ニューギニアの戦いとは、太平洋戦争において、ニューギニア及びその周辺地域において、1942~5年に、日本軍とオーストラリア軍、アメリカ軍との間で行われた戦いである。
| この魔境で戦った日本兵は16万人以上、彼らが行軍した距離は1000キロを超える。 常に飢えと病に苦しめられ、果てしない戦いを強いられたのがニューギニア戦線、そこは人間としての限界を試される戦いであった。 |
日本から南、5000キロ、赤道の南に東西に広がる島。ニューギニアは世界で2番目に大きい島であり、日本本土の2倍の面積を誇る。島のほとんどがうっそうとした熱帯雨林に覆われ、沿岸部にあるわずかな平地も、大部分がジャングルと湿地帯である。島は標高4000m級の山で南北に隔たれ、ここから大河がいくつも流れている。雨期にはこれらの川は濁流となり、あたり一帯を飲み込む。太平洋戦争当時、比較的開けた沿岸部にも満足な道路はほとんどなく、地元住民がそれぞれの集落を移動する道がある程度だった。この厳しい自然状況の中で、3年以上にわたって戦われたのがニューギニアの戦いである。
日本軍は連合軍の反抗拠点を豪州と想定、その反抗に備え、ニューギニア北部に前進基地が必要だった。カロリン諸島、マーシャル諸島、及びマリアナ諸島はWW1により日本の委任統治領となっていた。大本営は太平洋戦争に備え、カロリン諸島とトラック環礁を連合艦隊の一大根拠地として使う計画を立てていた。トラック諸島の泊地がニューブリテン島のラバウルにある連合軍基地からの空襲に対して脆弱であることを懸念しており、特にB-17に爆撃される可能性を危惧していた。このような戦略的環境から、トラック諸島の連合艦隊の安全を確保するため、オーストラリアの委任統治領であるニューギニア、ニューブリテン州のラバウル占領が絶対に必要であると考えられたのだ。
| ニューギニアの戦いの始まり ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) ニューギニアの戦い(1943年前半) ニューギニアの戦い(1943年後半) ニューギニアの戦い(1944年前半) ニューギニアの戦い(1944年後半) ニューギニアの戦い(1945年) |
WW1後、ニューギニアは東半分が豪州の委任統治領となっていた。豪州治世下でラバウルは発展、しかし1937年、2つの火山、タヴルヴルとバルカンが噴火、広範囲にわたる被害があり、507人が死亡し、町が破壊された。これに続いて、オーストラリア政府はニューギニア領の領土本部をより安全なラエに移動することを決定した。ラバウル防備は進まなかった。
ニューギニアへの入域ビザが得られるのは白人だけとなっていた。宗主国家豪州の方針である。役人として派遣された豪州人は少なく、民間人を含めてもニューギニアに在住した豪州人は4000人程度と考えられる。当時のパプアの人口は200-250万と思われるが、久しく外界との接触を遮断していた。
数が少ない豪州の役人はパプア人とまともに接触になかった。官憲はパプアを極端な差別を持って臨んだ。白人はみな銃を持っている。パプアを凶暴な秘匿人種と面白おかしく世界につあえたのもこの人たちである。宣教師もパプア差別という点では、豪州人と大差はなかった。一般のパプアは教会への立ち入りは許されず、説話はすべて野外で行われた。パプアは宣教師を恐れていたが、尊敬はしていなかった。
パプアの白人嫌いは、白人のゆく先々に広がっていた。このことが、日本軍にかなり好ましい結果をもたらした。
| ニューギニアの戦いの始まり |
日本軍は、ラバウルを確保するための努力の一環として、1942年1月23日にニューブリテンを攻撃、豪軍はラバウルから撤退しており、同日占領、豪守備隊を圧倒した。その1週間後に南海支隊第144連隊第3大隊はワイド湾のズンゲンに進出した。1月22日に一機の日本海軍の偵察機がラバウルの山に衝突して自爆、二名の搭乗員が死亡していた。ラバウルを占領した日本軍は、やがてそれら二名の搭乗員が豪軍によって丁重に葬られているのを知ることになる
逃亡する豪兵を追撃するためにラバウル方面から投入された捜索隊であるが、彼らは帝国陸軍軍人として栄えあるものとはいいがたい一連の行為を行った。オーエン少佐は2人の部下とともに2月2日トル農園に到着、その後食料を得るために海をわたって湾の反対側にあるカライ・ミッションという場所に移動していた。翌日トル農園に戻った少佐の一行は、日本軍兵士が豪人捕虜を一人一人ジャングルの中に連行していく様子を、川の対岸に隠れたまま見ていた。その後銃声と断末魔の叫び声が聞こえ、先ほど俘虜を連れて森に入った日本兵らが戻ってくるのを目撃していたのだった。少佐は見つからないようにして農園から逃げ出し、ついには豪州に生還したのである。また銃剣で刺され、または銃で撃たれたにもかかわらず、6名の豪州兵が生き残り生還している。日本兵は彼らを死んだものと思い込んでジャングルに放置したのだった。捕虜の豪州兵士のうち、トル農園等で1942年2月4日に約160人が虐殺された。これは戦後戦犯裁判にもなったが、容疑者がすべて戦死していたため不起訴となった。避難した豪州人のうち400人はニューブリテン島から脱出できたが、残り約800人の豪軍ラバウル防衛隊「ラーク・フォース」の兵士が捕虜となった。
1942年7月1日、ニュー・ブリテンに捕らえられた捕虜849人と民間人208人は、モンテビオ丸が日本への航海中に米潜水艦によって爆撃され死亡した。残りの欧州被収容者のほとんどは、ソロモン諸島の収容所で飢餓と病気の中で死亡した。ニューアイルランド島には豪州人が居住しており、コプラ農園などを経営していた。海軍陸戦隊上陸後、残留豪州人は「討伐」の対象となった。討伐を命令したのは海軍田村劉吉少将であるが、上官の命令は「天皇の命令」であり、兵士はどのような命令にも従わなければならない。「カビエン港大虐殺」(Kavieng Wharf Massacre)と呼ばれる残留欧米人の虐殺が行われ、カビエン市白人街は破壊され、脱出に失敗した白人は誰も生き残っていなかった。捕虜となった23人のオーストラリア人は、田村劉吉少将の命令によって処刑された。田村劉吉海軍少将は戦後香港で絞首刑に処せられた。
「ラバウル航空隊」は25航戦を中核とするラバウル各飛行場に展開した海軍航空隊の総称で、固有の部隊名ではない。ラバウル航空隊の出現は、軍の活動範囲を著しく広げた。2月17日、待望の零戦が配備されて千キロ以上も先の攻撃が可能になり、さっそくニューギニアのポートモレスビーやオーストラリア東北端ホーン島に対する攻撃が行われた。
日本軍は3月8日、ついにニューギニア本土に進出。定石通り真夜中に豪雨をついて東部の要衝サラモアに陸軍南海支隊、同じく要衝ラエに海軍陸戦隊が上陸し、周辺を掃討したのち、それぞれ所在の飛行場を占領した。上陸してまもなく夜が明けると、さっそく米軍機が飛来し、輸送船に被害が出た。25航戦が上空警戒を行っていたが、間欠的警戒では不十分であった。10日になるとB17やP38が頻繁に飛来し、珊瑚海側にいた空母レキシントンとヨークタウンを飛び立った艦載機も襲来し、輸送船や駆逐艦が攻撃され、横浜丸、天洋丸、金剛丸、第二玉丸が相次いで沈没、129名が戦死、日本軍の前進を止めることはできなかったが、ニューギニアにおける作戦の前途を暗示するものでもあった。
| ニューギニアの戦いの始まり |
42年2月9日シンガポールは日本軍の猛攻の前に陥落、パーシバルは15万の兵士とともに降伏した。豪8師団長 H・ゴードン・ベネット少将は陥落の際に兵を置き去りに自身はオーストラリアに逃れた。いまだバターンで粘戦している米比軍と対照的だった。
| マッカーサー将軍指揮下の米比軍が見せた勇気と戦いぶりに、称賛の言葉を送りたい。(にしてもうちのパーシバルときたら…) | カーティン首相 | もう英国を豪州はあてにできない、(でもうちのベネットも大概だし…)、米将軍の派遣を受けてでもアメリカを頼るしか… | ||
大本営海軍部の中堅の作戦参謀らの間では、予想される連合軍の本格的反攻の芽を事前に積むためオーストラリア占領を立案した。1942年3月、陸海軍調整会議においてこの提案を行ったのは、連合艦隊司令長官の山本五十六であり、永野修身軍令部長も陸軍3個師団で占領が必要であろうと主張した。しかし陸軍側の猛反発に会った。陸軍では占領には最低12個師団、150万トンの船腹が必要であると見積もっており、国民党との戦争継続中でソ連にも備えるので精いっぱいとした。
一方、豪軍も当然ながら、日本が豪州攻略を計画しているであろうとの想定を行っていた。豪軍参謀たちは、日本軍が4月にも北部ダーウィンに上陸する可能性があり、その翌月には豪州東海岸のどこかに上陸する可能性がある、との報告を陸軍から受けていた。この根拠となったのは、当時国民党軍情報部のトップによって重慶の豪州公使館に届けられていた日本軍の作戦地図であったが、その信ぴょう性は豪軍だけでなく、国民党軍にも疑われていた代物だった。
1942年2月19日には日本軍によるダーウィン空襲が行われ、二隻の船「バロッサ」と「ネプチュナ」が炎上。ダーウィン郵便局に爆弾が落とされ民間人25人が死亡、多くの建物が破壊され、10隻の海軍と民間の船舶が沈没または破損し、軍・民合わせ、243人が死亡した。3月3日、6機のゼロ戦が西オーストラリア州ブルーム飛行場を空襲した。破壊された飛行機の大部分は蘭領東インドからの避難民を乗せて着陸したばかりであり、避難民の内70人が死亡した。さらに日本軍の猛空襲が続き、西オーストラリア州のウィンダム、ダービー、ポートヘッドランド、クイーンズランド州のタウンズヴィル、北部準州のダーウィンなどが破壊された。この豪州への無差別猛攻撃が、思わぬ事態を呼び起こすことになる。
このころフィリピンでは、日本軍の猛攻に大統領ケソンが退避させられていた。米軍陸軍参謀総長マーシャルはマッカーサーも退避させたかった。マーシャルは彼が殺されるより捕虜になることを案じていた。マッカーサーを捕虜にさせることは士気に一層の悪影響を与えるばかりか、陸軍に永遠の恥辱をもたらすことになる。だがマッカーサーに拒否されていた。ここでの脱出は、彼を信じ死に直面している兵隊たちを見捨てたと非難され、呪われ罵られ蔑まれることなのだ。そこでマーシャルは退避命令を出すようルーズベルト大統領の説得に努めていた。しかし大統領は同意しなかった。
| 今退避するのは敵前逃亡の誹りを逃れない。極東に於ける我々の名誉はどうなる?逃げ出すことなどできないのだ | アイゼンハワー戦計長 | 彼は最後まで戦い、死を選ぶだろう。 | スティムソン陸軍長官 | 兵士は、死なねばならぬときがあるものだ。 | ||
マクナットはルーズヴェルトに同意したし、スティムソンもそうであった。しかし・・・
豪州はいま日本軍の猛攻にさらされていた。首相ジョン・カーティンはチャーチルに「中東でロンメルと戦っている豪軍三個師団すべて直ちに返してほしい」と要求した。チャーチルは不可能だと答えた。ドイツをスエズの手前で食い止めようとするならば、豪軍をすべて返すわけにはいかなかった。この時ジャワにある拠点が絶望的になり、ABDAは解散し、アメリカは太平洋全域の防衛について責任を負うことになった。これを伝えられたカーティンは2月21日土曜日臨時閣議を開き、アメリカ軍の将軍が太平洋戦線の最高司令官に任命され、それとともにアメリカ軍がやってくるのであれば、豪軍三個師団を帰国させよとの要求を変更してもよいという結論に達した。チャーチルはこの問題を受けルーズベルトに豪州に米軍を派遣するよう懇願した。イギリス陸軍が優秀な百戦錬磨の豪州軍部隊をすべて失わなくていいからだ。
2月22日ルーズベルト大統領はホワイトハウスで検討していた。チャーチルの言う将軍がだれを指しているのか、彼は承知していた。大統領の目の前にはチャーチルより提供された電文が置かれていた。それは彼がダンケルク撤退を命じた時の電文であり、ドイツ軍に「不要な勝利」を得させないため、こんな時に最高司令官をどう扱ったらよいかを示唆するものだった。
ついにルーズベルトは圧力に屈服した。マッカーサーにオーストラリアへの脱出を命じる大統領命令が発令されたのである。日本軍の何気ない豪州攻撃が、ニューギニア戦線を、ひいては太平洋戦争の戦局を決定的にした事案を引き起こしてしまったのである。
| ニューギニアの戦いの始まり |
ルーズベルトは要請にこたえて、米軍第32師団と第41師団を豪州に展開する命令を出した。中東に駐屯していた豪州陸上軍の司令官トマス・ブレイミー将軍は呼び戻され、3月23日帰国、3日後豪州陸軍最高司令官に任命された。一方大統領命令を受けたマッカーサーは顔色をなくした。命令には背かざるを得ないとフィリピンを離れることができない理由を記した返事を書き上げた。しかし今回は参謀たちが強硬に反対した。大統領の直接命令には従わなければならない、仮に命令に従わなければ軍法会議になる、軍法会議にかけられればほぼ確実に有罪判決となるだろう。そうなれば、これまでの経歴すべてが不名誉のうちに終わり、何をなしたことになるのだろうか。結局、マッカーサーは説得された。3月11日夜、4隻の魚雷艇に分乗して、マッカーサーと彼の参謀たちはミンダナオにむけ脱出した。マッカーサーの顔から血の気が引き、発作的なけいれんで彼の顔はゆがんだ。彼は暗闇の中でがっくりとして、本来の面影もなかった。11キロもやせ、制服は細い体躯から垂れ下がっているようで、白髪の窶れはてた老人のように見えた。
明かりがなく無線封止で進むので、ばらばらにならざるを得ないだろう。3月12日の昼時、マニラ南約200マイルにある無人島、クーヨ島に集合することになっていた。払暁直前、ヒュー・ケーシー准将などの参謀たちを運んでいたPT-32の艦長が、向かってくる船舶を日本の駆逐艦だと思い、デッキに積んであった一ダースもの50ガロン(約190L)燃料ドラム缶を切り離し、魚雷攻撃の準備をした。ぎりぎりの瞬間、彼はその駆逐艦をバルクレーの魚雷艇だと分かった。二隻の魚雷艇がそばに引き寄せられると、マッカーサーはケーシーにPT-41に乗り換えるよう命じ、残りの航海を共にしたのである。三隻の魚雷艇はその日の午後、クーヨ島で待ち合わせた。四隻目の魚雷艇PT-34は遭難、あるいは日本軍の犠牲になったのではないかと思われた。PT-32はミンダナオまでガソリン不足のため使用しなかった。込み合うがPT-35とマッカーサーを乗せたPT-41の二隻のみで航海が続けられた。バルクレーの天候悪化と荒れ海という予測はぴったりと当たった。小型船が15フィートにもなる波と戦っている間、マッカーサーとジーンは激しい船酔いをした。何時間もたつうちに、PT-41の乗船者はほとんどが眠りに落ちたが熟睡はできなかった。その時マッカーサーが声をかけた。
| 眠れないんだ | 参謀 | 大変ですね | 話をしたいんだ | 参謀 | かしこまりました、何でしょうか | いや、ただ話をしたいんだ | ||||
それは、マッカーサーがコレヒドールを去りバターンを見捨てたことで彼をさいなめた罪の意識をいやすための、奇妙な、長ったらしい、まとまりのない回想であった。レオナード・ウッドが初めてフィリピン諸島を保持できると彼を説き伏せてから、ほぼ20年近くの間マッカーサーは、海軍、参謀本部、ケソン、フーヴァーとルーズベルト二人の大統領、大日本帝国と、彼の主張の正しさを証明するために闘ってきた。その挙句がこのざまである。彼は長い間の無駄な戦いについて苦々しく振り返ったのである。
| 「…予算は十分になく、支援も十分になく、理解もされず、私の進む道には障害物以外何もなく…」 | 参謀 | (・ω・`*)シ「大変でしたね(ワーグナーのオペラの見せ場かよ…)」 | ||
| 「…私の名誉を傷つけるたくらみばかりがされたんだよ、それで…」 | 参謀 | (・ω・`*)シ「ええ、大変でしたね(ギリシャ悲劇かよ…)」 | ||
| 「…そしてついに『コレヒドールから撤去せよ』との命令が来て、ううう (´;ω;`)」 | 参謀 | (・ω・`*)シ「ええ…(いつまで続くん?、哀愁漂ってきた)」 | ||
| 「それで私は、・・・・・いや私は戻る」 | 参謀 | (・ω・`*)「?」 | ||
| 「私は戻る、フィリピンに帰るぞ!」 | 参謀 | (゚〇゚ ;)「!」 | ||
数時間後に夜が明け、日の出とともにミンダナオ島の山がちな北岸が視野に開けてきた。二隻の魚雷艇が午前7時にカガヤンの小さな港の埠頭に到着した。クーヨ島で合流できなかったPT-34も一時間後には到着した。コレヒドールを出発した全員が、ミンダナオ島までの500マイルの長い危険な航海を成功させたのである。ミンダナオ島軍司令官ウィリアム・シャープ准将は埠頭で待機していた。マッカーサーはミンダナオで、避難者ではなく征服者のように歓待されたのである。
マッカーサーはデルモンテからの四機編成のB-17で飛ぶものと考えていた。飛行場では一機しかいなかった。メルボルンから4機が出発したのだが、離陸直後に2機は引き返した。もう一機はミンダナオ沖に墜落したのだ。残る一機もブレーキが利かず、ターボ・スーパーチャージャーの機能は停止していた。マッカーサーは激怒したが、それでも四機が用意できたのは豪州駐屯の米軍ジョージ・ブレッド陸軍航空隊中将ができる最善のことだったのだ。何十機ものB-17が過去三か月の間に送られていたが、事実上予備の部品は全くなく、腕の立つ航空機整備工もほとんどおらず、爆撃機のエンジンを交換できる修理工場は豪州には一つもなかったのである。南半球に送られたB-17はすぐ飛行不能に陥ってしまった。ミンダナオ沖で墜落したB‐17のパイロットであるヘンリー・C・ゴッドマン大佐が突然姿を現したため、待機時間が活気づいたものになった。ゴッドマンとほとんどの搭乗員は何とか岸まで泳ぎ着いたのだ。ゴッドマンは豪州への帰還を嘆願した「貴殿と一緒に戻りたいのです。貴殿のために働きたいのです」「ゴッドマン、お前のような夜中に時速170マイルで海に突っ込み、生きて帰ってくるような幸運な男は誰でも私のために働いてもらいたい」
マッカーサーの航空機要請の嘆願は功を奏した。豪州で指揮をしていた米海軍提督に四機のB-17がすでに割り振られていた。ブレットが以前から要求したのを提督が提供することを拒んでいたが、マッカーサーの必死の嘆願を聞いて、提督が折れたのである。3機が贈られたが1機は離陸直後に引き返し、2機がデルモンテに着陸した。真夜中に、マッカーサーと妻、子供、それに参謀たちは二機の爆撃機に窮屈な思いをしながら乗り込んだ。豪州までの飛行時間は10時間だった。
バチュラー飛行場
豪州のバチュラー飛行場に到着した時、マッカーサーからのコメントを欲しがっている特派員が少しいたので、彼は次のように述べた
| 「合衆国大統領は、私に日本軍の戦線を突破し豪州へ行けと命令された。その目的は私の理解では日本に対するアメリカ軍の攻勢を準備することで、その最大の目的はフィリピンの救援にある。私はきた、だが、I shall retern」 | ||
人々の注意と関心を引いたのは、最後の三語で、太平洋戦争を通じてなされた発言の中でもっとも有名なものとなった。彼の批判者にとっては「我々」でなく「私」としたのは、彼の尊大さを示す一例として挙げる「西欧の人々にとって、『私は必ず帰る』という言葉は、愚かしく、大げさで、本当にばかげたものと受け取られた」。彼の援護者は、彼のこの言葉はアメリカ人でなくフィリピン国民に向けて発せられたものだといった。欧州優先でフィリピンを見捨て、アメリカに裏切られたと感じていたフィリピン国民は、祖国の人々よりも、この誓いの言葉に信頼の念を寄せたのであった。
| こうして私が何気なく述べた談話は、巨大なうねりとなり、日本軍も沈黙させえぬ雄たけびとなった…のである。 | さんざん愚痴を聞かされた参謀 | (・ω・`*)(何気なく??) | ||
この言葉が回顧録において彼が言っていたほどの影響を及ぼしたかは疑問だが、東洋の素朴な人々の心に訴え希望を与えたことは確かである。戦時中を通じて、アメリカの潜水艦はこの言葉の記されたバッジ、ガム、トランプ、マッチなどをいっぱい詰まった段ボールの箱をフィリピン人ゲリラに送り、それは広く人々の間に配られた。
豪州に到着したマッカーサーは、マーシャルの電信が示唆していた強力な陸軍が集結していると思っていた。一月に送られた唯一のメッセージの中で、マーシャルは総計四万人以上の部隊の展開に言及していたのだ。彼は第102高射砲大尉の将校を観閲した。「自分が知る限り、ここにはほとんど米軍はおりません」、つまり、豪州には2.5万しか米兵はいないのだ。しかも、大半が飛行兵あるいは技術者であった。ライフル銃兵は一人もいなかった。戦車も迫撃砲もなく、整備が不十分な戦闘機が数機あるのみであった。バターンとコレヒドールの運命は決まった。
42年3月中旬、豪州は恐怖に取りつかれていた。3月21日にマッカーサーがメルボルンに到着したことは、紺碧の空を背景に炎で書かれた約束のように光輝いたのである。列車がスペンサー・ストリート駅に滑り込んだ時、約5000人もの人々が彼を出迎えた。彼は車中で書き上げた短い声明文を読み上げた。彼は豪州の人々の優秀さをたたえつつも、補給の重視を訴えたのである。
| 「私は豪州の軍人と直接協力できるようになったことを喜んでいる。私は豪州兵のことをWW1当時から知っており、非常に尊敬している。私たちの共同の目的が究極には成功することを私は信じて疑わないが、近代戦で成功を収めるためには勇気や死ぬ覚悟以上のものが要求される。つまり、敵の既に分かっている戦力に対抗するだけの、十分な兵力と十分な物資を用意することだ。どんな将軍でも無から有を生ずることはできない。私が成功するか失敗するかは、各政府が私に与えてくれる資源にかかっている。いずれにしても、私は最善を尽くす。私は軍人としての信念を今後も失わない。」 | ||
3月26日、ゴッドマンは元KLMの航空機DC-3にマッカーサーを乗せて、首相のジョン・カーティンと軍事諮問委員会との面談のため、キャンベラへ飛んだ。カーティンの会合は短かったが、その場で二人は明らかに一定の了解に達し、永続的な友情の基盤が出来上がった。
| カーティン首相 | 「我々は英国の抱えている問題を承知している。今力を分散することは英国にとって危険…、…だが豪州が倒れても、英国はやっていける…。豪州は絶対に斃れない!。太平洋戦争は全般的な戦争の副次的な部分でしかないというような考えを、我々は受け入れない!。我が政府は太平洋戦争を重要な戦いとみなす」 | (なんてすばらしいことを!、感動した!)、「貴方と私は二人で、この仕事をやり遂げますよ。私たちにはそれができるし、またそうしましょう。あなたは後方の面倒を見てください。私は前線の仕事にあたりましょう!」 | ||||
彼は率直にドイツ優先作戦には反対だと表明した。連合軍の最も大切な目的は「豪州を安全にする」ことであると語ったのである。
マッカーサーが豪州に滞在することで国のムードが変わった。駐豪アメリカ大使ネルソン・トラスラー・ジョンソンはその変化の早さと深さに驚愕した「マッカーサーをここに送り込むのは……衰退している士気を盛り上げるのにまさに必要とされることで、素晴らしい名案だった」。マッカーサーに勲章が授与されたのは、主に、攻撃にさらされている部下を見捨てた臆病者だとあざ笑う枢軸国側のプロパガンダに対抗するためであった。
マッカーサーが豪州に到着すると、ルーズベルトはカーティンに彼を南西太平洋地区の連合軍全体の総司令官に任命するよう勧めた。しかし、マーシャル、キング、豪州政府が海軍担当の太平洋でマッカーサーの担当する戦線とどのように適合させるのか合意をするまで数週間かかった。海軍は太平洋全域を自分たちの当然の領域だと考えていたが、マッカーサーのために戦線を作ることにはしぶしぶ同意をした。海軍はアラスカから太平洋海域として知られている南極地方まで広がる広大な地域を担当していたが、それを3つの戦線、すなわち北太平洋、中央太平洋、南太平洋に分割し、すべてをチェスター・ニミッツ提督の指揮下に置いていた。マッカーサーは南西太平洋を任され、4月17日に南西太平洋方面の総司令官の就任した。
イギリス政府からの激しい抗議にもかかわらず、豪州2個師団はすでに中東戦線から離脱する準備をしていた。一方マッカーサーは確かに優れた将軍ではあったが、米軍を引き連れてきたわけではなかった。4月には米軍3.3万に過ぎず、一方豪軍は中東から帰還したAIF軍隊4.6万に加え、6.3万の他のAIF兵、28万の民兵がいた。マッカーサーが指揮する軍は米軍というよりも豪軍に近いものになった。この状況で、カーティン首相は外国の将軍に自らの指揮権を全て委ねたのである。生半可な覚悟ではできないことだった。歴史家は、豪州にとって「主権の顕著な降伏」を表すとしている。豪州は当初その地域のほとんどの軍隊を提供したが、これらの軍隊は、米国参謀総長の指示を受けた米国の将軍によって指揮されるのだ。マッカーサーの戦線の範囲内で、豪州のトーマス・ブレイミーは連合軍地上部隊の司令官を、全総司令部空軍司令官ブレットは連合軍空軍司令官に、米海軍副提督ハーバート・F・リアリーは連合軍海軍の司令官に就任した。マッカーサーは、フィリピンから脱出したアメリカの暗号解読者とオーストラリアの情報機関から、中央局と呼ばれる独自の情報組織を結成した。中央局は、日本陸軍を調査解読し、米国、英国、インドの他のSIGINTセンターと緊密に協力することだ。マーシャルはマッカーサーに豪州人とオランダ人将校を高官に配置し、名実ともに連合軍司令本部を作るよう示唆した。しかしマッカーサーは無視した。11の上級幹部職はすべてアメリカ人将校が占め、そのうち8人が彼がコレヒドールから引き連れてきたものであった。とはいえ、カーティンは少なくとも豪州指揮官の権利を確保することに成功し、また豪領土外の豪軍の展開にはカーティンの同意が必要とするよう命令の条件を改正した。
まとまった兵力の無い豪軍統合参謀本部は、最悪の場合には、ニューギニアを放棄し、オーストラリア北部地域で焦土戦術をとり、ブリスベン以南を死守する計画を準備していた。メルボルンに本拠を構えたマッカーサーは、豪軍首脳に攻勢に転じる必要を訴え、ニューギニアでの攻勢をとるように説いた。
| ニューギニアの戦いの始まり |
日本軍は米豪分断のためにFS作戦を計画した。ポートモレスビーと南部ソロモン、フィジー、サモア、ニューカレドニアを狙うのである。ニューカレドニアには重要なニッケル鉱山があった。また米豪分断により同盟国から隔離されれば、日本の侵攻が資源確保成功により次第に増強され有利となるまで、豪州は無害な存在となるだろう。マッカーサーは諜報を通じて日本の意図を正確に理解しており、豪州の安全保障は本土ではなくポートモレスビーにあると明らかにした。しかしポートモレスビーの守備は民兵1旅団のみであり、増強は容易ではなかった。未開発の島であるニューギニアは、陸路での連絡はなく、飛行場はほとんどなく、海上交通に頼っていた。4月25日に、メルボルンの複合情報センターは、ポートモレスビーに対する攻撃が差し迫っているとの評価を出した。5月1日、3隻の米駆逐艦が護衛した巡洋艦HMAS オーストラリアとホバートとUSSシカゴは、豪軍司令官のジョン・クレースの指揮のもと、クイーンズランド州のハービー湾から出向した。3日後、ラバウルから飛行機、巡洋艦、駆逐艦の護衛を受けた6000人日本軍ポートモレスビー攻撃隊が出海した。5月7-8日のサンゴ海の戦闘は、連合軍の損失は大きく日本軍の辛勝と言えたが、サンゴ海の制海権を確立できずポートモレスビー攻撃は中止された。
サンゴ海海戦前の数日間、マーシャルは「アメリカの新聞が南西太平洋で大海戦が勃発することに感づいているようだが、総司令本部がリークしたのではないか」とマッカーサーに不快感を表した。マッカーサーは強く否定した。問題の本質は、野放しのプレスに穴だらけの豪州政府だと主張した。「私の持っている権限の下で、外国で完全な検閲を課すことは全く不可能であります」と彼は不機嫌に回答した。しかし、彼は直ちにそうした権限を要求し、また豪州の戦争諮問委員会は即座にそれを与えたのである。42年半ば以降、南西太平洋方面軍における一面を飾る主要な記事の出どころは、マッカーサーの総司令本部であった。1942年から1945年の間、彼はオーストラリアにおいて支配的な存在で、この国でこの時期を過ごしたオーストラリア人の生活に大きな影響を与えた。しかし豪州のプレスに直接圧力を加えることができる彼も、合衆国のニュース・メディアは統制が利かないままであり、明らかに癪の種であった。
マッカーサーは軍事諮問委員会に、日本軍が豪州へ侵攻するか疑問視していると語った。彼が予測するにはせいぜい、豪州の射距離内にあるニューギニアの空軍基地を日本軍が確保しようとすることぐらいであった。「危険を冒すほどの戦利品ではない」豪州は広いだけで何もなく、危険を冒してまで占領する価値もない、というものであり、チャーチルやルーズベルトも同様の見解だった。しかしカーティン首相は1943年明けまで、日本軍による豪州本土攻略を懸念していた。それまでの間、豪州のメディアや世論は、日本の侵略を恐れパニック状態になった。
日本海軍は1942年5月に潜水艦がシドニー湾で攻撃を行い、6月8日にシドニーの東のニューカッスルを砲撃した。松尾敬宇中尉は、1941年12月7日、アメリカのパールハーバー攻撃に参加した潜水艦「伊22」の船員であった。1942年5月31日夜から翌6月1日にかけてのシドニー湾攻撃で、彼の特殊潜航艇「M22号」は爆雷攻撃を受け、航行不能になった。松尾中尉は降伏することなく艦内で自らの命を絶った。彼の遺体は他の3体の潜水艦乗組員の遺体とともに引き上げられ、火葬された。遺灰は豪海軍当局によって日本に返還された。太平洋戦争中、豪州東岸で作戦行動をした日本の潜水艦は19隻のオーストラリアと連合国の船を沈めた。豪軍病院船「セントー」は病院船であることをはっきりと表示していたにもかかわらず、1943年5月14日夜、クイーンズランド南部の沖合いで魚雷攻撃を受け、沈没した。この攻撃を行ったのは、中川少佐が指揮する日本軍潜水艦「伊177」である。船の定員332人の内12人が看護婦で、生存したのはサヴェージ看護婦を含め、わずか64人であった。非武装の船を沈没させたことにオーストラリア人は憤激し、「セントー」は彼らの戦争勝利に対する決意の象徴となった。沈没する「セントー」の絵と「看護婦の復讐を」という標語を書き込んだポスターがオーストラリア中に出回った。
連合軍の反抗準備
1942年4-5月オーストラリアにアメリカ第41歩兵師団、32歩兵師団が集結し、欧州戦線より戻ってきたオーストラリア第6,7師団も指揮下に入った。マッカーサーはカーティンの戦争諮問委員会と6月17日に会合を開き、日本軍侵攻の脅威はなくなったと伝えた。「豪州はサンゴ海海戦とミッドウェーの勝利により、防衛は確実なものになった。戦略上の観点からすると、我々は他の戦線の結果を待つことなく、主導権を握るべきである。我々の目標は、北方の島々の日本軍の基地を攻撃し、敵の爆撃陣形を700マイル押し下げることである」と述べた。 17年2月下旬にポートモレスビーの重爆用飛行場が完成し、工兵隊の増援部隊及び高射部隊が4月末にポートモレスビーに送られ、さらに周囲での飛行場建設が進捗し、大航空根拠地らしい体制ができつつあった。マッカーサーは7月オーストラリア北部ブリスベンに移動し、日本軍のポートモレスビー作戦を受け、ニューギニアへのアメリカ軍の派遣を決定した。しかし訓練不足およびジャングルに対応した装備が不十分な状態で軍を派遣するに至った。
ハワイから5千キロ、米本土から1万キロも離れた南西太平洋方面で消耗を伴う陸上・航空戦を行うことは、この時期のアメリカには荷が重すぎた。42年の最後の三か月のきわどい時期に米国から送られてきた補給物資の量は10万トンを下回った(対照的に1942年のソ連への援助の総量は170万トンに及び、このうちイギリスが50万トン、アメリカが120万トンを供給)。
輸送力不足に頭を痛めていた米陸軍省からも「現地物資を最大限に活用せよ」という指令がだされた。日本軍の現地調達主義と大差ないように見えるが、現地調達とはいっても、倉庫に積まれてマッカーサーが受け取りに来るのを待っていたというような簡単なものではなかった。42年の豪軍の補給状態が非常に悪かったという事実を見れば、それがはっきりするのである。
| ニューギニアの戦いの始まり |
カーティン首相こそは「オーストラリアの精神であり魂である」とたたえられた人物。豪州の人々を動員することができたカリスマ的指導者だった。オーストラリアの労働力は、わずかに230万しかない状態だった。カーティン首相に率いられた労働党政府の見事な統率の下に、この小さい労働力から巨大な成果が生まれてきた。そこにカーティンは豪州を守るだけでなく、日本に対する攻撃を望む同盟国を得た。両者は共に、南西太平洋における同盟の勝利の基礎を築いた。首相と将軍は約3年の間に、豪州を英連邦の一部に過ぎない辺境国から、産業と輸送能力を拡大した繁栄した国に作り変えた。
全戦争期間を通じて、豪州は補給面で極めて重要な貢献をした。1939年の豪州の肉類の缶詰の生産高は約6000トンに過ぎなかったが、44年のそれは12万トンとなった。野菜の缶詰では1939年のものは非常に限られた特定の種類に過ぎなかったが、1943-44年には、西南太平洋戦域の諸部隊は野菜の補給を他から受ける必要がなくなった。1944年に南西太平洋指令部は22万5000ボード・フィートの木材を使ったが、それは豪州資源から引き出したものだった。これは優にリバティ船40隻に相当するものである。また100万足の靴と、数十万組の毛布と、30万個の自動車タイヤ、さらに約1万8000台の車両を現地で調達することができた。南西太平洋軍の使ったブリキの約6割は現地で生産され、毛織物は全量を、航洋船は50隻以上を、小型船舶は数百隻を、豪州から供給された。軍事病院は、戦闘の死傷者、マラリア、およびその他の熱帯病ならびにより一般的な病気を治療するために建設された。
アメリカ本国が、ある種の装備品の製造を、豪州方面における技術的要求に沿うように調節しようとし、そうもないと分かると、豪州はその現地製造をやってのけた。ウェワクにおける航空戦の勝航空戦の勝利を可能ならしめた燃料タンクも、米陸軍の技術的援助と生産機械器具等輸入にて、豪州で調達することができた。現役軍人の兵力はあまり多く得られなかったけれども、平服勤務員としては2万人以上の豪州人を雇った。豪州の国民所得の約15%、生産資源の15%がアメリカの要求に応じ、振り向けられるところまでになった。戦争の全期を通じ、豪州は、いわゆる「逆」貸与という形で、アメリカから受け取った以上のものを大量にアメリカに与えた、ほとんど唯一の国である。
ニューギニアの諸戦闘に必要不可欠だった物資の現地生産が行われ、その拡大が可能になったのは、武器貸与諸機構がこの上もなく見事に協調したこと、そしてアメリカ専門家を上手に使ったこともあった。南西太平洋指令部は米本土から専門家を呼んで現地産業に対する積極的な遊休設備の利用と技術指導を行い、交通システムや流通機構の整備まで行った。工兵隊隊長ヒュー・ケイシー将軍は、ブリスベン以北の港湾を深くして1万トン級リバティ船でも出入港可能とし、またそれに合わせて南部からの舗装道路を延長した。この結果、東海岸に南部の生産地と北部の輸送基地のある港湾とが一本の道路、大型船の沿岸航路で結ばれ、軍事物資が迅速にブリスベン以北に輸送されるようになった。8月19日までに、ケイシーの部隊と徴用された豪州人とにて、重爆用1、中爆用1、戦闘機用2の合わせて4つの飛行場を短期間に完成させた。これに並行し、輸送機で兵員や緊急物資をニューギニアに送り込み、また傷病兵を還送させたり、損傷した飛行機を豪州で修理するため、ケイシーは北部のタウンスビル、クランカリ-東の地区に飛行場の整備を急いだ。
ニューギニアと日本本土とは5000キロ、一方豪州とニューギニアとはケアンズから850キロ、木曜島から500キロに過ぎなかった。日本軍がニューギニア・ソロモンで直面した苦戦は、米豪軍が1000キロ以内に生産と補給の大根拠地を作り上げたことに原因であった。アメリカの物量が南西太平洋戦域に届き始めたのが昭和18年後半で、日本軍中央部の予測では本来ならこの時期から反攻が始まるところであったが、首相と将軍の知恵と工夫が、豪州で軍事物資を調達することで反攻開始を1年以上も早めた。
マッカーサーは陸軍航空隊高級将校であるジョージ・ブレットを全く信用しておらず、適切な交代者がいれば、彼を転出させると決めていた。ブレットは豪州人政治家とあまりに親密すぎるようだった。彼とブレットの不仲はワシントンまで伝わり、統合参謀本部のヘンリー・アーノルド陸軍航空隊司令官はやむなくブレッドを更迭することとした
| アーノルド | ( ´_ゝ`)「交代要員は、パナマで第6空軍の指揮をしているフランク・アンドリュース中将はどうか?」 | 「そんな戦闘経験もないやつはいやだ」 | ||||||||||
| アーノルド | ( ´_ゝ`)「それならドゥーリトルはどうだ?。こいつは経験豊富だぞ」 | 「そいつは何となくいやだ」(ドゥーリトル空襲なんかやってる余裕あったらバターンをだな…) | ||||||||||
| アーノルド | ( ˘·ω·˘ )「じゃあケニーくらいしかいないじゃん。お前ら仲悪いだろ?」 | 「それだ!、ケニーをすぐよこしてくれ。喜んで受け入れるぞ。」 | ||||||||||
ジョージ・C・ケニーは歯に衣着せぬ物言いをし、いこじであり、かつ機転が利かない男だった。彼は参謀本部とずっと論争をしてきたし、マッカーサーが参謀総長の期間中、ケニーの継続的な空軍独立を求める主張と常に戦わざるを得なかった。一方でケニーは聡明かつ有能なうえ実戦経験があった。1918年、西部戦線で若い戦闘機パイロットの時にドイツ戦闘機を2機撃墜したのである。
ケニーは第9航空隊の立ち上げのためその時中東に向かっていたが、南西太平洋方面軍の関する説明を受け、アーノルドから航空機と操縦士の補充の約束を取り付けるため数日間ワシントンで過ごした。国防総省で知った彼が一番驚いたことは、「誰も本当は太平洋、特に南西太平洋方面軍になど興味を持っていない」ということであった。しかし、このためにケニーが自分の任務への熱意を覚ますことはなかった。7月28日、ケニーがメルボルンに到着すると、翌日マッカーサーは彼を呼びにやった。
ケニーを待っていたのは、陸軍航空隊に対する罵倒の嵐だった。マッカーサーは、世界各地の、特に南西太平洋におけるその無能さを強調して陸軍航空隊を糾弾した。
| 私も空軍も何か役に立つことができるとは認めている。しかし今まで何であれ、米国陸軍航空隊が成果を上げたのを見たことがないのだ! | ||
彼が延々と説教している間、ケニーは一時間ほど黙って座っていた。その後ケニーを待っていたのは忠誠心に対する訓戒だった。彼はブレットが忠誠心がないといって糾弾し、南西太平洋方面軍の四人の将校が最初にアーノルドの承認を得ずに准将に昇格させたやり方を激しく非難した。彼らが昇格するに値することをしたとは理解できなかったのだ。彼らが昇進したのは能力ではなく、本国の国防総省に引き上げてくれる連中がいたからだとマッカーサーが思っていたのである。マッカーサーがついに歩き回るのをやめたときに、ケニーは彼の下で働きたくなくなった場合や忠誠心のことで問題があれば、
| ケニー | 私はそのように申し上げて、自分が交代させられるようできる限りのことをいたします。 | ニヤリ「ジョージ、我々は仲良くやっていけそうだ」 | ||||||||||
マッカーサーは前かがみになりながらケニー(164センチ)と肩を組んだ。ケニーは、マッカーサーがなぜ、自分のことをブレットの交代要員に選んだのか無性に知りたくなった。なんといっても、この二人はマッカーサーが参謀総長の時にはぶつかってばかりいたのだから。
| 平時には礼儀正しい将校がいいが、有事にはゆうことを聞かない嫌な奴が必要なんだよ | ケニー | 「へぇー!」「私は反抗的だとされても一向に構いませんが」 | ||
ケニーは翌日ニューギニアまで飛んだ。戻ってからマッカーサーの執務室に出かけ、二人は二時間話し込んだ。ケニーは問題の核心をすぐに理解した。ブレットは、豪州空軍の一握りの将校が、戦闘部隊がほとんど米国人の部隊を指揮する連合国空軍組織を作り上げていたのである。それにブレットは搭乗要因を混ぜたので、出身国が違う者たちが爆撃機に登場することになり、いろいろな摩擦や相互理解ができない状況をもたらしていたのである。ケニーは何十人ものアメリカ陸軍航空隊の将校を帰国させる許可をマッカーサーに求めた。これほどマッカーサーを喜ばせたことはなかったろう。
マッカーサーの航空隊はジョージ・ブレッド中将の指揮下にあり、戦闘機245機、重爆撃機62機、中爆撃機70機、軽爆撃機53機、輸送機36機、その他5機の517機とまずまずの戦力であった。だが、部品不足や通常のメンテナンス不良のため、戦闘に使えるのは100機にも満たなかった。7月28日にジョージ・C・ケニー少将に交代すると、この航空隊は急速に変貌した。豪州の優れた技術者の応援を受けて徹底した整備を行うことにより、稼働機が247機(うち戦闘機175)へと増え、稼働率も一挙に二倍以上の50%に高まった。飛行場の完成と相まって、ケニーは航空隊の戦力を2倍、3倍に飛躍させた。8月6日、ラバウル近くの日本軍飛行場を爆撃するためできるだけ多くのB-17を出撃させると彼は語った。ケニーが18機ものB-17をラバウルに振り向けると語ったことに、マッカーサーは興奮して大喜びだった。ラバウルの海軍航空隊は、昭和17年6月16日にポートモレスビーに対する積極的航空作戦を開始したが、ケニーは8月23日からの対ラバウル大規模空襲でこれに答えたのである。。
マッカーサーは、効率的な空軍を持てるという可能性に夢中であった。彼はケニーにこう言っている。「お前は、やりたいことは何をやってもよいという自由裁量権があるのだ。戦闘搭乗員については、お前が決めればよい。何をしようと、どんな風采であろうと、敬礼をしようがしまいが、ジャップの戦闘機を撃墜し、ジャップの船舶を撃沈する限り、何も言うつもりはない。勲章については、殊勲十字章以外はどんな勲章でも授与する権限をお前に与えよう。ただし、殊勲十字章は自分が授与できる最高の勲章なので、一つは自分のためにとっておきたい。しかし、仮に若い連中で何かとびぬけた武勲を挙げて、お前がその場で殊勲十字章を授与したいなら、それは構わない。お前が私に話をしてくれれば直ちに承諾するつもりだ。」。彼は回顧録でもケニーを絶賛している。
| ケニー将軍ほど戦闘指導の三大要素である積極的な洞察力、航空戦術と戦略の完全な経験と知識、それに兵力と装備の両方から最大限の戦闘能力を引き出す才能を兼ね備えた人物は、ほかになかった。彼は急場に間に合わせて事態を改善するあの並外れた才能で標準以下の戦力を恐るべき武力にまで仕立て上げ、敵との交戦では味方が劣勢な場合でも、必ず制空権を握ったのである。彼は前線部隊の指揮官としてホワイトヘッド将軍をつれてきたが、この将軍もケニー将軍に劣らぬ素質を持つ指揮官だった。ケニー将軍は在豪米航空部隊の司令官として着任した時、自ら手持ちの空軍力を一機一機丹念に調べ上げた。その結果、我々の手元にはB17爆撃機が62機あったが、そのうち飛べる状態にあるのはわずか5機に過ぎないことが分かった。その他のB17は戦闘で損害を受けたか、新しい部品の到着を待っているかの理由で、地上にくぎ付けになっていた。飛べない飛行機ほど無用なものはない。ケニーがいかに的確な考えの持ち主であるかは、手持ち機を常に飛べる状態にしておいたことで見事に示された。 | ||
このことがあってしばらくして、マッカーサーはケニーを三ツ星に推挙したのである。
| ニューギニアの戦いの始まり ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) ニューギニアの戦い(1943年前半) ニューギニアの戦い(1943年後半) ニューギニアの戦い(1944年前半) ニューギニアの戦い(1944年後半) ニューギニアの戦い(1945年) |
太平洋での連合軍の大作戦を変更させたのは、マッカーサーではなくキング提督であった。キングは海軍による単なる対日戦略的防衛線の遂行を拒絶したのである。彼の立場は議会、世論、そして大統領からも支持を得ていた。ガダルカナル作戦はドイツ第一主義戦略からの大きな変更であった。その結果ついでにマッカーサーが求めていたパプアで戦うチャンスをもたらした。南西太平洋方面には40万のも兵士がおり、その大半が豪州人でブレイミー豪軍大将の指揮下にあった。戦闘部隊わずか6万でその戦闘能力は非常に限定的であったが、パプアに駐屯している日本軍の戦闘部隊のほぼ3倍を数えたのである。マッカーサーはほとんどを豪州軍と一緒に戦わねばならないことになるが、同時にアメリカ軍の二師団、第32師団と第41師団も召集できた。だが両師団とも州兵部隊で、合衆国を発つ前に訓練を受けずに豪州に配置されていた。
マッカーサーと豪軍司令官ブレイミーの関係は一般的に良好であり、互いの能力に大きな敬意を払っていた。だが豪州に米軍が二師団駐屯していたため、それを監督し活動の調整図るため米司令官の総司令本部が必要だった。マーシャルは陸軍で最も将来を託房されている将軍の一人であるロバート・L・アイケルバーガーを軍団司令官としてマッカーサーの下に送った。アイケルバーガーにとっては、せいぜい第二義的意味しか持たない戦線になると思われた地域に派遣されるということで、つらい失望感を味わったが、不満を漏らすことなくその任務を引き受けたのである。
| 有能をもって知られる新しい指揮官が続々やってきた。第一線の熟練した軍人であるジョン・ブレイミー将軍は豪州陸軍の司令官に任命されたが、その後の活動は評判を裏切らず、当然のことながらのちに元帥になった。米国からはロバート・アイケルバーガー将軍が軍団司令官要員をつれて到着した。彼は私が陸軍参謀総長だったころの参謀本部秘書で、ウェストポイントの陸軍士官学校校長となり、その行政的手腕はすでによく知られていた。戦場でも恐れを知らない第一級の司令官となり、特に豪州人に評判が良かった。 | ||
北アフリカで指揮しようとしていた作戦は、アイケルバーガーのウェストポイントの同級生であるジョージ・S・パットン・ジュニアに回された。アイケルバーガー軍団は名目的にはブレイミー連合軍地上部隊指揮官の指揮下に入った。だが米師団の現場にいたので、アイケルバーガーはブレイミーから干渉を受けずに指揮することができた。
| ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) |
