからケノン道を南下して本隊に復帰するように命じた。私は22日中に強行軍をできるだけ早くやってのければならぬと明言した。ところが、どうも行き違いが起こって、ボネットは食事と休息のために、部隊をバギオで休止させてしまった。・・・騎兵26連隊はダモルチスに急行し、そこに上陸した日本軍に攻撃を加えた。しかし敵は飛行機の救援を手に入れ、陣馬に銃撃を浴びせかけた。この日わが方は精兵と多数の良馬を失ったが、その中には私の愛馬「リトル・ボーイ」も入っていた。騎兵26連隊が後退した時、勇敢に持久戦法を取りながら、東の方ロザリオまで日本軍を誘引することに成功した。(騎兵隊がロサリオを守っている間にケノン道を通ってボネット隊がバギオから平原に脱出する目論見だったが)
・・・第26連隊はケノン道を横切って後退し、日本軍が(バギオに向かう)ケノン道を制圧した。これでボネットとその部下は孤立してしまった。
・・・第26連隊の後退は、幾多の行動によって可能にされたものであるが、T・J・H・トラップネル少佐のずば抜けた勇気に勝るものはなかった。日本軍の戦車隊は、彼がじりじりと後退した時に、激しく圧迫を加えつつあった。ダモルチスとロザリオの間において、彼は戦車の通過を許さない、深い水流にかけられた木橋に差し掛かった。そこで、彼は一台のトラックを徴発し、通路妨害の手を打った。日本戦車隊は彼に打ちかかった。トラップ少佐は腰からピストルを抜くや、トラックのエンジンのキャブレターをうちぬき、車体を燃え上がらせて悠々と立ち去った。彼はのちに殊勲十字章を授けられた。(ジョナサン・ウェインライト、捕虜日記)
撤退した騎兵隊がロサリオに到着すると、町の北西にある小道を守っていたF部隊が柳大佐の部隊に押し戻され、町の広場で激戦を繰り広げていた。F部隊は他の連隊がロサリオを通過するまで待機していたが、その後行動を中断し、日本軍を残して後を追った。
バギオのボネット少佐の部隊も状況は良くなかった。ボネット少佐は、日本軍が四方八方から接近しているという噂を追って、ロサリオへ南下することなくバギオで夜を明かした。バギオのキャンプ・ジョン・ヘイの司令官ジョン・P・ホーラン中佐は、マッカーサー司令部に無線でこの地域の日本軍の動きとボネット率いる部隊の苦境を伝えていた。 ウェインライトは22日の深夜頃、ピアスにバギオ街道とロサリオ街道の分岐点の確保を命じた。ボネットはそのことを知らず、日本軍がロサリオを確保していると信じてバギオに留まり、翌朝、第26騎兵隊はついに陣地が維持できなくなって撤退しなければならなかった。 ボネットはその後、山を越えて東のカガヤン渓谷に移動したが、ホーランは23日もずっと持ち場に留まっていた。翌朝、日本軍が四方八方から進撃してくる中、ホランはマッカーサーに「右手は万力に、鼻は逆さ漏斗に、腸は便秘、南足を開けて......」という最後のメッセージを送って撤収した。...こうして、アメリカによるフィリピンの夏の首都の占領は終わった。
このようにして、22日の終わりまでに、日本軍はほとんどの目標を確保していた。砲兵と物資はまだ上陸させることができなかったが、歩兵はバウアンとアグーの間の海岸に安全に上陸し、北、南、そして東へと進み、山間部の防衛線を占領し、田中大佐の部隊と合流し、ダモルティスとロサリオを占領した。日本軍は今、中央平原に退避できる位置にいた。
初日の戦いの栄誉はすべて日本軍に与えられた。第26騎兵隊だけが、日本軍に真剣に対抗していた。訓練を受けておらず、装備も不十分なフィリピン陸軍の部隊は、敵が現れた途端に壊滅し、無秩序な流れの中で後方に逃げていった。連隊のアメリカ人教官リチャード・C・マロネ大佐は、「彼らの存在は災害の前兆である」と考えた。彼らを再編成して師団司令部に送り返したが、ほとんどの者が到着しなかった。彼らの話はいつも同じである。
(いつも)私はひどい・恐ろしい迫撃砲の攻撃にさらされました。
(こいつも)私はライフルや機関銃や75口径を勇敢に撃ち続けていました、でも(いつも語り手の)将校は(語り手が将校の場合はその上官が)先に逃げ出したんです。
(君もか)敵の飛行機は多くの爆弾を落とし、多くの機関銃を撃ちました。
(またか)突然、自分に向かってくる敵の戦車がたくさん現れたんです。
(こいつも同じ事を)私はふと、他の全員・卑怯な臆病者が逃げ出していて、自分が全くの一人であることに気づき、驚きました。そして(その時に限って)数m先に迫った戦車に、身をさらされていたんです。
ここで物語は2つのバリエーションに分かれている。1つ目は捕らえられたがその夜逃げ出したこと、2つ目は夜になって我々の戦線に戻ってくるまで隠れていたことだ。しかし、そこから物語の糸は再び団結する。
私たちはとても疲れていて、仲間を探し、とてもお腹が空いていて・・・。Sir、私たちを自動車輸送隊に転属させてください、トラックを運転させてください。
アグノへのアプローチ、12月23日
12月23日朝、第71師団(第71歩兵以下)はシソン南方の国道3号線に沿って陣取り、第72歩兵と第71工兵が前線に、第71野砲が後方を支援していた。甚大な被害を受けた第26騎兵隊は、第71師団のラインを通ってポゾルビオに後退し、再編成するよう命令を受けていた。カバナトゥアンにある第91師団は北ルソン部隊に編入されており、北上を命じられていた。
23日の戦闘は、ロサリオから南下してきた第四七歩兵隊の2個大隊が、シソン付近のセレック将軍のラインを攻撃したことで始まった。ファウラー大佐の砲兵隊のおかげで、日本軍の進撃は正午まで持ちこたえた。午後の初めに、第四七歩兵隊は第四八偵察連隊と第四戦車連隊と合流し、第一〇独立爆撃隊と第一六軽爆撃隊の飛行機の支援を受けた。
第71師団のフィリピン人は、第11師団のフィリピン人と同様に、砲を放置して後方に逃げた。カバナトゥアンから向かう第91師団は、日本軍の軽爆撃機が進路にあるアグノ川の橋を破壊してしまったため迂回を余儀なくされた。事態は深刻である。19時、日本軍がシソンに進入すると、第26騎兵隊はビナロナンに向けて移動、第91師団はポゾルビオに到着した。その夜、日本軍は第91師団を攻撃し、町から追い出した。
日本軍が午後にシソンに入る前に、ウェインライト将軍はマニラのマッカーサー司令部に電話をかけていた。リンガエン・ビーチをこれ以上防衛することは「現実的ではない」と説明した上で、アグノ川の後方に撤退する許可を求めたのである。この要求はすぐに受け入れられた。ウェインライトは、フィリピン師団があれば反撃できると考え、師団の提供とアグノからの攻撃許可を求めた。
もし私の元のフィリピン師団の協力を得ることができれば、私はアグノ川から敵に攻撃を加えることもできると思うと意見を出した。上級司令部は、その反撃計画を提出せよという指令を私に伝えてきた。「出来るだけ早く準備しましょう。ところで、私にフィリピン師団が与えられるのかどうか、その点の御返事を即刻頂きたい」と私は大声で送話機に怒鳴った。しばらくぐずぐずと時間がたった。それから「その件はとても実現は望み薄のようです」。私の反撃の大それた夢は、はかなく消え去ってしまった。
フィリピン師団を持たずに攻撃が成り立たないぐらいのことは一目瞭然であった。この師団だけがどうやら戦闘の本質的要素をわきまえていた。フィリピン陸軍の諸師団といえば、攻撃に対する訓練も受けておらず、満足な装備も持たず、軍規も厳正とは言えなかった。(ジョナサン・ウェインライト、捕虜日記)
