パナイのゲリラ戦とは、フィリピン、パナイ島で行われたゲリラ戦である。ルソンのゲリラ戦、ミンダナオのゲリラ戦参照。ここでは、太平洋戦争中にフィリピンのゲリラ戦の一環として行われたパナイ島でのゲリラ戦を記述する。
パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半)
パナイのゲリラ戦(1942年後半)
ゲリラ戦開始
パナイのゲリラ戦(1943年前半)
パナイのゲリラ戦(1943年後半)
日本軍のパナイ統一ゲリラ討伐
パナイのゲリラ戦(1944年前半)
日本軍の討伐成功、パナイの平和
パナイのゲリラ戦(1944年後半)
ゲリラの反撃
パナイのゲリラ戦(1945年)
パナイのゲリラ戦、終戦後
パナイ島はビサヤ諸島の西部に位置する三角形の島で、フィリピンで6番目に大きく、4番目に人口の多い島で、総面積は四国よりやや小さい12,011km2。アンティーク州、カピス州、イロイロ州のに分かれ、最大都市はイロイロ市。ミンドロ島の南東、ギマラス海峡を挟んでネグロス島の北西に位置し、北と北東にはシブヤン海、ジントトロ海峡、および島々の州がある。 西と南西にはスールー海とパラワン諸島があり、南にはパナイ湾がある。
パナイ島は、その最長の山脈である中央パナイ山脈によって二分される。ナントゥッド山 (2,073m)、マジャース山 (2,117m)、バロイ山 (1,958m) が島の3高山である。
| 概要 パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) パナイのゲリラ戦(1942年後半) パナイのゲリラ戦(1943年前半) パナイのゲリラ戦(1943年後半) パナイのゲリラ戦(1944年前半) パナイのゲリラ戦(1944年後半) パナイのゲリラ戦(1945年) パナイのゲリラ戦、終戦後 |
1941年12月中旬、日本軍がフィリピンに侵攻すると、その急速な進撃はアメリカの優越感を失わせた。日本軍の侵攻に対して、USAFFEの防御は溶けてしまった。ある米軍司令官曰く「日本軍が比兵に発砲すると、彼らは怖気づき脱走してしまう」。42年1月、日本軍はマニラを占領した。一方米比軍はバターン半島に撤退し、バターンの戦いが始まった。
| 比島中南部 |
2月18日深夜、マッカーサーの幕僚は秘密裏に大統領一行を潜水艦SS-193ソードフィッシュに乗船させた。ケソンは出発前に、ロハスに「政策の変更に関係しない全ての事柄について、私の名前で行動すること」を指示する手紙を渡した。
ケソン大統領、パナイを訪問
2月20日ごろ、コレヒドールを脱出したケソン大統領は、最高裁判所主席判事ホセ・アバド・サントスを伴いアンチケ州サンホセに上陸し、イロイロ市に立ち寄った。開戦当時のイロイロ州知事は、トルコ系比人で医師のフェルミン・G・カラムであった。彼はトーマス・コンペソール(パナイ島第二の政治家、第一は戦後大統領マヌエル・ロハス、前イロイロ州知事・国会議員)の腹心で親友であった。
大統領はコンペソールを任命するべく探したが、彼がマニラにいるとの報告に接した。大統領は、カラムに通告せず知事を解任し、イロイロ市の名門ドン・オスカー・レデスマを知事に任命しネグロス島のバコロド市に向かった。マニラにいたコンペソールは、日本軍のマニラ占領後、日本軍からの要職就任を拒否し厳戒下のマニラを脱出、バンカー(小舟)でパナイ島の西北端の街、カピス州ブルアンガに3月4日上陸した。彼はまず腹心のカラムに連絡を取ったところ、彼の知事解任とレデスマの知事就任を知り憤慨した。おりしもケソン大統領がまだネグロス島のサン・カルロスに滞在中と聞き、コンペソールはカラムを伴いケソン大統領と会談した。ケソン大統領は、バコロドでコンペソールに会うために彼を呼んだ。二人の戦士は互いに温かく挨拶を交わし、ケソンはコンペソールにイロイロ州知事としての職を再開するよう指示した。
| ケソン「あなたはイロイロ州の最高責任者であり、そのような権限を行使しなければならない。このような状況下では、あなたは私の代理人です。公共の利益と公共の福祉を常に念頭に置いて、常識と健全な判断力を発揮してください。これ以上の具体的な指示はできない。時代は不確実であり、24時間以内に状況が良くも悪くも変わるかもしれないからだ」 |
コンペソールはこの指示を心に刻んでいたが、その時でさえ、公共の利益のためには敵に抵抗し、敵の虐待に対抗し続けることが必要だと知っていた。彼は決して日本に仕えず、自分の国を捨てず、決して降伏しない。(最後まで戦う戦士
)
コンペソールは、コモンウェルス政府がアメリカに所在の間、パナイ島における抗日問題について指示を受けたが、その際ケソン大統領は任命したばかりのレデスマ知事を解任し、コンペソールを戦時イロイロ州知事に任命した。こうしてケソン大統領の鶴の一声で、カラムとレデスマは知事を解任され、面目丸つぶれとなった。(フィリピンの血と泥 熊井敏美)
ケソンは豪州へ脱出
その後、一行は車でイロイロ、汽船でネグロス島のバコロドに移動し、ジョン・D・バルクレイ中佐のPT ボートでミンダナオ島のデルモンテに向かった。日本軍がビサヤ諸島に侵入すると、大統領一行はB-17で豪州に向かい、亡命政府を樹立した。
| パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) |
パナイ島には米極東軍の第61師団(師団長ブラッドフォード・G・チノウェス准将)が守備に当たっていた。第61師団は、歩兵第61連隊から第65連隊の5個連隊と輸送、工兵等の特科部隊から編成されていた。42年2月、第61連隊と62連隊はミンダナオ島カガヤンに派遣された。3月には、チノウェス准将は、ビサヤ地区の軍司令官に任命されセブ市に赴任したので、その後任には師団参謀長アルバート・F・クリスチー大佐が准将に進級し師団長に就任した。師団の基幹兵力は、米極東軍とフィリピン警察体(PC)であったが、開戦後急遽、大学・ハイスクール卒の軍事訓練を受けたものを巡将校として入隊させ、また志願兵を募集したため、4月の師団兵力は、第63,64,65連隊及び臨時編成1個連隊基幹の約8000となっていた。このうち米人は少数の幹部クラス将校だけであった。師団には野砲もなくその装備は悪く将兵の訓練もさして行われていなかった。このため第61師団は、上陸日本軍との正面切っての戦闘を回避し、パナイ島の最山奥、パナイ山脈のほぼ中央、パロイ山(1728m)付近を主陣地として日本軍を迎撃、敗れればゲリラ戦により徹底抗戦することとした。このためイロイロ市は放棄するが、イロイロはじめ日本軍の進む町々の焦土作戦を行い、また特に上陸日本軍の機動性を防ぐためバス、トラック、乗用車等の車両は焼却することにした(バウス・アウ作戦)。師団はバロイ山東方に陣地を構築し、兵器、弾薬、食料、燃料から家畜に至るまで備蓄し、また精米所までをしつらえた。4月初め、師団は司令部をイロイロ市からランブナオ町ミシー(イロイロ北方48キロ)に移動した。
皇軍はパナイ島にはシンガポール攻略戦を終えた第5師団の歩兵第41連隊(福山市)基幹の河村支隊(河村参郎少将)を充てることとした。セブ島攻略に当たった第18師団の川口支隊(のちガダルカナルで全滅)とともに5月中旬まで第14軍の指揮下にあって作戦し、以後は南方のニューカレドニア方面の作戦に使用せる計画となっていたため、疾風のようにパナイ島に次いでミンダナオ島を占領する作戦となっていた。3月27日シンガポールを出発、4月5日リンガエン湾に到着した。ここで陸海軍のパナイ島上陸作戦の協定が行われ、アンチケ州サンレミギオの銅山を速やかに占領されたいとの軍政部の強い要求が出された。
バターンの陥落とトーマス・コンペソール
トーマス・コンペソールは当時50歳くらい。イロイロ州カバツアンの出身で、カリフォルニア大学とシカゴ大学に学び経済学を専攻した。彼は戦前国会議員からイロイロ州の民選知事となった。フィリピン政界における活躍は目覚ましく「嵐の海燕」の異名をとり、パナイ島民の尊敬と信望を受け、ミスター・パナイといわれていた。
バターンの陥落は米極東第61師団にとっては一大衝撃であった。コンペソール知事は、日本軍上陸後の民事政府の所在地をレオンに属するイロイロ市西北約45㌔のボカレと定め、その準備を進めた。 彼は民間のゲリラ知事となった。彼は文民政府を無傷に保ち、規律ある警察を組織し、パナイ島への食糧供給を保証し、人々に真実を伝えるためにニュースレターを始めた。一方第61師団は、日本軍上陸に当たっては直ちにバロイ山の陣地に移動の準備を終えた。イロイロ市民は相次いで脱出、田舎家山中に避難したため急に寂れ果てた町と化した。当時イロイロ市をはじめ全島に約470人の在留邦人がいたが、開戦と同時に全員抑留され、転々と移動の後、4月にはイロイロ市北方約50㌔のバシー町サンエンリケの小学校に比兵の監視下に監禁されていた。バターンの陥落後、監視の比兵は態度を急に変え、邦人にゴマすり始めた。しかしダバオでの例もあり、日本軍上陸の際には日本人を乱射し逃亡の恐れもあるので、邦人男子はひそかに自警団を作り万一に備えた。
日本軍上陸の日、4月16日「パナイ・タイムス」は反日記事を掲載し「日本軍はもうここ数日のうちに来襲するかもしれない。日本軍がルソン島の戦争で成功したのは、日本軍が自由勝手に自動車を徴発して使用できたからである」との社説を掲げた。(フィリピンの血と泥)
日本軍上陸
河村支隊の約10隻の輸送船団は、第24駆逐隊護衛の下4月12日リンガエン湾を出港、4月16日午前2時、イロイロ市から西方13㌔のオトン街トラピチェ沖合に投錨した。一発の銃声もしなかった。一方4月16日未明、カピス長北方三㌔のバイバイ海岸に無血上陸した支隊の一部(瀬能部隊からは第二中隊、高山隊が同行)は州都カピス町を占領、主力は本道を南下した。オトンに日本軍上陸の知らせはイロイロに伝わり、比兵はかねての計画により市の中心街を次々に放火、イロイロ港岸壁の砂糖倉庫にも火を放ち、イロイロ―ラパスの橋を爆破し北方の山中に撤退した。市民は大混乱に陥り、慌てふためいてイロイロ市を脱出した。残っているものは暴徒と化し、華僑の商店や金持ちの家に乱入し荒らしまわったのち逃走した。
上陸日本軍はオトンで二手に分かれ、河村支隊主力は北上、瀬能部隊第三中隊、第四中隊を主力とする支隊の一部は朝方軽戦車を先頭にイロイロ市に突入した。敵影はなかった。日本軍は市のプラザの教会前で万歳を三唱した。翌17日疾風のようにアナイ平原を南北から進撃する支隊はカピス州ドマラオにて相会した。この日、瀬能部隊第一中隊はアンチケ州サンホセ町南方のハムテックに上陸、敵の抵抗を受けることなく州都サンホセ街を占領した。パナイ島の中央平原で相会した河村支隊の主力は23日までイロイロとカプス間の国道沿いの平原一帯を攻略した。この間、支隊の一部は、カリノグ西方のデラデラ山付近で、米極東軍の前哨基地に出くわし、第63連隊第1大隊のチャーベス大尉指揮の一個中隊と交戦しながらも、主陣地に対しては一撃も加えず撤退した。この戦の功にてチャーベス大尉は少佐に進級した。4月24日、中根少尉指揮の軽戦車隊がサンエンリケで抑留中の在留邦人を救出し、これをもって河村支隊のパナイ島攻略作戦は終わった。支隊は25日イロイロ市に集結、30日ミンダナオ島のカガヤン上陸作戦に向かった(のちに東部ニューギニア、レイテ島に転戦全滅)。こうしてパナイ島の米極東軍主力は、日本軍と一戦を交えることもなく、無傷で残されることになった。以後の作戦、警備については瀬能部隊一個大隊に任せられることになった。
4月16日コンペソール知事はカバツアン街の自宅にいたが、日本軍上陸の報に接するやかねての計画通り民政府要人を引き連れてボカレに急行した。移動中、レデスマの子供が病気にかかった。カラムは医師として患者の治療に当たらざるを得なかった。この時レデスマは「もしコンペソールが日本軍につかまるようなことになるとどうなる。この場合を考慮して貴殿はコンペソールに代わるパナイ第二のリーダーとして、コンペソールとは別行動をとるべきだ」とカラムを説得した。カラムはこの説得に山中にとどまった。その後カラムは日本軍側任命のイロイロ州知事となったが、面従腹背、背後でゲリラ側に大きな協力を行った。
日本軍上陸の日、日本機一機がディングル町付近の山中に不時着した。搭乗員二名は、当時付近に退避中のドマンガスの青年らに拉致され、酒食をふるまわれて油断をしているところを虐殺され、海辺の養殖池のそばに埋められた。これが日本兵虐殺の最初の被害者である。(フィリピンの血と泥)
日本軍は4日間ですべての戦略拠点を占領した。島々の武装集団達は、この機に古い恨みを晴らした。イロイロでは、フアニート・セバロスが兵士50人を率いて、かつて自分を窃盗で投獄した裁判官ビンセンテ・マパを探し見つけ、処刑した。そして、虐待を加えていた農場主サバス・グスティロを殺害した。この殺人事件は、地元のエリートたちを日本人の保護下に置くように仕向けた。セバロスが政治的強者ロペス兄弟を狩り始めたとき、彼は待ち伏せに捕らえられ処刑された。
クリスティにとって、作戦はまだ始まったばかりであった。彼は豊富な武器、弾薬、水、そして500頭の牛、1.5万袋の米、数百ケースの缶詰、そして十分な燃料を持っていた。彼は、ヒットエンドランの襲撃を開始した。比人が日本軍が近づいていると報告すると、クリスティはボロ、槍、弓矢で中隊を編成して待ち伏せ、敵軍の大部分を殺害し、残りはサンホセに退却させた。これは日本軍の懲罰的遠征をサンホセにもたらす。
「…もしお前が兵士であったら、そして、帰って来て、兄弟や親は日本軍に射殺され、女房や姉妹は強姦されたと知ったら、それだけで再び戦うという大きな理由にならないだろうか――たとえ、絶望的だと思われようとも」
「ゴンドイ、そういうことが俺の身に起こらなかったのを神様に感謝してるんだよ」
「だが、俺はお前にこう言いたいんだ、カルディン。いつかお前も俺たちのように感じるだろうということを。おそらく、お前が俺たちの誰よりも残酷に、執念深くなる日が来るだろうよ」
……ノンノンはカルディンを見ながら言った「日本人みたいに見えるよ、僕たちが逃げ出したあのひげ面の日本兵さ」
「日本兵がもうマンハーヤンに来たのかい?」驚いてカルディンは言った。「うん、やってきた―一度だが」ポール村長がゆっくりした口調で言った。
「そうなんだ、まったく。」とノンノンが叫んだ「お父さんとお母さんと僕たちは竹藪に逃げたんだ。だけど、兄さん……」ルーシンがせき込んでいった。「あなたのお父さんと坊やと私は、別の方角に逃げたのよ。あれは……二人が亡くなる前だったわ」(ステヴァン・ジャヴェリャーナ 暁を見ずに)
| パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) |
シャープ将軍の降伏命令は、予想よりもはるかに困難であった。軍隊は多くの島に散らばり、そのほとんどが訓練を受けていない比人で、山の隠れ家で安全を確保し自由を手放す気はない。通信手段は乏しく、最後の部隊が武器を放棄するまでにはしばらく時間がかかる。
クリスティ准将はウェインライトの命令に従い、彼の第61師団(PA)の米人を降伏させたが、比人兵士には退去の許可を出した。G-3(作戦)マカリオ・ペラルタ大尉、師団工兵レオポルド・レルニア大尉、第63連隊第3大隊長ジュリアン・シャベスは、捕虜に報復されないよう2ヶ月間ゲリラの抵抗を組織しないよう約束した。ペラルタは北へ、レルニアは東へ、シャベスは島の中心部へと兵士を移動させた。他のグループは、カピスのブラウリック・ビラシスと北西のセリロ・ガルシアのもとに集結した。
5月24日の朝、クリスチー将軍と高級将校たちは日本軍に投降した。投降した兵は全部でおよそ1800人だった。残った6000人の将兵は山中に立てこもったり、家にかえったりしたため、軍としての組織は崩壊した。しかしペラルタ中佐が今後同島のゲリラ部隊の総指揮官として活躍することになる。ペラルタ中佐はマニラ市出身のタガログ族(イロカノ人という話も?)、マニラ大学法科を卒業、弁護士試験ではガルシヤ元大統領に次いで二番目で合格、のち軍隊に入り、アメリカのフォート・リーベンワースの指揮官・参謀学校を首席で卒業、その後米極東軍の第16師団のG3参謀となった。ゲリラ軍司令官当時は40歳くらい(フィリピンの血と泥より、実際は27歳)だった。その後大佐に進級、戦後はフィリピン軍参謀副長、国防長官、上院議員を歴任した。
ペラルタは天性のゲリラ指導者である。SWPAは、「彼は強い性格で、優れた組織者であり、攻撃的で、生意気なほど自分に自信があり、強い民族主義者である」と指摘し、「彼は性急な傾向があり、経験がなく、時には独断で、自分の考えに対するフォローが足りないことがある。彼はパナイ・ゲリラ組織が純粋に比人の成果であることを望んでいる。」と付け加えている。ペラルタは米人を容認していたが、組織からは排除していた。その後4ヶ月間、ペラルタはサンホセ(アンティーク)、カピス、イロイロの小日本軍駐屯地を抑えながら、多くの部隊を徐々にゲリラ版第61師団として指揮下に収めることになる。
トーマス・コンペソールは、丘陵地帯で政権を維持した。 コンペソールは、地方警備隊と呼ばれる警察組織、強固な使者組織、ラジオ局を設立した。人々はコンペソールに引き寄せられた。一方、ペラルタや他の第61師団将校は、ルソン島中部出身のタガログ人(イロカノ?)というアウトサイダーであった。その結果、ペラルタはコンペソールと権力争いをすることになった。
蔡振生、郭健、季栄芳を含むカンファン代表団も「地下活動を組織するため」パナイ島に到着していた。イロイロには3,500人以上の中国人が住んでおり、フィリピンで2番目に大きなコミュニティであった。
パナイ島の守備を担当した瀬能部隊は、全島に広く少数の兵力を分散配置して警備にあたっていた。トラブルもなく平穏だった。この間、市内の廃墟はきれいされ、6月16日にはパナイ全島の軍政を宣言し、イロイロ市内で日本軍の盛大なパレードが行われた。日本から石原産業が進出、アンチケ州のサンレミギオ、カピス州のプラカピスの銅鉱山開発を始めた。イロイロ造船所には島本造船所が、破壊された鉄道には台湾鉄道局が再建にあたり、イロイロ市とバシー間に列車が運転されるようになった。三井物産は港湾施設と倉庫の管理に当たったほか、砂糖の積み出しとコプラの買い付けを始めた。そのほか、日本紡績、南方航空、比島運行、燃料会社なども相次いで進出してきた。バス会社も日本人の手で復活、イロイロ近郊を走り回っていた。邦人運営の台湾人と比人の慰安所、バー、レストラン、ボウリング場なども開かれ、順調な経営を始めた。ラパスのイロイロ・ハイスクールには日本人学校(校長柏盛功)も開講された。軍政監部イロイロ支部(支部長三原大尉)は、日本側指名の州知事、市長の人選に入った。
治安良好
当時、山中での生活に身の危険を感じ、イロイロ市に戻っていたフェルミン・G・カラムに知事就任を要請した。カラムは固く断ったが、数回の要請を断り切れず、結局、引き受けることになり、日本軍側に協力を約束した。イロイロ市長にオスカー・レデスマ、また各町長も相次いで任命され、順調な歩みを始めた。しかしその裏ではペラルタ中佐の部隊とコンペソールの民事政府が反撃体制を進めていた。42年6月初旬、カリノグのアグタガス山中に隠れていたペラルタ中佐は機会が来たと判断、15人の部下とともに山を下り、軍の再編成を行った。6月10日、ペラルタ中佐は軍命令第一号を発令し、自由パナイ軍の結成と自ら軍の最高指揮官に就任することを宣言した。この後、数日にして元将兵ら2000人が集まった。当時、島は不警察状態となっていたため、強盗、泥棒が横行、住民はこれらの連中のことを日本軍よりも恐れ、手を焼いていた。ペラルタ中佐はこの状態を見て、強盗団の鎮圧が先決だとして全部隊が警察軍と協力して徹底的な鎮圧を行った。このため7月末ごろには治安が回復され、住民側はペラルタ中佐と民事政府に感謝し、信頼を寄せるようになった。住民は軍の募金のため、ダンスパーティを各地で堂々と開いたり、食料や住居なども提供した。このころ警備にあたっていた瀬能部隊や憲兵隊はこの事実に全く気付かず、瀬能部隊は8月にマニラの軍司令部に「パナイ島の治安極めて良好」と報告した。(フィリピンの血と泥)
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抗日ゲリラ等による治安撹乱事件に対応するため、日本側は第14軍が主体となって、討伐、投降・帰順工作、宣伝・宣撫、捜査・検挙等を実施した。
(1)討伐
討伐は、陸軍が抗日ゲリラ対策に用いた最たる手段で、第14軍は「積極果敢ナル粛正討伐」が最も有効な手段と考え、陽動や流言飛語を十分に用いながら、「不意急襲ノ徹底」によって「連続不断ノ武力的強圧」を加え、「捕捉撃滅」することで治安の確立を図ろうとしていた。ゲリラ側は日本陸軍の実力を認識し、実際に犠牲を強いられてゲリラ側の勢力が衰えた。
一方、討伐では、避けられたであろう人的損害が発生し、弾薬の濫費も起った。
ある夜のこと、災厄がこの小さな村を襲ってきた。たくさんの足音が聞こえた。「日本兵だ!」「マリア様!」。すでに日本兵たちは階段の下に集っており、その一人が銃の台尻で戸をガンガン叩いていた。…日本兵は、家の中に踏み込んだ。…日本の下士官の目は、美しい娘を見ると、ぎらぎらと光った。それからポンシンをじいーっとにらめつけた。「兵隊だろ。インディアン(ゲリラ)だ」。トナおばさんは叫んだ「この子は兵隊じゃありません、たった16歳なんです」。…彼らの銃剣の切っ先は光った。彼らは少年を母親の胸からひったくった。ポンシンは泣き叫んで逃れようともがいた。…「息子は兵隊じゃない。どうか息子を放して!」日本兵は一撃を加えたので、彼女は壁にたたきつけられた。アリーシャは、飛び起きて、泣きながら母親のところに走り寄った。下士官が彼女を捕まえた、娘は下士官のほほをひっぱたいた。…日本兵が、彼女を床の上に押し倒した。その時、バスチヤンおじさんが叫びつつナイフを下士官に突っ込んだ。日本兵が銃剣でこの農夫を刺し殺した。トナおばさんの胸も突き刺した。アリーシャに対しては、何人かが彼女の手足を押さえつけている間に、残りのものがかわるがわる彼女の肉体の上でその欲望を満たした。
階下の庭では、他の日本兵たちがポンシンを拷問していた。「私はインディアン(ゲリラ)だと白状しろ」「僕はそうじゃない」少年はすすり泣いた。日本兵は彼の腹に拳骨をぶちかました。…皆が手を貸して彼の衣類を引きちぎり、丸裸にした。そしてマンゴの木下から燃えさしの隅を取ってきて、それを少年の陰部に置いた。ポンシンは大きな苦悶な叫び声を上げ、正気に戻った「ナナイ!(お母さん)」彼は泣き喚いた。「さあ、言え。インディアン(ゲリラ)はどこにいる?」「僕は知らないんだよ」「この嘘つきやつ!」ヴィサヤ語を一番よく知っているらしい日本兵が言った。彼は合図をした。…彼らは軍靴でつぶれた体をひっくり返し、その顔を踏んずけて生きているか調べた。ポンシンはすでに死んでいた。
彼らは階上のアリーシャのところに行った。しばらくたって、彼らは、散々殴られて、ほとんど気を失っている彼女を引きずり下ろした。そして日本兵が二人係で彼女をよろめく足で歩かせて、外に連れ出した。彼らは、家に火をつけておいて、立ち去った。
日本兵が村を包囲しようと試みたが、住民の大半は家から飛び出して、すでに竹藪の奥に避難していた。しかし日本兵は、逃げ走っているものをとらえた。マリアおばさんの双子の息子であるメルチョアとギャスパーは、水牛の通る小径で、それぞれ背中を銃弾に射抜かれて、うつぶせに倒れていた。フローラは、着物を引きむしられて、気を失って溝の近くに倒れていた。
ポール村長は、目に涙を浮かべてこれら一切を眺めた。…多産な村人たちが倍増し村が大きくなるのを見てきた。このような災厄は決してなかった。今や、村は滅びようとしている。…すでに虐殺者たちは彼の家の方に近づいてきていた。
…暗い絶望の朝は開けた。村人たちは目を真っ赤にしてうずくまっていた。…日本兵たちが去ったかどうか…戻ってきて、万事大丈夫だとささやいた。…ルーシンは彼女に「ナナイ(お母さん)、家に帰りましょう」といった。年寄り女はつぶやいていた「あの人は…村と運命を共にしたんだ」
…「ああ、ピア姉さん、奴らが妹のトナと私の義弟にやったことを見てくれよ!、そしてポンシンに対して何をやったかごらんよ!」彼女は、二人を現場へ引っ張っていった。少年の死骸を目にするや、その無残な姿に震えあがった。「アリーシャはどこなの?」ルーシンはささやいた。ロサおばさんは涙にむせんだ「あの子は見つからないんだよ、ああ、奴らは人間じゃない。悪魔だよ!」
午後になると、ゲリラの兵士たちが帰ってきて、墓穴を掘った。村人全部が埋葬のためにやってきた。墓穴の近くには、隣り合わせに置いたポンシンと双子のメルチョアとギャスパーの三つの棺と、その他の犠牲者たちを収めた小さな箱が、一列に並べられていた。教師のマノン・マルセロが叫んだ「よく聞いてくれ、我々はこうして死者の前に立っている。この人たちはいったいどんな悪いことをやったのか? らが父なる神よ、汝らの憎しみは正当だと言いたまえ…」
…ある夜、ルーシンが彼に言った「もちろん、貴方はあたしのおなかにいる子があなたの子だと思ってるわね。あなたが出ていくまで、私たち、むつみあっていたのですもの」「ルーシャ、気狂いじみたしゃべり方はよせ!」「あなたは私を信じてくれている。だけどもしあなたの留守中、貴方に不貞だったとしても、信じたくない?、もしもフローラやアリーシャに起こったことが、日本兵が初めてやってきたときに、わたしにもおこったとしたら?」「止めろ!」「そしてもしも、あたしがこの子はあなたの子じゃないとあなたに話さなくちゃならないとしたら……」答えは素早く来た。彼の掌が彼女の口に置かれ、それ以上の言葉を抑えた。彼女は激しく泣き出した。彼の世界は砕け散った。今こそ、彼には、ゴンドイが、なにを言おうとしていたかが分かった。「言ってみろ、それは誰の子だ?」「私も知りたいのよ。ああ、でも奴らはとても大勢いた。ああ、カルディン…どうしてあなたに言えるの? ああ、願わくばあなたの子であるように。だけど、どうやったら確かにそうだと言えるの?」彼女はすすり泣き始めた。彼はボーっとなって何も考えられず、ただそこに座っていた。…その時だった、彼が泣いたのは。ようやくカルディンは頭を上げた。(ステヴァン・ジャヴェリャーナ 暁を見ずに)
(2)投降・帰順工作
42年夏から秋にかけ投降・帰順工作も補助手段として実施された。11月になると帰順にも力が入れられるようになる。背景には、9月に第14軍憲兵隊長に着任した長浜彰大佐の考えが推察し得る。長浜は「七擒七縦」に倣って、捕まえて日本への理解を説き釈放するということを繰り返すという方法で民心把握に努める方針とした。
12月、第14軍は翌年3月に残存するゲリラを「徹底的ニ剿滅」して、フィリピンの「確保安全ヲ期セン」とする命令を発した。同時に、同命令に基づく「宣伝宣撫計画」が同軍報道部によって策定され、次いで「教化主義」を採用する方針が、43年1月24日に声明として発せられた。これにより、抗日ゲリラ等が生命が保障されることが明らかにされた。その効果は覿面で、以降、投降・帰順者は相次ぎ、4月末までにゲリラ側の将校60名と下士官兵482名を獲得している。
討伐と並行して実施された投降・帰順工作は成果が顕著であり、生命の保障によって、ゲリラ側が投降・帰順という道を選択しやすくなった。その成功の陰にも問題が潜んでいた。捕まっても釈放されることを逆手にとって、偽装投降するゲリラがいたのである。目的は日本側の情報を入手することであった。偽装投降したゲリラは、そうして入手した情報を手土産に仲間の元へ戻ったのである。
(3)宣伝・宣撫
主要な目的は、フィリピンの住民を日本の戦争目的に沿うように啓蒙教化、さらには、フィリピン住民に日本の勝利を確信させて対米依存から脱却させ、日本軍の作戦や軍政へ協力させることであった。そのため各部隊は宣伝宣撫班を編成して、日本の戦争目的、日本軍の実力と戦果、大東亜共栄圏の理念、開戦における米国の責任、米国によるフィリピンの圧迫搾取の歴史、米英側の劣勢状況、対米依存と対日抵抗の無価値、フィリピン建国のための勤労努力の必要性等を強調する宣伝を行った。そうした宣伝は、重点地区での遊説、宣伝用ポスターの貼付、ビラの配布等を通じて行なわれた。さらに、日本側は反日宣伝にも対処した。
米豪側の宣伝は主としてラジオ放送を通じて行なわれていた。また、抗日ゲリラは超短波無線によって米豪側と連絡を取りあっていた。そのため、無線機の捜索と奪取・破壊も対策として講じられた。
一方、宣伝・宣撫は事前の準備がまったく不十分な状態で、現地での行動を開始せざるを得なかった。開戦時に第14軍宣伝班員であった人見潤介によれば、初期の班員に専門的な教育を受けた者は一人もおらず、基本方針も命令指示もほとんど示されなかったという。現地語で話すのが最も効果的であるのは当然であったが、宣伝班員はおろか陸軍の通訳者さえ話せなかった。もっとも、たとえ十分な言語運用能力を持つ者がいたとしても、平易な言葉で卑近な話をしなければわかってもらえない。地方を巡回して初めて、そうしたことに気づいたのである。宣伝・宣撫を実施する部隊は匪襲やテロの目標とされやすく、被害も生じている。
(4)捜査・検挙
討伐と並んで主要なもので、捜査を担当するのは、日本陸軍の憲兵隊とフィリピンの警察であった。太平洋戦争開戦当時、フィリピンには 1901 年に創設された「コンスタビュラリー」(Constabulary)と「地方警察」が並存していた。「コンスタビュラリー」は中央の行政府の指揮に属していて地方の首長には権限がなく、反対に、「地方警察」は地方の首長の指揮に属していて、そこには中央の行政府の権限は及ばなかった。日本側が行なった警察制度の改正とは、当時の日本の警察制度のように、「コンスタビュラリー」と「地方警察」を一元化して国家的な警察制度に改め、効率的な運用を図ろうとするものであった 。日本側は警察官訓練所をマニラ、バギオ、セブ、ダバオに開設し、約2ヵ月間の教育を施した。訓練生は「内務部警務局」に勤務する「高級警察官吏」と「一般警察官(下級高等官以下)」に分けられ、前者には「捕虜上級将校中ヨリ人格高邁ニシテ経験アル者」が充てられ、後者には「捕虜中思想堅確ナル者」が選ばれた。この制度によって 42年5月から43年3月までの間に約2万の警官が育成された。それでも人数が限られ、多くを現職の警官に頼らなければならない状況であった。
並行して、一般住民による自警組織「保甲制度」が創設され、42年8月7日から実施された。「保甲制度創設要綱」によれば、その方針は、一般住民が保甲の哨戒にあたることで各住民の「自粛自戒」を促し、その「有機的活用」によって「更ニ治安維持ノ完璧ヲ期スル」ことであった。
憲兵隊とフィリピン警察による捜査も成果を上げた。とりわけゲリラ指導者の検挙はその配下の組織の弱体化や潰滅につながるものであった。捜査においてもフィリピン人の密偵が使われた。密偵やフィリピン警察関係者もテロその他による殺害や拉致の被害者となるケースが少なくなかったが、ゲリラ側から勧誘されることも多かった。実際、警官の中には武器を持ったままゲリラに身を投じる者がいたことは確かなようである。
この間に日本側が講じた諸々の対策は、ある程度の効果を発揮したものの、第14軍憲兵隊本部は徹底した討伐を実施する中、フィリピンにおける治安悪化の原因について分析している。
フィリピンの治安悪化は原因が多様かつ複雑であるが、根本的な原因は2つである。第一に、戦前の米国による統治は、それほど悪政ではなく、少なくとも住民は衷心から米国の恩恵を感じ、理屈抜きに米軍の再来を待望し、また、かなりの程度、その可能性を信じている。第二に、日中間での紛争開始以降、日本軍は無茶をするという米国の反日宣伝が民衆に意外に普及徹底しているところに、日本の一部の軍人・軍属がそれを裏書きするようなことを行ったため、一般住民が日本軍を必要以上に恐れるようになってしまった 。
(日本軍政期のフィリピンにおける陸軍の治安維持 立川 京一)
日本軍の占領政策
日本軍の占領政策は、宣撫の努力を弱体化させた。イロイロでは、13歳のトマサ・ソリングノグが寝ているところを日本兵につかまったが、彼女の父親は彼女を守るために飛びかかった。彼女は回想「私の父は、ヒルカ大尉に刀で殴られました。私は駆け寄り抱きしめたのですが、その時、父の頭はすでに体から切り離されていることが分かりました。私は大泣きしましたが、日本人は容赦なく私を家の外に引きずり出してしまいました」。彼らは彼女を、多くの女性が住んでいる、各部屋にバスルームのある2階建ての家へ連れて行きました。少なくとも4人の男が毎日彼女をレイプし、洗濯を強要した。彼女は後に証言「どれくらいいたか覚えていない。私はすでに正気を失っているように感じたからです。いつも父のことを思い出しては泣いていました」。彼女は結局逃げ出したが、日本軍将校に捕まり、愛人と召使にされた。彼女のような話は、比人の親族ネットワークに広がっていった。(James Kelly, WAR and RESISTANCE in the PHILIPPINES, 1942–1944)
| パナイのゲリラ戦(1942年後半) |
8月24日、再編ゲリラ軍は日本軍攻撃の火ぶたを切った。ゲリラ側の記録によると8月中のゲリラ側の攻撃は次のようになっている。
24日、ハニワイ町カルメイの警備隊襲撃、日本兵20人を殺し弾薬を奪った。コンペソール知事の弟、パトリシアが、カバツアン墓地近くで日本兵を待ち伏せ攻撃をして10人を殺し、トラック一台を奪った。バシー町ビタオガンで日本人運転の汽車を襲撃し、脱線させた。ドゥナエス町にて日本兵と日本軍協力住民を乗せた自動車を襲撃し殺し、兵器弾薬を奪い、自動車も焼いた。さらにドゥナエス警務隊を襲撃、これを救助に来た日本兵を待ち伏せ攻撃、日本兵はトラックを放棄して逃走した。また他の襲撃隊はカリノグ警備隊とハラウル川の分哨を襲撃した。さらにイロイロ市周辺の日本軍警備隊を攻撃した。29日、イロイロ州とカピス州境のパシー町マンニットにて米人のゲリラが鉄道にダイナマイトを仕掛け、日本軍が載ったディーゼル車1両を吹き飛ばした(この爆破で瀬能部隊の第四中隊長旭又雄中尉、西部少尉ら20人の日本軍将兵が戦死した。瀬能部隊長は甲部車両に乗っていたため何を免れた)。
このほかゲリラは、各所で日本軍警備隊を攻撃又は待ち伏せ攻撃を行ったため、瀬能部隊は多数の戦死傷者を出し兵器弾薬も奪われた。また、ゲリラ兵は日本軍に対する憎悪と怒りのあまりあるいはまた島民の戦意を高めるため、殺した日本兵の首を切り落として町の広場にさらすこともした。
パナイ島のゲリラは9月に入っても攻撃を続行し、9月2日、ドゥナエス町南方で120人の日本兵が線路上を移動中ゲリラの待ち伏せ攻撃にあった。同日、ナラガ町(イロイロ市東北18㌔)北方のバンガバンテで日本兵が襲撃された。3日にはカリノグ町マリボングの警備隊分哨が襲撃された。同日、ハニワイのシュガー・セントラルが襲撃を受けた。5日にはボトタン刑部隊が大襲撃を受け、以後、交戦が続いた。6日にはマアシン警備隊と西方3キロのダハ水源地の警備隊分哨が襲撃を受け、また、ハニワイの警備隊目撃を受け警備隊は全滅した。同日、イロイロ市北方20㌔のサンタバラバラ警備隊が攻撃をうけ、戦闘は1週間続いた。22日アンチケ州シバロン町イグタグマイでトラック2台に分乗した日本軍が待ち伏せ攻撃を受けた(この戦闘で第一中隊長代理の稲山副官が戦死した)
10月に入ってもゲリラの攻撃は続き、4日にはアンチケ州パトノゴン警備隊のマラウタス・ヒル警備分隊が攻撃され、さらに、5日カピス州カピス警備隊(当時第二中隊高山隊)が攻撃された。(このころカピス集荷リボ警備隊(隊長伊藤中尉)は独断でカピスに撤退した)
ゲリラ側は警務隊攻撃ばかりでなく、イロイロ市付近に出没して警備の分哨を襲った。市内でも銃声が頻々と聞かれるようになった。このためわずか1個大隊の兵力で派遣された瀬能部隊は戦死者が続出、警備隊は撤退に告ぐ撤退で、隊員はゲリラの襲撃に恐れおののき士気は低下した。ゲリラ軍は街を日本軍から奪取すると勝利を祝してプラサで式典を開き、教会の鐘が鳴り響く中でアメリカとフィリピンの国旗を掲げた。街には直ちに役場が作られ、町長、町会議員、警察、裁判所など行政機構が復活された。9月末には、ゲリラ軍占領地域では日本軍上陸前とまったく同じように行政が行われるようになった。
10月上旬、日本軍の占領地区は、イロイロ州ではイロイロ市、ポトタン街、サンタバラバラ町、カピス州カピス町、アンチケ州サンホセ町のみとなった。イロイロの北の4つの警備隊はいずれもゲリラ軍に完全に包囲され、兵士たちは陣地より一歩も出られない状態となっていた。イロイロ市周辺の警備隊分哨も、連日連夜ゲリラ軍の襲撃を受けるばかりでなく、州庁舎を本部とした瀬能部隊の本部が、夜に入ってからイロイロ川対岸から襲撃を受けるようになった。瀬能部隊では兵力不足であったため、在留邦人の男子もほとんど銃を取り、市の警備に当たった。市内の治安も急転悪化し、町は人通りがなくなり、不気味な死の街と化した。慰安所の比人の女が対日協力者としてゲリラに拉致されたり、日本兵の夜間外出も危険となった。このため日本人小学校の生徒の通学には1個分隊の兵が警備に当たった。(フィリピンの血と泥)
ゲリラ軍が優勢になってくると、ゲリラ軍に投ずるフィリピン人も増え、元第61師団の哨兵は続々と復帰、9月末には自由パナイ軍は約8000人に膨れ上がった。このためペラルタ中佐は3個連隊で1個師団を編成、第61師団とし、師団長に就任した。師団参謀長兼第63連隊長にはレオポルド・レルニア中佐が就任、イロイロ州を担当した。第64連隊長にはチャーベス中佐、カピス州担当、第65連隊長にバレンチン・V・グラスパレル少佐でアンチケ州担当となった。師団はカリノグに兵器工場を作り、補給経理部を設置して、正規フィリピン軍の形態をとるに至った。
10月上旬には、イロイロ市とサンタバラバラ警備隊を完全に包囲し、一方、イロイロ州の中央部にある要衝ポトタン警備隊の総攻撃に入った。兵力不足の瀬能部隊はイロイロ市の確保も難しい状態となっていた。このような情勢の中で、我々第11独立守備隊独立歩兵第37大隊のパナイ島進出となるのである。(フィリピンの血と泥)
パナイ島では、ペラルタはコンペソールと、人員、物資、資金、市民の権利、州兵の管理などをめぐって対立していた。コンペソールは依然として民衆の忠誠心を維持し、ゲリラの違反行為から民衆を守っていた。ペラルタは、コンペソールが75%の税金をペラルタに納める限り、コンペソールの政府にも地方警備隊にも干渉しない、というものだった。
| パナイのゲリラ戦(1942年後半) |
第11独立守備隊独立歩兵第37大隊、42年8月、私(熊井麻美)はバターン半島攻略戦、北部ルソン島勘定作戦の後、北部ルソン島パンガシナン州ウルダネータ町の警備隊長をしていた。毎日、これが戦場かと疑いたくなるような平穏な楽しい日が続いていた。9月下旬、転属命令が来て第11独立守備隊に編入された。守備隊長は井上靖少将。私は独立歩兵第37大隊(大隊長福富寿少佐)の第三中隊(中隊長川野昭雄中尉)の機関銃小隊長だった。部下にはバターン半島攻略戦当時の分隊長、岡崎軍曹、松尾伍長がそのまま分隊長となったので心強かった。やがて命令が下り、福富大隊はパナイ島守備(第二中隊長野隊はボホール島守備)、同時に編成された第36大隊の大盛部隊(部隊長大森善治大佐)はレイテ島の守備と決まった。この時初めてビサヤ地区はゲリラ活動が激しく治安が悪いという情報を聞かされた。
10月9日輸送船「木曽丸」8000㌧はマニラ港を出港、12日午後イロイロ市沖合についた。トラックで市内に入り、捕虜収容所となっているスペイン時代に作られた城塞「フォート・サンペドロ」(戦後取り壊し、現在はナイ)の前を通ると2,300人の捕虜がぼんやりと無表情に我々の車の列を見下ろしていた。翌日から瀬能部隊との交代が始まり、イロイロ市周辺数か所の警備分哨は第四中隊(中隊長吉岡信中尉)がこれに当たった。私の中隊はこの間、暇を見て街の近郊へ出て討伐や訓練を始めた。
日本軍の苦悩
或る日、ゲリラ討伐になれるため、私の中隊は憲兵下士官の案内でイロイロ市西方20㌔のオトン方面の討伐に向かった。途中の民家は軒並み無人で、オトン教会付近でやっと二人の若いフィリピン人をとらえた。憲兵はゲリラの隠れ場所を尋問したが、若者は知らないとすげなく答えた。憲兵は殴ったが、若者は何も知らぬと繰り返しているばかりだった。やがて憲兵はバケツ一杯の水をもって来て、若者の口にどんどん流し込んだ。若者の腹は見るうちに大きく膨れ上がり、苦しみ悶えた。憲兵はそれでも「隠れ場所を言え」と怒鳴ったが、若者は苦しみながらも知らぬと首を横に振っていた。隊員たちは顔を背けていたが、たまりかね『やめろ、やめろ』と声が上がり、川野中隊長や私も憲兵をなじり拷問をやめさせた。討伐終了後、憲兵隊長大蔵中尉に報告したのか、翌日、川野中隊長は本部の作戦情報主任、渡辺堅吾大尉に呼び出され、憲兵隊の情報収集を妨害したと怒鳴りつけられた。
イロイロ市周辺の警備後退が終わると次は東北34㌔の瀬能部隊第四中隊旭部隊とポトタン警備隊の後退である。10月15日、交代要員を護衛するため、瀬能部隊の第三中隊(中隊長高橋常道中尉)と私の属する第三中隊の主力が同行、ドラックに分乗して出発した。市街に出てサラガ町南方500m付近まで進むと突然、先頭車両の方向でバリバリと銃声が聞こえた。我先にトラックから飛び降り、地上に付した。川野中隊長の顔は真っ青、兵たちの顔もひきつっていた。約200m先の路上に、わが軍のトラックが2,3台、立ち往生していた。すぐそばには高橋中隊の兵が3,4人倒れており目の背けるばかりの光景だった。ヤシ林めがけて一斉に乱射、約40分間にわたって打ち合ったが、敵の方が疲れたのか後退したため、戦いは終わった。高橋中隊と田辺小隊はポトタンに向かい、我々第三中隊は橋の警備のためにのこった。田辺小隊はポトタン警備隊の交代を終えた。…が交代したポトタン警備隊は、翌朝からゲリラに襲われていると本部に打電してきた。ついに「弾薬尽く」との無電が入ったため、福富部隊長以下本部の将校は驚き、10月18日約50人の兵をトラック4,5台に分乗させ、弾薬、食料を満載しポトタン警備隊の救援に向かわせた。しかし出発後しばらくして一台のトラックが古田中尉を乗せて慌てかえってきた。古田中尉は胸部を負傷していた。報告で、例のサラガ橋を渡るとすぐゲリラの待ち伏せ攻撃を受け、「弾薬満載のトラックも行方不明、重機関銃手が5,6人は確実に戦死している」というものだった。報告を聞くや部隊長は慌てて駆り集めるだけの兵をそろえて救援隊を組織、その大尉長に私を命じた。私はトラックでサラガ橋へ急行した。約18㌔の沿道には住民は一人も見えない不気味さである。午後3時についた。救援を待っていた佐藤少尉ら20人の兵たちは、すっかり青ざめ、口もきけないありさまだった。敵は前方と右方200~300mのヤシ林の茂みの中に隠れて打っており、わが方に少しでも動きがあるとバリバリと射撃していた。本道に砲を据え付け、正面300mの樹木めがけて約10発直射で打ち込んだ。その後2時間、敵と睨めあった。日が暮れるころ、総兵力で喚声を上げてジャングルめがけて突撃をかけた。すでに敵は撤退していたが、全員一気にヤシ林を抜けサラガ町のプラサに突進した。プラサには友軍のトラック3,4台が立ち往生しており、笹森上等兵ら5,6人が銃を構えていた。我々を見るや涙を流さぬばかりに無事を喜んでいた。