ミッドウェイ海戦で空母部隊が壊滅し、航空機、搭乗員等のやりくりがつかなくなった結果、大本営はフィジー、サモア、ニューカレドニア攻略作戦の2カ月延期することを決定した。
大本営はポートモレスビー攻略にこだわった。そしてその方法として海上に変わる陸路進攻の可能性を考えていた。1942年6月14日第17軍百武中将に「海軍と協力して一部を以てポートモレスビーに対する陸路進攻のための現地偵察を実施せしむ」というリ号研究作戦を命じた。
東部ニューギニアは海抜3000~4000メートルの山々が連なるオーエンスタンレー山脈によって南北に分けられている。珊瑚海海戦直後から南海支隊と海軍第八根拠地隊は飛行機による道路の調査を行っていた。その結果、ブナ、バサブアから途中のサンボ部落までの35キロは駄馬道が確認されたが、そこからスタンレー山麓に至る50キロに道路は無かった。6月30日南海支隊長堀井少将はダバオにおいて調査結果を示し、陸路進攻不可能を進言した。その理由は以下のとおりで、理論的に不可能ということを証明している。
「南海支隊においてもブナーココダーモレスビー道を最良と認める。そしてブナ、ココダ間は図上距離約100km、実際距離約160km。ココダ、モレスビー間は図上距離約120km、実際距離約200kmと判断され、計約360kmの踏破が必要と考える。問題は補給の確保であって、自動車道があれば問題はないが、駄馬道すらないと思われる現況では、人力担送によらなければならない。
今第一線の給養人員約5000人、主食の日量一人600グラム(四合)とすれば、支援の補給に治療は三㌧となる。兵員一人が背負いって運搬し得る主食の量は25㎏、一日の平均担送距離は山道であるから20kmを限度とする。ブナを起点として200kmの地点、すなわちオーエンスタンレーの鞍部付近に第一線が推進されたとして、その往復には20日を要し、担送する兵員自身の20日間の消費12㎏を控除すれば、一兵員が第一線に交付しうる主食は13kgとなる。
したがって支隊の補給日量3㌧を確保するためには毎日230名の担送兵員が第一線に到達する必要があり、20日行程を通算すれば、4600名の担送人員を必要とすることになる。第一線がブナから360kmの地点であるモレスビー付近に推進されるならば、担送所用人員は主食だけでも実に32000人の多数に達するであろう。これに加えて弾薬その他の補給を考慮すれば、膨大な人員が必要であり、結局ブナから自動車道が推進されぬ限り陸路進攻は不可能であろう。」
1942年7月24日、辻正信中佐は第17軍司令部の一行と共に、フィリピンよりラバウルに到着した。彼は大本営によって、東部ニューギニアでの作戦指揮担当者として派遣されたのだった。当初の予定では、ポートモレスビー陸路攻撃については、先遣隊からの報告に基づいて判断を下すはずであった。しかし辻はこの調査の結果を待たず、彼の独断によって陸路攻撃実施を命令した。7月15日にフィリピンに到着した際、辻はすでに第17軍首脳部にこの指令を与えていた。この時彼は以下のように述べた。
| 東部ニューギニア方面の航空消耗戦を有利に遂行するため、モレスビー攻略はなるべくすみやかに実行するを要する。本件陛下の御軫念も格別である。そこで大本営は「リ」号研究の結果を待たず、この大命によって第17軍に対しモレスビー攻略を命ぜられたものである。これに関する陸海軍中央協定は、遅くも軍の戦闘司令所がラバウルに到着すべき7月24日までには、同地及びダバオあて電報されるはずである。今や「リ」号は研究にあらずして実行である。 |
ニューギニア北岸からポートモレスビーまで現地住民の足で1週間程度、それなら途中で戦闘を繰り返しても、20日もあればポートモレスビーを攻略することができるだろう。補給なしでポートモレスビーを手に入れるための研究である。シナ米袋に火山灰を充填して、何日もの行軍を強行したそしてその結果、八升の米を背負って、進軍し、かつ戦闘できると、軍司令部は断を下した。要するに戦闘部隊に食料を持てるだけ持たせ、それがなくならないうちにポートモレスビーを攻略させる、落としてしまえば、あとは何とでもなるではないか…ということである。
7月18日ポートモレスビー攻略を命ずる第17軍命令が下された。7月21日横山先遣隊はゴナへ上陸海軍部隊もギルワ付近に上陸した。しかし辻参謀の”連絡”は虚偽であった。大本営は「リ」号研究の結果を待っていたのである。それが発覚するのは、すでに横山先遣隊がブナに上陸した後の7月25日である。大本営は結局これを追認した。攻撃兵力に所要日数をかけて必要な補給量を割り出し、これを補給する能力がなければ、作戦計画を白紙に戻して再検討すべきだが、日本軍の場合作戦計画には影響しない。
マッカーサーはニューギニアの北東海岸を支配することから着手するよう提案した。ブナという地名のところに豪州政府代表部があった。偵察隊が調査に派遣された。ブナ滑走路は価値がないが、南に10マイル下ったところにあるドボデュラに非常に望ましい飛行場用地があると報告してきた。マッカーサーはその報告を受け取って8月中旬にブナへ移動し、ドボデュラに滑走路を建設する計画を立てた。7月20日、総司令本部がメルボルンからブリスベンへ移動した。この最中に日本軍部隊が北部パプアに向けて移動中であるという連絡が入ってきた。21日夜約2000人の日本軍がブナに上陸した。マッカーサーがブナを確保したければ、戦わなければならないことになる。
豪軍は主力を北アフリカ戦線に引き抜かれ、当初は二個民兵団のみでココダ街道を防衛していた。この民兵たちの中には、新しく大隊長となったビル・オーエン中佐もいた。彼は少佐時代にニューブリテン島の密林の中からトル農園の虐殺事件の一部始終を見ていた男である。横山先遣隊は、途中アラワで豪守備隊を撃破し、オーエンスタンレー山脈のふもとのココダを攻撃した。しかし民兵に過ぎない豪軍は善戦し、空からは絶え間なく空軍が援護した。日本軍は無謀な突撃で多くの死傷者を出したが、トル農園で賢明にも身を潜めていたオーエン中佐もここでは愚かにも「リーダーシップを見せつける」と前線の兵の間を徘徊している間に、額を撃ち抜かれ戦死した。7月28日日本軍はココダを占領したが、8月2日にはココダが爆撃され、日本軍陣地や備蓄した芋も破壊された。8月8日豪軍はココダを逆襲し再占領したが10日日本軍が取り返した。横山先遣隊の本来の目的である調査において、ココダ道の状況は芳しくなかったのであるが、ココダ占領という華々しい戦果に打ち消された。
サム・テンプルトン大尉は、ココダに戻る途中で日本兵に見つかり、倒れていた。のちに彼は独立工兵第15連隊の軍医であった柳澤弘少尉に発見され、応急処置を施された。その後、日本軍のある将校が、テンプルトン大尉から豪軍の兵力と場所を聞き出すための尋問を行った。しかし彼は笑いながら「ポートモレスビーには、八万の連合軍がすでに集結している、果たしてお前たちのうちいったい何人が生きてたどり着けるか、見ものだ」といった。将校は、テンプルトン大尉の不敵な態度に激怒した。自分の部下でさえ、これほど無礼な態度をとるものは誰一人いないのに、なぜ敵の俘虜からこのようなことを言われなければならないのか。将校は軍刀をとっさに引き抜くと、テンプルトン大尉の腹部に突き刺した。大尉は、ゆっくりと音もたてずにその場に崩れ落ち、そのまま絶命した。
ココダを占領した横山隊は、豪兵捕虜を得て米豪軍の状況等を聞き出している。その中にポートモレスビー周辺には、豪陸軍2万人展開という情報があった。第十七軍参謀部は、12日間でポートモレスビーにいける話にはすぐ飛びついたが、ポートモレスビーには2万以上もの軍がいる話には信憑性がないという態度をとった。情報を信じるか信じないかは、受け手にとって都合が大きく左右することがよくわかる。
南海支隊の到着
突然大本営から、南海支隊主力のポートモレスビー侵攻作戦を延期し、ブナ飛行場整備を急がせる指示があり、海軍設営隊の輸送が優先されることになった。8月6日、ブナ飛行場の急速設営のために、第14,15設営隊が三隻の輸送船に分乗しラバウルから出航したが、その直後に米海兵隊のガ島上陸があり、船団はラバウルに引き返し、ブナ飛行場建設はすでに上陸している第十五設営隊の一部に任せることになった。第八艦隊はガ島に突入させる陸軍部隊の派遣を強く求め、暗に南海支隊主力の転用を迫ったが、これには第十七軍も横山部隊の孤立を恐れて応じなかった。この案に代わってグアムから内地に帰還途上の一木支隊、パラオにいる川口支隊のガ島派遣が決まった。ガ島戦が起きたにもかかわらず、ポートモレスビー攻略作戦を計画通り遂行する陸海軍の合意に基づき、南海支隊主力の輸送作戦が始まった。8月13日夜、第一次ソロモン回線のあおりを食ってブナに行きそびれた第14,15設営隊がバサブアへの揚陸に成功し、17日には南海支隊の主力である第144連隊等がラバウルを出港し、18日夕刻、バサブア沖に到着し上陸を開始した。一木支隊のガ島上陸とほとんど同時期である。21日には第41連隊主力が上陸し、さらに9月2日にも第41連隊一部、臨時輜重隊、馬匹が上陸し、上陸策戦はほぼ終了した。これまでの輸送総人員は陸軍約8000人、海軍3430人、合計11430人。ミルン湾の苦戦が伝えられ、ラバウルより発する海軍航空隊にとっては、実質上三正面戦にあたる状況になった。
南海支隊主力が到着し、横山先遣隊と交代した。南海支隊はさらにオーエンスタンレー山脈を越えてニューギニア島南部ポートモレスビーに向けて進撃した。8月13日、最初の戦地となったデネギの陣地の攻撃が開始された。デネギ陣地は豪軍第39歩兵大隊200人が守備についていた。攻撃は困難を極め、犠牲者が続出したが、3日後にさしもの堅陣も陥落した。というよりその朝、陣地はもぬけの殻となっていたのである。塚本大隊を先陣とする先遣隊がオーエンスタンレー山系の最初の峠、ギャップをまじかに臨むイスラバに達したのは8月23日のことであった。ここにはジャングルの地形を利用した堅固な陣地が築かれ、豪第30旅団の1個大隊と2個中隊が守備に就き、中東で戦ったベテランの豪21歩兵旅団の2つの大隊が応援として送り込まれた。しかし増援にはオーエンスタンレー山脈を陸路越えるしかなく、彼らはジャングル戦闘の経験はなく、戦闘開始までにイスラバにたどり着けなかった。8月下旬、日本軍先遣隊は飢餓に陥っていた。しかし連合軍の爆撃、担送要因として徴用したラバウル出身者や地元民の逃亡が後を絶たず、補給は困難を極めた。26日には豪軍の増援も少しずつ到着し、イスラバは激戦となった。イスラバの敵陣に対する総攻撃が開始され、歩兵第144連隊長楠瀬大佐は、連隊主力を道路沿い正面から一部を迂回させて右側肺から攻撃させる作戦を立てた。しかしニューギニアのジャングルでは巨大な倒木が行く手を遮り、足元の陥没がさらに迂回を余儀なくさせ、部隊はたちまち方向を失って四分五裂となり、味方の相打ちがいたるところで発生した。しかもジャングルで偽装された豪軍陣地の位置がつかめず、至近距離からの猛射を浴びてはじめて気づくというありさまとなった。大きな犠牲を出しながらも8月30日待機中の小岩井大隊の出撃によりポートモレスビーに至る敵後方の道を抑えたことにより、慌てた豪軍は31日イスラバを夜のうちに撤退して、もぬけの殻となっていた。豪軍は撤退に当たって一切の食糧を残さないのが常であったが、この時はよほど慌てたのか、大量の弾薬とともに、乾パンや缶詰などの食糧が残されていた。捕獲した食料は、小岩井大隊だけでなく南海支隊の全将兵にも分配された。しかしイスラバに1週間も要したのは明らかに誤算だった。
9月1日追撃が開始され、ベラミー山頂を迂回してオーエンスタンレー越えの最高点2,190mに達したのは9月5日だった。豪軍の新たに着任したアーノルド・ボッツ准将は、小部隊が随所に待ち伏せし、反撃しては退きその進撃速度を遅滞させる戦法をとり、南海支隊をより深く険しい高地ジャングルの中へ誘い込んだ。しかしココダの南にはジャングルが密生し、進行を食い止めようとしても日本軍が周りに潜入するのを許さざるを得ず、防衛軍は後退し続けた。パプアの日本軍は連合軍の半分の兵力だったが強く、9月8日エフォギの陣地を落とし、ミッションブリッジの戦いで豪軍に87名の戦死者を出させるなど大きな勝利を挙げ、ボッツ准将はブレーミー豪将軍によって解任された。11日日本軍はマワイに到着した。ここから先は豪軍により整備された道路があり、行軍は楽になった。部隊がイオリバイワの敵陣地に接近したのは9月12日のことだった。ここでは豪第21旅団長ポーター准将率いる五個大隊が守備についていた。さらにポートモレスビーには豪16旅団など続々と増援が到着しつつあった。ここで日本軍は猛攻を加え、16日についに陣地を突破し、豪軍はココダ道最後の防衛線であるイミタ・リッジに下がっていった。ここを抜いてしまえば、あとはポートモレスビーまで平たんな道が続くのだ。
豪軍、マッカーサーともこの危機に恐慌状態となった。豪軍司令官シドニー・F・ローウェル中将「パニック状態で、全部隊が憔悴しきっている」。神経質になったマッカーサーは16日夜電話でカーティン首相を呼び出し、モレスビーの危機を伝え、ブレイミー将軍にパプアに飛んで事態を収拾し、豪軍を督戦してほしいと要請した。慌てたブレイミーは将校たちを次々更迭した。ローウェルを解任し、ヘリングに置き換えた。また第7師団長アレンを更迭した。
日本軍はポートモレスビーの20キロ以内に迫り、この時日本軍からは、夜になれば港の対空防御用サーチライトを見ることができた。従軍記者の岡田誠三がこの時のことを記述している
「ついに攻め上った主峰の頂から、我々ははるかにパプア湾を望んだ「海が見えるぞ、モレスビーの海だ」血みどろになった将兵は岩角の上で抱き合い、泣きながら指さしている。おお、この山の前方にはもはや、これまでのように我々の視界を断ちふさいでいた分厚い山は何もなかった。」。
実際的には、飢餓にあえぐ1500の兵が、ポートモレスビーを守備する28000まで増強され続々と増援にくる豪軍に勝つのは困難であったかもしれない。だが、イオリバイワ陣地を構築した日本軍は、ポートモレスビー攻略命令を待ちこがれた。
連合軍の対応
ケニーはマッカーサーにポート・モレスビーは陥落の恐れがあると伝えた。ポートモレスビーが陥落すれば、この時疲労と心配で極度の憔悴状態となっていたマッカーサーのキャリアも終わることになる。すでに1度敗北している彼に、2度目の敗北は生き延びられない。ケニーは米軍の派遣を提案した。この米軍は訓練を受けておらず、戦闘経験は全くない。だが現状を鑑みれば、いつまでも豪軍にすべてを任せ、米軍が豪州でのんびり訓練しているわけにはいかない。反撃のために米第32師団をニューギニアに向け動かし始めたが、時間が無くなりつつあった。
飛行場が危険な状態であるので、ケニーはそれを守るためパプアにアメリカ軍を一連隊空輸することを提案したのだ。すでにこの計画をサザーランド参謀長と総司令本部の参謀たちと議論したが、彼らは全く興味を示さなかった。サザーランドは「そんなのはとんでもないバカげた戦い方だ」と拒絶した。レヴァンワースが将校たちに教えた攻撃の方法は、第一に攻撃がうまく行かなかった場合の退却線の確保を確認することであった。空輸では安全な退却戦はどこにあるのか?、飛行場が制圧されたらどうするというのだ。
しかし、マッカーサーは可能性を直ちに理解した。こうした危機の際に最も大切なことはスピードである。マッカーサーは一歩兵中隊を空輸し、様子を見るように彼に命じた。9月15日、ケニーは第32師団の第126歩兵連隊の一中隊全員を、ポートモレスビーに安全に空輸したと報告した。9月19日、マッカーサーは自分自身の目で空輸の具合を見るためにポートモレスビーに飛んだが、彼が乗っているB-17が着陸のため近づいてココダ・トレイルの日本軍の上空を通り過ぎていったことに感激したのである。空輸は順調に進んでいた。兵士を一人も失うことなく、ケニーは船で到着するより迅速に部隊を空輸したのである。
9月14日マッカーサーはアイケルバーガーに10月に軍司令部をミルン湾或いはどこか近くに移動してほしいと説明した。優秀な訓練係であるアイケルバーガーは、マッカーサーの作戦に全く乗り気でなかった。2週間後、アイケルバーガーは第一軍団の参謀たちがブナとゴナを占領するために作り上げた作戦をマッカーサーに持ってきた。それはアイケルバーガーが豪州にとどまり、1300キロも離れた後方から戦闘を指揮するというもので、マッカーサーを失望させた。
アイケルバーガーは、問題は自分自身が身の安全を心配したことではなく、リチャード・サザーランドの謀略だと抗議した。サザーランドはどのような状況下であれ、アイケルバーガーは決してニューギニアにはいかないよう強く主張した結果だったのだ。サザーランドの計画を確実に止める唯一の方法は、アイケルバーガーが三ツ星に昇進して彼より地位が高くなることであった。「ボブ、すぐに貴下を推挙する」とマッカーサーは答えた。この推挙はマーシャルを驚かせた。アイケルバーガーがこれほど急速な昇進に値するようなことをしたのか理解できなかったのである。マッカーサーは陸軍組織図上で三ツ星の将軍が司令官になることを認めているからだと応答した。マッカーサーはケニーも一緒に推挙した。ケニー将軍はすでにすぐれたリーダーシップの資質と職業上の能力を発揮し実績を残していた。一方アイケルバーガーはそれにふさわしいことは何もない。その地位に匹敵するかどうか証明するのは彼自身であった。
| ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) |
ニューギニアの東端に位置し、島の他の地域からの道路がなく孤立したミルン湾は、海路か空路でしか近づくことはできない。日本軍司令部はここを確保し、ポートモレスビーへの陸路攻撃と同時に海路攻撃を行う計画を練っていた。しかし連合軍はすでにこの地の戦略的重要性を見抜いていた。早くも6月25日豪軍主部隊がら進出、29日には米軍陸軍工兵隊も進出し、アロタウ周辺に3つの飛行場建設に着手した。新たに建設された航空基地には、豪空軍のカーチスP40を擁する2個飛行隊が展開していた。
8月4日、日本軍は航空偵察によってミルン湾に基地が建設されていることを発見、連日の爆撃をこの基地に加え、遭遇したP39エアコブラやP40カーチスを多数撃墜し、連合軍の駆逐を目指した。ミルン湾攻略は、余力のない陸軍に代わり、海軍が単独で攻略を行うことになった。8月24日朝、攻略部隊を乗せた輸送船がラバウルを出港した。援護に23日と24日ラバウルから海軍第25航空隊が第三飛行場を攻撃しているが、第一飛行場は手を付けず、また日本軍は少し離れた山の陰に隠れた第二飛行場について気付いていなかった。そのため豪軍戦闘機は無傷のままであった。
8月25日800名の海軍陸戦隊と工兵を乗せた船団が激しい雨の中ミルン湾に上陸、一方別動隊350は戦闘機に襲撃されグッドナイフ島に漂着した。日本軍はラビ東方の警備をして居た豪軍民兵をいともたやすく駆逐した。しかしブナの零戦はP39に撃墜され、制空権は豪軍にあり、上陸地の舟艇、物資は航空攻撃により破壊された。飛行場は日豪陸上部隊が向かい合う戦線まで十数キロしかなく、飛行時間にして数分、一日に数十回の反復攻撃が可能である。この間頼み友軍機は一度も姿を見せなかった。日本側は豪軍戦闘機を少なくとも30機と数えたが、豪側の資料では20機にも満たない。日本機は近くても300キロ離れたブナから、遠くは800キロ以上離れたラバウルから三時間近くかけて飛来しなければならなかった。そのため配備機数の割に威力を発揮できず、日本軍苦戦の一因となった。
ラビの連合軍は、豪サイリル・A・クロウズ少将麾下の豪第7及び第18旅団で「フォール・リバー作戦群」と呼ばれた。兵力は豪軍二個旅団7429名、米軍工兵隊渡航者訪台1365名、航空部隊664名の計9458名、P40の一個中隊にのぼり、装備も優れている強力な部隊であった。戦闘は混戦模様となったが、日本軍の突撃作戦が豪軍を一時後退させ、ウイットン川を超えることに成功した。豪軍を後退させた日本軍は敵はすでに戦意を喪失しておりすぐ降伏すると判断、深夜豪軍に降伏を要求したが無視された。翌日から日本軍の常識では考えられないほどの猛烈な銃砲撃や空襲が加えられ、攻撃を仕掛けている間は手も足も出せなかった。一発も無駄にしないよう一発に全神経を集中する射撃を是とする日本軍とは違っていた。
26日夜から27日にかけての戦闘が失敗に終わり、第八艦隊司令官の三川軍一中将は、呉鎮守府第三特別陸戦隊(指令矢野中佐以下567名)と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊の一部(吉岡中位以下二百名)にラビ増援を命じた。この増援部隊には虎の子の二両の戦車がつけられた。増援部隊は29日夜上陸し、先遣隊と合同した。翌30日の日没後から行動し、戦車を先頭に前進したが、30日朝、戦車の一台が豪軍機の攻撃を受け破壊され、もう一台がガマ川の深みにはまり動けなくなった。この間、陸戦隊の先頭は第三飛行場の東端までたどり着いたが、猛烈な集中砲撃を受けて83名の戦死者を出して後退した。この日が日本軍の最も西進した地点になった。呉鎮守府第五特別陸戦隊の林指令が戦死し、各部隊の損害も増大したため、やむなく各隊は後退し陣を構えたが、豪軍の圧力は強まり、さらに豪軍機の攻撃は片時も止まることなかった。
9月3日の夜、ミルン湾に侵入した第四駆逐隊「嵐」は、矢野呉鎮守府第三特別陸戦隊指令を含む負傷者の収容に成功し、報告からワガワガの線で対抗しているが、アヒオマの線まで後退せざるを得ないほど苦境に立たされていることが明らかになった。中隊長は全部戦死、「重症者のほとんど全部は自決」し、敵は包囲体制をとりながら攻撃してきているので、いずれ全滅は逃れない、という極めて悲観に満ちた内容であった。この報告に接した松山第18戦隊司令官は、上陸部隊の全員収容と作戦の中止を決定した。9月5日夜、「天竜」及び哨戒艇34号、38号は、総員1318名(うち戦傷311名含む)の収容に成功した。上陸した総人員1943名であったから、未帰還616名である(うち捕虜9名があったといわれる)。わずか数日でほぼ三分の一も失っている。豪軍は死傷者373人を出した。
豪軍の反撃の中で、日本軍の捕虜となった36人の豪兵は全員殺された。豪軍は処刑されたことが明らかな捕虜の遺体や首を切断された遺体を多数見つけた。さらに、少なくとも59人の民間人が殺害された。豪兵たちは激高し、以後はラバウルでの埋葬や42年6月の日本軍潜水艦のシドニー湾攻撃での死亡した日本兵への敬意を持った水葬などの牧歌的雰囲気は消え去り、日本軍に対する態度を悪化させた。
ラビ攻略戦は、太平洋戦争において日本軍が完全に敗北した最初の陸上戦闘だった。ミルン湾を抑えられたことで、連合軍が海路ブナ・ゴナを襲撃する恐れが高まり、ブナ近辺の防衛を強化する必要に迫られた。
| ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) |
第十七軍司令官百武は、南海支隊に前進を控えるべしと命令した。このころガダルカナルの戦況悪化により、大本営はガダルカナルを優先することとし、ニューギニア戦線への補給は停滞したためである。さらに9月の初旬、連合軍航空隊がブナとサナナンダに接岸していた補給船とブナ飛行場を攻撃し完全に破壊、クムシ川にかかる橋も爆撃でなんども壊されていた。ミルン湾を確保されたことにより、ブナへの連合軍の攻撃の恐れが高まっていく中、ついに十七軍より南海支隊にブナへ後退命令が出された。部隊の食糧はついに尽きてしまい、9月26日堀井支隊長はついにポートモレスビー攻略を断念し撤退を命令した。ここからが暗闇に突き落とす地獄の始まりであったことは誰も知る由がないのであった。
豪16旅団は豪第6師団に属し、1939年より編成され、ギリシャ、クレタ、中東においてドイツ・イタリア軍と戦いを繰り広げた歴戦の精鋭である。太平洋戦争の勃発により故国豪州に戻され、1942年8月に豪州に到着、9月にポートモレスビーに進出していた。また豪第7師団に属し、これまた中東で歴戦の第25旅団も合流、この精鋭を加えた豪軍は9月28日にイオリバイアを攻撃したが、すでに日本軍は撤退していた。しかし豪軍は日本軍を追って追撃を始めた。撤退する南海支隊主力がココダに到着したのは10月4日のことであった。しかしココダも物資の補給はなく、飢餓の状態にあった。殿を務めた堀江少佐支隊が陣地を構えたスタンレー峠に対し、10月3日豪軍の進行が開始された。北方海岸のギルワに揚陸される弾薬や食料は、優先的に第一線に送られてはいた。だがニューギニアの日本軍将兵は一人残らず飢えていた。一斗入りのカマスの米も、ギルワから最前線まで届けられる間に二升か三升になっていた。堀井支隊長の懸念が現実のものとなっていたのである。10月8日スタンレー峠で日豪軍は再び接触、激しい戦闘となった。10月15日第32豪師団の一部が迂回して背後をうかがう体制となった。日本軍は攻撃しながら陣地を後退させる遅延戦術をとり、2週間耐えたのち10月28日撤退した。豪軍は11月2日ココダを占領、南海支隊は豪軍に包囲され、堀井支隊長は11月10日全面撤退を決意した。
撤退に際し、重症者や重患者に対し、ある「殺してくれ」と叫ぶ患者は軍医により空気を注射され、数秒後、兵士は五本の指を曲げ、けいれんしながらこと切れた。そして「助けてくれ、見捨てないでくれ」と泣きながら哀願する重症患者にも同様の処置をした。
南海支隊主力は敵の優勢なココダ本道を避け、雨期で増水したクムシ川の支流を対岸に渡り、ジャングルを踏破して海岸を目指すコースをとることになった。しかし前人未到のジャングルの行軍は難航、11月19日連日の豪雨で濁流となっていたクムシ川を下っていた筏が転覆し、堀井支隊長は溺死した。
7月22日から11月16日までの戦闘で豪軍は625人が死亡(将校39人、兵士586人)、負傷者1055人(将校64人と兵士991人)を数えた。特に戦闘の最初の1ヶ月で3人の大隊の指揮官が殺されたか、捕らえられた。非戦病気傷者は正確には記録されていないが、戦闘死傷者数の約2〜3倍であると述べられている。マラリアによる戦病者も多数発生し、連合軍側の損害も軽微なものではなかった。だが連合軍兵士はほんの軽症でも戦線から離脱しており、殆どが戦死・戦病死の日本兵の損害は比較にならない。日本の死傷者の正確な数は知られていないが、6,000人の75%が死傷・戦病と推定されている。
7月横山先遣隊がブナ付近に上陸した時、近くの森に住んでいた若い女性2人は突然の日本軍襲来に驚き、自宅を脱出し、わずかな豪兵らと一緒に数日間にわたって密林に潜伏していたが、地元の酋長に通報され、日本軍にとらえられ、軍人は即座に殺された。憲兵隊は、8月13日に、この女性の2人の宣教師May HaymanとMavis Parkinsonを尋問したが、一切口を割らなかった、8月13日二人はブナ近くの農園に連行され、そこにあらかじめ掘られた浅い穴の前に立たされ、銃剣で刺殺された。これに限らず、日本軍はブナ・ゴナにおいてオーストラリア民間人をすべて処刑したという。彼らは一人ずつひざまずかされ、銃剣で刺殺されたが、母親と少年は銃殺された。息子を抱いた母親が最初に撃たれ、次に少年が打たれたのだという。別の伝聞では、6-7名のオーストラリア人男女が斬首された。その中の一人であった16歳の少女は、処刑を前にして半狂乱になって泣き叫んでいたため、振り下ろした軍刀がそれてしまい、最後は力ずくで抑え込まれて処刑された。どうしたことか不明だが、ニューギニア戦において日本軍は連合軍捕虜をすべて処刑した。生きて終戦時に開放された捕虜はなぜかこの地域では一人もいなかった。
オーストラリアの兵士たちも、相手を厳しく扱った。後日ブナを占領した豪軍は、先の通報した酋長を裁判なしに処刑した。豪軍の兵士は、公式通達で禁止されているにもかかわらず、しばしば死んだ日本兵の個人所有物を取得していた。金歯が死体から取られたいくつかの例があった。
ココダ道の戦いは、豪州が初めて国家の歴史にその存亡が直接脅かされたことを、多くのオーストラリア人の印象に残した。その結果、オーストラリアの総合精神の中で、戦闘、特に第39大隊の役割は、豪軍の伝説の現代的な概念の重要な部分となっている。実際に、イスラバの戦いは、「オーストラリアのテルモピュライ」と記載されている(ただし後年、日本軍の損害が過大評価されていたことが判明し、再評価されている)。
| ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) |
マッカーサーはニューギニア戦線において日本の航空兵力が回復し、制空権が日本側に奪われれば、8万の日本軍がこの戦域に増援されてくるだろう、と考えていた。そうなればせっかく奪取したココダやミルン湾、ブナ南方のドブドゥラ付近の連合軍が脅威にされされること、また海軍と海兵隊に対し主導権を握るため、包囲して敵の餓死を待つのではなく、米豪軍合わせて五個師団(十個旅団)程度にまで膨らんだ大兵力投入による積極攻勢に出て敵兵を一気に殲滅させる戦術を採用した。11月14日マッカーサーは命令を発し、豪第七師団は日本軍主力の南海支隊を追うココダ街道を、米第126連隊は手薄な南東のジャウレ道、さらに米軍別動隊は軍需物質を海上輸送で、兵員をポートモレスビーからブナ南東のワニゲラに空輸にし、東方からブナ方面に迫るコース、陸空海を駆使した3方向から日本軍を攻める大胆な作戦をとった。
11月12日に第三次ソロモン海戦があり、この敗北に衝撃を受けた日本軍は、16日事実上ガ島攻略を断念し持久作戦に移った。第三次ソロモン海戦の後、連合艦隊は空母や主力艦をはるか後方に下げ、前線で活躍するのは事実上駆逐艦だけになった。11月16日十七軍百武羽吉司令官に対し、大本営はブナ「死守」とブナ南方のドブドゥラの連合軍航空基地の破壊を命じた。ブナ・ゴナ周囲を防衛していたのは、工兵や輜重等、戦闘部隊以外の第二線部隊であったが駆逐艦輸送により新鋭の日本軍はブナに増援され、ブナ・ゴナ・ギルワ・サナナンダに集結した。南海支隊長堀井富太郎少将が不在の今、指揮権は横山与助大佐になった。
ガ島をあきらめかけた日本軍は、矢継ぎ早に増援軍をニューギニアに送ってきた。翌17日、今度は新任の第144連隊山本茂美大佐と補充員、第38師団第239連隊の一部等約1000名が駆逐艦五隻に分乗しブナに上陸した。
陸軍は二正面作戦を強いられた第十七軍の負担を軽減するために新たに第十八軍を設立し、安達二十三中将を軍司令官に任命した。第十七軍がソロモン方面を、第十八軍がニューギニアを担当し、両軍をラバウルに設置される第八方面軍が始動することになった。第八方面軍の司令官には、「聖将」今村均が就任した。今村均が11月21日トラックに立ち寄ると、山本五十六連合艦隊長官に迎えられた。
| 今になって、お互い隠し立てはしていられない。海軍で零戦一機が、米軍機五~十機と太刀打ち出来るといっていたのは開戦当時のこと。ガ島やニューギニア方面のわが将兵が飢えに苦しんでいるのも、敵航空戦力のため輸送船が到着できないためだ。 | (ミッドウェー海戦の痛手は大きかったと聞いており、現に今やっているこの方面の作戦も相当むずかしくなっているようなのに、長官の態度も言葉も悠揚迫らず、感心させられる。) |
11月22日今村均中将がラバウルに着任した。彼はニューブリテン島方面での現地自活の研究を始めた。
| ガ島方面の今日までの戦況から判断するに、米海空軍の威力は予想以上のものがある。このままの情勢で推移するならば、このニューブリテン島の日本軍はやがて南海の離島に孤立するかもしれない。私は今から最悪の事態に対処すべき万全の策を立てておきたいと思う |
しかし今村は苦戦中の海軍よりガ島への補給困難を打診されたとき、あくまでもガ島撤退を認めなかった。皇軍では撤退を言い出した方から責任を負わなければならないのである。
| ガ島の占有は海軍のため絶対必要との主張で始められ、それへの糧食補給は海軍で保障されることとなっている。海軍がガ島の奪回は諦めると決意され、出先指揮官だけの独断で、このことを決めるのはいかがなものか |
結果、二正面戦の構図には変更がなかった。昭和18年初頭におけるニューギニアの全体兵力は、日本軍と米豪軍であまり差がなく、航空隊の兵力もむしろ日本軍が上回っていた。だがケニー将軍により稼働率を上げた連合軍航空隊の前に、ニューギニアへの補給の困難は拍車を増していった。ガ島に代わるニューギニアへのテコ入れは、駆逐艦輸送によって行われたが、制空権を失った下での成功は四回に一回という厳しい結果になった。駆逐艦輸送は12月14日の小田少将のマンバレー河口上陸が最後になり、以後は潜水艦輸送に切り替えられた。人員の補充さえ困難な状況下では、弾薬や糧食の補給はさらに困難であった。だが「聖将」今村の信念は揺るがなかった。
| 一将功成って万骨枯ると平和論者はいう。あれは封建時代、一人の利害のための戦いを嘆き悲しんだ文句だ。国家民族間の戦争では、一将の功成らずんば、枯れるものは万骨にとどまらない。万骨を枯らしても、功を成らしめなければならないのが、武将に負わされている最高の責任だ |
オーエンスタンレー山脈を越えてきた豪軍は、南東の山岳地帯ジャウレ道を踏破した米軍歩兵部隊と共同で、ゴナとサナナンダの日本軍陣地の攻略を命じられた。また海岸沿いを進行した米軍はブナに対し攻撃をすることになった。これらの米軍は戦闘経験は全くない上、到着した時点で相当に疲弊していた。日本軍はゴナ・ブナにおいて円形陣地を構築、これらの塹壕軍は上から見ると蜂の巣のように、将兵が敵の攻撃下にあっても相互に行き来できるよう、効率的に配置され、連合軍に甚大な出血を強いることになった。
強制徴用されたパプア
豪州は42年2月ニューギニアにANNGAU(Australian New Guinia Administration Unit)と呼ばれる組織を作り、徴用制を強行した。抗戦地域の背後にある全地域のパプアは、本人の意思とかかわりなく強制登録され、12か月間の労働を課せられることになった。そのさい酋長を頂点とする伝統的な組織は無視された。見つけ次第登録さするやり方だった。ANGAUには行き過ぎが多く、働き手を残さず取られて、あとのものが暮らしに困る事態が頻発した。摩擦と抵抗が随所に起こったが、武器を持つも似には従わざるを得ない。徴用は5月1500名、8月5000名、12月12000名、44年7月には37000名とピークを迎える。死者の数は不明。1か月10シリングの給料を払うと約束されていたが、「結果はタダ働き」だった。
日本軍は豪州のやり方とは異なり、まず大酋長にわたりをつけ、既存組織を利用した。
ブナの戦い:米軍の失態
11月19日米第32師団長エドウィン・ハーディング率いる米軍がブナへの攻撃を開始したが、2週間に及ぶ激戦は米軍にとって敗北であった。米軍はほとんどが州兵であり、何もかも準備不足で、位置の特定すらできないほど巧妙に偽装された日本軍陣地から発射される機関銃弾によって次々なぎ倒された。また戦闘中に塹壕間を迅速に移動し様々な地点から出没しては敵に銃撃する神出鬼没の日本兵は、実際の数倍の敵に包囲されていると錯覚させるほどであった。マッカーサーは「21日にブナ奪取せよ」の命令を出したが、到底不可能だった。さらに豪雨により迫撃砲や手榴弾は濡れて使えなくなり、故障の頻発する通信機、マラリアなどの病気、補給の困難さ、日本軍の強固な陣地、偵察の不備のため、攻撃を仕掛けるたびに、米軍は自らの実力不足を露呈することとなった。米軍は航空部隊と地上部隊の連携がうまくできず、味方の誤爆が相次いだ。豪軍は米軍がそれ以上の前進を拒否したため、後退せざるを得ない状況に陥った。日本軍の攻撃に恐怖した米軍は25日前線からの撤退を開始した。30日に米軍は再攻撃を行い、ブナ村に侵入したが、それ以上日本軍の防衛線を突破することはできなかった。日本軍の戦闘機隊は一時期この周辺空域における制空権を回復するにいたり、連合軍の地上部隊が受ける航空攻撃の頻度も急増した。11月末までに米兵492人が死傷、それ以上の将兵がマラリアや赤痢、ツツガムシ病などを悪化させ戦線から脱落していった。
サザーランドもハーディングの様子を見にあわただしく視察した。サザーランドは仕事熱心であり、机上での解決法に精通し、養成所や平時の参謀長としては卓越していた。しかし彼は実戦から10マイル以内に近づくことはなかった。この視察を踏まえて、彼は部隊が直面しているのは「急ごしらえの防御施設」と報告した。彼は実際にそれを見たわけでもないし自分が攻撃されたわけでもない。サザーランドは、ライフル銃兵が実際に直面していたのは、堅固に要塞化された陣地体制であったという事実を知らなかったのだ。すなわち、そこは、格子状の射界、一方が海でもう一方が歩いて渡れない深さの川、そして正面のほとんどは大きな湿地帯があり、優れた遮蔽と安全な側面が整っていたのである。ここは危険極まりない場所で、まさにサザーランドが個人では決して探ってみようとはしないような類の場面であった。いつの日かマッカーサーが気付くことになるのだが、彼の参謀長は、弱い者いじめの多くがそうであるように、心が第一級の三十二メッキをされた臆病者であったのである。
ブナの戦いは、鍛え上げれた日本軍部隊に対して、まだ尻の青い予備役レベルの米兵が放り込まれた、というほど圧倒的であった。12月になっても、ブナ地区の日本軍は米軍の攻撃を駆逐し続けていた。しかし日本軍は包囲され逃げ場がない。徐々に重傷者は増えて戦力を落としていた。
従軍記者の岡田誠三はこのころギルワからの傷病兵を満載した船に乗り、ラバウルに脱出した。たまたま東京から特使として辻政信がやってきていた。岡田はニューギニア作戦について尋ねると答えた。
| あれは、君、だめだ。あの作戦は山を越えた方が負けだよ。 | わかりきっているじゃないか。 |
辻はそれ以上そんな不見識な質問に対する興味も暇もない様子でと吐き捨てるように言い、そそくさと立ち去った。
ゴナの戦い
一方ゴナ地区を攻めるのは、中東戦線における経験も豊富な豪軍であったが、砂漠地帯の戦闘には慣れていても、湿地とマラリアの猖獗する熱帯地方での経験はなく、また彼らは過酷なオーエンスタンレー山脈を踏破して疲れ切っていた。ブレイミー等豪軍上層部は、航空写真で日本軍陣地の位置を特定しないまま攻撃をした前線司令部を激しく叱責したが、巧妙な日本軍陣地の偽装を空から見破るのは不可能であった。こうして豪軍も損害を大きくした。11月23日までに豪軍は200名が死傷し、それ以上が熱帯性風土病により戦線から脱落する燦々たる状況に陥った。豪軍は連日迫撃砲を含む制圧射撃と歩兵突撃を行ったが進展しなかった。しかし日本軍側には着実に損害が増えていた。ゴナ海岸に日本軍の舟艇が出入りし補給が行われているのを発見した豪軍は制圧を急いだ。11月28日東方より攻撃を開始し、30日東方陣地を制圧した。日本軍の増援は海岸で豪軍の射撃に会い引き返さざるを得なくなった。包囲された日本軍に激しい航空攻撃がくわえられ、それでも頑強に抵抗していた。ラバウルからの増援は続けられていたが、連合軍陸軍航空隊によって爆撃を受け、しばしば引き返さざるを得なくなるなど難航した。12月2日駆逐艦輸送により山県栗花生少将と兵員500名がバサブア上陸に成功した。
豪軍は徹底的に砲弾を撃ち込んでから日本軍陣地に攻め込んだ。第一次世界大戦以来、欧米各国では徹底的砲撃によって相手を制圧したうえで進撃する戦法、つまり火力主義が一層徹底したが、豪軍もこうした趨勢に学んでいた。豪軍は大きな被害を出しながらも日本軍の陣地を徐々に制圧していき、そしてイスラバで伝説の戦闘を演じた民兵39兵団が増援として到着、12月8日豪軍は戦法を変え、迫撃砲の制圧射撃後日本兵が銃座にもどる間を与えることなくすぐに歩兵突撃を開始、これが功を奏し日本軍陣地の大半を制圧した。12月9日ついに豪軍はゴナを制圧したのである。
豪軍はギルワ、サナナンダに迫った。日本軍陣地ではブナやゴナと同様に、強力な塹壕が構築された。11月19日、サナナンダでの戦闘が始まった。ブナやゴナと同じく、ココダ道で苦しい戦いを経て疲弊していた豪軍は攻めあぐね、大きな損害を出した。11月下旬、手薄なジャウレ道を踏破してきた米陸軍第126連隊が豪軍の前線部隊に合流した。米兵は「俺たちがジャップのやつらを叩きのめしてやる」、あるいは「俺たちが全部片づけてやるから、お前たちは国に帰っていいぞ」と豪州兵に豪語したと記録されている。しかし彼らは訓練不十分であり、やがて前線に出た米軍は迫撃砲攻撃ばかり9日間行い、初めて前進したが、日本軍の反撃にあい、補給線を維持するのがやっとで、シャーリー大尉も戦死してしまった。やがて最初は米軍の増援をよろこんでいた豪軍も、まったく稚拙としか言いようのない米軍の戦いを見て、「見るに堪えないくらいの無能」と酷評するありさまだった。
日本兵「我々が銃剣突撃をして白兵戦になると、豪州兵は根性があって決して逃げなかったのに、米兵は泣きわめきながら逃げ回った。」
ブナの戦い:激戦
一方ブナではいまだに戦闘は膠着し、連合軍は2週間以上前進を阻まれた。2週間のブナの戦いで米軍は多くの戦死傷者を出し、何の戦果も挙げられなかったため、アイケルバーガーを豪州から呼び寄せ、指揮官に任命した。マッカーサーはアイケルバーガーに圧力をかけた。
| 戦う気のない将校はすべて更迭しろ、必要とあれば大隊長といえども更迭し、軍曹に大隊の指揮をとらせ、伍長を中隊長とせよ。(中略)ブナをとれ!、さもなくば生きて帰るな | ||
前線部隊の指揮を執り始めたロバート・アイケルバーガーは、ハーディング准将を解任し、以下の大佐から少佐クラスまでの数十人の人事を一新した。さらにブレンガン・キャリアの投入を行った。しかし彼の最初の作戦も相変わらずの無理押しだった。12月5日砲兵隊の制圧射撃、A20爆撃機の攻撃、その直後豪軍は5両のブレンガン・キャリアを前に立て、歩兵とともに進撃を開始した。しかし日本軍の反撃ですべて破壊され、この日は40mも前進できないありさまだった。その結果は墓地と野戦病院を死傷者で満杯にしてしまっただけであった。
しかし運よく突破し海岸線にたどり着いた米軍の一個小隊がそこにタコつぼを掘って布陣、日本軍の退路を断った。米軍の前進距離はわずかだったが、日本軍の死傷者を増加させたのも事実だった。アイケルバーガー中将は方針を変え、戦車部隊と豪軍の増援の到着を待つことにした。連合軍の兵器技術は進んでいたが、いくつかはまだ開発段階だった。105ミリ榴弾砲は遅発信管を持ち「地震爆弾」と日本兵におそれられたが、火炎放射器はわずか10メートルの目標の半分しか届かず、放射兵は日本軍に射殺された。しかし日本軍はそれ以上に厳しい状態に置かれていた。補給はなく、飢え、マラリアが猛威を振るっていた。12月14日日本軍の駆逐艦輸送により、ギルワに増援と物資が揚陸成功した。しかし一人の豪軍沿岸監視員がこれを監視していた。連合軍の爆撃により、日本軍が必死に秘匿した物資は破壊された。米豪軍は連日迫撃砲を浴びせた。
12月の半ばにパプアでの兵站の状況が劇的に改善され、この間に大砲が数十門と、ほぼ十分な量の装備品が戦場に投入されていた。12月17日ついにM3スチュアート戦車7両が到着し、またゴナを制圧した豪軍が増援としてこの地域に到着し始めていた。12月18日ブナの日本軍陣地の前に5両の戦車を引き連れた豪軍増援部隊が出現し、外陣地はたちまちに占領された。この日日本軍は甚大な損害を被ったが、豪軍も3分の1が死傷するなど、相当の出血を強いられた。実際にのちに要塞化された日本軍陣地を視察した連合軍の野戦指揮官らは、「これらの陣地は歩兵の攻撃だけでは絶対に占拠することができなかったであろう」と結論付けている。12月20日連合軍はブナ飛行場を占領、戦車は日本軍の攻撃で擱座したり、泥濘で転覆したりして進撃は遅延したが、豪軍のゴナ占領から遅れること約1か月、1943年1月2日ついにブナは制圧された。山本重省陸軍大佐が副官とともに姿を現し、米豪軍兵の前に立ちはだかった。山本大佐は叫んだ
「今、汝らは勝ち誇っている。汝らは物資を大量に注ぎ込んでわが軍を圧倒した。わが軍は一発の弾丸といえども無駄には打たなかった。今に見るがよい。日本が必ずや勝利を得、正義が世界を支配するようになるであろう。今から日本軍人の最後を見せてやるからよく見ておけ!、さあ、撃て!」
山本大佐の日本語の演説は連合軍には意味が分からなかったが、最後の銃撃命令だけは躊躇なく従い、大佐はその場に崩れ落ちた。脱出した陸軍約180名、海軍約190名は、ギルワに落ち延びていった。
日本軍の撤退
ギルワでは連合軍は、ブナにおいて演じたような失敗を繰り返すつもりはなかった。激しい砲撃を十分浴びせた後、周辺に対して小規模な部隊を浸透させるという作戦計画に沿うことになった。ヴァシー少将は複数の斥候部隊を多方面から投入して日本軍陣地に出没させ、日本の守備隊を常に緊張状態に置き、その動きの中で防衛線の最も脆弱な部分を見つけようとした。これは斥候隊にとっては過酷な作戦だった。日本軍によれば毎朝決まった時刻に60-80発の砲弾を撃ち込まれたという。飢餓状態の中、死傷者だけが増えていった。最前線のギルワ西陣地には食料は全くなく、人肉食が生き延びるための手段となった。西村幸吉は「ギルワ西陣地にあって人肉を食わずに生き延びたものは一人もいない」と断言する。連合軍の兵士が、仲間の遺体を切り取って食べる日本兵に対して激しい憎悪を抱くようになった。1月8日連合軍の攻撃が再開、10日小さな防衛陣地を占領した連合軍将兵は、人肉食が行われていたことを初めて現認した。連合軍司令部は怒りに震えたが、攻撃は成功せず、ヴァシー少将は迫撃砲攻撃によりその補給線の分断を確実なものとすることとした。日本兵と正面切って勝てないなら、補給を断って干上がらせる、という考え方である。限界に達していた塚本初男中佐は12日独断撤収を決意した。1月14日連合軍斥候は日本兵数名が重病で茂みの中に横たわっているのを発見。捕虜となったこの日本兵の口から、歩けるものはすべて陣地を放棄した事実が明らかになった。1月13日安達中将は山県少将に対し、サナナンダとギルワから兵を脱出させることを命じた。1月20日豪雨に紛れて最後の日本軍が撤退し、22日戦闘は終わった。
クムシ川河口に下がった部隊を待っていたのは、高速の駆逐艦ではなかった。またまたガ島撤収作戦と重なったのである。撤収作業にあたったのは陸軍船舶工兵隊の大発8隻、独立混成第21旅団工兵隊に編成させた「舟艇挺身隊」の大発10隻など20隻であった。ガ島撤収作業とはひどい格差である。南海支隊は18年4月下旬にラバウルに集結し、6月17日に第18軍の指揮を離れ、原隊である第55師団に復帰した。その後ビルマ戦線に転用され、ここでも激戦に翻弄された。また小岩井の第41連隊も南方を離れ朝鮮の平壌に転用となり、その後フィリピン戦に投入され、苦闘を続けている間に終戦を迎えた。