12月24日、日本軍はアグノ川への最終的な攻撃のための位置についた。午前5時頃、日本軍は第4戦車連隊を先頭にして、ビナロナンの北と西にある第26騎兵隊の前哨部隊と接触した。このフィリピン・スカウト騎兵隊は対戦車砲を持っていなかったが、最初の攻撃を阻止することができた。その後、戦車は西に旋回してアメリカ軍の陣地を迂回し、歩兵はビナロナンでの戦いを続けることになった。第26騎兵隊は敵の攻撃を阻止し反撃に出て、日本軍は第26騎兵隊を阻止するためにさらに戦車を投入しなければならなかった。しかし、戦車を投入しても日本軍は前進しなかった。朝方になって台湾第2軍が攻撃に加わり、騎兵隊は深刻な状況に陥ったが、戦闘を中断して退却することはできず、戦い続けた。この時、ウェインライト将軍がビナロナンに到着した。彼は450名に満たない第26騎兵隊を発見し、ピアースに負傷した兵士と補給列車をできるだけ早く運び出し、遅延行為をしてからアグノを越えて南東のタユグに撤退するように命じた。騎兵隊は4時間以上も圧倒的に不利な状況で持ちこたえ、15時30分に撤退を開始した。夕暮れまでに最後の部隊はタユグに到着し、台湾第2軍はビナロナンに入った。自身も騎兵であったウェインライト将軍は「ここに真の騎兵の遅延行動があり、男の心を揺さぶるのに適している。ピアスはこの日、騎兵隊の最高の伝統を守った」と述べている。
第26騎兵隊の英雄的な奮闘にもかかわらず、日本軍は当初の目的を達成し、ルソン島北部を確実に掌握していた。日本軍は今、ルソン島中央平原の広い幹線道路に沿ってマニラに向けて南進する体制を整えていた。残るは首都への南側ルートの確保である。
ラモン湾部隊はルソン島の占領において二次的な役割を担っており、その数は7,000人であった。これに加えて、多数の付属サービス部隊と支援部隊が含まれていた。本間大将はこの部隊にあまり期待していなかった。計画は当初ルソン島南西海岸のバタンガス湾であったが、情報源から爆撃機や潜水艦によるアメリカの援軍が報告されたため、目標は南東海岸のラモン湾に変更された。新しい上陸地点は、2つの理由で望ましくなかった。ひとつは、ラモン湾からマニラへの進撃路がタヤバス山脈を越えていること、もうひとつは、ラモン湾は冬の間、風が強くて上陸地点には適さないことである。森岡が立案した最終計画では、ラモン湾の海岸沿いにあるモーバン、アティモナン、シアインの3地点に上陸することになっていた。
侵攻部隊を乗せた24隻の輸送船はの護衛は当初 駆逐艦4隻と掃海艇4隻が護衛していたが、レガスピから久保奎二少将の部隊(軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、掃海艇2隻、水雷艇1隻)が合流した。奄美大島からの航海は順調であったが、23日にアメリカの潜水艦カジカが来て、護衛艦は回避行動を取らざるを得なくなった。被害はなかった。24日朝1時半、輸送船はラモン湾に錨を下ろした。
上陸の様子
アメリカ人の視点から見ると、日本軍はこれ以上ないほど不運なタイミングで上陸してきた。ジョージ・M・パーカー中将の南ルソン軍はひどく分散していた。西海岸の第41師団(PA)は配置されていたが、東海岸の第51師団の部隊は移動中であった。実際にこの地域に移動したのはこの師団の第1歩兵のみであった。歩兵第1大隊はモーバン、インファンタに配置され、残りの大隊はルクバン北東の道路ジャンクションで待機していた。マッカーサー司令部が第1歩兵隊を北ルソン軍に移したのは、この移動が完了した直後だった。パーカー将軍とジョーンズ将軍はこの命令に激しく抗議し、最終的に命令は取り消されたが、歩兵第52連隊第3大隊の移動は敵が上陸したときに進行していた。
同じ日の夕方、レガスピから木村分遣隊が北上するのを遅らせるために南下していた第51師団の部隊が引き戻され、移動中に日本軍が上陸してきた。彼らは悲惨にも散り散りになり、米軍の戦線に戻ることはなかった。
上陸の瞬間、東海岸の部隊は砲兵がいないというハンディを負っていた。南ルソン部隊には、第86野戦砲兵隊の2個の砲台(155mm砲6門)と、自走式の75mm砲16門の大隊があったが、すべて西海岸のバタンガス湾、バラヤン湾、ナスグブ湾に置かれていた。ジョーンズ将軍は少なくとも2門の155mm砲をアティモナンに移すことを要求していたが、パーカーはこの東海岸の砲兵不足を懸念して、マッカーサー司令部に2度にわたり砲兵の追加を要請したが、2度とも断られている。特に日本軍がレガスピに上陸した後、砲の一部を西海岸からラモン湾に移動させることができなかったのは、マッカーサー司令部が、有利な地形を横切ってマニラに直行できる西海岸上陸を恐れていたからとしか考えられない。ラモン湾上陸の困難さを受け入れることで、日本軍は大きなアドバンテージを得ていたのである。
日本軍の接近の知らせは、23日の夜22時に守備側に届き、その4時間後には、部隊がAtimonanとSiainで上陸したと報告された。これらの報告はすべて、日本軍の強さを大幅に過大評価していた。
常廣大佐の第20歩兵第2大隊は、水上機母艦「瑞穂」の航空機の援護を受けて、夜明けとともに3つの上陸地点のうち最も北に位置するモーバンに上陸した。すぐに海岸沿いに陣取っていた歩兵第2大隊、第1大隊からの有効な十字砲火を浴びることになる。その頃、米軍機が日本軍を攻撃し、部隊に大きな死傷者を出し、船にもかなりの損害を与えた。 激闘の末、フィリピン軍は戻され、常廣大佐の部隊が村を制圧していた。歩兵第1大隊第2大隊は西へ5マイル後退し、そこで防御態勢をとった。14時30分に日本軍はこの位置に到達し、そこでフィリピン軍の頑強な防御の前に前進は止まった。
第20歩兵隊第1大隊は難なくサイアインに上陸した。午前7時に1個中隊はマニラ鉄道に沿って南西に移動してタヤバス湾に向かい、残りの大隊は国道1号線を南東に移動して北西に移動するレガスピからの木村将軍の部隊と合流した。日中、両隊は順調に前進した。
森岡将軍の主力部隊は12月24日の朝、目標地点の南東4㌔に上陸した。最初に上陸した部隊は第52歩兵隊A中隊に阻まれた。第16偵察連隊を含む次の波は歩兵の傍らに上陸したが、本隊の前進を遅らせてはならないという指示に従い、横に移動して行動を回避した。連隊はその後、アティモナンを迂回して山中に突入した。フィリピン陸軍は頑強に戦ったが、町自体は午前11時までに確保された。航空援護を受けて日本軍はマリクバイに侵入した。
米軍は、西に約4マイル離れたビナハーン近くの川沿いに次の防衛陣地を構えた。ここには歩兵第53軍(2個大隊を除く)と歩兵第52軍の第3大隊(1個中隊を除く)が加わっていた。午後遅く、アティモナンの日本軍は町での掃討作戦を終えた後、マリクバイで本隊と合流した。その後、全部隊はビナハーンの米軍陣地に突入した。
12月24日の夜までに、日本軍はフィリピン征服計画の最初の、そして最も困難な部分を成功裏に終えた。南部では、森岡将軍が死者84人、負傷者184人の犠牲を払い、7,000人を上陸させた。米軍の抵抗で一部の部隊は前進できなかったが、第一六師団の主力部隊は前進、荷揚げは順調に進んだ。タヤバス山地を西に抜ける道路も確保され、ラモン湾部隊は翌朝にはタヤバス湾に到着する態勢を整えていた。本間将軍はこの部隊にあまり期待していなかった。それゆえ、この部隊の成功はリンガエン湾の第14軍司令部にとって「全くの驚き」であり、後に日本軍が告白したように「実現した結果は予想以上のものだった」。
マニラの北側では、数日間の困難を経て、橋頭保が確保され、物資や装備が上陸した。南のサンファビアンは占領され、そこにいた米軍砲兵隊は追い出された。日本軍は160㌔先のマニラへの進撃に中央の平原に押し寄せていた。12月24日、本間大将は幕僚をバウアンに上陸させ、第一四軍司令部を設置した。
本間雅晴率いる第14軍主力4万3000人は22日マニラ北西のリンガエン湾に上陸し、訓練不足のフィリピン兵は一蹴され、フィリピン全体で防衛するマッカーサーの思惑は打ち砕かれた。