翌19日早朝、本道場にトラックの音がするので見ると、装甲車の上から福富部隊長、作戦情報主任の渡辺大尉があらわれ、我々の活躍に「よくやった」とねぎらいの言葉をかけてくれた。私が救援に行っている間に本部ではポトタン警備隊を撤収する方針を決め、福富部隊長は吉岡中隊を主力に本部の兵力をかき集めて救出に来たのである。…突然、パンパンと数発の銃声、友軍の兵が「ギャー」と声を上げた。その後銃声がするごと戦死者が増えていった。本部はマンドリアオ飛行場に救援の無電を打った。やがて日本軍の飛行機が飛来したものの、森林の中であるためゲリラを攻撃できない。夕方になり、ポトタン警備隊の救出も急を要するため、道路左側に重機関銃を二丁並べ、第四中隊の向原少尉が指揮する中に敵の方向に乱射し、少し前進した。福富大隊長は「これ以上の前進は無理だ」とポトタン警備隊に向かうことを断念した。せっかく警備隊まであとわずか1.5㌔のところまで進出しながら警備隊を見殺しにしてしまうこの部隊長の考えは、我々を不安にさせた。私は大隊長に救出を申し出、兵4~5人を連れて出発した。がむしゃらに水田を開け抜けた。ジャングルの中の4,5件の民家を中心に陣地を構えていた田辺少尉と横尾伍長は、我々を見ると涙を流して喜んだ。直ちに持てるだけの兵器、弾薬を持ち、あとは全部放棄して警備隊を撤収した。ポトタン警備隊は交代後、5日足らずで多大な損害を出して放棄するという敗北だった。
日本軍がポトタン警備隊を放棄した結果、ゲリラ側はさらに勢い得た。ラパス、ハロ、マンドリアオの飛行場やモロの各警備隊に対する襲撃もますます激しくなった。このゲリラ攻撃のため、市内の商店は夜になると店を占めるので、夜は人通りの全くない寂しい町となってしまった。
最後に残ったサンタバラバラの警備隊はポトタン撤収後、日本軍に残されたイロイロ唯一の分遣警備隊だった。間もなくゲリラ軍は主力をもって警備隊を包囲した。11月上旬のある日、夜明け前の静寂を破り、正面の重機に趙が突然火を噴き始めた。道路の向こう側20-30mの刺激に敵兵が動けずに伏していると見え、指揮者らしい声が悲愴な声で号令をかけているのが聞こえた。夜が明け始めると、ゲリラ側は正面の林より後退し、約400m前方のライ病院、北側のヤシ林、東側のヤシ林の三方向から建物めがけて打ち込んでいた。散発的な打ち合いは夜まで続いた。ゲリラ側の攻撃はその後毎日続いた。そして毎日何人かの戦死者が出た。戦闘の状況は毎日無線で本部に打電した。大隊本部でもついに救援に出動することになり、福富部隊長水からの指揮で第一中隊と本部の兵力合わせて250人と第三中隊豊田少尉の一個小隊が別働体として救援に向かった。しかし、この本部の救援隊も、パビアとサンタバラバラの間でゲリラの待ち伏せ攻撃を受け、郡司曹長他9人が戦死するという打撃を受け、やっとの思いで警備隊にたどり着くありさまだった。福富部隊長を見た警備兵が、慌てて「敬礼」と上げ銃をしたところ、「ここで上げ銃の敬礼をしたら、俺が指揮官とわかり危ないではないか」と悲痛に叫んだ。部隊長は警備隊の中隊長室に入るなり、ぐったりと腰を下ろし、神経質となり、我々の報告を効いたり、老躯をねぎらうどころではなかった。ちょうど病院に水があったので、兵たちはむさぼり飲んだ。フィリピン人の患者が「レブラ、レプラ」と阻止するが、いきり立っていた兵たちは「レプラがなんだ!」と患者から水をひったくってがぶ飲みした。落着き建物内を見ると、鼻がかけたものや、手足のない患者がいたので、初めて「ライ病院」であることが分かり、隊員たちは警備隊に駆け込み胃の消毒のためのクレオソート丸を欲しがったのであった。
部隊長は「兵力も少ないので今後救援に来ることはなかなかできない。お前たちで頑張ってやってくれ」と言い残し、救援作戦は終わった。豊田少尉の別働体30数人は、ブヨ(パビア西方4㌔)近くでゲリラの待ち伏せ攻撃に逢い、一昼夜にわたって抗戦。南波一等兵が戦死したほか12人が負傷した。南波一等兵の体は簡単に埋葬、かろうじて撤退した。後日、ハロ警備隊がハロ側の橋脚に日本兵の死体が引っかかったので調べてみると、南波一等兵の死体であった。ゲリラが見せしめのために死体を掘り出し、川に投棄したものであった。このような死者まで冒涜するゲリラの行為は我々を大いに憤激さ、だれもがゲリラ戦に対する決意を新たにした。
警備隊での戦闘に慣れるにつれ、我々が建物内で引きこもっていることはかえって不利であり、まず一戸分隊ぐらいの偵察斥候を出し、以後小隊単位の斥候を周囲のヤシ林やサンタバラバラの街の本道付近に出した。町は民家がほとんど焼け、住民が逃亡していた。バナナは実っていたので、毎日嫌というほど食べた。この間の戦闘で私の部下の岡崎軍曹、駒村一等兵が戦死した。こうした日が続いたある日、福富部隊長交代の方が入った。福富少佐は着任3か月足らずで内地の陸軍幼年学校付き将校としてパナイ島を去った
42年11月のパナイ島における日本軍の配備は、イロイロ市には独立歩兵第37大隊の本部と第一中隊、第四中隊が、イロイロ州サンタバラバラ警備隊に第三中隊の主力が、アンチケ州サンホセとその付近に瀬能部隊の三個中隊がいた。日本軍支配地はイロイロ市とサンタバラバラの一角、およびサンホセ町周辺だけで、あとは完全にゲリラ軍の勢力下にあった。(フィリピンの血と泥)
人々は、マリアおばさんが定期的に街の日本軍の兵舎に通っていることに気づいた。彼女の頭の上には、清廉に束ねたさやえんどうや卵、バナナ、赤いトマトを入れた籠が載っていた。彼女は、自家製の品を一般の市場で売らなかった。いつも日本軍が占領していた小学校の校舎へまっすぐに運んだ。日本兵は、実際にはくれるに等しいほど安く品物を売ってくれるこの静かな年寄り女が気に入っていた。そして軍票で支払いをし、ゲリラへの投降勧告を印刷してあるビラを数枚くれた。彼女はこれらを恭しく受け取った。すると彼らは「また来いよ」と叫ぶのだった。だが、村の人々はマリアおばさんが直接日本兵に物を売っているのを知って、けしからんことだと首を振り、嫌悪を舌打ちをした。
…彼女は一日も欠かさず籠を町の小学校の校舎へ運び続けた。日本兵たちは彼女が気に入って「小母さん」と呼んでいた。彼女がかつて卵を3つやったことのある若い日本兵がいた。彼とマリアおばさんは教会の近くにある交差点で出会った。日本兵は微笑し、土語でつっかえつっかえ言った「今帰るとこかい、小母さん」「そうですよ、ヒモタさん」「どこに住んでるのかい?」「ここからちょうど川を越したところです。今私と一緒に来れば、娘があなたに取り立ての玉蜀黍を焼いてあげますよ。いらっしゃいな」
一人が単独で来れば、咳一つ。一人以上であれば、咳二つ。もし二人いるとしたら、その場合はカルディンが待ち構えているから、彼女は示し合わせた場所でつまずいたふりをする。…ああ、彼は若く見える。18歳以上ではあるまい。そしてハンサムでもある。故郷には彼を待っている母親がいるのだろうか。…多分彼はアリーシャやフローラを強姦し村に火をつけたやつらの一人なのだ。私の双子の息子を倒した銃の引き金を引いた当の本人であったかもしれないのだ。
…姿が視野に入ってきた。彼はとびかかった。二つの若いたくましい肉体は取っ組み合って必死に格闘し、地面に突っ張った足を震わせ、恐ろしいつかみ合いに鉄腕を緊張させた。…次の瞬間、カルディンが日本兵の右腕をがっちつかんで逆側へ叩きつけたように見えた。ぼきっという音がした。そして日本兵は痛みに口をゆがめながら、あおむけに倒れていた。大急ぎでカルディンはハンカチで相手の口に猿轡をはめ、手荒にひっくり返して両手首をその背中で縛った。「行ってくれ。」カルディンはマリアおばさんに言い、日本兵の銃を拾い上げた。マリアおばさんは急いで立ち去った。振り返ると、カルディンが捕虜を道路から少し離れた叢の中に引きずり込むのが見えた。彼はその夜遅くまで家に帰ってこなかった。
翌朝、彼女は村でそのニュースを聞いた。前の日の午後遅く川で水牛に水浴びを指せていた牧童の何人かが、川を漂い下ってきた死体が引っかかっているのを見つけて、震えあがった。…その死体は真っ裸で、めちゃめちゃに斬りさいなまれていた。目は抉り取られ、耳も鼻もそぎ落とされていた。しかし、なによりも恐ろしいことは、男根が切り取られていた事実であった。その日以来、マリアおばさんはカルディンのことが少し恐ろしくなり始めた。
…カルディンは言った「マリアおばさん、長いこと止めてくれてありがとう。俺、この銃をあんたに預けておくよ。それが必要になったら、取りに戻ってくるからね」次の瞬間、彼はゴンドイの銃を取り上げて歩き去った。ブラスが言った「いったいどこにいたんだ。カルディン?」「ほら、お前の銃だ。ゴンドイ」ルーベンは「カルディン、お前が俺たちの仲間に加わるときじゃないのかい?、何か起こった後なら加わるのかい?」カルディンは彼らを素早く一瞥した。彼は、それ以上何も言う必要は無いと感じた。…ゴンドイはこの従兄を抜け目ないまなざしでにらみつけていた「お前、知らないのかい? カルディン。昨日、俺の弟や他の牧童たちが川の中に日本兵の裸の死体を見つけたんだよ。その体は恐ろしくめちゃくちゃに斬られていた。誰か気違いがやったに違いないんだ。」「多分な」カルディンは言った「来いよ、コスメのとこに行って、一杯やろうや」(ステヴァン・ジャヴェリャーナ 暁を見ずに)
| パナイのゲリラ戦(1942年後半) |
日本軍はミンドロ警備隊を簡単に丘陵地帯に追いやった。ミンドロ島最大のグループの一つは、ルソン島出身の警察官司令官ラモン・ルフィ少佐の下にあった。対抗グループは、陸軍予備役でオリエンタル州の学校の校長であったエステバン・ベロンシオ大尉の下で結成された。ルフィは警官隊に、ベロンシオは民衆に忠誠を誓っていた。9月には、米軍の無線技師チャールズ・H・ヒコック軍曹が到着し、30人ほどの比人を組織したが、11月、ヒコックはペラルタに連絡し、フィリピン第4軍団のもとでミンドロ島を担当することを許可された。そしてペラルタはヒコックを比人に置き換えた。
ネグロス島ではアブセデがタンジェイ付近で軍備を整え続け、トーレスはブエナビスタ付近で日本軍と戦った。11月までにアビセデは7千人の信奉者を得たが、その多くは家族であり、彼は昔の同級生ペラルタから軍団の中佐への昇進を申し込まれた。ペラルタの勧めで、アビセデは南方のアウセホと北方のマタを勧誘しようとした。
ロンブロンでは、フィリピン商船隊長コンスタンティン・C・ラバルが3月からペラルタと同盟を結んでいた。11月までに彼は、ほとんど何もできない小さな脆弱なゲリラの一団を組織していた。しかし、ペラルタはロンブロンをルソン島への戦略的足がかりとして重視し、喜んでラバルをフィリピン第四軍団に吸収した。
パナイ島の北、ミンドロ島の東に位置するマリンドゥケに日本軍は7月7日に上陸し、ソフロニオ・T・ウンタラン中尉率いる小さな治安部隊の守備隊を降伏に追いやった。ペラルタはルソンへのもう一つの足がかりとしてマリンドゥケを支配下に置くため、1943年初頭に諜報員を投入し、エンリケ・ジュラド中佐にヒコックをタブラス島から連れ戻させて諜報員の立ち寄りを組織させることになる。
| パナイのゲリラ戦(1942年後半) |
SWPA(マッカーサーの南西太平洋司令部)の支援を必要とするペラルタは、イロイロのラジオ局局長マリアーノ・トレンティーノに、サラの本部に送信機を移動させたが届かなかった。トレンティノはその後、放棄された英国の貨物船からより強力な送信機を確保した。10月30日、彼はマッカーサーとケソンに向けた暗号なしのメッセージを放送し、サンフランシスコのKFSがこれを受信、翌日の夜、ダーウィンの豪空軍基地KAZに中継された。
ペラルタは8000人のゲリラを指揮すると主張し、こう宣言した。
| 「我々はパナイ島内陸部と西海岸をすべて支配している。民間人と役人は99%忠実である。物資は町から離れた場所に(航空機で)投下することができ、潜水艦は(大きな町から)20㍄以上離れた場所に海岸を作ることができる」 |
SPWAにとっては、これはあまりにも良いことのように思えた。ブリスベンでは、メルル・スミスが「おそらく善意のものだが、誇張が混じっている」と述べている。ワシントンでは、エヴァンス大佐がチック・パーソンズに、このメッセージは日本のトリックではないかと尋ねている。パーソンズは、恐らく本物だろうと考えていたが、確実に知るためには誰かをフィリピンに送るしかないと言った。パーソンズは志願し12月17日までにブリスベンに向かっていた。
日本側の策略に疑念を抱いたまま、KAZは11月5日にようやく、彼のメッセージを受け取ってマッカーサーに渡したことを知らせた。ペラルタが暗号を持たないことを知っていた連邦航空局は、これ以上の通信をためらった。ペラルタはこう合図した。「降伏前にすべての暗号は破壊されたが、暗号装置M-94はある。私たちは血の汗を流しながら、あなたに連絡を取り、私たちの要求を伝えました。今、我々を失望させるつもりなのか?」 ペラルタはSWPAに、かつての師団参謀学校の同級生で、ケソン大統領と旅行中のハイメ・ベラスケス中佐に連絡を取り、「暗号装置 M-94のキーフレーズ」を手に入れることを提案した。数週間後、KFSは陸軍省からのメッセージをペラルタに転送「ケソン大統領とコンペソール総督が最後に食事をした場所の名前を二重転置した複合暗号装置 M-94をキーワードとして暗号文を解読せよ」というものであった。パナイ・ゲリラがこの謎を解き、安全な通信のための暗号を構築するまでに数週間を要した。
ペラルタは、フィリピンの全ゲリラを自分の指揮下に置くことについて、SWPAの承認を求めていた。彼は既にネグロスのアブセデとアウセホ、レイテのミランダ、サマルのメリットに接触し、レルニアの下に第61師団を置き、フェルティグと協定を結んだつもりであった。彼の主張する八千人の兵力は確かにマッカーサーを感心させた。日本軍はパナイ島に八百人の兵力しかなかった。一方、ペラルタは戒厳令を宣言し、パナイ島の傀儡知事「カピスのエルナンデス」を捕らえ、死刑を宣告したと報告している。これは法的な問題を提起した。SWPAはこう答えた。「軍に関しては、あなた方の権限は、あなた方が知っている軍法と規則によって定義されます。民間の共同体や住民に関しては、軍の安全を守るために行動を起こすことを許可する以外、何の権限もない」。
ペラルタの通信は、彼が組織内に米人を抱えていないことを示すものだった。これは意図的なもので、彼は戦後の独立のために比人の立場をより良くしようと考えたからである。SWPAは後にこう報告している。「11月、12月、1月のGHQとのメッセージのやり取りで、ペラルタはGHQがフェルティグと無線で連絡を取っていない、あるいは知らないと思っていたようだ」。
1942年11月2日、マカリオ・ペラルタは8000のゲリラ部隊を指揮をとっていること、そして州都を除いた島の内陸部すべてと西海岸を支配していることを打電したのだった。「市民と官吏は99%がこちら側に忠誠を誓っている」「一兵卒に至るまで、皆閣下に絶対的信頼感を持っています」という言葉にマッカーサーは愁眉を開いた。5月パナイ島を守備していた極東米陸軍第61師団長は、降伏命令を受け、部下に「自分は降伏するが、君たちにまで降伏命令が及ぶわけではない」と語った。そのためフィリピン人兵士の多くは降伏せず、武器をもって日本軍に抵抗する道をえらんだのだった。(米陸軍公式報告書「History of intelligence Activities under General MacArthur」)(レイテに沈んだ大東亜共栄圏)
| パナイのゲリラ戦(1942年後半) |
マニラの軍司令部はパナイ島に新兵力を投入して勘定作戦の実施を決定した。米軍から押収したM3軽戦車四両の1個小隊(隊長前田少尉)、16師団より野砲1個小隊(小隊長小泉中尉)二門を配属。我々部隊はイロイロ市―サラガ―ポトタン道以西の地域。本作戦に応援兵力として派遣された第63兵站警備隊(部隊長三好中佐、二個中隊)はイロイロ市―サラガ―ポトタン道以東の地域。仏印サイゴンで編成された独立歩兵第38大隊木下部隊はカピス州の大部分。アンチケ州サンホセの瀬能部隊は同州。これに航空隊一個中隊数機。海軍からは欧州米砲艦「唐津」と碇泊場司令部の上陸用舟艇隊が協力した。この作戦には、守備隊司令官井上靖少将がセブ市よりイロイロ市に戦闘指令所を移し、直接その指揮を取った。我々の大隊の指揮は、作戦情報主任の渡辺大尉がとった。渡辺大尉は当時34,5歳、幹部候補生出身の特別志願現役で、満州事変、支那事変、バターン半島戦などに参加しているので戦闘経験は部隊一だった。彼の戦闘方針は強引作戦だった。本部の経理、下士官、兵をかき集め本部直属の戦闘隊を作った。このため、本部は少数の病弱の兵を残すのみで事務機能はストップしてしまった。部隊の戦闘兵力は、第一中隊全部、第三中隊及び第四中隊主力、本部一個小隊、計三個中隊の兵力になった(第二中隊はボホール島警備でパナイ島にいなかった)。
42年11月20日、前期勘定作戦の火ぶたが切られた。まずイロイロ市西北16㌔のサンミゲル町攻略戦が始まった。夜間を利用し、サンミゲルに向かった。第一中隊は上陸早々ゲリラと遭遇、これを撃退しかなりの戦死傷者を出しつつも北上した。渡辺大尉の指揮する部隊主力は日没を期してマンドリアオを出発した。ゲリラ軍は道路上に大木を切り倒して障害物をこしらえていた。途中の橋は全部落とされ、監視小屋を一つずつ進んだので16㌔の道のりに一晩もかかった。こうして早朝には本部主力、第一中隊、福富小隊は予定通り、サンミゲル町につき合流した。サンミゲルを包囲していたゲリラの大部隊が攻撃をかけてきた。午前中互角の打ち合いだったが、日が暮れるころには撤退した。我々はやっと飯にありつき、ぐっすりと寝込んだ。しかし、部隊主力は、夜11時に行動を起こし、カバツアン(イロイロ市北24キロ)に向かって本道を北上した。間もなく、戦闘部隊が地雷に触れて数人の負傷者が出た。待ち伏せしたゲリラが夜明けまで撃ってきたが明るくなると撤退した。数時間打ち合った後、敵を撃退する。残った飯を食うなり、高いびきで眠る。そこへまたも敵の攻撃。一挙に敵中突破するため突撃をかけることになり、「突っ込め」の号令で一気に喚声を上げて突っ込んだ。この勢いでゲリラの方は度肝を抜かれたのか、算を乱して退却、部隊はその後を追ってカバツアン東方2㌔のカバツアン教会付近に敵が集結していたので砲と重機関銃で猛攻撃を加え、敵を四散させてからカバツアン街を占領した。部隊は同夜、サンタバラバラ警備隊で休養すべく、カバツアン―サンタバラバラの道を東進したところ、道路には大木を切り倒した障害物がいたるところに積んであった。警備隊の中で一夜休養を取った部隊は、行きつく暇もなくハニワイ(イロイロ市北方33㌔)の攻略戦に入った。部隊は夜間に行動を起こし、ハニワイ付近で夜が明け、敵は道路の左高地から一斉射撃を加えてきたので大隊砲で応戦して撃退した。本道場には数か所地雷が施設してあった。ゲリラ軍は陣地を作り、待ち構えていた。激闘数時間後、ゲリラ側はついに敗走、部隊はすかさずハニワイ町に突入したが敵はすでに火を放ち逃走していた。部隊は次のマアシン及びダハ水源地攻略のためカバツアンに引き返した。この戦闘で第一中隊の天野中隊長はゲリラに狙撃され即死した。部隊でただ一人の中隊長の戦死だった。
マアシン町はカバツアン西方7㌔にある町で、その西方3㌔にはイロイロ市に給水する水源地ダハがあった。瀬能部隊の警備分隊が全滅してからはゲリラ軍に占領され、イロイロ市の水道は断水のままだった。第一中隊と第四中隊がマアシンの攻略に向かった。敵もいなかったので引き続きダハ水源地に突入したが、ここもすでに敵は逃走した後だった。「ダハ水源地」と日本語で書かれた門柱が横倒しとなっており、日本兵二人の遺体がさらされ白骨化していた。後日、この水源地を確保するため、渡辺大尉は取水口にコンクリート製トーチカを作って守りを固めた。部隊は次の目標イロイロ市西北22㌔のアルモジアン町を攻略すべくマアシンとサンミゲル方向から行動を起こした。しかしゲリラはサンミゲルとアルモジアンに放火して逃げてしまっていた。これでイロイロ平地の勘定作戦は終わった。
42年12月早々、ゲリラの主力の根拠地山岳部のカリノグ町(イロイロ市北方約53㌔)の攻略戦が開始された。その前哨戦としてハニワイ北方約10㌔、米極東軍第61師団司令部のあったランブナオ町を攻撃することになった。この作戦ではポトタン周辺のゲリラの抵抗が最も激しく、第63兵站警備隊は2晩にわたて攻撃したが、苦戦し、ドラム缶の中に土を詰め、それを盾に転がしながら敵陣に近づき、やっと占領したという。ハニワイに合流した部隊は3個中隊、戦車、野砲、大隊砲、それに航空機も協力してハニワイ―ランブナオ道を北上した。途中敵の陣地には野砲、大体法、航空機の銃撃を浴びせたので敵陣は次々と壊滅し、敵は敗走した。余りの急追劇だったので、敵のトラックと友軍のトラックが曲がり角で出会い、敵は慌てて引き返そうとしてトラックごと谷へ転落するということもあった。突進でゲリラ軍はランブナオの街を放棄、支離滅裂となって敗走した。ランブナオの街に入ると、町に大きな教会が立っており、多数の地図、書類などが散乱していた。敵の放棄したトラックから多数の小銃弾や手投げ弾、日本軍の96式 軽機、銃器の三脚、擲弾筒の弾丸や衛生材料が見つかった。部隊はランブナオで態勢を整えるや、午後には敵の拠点カリノグ町の攻略に向かった。ハラウル川に達した頃、敵は途端に猛射を浴びせてきた。今回の勘定作戦では、初めての大戦闘となった。敵の兵力は二個大隊とみられた。あちこちで戦友の悲鳴、唸り声が聞こえ、あわや全滅かと思われたとき、後方から渡辺大尉の率いる部隊主力が駆けつけてきた。直ちに野砲、大隊砲を並べて敵陣にもう砲撃を加え、第一中隊を左側から渡河させ、敵の背後をついた。このため敵は算を乱して敗走、砲はさらに敵の敗走する方向に砲撃を加え、友軍機も爆撃を加えた。こうしてカリノグ町を占領した。一部兵力を残して部隊主力はイロイロに帰還した。
つづいてイロイロ州西部の攻略に移った。目標はイロイロ市西北28㌔のレオン町、海岸沿いのチグパアン、グンバル(イロイロ西方28㌔)であった。この方面ゲリラは比較的小兵力で、町に近づくとゲリラは町に放火して逃げ、作戦終了時には3つの街が灰燼に帰した。こうしてイロイロ州の平地一帯はわが方の武力が圧倒してきたため、ゲリラは鳴りを潜めることになった。ゲリラ側の戦死者は意外に少なく、彼らは後世の時が来るのを待っているようだった。
治安が回復するとその地域では早速住民に対する宣撫工作が始まった。そのころ、新部隊長として戸塚良一中佐が着任した。陸士30期、東京の某師団の大隊長として中国大陸での戦闘に参加、のち満州の独立守備隊長から転任してきた人である。一方瀬能部隊長は12月左遷され、樺太連隊地区司令部付きとなりパナイ島を去った。このころ、捕えた捕虜を取り調べた結果、ゲリラ軍の編成が明らかになってきた。ペラルタ中佐が第61師団(パナイ)、第72師団(ネグロス)、第83師団(セブ)の三個師団を基幹とする第4比軍を編成して軍司令官となり、パナイ島ゲリラがビサヤ地区の中心であること、また12月中旬には大佐に進級していることが分かった。さらにパナイ島の第61師団長はレルニヤ中佐、師団参謀長兼第63連隊長はチャーベス中佐、師団司令部の所在地はカリノグ西方約20㌔、パナイ島西側を南北に縦走する山脈のほぼ中央のパロイ山からデラデラ山付近であった。
42年12月18日第四フィリピン軍は、マッカーサー司令部から正式に承認されたが、その後の日本軍の兵力増強と勘定作戦と討伐で、軍本来の任務達成が困難となり、また各島ゲリラ間の内部抗争もあり、43年2月13日、マッカーサー将軍の命令により第四フィリピン軍は解体され、開戦前の軍区性となり、パナイ島ゲリラ軍は第6軍区軍となり、ペラルタ大佐が軍司令官となった。(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1942年後半) |
ポートモレスビーにいたマッカーサーは、ペラルタが「ビサヤ地方の戦闘員の指揮」を執ろうとしていることに疑問を抱いていた。12月17日、SWPA司令官はペラルタに無線連絡した。
| 「第一の使命は組織の維持と最大限の情報の確保である。戦闘活動はこちらからの命令があるまで延期すること。このような早まった行動は、罪のない人々に大きな報復をもたらすだけだ」 |
これはゲリラの正統派と矛盾する。毛沢東が主張したように、攻撃は人民の支持を維持するために重要であり、人民の支持を失うことは、"敗北と破壊の危険 "につながるのである。さらに日本軍を攻撃することは裏の理由があった、ファーティグははっきりといった。
| 「国民は自分たちを信じるために、どんなに小さくてもいいからすぐに勝利を得なければならない。犠牲者の負担をするのは市民であるからだ。日本軍が虐殺したのは民間人であり、そして、抵抗がある限り、日本人は獣のような存在であり続けるだろう。 …「その地域で破壊工作や日本人の暗殺を行い、日本軍を刺激して、民衆を味方につけるような報復をさせるのです」。 |
これは残酷だが効果的な政策で、多くのゲリラが採用していた。実際に日本軍により討伐されたのは大半が民間人で、ゲリラの損害は少なかった。
SWPAはさらに、ペラルタに、米国が保証する証明書でゲリラに支払うよう指示した。
| 「敵に占領されたフィリピンで、戒厳令の下で活動することはできない、貨幣を発行することは、現実的には不可能である」 |
この指示は、ペラルタとの権力闘争において、知らず知らずのうちにコンペソール総督を利することになった。並立して存在したコンペソールの民事政府は、当初から裁判所まで持ち、緊急紙幣も発行していた。その3日後、SWPAは返事を受け取った。
| 「マッカーサー元帥、ペラルタ中佐より。任務は必ず達成される。謙虚な兵士はあなたとアメリカを盲信していた」 |
「元帥」とは、もちろんマッカーサーが戦前、ケソンに仕えていた時の階級である。
マッカーサーはペラルタへの返電には、情報収集を重視し、日本軍との直接戦闘を避けるライ・ロー(雌伏)、そして、勝利の暁には過去にさかのぼって給与を支払う(バック・ベイ)という約束である。「君のフィリピン軍部隊再編の行動は高く称賛され、ここにいる我々すべては強い興味を持った。指示された訓練を続けよ。主要な任務は、部隊を維持し、なるべく情報を収集することである。攻撃的なゲリラ活動は、司令部からの要請があるまで延期されたし。早まった行動をとると、無関係な人々に日本軍が仕返しをする恐れがある。部下に、アメリカは後で給料を支払うという説明書を発行せよ。敵には大きな圧力がかけられており、我々は最終的に勝利を収める。いつ帰るかはわからないが、我々は必ず帰る」(米陸軍公式報告書「History of intelligence Activities under General MacArthur」)(レイテに沈んだ大東亜共栄圏)
SWPAはペラルタに別のメッセージを伝えた。「戦闘チームのリーダーがスパイを『軍法会議』で処刑する権限は、我々の陸戦規則では認められていない」。ゲリラには捕虜を維持するための食糧も人員もなかった。ラムジーは後に「その結果、我々の部隊が日本人や比人の協力者やスパイを捕らえるたびに、その者は短く尋問された後、殺された 」と説明している。SWPAはもちろんそのような極端な行動を許可することはできず、ゲリラは統一軍事裁判法の下で厳しい処罰を受ける危険性があった。「日本軍が私を捕まえたらほぼ間違いなく処刑するだろうとは思っていたが、自分の国が戦後、敵と戦ったことで私を罰するかもしれないとは、私には想像もできなかった」とラファムは書いている。マッカーサーはゲリラを軍から切り離し、給与や手当を支給しないことで、彼らの行動に対する法的処罰から実際に守っていたのである。
トーマス・コンペソールはレジスタンスのゲリラ総督であった。しかし、彼は日本軍からだけでなく、皮肉にもマカリオ・ペラルタ率いる軍事ゲリラ軍からも多くの困難に直面した。
責任の所在を明確にすることで、その違いを埋めようと努力したのは、両氏の功績である。しかし、戦争はより多くの虐待を生む。コンペソールはこれらの虐待と戦った。陸軍将校が食糧と女性のためにディングルの特定の家を略奪したとき、コンペソールはそれを止めるために警察を派遣して対応した。ラムナオでも同じようなことが繰り返されると、彼はマカリオ・ペラルタ大佐に手紙を書き、虐待を糾弾した。彼は言った。
力は決して正しいものではない。戦時中であっても、個々の軍人の利益が市民の権利より優れていることはありません。兵士は、前の晩に食べるカモテを与えられなかったからといって、テニエンテ・デル・バリオやロンダを虐待する権利はありません。私はこれらの戒律を守り、それに反するいかなる邪悪な提案にも反対する。
ペラルタは言った。
| 「コンペソールは山に隠れるだけで何もしなかったので、英雄ではない」 |
ケソンは、ペラルタ中佐が担当しているフィリピンでのゲリラ作戦の管理について、マッカーサーに宛てた手紙の草稿を見せてくれた。ケソンは、イロイロ州知事のコンペソールのように、軍人だけでなく文官も任命しようとするマッカーサーに憤慨していた。マッカーサーには、若き飛行士ビジャモールがイロイロなところに行っているので、このような問題を任せるべきだと伝えている。日本軍に協力しているフィリピン人を裏切り者のように扱わないように注意しなければならない、そのような態度は彼らを本当に裏切り者にしてしまうかもしれない。8月に2人の若い米軍将校が日本軍の陣地を抜けて脱出するのを助けたのは、敵に仕えた者たちだったという。北部の町に住むフィリピン人に対するゲリラの略奪行為を止めなければならない。日本軍の兵役を受け入れた者の多くは、我々が戻ってきたときに、今与えられているライフルを使って日本軍に対抗するだろう。
| 概要 パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) パナイのゲリラ戦(1942年後半) パナイのゲリラ戦(1943年前半) パナイのゲリラ戦(1943年後半) パナイのゲリラ戦(1944年前半) パナイのゲリラ戦(1944年後半) パナイのゲリラ戦(1945年) パナイのゲリラ戦、終戦後 |
| 43年5月のパナイゲリラ管区 |
パナイ島は、石原産業が「下級日本人」を使って鉱山労働者を強制的に採用し始めると、憤慨が高まった。
43年1月早々、後期勘定作戦が開始された。目的はゲリラ軍の本陣、デラデラ山、パロイ山の敵司令部の急襲とレルニア師団長、参謀長兼第63連隊長のチャーベス中佐の逮捕だった。部隊主力は戦車を駆使し、ハニワ――カリノグ間の本道を確保するとともに渡辺大尉の指揮する本部主力、第一中隊と第三中隊はデラデラ山、パロイ山麓を1か月余りにわたり昼夜の別なく駆け回った。一時はチャーベス中佐を逮捕寸前まで追い詰めたらしく、山中でチャーベス中佐の母親をとらえた。このほかはゲリラの将校一人を捕虜にしただけでさしたる戦果もなく作戦は終わった。カリノグには警備隊として戸塚部隊に配属となった木下部隊の第二中隊(中隊長中村真一中尉)一個中隊を残し、本部の主力は将兵をトラックに載せて夜、カリノグを出発、イロイロ市へ向かった。トラックの列がランブナオを過ぎハニワイ北方約2㌔に差し掛かった時、最後部で破裂音がした。道路半分が深さ3,4mえぐられ、トラックは敵の仕掛けた地雷で約20m吹き飛ばされ、同乗の十数人の兵たちは死体もわからぬほど飛散していることが分かった。この作戦の最中、私はハニワイの警備にあたっていた。
ゲリラは各地に散り、日本軍と本格的に対決することを避けたが、本道より離れた村や部落は依然ゲリラの手の中にあった。そして日本軍が手薄になると襲撃してきた。
前任者からスアグエ河の北方にゲリラの戦闘部隊がいるとの申し送りがあった。偵察のため12,3人の兵を連れて出発した。スグアエ川の北方1キロの地点には東西南北約400mほどの盆地があり、周囲は森になっていた。先頭70m先を無線班の谷山兵長従2,3人が歩いていた。正面の大地のバナナ林に若い女性の姿が見えた。こちらに手を振っているので兵長らも嬉々として手を振り、近づくと女性の姿が消えた。とたんに林の中から一斉射撃、谷山兵長は即死した。我々は応戦、しばらく打ち合いとなった。敵の攻撃は激しくなったので兵1人を伝令として返し、警備隊から本部に救援を打電させた。夕方まで打ち合っているうち、吉岡中尉と黒沢曹長以下3,40人の救援隊が到着した。ゲリラ側もこれを知ったのか間もなく撤退した。谷山兵長の死体を探したものの、首が斬首されていて無かった。私も隊員も、この敵はきっと撃つぞと、ゲリラに対する復讐心で腹の中は煮えたぎった。(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1943年前半) |
2月14日、ペラルタはマッカーサー司令部に「ウェンデル・フェルティグを含むある将校が指揮権を奪おうとしている」。そして2月14日、ペラルタはイロイロ付近で待ち伏せしていた日本軍第14軍司令官をもう少しで捕らえるところであった。彼はフェルティグのもとに参謀まで派遣したが、米人はこれをなぜかペラルタの軍団の指揮を受けるようにとの申し出と解釈した。ネグロス島では、ヴィラモールは次のように考えていた。「彼らは、まるで近所のギャングのリーダー争いをする子供のようだった。そして将校の階級には競争の熱が広がっていた」。
| 43年12月頃のゲリラ勢力 |
マッカーサーはうんざりしていた。そして「全ゲリラ指導者」に対し、敵との接触を制限し、情報網の構築に専念し、「上官の氏名、その他軍事情報」を速やかに報告するよう新たな命令を発した。また、ペラルタとフェルティグには、貨幣の印刷を禁止すること、ゲリラを現在の指揮官の下に置くこと、ペラルタを「一時的に占領した敵地の軍事ゲリラ長」に指定すること、の三つの指令を出した。
1943年2月6日、フェルティグ宛てのロイ・ベルからのメッセージで、ベルはパナイ島にあるゲリラの拠点を突き止めたといい、フェルティグがその状況を知っているかどうかを尋ねていた。
フェルティグは知っているはずだった。数カ月前、野心的な若いフィリピン人弁護士マカリオ・ペラルタが、もしフェルティグが自分をパナイ島の唯一の正当なゲリラ司令官として認めてくれるなら、自分の部隊をフェルティグの指揮下に置くことを提案した。フェルティグはこれを承諾した。それ以上の具体的な話はなかった。それぞれが自分のことで精一杯だったからだ。フェルティグは、ペラルタは自分の陣営にいるのだ、と思っていた。しかし、ベル氏の知らせがそれを一変させた。
ペラルタは最近、ジャングルに隠された陸軍の無線通信機を発見したのだ。彼はマッカーサー司令部に 無線で知らせた。ウェンデル・フェルティグを含むある将校が自分の指揮権を奪おうとしていると。そこでペラルタは、マッカーサーに対して、フィリピン・ゲリラの唯一の指揮官は自分、ペラルタであると認めるよう要求した。そして、マッカーサーからペラルタへの3つの指令が、ベル駐在員から提出された結果であった。最初の指令は、軍票の印刷を禁止するものであった。2つ目は、ゲリラ部隊の指揮を、すでにゲリラ部隊を支配している者に限定したものである。第3の指令は、ペラルタを「一時的に占領された敵地の軍事ゲリラ長官」に指定した。フェルティグは、この3つの指令の不条理さに愕然とした。
| 「あのオーストラリアのバカ野郎どもは、何も知らないでよくもまあ、指令を出してくれたな」 |
冷静に怒りを抑えて、フェルティグはもう一度指令書を読み直した。1つ目の指令は、フェルティグの非常用持ち出し金の印刷を最高司令部に対する不服従の行為とするものだった。さらに悪いことに、この指令は、フェルティグが国民に対して嘘つきであることを明らかにした。なぜなら、彼は緊急貨幣は米国によって額面通りに償還されると約束したからだ。まあ、いいやということになった。私は軍票を印刷しているんじゃない。本物のお金を刷っているのだ。2つ目の指令は、ちんぷんかんぷんだった。指令は常に自分がコントロールするものに限定されていた。そして私は、命令できるものはすべて命令する、とフェルティグは考えていた。そしてそれは、これからも変わらない。第3の指令も無意味だった。この指令が意味するところは、ペラルタは日本が東アジアで征服したすべてのものの指導者に任命されるということではなかったからだ。さらに、フェルティグは、この指令はミンダナオ島には適用されないと推論した。マッカーサーからペラルタへの指示は、ここまでだ。(John Keats, They fought alone)
混乱と怒りを覚えたフェルティグは、KFSにメッセージを送り、陸軍省に伝えるように指示した。「フィリピン諸島の上級米人将校として、私はミンダナオとビサヤの指揮を准将の階級で執ることにしたxxx ゲリラ部隊のリーダーとして、米[A]FIPを再活性化し、正式に選ばれた連邦議員の手に民政を確立したxxx 金は彼らが印刷して米[A]FIP xxx Fertigに貸与されている". 」マッカーサーに楯突くのは賢明でなかった。2月11日、KFSはフェルティグのコールサインをMSF ではなく WYZBとし、ブリスベンにあるマッカーサーの司令部 KAZに配属することを通知した。フェルティグは長いメッセージをKAZに送った。SWPAは"KEEP YOUR SHIRT ON YOU ARE NOT FORGOTTEN "と返信してきた。
ゲリラの指揮系統については、決定的な何かがなされなければならなかった。SWPAは「全体的な状況に適した指揮官を見つけることは困難であり、時間と労力を要する」と述べている。「個々の現地司令官の承認が最も満足のいく解決策と思われ、G-2は戦前の軍管区を基礎とした島嶼司令部の設立を躊躇なく推奨した」 一つだけ確かなことがあった。マッカーサーはフィリピンの全軍を指揮するのは自分以外にはいない、ということだ。
2月13日、SWPAは戦前のUSAFFE軍管区を再活性化させた。マッカーサーはミンダナオ島と当面の間スールー島を含む第10軍管区(MD)の司令官としてフェルティグを承認した。そしてフェルティグに、サマール島とレイテ島の第9軍管区を指揮する適任者が現れるまで、情報網を整備するよう命じた。マッカーサーはペラルタをパナイ島第6軍司令官に任命し、ネグロス島第7軍とセブ島、ボホール島第8軍を諜報活動の任に当たらせることにした。また、SWPAは両ゲリラを中佐とし、いかなるゲリラも大将の地位に就いてはならないことを念押しした。
| パナイのゲリラ戦(1943年前半 |
43年2月中旬、二期にわたる勘定作戦でイロイロ州平地におけるゲリラ軍の活発な動きも一応収まった。オトン、チグバアン、レオン、サラガ、ポトタン、パビア、サンタバラバラ、カバツアン、ハニワイ、カリノグに警備隊を配置したため周囲の治安は維持することができた。日本軍はイロイロ市と警備隊を配置した拠点を確保し、昼間はこの間の線も確保したが、夜はゲリラの勢力にあった。西部山岳地帯、カピス州の東西と南部、アンチケ州の北部には警備隊を配置する兵力もなく、パナイ島の大部分は依然ゲリラ軍の制圧下にあった。これらの地区にはコンペソール知事のもとで行政が行われ、ゲリラ軍と民政府印刷の臨時紙幣が通用していた。
また軍司令部は、中野学校出身の某大尉を隊長とする謀略班も派遣してきた。隊長は一切軍服を着ず民間日本人になってゲリラの投降と情報収集に努めた。イロイロ市の各事業も、フィリピン鉄道の開通のための帰還者や線路の修理、島本造船所では木造船の建造、石原産業はサンレミギオとピラカピス銅山の開発、日本紡績はサンタバラバラ方面での綿花の植え付け、三井物産はコプラの買い付けと砂糖の内地輸送など、本来の活動を取り戻していた。
この当時、イロイロ州守備の戸塚部隊は2個中隊により増強され、兵力的にもやや余裕が出てきた。治安が回復したので、住民たちは町や村にかえり、イロイロ市にも戦前並みに人が集まった。物資不足ながら各町のマーケットは活況を呈していた。
| パナイのゲリラ戦(1943年前半 |
この状況を見てかセブ島の守備隊司令部は、勘定作戦の戦果とその後の治安状況をマニラ軍司令部に誇大に報告したようだった。当時マニラの本間軍司令官はバターン攻略戦の失敗で更迭され、その後任として田中静壹中将が第14軍司令官に就任した。田中司令官は就任後間もなく、全フィリピン主要地区の視察を行った。パナイ島にも来ることになったので、部隊本部は三井物産の井村支店長の車をはじめ、市内にある高級車集めに走り回った。この結果、軍司令官用に市内に1,2台しかなかった、キャデラックかリンカーンを使うことになった。田中軍司令官は、高級参謀高津大佐、岡田大佐らの幕僚、直属の護衛憲兵曹長らを帯同してイロイロ市に来た。これに新聞記者も加わっていた。出発を前に井上司令官は、元木副官に命じ高津大佐らに「ハニワイから先は危ないので視察をやめるべきだ」と要請した。所が参謀たちは、平穏なマニラに駐在し、ゲリラを身を持って体験していなかったので「なぁに大したことはない。閣下はお歳でもあるし、乗用車で大丈夫」と乗用車で全視察を強行することになった。