戦闘の結果
ブナからゴナにかけての北部海岸を防衛した日本軍の総兵力は、増援部隊を含めて約1万1000人以上にのぼると推測されている。ギルワを脱出した兵は4000名ほどだったが、うち850名が途中で敵と遭遇して戦死するなどで命を落とし、死者は7000人と推測される。また159名の日本兵がゴナ・サナナンダで、50名がブナで、計250名以上が捕虜になった。豪軍は死者行方不明1270人を含む3471の死傷者を、米軍は13645人のうち671人が戦死、2172人が戦傷、7920人が病気で離脱し計10879の損害であった。
計33000以上の連合軍がココダ道~ミルン湾、パプアの航空戦を戦い、3095人が死亡した。これは60000の海兵隊・陸軍が戦い1600人が死亡したガダルカナルの戦いよりはるかに死亡率が高かった(ただし水兵の損失を加えると、ガダルカナルのほうがはるかに大きな犠牲となっている)。連合軍のキャンペーンは、陳腐化した地図、地形に慣れていないこと、航空写真が限られていたことなど、利用可能な貧弱な情報によって妨げられていた。マッカーサーとブレイミーをはじめとする上級軍司令官は、非常に困難な地形と戦いが起こる極端な状況に気付かず、指揮官に与えられた命令は時には現実的ではなかった。豪軍の被害は大きく、この戦闘後数か月は攻勢に出られず、米軍は経験不足を露呈しこれまた被害大でこの後1年近くニューギニアの主力を豪軍に明け渡した。この勝利は連合軍には非常に高価についたが、歴史家たちはマッカーサーだけでなく、連合軍にとって勝利が必要であったと結論付け、意義を認めている。この戦闘は連合軍が塹壕を掘って身を隠した日本軍に対して攻撃をした最初の戦闘だった。これを通じて得られた多くの貴重な教訓は、連合軍にとって大規模な学習経験となり、以後の戦争を通じて豪軍や米陸軍によって採用された戦術の核心を形成するようになった。個々の兵士の訓練、医療や物流インフラを改善し、航空機輸送を増加させ、補給を大幅に改善させた。豪軍内では、人材育成のためジャングル部門の創設を含めた大規模な再編が行われ、ジャングル環境での業務に適応してい行った。自動車輸送の規模は大幅に縮小され、トラックよりもクロス・カントリー・モビリティの高いジープが採用された。大隊レベルでは、迫撃砲の数を8個に増やすこと、4個のビッカーズ銃を備えた機関銃小隊を追加して支援を強化すること、および運搬小隊を取り外すことが含まれた。戦闘開始当初、連合軍は戦車や重砲がジャングル内で有用であるとは信じていなかったが、ブナ・ゴナ線終了までに強力な日本陣地に対抗するため両兵器が不可欠であることが明らかになった。
日本兵を捕虜に
太平洋戦争中、連合軍は最新の軍事情報を得るために日本兵を捕虜にしたかった。しかし、降伏を禁じられ、捕虜になるのは「恥辱」とされていた日本兵はなかなか投降しない。その理由に厳しい軍規と故郷での隣組管理があげられる。
米陸軍軍事情報部が1942-46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌Intelligence Bulletin(IB)の記事に、42年12月1日ニューギニアのある日本軍司令官が出した「会報」が引用されている。そこでは、
我が部隊の一部は昨日(30日)、敵が固定無線通信所の地域に侵入したので退却したとの報告を受けた。分遣隊の全憲兵が徹底的に調査中である。命令もないのに守備地を離れる者は陸軍刑法に照らして厳重に処罰、もしくはその場で処刑されることを忘れるな。容赦はしない。軍紀を振作し勝利の基礎を固めるため、逃亡者は厳しく処罰する。銃や刀のない者は、銃剣を棒に結びつけよ。銃剣もない者は木槍を常時携帯せよ。銃剣のみで、何の武器も持たず歩いている者がある。各自すぐに槍を用意して、まさに突撃せんとしつつある部隊のごとく準備を万全にせよ。患者にも準備させよ。
と、士気の低下や多発する逃亡に重罰で対処しようとした日本軍の姿が浮き彫りにされている。日本兵は苦しんでいる傷病者の扱いは劣悪で、撤退時には敵の捕虜にならないよう「自決」を強要した。
IBの記事によると、少なくとも二人の日本兵捕虜が、上官からの扱いを恨んで脱走したという。「うち一人はマラリアでニューギニアの休養所(rest camp)に入れられ、上官から〝怠け者〟と責められて〝蹴られ、小突かれ、殴られた〟。彼はこの扱いに絶望的となり、豪軍の戦線にたどり着くまで3日間ジャングルをさまよった」という。日本軍にも上官の振る舞いや待遇に不満を持ち脱走、敵軍を頼った者がいた。軍上層部はこれを「奔敵(ほんてき)」と呼び、その件数は確認されただけで1937~43年度までに152件にのぼっている。この奔敵および奔敵未遂の罪状はのちにフィリピンやニューギニアの戦場において非常に多くの前線の兵士に着せられ、日本軍上層部による日本兵の大量処刑、不法処刑、大量自決強要につながっていくが、この過程は「戦場の軍法会議」書に詳しい。
日本兵の「出征」にあたってはそれぞれ厳粛な行事を行って敬意を払い、国のみならず村の大切さ、ありがたみを深く感じさせる。留守宅に関する兵士の安心感は、隣人たちが家族の農作業を手伝うことにより高められる。婦人、在郷軍人など多様な団体もまた留守宅の面倒をみる。これをみるに、日本兵が留守家族の生活困窮について抱いていた心配の解消は政府ではなく「村」すなわち近隣社会の手に委ねられていたといえる。万一兵士たちが敵の捕虜となり、卑怯にも自分だけ生き残ったとすれば「村」は家族への農作業援助を打ち切るだろう。捕虜になったら祖国には戻れない。このことは日本兵が捕虜とならなかった最大の理由であり、「彼らを強敵たらしめている基本的要素の一つである。」米軍もそれを知っていた。
米軍がここまで捕虜獲得にこだわったのは、いったん捕らえた日本兵捕虜は実に御しやすく、有用だったからである。今日、日本兵捕虜が米軍の尋問に対し戦艦大和や零式戦闘機の性能などの最高機密をいとも簡単に喋ってしまった事実が知られている。一方、米軍側にも日本兵をみたらとにかく「撃ちたがる」者がいて、それが日本兵の投降を妨げる一因となっていたことがわかる。ある記事では「ガダルカナルでかなりの数の日本兵が日本語の放送と宣伝ビラにより投降した。放送は両軍の戦線が近接し、かつそれなりに安定しているときを見計らって行われた」と前線での投降勧告の様子を報じている。しかし「すぐ撃ちたがる(Trigger-happy)」米兵が発砲すれば出てこなくなる。IB「日本軍の士気──亀裂拡がる」によると、米軍対日心理戦担当者たちの最大の仕事の一つは、実は味方の「第一線将兵たちに捕虜獲得の必要性を納得させること」であった。
| ニューギニアの戦いの始まり ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) ニューギニアの戦い(1943年前半) ニューギニアの戦い(1943年後半) ニューギニアの戦い(1944年前半) ニューギニアの戦い(1944年後半) ニューギニアの戦い(1945年) |
戦後日本の中で、米海軍との戦いを中心軸にして太平洋戦争を見る傾向が強く、日米双方ともに、太平洋の戦いが海軍の戦いであるという先入観が強い。それ故、まずミッドウェー開戦後に米海兵隊がガダルカナル等で反攻を開始し、続いてニミッツの米海軍がギルバート諸島、マーシャル諸島の用地を奪取し、マリアナ開戦に勝利後、サイパン島やテニアン等を奪取し、次いでパラをのペリリュー・アンガウルに上陸し、レイテ・フィリピン戦ののち、硫黄島及び沖縄線に上陸し、日本が敗北が決定的になった云々の「太平洋戦争史」が成立してきた。
こうした戦争史には二つの問題点がある。ひとつは1943年がほぼ抜け落ちているに等しいこと、二つ目はフィリピンに侵攻してきたのは、ニューギニアのマッカーサーの部隊であったことである。ガダルカナル戦と三次にわたるソロモン開戦とその他の諸会戦が行われた1942年が終わると、日米海軍ともにその後遺症に悩む停滞期となり、両海軍が前面に立つ戦闘が影を潜めた。1943年海軍の停滞期に日本軍が恐れていた消耗戦が激化し、おびただしい数の航空機が消耗していった。その主戦場がニューギニアであった。
| ニューギニアの戦い(1943年前半) |
1943年1月、ポートモレスビー攻略作戦での日本軍の拠点のブナ、ゴナが連合軍の手に落ちると、日本軍では連合軍の次の攻撃目標をラエ・サラモア地区と予測し、ガダルカナル島の戦いへの投入が予定されてラバウルに集結していた第五十一師団を第十八軍に編入して、横滑りでラエ・サラモア地区へ輸送することに決定した。ラエ・サラモアの防衛のためにはまずワウの確保が必要と判断された。ワウは小規模ながら飛行場を有し、カンガ・フォースが基地として利用するとともに、連合軍のラエ・サラモア方面への攻勢拠点となりうる可能性があったためである。1942年12月31日に杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長は大本営はソロモン方面からニューギニア重視に転換したこと、ラエ・サラモア方面から再びポートモレスビー作戦を続行することを上奏した。
日本の陸海軍では、一人の指揮官の下に陸海軍を置く一元化を取らず、その都度、中央や現地で協定を結んで作戦の基本線を決め、協定に従って陸海軍が別々に作戦する方法をとった。協定に基づき陸海軍がそれぞれに作戦する二頭指揮体制は、一方的に作戦が展開した緒戦では問題にならず、以後もこの方法を続けることになった。これはマッカーサー司令部が陸軍、海軍、航空隊を統合指揮する体制だった米豪軍との違いである。
| ニューギニアの戦い(1943年前半) |
「ラバウル航空隊」は25航戦を中核とするラバウル各飛行場に展開した海軍航空隊の総称で、固有の部隊名ではない。ラバウルは天然の良港をもち、大日本帝国海軍は艦隊を構成する軍艦をすべて受け入れられるほど大きいな自然の良港を確保した。海岸から1.6㌔かそこら奥まったところには、空港に適した平坦な水はけのよい場所があった。ラバウルは最高級の軍事用領地であった。
緒戦では大きな力を発揮したラバウル航空隊も、ブナ・ゴナに連合軍が迫り、ガ島の戦局も悪化した42年末には劣勢に立たされていた。そこで第十八軍を編成するのに合わせて第六飛行士団が編成され、陸軍航空隊がラバウル方面に派遣されることになった。師団長に明野飛行学校長 長坂花義一中将が親補され、陸軍航空のエリートを集めた司令部の編成であった。
陸軍航空運用の実質的中心は参謀本部第二課航空班で、同班長が大きな発言力を持っていた。ガ島戦が激しくなり、海軍側から陸軍航空部隊の派遣要請があったとき、海軍の要請を門前払いしたのが久門有文中佐で、東條英機も南方派遣には反対であった。これに対して作戦課服部卓四郎大佐や辻正信中佐らは、海軍航空隊を助けるべきだと考えていた。久門中佐が北方視察中に行方不明となり、作戦課の強い要求が相次ぎ、11月18日についに派遣が決まった。第八方面軍司令官の任務に対する南太平洋方面一泊作戦指導要領にある航空作戦要領によれば、ニューギニア方面は陸軍航空隊に、海軍航空隊にソロモン方面を担当させることにした。虎の子の航空隊を中国大陸から南方に派遣したくなかった気持ちは変わらなかったが、第六飛行士団の南方進出には、とりあえず航空機137機、総人員12306人、輸送物量82368トンを輸送しなければならなかった。苦戦中の海軍としても、一日も早い陸軍航空隊の参戦を促す必要があり、既存の海軍飛行場を提供し、なけなしの航空母艦まで陸軍機輸送に振り向けた。地上の支援部隊はトラックや鉄道を乗り継いだようやく出向地に到着し、それから資材を搭載して出向するのでどうしても航空機より後になってしまう。また航空隊の移動は非常な困難を伴い、目的地に着くまでに先細りするのも珍しくなかった。
ただし17年末から18年初頭は搭乗員の技量も高く、人員や機材の輸送も、比較的順調で、飛行隊の運用にさほど深刻な影響は出なかった。ラバウルにオーストラリア人が作った二つの飛行場しかなく、第六飛行士団自ら飛行場設営を行わねばならなかった。17年末から18年2月にかけて第一移動修理班がウェワクに、他がラバウルに上陸し、飛行場設営及び修理に従事した。
ラバウルは1942年11月20日着任した今村均陸軍大将などの指揮により、一大拠点が築かれる。ラバウル航空隊の基地があり、陸海軍合わせて9万余の大軍が配置された。ラバウル湾には、物資を満載した輸送船が次々に入港してくる。現地自活のための開墾はすでにあちこちで始められていたが、ラバウルの陸軍部隊がいっせいにその実行に着手したのは43年5月1日であった。このときの目標は、戦闘部隊は一人七十五坪である。かねて大本営に依頼してあった農事指導班、農具修理班、陸稲(おかぼ)や野菜の種子、農具、また労務者などは、二月から三月にかけて現地に到着していた。これら労務者は、広東苦力(クーリー)、インド兵、インドネシア兵など約四千で、彼らは主に野戦貨物廠に配属された。これが、戦後になって貨物廠から多くの戦犯を出す原因となる。
日本軍は豊富な兵力と自給自足体制による食料の確保、慰安所も完備し、堅固な要塞を築き上げていた。連合軍は42年よりしばしばラバウルを爆撃したが、この「ラバウル要塞」に対してあまり効果を上げることはできなかった。
毎晩、「ポートモレスビーの定期便」といわれた敵の大型爆撃機が、飛行場の上空に飛来した。ぐおーん、ぐおーんと爆音が響くと、飛行場周辺の防空陣地から一斉に照空灯の光の帯が、闇の空に縞模様を描いた。高射砲が一斉にうなる。海軍の機関砲の発射する弾道が、赤、黄、紅と、まるで連続花火のように美しい。B17は悠々と飛び続けて立ち去ると、周囲は急に闇と静寂を取り戻した。この爆撃機は、2,3機で毎晩のように現れては、空の戦争絵巻を繰り広げていたが、爆撃の被害を被った話も聞かなかった。敵の心理作戦であったのだろう。
またラバウルでは、ニューギニアのポートモレスビー占領後の軍政事務要員て待機させてあった娘たちが、ニューギニア方面の作戦が失敗すると、軍からお国のため、明日は死にゆく兵隊のために、と口説かれて、泣く泣く、ラバウル基地の慰安婦にさせられたという。日本軍の生んだ悲しい出来事であった。
帰途ラバウルの町の慰安所によった。女たちの部屋を、古兵の原と連れ立って覗いて廻ったが、どの部屋の前にも他部隊の兵隊たちの長蛇の列。あきらめて売店に行くことにした。メインストリートの街路樹の下で、船から降りたばかりと思われる女たちの一団(15,6名)が休息していた。「あの娘たちは、海軍の軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。」E上等兵は、指さしながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。なるほど言われてみると、どの顔も暗く沈んだ表情。ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。男も女も滅私奉公の時代である。だが、私には割り切れなかった。こんなことが公然と行われてよいのだろうか
ラバウルへ進出した陸軍航空隊の最初の仕事は、ガ島撤退作戦への協力であった。18年1月11日に現地協定が成立し、戦闘機など百機を持って敵航空機を湧出して遊撃し、ガ島撤収を成功させる「け」号作戦に従事することになった。敵味方の航空兵力をそれぞれ三百機と推量し、陸軍航空隊の進出によって互角の体制になったと読んで、これまでの劣勢を一挙に跳ね返そうというわけである。ケニーの第5航空群は、2月初旬でB17重爆55、B24重爆60、中馬区・軽爆150、戦闘機330の合計595機に達したと推定される。第四航空群の進出によって、ニューギニアにおける航空戦力は、機数の点で米豪軍に匹敵するか、あるいは凌ぐ規模にまで膨らんだ。
18年1月下旬から始まった「ケ」号作戦の戦果報告では、敵何機撃墜、味方何機未帰還といった記録が目立ち、敵地上軍を攻撃する近接支援の記録がない。日本軍は地上部隊は地上戦、航空隊は航空戦、艦艇は海上戦のみを遂行する縦割り構造、いわゆる戦力のセクショナリズムが強かった。1月27日に行われた「ケ」号作戦の第二次攻撃は陸軍航空隊の担当であったが、作戦に参加した75機は戦闘機64機、軽爆9機、偵察機2の構成で、戦闘機中心であった。米豪軍は、航空隊の主任務を地上攻撃及び地上軍支援に置き、軽爆撃機や重爆撃機の比率が高い航空隊を編成し、戦闘機軍の任務を爆撃作戦の支援に置いた。18年初め参謀長サザーランドと第5航空軍司令官ケニーとの間で作成された兵力増加計画には、重爆144、中爆171、軽爆171、戦闘機450とあり、爆撃機と戦闘機の機数にあまり差がない。ニューギニアの地上戦を経験した日本兵がもっぱら語るのは、日本航空隊の活躍ではなく、米軍機の猛烈な攻撃であった。地上戦に航空隊が加わるのはまれであった。日本軍陸軍航空隊は、厳しい鉄の軍規により対抗した。ただし冷徹な軍規も、末端兵には酷に過ぎるくらい厳しいが、階級が上がるにしたがって実にでたらめだった。
ある日の夜半、古参のF総長が大きな声で、「不寝番はおらんか、不寝番はおらんかあ」と二度、三度と呼んでいた。瞬時を置いて暗闇から初年兵のE一等兵が慌てて現れ、「不寝番、参りました」「貴様、居眠りしておったな」と声が険しい、、F総長はさらに内務班長N軍曹を呼び続けた。「お前はどのような初年兵教育をしておる」と、激しく怒鳴りつけた。大勢の兵隊の前で頭から罵声を浴びせられた内務班長はメンツ丸つぶれ、腹を立てた内務班長は、教育係の古兵たちを集合させて、「お前ら俺の顔に泥を塗ったな」と激しい口調で怒りを爆発させた。こうした一階級ごとに怒りが倍加され、その後は、いやな聞くに絶えられない制裁の音が戦争内に響いた。忽ちにE一等兵の顔は紫に膨れ上がり、口から血をしたたり流しながら、グラグラと床に倒れた。古兵たちは口々に罵りながら、倒れたE一等兵を引きずり起こして、またも殴った。「何たる仕打ちだ。これが教育か」死と隣り合わせにいながら、なぜこれほど憎み苦しまねばならないのか。「このような人間味のかけらもない奴らと、俺はいっしょに死ぬのは嫌だ」無念やるせないが、我々末端兵は手の施しようなく。ただ歯を食いしばって我慢するより仕方なかった。
「おい、兵隊、十四飛行団の本部はどこだ」大きな声にびっくりして見ると、暗闇の中に将校がにゅうっと立っていた。私はすぐに立ち上がって敬礼した後に、「この先の誘導路を右に……」「案内せんか」将校は高圧的に言葉を遮った。〈暗闇で階級章は見えなかったが、どうせ士官学校出たての、コチコチで世間の常識もわきまえない兄ちゃんであろう。他人に道を尋ねるのに、こんな高慢なふるまいは、シャバでは通用しないが、軍隊というところは便利なところだ。〉
| ニューギニアの戦い(1943年前半) |
南西太平洋指令部の幕僚たちが日本人の心理を判断する手引きとしたものに、日本の軍歌「海ゆかば」の英語訳があった。1941年、日本のラジオ放送から受信していたものを、誰かがファイルに綴りこんでおいたのである。それは大体次のような文句である。
海ゆかばみずくかばね(海のかなた、水の中の屍)
山ゆかば草むすかばね(山のかなた、野に重なる屍)
大君の辺にこそしなめ(私は天皇のためにのみ死ぬだろう)
かえりみはせじ(私は決して後ろを振り向かないだろう)
この歌が幕僚たちの注意を引いたのは、それがすべて日本軍人の性格を端的に正しく表明していると考えられたからだった。それは日本人の頑強さには融通の利かないという一面があることだ。日本軍は、海のかなたに自分たちの死体を積み重ねるに違いない。日本軍はアメリカ軍に後ろに回られても決して後ろを振り向かないに違いない。「海ゆかば」に見える粘り強さは日本軍の戦略を硬直なものにさせ、それをマッカーサーはとことんまで逆用する。
| アメリカ軍組織の再編が望ましくなってきております……クルーガー将軍指揮下の第三軍団を豪州に移動させることを推奨いたします……アイケルバーガーは有能な軍団司令官ですが、軍司令官の差し迫った要件を今は満たしておりません | ||
マーシャルはこの要求に驚いた。クルーガーは全く戦闘経験などなかった。クルーガーは気難しい、動きの緩慢な学者肌の兵士で、社交術にも欠けていた。1941年にマーシャルがクルーガーを准将に昇格させたときには相当な懸念を持っていたが、幸い軍団の主要任務である部隊を訓練する能力には全く問題はなかった。マーシャルは戦闘司令官としてのクルーガーには疑問を感じていたが、なんであれ、クルーガーに対して重要な役割を想定していなかったので、要望に応じるのは難しくなかった。43年2月16日、クルーガーは16人の第三軍団の司令本部員とともに到着したのである。歴史的にはクルーガーは目立たぬ存在で、また通常は「マッカーサーの迅速な戦略をたびたび妨害した過度に用心深い司令官」として語られることが多い。しかし当のマッカーサーは回顧録ではべた褒めである。
| 歴史はクルーガーの偉大さを十分に認めていない。米国の歴史を通じて彼より優れた軍司令官はいないと私は信じている。彼は攻撃に際しては敏速で確実であり、防衛にあたって粘り強くてたじろがず、勝利を得たときは慎み深かった。敗北した場合にどうかは私は知らない。なぜならクルーガーは一度も敗れたことがないからだ。 | ||
クルーガーはその特異な経歴として陸軍士官学校だけでなく海軍士官学校の両方を卒業した。海軍はクルーガーのことを非常に気に入って、1927年から31年まで海軍士官学校で教官として働いたほどである。つまりマッカーサーは水陸両用作戦を多用するつもりだったのだ。
クルーガーの到着はアイケルバーガーには打撃だった。第六軍の司令官を拒否され戦闘指揮の経験がない他の人物に任されるのは、まさに傷口に塩を刷り込まれるようなものであった。アイケルバーガーにはどれほどつらく意気消沈する任務でも、マッカーサーはやらせた。彼は部隊を訓練する点ではずぬけていたし、アイケルバーガーは、仮にクルーガーが失敗したり病気になれば第六軍を引き継ぐことができた。それに、もしアイケルバーガーを手放せば、彼の代わりにだれが配置されるだろうか。おそらく精彩を欠いた人物であっただろう。個人的には好きなのだが、アイケルバーガーの機嫌取りがマッカーサーの仕事ではなかった。マッカーサーは彼の思いが何であれ、戦争に勝つために彼を使うのだ。
クルーガーの到着はサザーランドにも面白くないことだった。彼は、戦闘指揮権を依然として渇望していたのである。マッカーサーとの関係には目に見えない緊張があった。彼はサザーランドに猜疑心を持ち始めていたのである。サザーランドは参謀長として日常業務に飛びぬけて有望で、人並外れた頑張り屋だが、創造力は全くなく、大胆さはほとんど感じさせなかったのだ。サザーランドはあることに単に反対であったり、また、それを提示した人が嫌いだという理由だけで、マッカーサーへの提言や情報の流れをブロックしたことが何度かあった。
サザーランドは、総司令本部の参謀たちを威迫し続け、威嚇的なやり方が戦争遂行に最も有効な方法だと正当化していた。ある日の朝食時、彼は戦時での民主主義の欠点を延々と説いた。戦時にあっては、厄介な手順や際限ない協議をする民主主義的政府よりも、一人の人間の下で強力な独裁主義的政府が一層有効であると主張した。マッカーサーは注意深く聞いていたが、「ディック、君は間違っている」といい、民主主義について激賞し始めた。「民主主義は金と命がかかる。時には効率が悪く見えることもあるだろう。だが、最終的に勝利を収めるのだ。」
総司令部でマッカーサーが高く買っているのは、技師長のパット・ケーシーとケニーだった。新しい作戦が検討されているときは、はじめからケーシーを呼び、作戦の規模と性格を説明するのだ。そして、「パット、飛行場さえあれば戦闘機を作戦開始日より5日早く運べるのだが。できると思うか」というのである。ケーシーは技術上の諸問題―排水、聖地、植生、地盤―について議論にて解決策をみいだすのだ。最後に「最善を尽くします、将軍殿」ケーシーは職務を遂行できなかったことは一度もなかった。
ケニーに関していれば、ジーンを除いてだれよりもマッカーサーと親密だった。ケニーは創造力が豊かで大胆であった。彼は大きなスケールで物事を考えることができるが、小さなことまで細心の注意を払うことができた。たとえば、兵士たちは休息をとっているか、勲章を与えられているか、指揮が維持され兵器は整備されているか確認していた。彼は必要に応じて、あらゆる種類の空中戦を演じることができた。空軍力の柔軟性は、一部の地上司令官を除いて、だれにでも理解不能なことがあった。司令官が爆撃機、戦闘機、輸送機を使うやり方はほとんど毎日、敵軍の構想、司令官の計画、天候次第で大きく変化するものだった。マッカーサーが当初空軍力が機能するか、何ができるか、実際には何も理解していなかった。一年後にはケニーの助言を受けて、空軍力がすべてのカギを握っていると理解するようになっていた。ケニーの考えでは、マッカーサーは誰よりも空軍力の意味を理解していた地上軍司令官だった。
パピー・ガン
海軍航空隊を退役後、フィリピン航空の開設の支援をしていた”Pappy"のあだ名で知られるポール・ガンは戦争に巻き込まれ、ガンの彼の妻と子供たちがマニラの日本の収容所にいた。ガンはその後米陸軍航空隊に召集された。ケニー将軍は、ガンが3d Bombardment Group (Light)のA-20のHavocのノーズに4つの50口径機関銃を追加してA-2を機関銃掃射機に換装しているのを発見した。ガンが難破した戦闘機の武器を使用していることを知ったケニー将軍は、電気かみそりから飛行機のエンジンまで何でも再構築できる機械の天才であるポール・ガンの革新的な能力に感銘を受け、すぐに彼をスタッフのメンバーにし、特別なプロジェクトに任せた。A-20が日本の海上および地上目標に対する低空攻撃で大成功を収めたとき、ケニー将軍はガンにB-25の戦隊を同様の機銃掃射機に転換することを許可した。これらの重装備のミッチェルは、ポールI. "パピー"ガン少佐と北米の技術代表者ジャックフォックスの指揮の下、オーストラリアのタウンズビルで現場改造された。
ガンの改修したA-20とB-25は強力なガンシップに変換され、1943年のビスマルク海の戦いで連合国の勝利に大きな役割を果たした。ノースアメリカン航空はパピー・ガンと協議し、兵器革新のバリエーションを後のB-25のモデルに組み込む。重武装のB-25G、B-25H、およびいくつかのJを含むこれらの後期モデルである。B-25Hは75mm砲×1 (弾数21発) + 12.7mm機関銃×14 (弾数計5,800発)の重装備で、上部砲塔を胴体の前部に移動し、前方にロックしてパイロットが10.50口径機関銃を直接制御できるようになっていた。ケニーが示唆するように、その最盛期は、B-25Hパイロットが機銃掃射しながら、乗員が両翼機関銃を操作し、最大数トンの爆弾をスキップ爆撃またはパラシュート爆撃で低空から投下し、尾部機関銃でダメ押しの打撃を追加した。これは主にパピー・ガンによるもので、これらの航空機は、終戦までニューギニア、フィリピン、沖縄の日本の目標に破壊をもたらし続けた。
1943年3月、ダグラス・マッカーサー陸軍大将の指揮下にある南西太平洋海軍部隊が改編され第7艦隊となる。第七艦隊以外に、マッカーサーはブナ陥落後数日して創設した第七水陸両用部隊を保持していた。司令官はダニエル・E・バービー海軍少将がなることになっていた。バービーが任務に就くために出頭すると、マッカーサーはケニーが6か月前に受けたのと同じ、訓戒を垂れた。前は陸軍航空隊に怒りを覚えていたが、今度は海軍にであった。マッカーサーはバービーに言った「君がキング提督の参謀だから、折々に彼に報告するだろうと思っている。しかし、君が言ったことは私に戻ってくることはよく覚えておいてくれ」。しかしマッカーサーはそこで終わらなかった。彼は海軍を激しく弾劾し、ブナでいかに彼を失望させたか非難し始めたのだ。
| 海軍は軍艦を失うのを恐れて戦闘で果たすべき役割を果たさなかった! | バービー提督 | (*>_<*)(ひー)最善を尽くします。 | ||
提督は不安な始まりだった。第七水陸両用部隊が最初の攻撃を加えたとき、軍隊輸送用に改修された四隻の旧式巡洋艦、六隻の戦車揚陸艦と約30隻の上陸用舟艇以上の装備を備えていなかったのである。
キング提督は、海兵隊が必要とする小規模のもの以外の水陸両用挺の必要性には無関心であった。真珠湾後、彼は軍艦、特に優先的に空母と潜水艦の製造に集中した。4000トンの戦車揚陸艦から30人しか収容できない標準サイズの上陸用舟艇など、さまざまな種類の船舶を建造する必要性を予見するのは陸軍であった。42年夏、北アフリカ上陸計画が作成されるとともに、陸軍工兵隊は第一水陸両用工兵旅団をマーザス・ヴニヤードに創設、訓練に着手した。ギリギリの段階になってキング提督は、陸軍が戦車揚陸艦と上陸用舟艇に何千人もの兵士を配備し、何十万人もの兵士を海岸線に上陸させる準備をしていることに気が付いた。これは長期的に見て大規模海軍が必要かどうかという問題を引き起こしかねない企てであった。キング提督は、大統領に公然とかつ熱烈に頼って、陸軍に北アフリカで旅団を展開する計画を棚上げさせることに成功した。結局、海軍が部隊を上陸させることになるのである。
水陸両用工兵司令官アーサー・トルドー大佐は戸惑いを見せながらも名案を広めようと決意を固め、42年11月にブリスベンに飛んでケーシーとマッカーサーに、マーサズ・ヴニヤードで開発された特殊技術と装備について話した。マッカーサーは急いでマーシャルに電報を打って、水陸両用工兵旅団が自分の指揮下に入るよう要求した。第一旅団は海軍の圧力で解散させられていたが、第二旅団と第三旅団を手に入れることになる。優先順位の低い太平洋戦線の中でも、さらに優先度の低い南西太平洋軍は、タナボタでその地位に似つかわしくない最新鋭の上陸用舟艇を手に入れることになった。
| ニューギニアの戦い(1943年前半) |
ニューギニアに、豪州人が奥地に建設した飛行場が各地にあったが、しばらく放置すると高温多湿の気候のおかげですぐ原っぱに戻ってしまう。草を刈ればすぐ使えるため、たまたまこうした飛行場が見つかると動揺し、陸上部隊を差し向ける計画がしばしば企図された。ブロロ盆地にある金採掘場として有名なワウのすぐ近くにもこの種の飛行場があり、サラモアからわずか60キロしか離れていないために、今後の作戦の障害になるものと判断された。これを奪取するために、第五十一師団歩兵団長岡部通少将の指揮する水戸の歩兵百二連隊他からなる岡部支隊を差し向けることになった。
岡部支隊主力は舟艇を使い、18年1月9日から16日にかけてサラモアに集結した。(サラモアから山岳踏破でなく、ラエからブロロ渓谷沿いの平坦な道と踏破すれば、難なくワウは陥落しただろうと豪軍隊長はのちに語った)。先遣隊は17日にウイパリ付近で豪軍と交戦し撃退した。日本軍の前進を阻んだのは群生する竹林で、何百本という竹が一つの根元に生い茂り、しかもそれには指先くらいの長さのとげがものすごく生えていて、そばに近づけないほどであった。27日昼、支隊長はワウを奇襲する決心をし、攻撃命令を下達した。日本軍得意の夜襲作戦である。しかし地形が思いのほか複雑で多くの部隊が道に迷った。29日となり、午前4時少し前にやっとつり橋付近に到着した。ここで豪軍の外周陣地に接触、本格的戦闘が始まった。日本軍は豪軍をじりじりと後退させた。しかし戦闘開始は午前5時ごろで、夜が明ければ間違いなく敵航空隊の猛襲が来るから、その前に姿を隠さなければならない。
日本軍の出現に驚いた豪軍ブレイミーは、大慌てでしかし的確にミルン湾から増援部隊をホワイトヘッド指揮下のC47輸送機でポートモレスビーからワウに飛ばした。1日目だけで57回にわたる強行着陸を行い、日本軍の小銃射撃を受けながらも、一度の事故もなく豪軍17旅団2000人及び弾薬、食料を運び込み、荷物の中には野砲二門もあった。日本軍は30日に野戦を試みるが敵の火砲の反撃力はすさまじく、食料はすでに食べつくし、これ以上の戦闘は不可能になっていた。
2月4日ごろから戦力を強化した豪軍が反撃に転じ日本軍を包囲した。負傷兵数百名は自決し、生き残った兵も全滅を覚悟したが、これを救ったのが長谷川准尉の大歓声を上げながらの逆突撃で、豪軍のすきをついて包囲の突破に成功した。突破した支隊は9日につり橋付近に集結した。さらに13日には、ワウの敵陣地からの砲撃の射程外に出るため後退し、支隊長はついにムボへの撤退を命令した。豪軍は追撃せず、途中ムボから食料を担送してきた第三大隊により補給を受け、その後は大きな損耗もなく撤退に成功した。ワウ攻略戦は豪軍の決定的勝利となり、この戦いにおける日本軍戦死戦病死者数は約800名とされる。
| ニューギニアの戦い(1943年前半) |
ソロモンでの東京急行は夜間の航行は空襲にさらされずほとんど危険はなかった。しかしニューギニアのラエ、サラモアは夜間往復は不可能で一部昼間航行とならざるを得ず、危険にさらされていた。43年1月23日には、第二十師団の第一陣がウェワクに上陸し、2月20日には第四十一師団の第一陣が同じくウェワクに上陸した。ウェワクとラエ及びサラモアとは仙台・大阪間に相当する距離である。安全なウェワクに上陸した部隊は、その後、敵の魚雷艇や潜水艦の待ち伏せ攻撃を覚悟しながら、大発を使って最前線のサラモア、ラエへと移動しなければならない。
ところが第三次ガ島撤退作戦を終え、海軍艦艇に多少の余裕が生じたこともあり、陸海軍の共同作業として浮上してきたのが、ラバウルにあった第五十一師団を直接ラエに送り込むという第八十一号作戦計画である。輸送中及び揚陸作業中の護衛は、駆逐艦8隻と上空護衛機で行うことにしていた。トラック島には大和、武蔵をはじめとする戦艦群が錨を下ろしていたが、身動き一つしなかった。上空護衛については、陸海軍航空隊が総力を挙げて行うことが現地陸海軍航空作戦協定で確認された。これによれば陸軍110機、海軍108機を動員し、従来の進攻航空撃滅戦に代わって、船団上空直衛に徹するという画期的なものだった。しかし統合司令部を設置できなかった日本軍では、ある時間まで陸軍機が、その次は海軍機が担当するという形の協力となった。
ケニー指揮下のパイロットたちは、高度からあるいは中高度からの爆撃が進行中の船舶にはほとんど命中しないことが判明してから、船舶攻撃の様々なテクニックを練習していた。
航空司令官ケニーは、副司令官ホワイトヘッドに輸送船団攻撃の作戦計画の立案と準備を命じた。ホワイトヘッドは、指揮官にケネス・ウォーカーを選んだ。ケニーはウォーカーらに対して「これまで航空隊の戦果が今一つ足りないのは、爆発の衝撃波を恐れるあまり爆弾投下高度がどうしても高くなるためで、今度は高度を下げる工夫と徹底した低空訓練を行うよう」に命じた。ウォーカーは、すでにヨーロッパ戦線で英軍航空隊が採用して大きな戦果を挙げている海面反跳爆撃(Skip bombing)戦法を実行することにした。豪軍航空隊のブリストル・ボーファイター爆撃隊(13機)、B25特別中隊(12機)、A20攻撃機隊(12機)を選び、厳しい訓練を行った。
輸送船団がラバウルを出たのは2月28日午後11時。3月1日早速ラバウル周辺を見張っていた敵潜水艦に発見された。3月2日早朝、船団はニューブリテン島西端グロセスター岬の北東海面を航行中であった。午前8時少し前、十数機のB-17が現れ、水平爆撃をおこなった。これに対して担当の海軍ゼロ戦18機が応戦して4機を撃墜したものの、第百十五連隊第三大隊の乗った「旭盛丸」が直撃弾を受け、九時半ごろ沈没した。この日の攻撃はすべてB17によるもので、船団のかく乱を狙った作戦とみられる。
3日朝も快晴であった。夜明け前にラエに急行し、五十一師団長や「旭盛丸」から救助した将兵や軍需品を送り届けてきた「雪風」「朝雲」が戻って船団に合流している。一晩中敵機は吊光弾を投下して監視を続けた。午前中は海軍の担当で、ゼロ戦26機が6000メートルで上空援護にあたっていたが、ニューアイルランドのカビエンから15機が追加され、合計41機になった。午前8時前、南西の空に無数の点が現れ、米豪軍の戦爆連合軍はおよそP38が30機、B17が25機、B25・A20が40機、さらに少し遅れて南の方向から低高度をP38、B17、ボーファイター、B25、A20らの50機近い一群が接近してきた。先行する一群が日本機を引き付ける役目で、後発の一群が船団攻撃を受け持つ作戦であったのは、それぞれの高度を見れば明らかだった。上空直衛機が先行の米豪軍機に襲い掛かり、激しい空中戦が始まった。その間隙をぬって豪軍のブリストル・ボーファイター13機が各機が選んだ船団の目標に向かって波しぶきが掛かりそうな超低空で迫った。これまで見たことのない攻撃法であった。
英国製ボーファイターは沿岸防御用の爆撃機で、胴体下面に4基の20㎜イスパノキャノン砲と主翼に6丁の7.7㎜ブローニング機銃という強力な装備で、接近する敵艦船を低空で攻撃する高い能力を持っていた。ボーファイターは強力機銃で艦船の反撃を沈黙させつつ目標の直前まで超低空で来たかと見るや機首をわずかに上げ、黒い球を水面に落とし、マストすれすれに反転して過ぎ去った。次の瞬間、船腹に火の玉が上がり船体が激しく動揺した。反跳爆弾が命中したのである。投下後、わずか7,8秒で激突する爆弾をかわすことはできなかった。第一波の数分後、B25特別中隊、A20攻撃機隊の順で襲ってきた。まず「建武丸」が被弾直後に撃沈、「愛洋丸」が午前十一時半ごろ沈没、午後には「神愛丸」「大明丸」「帝洋丸」の順で沈没した。「野島」は最初の攻撃で被弾し航行不能となり、さらに「荒潮」に衝突、十二時半に総員退避後、第二次空襲で沈没した夜を迎え、漂流していた「大井川丸」が米魚雷艇二隻の攻撃を受け、午後十時半ごろ沈没。この結果、輸送任務にあたっていた船はすべて沈没した。護衛の駆逐艦も悲惨だった。
「雪風」「朝雲」「敷浪」は、日没を待ってラバウルを出港し、再び遭難現場に急行した。現場に到着した時、高い波浪と速い潮流によるためか漂流者をなかなか発見できなかった。だが鉄塊になり果てた「荒潮」の残骸に生存者のいるのを発見、170名を救助した。早朝の攻撃後、午後1時過ぎに二回目の攻撃があり、上空の陸軍航空隊と海軍ゼロ戦隊がこれを撃退したが、その間をすり抜けた敵機が漂流する将兵に向かって執拗な機銃掃射を浴びせ、多くの人命を奪った。
戦後まとめられた「第十八軍作戦記録」によれば、ダンピールにおける第五十一師団関係の戦没者は1936名となっている。駆逐艦軍の戦死者数は明らかではないが、およそ300名とすると、戦死者は約2450名、行方不明約150名となる。これ以外に、スリミ、ニューギニアのブナ、豪軍支配下のキリヴィナ島、グットイナフ島に流れ着き、捕虜になったものもあった。総人員6912名中約35%の将兵が戦没した計算になる。
相次ぐ沈没に直面した大本営は、これ以上ニューギニアに船団を送ることを禁止した。その後の輸送と補給のすべては、潜水艦か大発によるしかなくなった。
18年3月22日、ダンピールの悲劇を受けて南太平洋方面作戦陸海軍中央協定が改定された。陸軍は137機を173機、さらに240機に増強し、海軍は245機を339機へと増強することで米陸軍航空隊に拮抗させようという計画であった。両軍ともニューギニアを主作戦とした。中央協定に多いのは「航空撃滅戦」「的航空勢力を撃滅」といった表現で、その意味は敵航空機をたたくことだ。日本の航空隊は戦闘機主体で、敵機の撃墜数で、航空隊の戦果を評価する傾向が強かった。一方連合軍は、敵に対して何トンの爆弾を投下したか、味方地上部隊の援護のために何度的部隊を攻撃したか、といった活動を評価した。
| ニューギニアの戦い(1943年前半) |
夜間運送の東京急行が激しくなり、中部ソロモンに地上部隊を輸送した。日本海軍連合艦隊長官山本五十六は、空母部隊から派遣した艦載機の約200機と、陸上基地の海軍機100機を持って、強力な日本航空部隊を編成、1943年4月ラバウルよりガダルカナル、ニューギニアのポートモレスビー、ニューギニアのミルン湾への空襲をおこなう「い号作戦」を行った。この作戦で、駆逐艦一隻、コルベット一隻、給油艦1隻、輸送艦2隻を撃沈し、25機の連合軍飛行機を破壊したが、海軍航空隊も50機以上の損害を出した。さらに今後の航空攻撃を準備するため、山本長官は幕僚とともに、現地の施設を視察し士気を高揚すべく北部ソロモン諸島に向け飛行機で出発した。しかし米軍はすでに日本の海軍暗号解読によって、彼が南部ブーゲンビルに飛行機で到着する時刻を知っていたのである。ニミッツはハルゼーに迎撃できるか質問、ハルゼーはミッチャーにに伝えた。ミッチャー可能だと返答、ヘンダーソン飛行場から一個中隊が発進、4月18日山本長官はブーゲンビル島でP-38ライトニングに撃墜され戦死した。ハルゼーはこの情報をブリスベンには知らせなかった、というのも暗号解読をほのめかすこのメッセージは南西太平洋軍の通信経由で渡されるため、マッカーサーのコミュニケを通じて機密を漏らすこの司令部を疑っていたからだった。
ガダルカナルの飛行場は強化され、NZ空軍、米国の陸海軍及び海兵隊の爆撃機と戦闘機が300機以上あり、異分子の集まりではあるが緊密に統合され、さらにニューギニアのジョージ・ケニー将軍の第五航空部隊の連合軍航空基地(ブナ付近のドボズラ、ミルン湾、ポートモレスビー)と共同作戦を実施した。しかしニュージョージア島のムンダ岬とコロンバガラの中部ソロモン諸島の日本軍の二つの飛行場は脅威であり、守備隊もニュージョージアに計11500、コロンバガラに9000あり要塞化されていた。
| ニューギニアの戦い(1943年前半) |
南西太平洋指令部はラバウル奪還計画作戦を立案し、サザーランドとケニーがワシントンに派遣された。1943年3月ワシントンの会議で統合参謀本部はこの計画を承認決議した。カートホイール作戦である。これはマッカーサー軍はニューギニアとニューブリテン島経由でその左足の沿って進撃し、ハルゼー軍はソロモン諸島経由で右足に沿って進撃する両輪となる作戦で、まさに「車輪:カートホイール」である。そして目標はラバウルの占領であった。この作戦は南西太平洋指令部の戦域で行われるため、南太平洋司令官のハルゼーの率いる軍は、戦域司令官マッカーサーの全般指揮下で行動を行うことになる。連合軍は海軍も陸軍も基本的にその戦域の戦域司令官の指揮下で行動を行うこととしていた(ただし太平洋艦隊はいずれの戦域でもニミッツの指揮下と定められていた。レイテ海戦の時のハルゼーは太平洋艦隊の司令官であったためマッカーサーではなくニミッツの指揮下であった)。ウォッチタワー作戦では戦域の境界線をずらすという妥協を陸軍がしていたため、今度は海軍が妥協せざるを得なかった。マッカーサーによって提出された計画は、ハルゼーとマッカーサーとの緊密な共同作戦を必要とするものであった。日本軍の防衛部隊の指揮官は、草鹿仁一海軍中将と、1942年11月よりラバウルに着任した今村均陸軍中将であった。
ハルゼーはマッカーサーの全般指揮の下で作戦するという見通しに、かなり不安を感じたに違いない。ハルゼーはこの将軍が海軍重視の念にかけていることを知らされている。マッカーサーはアメリカ海軍の懸命の努力にもかかわらず、日本軍は「西太平洋とオーストラリア外周の海上交通線を完全に制圧している」とオーストラリア側に断言していた。そしてその打開には
| 主として海軍力のみに依存できるのではなく、陸上部隊によって確保された陸上基地から作戦する空軍力に依存する……それゆえ、オーストラリアへの主な脅威は、海軍打撃力の大規模な初動極地集中を必要としない。むしろ陸上基地航空機の十分な集中を必要とするのである。 |
マッカーサーはケニーの影響ですっかり空軍信者になっており、元からの海軍軽視がさらにひどくなっていたのである。太平洋戦争を主として海軍の仕事と見なしているワシントンの提督たちにとって、マッカーサーの根強いシーパワー軽視は、いつもいら立ちの根源であった。
海軍は幸いにも、フィリピンでのいくつかの部隊が、砲火のもとに決して姿を見せなかったマッカーサーにつけたあだ名「ダックアウト・ダグ」を見つけ出した。血まみれのパプア会戦中も、この将軍は主としてブリスベンから戦っていたため、この悪名を保持していたようであった。しかし、この臆病ものの汚名は引き続く会戦で、マッカーサーが敵の砲火に自らを無謀にさらすことで部下たちを驚かせた時、全面的に信用されなくなっていた。それにもかかわらず、そのほかにこの戦争中マッカーサーに大っぴらにつけられたあだ名はなかった。有能な名文家ウィリアム・マンチェスターがこの将軍の伝記のために目立ったタイトル、つまり「アメリカン・シーザー」を考え出すまで、そのままだったのである。実際にマッカーサーはジュリアス・シーザーと多くの共通点を持っていた―――傲然とした態度、軍事と政治双方に対する無比の統率力、それに大きなうぬぼれなどが冷酷な自己主義によって支えられていたのである。
1942年10月末、マッカーサーがポートモレスビーに移った時、まだ戦線からは100マイル離れていたが、マッカーサーのコミュニケは発表されている「最高司令官は戦場に到着した」、その代わり前線にアイケルバーガー陸軍中将を派遣した。アイケルバーガーがブナ占領の占領に成功した時、マッカーサーはコミュニケで、平然と自分の手柄にしている。戦後アイケルバーガーは「私は確信している。マッカーサーの最大の関心事は、自分の得たものを世界に目立たせることだった。これはマッカーサーがブナの攻撃を指揮しているという見出しが、どうしてポートモレスビーから出たのかだけで、説明がつくであろう」。マッカーサーの有名なコミュニケが、最終的には彼の名声を汚すに違いないことに、マッカーサーの情報参謀が気づかなかったのが不思議である。これらのコミュニケは当時読んでいた国民には一般に額面通り受け入れられたが、事実と将軍の公表とを比較できる多くの同世代の将校、ジャーナリストおよび将来の歴史家全員は、事実のコミュニケの違いに当然気が付くはずだったからである。
マッカーサーのコミュニケのでっち上げを、少なくともいくつかの事実と比較できる立場にあったハルゼー提督は、早くからこの将軍をペテン師だと決めつけていた。この将軍を潔しとしない提督は、ついに怒り出した。1943年2月、ガダルカナル撤退を援護するため、日本軍が海と空からけん制攻撃を仕掛けてきたとき、南太平洋軍司令部には明らかな危機に対処する十分な航空機はなかった。必死になって、ハルゼーはマッカーサーにわずかばかりの重爆撃機の借用を申し入れた。将軍は無線電報で「本官自身の作戦が、本官の航空部隊を最大限に使用する事態に直面している」と述べてこの要求を拒絶した。