ルソン島北部への先行上陸は、今にして思えばほとんど成果がなかった。奪った飛行場は貧弱で、作戦に使えるまでには価値がなかった。上陸分隊は、米軍が断固たる抵抗をしなかったため、近接航空支援を必要としなかった。第5航空群は、12月17日までに主にルソン島の基地から作戦を行うことを計画し、多くの航空部隊を最近占領した飛行場に配置していた。しかし、彼らは必要とされなかった。結果的には、日本側の懸念はまったくの杞憂に終わり、戦力の分散はまったく必要なかった。しかし、これは米軍にとっては小さな慰めだった。ウェインライト将軍の言葉を借りれば、「ネズミは家の中に入り込んでおり、そのことは決して気持ちのいいものではない。」のである。(米軍公刊戦史The fall of the Philippines, Louis Morton)
12月22日、航空機、大砲、弾薬などの貴重な貨物を積んだペンサコーラの輸送船団はブリスベンに到着した。マニラからはまだ遠いが、旅の第一段階は完了したのだ。あとは、オーストラリアからフィリピンに飛行機と物資を送る方法を見つけなければならない。しかし、この問題の解決は、より広範な戦略的問題を引き起こした。それは、そう簡単に解決できるものではなかった。
マッカーサーはフィリピンの重要性が理解されておらず、支援も十分に行われていないと感じていた。彼は、「フィリピンの作戦地域が勝敗の鍵を握っている、日本は連合国から孤立しており、集中的な行動に完全に影響を受けやすい」と指摘した。そこで彼は、アメリカとその同盟国の総力を挙げて太平洋上で日本の前進を遅らせるべきだと提案した。
戦略を転換して連合軍の資源を極東に集中させようというマッカーサーの訴えに対する最終的な答えは、12月24日から1月14日にかけてワシントンで開催された戦時下で最初の米英会議で得られた。真珠湾で太平洋艦隊が壊滅状態になり、フィリピンが強力な攻撃を受けていたため、イギリスは、アメリカがドイツに全力を尽くすという以前の非公式な合意を放棄するのではないかと懸念する十分な理由があった。しかし、その心配は杞憂に終わり、ワシントン会議では、ドイツが主要な敵であり、北大西洋とヨーロッパに主要な努力を払わなければならないという命題が再確認された。 基本戦略の変更を求めるマッカーサーの努力は失敗に終わった。
12月17日までにアイゼンハワーはオーストラリアに基地を設置する計画を策定し、マーシャルはこれを承認した。 ペンサコーラの輸送船団にいた部隊は、本質的に航空基地となるべき新司令部の核を形成することになっていた。バーンズはブリスベンに到着すると、当時フィリピンの迎撃司令部を指揮していたヘンリー・B・クラゲット准将の後任となる予定だった。クラゲットはすぐにオーストラリアに行くよう命じられた。最終的に「在豪米軍」となるこの基地は、ジョージ・H・ブレット中将が指揮を執ることになった。ブレットの参謀役として、参謀本部勤務の優秀なG-4将校、スティーブン・J・チェンバリン大佐がオーストラリアに派遣された。この新司令部の設立は、フィリピン軍の支援よりも大きな目的を意味していたが、陸軍省は在豪米軍の第一の任務は、マッカーサーに物資を届けることであることにしていた。ブレット将軍は、自分の司令部を「米軍支援のための」前進基地と見なし、マッカーサー将軍の命令に基づいて行動する。さらに、「使用する航路の安全性を確保するために、米海軍当局と協力すること」「ペンサコーラの輸送船団の飛行機を、できる限りの弾薬を積んで北上させること」などが指示された。
12月22日、ペンサコーラの輸送船団がブリスベンに到着した同じ日に、クラゲット将軍がフィリピンから到着した。彼はすぐに軍のアタッシェであるメルル=スミス大佐から新基地の指示書を渡された。すでにマッカーサー元帥は、輸送船団をフィリピンに向かわせ、航空機を組み立てて北上させるよう指示していた。この指示に従うためにあらゆる努力が払われたが、状況は急速に変化しており、船の荷揚げや航路変更には多くの障害があった。
マーシャル将軍は、輸送船団の物資が確実にマッカーサーに到着するよう、できる限りの努力をしていた。彼はクラゲットとバーンズの両氏に、飛行機と50口径の弾薬をフィリピンに届けることが緊急に必要であることを何度も念押しし、この任務を達成するためには努力も費用も惜しまないように言っていた。
マッカーサーはこれらの措置について十分な情報を得ていた。「大統領はあなたのメッセージをすべて見た」とマーシャルはマッカーサーに伝え、「海軍にはあなたの素晴らしい戦いに可能な限りの支援を与えるように指示している」。
このような保証とオーストラリアの兵士たちの努力にもかかわらず、航空機、援軍、物資は届かなかった。野戦砲兵旅団と海軍物資は、12月28日にブリスベンを出港した輸送船団の中で最も速い2隻の船、ホルブルック号とブルームフォンテーン号に載せられた。その頃、日本軍はボルネオ島に基地を設置しており、船は封鎖を突破できない。そこで、12月31日にオーストラリアに到着していたブレット将軍が部隊の上陸を命じた。砲兵の大部分はダーウィンに上陸し、残りはジャワ島のスラバジャに向かった。ペンサコーラの輸送船団の飛行機、人員、物資はいずれもフィリピンには到着しなかった。
24日には戦況はさらに好転、確実なものとなり、本間自身も上陸できるようになった。この時すでに、菅野、田中の両部隊は左翼を守るため南に移動を完了していた。そのころ16師団森岡中将とその部隊からもラモン湾に上陸成功という電報が届いた。本間14軍はマニラ市を指して、中央平原を横切る本街道沿いに南進できる体制になった。進撃は快速であった。米比第71師団、21師団は杉山の予言通り、野戦では日本軍の敵ではないことが分かった。23日の日本軍急進劇に撃破されて敗退した。
25日マッカーサーの線はアグノ川の向こうのカルメンに押し返された。それから2日後には、さらに20マイル撤収、ゲロナとサンジョセに後退した。
ちょうどその時、マッカーサー司令部から電話がかかって、反撃は御破算になった。ピート・アーウィンは怒鳴った「オレンジ戦争計画第三号が発動されました」。それは最後の土壇場まで追い詰められることを意味していた。・・・・・・わたしは何も言わず黙りこくっていた。
「了解ですか閣下」たまりかねたピートが訪ねた「うん、わかったよ」
マッカーサーはマニラを(国際法上認められた)非武装都市であると宣言する布告を書き上げ、サザーランドにコレヒドールの司令官に電話をさせて、アメリカ極東軍の司令部をそこに移動すると発表させた。2 マッカーサーはブレアトンに、司令本部を豪州に移すよう命じた。ブレアトンは驚愕した。彼はここにとどまり、マッカーサーが望む仕事は何でもしますと申し出た。「違う、ルイス、南に行くんだ。残っている爆撃機と間もなくあちらで手にする爆撃機を使って、ここにとどまるよりずっと私のために働けるんだ」とブレアトンを説得したのだ。父アーサー・マッカーサーの勲章や装飾品など、その他の貴重な家宝は放棄されたのである。
二人がドックに到着すると、ハートがマッカーサーと話すために待っていた。ハートはマニラ撤退をわずか数時間前にしか連絡がなかったことでマッカーサーに猛然と抗議した。しかし、今更どうすることもできなかった。マッカーサーにもアジア艦隊の戦績には種々不満があったのである。ここで二人の関係は終わり、二度と会うこともなかった。
マニラ市周辺の日本軍に軍事的ののありそうのな物は何であれ、陸軍や海軍の施設に火が放たれていたのである。海岸沿いはどこも火の海だった。
12月29日のうちに、マッカーサーはコメを挑発する命令を発した。兵站担当将校であるルイス・ビービは食料をバターンに輸送する平底船と船載用小型船を確保するため依然としてヴィクトリア街一番地にとどまっていた。輸送手段が不足していたため、限られた時間内でバターンに補給品を増やすことは困難であった。マニラには食料が豊富にあったのだが、マッカーサーはビービに略奪する許可は与えなかった。彼はバターンにいる米軍に食べさせるために、マニラの住民を飢えさせるつもりはなかったのである。