2月20日の朝方、ハニワイ警備隊長だった私は警戒を厳重にし、軍司令官の到着を待った。護衛とその後に続く高級車の列を見て驚いた。これまでイロイロ市でも見たこともない高級車の列である。ひときわ大型で豪華な車が田中軍司令官の車とわかった。軍司令官に上げ銃すると「お前がここの警備隊長か、ご苦労」と優しく声をかけた。部隊長と渡辺大尉に、この先ではゲリラが襲撃する可能性があることを伝えたが、一行は予定通りカリノグ町へ向かった。ランブナオとハニワイの中間あたりから激しい銃声が響いてきた。銃声は15分くらいでやんだ。安堵の胸をなでおろしていると車の音が聞こえ、装甲車の中から泥に汚れ、垂れ下がった髭の田中軍司令官が下りてきたので驚いた。軍司令官の高級車は無残にもフロントガラスに3,4発の直撃弾が当たり、座席は乱れ、車体は泥にまみれていた。同乗していた護衛の憲兵総長は片目を打たれ、頭に包帯を巻き付けた姿だった。私は軍司令官をニッパハウスの私の部屋に案内した。入ってくるなり「腹が減った、弁当を出せ」と命じ、用意してきた弁当を食べた後、人見大尉と私の報告を聞いていたが、疲れているのか不機嫌だった。
それから間もなく井上守備隊司令官の待命(退官)が発令され、内地送還となった。後任には河野毅少将が任命された。軍司令官がゲリラの襲撃を受けたことで、軍司令部の参謀たちを怒らせたようだった。この事件後、参謀部は「パナイ島のゲリラを徹底的にたたけ」という方針を決定。我々は後日、半年間にわたる連続討伐という過酷な戦いを強いられることになるのだった。(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1943年前半 |
マニラの軍司令部は、パナイ島をフィリピンの宣撫重点地区として、司令部直属の人見潤介大尉を長とする軍報道部の宣伝隊を派遣してきた。彼らの任務は、強大化するゲリラ部隊から民衆を引き離すことであった。この宣伝隊には、軍政監部、フィリピン側民政府も協力し、宣伝ポスター、ビラを方々に配ったり、貼って回った。各地の警備隊の兵も担当の町や村に出向き、住民に「われわれはフィリピンをアメリカの搾取から解放するために来た。日本軍の敵はアメリカで、フィリピン人は我々の友人だ。フィリピン人と日本人は紙も皮膚の色もパリホ(同じ)の東洋人だ。東洋から白人を駆逐しよう。また日本軍に投降するゲリラの生命は保証する」と熱心に説いて回った。こうした努力で、それ相応の反響も感じられ、宣撫も軌道に乗ったようだった。軍司令部の人見宣伝隊にはせっけん、マッチ等の日用品も豊富にあり、これを住民に配り、アメリカの大学を卒業した加藤軍属が流ちょうな英語で演説をした。人見は、「戦争はしない」という主張が大本営に理解されないと考え、カムフラージュして訴えた。大本営から川上喜久子、阿部艶子という女性記者が派遣され、現地での宣伝活動を報告したとき、人見は茶番劇を仕組んだ。彼は日本語で大東亜共栄圏について熱弁をふるい、通訳が現地の言葉で「待った」をかけた。記者はその欺瞞に気づかず帰っていった。人見は、30人の米人将校と1,000人のゲリラを降伏させたという手柄を立てた。
…ハイメ叔父さんはずっと昔に一旗組として米国に出かけ、引揚者としてフィリピンに帰ってきていた。…大勢の男や女子供たちが、この立派な親戚の言うことを効こうと周囲に集まっていた。…「イスコは死んだ。メルチョア、ギャスパー、ポンシン、そして小さな坊やのクリソストモも死んだ。ルシオもそうだ。…そして義兄のポール村長も。」
ハイメ叔父さんは言った「私も胸の内に悲しみの喪章をつけましょう」この言葉は女たちを喜ばした。
しかし、マリアおばさんは口を切った「あたしの双子の息子たちは兵士じゃなかったんだよ。ポンシンも兵士じゃなかった。ポール兄さんでさえも。じゃあ、なぜみんな殺されたのさ?」
「それが私のここにやってきた理由なんですよ。あんたがたの息子さんたちはどこに?」
…ハイメ叔父さんは静かに微笑み、そして言った「私を誤解しないでくださいよ。…私はあんたがたを助けに来たんですよ」ハイメは続けた「彼らはゲリラに参加したんでしょ。なぜここにいないんです?」
女たちは青くなった。彼は熱心に言った。「聞いてください、マンハーヤンの御婦人方。…息子さんたちを犠牲にしちゃいけません。独立フィリピンを新しく建設するために、我々は彼らを必要としているんです」ハイメ叔父さんは紳士で声色に温かく脈打っていた。
「ああ」ロサおばさんは、言った。「…あの子たちは、愛国心だとか国家とか…何も話さないんだよ。ただ『村に何が起こったかもう忘れてしまったのかい?』というだけなのさ」
…ハイメ叔父さんは、カルディンが竹藪の後ろに立てた小屋に逗留した。…学校教師のマノン・マルセロが彼らを見つけて、ハイメ叔父さんが戻ってきて、男や女に、子供たちにさえ、聴衆に日本軍の武力と豪勇について話していることを告げた。マノン・マルセロは言った「なぜ恐れるかね? 彼が言わねばならぬことを聞こうじゃないか。それから、彼にこっちの言うことも聞かせよう。」
それで、ある日の午後、若者たちは村に集まった。最後にハイメ叔父さんが到着して若い兵士たちにあいさつすると、口を切ったのはマノン・マルセロだった。
「私はいまだに覚えているが、ハイメ、あんたが村を去った時は、ほんの青二才の若者に過ぎなかった。あんたは、アメリカで過ごしてきた、私たちにアメリカと呼ばれる土地のことを話してくれよ」
ハイメ叔父さんは悲しげに微笑し、言った「…私の話を聞いてくれ。…かつて合衆国に行った一人のフィリピン人がいた。…彼は缶詰工場や庭仕事や皿洗いで、望んだだけの金を稼いだ。自信を持つや否や、彼は女性のことを考え始めた。彼や彼の友達の知っている白人の娘たちといえば、売春婦や職業ダンサーだった。彼女らは、ただ相手が金をたくさん持っている限り、親切だったに過ぎない。だから、彼は―自分が結婚できる娘を求めた。ある日、彼は、彼女にあった。彼女は美しくはなかった。おお、決して。だが彼女は清楚だった。初めて彼が彼女に一緒に映画に行こうと頼んだ時には、彼女は面白がった。…ある晩、彼女は彼を連れて自分の家族に引き合わせ、二人はこれから結婚すると発表した。彼女の父親は怒鳴った「あのフィリピノと結婚するだと? お前狂ったか?」。しかし二人は結婚し、しばらくはとても幸福だった。そのうち、彼女は妊娠したので、仕事はやめなければならなくなった。しかし事態はもっと悪くなった。彼自身が仕事を亡くしたのだ。彼が別の飲食店に使ってくれと頼むと「フィリピノ野郎なんかごめんだぞ!」私は、「フィリピノ野郎」がバターンでどれほど見事に日本軍を支えたか知ったとすれば、その時の奴の顔を見てやりたい。奴らがあんなに見くびっているこの「サルども」の中に、アメリカ人がフィリピンから逃げ去った後でさえも、依然として銃を担いでいる者が何人もいることを知るときの、奴らの顔が見たいよ」
ハイメ叔父さんは唇をかんだ。兵士たちは頭を垂れて何も言わなかった。
「しかし私は話を続けよう。君たちの思い出せる1月の一番寒い晩のことを思い浮かべてくれ。その寒さを倍以上にしてみろ。そうしたらアメリカの寒い冬がどんなのかわかるだろう。…ある晩、救急車が妻を連れ去った。彼女が寒さと飢えのために気を失っていたからだった。早産して子供は死んで、その後長い事病床に付した。彼女は治ると彼から去っていった。その後彼女は売春婦になった」
次いで、低い声で「私がそのフィリピノなんだよ。これは私自身の話だ。アメリカと呼ばれる国民が、ちっぽけな茶色のサルの血を、犠牲だなどと思えるだろうか? 親類の皆さん。これが、あんたがたが知りたいというアメリカなんだ」
依然として誰も答えなかった。
「白人たちは決して東洋人の心を理解することはできない。だが、日本人は我々と同じく東洋人だ。彼らは我々がどう感じるか知っている。バカなアングロ・アメリカンをアジアから追い払うほど強力な東洋人の国が存在することを、あらゆる東洋人は誇らしく感じないはずがあるだろうか?」
「日本軍は我が国に侵入してきたんだよ」とブラスが勇敢に言った。
「君や私を解放するためにね」ハイメ叔父さんは反撃した。
「奴らは罪もない人間を殺し、女を強姦するぜ」とゴンドイが告発した。
「そんなことは最もよく訓練された兵隊でも時にはやるさ」
一人の老人が、弱い声で口ごもりながら言った。「俺は米西戦争のことを覚えてる。アメリカ軍は、日本軍のやっているように、強姦や虐殺や放火などしなかったよ。」
ハイメ叔父さんは言った「それならば、日本軍は我々にこう言っている。『われわれは東洋人同士だ。見ろ、我々の皮膚は同じ色だ』と、彼らは現在われわれに平和を与えてくれているよ」
マノン・マルセロは、マリアおばさんを指して言った「日本兵がきて村を焼き払ったあの晩、奴らは、あの人の双子の息子たちを、兵士でもないのに殺したんだよ。ロサ姉さんを見ろ。その妹と義弟と負いも殺され、姪のアリーシャは日本兵のために慰安所に連れていかれたんだ。あんた自身のねえさんに聞いてみろ、ハイメ。ピア姉さんの亭主も同じように奴らが殺したんだ。そしてカルディンに聞いてみろ、彼の父親と子供は、奴らに殺されたんだ。彼らの心に平和があるかどうか聞いてみろ」
「戦争のときにはそういうことが起こるかもしれない。それはもう過去のことだ。忘れるのが一番だ。
現在日本は平和追与えてくれている」
…ハイメ叔父さんは言った。「しかし、あんたがただって、アメリカがフィリピンから追っ払われて二度と戻ってこないということを否定しないだろうね。アメリカは太平洋での戦争に敗北したんだよ」
マノン・マルセロは言った。「アメリカは再びやってくる」
「それなら、なぜこの無益なゲリラ活動を続けるのか?。それは罪もない市民の悲惨さを増大させる。なぜアメリカが来るのを待たないのか?」
ゴンドイが言った。「それは、敵を苦しめることになるだろう」ルーベンが言った「俺たちは自分たちの敵を討っているんだよ」カルディンが付け加えた「われわれも耐え忍ぶことができるのだということを、我々も死ぬことができるのだということを世界に示すことになるんだ」
ハイメ叔父さんは勇敢な男であった。ある日、彼がゴーニョの部落の人たちと話をして、そこから戻ってくると、マンハーヤンの村はずれでカルディンは言った「ハイメ叔父さん、あんたは俺の女房の母親の兄弟だし、俺はあんたに敬意を払うよ。が、 あんたは日本の第五列(スパイ)だという話だぜ。あんたが日本との協力を説教するよう金を出しているのは誰なんだ? なぜあんたは、日本軍の豪勇ぶりと無敵さを示すきれいな色の地図とポスターを持っているのかね? 手遅れにならないうちに、出てってくれよ」
「日本軍が私を派遣したというのは本当だ。しかし、私は、自分が言ってることを正しいと信じなければ、説教師になど気はしなかっただろう。私が自分の行為ゆえに死ぬとすれば、本望だ」
ハイメ叔父さんは、ボアヤホン、ラカドン、テューガスといった隣村を訪ねて、色刷りの東アジアの地図―それには、マラヤ、ビルマ、タイ、インド、中国、満州国、そしてフィリピンの原住民が自分たちの国旗を空になびかせている漫画が載っていた―を見せ、人々が満足しており、幸福であることを説明した。そして彼は、人々に、日本の強力な航空部隊、巨大な軍艦からなる艦隊、大砲と無敵の兵士の姿が掛かれているデカいポスターを見せた。自分たちが名前しか聞いたことのない遠い所へ方々かれが旅したということで、人々の目に彼は重要人物と映った。人々は質問した「ここはどんな種類の国かね?」
そこでハイメ叔父さんは、人々に話して聞かせた。―その言葉があまりに感動的であったので、首にロザリオをかけ、聖母マリアの像を下げた黒衣の女たちの目に涙が浮かんだ。
「こういうのが、私たちをこの戦争に引き込み、そして恥知らずにも私たちを見捨てたあの国なのだ。なぜ我々は、アメリカ自身が逃げてしまったのにその旗を翻し続けるために戦わなければならないのか? 当時味方に飛行機も戦車もあったのに、21日間で我々を征服したほどの強大な敵あのだ。なぜ我々は、その敵に抗するために俺たちの息子を犠牲に供さねばならないのか?」
「あんたは俺たちや息子どもにどうしてほしいのかね?」一人の老人が詰問した。
「この戦争であんなに勇敢に戦ったんだ者、あんたがたの息子たちは勇敢な男だった。もし彼らが降伏してこの新国家建設に協力すれば、彼らは自分たちが賢明で英雄的な男だということを実証するだろう」
「たわけたことをいう、アメリカの援助はきっと来る。俺たちはそれを知っている」
ハイメ叔父さんは笑いながら言った「力強い話だね、日本軍はこう言っているよ――アメリカ軍が戻ってくるなら、それはただ海に漂い岸に打ち寄せられる膨れた水死体になってだ、と。それに日本軍がこうも言っている「彼らが救援について話しているって、へえ?、俺たちがフィリピノとこしらえた息子どもが大人になって、そのまた息子をこしらえた後になったって、救援なんか来るもんか」と」
だが、人々は大地にペット唾を吐いていった「もう話はたくさんだ。俺たちはお前さんを友達として歓迎した。だが、もう出てってくれ。日本軍の所へ帰れ、奴らがお前さんの友達だ」
そして人々は彼に背を向けたが、心の中では恐怖を抱いていた。
彼は、あらゆるところに出かけて行って、人々は礼儀正しく彼の言うことに耳を傾けるが、大部分が彼の言うことを信じようとしないことを発見した。あるものは公然と敵意を示した。あるものはスパイとしてゲリラに告発するぞと脅かした。しかし、ハイメ叔父さんは恐れなかった。彼は常に日本軍の強さと抵抗の無益なことを語った。ある朝、彼がその旅の一つから戻ってきたとき、ピアおばさんは震える声で言った「おお、ハイメ、あんたはこんなこと止めなくちゃいけないわ。今じゃあんたの身には危険が迫っているわ」
……その朝、カルディンはカスティリョ隊長の執務室の中にいた。彼がやっと外に出た時は、その表情は厳しかった。…「任務さ」「まさか、ハイメ叔父さんじゃあるまいね、カルディン」「ハイメ叔父さんは馬鹿者だよ」「忘れるなよ、あの人は俺たちの叔父さんだぞ」。
……「ハイメ叔父さん。今、あんたに村を出ていくべきだと警告する。たった今出てってくれ」
ハイメ叔父さんは悲しげに微笑した。「君がちっちゃな少年だったころ、私は君をいつも脅かしたものだった。いまはもう私より大きくなって、が、私も自分が正しいと思うもののために働いているんだよ。どうして放っておいてくれないのかい?」
…「お祈りの仕方を知っているかい、ハイメ叔父さん?」カルディンはピストルを相手の額に押し付けた。…一発の銃声が、平和な朝の静けさを破った。
…ハイメ叔父さんの頭をぶち抜いた一発の銃声は、ほかの村々にもすでに響き渡っていた。人々はショックを受けた。彼を殺したのはカルディンだというニュースに肝をつぶした。そして幾週間かが過ぎるにつれて、カルディンの残酷さに関するもっと新しい話が村へ伝わってきた。「あいつは悪魔の右腕だよ」彼らの言う悪魔とはカスティリョ隊長のことで、その残酷さは人々を身震いさせた。
カスティリョ隊長「われわれが残酷でなけりゃあ、だれが俺たちを怖がるもんか? あいつら一般人は、まったくやすやすと買収されるんだ。あいつらに価値もない日本の軍票をいくらかでもやって見ろ、あいつらは自分のおばあさんだって売り渡すぞ。俺たちは、罪人の一人を自由に闊歩させるくらいなら、むしろ無実の人間を2,3人殺したっていいぞ」(暁を見ずに)
宣撫活動のため、パナイ島に派遣された報道部宣伝課長の人見潤介大尉は、アンチケ銅山での強制徴用と酷使の実態を目にした。このままでは宣撫活動に支障をきたすと考えた人見は、銅山周辺での対日感情をまとめ、軍司令部に報告書を提出した。軍規を犯して親元に送ったものが自宅に残されていた。「一般民衆は著しき対日恐怖感と憎悪館」を抱き、日本人は「悪鬼」とまで思われているとし、反日感情悪化の原因を列挙している。イ、言語の了解不十分に起因し、十分なる意思の疎通を描き、くわうるに日本人監督の素質不良にして殴打暴行事件続発す。特に平手打ち多し。之が為比島労働者に対し、「日本人は我々を牛馬のごとく偶ス」との印象を与え、一般の反感を買うに至れり。ロ、労働者強制徴発の強行……場合に拠りては拳銃をかざして脅迫し、拉致同様に引致り、労働に服さしめられたり。
過酷な労働条件と、日本人現場監督の暴力に、逃亡者が続出した。そこで、鉱山側では柵を設け、外出を禁止した。自由を奪われることを嫌い、かえって逃亡者は続出した。「そこへ、山のゲリラは、「お前たち、日本軍に協力していたら最後にひどい目にあうぞ」と、『今のうちに、命あるうちに逃亡して、早く我々の陣営に来い』といって、盛んに逃亡を干渉するわけですね。」
人見氏は必ずしも比人に同情的ではない。
「戦略物資の銅を最大限能率を上げて掘って日本に送ることが、国策として至上命令でした。ですから、鉱山の日本人は、それがお国のためだと一生懸命だったんです。一方、比人労働者は、体が持たないといって一日八時間以上の就業を嫌う。日曜日は教会に行くし、家族団欒もしたいと休みたがる。そういうところを、ゲリラ側はうまくついたんです」
鉱山では労働者が逃亡したうえゲリラに襲撃され、生産は次第に低下していった。ゲリラは日本軍だけでなく、産業施設を襲撃の対象にした。鉄道が襲われ、綿か催場王が妨害され、砂糖工場が破壊された。かくして、資源収奪を目的にした日本の産業開発は大打撃を受けた。(レイテに沈んだ大東亜共栄圏)
カグパンにあるゲリラの本営に、日本軍が和解工作を始めているという報告が届いた。街で野菜を売る女の行商人たちが村に戻ってきて、樽楽州にある捕虜収容所から日本軍が釈放した幸福フィリピン兵たちからなり、フィリピン警官隊―PC―として組織された宣撫班が街に到着したという話をした。行商人の一人で歩いたおばさんは言った「あたしはそいつらの中にポロがいるのを見さえしたんだよ」
警官隊は町で集会を開き、ゲリラに加わって戦っている息子や兄弟に降伏を進めるよう熱心に説いた。日本軍の兵士と一緒に、彼らは班を作って近隣の部落に行き、女子供にビラを配った。警官隊と日本兵は、洗濯石鹸のかけらやキャンディーやたばこを渡して、村人たちと仲良くなろうと努力した。彼らは、かつてハイメ叔父さんが見せたのと同じようなポスターを貼り出した。女子供に幸福そうに笑っている降伏した兵士たちの大きな写真を見せた。そして他の地方では人々がどんなに幸福に暮らしているかを示すたくさんの写真を載せた雑誌を村人たちにくれた。贈り物を配った後で、彼らはいまだに降伏していない戦友たちの愛国心と勇敢さをたたえる美しい演説をやった。だが、今こそ「新フィリピン」再建に力を稼べき時だ、と。
小さな牧童たちは、キャンディーを食べ、タバコを吸って、演説者たちがもっと寛大にやろうと激励するのに喝采した。固く口を閉じた女たちは、石鹸を行く片もパタジオンの中に隠した後で、厳しい警戒の表情で語り手の言葉に耳を傾けた。だが、彼らはあらゆる質問にこう答えた――「あたしたちには、兵士になっている息子はないよ」少年たちは、「兄さんはありません、僕が一番上です」と言えと訓練されていた。
宣撫班がマンハーヤンに来た時、ポロの母親が女たちの最前列にいて、第一の警官に、アポロニオ・ソリアという人を知らないかと尋ねた。その警官は、そいつはポロというあだ名にぴったりののっぽの奴じゃないかと聞いた。すると彼女は、息を切らして、早々、それが彼だ、今はどこにいるのか、と聞いた。その男は、ポロはカバトゥーアンに派遣されたといった。
しかし、ゲリラは、日本兵とPCが方々の部落に入り込みつつあると知ると、狡猾に狭い山道の上にある竹藪の後ろに待ち伏せしていて、敵をふいに狙撃した。日本兵は必ず待ち伏せの場所の戻ってきて報復するのだった。しかし、それはゲリラの活動を阻みはしなかった。そこでついに日本兵は、非情に大勢の時以外には部落に行くことを断念した。ゲリラは、ますます大胆になって、敵をいたるところで苦しめた。彼らは道路や橋に地雷を仕掛け、鉄道線路を引っ剥がした。
待ち伏せ
或る日カスティリョ隊長はカルディンを執務室に呼んで言った。「お前にやらせる任務がある。明日、日本軍と警官たちがカバトゥーアンの街で集会を開く。奴らを待ち伏せするのがお前たちの任務だ」
…「どこで奴らを待とうか?」ルーベンが言った。「ドゥヤンドゥヤンにしたらいい」「駄目だ、あまりに物資集積所に近すぎる、それにあそこには日本軍が大勢いる」「今夜、もっと考えようじゃないか」しばらくして、ゴンドイが低い声で言った
「明日そのトラックの中にポロがいると思うか?」皆押し黙って、互いに顔を見合わせた。
「きっといそうだね」ポロは彼ら全部にとって友人であり、多くのものにとっては縁続きだった。
「俺たちには命令がある」カルディンが言った。しかしゴンドイは沈黙しようとしなかった。
「おかしな戦争だよ、これは。」
「ゴンドイ、ポロは俺たち全部にとって友人で従兄でもある。だが俺たちにどんな選択の自由があるんだ」
「でも、相手の指揮を粗相させれば十分だろう。こんな戦争なんか終わってくれないかなあ」
「バカな年寄り女みたいなことを言うなよ」ルーベンが彼を攻めた。カルディンの幾多の殺人に一番ショックを受けなかった人間が、彼だ。
…まだ早朝であたりは暗かった。「コック、コック」料理版は眠そうにうなって、それから「誰だい?」「どうしたんだ、お前、火さえも起こしていないじゃないか。俺たちが任務で出かけるのを知らないのか」「寝坊した」「よし、急げ」。その男は本当は料理人ではなかった。彼はラ・パスに住む商人だったが、ゲリラにつかまって、スパイと疑われていた。彼が捕まった当時は、料理版がいなかったので、死ぬかコックになるかを選ばさせられたのだった。ゲリラの兵士に協力して数か月たった後、彼は、口答えしても得には全然ならないことを知った。
…それは褐色に塗った無蓋のトラックだった。そして近づくにしたがって搭乗者の姿がはっきりと見えてきた。そこには10人ばかりが載っていた。カルディンが手榴弾を投げたのは、トラックが壕の真ん前に来た時だった。風貌ガラスを破壊して運転手の面前で炸裂。トラックは操縦の自由を失って排水溝へ飛び込んだ。傷ついていない日本兵と警官が、塹壕用臼砲を持って飛び出してきて、急いでそれを道路の反対側に据えた。しかし、壕からの射撃は敵のさらに4人をパタパタ倒した。わずか3人が残った。2人の日本兵は砲手から臼砲を取り上げ発車しようとかかっていた。一人の警官は、二人の捜査を援護しようと、トラックの車輪の陰から射撃をしていた。カルディンはにやりと笑った。これが、復讐だ。彼は銃を水平にして、足の長い警官に狙いをつけた。それから先のことを、カルディンは何も覚えていなかった。
…やっとのことで目を開くと、彼はベッドの上で寝かされていた。カルディンは顔の向きを変えて、そばで微笑しているカスティリョ隊長を見た。ルーベン、ブラス、その他の隊員が入ってきた。「何が起こったんだろう?」彼はつぶやいた。「大したことはないよ」カスティリョ隊長が言った「だが、お前は目を覚ましたら英雄になってたんだ。殺した敵10人、分捕った銃10挺プラス三射臼砲一門。こんなに毎日手に入らないぞ。俺は今日、本部へ報告を送り、お前の曹長への進級を申請した。ここにいる連中は、お前の勇敢さと指導力が今日の素晴らしい勝利の原因だと断言している」カルディンがこめかみに痛みを感じたのはその時だった。「そいつは醜悪な切傷だった」ブラスが、カルディンに日本のピストルを見せながら言った。
「ルーベン、確かに奴らを残らず殺したのか?」
「お前がポロを狙い撃ちした後で、ゴンドイは手榴弾を投げた。それが臼砲を打っている残りの日本兵二人を倒したのさ。」
「あれはポロだったのか――あの背の高いのが」
「知らなかったのか?」
「どっちだって同じさ、今となってはな」二人とも長いこと何も言わなかった。
…ルーベンが去ると、カルディンは目をつぶりものも考えまいと努めた。すると傷がずきずき痛み出した。ポロ、ハイメ叔父さん。二人の裏切り者――二人とも俺の手にかかって死んだ。(暁を見ずに)
死産
「カルディン、この痛みだけで死んでしまうわよ」
「お前は、自分の体を日本兵に与えた時、そのことを考えたかい?」
「なんてひどいことを」彼女はすすり泣いた。
「お前は子供を産むのを怖がっているな。俺のことを怖がっているな」
涙が彼女のほほを滴り落ち、枕に染みた。
「何をしようっていうの?」
「オランおばさんは決して間に合わないよ。だから、俺が赤ん坊を取り上げるのさ」
「あんたが何をしようとも、カルディン、子供に危害を加えはしないと約束して、子供に罪はないのよ。カルディン、あんたがもし子供を殺せば、私は生きている限りあんたを憎悪するわ」
痛みの発作が来て、彼女は荒々しく叫んだ。ルーシンは気を失っていた。カルディンは自分の平静さに驚いた。彼はへその緒を切り、それをくくった。だが、この赤ん坊は、彼が触っても泣かなかった。それは小さな黒い赤ん坊で、その体は細かいひだでしわしわになっていた。赤ん坊は息をしていなかった。ルーシンの最初の子と同じく、それは死産だったのだ。…彼女には何が起こったかわかった。
「お母さん、赤ん坊はどこにいるの?」
「ここですよ、ここにちゃんといますよ」
「あたしのところに連れてきて、あたし、見たいの」ルーシンはじっと赤ん坊を見つめたが、それが死んでいることを彼女に告げる必要は無かった。彼女は静かにすすり泣いた。
「泣くのはおやめ、神様の御意志なんだから。死産だったんだよ」
「あの人が殺したんだ、あたしは知ってる。知ってるのよ」
「あれは悪い人間だ、だけど、違うよ。赤ん坊がお前の胎内から出てきたとき、すでに死の悪臭がその肺に詰まっていたんだよ。」
「ちょっと、彼女と二人っきりで話させてくれ、お母さん」そう言いながら、彼が入ってきた。彼女は母親が言ってしまうまでは何も言わなかった。ようやく彼女が向き直った時は、目には憎悪が燃えていた
「あんたが殺したのよ」彼はかろうじて自分を抑えた
「俺の話を聞いてくれ……」
「あんたが殺したのよ、赤ん坊が自分の子じゃないと思ってたんだから」
「俺は殺しはしなかったよ」
「だけど赤ん坊はあたしの子よ。たとえ、それがあんたの子でなくても。ああ、そうだわ、あたしは、それがあたしの子だということのゆえに、愛しく思うわ。それなのに…。あんたは、あたしがどれほどあんたを愛したか決してわかりはしない。…あんたが人殺しをはじめ、あんたがあたしの叔父さんを殺し、あんた自身の従兄を殺した時、みんなはあんたのことを悪魔だといったけど、あたしは『あの人はそんな悪い人間であるはずはない』って言ったのよ。しかし、あたしはあんたを憎んでやるわ!」
「聞けよ、気狂い女。俺はお前の子を殺しはしなかったぞ。それは死んで生まれてきたんだ」
「あんたの言うことなんて信じないわ」
「よーし、わかった」彼はブスっとして言った。
「ほらごらんなさい。ああ、あんたなんか殺されるがいいわ。ここからいなくなって。そしてもう帰ってこないで」彼は、その思い手を挙げたので、彼女は恐怖で身がすくんだ。次の瞬間、彼はその腕をぱたりと落とし、この家から走り去った。
三日前に、ルーシンの死産の子が埋葬されたが。カルディンは子が冷たい地中に卸されるのを見にはいかなかった。そして、赤ん坊は彼の子じゃないと噂を流していた当の本人たちが、胸糞悪げにこう言って舌打ちをした「あいつは本当に悪魔だよ。どうして、自分の子の埋葬に立ち会いに来なかったんだい?」そして、この話を聞くと、彼は、心の中で、自分を村八分にしている村などに決して戻るまいと誓った。(暁を見ずに)
3月2日、宣伝小隊長の人見はパナイ島から報告した。「敵は市民への圧力で優位に立った...武力を示さない宣伝演説は全く価値がない」と。兵力を要請した。独立歩兵第107 大隊(パナイ防衛隊)司令官戸塚良一中佐は、農村の島民を強制的に都市部に移動させ、ゲリラから引き離す「集団バリオ作戦」で応えた。彼は、人見に農民を説得して移動させるよう命じた。5月に宣伝隊本部に報告すると、マニラから飛行機がやってきて、人見は宇都宮十四軍副参謀長のもとへ向かった。
宇都宮は、「集団バリオは中国大陸では既に失敗している。"人民の怒りを買うだけの効果しかない"」と人見を叱咤した。さらに、「今、パナイ島で同じ計画を実行しようとしているバカがいるなんて信じられない」と言った。宇都宮は、人見の小隊勤務を解き、マニラの情報部のデスクに配置換えした。こうして人見によるオーダーメイドの宣伝計画は終了した。
日本軍は、カトリック教会を活用するための新たな努力を行った。3月6日、PECはラウレルの内務省を通じて、教会に「信徒や群衆の心の中に、構成された当局への忠誠と、フィリピンの隅々まで平和と秩序を確立するために現政権に心から協力することがすべての比人の側に絶対必要だということを教え込む」ように命じた。ラウレルは、次のような内容の回覧を出した。「政治的なものであるどころか、全教会の協力は、究極的な分析では、良心によって要求される宗教的な事業である"。
| パナイのゲリラ戦(1943年前半 |
ヴィラモールは、ペラルタがゲリラの総指揮官として最適とした。2月20日、SWPAは彼にこう念を押した「ご存知のようにペラルタはパナイ地区のみの司令官となった」。翌日、SWPAはペラルタにこう通告した。「地区の司令官は本部の管理下で活動し、任務は実績に基づいて見直される」。マッカーサーはフェルティグを第10地区司令官、ペラルタを第6地区司令官として再確定した。
ペラルタとコンペソールを分断するため、日本軍はイロイロ州知事フェルミン・カラムに手紙を書かせ「パナイ島の苦しむ人々に平和と静穏をもたらす」ために降伏するよう求めるよう命じた。カリフォルニア大とシカゴ大で学位を取得したコンペソールは、カラムの嘆願がより大きな疑問に対する暗号であることを認識していた。なぜ、日本軍との戦いに死を賭けるのか?その犠牲の上に成り立つものは何なのか?何のために戦うのか?2月20日のコンペソールの返答は、歴史上まれに見る民族の鼓舞となった。
コンペソールが降伏を拒否したのは、日米が戦争している限り、比人に平和と平穏は訪れないと考えたからである。日本が本当に比人の利益を考えているならば、撤退し、島々の中立を宣言するはずだと主張した。そうでないなら、独立の条件は虚偽なのだ。米国が民主主義を擁護し、一方日本軍は、日常的に民主主義と自由を非難していた。比人はこの二つのうちどちらかを選ばなければならず、その選択は彼らの「国家原理」を決定するものであった。平和と平穏」のために降伏することは、新しい独立国家の基礎となる価値ある原則を放棄することであった。その模範として、より高い理想のために内戦を受け入れたエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)を挙げた。
コンペソール回答
パナイ島勘定作戦によるゲリラ軍の敗退の期を見て、マニラの日本軍軍司令部はコンペソール知事あてに、パナイの平和と平成のための投降説得書を作成し、43年1月14日古川大佐とペロソ上院議員を通じてカラム知事にサインを求めた。この説得書には、キンボ元将軍、ペロソ上院議員、ホセ・タンド中佐(イロイロPC隊長)ほかに名のパナイの著名な政治家のサインが記されていた。
この説得書に対し、コンペソールは2月20日付でカラム知事に回答書を送ったが、この回答はカラムあてであるが日本軍に対する回答でもあり、次の通り述べている(本書はコンペソールの政治的手腕はもとより民族主義と愛国主義をしめすパナイ史に残る傑作とされている)
| 「この度の戦いは全面戦争である。争いの対象は単なる領土の問題ではなく、むしろ政治形態と生活様式、さらには各個人の思想と感状にまで関係する問題である。…いかなる政治形態と生活様式がフィリピンを支配し、どのような社会機構と同義的な基準がフィリピン人の存在を規制するかということである。貴信は、パナイ島でこれ以上血を流し財産を破壊することをやめ、フィリピン陣がこれ以上日本との戦争で苦しみあえぐのをやめるように私を解いている。しかしそれは…極東にこのすさまじい戦果を巻き起こした責任はすべて日本にあるからである。…過去40年我々は世界的に認められている立憲政体の原則の下に、正義と自由に立脚した政府の下で生活してきた。我々は個人の特権や民権といったものをあまり苦労せずに獲得し、また楽しんできた。これらは実際には寛大なアメリカ国民から与えられた贈り物であったのである。現在日本がこの自由をぶち壊そうとしているとき、我々は自由を守るために努力しないで済むであろうか。我々はこれを守るため喜んで苦難の道を進むべきではなかろうか。…降伏は不名誉でない、という貴殿の意見は絶対に間違いである。…貴信では、フィリピン人の平和という点だけを強調し、故意かあるいは忘れてのことか、フィリピン人の名誉と運命ということには一言も触れていない。 したがってこの困難な時期に、フィリピン国民を導いていく方法で貴殿と私の間には明らかに大きな相違がある。貴殿や貴殿の同僚の傀儡者たちは、フィリピン人の尊厳や名誉を踏みにじり、その代わりに何の苦労もせずに、或いはほんのわずかの苦労だけでフィリピン人に平和を与えようとしている。しかるに一方我々は、困難に立ち向かい、あらゆる犠牲に耐えうる有期をフィリピン人に与え、人民による支配と法に基づく政治の高尚な原則を守り、同時にフィリピン人の名誉と尊厳とを高く掲げようとしている。……私は生きている限り絶対に降伏をしない。フィリピン人は現在苦しんでいるが、将来もっと苦しむかもしれない。使徒パウロの言葉を借りれば『今この時の苦しみは、やがて私たちに表れようとする栄光に比べるというに足りない』のである。」 |
この手紙は、パシタ・ペスタノ=ジャシントが書いたように、「一人の比人ではなく、独立の罠に強制され、騙され、追い込まれているすべての人の答え」として、一般に受け入れられやすいものであった。比人がこの手紙をあちこちに貼った。
| パナイのゲリラ戦(1943年前半 |
43年3月4日しばらくぶりに見るイロイロ市内はすっかりにぎやかになり、人口は戦前並みといわれるほどだった。マーケットには客が詰め掛け、肉や野菜、果実類が豊富にあった。中国人経営の中華料理店で腹いっぱい食べたり、レストランではフィリピン女性におおモテだった。
4月に入ったある日、戸塚部隊長と私はカラム知事亭へ夕食に招待された。知事はこの時、先の勘定作戦の際にデラデラ山で逮捕したチャーベス中佐の母親を連れてきた。その母親は、知事に手厚く保護されていると戸塚部隊長に丁重に礼を言った。この席上、カラム知事は、コンペソールの人柄についてくどくどと説明し、パナイ島では人望も厚く、彼を味方につけることが何より重要である。彼をとらえても絶対に殺さないようにしてほしいと訴えた。また、コンペソールは現在、山の中で病気にかかっており、健康が心配であると、暗にカラム知事とコンペソールとの間に連絡があることもほのめかした。(フィリピンの血と泥)
イロイロへ
兵士たちはその日は宿舎にいた。そこへイントンが駆け込んできた「カルディン、テューリンがとうとう帰ってきた。彼はブラスと他の二人が日本軍につかまって殺されたといってるよ」。カルディンとルーベンは慌てて階段を転がるように駆け下り、隊長の執務室の方に走った。すでにニュースを聞いた大勢の兵士たちでいっぱいだった。三人が最前列に出ると、テューリンがしょんぼりとして腰かけているのが見えた。カスティリョ隊長は机の前に座っていたが、その顔は怒りで黒くなっていた。
「そこで、ブラスは、日本軍慰安所にいるある女と知り合いになろうと考えたんです。それは、慰安所が、弾薬臨時集積所の近くにあったからです。警備兵がいつ交代するか、夜間には集積所の周辺に見張りが増置されるかどうかを、彼は知りたかったんです。市には夜間外出禁止令が出ているので、我々は自分たちで探り出すことはできませんでした」彼は唇をなめたが、一度も顔をあげなかった「ブラスは、彼女を助けるもう一つの理由を持っていました。彼は、従兄のアリーシャもあの売春宿に閉じ込められていると聞いていたんです」ルーベンの顔が蒼白になり、唇をかみしめた。「ある日の午後、彼女はカレ・ヴァレリアにある妹の家に我々を連れて行ったのです。我々はしたたかに飲みました。だが、彼女は前もって日本軍に話していたんです。それが彼らの捕まった理由です」
「お前たちは男じゃないぞ!、億防なバカ者どもだ!」隊長は興奮して叫んだ。
「それは間違いでした」テューリンはしどろもどろ。
「間違いだと!、そいつは任務の線から外れた不正行為だ。お前なんか銃殺だぞ!」次の瞬間、彼の目は優しくなり、ずる賢く笑った「しかし、俺はお前を処罰する方法を知っているぞ。お前を市に送り返して、最初失敗したことを完遂させる」テューリンの顔は恐怖で青白くなった。
「しかし、日本兵はすでに私の顔を知っています。」
「お前は戻れ。お前らには遂行すべき使命があった。それを果たすどころか、お前らは、俺がやるなと戒めたのに、汚れた女どもと交わったのだ。お前は戻っていけ」
「私が行きます」カルディンが静かに言った「ここで無為に過ごす生活に飽きていますから、私は行きたいんです」ルーベンがせがむように言った「私は彼と一緒に行きたいのであります、隊長」カルディンは推測した。おそらく彼はいまだにアリーシャのことを思っているのだろう。隊長はひげをしごいて黙考した。彼は、なぜこの二人がイロイロ市に行きたがるのかわかっていた。自暴自棄の、復讐心に燃えた命がけの行為ができるのだということを心得ていた。
「よろしい、では、お前たち二人は直ちに出発しろ。午後早々には市に着けるだろう。しかし、女には気を許すなよ。そしてお前、カルディン、そのほほの傷跡がなかったらなあ。お前は容易に気付かれ、どこに行っても覚えられるぞ」
イロイロ市へ行く途中の日本軍の歩哨の所を通るのは難しくはなかった。それはカルディンとルーベンが、市場の物売りを装って、用心深く野菜やトマトや卵の入った籠を携えていたからだ。市の主婦たちは、市外からの食料品の供給をいつも確保できるというわけにいかず、争って新鮮な野菜を求めたので、ラ・パス(河を挟んでイロイロ対岸)の市場で二人の野菜は簡単に売り切れた。しかし二人は、若干の野菜類と卵を除けておき、それをイタおばさん―ラ・パスに小さな小屋を作って住み、ゲリラ工作員として行動している―のところに持っていった。イタおばさんが戸を開けた。二人を見ると、恐怖の表情が広がった「お入り」イタおばさんは静かに泣いた「どうして、あんたたちは来るのをしばらく待てなかったのかい?。奴らは、このところ、見慣れない顔にはとても疑い深くなっている。ゲリラ一人捕えれば50ペソの賞金が出るんで、町中スパイだらけだよ。子供の中にさえ密告者がいるんだよ」
…午後の半ばごろまでには、二人はリベルタード広場の公園のベンチに腰かけていた。誰一人自分たちに気づいていないらしいことを、幸運だと感じていた。彼らの目的である弾薬臨時集積所は、腕に小銃をぶら下げた日本の歩哨がその前を行ったり来たりしているので、二人にはたちまちそれと分かった。それは広場に接する区域の一角に、二階建てにクィーン・シティー・ホテルのすぐ近くに、立っていた。日本軍は、それを軍隊用の慰安所にしてしまった。入り口には、黒で日本文字の書かれた白い布が垂れ下がっていた。大変な数の人々が広場には集まっていた。ベンチには2,3人の年配の女たちが座って、噂話をやっていた。子供たちは芝生の上で遊び、そして若者たちは、ローラー・スケートで駆け回り、コンクリートの歩道にやかましい音を立てていた。そこにはまた、けばけばしい色の服を着、尻を振って歩く女たちもいた。フィリピン女は、縮れた髪と大きな口をして、甲高い声でしゃべりそして笑った。丸ぽちゃで、胸の突き出た日本女や朝鮮女は、ピンク色のほほで、謎のような微笑を浮かべ、静かに喋りそして笑い、眠たげな午後の空気を呼吸していた。彼女たちは、誰か日本兵がやって車で、広場の周りをぶらぶら歩いた。そこへ日本兵が来て女たちとしゃべり、いちゃつき、あるいは女たちの一人と売春宿の戸を開けて入っていくのだった。
彼らが顔を上げたのは、ちょうどその二人の女が彼らの真ん前に来た時だった。「ローシン!」カルディンは叫んだ。彼女は少し老けたようだが、しかしまだ若々しい容貌で、丸々とした腕と人形のような顔をしていた。しかし、ルーベンは、もう一人の女を見つめていた。彼女の唇は血の気を失い、その目は苦悩にかっと開いていた。「君じゃないか!」この女の塗りたくった剥分の裏に、カルディンもまたアリーシャの顔を認めた。ルーベンは、自分の婚約者の凌辱とその日本軍慰安所への監禁を知っていたので、再び二人がばったり顔を合わせるこのような瞬間があるだろうと覚悟はしていた。しかしこんな風に突然に売春婦のなりをした彼女に会うと、彼は自分の心に秘めた純粋で清らかなものが、粉々に崩れていくのを感じた。小さな恐怖の叫びがその娘の唇から洩れ、彼女は一歩後に下がった。
「違うわ、あなたの間違いよ。私、貴方なんか知らないわ」彼女は身をひるがえしてホテルの方に急いだ。ルーベンは彼女の後を追おうとするように起き上がった。しかし、カルディンが彼の手首を引き戻した「ここにいろよ、この馬鹿。見ろ」
こっちにやってきた一人の大きながっしりした日本兵が腕をアリーシャの腰に回し、半ば引きずり、半ば先導して彼女をホテルの中に連れ込もうとしていた。その日本兵は、笑いながら彼女の胸に触った。「ルーベン、お前、ラ・パスのあの家に行ってあすこで俺を待っててくれるなら、それが一番いいよ」この不幸な男は急いで歩き去った。…ローシンはカルディンの傍らに座って、歩き去るルーベンを眺めた。
「あれ、だれなの?」
「あいつは彼女と結婚するはずだったんだよ。だが、日本軍がある晩やってきて、彼女を連れてっちゃったんだ。」ローシンは悲しげに首を振った。
「彼女が初めてここに連れてこられた時、毎日毎晩、彼女に逢いにきた日本兵の数、…ほんとにたくさん来たわ。彼女はきれいだわ。奴らは、彼女が好きなのよ。時々、彼女がすすり泣いているのが聞こえてきたわ。でも、今じゃあ、彼女はベテランよ」彼女はみだらで猥褻な笑い方をした。カルディンは言った。
「君自身のことを話してくれよ、君に何があったんだ?」
「生活って厳しいものよ、そして、この戦争で何でもかんでもとても高くなってしまったわ。あたしは、この戦争にだれが勝とうと関心ないの。なるほど、アメリカ兵はお金があるので金離れがよかった。そして日本兵は給料が少ないのでけちんぼよ。しかし奴らも払うものは払うわ。だから、ネッ、あたしたちの商売はいつでも成り立つのよ」
「君はまだ若い、君はまだきれいだよ」
「そうよ、だけど、どれだけそれが持つかしら?。時々あたしはこんな生活にうんざりするわ。しかし、他にどうやって私が生きていけるの」突然彼女は手を彼の手の上に置き、そして柔らかな声で言った「あんたのほほのその傷跡は、カルディン?」