| 「本官は貴官が意図していることが全く分からない。本官の航空部隊の派遣を考える前に、貴官の意図をいくらかでも知ることが必要である。十分な情報が、協調を許可する本官に入手できるような場合にのみ、効果的な支援が与えられるからである」 | はあ?、こっちの作戦が信用できないってか?、ふざけんな |
ハルゼーは腹を立てた。協同を同意する前に意図を知ろうとする要求で、マッカーサーは提督の能力を見くびったようだったからである。ハルゼーはブリスベンに司令官代理のセオドア・ウィルキンソン海軍少将を派遣した。また侮辱したとみなしていた将軍の電報をニミッツへ送った。ニミッツへの追いかけるような手紙の中で、ハルゼーは「私は奴と、またはそのほかの自己宣伝をするくそったれと論争するのはまっ平です」。引き続く数か月間、ハルゼーがマッカーサーの戦略指導のもとで作戦しているとき、将軍との提督の交信は、いつも礼儀正しいものだったが、一般に短いものだった。一方ニミッツと一連の親密な手紙を交換し合っている。ハルゼーは自分の作戦の全面的な説明をニミッツにするとともに、おまけに少しばかりのゴシップも加えている。ニミッツの答えは、公式ながらやはり親切に、命令するのを慎重に避けながらも多くの進言をしている。
1943年の初めの数か月中、艦船と航空機の不足で、ハルゼーもマッカーサーもラバウルへの進撃が開始できなかった時、日本軍は予想された連合軍進撃の両足に、要塞化した陣地を構築し続けていた。東京急行が中部ソロモン諸島に部隊を注ぎ込んでいた。夜間の航行は空襲にさらされずほとんど危険はなかった。
4月18日の山本長官の暗殺の企ての素早い報告を南太平洋司令部で過ごして受け取るほどハルゼーを喜ばすことはなかったが、キャンセルできないと感じていた別の約束をしていた。ハルゼーはニュージョージア島への侵攻を、南西太平洋司令部のキリウィナ・ウッドラーク島の占領と同時に行うよう要求されていたが、マッカーサー将軍が両島の占領を延期させ続けていたため、会談が必要だと決定し、書斎にふんぞり返って「自己宣伝をしているくそったれ」のシーザーと対決しようと決意していた。彼はマッカーサーに書き送り、4月15日ブリズベンに来られたいという丁重な招待を受け取っていたのである。
| ということで、ブリズベンにやってきたのだ | やあ、ハルゼー提督。歓迎するよ。 |
4月15日ハルゼーは幕僚とともにブリスベンに飛び、マッカーサーも参謀たちとともに出迎えにふ頭に来ていた。マッカーサーは、ハルゼーがこの将軍に抱いていたような悪感情は盛っていなかった。マッカーサーはハルゼーに一度もあっていなかったが、激しく戦い、必要な危険を冒す用意のある率直な戦士としての評判で、彼を知っていた。ハルゼーは軍が戦争期間中接収していたブリスベンの立派なレノンズ・ホテルに快適な宿舎を割り当てられた。
翌朝、ハルゼーはAMP保険ビルの9階を占拠しているマッカーサーの司令部で将軍と会見したのだが…
| HAHAHAHAHAHA。率直で忌憚のない意見を述べる精力的な人物だ、艦船を失う恐れなど彼の海上戦闘の考えには全く相いれない。会った瞬間から、彼が好きになってしまったぞ。 | GAHAHAHAHAHA。なんだ、いいやつじゃねえか。将軍との議論は面白い。報告して5分後には長年の親友のように感じたぜ。それに爺かと思ってたが思ったより若々しいのな。 |
果たしてこの二人はすっかり意気投合してしまったのだった。
一連の友好的な討議で、マッカーサーは5月15日にニュージョージア島に侵攻するハルゼーの計画と、この間に将軍がウッドラークとキリウィナを同時に占領することに同意したのである。しかし南西太平洋軍は5月15日にも、延期された6月1日にも発動できなかった。地中海海戦及び死に物狂いのUボート戦「大西洋の戦い」への要求が、マッカーサーの新たに編成された第七艦隊に上陸作戦に必要とする駆逐艦、輸送艦それに上陸用舟艇を与えてなかったし、ハルゼーの頼りにしていた追加航空機軍も、フィジーから本土に戻されてしまった。マッカーサーは同時強襲開始日を6月末日に指定した。
しかし熟練した練度の高い日本軍搭乗員はひどく消耗しており、次第に増大する一方的な戦果となって米軍の攻勢が維持された。そこにつけてこの二人の意気投合は、ニューギニアの日本軍にとっては大いなる災難となってしまう。
| ニューギニアの戦い(1943年前半) |
日本の陸海軍は、それぞれ独自の戦闘機、軽爆撃機級、重爆撃機級の機を保有し、新規の開発をお互いに秘密にし、生産も独立して行った。日本の場合は海軍も重爆撃機や軽爆撃機に相当する機を保有し、その規模は陸軍の基地航空隊に劣らなかった。一方米海軍は単発の戦闘機と攻撃機、雷撃機のみしか保有せず、大型機が必要な場合には陸軍機を取得して使用した。
陸軍航空隊は前線のすぐ後方の野戦飛行場に展開し、前線の部隊を援護し敵地上部隊に攻撃を加えること、すなわち近接支援を主な任務とし、地上に目印のない海上飛行など考えたこともなかった。陸軍機に、南太平洋の海面と島々の上を飛行し、会場の艦船や島の敵軍を攻撃するためには、基本からやり直す必要があり、簡単に実現できるほど生易しいことではなかった。陸軍がメートル法による計測に頼っており、度量衡を乖離に変更することは、飛行機の景気変更から搭乗員の訓練やり直しまで広範囲に及び、遭難事故を頻発させた。
わが戦隊の翼を休めていたラバウルの西飛行場は、低い山並みにかもまれた小さな盆地のようなところにあった。先発隊で到着していた同年兵の佐藤重が、私の顔を見つけると駆け寄ってきた。彼は私に耳打ちした「本部と一中隊の飛行機は、一機が到着しただけで跡は全滅した。」突然の彼の言葉に私が戸惑っていると、さらに彼は「スパイが羅針盤を狂わせたらしい、スパイの手先になった整備兵の存在を疑われているから気をつけろ」と顔をこわばらせていた。
これに対して海軍航空隊は、敵艦船に対する魚雷攻撃や敵軍事施設の爆撃が主任務とされた。そのため海軍は航空母艦から出撃する母艦部隊と、基地航空部隊の二つの航空隊を作り上げた。どちらも敵機の攻撃が及ばない圏外から敵艦隊を攻撃するアウトレンジ戦法を実施できるように、非常に長い航続距離を有する点が共通していた。
陸海軍航空隊の運用思想の相違は、両者の飛行場建設に対する違いにも顕著に表れた。陸軍航空隊は近接支援を重視するため、前線のすぐ近くに簡易飛行場を建設することを企図した。海軍航空隊は、長い航続距離を生かして敵艦屋的航空飛行場をたたくため、安全なはるか後方に飛行場を設置する傾向があった。陸軍型近接支援的運用のため、はじめ陸軍では、工兵隊が工事を担当したが、のちには航空隊に付随する設営隊を編成して事業に当たらせるようになった。海軍も中央機構として海軍施設本部を設置し、菅鎮守府の施設部の下に、主に飛行場建設のための設営隊を編成して建設にあたった。編成された設営隊は150にも上ったといわれる。しかし前線においては敵機の行動範囲の下で設置されることがあるため建設に大きな危険を伴い、もっぱら人力に頼る作業であったため、工事期間がどうしても長くなった。完成した数少ない飛行場には、多数の飛行機が集中するため、日本機が空中戦よりも地上待機中に破壊される割合が高かった。
連合軍は、橋頭保を確保するや否や飛行場の建設に取り掛かり、アイアンマットといわれる穴の開いた鉄板を敷き詰めて、4,5日~1週間程度の短期間で中型爆撃機程度の離発着を可能にさせた。しかも急速造成にかかわらず、誘導路、機体を守る掩体まで設置されていた。建設現場は高射砲の弾幕を張り巡らして日本軍機を寄せ付けず、地上でも強力な防御陣地を配置して日本軍の反撃を封じた。飛行場の完成と同時に航空隊が進出し、地上軍に対する近接支援を始めている。「所望の地点に上陸し、速やかに堅固なる上陸拠点を構成し、ここに航空基地及び魚雷艇基地を推進設定したる後さらに空海の制圧を強化」とあるように、新飛行場が完成するとともに本格的前進を開始するのが通例であった。前線との距離は10キロ、20キロ、少数機でも反復出撃による出撃数は相当の数に上った。
大日本帝国陸軍は戦術教育職能教育に重点を置き、非軍事分野に関心なく民間の技術力は考慮しなかった。陸大で高度な戦術を学んできたエリートたちは、土木作業能力と戦況が関連すると考えなかった。
| ニューギニアの戦いの始まり ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) ニューギニアの戦い(1943年前半) ニューギニアの戦い(1943年後半) ニューギニアの戦い(1944年前半) ニューギニアの戦い(1944年後半) ニューギニアの戦い(1945年) |
42年11月のエルアラメインの戦いは、WW2の一大転機であり、遠く太平洋戦線にまで大きな影響を与えた。ニューギニアにおいても、待望の豪第9師団がついに帰還してきたのである。
すっかり空軍信者となっていたマッカーサーに会見するため、1943年秋、イギリス空軍の上級将校が東南アジア戦域を指揮するよう最近任命されたルイス・マウントバッテン卿の参謀に加わる途上、ブリスベンを経由した。マッカーサーはマウントバッテンのために助言を与えた。「彼にもっと空軍力が必要になるだろうと伝えたまえ」。そのイギリス空軍将校がうれしそうな表情を浮かべてこの情報の意味を飲み込むと、マッカーサーは机にこぶしを振り下ろした「いいか、私の意見としてもう一度もっと空軍力が必要になるだろうとはっきりというのだぞ」。事実、マウントバッテンは空軍力を重視、飛行機で部隊を運び込み、負傷兵を連れ出し、大量の物資を落下させて、ビルマのジャングルで連合軍の攻勢を可能にした。太平洋戦争を通して、空軍力は毎日作戦に従事した。それに対して歩兵部隊は、マッカーサーが指揮する戦域では、まるまる一年間も敵と接触することなく過ごす部隊も多数見られた。
ニューギニア戦の開始から半年も過ぎるころから「地獄のニューギニア」「魔の島ニューギニア」と恐れられ、海岸にたどり着くのも困難になりつつあった。米豪軍側が特に優れていたのは、飛行機の性能に含まれない飛行機に対する高い修理・改修能力で、格段に高い稼働率を実現し、配備された機数をはるかに上回る存在感を示した。この点では特にオーストラリア人の優秀な技術と献身的サポートが航空隊の円滑な運用を助けた。世界各国の陸軍航空隊はみな近接支援を重視したが、そのために最前線の近くに前線飛行場を設置しようと努めた。攻撃を終えて着陸した飛行機は、すぐ燃料や弾薬を補給し、何回でも出撃を繰り返すことができる。飛行場に余裕のあった米豪軍は、作戦が終了すると飛行機を安全な後方の飛行場に下げ、修理と整備を行い、搭乗員にたっぷり休養を取らせる。こうした運用によって、航空隊の戦力の維持と攻撃の継続を図ることができた。これに対して日本軍の飛行機は華奢で故障も多く、修理を受ける時間が長く、飛べないまま前線飛行場で地上攻撃を受けて破壊されるものが多かった。また搭乗員の酷使が目立ち、航空機の消耗以上に深刻な問題であった。米豪軍飛行場が堅固な掩体壕が必ず設置したのに対して、日本軍の飛行場に掩体壕のあるものはラバウルの一部飛行場だけであった。
1943年6月30日、ブレイミー指揮下の豪軍のニューギニアのナッソー湾への上陸と、クルーガー指揮下のアラモ軍団のウッドラーク・キリウィナ上陸、ハルゼー軍のニュージョージア島レンドバ上陸が合わせて行われた。連合軍の本格的な反撃、カートホイール作戦が始まった。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
駆逐艦と潜水艦を使ってラエ、フィンシュハーヘン、ニューブリテンのツルブに補給品の輸送が行われたが、フィンシュハーヘンとラエ間に輸送舟艇の秘匿基地を設け、大発、海トラック、さらには焼津漁港で徴用した漁船団を使って少しずつ運ぶ体制が整備された。ニューギニアも夜明けから日没まで絶えず米豪軍機が飛び交い、地上にいる日本兵は程度の差こそあれ「空爆恐怖症」にかかった。17年前半まではB17、P39、40戦闘機であったが、後半になるとB24、B25、P38が登場し、活動も積極的になった。B24は機体全体にハリネズミのようにたくさんの機銃を備え、日本機の迎撃など無視して海峡上空を長時間にわたり紹介し、日本軍の動きを発見すると、6-7トンもの爆弾を降らせて苦しめた。ニューギニアで日本軍を最も苦しめたものの一つ、B25爆撃機は、機銃掃射、木立の先に腹をこするほどの超低空飛行からのパラシュート爆弾投下等によって、地上部隊をジャングルに逃走させ、日本機を地上で破壊し、輸送従事中の日本軍の小型舟艇を撃沈し、補給物資を火だるまにした。危険を冒して運んだ糧食や軍需品は、いったんラエに集積され、それから舟艇によってサラモアに輸送され、サラモアから先は兵士頼みの担送であり、最前線の兵士は極度の緊張と飢餓のために幽鬼のように変わり果てた姿になっていた。
3月末、ラエ・サラモア地区の日本軍の兵力は第51師団司令部、歩兵第102連隊、歩兵第115連隊など6,000名、ブナ支隊(独立混成第21旅団)の生存者約1,000名、海軍陸戦隊(佐五特)1,000名の合計8,000名まで増強された。
ラエ・サラモアで日本軍の敵となったのはブレイミーの豪軍だった。マッカーサーのカートホイール作戦において、ブレイミーはニューギニア本土を担当した。彼は新技術に熱心で、特殊旅団、空てい部隊、新型着陸船にて補給を行った。またブレイミーは幕僚のエドワード・フォートらの意見を受け入れ、マラリア対策と医療に対する努力を積極的に支持し、最終的に病気の制御に成功した。マッカーサーはブレイミーが行った戦略の変更の多くを受け入れた。その一つにマダン攻略の前にニューブリテン島への上陸を行ったことが注目に値する。豪軍の作戦はここではきわめて順調に行われた。そのためブレイミーは12人もの将校を将軍に昇進させ、豪州議員にあまりに多くの将軍がいると批判されることにもなった。
1943年6月30日深夜、ついに連合軍がサラモアの南東30キロのナッソー湾に上陸、これでブロロ盆地にある豪州第三師団に対する補給が容易となった。この地の豪軍は日本軍のニューギニア進出以来、1年以上にわたり、飛行機によるわずかな補給によって、日本軍の攻撃を撃退していたのである。連合軍はサラモアの日本軍に対し、牽制的な攻撃を行った。また南方ワウから豪軍が迫り、サラモアを包囲した。マッカーサーはサラモアをすぐ落とさず、戦略要地であるラエを攻略する前に、サラモア戦によってサイフォンで水を吸い出すようにラエの日本軍を引き出してたたく作戦で、サラモア戦はこれから1月半後の9月8日師団がサラモア撤退を発令するまで続いた。米豪軍の哨戒機、魚雷艇は日本軍の舟艇や大発を襲っては撃沈し、ラエからサラモアへの兵力の動きを米豪軍が大目に見ている印象を全く受けなかった。ラエ方面からサラモアへの日本の増援軍はぼつぼつ到着しており、マッカーサーの狙いは成功したといわねばならない。サラモア周辺で豪軍との間で戦闘になったが、豪軍は撃退されている。比較的穏やかに終始したのは、日本軍をラエに後退させないための処置だったと推察される。
ちょうどこのころ、第八方面軍司令官で大将に昇進したばかりの今村均は、ニューギニア視察のためラバウルを離陸し、マダンの第十八軍司令部に向かった。この視察の目的の一つは、第二十師団が取り組んでいるマダン・ラエ間道路建設工事の進捗状況の確認であった。今村ら方面軍司令部は、9月末の完成をめどに、この道路を使ってマダンからラエに兵力・武器弾薬を送り込み、いっきょにワウをたたく作戦計画を立案していた。連合軍の航空機、さらに魚雷艇の活動で、大発や漁船の沿岸航行が一層危険になり、内陸部の道路で補給するしかない。しかし現地にきて聞きしに勝る泥濘に驚いた。内陸部をジャングルでおおわれている南洋地方の交通は、昔から海浜交通、海上交通に頼ってきたが、その理由は、ジャングルや山岳地帯を切り開いて道路を建設しても、南洋の豪雨にはかなわないことにあった。激しい降雨の後を必ず襲ってくる幾筋もの鉄砲水が、どんな頑丈な道路でも橋でも流してしまう。さらに爆撃機にたちまち寸断されてしまうことは目に見えていた。
板鼻中将の率いる第六飛行士団が、ラバウルからウェワクに進出したのは18年4月である。2月以来、トラック島で整備訓練を受けていた第二百八戦隊の99式総計2型35機がブーツに進出したのが18年5月で、このころに第六飛行士団の実働戦力がほぼ出そろっている。約151機が内訳であった。まだ派遣数を増やす余力があったが、その障壁になったのは飛行場の受け入れ態勢であった。米陸軍航空隊の日増しに増大する戦力と活動を受けて、大本営は第四航空群の下に、第六飛行師団とともに、スマトラ、ジャワ、チモールやアンボンを含む豪北方面で行動中の第七飛行師団を置くことにした。同飛行師団は18年1月に編成され、6月からポートダーウィン攻撃を開始したばかりであった。須藤第七飛行師団長の意を受けて、事前にサラモア方面をはじめ、ニューギニア各地の状況を視察した吉満中佐は驚いた。視察後、18年7月10日にラバウルに立ち寄った吉満は、第八方面軍の大坂航空参謀に対して、飛行場が狭く重爆用に向いていないこと、修理整備機能が不十分なこと、防空能力が貧弱なこと、給養衛生は最悪であることを等を指摘し、配備が予定されているウェワクは空襲の危険性があり、西方のホーランディアに根拠を置きたい旨要請した。大坂は譲らず、結局第七飛行士団のウェワク、ブーツ進出が決まった。第八方面軍司令部の指示は、最前線からかけ離れたラバウルという安全な後方基地から発せられており、実態をつかめないまま命令が出されていた。
サラモアの戦況に対応するため、マダンとアレキシスの各一か所の飛行場に第六飛行師団の一部を前進させた。6月30日に米軍がサラモアの背後のナッソー湾に上陸、これに対して7月1日から第六飛行師団は反撃を開始した。連日30機前後の規模の大きな航空戦力を波状的に繰り出しては、上陸米軍に空爆を加えた。同時期にベナベナに発見された敵飛行場にも大規模な空爆を再三加えており、ニューギニアに進出した陸軍航空隊が最も積極的に活動した全盛期と称することができる。この間、米軍航空隊はサラモア戦に戦力を集中し、8月13日にはB17とB24が60機以上も飛来し、第51師団のいるあたりを周囲の山容が改まるほど徹底的に爆撃した。この攻撃に主力のB25は投入しなかった。
8月11日の百式偵察機の捜索で、ラエの西方70キロのファブアに本格的滑走路を発見した。さらに大規模なマリリナン飛行場が近くにあり、これがウェワク攻撃用の本格的飛行場であった。ウエワク地域は飛行場建設の最中に爆撃を受けたものの、日中は偵察機の接近だけで、爆撃は夜間の単機爆撃機による攻撃のみであった。そのため、建設に遅れが出たものの作業は継続され、ようやく飛行場が完成し、この地域で日本軍機の発着が可能になった。オーストラリア公刊戦史によると、1943年8月までに、陸軍第六飛行師団の5個の戦闘機戦隊と3個の爆撃機戦隊がウエワクに配置され、総力は航空機324機であったという。15日朝、第208戦隊に双軽7機、第24戦隊の一式戦闘機14機、第59戦隊の同22機の合計43機でファブア飛行場を爆撃したが、敵戦闘機に双軽が集中攻撃を受けて全滅、しかし地上にはダグラスDC3と思しき輸送機があり、日本軍は数機を破壊した。夜も第七飛行師団重爆7機が夜間爆撃を行い、成功したとしているが、具体的戦果は明らかでない。16日にも第6飛行師団の戦闘機33機、重爆3機でファブアを2度にわたり攻撃、待ち構えていた敵戦闘機と空戦を展開し20機以上を撃墜したと報じられた。8月16日夜9時、再びファブア攻撃のため重爆三機が滑走路に向かって移動中にB24数機が来襲、ウェワク飛行場に爆撃を加え、同じころブーツにも爆撃があった。ポートモレスビーからB17の12機とB24の38機が波状銃爆撃を17日の未明まで繰り返した。高射砲で1基、双発機「屠龍」が2機を撃墜し、少数機の爆撃で被害は大きくないとみられた。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
しかし日本の戦意は、1943年8月17日に完全に打ちのめされた。夜が明けてみると前日の爆撃被害は予想外で、17日早朝、飛行場の修復の作業が始まった。そのころブナの飛行場を飛び立ったB25の大編隊は、午前7時半ごろハンサ湾上空を西に向かって通過し、それから間もなくブーツ東飛行場とウェワク西飛行場を襲った。アレキサンダー山系を超低空で侵入してきたB25が、突然飛行場に現れ、パラシュート爆弾を続けざまに投下しながら、一瞬のうちに飛行場を通り過ぎた。超低空で投下すると命中率は高いが、爆弾の衝撃波から爆撃機自身を守る必要がある、そのため考案されたのがパラシュート爆弾であった。両飛行場に合計891個を投下し、たちまち火災と炎に襲われた。この奇襲爆撃によって、第四航空軍が受けた被害は、炎上大破が約50、中小破が約50で、地上にあった三分の二以上が破壊もしくは出撃不能になり、出撃可能機は第六飛行師団が28機、第七飛行師団が12機の合わせてわずか40機の壊滅的状態になった。
翌18日午前8時、再び敵の大編隊がハンサ湾上空を通過中との情報が入った。ウェワク、ブーツの飛行場から23機が迎撃に飛び立った。B17が27機、B25が53機による爆撃によって、地上にあった修理可能機が次々に破壊された。B25のパラシュート爆弾の被害は決定的であった。しかし日本機は迎撃、戦史叢書より、米豪軍損害は8/18喪失は3機で、8/17-21で10機喪失と記録されている。二日間の爆撃によって、225機あったとみられる第四航空軍機は、わずかに30数機に激減してしまった。この攻撃を直接体験した航空情報隊の中隊長山中昭「この瞬間こそが日本陸軍航空敗北の第一歩であり、この時より以後、日本は降伏するその日まで、ついに制空権を掌中に収めることができなくなった。まさにその瞬間であった」。爆撃を受けた直後から、ウェワク・ブーツ両地区では昼夜兼行では損機の修理、飛行場の補修が行われた。大坂は四か月後に停職となり、さらに半年後に予備役に編入されている。日本軍には比較的珍しい懲罰人事であった。
8月17日以降も連日のように米軍機が来襲し、そのたびに第六飛行師団の戦闘機が飛び立つが、出撃すれば必ず損失が出るため次第にじり貧になっていった。関係方面の努力で20日には45機まで回復した。この日、セピック川上流上空にB24,B25,P38の集結の情報を得た第十四飛行団長立山大佐は直ちに発進を命じ、迎撃を企図した。ところが地上からの無線が不通となったため指揮管制ができず、各戦隊の分散攻撃となった。飛行機は一流だが、それに搭載した通信機は三流であった。陸軍などは直営の造兵廠に莫大な投資をし、陸軍が使用する兵器の大部分をここで作った。造兵廠の場合、国内に競争相手がなく、自ら研究、開発する精神を書き、二十年、三十年も改良を加えないことも珍しくなかった。
8月31日の第四航空群隷下の実働機数は、司偵4、重爆4、軍偵5、戦闘機55の合計75で、順調に回復。9月10日ごろの出動可能機数は百機程度まで回復し、11日には第七飛行師団が重爆12機、戦闘機42機という久しぶりの大集団を編成し、ホポイ攻撃に向かっている。13日には第七飛行師団は、ファブア攻撃のために重爆12機、戦闘機45機、指定1機の合計58機を動員しており、次第に規模が大きな作戦ができるようになっていった。しかし米豪軍の出撃規模に比べると一桁も違う。9月15日にP38が30機、B24が22機という米軍にしては小規模の攻撃があり、日本側は55機もの遊撃機をあげて阻止を務めたが、地上では25機もの被害を出した。一時間以上も前にマダン近くの対空監視省からの情報があったにもかかわらずこれほどの被害を受けたのは、故障か整備不良で離陸できない機体が多数あったことを推測させる。ニューギニア戦における陸軍航空隊の消耗のうち、地上でなすすべもなく撃破された飛行機が非常に多かったが、その一因が整備不十分で地上待機が多かったことである。9月23日第四航空群は隷下の実働戦力を点検したが、合計89機に過ぎなかった。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
ウェワク・ブーツまで制空権を一挙に広げた米豪軍は、9月4日にラエ東方へ上陸、翌日ナザブ平原に落下傘部隊効果、22日にフィンシュハーヘン上陸と、立て続けに攻勢をかけてきた。
D・バービー少将率いる南西太平洋水陸両用部隊(のち第七水陸両用部隊)は、豪第9師団を乗せてミルン湾を発し、9月4日有力な豪第9師団をラエの東方32キロのブソ川河口近くに上陸させた。これは初めて新型のLST(戦車揚陸艦)、LCT(洗車上陸用舟艇)、LCI(歩兵上陸用舟艇)を使った上陸作戦であった。新型上陸用舟艇は太平洋では少数で、18年11月のニミッツの部隊のギルバートの上陸作戦も旧式舟艇のため揚陸に苦労している。新型LSTは海岸線ぎりぎりに接近し、艦首の扉を観音開き式に開け、タラップを下ろして戦車、装甲車、兵員を一度に卸すことができるため、ガ島やナッソウ湾で行われていた小型ボートを使った従来の上陸作戦の概念を一変させた。ラエ東方上陸作戦の際には、まず上陸地点に対して艦砲射撃を行い、それから上陸してきた。これまであまり行われたことがない方法で、情報収集と偵察で日本軍のいないことを確認済であったのか、わずか駆逐艦五隻による五分間の砲撃のみであった。黎明前にLST 25隻、LCT 14隻、LCI 20隻がそろりそろりと海岸に近づいた。午前4時半からまず第一軍(7800名)がブル川東側海岸に上陸し、続いて第二軍(2400名)が午前9時ごろから白昼堂々上陸した。翌5日夜には、第三軍(予備旅団3800名)がブソ川とブル川の間の海岸に上陸した。陸上からの日本軍の反撃はなかったが、マダン近くのアレキシス飛行場を飛び立った第六飛行師団の戦闘機、軽爆が午前と午後の二回、豪上陸軍に攻撃を加えたが、軽微な損害にとどまった。
サラモアの第五十一師団司令部では、豪軍のラエ東方上陸の報を聞いて、サラモアが陥落しないため、サラモアを断念してラエ方面に行ったものだと解釈した。日本側はサラモアが持ちこたえている限り、米豪軍のラエ進攻はずっと先のことになると判断していた。だが、第十八軍命令が入電し、サラモア撤退のやむなきに至るのである。
実は日本軍の後方に部隊を上陸させ退路を断ったラエ東方上陸作戦は、なんとマッカーサーが初めて行った飛び石作戦であった。これまで日本軍と銃火・砲火を交えたのは主に豪軍で、米軍は航空機と艦船による援護と海上輸送、砲兵の砲撃、工兵の土木作業を担当した。マッカーサーは、米兵を安全な後方任務に下げ、豪兵を危険な前面に出したといわれそうな立場にいた。アメリカもオーストラリアも、夫や息子をやたらに戦死させれば、猛然と批判を受け、次の選挙で現れる民主主義国家である。こうした社会的背景の下で、少ない犠牲で大きな軍事的成果を上げるために創造されたのが飛び石作戦であったわけである。
翌日、もう一群がラエの北方に空から出現した。ワウの危機を空輸による援軍で打開した先例は、当然以後の作戦に大きな影響を与えた。9月5日午前8時45分、82機のC47輸送機がナザブ上空に現れ、マッカーサー自らが督戦する中、米第503落下傘部隊が降下作戦を行い、70秒間に1700名が降下した。米降下部隊の火炎放射部隊が丈の高い草を焼き払い、まもなく草に隠れていた飛行場が姿を現した。翌6日、豪工兵隊が輸送機で到着し、直ちに飛行場の改修作業を開始した。そして主力の豪7師団が空輸された。ナザブに集結した豪第7師団第25大隊がラエに向かって進撃を開始したのは、9月9日のことだった。ナザブの空挺降下は、アメリカ陸軍の最初の戦略的空戦の成功であり、シチリアでの悲惨な経験後第82空挺師団が離散するのを救った決定的な降下である。
一方あらかじめワタット川沿いのチリチリ飛行場に空輸された豪軍工兵隊は、降下作戦の直後にワタット川からマーカム川を舟艇でナザブまで下り、奥地開発用飛行場の改修に当たる。飛行場が使用可能になると、チリチリ飛行場に待機する豪第七師団の一個旅団、米空挺工兵隊、米高射砲部隊が輸送機でナザブ飛行場に進出し、次の旅団はポートモレスビーから空輸されることになっていた。チリチリ飛行場は米豪軍工兵隊が三か月もかかって建設したもので、日本軍は完成直前までその存在に気付かなかった。日本軍はベナベナの滑走路を警戒し、一個師団の派遣か新航空軍の投入の作戦計画の立案にまで及んだので、マッカーサーは戦わずして大きな戦果を挙げたことになる。
ラエが二方から攻め立てられ、包囲されてしまった。第五十一師団は最後までラエで戦い抜く決意であったが、6日に第十八軍司令部から事実上のラエ撤退を意味するマダン集結を命じられた。ラエ地区警備隊は陸軍の実働兵はわずか200名で、病人が1000名以上もいた。大急ぎでサラモアから主力が呼び戻された。サラモアを包囲する米豪軍は、日本軍のサラモアからラエへの後退を止めなければならなかったが、陸上部隊の配置が不十分であったため、第五十一師団司令部をはじめ各部隊は、ほとんど無傷でラエに後退できた。9月6日豪第9師団はラエとブス川の中間にあるブンガ川まで到達し、9日にはラエから約6キロのブス川に達している。ブス川は最も水量があり流れも速かった。10日豪軍は渡河を開始したが、第四十一師団第二百三十八連隊がこれに激しく反撃した。優勢な豪軍は航空機の援護を受けて、ついに渡河に成功した。第二百三十八連隊もサラモアから撤退して配置に就いたばかりであった。豪軍の蒙砲火の援護下、装甲車まで繰り出して前進した結果、第二百三十八連隊の各中隊が次々全滅した。総崩れの直前、大場部隊が援軍に駆け付け、その後ブス川の増水のために豪軍の動きは一時的に停止した。一方、ナザブ平原の豪第7師団は9日午前11時動き出した。しかし連日の悪天候で補給が滞り、動きが緩慢であった。豪軍の侵攻が一時的に鈍った11日に、日本軍のサラモアからラエへの撤退が集中的に行われた。
14日までに捕獲文書によって豪軍は日本軍のラエ撤退を知ったが、どのように後退するかまで把握することはできなかった。8500人にもなる将兵の撤退は、戦闘から最後尾まで2,3日はかかり、撤退のしんがりを務めた第二百三十八連隊の部隊と第二機関銃部隊は豪軍の進行を阻止し続け全滅したと推測される。第百十五連帯と独立工兵第十五連隊を基幹とした部隊が最後の第三陣でしんがりを務め、15日エドワード農園で激戦を交え、翌16日全滅した。この朝、豪軍は撤退後のラエ市に入ったが、日本兵の自決による死体が各所にあふれかえっていた。降伏の禁止と死の強制、自分への絶対的忠誠を実践しないものを不忠者、反逆者と決めつけるのは、古来から権力を握ったものが陥る悪弊である。兵士らに捕虜になることは「子孫を辱め奉ること」とまで言い切り、家族に類が及ぶと脅迫されては、戦場で追い詰められたときに残された道は「死」しかなかったのである。
ラエの陥落は明らかに連合国の勝利であり、予想よりも迅速かつ低コストで達成された。ラエ・サラモアの戦いで連合軍の損害が死者行方不明650人を含む2259人に過ぎないのに対し、日本軍は11600人の損害、うち10000が戦没者とみられる。ブナ・ゴナで米豪軍を悩ませた日本軍の堅固な陣地は巧妙な進撃により構築する間がなかった。ラエはその後、豪軍のラエ基地と米陸軍のE.ヘリング基地に変身し、ラエ要塞として結合された。ラエは港としても重要で、現在はパプアニューギニア第二の都市となっている。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
第五十一師団の撤退経路は、北本工作隊の調査活動報告に基づいている。北本は慶應義塾大学陸上部出身で、ロサンゼルスオリンピックの日本代表にもなった。北本の計画では当初一週間の予定であったが、実際には22日間かかった。危険かつ困難なルートだが、とにかくラエからキアリまで歩いて行けることが証明され、万が一の退避路になることを確認したのである。健脚を武器にサラワケット越えを果たした北本隊長は原住民の間にネットワークを張り巡らた。
情報網から、ある日ニュースが飛び込んできた。土民斥候がもたらしたのは敵が侵入しているとのこと。北本隊長は選りすぐった兵で50キロの行程をなんと3時間で走破し、目的地に到着した。情報通り、小屋には二十歳そこそこの大男がいびきをかいていた。「ノー、ノー」まだ二十歳を出たばかりの、そばかすの多い顔が引きつっていた。捕虜となった以上、日本軍には保護する義務があると言っているのだろう。早口でまくしたてる言葉のなかに、「デューティ」「レスポンシビリティ」が飛び出した。私は忘れかけた英語を搾り出しながら尋問を始めた。彼、ウィルバート空軍中尉は縛られないとわかると馴れ馴れしく、私のそばにやってきて何か食い物をよこせといった。軍の秘密をウィルバートは平気でしゃべった。話によるとサラモアを包囲するために、近く背後の草原に落下傘部隊を降下させる計画だという。直ちに今きたコースを走って引き返したが、真っ先にウィルバートがアゴを出した。翌日、ラエの憲兵隊がウィルバートを引き取りに来た。「殺さないようあなたからよく頼んでくれ」手錠をかけられたウィルバートは後ろを向きながら何度も懇願した。
搬送されていく車の鉄格子にしがみついて泣き叫ぶウィルバートの顔は、24年たったいまもときどきわたしの夢の中の登場人物となって現れる。後の転進のさい、彼は憲兵に射殺された。苦しみもだえながら、ニューギニアの大地に蹲るウィルバートが、夢の中で私に叫ぶ。「お前は、男の約束を破った」
9月6日の安達司令官の命令では、サラワケット山系を超えてシオに向かうか、カイアピットを経てマダンに向かうか、いずれかにせよとなっており、どちらのルートで撤退するかは師団長の中野に任す方針だった。カイアピット経由であれば比較的平坦で行軍しやすく、二十師団がマダン・ラエ間道路の建設に挑んでおり、途中まで行けば二十師団の援護と建設済みの道路に出られる。しかしナザブ平原に進出した豪第7師団及び米降下部隊が行く手を阻み、またこのルートは敵機の跳梁が激しかった。中野師団長はサラワケット方面への方向転換を決断した。変更を知らないまま後から北進した部隊の中には、米豪軍の待ち伏せに会い、全滅させられるものが相次いだ。
サラワケットに向かった将兵は8650名(うち海軍2050名)、北本工作隊が先導役を務め、進路工作隊が道路標示の設置や補修工事をしながら前進、各梯団はひたすらそれを頼りに行動した。米豪軍は深追いをあきらめたのか、攻撃も淡白で、それ以降一度も遭遇しなかった。しかし豪軍斥候兵は、撤退中の日本軍が去ったばかりの宿営地に踏み込み、おびただしい数の遺棄死体に呆然とし、虫の息の日本兵が豪軍兵士を見るなり、手榴弾で自爆する光景も目の当たりにしている。
数日間は比較的緩やかなアップダウンを繰り返す道が続いた。すすき野がつついたかと思うと、焼き畑のある部落が点々と見える一帯が続き、何とか食べ物が見つかるため、腹をすかせた兵士たちもしばらくのんきな気持ちに慣れた。撤退行が苦しくなったのは23日からである。急峻な森林地帯に差し掛かり、頂上付近では気温5度、当初は早々と食料を食いつぶした海軍陸戦隊の死体が多かったが、次第に陸軍兵の死体が数を増していった。標高4100mの頂上近くなると高峰らしく峻厳な山容に変貌した。近づけば岩稜帯ばかりで、絶壁がいくつも林立している。先行した工兵隊がかけてくれた縄梯子に一度に十数名がぶら下がったために縄が切れ、全員が谷底に落ちていった話を聞いた後続部隊は、一人ずつ慎重に上るようになった。また横に長い岩のフェースが行く手を遮ったが、工兵隊が探してきた長い弦かづらが岩の上からいくつも等間隔にぶら下がっており、ターザンのように次の弦を捕まえてスイングしてまた次に捕まる。途中で腕力が尽き谷底に落ちるものが少なくなかった。体力の限界に達し、ぶら下がる元気のないものは、下から縄や弦を眺めるだけで、ここを墓場にした。岩場は三日間も続いた。また縄梯子があり、順番が来るまで急斜面で休みを取る。頂上に通じる最後の急斜面について見ると、そこは岩場でなく粘土でおおわれた台状になっていた。一帯には力尽きた兵士たちの死体があちこちに横たわっていた。
頂上の先は緩斜面の湿地帯が行けども行けども続き、泥濘に足を取られそのまま絶命するもの、手りゅう弾で集団自殺する者たち、凍死するものなど墓場と化していた。湿地帯を通過後、断崖がまっさかさかに下の森まで落ち、道になりそうな斜面が見れない。岩にしがみつき足場を一つ一つ見つけ、少しずつ降りていくしかない。断崖とテラスの繰り返しをようやく抜け、延々と続くジャングルに入ると、間もなく最初の部落に出た。キアリでの陸軍帰還人員5555名、海軍1762名、総数7327名になる。ラエ出発時から1323名の未帰還となる。キアリにたどり着いた者たちは、ブナから引き揚げてきた南海支隊の兵よりはるかに元気であったとしている。撤退するまでラエに必要な食料があり、戦闘がほとんどなかったことが主な原因であろう。10月13日か14日にキアリについたとすれば、ほぼ一か月かけて縦走したことになる。
生還者87%に及び、経路は航空機の攻撃もなく極めて平穏で、「軍の作戦としては、一応の成功を収めた」。マッカーサーは敵をジャングルに押し込めれば、あとはジャングルが片づけてくれるとよく側近に話していたといわれるが、サラワケット越えは期待を裏切ったわけである。しかし残念ながら勝利には結びつかなかった。
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ハルゼー提督の任務はブーゲンビル島を攻略、同島に飛行場を建設し、ラバウルを攻撃することであった。6月30日、ターナー提督の第三水陸両用部隊は6000の兵をレンドヴァ島に上陸させ、ムンダを大砲の射程内に置いた。カートホイール作戦の始まりである。7月6日のクラ湾野戦、21日のコロンバガラ島沖海戦はレーダーを駆使した米海軍が圧勝した。しかし陸上部隊がニュージョージア島のジャングル内に入るや、見通しは一変した。強固な陣地に立てこもり、散発的に増援された4500の日本軍は、1か月にわたって米軍の攻撃を食い止め、7月4日までに占領するという事前計画より多くの日数と損害を要することになった。米軍は陸軍32000、海兵隊1700名の海兵隊に増強され、、ムンダ飛行場をようやく占領したが、戦死者1195名を出すなど大きな被害を出した。このためハルゼー提督は要塞化されたコロンバガラ島を迂回し、8月16日防御の薄いベララベラ島へ侵攻した。日本軍司令部はコロンバンガラ島とニュージョージア島の放棄を決定した。まず8月30日までにニュージョージア島の部隊が、大発と小型船を使ってコロンバンガラ島に転進した。コロンバンガラ島に集結した日本軍12,000名を、9月18日チョイセル島を経由して10月1日夜ブーゲンビル島に撤退させることに成功した。
魚雷艇PT109は1943年8月1日にソロモン諸島のニュージョージア島の西で日本海軍艦隊の輸送業務を妨害すべくほかの13艘と出撃したが、深夜になっても敵を発見できず基地に帰還しようとした。その帰路で、8月2日午前2時半、PT109は日本海軍の駆逐艦「天霧」に不意に遭遇し衝突された。小さな魚雷艇の船体は引き裂かれて乗組員は海に投げ出され、2名が死亡、数名が重傷を負った。事故直後は生存していた10名の乗組員は海に飛び込み、日本軍が去るまでじっとしていた。その後、大破した船体の木にしがみついて夕刻になって近くの小島まで泳ぐこととした。ケネディは負傷した仲間を命綱で結びつけて6キロ泳ぎ、なんとか小さな島にたどり着いた。そこは全長が100mに満たない島で水も食料もなかった。そこでケネディは、1人でそこからさらに4キロ南にあるオラサナ島とナル島を泳ぎながら往復して救難方法を探り、食糧が確保できるところを探した。そしてオラサナ島に生存していた乗組員全員を導いた。この島にはヤシの実があり、水が確保できた。そこで島民に出会い、ビウク・ガサとエロニ・クマナが操るカヌーと接触した。
ケネディはココナッツにメッセージを刻んでガサとクマナに託し、2人はオーストラリア軍兵士にこれを届けた。1943年8月8日、沿岸警備隊のオーストラリア軍監視員アーサー・レジナルド・エヴァンズ中尉はボートPT-157に乗ってケネディと彼の乗組員をオラサナ島で救助した。
この年の早くから、ハルゼーは提督、将軍、政治家、それに特派員たちがひっきりなしに南太平洋に到着することに対してニミッツに抗議していた。連中は必要としていた航空機と宿舎のスペースを占拠したし、ハルゼーと幕僚たちの戦時任務を妨げていた。43年8月に、エレノア・ルーズベルト婦人もこの時前線に訪問することになった。提督はルーズベルト婦人に会っていたし、尊敬もしていたが、戦闘中の南太平洋への招かれざる到来で迷惑をこうむるはずである。ハルゼー提督はルーズベルト婦人が飛行機に到着した時で迎えた。彼らは夫人がヌーメアで2日間過ごし、オーストラリアに飛び、帰途再びヌーメアで2日間過ごすと決定したが、そのあとハルゼーをたまげさせたことに、”可能ならば妻にガダルカナルを訪問させてやってほしい”という大統領の手紙を婦人がハルゼーに渡したのだった。「ガダルカナルは、あなたのいくところでありません、マダム」婦人が言った「私はぜひとも自分のチャンスをつかみたいんです。私に起こることに全責任をとるつもりです」「私にとって心配なことはこの瞬間にもニュージョージア島で続行している戦闘なのです。私には入手できあるあらゆる情報が必要なんです。もしあなたがガダルカナルに飛ぶ場合、護衛用に戦闘機一機を割かねばなりません。その余裕はないのです。」婦人ががっかりしたように見えたので「ですが、あなたが戻られるまで私の最終決定は保留しておきましょう」。婦人が宿泊するウッキィーワッキィーロッジ街に配備された大勢の海兵隊員を認めた時、ハルゼーは不愉快になった。翌日ルーズベルト婦人は陸軍病院一か所と海軍病院に個所を訪問した。婦人はあらゆる病室に立ち入り、すべてのベッドで立ちどまり、重症者を含む各患者に話しかけ、必要としているものとか、家族にメッセージを伝えることができるかなど訪ねていた。夫人の訪問は短い時間で優れた成果を上げてくださったと医官たちがハルゼーに保証した。婦人がオーストラリアから戻って来た時、ニュージョージア海戦は終わっていた。不安を抱きながらも、ハルゼーはパールハーバーに帰る途中、ガダルカナルに立ち寄れるよう手配した。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
43年9月10日ブリズベンで南西太平洋指令部と南太平洋指令部が会談した。マッカーサーはハルゼーが11月1日ごろにブーゲンビル島を奪取できるよう、日本空軍力を無力化するため、10月末に両軍の航空軍によるラバウルへの空爆を提案した。ケニーの第5航空部隊より、10月12日からラバウル空襲が始まった。10月12日の349機からなる初の昼間大空襲で駆逐艦太刀風、望月、水無月、給油艦鳴戸などが損傷、10月18日よりは6日間連続空襲、駆逐艦望月が空襲により撃沈された。11月2日にはB-25 72機とP-38 80機の大部隊のラバウル大空襲があった。この時の空襲では重巡妙高が至近弾をうけてタービンに亀裂が入り、駆逐艦白露も方位盤を損傷した。その他、船舶15隻が撃沈され11隻が損傷した。一方、第5航空部隊もB-25 8機、P-38 9機が失われ、ウィルキンス少佐が撃墜されるなど損害を受けた。この援護の下、ブーゲンビル島上陸作戦が決行される。
ブーゲンビル島はソロモン諸島の北側に位置し、バイオリンの形をしたこの諸島の最大の島である。この島とその付近には33000名の日本軍がいた。ハルゼー提督は、日本軍の拠点の島の南端にあるブインを素通りし、島の西岸中央部にある防備薄弱なエンプレス・オーガスタ湾のタロキナ付近に上陸するという大胆な計画を立てた。上陸部隊は第3海兵師団、第37歩兵師団、Nz1旅団の34000人であり、ヴァンデクリフト将軍が指揮をした。これを支援する海軍兵力はさらに不十分であった、何故なら当時の地中海作戦のためと、ニミッツ提督が米第五艦隊を中部太平洋に使用しようとしていたからである。しかし意表を突かれた日本軍の抵抗は微弱だった。11月1日、エンプレス・オーガスタ湾に14000名の部隊と6000トンの物資の揚陸を終わった。メリル少将率いる米海軍は、11月1-2日にかけてのブーゲンビル島沖海戦にも圧勝した。
11月4日、米ソロモン諸島航空部隊の飛行機は、補給のためラバウルに近接中の栗田部隊を発見、警報を発した。メリル部隊は疲労しており、栗田部隊は強力であった。この緊急の事態に対処するため、ハルゼー提督は、マッカーサー将軍が16か月前に提案した時米海軍が反対したことを実施したのである。すなわち、ラバウルにおける日本艦隊攻撃のため、シャーマン提督の空母部隊をソロモン海に派遣したのだ。さらにソロモン諸島の第5航空部隊に対し、全力を挙げて支援するよう言明した。こうして11月5日に行われたラバウル空襲は巡洋艦6隻と駆逐艦2隻に損害を与え、栗田部隊を作戦不能にした。11月11日第五艦隊より空母3隻を借り、さらに大規模にラバウルを攻撃し、輸送艦と貨物船に大損害を与えた。一方ブーゲンビル島に上陸した陸上部隊は着実に前進を遂げ、2週間に34000名と23000トンの物資を拡大する戦線に輸送した。海軍建設大隊とNz工兵隊は、1943年末までに戦闘機と爆撃機用飛行場を建設し、ビルマルク諸島全域を爆撃機威力圏とするようになった。ブーゲンビル島への輸送は11月30日を最後に打ち切られ、ブーゲンビル島の日本軍守備隊である第十七軍は孤立し、疫病や飢餓に倒れた。
10月12日から11月11日の間に、日本軍はラバウルで200機以上の航空機を地上で失い、数十隻の船舶を撃沈されたのである。しかしこの拠点はまだ輸送基地として機能しており、中央太平洋から飛行機が供給され、日本軍の陸海軍両軍航空部隊の保有する爆撃機数は169機、戦闘機は215機と維持されていた。しかしその後ラバウルの軍事的価値が低下する。
11月21日ニミッツ提督指揮の中部太平洋部隊がギルバートに上陸した。中部太平洋部隊がかなり大規模な作戦行動を開始したため、ラバウル方面における日本海軍航空部隊は新しい問題に直面することになった。それまでは保有機数には、おおむね変化がなく、ウェワクにおける大損害にもかかわらず、日本陸海軍航空機は合計して毎日平均、戦闘機225機、爆撃機306機だった。戦闘機の出撃回数はラエ作戦当時よりわずかに衰えたが、爆撃機のほうは、二十日間におおむね各機一回出撃という、ごくありふれた程度の努力を継続した。このように、増援の要求、兵力補充の要求が最も優先的にかなえられていたのだが、もはや、そういう期待はできなくなった。マーシャル諸島方面に新しい要求者が現れたからである。