コレヒドールでの第一週目にマッカーサーが迎えた最大のチャレンジは、北部ルソン部隊と南部ルソン部隊をバターンに撤退させることであった。仮に北部ルソン部隊がバターン南部に撤退するのが速すぎると、北に向けて移動する南部ルソン部隊が、日本軍によってバターンに到達するのを妨害され、全滅させられるだろう。マッカーサーの撤退作戦は、日本軍を休止させ彼らが正面攻撃のために再結集する間、彼の部隊が後退して持ちこたえられるように、ケーシーの工兵隊に防御体制を構築させることであった。この休止中に工兵たちは約10㍄後方にもう一つの防御線を構築するのだ。日本軍が前線部隊を攻撃する直前に、マッカーサーは後方のその新しい防衛ラインへ撤退するよう命じた。日本軍の砲弾が着弾したが、何の被害はなかった。ウェンライトはこの作戦を北部ルソン部隊が中央に位置するルソン平原を横断するときに五回繰り返し、南ルソン部隊によるバターンへの移動を援護したのである。昔から、最も困難な軍事演習は戦いながら撤退することだというのが地上戦における自明の理である。バターンへの撤退は指揮幕僚学校で第二次世界大戦後、学生たちが詳細に学ぶ古典的な作戦の一つになったほどである。
リンガエン埠頭からマニラに至る道は二条あった。一は中央山脈沿いにカバナツアンを経て首都に至る国道一号、他はタルラックおよびサンフェルナンドを経る国道2号である。大本営指令のマニラ入場予定最終日は1月30日であった。本間中将は軍を二隊に分かち、土橋中将の第四八師を以てカバナツアン道を、上島義男大佐の第九連隊(一六師の一部)を以てタルラック道を進撃さえることにした。敵の抵抗は山岳よりの平原に予想されたので、この方面に主力を配したのである。特に第四八師は自動車兵団であった。ところがカバナツアン道は狭量や舗道がいたるところ破壊されて進撃甚だ悩み、駄馬編成の第九連隊と全く同一の進軍工程を記録するにとどまった。
30日には西側街道の本間の梯団はタルラックにつき、これに並行して進んでいた東側の梯団はカバナツアンに達した。マニラはここからわずか100㌔のところにある。このころラモン湾から進んでいた森岡部隊も、本間が思っていたよりはるか驚くべき勢力を示して、268人の犠牲を出しはしていたが、タヤバス山を縦走する道路を奪っていた。マニラを鋏状に打つ作戦は、仮借なき正確さで近づきつつあった。なおこの皇軍のマニラ突入の快速記録は、実際は一日二十五キロを優に猛進しているのであって、世界を驚倒させたドイツ機械化部隊のポーランド進撃の一日二十キロ、ナポレオンのモスクワ進撃をもしのぐものと言えるであろう。特に上島大佐が路上自転車を一個大隊分編成し、自ら陣頭にペダルを踏んで進んだ戦意の結果であって、自動車師団に遅れない記録となったのだ。悲しむ可し、その大隊は12月30日、タルラックにおいて一個師団の強力なる敵と正面衝突を演ずるに至ったのである。上島は不幸にも、流れ弾がこの強い指揮官の命を奪った。しかし軍参謀の不安にかかわらず、第九連隊は立派に進撃の目的を果たした。
本間指令部には、大本営、杉山参謀総長、本間の直属上官南方軍寺内対象から祝電が続々と届いた。しかし本間には心配があった。寺内が第一六軍によるジャワ侵攻の日程を繰り上げたいといってきたことだ。大本営もこれに同意していた。
翌日、東京無電傍受班は、マニラが無防備都市を宣言したことを受信した。なぜこう決定したのだろう。大都市というものは、防備によい。大きなビルは防備だけでなく、絶好の射撃地点でもある。道路は粗砕されるし、待ち伏せ個所は各所に作れる。友軍は反撃すべくこれらの援護化に集結することができる。大都市を急襲しようとすれば、兵力兵器において、敵の三倍無ければ成功のチャンスは少ない。だからもしマッカーサーがマニラ市を守る決意をすれば、本間は長い、犠牲の多い戦いを覚悟させられたはずであった。ところがマッカーサーは反対に、マニラ市を放棄した。
敵の主力が続々とバターン半島に逃走中であることは、12月30日には判明した。もし主力の撃破を目的とするならば、本間郡の主力はカバナツアンから右旋してサンフェルナンドに急伸し、移動中の敵の一部に側撃を加えることは可能であった。が、目標はあくまで政治戦略の中心たるマニラである。敗残の敵がどこに逃げようと、それはゲリラ討伐の副次的軽戦であって何ら意図するに足りないと達観していた。主力はマニラ街道をまっすぐに南進した。
空襲が日ごとに激しくなるに擦れて抑留所の外からのぞき込むフィリピン人の目はますます敵愾心に燃えてくる。中には「日本人を殺せ」と怒鳴っていくものもある。・・・そうこうするうちに日本軍がすでにルソン島に上陸したことが口から口へ伝えられ、抑留の身の前途にもパッと光明が差した感がある。戦況が日増しに米比連合軍に不利になっていくことは警備隊員の態度の変化のうちにも読み取れる。・・・次第に自分たちが捕らわれの身になることを察してか、いくらか愛想を振りまくようになった。彼らは装備こそ良いが、訓練を十分に受けていない。そこで昼間の空襲最中に喫煙を禁止したり、米軍機が上空を飛んだ時に周章狼狽の挙句これに射撃を加えるなど笑えぬ喜劇を演じたものである。
出来るだけ警備隊員を興奮させないよう務めた。殊にダバオ邦人の遭難事件の前例は聞き伝えられれていたので我々としても不測の事故を防ごうと努めたのである。その後地方から手錠はおろか足かせまではめられた邦人が送られている。こんな「新入り」があるたびごとに新しい外の情報がもたらされる。
娑婆でもいろいろな流言が飛ぶと見えて、12月17日抑留者の状態を調べに来た一米人少佐は、「日軍落下傘部隊が下りた形跡があるから見つけ次第報せるように」と言明し、新しい話題を我々に提供した。毎日毎日の退屈さを慰めてくれるのはこのような新しい話題とお客さん(日軍飛行機の事)ばかり、これがなければむしろ物寂しく味気ない。
「日軍撃墜」とか「日機何十機撃墜」とかいう記事を掲げていた米比系紙でもだんだん調子を控えめにしてくる。それにつれてフィリピン側の態度もようやく軟化の兆しを示してくる。18日にはバルデスフィリピン軍総参謀長自らが「異常はないか」と巡視に来た。フィリピン赤十字半も一緒にやってきて診察に当たる。巡警隊長の許可を得て相撲、野球、ランニングなどを始める。警備兵の中には収容所の台所で飯をねだるものさえいる。聞いてみると彼らの食料難も深刻で食料の配給も滞りがちとのことである。
やがて26日、この日マニラの「無防備都市」宣言が発せられた。そして28日から市街では久しぶりに灯火が転じられ、ネオン・サインも瞬き始めた。しかしこのような一方的宣言を認めない日本軍の方針に同調して抑留所は自主的に消灯している。というのは宣言しておきながら表の道路を戦車や軍用トラックが走り、武装兵の部隊が往復しているからだ。もっともマッカーサー司令官の本部あるイントラムロスを始め諸施設は日機により爆弾の雨を降らせられてももはや地上砲火はこれに応じない。27日新聞を見ると米陸海軍がマニラを撤退したと大きい見出しが目を要る。「いよいよ日本軍のマニラ占領は近づいたぞ」「もうじき自由になれる」
28日に中立国代表としてスイスの領事が米高等弁務官府付きの官吏を帯同してやってきた。抑留邦人の待遇状態を尋ねたり保護を一掃厚くするためである。この付き添いの米人管理は改選前から顔見知りであったが、言葉すくなにあいさつを交わして分かれる。
表に立つ警備隊員はいつの間にか引き上げて、元旦からステッキ私服姿の巡査と交代している。「日本軍が入ってきたら私たちのことを頼みますよ」とばかりに微笑みかける。(秘録大東亜戦史 比島編 マニラさまざま)
1月2日午後2時を期して、部隊本部とともにバリアグを出発した。数十台と続くトラックに揺られて一路首都マニラを目指して邁進する。マニラはリンガエン上陸の土橋主力部隊と、マニラの裏口に当たるラモン湾から上陸した一六師団に包囲され、挟撃される形成にあった。上陸部隊は猛暑炎熱を犯して、ひた押しに押していたのだ。のどは焼け付くように乾く、兵士は頭から芭蕉の葉やつる草をかぶって、敵の急追を行っていたのである。腹がすけばバナナやヤシの実で、補っての進撃であった。