「けんかでやられたのさ」
「それもそうね、そのけんかで、あんた、弾丸の破片にやられたのね」彼女はささやいた。
「あの日本兵の一人に電話をかけるのは、いともたやすい事よ。ねえ、わかる?、連中、あんたを据えて首をちょん切る。数日前に三人のゲリラにやったように。あたしのような売春婦の一人も、三人を裏切ったわ。そして、あたし、あんたの首と引き換えに50ペソもらえるのよ。今日日は、お米を四ガンタス買える。ネッ、あたし、やろうと思えば、何年か前にあんたがあたしを捨てたことへの小さな復讐をやれるのよ」彼は眉をひそめた。彼はブラスやほかの二人の兵士たちについて、もっと聞きたいと思ったが、そうしなかった。それから、彼はにっこりして、からかい半分に言った。
「君はもう俺を愛していないのかい?」彼女はそっくり返って、長い事大きな声で笑い果ては涙を流した
「愛って何なのよ、あんた、それを食べられる?」
「よしわかった」彼は、隊長の戒めを忘れて、無鉄砲にも言った「俺は、あの弾薬臨時集積所に火をつけるために、ここに来たんだ」それが彼女を押しとめた。
「ああ、カルディン、それは危険だわ。あたしは普通の売春婦よ。あたしがある晩お酒によって、一緒に寝ている隣の日本兵にそれを話さないって、あんたどうしてわかるの?」
「もう君は俺の秘密を知ってしまった」カルディンは出かけようと立ち上がりながら彼女を見た。
「いや、待って!。あたし一緒に行くわ。ああ、カルディン、無茶なことはしないとあたしに約束して。」
「俺の身に何か起こるにしても、なんで君が気にかけることがあるのかい?」
「多分、それは愛よ」
…彼女は馬車を呼んで、ラ・パスのフェルヴァナ街にある家まで行くよう命じた。
「あんたはびっくりするでしょうね。もしも、あたしがある男と同棲してるんだと言ったら。」
「それは誰だい?」
「あんた、ネストンを覚えてる」
「かつては、あの男も全身全霊を捧げて君を得ようとしたのだがね。彼はいい亭主になっているかい?」
「何でそんなこと望めるのよ、彼はほとんど一日中ばくち場にいるの。あたしがすかないのは、彼のやきもちよ。けれど、あたしはこう言ってやるのよ『もしあたしがあたし流でお金を稼がなければ、あんた、あたしの欲しいものをいつでも買ってくれることができるの?』って」ネストンは留守にしていた。「あたし、これからホテルに帰ることにするわ」
「俺はどうするんだ?」
「あんたはここであたしを待ってて。もしネストンが戻ってくれば、話し相手ができるわ。けど、注意しなくちゃだめよ。ネストンは諜報者よ。」
「君はホテルでなにやるのか?」
「ああ、あんたったら、もうやきもちを焼いてるわ。商売よ、もちろん。あたしはタバコに火をつけ、そして偶然ホテルに火をつけることになるかもしれないわ。それに、ホテルは弾薬集積所の隣よ、ネッ」
彼女の計画の大胆不敵さに、彼の心臓はドキドキと高鳴った。彼は、彼女の腕を捕まえ
「君はそんなことは決してやるまいな。俺は許さないぞ。俺には自分の計画があるんだ」彼女は手を振りほどき、そして言った。
「バカなことをいうのはやめて。これが一番容易で安全な方法よ」彼は部屋の戸を開けてベッドの上に横になった。なんとそれは暖かだったことか。(暁を見ずに)
ローシン、彼女は信用してよかったのか? 自分の任務について彼女に話したことは、果たして賢明だったろうか? 彼女が日本の憲兵を連れて戻ってこないと誰が知っているか? まあ、とにかく、賽は投ぜられたのだ。ついに眠りに落ちると、彼はローシンのことを夢に見た。
…バタンと音がし、サンダルの音が階段を登り床を横切ってくるのが聞こえた。居間の電灯が付き、戸が開いた。彼は、ローシンがそこに立っているのを見た。彼女の服はねじれ、髪の毛は乱れていた。
「どうしたんだ?」
「窓から外を見てごらんなさいよ」彼女は息を弾ませた。彼が開け放った窓のところに駆け寄ると、彼女は腕をギューッとつかんで、しばらく彼の脇に立っていた。二人の耳に深い爆圧音が聞こえてきた。
「君がやったのか?」彼女はその顔を彼の裸の胸に埋めて、泣いた。
「ああ、あたしはなんてことをしちゃったんだろう? 怖いわ、カルディン」
「ローシン! 君は勇敢な女だね。」
「あたし知らないわ、あたし知らないわ。あたし、ただあんたのためにやったのよ、カルディン。ただあんたのために」彼は、彼女に息も付けぬほど熱い情熱的な接吻を注ぎ、そして愛しげに彼女を愛撫した。彼が彼女を抱いたとき、彼女は幸福そうにため息をついた。
・・・寝室の戸が押し開けられた。ネストンが戸口に立っていた。「男があたしと寝てるのさ、ほかの部屋を使っとくれよ」ネストンは小声でぶつぶつといったが、パタンと戸を締めた。二人は、彼が行ったり来たりしている足音を聞いた。突然彼は歩みを止め、戸の前に突っ立った「お前、カルディンだな」「そうだ」「今、どこに住んでる」「サンタ・バーバラだよ」「この街で、お前、何をやってるんだ?」「野菜と卵を少し売ったのさ」「ローシン、お前、今夜はホテルに行かなかったのか」「あたし、あすこにいたわよ」「お前、逃げ出せたのは幸せだよ、他の連中はそれほど幸運じゃなかったよ。日本軍の奴らはすでにホテルに火をつけた人間を駆り立ててるぜ」ローシンは震えた。しばらくして、二人はネストンが階段を下りていく足音を聞いた。
・・・「君、もう俺を欲しくないのかい?」「ああ、あたし、あんたが欲しいわ、カルディン。だけど、あんたがここにいれば、それはあんたにとって危険なことになるわ」・・・「君が俺と一緒に来れば、俺は君を幸せにする努力をするよ」「いいわ」
・・・二人が階段に足音がするのを聞いたのは、その時だった。次の瞬間、寝室の戸が押し開けられた。戸口にはネストンが、勝ち誇った笑いを浮かべて立っていた。彼の背後と周囲には、十人ばかりの日本の憲兵がいた。
逮捕者たちが彼を押し込んだ獄房には、囚人が二人いた。それは大人の男と少年で、二人は、カルディンの膨れ上がった唇―それからは血があごのところまで滴り落ちていた―を、その膨れた瞼を、そしてその額の上の切り傷を、ちらりと見た。カルディンがネストンを殴った後、憲兵がこん棒と獣の台尻でカルディンを圧倒し、針金で彼の手首を縛った後でカルディンの目に拳骨をたたき込んだのがネストンだった。彼女が金切り声でネストンにとびかかった「乙女、この卑怯者、あの人が殴り返せたら、怖くてぶてないくせに!」「この恥知らずのあばずれ奴、お前なんかあいつと一緒に殺されるぞ、もちろん。」
戸のそばに立っていた二人の憲兵は、いがぐり頭の若い日本の将校が獄房に入ってくると、身を固く指摘を漬けの姿勢を取り、敬礼した。他の憲兵たちもまた敬礼した。
「名前は何という、どこに住んでいるか」通訳が聞いた。
「名前はリカルドー・スエルテ、サンタ・バーバラに住んでます」
「えっ、あすこにはゲリラがたくさんいる。お前その一人か」
「いいえ」もう一人の憲兵が、棒切れと鞭を持って入ってきた。少年は震えだし、男は隅に逃げ込んだ
「お前はゲリラだ、お前のは兵士の体格だぞ」
「私はゲリラじゃありません」大きな日本の憲兵が棒切れをつかむと、カルディンの胸をグワンと打った。彼の目は飛び出し、下は口からだらりと垂れ、へたへたとくずおれた。若い将校は怒鳴った。そしてカルディンの耳に通訳の声が聞こえた「立て」中が起き上がりかけた時に、第二の強打が腰部を見舞い、彼を殴り倒した。「本当のことを言え!」大きな憲兵が、両手で野球のバットを握りしめ、それを彼の腹にぶち込んだので、彼は返事をする暇もなかった。「お前のほほのその傷だが、それは砲弾の破片でやられたものだ」「違います」「本当のことを言え」「ずっと、昔戦争前に、事故で受けたものです」彼は息を弾ませていった。「いつどこでローシンとであったのか?」「昨日の午後広場で」「ああわかった。それでお前はここにある弾薬集積所を焼く計画をしたんだな」「違います」…彼は将校の声を聞いた。通訳は彼の上にかがみこんでいった「立て」彼は立ち上がり、将校が手にした白刃と相対した。いよいよ、これでおしまいだ。「いえ、お前が集積所に火をつけたんだろう」「私はやりません」将校が突然刀をさっと振り下ろしたので、少年が悲鳴を上げた。カルディンは手のひらで顔を覆った。そして彼が手を放すと、その顔の下半分はどくどくと流れる地で染まっていた。「ローシンが火をつけたのか?」「いえ、彼女はやっていません。私と一緒にいたんです」 将校が憲兵に合図をした。憲兵は針金でもう一度彼の手首を縛った。彼らは其の針金の端を天井の鉄の輪に通し、引っ張った。将校は腕をまくり上げ、憲兵から鞭を取った。カルディンが目を閉じると、鞭が、彼の胸を巻き込んだ。「言え!」5分もしないうちに、赤と紫の筋が、カルディンの胴腹に着いた。その小さな房の中では、だれももう何もしゃべっていなかった。鞭の音、鋭い響き。
…意識を取り戻した時、カルディンはまだ手首でぶら下がっていた。彼が目を開いたとき、焦点が定まらないように思われた。のどはカラカラで「水をくれ」と彼は力なくつぶやいた。年取った方が彼のそばに寄ってきた。男は50年配で、その髪は半白になっていた。涙がこの年寄りのほほを零れ落ちた「かわいそうに、お前さん。しかし、この監獄にはほとんど水がなくて、食事の後で囚人に一人ずつにちっぽけなコップ一杯くれるだけなんだよ。もうすぐ昼だよ、やがて昼食をくれるだろう」
「あんたはなぜここに入れられているんです?」
「俺らはバランタンで籾を脱穀していたんだよ。ある晩、インディアン(ゲリラ)がやってきて、道路沿いの電話線を切断したのさ。わしらは知らなかったので、逃げなかったんだよ。翌日、日本兵が来て俺らをとらえた―俺らの小屋が道路にとても近かったからなんだ。奴らは、俺らが電話線を切ったというんだよ。」彼は息をつき、また続けた。「俺は自分のことならどうなってもかまわないよ。だけど、あの子はとても若いんだよ。奴らがあの子を痛めつけたので、あの子は自分で立って小便することもできないんだよ」
カルディンは言った「あれはまだ赤ん坊だ、悪いことなんかあれにできるもんか?」
「俺の名はラモンというんだ。そして、息子の名はアントニオだ。お前さんはなんていうのかね?」
「カルディン」彼は、初めてはっきりと獄房を見た。光が、遠い四角な穴から、差し込んでいた。そして、カルディンは便所を見た。きつい、吐き気を催すような臭気が獄房に充満していた。夕食の直前に、看守が戸口のところに現れ、ティオ・ラモンにカルディンの縄を解けと命じた。彼が目を開くと、年寄りは彼の耳ささやいた「奴らが夕食を配ってるよ」「弱りすぎてたてないんです」
…彼はそこに体を横たえ、明日になったら弾薬臨時集積所を焼いたことを自白しようと決心した。彼はただただ手遅れにならないことを願った。アントニオが目を覚ましていった
「僕たち、もう四日もここにいるんだよ。お父さん、なぜ奴らは僕たちを自由にしてくれないんだろう?」
「わからないよ。お前のお母さんや姉妹たちは今何をやってるかなあ。みんな、俺らがすでに死んだと思っているに違いないね」
「奴ら、今日僕たちを釈放するかもしれないね」ティオ・ラモンは答えなかった。しかし、カルディンは、この年寄りがほとんど泣きそうになっているのが分かった。
処刑
午後の半ばに、前の朝彼を拷問した憲兵のうち二人が房に入ってきた。彼はゆっくりと立ち上がり、彼らに近寄った「私があの弾薬庫に火をつけたんです。」彼らは、わけがわからないというように、彼の顔を見た「私があの弾薬庫に放火しました」憲兵は顔を見合わせた。そのうち一人が彼を突き飛ばしたので、彼は倒れた。それから、彼らは少年に手をかけ、引っ張り起そうとした。「お父さん!」「勇気を持つんだ倅や、お前は何にもしていないんだ。きっと神様が守ってくださる。たてつくんじゃないよ、トニオ。そうすりゃあ、彼らもお前を痛めつけはしないよ。ただ、本当のことを言うんだ」憲兵は泣き叫ぶ少年を連れて行った。年寄は長い事黙りこくっていた。しかし、突然、年寄りは飛び上がり、その目は苦悶のため飛び出していた「聞け、あれが聞こえるか? 奴らはまたもあの子を拷問しているぞ!」それは本当だった。カルディンには長いひいひいなく悲鳴と、すすり泣くうめき声が聞こえた。「あの子は潔白なんだ、あの子を痛めつけないでくれ」憲兵が房にやってきて、銃の台尻でティオ・ラモンの指を強打した。ちょうどその時、アントニオを連れ去った憲兵があらわれ、ひじを背中に縛り上げて、庭の真ん中へ連れて行こうとしていた。大きな憲兵は、抜き身の日本刀を腰にぶら下げていた。年寄は、あらん限りの力で引っ張った「俺を出せ! 俺があの電話線を切断した張本人だ! 俺が罪人だ! 代わりに俺を殺せ! あの子は釈放してくれ。ほんの昨日、母親の乳を吸うのを止めたばかりだ。あれはまだ赤ん坊なんだ」憲兵は中庭でアントニオを膝マづかせた。ティオ・ラモンは、気狂いのように狂乱して絶叫した「ああ、俺を出してくれ、俺が罪人だ! 俺があの電話線を切ったんだ、むすこだけは容赦してくれ」
しかし、死刑執行人は刀を両手で高く振り上げ、振り下ろした。年寄は、ゆっくりとよろめき、倒れ掛かった。ティオ・ラモンはカルディンがその名を四でも、その瞼をぴくぴくさせるだけだった。夜になっても、彼は意識を回復しなかった。「あの子は潔白だ……あの子は潔白だ……」
彼は目を覚ました。獄房の中は静寂そのものだった。彼には、年寄りの息遣いすら今は聞こえなかった。看守が朝食を与えにやってきたとき、年寄りがまだベッドに横になってるのが見えた「起きろ、起きろ、お前、鞭で打たれないのか?」「死んでるんです」カルディンは言った。朝食後に死刑執行人たちが来た時、彼は覚悟を決めてそのあとについていった。しかし、それどころか、彼らは彼の衣類をもってきて、こう言った「これを着なさい。お前はもう自由だ、すまなかったな」
・・・3たび英雄となるなんて果報な奴だ、と人々はうわさした。匪賊の壊滅、待ち伏せ襲撃の成功、その次がこれだ。「これ」というのは弾薬集積所の破壊とカルディンの釈放を意味していた。彼が病院で傷の手当をしていると、人々は彼の周りに群がり、その任務の成功を褒め称え、その釈放を祝った。ルーベンがしゃべり、有頂天になっていった「いや、俺は彼が火をつけるところは見なかったよ。どうやって火をつけたんだ、カルディン?」彼はそこに臥せったまま、厳しい表情で聞いていた。彼女の放火の自白という以外に、なにが俺の釈放を可能にしえただろうか? そして、奴らは彼女にどんな仕打ちをしただろうか?
…何週間か、体の傷がいえるにつれ、彼の心の中に、あの町に戻ろうという決意が固まってきた。時々、ルーベンは、午後などに訪れて、ゲリラの活動のこと、米軍の援助が来るといううわさのこと、潜水艦から武器弾薬を受け取る機会のことなどについて話したものだ。
「俺は休暇をもらってもう一度あの町を訪れるよ」「俺も一緒に行こう」「お前がついてくれば、とても危険なことになる」「よし、わかった。だが、彼女を連れて来いよ、ナ。彼女に言ってくれ、俺はまだ君を愛している、君と結婚したいと願ってる、とね」
…カルディンがイロイロ市に戻って最初に言ったのは、公園ではなくて、ラ・パスにあるローシンの家だった。「ローシン!」彼はそっと呼んだ。だが、だれも答えず、外をのぞきもしなかった。それで彼は広場に行った。彼は、人のいない日陰になった席を見つけた。そこに静かに座って、前を通る人々を眺めることができた。かつてホテルが立っていた場所には、今では、すすで真っ黒くなったトタン屋根の残骸がぐしゃぐしゃになっていた。日本軍慰安所の女たちは、閉まっていたホテル・プリンセスにうつされていた。今では、そのホテルの窓が外に向かって開かれ、銃を抱えた日本の番兵が、戸口の前を行ったり来たりしていた。陽光が弱まるにつれて、人々は広場に集まり始めた。ホテルの戸口から一段の日本兵と土地の女たちが出てきた。カルディンは一人一人を注意深く眺めた。しかしローシンの姿は見えなかった。
…アリーシャに逢うという希望を捨ててしまいさえもした時に、彼は滔々彼女を見つけた。彼女に連れはなく、急ぎ足で広場の方に歩いてきた。彼女が彼を見つけた時には向きを変え引き返すには遅すぎた。
「カルディン」
「俺は、君があんたなんか知らないというふりをするだろうと思ったよ」
「あたし……あたし」彼女は狼狽し身をひるがえした。彼はその手首を捕まえてベンチの方に引き寄せた
「馬鹿な真似はよせ、アリーシャ。座れよ」彼女は争うのをやめて、静かにベンチに腰を下ろした。
「行ってちょうだいよ、あたしと話をしているのはとても危険なのよ」
「俺は君と話をしなけりゃならないんだ」
…「二日前にね、奴らはまさにこの広場で、二人の男をとらえて殺したわ。2か月前には、ある売春婦が三人のインディアン(ゲリラ)のことを日本軍に密告したのよ。その人たちは首を斬られたわ、さあもう行ってちょうだいよ」
「君はあのホテルにだれが火をつけたのか知ってるかい?」彼女は大きな驚愕をした目で彼を凝視した。「あたし知らないの。その話はやめましょうよ、危険だわ」
「ローシンはどこにいる?」彼は突然尋ねた。
「あの人のことは聞かないで」カルディンは、疲れ切った剥分塗り立てた顔のこの娘を、哀れに思ったが、彼女はローシンについて何か知ってるなと感じた。
「君が話してくれるまで、俺はいかないぜ」彼女は、話をするしかないことを悟った。
「そんなら、いいわ。彼女がホテルに火をつけたんだと奴らは言ったわ。あの火事で、奴らが沢山死んだし。あたしのような女も沢山死んだわ。奴らの話では、彼女は自分の罪を認めたんですって。奴らは見せしめのために、あたしたちに彼女の処刑を見させたのよ。彼女は平静で勇敢だった。死ぬことを畏れていないように見えたわ。ただ最後の瞬間に彼女は嗚咽したけど、おそらく自分自身のために泣いてなんかいなかったのじゃないかしら。奴らは彼女の首を刎ねたわ。」彼女は目を閉じていた。彼の熱い血が頭に上った。
「もしもそれが本当でなかったら……」
「何であたしが嘘をつかなきゃならないの?」彼は彼女の手を放した。涙がほほを流れ落ちた。
「えい、ちくしょうめ、ちくしょうめ!」
「勇敢な人だったね、さあ、行って、カルディン」
「俺は行こう。君は帰りたいかい?」
「あーあ、それが出来さえすれば。貴方は知らないでしょうけど、あたしは、出られるときはいつもこの公園のベンチに来るの。あたしはただの普通の売春婦よ。あそこではだれも何も考えないの。しかし、ここにいるときは、あたし思い出すわ。6月の泥んこの水田や、水牛や、屋根をたたく雨の音を。あたし思い出すの、クラボー・パーティのことを、畑でダンスをして楽しんだ結婚や祝宴のことを。これが、あたしが広場のこの席に来る理由よ」
「じゃあ、なぜ、君は村に戻らないんだ」
「だけど、村に戻ることはいい事じゃないわ。村にとって、あたしは死んだ人間よ。だから、ここにとどまっているのが、一番いいいことなんだわ」二人は、それぞれに物思いに沈んで、しばらく無言だった。
「村のことを話してちょうだい」
…そこで、彼は、彼女が連れ去られて以後村で起こったいろいろのことを話して聞かせた。だが、彼が彼女に話さないこともあった。ブラスがこの町で日本軍に首を斬られたものの一人だということ、自分がハイメ叔父さんやポロや、その他大勢の人を殺したということ、ルーシンが男の子を生んだこと、彼女が悪態をついて自分を追い出したこと、自分が、アリーシャと同様に村からの追放者であることは。
…彼女は、深い物思いに浸った。それから言った。
「あなたは今度は一人なの」
「そうだよ。君はなぜルーベンから逃げ出したのかい? もう彼を愛してないの?」
「ああ、わからない。あたし、あの人をあきらめようと努力してきたの」
「彼は、俺に君を連れて帰ってくれと言ったんだ。いまだに君と結婚するつもりでいるよ言ったよ」
「あたしはお祈りすることを忘れてしまったの」次の瞬間、彼女の顔は、険しく、侮蔑の情がその口を開かせた「あたし、男というものを憎むわ。だけど、あたしには復讐の方法があるのよ。あたしは病気にかかりかけてるの。あたしと寝に来る男には残らずそれを移してやることが、あたし、うれしいのよ」彼女はみだらに、笑った。
「さあ、もう行ってよ」彼女は叫んだ。「村の人に言ってちょうだい。もしあたしがなんて言ったと聞かれたら――時々はアリーシャのことを思い出して、って」
彼女は、まるで笑うのを楽しんでいるように顔をのけぞらして、甲高い声で笑った。
・・・彼は一人の日本兵が近寄ってくるのを見た。それは、アリーシャと一緒にホテルに入ったあの日本兵だった。彼は彼女の腕を捕まえて、敵意のある目でカルディンをにらんだ。彼女は笑うのを止めて、二人の男を見た。「お前は誰だ?」その日本兵が聞いた「トモダチ、友達なの」彼女は手のひらでその日本兵の顔をなぜ、そのくちに接吻した。彼女は、親愛の情を示すいろんな言葉を日本語で囁きながら、彼を連れ去った。それが、日本の兵隊と一緒に慰安所に入っていくアリーシャを、彼が見た最後だった。(暁を見ずに)
| パナイのゲリラ戦(1943年前半 |
ゲリラは地雷を使って日本軍のトラックや乗用車などを破壊した。前田小隊の戦車も地雷でキャタピラを吹き飛ばされ使い物にならなくなってしまった。討伐隊もしばしば地雷でやられ数倍の時間がかかるなど、作戦行動に支障が出るほどだった。しかし、我々の方もだんだん勘が鋭くなり、ゲリラが地雷を使用する場所、地形などが分かるようになった。次にゲリラ側が使ったのはダイナマイトである。トラックの列の中でもこれはと思う車をめがけてスイッチを押し、効果を上げた。爆発させると一目散に逃げ、これを捕えることは殆どできなかった。そのうち子供がダイナマイトのスイッチを入れているのを見つけ、捕まえた。彼らはついに子供までゲリラ戦に巻き込んできた。併用してゲリラ側はイロイロ市の放火隊を送り込んだ。夜、突然市内の各所で火災が発生し、これを合図に市周辺の警備隊、時には部隊本部が急襲された。これはゲリラの健在を市民に誇示するための襲撃であったようだ。しかし市民はゲリラの恐怖と不安を感じた。あまり火災が発生するので市外へ脱出するものも多かった。憲兵隊は、総員で放火犯の捜索に当たり、情報をつかんでは多数の容疑者を逮捕したものの、犯人を見つけ出すことはできなかった。そうしたある夜、憲兵隊の潜伏兵が空き缶を下げてうろつく若い女性を見つけ、缶から油を流し火をつけようとするところを捕まえた。女とはまったく思いもよらなかった。ゲリラは女、子供までその渦の中に巻き込んでいたのだ。
ゲリラの活動を阻止するため渡辺大尉は、一戸分隊程度の潜伏斥候を毎晩のように方々に出したが、情報は筒抜けで逆に潜伏斥候が襲われ戦死者が出る始末だった。このため、比人密偵を使った。密偵は前科者が多く、密偵から情報が入ると、住民に変装した部隊の兵や憲兵がアジトを急襲して捕まえるなど初期にはかなりの効果を上げたが、日本側の密偵は市民に毛嫌いされるようになったので有力な情報は次第に少なくなった。そのうえ、日本軍をかさに来て善良な市民を脅し、捜索のどさくさに金品を奪ったり、中には強姦をするものもあり、日本軍の信用失墜に拍車をかけていた。一方、ゲリラ側も当然日本軍に協力した密偵に対しては報復し、かなりのものが惨殺されたり、行方不明になった。また、密偵の中には、逆にゲリラ側に脅迫されて日本軍の情報を流すという逆スパイを働く者もいた。
渡辺大尉は少しでもゲリラに関する情報が入るともっぱら夜間出動し、容疑者を容赦なくとらえ、本部床下の留置場にぶち込んだ。連日の容疑者狩りで、床下には常時30-40人が詰め込まれており、取り調べは残酷を極めた。バットで殴ったり、腹が膨れ上がるほど水を飲ませたりするので、取調室からは四六時中、わめき、泣き叫ぶ声が聞こえた。こうして白状させると、白状したゲリラを先頭に道案内に立たせて夜間、討伐に出動した。ゲリラは、白状すると日本兵の先頭に立って道案内をしなければならないことが分かっているため、身の安全上、拷問のぎりぎりのところまで白状しないのが常だった。白状した情報が正しく、新たなゲリラを逮捕すると、道案内のゲリラは約束通り釈放されたが、今度はゲリラ側が彼を報復のため死刑にした。またあるものは死刑を逃れるためと拷問した日本軍に対する憎悪から、ゲリラの先頭に立って日本軍警備隊や施設襲撃の手引きをすることもあった。このため、ゲリラの釈放を渋るようになり、やがて収容所がいっぱいになると処置に困った情報室はゲリラの処刑を行うようになった。部隊の兵たちも多くの戦友がゲリラのために目の前で悲惨な死を遂げていく姿を目撃するにつれ、恐怖と不安に襲われ、自分が殺される前にゲリラを殺さなければ……という気風に代わっていった。内地で僧侶だったという30歳も、最初はゲリラが処刑されるたびに手を合わせ念仏を唱えていたが、戦友がゲリラに殺されてゆくと「相手を殺さねばこっちが殺される」と処刑に対してはもはや関心を示さなくなってしまった。これに対するゲリラ側の仕返しも、残虐を極めてきた。パナイ島は人殺し、殺戮の島へと変わっていった。このため双方とも常識では考えられない、常軌を逸した行き過ぎが数多くあった。
このような行為は、捕虜の扱いにもあらわれてきた。捕虜ははじめのころは宣伝、民心安定のため、しばらくすると宣伝のチラシや品物を与えてすべて釈放していた。このためゲリラの中には、日本軍に捕まってもすぐ釈放されるので安心しきって捕虜となるものも多かった。しかし、ゲリラ側はこれを利用し、日本側の情報を得るため偽装投降して捕虜となったものも多かった。これらのものがゲリラに復帰する条件としては、日本側の情報を提供するか、自分がゲリラを先導して日本軍の施設や兵舎などの攻撃をするということであった。日本軍としては、思わぬところから不意打ちを食うので犠牲者が続出した。このようなやり方について、部隊内には手ぬるいという意見があり、また現地人の中にも1898年当時のフィリピン・アメリカ戦争での米軍のゲリラ弾圧のやり方から見れば、日本軍のやり方は手ぬるく、これではフィリピンで一番勇猛なパナイのゲリラ討伐はできないというものもいた。渡辺大尉は、このアメリカ軍のゲリラ壊滅戦法を彼なりに熱心に研究した。この結果が以後のゲリラ討伐に表れてくるのである。
我々もようやくゲリラの組織についてその全容をつかむことができた。その組織の一つはパナイ島の米極東軍将兵とフィリピン警察体を中核とするファイティング・ユニット(戦闘隊)、他の一つは日本軍上陸前の州政府を母体とする戦時民事政府だった。知事のトーマス・コンペソールは彼の右腕として弟のパトリシオ・コンペソール、マリアノ・ベネディクトらとともにパナイ島の高峰イナマン山麓のボカレに本拠を置き、EPG(緊急州警察隊)や、自警団のボロ・バタリオン(蛮刀隊)を組織したほか、緊急紙幣を発行し、その紙幣にはマッカーサー将軍の肖像と「アイ・シャル・リターン」のサインが入っていた。通用地域は日本軍占領下のイロイロ市を除くパナイ全島及びロンブロン島であった。一方、ゲリラ軍側ペラルタ大佐の第六軍区軍司令部諸事地はパナイ島東北100㌔のサラに置き、カピス州とアンチケ州の境、アルフォンゾ・ローセのナクロン山では無線機RM5を使用して、オーストラリアと交信を続けていた。米軍からの補給物資はアンチケ州北部海岸のパンダン―クラシー間で潜水艦から陸揚げされていた。第61師団の司令部はイロイロ州バロタックビーホ東方の山岳内にあった。各連隊の担当地域は第63連隊がイロイロ州中西部、第64連隊は同州東部のサラを拠点に、第65連隊はアンチケ州中西部、第66連隊はカピス州中東部CPG(コースト・パトロール・ガード)はアンチケ州北部とカピス州西部となっていた。このうちCPGは、マッカーサー司令部との無線連絡をするため、ペラルタ大佐が42年12月に最高秘密計画として設定したもので、隊長はシリロ・B・ガルシヤ少佐、無線技士は当初米人で軍技術部長のクラウデ・ファーティグ少佐であった。ゲリラ軍の兵力、装備については、我々は正確なものをつかんでいなかったが、各種の情報から兵力はほぼ1.5万と推定していた。ゲリラ側の資料で43年6月現在で将校1108、下士官・兵15232となっているので、推定はほぼ当たっていたわけだ。装備については46年マニラの軍事裁判に証人として出廷した第61師団情報主任参謀、フェデリコ・サルセード中佐の証言では「42年12月ごろから、潜水艦による補給が実現し、1回で200~300㌧の補給を受けた。43年6月下旬までに前師団戦闘部隊の約半数は完全に武装され44年1月には9割までの武装が完了した。日本軍のような大型火砲類はなかったが、全体としてゲリラ側の武装の方が優れていた」と述べている。
ペラルタ大佐のゲリラ軍とコンペソール知事の民事政府は、日本軍上陸当初は協力してたたかったが、ペラルタ大佐の信望が島民の間で高まるのに連れて、コンペソールの影が薄くなってきた。コンペソールは元来、軍は民事政府の下に置くべきものであると考えていた。これに対し、ペラルタ大佐は戦時下であるとして戒厳令を敷き、軍の下に軍政を置くべきであると主張し対立した。これに関連して民事政府とゲリラ軍は紙幣の印刷機プレス・ワンとプレス・ツーをそれぞれ持ち発行していたが、経済通のコンペソールは物価上昇を抑えるため緊縮政策をとった。しかし、ゲリラ軍は多数の兵士を抱えて立ために多額の紙幣を発行しインフレ政策をとった。この点でも対立した。この問題に一つはゲリラ軍の攻勢にも原因がある。当時のゲリラ軍の中には愛国心に燃えて大学、高校などから参加したインテリもいれば、食うために入ってきたドロボウ、強盗、やくざの類もいた。彼らは戦闘のどさくさに一般人の家に押し入り金品を強奪したり、女子に暴行を加えるものもいた。これに親や兄弟が抗議すると逆に日本軍の協力者というレッテルを這って公然とリンチを加え、殺すということが各所であった。このような不法行為に腹を立て、日本軍側に投降する町長もいたほどであった。住民たちは村長や町長を通じコンペソールに取り締まるように訴えた。コンペソールは再三にわたってペラルタ大佐に抗議した。ペラルタ大佐も憲兵の組織を強化して取り締まりに当たったが、日本軍の討伐が始まると一帯は無警察状態となるので、この間、悪質ゲリラが悪行の限りを尽くしていた。44年5月ごろ、筆者がフィリピン人の密偵から「住民は日本軍の追放を一番希望しているが、それ以上にゲリラ兵の横暴ぶりと犯罪行為には、もううんざりしている。このためには一日も早く米軍が来て治安を回復してほしいといっている」と聞かされた。それほどに、その横暴ぶりは目に余るものだった。ゲリラ兵の殺人、暴行の中には、これを日本兵の残虐行為にしてしまうことがかなりあった。彼らにしてみれば、悪いことはすべて日本兵の仕業とすれば簡単に片付いたからだ。この事実は後日、戦犯裁判でフィリピン軍側が提出した告発状や商人の中にかなり事実誤認があって、却下されたものがあったことからも裏書される。
43年6月、守備隊司令部に新たに参謀が置かれることになり、新参謀に陸軍省にいた渡辺英海中佐が着任した。渡辺中佐は赴任途中、マニラの軍司令部参謀部に立ち寄り、ビサヤ地区ゲリラ平定全般の指示を受けた。軍参謀部はフィリピン派遣軍最高司令官の田中中将がパナイ島でゲリラの襲撃を受け、危うく一命をとりとめ、地上を這わされたことに深い屈辱と恨みを持っていただけに、渡辺中佐に「ゲリラを徹底的にたたけ」と厳しく支持をした。渡辺参謀は、セブの守備隊司令部に到着するや早々にパナイ島の視察に来た。まず、戸塚部隊で勇猛として軍司令部参謀の間で評判の良かった渡辺大尉を右腕とし、最初の仕事としてパナイ島のゲリラ大討伐を計画した。この計画について守備隊司令部の少将は、渡辺参謀に一任しており、戸塚部隊長も作戦情報主任の渡辺大尉に任せきりだったので、作戦はもっぱら両渡辺の間で決定し実行された。(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1943年前半 |
このころ渡辺大尉の発案で、イロイロ州平地部の各町に戦略村が置かれた。これは満州事変の際日本軍が使ったもので、日本軍の勢力下にある部落では住民にセドラ(住民証)を発行し、領民として日本軍が保護するものとして、はっきりとゲリラ側支配の部落住民から区別するものだった。こうなると住民側は少しでも身が安全と思われる地区に移住した。このため、イロイロ市に近い地区ほど住民が集まり、パビアなどは流入する住民であふれるほどだった。しかし、これは表面上で、大部分の住民はゲリラに情報を提供し、その活動に協力した。中には公然とゲリラを戦略村に潜り込ませるものもいた。我々は、住民に対してゲリラが村に入った時は必ず通報するよう命じていたが、ゲリラ侵入の情報は一軒もなかった。
戦略村でのゲリラは、住民への迷惑を考えてか正面切って日本兵を襲撃したり、テロ行為などはしなかった。しかし、他の手段で日本兵を脅かした。たとえば、第三中隊の矢野軍曹はパビア町の警備隊長を務めていたが、治安もよかったので部下もつれずに、かねて目をかけていたきれいな娘が売るトバ(ヤシ酒)を飲ませる店に入った。軍曹は娘や店の者たちに勧められるままにトバを飲んだが間もなく気分が悪くなり、警備隊に着くなり苦しんで死んだ。警備隊が直ちにトバ売りの店を襲ったが、素手のその娘も店の者も姿を消していた
村の恐ろしい時代
村には、恐ろしい時代が来ていた。北部から来た兵士が、数人部落を通り、何か食べるものをくれと乞うた。彼らは、日本軍がさらに進攻してきて兵士も一般市民も―男も女も子供も―一様に殺した、ということを話した。米の行商人から、部落の人々は、ロンガウ村の架橋大虐殺の話を聞いた。この不幸な中国人たちが、ある朝、目を覚ますと自分たちの家が日本軍の手で火をつけられていた時の様子が語られた。逃れようとした人々は、銃剣で皆殺しにされた。南部から来た星魚の行商人の話も、同様に、身の毛もよだつものだった。多くの場所で、男たちは、ゲリラの指令所に出かけて、銃が帰れば戦いたいと申し出た。
「奴らは軍人も一般人も区別しない。奴らは生まれたばかりの赤ん坊でさえも殺している。奴らの行っているのは戦争なんてもんじゃない。虐殺だよ」この人たちのうちに採用されるものも何人かはいたが、残りの人たちは、こう言って、断られた。
「われわれの所にはもう銃がないんだ。救援の武器が来たら、あんたがたを呼ぶことにする。我々がもっと銃を手に入れた時に、あんたがたら来たらいいよ」
「あーあ、救援が来るのはいつのことかね。俺たちはポロで持っても戦うさ」わけで、いわゆる「ポロ大隊」がいくつか編成されるに至った。
6月になると、サンタ・バーバラの街では、日本軍は、住民に一人残らず日本軍の作った集団部落に入れと命令した。20日の期限が過ぎてもこの集団部落に入らなかったものは、すべてゲリラのシンパとみなされて射殺されることになる。日本軍は、彼らがいわゆる集団部落――彼らの言う唯一の安全――の境界外にありと考えるすべての部落の名前を入れたポスターを配布した。しかし、ゲリラがこのことを知ると、彼らはこう言った。
「我々は、集団部落に入るものはすべて日本軍の同調者と考えるであろう。人々は、日本軍駐屯地区に含まれていない町や部落へ疎開すべきである」
マンハーヤンでは、人々はマルコスおじさんの家に集まった。
「われわれはどうしようか?」
「逃げるとしたら、鶏や豚、もみ焼き物、それから鍋や台所道具を全部どうやって運ぼうか。すでにわれわれは、逃げようとして捕まり日本軍に殺された何人かの人たちの話を耳にしている。もしも集団部落に入れば、今度は自分の息子たちから、敵とみなされるだろう。もしも、村に居残れば……」
彼らは、日本兵があの晩この村で何をやったかを思い出し身を震わせた。マルコスさんは口を開いた。
「お前さんたち、お前たちの亭主たちに、俺はこういおう――お逃げ。それが最も危険の少ない道だ。危険に一番爆されていない遠く離れた村々へ行け、と」
ある老人が言った。
「俺は貧乏だ。けれども、俺の結婚の祝宴にお客に来てもらったあの家を去るのはつらい事だ。ああ」
マノン・マルセロが言った。
「だが、残りたければお残り。お前さんは一人になるよ。私もそうだがね。危険が迫れば、私たちは竹藪の中に隠れることができる。ゲリラも戦うと聞いている。ルーベンの話では、カルディンは今は少尉で、ここのポロ大隊の指揮官だそうだ」
数日にわたって、出ていく人々があふれ出し、他の部落から逃げ出した人たちの移動体と途中で合流した。ファニウアイ、ランプナオ、そしてポトタンへ。一番遠いカリノグやバッシに行ったものもあった。カルディンの家の二人の女は、近所の人々の出発を見送った。ルーシンは答えた。
「行くとしても、たいして持っていくものもないし、あたしたちには、出かけるのは容易なのよ、いずれ音から追っかけるわ」
ビッコのゴンドイと、村の幾人かが、マノン・マルセロと一緒に居残る決心をした。
「たとえ一人2,3ガンタスの米をもって逃げ出したところで、いったい幾日持つかい?、俺たちは日本軍からは逃げられるが、今度は飢えが最悪の敵になるぞ」
大部分の村人が出発してしまった後は、廃墟となった村のようだった。時々マノン・マルセロがルーシンとピアおばさんを訪ねてきた。そして時にはゴンドイが、松葉づえをついて、訪ねてくれた。彼が来てくれると、ルーシンはうれしかった。彼が際限もなくカルディンのことをしゃべってくれたからだ。カルディンが弾薬庫破壊の功で少尉になっているのは本当だった。彼女は放火のこと、カルディンに憲兵が加えた拷問のこと、そして奇跡的な彼の釈放のことについて聞いていた。彼女はいつも彼の立てた手柄に関する話にじっと聞き耳を立てたが、質問をしないように注意していた。
「だけど、カルディンとあんたの間じゃ、すっかり愛は冷めちゃってると、あたし思ったんだが」と聞かれるのが恥ずかしかったからだった。そしてゴンドイ入っていた。
「そうだよ、本当だよ。カルディンはポロ大隊を率いて街を襲撃に行こうとしている。誰でもそれが自殺行為だと知ってるんだ……」
それが、彼女が待っている理由だったのだ。最後の日には、雨が降り出した。たびたびゴンドイとマノン・マルセロは、ゲリラが、町を攻撃して日本軍が司令部にしている学校の建物を奪取するのにどんな計画を立てているか、について語っていた。彼女が追いだして以来カルディンは戻ってきたことがなかったし、カルディンが街を襲撃に行く前に、もう一度彼に逢いたかった。彼女は、遠くから彼を見たいし、それで満足だと思った。彼女が部屋の隅で考え込んでいた時、ノンノンが叫んでいる声が聞こえた。
「来たぞ!、ポロ大隊が来たぞ!」
彼女は飛び上がり、窓に駆け寄って彼らを見た。それはブリ帽子をかぶり、粗末な手織りの複―それは雨でびしょぬれだった―を着た男たちの縦隊だった。彼らは、体の横に吊ったポロやナイフにもかかわらずみじめな姿であり、彼女には彼らがマンゴの機のそばを通り過ぎていくのが見えた。ついに部下の脇を歩いていく彼の姿が見えた時、彼女の心臓は止まった。もう一歩、そして彼は行ってしまうだろう。彼女が彼を見るのも、これが最後だろう。しかし、その瞬間、彼は他の連中から離れて、急ぎ足で小屋の方へ歩いてきた。彼女は寝室に駆け込んだ。少年たちが喚声を上げてかれに逢いに行った。フストの叫びが上がった。
「カルディン兄さんだ、本当なの、兵営を攻撃するのは」・・・彼の声が聞こえた。
「姉さんは二階かい?」「そうだよ、だけど僕たちは、雨がやみ次第、カドルドランへ行くところなんだ」「それはいい」彼の階段を上がる足音が響いた。
「こんにちは、お母さん」「ああ、カルディン、あんたは町を襲撃に行くのかい?」「そうですよ、あなた方はもう行かなけりゃいけませんよ」「だろう?」一瞬間が途切れた、それから
「まだ時間がある、彼女はどこです?」「寝室の中だよ、ルーシン!、カルディンが来てるよ!」「かまわないでください、私が行きますよ」
次の瞬間、彼が戸口のところに立っていた。
「俺たちは町に行く、ルーシン。俺が出ていく前に、俺のためにあることをしてほしいんだ。俺が君に対してやった悪いことをすべて許してくれ。これが俺の頼むすべてだ。」
彼女には彼を見上げる勇気がなかった。彼は上着の内ポケットに手を容れて何かを探していた、彼はそれを彼女に手渡した、それは抗日政府の発行した応急通貨の一束だった。
「僅かばかりだが、この金を君に置いていこう」
彼女が受け取らないので、彼はそれをベッドの上の彼女のそばに置いた。
「俺はたくさんの人を殺した。そして、さらに多くの人たち―君を含めてーに、悲しみを起こさせた。今日、俺は出ていく。俺は、君に対していい夫でなかったことを、ただ済まないと思っている。俺は君に、悲惨と悲嘆以外に何一つ持ってこなかったんだもんな」
彼は立ち上がったが、それでも依然として彼女は答えなかった。彼は、その目はひどく悲しげだった。
「さて、俺はもう行くとしよう」
彼女がものも言えないでいるうちに、彼は行ってしまった。そして彼は戸の所で躊躇することすらなかった。彼女はそこにたたずみ、彼が腰かけていたベッドの上のヶ所のじっと見つめていた。次の瞬間、彼女は、外側の窓に駆け寄った。雨はすでにやみ、木々の葉が水滴できらきら光った。彼女の目に、彼が、背の高い体をすっくと立てて、さっさと歩いていくのが見えた。そこへ、ゴンドイが、松葉づえにすがって、彼と並ぶのが見えた。戻ってきて!、ああ戻ってきて! 彼女の心は狂気のように叫んだ。ピアおばさんがつぶやいた「ああ、あの人たちのうち何人が帰ってくるだろうか?」ふらりの少年が、「戦いに行くフィリピン兵士の歌」を歌い始めた
我はフィリピノ、ここにあり。いざ、戦いに出て行かん。誰か嘆かん、今にして、いかなる定め我待つと。我の定めの、死にアラバ、地上に我は倒れなん、誰ぞや、その時涙して、ねむれるわれを抱かんは
彼女は、両手で耳をふさいで叫んだ
「止めて、止めて」
「姉さん、用意はできたとお母さんにいて、カルディン兄さんも、すぐ出かけた方がいいといってるよ」
彼女は聖像の前のローソクに火をともして、ひざまずいた。それから、彼女はお祈りを唱え始めた。
「奇跡のメダルの聖母マリア様、彼をあなたのマントの青いひだの下に隠したまえ…。大天使ミカエル様、戦いの中で彼をお守りください…」
彼女がまだ祈り続けているときに、最初の銃声が街の方から聞こえてきた。
これは、パナイ島における絶望的な戦いの物語であり、フィリピンの夜の間に倒れた人々の物語である。私は、貴方方が、本書を読まれたのちに、我々フィリピン人を一層よく理解されるであろうと思う(ステヴァン・ハヴェリャーナ 暁を見ずに)