ブーゲンビル島沖航空戦とは、1943年11月5日から12月3日までの間にブーゲンビル島周辺で日本海軍がアメリカ艦隊に攻撃した航空戦である。米軍の上陸作戦阻止を目的としたろ号作戦中に発生した航空戦が11月6日の大本営発表で「ボーゲンビル島沖航空戦」と呼称されたことが始まりだが、この航空戦はろ号作戦後も続いて同名で呼称され、第六次まで続いた。同戦闘では大戦果が報告されたが、実際連合国は大きな被害もなく上陸作戦に成功し、日本は航空戦力を大きく消耗しており、誤認であった。しかしこの失敗は生かされず、台湾沖航空戦の誤認戦果につながることになる。戦果の確認は帰還するパイロットの報告が頼りであった。米軍は飛行機にカメラを取り付けて誤判を防止したが、日本軍には何の措置もなかった。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
43年春先から、米統合参謀本部、マーシャル参謀総長、マッカーサーとの間で、今後の作戦方針について激しいやり取りが繰り返され、結局8月マーシャル参謀総長の提案によって、ラバウルをパスして西進することが決定された。日本側わけても第八方面軍は米豪軍はダンピール海峡一帯を制圧したのち、ニューブリテン島西部に根拠地を作り、そこからラバウルに侵攻してくるだろうと読んでいた。マッカーサーにとっては、ラバウルのパスはフィリピン進行を早めることが期待できるから、特に反対する理由がなかった。しかしそのためにも、一日も早くダンピール海峡とビティアズ海峡を抜けなくてはならない。ビティアズ海峡に面するニューギニア側の要衝が、フォン半島のフィンシュハーヘンとハンサ湾であった。
日本軍が初めてフィンシュハーヘンに入ったのは、42年12月17日である。その後大発や海トラによる沿岸航行が増えるに従い、陸軍の舟艇基地要員約300名が配置された。43年7月、米豪軍機が銃爆撃を加え始め、米魚雷艇の活動も活発になった。そのため陸軍は28日、フィンシュハーヘン南方20キロにあるタトウに第四一師団の歩兵第二百三十八連隊第五中隊を派遣し、敵魚雷艇を監視させた。26日、陸軍第一船舶団長山田栄三少将がフィンシュハーヘンに根拠地を構え、第十八軍は山田をフィンシュハーヘン地区指揮官とした。海峡への米豪軍の進出可能性が高まると、三宅貞彦大佐の率いる第二十師団の第八十連隊をフィンシュハーヘンに進出させた。進出命令を受けたときマダン南部、距離にして358キロにあり、徒歩で行軍することになった。部隊は持てる限りの食糧が支給され、8月初め行軍を開始した。途中にわたった河川が403、船の必要な河川20、落伍者を放置したまま、とにかく早くフィンシュハーヘンに着くことが強要され、おおむね9月中旬到着した。
米豪軍の計画では、ラエ攻略6週間後にフィンシュハーヘンに進行することになっていた。ところがラエ包囲作戦が予想以上に進展し、急遽3週間以上も早めて9月20日にフィンシュハーヘン上陸作戦を実施することに変更された。だがフィンシュハーヘン方面の日本軍の兵力についてまだ確実な情報が入手できていなかった。結局、ラエ東方の豪第9師団司令部内の作戦会議において、フィンシュハーヘンを避けて日本軍の少ないソング川南岸のアント岬付近に上陸することになった。典型的な飛び石作戦である。上陸作戦の実施時間について、豪上陸部隊が深夜の上陸作戦は場所を間違えやすく、昼間に上陸すべきだと主張したのに対して、米海軍は日本機の襲撃を恐れて深夜の上陸を希望した。結局、米海軍側の主張が通り、上陸作戦は午前2時半に行われることになった。フォン半島において、日本軍守備隊は、南方のラエからの陸上侵攻に備え、半島の中心フィンシュハーフェンの南部、東部の防御を固めていた。しかし、マッカーサーは豪第9師団を9月22日フィンシュハーフェン北部に強襲上陸させた、大本営、第八方面軍、十八軍の虚を突いて、連合軍が戦線背後に上陸したため、防御は、何もなされていなかった。10月2日豪軍はフィンシュハーフェンを占領した。
| 各兵、各部隊の後退は絶対に認めず、占拠地で必死敢闘、敵に打撃を与え、縦深的総合戦果により全般的持久任務を達成せん |
今村司令官の考えでは、この時点では、中部太平洋に連合軍が抜けないよう、フィンシハーフェンとラバウル島は、死守するつもりであり、強い口調で、現在の戦場で、死ぬまで戦えと命令したのである。
魚雷艇の活躍
10月15日、十八軍司令官の安達は120名を引き連れてマダンを出発、前述したように19日にキアリについてサラワケット越えをした第五十一師団の閲兵を行った。次いでシオ付近の舟艇基地を訪ね、陸軍船舶工兵第5連隊長野崎芳太郎中佐から状況報告を受けた。野崎らは敵魚雷艇の出没に悩まされ、輸送活動が阻害されている報告が出ると、安達は「さらに今後断固敵魚雷艇の妨害を排除し、舟艇輸送を完遂せよ」といった趣旨の支持をしたが、無理なことに活を入れても事態は好転しない。
ソロモン海域で活躍した米魚雷艇は、43年9,10月ごろからビディアズ海峡にも盛んに出没するようになり、マダン方面からフィンシュハーヘン方面に向けて輸送作戦に従事していた日本軍の大発や漁業機帆船に大きな被害が出始めていた。漁業機帆船は、静岡県の各漁港からはるばる最前線のニューギニアに駆け付け、船舶工兵隊の一翼を担って危険な輸送作戦に従事していたもので、一隻も故国に帰還できなかった。
米魚雷艇は50トン前後の小型艇で喫水が浅く、装備は魚雷と機関砲程度だが、強力なガソリンエンジンで時速四十ノット以上の猛スピードで走るため、複雑な海岸線や海流が早い島嶼周辺ではぴったりの艦艇であった。魚雷艇の快足を利用した神出鬼没の奇襲にはお手上げ状態であった。魚雷艇の脅威が魚雷ではなく連装機関砲であったのは、攻撃を受けるのが日本の小型舟艇であったことから明らかである。米魚雷艇集団は、ニューギニアの河川をさかのぼった発見されにくい場所に基地を置き、監視員の情報に基づき夜になって出撃し、予定地点につくとエンジンを絞って日本の舟艇の通過を待ち伏せた。日本の舟艇が近づくとエンジンを全開して高速で迫り、重機関砲だけで日本の大発や漁船を次々に沈めた。なお魚雷艇艦長ジョン・F・ケネディはのち大統領になった。
アメリカ全体の膨大な鋼材需要のために、魚雷艇建造に回す資材が不足していた米海軍はベニヤ板を使用した。ベニヤ板は日本でも大量に生産されたが、木造魚雷艇の建造に成功しなかった。艦隊決戦にこだわる海軍は、イタリアから高速魚雷艇の見本を輸入する話も潰して、以後関心を示さなかった。
サテルベルグ高地の戦い
フィンシュハーヘンに向かって行軍中の第二十師団は9月27日に主力の第七十九連隊がようやくシオに集結した。10月11日に二十師団長の片桐茂中将が南路を踏破し、サテルベルグの本部に入った。10月10日、フィンシハーフェン攻略を厳命され、19梯団に分かれ、道なきジャングルを行軍して来た、片桐師団長率いる20師団主力の先陣が、ソング川方面に到着した。片桐師団長は、上陸した部隊の海岸に、こちらも上陸作戦を行う、逆上陸と言う作戦を立てた。逆上陸部隊に当てたのは、わずか1個中隊(184名)。10月16日深夜に、この1個中隊が、オーストラリア軍の背後、アント岬に逆上陸した。豪軍の記録では、逆上陸した部隊の一部が勇戦して、旅団司令部に突入して、一時海岸が大混乱となった事を伝えている、しかししょせん1個中隊では、いかんともし難く、生存者7名であった。逆上陸に1日遅れの10月17日深夜、七十九、八十の両連隊が、カテカ攻撃に成功して、さらに戦果拡大に努めたが、攻撃は行き詰まり、10月19日には、二十師団の力が衰え事実上攻撃停止、そして翌日には豪軍の反撃を受け、さらに二十師団主力の背後にも上陸した。この時豪26旅団と、マチルダⅡ戦車1個中隊が来た。攻撃中止命令は、遅れる事10月25日に発せられ、二十師団の残余は、攻撃地点からサテルベルク高地に転進した。
フィンシハーフェン攻撃に失敗し、攻撃発起地点のサテルベルク高地に戻り、守勢に回った山田少将以下、4千名の将兵は、海岸は豪軍に取られ、内陸地なので補給もなく、食糧確保のため夜間出撃(イモ掘り出撃)に出ざるを得なかった。11月3日、片桐師団長は攻撃準備命令を下達した。第八十連隊第1大隊を三宅連隊長の指揮下に入れ11月22日黎明へ第二次攻撃開始命令が下達された。しかしまたしても文書がATISにわたり、攻撃配備がすべて豪軍側に筒抜けになっていたのである。11月16日早朝、二十師団の占拠するサテルベルク高地に豪軍の激しい砲撃が始まり、17日も同じように砲爆撃を繰り返された後、クマワに対して、戦車を先頭に火炎放射器を用いながら進軍してきた。この時豪軍のマチルダⅡ歩兵戦車の一両が37mm速射砲の至近直撃を受けて行動不能となってしまう。しかしその後山砲や速射砲の集中攻撃をすべて跳ね返し、乗務員はすべて脱出し、車両も回収されて翌日には復帰した。頑丈なマチルダ戦車は、日本軍の砲撃では容易に破壊されなかったが、肉薄攻撃で頓挫させた。しかし戦車の砲塔が生き残って砲撃を続け、第十中隊川崎孝雄少尉の小隊が全滅した。23日から豪軍は総攻撃に移り、一進一退の激戦が数日間続いた。三宅台南側の第十一中隊は、連続六時間にわたる集中砲撃にさらされ、そのうえB17爆撃機四機による絨毯爆撃も加わり、周囲のジャングルは丸裸になった。豪軍はグライダーを観測用に使用し、これを射撃すれば何十倍もの砲弾が飛んでくるため、日本兵は首をすくめて見逃すしかなかった。白昼でも暗いジャングルに、豪軍は日本軍の位置を正確につかんだうえに、日本軍が集結して攻撃態勢に入ると、必ずと言ってよいほど出ばなをくじく先制攻撃を仕掛けていた。翌日から豪軍は大砲、迫撃砲、機関銃、自動小銃、手りゅう弾のありったけを使って、数メートル、数十メートルずつ前進し、ひとまず前進を終えると鉄条網を張って日本軍に反撃できないように陣地を固め、それから缶詰を開けて食事を始めた。相対する三宅隊はもう3,4日の間何も食べていなかったから、この瞬間が一番つらかったと伝えられる。
豪軍にはマチルダⅡにくわえ、火炎放射型のフロッグやヘッジホッグ等の特殊戦車も配備されていた。このマチルダを装備した部隊は中隊-小隊規模で各所に分遣され、特に3インチ榴弾砲を持つCS型や「フロッグ火炎放射戦車」が、日本軍の火点潰しに有効に用いられた。攻撃を諦め、サテルベルグ高原の防衛をして、大損害を受けていた八十連隊(三宅大佐)を前線から下げた。25日早朝から豪軍がサテルベルグ高地の奪取に取り掛かってみると、どこにも日本兵の姿は見えなかった。夜陰に紛れて姿を消すのが日本軍のお家芸になっていた。27日ワレオ付近に集結し、12月3日にワレオ南方で遅滞作戦を行い、その後は早々に移動して44年1月5日にキアリに到着した。片桐師団長は作戦を中止し、主力をワレオ、ノンガカコに集結、次の攻撃を策すことに決心した。28日午前6時に命令が下達されたが、安達軍司令官はこれに強い不満を持っていた。フィンシュハーヘンの豪軍を「断固玉砕するまで攻撃を続行せよ」との趣旨の電報を片桐師団長宛に発信した。現地では戦闘を継続できる状態ではなかったが、それでも安達は攻撃を命じ続けた。マダンでの合同慰霊祭で行った訓示で、「補給の緊迫は諸官熟知のごとし、去れども現装備、現給養をもってして必ずしも戦闘を遂行しえさるに非ず、要は覚悟の一点に帰す」と精神主義を強調している。
フォン半島の戦いの結果
以後、北上する豪軍を食い止めるため血みどろの防衛をした。上位司令部の第八方面軍が、死守の方針だったため、十八軍で後退命令を出すわけにも行かず、大損害を被った二十師団もフィンシハーフェンから後退する事は出来なかった。旧日本陸軍では、このような無駄な戦闘による戦死が頻繁だった。この戦いの死者行方不明者は、豪軍がわずか283名だったのに対し、日本軍は5500名以上にも及んだのである。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
豪軍の先鋒がラコナ部落の前面に進出した12月15日、アラモ部隊指揮官クルーガー中将指揮下の米第112騎兵連隊が対岸のニューブリテン島マーカス(米軍名はアラウェ)岬に上陸した。日本軍は、早速強力な反撃を空から企ててきた。上陸後三時間と立たないうちに、推定百機に及ぶ日本機が、アラウェ上空に現れた。そして15から17日まで、延べにして約350機の日本機がやってきたが、これは日本軍がこれまでマッカーサー軍に対して行った最大の航空防御戦であった。しかしながら来襲を事前に警告されていたので、各空襲ごとに大きな損害を敵に与えることができた。
26日には、ルパークス少将に指揮された米海兵隊第一師団の二個戦闘団がダンピール海峡の要衝グロスター岬を挟む東南部と西南部のツルヴに上陸した。日本軍はラバウル航空隊を連日繰り出したが、このころから空戦能力の格差が日増しに顕著になってきた。空戦で撃墜される日本機が多くなり、12月末ごろになると次第に反撃も弱まった。米軍はマーカス占領後、直ちに飛行場を二つも三つも建設し、そこから繰り返し飛行機を飛ばした。フィンシュハーヘンまでは160キロである。44年1月3日、ツルブ地区の松田支隊長は、片山憲四郎歩兵第四十一連隊長の掌握する部隊に、内陸からツルブ海岸に向け総攻撃を命じた。攻撃は開始され、一時は目標三角山の奪取が報ぜられたが、結局この攻撃は失敗した。昭和十九年一月十六日戦闘は終った。すでに約二千人が戦死していた。これでツルブ地域は完全に米軍の手に落ちた。日本軍はラバウルに撤退したが、ニューブリテン島西端から東端ラバウルまで約五百キロの撤退行軍が、言語に絶する悲惨なものであり、多くの将兵がみじめな死にざまをさらした。
まもなくアラウェもグロスター岬も軍事的な意味は大きくないことがはっきりすることになる。アラウェには哨戒艇用基地は建設されなかった。爆撃機もグロスター岬から飛び立つことはなかった。
シオへの後退
12月17日第八方面軍から第十八軍に対してフィンシュハーヘン奪回確保の任務を解除し、持久作戦へ転換する命令が届いた。これを受けて第十八軍司令官は、最後の拠点であるシオの確保体制に移行し、暫時的から離脱してカワンガン川上流のカラサに戦線を移動させることを命令した。予想外に早い豪軍の北上に日本軍は後退した。
なおこの作戦から、サラワケット越えを終えてキアリで体力、戦力を回復中であった第五十一師団の諸部隊が二十師団長の指揮下に入ることが決まった。幸い豪軍の圧力は強くなかった。戦闘部隊の進撃が早すぎると補給部隊が追い付かなくなる、第9師団の各部隊が弾薬不足に直面し、28日師団長が部隊に2日間の前進停止命令を出したところであった。ダルマン川河畔には独立工兵三十連隊とサラワケット越えをした第二百三十八連隊第一大体が構築した陣地もあった。豪軍は戦車を先頭に立てて前進してきたが、撃退に成功した。準備に1日かけた豪軍は8日午前6時から猛烈な攻撃を始めたが、高木部隊の反撃のため豪軍も前進をあきらめた。シオにはマダンから状況視察に来た安達軍司令官がおり、高木部隊長には全滅覚悟の厳命が下達されていたのであろう。11日ごろまでに高木部隊も、ナンバリエ経由でシオに到着した。戦史叢書が引用する「第二十師団作戦経過用法」には、同師団の損耗状況がまとめられている。フィンシ戦開始前12526人が、ナンバリア集結時6959人となっていた。
第十八軍やソロモンの第十七軍を棄軍してでも、南方資源地帯や中部太平洋のカロリン諸島の防備を固めようというのが、絶対国防圏の狙いである。昭和18年末の大本営のある高級参謀は、「言うことを聞かねばニューギニアの第一線にやるぞ」と部下に放言していたといわれる。大本営の決定は、直ちに第八方面軍司令官今村対象にも発せられた。これを受けた今村は10月7日作戦方針を下達した。第十八軍は太平洋戦域の最大の陸上戦力であり、第四航空群は陸軍航空精鋭の半分近くを投入した大勢力であった。ニューギニアが落ちれば、マッカーサー軍のフィリピン進行は必至であった。そしてフィリピンが落ちれば、太平洋戦争の趨勢は決する。「新作戦方針」の第六項にあったインドネシア東部パンダ海の防衛強化策も、米軍の南方資源地帯への進行を恐れたものであった。どうやら日本軍は南方資源地帯を脅かされるのを極度に危惧していたことがうかがわれる。しかしマッカーサーはパンダ海方面を目指す気配を示さなかった。資源の海上輸送を遮断すればいい連合軍側が南方資源地帯奪取を急いでいたと限らない。戦略方策にあるような南方資源地帯の防衛強化策は、日本側の独善的判断から案出されたもので米英軍の取るべき戦略を無視した方策であった。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
ラム川流域のダンプにもオーストラリア人が開拓用に設置した滑走路があったが、豪軍は中井支隊の交代とともにダンプの滑走路を整備し、兵員と物資の輸送を行い、準備を急いだ。豪軍にしても米軍にしても、必要な兵員の集結や武器弾薬・糧食の集積が完了しないと決して行動を開始しない。いったん作戦が始まったときの破壊力は日本軍の比ではなかった。43年10月中旬になると豪軍は一個大隊程度の兵力を使ってラム川流域を下り、ケトバ付近から迂回してマダンをうかがう姿勢を見せた。中井支隊長は豪軍を牽制するためケセワ方面を突く方針を決めたが、11月30日、米駆逐艦のマダンに対する艦砲射撃が行われ、500名を海岸防備に割き、ケセワ作戦は600名でおこなわれた。12月8日攻撃を開始した日本軍はケトバを攻撃した。豪軍は頑強に抵抗したため8日中に落とすことができず、9日に始めた攻撃によってようやく奪取に成功した。豪軍は各地で後退を余儀なくされ、ダンプ以東へと退却した。12月25日に豪軍の攻撃があり、19年1月になると、連日のように攻撃を繰り返してきたが、日本軍は持ちこたえた。その後豪軍歩兵隊が斜面を登り始めたが、反撃により辛くも撃退することに成功した。1月20日爆撃後に豪軍歩兵は火炎放射器を使いながら斜面を登坂し、殲滅作戦に乗り出した。馬場小隊は全滅し、片山中隊は孤立した。21日から豪軍は片山中隊の陣地に迫ってきた。午後には陣地を奪われた。次いで豪軍は歓喜嶺東側稜線に肉薄し、1月末には屏風山稜線と基部を奪取したが、以後豪軍は、なぜか砲撃を繰り返すだけで攻め込んでこようとしなかった。両軍の膠着状態は2月初旬まで続いた。2月8日に撤退命令が伝えられ、夜明け前に包囲網を脱出した。歓喜嶺に至る激戦で専任の兵力が150まで減った松本支隊にとって危険性が大きく、豪軍も行動は牽制作戦の一環で、本気でマダンを狙う気はなかった。
19年1月2日のグンビ岬上陸を受け、ヨコピから歓喜嶺に至る方面の防御は第78連隊松本松次郎大佐の指揮する1個大隊班を主力とする兵力で当たることになり、これを松本支隊と呼んだ。日本軍側記録は山砲二門でも大軍相手に八面六臂の活躍をみせたと意気高々である。豪第7師団は、松本支隊とどれほど激しい戦闘を行っても、その勢いをかってマダン方面に進行しようとしなかった。豪軍の動きから日本軍の牽制が任務であると察してもよさそうだが、どうも日本人は相対的、全体的に見るのが苦手らしい。豪軍のマダン占領は日本軍撤退後の4月25日であった。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
豪州ではカーティン首相が将来の作戦計画をつつかれて困っているようだった。カーティンはルーズベルト、チャーチル両首脳が開いたいくつかの大会議には招かれておらず、自分でロンドンとワシントンへ出かけたが、そこでもはっきりした情報は入手できなかった。理由はともかく、11月22日に将軍に書簡を送った。将軍は直ちに電報を打ってブリスベンに飛び、カーティン首相と緊急の会議を開いた。
| カーティン首相 | 「今後のあなたの作戦、ことにあなたに配属されている豪州部隊が使用される地域と関連し、…豪州政府としては、あなたが豪州と委任統治領域以外の地域で豪州部隊をどうしようする考えであり、また両地域に影響するどのような作戦を考えておられるかについて、少なくともその概略をぜひ知って置く必要があります。…今後あなたの計画のうち豪州軍部隊を使用する面について常時知らせていただき、豪州政府もその計画に考慮を加えることができるようにしていただきたいと思います。…決してあなたの作戦行動に干渉したり計画作成に参画したりするためではありません。豪州政府は一貫して、こういった問題についてのあなたの処置に全面的な信頼を寄せており、あなたが手持ちの限られた兵員資材で目覚ましい戦果を挙げていることに深く感謝しています。前述のことはただ、私自身と豪州政府が豪州国民に対して負っている責任上お願いしているわけです。」 | 11月22日付け貴書簡の趣旨に完全に同意します。当地域の作戦の一句をあなたが招致されることが望ましく、また必要であることは論を待ちません。これからの会談でご希望通り、詳細にわたり私の全般的な戦闘計画をご説明します。もっとも、上からの指令による作戦については私は制限を受けていることにご留意ください。しきりに送られてくる命令で部隊の仕様の変更を余儀なくされるため、現在のところ私には将来の基本計画がまだはっきりしていない状態です。それに加えてご存知のように、戦闘の推移と敵の反応のいかんによって、司令官はほとんど即時に決断を下さねばならず、それによって部隊の使用計画が大きく変わることもあります。こう言った制限の範囲内で、私が関係し知っていることは残らずお知らせしましょう。 | ||||
12月14日の朝、第二工兵特別旅団がアラウェ海岸に上陸させる準備をする際にアラウェ攻撃の行われた朝、ケニーはジョージ・マーシャルをポートモレスビーからグッディナフ島に運んだ。マーシャルは南西太平洋方面軍に対する支援の欠如を非難し、暗に陸軍省が期待を裏切っていると責任をただすマッカーサーからのメッセージを、約2年間受け取ってきた。戦争遂行中、唯一直接話ができる機会に、マーシャルはマッカーサーに対して問題は陸軍省ではないと伝えたかったのである。キング提督が問題だとマーシャルは言った。キングは、陸軍が太平洋で戦線を一つも統制する必要性はない、太平洋は海軍の管轄だ、と考えていた。提督は「貴殿が太平洋戦争ではたいている重要な役割に反発している」し、マッカーサーに対する批判は個人に向けたものであり、それは強烈だとマーシャルは語った。海軍はまた、マッカーサーを過小評価する宣伝活動に積極的だ。キングの敵愾心は、さらに言えば、海軍長官フランク・ノックス、統合参謀本部長のウィリアム・D・リーヒィ、そしてローズヴェルト大統領にも共有されているのだ。こうした反対勢力に直面してマーシャルが、南西太平洋方面軍がより高い優先順位を得るためできることはほとんどなかった。マッカーサーは軍部間の対立によってこの戦争遂行が妨害されることに愕然とし、太平洋での指令権の一本化が図られるべきであると主張した。その結果、彼が副次機関になったとしても彼はその配置を受け入れるつもりであった。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
日本海軍の主力艦の昭和18年における行動経路は、トラックを拠点に内地、ラバウル、それに時々カビエン、ルオット、ヤルート等の間を往来しているだけで、最前線のニューギニアやソロモンには決して近づこうとしなかった。ブラウン環礁は、連合艦隊が来るべき艦隊決戦に際して艦艇の集結地として定めていたところである。同環礁は周囲40キロほどで、環礁上にエニウェトク、メレヨン、エンチャビー等の小島がある。機動部隊や主力艦軍が再び登場するのは、19年6月のマリアナ海戦である。ニューギニア戦は最も戦闘が激化した18年後半に、連合艦隊は姿を見せなかった。変わって駆逐艦や潜水艦が前面に出ることになった。だがニューギニア戦では、制空権が完全に米豪軍側に移り、しかも夜間の活動もレーダーのため困難になると、駆逐艦すらも接岸できなくなって行き、潜水艦だけが食料輸送や司令部および機関要員、重病患者、機密文書等を運ぶ唯一の輸送手段だった。日本軍の補給は、制空権、制海権を喪失した下で、夜間の海トラック、大発、小発、漁船等による海岸伝いの輸送に頼らざるを得なかった。これを困難にしたのが、魚雷艇の出現であった。
島嶼戦において日本軍が最も悩まされたのが、高速かつ小型の魚雷艇であった。島嶼水域は複雑な潮流が渦巻き、2000トン前後の駆逐艦でも危険な個所が至る所にあった。わずか5,60トンの魚雷艇はマングローブの茂み、加工をさかのぼったジャングルの樹木の下を隠れ家に、島嶼間の海峡を縦横無尽に走り回った。しかもレーダーを装備して夜間も作戦したため、夜陰に紛れて行動する日本軍の舟艇にとって最も危険な存在になった。エンジンを潜めて獲物の接近を待ち、発見するや猛スピードで追撃して重機関銃を浴びせ、日本軍の舟艇を次々に破壊して、輸送に大打撃を与えた。ニューギニアでは大発で移動中の師団司令部ごとやられた例もあり、陸上部隊の舟艇による移動も不可能にさせた。
米海軍は魚雷艇の威力と価値に気づくのは日本海軍と大差なかった。だが1937年1月にパイ提督が作戦において極めて有効と論じたことから、大急ぎで開発を進めることになった。メーカーの施策競争で選ぶことになり、エルコ社のPT10から48号が最初に実戦配備につき、このうち41号がマッカーサーをコレビドールから救出している。大戦中にアメリカが建造した魚雷艇は768隻にも上り、そのうちほぼ半分の385隻がエルコ社製で標準とされた。南太平洋に配備された魚雷艇群は20、艇数約240に上った。
魚雷艇には魚雷艇で対抗するのが最善の方法だが、日本海軍には一隻の準備もなかった。日本海軍も正規空母の建造には力を入れ、数量的には米海軍と同じ17隻に上る。米海軍の護衛空母76隻はさすがに多い。米海軍が違ったのは、駆逐艦及び護衛駆逐艦の合わせて748隻にも及ぶ大量建造で、日本海軍が戦争中に建造した駆逐艦は63隻である。そして最も小型の魚雷艇については、開発もままならなかった。魚雷艇が最も活躍した海面は、明治からの慣行となってきた陸軍が担当する海岸から沖合までの海面であり、もし海軍の魚雷艇がこれに進出すれば、陸軍との間で新たな対立が予想された。大発、小発は陸軍船舶工兵隊の所轄にあり、各地から派遣されてきた漁船団も第一陸軍船舶工兵司令部の指揮下にあった。
WW1後、イギリスよりソーニークロフト社製CMB55型二隻、ドイツよりエルツ社製LM27型1隻を購入して基礎研究に着手、しかし海軍は大きな大砲を詰めない小型艇の価値を認めなかった。昭和12年、日中戦争が激しさを加える中で、第三艦隊機関「出雲」が中国海軍の魚雷艇の襲撃を受けた。翌13年、上海において英国製魚雷艇2隻を拿捕したことから、14年度の臨時軍事費追加予算の雑船の部に初めて魚雷艇が計上された。昭和15年、国産初の魚雷艇が竣工し、施策低T-O型と呼ばれた。アメリカでも船体にベニヤ板が使われたが、日本では高級な骨材に欅、板材に檜が使われたアンバランスなものだった。日本ではベニヤ板の曲げ技術が遅れ、大発まではベニヤ板でできたが、魚雷艇用は無理だった。古くなった航空機用エンジン2基を積んだが、35ノットが限界であった。この後改良型T-1型、大型魚雷艇甲型、小型魚雷艇乙型などを試作したが、専用エンジンの政策がうまくいかなかった。ドイツだけが製造の難しいディーゼルエンジンを使用し、米英伊はガソリンエンジンを使った。
ガ島戦が激化した際、現地海軍から魚雷艇の配備を求める声が起こったことを契機に、18年初頭、イタリア製イソッタエンジンを分解し図面化した「71号6型」を大量生産することになり、三菱茨木機器製作所の建設を大急ぎで決めた。これほど壮大なノックダウン生産方法について、当然その実現は生易しくなかった。それでも19年5月第25魚雷艇が編成され、マニラに集結、アンボン、ハルマヘラのカウに派遣されることになったが、6月のサイパン陥落、目的地をフィリピンと変更した。ミンダナオ島を根拠地にして出撃の機会をうかがったが、結局何もしない間に米爆撃機の爆撃を数回にわたって受け、魚雷艇は全滅した。
| ニューギニアの戦い(1943年後半) |
飛び石作戦のカギは、敵兵力の少ない地点を探し出すことであった。それを解決したのが、情報分析集団であった。米軍はワシントンでも情報収集や分析を行ったのはもちろん、各軍でも大掛かりな活動を行った。南西太平洋参謀部第二部(ウィロビー少将)では、連合軍翻訳通訳班(略称ATIS)、連合軍諜報局(AIB)、連合軍地理班(AGS)、中央局(CB)を隷下に抱え広範囲の情報収集を行った。ATISは捕虜尋問や文書情報の翻訳分析、AIBは謀略や諜報、AGSは地理情報の分析、CBは暗号解読を主な任務とした。豪海軍がニューギニア及びその周辺初頭に広く配置した監視員(coast whatcher)は、日本軍の航空機や艦船の動きをいち早く通報し、未然に対比させて被害を最小限に食い止めるうえで貢献したが、AIBはこの活動を豪海軍から引き継いで任務の柱にした。ウィロビー「コプラ商人や農園管理人、熱帯の汚らしい港湾地区に駐在する電信印や行政官などから募集した。そして、この見張り機関の創設は、メルボルンにおける豪州海軍の情報部長R・H・ロング大佐の功績によるものだった。ロング大佐は非常に鋭い直観力を持っており、また、非常に思慮深い海軍軍人であった。マッカーサーの情報部はフィリピン以外には秘密活動期間網を持っていなかったので、ロング海軍大佐の持っていた組織に、早くも目を付け、それを中核にして、その情報網をとても大きなものに育て上げた。…連合軍情報局内の各国班の長はすべて、豪州人である監査役の指揮を受けることになっていた。そしてこの監査役は、ウィロビー直轄本部の指揮下にあった。」。
ロング海軍大佐の部下の一人に、エリク・フェルド海軍中佐がいた。彼はポートモレスビーに本部を構え、通称「北東地区」と呼ぶソロモン軍島内の秘密活動を指揮し、第一線活動に重要役割を演じていた。この活動記録はガダルカナルの戦勝に直接に関係を持っている。42年8月、比較的小兵力の米海兵隊がガダルカナルに上陸した。ソロモンにおけるAIBの情報網は、その沿岸見張り員によって、ラバウルやカビエンからやってくる日本軍飛行機隊を、発見できるように配備してあった。
最初はあまり期待されていなかったAITSだが、作戦の進展とともに劇的に評価が変わった。捕獲文書から機密情報が次々に抽出され、作戦の立案や遂行に直接影響を与えるようになった。だが難解な日本語を判読するには、どうしても日系人の協力が必要であり、そのため本国の日系人収容所から二世たちが招集され、あたかも日系人二世の部隊のようになっていく。その後、ミシガン大学やコロラド大学等で日本語教育を受けたヨーロッパ系アメリカ人を集めて膨張を続けた。彼らは上陸部隊と一緒に上陸し、文書資料アサリを始めた。ATISはニューギニア戦線で日本軍司令部後から焼却途中の文書、地中に埋めた文書を見つけ、また戦死した日本軍将校の懐や文書嚢からもたくさんの文書を捕獲した。これらをブリスベンのATIS本部に空送し、判読作業にかけて見ると、兵力の配置、部隊の移動計画、兵員数や武器弾薬量の内訳、戦闘報告案、戦闘中の注意事項等のほかに、数日後や一週間後の攻撃計画などが含まれていることが度々あった。
日本軍捕虜に対する尋問もATISの任務であった。日本軍には降伏がなく、当然日本軍兵士にも降伏がないから、原則的には日本兵から捕虜は出ないはずである。だがこれは観念上の話で、気を失ったところを捕縛されたり、負傷して捕まることもあり、捕虜が出ないということは現実的にあり得ない。ありえない処し方を強制した結果、捕虜になった日本兵士はよくしゃべり、機密事項でも得意げに話す光景が見られた。18年9月に捕虜になった日本軍兵士が描いた「大和」型戦艦の概念図は正確で、おそらくしばらく「大和」に乗艦勤務のあった海軍将校、あるいは建造に立ち会った軍属が書いたものと考えられる。日本海軍は遠くから写した写真を国民に公表することさえ認めなかったが、米軍は18年夏にはこれだけ詳しい情報をつかんでいた。膨大なATIS資料を見ると、海軍の「深山」などの航空機開発や現用航空機の詳細、横須賀や呉の軍港配置図など、国内では極秘化軍規に相当する軍事情報が、捕虜によって洪水のように流出したことがわかる。
陸海軍は身内の将校から大量の情報が漏洩しているにもかかわらず、滑稽なほど国民への情報公開を制限し、厳しく統制した上に監視も強めた。また市販の新聞雑誌からも軍事情報が漏洩することを危惧し、国内のマスメディアを厳しく検閲し、記事の差し押さえも珍しくなかった。試みに軍事情報を多く掲載する航空雑誌「航空朝日」を見ると、日本の戦闘機や爆撃機について公開機種を制限した一方で、米英郡の最新鋭飛行機であるP51やF6F棟戦闘機、B29爆撃機、モスキート攻撃機などが、まだ戦場に進出しない頃からかなり詳しいデータ付きで紙面をにぎわしている。出典はアメリカやイギリス国内で市販されていた航空雑誌で、駐在武官等が中立国でこれを入手し、シベリア鉄道経由で輸送したものらしい。日本軍は写真から機体の性能が明らかになることを非常に恐れたが、戦地で必要なのは日本軍のこだわる最高速度や上昇能力でなく、稼働率が高いか、整備しやすいか、機体の弱点、配備の情報である。こうした情報は写真からはほとんどうかがえないので、アメリカやイギリスは公表をためらわなかった。
豪空軍第22航空戦隊ウィリアム・エリス・ニュートン大尉(ヴィクトリア・クロス受勲)は、1943年3月17日、ニューギニアのサラモア上空で日本軍に撃ち落とされた後、捕虜となった。しかし、捕虜の身分が保証されるべきなのに、1943年3月29日に彼を捕らえた日本兵たちによって斬首された。
1943年10月24日、ニューギニア、アイタペ。体を縛られ、目隠しをされた斬首刑直前のM特殊部隊L.G.シフリート軍曹の写真が残る。通信士のシフリート軍曹は、ニューギニアの日本軍の背後で活動するオランダ人スタヴァーマン軍曹に率いられた長距離偵察部隊の一員であった。この一隊は裏切りに遭い、スタヴァーマンは殺され、シフリートと2人のアンボン人協力者レハリンとペート・ウェールは日本軍基地に連行され、アイタペの日本海軍基地司令官カマダ中将の命令で斬首形に処された。この写真の元の書き込みによると、日本軍の処刑執行人は終戦前に死亡したヤスノという兵士である。シフリートは満潮線よりも低いアイタペの浜辺に葬られたので、彼の遺体はその後発見されることはなかった。日本兵によって撮られた彼の処刑の写真は、1944年、米軍がホーランジアに侵攻した際に見付けられた。日本軍の捕虜取り扱いを示すシフリートの処刑写真は、その後すぐにアメリカの出版物、さらに豪州の出版物に紹介された。
1944年7月1日、ニューサウスウェールズ州カウラのカウラ捕虜収容所で第12捕虜収容所日本人地区の食堂の外にある野菜畑。組写真の中の1枚であるこの写真は、豪州極東連絡局が日本軍占領下の太平洋諸島と、日本本土にばら撒くための宣伝ビラ用に撮られた。1944年中期には、およそ1,100人の日本人捕虜がこの収容所に収容されていた。
1944年8月5日の深夜、集団脱走を図った日本人捕虜は、にわか仕立てのこん棒やナイフで武装し、収容所を囲む塀に殺到した。脱走に成功した捕虜の多くは次の数日間に再び捕らえられた。1,104人の日本人捕虜の内、234人がこの脱走事件で死亡し、108人が負傷した。豪州人の衛兵4人もこの時死亡した。
| ニューギニアの戦いの始まり ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) ニューギニアの戦い(1943年前半) ニューギニアの戦い(1943年後半) ニューギニアの戦い(1944年前半) ニューギニアの戦い(1944年後半) ニューギニアの戦い(1945年) |
1944年前半、日本本土は無傷であり、報道においてマキン・タラワ両島は43年10月壊滅し。ガダルカナル(国内では損害16734と報道されていた)やアッツ島の苦戦・撤退・全滅が暗い予兆であったとはいえ、その損害はノモンハン、台児荘(死傷11198)、平型関(死傷11000以上)等で受けた打撃と比べれば、確かに微々たるもの。一方では大陸打通作戦が開始され、インパールへの”快進撃”がはじまり、その陥落占領は「時間の問題」といわれ、報道される全般の戦局は何となく一進一退という印象であった。多少の損害はあっても、占領した地域は保持し続けたのが、昭和六年以来すでに12年続いていた実績であり、人々は何となく、この過去の経験の延長線上に現在と未来を見ていた。
しかし報道されなかったニューギニアの実情はまったく違った。43年中のラエ・サラモア、フォン半島、ソロモンの戦略的敗北は、占領していた重要拠点を敵に明け渡し、皇軍の損害は甚大なうえ連合軍の損害は微小なまさに惨敗の連続であった。さらにニューギニア航空消耗戦にて、ビスマルク海、ウェワク空襲、ラバウル空襲をはじめとした米豪陸軍航空隊との空戦に、悉く敗北していた。そしてそれは太平洋戦争の趨勢を決定するものであったことは当時誰も気づかなかったのである。
地下要塞計画は、十八年末の今村の防空壕被爆に端を発している。方面軍築城部が抗堪力を計算して綿密に構築し、さらに被覆土を六メートルにした壕さえ、二百五十キロ爆弾には堪えられなかった。そこで、自然の掩土高二十メートル以上の適地に洞窟防空壕をつくり、指揮機関や居住施設を一ヵ所にまとめ、敵が上陸前の猛爆撃にたとえ一トン爆弾を使用しても堪え得るものにしよう――という考えに到達した。
方面軍が「必勝行事」と呼んだ、各部隊各人が交互に三作業――訓練、築城、農耕に当る体制はその後もひきつがれていた。従って一年に日曜をのぞく約三百日、陸軍七万五千の将兵の三分の一の二万五千人、のべ七百五十万人の労働力である。地下要塞工事はまず洞窟を握り進む重労働から始まるが、方面軍にはこのための機械力がなかった。各自が十字鍬(つるはし)、円匙(えんび:シャベル)を手に、温度・湿度ともに高い洞窟内の作業であった。壕握り作業はジャングルの中なので直射日光は遮られているが、風通しは悪く、特に壕の中は蒸し風呂のような熱気で、作業手はシャベルを振るった。ラバウル地域の土質は火山灰、軽石質の所が多く、洞窟掘りには適していたが、それでも一人一日の掘開量は平均一立方メートルであった。海岸の岩盤や火山熔岩の多い山腹に備砲する洞窟掘りは、兵たちを泣かせた。作業の兵隊の多くはマラリア患者だが、彼らは発熱にもめげず働き続けた。洞窟延長線は二・五メートル×二・五メートルに換算して総延長約四百五十キロである。
| ……(兵たちの)営々として活動する姿は、いかにも尊いものに見られた。七万の各人が地下に六畳の部屋をつくり、そこに住み、物品を貯蔵して、生き且つ戦ったともいえる大工事を成し遂げたことになる。 |
十九年四月、今村の司令部はラバウル市街から東南約十キロの図南嶺(となんれい)と呼ばれる地点に移った。ここはラバウル要域の決戦指揮に最適の位置で、司令部には作戦室、参謀部など各部の事務室、また司令部約千人の居住に必要な寝室、食堂などが設けられていた。各部の間は迷路のようなトンネルで連絡できるいわば地下街で、司令部洞窟の延長は一・五キロに及んでいた。各砲兵隊は洞窟内に大砲を納め、しかもトンネル内にレールを敷設して、敵の攻撃正面を射撃できるように設備されていた。ラバウルでは、敵が海正面から上陸攻撃してきた場合は、その地点に逆上陸して敵を反撃する戦法が考えられていた。そのためラバウル湾内の断崖に深い洞窟をくり抜き、そこに大発など舟艇を納めていた。病院施設もすべて地下洞窟内に設けられた。入念に構築された手術室は塵埃のないように落下傘の布で四周を覆い、照明設備も十分ととのっていた。ラバウル要域内の病院数は十五ヵ所、五千五百人の患者収容能力があった。糧林、被服、需品、医療品など貨物廠所管の品目は、当初は揚陸地近くの林に野積みされていたが、十九年三月ごろから敵はこれらを目標の空襲を開始したため、いったん内陸のジャングル内に輸送した。これらの軍需品を地下洞窟に入れ終ったのは十九年末である。人員、兵器、車輛、弾薬、被服、糧食など一切が地下に納められ、その後は大空襲にもこれらの被害はほとんどなくなった。日がたつにつれ要塞内はますます整備され、必要な所には発電装置もあり、また一切の通信線が地下に埋設されたのを見て、今村は書く。
| ラバウル地下要塞は真に難攻不落と確信するようになった。昭和二十年にはいってからの米軍航空隊は、全く無効の大量爆弾を毎日空費していることになった。 |
カートホイール作戦の最中、1943年8月にケベック市で行われた統合会議で、フランクリン・ルーズベルト大統領とウィンストン・チャーチル英国首相と会談した。そこでは、ラバウルの迂回が決定された。代わりに、カビエンを攻撃する方針となったが、その後まもなく、カビエンもパスする決定が下された。最初はマッカーサーは反対したが、ラバウルを迂回することは、マッカーサーの計画が達成されたことを意味する。最終的にマッカーサーはラバウルをパスしニューギニア北海岸沿いに侵攻しミンダナオに向かうリノ計画に移った。ラバウル周辺の島に飛行場と海軍基地の包囲を確立することにより、補給戦からの遮断と、カートホイール作戦の一環としての継続的な空襲の下で、ラバウル基地は空軍基地として何の役に立たなくなった。そしてアドミラルティ―諸島の攻略、ホーランディア急襲上陸の圧倒的な成功を導いた。このラバウル放置戦略は最終的には日本軍の拠点を回避し、代わりに補給戦を遮断する戦略の有効性を示した。
歴史上、戦争の展開が開戦前の予想通りであったことはほとんどない。日本の伝統的教育は知識の詰込みにあるが、戦闘指揮の演習も、相手の動きを類型化してその対策を教官が教え、詰め込んで行く。連合軍指揮官が、日本海軍の指揮の同じパターンの対応をすぐ見つけ出したのも、こうした教育法に一因があるとみられる。マッカーサーは、海軍が海兵隊を使って要塞化された小さな島々へ正面から攻撃するやり方に批判的であった。このようなやり方は大きな損害が必至だ。マッカーサー戦略は、日本軍の性質を見抜き、その弱点を突いたものだった。すなわち陸軍重爆機を多用して日本軍の交通線を切断、日本軍を無力化し、強力な日本軍の基地のない地点に次々と上陸して、航空基地を造りつつ北上するものだった。 陸軍重爆機とブルドーザーを主力とする飛行場造成の工兵隊が、マッカーサー戦略の中心である。日本兵をジャングルに追い込むと、マッカーサーは決して部下に深追いさせなかった。
「あとはジャングルが始末する。」
米軍だけでなく豪軍もが大量の重砲弾を消費する火力戦ができたのは、単に国内経済の発達水準とか規模の問題でなく、どれほど金銭がかかっても夫や息子を守ろうとする大衆が存在する民主主義社会という背景があったからだ。豪州が日本の数十分の一の経済力であるにもかかわらず、キチンと火力戦の準備をして攻勢をかけてきたのは、政治的社会的問題と深く関係していることを示している。日本のどれほどの犠牲もいとわない「玉砕」や「特攻」という必死作戦は、日本の軍部支配体制が容認しているがゆえに実施できたもので、昭和初期から陸海軍は総力戦、総動員体制の必要性を繰り返し国民に吹き込み、日常生活での不自由さえも我慢させてきた。一方、開戦後しばらくの間マッカーサーに与えられた米軍兵力はあまりに不十分で、18年末まで陸上戦の主力を豪軍に依存しなければならなかった。そのため自国の将兵以上に豪軍将兵の戦死は、指揮官に対する批判または非難に発展しないとも限らず、マッカーサーは犠牲を出さないように日本軍を撃破する作戦を考案しなければならなかった。攻勢の進展とは相反する関係にあり、二つの相反する要求を両立させる企図から、立体作戦や飛び石作戦等が生み出されていったと考えられる。それは地上部隊・艦艇・航空機の三軍一帯の作戦によって大きな火力を作り出し、相手を圧倒するというわけである。こうした立体戦を円滑に行うためには、陸軍と海軍が一元指揮、統合作戦に協力することが不可欠で、アメリカでも困難な課題であったが、南西太平洋軍は強力な統率によりこれを実現した。
43年末近くに、マッカーサーは副提督アーサー・カーペンダーを追放することに成功した。カーペンダーの警戒心をマッカーサーは軽蔑していた。カーベンダーは、平時には第一選抜で少将に進級したほどの能型なのだが、細事にうるさく、小心で狭量であった。キング提督はマッカーサーにキンケードを配属することを申し出たが、その一因は、キングがキンケードを取り立てて評価していなかったことにある。彼がマッカーサーの指揮下に配属されても海軍が失うものはさほどなかった。キンケードとマッカーサーの関係は当初は決して親密ではなかった。提案されていたラバウルの孤立作戦に関する議論の際、マッカーサーは激怒した。
| キンケード提督 | そうですね、キング提督に確認しなければならないですが | (#゚Д゚)したいならいつでもキング提督に連絡する権利は君にはあるがね 。だが君がそうするなら、私はその日のうちに第七艦隊の新しい司令官を要求するつもりだ。 | ||||
マッカーサーは最初、水陸両用部隊の司令官である海軍少将ダニエル・バービーに対しても同様に警戒していた。だがバービーの最終的な判断は「マッカーサーは私がこれまで使えてきた中で最も優れた司令官だということが分かった」ということだった。キンケードも後にマッカーサーの指揮下に次々と作戦を成功させていくことになった。
こうした忠誠心をもたらす最も重要な理由の一つは、彼が部下に任務を与え、それをやり遂げようとする間は一任するというマッカーサー流のやり方だった。多くの古参の司令官と異なり、マッカーサーはあれこれ口出ししなかったのだ。彼は、だれもが任務を遂行できると信じ、大まかな方向を示してやってからは邪魔をしなかったのである。それはクルーガーやケニー、キンケードのそれまでの経験とは全く異なったやり方だったので、彼らはみなそれを開放的だと感じたのである。マッカーサーが計画に着手するやり方もまた彼らの自信を深めさせた。クルーガー、ケニー、キンケイドとともに執務室に閉じこもり、サザーランドも他の誰もそこに入れず計画案を話し合った。マッカーサーは将来の作戦についての考えを提示した。KKKは空、陸、海の視点からそれが実現可能かどうかを考え、自由に提案や反対意見を出し合った。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
ニューギニアの残存日本軍はキアリに再集結し、マダンヘ向かったが、1944年1月2日、キアリとマダンのほぼ中間にあるサイドル(グンビ岬)に、アメリカ軍第32師団第126連隊戦闘団約7,000名が上陸し、またも日本軍は退路を絶たれてしまった。艦砲射撃後日差しが照り付ける時間に上陸作戦が行われるのは、ニューギニアでは初めてであろう。サイドルにもオーストラリア人が開拓用に作った飛行場があり、これを改良すれば短期間に上陸部隊に航空援護が可能になる。これまで米豪軍の陸上戦闘の多くは豪軍が担当してきた。このころから進攻作戦において米軍が先頭に立つようになった。だが作戦目的がはっきりしない上陸作戦のため、その後の行動を緩慢なものにした。逆にフィンシュハーヘンから第二十師団を追撃中であった豪第9師団のほうが、目的が明確だっただけに活動が活発だった。同師団第20旅団は1月2日にはカラサ付近にあったが、15日には日本軍が反抗拠点に考えていたシオを占領した。第20旅団は第8旅団に後を引継ぎ後方へ退いた。後任の第8旅団も非常に活発で、自分のほうからグンビの米軍と連絡できる地点まで前進することにした。25日に前進を開始し、29日にはキアリを通過し、2月8日にはガリを出発したが、まもなく後衛部隊と思われる日本軍と接触し、激しい戦闘を行った。2月10日ヤゴミで豪軍は米軍と連絡に成功し、日本軍は海岸線に出るのが不可能になった。