トラックに日の丸の旗が、翻っていた。もうすぐマニラに入場するかと思えば、将兵はあの激しかった上陸以来の苦しい進撃を忘れたかのようだった。午後4時半、マニラ市の北方二里半の地点に進出した。ここからマニラ市を望むと、黒い煙がもうもうと点を覆っている。敵は敗走に当たって、ガソリンタンクに火をつけたのだ。沿道の町には、どこにもホセリサールの立像が立っている。
5時半マニラ市へ歴史的突入を敢行した。すでに米比軍は一命もなく、監禁されていた3500名に邦人も無事救出され、日の丸を振って万歳と絶叫しながら我々の入場を迎えてくれた。かくてわが部隊は沿道の市民たちの歓呼に迎えられてマニラへ入場したのである。マニラは若干の油タンク等が焼かれたほかは、全市全く無傷のままで完全にわが手中に帰した。
歴史的な1月2日はきた。早朝日本総領事館へ抑留者代表数名と出かける。大きい日章旗を自動車の前面に就けて軍隊より一足先に市内に取って返す。沿道に出ているフィリピン人たちは薄気味の悪いほど手を振ってくれる。同日午後、日本軍のマニラ進駐は開始された。自由を取り戻した在留邦人たちは俺よとばかりに日章旗を振る。フィリピン人もこれに和して手を打ち振る。さすが中国人は抜け目がない。「日本軍歓迎」と書いた布で自動車を包んで走る。だが逆に抑留の身となる米国人や敵国籍人たちは、マニラ・ホテルその他最寄りに集結を始める。市内の混乱状態に乗じてフィリピン窮民たちの略奪騒ぎが方々で起こる。その最大の被害者はほとんど裕福な中国系の食料店や雑貨店などである。(秘録 大東亜戦史 比島編 マニラ様々 牧内正男)
町の一時的混乱が収まったのは一月六日くらいからだ。この日市内の映画館も興行を開始し店などもぼつぼつとを開け始めた。フィリピン人の多数が平素帯びていたピストルも特別の例外を除いて官公吏、市民を問わず提出させえられた。また第五列的活動を封じるため国籍の如何を問わず施設放送局の使用は禁止されたのである。「フィリピンの行政はフィリピン人の手で」という方針から軍政監部の一部門として比島行政府が設置された。スポーツ関係で日本人にも知己がありすでに第マニラ市長に任命されていたバルガス氏が1月23日行政長官に起用されたのである。
バルガス氏はコレヒドールから米国に亡命したケソン大統領の書記官長としてその信頼厚き人物であり、結局のところケソンを再び引き出す工作の具に使われたものとみられよう。結局ケソン復帰の希望が絶えて初めてバルガス氏より先輩のラウレル氏が、フィリピン版「大政翼賛会」ともいうべきカリバビ(比島再建奉仕団)を母体とする独立準備委員会の委員長に選ばれ、43年10月軍政廃止、独立宣言とともに大統領にあったのである。
フィリピン革命の英雄、アギナルド将軍とリカルテ将軍の歴史的再開
フィリピン独立運動に失敗して日本亡命20数年、その間横浜の山下町でささやかな料理店をやったこともあるリカルテ将軍も70余歳の老躯を日本機に託してフィリピン前線に飛んだ。まだマニラ入場前のことである。やがて首都マニラの姿を長い流房の後再び目の当たりに見る将軍の胸中にまずわいた願い……それはかつて独立運動で姿勢を共にしたアギナルド将軍との会見である。1月8日彼にひたむきな念願はかなった。この日リカルテ将軍は爆撃の後もまだ生々しいカピテ軍港に近いアギナルド邸を訪れた。
リカルテ将軍が車から降りるのを待つ間ももどかしげに馳せよったアギナルド将軍。しばし無言で愛擁する両者の目の中にちらりと光るものがあった。民族独立の両英雄会見の報を聞きつけた近所の人々は屋敷の内外を埋め尽くし感激の面持ちでじっと見守っている。ついに熱狂するに至った人々の歓呼にこたえて両将軍は窓外に半身を乗り出し交々語り掛けたのである。
1942年2月16日、『タイム』誌は、「老将アルテミオ・リカルテ・イ・ビボラは、日本軍のオートバイ警備員のはげしい護衛をつけて、なめらかなリムジンでマニラを誇らしげに運転していた」と報じた。
戦火におびえ切った民心を安定させるため1月14日からまずニュース放送が、エスコルタ街コッタ百貨店楼上の放送局で開始された。比島派遣軍報道班の専門家の手による音楽や、布告に交じって同盟通信の英文ニュースが流れ出る。アギナルド将軍も2月1日マニラ放送局のマイクを通じてマッカーサー総司令官に呼び掛けた。
「古き友人の一人としてお勧めする。麾下の指揮下にある米比人を愛するならば、日本軍に対する無用の抗戦を停止して米比両国人の生命財産を無駄に失わせぬよう降伏されたほうが良い」
| 地に堕ちた星条旗を見よ |
輝かしいマニラ入り、皇軍を迎えたマニラ市内の情景は次のようであった。真先に市内に入ったのは、総領事館に連絡に出向いた部隊で、僅か二人の護衛兵であった。車も乗用車二台、トラック四台の無血占領だった。
市民も三分の一の四十万は居残り、おまけに愛想の佳い比島人からは祝辞を述べられるという平和的な占領であった。
マニラ包囲態勢を整えた皇軍は、入城は二日午後と決めたのである。敗敵が逃げ際い放火したガソリンタンクの黒煙こそ濛々と天に冲していたが、最早残敵なしと見た部隊長は皇軍のたしなみとして服装整備を命じた。十一日間戦い続けて来た兵も、ここで顔を洗い髭を剥った。そこへ監禁されていた在留邦人のうち五十余名がトラックに乗って迎へに来る。
午後いよいよ入城するや、市民は一斉に口笛を吹いて歓迎の意を表し、ここに南北軍感激の握手もかわされた。敵が開戦前、鬼面をもって我を脅やかしたABCD包囲陣の牙城マニラは、こうしてあっけなくもわが手に帰したのである。
米の進攻企図はここに赴いて全く粉砕されたといってもよいのであった。遠くマレー半島のシンガボールも、ここにおいて孤立無援を痛感せざるを得なかったのである。
有名なルネタ公園にも日章旗高く翻り、監禁された邦人三千二百名を救出したマニラ市は、市内の治安忽ち回復して、水道や電灯は二日から、市内電車は三日から動き始めるという明朗ぶりであった。(陸軍省企画比島作戦)
→詳細 バターンの戦い
バターンの戦いがルソン島で行われている間は、南方の島々は侵略されることはなかった。本間が南方の島々の征服に乗り出すのに十分な兵力を得たのは、4月になってからであった。
既に、三浦支隊は、昭和16年12月20日坂口支隊長指揮の下に海軍と共同してダバオを攻略し、以後ダバオ付近の警備に任じていた。次いで25日坂口支隊の一部をもって実施されたホロ島の攻略とともに、将来の蘭印作戦のための基地の獲得と米比軍の南方への退路遮断を主目的とするものであった。したがって第十四軍としては、ルソン島における米比軍主力に対する作戦一段落後、これらビサヤ、ミンダナオを勘定するのが当初の計画であったのである。しかし軍主力の作戦がバタアン半島で行き詰まったので軍はバタアンの米比軍を封鎖しつつ、まず中南部比島の勘定を実施しようと企図したが、南方軍の強い反対もあって見送られた。結局中央と南方軍からの兵力増強によって、軍主力のバタアン半島攻略に策応して、増加兵力日舞である川口、河村両支隊などで、まずビサヤ諸島、次いでミンダナオ島各要域を攻略するように、第二期作戦計画が3月18日に策定されたのである。なお海軍は3月2日一部(約220人)をもってザンボアンガを占領し同地付近を確保していた。
川口、河村両支隊は五月中旬まで第十四軍の指揮下にあって作戦し、以後は他方面(ニューカレドニヤ、フィジー、サモア作戦)に使用されることとなり期間が限定されていた。限定期間内に最大の成果を収めるためにまずビサヤ諸島の二つの重要な島セブとパナイを占領、その後ミンダナオに向かうこととなった。両支隊による作戦は期日の関係上徹底した勘定は不可能で、疾風のようにセブ、パナイ次いでミンダナオの米比軍と交戦、その要域を占領する。両支隊ともリンガエン湾に集合し、集合店における準備期間は最小限とし、作戦期日を大にした。