| 概要 パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) パナイのゲリラ戦(1942年後半) パナイのゲリラ戦(1943年前半) パナイのゲリラ戦(1943年後半) パナイのゲリラ戦(1944年前半) パナイのゲリラ戦(1944年後半) パナイのゲリラ戦(1945年) パナイのゲリラ戦、終戦後 |
パネイの抵抗運動はユニークだった。急速に発展し、不和が最小限に抑えられ、ダイナミックな指導者が早期に現れた。パナイのゲリラ組織は、降伏命令が発表された直後に丘陵地に避難してきたフィリピン第61師団の難民部隊を中心に構築されていた。日本軍の侵攻からわずか10週間後、元第3師団のG-3 であり、強力で推進力のある人物であったペラルタ大佐が、主要なゲリラグループの無論の支配権を獲得した。一般的に認められた指導者が早期に出現したことと、比較的大量の救援物資や装備品が入手できたことが、円滑に機能するゲリラ司令部の形成に強力な推進力を与えた。さらに、パナイの勇敢な総督トーマス・コンペソールの努力は、彼の自由な市民政府が日本の軽度の守備隊によって比較的破壊されずに残されたことで、パナイの組織の枠組みを強化し、民衆の士気を高めた。
ペラルタ大佐は急速に進歩した。1942年11月までには、彼はフィリピン第61師団を再活性化し、集中的な訓練プログラムを開始し、豪州との最初の無線連絡を確立した。また、彼はビサヤ諸島の隣接する島々、さらにはミンドロ島やパラワン島にまで影響力を拡大し始めた。1943年2月、GHQはペラルタ大佐をパナイ、ロンブロン諸島、ギマラス島を含む第6軍区の事実上の司令官に任命した。この任命は、ペラルタ大佐の領土支配を確固たるものにしたが、ペラルタ大佐が自分の影響力を確立しようとしていた他の地域での公式な権限を無効にする効果があった。
この制限にもかかわらず、ペラルタ大佐の隣接地域での活動は自然発生的に盛んになっていった。マスバテ、マリンデューク、ミンドロ、パラワンの小さなゲリラ・バンドは、優れた指導者を持たず、第6軍区の支配下にあった。ペラルタ大佐はすぐにフィリピンで最も広範で効率的な情報システムの一つを開発、ビサヤとミンダナオの主要なゲリラ酋長と無線やポーターで連絡を取り合ったりしており、彼のエージェントはルソンまで活動していた。大量の情報報告書は、北と東からマスバテ島とタブラス島を経由してパナイ本部に安定した流れで送られてきており、そこで照合され、SWPA に中継されていた。
| パナイのゲリラ戦(1943年後半) |
パナイ島では、26歳のペドロ・セラン中佐がペラルタのG2として、情報網を運営していた。SWPAは「彼の報告は信頼できるが、情報源の整理と開拓が緩慢で、情報部門の財務会計を維持する努力がほとんどなされていない」。実際、ペラルタは毎月50万ペソを諜報活動に費やしていた。彼はSWPAに「この地区のお金の問題は深刻だ。先月は100万ペソを刷って出したが、すべてなくなった」。PRSでは、ホイットニーが心配していた。これらの資金のうちどれだけが実際に合法的な目的のために分配されているか。
ペラルタはルソンに2つの諜報員グループ、ホンティベロス大尉と第2戦闘団をマスバテ州に、エンリケ・ジュラド中佐と第1戦闘団をミンドロ州に派遣していた。ペラルタは7月までにルソン島でバタンガス、ターラック、バターン、コレヒドール、リンガエン、パンガシナン、カビテの7つの無線基地を持っていた。しかしSWPAによると、「報告は頻繁ではなく、しばしばかなり遅れていた......。ルソン島中部とマニラからの報告は誇張されており、他の情報源から検証されない限り、控えめに扱われることもあった」。それでもペラルタは政府内、日本軍施設、街角に諜報員を配置していた。彼はマスバテ、マリンドゥケ、ミンドロ、パラワンにも手を伸ばした。また、ネグロス島のアブセデとレイテ島のブラス・ミランダを引き続き支援した。
SWPAはペラルタを必要としていた。諜報員たちはこう報告した。「SWPAから送られた物資は、闇市に大量に出回り、必要な人や物資を受け取るべき人の手元に届くことはめったにないと言われている」。それでも、PRSは1944年半ばまでにほぼ 100%のゲリラを武装化することになる。
パラワン島では、州警のギジェルモ・マランバ少佐が丘陵地帯に隠れていた。6月、コブ兄弟の一人がダンリグでマランバと会い、激しい口論になった。コブはマランバを射殺し、執行官ペドロ・マニゲ大尉の下で彼の75人の武装警官隊を勧誘した。マニケはコッブスに抵抗した。パラワン北岸では、前知事でフィリピン陸軍医療予備軍大尉のヒギニオ・メンドーサが率いるゲリラが、装備、人員、食糧の減少に悩まされていた。彼は1月にコブ隊と合体して、メンドーサ・コブ隊を結成し、警察局内の協力者を攻撃し始めた。ペラルタ指揮下の中佐の従兄弟であるバルドメロ・R・ガルシア少尉は、1943年2月までパラワン西海岸に潜伏し、マニゲの執行官として合流した。6月初旬にガルシアはマニゲを資金の不正使用で告発し、指揮権獲得に向けた投票を勝ち取った。10月、ペラルタはガルシアを幹部とする特別大隊を編成するが、この時マニゲは彼との連携を拒否した。ガルシアは1944年1月にマニゲを捕虜にし、終戦まで幽閉した。
ペラルタは再びルソン島南部に到達した。6月、エスクデロは息子のアントニオを300人の部下とともにパナイ島に送り、ビコル州全土を組織する許可を求めた。ペラルタは、第5軍団をまとめることができる者なら誰でも支援すると申し出たが、エスクデロを認めることをためらった。これ以上待つ気になれなかったエスクデロは、ストラウンからの権限でビコール全域を指揮する正大佐になることを宣言し、他のすべての者、つまりペラルタに自分の地域への干渉を許さないことを警告した。
| 43年7-12月の日本軍によるゲリラ討伐 |
7月7日、半年間にわたるパナイ島統一ゲリラ討伐が開始された。参加兵力は戸塚部隊、カピス州の木下部隊、アンチケ州の多賀部隊(部隊長多賀勘助中佐)が選出した約7個中隊。これに海軍の「唐津」、軍指令部より電波探知班と上陸用舟艇隊が強力のため派遣された。第11独立守備隊長江の少将の直接指揮で、戦闘指令所もイロイロ市に移された。今回の作戦の目的は、第一にゲリラの最高幹部の逮捕、第二にゲリラ軍が開設した無線機の捕獲(当時約15の無線局があった)とゲリラ拠点の壊滅だった。戸塚部隊は本部直属の一個中隊と第3中隊、第4中隊、第1中隊のうち1個小隊の編成で参加した。
部隊はまずイロイロ市北方22㌔、アルモジアン西北方のジャングル地区にいるゲリラの拠点を攻撃した。ゲリラ側はかなわぬとみたか戦闘を避け雲隠れし、住民はほとんど逃げてしまった。カピス州南部のドラマオ付近のゲリラ攻撃を行っていた木下部隊では、兵約50人がトラック荷台ごと地雷で吹き飛ばされ、地雷による戦死者としてはこれまでの最大の被害を受けた。アルモジアン西北方で抵抗するゲリラを排除した部隊は、民事政府知事コンペソールの本拠ボカレ(アルモジアン西北方約20㌔)に急遽進出を図るため、まずカガイに到達した。この付近で住民をできるだけ多く逮捕してコンペソールの情報を集めた。捕えた住民の先導でボカレ付近の山上に立った時はその周辺の風景を見て驚いた。黒肌の高々とそびえるイナマン山(1350m)を中心にこれを取り囲むように山系があり、真ん中を清流が堂々と音を立てて流れていた。山の斜面は階段状に水田があり、樹木の茂付近には民家が数百件密集し、パナイ島の別天地を形成していた。民家を捜索したがすでに住民の影はなく、村全体が空き家だった。各隊は総力を挙げて住民の捕獲に力を入れ、毎日十数人の住民やゲリラがとらえられた。渡辺大尉を始め将校たちが手分けして調べ、少しでも情報があると住民に道案内をさせて逮捕に向かった。これだけの捜索にもかかわらず政府の官吏一人すら逮捕できなかった。渡辺大尉はじめわれわれにも焦りの色が濃くなり、住民やゲリラの逮捕を強行させた。取り調べは過酷なものとなり、殴る蹴る、水を飲ます、あるいは木につるすなどの拷問は日常茶飯事となった。住民の方もうっかり口を滑らすと夜でも危険な中を道案内に立たされるので必死で知らぬ存ぜぬと頑張った。山の中で掘っ立て小屋でも見つかると、労を惜しまず2時間でも3時間でも付近を捜索した。谷間の山道にも人の足跡、靴の後がないかと目を光らせて歩き回った。コマンダグを超えたアンチケ州との州境付近は湿地のジャングルで、捜索は「ヤマビル」との戦いだった。
ある朝、はるか山中を比人3人が逃げていくのを発見した。双眼鏡で見ると服装などからこの付近の住民ではなく、政府の要人らしいということが分かった。色めきだって本部員全員で追跡を始めた。逃げる3人は男と女と子供とまで見分けがつくほど接近した。突然パーンという音がして男が倒れた。逃げきれずに自殺したのだ。これを見て女の方もぱったり倒れた。女は妻で、間もなく息を引き取った。7,8歳くらいの男の子が一人残された。子供の話からこの父親はコンペソール政府の要人とわかった。憲兵の進准尉は、この少年に同情し、討伐行動中は常に一緒に連れて歩いた。我々の部隊はこのような苦心を重ねたが戦果を挙げることはできず、ボカレの作戦を断念することにした。これまでの情報ではコンペソールは神経痛か何かの病気にかかったため、部下に担がれ州境の点検を超えアンチケ州方面に逃げたことが分かった。また紙幣の印刷機プレス・ワンについても手掛かりは得られなかったが、後日、ゲリラ軍側が金融面の争いから、民事政府の印刷機を破壊していたことが分かった。この作戦は不成功に終わったが、作戦を通じてボカレの別天地を踏破したことにより、後日、米軍のパナイ島上陸の際、我々がボカレに転進する手掛かりを得たのである。討伐部隊は、山を下りながらヒネス付近のゲリラ拠点を襲い、アジトとみられる部落を焼き払った。すでに住民は全部逃げ、情報収集のため捕える者もいなかった。
こうしてアルモジアンの東方約1㌔付近の谷間で夕食をとっていた時、突然ゲリラが機関銃を撃ち込んできた。すぐ反撃体制に入った。敵は一個小隊くらいの兵力だとわかった。わが方の軽機が打ち出すと、ゲリラ側は間もなく撤退した。さっそく翌日から付近一帯を捜索、住民をとらえては根気良くゲリラの拠点を調べた。その結果、ゲリラはアルモジアンとサンミゲルの間の部落にいるという情報をつかんだ。夜のうちにその部落を包囲し、総長を期して一軒一軒しらみつぶしに民家に押し入り、捕えた住民からゲリラの情報を聞いた。しかし誰もこの辺ではゲリラを見たものがいないと答えていた。不意の日本兵の出現で子供の泣き叫ぶ声も聞かれた。その時、敵の軽機関銃がけたたましく響いた。第三中隊の兵が「白星兵長がやられました」と部隊長に報告しに来た。兵長の体はまるで蜂の巣のように打たれていた。無性に腹が立った。一緒にいた兵の話によると、家の中を調べるため戸をたたいたが、戸が開かないので兵長が力任せに戸を開けようとした途端、家の中でゲリラが乱射、窓から飛び降りて逃走し見失ったということだった。集まった兵たちも、白星兵長の死体を見て「住民の中にゲリラが隠れている。我々は騙されたのだ。住民はグルになっているのだ。もうこうなれば弔い合戦だ」と怒り狂ったようにわめき、目を血走らせながら改めて一軒一軒しらみつぶしに調べ始めた。挙動不審なものは有無を言わせずにとらえた。集まった住民たちを厳しく取り調べたが、ゲリラについては誰も知らぬ存ぜぬであった。渡辺大尉が「ゲリラとみられるものは片っ端から斬れ」と怒鳴り、捕えられた中で若い男はゲリラとみなされ、次々といとも簡単に首を切り落とされ、あたりには首と死体が散乱した。
部落の周囲は第一中隊の松野小隊が包囲し、その輪を縮めているというので、こちらは全力を挙げて一軒一軒丹念に調べて回った。進んでいくと、松の小隊の兵たちが隊伍をバラバラにしてあらわれた。渡辺大尉は「松野、貴様らは包囲していなかったのか」と怒鳴りつけた。松野少尉「そんな命令は聞いていなかった」と食って掛かった。これが渡辺大尉を怒らせ、松野少尉は兵の前で徹底的に罵倒され「もう松野は役に立たぬ、警備隊に引っ込んでいろ」と命じ、以後、松野少尉は討伐に参加しなかった。これが後日、松野少尉にとっては幸運となった。討伐隊員の中では渡辺大尉の言う「役に立つやつ」が貧乏くじを引き、ゲリラとの戦いの前面に出され、散っていったのである。まず、この貧乏くじを引いたのは、第四中隊吉岡隊だった。たまたま、ボカレ西方のアンチケ州とイロイロ州との州境付近で、コンペソールを捜索中の多賀部隊の高橋中隊がコンペソールの弟パトリシオ・コンペソールの娘と看護婦数人をとらえたとの情報が入った。このため、渡辺大尉はコンペソールがアンチケ州に逃亡したと判断した。もともとアンチケ州は多賀部隊の作戦区域であったが、強引に戸塚部隊の吉岡中隊をアンチケ州へ進出させ、コンペソール逮捕に当たらせた。ボカレ西方は1000m以上の山々が連なる深山で、ヤマビルがはびこり人も近づけないところだった。この中を吉岡隊は乏しいコメをすすり、トウモロコシをかじり、山また山を越え、7月下旬ボカレから西方40㌔、アンチケ州の多賀部隊の白番警備隊にやっとめぐりついた。やっと着いた吉岡隊も2,3日休養すると、アンチケ州北部一帯を今度は多賀部隊が討伐することになり、吉岡隊は指揮下に入ることを命じられ、同州北部パンダン(サンホセ北方約106㌔)方面へ出動した。パンダンは米潜水艦の揚陸基地とみられていた。日本軍警備隊から遠く離れ、スル海に面し水深は深く、我々も潜水艦補給には絶好地とみていた。吉岡隊はシバロンで大食いしたのが災いし下痢するものが多かったが再び討伐に向かった。バルバサ、チビアオ、クラシーを経てついにパンダンについた。この後付近日台のゲリラを求めて山谷を駆け回ったが、ゲリラは逃走の後で、さしたる戦果もなく、9月8日アンチケ州北部の討伐を打ち切り、三か月ぶり船でイロイロに帰ってきた。(フィリピンの血と泥)
パナイ島東部討伐
ボカレの山岳部を中心とした討伐作戦に引き続き、ギマラス島の徹底討伐を終了、イロイロ市にまい戻った戸塚部隊は、2,3日休養すると再び討伐に出動した。43年9月7日頃である。目標はペラルタ大佐の第6軍区司令部と第61師団司令部、第64連隊の本部があるパナイ島東北部のアホイ、サラ、サンドニシオ地区、第66連隊の北部カピス州、CPGのアクラン地区、タプラス島、第65連隊のアンチケ州で12月末日まで、途中数回の休養をはさみながらパナイ全島で6時にわたる第掃討作戦に出動した。討伐隊は戸塚部隊長以下全部住民の服を着て、竹製や草で編んだ日よけ帽子をかぶった。離れてみるとゲリラか住民か全く見分けがつかず、将校たちは拳銃を下げ軍刀は目立たぬよう、腰に差していた。渡辺大尉と情報室の大塚准尉は、口癖のように「討伐は米軍式でやらねば……」といっていた。これはフィリピンの諺に「米兵の通った後には草も生えねば虫もいない」というほど徹底的に島民とゲリラを弾圧したことがあったからだ。今回の討伐の目的地アホイ、サラ、サンドニシオ地区は農業地として有名であり、ゲリラにとっては補給の大拠点で、日本軍は43年の勘定作戦で応援の第63兵站警備隊の一大隊が素通りした程度で事実上手も付けたことのない場所であった。統治の民政府副知事、ホセ・アルデゲル治下の住民とゲリラの結束は固くゲリラの天国であった。
ゲリラの活動について、兵力不足のため討伐の余力がなく、本部の幹部将校は悔しがっていたところだった。討伐隊は戸塚部隊長直接指揮のもとに、本部戦闘小隊、第三中隊より、小隊長だった藤井中尉が抜擢され、討伐中隊長に任命された。兵力は約300人で、多賀部隊はサラ北部地区の掃討に当たった。部隊はまずポトタン東方からバロタックビーホの北方に進出した。常套手段である夜間に行動を起こし、ゲリラ地区の民家を急襲、まず住民をとらえ、本部に連行した。毎日40~50人の有力な情報を持っていそうな住民を、本部将校・下士官が手分けして、一人ずつ脅したりして調べた。中には拷問によって有力な情報があると渡辺大尉に報告した。大尉は些細な情報でも即時、昼夜を問わず出動を命じ、戦果がなければ苦虫を噛み潰したような顔をし、またわが方に損害が出ようものなら「兵器はとったのか」「何をやってきた」と怒鳴りつけるのが例だった。住民の中にはゲリラも混じって日本軍の動きを逐一通報していた。捕えられた住民は、情報を提供するとゲリラの拠点、隠れ家に案内しなければならないことを知っているため、相当ひどい拷問をされても「ワイコキタ、ワイコキララ」(知らない、聞いたこともない)と繰り返し、命がけで拒んだ。このため取り調べは過酷を極めた。本部の周囲では拷問による住民の悲鳴が四六時中聞こえていた。我々にとっても成果があげられるので、何としても情報を得るのに必死だった。これらの住民情報によって、バロタックビーホ東北のダカール方面に有力な拠点があることが分かり、住民の案内で討伐隊が出動してみると、すでにもぬけの殻だった。このころのゲリラは、日本軍との戦いを避け、武器を隠匿して住民の中に紛れ込んでいた。住民の方もゲリラの中には親や子、親戚の者がいるので、命がけでかくまうことが多かった。
渡辺大尉のこのころの戦法は、ゲリラ拠点地区の住民、またはゲリラに特に協力した部落の住民は威嚇、脅迫、恐怖の手段でゲリラから離反させるという強硬手段をとった。この方法でまず、ダカール方面のゲリラ拠点部落数か所を襲撃した。突然、寝込みを襲われた住民は逃げ場を失い、部落の中央に集まり、討伐隊に恭順の意を示した。しかし、情報ではこの部落には確実にゲリラ第61師団が所在していた。住民の中には青年もかなりおり、顔つきからインテリ風の男もいたので、次から次へと拷問で調べたが、だれも知らないと言い続けた。ついに某准尉がゲリラとみられる男、2,3人の首を軍刀で刎ねてしまった。周りにいた住民は顔面蒼白となり、ぶるぶる震えだした。これを見た将校は、声を和らげ「この中にゲリラがいるだろう」と聞くと、住民たちは恐る恐るこれとこれがそうだと指さした。兵たちは直ちに彼らをとらえ、厳しく取り調べた。この脅迫手段は効果を上げ、住民からかなりのゲリラ情報を得ることになり、討伐の戦果は一層上がるようになった。(フィリピンの血と泥)
討伐隊は数隊に分かれ、アホイ方面にゲリラを求めつつ、丘陵地帯を南下した。アホイ北方数㌔のある部落の民家から、突然「私は日本人です」といって男が近づいてきた。下地という沖縄出身の漁民で、前はイロイロ市で漁師をしていたが、フィリピン人の妻の出身地アホイへ避難してきた。しかし日本人とわかってゲリラにとらえられ、ゲリラの下働きとして米つきなどにこき使われていたという。さんざ滲められていたところで、我々討伐隊に助けられたのだった。私は下地を通訳として採用した。アホイ(イロイロ市東北約65㌔)に近づくにつれ、ゲリラの捜索、住民の取り調べはますます過酷を極めた。3か月半の大討伐でゲリラ側が日本軍を避けたのか、討伐隊は戦闘らしい戦闘を交えることもなく、山野をうろつきまわっただけだった。事実上の討伐隊長である渡辺大尉もこの状況を見て毎日住民を拷問し、小隊長や分隊長を怒鳴りつけ、兵隊にビンタをくわせていた。アホイ北方のある部落で私が多数の住民をとらえ、調べている最中だった。突然、男が蛮刀をふるって日本兵に切りつけてきた。パーンと拳銃の音がして、男の足に命中した。渡辺大尉はかんかんに起こって即座に男の首を切ってしまった。「この男の家族がいるはずだ」と集まった住民を脅すと、恐怖に青ざめた住民が「この女だ」と若い女を指さした。「今後のこともある。見せしめのため殺せ」怒鳴ると、一人の兵が泣き叫ぶ女と一緒にいた子供三人の首を斬り落としてしまった。戸塚部隊長は顔を背けるだけで、大尉に注意をしなかった。後日、聞いたところによると、この部落の住民は殺された家族を憐れみ、事件の現場に花束を飾り続けていたという。
我々討伐隊に恐ろしさが、アホイの街にも伝わったのか、我々が街に到着すると住民たちは恐れをなして逃げもせず、海辺の一ヶ所に集まり、恭順の意を示した。家々には日本の手によるフィリピン独立のポスター、宣伝用のビラが貼られ、日本軍への忠誠を最大限に表そうとしていた。町民が一人の美人のフィリピン女性を連行してきた。しばらく本部に監禁されていたが、姿が見えなくなったので渡辺大尉の当番兵に聞くと、この女性の兄か父親かが、開戦間もないころ、不時着した日本軍航空機パイロットを殺害したというもので、町民は自発的に突き出したということらしい。この女性の姉なども処刑されたという。住民の恐怖は極点に達し、自分が助かれば……ということになった。進んで恭順を示しゲリラの隠れ家を教える村も出てきた。間もなくこの恭順は、ゲリラ軍師団長レルニア中佐の「ライ・ロウ」作戦による偽装投降であること、また日本軍にゲリラの情報を知らせたものは死刑にすると脅していたことも判明した。この子供だましの偽装恭順に渡辺大尉はますます憤慨した。
サラの街に入った。町はゲリラの手で焼かれており、わずかに焼け落ちたコンクリートの学校の跡があるだけだった。家々の戸には白旗を掲げ、日本軍の宣伝パンフレットを張っていた。渡辺大尉は住民の恭順などは信用せず、兵を出して襲わせ、住民をとらえ、拷問した。ある時は一軒の民家に住民を集めて首を斬り、その血が戸外まで流れ出し、集まった住民の中から恐怖のため進んでサラ町西方数㌔の山中のペラルタ大佐の第六軍区軍司令部やダトール中佐の第64連隊司令部の場所を案内した。渡辺大尉は近くの住民を集合させ、第六軍区軍司令部付近での無線機の捜索を命令した。2,300人の住民が一列にジャングルの中に並ばされ、その後ろに銃を構えた日本兵が監視に並んだ。住民は竹や木の棒で一歩一歩ジャングルの中を捜索を始めた。ゲリラの司令部があったとみられる場所は徹底的に捜索が行われ、ついにゲリラが破壊した無線機数機を完全に復元できるほどの本隊と部品多数を発見した。渡辺大尉は得意満面で守備隊司令部の渡辺参謀に「敵無線機数機確保せり」と打電した。また渡辺大尉はこの付近で第六軍区軍G4(補給部)部長、セザール・ローセス少尉を逮捕した。我々がとらえたゲリラで最高の幹部であった。(フィリピンの血と泥)
サラ付近で日本軍の住民虐殺があったのは、43年9月末であった。バランガイ・ワニサ、300人、バランガイ・マラバヤ、500人、バランガイ・アルメデル、100人。「親父が殺されたよ。この近くのバリオで日本軍に殺された。いきなり銃剣でやられた。たくさんの人が殺されたから、遺体を見つけることもできなかった。中にはいい日本兵もいたよ。遊んだり食べ物をくれたりしてね。だけど、フィリピン人を殺すときになると残酷なんだ。あれは、指揮官が悪いんだ。」
…食堂のおやじはしゃべりだした「殺されたのは、両親と妻と三人の子供、それに妻の兄弟、親戚を容れると30人近くだ。サラに住んでいたけど、疎開していた。多分400人以上は殺された。妻はまだ24歳、子供は歳と3歳と1歳だった。日本軍は住民を集めて銃剣で殺した。俺は二日後に戻って遺体を探したが見つからなかった。」彼は唇を固く閉じて、眉間に深いしわを寄せた「実は、俺もゲリラだったんで、一度日本軍に山で捕まって拷問を受けたよ。棒で散々殴られた。胸の骨を折られたよ。この傷跡は、横から銃剣でやられたんだ」
…「父と妹と姪と甥三人が殺されました。私は教員だったけど、三年間学校がなかったのでパナイ島の自治政府から給料をお貰って、食料をゲリラに供給する仕事をしていました。すべての教員がそうでした。…バランガイ・マラパヤに入った日本軍は、ミーティングをするといって500人も殺したよ。日本軍は、すべての住民はゲリラを支援していると疑って、フィリピン人を見るなり殺した。住民の住んでいるところにゲリラの本部があったから、日本軍は攻撃をかけたんだと思うけど、ゲリラはいち早く逃げてしまった。…ゲリラを皆殺しにしたかったんだと思うけど、そんなことできるはずがないでしょう。ここはフィリピンだもの。」
…「当時、9歳か10歳でしたよ。俺は親父と一緒に、朝早く水牛を山に連れて行った。その時日本軍のパトロールに気がついて、急いで隠れた。…しばらくたってから、疎開先の小さな家に戻ったんだけど、だれもいなかった。みんな日本軍に連れて行かれて殺された。母親と兄弟二人と姉妹三人、叔母の七人が殺された。大きな家に連れ込んで、銃剣で突き殺して火をつけた。…虐殺が起こる前に、父は日本軍が来るかもしれないから疎開しようといった。しかし母は白旗を立てかけておけば降参した意味だから日本軍は何もしないと。みんな一緒にそうしていた。それが全く逆で皆殺しにあった。ひどいもんだよ」(…石田甚太郎 ワラン・ヒヤ)
私の小隊は恭順を示している住民に危害を与えることなく、十数人の住民を集めては「日本軍の目的はゲリラ隊長であるペラルタ大佐とダトール中佐、副知事のホセ・アルデゲルの投降。さらにゲリラが武器を差し出して投降すれば危害は加えない。この目的が達せられれば、直ちに討伐は中止する。この目的が達せられなければいつまでも討伐は続ける。この話をゲリラに伝えてほしい」と笑顔で説得した。3,4日目にその効果は表れ始めた。住民の大部分が、手製の拳銃、小銃をもって恭順の意を示してきた。私は「お前の部落は日本軍に投降したのでその証明をする」と証明した紙を渡した。このうわさが次々と伝わり、各部落の代表が連れ立って隠匿武器を持参してきた。私はまだ投降していない部落に5,6人の兵をそっと出して、1,2件の小屋に放火させ「お前の部落はまだ日本軍に投降していないではないか」と脅した。続々と兵器を持参するようになり、私の小隊がいた小学校は、連日、住民たちで黒山の要は人だかりだった。この間、作戦指令所と見せかけるように密室では常時無線機のキイを打たせていた。集まった兵器類は700-800丁に達した。ほとんどが手製のものであるが、立派な兵器で、ぞっとした。私は部落の住民には務めて親しい友人のようにふるまった。次にはサラ、アホイ、サンドニシオの各町長が相次いで私に投降してきた。やがて大物とみられる人物が出てきた。ビクトリノ・サルシードといい、戦前の国会議員で、イロイロ州の政治的指導者、サラ方面の大地主、いわゆるこの地方のボスだった。2,3回会ううちサルシードは「ダトール中佐は私が名付け親で、アルデゲル副知事は私の娘婿である。両人が投降するように努力しよう」と約束した。サルシードはサラ方面の住民を救うべく、かなり努力したようであった。彼の手引きでゲリラ将校2,3人、ゲリラ兵十数人が投降してきた。私は部隊長当てに欧州兵器の数や投降ゲリラ兵の数を報告した。戸塚部隊長は私の戦果に驚いていた。渡辺大尉はかなり感情を害していた。サルシードはダトール中佐の逃亡先が分からないため連絡はとれないが、副知事のアルデゲルは必ず投稿させると約束した。しかし討伐予定期間も過ぎたので、我々の部隊は10月上旬次の目的地に向かうことになった。押収した900丁を住民の牛車ではこび、サンドニシオに向かった。サルシードはアルデゲル副知事を伴い、私のもとに投降した。私が部隊長と渡辺大尉に報告すると部隊長は私の大戦果を激賞、渡辺大尉は苦々しい形相で私とアルデゲルをにらんでいた。十数人のゲリラ兵は、今後我々に協力する旨の先生をさせた後、全員釈放し、アルデゲル副知事、サルシード、サラの町長、投降したゲリラの将校たちは私が身柄を預かり、サンドニシオの港から海路イロイロ市に向かった。船中でアルデゲルは「私はあなたに投降してよかった。キャプテン渡辺だったら私は殺されていただろう」。イロイロにつくとアルデゲルを私の一存でカラム知事に引き渡した。サルシードもカラムに預けたことで、渡辺大尉は私との間は一層険悪となった。
サンドニシオに集結した部隊は、弾薬、食料の補給を受けるや直ちにカピス州東部および中部方面のビラシス中佐の第66連隊地区の討伐に出発した。討伐隊は風雨にさらされ約80㌔の山野をゲリラを掃討しつつバターン(カピス長西方30㌔)に向かった。本部の大塚准尉は、愛唱歌「腰の秋水だてには差さぬ、泣いて祖国のため人を切る」と口ずさみつつ行軍した。(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1943年後半) |
ソルソゴン近郊では、ペラルタの圧力により、ラプスは自分の第54連隊とサンディコのゲリラを統合して第56連隊とすることに同意した。サンディコはSWPAに、ペラルタがビコールの軍事総督を申し出たが、エスクデロがまだ総督であったため、拒否したと伝えた。エスクデロは、ラプスを不法な戒厳令の布告で起訴した。ラプスはペラルタを抱き込み、ペラルタはルソンへの影響力を求めて、ラプス、ザバト、エスクデロを交互にビコールの統一を促した。
8月末までに、これら3人のゲリラ指導者はそれぞれ、ペラルタから第5次MDの司令官として承認された書簡を所持するようになった。このようにペラルタはビコールのゲリラ間の血生臭い競争を犠牲にしながらも、情報量を増やしていったのである。最後に、バーナード・アンダーソンはラッセル・バロス中尉を派遣し、介入させた。彼はラプスが「和解を望んでいる」ことを知ったが、エスクデロはいかなる合意案も拒否した。ペラルタが煽ったビコールの獲得競争は、ルソン島南部を不安定にし続けることになる。
一方、ペラルタは10月にガルシア中尉を作戦将校のパブロ・ムイコ少佐とともにパラワン島へ送り戻した。二人は、マニゲを除く島のゲリラの指導者から、ガルシアを幹部とするムイコの下で第6MDパラワン特別大隊に参加する合意を取り付けた。この大隊は数ヶ月のうちに、57人の将校と954人の兵士(約300人が武装)と近くの島々の兵士でパラワン全域をカバーするようになった。また、デュマラン島をカバーし、各町に少なくとも2人の諜報員を配置していた。これらのゲリラは1年以内にSWPAのネットワークに組み込まれるようになった。
| パナイのゲリラ戦(1943年後半) |
私は10月上旬、命令により1週間セブ市の守備隊司令部で毒ガス教育を受けることになった。米軍が毒ガスを使う恐れがあると奈良市の学校から陸軍少佐の教官が来てみっちり教え込まれた。東條首相が約束したフィリピン独立の日、10月14日を迎えた。
イロイロの活況
このころのゲリラは全く鳴りを潜めていた。イロイロ市は平穏を取り戻し、市民も最高に増え、日本軍占領下の独立とはいえ、ひと時の平和に安どし満足しているようだった。この日、州庁舎で式典が行われ、施政権は日本軍政部(支部長姫野少尉)からカラム知事の州政府に返還された。市内のあちこちでお祭りやダンスパーティが開かれた。イロイロ市に進出した日本商社の活動も活発になっていた。フィリピン鉄道も苦心の末、サンタバラバラまで開通し、列車は連日満員の盛況だった。島本造船所では300㌧の機帆船の船体が完成し、エンジンの据え付けにかかっていた。島橋支店長の石原産業もサンレミギオ銅山とネグロス島シバライ銅山の開発が進み、イロイロ交付金に同鉄鋼が野積みされていた。木村支店長の三井物産も倉庫の赤砂糖を日本へ送ったり、買い付けたコプラが増加、倉庫はあふれんばかりだった。また伊香支店長の日本紡績もサンタバラバラ付近で綿花の本格的植え付けを始めており、向井氏経営の焼津船団の漁船も大量の魚を陸揚げしていた。南方高空の民間定期便がマニラ、セブ、イロイロ、ダバオ間に開設され、定期便の客船も週に1,2回順調に運行されていた。邦人の中でも吉田氏の自動車会社、石井氏の商店などようやく戦前の状態に戻っていた。木村支店長のフィリピン銀行も架橋を呈し始めていた。
治安が落ち着くにつれ、商社員邦人がバー・飲食店で軍人以上にもてるようになり、軍人としばしばもめ事を起こしていた。上級司令部はニューギニア方面の戦況については何も知らせてくれなかったが、私はセブ出張中に同盟通信の記者から、ミッドウェーが日本にとって徹底的な敗北を効かされていた。
パナイ島にも軍は飛行場設営隊、油タンク建設隊をイロイロ市に派遣し、カバツアン、サンホセ飛行場の建設、またマンドリアオ飛行場の拡張整備に力を入れていた。飛行場は、毎日数百人の住民が建設作業に駆り出されていたが、日本軍の軍票では労働者が集まらないのでサイゴン米を賃金代わりに現物支給していた。住民たちはもっこや原始的なやり方で作業していた。このころ、米国製の偽造軍票がイロイロ市内にも大量に出回り始めていた。或る日、憲兵が本物と偽物の軍票をもってきて見せてくれたが、紙質、手触り、印刷は全く同じだった。住民から敬遠されるのは当然だった。この都市の雨季は、イロイロ市でも大雨が降り、低地のラパス一帯は浸水した。
43年10月下旬、討伐隊はカピス州アルフォンゾ・ローセのナクロン山の掃討に向かうことにあった。目的の地区はゲリラの通信司令部があるところで、無線機RM5の奪取とペラルタ大佐、通信隊長のアモス・フランシヤ少佐の逮捕だった。討伐隊は本部、藤井中隊、吉岡中隊の三体に分かれ、パターン、バンガ、バレテ、マリナオ町をへてナクロン山を目指した。連日数十人の住民をとらえてきては、ゲリラの本拠、武器の隠し場所、無線機の有無について厳しく調べた。特に「山の中でカタカタとタイプのなるような音を聞いたことはないか」「山中で燃料の入ったドラム缶を運んだことはないか」と手を変え品を変え、脅したり、すかしたりして調べた。この調べで情報を聞き出すと、その住民を道案内にして夜間出動するのだが、いつも空振りだった。腹を立てた渡辺大尉なとらえた住民のうち、ゲリラとみられる若いもの、十数人の処刑を命じ、毎日数人ずつ、近くの川岸に連行し、打ち首にした。中には後ろ手に縛られたまま、川の中に飛び込んで逃げたものがいたが、銃で撃ち殺された。ゲリラが付近に隠れていることは明らかだった。
バレテ付近の部落を行軍中、5,6人で掘ってみると、ドラム缶に入れられた2,30挺の小銃が出てきた。すぐ付近の土森下らしいところを掘ってみるとまたもや小銃が出てきた。討伐隊は住民に多大の犠牲を強いながら情報を集めては行動し、アクラン川をさかのぼり、次第にナクロン山のゲリラ軍通信司令部に接近していった。この山系はパナイ島の住民すら知らない原始人の住んでいた地帯だった。住民はビサヤ語も通用しないネグリート族かムンド族の原住山岳族である。彼らの家はすべて山上に建てられており、住民はふんどしのようなものを占め、槍と盾を持ち、太鼓のようなもので連絡を取り合っていた。我々は山上に点在する蛮族の小屋を急襲し、捕えた。蛮族はすぐに女子供を山の奥に隠し、我々にも姿を見せなかった。我々は昼間はジャングルに潜み、見張りの網だけ這っていた。運の悪い土民が通りがかって捕えられた。その土民を拷問し、夜に入ってから行動を起こした。いよいよ、ゲリラの通信司令部の近くまで迫ったので、土民狩りに全力を挙げた。
取り調べは残酷を極め、苦心の末やっとゲリラの将校の家に荷物を運んだことがあるという情報を得た。その土民を脅して案内させ、やがて夜が明けるころ、山頂の大木の下にある一軒家を完全に包囲した。飛び込んでみるともぬけの殻だった。ここがゲリラの拠点だったことは確実だった。渡辺大尉はさっそくあたり一帯を捜索させたが、何も出なかった。その後何人かの住民をとらえては拷問し、その中の一人がゲリラの重い荷物をアルフォンゾ・ローセという山中部落に運んだことを自白した。この住民に案内させ、数キロ先の小屋に行ったが、もぬけの殻であった。通信機に間違いないと必死に探したが何も出なかった。渡辺大尉は土民の駆り集めを命じた。幸いこの地区の尊重をとらえたので、脅して約200人の土民を集めさせた。この土民全部に木や竹の棒を持たせ山頂に2,3mの感覚に並べ、後方から兵が監視しながら頂上から下り、叢、枯草の下などを探すように下った。「アラー、アラー(あった、あった)」と土民が叫ぶ声がした。すぐホルト無線機の部品が出てきた。探し当てた住民に押収したコンペソール政府の紙幣やシャツを謝礼として与えた。土民も捜索に熱が入り、あちらこちらで「アラー、アラー」、すぐ賞品。この日の夕方までに無線機の本隊、大型真空管、部品類を麻袋に5杯も発見し、捜索を打ち切った。
食糧も底をつき、おお蛇を食べたりしてアクラン川を下り、カリボの街に近づいた。パナイ島西北では第一の街といわれ、イロイロ市に次ぐ大きい町だった。日本軍占領当初、瀬能部隊第二中隊の伊藤中尉の一個小隊が警備にあたっていたが、ゲリラの襲撃ですぐ撤退した町だった。町並みは整然としており、ゲリラの焦土戦術にも会っていない。ここでは町長以下全町民が日本軍に投降、協力を申し入れてきた。町長は部隊の宿舎を見つけたり、歓迎会を催したりして、町民は日本軍を歓迎してくれた。カリボはマニラと海上交通で結ばれているせいか、都会的な感じの街だった。中には片言の日本語を話すものもいた。比人の密偵や荷物担ぎの男は、街中を我が物顔でのし歩き、中には町民の家に押し入って金品を盗んだり、女性に乱暴を働いたものも出た。各隊は密偵連中を集めて注意した。密偵のモラタは松崎軍曹から説教されると涙を流して自分の非を反省した。しかし、これもわずかな間で、悪いことをするのは常にモラタだった。また兵たちにも軍紀を厳重にしたため、町民からの評判は良かった。強姦に対しては特に厳しかった。このためかパナイ島で婦女暴行のケースは一度だけだったと私は記憶している。
守備隊司令部の渡辺参謀から「パナイ島北部のゲリラは海路脱出、北方のタプラス島、ロンブロン島、シブヤン島に逃亡したとの情報がある、討伐隊はその追及に向かうべし」という命令が来た。この命令を受領するや渡辺大尉は憤慨した。戸塚部隊長は仕方がないという顔つきだった。司令官の河野少将はイロイロ市の海辺で釣り糸を垂れていた。渡辺参謀は財閥のフェルナンド・ロペスの娘ボビーを目当てに、毎日に入り浸り、娘の御機嫌を取っていた。
タプラス島の港ルーク町沖に着いた。上陸したがどの家も無人。警戒しながら進むと住民も戻ってきた。住民をとらえては情報を集めたが、ゲリラ活動の話は全くつかめなかった。島中を捜索することになり、渡辺大尉の本隊は西岸の道を北上してデスボホール町に、藤井中尉の隊は島を横断して東岸を北上、オジョガン町に進出、この二つの街を拠点にゲリラ討伐をすることになった。私は本隊の小隊長としてある町に入った。町長以下町民が多数で迎えて我々を歓迎してくれた。町長は渡辺大尉に恭順を申し入れ、この島にはゲリラの戦闘部隊がいないことに責任を持つと答えた。そして海岸の大きい家数件を宿舎に提供した。翌日、町民が、豚、鳥、卵など部隊全部が食べられるだけの食料を持ってきた。この食料提供は以後毎日のように続けられた。渡辺大尉は連日ゲリラ捜索を命じたが、情報をつかむことはできなかった。藤井中隊は投降したゲリラ、ラモン・ロペス軍曹など約30人を捕虜として連行してきた。オジョガン町長は島民の日本兵に対する降伏のあかしとして投降させたのであった。この戦果で渡辺大尉は藤井中尉を部屋に呼び込み、大声でなじり、殴りつけた。命令に従わす勝手に行動するのが、ケシカランということだったらしいが、戸塚部隊長は仲裁に入ろうともしなかった。われわれはルーク町を出発、パナイ島のニューワシントン町に向かった。ついてみて驚いたことは、町が焼かれ、廃墟と化していた。ゲリラが町民が日本軍に協力したということで放火したのだった。司令部の渡辺参謀が、ニューワシントンに視察に来ていた。ロンブロン州の討伐が戦果がなかったこと、焦土化を見て渡辺参謀は「戸塚部隊はカリボからアクラン川沿いにパナイ島中央部に進出、山岳一帯のゲリラを討伐し、12月末イロイロ市に帰還すべし。また一部をもってアンチケ州北部を掃討すべし。木下部隊は引き続きカピス州西部を、多賀部隊はカピス州西部からアンチケ州北部を討伐すべし」という命令を出した。イロイロ市に帰れると思ったとたんこの命令である。戸塚部隊長、渡辺大尉を始め一同は憤慨した。
兵たちは黙々と行動し、ゲリラを捕まえると命じられるままに、豚か鶏を料理するようにいとも簡単に処刑した。1年前、オトンの街で憲兵が若者に白状させるためバケツ一杯の水を口に流し込み、腹が膨れ上がり苦しんでいる拷問を『やめろやめろ』となじった兵たちとは思えないほどすっかり変わり、ゲリラ討伐の精兵となっていた。アクラン川をさかのぼり、バンガ、リバカオ付近の山中に貼ると、ゲリラの情報が入ってきた。私も部下とともに山中を行動中、ある晩、前方400mの大地にニッパハウスが2,3立っているのが見つかった、一斉に駆け上った。約60mまで接近した途端ゲリラは襲撃に気づき、逃げてしまった。ゲリラが山中に潜んでいることがはっきりした。このため、まず、住民の捕獲に全力を挙げた。ゲリラ一個中隊くらいの仮兵舎があるとの情報をつかんだ。
夜襲を行うことにした。案内に立つ住民は恐怖で引きつり、声も震えているのでこの情報は間違いない。突然、震え声で「あの小屋だ」と指さした。私は密偵のモラタに「密偵のフィリピン人だけで家を囲み、その外側を日本兵が包囲する。お前はゲリラにアミゴ(友達)のように声をかけ、戸を開けたら瞬間に飛び込み、ゲリラをとらえろ、ピストルは打つな」と命令した。モラタら3,4人の密偵は小屋に近づき、一言二言声をかけると戸が開いた。その瞬間、モラタらは飛込拳銃を突きつけ、3,4人をとらえた。下士官は2,3人の首をバサバサと斬り落とし、一人だけを残した。私は「この辺は日本兵でいっぱいだ、白状すれば命だけは助ける」と問い詰めると、震えあがったゲリラは「私は見張りです。ゲリラの中隊本部はこれより2㌔先の大きな家に分散している。途中にはこれと同じ見張り所が三か所ある」と答えた。そのゲリラを後ろ手に縛り、道案内させた。300mくらい進むと、小屋が見える。ゲリラに後ろから拳銃を突きつけて、小屋に向かって声をかけさせると戸がひらいた。瞬間、兵が飛び込み、2,3人のゲリラをとらえた。下士官が息つく間もなく首を切り落とし、一人だけ残した。このゲリラにも脅しをかけると恐る恐る承知し、戦闘に立って案内した。第三の見張り所でも難なく同じ手口でゲリラをとらえた。首を刎ね、一人だけ残した。そして最後の見張り所も同じ手口でゲリラの首を切って突破、すぐ先の森の中に本拠があることがはっきりした。我々の緊張は高まり、道案内もゲリラも足が震えてなかなか進まない。急にゲリラが立ち止まった。震える手であの中と指さす方を見ると大きなニッパハウスが3,4件たっている。我々は一気に突っ込んで飛び込んだがすでにもぬけの殻であった。ゲリラの仮兵舎であることはわかったが、暗夜なので深追いせず引き上げた。本隊に戻って渡辺大尉に報告したところ「武器はたったのこれだけか、ゲリラを逃がしたのでは報告にならん」と小言を言われた。
各隊ともだいたい同じようなやり方で夜専門にゲリラ襲撃をしていたが、ゲリラ側も警戒厳重で、情報を取ってから駆けつけてみると、すでに逃げた後だということが多かった。