グンビ岬上陸は、「蛙飛び」にふさわしい奇手であった。ここには日本軍は一個小隊しかいない。無人も同然である。そのくせ、ここを抑えられると、大勢で東の二十(フィンシフハーヘンから後退)、五十一師団(サラワケット越え)と西の四十一師団が分断される。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
シオの西は、サラワケット越えの日本軍が目標としたキアリである。キアリの西のガリには、一個小隊ながら日本軍がいた。その実戦力はともかく、数の上では日本軍の一大拠点の感を挺していた。さらに、はるか西の要衝ウェワク方面には、第四十一師団主力がいる。こんな情勢で、グンビ岬に米軍が上陸したのである。シオでの豪軍との決戦に出れば、食料も武器弾薬も枯渇している諸部隊はあっけなく壊滅し、第十八軍は事実上崩壊する。安達は転進を選んだ。両師団の後退について、第八方面軍参謀長の加藤は「単なる転進ならば潜水艦は出せない」と手厳しく、また連合艦隊司令長官は「ニューギニア北岸の陸軍部隊の作戦積極的ならず、陸軍は時局認識に乏しく、作戦真剣ならず」ともっと辛辣である。海軍は、18年11月15日に第9艦隊を編成してウェワクに設置、司令長官には遠藤喜一中将を任じたが、施設艦「白鷹」、駆逐艦「不知火」、第二輸送隊の小舟艇という貧弱な艦隊と地上軍でら構成されたが、これを艦隊と呼ぶのはいかがなものか。ホーランジア上陸作戦があったとき、第9艦隊は何をするまもなく瞬時に消滅している。
日本軍が穴と見たのは、敵のいないフェニステル山系である。米軍はあえて退路遮断の行動を起こさなかった。またマッカーサーは米豪両衛生班で特別委員会を作って、マラリアとの戦いに勝つための一般原則を立てさせ、各部隊にポスターやパンフレットでマラリアの危険と予防措置を教育し、全員が一人一人マラリアに自ら戦いを挑むよう奨励した。その結果は成功し、マラリアは身体障害の原因としては副次的なものに抑えられていた。この面で日本軍は立ち遅れた。自然は戦争に対して中立だが、それをこちらが征服して、敵側は征服できないということになれば、強力な味方になる。
| 前後から進んでくる二つの部隊に挟まれた日本軍部隊は、呼吸の道がなく、ついに大隊して大混乱の状態でバラバラになってジャングルへ逃げ込んだ。何千人というやせこけた日本兵の死体が丘の小道や山中で発見され、連合軍の仕事をジャングルが片付けてくれたことをすさまじく物語っていた | ||
第二十師団がガリへの移動を軍から命じられたのは1月4日である。安達司令官や海軍第7根拠地隊司令官らは、8日に出迎えの伊号第百七十七潜水艦に収容されマダンに向かった。一般兵は潜水艦輸送が失敗したため、各隊は4‐5日分の食糧だけで行動を開始せざるを得なくなった。第二十師団先遣隊のガリ到着は1月13,4日、五十一師団司令部も20日ごろに到着している。最後尾の第四十一歩兵団は1月末になっている。豪軍がキアリに入ったのは1月29日、ガリについたのが2月8日だから、1週間の時間差があった。
陸軍航空隊が49機出撃し17機が食糧投下に成功したが、わずか1.7トンでとても足りなかった。幸い22日夜に潜水艦伊百七十一が浮揚上陸に成功し、一人当たり1升近いコメの配給を行うことができた。サラワケットは独立峰に近いから、上って降りるだけだが、フィニステール山脈は登ってはおり、また昇っては降りるを何度も繰り返さなければならない。蟹の横這いと呼ばれる岸壁にはいつくばって横に移動する難路がそこかしこにあった。撤退路には2ルートあり、海岸よりのため海岸路(甲路)、他方を山岳路(乙路)と称する。甲路については、不慣れな二十師団を使わせることにした。乙路を行く五十一師団は北本工作隊を先頭として1月23日に出発、甲路を行く二十師団は1月25日に出発と決まった。第二十師団が進んだ海岸道には、見たとたんに「これほど素晴らしく雄大な奇勝景観に接したことがない」と感嘆の声を上げてしまうほどの壮大な絶壁があった。高さ500メートル、いや千メートルを超すといわれるそそり立つ絶壁は行く手の横でなく正面にあった。撤退開始時の兵力がおよそ13000人であったことがわかる。サラワケット越えと違う点は、米軍機が絶えず飛来して日本軍のいるいないに関係なく撤退路と思しきあたりに爆弾の雨を降らせ、機銃照射を加え続けたことである。
空も海も次第に、そして完全に、敵の支配するところとなっていった。逃げ道は山間を伝うほかはない。海岸を伝っているうちは、敵も執拗に追ってきた。機動力を持つ相手に対して、平坦な海岸線を下がるのは無謀である。峻険フェニステル山系を縦走するう回路をとるほかはない。山に入ってからは、彼らも一応追撃を断念したかに見えた。山頂に立って遠く海を見渡すと、敵の艨艟悠々と波間に遊び、夜は海岸に赤々と電灯がともされる。さながら、小都市である。…パタパタと落伍兵が出た。落伍というよりも、いつの間にか消えてなくなってゆくのである。中隊も四散した。小隊単位となり、やがて個人単位となっていった。霖雨、泥濘、あがけばあがくほど、底知れぬ泥沼にはまり込んでいく。先行部隊は、乏しい現地物資を瞬く間に食いつくしてしまった。殿の我々は、わずかにその食い残しをあさるほかはない。峰を伝い、尾根を這う。体力の限界にきているものにとって、それはまさに「死の行軍」だった。…すでに白骨となり、衣類のわずかにまつわりついた死体。腐敗して膨れ上がった死体に一面に蠅が群れ、人の気配にわーんと飛び立つ。ギラギラと銀色にうごめくもの、それはウジなのだ。
果てしない転進が続く。絶壁に立って、立ち木につかまりながら、何か言っている。相手は誰もいない。「ああ、みんなどこへ行ったのか、死んでしまったのか、おかしいなあ」といって、手を精一杯に伸ばして、谷底を見下ろしている。熱に狂ってしまったのだ。だが、「どこまでが正気で、どこまでが狂気」なのか。すべてが狂っているのではないか。これが「ガリの転進」と呼ばれる惨悲を極めた大敗走なのである。史上最も悲惨な行軍の一つと数え上げられるものではなかったであろうか。
ガリを出発してから1週間後の2月1日、第五十一師団の先遣隊はマイパン付近についた。ここで中井支隊から救援のために派遣された義勇兵と接触した。中野集団長も2月8日にアッサに進出していた中井支隊司令部に到着した。一方二十師団長がアッサに到着したのは1週間後の15日で、大雨による濁流、立ちはだかる岸壁の難易度等によって大きな時間差が生じた。第二十師団の最後尾梯団が到着したのが21日で、20から25日かかって踏破した将兵が多かった。
多くの人々に助けられながら、ついに中隊から脱落してしまった。その日、どんなに頑張ってみても、ついに中隊に追いつくことができなかった。木の陰に、天幕をかぶって横になった時、暗闇の中の一人ぼっちを感じた。そんな時現れたのがYである。一両日何となく歩調を合わせて歩き、ともに連隊の最後を見届けるめぐりあわせとなったのである。奇妙に歯車があった。Yと二人、気力の限りを尽くして歩いた。
いよいよ明日は海岸に出られるという喜びは、一通りではなかった。長い長い旅だった。悪夢の二月だった。谷に降りると、憲兵が一人いて、「止まれ」と手を挙げた。「作戦のため、つり橋は落とされた。もう一月頑張って海岸に出なくてはならなくなった」という。見れば、あちらこちらに放心したように、兵隊がひっくり返っている。…作戦のため、とはどういうことなのか。連隊本部の通過したのは一昨日の事と聞いた。…敵の追撃を恐れ、連隊本部の通過とともに、つり橋を爆破してしまったということである。…絶望の谷で一夜を明かすことにした。どーんと地響きするような手榴弾の炸裂する音を聞いた。「作戦」とは、これほど非情のものなのか。敵の追撃を遮断するため、みすみす何千何百の生きながらの犠牲を必要とするのか。架空の「敵」におびえているのではないか。相手は鷹揚な戦争をする。火力を先立て、物で押してくる。何よりも、人間を大事にする戦略と見て取れた。兵隊は消耗品である、という常識は通らない。とすれば、「敵」の幻影に取りつかれたとしか、思えないのである。
ニューギニア戦線では憲兵の活躍が目立った。一般兵の生還率が7%というところに、憲兵は高い生還率を誇った。復員省で遺族への説明用に作った当初の部隊別損耗表では、第二行に「第六野戦憲兵隊―総員107、損耗人員12、残存93、損耗率13」とある。なんと生還率87%である。終戦の後、ムッシュ等へ去っていく兵隊との別れを惜しむパプアの中に、「憲兵だけは生かして返すな」の叫びが聞かれたという。憲兵は東京の直轄、つまり東條英機の直属指揮下にあり、一般の陸軍の士官の力も及ばない聖域だった。
こうして、第二の試練に立ち向かった。だが、第一次のそれが、何千という兵隊の足に蹂躙された荒廃の後であったのに対し、今度はまるで雰囲気を異にしていた。原住民もおり、物資にも恵まれていた。南国の温かさがあった。…今度の山越えは、原住民がいるので、食料を盗んだりして原住民を刺激したりしないようにという厳命であった。物々交換という方法がとられたのである。だがしかし、ここまで来て、いったい何を持っているというのだろう。憲兵の、そういう通達を聞いたとき、あぜんとし、失望した。一か月、どうして生き延びることができるのだろうか。それだけに、Yの妙技は重宝だった。といって、取り出すものは、レザー、小塔、壊れた時計、鏡、メガネ、何かのガラス玉、そういったガラクタでしかなかったのだが。…Yの妙技に甘えてもおれないので、乏しい言葉をかき集めて、乞食の行脚に出た。地方語で話しかけると、途端に表情が和らぐ。たいてい、二人で喰いきれないくらいの喜捨に恵まれた。こうして恩恵を受けながら、ひたすら終着点を目指して歩き続けた。
あの「絶望の谷」における憲兵との偕行をきっかけとして、このひと月の山越えには憲兵との接触があり、新しい人間関係―ときに不可解な-を経験した。我々落伍兵に進路を示すためか、村落の治安のためか、各村落に憲兵が配置されていた。どこからともなく、憲兵に対する怨嗟の声が聞かれた。冷酷無残だといい、異種の人種だというのだ。所持品を検査するそうだ、という噂も聞こえた。何のために?、噂は、どれもこれも非人間性の訴えるものばかりで、やがて呪詛の声さえ上がった。
夕暮れ近く、尾根の細い道を歩いていた。Yは、少し遅れていた。Yを待つために、路傍に腰を下ろした。…そこに、原住民に大きな荷物を担がせた憲兵が一人、姿を現した。伍長である。知らん顔をしていると、つかつかとやってきて、「なぜ敬礼をしないか」と目を据えた。…ことに二度目の山越えに入ってからは、将校に対しても、ほとんど敬礼することはなかった。お互いに落伍者である。…そんな時、同じ下士官から敬礼を強いられて戸惑った。「階級章はないが、俺も下士官だ」と答えた。彼は、かっとなって、「憲兵には敬礼するものだ」と顔をひん剥いた。「これは失礼した」と謝った。「お前ひとりか」と聞く。「連れがいるが、ちょっと遅れている」というと、やにわに、「どうして殺してこなかったか」と詰め寄る。何のことなのか、あぜんとしていると、「ぐずぐずしておると、山から出られなくなるぞ。遅れる奴は殺してしまえばいいのだ。どこにおるのか。俺が殺してきてやる」と気色ばんでいる。「いや、元気だから、すぐに来ると思う」と制しながら、不気味なものが感じられてきた。「お前らの一人二人、ぶち殺したって、なんてことはないのだ」と、傲然と言い放った。血が逆流した。顛末な「敬礼」に自己を主張しようとし、人の「命」を何とも思わぬ倒錯した神経に怒りと恐れを感じた。二つ三つ年下かと思われるその顔全体の険しさはいつつくられたものなのか。…「背嚢を開けて見せろ」という。肩から外し、相手の前に投げ出した。中隊の書類を引っ張り出して、「おい、これはどこから盗んできた?」と詰め寄ってきた。警察権という権限は、こういうものの見方をするようになるのか。疑うこと、-それだけが、彼らの眼なのだろうか。事情をかいつまんで話すと、さらに獲物を狙うように、「刃物は盛っておらんか、立て」と服装検査を始めた。俺は今、どういうところに立たされているのか。屈辱と孤独とが全身を這い、怒りに体は燃えた。荷物を担いでいる原住民も、目をそらせた。「何のために、刃物の詮索をするのか」と聞くと、「貴様らの中に、人間を喰うやつがおるんだ」と、にらみつける。「よし、遅れんように行け。お前の名は覚えておくからな」と言い残していった。悪夢の数分だった。…Yも追いついてきた。今の寸劇を話して効かせた。「後方で、たらふく食い追って、何ぬかしてきやがる。それが、同じ日本人やからな」、と悄然として言う。何が彼らを、そんなに駆り立てているのか。
ある村落で、一日の行軍に疲れた兵隊が、手慰みに原住民の太鼓をたたいた。ところが、憲兵がすっ飛んできて、いきなり兵隊を殴り倒した。事の成り行きに驚いていると、「太鼓の音が敵に聞かれたら、どうする。この村のものは皆殺しになるんだぞ」というのである。憎しみを込めて見上げていた兵隊は、「敵か」とそっぽを向いて冷笑した。「敵」という言葉が、異様に響いた。敵に背を向けてから、三月になろうとしている。うかつにも、敵なんて意識は、我々のどこにもなかったからである。さらに、現実の苦痛が、敵の恐ろしさをわすれさせていた。「敵」という言葉は、彼らの実感がこもっていたことは確かで、村落の憲兵は、せっせと我々を追い越して、引き揚げていった。原住民に荷物を運ばせながら、我々の頭上に激しい罵声を浴びせていった。…警察権―それだけのことが、これほど思いやりを失わせ、お互いを疎隔させるものなのか。権威を過信すれば、人を見る目も、自分自身を見る目も曇るだろう。
やがて米軍観測機に察知されるところとなり25日ごろから迫撃砲攻撃を受けた。その後も米軍は侵入を試みたが、撃退されている。豪軍と違って米軍の攻撃は淡白で、反撃されると粘ろうともしないで後退する傾向があった。マレーからマダンまで大発便乗者が相当数あり、この地域でも米軍魚雷艇の餌食になった大発が後を絶たなかったといわれる。
悪戦苦闘を重ねたひと月だった。このころ、敵の将校斥候の出没が伝えられた。もし、ぶつかったら?という不安はぬぐい切れなかったが、やはり、無心に歩くほかはなかった。一日、非常に清潔な感じのする村落の酋長の家に、一夜の宿を乞うた。…朝は雨だった。休養日には格好の条件である。衣服もキレイに乾いて、さっぱりしている。Yは「長い行軍にはいろいろな日がある。いままでも、こんな雨の日に歩き続けた。明日も降るかもしれん、とにかく歩こう」といって立ち上がった。この雨に出ていくものはいない。みんな休養だといって、濡れていく二人を面白そうに眺めている。我々が海岸にたどり着いた日に、その村落に敵が侵入したと聞いた。危ないところを逃れた。生死の帰路は、こんなところに潜んでいるのだ。…その村落が襲撃された時、飯盒一つ持って、脱出したN上等兵に会ったのは、その後数か月たっていた。原住民に手引きしてもらって脱出した。…雨の降りしきるジャングルの中を、方角も変わらずさまよい歩きながら、「自分は、泣いたです」と、現役兵らしい口調で語った。そして、あれから後方にいたものの脱出は、まず考えられない、と断言した。…危機を脱したNは幸運であったはずだが、その行く手は険しかった。…それっきりNは中隊に帰ってこなかった。やっと帰ってきた日に、逃亡の名のもとに葬られた男である。
2月下旬、中野集団の撤退が終了すると、中井支隊も順次西方に移動した。2月21日までにアッサを通過したのは8062名、その後北本工作隊や中井支隊の斎藤義勇隊などの手で撤退路上で動けなくなっていた滞留者の収容が行われ、1120人を救出した。3月下旬まで合計すると9300人で、3700人がで失われていたことになる。28.47%の損耗はサラワケットの倍近い。
ガリの転進を、おそらく史上稀にみる凄惨な行軍だったといったが、ここで恐ろしい事実を見たのである。行き倒れた兵隊の腿が、さっくりと抉り取られていたのである。…慄然とするような風評が流れてきた。この転進はそこまで人間を追いつめていたのである。
Yと二人、山道を急いでいたら、見知らぬ部隊の四、五名に呼びとめられた。食事を終えたところらしく、飯盒が散乱している。「大きな蛇の肉があるんだが、食っていかないか」というのである。そのにやにやした面が、気に入らなかった。何かがある、と直感した。共犯者を強いる───そんな空気を感じたのは、思い過ごしであったろうか。その連中が、一斉に何かを待ち受けるような姿勢を見せたのは、ただごととは思えなかった。Yも同じものを感じたか、「おおきに、またごちそうになるわ」と言った。道々、妙な不安が追いかけてくるようだった。Yの表情にもそれがあった。それとなく警戒しながら、急いだ。小銃弾を浴びせられるかも知れぬという不安がひらめく。大分来てから、Yは、「やつら何をしていたんだろう。おかしい。蛇ならばくれるはずがない。良心にとがめるところがあって、おれたちも仲間に引き入れることによって、少しでも呵責からのがれようとしたのではないだろうか」などと憶測した。もちろん、何の根拠もないが、とっさに期せずして符合した感じは、何であったか。腿の肉を切り取られた死体の数は、一つや二つではなかったのだ。ついに全く光は消えた。ただ眩暈のうちに拠点を見失って、地底に転落していった。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
スペンサー・B・エイキンは極東についてちょっとした専門家となり、1930年代後半には通信諜報部で働き、パープルを解読した。マッカーサーはエイキンを通信将校にした。エイキンはマッカーサーに、いつでも、なんの制約もなく直接連絡が取ることができた。しかしながら、「中央局」の最初の一年目の活動では、エイキンはそれほど機密度の高い情報をも足らなさなかった。1943年4月以前は日本陸軍の暗号解読にほとんど成功していなかったのである。43年春までは、マッカーサーに提供されていた重要な通信情報の大半は海軍からであった。このおかげでミルン湾で勝利を収めることができた。
44年1月、豪州軍がフォン半島の北部海岸から日本軍を駆逐していた。1月15日、小さな海岸沿いの町、シオを占領した。豪軍は海岸の仕掛け地雷をくまなく探していたが、もっと興味深いものを発掘したのだ。それは慌てて埋められた日本陸軍の暗号書が詰まったトランクだった。表紙は破られており、おそらくは、暗号所が破棄された証拠として東京に送られたものと思われた。トランクの中身が、中央局にいるマッカーサーの暗号解読者の下へと送られた時、彼らはその幸運を信じられないほどだった。彼らは一年以上もの間、毎月200から300に及ぶ日本陸軍の交信を解読しようと苦戦していたのだ。ところが今や、彼らは毎日500以上の通信記録を簡単に解読することができたのである。中央局での成果は、諜報をすべて扱っているマッカーサーの副参謀長でG-2部長のチャールズ・ウィロビー准将へと渡った。責任回避のためウィロビーは背中合わせの矛盾した評価を提出する傾向があった。サザーランドはウィロビーを嫌っていた。というのもおそらくウィロビーがマッカーサーに自由に面談できたからだろう。他の士官たちはウィロビーはもっぱらマッカーサーへの犬のような忠誠心ゆえに重職にまでのし上がった尊大で凡庸な男だとして全く軽蔑していた。
1943年に行われたすべての作戦で、マッカーサーがウィロビーの情報にほとんど注意を払わなかったらしいというのは注目に値する。ウィロビーの分析の結果、作戦が中止されたり実施されたことはなかった。マッカーサーは戦闘諜報写真を無視して、自分の考え通り実行した。しかし、44年入手可能な情報が質量ともに向上すると状況が変わった。マッカーサーは自分の方向性を定めるために、諜報部、特に「ウルトラ」と呼ばれる通信諜報に徐々に頼るようになった。44年2月に傍受した敵無線の解読によって、マッカーサー司令部は日本軍がハンサ湾とウェワクとの基地を強化中であることを知った。2月28日に傍受した遠信によって日本軍の主要部隊の所在が判明した。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
アドミラルティ諸島は、ニューギニア本土の北東320 km、ラバウルの西580 kmにあり、良好な港と飛行場を備えた要衝の地である。戦前は豪州の委任統治領であったが、開戦後日本軍が占領していた。マッカーサーはもしアドミラルティー諸島を奪取できれば、勝利への時間表を数か月も進めることができると考えた。それほど戦略的に重要な島と認識していたのである。アドミラルティー諸島の攻撃は44年4月と予定された。もっと早い占領は可能だろうか。
2月上旬、第八方面軍司令部の作戦主任参謀今泉大佐が、メナドの第二方面軍司令部と作戦計画の調整を済ませた帰りにマダンに立ち寄り、方面軍の意図を説明した。それによればマダン、ハンサ湾に重点を置き、ラバウルとアドミラルティ諸島マヌス島をそれぞれ結んだ三角形の地域を固め、米豪軍が進出を目指すビスマルク海域における作戦を阻止することを目指す内容であった。これだとマダンを放棄してウェワクに軍を移動させるという十八軍司令部の結論を否定することになる。十八軍の杉山作戦部長が激しく反論したため、今泉との間で激論が戦わされることになった。今泉の計画ではマダンは是が非でも確保する必要があり、他方十八軍は補給もなしに確保などできるかという反論であったに違いない。「絶対国防圏」に従えば、マダン、ウェワク等を放棄して西部ニューギニアのホーランディア以西に移動しなければならないが。今泉参謀は翌朝、アレキシスの飛行場を飛び立ちラバウルに向かったが、アデルバート山脈に墜落死してしまった。第八方面軍の強い指導によって実施が決まったマダン・ハンサ湾防御計画も、米豪分の新たな攻勢の前にまもなく取りやめになる。予想外に早いアドミラルティ―諸島の上陸と、第八方面軍司令部のあるラバウルと十八軍のニューギニアの連絡の遮断であった。
米豪航空隊の爆撃でラバウル航空隊の勢力は衰えつつあり、44年1月にはわずか160㌔離れたグリーン島にNZ部隊が上陸していた。そして2月17-18日の米国機動部隊のトラック空襲でのトラック島戦力全滅の報をうけ、ラバウル航空隊はトラック等に引き上げを命じられた。米軍側はすぐには気づかなかった。エド・ドレアによれば、2月23日ごろにUltra情報でようやく航空隊移動を知ったといわれる(Edward J. Drea. MacArthers ULTRA 99項)。連合軍はこの機を逃さなかった。ケニーの航空隊は2月25日撮影の航空写真によって、まだ33機の存在を確認しているが、その後急速に機数を減少していく現象をとらえて、ラバウル航空隊の移動が確実になったことを知った。3月8日の爆撃作戦は、初めて護衛機なしで実施され、ラバウルに迎撃する飛行機がいないのを確かめた。
2月24日、ケニーはロス・ネグロスとマヌスは人気がないようだという連絡を受け取った。三機のB-25が諸島上空を6メートルまで低空飛行したが、日本軍の兆候はなかった。誰も攻めてこなかった。洗濯物もなかった。野戦病院のドアの前には埃がたまっていた。モモート飛行場(日本側はハイン飛行場と呼称)には草がしげっていた。この前まで大砲があった銃撃場所は空き地になっていた。このニュースに興奮して、ケニーはその晩マッカーサーに会いに行き、大胆な提案をした。直ちにアドミラルティ諸島を攻略しましょう。駆逐艦に乗り込んだ800人の兵士でモモート飛行場を占拠できる。技師が少しでもいれば、かなり早く飛行場を使用可能にできる。最終的に危険を冒す価値はあるとのことでケニーとキンケードは同意した。マッカーサーは興味を持ったが、日本軍がこれほど重要な島を簡単に手放すはずがなく、目に見えない防御態勢を敷いて待ち構えているのではないかと疑った。そして中央局の情報では2500人の日本兵がマヌスに、1500名がロスネグロスにいるとのことだった。結果的にはこの情報はきわめて正確であった。しかし彼には勝算はあった、日本軍の指揮官の性質である。マッカーサーは2月24日命令を発した。日本軍が手薄と思われるロスネグロス島東部への強行偵察という白昼堂々の偵察行動だが、敵が激しく反撃したらすぐ引き上げるというものである。
クルーガーは強硬偵察を命じられた。攻撃は2月29日、わずか4日後である。バービーとクルーガーはこの決定に騒然とした。彼らは中央局の報告が正確だという前提で、第一機甲師団全体で攻撃する計画であった。攻撃前に何週間にもわたって要塞を激しく砲撃して第七水陸両用部隊のほぼ全員が参加する9000人で攻撃しようとしていた標的を、たった900人で攻撃するのだ。マッカーサーは攻撃をすることを主張しただけでなく、部隊とともに自ら行軍し、敵軍の抵抗に遭遇した場合、自ら撤退か前進かを決定しようとしていた。
米軍上陸
アドミラルティー諸島には、18年11月ごろからパラオ経由で増援部隊の派遣を試みたが、いずれも米潜水艦のため輸送船が撃沈され実現できなかった。やむなくニューアイルランドとラバウルの第三十八師団から各歩兵1個大隊を引き抜き、駆逐艦で急送したのは、米軍が上陸する直前であった。合わせて3250人、これを輜重兵第五十一連隊長江崎中佐が指揮した。
2月29日、ウィリアムス・C・チェーズ将軍の率いる第5騎兵師団は、キンケード提督の第7艦隊の援護を受け、午前8時ごろから日本軍の大砲が向いているシアドラー湾と反対側の東海岸線に上陸した。艦砲射撃はなく、突然艦隊が現れたかと思うと、上陸用舟艇が大挙して押し寄せ、橋頭保を確保すると各方面へと前進を開始、米軍には珍しい完全な奇襲作戦であった。反撃が弱いことを確認した米軍は、主力部隊の上陸を開始した。上陸に気づいた日本軍による反撃発砲が始まったが、駆逐艦の砲撃により鎮圧された。上陸軍はハイン飛行場に向かい夜までに同飛行場は占領された。マッカーサーが日本軍の将軍と違う点は、いつも気さくにどこにでも現れることで、この作戦でもキンケードの旗艦「フェニックス」に乗り込んで上陸作戦を見守り、第一陣が上陸して6時間後にキンケードとともに自らも上陸し、飛行場周辺をコートを着こなし見て回り、将兵を激励している。彼はそのまま占領を続けることを決定した。
守備隊は29日に夜襲を敢行したが、強力な火力網に遮られ、やむなくジャングルに逃げ込んだ。夜明けまでに日本軍は750人以上が死亡、米軍は死者61人、負傷者244人の損害であった。オーストラリア諜報員が報告した通りの規模であった日本軍は米上陸軍をはるかに上回る規模で、すでに損失を出していたが主力部隊は軽微な打撃を受けただけであった。次の夜襲は3月3日夜の計画であった。しかしこの計画は、ATISが押収した文書によって米軍側に事前察知された。米軍は周囲に地雷を設置し、有刺鉄線を張り巡らし、日本軍が来る方向に機関銃を備え付けて待ち構えていた。兵力で上回る日本軍は、全軍が集まるまで待機するという連合軍にありがちな戦法はとらず、到着した兵から直ちに突っ込ませ結果として兵力を小出しにして一派また一派とつぎ込む方法をとったため、米軍を追い落とすことはできなかった。3月4日朝、米軍の増援が上陸し、飛行場奪回は不可能になった。3月6日、さらなる増援が到着、米軍は北方に進軍したが、日本軍は塹壕、狙撃兵などで進軍を妨害し、激しい戦いとなったが、最終的に撤退し、米軍はシアドラー港を確保した。早くも3月7日に飛行場が使えるようになり、豪空軍機が続々と到着した。
9日、米軍は狭い水路を渡って、マヌスの中心ロレンゴウに上陸した。日本機はニューギニアの基地から飛来したが、活発というにはほど遠く、根拠地をウェワクからホーランディアに移すと、全く来なくなった。日本軍がロレンゴウを放棄したのは4月1日ごろで、その後はマヌス島西部に移ってゲリラ戦に転じ、自給自足の農耕に従事した。アドミラルティ諸島の戦いで日本軍は3280人が死亡、75人が捕虜となり、米軍は死者326人、行方不明4人、負傷者1189人にとどまった。
戦闘の結果
ブーゲンビル島攻防の結果は太平洋戦争の進路にはほとんど影響を与えることがなかったが、アドミラルティ諸島の戦闘の衝撃は深部まで及んだ。連合国に対するアドミラルティ諸島の価値は莫大だった。トラック、カビエン、ラバウル、ハンザ湾を攻略する必要を無くしてしまい、連合軍の侵攻を数ヶ月早め、コストよりも多くの命を救った。空軍基地はトラック、ウェワク、それ以上に制空を及ぼし、海軍基地として、艦隊の停泊地と主要な施設を併設しその価値はさらに大きかった。
連合軍の司令官、およびその後の歴史家は、偉大な司令官の大胆な行動であるか、災害を招いた無謀な努力であるかを議論した。よく知られている経験則では、攻撃力には成功を確実にするために3:1の優位性が必要である。ロスネグロスの戦いの初期は、比率は1:4であった。海軍の司令官は、彼は運が良かっただけに過ぎない、勝利はまぐれだと思うものもいた。フレッチャー提督「我々が島から追い落とされなかったのは本当に幸運だった」。確かに当初の計画はリスクははるかに少なかっただろう…が、シアドラー湾の防御された海岸への攻撃が犠牲者を減らす結果になったかどうかは疑わしい。従って、最終分析では、作戦は「死亡者と負傷者の数を減らしながら勝利を早めるという大きな利点を持っていた」。19年3月14日、大本営は十八軍および第四航空群を第八方面軍から切り離し、セベレス島などにある第二方面軍の戦闘序列編入を発令し、実施を25日と定めた。ニューギニアがラバウルとの連絡路を遮断されたため、やむなく第二方面軍の隷下に入ることになったわけである。ワシントンの参謀本部も、アドミラルティ諸島の勝利に感激した。マーシャル参謀総長は、海空軍と統合戦略調査委員会を相手に一線を交えていた。彼らは「日本攻略の主要努力は中部太平洋を通じた東部から行い、日本への攻撃基地として台湾、ルソン島、中国沿岸部の早期占領を目指すべきである」と主張を強めていた。南西太平洋方面は、「この主要努力を支援する」ため、いかなる資源であれ可能なものを分け与えてやるものとされた。そこへ飛び込んできたのが、マッカーサーのアドミラルティー諸島での戦果の報だった。
マッカーサーはアドミラルティ諸島獲得がよほどうれしかったのか、シードラー湾を見下ろすロスネグロス島の丘の上に彼の宿舎の建設を命じた。この六個のベッドルームを持つ南西太平洋司令官マッカーサー元帥用の宿舎が、今も完全な形で保存されている。現地人の住居に比べれば立派だが、米本土の家と比較すればみすぼらしいつくりである。
彼はマヌス島からポートモレスビーに戻るや、米豪軍内でも予想外、まして日本軍側が全く予想しなかったホーランディア侵攻作戦計画を立案して、ワシントンにその実施を迫った。
この超重要拠点をめぐってひと悶着があった。キング提督はアドミラルティ諸島の見事な港湾と飛行場をニミッツの指揮下に移したがっていた。キングとニミッツは、アドミラルティ諸島が海軍の指揮下に入るよう、南西太平洋戦域との境界線を引きなおそうとしていた。マッカーサーは激怒してマーシャルに辛辣な電報を送った。退職まで持ち出して非難したマッカーサーにマーシャルは困惑し返信「貴殿の戦域の境界が変更されたとしても、そのこと自体が司令官としての能力への厳しい非難を反映したとはみなされるとは思えない」。海軍は結局は提案を撤回したものの、キング提督は中央太平洋への進撃を本格化したがっていた。この見事な港に対して、統合参謀本部はアドミラルティ諸島のシアドラー港をニミッツの第五艦隊、またマッカーサーの小規模な第7艦隊も使用できるようにするため大規模な基地として発展させるように要求した。そして太平洋戦域司令官がシービーズと支援部隊を持っていたので、統合参謀本部はマヌスーロスネグロス施設の発展をハルゼー提督にゆだねるようマッカーサーに示唆していた。ここでニミッツはメッセージをマッカーサー宛の写しとともにキング提督に送った。
| ハルゼーが太平洋艦隊司令官の指揮下にとどまるよう進言する | はあ?、こっちの工指揮力が信用できないってか?、ふざけんな |
太平洋艦隊はマッカーサーの戦域でもニミッツ提督の指揮下にあると定められている。つまり海軍がアドミラルティ諸島の基地の建設を行うことに等しい。マッカーサーは激怒した。彼は何せ工兵隊出身である。あのハワイ要塞も彼の監督下に建設されたものだった。この提案は自分の指揮能力を疑い、専門的な誠実性、実際には個人的名誉を傷つけるものだと宣言したのである。ハルゼーは幕僚とともにマッカーサーの司令部に直行した。
将軍はニミッツ提督に繰り返し、さげすみながら言及し、約15分ぶっ続けにがなり立てた。マッカーサーはいらいらした時にニミッツの名前を「ニーミッツ」と発音する癖があった。将軍は二つの中心問題を説明した。自分の権威へのこのような干渉を甘受するのを拒絶することと、管轄権の問題が解決されるまで、自分の第七艦隊とイギリス艦隊のみにマヌスーロスネグロス施設の使用を制限するという決定であった。痛烈な非難を終わって、将軍はパイプの柄をハルゼーに向け、訪ねている。
| 私は正しくないかな、ビル? | (ハルゼー、キンケード、ジョンソンが口をそろえ)「正しくありません!」 | ||
| はてさて、こんなにも多くの立派な紳士が私に同意してくれないのなら、我々はもう一度計画を練り直した方がよい、ビル、何か意見があるかね? | 将軍、私は全面的にあなたに反対です、そのような処置は私が次の段階に向かうのを妨げるだけでなく、第七艦隊のみにマヌスの海軍基地の使用を制限することにより、あなたが戦争努力を妨げていることをお知らせしなければなりません |
ハルゼーは、マヌスの基地が第7艦隊および太平洋艦隊の両艦隊で使用可能になりさえすれば、誰がマヌスの建設の指揮をとろうが構わないといい続けた。午後5時に始まったこのやり取りは約1時間続き、ようやくマッカーサーが言った「オーケー、諸君は自分のやり方でやりたまえ」。
ハルゼーは将軍を説得したと思っていたが、翌朝彼ら一行がヌーメアに帰る準備をしているときにサザーランドが呼び出した。「すまない、将軍の考えが変わったんだ」。マッカーサーは司令部で再び会談したが、明らかに怒り狂って再度基地の工事を制限する決定を下していた。一時間後にマッカーサーは再び引き下がった。ハルゼーと幕僚たちがまさにヌーメアに帰ろうとした時、将軍が突然、彼らにとどまり、午後五時に司令部に戻るように要求した。(断じて、我々は三回も方針を変えさせはせんぞ)。しかしマッカーサーはこの時、自分の個人的な名誉に対する侮辱と見なしていた「ニーミッツ」を強調した。ついにハルゼーは堪忍袋の緒を切った。
| 将軍、あなたは合衆国の利益を図る前に、自分の個人的名誉の方を優先させてますよ。 | 参謀たち | (;・`д・́)(将軍に向かってそんな物言いは…ドキドキ) | |
| 私が思うには、たとえこの後でさえも判決者の玉座の側でニミッツをそんな風に呼ぶなんて誰も聞きたいと思ってませんよ! | いやブル。そ、そんな風にとってもらっては困るな。なあサザーランド、そんな風になりっこないよな |
ほかのだれかがマッカーサーの頭上に雷鳴を落とさずして話すことができたか疑わしい、頑固な将軍もついに折れた。このやり取りの後でもブルとシーザーの間の友情は前より一層強いままだった。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
マダン・ウェワク間は500キロ弱、マダンからハンサ湾まで約230キロある。この道筋の兵站を担当していたのは第四十四兵站地区隊である。マダンとハンサのほぼ中間点にあるウリンガン支部は、後退する十八軍将兵にとって頼みの補給基地であったが、44年1月から2月にかけて空襲を受け、湾内に待機中の漁船14隻が撃沈され、補給能力を喪失するに至った。マダンではすでに海上輸送が途絶し、もっぱらハンサ湾からの自動車輸送に頼っていた。部隊をマダンに張り付けておれば、早晩餓死者が出る情勢であったことは疑いない。風光明媚な海岸線もハンサ湾で終わりである。湾の正面にマナブ山が見えるため、日本兵はこれをハンサ富士とも呼んだ。ハンサ飛行場の建設は、風土病と悪性マラリアのために、おびただしい人命を失ったが、パラオとの交通、ラバウルとの連絡に便利である上に好立地条件が捨てがたく、兵站基地本部、第四十四兵站地区隊を置いたのである。ハンサへの輸送はもっぱらラバウルから行われ、昭和18年3-8月まで第6次まで行われた。8月8日が最後になったのは、17日からのウェワク空襲で航空隊が壊滅状態になったためと考えらえる。
44年3月中旬から本格化した西方移動は1か月後には終了し、マダンにほとんど人影はなくなった。3月1-3日にハンサ基地はB24の猛爆を受けた。ハンサ基地は穴だらけになったが、幸い貴重な食料・軍需物資は郊外に分散してあったので被害が少なく、通過する部隊に補給を行うことができた。マダンを最後に出たのは四十一師団で、同師団がハンサ基地を通過したのは4月23,24日ごろで、4月26日にハンサ基地の閉鎖命令が出た。最後部の第四十四平坦地躯体は、29日にハンサ基地を閉鎖し撤退の手はずであったが、ラム川の渡河点が部隊であふれかえってる報が入り、5月5日まで延期された。ラム川からハンサ湾までの間には、地形的に難しい箇所はない。だがその先は、ラム川、セピック川の十日間、いや2週間以上も続く大沼沢地帯である。乾燥した陸地がほとんどなく、立ったまま眠る日が何日もあり、ひざ、腰まで泥につかり、時には底なし沼に飲まれることもある。海岸に出て舟艇が利用できれば良いが、魚雷艇と呼ばれる海のワニが獲物の通過を待ち構えていた。それでも傷病兵の輸送と軍事物資の輸送には、危険な船旅に依存するほかなかった。第二十師団司令部は大発三隻で移動することにしたが、セピック河口を超え、ウェワク間近のテレブ沖で魚雷艇三隻と遭遇し、重機関銃で撃沈された。師団長はじめ司令部員の大半が戦死し、高田参謀はじめ数名が助かっただけであった。この大湿地帯を横断するには、どうしてもラム川とセピック川の大河を渡る必要があり、特に蛇行の激しいセピック川の場合、何度もわたる必要があり、経路の要衝に舟艇の配備もしてあった。
ハンサを出て2週間以上たち、大湿地帯を通過している間は気力で持ちこたえていたのが、草原地帯に出て気が緩んだとたんに発熱し歩行困難に陥るものが続出した。草原地帯を過ぎると、次は山道であった。頂上に出ると、眼下に通過してきたセピックの蛇行する緑の魔境が広がり、北に目をやると受戒越しに太平洋の海を眺めることができた。山道を下って海に出たところがコウプの海岸であった。ウェワクへと続く海岸は起伏にとんだ地形で、合間合間に原住民の部落が点在し、彼らの植え付けたタロイモが日本兵の空腹を和らげた。
この大湿地帯踏破は、死者数百人と推定されている。他の三大転進、サラワケットやガリと比較し格段に少なく、この転進で人肉うんぬんという話は聞かない。東部戦線の補給基地でもあったマダン、ハンサ湾は以後、用済みになるというので、貯蔵品を広く開放したためである。主食はもちろん、水あめ、各種甘味品、バター、食用油、乾燥野菜など、まず無いものはないくらいである。極端に飢餓に苦しめられることがなかったというのは、まだしも不幸中の幸いとも言うべきものがあった。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
日本軍はウェワクに東飛行場と中飛行場の2つ、またブーツにも東飛行場と西飛行場の2つ、合わせて4つの飛行場を開いた。ウェワクへの輸送規模はハンサ湾に比べ数倍大きかった。第20次の19年2月26日まで米豪軍機の妨害を受けず無事に行われている。
ハンサ湾はサイドルの北西320キロほどのところにある優れた天然港である。南西太平洋指令部参謀はハンサ湾の地図や写真を過去4か月間じっくり検討していた。いつかそこを占領しなければならないのは当然のことと思われていた。しかし日本軍は防衛のためにさらに2個師団を送り込んでいた。44年3月までにハンサ湾および周囲のニューギニア沿岸を4万の兵力と防衛体制の整った要塞に変化させていた。ウルトラ情報により、ハンサ湾の防備は連合軍司令部に傍受された。クルーガーの第六軍を上陸させるため、別の場所を探さなくてはならなくなった。
ホーランディア上陸案の出現
マッカーサーは4月末に攻撃が予定されていたハンサ湾を素通りし、一足飛びに930キロ離れたホーランディアまで直行することによってニューギニア沿岸の4万人の敵地上部隊を孤立させる、との提案がもたらされた。この提案は、マッカーサーが献策し、サザーランドが3月初めにワシントンで示した包括計画、「レノ4号」の一部だった。レノ4号は、当時、作戦が終了しかかっていたハルゼーの南太平洋部隊の大半をマッカーサーが保持することと同時に、中部太平洋からの空母機動部隊の支援を求めていた。この計画に従えば、ルソン島に1945年1月にも侵攻できる、とサザーランドはワシントンの統合参謀本部に請け負った。この作戦の問題点は、距離が離れすぎており陸軍航空隊の援護が困難なことだった。もしホーランディアを選択するなら、海軍機動部隊の上空援護を提供してもらうためニミッツに頼らなければならない。たとえ機嫌が良い日であっても、ニミッツ――そしてキング――はそれを好まない。ニミッツは、もしマッカーサーの計画に従うと、中部太平洋攻撃が弾みを失い、マリアナ諸島作戦が台風シーズンにずれ込んでしまう、と指摘した。
統合参謀本部のハップ・アーノルド陸軍航空隊大将は突然、自分が戦略をめぐる議論の中心的存在となったことに気づいた。資金面でいえば、20億ドルかかった原爆より23億ドルかかったB-29の方が戦争最大のプロジェクトだった。アーノルドと連合空軍がB-29の成功に大きく賭けていた。必要なのは、まさにマリアナ諸島の飛行場である。通常アーノルドは統合参謀本部においてはマーシャルの忠実な部下だった。しかし44年3月に行われた戦略会議においてはわが道を行き、強くキングを支持し、マーシャルはすっかり打ち負かされてしまった。翌日サザーランドはマッカーサーの戦略を提出し、ニューギニア北部海岸沿いにフィリピンへと至る侵攻を主張したが、戦略指令の結果には影響しなかった。ハルゼーの南太平洋部隊はニミッツとマッカーサーに二分され、マッカーサーが陸軍のほとんど、ニミッツが多数の海兵隊航空中隊を含む海軍部隊の大部分を受け取ることになった。
3月12日統合参謀本部は44年内の戦略指令を発した。マッカーサーのホーランディア攻略作戦は一応承認された。一方ニミッツは6月にマリアナを占領、マッカーサーは11月にミンダナオに上陸、だが戦略はすべて45年2月の台湾への海軍侵攻に向けて調整されていたのである。ルソンについては「台湾進攻前にそのような作戦が必要であるならば」とかすかな可能性を与えるに過ぎなかった。マッカーサーが望みえた最善のことは、マニラから遠く離れた場所への象徴的な意味でのフィリピン上陸だった。この指令でニミッツに対し、マッカーサーに協力してホーランディア作戦のために航空機の支援を与えるように指示したのは、この点を認めてのことだった。3月25日、ニミッツは、開戦以来初めて両方面総司令官同士の直接会談のためブリスベンに飛んだ。
一方3月17日、マッカーサーはカーティン首相と晩餐会を行った。将軍は豪州政府への謝辞を簡潔に述べた。カーティン首相はルーズベルト大統領との初会談のためにワシントンに出発するところだった。豪州政府にはワシントンに尋ねたいことがたくさんあった。戦争終結後、日本軍から奪還した島々はどうなるのか、日本との平和交渉に豪州は一役買えるのか、国連とはどういった組織になるのか、平和維持機関なのか、平和調停機関なのか、それともその両者なのか。豪州はすでに戦後世界における自国の安全について懸念していたのである。
ニミッツ提督はその年の3月25日から27日にかけて、ブリスベンでマッカーサー将軍と会見した。両総司令官とも、二人は協力し合えない嫉妬深いライバル同士であるとの広く流布された噂を払しょくしようと決心して、努めて神妙に振舞った。マッカーサーとその側近たちは居並んで、搭乗機から降りるニミッツを出迎えた。その晩、マッカーサーはニミッツに敬意を表して豪華な招宴を張った。その後、マッカーサーはレノン・ホテルの自分の続き部屋にニミッツを招き、晩餐を供した。そこでニミッツはマッカーサー夫人にハワイから持参した数種類の珍しいランを、息子のアーサーにはハワイのプリント字の絹のスポーツ着を送った。
真心と好感あふれるやり取りが繰り広げられたにもかかわらず、ホーランディア計画をめぐっては食い違いがあった。200-300機の敵機がホーランジアの守備に当たっていることを海軍は危惧しており、それはニミッツの経歴への大きな脅威となるものだった。ニミッツは、大型空母をオランダ領ニューギニア沖の危険海域に一日以上さらすことを拒んだ。それでは、代わりに攻撃支援のための小型護衛空母数隻を一週間とどまらせるのを許可してはどうかとキンケード中将がニミッツに説いた。ケニー将軍はニミッツに心配は無用だといった。近辺の日本軍の航空機は4月5日までに「消し」て見せる、と彼は胸を張った。その場にいた誰もが、軽率な約束に聞こえる言葉に驚いたようだ。マッカーサー以外は、だれも信用できないといった表情だった。
二人の参謀はホーランディア後の別の作戦の調整について協議をした。海軍は9月15日ごろ早くもパラオ諸島を占拠するつもりでいた。パラオはニューギニアから遠く離れており、そこを占拠する一つの理由はミンダナオに上陸しやすくすることだった。南西太平洋の作戦進行の遅滞によっては、もしかしたら、マッカーサーは絶望した気分で遠くから眺めているしかなくなっているかもしれない。この時ニミッツはうっかり漏らしてしまった。「フィリピン諸島を迂回することを取り決めた計画があるのは確かだ」。マッカーサーは激しく憤った。
| 個人的にはルソン上陸が必要だと感じているが…、キング提督はマリアナ諸島とパラオ諸島を、台湾への直接攻撃の足掛かりとして利用するつもりでいる。 | その計画は戦略的にも戦術的にも不合理だ!。フィリピン諸島で収容しているすべての米人捕虜と1700万のフィリピン人を敵の意のままにさせて見捨てることになる! |