ミンダナオ島はルソン島に次ぐ大きさで、西に向かってスールー海に突き出たサンボアンガ半島は事実上無防備で、北東の海岸沿いにはディウアタ山脈があり、火山がそびえ立っている。ミンダナオ島には鉄道がなく、国道も2本しかない。国道1号線はダバオ南西のディゴスからコタバトに至り、そこから北上して島の北東端に至る。「セイル・ハイウェイ」と名付けられたルート3は、ミンダナオ島の中央部を南下し、ルート1の北側と南側を結ぶ約100㍄の道のりである。北部は路面がよく整備されていて天候に左右されないが、南部は粘土質で雨が降った後はもちもちしたという。
ミンダナオ島の2つの大きな航行可能な川、アグサン川とミンダナオ川。アグサン川は東海岸のディウアタ山脈内陸を北流、ブトゥアンでミンダナオ海に注ぎ込む。ミンダナオ川はミンダナオ島の中央部を南から西に向かって流れ、セイヤ・ハイウェイや国道1号線と平行して、コタバトでモロ湾に注ぎ込む。
ビサヤ諸島は、セブ島、パナイ島、ネグロス島、レイテ島、サマール島をはじめとするの島々である。パナイ島はこの中で最も広い平地を持っており、セブ島の面積は最も小さい。ビサヤ諸島の道路網は大体同じで、各島の全周または一部に主要な海岸道路があり、補助道路が内陸部の重要な地点と海岸沿いの港を結ぶ。1941年当時ほとんどが舗装されておらず、曲がりくねっていた。最も開発が進んでいるセブ島、ネグロス島、パナイ島では、短距離の鉄道が走っていた。内航船が島々の道路や鉄道を補い、ビサヤ諸島の島々とミンダナオ島とを結んでいた。
ウィリアム・F・シャープ准将指揮のビサヤ・ミンダナオ軍はセブ島に司令部を置いていた。フィリピン陸軍の南部に動員された5個師団のうち、第61師団、第81師団、第101師団は現地に残り、第71師団と第91師団は、最後に動員された第73連隊と第93連隊を残してルソン島に移動した。また、開戦時には多数の臨時部隊と一部の警察隊が編成されていた。
シャープ将軍が抱えていた問題は、ルソン島の司令官たちが直面していた問題と似ていた。訓練を受けていない兵士たちは、あらゆる種類の個人的および組織的な装備を欠いていた。不良品が多く、すべての武器の予備部品が不足しており、通常ならば簡単に修理できる銃も捨てなければならなかった。対戦車砲、手榴弾、ガスマスク、鋼鉄製ヘルメットなども支給されず、弾薬の供給も極めて限られていた。が最も不足していたのは砲兵器だった。衣料品や武器の予備部品などの不足を補うために、フィリピン人が運営する工場が設立された。靴、手榴弾、下着、エンフィールドの抽斗など、さまざまなものが製造された。しかし小銃の弾薬や大砲の部品は作ることができなかった。シャープ将軍の任務は、当初、ルソン島以南の全地域の防衛であった。組織的な抵抗ができなくなったら、部隊を小分けにして、各島の内陸部の隠れた基地からゲリラ戦を展開することになっていた。食料、弾薬、燃料、装備などは、このような事態に備えて、敵の手の届かない内陸部に移動させることになっていた。移動できない物資は廃棄することになった。
バターンへの撤退を決定した12月末、マッカーサー中将はミンダナオ島とその重要な飛行場であるデルモンテの防衛のために、兵力の大部分をミンダナオ島に移すよう指示した。シャープの本部と大部分の部隊がミンダナオ島に置かれたことで、ビサヤ諸島は二次的な重要性を持つことになった。セブ島、パナイ島、ネグロス島、レイテ島、サマール島、ボホール島の6つの島は、日本の侵略に対抗するために、それぞれの島の守備隊と資源に依存していた。
1月初旬に設立されたビサヤ・ミンダナオ軍の組織は、わずか1カ月ほどしか持たなかった。2月4日、オーストラリアから間もなく届くであろう物資の輸送を促進するため、米軍はシャープの指揮下にあったパナイ島とミンドロ島の守備隊を直接管理することになった。1ヶ月後、マッカーサーがオーストラリアに出発する1週間前に、残りのビサヤの守備隊はシャープ将軍の指揮下から離れ、パナイ島で指揮を執っていたブラッドフォード・G・シノウェス准将の下に置かれた。
3月4日にビサヤ軍が創設され防衛準備が新たに進められた。5つの守備隊に分かれそれぞれに司令官がいた。ビサヤン軍司令部はセブにあった。
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ビサヤ軍司令官のシノウェス将軍には準備のために1ヶ月間の余裕があり、彼の指揮のもとで防衛は急速に完成していった。セブ島とパナイ島では、最も手の込んだ防御が行われており、塹壕、砲台を建設し、破壊の準備をしていた。ネグロス島に警報システムがあり、これらの防衛施設やその他の防衛施設の整備は、ほとんどが民間人によって行われ、軍は訓練を続けることができた。
ビサヤ地方の防衛準備でビサヤ語で「取り戻せ」を意味する「バウスアウ作戦」と呼ばれる作戦は、パナイ島の駐屯地司令官であったチャノウェス将軍が始め、その後セブ島で採用されたもので、後にゲリラ戦で使用するために、物資、供給品、武器を内陸部に大規模に移動させるものである。人里離れた山中の隠れ家に秘密の隠し場所を設けた。内陸長期防衛策が市民に与えた影響は残念なものだった。フィリピン人は自分たちが見捨てられたと感じ、アメリカへの信頼が大きく揺らいだのである。彼らが期待していたのは、海岸での激戦による敵の撃退だった。
ビサヤ諸島の状況に関する日本の知識は正確で、かなり完全なものでした。この地域の軍隊の正確な配置は知らなかったが、どの島が守られているか、そして防衛軍のおおよその規模は知っていた。
ビサヤ諸島だけでも、大小の島が無数に存在している。中でも重要なセブ島、パナイ島だけを見てもセブ島のセブ市は人口三十万、バナイ島のイロイロ市は約二十万という大都市である。またミンダナオ島にしても、ルソン島よりやや小さいが、ほとんど同じ位の面積なのだ。悪くするとこの一島だけで三箇月や四箇月はかかってしまう。交通甚だ不便であるからだ。
当時これらの島における敵の配備は、バナイ島に六十一師団、ネグロス島に七十一師団、セブ島に八十一師団、サマル島とレイテ島に百一師団という具合であった。そしてビサヤ、ミンダナオの軍司令官シャープ少将は、ミンダナオ中部のマライバライにあり、兵力をどんどん増強していた。ネグロス島の七十一師団、サマル、レイテ島の九十一師団がルソン島へ主力を派置したのは、既に述べたが、セブ島の八十一師団主力、及びパナイ島の六十一師団主力はミンダナオヘと増強していた。そしてこれらの島々は不足の分は新たに徴集して、約一師団づつに補強訓練しつつあったのである。飛行場もどんどんと拡張していたのであった。(陸軍省企画 読売新聞社編集 比島作戦)
セブ島の勘定
川口支隊(川口清健少将)は3月23日、ボルネオの北部ラブアン島出発、第三南遣艦隊の駆逐艦村雨、五月雨護衛の下に4月1日リンガエン湾に到着し、3日実施部隊陸海協定を行った。5日リンガエン湾出発、西南方を迂回し薄暮ネグロス島南方に入り、軽巡球摩、駆逐艦村雨・五月雨などの護衛のもと行動を秘匿してセブ島に向かった。
支隊は4月10日未明、一部でセブ島西岸パリリに、主力で同島東岸アルガオに奇襲上陸した。西海岸に上陸した一部は、パリリ東北トレドにおいて、トーチカにより頑強に抵抗する米比軍を強襲して占領し、セブ市に向かい急行した。トレドからタリサイへ島を横切る途中のカンタバコで、高速道路は2つに分かれ片方は北東にシノウェス将軍司令部近くを通りタリサイに向かい、南側はナガに向かっていた。カンタバコの陣地が崩壊したのは、不幸にして不測の事態が重なった結果だった。シノウェスが信頼を寄せていた解体チームは、待ちすぎて敵戦車や装甲車が現れると逃げてしまったのだ。グライムス大佐は車を走らせたところ、敵のパトロール隊に捕まってしまった。指揮官を失った彼の部下は隠れていたので、日本軍も彼らの存在に気づかなかった。