討伐隊がアクラン川の支流沿いに南下中、ひげだらけの米人にばったりと出会った。渡辺大尉は自ら厳しく取り調べた。キングと名乗った米人「ゲリラの将校だったが、日本軍の討伐で自分の隊は四散した。米人であるため、ゲリラも住民の目立つので面倒を見てくれず、当てもなく、川沿いをふらふら歩いているうちに日本兵にばったり出会った」。キングの話から、カリノグ北方13㌔のタバス町エグエ付近に多数の米人が隠れていることが分かった。渡辺大尉は直ちに全員をエグエ付近に急行させ捜索、部落から十数人の米人が連行されていた。中には50歳近い夫婦と12,3歳ぐらいの少年を連れた一家もいた。取り調べさらに奥の部落にも米人が隠れていることが分かり、私の小隊が出動、やっと目的の部落についてみると住民はもとより、米人もすでに逃亡していた。翌朝、部隊が出発するとき、捕えたはずの米人の姿が見えないので、本部付きの下士官に聞くと「渡辺大尉が全部処刑しましたよ」と教えてくれた。私は捕虜の米人は当然マニラの捕虜収容所に送られるのでは……と思っていた「民間人とわかる一家三人まで殺すとは……」。この処刑については部隊長も渡辺大尉も、事実については口を閉ざしたまま誰にも語らなかった。後日になって、軍司令部に報告すると、その手続き、身柄の扱いなど面倒なことが多くなるので、渡辺大尉は守備隊司令部にだけ報告、命令により、これをうやむやにするために処刑したらしいとのうわさを聞かされた。
戦後1946年3月ごろ、私が戦犯容疑者としてニコラスフィールドのサスペクトキャンプにいた時、同じ戦犯容疑者の大塚少尉が「この米人の処刑はアメリカ本国でも重大ニュースとなり、米軍はさっそく潜水艦をパナイ島に派遣、島に残っていた米人全部を運んだ。この事件ではアメリカ側のパナイ島戦犯容疑者に対する憎しみの感情はひどく、裁判では全員死刑にするという」と話してくれた。
後はイロイロ市まで、途中ゲリラの拠点をつぶしながら進み、12月31日、イロイロ市に戻った。吉岡中隊と藤井中隊はパナイ山脈を越え、アンチケ州バンダンに進出してイロイロ市にかえった。途中藤井中隊の五木小隊はゲリラ軍のアントニオ・ロメロ大尉を捕虜にして連行した。ロメロ大尉には美人のうわさが高い三人娘がいた。あまりの美しさに渡辺参謀はこの三人を日本紡績イロイロ支店に押し付け就職させた。
討伐の幕はやっと閉じた
こうして半年間にわたる討伐の幕はやっと閉じた。戸塚部隊の戦果は兵器(手製を含む)約1000挺、無線機約10台、サラガ方面の副知事アルデゲル、ゲリラ軍のローセス少佐の逮捕をはじめ、将兵の捕虜約70人だった。かなりの成果だが、この陰には住民、ゲリラの死者が数知れずあった。住民は日本兵をパッチョン(殺人)部隊と呼んで恐れた。ゲリラ側の記録には日本軍の行為について書かれている「日本軍はパナイ島で血と日の恐怖のカーニバルを祝った。夜、燃え上がる炎の長い列で日本軍の徹底した破壊作戦を見ることができた。家々や森は燃え続けた。」「バシー町ロンガオでは中国系住民が日本兵の捕えられ、食事の準備をさせられた。日本兵は満腹すると恐れおののく約86人の住民を縛り付け、焼き殺した。ドラゴオ、パシーの山道には男女、子供の死体がまき散らされていた。サラのある村では全部殺され、ただ一人が生き残った。またある村ではマサクリ(大虐殺)が行われ、やっと逃れた48人も山の頂上に追い詰められ、そこで冷酷にも惨殺された」ゲリラ側の記録「パナイの戦い」の中でも「43年7月から12月末までの死者、住民1万42人」と記されている。
ゲリラ側の記録から見ると、当時ゲリラ軍はマッカーサー司令部から日本軍との大きな戦闘を避けるよう命令されていた。ペラルタ大佐の第六軍区軍は兵器、弾薬の欠乏、兵力温存などからこの命令に盲従しすぎて、一般住民の後ろにゲリラ兵が逃げ隠れるもので、しかも絶対に守備地区から離れるな、住民にはゲリラ情報を日本軍に提供すれば極刑にするという命令を出していた。犠牲となるのは住民だったため、コンペソール知事は「ライ・ロウ作戦は一般住民の犠牲のみ強いる幼稚な作戦で、ゲリラ軍は住民を助ける”小さな戦い”も回避して住民を見殺しにした」とペラルタ大佐を非難した。こうしてパナイ島の抗日の両雄は犬猿の仲となり、これが原因で末期にはコンペソール知事がゲリラ軍に追われる身となるのである。
戦果一本やりの戸塚部隊と対照的だったのがカピス・アンチケ州の木下・多賀部隊だった。両隊とも戦果は殆どなく、それだけ住民の犠牲も少なく、兵の戦死・負傷もあまり出なかった。戸塚部隊で戦果で名を挙げたのは渡辺大尉だった。統一討伐の終了により、マニラの軍司令部はパナイ島の制圧なったとし、12月20日つけ命令によりアンチケ州警備の多賀部隊をミンダナオ島のダバオ方面に移動させた。交代には私どもの部隊の第四中隊吉岡隊がサンホセに派遣された。(フィリピンの血と泥)
ペラルタのレルニア参謀長は、第6MDの合理化を決定し、半独立の戦闘チームを7つ編成し、補給と管理のみを師団に依存させることにした。SWPAはその結果に注目した。「ペラルタの情報網がもたらしたものは、非常に詳細で膨大なものであった。しかし残念なことに、諜報員は必ずしもSWPAの情報優先順位を把握していたわけではなかった」
11月下旬、パナイ島東海岸に沿った日本軍の新たな攻撃は、タブラス島とその1週間後にシブヤン島にも及んだ。12月にはロンブロン諸島に、1月と2月にはアクラン地域に追いやった。「これは最も徹底的で非情な破壊作戦であった」とSWPAは指摘する。「人命と民間の財産の損失は格別に大きかったが、これは人々の日本に対する憎悪をさらに募らせただけであった」。日本軍が攻撃前に「ゲリラの活動や無線通信を注意深く観察し、暗号化されたメッセージも解読していた」ことが、後の諜報活動で明らかになる。
| パナイのゲリラ戦(1943年後半) |
マッカーサーの帰還に備え、SWPAは1943年4月から1945年1月にかけて、フィリピンで41回の潜水艦ミッションと50回以上の挿入を行い、12,080㌧以上の物資をゲリラに届けることになる。1944年10月27日までに、AIBとPRSはフィリピンに134の無線局を設置した。ミンダナオ島46、パナイ島23、ルソン島21、ネグロス島13、レイテ島11、ミンドロ島6、パラワン島5、セブ島とサマール島各3、ボホール、マスバテ、タウィタウィに各1。
一方この間、ゲリラ側の動きは、43年4月30日、アンチケ州バンダン町リベルタドで米潜水艦が初めて武器、資材を陸揚げ。8月19日第2回兵器、弾薬、通信機材、発電機、燃料補給、44年2月5日、第三回の兵器、弾薬の補給、3月21日第4回の補給。この時は日本軍の米人虐殺があったためか残留米人56人を引き取り、豪州へ運んだ。4月にはすでに無線局は島内で十数局も開設されていた。1階の補給で20㌧から200㌧くらいの武器、弾薬、薬品、機材が陸揚げされたというから、この段階でかなりの武装が行われたことは確かだった。
日本軍、パナイに飛行場整備
米軍に大反撃を加えるためとして、ネグロス島には航空要塞の建設がすすめられ、これに関連してイロイロ州カバツアンとアンチケ州サンホセの飛行場建設が急ピッチで進められていた。マンドリアオ飛行場の航空機の発着が頻繁となり、戦局が急を告げていることを感じさせた。しかしカバツアン、サンホセ量飛行場は連日数百人の現地住民を動員したが、もっぱらつるはし、シャベル、モッコといった手作業に拠った。それでも日本軍の力が強かったので、知事も町長も住民の駆り集めに協力し、毎日数百人もの住民が集まられたが、賃金としての日本軍票は、すでに米国製のニセ軍票のため使ええず、もっぱらサイゴン米を現物支給する始末だった。
当時、パナイ島には産業らしいものは何一つなく、若いものが働く場がないので、農民は別として、生活するためにはゲリラになるか、日本軍の雇い兵になるかの道しかなかった。パナイ島でもフィリピンが日本の手によって独立した後、捕虜や投降者のうちから雇い兵(ゲリラはCDCと呼んだ)を採用することになった。300人を採用、約1か月の訓練の後、各中隊に配置した。しかし、日本軍優勢の時は命令に従っていたが、ゲリラが活発になると内通し始め、警備隊内のことは筒抜けとなっていた。そのうち武器を奪って逃走するもの、寝返りなどが相次医ぎ、やがて雲散霧消してしまった。
数多い被害のうち最も大きかったのはアンチケ州吉岡隊の松岡伍長を長とする分哨だった。この分哨はサンホセとシバロン間の道路を見下ろす高さ120mの高地タレピス・ヒルにあり、ゲリラ側もここを重視して再三襲撃を加えていた。44年3月、この分哨にモセンドとティキマンという二人のフィリピン人雇い兵が配属されていた。この二人は三月某日の午後4時ごろ、松岡伍長ら全員にトバ(ヤシ酒)を飲ませ、全員が酔いつぶれてい寝ていたところを軽機を乱射、全員を殺し、ゲリラと打ち合わせ通り、三発の銃声の合図でゲリラがなだれ込み、兵器、弾薬、衣服を奪って放火した。この襲撃のとき一人の兵がたまたま小用を足すため外へ出たので助かり、この兵の急報で分哨の全滅が分かった。また第三中隊でも6月中旬、バロタックヌエボの分哨では雇い兵の寝返りで日本兵一人が毒殺され、神部伍長ら14人が射殺された。さらにパナテ分哨でも以東伍長が殺されるなど、各中隊で雇い兵の反乱が頻発し、危険な扱いにくい存在となった。
一方、フィリピン政府の警察隊PC(隊長当初ホセ・タンド中佐、のちにサンラップ少佐)も設置され、市街の要地にPC警備隊を配置したが、これも隊員がゲリラ側に寝返ったり、スパイをしたり、逃亡するので、当初200人もいたPCが間もなく100人以下に減り、ゲリラと内通し使い物にならず、厄介で危険な存在だった。(フィリピンの血と泥)
| 概要 パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) パナイのゲリラ戦(1942年後半) パナイのゲリラ戦(1943年前半) パナイのゲリラ戦(1943年後半) パナイのゲリラ戦(1944年前半) パナイのゲリラ戦(1944年後半) パナイのゲリラ戦(1945年) パナイのゲリラ戦、終戦後 |
| パナイのゲリラ戦(1944年前半) |
44年1月1日イロイロ市は活況を呈し、市民も安心して新年を迎えた。戦前のイロイロ電気会社社長カチョー氏の豪邸を宿舎とした戸塚部隊長は討伐の慰労を兼ね、我々将校を招待した。我々青年将校は、暫し平和の喜びと討伐のうっ憤を晴らすこともあって飲み、大騒ぎをやった。イロイロとサンタバラバラには汽車、バスの往来も頻繁で、市の中心部プラサ近くにある宮田与三吉さん経営の食堂では夜遅くまで日本人の放歌高吟の声も聞かれた。またダンスホール、ボーリング場も増設され、戦前の賑わいを取り戻していた。金持ち連中の街ハロの娘さんを中心とする歌劇「メリーウィドウ」が開催され、市の上流階級の人々は着飾り、飾り立てたカルマタ(馬車)で来場した。これが戦前の金持ち階級の生活であったかと思うと、占領日本軍のやり方は西欧文明とは程遠いと反省もさせられた。戸塚部隊長はパナイ島治安の基礎もほぼ固まったとし、今後のパナイ島対策のフィリピン人代表の意見を聞くため、在いろいろの有力者代表者としてカラム知事、フェルナンド・ロペス氏ら5人を招待した。さして意見らしいものは出なかったが、部隊長からパナイ島の治安維持について、5人に対し協力要請があった。この日が、パナイ島での日本軍の絶頂期であった。
私の所属する戸塚部隊、第11独立守備隊独立歩兵37大隊は12月末で独立混成第37旅団独立歩兵170大隊となった。情報室には退院した石川貞義中尉が任命され、渡辺大尉は初代銃砲隊長となって本部を出た。また大隊砲は75㎜迫撃砲と交換することになった。新編成では第一中隊は福富中尉、第二中隊長は長野大尉(ボホール島警備)、第三中隊は川野大尉、第四中隊長が吉岡大尉、鉄砲隊長は渡辺大尉となった。このころの部隊の警備隊配置は、第一中隊主力がハニワイ、カバツアン方面、第三中隊はイロイロ東北部パロタックビーホ、ドマンガス、クラシー方面、鉄砲隊はレオン、ミアガオ、サンホアキン方面、第四中隊はアンチケ州サンホセと石原産業の銅山、田辺部隊より配属の中村中隊はカリノグ、バシー方面であった。この時期がもっとも多数の警備隊が配置された時期だった。わずかの期間ではあったが、ゲリラの襲撃にさらされることもなく、日本軍のもとに全パナイ島が平穏を楽しんだ一時であった。(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1944年前半) |
PRSは無線網の拡充を続けていた。44年2月5日、ラッタ船長率いるUSS Narwhalはパナイ島リベルタで45㌧を荷揚げし、パーソンズは初めてペラルタに会った。彼は、大佐がよく組織され規律正しい1.2万を指揮していることに驚いた。彼はまた、コンペソール総督の影響力についても言及している。ペラルタはマッカーサーへの完全な忠誠を公言し、パーソンズは彼の承認と援助を約束した。Narwhalは避難民6人を乗せ、2日後にネグロス島バラトン岬に到着、45㌧を荷揚げし、豪州に送る28人の男女、子供を乗せた。
一方、ラムジーは、無線機を求めてミンドロ島に向かう。3月にボンガボンの近くのミンドロ島に到着した。「ルフィーのキャンプには感銘を受けた。ゲリラ部隊とは思えないほど大規模で、よく組織化された永続性のあるキャンプだった。茅葺きとニッパのよくできたバラックが、石畳の道に何棟も建っていた」。ルフィは23人の将校と600人の兵員、地方政府、義勇兵、そしてフィリップスがSWPAとの連絡役となっていた。しかし、フィリップスはラムジーの無線機を島の反対側にある自分の基地に持っていってしまった。ラムジーは思いがけない来客を発見した。ペラルタの部下のジュラドである。ラムジーはペラルタがルフィを採用しようとしたこと、フィリップスがルフィを第4MDの指揮官に任命するようSWPAに勧告したことを知らなかった。ラムジーはフィリップの幹部であるR.ガラン大尉にも会った。
「フィリップスのキャンプが襲撃されたという噂を聞いた」ルフィは報告した。「それ以来、彼とは無線で連絡が取れなくなった。彼が逃げたかどうか、生きているかどうかさえ誰も知らない」。10日後、フィリップス一行のB・L・ワイズ准将が半裸で疲労し、ルフィーのキャンプに偶然入ってきた。彼はナウジャン付近で日本軍の襲撃を受け、無線機も奪われたことを話した。フィリップスとワイズは数週間ジャングルをさまよい、日本軍のパトロールに遭遇しフィリップスは処刑された。ワイズはその後、1ヶ月かけてルフィの元へ戻るのに苦労した。
数年後、陸軍はパーソンズがフィリップスの上陸地点を変更した際、彼を敵に引き渡したことを知った。日本諜報員は「フィリップス少佐、ワイズ少佐、6人の比人は、機材を持ってミンドロ島のパルアンに上陸した。彼らは小型無線機を同島のパルアンタウンの北の山に持ち込み、今年2月15日まで船の動きに関する詳細をフィリップス少佐に報告していた」と報告していた。フィリップスの連絡を観察した後、カラバイト山に送り込まれたパトロール隊が不意をつき、最終的にフィリップスを殺害してしまった。
ラムジーが意気消沈してルソンに戻る準備をしていると、ペラルタから、ミンドロ島南部に物資を運ぶ潜水艦を手配して、ラムジーを豪州に送るという知らせが入った。ラムジーは「それは魅力的で、心ときめくことでした。でも、帰れないと思ったんです」。ラムジーがその申し出を断った後、ルフィはしぶしぶ別の電報を見せた。「マッカーサーからラムジーへ:ルソンに戻り、抵抗軍を指揮することを要請する」。ラムジーはペラルタがこの命令を知っていることを知りながら、それでも彼をフィリピンから脱出させようとしたことを知った。ラムジーは側近を集め、ルソン島に向かった。その直後、ペラルタはベロンシオにルフィと決別するよう勧め、彼らの連合ボロ大隊は崩壊した。ワイズは豪州に戻ったが、フィリップスの沿岸監視局を再整備するためにフィリピンに戻ることを主張することになる。彼は潜水艦SS-197シーウーフがミンドロに向かう途中で撃沈され、一緒に行方不明になる。
ミンドロ
フィリップスのミンドロ島駐屯地に代わるものとして、SWPAはジョージ・F・ロウ司令官率いるPRSチームを派遣し、ルソン島中部との通信の整備、マニラ湾沿岸の監視、気象データの収集、航空警報の発令を命じた。7月10日未明、ノーチラス号はロウに22名の部下と12㌧の物資をアマアイ川で引き渡した。技術的な機器の操作について」訓練を受け、「他のどの部隊よりも装備に優れていた」ロウは、8日以内に航空、気象、レーダーの観測で無線網に乗り込んだ。新しい高性能カメラとフィルム装置で航路や施設を撮影し、敵の文書を捕獲した。ロウは、ルフィーとジュラドの論争にも口を出さなかった。
| パナイのゲリラ戦(1944年前半) |
3月20日未明、ロバート・I・オルセン中佐は、潜水艦SS-240 Anglerをパナイ島北部リベルタッド沖のランデブーポイントから8㍄南の地点に操船し、10名をピックアップするよう命令した。歴史家のセオドア・ロスコによると、「0900頃、海岸の木立の後ろを歩く人々の群れが見られ、1時間後には水際のヤシの木に所定の信号が掲げられた」とのことである。SS-240 Anglerは日没まで潜航し、戦闘地点で浮上し、海岸から1000㍎以内まで接近した。ペラルタの第1戦闘チーム司令官セリロ・ガルシア中佐がバンカに乗ってやってきて、16人の女性と子供を含む58人が出発を待っているとオルセンに告げたが、その数は潜水艦の全水兵とほぼ同じであった。
ダーウィンへの12日間の帰路、魚雷監視員を除く全乗組員は、狭い船尾のバッテリー室に係留された。オルセンは、男性の避難民を船尾の魚雷室に、女性を前方の魚雷室に配置した。「CPOの宿舎には、生後2ヶ月の赤ん坊を連れた女性1人、8ヶ月の妊婦1人、重病の少女1人(虫下し、体温104℉)、老女2人が住んでいた」と彼は記した。「船はすぐにゴキブリ、体シラミ、毛ジラミが蔓延した。乗客の大部分は熱帯性潰瘍に加え、独特の強烈な臭気を放っていた」
船員たちは、乗客が自分たちの道を通るすべての食物を急速にむさぼり食うのを見た。スキッパー・オルセンは、乗組員とゲストに1日2食と真夜中のスープという配給をしなければならなかった。制御室の前方の居住性は「カルカッタの「ブラックホール」のようで、子供たちがデッキで排尿したり唾を吐いたり、体臭がしたり、制御室の前方に47人が寝たりした結果、このような状態になった」と、オルセンは付け加えた。Anglerは4月9日にフリーマントルに到着した。
| パナイのゲリラ戦(1944年前半) |
44年3月、治安もよく、平穏な毎日を過ごしていたが、ゲリラ側は態勢を立て直し活動を開始した。まず、フィリピン鉄道の列車、幹線道路のバスを襲撃、そのうち最も遠い地区である豊田千代美中尉のサラ警備隊も四囲の情勢険悪化から撤収を余儀なくされた。先に投降したサラのアルデゲル副知事も日本軍に表向き協力していたが、そのうち姿を見せなくなってきた。各警備隊からも頻繁にゲリラの襲撃が伝えられてきた。ある日、チグバアン警備隊から、数発の薬きょうが私に届けられた。パナイ島では、初めて見る薬きょうである。拳銃に比べ長さ約2倍くらいで、射撃音は軽いが連発であったという。当時我々の常識ではこのような小さな弾丸で連発とはちょっと想像がつかなかった。そのうちこの軽い連発音を聞いたという報告が各方面から相次いで入ってきた。やがてこの銃は米軍のカービン銃で、二十連発のジャングル専用の小銃とわかった。間もなく、ある警備隊がこの銃を分捕ったと報告してきた。続いてあちこちでカービン銃を手に入れたとの報告はあったが、規則に反しこの銃に限っては本部に送付してこなかった。カービン銃が日本の銃の約三分の一の重さで、射程400m、ジャングル戦にもってこいで、捕獲した各隊は自分たちの隊で使っていた。
相次ぐゲリラ襲撃でついに本部でも戸塚部隊単独の討伐作戦を行うことを決定、目標をゲリラ第61師団司令部があるとみられるデラデラ山とバロイ山と決定した。総兵力2個中隊でデラデラ山一帯を討伐したが、ゲリラ側は逃げ足が速く、大した戦果もなく、ランブナオ西方山岳部落を焼いたぐらいで4月上旬には討伐を終了した。
このころビサヤ方面の部隊に大移動があり、4月中旬、第16師団垣兵団がレイテ島に転進し、ビサヤ地区の陸軍の最高指揮官に第16師団長牧野四郎中将が任命された。その後まもなく、旅団司令部からパナイ、ネグロス両党の兵団統一討伐の命令が下った。目的は、日本海軍の連合艦隊がギマラス島とネグロス島バコロド間のギマラス海峡を根拠地として進出するため、パナイ島に十数か所、ネグロス島に数か所開設されているゲリラの無線局の破壊と無線機の奪取であった。海軍は連合艦隊の動きをゲリラ側から米軍に逐一報告されては動きが取れないため、ぜひ、ゲリラ軍の無線機を絶滅してくれとの強い要請によるものであった。行の少将は戦闘指令所をイロイロに置いた。
| パナイのゲリラ戦(1944年前半) |
これは戦後分かったものだが、連合艦隊は抵号作戦計画で第一遊撃部隊の栗田艦隊がギマラス水道を前進泊地の一つとしていたため、この討伐計画が計画されたとみられる。こうして5月上旬から約60日間にわたるパナイ島統一討伐が開始された。討伐区分は戸塚部隊がイロイロ市―ポトタン道以西。この作戦のためボホール島から急遽巡洋艦で運ばれた独歩第169大隊西村部隊(部隊長西村茂中佐)が投入され、同大隊はイロイロ―ポトタン道以東、田辺部隊は北部のカピス州を討伐することになった。戸塚部隊ではこの作戦のため、戦闘指揮の上手な第三中隊の小隊長だった藤井中尉を特に中隊長とし、討伐臨時中隊を編成、それに本部小隊、他に二個小隊と重機関銃一個小隊よりなる一個中隊を編成した。私は討伐隊副官兼情報係として参加した。
5月上旬、我々はデラデラ山、バロイ山に向かった。この地区はこれで三度目であった。この時もゲリラの目を欺くため、夜行動を起こしたが、夜が明けた折ゲリラが正面の高地からバリバリと弾丸を打ちこんだ。我々は身動きが取れず、じっと伏せたきり、ゲリラに一方的に打たれっぱなしだった。ゲリラは一斉射撃をやめると正面の大地に立ち上がり、大声で罵り始めた。少しでも動くとバリバリ撃ってくる。その数240~50人。このままでは袋のネズミになってしまう。ついに重機関銃二丁に一個小隊を漬け、弾丸の中を右側高地に上り正面のゲリラの射撃を命じた。ゲリラの方は気勢を上げ、立ち打ちで乱射してきた。どうすることもできずにイライラしているところへ、右側の高地からダダゥーと重機関銃の重い音がした。とたんにゲリラの射撃がぴたりと止まり、急に静かになった。「やったな」と思わず声が出た。それっと用心しながら進み、やっとゲリラがいた山上に到着した。果たして予想通り、付近にはゲリラの死体が数体、木切れの十字架の下に埋められていた。
このゲリラは第61師団の護衛戦闘部隊とみられた。無線機の捕獲には敵戦闘部隊との衝突を避け、一挙にゲリラの本陣を急襲する事が要訣であったが、この戦いで敵司令部は時間を稼ぎ、遠くへ逃げたようだった。我々はバロイ山の山奥へ敵を追っていった。昼間はジャングルに潜み、夜間行動した。相当な山奥だったのか、住民もいなかったため、ゲリラの情報を収集しようとしても手掛かりは全くなかった。夜明け前、突然尖兵小隊の軽機関銃がけたたましく鳴り響いた。駆けつけてみると小隊長が5,6人の子供だけをとらえていた。17,8歳の娘が、2,3歳の幼児を抱き、弟と思われる3,4人の少年が、娘の周りにうずくまっていた。恐怖でぶるぶる震え、かわいそうな風情だった。私はゲリラの高級将校の家族だと直感した。親たちはたった今逃げたものらしく、心を鬼にして娘を性急に調べ始めた。娘は頑としてないも答えない。脅したりして強硬にとりしらべた。懸命に取り調べた結果、「私の父はカステリオン少佐だ」と自供した。
少佐は、ゲリラ第6軍区軍のもと軍事内閣の首席として我々も名前は知っていた。直ちに全隊員は一斉に追跡に向かった。小一時間もたったころ、「無線機を取った、無線機を取ったぞ」という藤井中隊からの急報があった。藤井中尉は「ゲリラを追跡中、山林のざっその中に投げ捨てられた無線機を発見した」と報告した。この無線機は高さ70㎝、横40㎝、重さ12㌔くらい、軽い米軍のものだとわかった。この軽い、小型の無線機一つのために、我々部隊が命懸けで、三日三晩山中を苦労しつつ追跡下回ったのである。このような持ち運びの便利な無線機をよくぞとれたものだと、同時に、このような無線機は米潜水艦の補給で数十機も陸揚げすることは容易であり、このうちわずか一個を確保するため、三個大隊が引き回されるのはばかばかしい気もした。
引き続きレルニア師団長以下ゲリラ幹部を捜索したが、まったく手掛かりがないので、我々もあきらめカリノグ町へ戻った。討伐中、我々を驚かせたことは名もない山中の部落で、マッカーサー元帥の肖像を入れ、星条旗と「アイ・シャル・リターン」を排した豪華な印刷の「フリー・フィリピン」という宣伝雑誌と「ライフ」誌の最近号を発見したことである。これらの雑誌ではニューギニア戦線で多数の日本兵の死体が海岸に横たわっている中をマッカーサー元帥がコーンパイプを加え、戦線を視察していた。また大型の戦車や航空機があり、米兵の装備や服装までがバターン戦当時からすっかり一変しており、我々自身がこのような大型優秀装備の米軍に勝てるのかと疑わしくなった。米軍は兵器、弾薬ばかりでなく、宣伝雑誌までフィリピンに潜水艦で運んでおり、まして無線機などはいくらでも補給できることが分かった。このような実態を軍司令部や海軍は知っていながら、無線機の摘発を本気で命令しているのだろうかと、軍上層部の情報能力に不信が持たれた。
日本軍につかまった少女の名はセルマ・カステリオンといい、イロイロ・ハイスクールの学生。3歳の弟ニッキーの面倒を母親代わりによく見たため、兵たちの同情を集めた。中村衛星軍曹は、ニッキーを肩車にして下山した。我々の情報ではカステリオン少佐はかつてはオリンピック短距離の選手、イロイロ・ハイスクールの先生で人格者だと聞いていた。子供かわいさのあまり、投降するのでは……と一応期待したが、少佐は姿を現さなかった。私は子供たちの身柄をカラム知事に預けた。
我々の第二の討伐地域はアンチケ州北部の潜水艦の補給基地だった。44年5月下旬、本部、藤井中隊は機帆船に乗り、サンホセに向かった。サンホセで吉岡大尉の一個中隊を加え、討伐隊は戸塚部隊長、石川中尉、私以下の本部小隊、藤井、吉岡の二個中隊約300人の兵力で、帰還船により、大型上陸用舟艇を寄稿し、サンホセを出港。目的地アンチケ州北部は人口も少なく、遠隔のため日本軍は警備隊を出したことのない地方である。北部海岸から東方20-30㌔のところにナクロン山があり、パナイ島ゲリラ軍のマッカーサー司令部との無線連絡所となっていた。この周辺にフランシア少佐の通信司令部、沿岸警備隊、ビラシス中佐の第65連隊の各司令部の無線機が活発に活動していた。日本軍の電波探知班による探知で、この方面の無線機の活動は手に取るように分かった。今回の討伐はこれら無線機の奪取であった。沖合より見るアンチケ州の海岸はヤシ林に覆われ、すぐ後ろは山となり、美しい緑に包まれて平穏そのものであった。
上陸地点はクラシー南方約8㌔のチビアオで、午前3時ごろ、不寝はチビアオ沖合に着いた。海岸より大発目掛け、ゲリラの一斉射撃が始まった。舟艇の重機も火を噴き、突進、やがて双方の射撃はやみ、元の静けさに戻ると、無事上陸を知らせた。次々と上陸し、海岸線を確保したが、ゲリラ側はその後攻撃はしてこなかった。我々は態勢を整え、情報源となる住民の逮捕に努めた。住民はすでに逃亡したらしく、一人もいなかった。翌朝、吉岡隊は米軍の左遷服を着たゲリラの大隊副官と称する将校と5,6人の兵を捕虜として連行してきた。吉岡隊は夜間ゲリラの兵舎を急襲し、捕虜としたものだった。さっそく石川中尉と私はこの副官を徹底的に取り調べた。その結果、ゲリラは我々の上陸を知り、大幅に兵を移動させてクラシー方面に集結していることが分かったが、戦闘部隊の数、無線機についての情報は得られなかった。本部は付近一帯を捜索したが、山中の住民も全部逃亡し、どこも薄気味悪い無人だった。夜間行動を起こした我々本部の部隊が、クラシー南方3㌔地点に差し掛かった時、後方に突然手榴弾が破裂、正面の山中より銃の射を浴びた。全員瞬時に道路両側に伏せた。戦闘の重機関銃が反撃を加えるや、正面と右側高地よりゲリラ軍の一斉射撃が始まった。敵兵力の推定がつかぬほど、カービン銃と軽機関銃の連射であった。この猛射は2,30十分も続くと闇となった。しかし敵は我々が動くと、またもや乱射を浴びせてきた。我々は前方約200m、右側150mの丘に囲まれている海辺にいることがはっきりとした。危険なので、兵を少しずつ安全な場所に移動させ、態勢を整えた。こうして約2時間、敵の側方よりの攻撃を命じ、匍匐で兵たちが移動していたた。間もなく、敵の側面からわが軍の景気が射撃を開始した。この音で敵の銃声はぴったりとやみ、不気味な静けさとなった。ゲリラは弾丸を打ち尽くしたのか、わが砲の側面攻撃に危険を感じたのか、静かに撤退した。さっそく犠牲者を調べた、アラシのような射撃の割には6,7人の死傷者が出ただけだった。ゲリラの武装も日本軍より優れ、敵はもはやフィリピン正規の軍隊といってもいいほどの力を持っていた。
この攻撃で我々も慎重を期してクラシー町の南岸に着いた。藤井、吉岡両隊と落ち合い、今後の作戦を検討した。クラシーに敵の物資補給基地があるとみて、攻撃をかけることにした。本部は部隊長以下30人の最小の兵力でクラシー南方海岸にとどまり、迎えの機帆船と連絡を取り、主力の藤井、吉岡両隊は敵の補給基地を遅くことになった。翌日になって、両隊から敵陣正面で火力の阻まれ、動きが取れなくなっている旨連絡してきた。敵は堅固な陣地を構築し、至近距離で撃ち合い、この合間に敵は日本語で、日本兵はフィリピン語で互いに大声で罵りあっているとのことだった。
神州丸沈没さる
6月20日、USS Narwhalはパナイ島リパタ岬のペラルタに4名の兵士と92㌧の物資を届けた。日本軍が南に3.5㍄、北に13㍄にあるため、迅速な作業だったがペラルタの部下はボートを満杯に積むことを拒否した。タイタス船長は0400時に最後の15㌧の物資を投棄し、ゲリラに燃料ドラムを泳いで上陸するように命令した。4人の船員を陸に残したにもかかわらず、Narwhalは14人の避難民を乗せて出港した。
討伐最終日6月22日夜のこと、午後11時ごろから沖合を航行するエンジンに音が聞こえてきた。後でわかったことであるが、このエンジンの音は米潜水艦の内火艇で、沖合で潜水艦から物資を積み込み、それを川向うのクラシーのビタドトン海岸の基地に運んでいる音だった。23日早朝、沖合でズドン、ズドンと砲撃の音がするので、日本海軍が敵潜水艦と砲撃船中とだれもが想像した。やがて沖合から日本軍の上陸用舟艇が接岸した。その舟艇の下士官が、恐怖で震えた顔つきで「ここへ来る途中、機帆船が米潜水艦に撃沈され、私どもはやっと逃げてきた」と報告した。状況を効くと、我々部隊を迎えるため、機帆船「神州丸」が上陸用舟艇を寄稿してクラシー沖まで来た時、突然、目の前に米潜水艦が浮上、砲撃を加え船は数発を受け、一瞬に乗組員もろとも沈没してしまった。次に舟艇めがけて砲撃してきたが、船体が小さく、小回りが利くので、ジグザグコースを取って逃げ切ることができたという。撃沈された「神州丸」はイロイロ市の島本造船所で建造された初の機帆船で、2年余りにわたる苦心の船、当日は其の処女航海であった。この報告をすぐにイロイロ戦闘指令所に打電した。そして日本軍機の到来を待ったが一向に友軍機は飛来してこなかった。午後3時ごろになって、海軍の小型水上機が飛来してきた。通信筒を投下し、そのまま姿を消してしまった。通信筒には「この陣地北方約2㌔の海浜に潜水艦による多量の陸揚げ物資集積しあり、攻撃されたし」と書いてあった。そこで戸塚部隊長は藤井、吉岡両隊にこの情報を伝え、攻撃を命令した。
両隊はこの命令で最後の攻撃を試みたが、敵は強固な防御陣地を築き、両隊と近づけさせなかった。我々は軽装備であり、弾薬、食料も「神州丸」沈没で失ったため、残念ながら攻撃を中止し、夜陰に乗じ陸路を撤退した。退却の途中、サンホセ街北方35㌔のボガソン町の海岸で朝食と休養を取った。たまたまその場所がゲリラ軍本部の所在地であったと見え、兵が民家の中からゲリラ軍の書類多数を持ってきた。この書類を調べていくうち、サンホセ飛行場の設計図が出てきたのにはびっくりした。このほか、サンホセ付近の日本軍警備隊の配置図、兵力、さらに何時誰がマーケットでどんなものを買い、だれがどこでどんなことをしたかといった兵の動静までも書いた書類が出てきた。このほか、ゲリラ軍の給料支払い計算書が出てきた。米軍のフィリピン侵攻が近づくにつれ、この種の計算書が方々で発見されたが、ゲリラ軍側では給料の支払いが重要問題になっていることも今回の討伐で初めて分かった。
イロイロの本部に帰還すると、我々の独立混成第37旅団は改変され、第102師団が新たに編成された。海峡を根拠地とする話は海軍側の作戦変更により、立ち消えとなってしまっていた。
一方、米軍はこのころ、パナイ島に気象観測機械、無線機を潜水艦で運ぶばかりか、レーダー基地までパナイ島に開設した。ゲリラ側の記録では44年6月、米国で特殊訓練を受けた米軍第一フィリピン連隊に所属するフランシスカ軍曹を長とする四人のフィリピン系米人兵が気象観測機械、無線機をもってバンダンに潜水艦でついた。彼らは毎日、気象情報をマッカーサー司令部に無電で報告した。またこのころ、米海軍はドナルド・E・スパーム海軍中尉を長とする19人の海兵隊員をゲリラ軍にも秘密にして派遣、ゲリラ第65連隊G2と協力し、アンチケ州南部のタオ(サンホセ南方30㌔)で、パナイ島では初のレーダーステーションを開設した。(フィリピンの血と泥)
| 概要 パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) パナイのゲリラ戦(1942年後半) パナイのゲリラ戦(1943年前半) パナイのゲリラ戦(1943年後半) パナイのゲリラ戦(1944年前半) パナイのゲリラ戦(1944年後半) パナイのゲリラ戦(1945年) パナイのゲリラ戦、終戦後 |
第14方面軍は7月28日第35軍を新設、鈴木宗作中将が軍司令官、友近美晴少将を参謀長として司令部をセブ市に置いた。
混成旅団は第102師団に改編され、師団司令部がイロイロ市に新設された。師団長はマレー半島攻略戦時の兵站司令官であった福江新平中将、参謀長は和田大佐、補給参謀に丸山正人ら少佐が就任した。師団の下に河野中将の歩兵第77旅団と第78旅団(旅団長万城目蕪尾少将)が新設され、我々の属する第77旅団の高級副官には渡辺参謀の推挙により、戸塚部隊の渡辺堅吾大尉が少佐に進級して就任した。この改編で、戸塚部隊の独立歩兵第170大隊にも新たに斎藤三千雄中尉を長とする作業隊50人が増強された。部隊副官の元木次郎大尉が師団司令部の自給副官となり、その後任として私が部隊副官に任命された。師団司令部は7月末我々の本部があったイロイロ・ハイスクールに入り、戸塚部隊本部はモロのシティ・ホールに移った。師団司令部のイロイロ進出により、師団特科部隊、砲兵、工兵、通信、輜重の諸部隊が相次いで進出、さらに兵器、貨物、航空の各廠も進出したため、イロイロ市は日本兵であふれかえった。しかし、各隊とも装備はお粗末で、砲兵隊はバターン半島戦で米軍から押収した75㎜野砲と迫撃砲、工兵隊に至ってはシャベルすら満足に持っておらず、各部隊の供出、現地調達でやっとそろえるというありさまだった。輜重隊はトラックはもとより、駄馬もなかった。これらの部隊は、この装備のままレイテ決戦に参加するのである。
師団司令部の移転が一段落すると、参謀長命令でイロイロ防衛隊の編成と防衛計画、防空壕の建設と米軍のパナイ侵攻に備えるコルドバ防御陣地の構築に着手した。防空壕は師団長、参謀用はハイスクールの指令部裏にコンクリート製の堅固なものを構築した。戸塚部隊長と本部将校用はモロの部隊長宿舎の庭内のプールの上に厚さ1mのコンクリートを流して作った。市内各所にはたこつぼ式の防空壕が彫られた。防御陣地の建設には工兵隊青木中隊の約100人が当たり、チグバアン海岸より7-8㌔奥地のコルドバに4㌔四方の、椰子の木を組み合わせた形ばかりの陣地を作った。
ゲリラ軍に対する潜水艦による兵器、弾薬の補給は増強され、迫撃砲、ロケット砲、機関砲、小火器として軽機関銃、カービン銃と、その装備は日本軍とは比較にならぬほどの重装備となり、堂々たるフィリピン正規軍になっていた。このゲリラ軍が日本軍の満ち溢れるイロイロ市を白昼堂々と攻撃、敵弾は司令部前の宿舎にもくるようになったため、部隊は部隊長の信任厚いチグバアンの第三中隊の五木少尉の一個小隊を本部直属の防衛隊として配置、もっぱらゲリラ軍の撃退の専念した。しかし、各地警備隊も優勢な火力を持ったゲリラに攻撃されているとの報告が連日もたらされた。ゲリラの反抗が本格化したのである。
指令部の渡辺参謀は内地より到着早々の工兵隊に、戦場に慣れさせるためだとしてゲリラ討伐を命じた。工兵隊はトラックで出動、途中でゲリラ軍の待ち伏せ攻撃にその火力にすっかり度肝を抜かれてしまった。地上に付して反撃すらできない状態で、十数人の死者を出して逃げかえってくるありさまだった。その後も新しい部隊が来れば経験という名目でゲリラ討伐を命令し、多数の犠牲者を出したが、渡辺参謀は意に介さなかった。そのため輜重隊の二瓶中隊が最大の損害を被った。輜重隊部隊長正角竹次郎少佐は支那大陸歴戦の騎兵部隊長であり、自らゲリラ軍に再三反撃を加え、少しずつパナイ島の戦いに慣れ、やがて有力な戦闘部隊になった。
| パナイのゲリラ戦(1944年後半) |
9月15日、ダバオは連日空襲を受けていた。また米潜水艦により、日本の輸送船にかなりの被害を与え始めた。このためフィリピンの交通はマヒ状態となってきた。9月12日セブ市、13日にネグロス島北部が空襲と続いた。14日午前中、グラマン5,60機が来襲してきた。敵機はマンドリアオ飛行場に爆弾の雨を降らせ、一部はイロイロ港、市南部に爆弾を落とした。高射砲は一門もなく、友軍機も一機も飛ばないうちにグラマンは悠々と引き上げていった。マンドリアオ飛行場の日本軍機数機は完全に破壊され、皆地では船が数隻撃沈されていた。市内の民家も被害を受け、かなりの死傷者が出た。市民たちは恐怖にひきつった顔つきで荷物をまとめ市内から脱出していった。市内は人がめっきり少なくなった。ある日、フィリピン人の若い男がセルマからの手紙を持ってきた。「部長や貴方たちから受けた恩は一生忘れません」と書いてあった。このセルマは父カステリオン少佐とともに戦後、私が菅木地署に服役中、釈放の嘆願書を出してくれたのである。
10月16日、軍艦マーチとともに台湾沖航空戦の大本営発表があった。真珠湾攻撃以来の大戦果である。これまで我が物顔で飛び回っていた米軍機に対してのうっ憤が一度にはれたようだった。さらにニュース解説はこれにより米軍のフィリピン侵攻は挫折したと述べたので、これで安心と一息ついた。渡辺参謀は、このニュースをフィリピン人に知らせろと命令して市内のあちらこちらに英語で書いた壁新聞を張り出したが、立ち止まってみる人もなかった。その数日後、台湾沖より南下した米機動部隊は再びフィリピン各地の飛行場を襲った。これには我々も狐につままれたように唖然とした。参謀部も首をかしげた。イロイロ市を取り巻くゲリラは迫撃砲をもって堂々と攻撃するようになってきた。カバツアン飛行場はじめ各地交通はゲリラ軍に抑えられ、我々はかろうじて点を確保するに過ぎなかった。
10月7日ごろ、「山下大将比島方面軍最高司令官に親補さる」との電報を受け取った。野戦軍司令官として日本一と言われた将軍だけに、部隊一道は心づよく思うとともにフィリピン決戦に対する日本の決意をうかがい知ることができた。(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1944年後半) |
ペラルタ・ゲリラは44年10月レイテ作戦開始当時は武装人員22600、装備は武器8000を誇っていた。これに対する日本軍の総数はわずか1000に過ぎなかった。戦犯裁判に証人として出廷したパナイ第61師団情報主任参謀フェデリコ・サルセドは次のようにパナイ・ゲリラの活動ぶりを証言した。
……イロイロ地方における情報網は完全な組織の下に確立され、日本軍の部隊名から将校の名前まで知られていた。……42年12月ごろよりサンフランシスコを経由して豪州にあるマッカーサー指令部との無線連絡に成功し武器、弾薬、薬品、食料などの潜水艦輸送が実現、一隻平均200ないし300トンの補給を受けた。43年6月初旬までには前師団戦闘部隊の約半数は完全に武装され、44年1月には9割まで武双は完備した。日本軍のごとく大型火砲類はなかったが、全体としてはゲリラの武装の方が優れていた。
これらがいわゆるアクティヴゲリラに対し反武装、非武装ゲリラはパッシヴと呼ばれ主として広報活動に従事したが、農民全般から医者、看護婦、宗教関係者、政府間小売り、並びにインテリを網羅した。(大東亜戦記比島編、フィリピン政府の横顔 英文毎日編集部 中村康二)
パナイ島の状況
この時点で、ペラルタはパナイ島に6つの戦闘チームを持ち、無線機と通信機をボホール、サマル、レイテ、ルソン、マスバテに接続していた。ルソン島ではペラルタの諜報員が街角、官庁、日本軍基地から報告を行っていた。「その目的は、諜報員間に競争の要素を導入し、受け取った情報を相互チェックすることである」とPRSは説明している。競争は摩擦を意味した。ペラルタの報告によると、22,600人のゲリラが 8,000 本の様々な種類の武器を持ち、1 本あたりの弾薬は約160 発であった。SWPAは2年間で350㌧の物資をパナイ島に運び、その中には「カービン銃、各種機関銃、トミーガン、迫撃砲数丁」などが含まれていた。ペラルタの部下は、日本軍をサンホセ(アンティーク)、サンタバーバラ、イロイロ市、カピスの守備隊に閉じ込めた。この状況は、マッカーサーの帰還拠点としてパナイ島を理想的な場所にするように思えたが、地理的な理由からそうではなかった。レイテ島はルソンへのより良い足がかりとなるであろう。
レイテの戦い