ケニーは、ウェワクの巨大空軍基地に一連の襲撃をかけることで、ニューギニアの日本空軍を「抹殺」することに着手した。1944年2月2日、ウェワクに135機もの大空襲があり、ほとんどの建物が破壊され、転送前の集積物資の多くが吹っ飛ばされた。次いで25日はもっと大規模の爆撃ありウェワク地区全体が穴だらけになった。3月になると米豪軍機の爆撃は連日猛烈を極めた。第五空軍は、3月後半、ウェワクを2週間以上にわたって連日爆撃した。3月18日の爆撃の際、第21輸送船団4隻がすべて撃沈され、第22次も同じ結果になって、ついに輸送船団のウェワク派遣は中止された。この猛爆撃は日本軍にホーランディア上陸作戦の意図を悟られないための陽動作戦とともに、ウェワクの補給機能を破壊するためであった。3月11日に陸軍機60機が迎撃に飛び立ったが、次第に犠牲が増え、3月16日以降はとうとう迎撃をあきらめた。
第四航空群隷下の各航空隊は、逐次ホーランディアに本拠地を移した。これに合わせて地上勤務者をホーランディアに移すことになり、飛行場勤務部隊員1000名、第十四野戦航空修理廠及び補給廠の人員と航空機の諸機材、レーダー、電波発振器や通信機、航空オイル等を爆撃の間隙をついて輸送船に乗せ、19日の明け方までにウェワクを脱出するように出港した。しかしアイタペ東方沖合で撃沈された。ハンサ湾と違い、ウェワクへの輸送船はパラオから来たために、敵機から受ける脅威が少なかったが、アドミラルティ諸島失陥でひっくり返った。
4月までに100機以上の戦闘機が破壊され、残りはホーランディアへと撤退した。ケニーはその後ホーランディアでの日本空軍力を破壊することに集中、第5空軍の襲撃は3月30日から4月3日までに300機以上の日本機を破壊し、3月30日だけで100機が失われた。4月6日までに、ホーランディアは25機の稼働機しかなくなり、回復することはなかった。言葉通りそれはすぐに一掃されたのである。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
ホーランディアは広大なフンボルト湾、その奥のジャフテファ湾、さらにフンボルト湾の西側に広がる半島にしては幅がありすぎるサイクロプス山系を挟んでタナメラ湾を擁し、またとない天然の良港に恵まれ、フンボルト湾の港から20キロ以上離れた高台に琵琶湖の2倍以上もあるセンタニ湖がある。ホーランディアの難点は、飛行場の適地がセンタニ湖の周辺にしかないことで、占領までに数日はかかるし、どうしてもフンボルト湾と結ぶ道路が必要であった。18年3月に海軍が飛行場の建設に着手したが、完成させたのは海軍の後を受け継いだ陸軍航空隊であった。陸軍第六飛行師団は、フンボルト湾と第1,2滑走路を結ぶ道路建設にも着手した。第5設営隊は18年11月末には第三滑走路を、さらに2月下旬には第四滑走路をほぼ完成させ、誘導路や掩体の建設にも本腰を入れ始めた。ウェワクへの着陸をあきらめた味方機が相次いでホーランディアに避難し、修理要員や機材が著しく不足し、飛行できないよう修理機が飛行場を占拠し、飛行機があふれた。なおこの地に、遠藤喜一中将の率いる第九艦隊と呼ばれる小規模な海軍部隊もホーランディアに本拠を置いた。十八軍と同格の軍を置かねば海軍の面子が立たないために、わざわざ作ったと推察される。4月19日、第9艦隊司令部は、ウェワクよりホーランディアに移転し、付属の駆潜艇はパラオに退いている。これで実質的に艦艇のいない艦隊となり、ホーランディアには1200人の陸上部隊が残った。
フェニステル山脈の北側の海岸一帯を制圧し、マダンに圧力をかけ始めて米豪軍の次の目標が、ハンサ湾であろうという日本側の読みは全く外れていたわけではない。そして日本側はハンサ湾でなければウェワクに違いないと予想していた。ホーランディアは兵員は多かったが、非戦闘員が主体で脆弱であった。
ホーランディア地区の両側には、ニューギニア海岸沿いに二つの巨大な湾があった。それは西のタナメラ湾と東のホーランディアに面したフンボルト湾で、約40キロ離れていた。これにクルーガーの第6軍がフンボルト湾を、アイケルバーガーの第1軍団二個師団がタナメラ湾を攻撃する計画を立てた。しかし、攻撃を2週間後に控えた4月8日、ケニーの偵察パイロットが、タナメラ湾で上陸する海岸は実質沼であり、おそらく通行不能であることを示す写真をもって帰還した。それでもアイケルバーガーはこの攻撃は実施されなければならないと主張した。両師団が上陸した後の計画は、センタニ湖に向けて内陸側へ侵攻し、そこにある3つの飛行場を占領することだった。兵力は5万5000人である。
ニミッツは、彼が擁する高速空母からの支援を3日間だけ提供し、その後は撤退させるつもりだった。アイタペ上陸作戦が急浮上した背景にはこうした事情があった。アイタペの飛行場は海岸近くにあり、上陸後48時間以内に日本軍がアイタペに作った飛行場を戦闘機用に改造し、これによってホーランディア侵攻に側面支援を与えることができると考えた。上陸後に大急ぎで改修したアイタペ飛行場は、米軍所定のスティールマットが敷き詰められただけの簡単なものだが、しっかりとできていたことは、半世紀以上過ぎた今日でも現役の飛行場として使用されていることからもうかがわれる。アイタペの街には離発着を繰り返したB25の当時のままの機体が展示され、出撃基地であった名誉を今のとどめている。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
シアドラー湾を出発し上陸作戦に向かうアラモ軍(第6軍)は日本軍を欺くため、19年4月21日、わざとアドミラルティー諸島の北方を大きく迂回し、さらに西に変針した。第十八軍司令部は「敵がニューギニア方面において新上陸を企図すべきは九部通り実施の算あり。軍当局の情勢においてはマダン、ハンサ間およびケイカル地区における公算最も大なるものと判断す」と各方面に通報し、警戒態勢を強めるよう指示している。欺瞞作戦は成功した。ニューギニアに近づいた船団は二手に分かれ、一方はアイタペに、他方はホーランディアを目指し、さらに後者の部隊は二つに分かれ、一つはタマメラ湾に、もう一つはフンボルト湾へと進行した。
航空母艦軍はミッチャー提督が率いていた。そして万一日本艦隊が出現したら、ミッチャーは、その日本艦隊に向かって自由に合戦を挑み、追撃をする権利を与えられていた。後日レイテ沖において、ハルゼー提督がこれと同様の権利を与えられていた。その時ハルゼーは日本艦隊の追撃に熱中して、レイテ上陸軍の援護を忘れ、一大惨事を招こうとしたが、その危険がこのホランジア作戦にも潜んでいたのである。しかし、実際の作戦は万事とんとん拍子に取り運ばれたので、統一指揮の欠如があったにもかかわらず、別に危険な状況にならずに済んだ。
1944年4月22日、米軍と連合軍は、レックレス作戦に呼応したパーセキューション作戦の一環として、パプアニューギニアの北海岸のアイタペに水陸両用の上陸を行った。ホーランディア南東約200kmのニューギニア準州の北海岸に位置するアイタペは、1942年12月に日本が占領し、海岸近くにタジ飛行場を建設した。 連合軍南西太平洋地域本部は、アイタペの防備が薄い諜報報告を受け、タジ飛行場を確保を実行。21日から海軍の機動部隊の攻撃が始まっていた。ウォルター・クルーガー中将指揮のアラモフォース兵力22500人がアイタペの上陸に割り当てられた。アイタペとタジの滑走路周辺の日本軍は約1,500人の戦闘部隊を含む約3,500人と考えられていたが、実際は約1,000人であり、以前に推定された数よりもはるかに少なかった。日本軍守備隊のほとんどが圧倒的な勢力が到着すると丘に逃げた。橋頭堡を確保した後、メインの飛行場は4月22日の13:00までに確保され、ノンストップで作業し48時間以内にオーストラリア空軍(RAAF)が運用可能になった。
その後、連合軍は、逃走する日本軍を追い詰めるために、ライフ川を遡及し、5月4日に推定200の日本軍の抵抗にあったが圧倒した。4月22日から5月4日までに、アイタペ地域の日本軍死傷者は525人と推定され、25人が捕虜となった。連合軍は死亡はわずか19人で、40人が負傷した。アイタペ飛行場は西部ニューギニアとフィリピンへの連合軍の侵攻に貢献したが、この地域は最終的に大規模空軍基地の開発に適さないことが判明し、連合軍はさらに西進していった。
4月22日朝ホーランディアの3.2㌔以内に接近した時、船団の巡洋艦の砲撃が始まった。空母からの航空機が内陸の日本軍要塞を攻撃した。第41師団が上陸する予定のフンボルト湾に巡洋艦が近づいていくのを、マッカーサーは巡洋艦ナッシュビルの艦橋から眺めていた。午前7時に上陸が始まった。
攻撃目標が読めなかった日本軍にとって完全な奇襲となった。タナメラ湾にアイケルバーガー指揮下の第24歩兵師団を基幹とする部隊が上陸したが、日本側からの反撃はごく小規模であった。フンボルト湾の米41師団にも日本側の応射はなく、フンボルト湾の海岸はたちまち米軍の支配下におさめられ、午前11時にはマッカーサーがフンボルト湾に上陸し、師団長ホラス・フラー少将と数分話をしてナッシュビルに引き返していった。午後までに湾に面する地域を全て押さえることに成功した。
フラー少将の兵士たちがフンボルト湾の日本軍陣地に入ると、朝食の茶碗にはまだご飯が半分残されたままでお茶が沸いていた。タナメラ上陸部隊の第一陣は、周到に準備された射道と半分完成したトーチカを発見し、驚き、胸をなでおろした。そこに陣取れば「一分隊で一個師団を阻止できただろう」が、敵はそれらをすべて放棄した。
一方タナメラ湾では2週前にケニーの偵察パイロットが低空飛行で写真に収めていた通行不能の沼とサンゴ礁で身動きが取れなかった。タナメラ湾からセンタニ湖に通じる道はぬかるむ湿地と峻険な登りが続き、しかも拡幅できない地形のため、この経路を利用する本格的攻撃は困難であった。アイケルバーガーはクルーガーが内陸部に向かうよう急き立てているが、それは全く不可能なことだと不満を漏らした。ナッシュビル号でマッカーサー、クルーガー、バービー、アイケルバーガー並びに各参謀が会議を開いた。ホーランディア作戦は完全な成功であり、マッカーサーはタナメラ湾は捨て置き24師団で160㎞先のワクデ島を72時間以内に上陸するようアイケルバーガーを急き立て、彼を仰天させた。バービーは水陸両用部隊はそこに軍勢を連れていくことができるといった。しかしクルーガーは同意せず、アイケルバーガーは激しく反対した。センタニ湖にある3つの飛行場はまだ攻略できておらず、まだその戦闘に勝てるという状態ではなかった。しかしホーランディア攻撃はこの時点で疑いのない成功であり、日本軍の駆逐にはフンボルト湾からの攻略のみで十二分であったことは間違いない。ワクデ攻撃に24師団を送ったとしても、ホーランディアの成果は変わることはない。24師団の3つの連隊のうち2つはまだ乗船中であり、ワクデ島は当時無防備であるから、この急襲が行われていれば、12時間以内に難なく占領で来ていただろう。もし計画通り4週間たてば、日本軍はワクデ島が標的と推測し、防衛を強化するだろう。マッカーサーは失望を口にはしなかったが、アイケルバーガーに対する彼の評価は書きなおされたことだろう。
センタニ湖畔の制圧
フンボルト湾からセンタニ湖に通じる経路は、途中に百メートル前後の大発峠があるのみで、将来拡幅して主要道路にすることができそうであった。何よりも大規模な攻勢に使えると判断した米軍は、この道路を主進撃路とした。米軍の一部は上陸用舟艇を使ってジャウテフア湾内に侵入し、ピム付近に上陸した。すぐ近くのコタラジアには北園少将の司令部があったが、米軍は北園隷下の部隊を蹴散らしながら、この経路を一気に攻め上り、22日夕方6時ごろには大発峠を占拠した。日本軍は夜襲で反撃したが、日本軍の夜襲戦法を百も承知していた米軍に跳ね返された。米軍の捕虜にならず、飛行場部隊との合流もかなわなかった者たちは、サルミに脱出を図った。
センタニ湖畔のコヤブに後退した日本軍はわずか千余名、それでも米軍の飛行場地区進出を阻止するべく布陣した。新第六飛行士団長稲田は、コヤブに糧秣の集積があることを知り、これを舟艇でネタールに運び入れる一方で、コタラジアの兵器廠にも参謀を派遣し、兵器を調達しようとしたが、こちらのほうは米軍が一足早く占領し、成功しなかった。稲田少将は今後の作戦方針について幕僚らと健闘し、飛行場で全滅覚悟の戦いをする作戦計画を退け、デニムに後方連絡線を設定し、飛行場大隊を主とする兵力で、敵の飛行場占領をなるべく妨害する方針で挑むことにした。稲田は北園の第十八軍所属部隊にコヤブを守備させ、自分の航空部隊をセンタニ湖北岸中部のネタール、西部のサブロンにおいて防御体制をとることにした。連日の豪雨で、フンボルト湾から上がってきた米軍の活動が不活発であることが幸いし、稲田は防御につかない部隊から順にセンタニ湖西端のヤコンデに下がらせた。だがタナメラ湾から悪路を登ってきた米24師団の一部が23日の午後にはサブロンの手前まで迫ってきた。挟み撃ちを恐れた第6航空師団の部隊は、23日夕刻から西進を開始し、稲田の司令部も24日に明け方にはドヨ、夜にはヤコンデに移動させた。25日になると米軍は急に積極的になり、北園部隊が展開するコヤブにも圧力をかけ始め、同部隊は数キロの後退を余儀なくされた。ニューギニアの泥んこに足を取られていた米軍は、コヤブ付近から舟艇を出してセンタニ湖を一気に西進し、飛行場南側に上陸してきた。この思わぬ動きに虚を突かれた飛行場方面の部隊は抵抗できず、ヤコンデ方面に後退した。わずか3日間の時間しか稼ぎ出せなかった。26日早朝までに、稲田はサルミへの後退を決心したと思われる。27日にヤコンデで確認された人員は、北園部隊2000、第6飛行士団5000余りに過ぎなかった。海軍部隊は悲惨で、通過部隊の中に一人も海軍関係者が混じっていなかった。稲田はゲニムについた各部隊に、直ちにサルミへの逃避行を命令した。4月27日までに飛行場はすべて占拠され、作戦も主要な目的を達成した。
日本軍の逃走
撤退する各部隊はゲニムから西進し、5月の半ばごろには海に近いアルモバ川に到着した。5月17日米軍はサルミ沖東沖合のワクデ島とサルミの東20キロのトル川右岸河口近くに上陸した。サルミ方面からホーランディアに向けて進撃中であった第三十六師団の歩兵二百二十四連隊とサルミの三十六師団主力が上陸軍に対する攻撃にあたった。27日に梯団主力がトル河畔に達し、稲田は第三十六師団長長田上中将と食料の補給や梯団の処遇について会談したが、このあと稲田は田上に主力をトル河畔で停止させ渡河させない、三十六師団から糧食の補給を受ける、など約束した。事実上のサルミ行き断念であった。その一方で稲田は発動艇二隻に手配を求めた。発動艇の要求は第四航空軍司令部から航空師団に対するハルマヘラ集結命令に基づいているが、彼はパイロットたった13名と司令部関係者37名だけをつれ、サルミを発してヘルビング湾のマンベラモ河口まで徒歩で歩き、そこから大発二隻でマノクワリまで行ってしまった。
トル河畔の手前で梯団の組織は完全に崩壊していた。第三十六師団司令部からは「敗軍」と罵倒され、日本兵扱いされなかったから、これまでの戦訓を語っても聞く耳を持たなかった。
連合軍はハンサ湾と、減ったものの5万4000の部隊を擁し守りの堅いウェワクをパスし、4月22日蘭領西ニューギニアの首都ホーランジアとアイタペをそれぞれ4万、2万の軍で占領し、同地の日本守備隊を壊滅させた。ホーランジアでは日本軍1万4600人のうち、生きて転進できたのは500名に過ぎず、また611名が捕虜となった。米軍の戦死者はわずか152人に過ぎなかった。
ホーランディアの戦いはニューギニアの戦いの主要な戦闘であり、大日本帝国陸軍史における決定的敗北のひとつであり、ニューギニアの戦局を決定的にした皇軍始まって以来の最大最悪の敗北である。ひいては太平洋戦争の趨勢を決した戦いといっても過言ではない、連合軍の驚異的・圧倒的な勝利であった。このホーランディア占領はジョージ・マーシャル参謀総長は「模範的な戦略的、戦術的王道」と評した。
ワシントンから、これらの孤立した敵兵力をさしあたりどう処理するつもりかと質問に対し
| ソロモン群島とニューギニアで素通りしてきた敵守備部隊は、現在および将来の作戦に少しも脅威になっていない。これらの部隊は…いろいろな手段で損耗させることによりやがては最終的の処理することができる。これらの日本軍が…戦争に貢献するような能力はほとんど持っていない。今強襲をかけて直ちにその全滅を図ることは、疑いなく大きい生命の損失を伴い、しかもそれに見合うだけの戦略的な利点はもたらさない。 |
戦前は、山腹とその懐に広がる狭く細長い平地には、何件かの草ぶきの小屋以上に大掛かりなものは何もなかった。だが日本軍はホランジアを一台補給基地にしようとしている最中であったので、連合軍は600の貯蔵倉庫群を占領した。それには、山のように積んだコメ、酒やビールの大貯蔵、多量のキニーネもあった。続いて、マッカーサーは工兵隊部長パット・ケイシーを派遣し、そこを連合軍の大補給基地とし、フィリピン奪還作戦の前進基地として準備するよう命じた。工兵隊は死に物狂いの作業をやった。道路網の改善や完成にも努め、奪取した飛行場にも改善を加えた。給水施設や、燃料補給パイプラインも作った。道路は立派になり、そして建築材料も入手するようになると、工事の重点は病院、宿舎、司令部、倉庫などの建設に移された。技師たちはジャングルからの埃っぽい道をブルドーザーで鳴らし、大きな野戦病院が姿を現し、海軍は第七艦隊本部のためのかまぼこ形の複合兵舎を設立し、兵站業務係は、板金や物資輸送用の箱から回収した廃材でできた粗雑な倉庫を建てたのだ。そして、何列にもわたって茶色の陸軍用テントが丘の懐にうねるように設営されていた。ホーランディアはまた主要な海軍および空軍基地に変わった。アメリカが占領して三か月後には、およそ10万人が収容するテントの町ができた。大戦中ピーク時には、ホーランディアには14万人が住んでおり、フンボルト湾に巨大な海軍基地があり、内陸に一連の飛行場があった。ホーランディアは現在ジャヤプラと改名されており、人口30万以上でニューギニア島最大の都市となっている。
工事があまり迅速に進んだので、いろいろな風評を生んだ。マッカーサーの戦時中の生活に関する噂は多くあったが、最も有名なものの一つは、ホーランディアというおよそ好ましいとは思えない環境に、サン・シメオンのハースト・キャッスルかヴェルサイユほどの規模の宮殿を立てたというものである。1944年の夏、陸軍の技術者が総司令部のために、そこに巨大な新しい建造物を立てたということは確かである。地球上最も危険な場所の一つの真っただ中にあるこの建物が比較的快適であったため、兵士の中には皮肉な言葉を投げかけるものもいた。部下が埃にまみれて生活している一方、ぜいたくするためにマッカーサーは自分のために「100万ドルの大邸宅」を立てたという語り草になったのだ。しかし、宮殿ということに関して言えば、通常は三棟の陸軍式プレハブ住居の建設に用いる、平凡で、フラットパック上の素材で建てられていたのである。
夢のようなセンタニ湖畔に、マッカーサーの「100万ドル邸宅」が作られたといううわさが立った。あの一癖ある航空家のパピー・ガン君は「100万ドル邸宅」に好奇心を持ち、一つ見物してやろうと、ホランジアに着陸した。しかし彼の発見したものは、大したものでなかった。「・・・それは荒削りの材木で、小ぎれいに作った建物だった。…どう見ても邸宅という代物ではなかった。住むにはあまりに風情のないものだったので、目に映るものは何でもよく見えた。トタン屋根などは驚くべき程に立派に見えた。
実際の建設費用は、100万からゼロを二つとったほどのものだった。だがマッカーサーの新しい住居兼本部の中で最も印象的なのはそこからの壮大な背景だった。その場所は、センタニ湖の紺碧の水面を見晴らす丘の頂上にあった。サイクロプス山の1800メートルの頂が、本部の建物の後ろに雄大にそびえたっていた。そして、ハリウッドの叙事詩的大作映画に見られるように、壮大な滝が山の中央から噴出しており、滔々とした白い弧を描きながら長い水柱がはるか下方のジャングルに向かって流れ落ちていた。眼下の海岸沿いの悪臭を放つ沼や息苦しいまでの暑さが及ばない、およそ300メートル上方の、軽い潮風が入ってくるのに十分な高さのところに、マッカーサーの執務室研住居があったのである。ケニーは、じゅうたんや家具、バスタブなどをブリスベンのマッカーサーの執務室から運び込ませ、この場所をなじみがあり快適な場所に感じられるようにした。そこには、会議室、8つか9つの事務所、そしてサザーランドやその他の総司令部の主要参謀のための寝室が6つあったのである。
ポートモレスビーの総督官邸に勝るセンタニ湖本部の最大の利点は、マッカーサーの総司令部とほとんど同じ場所に、ケニーの極東空軍司令部とクルーガーの第六軍、それにキンケイドの第七艦隊のそれぞれの本部をようやく設置することができたということだ。結果として決定がより迅速にされるようになり、レイテ上陸の詳細を取り決めなければらなないスピードに気を使う必要もなくなったのである。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
大本営はニューギニアについては「西部ニューギニア」を絶対国防圏に入れ、東部ニューギニアを切り捨てている。一方米豪軍はニューギニアを一つの戦場としてとらえた。「絶対国防圏」構想は、軍編成に基づく担当区分に寄ってニューギニアを二つの戦場とし、国境線までは第十八軍が米豪軍と戦い、その後はこれから投入される予定の第二軍が戦闘を引き継ぐという机上の空論に成り立っていた。絶対国防圏が設定されて初めてようやく西部ニューギニアへの戦闘部隊の派遣が計画され、数か月後から徐々に配備が開始された。それまで西部ニューギニアには何も行われていなかった。
日本が西部ニューギニアを占領したのは17年4月で、わずかな海軍部隊が何の抵抗も受けずに上陸した。10月にはマノクワリにニューギニア民政府が設立され、浜田吉治郎海軍中将が初代総監になった。無風状態に近かったニューギニア民政府にはたくさんの女子事務員やタイピスト、看護婦も配属され、また街には南洋興発、南興水産、南洋拓銀、三井農林、王子製紙、台湾銀行などの企業とその社員数百人が活動していた。大本営は18年10月29日、在満第二方面軍司令部をセラム島アンボンに進出を命じた。同じく満州から第二軍司令部(豊島房太郎中将)を西部ニューギニアのマノクワリに進出させ、第二方面軍の麾下に入れることにした。さらに在満の第三十五師団と三十六師団、この他に第十九軍(第五師団、在内地の第四十六師団、第四十八師団)、第七飛行士団を西部ニューギニアに進める計画で、実現すれば第十八軍に劣らない強力な戦力が編成されることは間違いなかった。しかし到着が遅れるため、当面第三十六師団のみで第二軍は発足することになった。
19年1月、吉野大佐率いる第二百二十三連隊と松山大佐率いる第二百二十四連隊がサルミに上陸、葛目大差の率いる二百二十二連隊はビアク島に上陸している。遅れた第三十五師団は満州の大行作戦に従事し、後任の部隊に作戦を引き継いだのが19年3月8日で急いで内地に移動し、館山からパラオに到着したのが4月8日、西部ニューギニアに入ったのがようやく5月末から6月末であった。第二方面軍司令部は安全なアンボン入りしたのが18年11月、指揮権を発動したのが12月1日、翌年早々司令部はさらに遠いセレベス島メナドに移った。阿南司令官は西部ニューギニアの実地検分をしなかった。19年2月、アドミラルティ―諸島陥落後、ラバウルとの連絡ができなくなったことを理由に、十八軍は第二方面軍の隷下に入り、そのため千キロ近い移動命令を受けて無益な死傷者を出すことになった。第二軍司令部がマノクワリに入ったのが19年1月末頃で、これ以来海軍が開いたマノクワリには陸軍が第二軍司令部ほかに貨物廠、兵器廠、自動車廠などを置くとともに、急激に本拠地らしくなった。三十六師団をサルミに、三十五師団がソロンに展開した。これらの諸部隊は補給なしの持久作戦に慣れていないため、米豪軍が来る前にすでに自滅状態になったものさえあった。米豪軍との戦闘を中国軍のそれと同じ感覚で考えていたことも潰走の一因であった。
4月22日ホーランディアに米軍が上陸すると、5月1日大本営はサルミ、ビアクを絶対国防圏から外した。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
日本軍はホーランディアの西方150キロにあるワクデ島とその13キロ西のサルミに飛行場を建設していた。ワクデ・サルミ地区には田上八郎中将の第三十六師団のうち14000が防備していた。サルミのマフィン湾の飛行場の東側にローンツリーヒル(1本木の丘)と名付けられた丘があった。ワクデ島は5月27日のビアク侵攻を援護するために占領が計画された。攻撃するのはイェンス・ドウ少将率いる米軍第41師団のうちの一個連隊である。
5月16日夜半から、ワクデ島、トム、アラレ、マフィン方面が猛烈な艦砲射撃を受け、翌17日午前5時ごろにワクデ島とサルミ付近に、午前7時ごろにトム、アラレ、トル川の河口付近にそれぞれ米軍が上陸した。ワクデ島の日本軍守備兵は800名に過ぎず759人が死亡し4人が捕虜となり、米軍は死者40負傷者107を出したがその占領を防ぐことはできなかった。ワクデ島を制圧するにはあと二日を擁したが、すでに打ち合いがやむ前から工兵と航空専門家たちが爆撃機と戦闘機の各二大隊がすぐ離陸できるよう飛行場の改造と拡張に取り掛かっていた。ワクデ上陸から二日半後に、飛行機は作戦に使用可能となった。一週間後、ワクデから飛び立った海軍のB24がフィリピンのミンダナオ南部を初めて偵察飛行した。ドウ将軍の部隊は今やその使命を達成した。
18日にも、トム、アラレ、トル川の河口、ワクデ島に第二次の上陸があった。二百二十四連隊(松山連隊)は5月18日払暁からトム東側付近の米軍を攻撃したが跳ね返され、部隊の70%を失った。しかし立て直しを図った松山連隊800名は、27日に二度目のトム攻撃を敢行し、突然の敵の出現に驚いた米軍は大発に乗って逃走を図った。多くの車両や大砲類を破壊したが、敵に制空権あり、反撃が始まる前に奪取した陣地を放棄してジャングルへと退散した。松山連隊長は6月3日三次トム攻撃を行うことにした。これは手も足も出ず早々に撤退命令が出され、日本軍は後退した。
しかし、不幸にもドウ将軍の上官クルーガー中将がトエムの約26キロ東のサルミの街に攻撃を開始する決定を下した。サルミには田上八郎中将指揮下の日本軍第三十六師団の司令部があった。クルーガーの得た情報によると、日本軍はワクデ地域のアラモ軍団への攻撃を準備しており、その機先を制するためにサルミ進行が打ち出された。クルーガーはまた、サルミ周辺の日本軍の兵力と防備は弱いと、誤って信じていた。事実はそうではないことを最初にすることになったのが、同部隊を救援した第158連隊の兵士だった。サルミの戦いで激戦地となったのは、ワクデ島とサルミの町のほぼ中間地点である、マフィン湾のちょうど西の海岸沿いの平地にある高さ50メートルの丘であった。一本の巨木があるため米軍がローン・トゥリー・ヒルと名付けたこの丘に、日本軍は迷路のような防御陣地を構築していた。防御陣地は洞穴、トーチカ、丸太と土で組んだ退避豪からなり、うまく隠した75ミリ山砲に守られていた。守備の兵士は、中国戦線の歴戦の猛者ぞろいで、その一帯の地形に精通していた。丘の巨木のてっぺんに巧みにカムフラージュした見張り所が置かれ、そこから日本軍はサルミからアラレに至る全域を警戒することができた。
5月22日、クルーガー将軍はワクデの空軍の拡大を決定し、日本軍の反撃を抑えるため、西のサルミに向かて進軍するように命じた。23日侵攻ははかどらず、5月24日に戦車の支援を受けて侵攻できた。158連隊はローン・トゥリー・ヒルの奪取を企てたが果たせず、4日間で300人近い死傷者を出した。5月30日夜に日本軍の夜襲があり、米軍は繰り返し攻撃を受けた。6月5日158連隊の同部隊の救援に第6師団が駆け付けた。6月8日に第6師団の攻撃が始まり、マフィン近傍で激しい陣地の奪い合いになった。ついに三十六師団司令部は10日になって撤収を発令し、松山・吉野連隊の作戦山周辺へと集結した。その後米軍の進撃は停止した。米主力の158連隊がヌンホル島攻略に転用されたこと、第6軍司令官と第6師団長の間に齟齬があったことが原因とみられる。
6月18日に田上師団長は諸部隊に持久戦を目指す新配置を示したが、シバート少将指揮の米第6師団がこれを粉砕するかのように西進してきた。6月20日攻撃が再開された。はじめのうち攻撃部隊はほとんど成果を上げられなかった。21日に入江山に対する攻撃を開始したが、この日は撃退した。だが、22日には第6師団の105ミリ、155ミリ曲射砲と、ワクデから飛び立った一個中隊の戦闘機による猛砲爆撃に助けられ、爆撃機を出動させ、ガソリンタンクを投下して樹木を焼き払い、見通しが良くなった斜面を20歩兵連隊の2個大隊がローン・トゥリー・ヒルの上々に戦列を戦車を先頭に立てて進めてきた。松山連隊長は夜襲を命令し、周囲が暗闇になると各地で白兵戦が展開され、米第20連隊の第2,3大隊は進路の全部を切断され、孤立状態に陥った。23日早朝米軍の増援部隊に偽装した土井大隊が米第2大隊の陣地に近づき、一気に突入した。奇襲の成功ではあったが、突入部隊がわずか70名では過少すぎ、しかし米軍が第2大隊を撤収させたくらいだから、一応成功といってよい。ついに米軍部隊は分断、包囲された。それでも丘の上の米兵は踏みとどまった。
24日有力な米増援軍は入江山西方のウォスケ平地に上陸し、火炎放射器も使用して攻撃をしかけ、25日日本軍はモラルテレン山地区に後退した。三日後、火炎放射器、手投げ弾、バズーカ砲、高性能爆薬、さらに火のついたガソリンまで使って次第に洞穴や岩の割れ目から日本軍を追い払い始めた。米第6師団は1000人近い死傷者の犠牲を払ってローン・トゥリー・ヒルを手中にした。米軍は周囲の掃討作戦を行った。
7月1日ウォスケに米軍が進軍、海岸部分をことごとく抑えた。しかし海岸西の陣地の日本軍は組織的な軍事力を保持しており、サルミの町、ウォスケ飛行場及びサウル飛行場は依然日本側が確保し、米軍もあえてこれを奪取しようとしなかった。
戦闘がフィリピンに近づくにつれ、ワクデ・サルミ地区の重要性は失われていった。9月1日クルーガー将軍はワクデ・サルミの作戦は終了すると宣言した。9月下旬にはワクデ島の基地も縮小され、12月には非常時のみの運用となり、45年初頭にはマフィン湾から米軍は撤退、2月6日にはワクデ島に全員が引き上げた。
ワクデ・サルミの戦いでは米軍は死者400人および行方不明15人、負傷者1500人の甚大な被害を出し、日本軍は戦死3870、捕虜51であった。米軍が西部ニューギニアでは最も苦戦した戦いであるといえる。しかし病気と飢えはいかんともしがたく、日本軍の戦闘力は低下し脅威ではなくなっていた。この地域の日本軍14000のうち、終戦時には2000人が生還したのみであった。
このサルミ地区で悲惨な目にあったのが、ホーランディアから撤退してきた第六飛行師団を主体とした部隊である。激戦地となったマフィン湾、そこに注ぐトル川の上流経由でに戦火を避けサルミへ向かったが、三十六師団よりトル川の渡河を禁止された。
昭和19年5月28日、トル河畔のドンア集落に到着した。どこからか腐乱死体のにおいが漂ってくる。ドンアは原住民の集落で15個くらいの家があった。その家に軍帽と軍服をつけたまま白骨と化した支隊があった。軍房は海軍のものであった。その横には紫色になって眼球がサバが腐ったようになった死体がある。その死体は腹が大きく膨れ上がっていて、へその部分にウジ虫が盛り上がってうごめいている。その横にはまだ新しい死体がある。そのまた隣には虫の息の兵隊が「ミズ、ミズ」と訴えていた。…ブファレから引き返した兵の話では、南興農園とは名ばかりで50戸の生活を支えるのがやっとであり、とても数千名の軍隊を養うだけの物資はないというのである。いくら師団命令とはいえ、現地調査もしないでブファレに集結して現地自活せよとは何事だ。全員餓死せよということか。このころ、流言飛語が飛び、転進各部隊の動揺がはなはだしかった。その流言飛語とは、「トル川を渡河すれば第三十六師団は作戦の邪魔になるので、たとえ友軍でも射殺する」。我々ホーランジアの転進部隊はここで完全に行き詰った。この地にとどまることは自滅行為である。私は、たとえ命令違反であっても、トル川を渡河してサルミに行こうと決心した。
薄暗くなったころ、2週間ほど前にジャングルで別れたA中尉がぶらりとやってきた。「松浦少尉お元気でしたか。やあパンのみですか。少し恵んでもらえませんか。何なら、これと交換していただけませんか」彼は飯盒を取り出した「あなたは人肉を食べたことはありませんか。この飯盒の中にあぶった人肉が入っています。腐敗が速いので焼いて携行食にしています」と飯盒を差し出した。人としてあるまじき行為である。彼は人としての道を放棄し地獄道へ落ちてしまっているのである。…我々は強行渡河したが、命令を守ってトル川右岸に待機した兵たちは、食べるものはなく、苦しさのあまり地獄道に落ちたものが多かった。トル川は「命をトル川」と現地の兵たちが言っていたが、他の兵から殺されて食料を奪われ、場合によっては食われてしまう事態にまでなっていた。5,6人が一組になって、生きるためにはどんなことでもするグループが何組かできた。その者たちは、食料を持っている兵が通りかかると殺して強奪していた。そういった飢餓地獄が展開されているとき、稲田師団長は、第三十六師団長と会合して、航空部隊の悪口のみを述べ、自らは司令部高級部員と一部の空中勤務者を伴って、部下七千人の救済を要請しないまま、師団再建の美名のもとにマノクワリを経由してフィリピンに逃亡したのである。稲田少将の言葉を真に受けた第三十六師団長を、航空部隊にはいかなる援助も与えないとの心境に至らしめたといううわさが流れた。
昭和十九年六月に入ると、第三十六師団が、トル川にいる転進部隊のシハラ地区への移動を許可した。ホーランジア転進部隊が異動をはじめ、最後の部隊がシハラ地区に到着したのが6月24日であった。北園部隊は6月19日、サルミ西方の北シアラ地区に入って濃厚自活を始めた。坂本経雄は、ホーランディアから撤退した15000のうち、シハラ地区に定住したのは2000人だったとしている。シハラ地区からの生還者はわずか400人であった。終戦後、転進部隊の将兵たちは、ホーランジアからサルミに転進した諸部隊を一括して「白梅会」と名付けた。雪部隊(三十六師団)にどんなに痛めつけられ、迫害を受けても、それに耐え、やがて春には白い花を咲かせてみせるという意味でつけられたものである。
| ニューギニアの戦い(1944年前半) |
ビアク島はニューギニア北西センデラワシ湾の最大の島で、湾の入り口を占める要衝ある。東西は約90キロ、南北は約40キロで、赤道直下に位置し、全島が熱帯雨林に覆われている。地形は石灰岩質で南東部平坦な飛行場適地を有していた。日本軍は1943年以降ビアク島に「モクメル飛行場」の設営を進めていた。日本軍がビアク島へ配備し兵力は陸軍10,400名、海軍1,947名を数えた。しかし1944年4月、第35師団の輸送作戦である「竹輸送」は潜水艦攻撃を受けて手痛い打撃を被り、ビアク島には到達できなかった。
ビアクの戦いは、もしかしたら日米海軍の一大決戦となるかもしれなかった。海軍の作戦は、アメリカ軍がビアク島へ進攻してくれば、海上機動第2旅団を増援に送り込む「渾作戦」を実施してアメリカ軍主力を誘引するというものであった。5月25日、連日の激しい空襲の中、第2方面軍参謀長沼田多稼蔵中将がビアク島を訪れ、この作戦について葛目大佐らと打ち合わせた。27日早朝、沼田中将の乗機がビアク島から離陸しようとしたそのとき、連合軍の大船団が沖合いに現れた。
攻略したホーランディアの飛行場は、ケニーの中型機には対応できたが、9月1日ころ始まるであろう雨期の最中に重爆撃機に対処するために必要な排水路が不足していた。ケニーはもっと多くの飛行場を必要としていた。彼はホーランディアから360㌔北西にあるビアク島を占領するよう要求した。ビアクには3つの飛行場があり、その中でもモクメル飛行場はB‐24を扱えることをケニーは確信していた。ビアクはまたマリアナ諸島の領域内になるため、ビアクから飛び立った爆撃機がニミッツのサイパン攻撃を援助することもできた。連合軍の諜報部隊はビアクの日本軍を4000人と過小評価しており、上陸軍は約12000であった。マッカーサー軍は、日本軍の手薄な地点や退路に上陸して戦局の指導権を握ってきたが、日本側が重要視し防御態勢を固めたところに上陸する例はなく、その例外がビアク島である。
米軍上陸
ワクデ島からの戦闘機の援護下、5月27日にビアク島の攻撃が始まった。米第1軍団麾下の第162連隊、第6軍第41師団第186連隊が、猛烈な艦砲射撃と爆撃の援護を受け、ボスネック海岸に上陸してきた。波打ち際の先には高さ50メートルの断崖が侵入者の進行を阻むボスネック海岸への上陸は、一見非常識ともいえる作戦であった。米軍はやすやすと上陸した。6月3日マッカーサーは戦闘に勝利を収めたかのように「残敵掃討は進められている」と発表した。だが…
日本軍は水際での戦闘をしないことを決めていた。日本軍は洞窟やトンネルを基盤としたハチの巣状の防御陣地を用意しており、トーチカや掩蔽壕、射撃壕をうまく配置していた。波打つ際から断崖の上に出るには、一本の細い坂道モクメル坂を上らなければならないが、崖上から撃たれればひとたまりもなかった。
両連隊を指揮したのは41師団長のホーレス・フラー少将で、有能で経験豊富な戦闘員だった。彼は単にモクメル飛行場への最短路を取るつもりはなかった。上陸すると、彼は体系的に敵の配置を精査し、その兵力を試した。米軍が上陸して間もなく、久しく見なかった日本機が飛来した。ソロンに対岸にあるエフマン島基地から出撃したのは4機の陸軍二式戦だった。米駆逐艦2隻を撃沈し、他の艦船にも損傷を与えた。日本軍の配置を解明すると、フラーは牽制攻撃を仕掛ける準備を整えた。フラー少将は日本軍兵力に対する当初の見積もりが間違っていたと判断し、第六軍司令官クルーガーに増援部隊の派遣を要請した。クルーガーは163連隊の増派を決める一方、近くのオウイ、アウキ両島の占領を命じた。
米軍の上陸作戦直前の艦砲射撃と空爆中に、第二方面軍参謀長沼田中将一行が飛行機を破壊され帰還できなくなった。沼田は支隊長の葛目が大佐に過ぎず、支隊の上部の第二軍のさらに上の第二方面軍の参謀長である自分がビアク支隊を指揮するのは当然と考えた。
ビアク島戦の特徴の一つは、海軍も増援部隊の輸送に協力したことにある。海軍の応援が入ることによって、大本営、南方軍、第二方面軍、第二軍のほかに連合艦隊、南西方面艦隊の判断も入り乱れるため、増援作戦を進めるためには各機関、陸軍と海軍の知り合わせ、意見調整が必要になってくる。一方米豪軍側はマッカーサーの一言で決まった。ビアクは直前に絶対国防圏から外れ、増援部隊をビアクに送り込むための海軍の渾作戦は実施されず、陸軍船舶工兵の大発による人員輸送が行われた。
モクメル坂の戦いと別動隊による飛行場占領
米軍はモクメル飛行場の奪取に取り掛かるべく、戦車を押し立て一つしかない狭い通路を登り始めた。「モクメル坂」を上った米軍に対し、日本軍は巧妙な陣地を作り、敵をぎりぎりまで引き付けてから一斉に重砲火を浴びせた。この攻撃は陽動攻撃であったようで、米軍はいったん後退したが、夕方まで一進一退の激闘が展開された。28日午前4時に日本軍は夜襲を行ったが、これは完全な失敗であった。翌日米軍は進撃を開始、大地に通じる谷筋を登り始めた。サンゴ礁の島にはいたるところに洞窟があり、その中に潜む日本兵が機関銃、迫撃砲、三砲塔を米軍に向けて待ち構えていた。午前10時に日本軍の重砲が一斉に火を噴き、戦闘の米軍第三大隊に死傷者が出て後方を遮断され孤立した。日本軍も米軍の艦砲射撃を受けてとどめを刺すことができず、薄暮を利用した米軍の後退を見逃したが、日本軍の勝利には間違いなかった。米軍は戦死16人、戦傷87人、M4戦車3両破壊された。
沼田参謀長はこの勝利に気をよくし、さらにモクメルの米軍に一撃を加えるために第2、第3大隊に払暁攻撃を命じる一方、葛目支隊長にも第一大隊を率いて参加するよう要求した。ボスネックにいた葛目は無傷の米186連隊と対峙していたが上官命令に背くわけにいかなかった。29日の日本軍の払暁攻撃に米軍は艦砲射撃、戦車で防御し、膠着状態に陥った。ここで日本軍の軽戦車9両が突入を試みたが、米戦車などに7両が破壊されたが、浮足立ったように見えた米162連隊が戦略的後退を始めた。しかしボスネックががら空きになった好機をとらえて、米186連隊がサバを経由して大きく迂回し、モクメル飛行場に向かうコースに進入してきた。6月1日夜襲を仕掛けた斎藤大隊が全滅した。葛目支隊長が引き返してきたのはそのあとで、頼みの斎藤大隊長の全滅を知って愕然とした。斎藤大隊を撃破した米軍はモクメル飛行場に迫ってきた。7日早朝、米186連隊と162連隊の一部がモクメル第一飛行場の東端に接近した。守備隊も米軍が東方から迂回してくるとは予想しておらず、沼田が米軍の迂回作戦を知ったのはさらに後だった。米軍はモクメルの第一飛行場を占領し、西洞窟に迫った。
ボスネック夜襲作戦計画を練っていた葛目は、飛行場方面で激しい戦闘が始まると、直ちに夜襲計画を中止し、牧野大隊に反抗を命じた。8日沼田の司令部は夜襲攻撃を計画し、9日突撃開始の予定地点に近づいたが、米軍が最初に発砲し、ものすごい数の重砲が一斉に火を噴いた。午前4時すぎ、牧野大隊長らが指揮を執っていた穴に直撃弾が飛び込み、指揮機能が壊滅した。葛目は沼田らがいる西洞窟に入り、今後の作戦会議が開かれた。迅速軌道による野戦を主張する葛目と強固な洞窟で戦い続けるべきとする海軍の千田少将が対立した。葛目は沼田らにぜひ方面軍司令部に帰ってほしいと切り出した。第二方面軍司令官穴見からの要望であった。沼田らはこの勧めに従い、16日にコリムに到着し、大発に乗ってビアク島を脱出した。
ビアク島では日本軍の指揮の混乱が見られたが、実は米軍はもっとグダグダだった。マッカーサーはフラーの侵攻にやきもきしていた。彼は海軍の前で恥をかく可能性が迫ってくることに悩まされていた。フラーが成功しても、6月15日のサイパン攻撃に際して、何かしらの貢献に間に合うよう修復されることはありそうにないように思われた。彼は6月5日クルーガーにモクメル攻略を早めるようプレッシャーをかけた「ビアク飛行場を確保し損ねるのを懸念し始めている。侵攻は十分な決断を持って進められているのか?。我々の地上での犠牲がごくわずかということは、侵攻に失敗していることの証拠のように思えるが」。
クルーガーは参謀ジョージ・デッカー(のちに陸軍参謀総長までになった有能である)をビアクに送った。6月8日に彼はクルーガーに報告した。「敵の守備隊は侮りがたく、地勢は厄介で、暑さも尋常でなく、こうした障害にもかかわらずフラーは前進しており、モクメルの5つの飛行場のうち1つを占領。しかしそれを見下ろす位置にある洞穴にいる日本軍の重砲を取り押さえないと滑走路は使用できないが、フラーはすでに連隊を高台にうまく配置している。」
しかしクルーガーはフラーに侮蔑の言葉を浴びせかけ、飛行場全域をまだ攻略できていない理由を詰問した。フラーの牽制攻撃が成果を生み始めたその時、戦略を変えるよう強いられたのだった。クルーガーは高台に送り込んだ連隊は放棄し、海岸沿いの正面攻撃に加わるよう要求したのである。マッカーサーからのプレッシャーに驚いたクルーガーは、申し分なくすぐれた計画に介入し、自分の目で見た信頼できる参謀の助言を無視したのだった。フラーや彼の部下のドウはこの決定に激しく抗議した。一方そうとは知らずマッカーサーはさらに6月14日クルーガーにプレッシャーをかけた「ビアクでの状況は満足かないものだ。一刻も早く航空機が活動できる飛行場を建設しないと、会戦の戦略的目的が危機にさらされる」
クルーガーはフラーを更迭し、代わりに第一軍団長アイケルバーガー中将に指揮をとらせた。早速ビアク島入りしたアイケルバーガーの前に、哀れな様子のホラス・フラーが待っていた。彼は41師団の指揮権まで取り上げられたのである。アイケルバーガーは当初は前任者の計画に干渉し、西洞窟の周囲に部隊を進めた。しかし2日間戦闘の様子を見ていたアイケルバーガーは、フラーの戦略が正しいことを確認し、部下のドウに指揮権をゆだねた。ドウはフラーの戦略に立ち返り、牽制攻撃の準備を始めた。フラーが要請した第24師団第34連隊がホーランディアから到着し、三個連隊を西洞窟及び天水山の北方に配置してこれを攻略するとともに、高台に部隊を再配置し、全飛行場を奪取する体制を整えた。
19日早朝、米軍は西洞窟、天水山、第、3飛行場、東洞窟、須藤大隊を目標とし、一斉に攻撃を開始した。日本軍はいたるところで追い詰められた。米軍は火炎放射器、ガソリンドラム缶など、ありとあらゆる方法を試した。追い詰められた日本軍が潜む洞窟は、まさに阿鼻叫喚の地獄を呈した。21日午前9時、葛目は支隊全員に集合を命じた。彼は支隊が見捨てられたこと、戦闘が敗北しつつあることを認め、最後の突撃、負傷者へ自殺用の手榴弾を渡すこと、連隊旗を奉焼することを指示して話を終えた。ところが、二百十九連隊第2大隊がコリムからすぐ近くまで来ていることを無線で知った千田海軍少将が、突撃を思いとどまるよう葛目を説得した。夜のうちに西洞窟を脱出して、天水山に移動することになった。周囲を包囲する米軍は、夜になると日本軍の夜襲を恐れて後方に下がるので、これを利用しようというわけであった。600名にも満たなくなった将兵が天水山を目指した。たどり着いたのが24日朝というから、丸丸二日間かかったことになる。米軍は追撃をはじめた。米軍は飛行場占領は果たしたものの、日本軍の巧妙に秘匿した大砲による攻撃のため、しばらくの間、飛行機の離発着ができなかった。日本軍の火砲が沈黙したのは24,5日ごろであったとみられた。決死隊は7月1日夜に攻撃地点に進出したが、猛烈な火網のため32人のうち2人だけが生き残った。夜襲失敗を報告を受けた葛目は自決した。7月22日大森支隊長代理は、海軍通信隊経由で6月27日付の第二軍命令を受け取った。玉砕を認めず、現地自活を図りながら攻勢の準備をせよというものであった。つまりビアク戦終了、生き残りは島内のどこかで自活して生き永らえよとの命令である。ビアク島の日本軍はその後、アメリカ軍の掃討作戦と飢餓によって逐次消耗していった。
ビアク島攻略に手間取ったため、米軍はすぐ東隣のオウイ島に上陸し、ビアク島を砲撃する砲台を設置するとともに、直ちに飛行場建設に着手した。完成するや進出した航空隊がビアク島攻撃に参加し、日本軍を苦しめた。このころには第5空軍のほかに、第13空軍も編成され、ますます航空戦力が拡大した。
6月下旬に、ニミッツ提督はサイパン攻撃の作戦を支援してほしいと求めてきた。私は手持ちの空軍部隊全部を投じて彼を援助したが、6月26日に彼から次のような電報が来た。私は次のように返事した。