一方主力は何の抵抗もなく、またセブ市は未明から米比軍の焦土戦術で炎上中であったので、川口支隊長はアルガオ上陸は一個大隊で打ち切り、主力をセブ島南西五㌔のタリサイに転進して上陸した。米小型機の襲撃を受けたが損害は軽微だった。セブシティを守るのは、ハワード・J・エドマンズ中佐が指揮する約1100人のセブ警察連隊だった。エドマンズ中佐の任務は、他の部隊長と同様、解体チームが作業を終えるまで待機し、その後は丘陵地帯に退避することだった。「ジャップを止められるとは思っていなかったが、2、3日は撤退に費やすことができると思っていた」とチノウェス将軍は説明している。セブシティの戦いはわずか1日で終わった。数と武器で勝る敵を前にして、防衛側はゆっくりと後退し、道路を封鎖した。この日夕方までにセブ市を占領したが商業区域など概ね半ば焼失し、無傷のまま占領しようとしたわが企図は達せられなかった。上陸とともにセブ市南西法において邦人約300名を救出した。午後に戦いは郊外に達し、17時に日本軍は戦いを中断した。暗闇の中エドマンズは山岳地帯へ10㍄ほど内陸に兵を戻した。エドマンズは解体チームが必要とする時間を稼ぎ、順調に撤退していったのである。
だがカンタバコで島を横断する高速道路を敵に奪われたことで、セブ島の戦いは終わった。セブ島中部ではもう何もできないので、12日の夜、シノウェスは約200人の兵士を連れて、山の中の隠れ家に北上した。残少部隊を組織しゲリラ部隊にしたいと考えていた。日本軍がこの島の完全制圧を主張したのは4月19日になってからだったが、ウェインライトはその3日前にシャープ将軍にビサヤ・ミンダナオ軍を再編成し、ビサヤ地方に残る守備隊を指揮するよう命じ、セブ島の喪失をすでに認めていた。米比軍は主力をもってかねて構築しつつあったサヤオサヤオ付近産地(セブ市北方30㌔)の陣地に、一部をもってウリンサン付近(セブ市西方20キロ)の陣地に避難した。支隊は15日からまず北方の主力を包囲攻撃し、17日山上のキャンプを占領、次いで21日までに西方山地の一墓を攻撃してこれを占領、おおむねセブ島の米比軍を掃討した。この攻撃は西海岸上陸部隊が米比軍将校の遺棄書類中から陣地配備に関するものを入手したため、極めて巧妙適切に行われた。米飛行機は16日ごろから連日セブに飛来して爆弾を投下し、港湾施設などを爆破したが人馬の損害はなかった。次いで支隊は新たに河村支隊とともにルソン島から航行到着した独立歩兵第三十一大隊(大隊長田中良成中佐)と警備を後退し、以後ミンダナオ島の勘定を準備した。
パナイ島の勘定
パナイ島守備隊の初代司令官であるシノウェス将軍は、3月中旬にビサヤ軍の指揮を執りセブに移動した際、後任に参謀のクリスティ大佐を指名していた。クリスティの指揮の下、島の防衛作業は続けられ、4月中旬には予想されていた日本軍の攻撃に対する準備はほぼ完了していた。
セブ島と同様、防衛計画では、解体チームが作業を完了できるように遅延行動を取ることしかできなかった。第61師団(PA)をはじめとする島嶼部の部隊(総勢7,000名)は、北側の山に到達するまで、あらかじめ決められた陣地に後退することになっていた。バウスアウ作戦で集めた食糧や物資を十分に補給して、増援が来るまで敵とゲリラ戦を繰り広げることになった。
河村支隊(河村参郎少将、4,160名)は3月27日シンガポール発、4月5日リンガエン湾に到着し、4月7日陸海軍協定を行った。上陸点は主力でイロイロ西方海岸、一部でキャピス付近海岸と予定されたが、サンレミヒオ銅山を速やかにを速やかに占領すべき軍政上の要求により、支隊長指揮の下に同行する独立歩兵第三十三大隊(大隊長長瀬能保美中佐)の一部を使用することとなった。
部隊増強の上12日出港、16日未明に主力でイロイロ付近に、一部でキャピスに上陸し、17日にサンホセ付近、18日にイロイロ対岸ギマラス島に上陸した。以後疾風のようにパに平原を南北から進撃し、19日までにキャピス、イロイロ間の米比軍を撃破し、23日までに平原地帯を掃討した。24日には邦人約470名を救出した。河村は島の戦略的要所を占領し、この作戦は終わったと考えていた。
米比軍はパナイ平原停滞をほとんど大なる抵抗なしに開放したので、以後の攻撃にはバタアン半島に置けると同様相当長期間を要する状況と判断された。支隊はミンダナオ作戦の関係上この米比軍を攻撃することなく、以後の処置を独立歩兵第三十三大隊に任せ、主力はミンダナオ島の勘定を準備した。
クリスティー大佐にとっては、物資の豊富な山奥の隠れ家で安全に過ごしていたので、作戦は始まったばかりだった。野生動物は豊富で、十分な真水、500頭の牛、1万5千袋の米、数百ケースの缶詰、そして十分な燃料があった。山には機械工場が建設されていて、米がなくなっても脱穀機があるので大丈夫だった。彼はすぐヒットアンドアウェイ襲を開始した。日本軍はサンホセで懲罰的遠征を組織した。フィリピンのエージェントが警告し、弓矢、槍、ボロ武装の一団が待ち伏せの準備をした。クリスティの隠れ家に通じる峠の両側に隠れていたフィリピン人は、原始的な武器で日本軍を完全に奇襲し、多くの人を殺し、残りの人は急いでサンノゼに送り返した。しかし、ゲリラ戦の成功は、主要な町や道路網を手に入れた日本軍が島を支配しているという事実を隠しきれなかった。
セブ島とパナイ島を占領し、日本軍はビサヤ諸島を掌握していた。ネグロス島、サマール島、レイテ島、ボホール島に残っている部隊は、すでに敗れて丘に追いやられた部隊に比べてかなり小規模であり、日本軍はこれらの島を自由に占領できると確信していた。4月20日までに、ビサヤ諸島での作戦は実質的に終了し、本間将軍は川口隊と河村隊をミンダナオ島に派遣することができた。
軍おいて4月15,16両日にわたり研究の結果、1参謀を17日出発、セブとイロイロに派遣し、作戦の指導と連絡に当たらせた。4月21日攻略計画が決定され、22日軍は川口、河村、三浦各支隊に対し、ミンダナオ島の米比軍撃滅並びに要域の勘定を命じた。
ビサヤ諸島およびミンダナオ島の勘定について、十分な討伐作戦が不可能であった。軍は第二次作戦計画につき案を練る一方、コレヒドール島作戦終了後の兵団整理につき、大本営や南方軍派遣幕僚と連絡折衝した。四月下旬に至り、第十六師団は六月中旬満州に転用、第四師団は七月下旬または八月上旬転用、永野支隊は六月中に到着予定の独立守備隊と交代して元所属に復帰、砲兵所隊殆ど全力をなるべく速やかに転用と概定された。そこで軍は5月中旬より6月ないし7月にわたりビサヤ諸島未占領地区並びにミンダナオ島の勘定作戦を行う計画を立てた。5月15日オロンガポを永野支隊が出航しビサヤを、第四師団はミンダナオに転用される計画となった。
ミンダナオ要部の勘定
シャープ将軍がミンダナオ島に到着した1月初旬以来、。ビサヤ地方から移された追加の部隊とともに、シャープは島を5つの防衛部門に編成した。サンボアンガ部門、北西部のラナオ部門、島の北中央部のカガヤン部門、東部のアグサン部門、そして島の中央部と南部のコタバト・ダバオ部門である。最後のセクターは最も大きく、ディゴス、コタバト、カルメン・フェリーの3つのサブセクターに分かれていた。各セクター司令官は、セイアハイウェイの北端から10㍄内陸にあり、デルモンテ飛行場に隣接するデルモンテのミンダナオ軍司令部に直接報告した。部隊は訓練を続けていた 。学校には、第43歩兵隊のフィリピン人スカウトが常駐していた。この訓練の最大の欠点は、弾薬の不足であった。あまりにも供給が少ないため使用は禁止され、長時間の模擬射撃が行われたが、その結果は疑わしいものであった。