10月18日、米軍がレイテ島東岸に艦砲射撃と艦載機の爆撃を行っているとの知らせが入り、さらに20日には「米軍レイテ島に上陸、第16師団は米軍に反撃を加えている」と方向が入った。我々は第16師団が、あるいは米軍を撃退するのではないかとの希望を持った。10月23日ごろであったか「日本海軍連合艦隊勇躍出動」「陸海軍の総力を結集し比島決戦開始さる」と相次いで至急電が入った。部隊長以下も「連合艦隊が出撃すれば大丈夫、この決戦にとっておきの無傷の、大和、武蔵もいる」といよいよ日本軍の総反撃の時機到来と我々の意気も大いに上がった。ところがその後のニュースについては指令部からも内地のラジオ・ニュースもぱったりと途切れ、連合艦隊がどうなったのか皆目不明だった。参謀部に聞いてもさっぱりわからず、心細い限りであった。
米軍のレイテ上陸でゲリラの攻撃はひときわ活発になった。10月24日、師団司令部の和田参謀長から至急の呼び出しが掛かった。指令部に行くと和田参謀長は「師団にレイテ転進の命令が下った」と前置きし「師団はまずボホールに西村部隊、カピスの名田部部隊を先発としてレイテ島に出発、司令部、通信隊、砲兵、工兵、輜重も船便がつき次第レイテに向かう。渡辺参謀は残留し、バコロドの功の旅団付きとし、抜案の飛行場、サンミゲル、チグバアン、コルドバに警備隊を配置し、この扇型地区内は日本軍の勢力地帯とし、ゲリラの進入を許さぬこと。師団のコルドバ陣地は厳重に確保しておくこと。カピス州のカピスは田辺部隊と交代して戸塚部隊が守備すること、その兵力は在ボホール島の第二中隊中の隊を充てること」と部隊の任務を命令した。10月26日夜、師団長以下司令部のスタッフは、イロイロ岸壁からレイテ島に出発した。30㌧くらいの漁船、300㌧くらいの機帆船、上陸用舟艇など数隻からなる船団だった。
米軍のレイテ上陸後、第16師団の奮戦状況を内地の様相で知ったが、数日にしてこのニュースもぱったりと途絶えた。連合艦隊出撃の無電もその結果については一切知らされなかった。そのうち渡辺参謀から、関東軍よりきた第一師団玉兵団が無事レイテ島に上陸、さらにわが第102師団も予定通り上陸したとの通知を受けた。イロイロ駐留の砲兵、工兵隊も次々とレイテに向け出発していった。間もなく師団司令部から6,7枚の長文の電報が届いた。師団は11月1日パロンポンに上陸、現在第35軍の結晶氏談である第1師団の右翼、ピナサン東方に展開している、という内容であった。師団司令部からの電報はこの1回きりであとは何の音さたもなかった。
11月中旬ごろ、B24が40機の大編成でイロイロ上空に姿を現した。うわさに聞いていたが、これほど大きいとは思わなかった。B24はマンドリアオ飛行場を爆撃、約1000mの滑走路には直径10m、深さ5mの穴が20-30も空いていた。復旧作業にかかったが、集まった約200人の兵隊たちの半分はシャベルも持っておらず、1日で2つか3つの穴を埋めたが、2,3日たつうちだんだん作業に出せる兵の数も少なくなり、本部もついに匙を投げてしまった。イロイロ市にも毎日のように敵戦闘機が飛来し、軍の施設に爆弾を落としたり、銃撃を加えたりした。またB24が再度マンドリアオ飛行場を穴だらけにしていった。ゲリラの動きも活発となり、在留邦人の主婦たちは愛国婦人会を作り、20-30人が毎日旅亭に集まり、切断した水道管の中にダイナマイトを詰め、手製手榴弾を作ってくれた。
| パナイのゲリラ戦(1944年後半) |
このような時、サンホセの吉岡隊より、最前線のパトノゴン(サンホセ北方20㌔)の警備隊がゲリラに包囲攻撃され、全滅寸前という電報が届いた。夜間を利用し大発でパトノゴンに向かった。パトノゴン警備隊(20人)は1月前から数百人のゲリラに包囲されていた。幸い警備隊はレンガ建ての教会の中にいたので、中にいる分には安全だったが、すでに食料はなく餓死寸前だった。ゲリラ軍は海岸は手薄で上陸は簡単だった。しかし敵の気付いたトーチカだけは盛んに機関銃を打ちまくっている。下士官候補者隊の12人がやってきて突撃を開始、1人が弾丸に当たって即死し、他の一人がやっとトーチカ内に飛び込み、敵を突き刺す音が聞こえてきた。みるとトーチカ内の敵兵は一人、それも足を鎖でつなぎ逃げないようにしてあった。こうしてパトノゴン警備隊の中に入り、お互いの無事を喜び合った。直ちに撤収を開始、海路サンホセに引き上げた。
次に危機に陥ったのはイロイロより16㌔離れたサンミゲル警備隊だった。この竹原分隊の消息が急に不明となり、安否が気遣われているうち、12月半ばごろ親しいフィリピン人から、全員戦死、ゲリラ軍は遺体の首を斬り、裸にしてサンミゲルのマーケットにさらしたということだった。16㌔も離れたサンミゲルに一個分隊程度の警備隊では無理であるが、戸塚部隊長は無理を承知で参謀長の命令を忠実に実行したため、分隊は犠牲となった。
これと相前後してカピス州カピスの第二中隊から「優勢な敵に包囲され苦戦中」という緊急電が相次いで入った。連日、苦戦という緊急電が入ってくると、腰の重い部隊長もまた動かざるを得なかった。部隊は250人をやりくりして出し、夜、機帆船でカピス警備隊撤収に向かった。途中、パナイ島島北端のカルレス町東川海岸で退避のため上陸中にゲリラの攻撃を受け、ここでかなりの損害を出した。こうして苦心の末、カピス町(現在ロハス市)より西北6,7㌔のクラシー港に着いた。やっとの思いで警備隊と合流、撤収し逃げるように発った。この戦闘で第二中隊長の某大尉が恐怖症になり、そのお守りにかえって手数がかかった。
カピス警備隊を撤収したすぐ後、第一中隊の松倉少尉を長とする約30人のサラガ警備隊もゲリラの攻撃を受け、11月30日に全滅した。救援隊がサラガに到着してみると、敵は遠巻きに包囲しており、警備隊のいた小学校は焼き払われ、全員裸にされ蛮刀で手、足、耳などを切り取られ、目も背けるような惨殺体で放置されていた。救援隊はすぐトラックで引き返したが地雷にかかってトラックは破壊され、さらに待ち伏せ攻撃に逢い、かなりの犠牲者を出してイロイロ市に引き上げてきた。
11月に入ると敵の攻撃はもっぱら海とイロイロ側の約1㌔のモロの陣地に集中してきた。陣地はヤシ林で見通しが効かず、敵の動きは全く不明だった。私は約5㌧の地雷を陣地近くと橋に埋没した。ある日の午後4時ごろ、ドーンという爆発音が聞こえてきた。「十数人の敵兵がまともに地雷にかかり吹き飛ばされた」と報告。その夜はモロ方面は不気味なほど静かだった。この後も小競り合いはあったが、大規模な戦闘はなくなり、私も内心得意だった。
11月初め、マニラの軍司令部より、45歳以下の在留邦人男子は軍隊に召集するという命令が出された。市内の商社社員、戦前からの邦人たちは妻や子供に見送られてシティ・ホールの本部前に集合した。ゲリラ軍の方は12月に入ると攻撃目標をモロ方面からハロ方面に集中してきた。さっそく地雷を設したが、この方面は場所が広いせいか効果は表れなかった。
12月12日ごろ、強力な米海軍の機動部隊に護衛された大輸送船団がスリガオ海峡を西進中という緊急電が入った。レイテ島では今なお戦闘続行中という報道を信じてきた我々は予想しておらず、準備もしていなかった。部隊長と石川中尉と私は協議のうえ、米軍上陸の際は全員玉砕するまで抗戦することとし、イロイロ市各隊に準備を命じた、航空爆弾2000発の有効利用以外我々の打つ手はなかったのである。14日午後2時ごろ、日の丸マークを付けた戦闘機がイロイロ海岸を低空で飛来してきたかと思うと、リサール・スクール近くの海辺に不時着した。250㌔爆弾を胴体に装着した特攻機が不時着していた。20歳位のパイロットはかすり傷一つ追っていなかったが「米船団はパナイ島西北沖のスルー海を北上中である。眼下は見渡す限りの米の艦船群で、その数は数十隻、上空には絶えず戦闘機が警戒に当たっていた。私は特攻隊員で数機の特攻機とともに船団の攻撃に向かったが、私だけが機体の故障のため引き返した」とぼそぼそと小声で報告した。私はこれでまた命が長らえることができたと喜びが込み上げてきた。16日の内地から放送は、米軍は意外にも15日にミンドロ島に上陸したことを告げ、ルソン島上陸も近いと報じていた。
やがてクリスマスイブが来て、私と松崎軍曹はロペス家に招待された。イロイロの日本軍の命運もわずかとなっていることを知りながら、我々を厚遇してくれるロペス一家には心から感謝した。(フィリピンの血と泥)
| 概要 パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) パナイのゲリラ戦(1942年後半) パナイのゲリラ戦(1943年前半) パナイのゲリラ戦(1943年後半) パナイのゲリラ戦(1944年前半) パナイのゲリラ戦(1944年後半) パナイのゲリラ戦(1945年) パナイのゲリラ戦、終戦後 |
45年正月、部隊の経理部はモチ米が残っているのをついても地を配り、正月を祝った。1月10日ごろ、アメリカの放送で、米軍が1月9日リンガエン湾に上陸したことを知った。日本側のニュースはルソン島での日本軍の善戦ぶりを盛んに流していたが、これも間もなく途切れてしまった。
| パナイのゲリラ戦(1945年) |
2月1日朝、ゲリラ軍はカバツアン飛行場の攻撃を皮切りに各地で猛攻撃を加えてきた。2月9日、ゲリラ軍はイロイロ市の総攻撃を開始した。敵はまず、モロの陣地に猛攻を加えてきた。気を取られているうちにゲリラ軍は北方より一斉に攻撃をはじめ、ラパスの陸軍病院裏側に進出してきた。また、ハロの田辺部隊の野田中隊も包囲され孤立した。組織的一斉攻撃には部隊長も驚いた。我々は急遽作戦計画を練り、斎藤銃砲隊に本部より分隊を出し、反撃を加えた。激戦の末、斎藤隊は正面の敵を撃退。部隊長は斎藤大尉に追撃を命令した。動揺している敵は後退。戦闘は午後になっても続き、夕刻近くになってやっと砲声も収まった、斎藤大尉、石川中尉らが意気揚々と引き上げてきた。本部の兵隊は全員カービン銃を持ち、弾薬も3,4箱手つかずのまま分捕って引き上げてきた。「下士官候補隊を先頭に弾丸の飛ぶ中を歩兵操典にある通り突撃を敢行したところ、敵は敗走、腰を抜かして逃げ遅れた敵兵十数人が日本兵の銃剣で刺殺された」と部隊長に報告した。2,3日後にロペス氏宅に私と松崎軍曹が招待された折「先日の戦闘で日本兵は弾丸の飛び交う中を喚声を上げて突撃した」と驚いて話していた。この突撃はゲリラ軍や住民たちに相当のショックを与えたようだった。
この戦闘以後もゲリラ軍側はハロ、モロ、ラパスの各陣地に攻撃を加えてきた。しかし大攻勢は2月9日が頂点で、イロイロ市を包囲するだけで奪回は米軍上陸待ちと変わっていった。しかし、各地の警備隊に対する攻撃は激しくなり、イロイロ市北方13㌔のパビアの田畑兵長の警備隊が包囲攻撃された。救援隊が駆けつけた時は10人がすでに戦死、負傷してジャングル内に倒れていた田畑兵長だけが救出された。
イロイロ市の空襲とゲリラ軍の砲撃は激しくなり、迫撃砲の弾丸が部隊長や私の宿舎のすぐ近くまで落ちるようになってきた。住民たちは脱出、ロペス氏は「怖くていられないから逃してくれ」と松崎軍曹を通じて何度も頼みに来た。しかし部隊長がウンと言わなかったため、ロペス氏自身が来て頼み込んだがそれでも脱出を認めなかった。そのうちロペス一家がイロイロから姿を消したとの報告が入った。このころのゲリラ軍は第六軍区軍司令部をイロイロ市北東34㌔のポトタン町に置き、カピス州ドマラオに飛行場を建設、ドマラオとポトタンの間に鉄道を完成させていた。また、島北端のエスタンシア港を増強し、米軍から兵器、弾薬の補給を豊富に受けていた。ゲリラ軍の兵力は将校1544人、下士官兵2万1144人、戦闘部隊は六個連隊、砲兵一個大隊の編成だった。これに対し日本軍は、戸塚部隊と師団残留の諸隊、飛行場関係の諸隊などに入院患者を合わせ2500人程度で、イロイロ市、カバツアン飛行場、サンホセ飛行場、チグバアン、コルドバ陣地、ギマラス島のブエナビスタを守備しており、すべてゲリラ軍に包囲されていた。ゲリラ軍の記録によると、45年2月は総攻撃の月として連日日本軍との戦闘を記述している。2月中の成果として日本兵戦死723人、負傷269人、捕虜24人となっている。損害は、戦死将校8人、下士官兵71人、負傷将校10人、下士官兵147人と記録している。さらに住民の協力については、男も女も子供も戦死者や負傷者の搬送、避難に、また食料の補給に英雄的役割を果たした、と書いてある。
渡辺少佐もネグロス島シライ東方陣地で45年5月米軍と戦闘中、迫撃砲弾を受けて戦死した。渡辺少佐はパナイ島第一の功績者ではあったが、キャプテン・渡辺の悪名は今なおパナイに残っている。彼は日本軍人としては輝かしい最期を遂げた。大分県の横井修氏は「渡辺高級副官殿が戦死されて埋葬に立ち会った者です。新しい軍服を着せ、軍刀を胸に、横に少佐殿愛用のウイスキーの角瓶を置いて、遺髪と小指を切り取り、安らかに眠られるよう祈りつつ土をかぶせました。涙が溢れました。」と述べている。(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1945年) |
日本軍が苦戦しているとき、民事政府のコンパソール知事もゲリラ軍に追われパナイ中を逃げ回っていた。彼の仲間の副知事や配下の官吏たちも逮捕され、裁判で死刑を宣告され、処刑されたものもいた。
この事実を知ったレイテ島のマッカーサー指令部は、ネグロス島の南端を基地とする米軍謀略将校アンドリウス大佐を通じレイテからパナイ島へ密使を派遣、コンペソールにレイテ島に来るよう要請した。パロイ山で病気で臥せっていたコンペソールはEPGに担架で運ばれ、ゲリラの警戒網を苦心の末突破し、44年12月末サンホアキンからパナイ島を脱出、ネグロス島南端を経由してレイテ島に着いた。コンペソールは、おりしもワシントンに滞在していたオスメニア大統領と協議するため、直ちに米軍機でワシントンに飛び、そこでフィリピン解放後の国内政治の問題を協議、帰国早々オスメニア政府の内務長官に就任した。一方、マッカーサー司令部はルソン島攻略作戦中だったが、レイテに帰還していたオスメニア大統領やコンペソール一行に対しルソン島の司令部に来るよう要請した。45年1月末タルラック州サンミゲルで一行を迎えたマッカーサーはマニラ解放後の政治体制について協議した。ある朝コンペソールは元帥を訪ね、ペラルタ大佐によって逮捕されている彼の部下の釈放と保護を訴え、そのリストを提出した。マッカーサーはコンペソールの訴えを重視し、直ちにペラルタ大佐に打電した。後日、米軍がパナイ島に上陸した際、彼の腹心ホイットニー准将(日本占領時のGHQ民政局長)を上陸軍に同行させ、民事政府要人の釈放とペラルタ大佐とコンペソール知事の和解に当たらせ、要人の解放とペラルタ、コンペソールの和解が成立するのである。
| パナイのゲリラ戦(1945年) |
米軍上陸に備え、部隊長と石川中尉、私の三人で、上陸と同時にイロイロ市所在部隊はゲリラ軍の包囲を強行突破してパナイ島中西部の山岳地帯ボカレに転進し、ここでできる限り長期抗戦をすることで意見が一致した。かつてコンペソール知事の拠点で食料確保にも申し分なく、パナイの別天地だった。難点は距離で、ふもとの町アルモジアンまで22㌔もあった。表面上はあくまでイロイロ市死守の方針を示していた。当時スパイが多数市内に入り込んでいたため、敵を欺くにはまず味方からを実行した。イロイロは食料不足に陥った。市内に残る市民も顔色は悪く、生活に困り、一日千秋の思いで米軍のパナイ島上陸を待ち望み、すれ違う日本兵に冷ややかな目を投げた。かつて親しかったフィリピンの知人も話すことすら敬遠するようになった。
2月5日ごろ、サンフランシスコ放送は米軍のマニラ進撃を報じた。中旬ごろ、渡辺参謀がイロイロ市に来て「米軍がパナイ島に上陸した際にはアルモジアン町西方10㌔の高地に転進しここに陣地を駆逐し、米軍を迎撃せよ」と旅団長の命令だといった。私と石川中尉はさらに山奥のボカレが最適と反対した。参謀は「お前たちは逃げることばかり考えている」と怒鳴り上げ、一方的に命令を押し付けた。私は命令を承諾したが、腹の中ではボカレ転進を決めていた。
3月1日、ペラルタ大佐はレイテのマッカーサー司令部で米軍パナイ島上陸の際の作戦計画について取り決め、米第八軍アイケルバーガー中将の指揮下に入った。3月4日、ペラルタ大佐がパナイに帰ると全将兵に
| 「米軍上陸に当たっては第六軍区軍の各連隊は日本兵の山中への闘争を防ぐため各連隊長は敵が陣地を突破せぬよう担当地で適切な処置をとる。米軍が上陸するまで日本兵を完全に包囲し、攻撃を加えて民心ともに疲労させ、日本兵を一人でも多く殺せ」 |
という命令を出した。3月上旬ごろから、米軍の大型飛行艇マーチンがゆっくりとイロイロ上空に表れた。明らかに上陸に備えての偵察であることはよくわかった。夜のイロイロ市上空はきこうだんがまるで花火大会のようだった。こうして運命の日、3月18日を迎えるのである。(フィリピンの血と泥)
2月11日、マカリオ・ペラルタ大佐指揮下の米解放軍とフィリピンゲリラの連合軍は、パラワン島プエルト・プリンセサの海岸地帯への上陸に成功した。彼らは首都プエルト・プリンセサに入り、島に配属されていた少数の日本兵を簡単に撃破した。また、日本軍の収容所であるイワヒ刑場にいた比人と連合軍の捕虜を解放した。残った敵は丘に逃げ込み、パラワンのゲリラによる捜索の対象となった。
| パナイのゲリラ戦(1945年) |
1945年3月、米軍第40師団がパナイに上陸したとき、ペラルタ大佐の部隊は日本軍の排除に大きく貢献し、上陸前には周辺地域から敵を排除し、 島の北部と南部の9つの飛行場を掌握していた。米軍の前進を支援するために、すべての重要な橋が修理され、道路が整備され、重要なジャンクションが管理された。第40師団部隊が海岸から内陸に移動した後、ゲリラはガイドやパトロールに使われた。ゲリラ部隊は3月末の首都イロイロの解放と、その後のサンホセの強力な日本軍駐屯地への攻撃に参加した。
近隣のミンドロ島、マスバテ島、パラワン島では、パナイ島ほど強力ではないし、統合されているわけでもなかったが、ゲリラ部隊も役に立った。ミンドロ島では、内陸部の日本人逃亡者を山中やジャングルの中で追い詰め、マスバテ島では、ゲリラが独自の水陸両用攻撃を行い、首都を占領し、パラワン島では、ゲリラ部隊が日本人をプエルト・プリンセサ地域に封じ込め、散らばった敵陣の排除に参加した。ペラルタ大佐、フェルティグ大佐、アベセデ大佐の様々なゲリラ部隊の支援により、ミンダナオ島と西ビサヤ諸島における第8陸軍の侵攻任務は計り知れないほど単純化され、大幅に短縮された。
3月18日、ラップ・ブラシ将軍の第40師団はイロイロの西にあるパナイ島に上陸したが、これはマッカーサーがビサヤ地方の確保を宣言してから27日後のことであった。陸軍史によれば、「そこではマカリオ・L・ペラルタ大佐のフィリピン・ゲリラがパレード隊形で出迎え、アイケルバーガー将軍は回顧録でゲリラが「糊のきいたカーキで硬く、装飾品で華麗に」立っていたと回想している。「23,000人の強力なゲリラ部隊は、2,750人の日本軍が陣取っていたイロイロ近辺を除く島の大部分を確保していた」。
3月18日早朝、砲声はチグバアン警備隊の方向で起きている。非常無線が発信信号を出した途端、ぶっつりと途絶えた。午前4時50分。砲声は十数分で収まり、静けさが戻った。私は各隊から報告を集めたが異常なく、ただ音信不通のチグバアン警備隊が気がかりだった。その時点で米第7艦隊のトーマス・C・キンケイド中将麾下のA・D・ストラブル少将の率いる艦隊、輸送船団がチグバアン海岸沖に接近。艦砲射撃で第三中隊のチグバアン警備隊を吹き飛ばした後、ラップ・ブラッシュ少将の指揮する第40師団の第160連隊(1個大隊欠)、第85連隊、第54工兵隊を主力とする約7000の米軍が戦車を先頭に上陸していたのである。
午後2時ごろ、突然モロ方面に十数発の砲声、しばらくすると伝令が「敵戦車がモロ陣地攻撃中」と報告、続いて「敵戦車十数両、モロ方面より強力な砲撃を加えて前進して接近中、橋にも戦車3,4両、地雷はすべて不発、至急増援を乞う」と告げた。幸い救援隊が駆けつけた時には、戦車は暴れて引き上げた直後だった。菅原少尉は敵戦車に肉薄攻撃、戦車砲の直撃を受け、上半身を吹き飛ばされて戦死していた。
コルドバ陣地の豊田中尉は30人の兵と連日ゲリラ軍の攻撃にさらされていた。早朝、見張り台に上がると海上からは青白い発射光、チグバアンの河の隊陣地に炸裂音と閃光が上がっていた。午前5時50分、米艦船軍が姿を現してきた。二隻の重巡洋艦を囲むように駆逐艦10隻、魚雷艇約12隻、沖合には時計マストの旧型戦艦、後続としてリバティ型輸送船約30隻、計60隻にも喃々とする威容で、ギマラス島沖は艦船で埋め尽くされていた。チグバアン隊は艦砲射撃で吹き飛ばされた。やがて午前9時半ごろ、輸送隊から縄梯子を伝って兵たちがおり、上陸用舟艇に移乗、10時第一波15隻がチブバアン西寄りのバリオ・バララのファフィマ海岸(現在マッカーサー・ビーチともいう)に突進した。続いて第二は、第三派が発進した。午後3時半ごろ、米軍の上陸は完了。戦車、自動車など、チグバアンーコロドバ道上だけでも200両が並んだ。米軍が進駐すると住民が熱狂して出迎え、手に手に星条旗とフィリピン国旗を振りかざし、お祭り騒ぎとなった。戦車隊はコルドバ陣地、カバツアン飛行場を攻撃、他の一隊はイロイロ市へ威力偵察に向かった。この日の夜はチグバアン沖の艦船群は日本軍の夜襲を警戒してか、引きも切らずに照明弾を打ち上げていた。上陸米軍は同日、オトンに鉄板式の仮設飛行場の建設を始め、19日には飛行場が完成した。
各隊長に非常呼集をかけた。まず、戸塚部隊長がイロイロ市放棄、ボカレ転進を命令、ハロ敵陣地を強行突破する。痛かったのは陸軍病院にいる身動きできぬ約50人である。私もはっきりしとした指示ができず、田中病院長に「重患は」と声をかけると「動けない患者は私の方で処置します」と答えた。カラム知事とイベリナス・イロイロ市長は古池憲兵隊長が日本軍と行動を共にするよう勧告するが強制はしないこと、市内の放火は厳禁、ハロ集合は午後8時前と念を押して散会した。本部の兵が機密書類を焼いたり、乗用車のクライスラーにも火をつけた。行進が始まった。サンバブロ病院前に差し掛かると「兵隊さん頼みますよ、しっかり頼みますよ」と邦人婦人たちの声がかかった。「火をつけるな」と叫びながら前進。…が、ノルマルスクールと陸軍病院は炎上していた。重症患者が自決した後火をつけられたのであろう。
ハロ陣地、さあ決戦である。鉄砲隊迫撃砲が数発、続いて日本軍の持てるだけの重機、軽機が一斉に火を噴いた。その瞬間敵の一斉射撃が始まった。ひとしきり銃声の嵐が続くとやがて下火になった。ゲリラ軍は日本兵の動きが分かると再び弾丸の嵐、以後嵐と静寂が繰り返されるが、第一線突破の気配はない。今から敵中突破は老人、婦女子、患者ら400人を連れては無理だった。こうして18日は過ぎた。
19日未明、左の野田隊に攻撃を命じた。待っていると、野田中隊長以下中隊幹部戦死の凶報が来た。邦人の様子を見にやらせると、婦女子たちはあまりの時間の長さに退屈し、中には子供にせがまれ、お茶やコーヒーを沸かしているものもいるという。午前4時ごろ、最後尾の藤井隊に攻撃を命じた。正面第一線に突撃の喚声が上がり、後続の全員が駆け足で本道を進んだ。ハロ川左岸のヤシ林で後続を待ったが、憲兵隊、水谷隊、師団残留隊、下士官候補者隊、野田隊宮本小隊までは到着したが、邦人中隊、邦人婦女子、陸軍病院の患者たちは表れなかった。逸木少尉に兵をつけて、連絡を命じた。遅いのでイライラしていると、息をせききって帰るなり「敵の戦車がやってきます。昨夜の戦闘地点には数十人の日本兵とフィリピン兵が折り重なって倒れていました。」と報告した。隠れているヤシ林から200m川向うのハロ―バビア道を戦車が通るのが見え、兵隊を満載した軍用トラックの列が続く。我我はゲリラ軍が陣地用に掘った豪の中に身を伏せて見守った。「黒人兵もいるぞ」ヤシの葉越しに黒人兵の姿が見えた。
右側のハローサラガの道を見ると、800m向こうの道をイロイロ市に向かって、延々とゲリラ軍の大行進である。車両が何台か混じっているが、全員徒歩である。朝8時ごろより始まった敵軍の行進は途切れることなく、ゲリラ軍の列に住民も加わり、午後になっても続いた。敵の行進が途切れた午後4時ごろ、2,3中隊のゲリラ軍が向きを変え、我々の方に前進しながら近づいてきた。無線電話で敵機に盛んに連絡している様子がわかる。ヤシ林に200mほどのところまで接近したフィリピン軍が一斉に射撃すると、わが砲も一斉に火ぶたを切った。後方から戦車が打ちまくる。このままつづけば、日本兵の死体で埋まるのかと最後の力を振り絞っているとき、ゲリラの射撃が下火になり、後方の戦車もイロイロ方向に向きを変え、走り去った。夜のとばりがおり、暗夜になった。川向うのカリメルテ修道院でローソクの灯がともされ、修道女が明るみに映し出された。米軍のイロイロ開放を祝福するミサであろうか。兵の一人が「コンチキショウ撃つぞ」と歯ぎしりするので私は抑えた。全員疲労しているが、私は直ちに前進を即した。虎口を脱した。
3月18-9日ハロ郊外カルメリテ修道院付近の戦いで我々と対決したのは、ブラウリオ・ビラシス中佐指揮の第66連隊で、我我の左翼カルメリテ修道院側には第二大隊、右翼には第一大隊が展開していた。この連隊にはカピス州の兵が多かった。
我々は強行軍を続けた。昼は絶えず敵機が超低空で旋回していた。21日早朝アルモジアンの街の強行突破、22日にはカガイ部落でサンホセの吉岡隊と無線連絡がとれた。サンホセ放棄、ボカレ転進を打電、23日夜も強行軍、落伍者がバタバタと出た。負傷者が動けなくなり、かなりの自決者が出た。24日の夜が明けた。ボカレの部落が眼下にあった。約600件の家、谷間の水、田畑、陣地としての地形も申し分なく、部隊全員が半年は食えると判断し、拠点とすることに決めた。集まった兵はおよそ700余人だった。
邦人の老人・婦人200人が斎藤大尉の指揮に入った。バビア町から25㌔の行軍だが、老人・婦女子は疲れ果てていた。幼い子供たちは疲労と空腹で泣き喚いた。兵隊たちの中には殺気立っていたため「子供を泣かすな、泣かすと住民に居場所がわかってしまう、親は何しとるか!」「子供は殺してしまえ!」とわめく者もいた。イロイロ領事館の丸山吉三郎氏が兵隊たちの間に立って努力をした。(フィリピンの血と泥)
ゲリラの包囲網は狭められ、邦人たちはついに動けなくなってしまった。21日夜には約40人の邦人が一ヶ所に集まり、イロイロ日本人小学校の柏森校長が「これ以上、私たちが兵隊さんたちにご迷惑をかけては申し訳ない。ここで死にましょう」と生きて辱めを受けるよりと全員で「海ゆかば」を斉唱し、皇居の方に向かって頭を下げ、次々に拳銃や手投げ弾で自決し果てた。近くにいた落伍兵や負傷兵は死にきれずに苦しんでいる母親たちから請われるままに銃剣や持っていた手投げ弾で自決に手を貸したという。この落伍兵や負傷兵の何人かが、やっと斎藤隊に追い付き、状況を告げた。
自決の現場で5人の日本人の子供がゲリラ兵や現地のフィリピン人に救出され、4人は現在イロイロに生存している。戦後、私がその親探しに当たり、サルバドール・カブレラ(日本名川上忠徳)とサルバシオン・モレノ(川上美保子)の身元を確認することができたが、父親の川上徳松氏は1962年亡くなっていた。救出されたとき、小学校1,2年であったサルバドール・カブレラは身元証明の宣誓口述書の中で次のように述べている。「……私たちは山に行くためサン・オーガスチン・カレッジ(日本人小学校として一部を使用していた)の学校を出発する命令を受けました。私は、母やお年寄りの人たちと一緒に歩きました。途中くたびれたので立ち止まると、兵隊さんが来て早く早くといわれ、苦しい思いで歩きました。米軍がすぐそばまで来て打ってきたので、全員叢の中に伏せました。やがてすぐそばに砲弾が落ちてきた。校長先生が母や他の人たちを集めて国家をうたい、その後お祈りをしました。砲弾が周りに落ちるので、私は妹と暗闇の中を逃げた。一晩中隠れて行って朝になってから母のところへ行ってみると、母や弟は死んでおり、知り合いの人たちも死んでいた。間もなく私の養父となったイレネオ・カブレラが来て私を家に連れて行きました。私の妹二人(一人は病死)ビルタ・モレノが連れて行きました」(フィリピンの血と泥)
逃避行時も在留邦人の一員として行動を共にした10人の台湾人の慰安婦がいたが、邦人たちから毛嫌いされた。しばしの休憩中でも母親たちは子供たちを近づけまいとした。耐えられず彼女らは頭を坊主にして男の姿となり、一段となって日本軍の後を追い、落伍者もなく山中へ逃げることができた。悲惨だったのは田中軍医大尉の率いる患者約250人だった。隊員の落伍者は米軍戦車に遭遇、全員射殺した。田中軍医らは川の中州に隠れているところをゲリラ軍に包囲され、全員迫撃砲の直撃で悲惨な最期を遂げた。わずか数人の衛生兵がボカレにたどり着いた。チグバアン警備隊の川野中隊はゲリラの待ち伏せ攻撃に逢い、戦闘の樫村軍曹の一個分隊は突破したが、主力は集中攻撃を受けて全滅した。攻撃したのは第65連隊第1大隊C中隊で、中隊の軽機、小銃などを分捕り、これが現在、イロイロ博物館に陳列されている(なおその一部はペラルタ将軍に記念品として贈られた)。カバツアン飛行場守備隊は包囲を突破して山中に入り、斎藤隊と合流した。飛行場隊は重症の脚気にかかっており、歩けず、相次いで自決した。包囲のゲリラは「バカヤロー、ドロボー、シネ、シネ」とののしり、嘲笑いながら自決するところを見物していたという。コルドバのトヨタ小隊とサンホセの吉岡隊は敵中を突破し4月10日ボカレに到着した。転進の前日、捕虜の米軍飛行士3人を処刑したため、これが投降後、戦犯に問われることになった。また脱出直前に時限爆弾を仕掛けておいたため、突入したゲリラ65連隊A中隊の一個小隊の兵がこの時の爆発で戦死した。(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1945年) |
日本軍がイロイロ市を脱出した後の状況を「ゲリラ・メモリー」から抜粋してみよう。3月19日、アレバロの米軍重砲11門はまだ日本軍がいると思い砲弾の雨を降らせていた。この時カラム知事が米軍観測機に対して対空布板で「もうジャップはいない」と書いて報せたため、砲撃は直ちに中止され、市民は救われた。カラム知事のもとへ最初に来たのは、米軍第40師団の副師団長ロバート・O・ショー将軍だった。将軍は知事に日本軍の逃走方向を聞き、すぐに米軍とゲリラ軍に兵力の展開を行った。次にカラム知事を訪ねたのは、第63連隊長のチャーベス中佐だった。中佐はカラム知事のこれまでの協力を感謝し、保護のため門前に重機関銃二丁を据え付け、部下を護衛に当たらせた。第六軍区軍司令部の情報参謀、フェデリコ・サルセード少佐が訪れた時には涙を流して抱き合い、これまでの協力と適切な通報で市民を救ったことに感謝した。
また米第8軍司令官アイケルバーガー中将はその手記「東京へのジャングル・ロード」で記している
ルソン島の攻略を終え、中将は自らパナイ島攻略軍に参加した。事前の情報により日本軍の激しい抵抗を覚悟してジープを進めた。…いつの間にかイロイロ市に入り、市の中心の広場で楽隊入りの狂喜の市民の歓迎を受け、これで事実上パナイ島奪還が完了したことを知って驚いた。市民の話によると、日本軍は昨夜慌てふためいてイロイロ市から逃走した。日本軍は病院にいた50人ばかりの重症患者を自決させるべくモルヒネ(事実は青酸カリ)を注射し、病舎に火をつけたが、モルヒネが少量であっため、そのうち何人かは死にきれず、火炎の病舎よりはい出したところを米軍にとらわれた。
米軍上陸時の日本軍の戦闘についてゲリラ軍の記録には「日本軍がハロで攻撃に出た時、我々は日本軍の主力がイロイロ市内にいるものと思った。米軍重砲の砲撃が始まったため、包囲陣を後退させた。日本軍はその間隙をついて攻撃したのである。わが軍六個連隊と米軍第40師団の裏をかいた脱出作戦を行った日本軍の指揮者には脱帽せざるを得ない」と記されている。
3月22日、米軍はパナイ島の解放を宣言した。その1週間後、ゲリラ軍のパナイ島開放のパレードが行われた。パレードはハロのプラサからイロイロ市のサンバースト公園まで続いた。最初にイロイロに入ったのはジュリアン・チャーベス中佐の率いる第63連隊であった。兵の大部分はぼろをまとっており、山奥から出てきた蛮族のようだった。市民の歓呼の中をパレードの後、米第8軍司令官アイケルバーガー中将はペラルタ大佐に対し、ゲリラ軍指導者としての顕著な功績をたたえ、殊勲十字章とともにマッカーサー元帥の感状を重々しく読み上げて授与した。その感状には次のように書かれてあった。
| 「日本軍によるフィリピン支配の暗黒の期間を通じ、貴官及び貴官指揮下部隊が果たした勇敢な行為に対して賞辞を述べる。太平洋を越えて、貴官が最初に送信した弱い信号を受信して以来、小官は深甚の同情の念をもって、貴官指揮下部隊の任務遂行への勇敢なる努力を注視してきた。貴官は、貴官の誇りと指示損する祖先のもっとも高尚な伝統を達成された。貴官は戦時にあっては優れた兵士であった。平時においては善良なる市民であらんことを」 |
これにこたえてペラルタ大佐は勝利を祝うスピーチを行ったが、そのうちこの戦いで倒れた人々のことに思いを致したのか、言葉は途切れがちとなり、そして恥じらいもなくすすり泣き、やがて大声で泣いた。サンバースト公園には静寂が流れ、全員、涙で勝利を喜び合った。
一方このころマニラでは、コンペソールはパナイ、ロンブロウ等のゲリラ民政府知事としての対日抵抗についての報告書をオスメニア大統領にあて提出した。彼は、その報告の中で次のように述べている「主義のために戦った我々の大黒柱や野や山に住み、裸足で働く農民たちであり、また彼らの子供たちであった。過去三年にわたる戦争がいみじくも証明したごとく、彼らの家は自由の城壁であって、彼らの心には自由な生活への炎が絶えず燃え盛っていた。彼らはバターン、コレヒドールの戦いでも得た炎をそのまま、青い続け、我々に大きな力を与えて暮れた。我々のアメリカ並びに民主政治に対する忠誠は、彼ら農民の援助によってさらに力強いものとなった……」(フィリピンの血と泥)
| パナイのゲリラ戦(1945年) |
ボカレは、パナイ島の高峰約1350mのイナマン山を囲む外輪山の麓にある。東西4㌔、南北3㌔の盆地に幅10mの清流が流れ、両側に600個の民家があり、水を巧みに引き入れた階段式の水田がある。水の便が悪い地帯にはトウモロコシ、サツマイモ、カモテカホイ(芋の一種)、ネギ、トマト、モンゴ(小豆)、落花生、タバコを作り、湿地にはサトイモ、山の斜面にはマンゴ、バナナが飢えられていた。
その後、毎日何人かの日本兵がボロボロの姿でボカレにたどり着いてきた。私は一人一人に面接し、戦死者の様子を聞いた。ブヨ東方での陸軍病院の患者たちの最後、レオン北方山腹で約30人日本兵が裸で殺されていたこと、またパビア南方で多数の日本兵が戦車に殺されたこと、などを私に報告した。一応、集まるものは集まったので陣地の守備を定めた。幸い攻撃もなかったので休養も十分とり食糧も豊富なので体力も回復した。
米軍の攻撃と退散
5月に入ると、米軍の2,3個中隊が西側陣地に軽機で執拗な攻撃をかけてきた。敵機の爆撃も始まり、ある時は空中よりガソリンをまき、これに火をつけたため、陣地一帯は火の海となり、数人の戦死者が出た。米軍の戦いぶりを通じて我々を安心させたのは、決して夜間攻撃をかけないことであった。このため、夜は安心して休むことができた。余り安心しすぎていたため、ある晩、十数人のゲリラが第一線陣地の間隙から侵入、向原隊のいるニッパハウスを夜襲してきた。幸いすぐ応戦して撃退したが、米兵よりゲリラ兵の方が油断ができなかった。
米軍はその後も時々2-3個中隊程度の兵力で攻撃したり、空から爆撃をしたが、我々はあまり苦痛ではなかった。情報を得るため、サイゴンの日本放送、サンフランシスコ経由のアメリカの日本語放送を聞いていたが、4月1日、沖縄に上陸した米軍は日本軍を圧迫しつつあることを伝え、その解説には沖縄攻略後はいよいよ連合軍の本土上陸が始まるとも報じていた。
6月下旬ごろ、水谷隊正面500m先の高地に突然米軍1個大隊推定の大兵力があらわれた。朝から夕方まで何百発もの迫撃砲弾を撃ち込んできた。2,3日根気よい砲撃が続いた。部隊長も苦笑い「せめて日本軍に3分の1の火力があれば米軍なんて何でもないんだが」。米軍は我々の陣地が丸裸となったころになると、攻撃を始めてきた。まず迫撃砲を撃ち込んで、銃の乱射を浴びせながら米兵がじりじりと坂を上り始めた。100mくらいまで近づくと、「撃て」の号令で一斉に反撃をする。パンパンという寂しい音だったが、それでも米兵は慌てふためいて一目散に逃げ散ってしまった。翌日も迫撃砲の打ち込みが始まった。間もなく二個中隊程度の米兵がカービン銃を打ちつつ坂を上り始めた。一人一人の顔がはっきりわかる。懸命になって恐る恐る近づいてくる。100m手前に来ると水谷隊の銃声が始まる。米兵は坂を転げるようにして退散。同じやり方で3-4日攻撃を繰り返してきた。米軍もだんだん態度が大きくなり、500m先の高地には米兵が群がった。双眼鏡で見ると、タバコを吸うもの、ガムをかむもの、気楽にこちらを見ているのが手に取るように分かる。部隊長、石川中尉、私の三人が相談の結果、米兵の軍の中に重機を撃ち込み、さらに迫撃砲も5,6発撃ちこんでみようということになった。翌日、早朝から重機を陣地に据え付け、高地を取り囲むように銃口を向け、米兵の慌てぶりをみんものと本部はもとより、各隊の兵も陣地から頭を出して待った。そうとはしらずに、所定の時間に米兵は高地に姿を現し、見る見るうちに黒山の群れとなった。「撃て」の合図とともにわが方の迫撃砲弾数発が炸裂した、と同時に重機が一斉に火を噴きた。米兵は蜘蛛の子を散らすように高地から散らばり、中には我々の方の斜面に転げ落ちて逃げる者もいた。やったやったと各陣地から喚声が上がる。しかし、米軍の退避も素早く見事なもので、あっという間に米兵の群れは消えた。この日の米軍の攻撃は中止となり、翌日は高台より姿を消した。
このころになると各隊とも塩、肉類が欠乏してきた。徴発隊を出し、住民が逃げた家の中からかっぱらってくることもした。食料は近いところはとりつくし、だんだん遠くへと広がっていった。皇軍も泥棒、山賊と化したわけだ。米を作るため、住民たちが使っていた原始的な農具を使って、代掻きや田植えをしたり、畑にはカモテカホイの挿し木などをさせた。ラジオニュースは、日本本土の攻撃が近いような情勢を伝えている。はるか遠くを見下ろすと、イロイロ港にも大型船の寄港が繁くなった。
待っていると、またもや米軍が水谷隊の正面高地に表れた。兵力は前と同じ一個大隊くらいで、高地に重機を据え付け、その後ろに迫撃砲を据え付けた。今度は観測器を陣地上空に飛ばした。米軍の攻撃もうまくなった。重機関銃をうまく使い、迫撃砲も命中精度はよくなった。攻撃のやり方は前と同じで、砲撃の後、銃器の援護のもと歩兵が射撃しつつ陣地に近づいてきた。わが方も前回と同様100m近づけて反撃、これを撃退した。米軍は夜間は後方に天幕で野営しているらしく、夕方になると正面高地から米兵の姿は消え、ボカレ山は昼間の騒音が嘘のように静まり返った。敵の根気良い攻撃に対し、我々は弾丸の不足、消耗を気にするあまり受け身で、主導権は米軍の手の中になった。よほど悔しかったと見え、各隊から夜間の斬り込みの志願があった。部隊長は実戦経験豊富な吉岡隊にこれを命じた。
いよいよ斬り込み結構の夜である。時刻は午前二時ごろ、米軍陣地方面でけたたましい銃声がしばらく鳴り響き、やがて元の静寂に帰った。朝になって吉岡大尉がニコニコ顔で5,6個の米軍の缶詰を持って現れ、戦果を部隊長に報告した。奥田小隊は十数人の兵で音もなく、刑海兵の監視を潜り抜け、米兵の幕舎に手投げ弾をあるだけ投げ込んだ。爆発音とともに幕舎付近は大混乱となり、泣き騒ぎ、わめくもの、拳銃を乱sにゃするもの、奥田隊も乱射し、帰りには敵の拾機関銃一丁をはじめ、カービン銃や食料など手当たり次第にかき集め、一人の損害もなく引き上げたという。翌日には米兵は高地から姿を消し引き上げた。
7月下旬、今度は米兵二個大隊が水谷隊正面の高地に表れた。観測機が超低空で飛び、絶えず無線機で連絡を取っている。間もなく水谷隊陣地に前後方向にものすごい炸裂音がした。砲は10㎝りゅう弾砲数門とわかった。ひとしきり集中砲火が続くと砲声はぴたりとやんだ。陣地の麓から重機の援護されカービン銃の発射音と共の約二個中隊の米兵が陣地を登り始めた。戦闘が7,80m、まで近づいたとき、水谷隊の兵士が陣地から頭を出し一斉に打ち始めた。米兵は坂を転げ、死体や負傷者を引きずりながら我先にと藪の中に姿を隠した。藪を乱射すれば相当の損害を与えることは確実であるが弾丸がもったいなかった。
こうして2,3日、米軍は同じような方法で攻撃を続けた。斬り込みをやってみようということになった。前回と同じコースで敵に近づいたため、今度は厳重な警戒網に引っかかってしまった。斬り込み隊は散り散りになって、やっと引き上げてきた。第一線攻撃の米兵は陣地接近し、3-4名の戦死者を出した。この遺体を取り戻さんと一層攻撃を仕掛けてきた。わが方は死体をおとりに米兵を狙い撃ちをした。こうして8月2-3日ごろまで同じような戦闘が繰り返された。ところが米軍は間もなく第四回目の攻撃をあきらめ、多数のレーション等を置いたまま撤退した。
そのころ、アメリカからのニュースはもっぱら日本本土爆撃のニュースに変わった。米軍機のビラでドイツ降伏を知った。食糧、特に塩の欠乏は深刻になってきた。徴発は遠くへ行くようになり、フィリピン軍と交戦するほど命がけの食料あさりとなっていた。8月13日無線班の中上伍長が「アメリカ放送で日本がスイスを通じ、連合国に無条件降伏を申し入れたといってます」と報告してきた。やがて15日の玉音放送があった。(フィリピンの血と泥)
| 概要 パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) パナイのゲリラ戦(1942年後半) パナイのゲリラ戦(1943年前半) パナイのゲリラ戦(1943年後半) パナイのゲリラ戦(1944年前半) パナイのゲリラ戦(1944年後半) パナイのゲリラ戦(1945年) パナイのゲリラ戦、終戦後 |
| パナイのゲリラ戦、終戦後 |
敗戦を悲しむどころか、ボカレの空気は内地送還の話も出るなど明るさを取り戻し、兵たちの顔は安ど、解放の喜びにあふれていた。パナイ島の日本軍も、3年余りにわたる戦闘に明け暮れた日々から、やっと解放されることになったのである。この日、食糧徴発に遠方に出かけていた高田兵長が行方不明となった。部落でフィリピン兵と交戦中とまではわかったが、それから先は消息不明だった。パナイ島における部隊最後の戦死者となった。
投降後、比人による報復的虐殺を畏れる声もあった。私はポツダム宣言の中に、連合国の捕虜、非戦闘員を殺害、虐待したものは裁判に付すとの一条があるのが気がかりで、部隊長に尋ねたところ、これはひどい虐殺をしたもののことで、我々には関係ないと一笑に付した。古池憲兵大尉は陸軍刑法の教範を出し、終わりの方のページをめくり、ジュネーブ協定に拠る捕虜取り扱いの国際条約を調べ、重要な条項を読んで聞かせた。このような条約があることは聞いていたが、内容について話を聞くのは初めてで、私は条約の内容を自ら読み、講釈できるほどになった。
米軍から何らかの連絡指示があるものと待機している折、8月24,5日ごろ、米軍の観測機がボカレに飛来してきた。我々は白布を広げ合図した。米機は通信筒を投下した。中から日本軍代表の軍使派遣の日付、場所の指定とネグロス島の渡辺参謀直筆による「第14方面軍司令官山下大将の命により日本軍は現地米軍の指示をウクベシ」との命令が同封されていた。翌日観測機が連絡用としてウォーキート-キー(トランシーバー)を投下した。その日の隊長会議で、軍使として古池憲兵大尉、石川中尉、私の三人と通訳に松崎軍曹、護衛小隊は堀本中尉指揮の下士官候補者隊、同通訳に植木一等兵と決定した。8月30日早朝、パナイ日本軍代表は白旗を上げ、山道を進むうち観測機が迎えに来た。松崎軍曹が絶えずウォーキートーキーで連絡を取っていた。目的地に着く予定の時刻になったので歩いていくと、いきなりジャングルから、7,8人の米兵が出てきて私たちを取り囲んだ。温厚な34,5歳くらいの将校が笑みを浮かべ、階級章を見ると少佐だった。少佐は私と肩を並べ先導した。進むうちにジャングルが切れ、パッと明るくなった。場所はイロイロ市の水源地ダハである。とたんに前面に並んだ十数台のニュースカメラが一斉に動き始め、多数の米兵がシャッターを切った。小池大尉、石川中尉、私と通訳の松崎軍曹がジープに乗せられた。5,6分も進むと民家がちらほらと見え、住民が殺到し「バカヤロー」「ドロボー」と叫び声をあげて追いかけてきた。中には拳を振り上げるもの、手で首を着る真似をするもの、ジープは大騒ぎになった。我々の車はマアシンのプラザに入った。周りには数百人の住民が待ち構えていた。大隊長は我々四人の身体検査をした後、プラサの中央のデスクに案内した。デスクには45,6歳くらいの気品ある大佐を中央に、左に頭の切れそうな若い中佐、右に50歳くらいの少佐が座り、さらに3,4人の若い将校が着席していた。降伏についての話し合いは米軍側は若い中佐、我々の方は私がもっぱら当たった。話し合いは円満にまとまった。私は途中比兵や住民から発砲された事実を挙げ、今後このような事のないよう約束してほしいといったところ、米軍側は責任をもって安全を保障することを約束した。また日本兵全員の車両輸送と米軍の保護、病人の特別輸送と入院を要求したがこれもあっさり承諾したので、我々の方が驚いた。投降日は、9月1日に部隊本部約100人、翌2日に残りの部隊、引き続き斎藤隊ということで合意した。投降契約書は米軍側は歩兵第160連隊長、大佐R・G・スタントンと署名し、我が方は古池大尉がサインした。調印が終わるとスタントン大佐をはじめ全員が起立挙手の礼をした。振り返って礼をすると、そこには少将がスタッフを従え、私どもに何度も丁寧に答礼した。二世通訳が40師団長ラップ・ブラッシュ少将だと小声で教えてくれた。帰りにも沿道の住民はわめき怒鳴り建てていた。密偵、将校付きのボーイとしてフィリピン人が5,6人いたが、私は言い含め、各人にカービン銃と食料を与え、好きなところに行くようにと出発させた。
9月1日朝、山を下った。銃声はしなかった。米軍が約束を果たしてくれたのだ。やがて広場入り口では約20台のニュースカメラが一斉に回転を始め、新聞社と米軍の将校たちのカメラがシャッターを切る音がなった。広場はジャングルに囲まれ、米兵二個中隊が警戒に当たり、フィリピン軍の将校も2,3人列席しているようであった。中央の長い机には連隊長のスタントン大佐を中心に中佐、少佐の将校らが着席、その背後に約30人の衛兵が立っていた。部隊長がスタントン大佐に軍刀と拳銃を差し出すと大佐は厳かな面も地で受け取った。降伏の儀式である。戸塚部隊長の軍刀はフィリピン軍の第63連隊副連隊長のラモン・ゲルペーソン少佐に渡されたという。その後将校はジープで、兵たちはトラックで米兵の厳重な警戒のもとにマアシンを経由してアスファルト道に出た。民家地帯に出ると、沿道に住民が群がり「バカヤロー、ドロボー」の声が聞こえる。騒ぎはますます大きくなり、我々の車めがけて投石するものも出て危険この上もない。米兵は大声でこれを制し、威嚇射撃をしながら沿道の住民をかき分けるように車を走らせた。我々の車が停車したところはカバツアンの元日本軍飛行場だった。
| パナイのゲリラ戦、終戦後 |
200m四方の鉄条網に囲まれた捕虜キャンプには転々と幕舎が建てられ、監視塔には米兵が警戒に当たっていた。鉄条網に周りには見る見る住民が群がり大声で叫び石を投げ始めた。米兵が空に威嚇射撃をすると一旦後退するが、暫くすると再び群がる。大騒ぎが日暮れまで続き、我々はキャンプの端に近寄ることもできなかった。これらとは反対に、係の4,5人の米軍将校は何かと親切に、我々の幕舎の組み立てから溝堀まで、にこにこしながら手伝ってくれた。また夜になると、ヘルメットいっぱいのキャンディを差し入れてくれた。
9月2日、本部以外の日本兵の投降である。早朝から住民はキャンプを取り囲み、大声で叫び、投石する中を日本兵の捕虜が続々と到着、20人用の幕舎が次々とキャンプいっぱいに組み立てられていった。
9月3日の昼過ぎ、将校全員の集合が掛かった。これから投降式があるので全員出席するようにとの指示である。米軍将校の案内で式場に向かう途中、トラックから下りた日本兵が所持品検査を受けているのが見えた。誰もが丸腰で米兵の怒鳴る中を右往左往し、パナイの精鋭日本兵もすでに捕虜らしくなっていた。キャンプ脇の飛行場に数百台の軍用車が並べられ、その一角が投降式場であった。米軍一個大隊と比軍一個中隊が整列していた。我々と戦いを交えてきた比兵の挙動を注意してみたが、号令による一挙手一投足は米兵と見劣りがせず訓練のほどがしのばれた。会場中央には高台が設けられ、スタントン大佐が起立していた。日本軍を代表して丸腰の戸塚中佐がパナイ島の日本軍はここに米軍に投降する旨の声明文を読み上げただけで、簡単に終了した。キャンプにかえると続々と日本兵の捕虜が増え、邦人の婦女子も入ってきた。将校は二人用の小天幕、下士官、兵は20人用の大天幕と待遇も別で、ジュネーブ条約の捕虜取り扱い規定はこのように実施すべきものなのかと、我々も初めて教えられた。キャンプの給与も我々が驚くほどの御馳走だったが、4,5日でこれが急に悪くなった。これは収容所を受け持っていた第40師団が朝鮮に進駐することになったからである。出発の雨の夜、キャンプの担当将校ジョーンズ中尉らが我々にあいさつに来た。ボカレで戦った我々を懐かしんでいる様であった。私はさっそく米軍上陸前に調査した全部隊の名簿により、捕虜となった生存者を調べたところ、生存者は1560人で、戦死者約850人であることが分かった。なお在留邦人の生存者は約120人で、死者は70~80人と記憶している。
収容所を警戒する部隊が変わると待遇は目に見えて悪くなった。我々捕虜の方も軍紀が緩み、指示が容易に伝達されず、使役に集合を命じてもなかなか集まらないことが多くなった。古池大尉はじめ本部の将校たちは敗戦ではなく天皇の命令で投降したのだというプライドを示そうと努めたが、かつての精兵はすっかり捕虜になった。雨が続いたので住民も少なくなり、静かな見物人となった。捕虜生活にも慣れたころ、サンホセ警備隊の吉岡大尉、奥田少尉、和田曹長はじめ下士官、兵たちがイロイロの米軍憲兵隊に連行され、サンホセの米軍飛行士三名処刑の件で取り調べを受けた。急にキャンプの空気は暗くなった。キャンプにかえってきたが奥田少尉は全く無口となり、毎日寂しそうにしているのが気にかかった。
9月15日午後4時ごろ、戸塚部隊の捕虜はレイテ島のキャンプに移動することになり、カバツアン・キャンプを後にした。遥か彼方のパナイ島の山々を眺め、丸三年を過ごしたパナイをよく見て別れたいと思った。我々を乗せたトラックの列が本道に入ると沿道の住民が騒ぎ出し投石を始めた。我々は、パナイ島に最後の別れを告げるどころか石の雨で頭も挙げられなかった。護衛の米兵も大声で叫びつつ威嚇発砲して進んだ。思い出のサンタバラバラ、バビアもどう過ぎたのかわからぬまま、ハロのプラサに入った。街には石がないが、沿道に散らばるごみ、空き缶などが飛んできた。町を散歩していた娘さんまでも大声で罵りながら物を投げつけた。
我々のトラックはやがてラパスのハイスクール前に差し掛かった。かつての戸塚部隊の本部である。この隣にはよく遊びに行ったロペス家があり頭を上げた。ちょうど、学校の前で制服姿の女子学生が整然としていた。内地の女学校を思わせる学園風景である。この可憐な女学生が我々のトラックを見つけるや、別人のように「ハボン、ハボン」とわめき、道路上の小石でもなんでも手あたり次第投げつけた。車は州庁舎前に差し掛かった。元本部があったところである。庁舎の前の二階から、知人のドイツ人のドクター・レデスマ夫人が、じっと我々の車を見下ろしていた。この人だけは我々を同情の目で見送っているかのようだった。トラックの列は、イロイロ港に着いた。ほっとして輸送船に乗ったが、投石でかなりの負傷者が出たらしく、船内で米軍の治療を受けていた。船上から、夕闇の中できらめくイロイロは美しかった。住民からののしられ、文字通り石をもって追われたが、愛着は忘れられるものではなかった。
我々を乗せた輸送船は、深夜レイテ島のタクロバン沖に着いた。朝方上陸すると、待っていた軍用トラックで6,7㌔離れたパロ捕虜収容所に収容された。将校は将校キャンプ、下士官、兵は労働キャンプへと次々に送り込まれ、広いキャンプの中で離ればなれとなった。以後、今日に至るも、殆どの兵の消息は不明となり、ここにパナイ島の日本軍は事実上解散するところとなった。パロのキャンプ付近では米軍の上陸以後、第16師団の一個連隊が全滅し、後方の山で連隊旗が焼かれたと言われていた。将校には作業はなく、退屈な捕虜生活が始まった。退屈しのぎに相撲、バレーボール、バスケット、園芸大会などが催された。キャンプにはビサヤ諸島、ミンダナオ島より続々と捕虜が集まってきた。
11月下旬の某日、渡辺参謀、戸塚部隊長、吉岡大尉、藤井中尉、元木大尉、大塚少尉と私、それに子家憲兵大尉、進憲兵准尉の9人に呼び出しがかかった。この顔ぶれを見て私は内心ぞっとした。直ちにキャンプを移動させられ狭い区画に押し込まれた。中にはすでにセブ島大西部隊の杉本曹長以下7名、ミンダナオ島豹兵団の三上少佐ら9人が収容されていた。20人天幕2つに押し込まれると体がズーンと奈落の底に突き落とされるような心地がし、内地帰還もはかない夢となり、急に心労が一挙に出てきた。翌朝、暗いうちに警備兵の叩く空き缶の音に起こされた。朝食はいっぱいの薄いトウモロコシのスープだった。そのうち、槙田軍曹、板井兵長、上木一等兵、憲兵隊の白倉総長、住谷総長、渡辺軍曹、荻野通訳、数日後には豊田中尉がキャンプ入りしてきた。特別キャンプはやがて各地から戦犯容疑者でいっぱいになり、天幕は増えた。しかし、来る日もモロコシのスープ1杯の3食と水だけで腹ペコだった。生まれて初めての空腹だった。
二十柵の向こうは邦人婦女子のキャンプらしく、時折、台湾慰安婦の特有な喋り声が聞こえるので、私は空腹でたまらずある晩近寄って一人を呼んでみると、パナイ島にいた慰安婦の一人だった。彼女らは同情して、食料の差し入れを約束してくれた。翌朝ぽトン、ぽトンと音がしたので外に出ると米軍のレーション缶詰が散乱していた。私たちは喚声を上げてこれに飛びついた。やがてイロイロの邦人たちも食料の投げ入れに加わるようになり、警戒兵たちも多めに見てくれた。この婦人キャンプからの差し入れは他の部隊の者たちまで配られ感謝された。婦人たちが賢明に差し入れてくれるのは、部隊長以下我々に対する感謝の念もあったようである。彼女たちは、ボカレ山中では軍に不満を感じていたらしいが、レイテのキャンプに来てみると、パナイ島の婦人たちが子供連れでいるのを見た他の島から来た婦人達は「子供まで連れて帰れるとは……」と涙を流して羨ましがったという。他の島々では、山中へ避難するとき、日本軍の行動の支障になると12歳以下の子供たちは殺されたとのことである。また、台湾の慰安婦たちは、全員が助かったのはパナイ島だけであったため、我々に同情してくれたのである。
12月にもなると、レイテのキャンプから内地へ帰還するものもだんだん増えてきた。残される我々は滅入るばかりである。進憲兵准尉はこっくりさんにこりだし、熱心にお祈りしている姿は痛々しかった。
| パナイのゲリラ戦、終戦後 |
46年2月2日、我々約50人の容疑者は、タクロバンの港から小型輸送船に乗せられマニラに向かった。2,3日の航海でマニラ港に着き、車でマニラ南方約50㌔のラグナ州カランバのキャンプに入った。着くと先着組のネグロス島第172大隊長の山口正一大佐が来て、裁判の状況を深刻な面で話してくれた。すでに山下大将は死刑の判決を受けたと語り、これまでの判例ではいかなる理由であろうと比人を一人でも殺したものは死刑、拷問は無期で、裁判は二人に一人は死刑と聞かされた。翌朝、起床してみると、各幕舎から痩せてぼろぼろの服を着た容疑者が続々と出てくる。聞いてみると、ルソン島で戦った将校たちだった。キャンプより4~500m先には作越しに数百の白い十字架の墓標が見え、その背後にはマキリン山が広大なキャンプを見下ろしていた。この付近は第8師団が激戦し、多大な犠牲者を出したところだ。
3月3日、ニコラスフィールド(現在のマニラ国際空港)の特別キャンプに移動、ここで河野中将、渡辺参謀、戸塚部隊長ら我々パナイ島関係の容疑者14人が集められた。毎日次々と調べられているうち、容疑事実の全望が分かってきた。そのほとんどが、43年7-12月までのパナイ島統一討伐時の事件である。内容を検討してみると、フィリピン側の死者は2000人で我々容疑者は14人である。これでは到底助からぬと思った。ある晩、河野中将は一同を集めて、「私は年を取って生い先も短い、出来るだけお前たちを助けたい、希望があれば言ってくれ」としんみり。これまでまともに我々と話したことのない中将にこう切り出されると、不平不満があってもものが言えなくなり、とどのつまり、パナイ島全体の責任は河野中将と戸塚部隊長、個々の事件は我々がひっかぶることになってしまった。その日の終わりに河野中将は「今、山下大将の裁判で承認に立たれた比島方面軍参謀長、武藤章中将もこのキャンプにいるので武藤中将からも裁判についてお話を聞こう」ということで、この夜の会合は終わった。
数日して、パナイ島関係者は武藤中将の幕舎に集まった。武藤中将は「戦争は本当の意味ではまだ終わっていない。アメリカは一人でも多くの日本軍人を殺そうとしている。戦争であれば日本人の間から犠牲者をできるだけ少なくすることだ。裁判でも一切、他人の名前を出さぬことである。お前たちは特攻隊である。特攻隊の気持ちで裁判を戦うことである。また、米軍は日本軍の上官が非戦闘員の殺害を命令したとしたいのだ。お前たちは日本のために、日本陸軍のために、いやしくも士官学校を卒業した者が非戦闘員の殺害を命令したなどと絶対に言ってはならぬ」と力を入れて話した。初めて接する武藤方面軍参謀長の説得力ある重々しい訓話は、我々を感動させた。
しかし、この武藤中将の裁判方針がフィリピン全裁判に重大な影響を及ぼしたのである。高級将校たちはこの方針によって、何も知らぬ存ぜぬ一本で通したため、下級将校を見殺しにする結果となった。私が後日体験した米軍の裁判は必ずしも参謀長の言うようなものではなかった。米軍人にも、やはり武士の情けを理解してくれる人もいたのだ。パターン島(ルソン島北部と台湾の間にある島々)のケースでは、同島を守備していた独立混制第61旅団の旅団長田島彦次郎中将が部下13人とともに、墜落して捕虜となった米人パイロット3人の処刑と、日本軍警備隊員13人を殺害したゲリラを処刑した件で裁判を受けたが、田島中将は部下を助けんがため、自分が命令したと証言した。このため田島中将のみ絞首刑の判決を受け、46年4月、処刑された。この時の裁判長は一切の責任を取ろうとする田島中将の部下思いの心情に動かされ、その人柄を尊敬したという。
数日後、取調官が50人ばかりの比人を連れ、我々の首実検に来た。河野中将以下全員、炎天下の広場に立たされた。比軍将校に案内されたパナイ島の住民が写真と首引きで我々の顔を覚えようと努めた。私の前に来ると「これが熊井だ」と薄笑いを浮かべ、一人の比人に顔をよく覚えるように言っているのが分かった。いよいよ戦犯として断罪されることは確実となってきた。一人でも殺せば死刑だというのに2000人も殺しているのだから、到底助かる見込みはない。逃亡する気持ちになった。思い起こせば我々の投降は天皇陛下の命令であった。しかし、もしも死刑という過酷な運命しかないことが分かっていれば、投降せずに、最後まで戦い続けただろう。このような状態になることはつゆ知らずに、ただ命ぜられるままに投降したことを悔やんだ。命をささげた日本からも見放された今、私自身のために戦わねばならないと決心した。
大塚少尉に声をかけたところ「もうそろそろ熊井さんから話がありそうとまってました。ホレこの通り」とベッド下に塩とマラリア薬がためてあった。逃亡決行を狙っていたある夜、バターン死の行進で裁判を受けた本間雅晴中将の証人として内地から召還されていた元参謀長の和知鷹二中将がこのキャンプに収容されてきた。さっそく内地の話を聞こうということで、キャンプの者が幕舎に集まり、夜遅くまで話を聞き、一同は感動したり憤慨もした。内地の話も聞いたので、私は2,3日中に逃亡する決心をした。
逃亡
ところがその夜、鍬農曹長、横田軍曹、板井兵長の三人が逃亡し、キャンプ内は大騒ぎとなった。すぐ容疑者キャンプの周囲には高さ3m近くの二重の頑丈な鉄条網の工事が始まった。私は出し抜かれたと残念でならなかったが、今となっては三人の逃亡成功を祈るほかはなかった。4,5日たったので、成功したのでは……と喜んでいたところ、キャンプの入り口に鉄条網で5m四方の動物の檻のようなものが作られ逃げたはずの三人がその檻の中に入れられた。三人はキャンプ東方に流れている川幅100mのパシグ川を泳いで渡る途中、板井が靴を落としたため、やがて裸足の板井が動けなくなり、湿地に3,4日隠れたが、空腹のため逃走を断念、付近の住民に投降したという。この事件の後、数日してキャンプの周囲には頑丈な有刺鉄線の策が作られ、ガードの数は増え、警戒は厳重となった。
46年4月3日、我々は再びカルンバンのキャンプに移った。私は直ちに逃亡準備に取り掛かった。信用できそうな知人を通じてマキリン山やその周囲の地形、日本軍の武器遺棄場所、日本兵の所在の有無、ルソン北端から台湾沖に出る海流、貿易風まで懸命に調べた。その一方、マラリアの薬、塩、磁石、地図、ナイフ、飯盒、水稲、米軍の天幕なども苦心してもらい集めた。旧知の軍報道部の人見大尉や元木大尉も成功を祈ると、マラリア薬や塩を恵んでくれた。ほぼ準備が終わった5月初めの某日、キャンプ入り口の壁新聞に英文のマニラ新聞の切り抜きが貼って会った。「パナイ島の住民約2000人殺害の罪で兵団長、河野中将絞首刑を宣告さる。部下13人の裁判も近く行われる」という内容だった。もはや一刻の猶予も許されない。5月半ばに逃亡を実行。その夜はキャンプを支配する戦犯やくざが主催する慰安の芝居工業が行われ、月の出は午後10時だった。私と豊田中尉、横田軍曹、板井兵長、それにミンダナオの憲兵隊の竹下少佐と部下の小林曹長の六人が午後7時ごろ、かねて目をつけていた下士官、兵キャンプの溝のそばに集まった。さっそく鉄上物切断を始めたが、ペンチが古くてなかなか切りにくい。…鉄条網は三分の一そこそこしか切れず、時間はかなり立った。暗闇の中から5,6人の影が近づき、その一人がいきなり板井を殴り倒した。キャンプ内を支配するやくざの一人で腕の入れ墨をちらつかせながら、深々と頭を下げ、どすの利いた声で「私は高田親分の兄弟分で富岡と申します。板井は私の舎弟です。私の子分の中にも逃がしてやらねばならぬものがいますので、それまで待ってください。私どもがきっとあなた方を逃がしてやります。私たちやくざは何よりも義理を重んじますから」と丁寧であったが、脅迫であった。こうして我々の逃亡は一応あきらめざるを得なかった。板井が芝居小屋に一つしかない部隊用のペンチを盗んできたため、足がついたことが後でわかった。キャンプ内で逃亡ができそうな溝はやくざが全部抑えてしまったので、逃亡は親分了解のもとでなくてはできないようになった。私は何度となく早く逃がしてくれと約束の実行を迫ったが、親分は大きなことばかり言うがさっぱりらちが明かなかった。
5月20日ごろ、キャンプから逃亡者が出たといううわさが広まった。間もなくそれは横田軍曹であることが分かった。その翌日、4,5人のガードの守られた横田軍曹が連行されるのに出会った。横田軍曹は脱出後、マキリン山の麓までたどり着いたが、付近一帯は武器を持った住民によって山狩りが行われており、逃げられぬとまたもや住民に投降したという。手配が早かったのはキャンプ内にスパイがいて逃亡を米軍が早くに知ったからといううわさが出た。私の逃亡計画は実現せず、6月2日、我々パナイ島関係者全員がマニラ裁判所へ移動と決まった。折のような金網を張った車に押し込まれ、沿道の住民の「バカヤロー、ドロボー」の罵声の中をマニラ裁判所へ向かった。何もかもあきらめきった我々にとっては、痴呆のような面も地で射場からこれらのフィリピン人を眺めるだけだった。
| パナイのゲリラ戦、終戦後 |
軍事裁判所は、戦前の米国高等弁務官官邸、日本軍占領中は本間軍司令官の官邸だった(現在はアメリカ大使館)。この大邸宅もマニラ市街戦で破壊されたが、米軍は応急修理をし大法廷としていた。約150m四方は鉄条網とドンゴロス(組成麻)に囲まれ、法廷、取調室、容疑者用の監房三棟に30m四方の狭い散歩場が設けられていた。マニラ湾の波の音が聞こえ、はるか海上にバターン半島、コレヒドール島が望まれた。
次の日から検事の本格的取り調べが始まった。毎日続けられ、各人とも一日が終わるとぐったりして、どうしたら死刑から逃れられるかを考え、苦しんだ。こうした折米軍パイロット処刑の罪で死刑の判決を受けた第四中隊長の吉岡信大尉と小隊長の奥田福徳少尉は、6月6日に刑が執行されたと聞かされた。二人とも終始落ち着いて刑場に向かう時も、他の容疑者たちに敬礼していた。2,3回我々パナイケース組が話し合った末、戦友の名前は絶対に出さぬ、そのため証人は我々の中から出し、内地に帰還したものは証人として呼ばないことも決めた。しかし、我々を憤慨させたのは、パナイケース第一の責任者渡辺参謀が不起訴になったことである。我々から見れば、彼は作戦の事実上の指揮者であり、討伐隊長の渡辺大尉とコンビを組み、過酷な討伐戦を敷いた責任者であった。こうして容疑者として取り調べられ、死の恐怖で打ちのめされているのも、もとはといえば彼がこの作戦を強行し、手段を選ばずただ戦果戦果と渡辺大尉に命令したからだ。裁判所のこの決定には一同憤慨したが、どうしようもない。この重要人物の不起訴はその分、我々が被ることになり、裁判は不利となるように思えた。
6月下旬、まず戸塚部隊長の裁判が始まった。検事側は河野中将の裁判と同様、証人30~40人を続々と繰り出し、数々の事件をまくしたてた。しかし、戸塚部隊長は「知らぬ存ぜぬ」で押し通してしまった。これには弁護士の方も「これだけ多数の事件があったにもかかわらず、何も知らぬ存ぜぬで済むのか、今後行われる部下の裁判を考えぬのか、部下がかわいそうだとは思わないのか」と厳しく非難した。証人の中にはかつてのイロイロ州知事のカラム氏も出廷した。カラム氏は戸塚部隊長を「冷酷な指揮官だった」と簡単に証言した。弁護側もろくに弁護をしないうちに6月末、死刑の判決を言い渡された。
二番目は大塚少尉と鍬農曹長の合同裁判であった。事件はタバス山中の米人十数人殺害のほか、討伐全経路にわたるものであったが、大塚少尉は覚悟したのか、堂々した態度で臨み、部下の鍬農曹長を助けることを目標とした。この軍人らしい態度は、裁判官や弁護士に感動を与えたといわれる。検事側も次々と住民の中から証人を出し、鍬農曹長のことに触れると、大塚少尉は「すべて私がやった」と罪をかぶった。検事側のもっとも有力な証人は、かつての大塚少尉の子分ともいうべき元密偵のヘソスであった。彼には対日協力者としてフィリピンでの反逆罪という裁判が待っていた。大塚少尉はヘソスの罪が軽くなればと、ヘソスの証言には一言も反証せず、かえって励ましていた。この態度にヘソスも感激し、大塚少尉の意をくみ鍬農君に不利な証言をせず、退廷の際には涙を流していた。結局、判決は大塚少尉が絞首刑、鍬農軍曹は奇跡的に無期の刑が言い渡された。
熊井氏の裁判
46年7月4日はフィリピン独立の日である。収容所の外ではマニラ湾に停泊する米艦船の撃つ祝砲が響き、空には空の要塞の大編隊、裁判所向かい側の米ビュー・ホテル前の道路にはブラスバンドの大パレード、終日国を挙げて喜びに沸いている情景が私たちの眼前で展開された。翌5日いよいよ私の裁判が始まった。約20坪ほどの法廷に弁護士のサイモン、検事のシェファード、二世の通訳がそろった中を裁判長のオットマン大佐が陪席裁判官二人を従えて着席、ただちに開廷した。
まず罪状認否が行われ、私が「無罪です」と答えると、検事側がフィリピン軍曹長を証言台に立たせ「43年パナイ島のゲリラ第63連隊にいたが、日本軍の憲兵隊に捕えられ、釈放後荷物担ぎとして日本軍討伐に同行した。同年12月、タプラス島の討伐で熊井の荷物担ぎとなった。その時熊井中尉の隊は50歳くらいの住民をとらえ、虐待を加えたうえ、通訳に命じてこの住民を殺害した。二つ目の事件は場所もその近くで熊井の隊は盲目の老女をとらえ、虐待拷問の後、老女をしばりつけた。老女はその後死亡したと思う」と証言した。この証人に対し、サイモン弁護士が立って証言の食い違いなどについて次から次へと質問したが、証人は自信ありげにこたえていた。午後からの法廷には第二の証人がいた。20歳くらいの素朴な農家の青年で、この男は「43年12月、熊井の荷物担ぎとしてイロイロ州ルセナに言った。ここでは戦闘もなく、平穏であったが、熊井は三人の住民を私の目の前で、日本刀で次々と首を切った」とたどたどしい英語で証言した。この事件は検事の下調べもなく、また河野中将、戸塚部隊長の裁判でも出なかった。裁判の2,3日前に急に弁護士から見せられたものだった。渡辺大尉の命令で私の部下が一人のフィリピン人を殺害したと自供を出していたものである。私はとっさのことで準備もなく、証言が終わるとシェファード検事は勝負あったといわぬばかりの表情で着席した。傍聴席にざわめきが起こり、憎悪の目が一斉に私に注がれた。次にサイモン弁護士が立ち、検事の質問とほぼ同じ順序で一通り尋問すると、証人はところどころ詰まりながらもまず無難に答えていた。ところが証言の終わりごろ、サイモン弁護士が「熊井が三人の首を切った時、首から血が出るのを見たのか」と優しく質問すると、証人は「アイ・ドント・ノウ」と答えた。この返答に、法廷は急にざわめきが起こった。サイモンはここぞとばかり次々と優しい質問をするが、証人は「アイ・ドント・ノウ」を連発するだけだった。ついにオットマン裁判長はたまりかね『証人は英語がよくわからぬようだ。休廷する。次からはビサヤ語の通訳を付けろ』と命じ、裁判は休憩に入った。
開廷になると20歳くらいの比人と中国人の小柄な美女が通訳として登場した。再び弁護士が質問すると、美女の通訳はやや間をおいて、証人に十分考える余裕を与えるように、ビサヤ語で通訳した。しかし、証人は何を効かれても「アイ・ドント・ノウ」と首を振り続けていた。オットマン裁判長も「お前は熊井が住民を殺すのを見たのだろう」と2,3回質問した。しかし、以前返事は「アイ・ドント・ノウ」であった。証人は偽証の良心に耐えかねてか、アイ・ドント・ノウで終了した。ここで休憩の後、サイモンは追起訴の住民殺害の件については「ルセナ付近には他の討伐隊も来ていたので、この事件については何も知らぬ」と答えろと指示し、私の自供については目をつぶってくれた。第一、第二の起訴事項については、二年半前の出来事なので私も事実あったものやら見当がつかなかったが、裁判はこれでは逃れられない。私なりに事件についてのシナリオを作り上げ、想定質問に対してもぼろを出さないように研究した。この場合、パナイ島でのゲリラ尋問の経験が役立った。「後で下地がこの男を傷つけ、連行してこなかったので、私は命令違反として討伐終了後、部隊長に申請し、下地を1か月の重営倉の処分にした。下地は爆撃で戦死したが、彼の妻はフィリピン人でイロイロ州に住んでいるから彼女を探し出して証人に立たせればわかる」と声を大にして訴えた。内心では裁判所はこのような証人探しなどやるはずはないと信じて、ゼスチュアたっぷりに傍聴席に向かっていった。第二の事件については「山中でゲリラ追求中のことで、50歳を過ぎた目がつぶれかかった老女をとらえた。体中がおできだらけで、病気が移ることを心配して、女の手をひもで縛り、取り調べた。この場合、ゲリラの情報を集めるので、荷物担ぎのフィリピン人がみているところでは絶対にやらない」と証人の言葉を全く否定しないようにメンツを立てながら証言した。私の証言の証人として、当時の副官、元木大尉が出廷、熊井の申請で下地を一か月の重営倉としたことを、ボロも出さずに偽証してくれた。さてこうなると検察側証人も作り話で追い詰めれば被告も作り話で逃げる、検事も弁護士も作り話で対抗するという具合に勧められていった。
午後は最終弁論である、まずサイモン弁護士が立って「第一、第二項目の事件については証人の偽証は明らかである。多年軍歴のある裁判長はご存じの通り、ベテランの兵でも銃剣で胸部を二㌅も刃先がづみぬけるほど刺すのは難しい。ましてシビリアンの士たちが蛮刀で背中から二インチも突き出るほど指すことは全く不可能であり、これは偽証であることは明白である。さらに証人は刺された住民がうめき声をあげていたという。これは障害である。負傷者はあとで治療しなおったかもしれない。にもかかわらず、被告を殺人罪で起訴しているのは間違いだ。これに対し被告は部下の不法行為に対し、日本陸軍刑法の規定に従い部下を処罰し、その責任を果たしている。追加基礎の項目については、証人が何も知らぬといっているので、証言になっていない。本件の証拠は何もなく、しかも証人は偽証している」と述べた。検察側の論告は「全事件の証人の証言は正しい。熊井は日本の陸軍刑法弟子たちを処罰したと証言してるが、これは信用できない。なぜならパナイ島ではこれだけ多数の事件が発生しているにもかかわらず、ほかにだれ一人として陸軍刑法による処罰を受けたものはいない。他の多くのケースの裁判で多くの証人が証言しているように討伐と言えば必ず熊井の名前が出る。パナイ島の被害者は2000人にも及ぶ事件である。係る多数の事件が発生した討伐隊に参加した前将校はパナイ島の事件にすべて責任がある。よって私は熊井に絞首刑を求刑する」と述べて終わった。
この後裁判長は「判決は7月9日」と宣し、閉廷した。通訳は「いままでの判例では検事より絞首刑を求刑されたものが助かっています。裁判長にお任せしますというのがほとんど死刑です」と私を慰めてくれた。判決の日、7月9日の午前8時すぎ、MPと通訳に伴われ法廷に向かった。裁判長は私と弁護士を絶たせて、大声で英語でしゃべり、ギルティ「ツェンティ・ファイブ・イヤーズ・ハード・レーバー(25年の重労働)」の声が聞こえた。私の気持ちが緩み目の前がパッと明るくなった。すぐMP二人が私の腕を抱えるようにして法廷の外に連れ出した。外にはジープが待機していた。サイモン弁護士が駆け寄り「軍事裁判では命が助かることだ。生きてさえいればどうにかなる。服役は日本の巣鴨プリズンになる。君の裁判はアメリカ国内裁判であれば無罪だよ」と慰め、手帳に住所と名前を書いてくれと差し出した。私も何度も心から厚く礼を述べた。カルンバンの戦犯キャンプにかえると、死刑囚等の金網の中から「どうでした」と大塚さんの声がした。25年と叫ぶと部隊長と大塚さんが「ほう、それはよかった」と声をかけてくれた。
その後の裁判
私に次いで進憲兵准尉の裁判が行われた。基礎理由は住民5,6人を殺害したというものであった。弁護士は私と同じサイモンであったが、このころの准尉は神がかりになっており、口述書にも「私はあなた方米軍が私に何をしようとしているのかすべてわかっている。私にはカイン様が乗り移っており、お告げで何もかもわかっております」と書きサイモンを唖然とさせた。これでは口述書にならないので、私と松崎君で注意した。その後口述書は書き直されたが、サイモン弁護士も、あまりにも神がかり的な言動なので感情を害したようだ。全くの沈黙裁判で発言の機会も与えられず、弁護士から心配ない、大丈夫と言われながら、7月15日絞首刑の判決を受けた。
藤井中尉の裁判は、十数件の殺人であった。検事側は有力な証人として藤井中尉がかわいがっていたフィリピン人の密偵兼通訳の次郎ことフランシスコ・マンザニーダが立たされた。フランシスコは法廷で藤井さんの顔を見ると一瞬すまなさそうな顔をしたが、すぐ検事の質問に証言した。藤井さんは反証もしなかった。弁護士スプリンガーの方がその超然とした態度に心を動かされ、「藤井は多数の事件を起こしたが、その藤井が日本軍より処罰を受けず栄進していることは、彼の行為は明らかに上官の命令によるものである」という論法を取った。河野中将を証人台にたたせ、藤井中尉と対決させ命令者としての証言を得ようとして迫った。しかし河野中将も戸塚部隊長も知らぬ存ぜぬで押し通し、藤井さんをかばうような証言は一言もなかった。判決は予想通り絞首刑だった。
7月下旬、豊田中尉の裁判が始まった。検事側の起訴理由はサラ方面の事件で、サラ警備隊長だった中尉がその代表の一人に挙げられた。すべてが渡辺大尉の事件だけに、起訴事実に食い違いが出てきた。このため調査員が現地に行って調べたが、豊田中尉の犯罪を裏付けるものは何も出てこなかった。弁護士は豊田中尉に「起訴事実だけ認めてくれ、そうすれば25年以上の刑にしない」と頼み込んだ。豊田君は事実は事実として絶対に妥協しないという態度をとった。私が証人に立ち、豊田中尉は全く別の方向に出ていたので、そこにはいなかったと証言した。結局、25年の重労働の判決だった。
横田軍曹、板井兵長の裁判は合同で行われた。レオン警備隊当時、住民を殺害した合同裁判である。横田軍曹は脱走2回なので情状を認めることはなく、死刑囚人としての扱いだった。やくざ風の板井兵長は弁護士と喧嘩するなど、心証を悪くした。二人ともろくに弁護してもらえないまま、いとも簡単に死刑を言い渡された。
次は松崎軍曹の裁判である。検事はニコラスフィールドの容疑者キャンプでパナイ島ケースを担当した調査官シェファードであった。彼は松崎君を通訳として使用するうち、ゲリラ軍側作成の起訴内容がでっち上げもわかってきた。パング弁護士は「君の刑は最低の五年に決まっているから起訴事実を認めるように」と指示した。松崎君は指示通り、冒頭に有罪を認めた。検事は元密偵ヘオスほか2,3人の証人を型通りに出したが、証人は「松崎は紳士でだれにも親切であったと」あたかも弁護士側証人のように彼をかばった。裁判はわずか2時間足らず、判決は5年で、マニラ軍事裁判上異例の裁判となった。
続く部隊本部の事件で代表として起訴された元木大尉の裁判には、かつての部隊のフィリピン人の密偵ホセ・デムソンが近親者数人を引き連れ、検事側証人至ったが結局無期、ギマラス島代表として起訴された鉄砲隊の浜本軍曹は、弁護士の活躍によりこれも無期となった。
8月19日、浜本軍曹の判決で我々パナイ島ケースの全裁判は終了した。絞首刑が河野中将、戸塚部隊長、藤井中尉、大塚少尉、進憲兵准尉、槙田軍曹、板井兵長。無期刑が元木大尉、鍬農曹長、浜本軍曹、重労働25年が私と豊田中尉、同5年が松崎軍曹という結果だった。
我々はラグナ州ラグナ湖近くのカルンバン先般拘置所に収容された。ここでは死刑囚は厳重な監視下で金網の独房に、我々有期、無期囚は雑居房で、毎日炎天下の草取りをやらされた。私は、このキャンプでは炊事班長をさせられたので、もっぱら生野菜によるごちそうで死刑囚たちに、出来るだけ最後のサービスをした。数日たつうちに死刑囚の顔は青白くなり、月に数人ずつが刑場にひかれていくのを見送った。
| パナイのゲリラ戦、終戦後 |
47年1月15日、我々の内地送還の日が決まった。出発の当日、私は戸塚部隊長ら死刑囚の同僚に最後の別れの挨拶に行った。その後巣鴨プリズンで服役中の7月中旬ごろ、第二次受刑者がフィリピンから送還されてきた。その中にパナイ島関係者の処刑時に通訳として立ち会ったバターン島ケースの河内さんがいた。刑の執行状況について次のように語った。
毎週金曜日になると、容疑者キャンプから穴掘り作業員が駆り出され、数百の白い十字架の墓標が並ぶ一角に穴を掘らされた。曽於七の数により死刑囚の数が分かった。日暮れ近くなると護衛ジープと一緒に白十字マークを付けた救急車がキャンプに入り、バッグ所長が次々と死刑囚を呼び出すと、囚人たちはとぼとぼ救急車の中に消えていった。刑場はキャンプより700mくらい離れており、トタンづくりのバラック。すぐそばに処刑前の囚人たちを待たせる金網の房がある。執行官が刑の執行を囚人に伝えると牧師が聖書をもってお祈りし、何か欲しいものはないかと尋ねる。これが終わると契番の扉が開き13階段が見える。武装したガードが二人、死刑囚の両脇を抱え上げるようにして「レッツゴー」の合図とともに一挙に13階段を駆け上り、間もなくがたっと羽目板の回転する音が聞こえた。階段の下で医者が死を確認すると、死体は救急車の中にうつされたという。
我々パナイ島関係者では、まず2月24日進憲兵准尉、槙田軍曹、板井兵長の刑が執行された。執行前の牧師の説教中「天国に行く」という説教を聞いて板井兵長は怒りだし「人を死刑にしておいて天国も何もあるものか」と牧師に食って掛かったという。続いて3月31日、戸塚部隊長、大塚少尉の刑が執行された。さらに4月24日、河野中将、藤井中尉、ミンダナオ島豹兵団の三上少佐の刑が執行された。
50年6月、朝鮮戦争が発生すると戦犯者の減刑が次々と行われ、私も54年2月10日、巣鴨プリズンを出所した。拘禁の8年4か月は私にとってはまさしくこの世の地獄であった。40年2月10日、福岡の連隊に入隊して丸14年目、戦争と戦犯の拘束からやっと自由の身となった。(フィリピンの血と泥)
| 概要 パナイのゲリラ戦(開戦~1942年前半) パナイのゲリラ戦(1942年後半) パナイのゲリラ戦(1943年前半) パナイのゲリラ戦(1943年後半) パナイのゲリラ戦(1944年前半) パナイのゲリラ戦(1944年後半) パナイのゲリラ戦(1945年) パナイのゲリラ戦、終戦後 |
パナイ島における戦闘は45年9月1-4日の日本軍の全面投降をもって終わった。ゲリラ軍と住民は一体となって日本軍に対し徹底的に抗戦し、ついに最後の勝利を得た。その代償として約1万人の死者を出したといわれる。物的損害については、イロイロ市の約6割、アンチケ州サンホセの約5割、カピス州カリボ町を除いては約90ある各町のポブラシオン(町の中心部)の役場、学校、焦点、家屋、市場、電気、水道のほとんど全部が破壊または灰燼に帰した。貴重な文化財である教会のおよそ三分の一も放火された。しかもその物的被害のうち少なくとも95%はゲリラ軍が日本軍に一物も与えずという狂信的な感情から、焦土戦術で自らの手で破壊、焼失したものである(フィリピンの血と泥)。日本軍占領中、学校は一校も開かれず、電灯はイロイロ、アンチケ州サンホセ及びカピス州カピスの一部くらいで、島民の殆どは見ないで過ごした。郵便は完全ストップ、ラジオ、バスや鉄道を利用したことのあるものはごく一部に過ぎなかった。
パナイ島の産業施設には、砂糖4工場全部、造船所の四割、鉄道施設の8割、貯油施設の全部、バス等の車両等の8-9割、倉庫の1-2割が破壊された。それも貯油施設を除き、ほとんどはゲリラ軍の手によるものだった。商店の大部分も焼失したため、島民のいわゆる俸給生活者に働く職場というものが皆無となってしまった。彼らが生計を立てる唯一の職場、それはゲリラに投ずる以外にはなかった。農業と漁業以外の生産施設が全くなくなってしまった島は、日常物資に困窮するところとなった。日本軍はその必要とするものをすべて現地調達したため、これが住民の生活を圧迫した。これが住民たちに反日・抗日の艦上を強くさせていった。
我々パナイ島守備の戸塚部隊は、炎暑の地で昼夜を問わずゲリラと戦い。捕獲兵器(手製含む)2200、、無線機12-3、捕虜は数百人の戦果を挙げた。損害も甚大で戸塚部隊の兵籍名簿者数(補充を含む)は約1800人であるが、このうち戦死者は約650人、負傷者もほぼ同数とみる。戸塚部隊以外の部隊、すなわち前任の瀬能部隊等の戦没者はおよそ1400人(米軍パナイ上陸時の他部隊戦没者約800人を含む)で、約2000人の日本兵がパナイで散花したと推定される。このうち約1000人がパナイ島の山野に草むす屍となったままとなっている。一方、ゲリラ軍の記録は、戦死者を42年75人、43年311人、44年581人、45年360人、計1327人と記述している。またパナイ島における米軍損害(ゲリラを含まず)は戦死20人、戦傷者50人となっている。
この本には我々戸塚部隊にとり甚だ不名誉ながら日本軍の残虐行為のことも書いた。不名誉な恥ずべき記録として戦友各位の叱責を浴びるかもしれない。筆者はパナイ島の戦いをできるだけ真実の記録、大きく言えば太平洋戦争中のフィリピンの一歴史として残したい。またゲリラ戦の実態と悲劇を広く訴え、このような戦争が二度と起こらぬことを念じて筆を執った。この点何卒遺族の方々や戦友各位のご容赦をお願いした。(フィリピンの血と泥)
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最終更新:2025/12/24(水) 04:00
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