川口支隊は4月26日セブで乗船後、軽巡球磨、第二駆逐隊(村雨、五月雨)、水雷挺護衛の下に、ザンボアンガを迂回してミンダナオに向かい、29日一部でミンダナオ川をさかのぼり直接コタバト市に、主力でパラン(コタバト北方)に上陸した。コタバトとその周辺地域を防衛していたのは、第101師団(PA)の部隊で、コタバトでは何ら米比軍の抵抗はなかったが、パランは比島海軍の根拠地で兵舎があり、少数部隊の配兵があったため、わが船団の泊地侵入を認めるや同地の上陸用堤防を爆破し兵舎に火を放って焼却四方を発射して抵抗した。フィリピン軍は3時間以上持ちこたえたが、間もなく退却したため我が損害は軽微であった。以後一部はコタバト川を阻こうして付近を勘定し、ピキット(コタバト東南東約50㌔)に監禁中の邦人約470名を救出し、さらにコタバト南方をも広く勘定した。
ピキットに日本軍がいるという情報は、ネルソン大佐を不安にさせた。もし本当なら、彼の部隊はすでに孤立している。ピキットの東8㍄のカバカンを制圧できれば、フィリピン人を遮断し背後から襲撃できるかもしれない。実際、日本軍は三浦大佐は西方のセイル・ハイウェイに向けて進撃を開始した。グレイブス隊は日本軍の進撃に頑強に対抗し、迫撃砲で効果的に最初の攻撃を阻止した。その後の2日間日本軍の行動は優柔不断で、主に航空攻撃と哨戒行動に終始していた。三浦支隊はこの間ダバオ警備を独立歩兵第三十四大隊(大隊長内匠豊少佐)に引き継ぎ、5月1日行動を開始し、2日からヂゴス西方の米比軍の陣地に攻撃を開始した。4時間にわたる砲兵と迫撃砲の準備に加え、7機の急降下爆撃機による空爆を行ったがこの時も日本軍の攻撃を阻止し、フィリピン軍の勝利で戦いが終わった。グレイブスの勇敢な戦いぶりは実を結ばなかった。2時間後の2日午後1時、彼はセイア・ハイウェイへの即時撤退を命じられた。ディゴス軍は、時間があるうちに脱出しなければならない。その夜、彼らは4月28日から頑強に守り続けてきた陣地からの退避を開始した。
カバカンはコタバト・ダバオ方面での戦いの中心地となった。コタバト方面から突進した川口支隊の一部と協力して撃破し、7日カバカンに進出したが、ディゴス軍の罠を閉ざすには遅すぎた。川口部隊はセイラ・ハイウェイを確保して北上しようとしたが、すべて失敗に終わった。バションの部隊は1週間後の作戦終了まで持ちこたえた。以後キバウエ方向に前進中であったが、地形険峻、加えて交通路の破壊がひどかったため進出が著しく遅れ、キバウエに進出しないうちに米比軍が降伏した。
一方支隊主力は米比軍約一個師団がダンサラン(ラナオ湖北岸)にあるとの情報により、これを刻激するため急伸した。作戦が失敗したため、ミッチェル大佐はマタリングラインを放棄せざるを得なくなった。日本軍は翌日の5月1日午前7時30分にミッチェル大佐の新しい陣地を攻撃した。ミッチェルは10時半に2度目の撤退を命じざるを得なかった。日本軍は、13時頃に新陣地に到着し、砲兵、迫撃砲、機関銃でフィリピン人を釘付けにした。夕方になって日本軍の射撃量が増え、その直後に歩兵が本格的な攻撃に移った。短時間のうちに、彼らはミッチェル大佐の防御を突破し、司令部を脅かした。日本軍が攻撃を中止した23時には、防衛軍はほとんど消滅していた。途中マラバンおよびラナオ湖南西岸において頑強に抵抗する米比軍を撃破し、5月3日ミンダナオの首都ダンサランを占領した。5月3日の歩兵部隊の記録は、撤退の連続であった。大佐が2個大隊を配置するたびに、日本軍は突破してきたのである。敵の車列がフィリピン人を追いかけてきたので、彼らが防御を整える時間はほとんどなかった。その他の米比軍はすでに退却していた。第一大隊長山田少佐以下約30名の損害を生じたが、米人の歩兵連隊長を捕虜とするほか多大の損害を与えた。川口支隊長は三日カガヤン湾に上陸すべき河村支隊を合わせ指揮し、速やかにマライバライにある米比軍を攻撃すべき命令を受け、五日夕ダンサランを出発、途中破壊された橋を修理しつつ、自動車によりイリガンを経て六日カガヤンに到着した。
一方河村支隊は第十五駆逐隊(親潮、黒潮)護衛の下に5月1日イロイロを出港、5月3日未明、主力はタゴロアンとブゴに、一部は直接カガヤンに敵前上陸した。セイラー・ハイウェイの北端と重要なデルモンテ飛行場を含む重要なカガヤン方面では、シャープ将軍は、まだ投入されていないミンダナオ軍予備隊と第102師団(PA)を有していた。師団長兼部門長のウィリアム・P・モース大佐は、自分の部門への攻撃は海から来る可能性が高く、その目的はセイル・ハイウェイの奪取であると考え、タゴロアン川とカガヤン川の間のマカハラ湾沿いに部隊を配置していた。米比軍はこの面を重視していたため、上陸戦闘は凄絶を極め、死体は多大の損害を被ったが、沖合の2隻の駆逐艦からの砲撃に支えられ、日本軍は夜明けまでにタゴロアン川とセイラー・ハイウェイの間の海岸線をしっかりと確保し上陸に成功した。以後抵抗する米比軍を南方に圧迫しつつ、四日カガヤンを占領、五日一部をもってデルモンテに進出した。5月6日の朝、日本軍は攻撃を再開した。河村支隊はTankulanを通過し、Dalirigへの砲撃を開始した。砲兵と空軍の攻撃は8日の夜まで続き、暗闇の中、日本軍はフィリピン軍の陣地に潜入し、大きな混乱を引き起こした。混乱の最中、2つの小隊が不思議なことに撤退命令を受け、すぐに戦線から離脱した。後方への移動は、中隊、大隊、連隊の各司令部にとっても全くの驚きであり、どの司令部も命令を出していなかった。戦闘は5月8日から9日の夜まで続いた。、朝になると、疲れて混乱したフィリピン人は主要抵抗線から押し出され、ダリリグに後退しつつあった。逃げ惑う部隊の逃げ道は、平坦で見通しのきかない土地であった。撤退から始まったこの作戦は完全な敗北に終わり、その日のうちにダリリグ部隊は事実上消滅してしまった。セイア・ハイウェイの上支流は日本軍に開放されていた。シャープ将軍は、プンティアン部隊がまだ無傷であることを慰めにしていたが、マンギマラインが突破され、自分の部隊の大部分が壊滅したことを痛感していた。散在する部隊の抵抗を除けば、ミンダナオ島での日本軍の作戦は終わった。
川口支隊長はカガヤン到着とともに、主力を河村支隊に配属し、同支隊長をしてマライバライの米比軍を強襲させた。シャープ将軍はほとんどその麾下兵力の大半を失いつつあった9日、羽場軍参謀に伴われた米軍参謀から、ウェーンライト将軍の降伏命令に接した。かくして10日21時河村支隊長に対し無条件降伏を申し出て両将はマルコ(カガヤン南東約40㌔)の小学校で調印を終わり、ミンダナオ島の勘定を一応終了した。
マライバライは敵軍司令部のあるところで、そこまでには大渓谷が三つもあった。さながら米国のコロラド渓谷を髣髴(ほうふつ)させる深さである。部隊は第一マンジマ渓谷をまず突破、次の渓谷に取りかからうとするところにシャープ少将が降伏を申し出たのであった。この頃すでに敵軍は四散してしまっていて、敵将の下には副官以下数名しかいなかった。この戦果は実に、五月六日にコレヒドールも敵が降伏したために促進されたものであった。
ウエンライトは降伏後、マニラ放送局から全比島に呼びかけた。特にシャープ少将にも『貴下は最早、抵抗する愚(ぐ)を捨てて日本軍に和をこうべし』と電波を送ったのである。更にウエンライトの命令文を飛行機で持って行って投下したから、シャープは急いでわが軍門に降ったのである。以後はすべて快速調に、ビサヤ方面の残存敵地へはシャープ少将から全部降伏を伝えた。こうして大東亜戦開始以来、僅か五ヶ月で、全比島にはびこっていた米軍は、全く払拭されたのであった。もし、この敵の降伏がなかったらパナイ島バロイ山に逃げ込んだ敵とか、或いはまだ全然手のつけてなかったネグロス島とか、北部ルソンの残敵とか、これらの攻略になお多くの月日が必要であったに相違ない。予定よりも十日も早く、敵は手を挙げたのであった。(陸軍省企画 読売新聞社編集 比島作戦)
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最終更新:2025/12/06(土) 04:00
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