| カロリン諸島の敵拠点に対する貴軍の作戦で、空母がマリアナ群島に集中でき、さらに貴軍が間断なく広大海域の哨戒したので、何れも我々のサイパン上陸成功に大きく貢献した。変わらぬご協力とあなたの部隊が効果的に支援行動を果たしてくれたことに、深く感謝する | 丁重なメッセージに感謝する。全軍がこのメッセージに多大の満足を感じると思う。我々は貴軍の作戦の進展ぶりを称賛の目で見守っており、我々がわずかでもお役に立てたことを喜んでいる |
マッカーサーは確かに海軍のサイパン攻撃を支援したのだが、それはビアクからの支援ではなかった。アドミラルティ諸島のモモート飛行場から飛び立った爆撃機だったのである。次のヌンホル攻略はオウイ島からの戦闘機援護で遅滞なく行われた。結局単に「"ビアクから"サイパンを援護した」と言いたいという細かなメンツのためにマッカーサーはプレッシャーをかけ続けたのである。しかも彼が圧力をかけず、フラーがクルーガーの妨害なしに当初の戦略通りでいければ6月15日にケニーの爆撃機はモクメル飛行場から飛び立てた可能性は高かったのである。
さすがの尊大なマッカーサーも戦闘後には反省し、クルーガーがフラーに対して行った不当行為を率直に認めた。彼はフラーに殊勲賞を授与し、戦闘前及び戦闘中の「彼の比類なき能力と冷静な判断」を称賛した。ビアク島の戦いは米軍戦死者474人、負傷者2150人、日本軍は米軍の確認だけで4700が戦死、全体では12000人が死亡、434人が捕虜になった。数字だけ見れば、米軍の圧倒的勝利である。しかしフラーにとってもマッカーサーにとっても、ビアク島の勝利は敗戦の辛苦と同じくらい悪い後味を残した。
| ニューギニアの戦いの始まり ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) ニューギニアの戦い(1943年前半) ニューギニアの戦い(1943年後半) ニューギニアの戦い(1944年前半) ニューギニアの戦い(1944年後半) ニューギニアの戦い(1945年) |
昭和十九年十月ごろ、今村は「剛部隊決戦教令」を全部隊に配布した。 これは「戦闘に当って、ぜひこれだけは心得よ」という要点を十ヵ条にまとめたもので、三十ページほどの小冊子である。その第五条に
| 戦闘間負傷者の後送、戦友の介護はこれを許さず、ただ衛生隊員の第一線進出によってこれを収療すること |
とある。日露戦争中の軍歌に「しっかりせよと抱き起し……」と歌われた戦友愛は、ここで明確に否定されている。日露戦争時代の軍歌『戦友』の歌詞は、旧陸軍では、少なくとも昭和初期から問題にされていて、兵に対する『精神訓話』などでもその不当性が指摘されていた。第一条「持久観念を払拭し、徹底した攻勢による決戦思想に徹すること」で始まるこの『決戦教令』の中に、「全員戦闘員たる信念」や「対戦車戦闘の重視」など、方面軍の方針のすべてが書かれている。
昭和十九年十二月八日――三回目の開戦記念日である。今村は部下に統帥思想を徹底させ、その覚悟を新たにするため、全将兵に『決戦訓』を配布した。 日本軍六千が守るペリリュー島(西カロリン諸島)に優勢な連合軍が上陸したのは九月十五日、凄烈な攻防戦を繰返したのち全員“玉砕”したのは十一月二十四日で、僅か二週間前のことであった。 今村は『決戦訓』の『序』にこの戦闘経過をくわしく述べ、「我等の鑑(かがみ)とすべきものなり」と結び、なお各項目にペリリューを引例している。『訓』の部の『下士官の信条』には、
| 敵の心胆を奪えるペリリューの斬込肉攻の成果は、主として下士官を長とせる少数兵力の挺身敢闘により達成せられたり。下士官の戦闘指揮に任ずるに至るは戦場の常なり。各兵、各部隊の後退は絶対に認めず、占拠地で必死敢闘、敵に打撃を与え、縦深的総合戦果により全般的持久任務を達成せん。 |
と覚悟をうながしている。『兵の信条』には、
| 兵は必死敢闘一人飽くまで十敵を斃すべし、戦傷を負うも断じて後退すべからず。……戦線を後退し或は生きて虜囚の辱を受くるが如き、不忠不孝、より大なるはなし。斯くの如くんば何を以てか靖国の森に眠るペリリューの戦友に応えん |
とある。
このころのラバウルでは今村の考えに基づき、兵種、兵科の区別を廃し、経理部や軍医部の将校にも指揮権を認めて、第一線戦闘部隊と後方部隊とが一丸となっての決戦体制が敷かれていた。一般将兵にとって一週間のうち農耕二日、築城二日、訓練二日は元通りだが、訓練課目の中で対戦車肉迫攻撃訓練が強調された。これは対戦車爆雷を敵戦車のキャタピラの下に投げ入れて爆発させ、戦車を動けなくする訓練である。日本軍に戦車がないわけではないが、それが出撃しても連合軍の戦車に歯がたたないことは、すでにニューギニアの北のビアク島などで苦い経験を重ねていた。
軍医大尉であった沼田公雄は「非戦闘員であるわたしたち衛生部員も………全滅を覚悟で打って出る隊と、壕内にいる歩けない重症者各自に手榴弾を渡してその最期を確かめた後、自分も自決する隊との二つに分けられ、病院内の緊張も次第に増していった。わたしは後者の自決する組の隊長を仰せ付かった」と書いている。ここにも「決戦救命」を出した方面軍側と、それを受ける側とのズレが見られる。
ラバウルでは、衛生部員を非戦闘員とは考えていなかった。民間人であった彼らには、軍の“たてまえ”通りにものを考えることは出来なかったと思われる。
第八方面軍司令官、聖将今村均は軍規を何より重視した。「生きて虜囚の辱を受けず」で著名な「戦陣訓」も今村作成である。彼の軍は絶対に降伏を許さなかった。
チンブンケ事件
ニューギニア本土においても、自活の調査が開始された。第四十一師団二百三十九連隊の第四中隊は、浜政一大尉が率いていた。大河セピックのほとりのコログに駐留、その南東百キロ離れたチンブンケに大島少尉指揮の小隊19人が置かれていた。中隊は宣撫に力を注いでいた。子供を集めて学校を開き数字を教えたり、巡回裁判さながらにもめ事を解決してやったりしていた。チンブンケの酋長とマンバ酋長は、もともと仲が悪かった。
1944年3月セピック河畔の豪軍ゲリラ部隊の侵攻作戦も急伸し、チンブンケの分隊の情報収集も困難になっていた。そのころ、上流集落の現地民から、軽機関銃を持った現地人ゲリラ40人が、そのうちチンブンケの日本軍を襲撃しようという計画しているとの情報が入ってきた。それから10日ほどして、自動小銃、軽機関銃で武装した現地人ゲリラ60人くらいがチンブンケを急襲、大島小隊長以下全滅、1名脱出、船着き場の衛生所で3名戦死、4名はカヌーで脱出した。すぐウェワクの本部及び上流に駐留する独立中隊浜隊長へ通報、浜は激怒して現地人への報復を決めた。
カヌー十隻くらいで出動、事件の1週間後にチンブンケについたときは、敵兵は一人もおらず、村にだれもいなかった。遺体もなく、大島少尉らの遺体は、埋めるか川に流すかしていたのだろう。そこで浜大尉と相談し、マンバ酋長が、「住民たちはどこかに逃げているので集めよう」とうまく集めた。「少しでも隠したら処分するぞ」。どんどん集まってきて、女性と子供は別にして、男だけを集落外の直径20メートルほどの爆弾投下後の穴の周囲にならばせしゃがませた。チンブンケの酋長は「約束が違う」と抗議したが、聞く耳を持たない。マンバ派の原住民もはやり猛っていた。槍で相手側をつついたりして止めようがなかった「早くやってしまえ」。対立する原住民の争いに、日本軍が力を貸したようなところがあった。そして浜大尉らは、集まった原住民約100人を銃剣で刺し処刑した。一人が逃げたのでこれは重機で撃った。そのあとは別に埋めずに、そのままにして帰った。豪軍に協力し、日本軍を裏切った見せしめであった。
戦後のラバウルでの取り調べでは、大島隊が全滅させられたので報復した戦闘行為であると証言、あとは裁判も何もなかった。白人が一人も被害を受けていなかったからであろう。BC戦犯ラバウル裁判資料などにおいて、ニューギニア関連の基礎件数は40件、56人である。この中に浜大尉とみられる人物は含まれておらず、彼の所属する二百三十九連隊からは、死刑囚はおろか、ただの一人の被告人も出ていない。
連合軍の兵力不足
マッカーサーの兵力に関する問題は深刻になっていた。陸軍省が突如、18歳から26歳までの健康な男性要因がほとんど使い果たされているという事実に気づいたのだ。ほんの数週前ワシントンでは、戦域司令官が、戦闘部隊の1%を毎月帰国させるローテーション政策を導入することによって士気を高めようとした。このニュースはつかの間、士気を高揚させた。しかし1944年1月6日、マーシャルはマッカーサーに率直に伝えた「現在の人員問題は危機的なものです。予定されていた兵力が数十万人ほども不足しております。…陸軍はいつでも使えるよう兵力を確保しておかなければなりません。…この件について貴殿の、迅速かつ直々の継続的配慮が望まれます」
マッカーサーは兵士たちに直々に通達の草稿を書いた「南西太平洋方面軍の兵士たちよ。君たちの戦闘能力のおかげて我々は敵軍から見事な勝利を勝ち取ってきた。…困難を経て勝ち取った成功を継続させて行くのに十分な人員を確保するために、そして今後の不必要な犠牲や被害を避けるために、追って通知があるまで、私はローテーション政策を中止することを命ずる」
兵士たちは驚愕してマッカーサーの特徴ある署名を見つめた。これはまさに彼から兵士たちへの直々の通知だった。故国での圧倒的な人気にもかかわらず、マッカーサーは自分の兵士たちからはあまり好かれてはいなかった。マッカーサーは陰キャで非社交的であり、パーティや晩さん会を主催したり、参加したりはほとんどしなかった。兵士たちとの距離を置き、一般兵士たちの心を勝ち取る才能を放棄したのだった。兵士たちはマッカーサーの指揮能力は尊敬はしていた。そのおかげで失われていたかもしれない多くの命が救われた。それでも彼の能力への賞賛は彼への好意に転換されることはなった。豪州ではマッカーサーの顔が映画のスクリーンに映し出されると、米兵たちはブーイングをしたといわれている。
マッカーサーは自分の不人気を知っていた。諜報部隊長であるエリオット・ソープ准将が、兵士たちが何を考え、何を言っているかをまとめたものを毎月マッカーサーに渡していたのだ。ソープの提出した概要には、軍の食事への不満や、豪州兵に対して米兵がどう考えているか。戦線の統制のされ方について将校たちがどう考えているか、兵士たちが将校たちの能力についてどう思っているか、将校や兵士たちがマッカーサーのことをどう思っているかなどが含まれていた。手加減は加えられていなかった。「奴は大物気取りのおいぼれ野郎だ…ほら吹きの馬鹿者…で、利己的なろくでなしだ」
マッカーサーは傷つきやすい男で、兵士たちの間での自分の不人気を嘆いていた。
| (´;ω;`)兵士たちが私を好いていないことはわかっている。けれど、いつもそうだったわけではないのだ。フランスでは、私は部下たちのまえを行く実戦将校だった。しかし今や、私は年を取ってしまった。私の足はつまようじのようだ。もはや実戦行動はできない。 |
| ニューギニアの戦い(1944年後半) |
ビアク島の戦いが終わりに近づいた19年6月下旬、米軍の空襲がビアク島とマノクワリの間にあるヌンホル等に集中的に行われた。この島も飛行場建設に向いていた。日本軍はカメリーに飛行場を建設し、東部ニューギニア方面への中継連絡、センダン援護、ホーランディア作戦の前進基地として、よく利用した。ヌンホルの守備隊は合計1500名といわれる。7月2日午前8時、四隻の輸送船に分乗したパトリック准将麾下の混成連隊約7400名が、カメリー飛行場を目指して近くの海岸に上陸した。日本軍をずいぶんと小ばかにした作戦である。森少佐が率いる第百二野戦飛行場設営隊が守備していたが、水陸両用戦車を先頭にした攻撃を阻止できず、短時間のうちに全滅した。清水大佐は森大隊による夜襲を試みたが失敗し、多数の損害を出した。その間、米軍は落下傘による1400名の効果を行い、滑走路の占領を急いだ。7日夜、清水大佐は夜襲を準備したが、マノクワリの第三十五師団長は玉砕を捨て航空基地建設を妨害し続けるよう命令したが、自身は第二軍の命令によってマノクワリ南方180キロのヴィンデシに逃れるように移動した。米軍の資料によれば、5日に日本軍の組織的抵抗は終わったとされる。一方、第二方面軍が得た情報によれば、ゲリラ戦を展開しているらしかった。ヌンホル攻略を果たした米軍は、大掛かりな改修作業を進めた。次のサンサポール占領に間に合わせるためカメリーとコルナソレンの二つだけが改修された。
| ニューギニアの戦い(1944年後半) |
マノクワリは西部ニューギニアで一番の良港をもつ小さな集落である。この地に、軍人と軍属合わせて約2万人が上陸していた。そのうち9000人は飛行場設定隊に編入された土木労務者や台湾人で、残り1万1000人も第二軍司令部関係の後方部隊である。これらは飛行場建設のために来ていた。投入された後方部隊に外国人が多いのも西部ニューギニアの特徴である。マノクワリの飛行場の建設作業も、昭和19年の1月から5月にかけて本格化した。ところが同年4月22日に連合軍がホーランジアに上陸し、5月17日にサルミ地区に上陸した。次はビアク島、そしてビアク島の直近にあるマノクワリに上陸するだろう。いやがうえにも緊張感が高まった。そういった情勢の中で登場したのが二百二十一連隊であった。後方部隊しかいない地に上陸した、初めての戦闘部隊である。連合軍のマノクワリ上陸が近いとうわさされている時期だったので、注目を集め、頼もしがられた。二百二十一連隊は上陸してから毎日塹壕を掘った。5月に上陸して8月まで陣地構築をした。農耕など考えもしなかった。上陸してすぐに農作業班を編成し、自活の準備をしていれば、後日あれほどの惨状にならなかったはずである。
マノクワリ支隊の司令部はマノクワリへの敵上陸があるものと信じて疑わず、陣地と陣地をつなぐ自動車道路を作るため、深堀少将は「各隊とも最大限度の兵力をもって道路整備にあたるべし」と命令を発した。この一言が連隊将兵を後々まで損耗させる結果となった。その中でもひときわ衰弱していたのが二百二十一連隊である。
作業は遅々として進まず、時間は刻々と過ぎる。終了前に深堀支隊長の巡視がある。しかし兵の食糧事情を知るものとして、これ以上はっぱをかけるわけにはいかない。ああ、ついに来てしまった。鬼が来た。深堀支隊長の乗用車がゆるゆる進む「どうか無事通過してくれ」と祈る。しかし車が目の前にピタッと止まる。びっくりするほど色が白く、豚のように肥え太った深堀支隊長が車を降りる。「ここは何部隊の担当正面か」それからが大変だった。廠といわず兵といわず、聞くに堪えぬ罵詈雑言、叱咤が雨あられと降る。時には手に持った鞭で打つ。体が震えるような怒りを、こぶしを握り締めて抑え込む。我に食料さえあればこんな作業なぞ!、我らは軍旗を奉斎する部隊の強者なるぞ!、くそくそ!
作業は続いた。そして兵は日に日にやせ、墓標は日一日と増えていった。そして各隊ともに患者続出となった時期に、深堀支隊長から糧秣支給停止、自活体制強化の農耕作業を宣告されたのである。19年9月いっぱいは日々農耕で終わった。倒した樹木の運搬は到底人力を持ってはいかんともしがたい。火をつけて燃えるかというそもそもの問題がる。毎日のスコールは一大消防隊であるし、直径1メートルある濡れた大木にどうやって火をつけるというのか。イモは沖縄百合である。しかし肥料をどうするのか。
海軍は物資が豊かだった。おそらくマノクワリの海軍部隊は餓死した者など一人もいなかったに違いない。死んだのはマノクワリ支隊を編成した陸軍の部隊の兵たちばかりであっただろう。海軍では食べ物が余っているという、同じ場所にいるのに、なぜこうも食糧事情が違うのか。同じ日本軍なのになぜ融通しないのか。いまだに不思議でしょうがない。かわいそうなことに、死ぬのは若いものから順に死んでいった。初年兵、二年兵たちは、昭和19年8月から11月までの間に、全員が死んでしまった。
10代の初年兵が空腹に耐えきれず「班長殿、携帯食料、食べていいですか」「いや、携帯食料は戦闘が始まって命令があれば食べられるけどね、今は食べられないんだ。駄目だよ」「はい」と言って食べずに我慢した。そしてその夜に死んでしまった。10代から21,22の若者が全員死んだ。初年兵たちの哀れさは言葉にしがたい。食うものがないのにいろんな仕事をさせられた。水汲んで来い、作業に出てこい、野草をとって来い、兵舎を修理しろと古年兵に使わされた。その上ことあるごとに、びんたをはじめとする私的制裁を受けるのである。そして、一部の古年兵と将校だけが生き残った。
二百二十一連隊の農耕はうまくいかず、支給もわずかで生命が維持できる量ではない。支隊の冷酷な処置と各中隊の窮状に何の手も打たない連隊本部に対するうっぷんが、他部隊の倉庫荒らしという形で爆発した。19年11月、飢えに瀕した11中隊、10中隊、12中隊の兵隊が倉庫から食料を盗んだ。軍法会議にかけられた。その兵隊たちは4年から5年の懲役になり、日の当たらない小屋に閉じ込められてすぐ死んでしまった。皆20代前半の若者たちであった。深堀支隊長の命令で10,11,12中隊はワルパミ渓谷という湿地帯に移動させられた。人が住めるところではない。結局10中隊で生きて帰ったのは一人だった。11中隊の約180人のうち、復員したのは約10人前後だった。12中隊は全部死んだ。昭和20年に入ると、連合軍が去ったために空襲の恐怖がなくなった。そのため、我々は堂々と海に出て食べ物を探すことができるようになった。2月になると、苦労して作った畑に芋が生り始めた。二百二十一連隊の数も1割以下となり、農産物の配給量も増えた。
イドレ行進
マノクワリにあった第二軍主力は、自ら選んだ方針によって一気に消えうせた。ビアク島とヌンホル島が連合軍にコテンパンにやられているとき、ヌンホル島から目と鼻の先にある第二軍の本拠地マノクワリにも上陸があると予想するのは当然である。第二軍司令部は恐怖に陥った。第二軍司令官豊島房太郎は、安全な場所に移動する方針を決めた。マノクワリには第二軍の司令部、兵器廠、貨物廠、船舶部隊などの後方部隊、飛行場代替などの航空関係部隊が駐屯し、兵力は2万を超えていた。この他、ムミに7000余りいたと伝えられる。そういった中、突然、第二軍司令部と約1万以上のマノクワリ部隊が転進することになった。愚行中の愚行といわれる「イドレ転進」の始まりである。イドレの現地調査をしたわけではない、不確かな情報を根拠として、この重大な転進命令が出た。イドレまで図上で300キロほどだが、道なき道を歩く部隊は1000キロ以上の行程となる。第二軍司令官と一部幕僚は飛行機と舟艇で移動したが、その他の将兵は徒歩である。
マノクワリ郊外に散開した部隊に対して、種子や農具の調達、開墾等の指示を全く出しておらず、備蓄食料が三か月ほどしかなかったともいわれる。第二軍の計画は、マノクワリに戦闘部隊を中心に8000名を残して防備を固め、これを除く1万2000名は南方170キロのベラウ地峡のイドレに移動させ、ここで自活させるというものであった。イドレ転進命令が下ったのは19年7月1日である。イドレ転進は7月3日から開始し、7月中旬にかけて密集的に出発した。その所要日数はごく少数の最も幸運なもの10-15日、終始陸行者100日以上、私の経路は89日擁した。ちなみに第二軍司令部の移動は、7月5日マノクワリ発、ムミ着(空路)、7月9日ムミ発、12日ウインデシ上陸(船)、8月3日ウインデシ発、6日イドレ着(徒歩)、計33日であった。近々、戦場と化すであろうマノクワリから脱することの喜びに、足取りも軽く、一路ムミに向かった兵士たちであったが、それが数日を経ずして死の行軍になろうとはだれが予想しただろうか。一万余りの兵士たちが人跡未踏の密林地獄であえいでいるころ、第二軍司令官一行は何をしていたのであろうか。「大発の中で、米軍魚雷艇に一番おびえていたのは第二軍司令官であった」
イドレ転進の問題点は、目的地までの行程についてほとんど調査が行われていなかったことだ。途中のムミまでは海岸沿いを進み、魚雷艇が脅威になった。そこからジャングルに入るが、簡単な目印を記入した要図さえもなかったため、同じ場所をぐるぐる回ったり、いくつもの川に行く手を阻まれ、いたずらに日数を重ね、携帯した食料が尽きる部隊が相次いだ。食料はもっぱらサゴ椰子に依存した。一抱え以上もある幹を倒し、硬い幹の皮をはいだ柔らかい部分を取り出し、これを細かく木くずにし、これから数日かけてでんぷんを取り出す作業がつきものだった。イドレに向かう途中で採取されたサゴ椰子は小ブレで質も落ちるうえに、一日中サゴの幹をたたき続けてもでんぷんが飯盒の二に半分も満たせないことも珍しくなかった。第二軍司令部の参謀が、途中のヤカチにサゴ椰子が無尽蔵にあり、そこで英気を養い命令を待てといったが、湿地帯でサゴ椰子はいくらもなくでたらめであった。ムミ以降の行程で落伍者がぼちぼち出始めたが、ヤカチで大量の死亡者を出し、八割がヤカチ出発までに失われたといわれる。
死線を超えてめぐりついたイドレも極楽ではなかった。イドレには初めから食料の貯えも補給もなく、サゴ澱粉をあてにした現地自活など、到底できることではなかった。この実態をイドレにきて知った第二軍司令部の幹部は、かねて調査してあったベラウ湾のバボ、コカス等の海沿いの地域への移動を始めた。10月10日前後には、第二軍司令官と参謀長もイドレを離れた。シンヨリ、ヤカチ方面から陸行してくる到着者は、11月に入るとほとんどなくなった。昭和20年になってからついた年配者ばかりの建築隊約30人は、早々にサゴ澱粉採集のため、ナラマサ地区に移動したと聞いたが、そのまま消息を絶った。同年四月中旬の深堀中将一行の到着は、深堀一宏がイドレを去った後で聞いた。イドレは、ベラウ湾へ出るための、ただの通過地になった。2割の生き残りも、次々と飢餓と病気が原因で死亡し、21年1月9日復員船がニューギニアを離れる時、イドレから生還し、乗船したのが800名にも満たなかったという事実が克明に物語っている。
米軍の上陸のおびえて司令部を400キロも後方に移した第二軍司令官豊嶋中将、自分だけはたらふく食って太り、マノクワリ唯一の戦闘部隊である我が二百二十一干乾しにして消滅させた深堀少将。
こう言う将軍たちが、威張り腐っていた軍隊がつぶれてなくなったのを喜ぶのは、私だけでない。
この時期、マノクワリからもう一つ愚劣な転進が行われた。第三十五師団司令部の「ソロン転進」である。師団の頭脳ともいうべき司令部が何の意味もなく壊滅したという転進である。発端は絶対国防圏の変更にある。この時期、大本営は、ビアク島とマノクワリの上にひいていた絶対国防圏の線をソロンまで下げた。そのため第二軍の命令により、第三十五師団司令部はソロンに転進することになった。ソロン駐留の二百二十一連隊(第1大隊主力)を指揮させようとしたのである。しかしマノクワリからソロンの徒歩による転進は不可能である。そのことは現地にいるものであればだれでもわかっていた。かといって、海は連合軍の魚雷艇、飛行機、潜水艦が厳重に見張っている。陸路を歩けば飢えとマラリアでばたばた倒れる。第二軍司令部は現地にいて、そういったことが十分わかっているはずである。あえてこの転進命令を出したところにこの作戦の愚劣さの本質がある。
サンサポールに侵攻する米第6師団主力はバーンズ准将を指揮官とし、7月26日サルミ近郊を出発し、31日朝上陸を開始した。米軍の記録によれば日本兵380人を倒したといわれる。飛行場の建設を急ぎ、対岸のミッテルバーグ島に戦闘機用の、マル地区に中爆用の飛行場が9月初旬までに完成し、離発着が可能になった。
第二軍が、第三十五師団司令部にソロンへの転進命令を発したのが19年7月4日である。ヌンホル島に連合軍が上陸した2日後であった。師団長と一部の幕僚は特別機でソロンに向かったが、その他の師団司令部と直属部隊の約400人は徒歩で行軍を開始した。転進は予想通り飢えとマラリアで将兵が次々と倒れた。その上悪いことに7月30日マル付近(マノクワリから200キロの地点)に連合軍が上陸した。そのため師団司令部は連合軍を迂回しながら密林内をソロンに向かって西進した。そして8月終わりころ、カスピ岬で連合軍(豪軍)の攻撃と原住民の襲撃を受けて、ほとんどが戦死してしまった。生きてソロンに到着したのはわずかに40人だった。10月の初めである。第三十五師団の壊滅を受け、10月から始まったのが「北岸作戦」である。かたき討ちのための作戦で、ソロンにいた二百二十一連隊第一大隊が主力となって、マル、サンサポール方向に出発した。この命令もまた無謀なものだった。11月に入ると、岩村大隊(約180人)がソロンを出発した。その後、命令通りサンサポールを攻撃して惨敗し、生き残った約半分の将兵が、幽霊のようになってソロンにたどり着いたのが20年6月ころである。
カートホイール作戦を成功させたダグラス・マッカーサーは、占領したホーランジアを拠点として9月フィリピン奪還作戦の指揮を執った。
| ニューギニアの戦い(1944年後半) |
豪軍一部も加わったアイタペ上陸は、ホーランディア上陸作戦の付録のようなものであった。通過中の部隊は多かったが、陣地にはわずかしか配備されていなかった日本軍は一撃で敗走してしまった。その後米軍は十八軍を置き去りにしてビアク島、サンサポールへと西進し、ニューギニア戦は間もなく終わる気配であった。ところがウェワクを目指していた第十八軍が、残余の全力すなわち戦闘可能な7個連隊を振り絞ってアイタペを目指して進行してきたのである。
4月22日アイタペ東方10キロのネギル川に近いコロコ飛行場付近に上陸した米軍は、41師団の163連隊と32師団の127連隊であった。付近にいた日本軍は約2000人に上るが、配備されていたというより移動中であったというのが正しい。二十師団の阿部大尉指揮の補充員450人程度は、敵の警戒線を突破しウェワク方面へ後退を図り、マルジップで二十師団に合流しアイタペの地形、戦況等の情報を十八軍にもたらしたが、その時は200名に減じていた。アイタペ兵站支部長武井中佐は約千人を率い、ホーランディア方面へと後退を図った。アイタペ以西にはホーランディアに向け移動中の十八軍約2500名がおり、合わせて4000人以上の兵士が米軍に挟まれた。彼らはゲニムを通てサルミを目指したが、99.9%の損害を出し、文字通りジャングルの中で消滅してしまった。
この地で島田覚夫は17名の仲間とともに取り残され、自活に入った。仲間が次々に倒れる中、熱帯雨林の下で飢餓と悪疫に抗い、不毛の地を開墾し農園を開き、野生の猪やヒクイドリを狩猟し,狩猟から野豚の畜産へとノウハウを編み出し、炭焼き、鍛冶と金属加工を苦心の末可能にして、現地人と物々交換を行い生き延びた。10年を生き残り島田ら4人は故国に生還した。島田はのちに名著「私は魔境に生きた」を著した。
ここで第十八軍は、全体として完全に東部ニューギニアに孤立したのである。第一の問題は、当時5万5000の口を満足させることができるか、である。この場合、日本軍のとる道は大きく分けて二つあった。ひとつは、今まで駐屯していたマダン、ウェワクなどの拠点を要塞化し、自給自足の体制を確立して敵の攻撃を待つことである。ラバウルは、このやり方で敗戦まで”置き去り”にされた基地として生き続けた。もう一つは、当面の敵に真っ向から勝負を挑み、アイタベに打って出ることである。
5月15日朝、ウラウ東方4キロの海岸で、上陸作業中の上陸用舟艇5隻からなる米軍に対して、二十師団の部隊が攻撃を加えて改装させ、遺棄死体79,260以上の戦果を出した模様という報告が入った。だが実際は撤退作業中の米軍を師団砲兵が攻撃したものの、散会した魚雷艇の機関砲射撃を受けて、戦果を得る前に攻撃をやめている。これに勇気を得た第十八軍の安達二十三司令官は、軍の最後の力を結集してアイタベで雌雄を決する道ー猛号作戦の発動を主張した。当時、十八軍は一時的に第二方面軍に属していたが、終戦時の陸将である阿南方面軍司令官は、安達と同じいわば“純粋系”“純忠系“であるため、この方針に感動、同意を表明した。寺内が玉砕を禁じウェワクで生き延びろと命じても、安達は「健在しても遊兵化するだけだ」として承服しない。
昭和19年6月17日、第十八軍は、第二方面軍から外れ、南方総軍の直轄部隊となった。南方総軍が第十八軍に与えた方針は―ニューギニアで持久せよ、というものだった。しかし一人の司令官がアイタペ攻撃を決断した。第十八軍司令官安達二十三陸軍中将であった。もはやホーランジアを奪回する可能性はない。物理的に不可能だった。だから幕僚たちは反対した。しかし真意はみんな知っていた。兵たちも現地でははっきり口に出して言っていた「口減らし作戦」。アイタペ作戦の戦闘要員は約2万、後方要員が1万5000である。この35000が全滅することによって口減らしができる。その証拠にホーランジアがやられてから糧秣の量を軍司令部は一度も発表しなくなった。
アイタペ作戦の実行の可否をめぐり、第十八軍司令部で会議が行われた。その席で、少将である第十八軍参謀長、各部の部長初め、全員がこの作戦に反対した。しかも声に出し、「この作戦はやるべきではない」と明確な態度で反対した。その下にいる若い参謀たちも、兵器部長も、経理部長も、軍医部長も反対した。軍司令部と師団司令部の幕僚たちも、経理部の将校たちも反対した。「これは死ぬだけだ。何の意味もない」と。しかし実行された。安達中将一人の決断だった。
このアイタペ作戦を大本営が称賛し、内地では激賞された。そして今など安達中将は―聖将 などと呼ばれている。しかし我々経理部の将校は、当時から今に至るまで安達中将を全く評価していない。…経理部の仕事は補給である。どうやったら将兵たちを飢えさせないか、経理部の将校はそのことだけを議論していた。すでに連合軍の主力は西に去った。あとは餓死を防ぐことだけを考えればいい。…もしそうしていれば、ウエワクにいた将兵たち約六万人の多くは生還し、家族と再び会えたに違いない。その可能性を第十八軍司令官が自らの意志と権限により摘み取った。…アイタペ作戦は展望なき、補給を無視し、作戦用兵第一主義の典型的な作戦であった。強烈な主観と個人的理想が先行し、部下の生命に対する配慮が皆無であった。作戦そのものが「玉砕せず、自活持久しながら戦闘を継続せよ」という大本営と南方総軍の基本的意図に反したものであった。…幕僚の声に耳を閉ざし、「堅確の意志」により非現実的な作戦を実行した。その被害を受けたのは、第二十師団と第四十一師団の将兵たちである。私も現役将校だったから閣下の立場は理解できる。理解はできるが、同情はできない。死んだ将兵たちのことを考えれば、許すこともできない。
補給の困難
補給担送の部隊は15000人を動員した。専門の輸送部隊は全部で5000人もいない。「動けるものは全部出てこい」と経理部から命令を出し、結局、戦闘部隊から引き抜き15000人をかき集め、そして担がせた。一方、経理部は貨物廠の支所をボイキンとそのほかに二か所作り、その間に糧秣交付所を開設するために飛び回った。アイタペ作戦の攻撃部隊に選ばれたのは、第二十師団、第四十一師団である。第五十一師団からは、歩兵第六十六連隊を主力として荒木支隊を編成し作戦投入、その他の第五十一師団の将兵は、ウエワク警備にあたった。
5月末からアイタペ攻撃部隊補給のため、ブーツ、マルジップ、ウラウにそれぞれ補給所(糧秣交付所)を開設した。それと合わせてマンデーに製塩所を開設した。アイタペ、ホーランジアに上陸した連合軍と第十八軍の戦力の差は桁が違う。しかし戦力以前に、補給という時点で作戦が成立しない。アイタペ作戦の補給はすべて人力によって担送しなければならない。結局、作戦に参加する兵たちは七日分の食料をもって一か月に及ぶ作戦を行うことになった。坂東川に向かう約2万人の将兵は「せめて飯を腹いっぱい食って死にたい」と願いながら歩いた。
1944年6月、攻撃準備中に第十八軍司令部が発した電文は、連合軍の「ウルトラ」暗号解読により解読されていた。7月10日に第十八軍がアイタペを奪回するため20,000人の部隊で攻撃を開始することを示しており、手の内がほとんど筒抜けになっていた。日本軍はアイタペで大損害を被った。これは「ウルトラ」暗号解読の中でも、あまり例を見ない大成功とされている。
ウラウを撤退した米軍はヤカムルに移動し、これを追尾する形で二十師団もヤカムルに兵力を前進させ、25日黎明に攻撃開始と定めた。しかし米軍はこれをあざ笑うかのように24日にすでに撤退し、坂東川(ドリニモール川)西岸に移動した。連合軍は第32師団、43師団を急派し、アイタペ東方30キロのドリニュモール川に待ち構えていた。しかし、連合国のintelligenceの状況は混乱し矛盾しており、その結果、最初の日本軍の攻撃は守備側を驚かせた。
日本軍は7月10日午後9時30分、一斉に砲撃と機銃が開始され、大きな喊声を挙げながら渡河し突撃した。これに対して米軍側はすぐさま照明弾を連続して打ち上げ、すさまじい砲撃を加えてきた。突進中の日本兵もバタバタとなぎ倒された。それでも夜半過ぎには突撃隊は渡河に成功し、五十高地北側の米軍陣地に到達して部隊を整理した。突然、敵の砲兵の弾幕と敵の機関銃の河川が作り出すドームが部隊を覆いかぶさった。第七十八連隊第一大隊は逃げ場を失い、瞬時に壊滅し、400名の隊員がわずか30数名にまで激減する甚大な被害を受けた。米軍側は陣地を捨てた後に必ず日本軍が進出するものと確信し、その到着時間を計算し、照準を定め、火砲を斉射するタイミングを計っていたのである。
一方四十一師団二百三十七連隊は予想外に少ない反撃に助けられて渡河に成功した。日本軍は渡河点を守っていた第128連隊第2大隊の陣地を突破して、食糧などを鹵獲した。日本の歩兵第二百三十七連隊はアメリカ軍を海岸へ圧迫、第二十師団は上流側に旋回して次いで坂西川の線にまで進出、川沿いのアフア陣地を包囲した。緒戦の戦果に、第十八軍司令部ではうまくいくかもしれないという期待が広がった。戦線を突破された米軍側はどう反撃するのか、方策がすぐに見つからなかった。第32師団副師団長マーチン准将は、部隊を退却させ、第112連隊のカニンガム准将にも第2線の後退が命令された。
ところが第6軍のクルーガー中将が、マーチン准将の計画に待ったをかけた。現有兵力でドリモニール川西岸を回復できると判断、コロナルクリークまで下がる必要はない、あくまでドリニュモールの線で防御せよと命じ、124連隊を急派してドリモニール川を突破した日本軍の撃退を命じた。この時はクルーガーが正しかった。
米軍の反抗は7月13日早朝より開始された。夕方までに米軍のドリニュモール川到達を許し、二百三十七連隊は東岸の師団司令部との連絡を遮断された。米軍は日本軍を引き付けて激しく応戦した後、陣地を放棄して後退する。そこへ日本軍が喊声を上げ進出して来ると、米砲兵部隊がすでに測量済みの座標めがけて砲撃を開始、ものすごい量の砲弾を日本軍に落とし、瞬く間に兵士の死体や肉片が散乱し、全滅に近い打撃を与えた。そのため何度、陣地を落としても、すぐ米軍に取り返された。この間に激しい損耗が続き、気づいてみると二十師団も四十一師団も見る影もない兵力に追い込まれていたのである。白兵戦が展開され「鳩」陣地は陥落した。最も危険なのは米軍撤退後に日本軍が陣地に入ったときである。たちまち第二大隊は猛烈な弾幕に覆われ、逃げる間もなく数名を残して全滅した。この戦闘について米軍は「日本軍は明らかに自殺を決意して密集攻撃を続けた」と評している。
米軍は日本軍をドリニュモール西岸に釘づけにしている間に反攻軍TED部隊を海岸沿いに渡河させ、境川まで東進したのち、ジャングル地帯を半周してアフア方面に進撃させ挟み撃ちにしようという大胆な作戦を企てた。7月31日早朝進撃を開始し、早速日本軍第二百三十九連隊の頑強な抵抗にあった。しかし銃撃戦、ジャングルで集結に手こずった。進撃を開始したのは3日午前にずれ込み、この日は豪雨のためにわずかな距離を進撃で来ただけであった。
ドリニュモール川沿いの米軍陣地をめぐる攻防戦では、日本軍は、第四十一師団の後続部隊とアイタペ突入用の予備隊だった歩兵第六十六連隊を投入した。両部隊はジャングル内を南に大きく迂回して、8月1日からアフア陣地攻撃を開始した。 アフアのアメリカ軍は歩兵が日本軍を引きつけて激しく応射した後に陣地を放棄して後退し、進出してきた日本軍に陣地ごと砲撃を加えると言う戦術を繰り返しおこなった。何度も同じわだちを踏むことは褒められはしない。攻撃を続けたが、おびただしい戦死者を出して失敗に終わった。8月2日の夕方から翌3日の午前中にかけて最後の総攻撃が行われた。同月3日安達中将は作戦の中止を命令した。4日午前8時半、撤退開始の命令を受けて、まず二十師団、次いで四十一師団から撤退を開始した。ところが米軍の別働反攻軍TED部隊と衝突し、激しい打ち合いを展開した。米TED部隊は、6日午後から行動を起こし、日本軍の伐採道に沿って西進した。7日には撤退中の日本軍と遭遇、この時の日本側の被害は甚大で負傷者や落伍者合わせて1800人以上が戦死または自決した。
アイタペ作戦では前線の約2万人のうち8000人が死んだ。損害は前線の将兵だけではない。後方担送にあたった兵たちも凄惨であった。この時期には、後方補給部隊も安全ではなく、常に連合軍の空軍により空から見張り攻撃され、海岸沿いは魚雷艇の監視攻撃にさらされた。なんと、糧秣担送にあたった約1万5000人のうち、約5000人が死んだのである。多くが飢えと病によって命を失った。この数字は、いかに担送が過酷であったか、いかにこの作戦が無謀なものであったかを雄弁に物語る。担送に駆り出された者たちは病人ではあるが、割合元気がいいほうだった。それが5000人以上も死んでしまった。この者たちはアイタペ作戦がなければ助かっていたはずである。一方米軍の損害がどれほどであったかというと、詳しい資料がなく、最も近いのが「米陸軍公刊戦史」の4月12日から8月25日までのアイタペ方面での戦傷死者の概数である。それによれば戦死440、負傷者2550、行方不明10人、合計約3000人としている。仮にアイタペ戦における米軍の戦死者を400人とすれば、日本軍の推定戦死者数8000余人のわずか20分の1にしかならない。米軍にとっては損害の面で地味な戦いであった。
ウィロビー「44年8月13日は偶然にも、アイタペとグアムの戦闘が同時に終わりを告げた日であった。ところがその日のことを伝えた、ある代表的な豪州新聞を見て、我々は紙面の割り当てびっくりした。フランス、ロシア、イタリアの各戦線の報道に五段(事実、第一面全部)、それから太平洋戦争に一段、うち三分の一はグアムに割り当てられてあったが、アイタペについては一言の報道もなかった。」
日本軍の後退・自活
昭和19年8月末、第二十師団約3000人、第四十一師団約6000人まで減った。両師団ともブーツ、マルジップにそれぞれ駐留し、自活を始めた。四十一師団が駐留したマルジップ地区は、アイタペ作戦の撤退の時にサゴ椰子が乱獲されたため自給ができず、9月から10月にかけて餓死による1日の死亡率が総員の10-30%に推移するという事態になった。それに比べ、第五十一師団はウエワクにあって自活の道を歩んでいた。
基本的に、我々補給を専門とする主計将校であっても補給の重要性に対する認識が薄い。経理学校における「作戦給養協定」には、相変わらず「糧は敵による」とか、「現地徴発」「現地自活」と書いてあり、それを教え込まれた。近代戦における消耗戦の特徴である「補給が作戦を左右する」という大原則を軽視し、そして常に「糧は敵による」思想抜きがたかった。その結果として陸軍大学校参謀教育中央勝負においては「作戦用兵第一主義」が徹底教育され、安易な作戦主義を育んだものと考えられる。当時、日本を支配していたのは、海軍の「大艦巨砲主義」、陸軍の「白兵突撃志向」、戦時中の「欲しがりません勝つまでは」「一億層火の玉」といった国民教育など、まさに経済を知らないバカげた精神主義だけであり、大本営はじめとする戦闘指導者の作戦指導も非合理的なものが多かった。その中でも「猛号作戦(アイタペ作戦)」は補給虫の典型的かつ代表的な作戦である。戦史上まれに見る惨烈な作戦であり、太平洋戦争中にビルマで行われたインパール作戦と一対の無謀極まる作戦であった。どちらも幕僚たちの反対を押し切り一人の人間の意志によって実行された。
| ニューギニアの戦い(1944年後半) |
アイタベ決戦後三か月ほどは、激しい戦闘は行われなかった。ニューギニアの大勢が決したとみると、米軍はフィリピン侵攻の準備に取り掛かり、ニューギニアは豪軍にゆだれることにしたのである。では、日本軍も当然、ほっと一息ついただろうと思うと、これがそうはならなかった。アイタベ決戦で、破壊力の強い兵器を失っただけではなく、備蓄食料もほとんど失ったため、かつてない飢餓地獄が襲ったのである。それはブナ・ゴナの戦い、ガリ転進、ホーランディアからトル川の飢餓地獄をも上回る、数々の悲惨なニューギニアの戦いの中でも最悪のものだった。
決戦上からウェワク方向に後退する海岸ルートは、力尽きた日本兵の遺体が絶えることなく続いた。生きているうちから、死が近づけば忽ち蠅に覆われる惨状となり、ために“銀ハエ街道”とか、“白骨街道”とか呼ばれるようになった。「このことは、孤軍奮闘、世界戦史上かつてない苛烈な戦争を戦い抜いた第十八軍にとって、唯一の恥部というべき部分であり、したがって当時はもちろん、戦後になっても軍関係者はこの事態を表面に出そうとはしたがらなかった。」と書くのは、第十八軍の軍医少佐だった鈴木正己である。「アイタベでの飢餓地獄は、人間同士の共食いという端的で過酷な形で現出されたのであった。人が人肉を食うということは、人肉が牛肉や馬肉の対価としてあるのでは、もちろんない。地上という地上が、土砂と瓦礫と砲弾の破片で埋め尽くされた無機質な空間となったところでは、有機的なものすべてが食欲の対象となり、命綱となるわけである。そこでは、戦列を離れた兵隊が、ジャングルの片隅に潜んでいて、そこを通りかかる生き物(たとえ友軍であろうと)を射殺して、血のしたたる肉を貪り食う」このような人食いはごくまれだろうと断りながらも、「だがこの現象は、それから約半年間にわたって、私たちの往来する海岸道や、山南への移動の道程に表れたのである」
鈴木少佐は5人で行動していたが、アイタペ戦後の悲惨な情景をいくつか書いている。白い河原に点々と黒いものが見える。近づいてみると、それはみな友軍の支隊だった。アイタペで苦闘し、負傷し或いは病を得て、ここまでたどり着いたものの力尽きたのであろう。ある将校は、日の丸の旗を河原に広げ、北方を向いて手をつき最敬礼をしたままの格好で息絶えていた。黄金虫が音を立てて遺体を食いあらしている。それが、半分骨になった顔の目や鼻の穴を出入りしている。精も根も尽き果てたという茫漠とした表情で腰を下ろしている兵隊もいる。負傷した左肩の付け根がぱっくり口を開けており、まるまると肥えたウジ虫がうごめいている。兵はのろのろと右手でその蛆虫をつかむ、ひとつづつ口へ運んでいる。
ひそかにささやかれる白豚、黒豚、やまと肉との品名は、人肉の種類を問わないことを示している。「大隊本部の某君が物資収集中射殺されたといううわさも聞いた。恐ろしきこと、阿修羅鬼畜日本軍同士が生きるためにそれまでしなければならないのか。もう生き物同士の生存競争である」
戦後の戦友会にて。「あの頃、何もないときに馬の肉を食べてうまかった」と思い出を話したら、戦友は「あのころ、もうあの辺りには馬はいなかった。」という。将校の食事は当番兵が作る。そこで、当時の当番兵に聞いたら、「いや、隊長、あれは馬でした」と、あくまでも頑張る。部下に「人肉を食うくらいなら死ね」と説いた若い隊長に、「いや、実は…」とは、何十年たっても、口が裂けても言えない道理なのだろう。
アイタベ戦直後のこうした軍規弛緩、いや人間としての非道を、第十八軍首脳部と手をこまねいてみていたわけではない。いち早く、単独で行動してはならない、行動するときは少なくとも三人以上で行動し、うち一人は必ず小銃を持つことなどの厳重注意を出し、人事、賞罰および兵器の保管に関する権限の多くを師団長に委任した。特に、野戦憲兵は、兵器を持った皇軍盗賊団狩りに懸命となった。
軍医中尉の肩書も名ばかりで、アイタベ決戦の時はもっぱら担送員として夜間に食料、弾薬を運んでいた小林順二は、その後もしばらくは衛生兵らしい任務を与えられることはなかった。決戦に敗れた前線の兵が続々と後退してくる。食を奪われた兵は、食べられるものを探しにジャングルに入る。しかし、地図も磁石もないところに勘だけを頼りに入るのだから、昼間でもしばしば方向を失い、戻ってこられなくなることがある。ところが、そのうち、戻ってこられないのは、迷うばかりじゃないという噂が流れた。それを裏付けるかのように、「行動する時は必ず三人以上うんぬん」の軍命令が、まだ統制が取れている諸隊に下達された。意味するところは、敵は、米、豪兵ばかりではなく日本兵だというのである。
10月、場所はアイタベとウェワクの中間点よりやや西のスマタイン、ダンダヤ当たりでのことである。ある雨の夜、「悪い奴らを討伐するから幾人か兵を出せ」問う命令が出たので、小林中尉以下4,5人が出た。しかし、もともと衛生兵であるから、その任務は討伐の正面に立つわけではなく、その他大勢の後詰である。突然、暗夜に機関銃や小銃の激しい銃声がばらばらっと続き、そしてやんだ。現場に行くと、もう5,6人の兵が蔓で木に縛り付けられている。顔もよくわからないような暗闇である。憲兵らしい人が、ろうそくで一人一人の顔を照らしながら名前と所属を聞いたが、答えるものはなかった。「最後に言い残すことはないか」指揮官は重ねてたずねた。
「…」最初の兵は答えなかった。
「天皇陛下万歳!」次の兵は叫んだ。
「このことは、内地の人には絶対知らせないでほしい」
「軍隊ほどいやなところはなかった。死んでも軍隊を恨み続ける」
「戦争はもうこりごりだ。死ぬのはもっといやだ」
次々と吐かれるこれらの言葉は、すべて中尉の胸にすとんと落ちる物ばかりであった。最後まで、とても見てはおられない。中尉は一人先に小屋に戻った。銃声がして、中尉は胸を抑えた。そのうち、兵たちが黙って戻ってきた。「遺体は埋めてやったのか」と聞くと、「はい、穴を掘って埋めてやりました」と答えて、つぶやくように続けた。「食べ物さえあれば、あんなことにはならなかったのでしょうが、ほんとにむごいことです」後で聞いた噂によると、この”強盗団”は十五、6人いて、討伐の時、4,5人はその場で射殺され、5,6人は闇に紛れて逃げ、5,6人は捕まってその場で処刑されたのだという。
巡察隊は、しばしば逃亡兵の集団を逮捕し処刑したが、いずれも人肉食いの集団だったという。この”大和肉”問題は根深いものがあり、このような皇軍強盗団の横行とその討伐はいくつかあったのだろう。三々五々、集まって盗賊団と化したあの皇軍将兵は、最前線で”玉砕”といわれるまでの打撃を受けた部隊の生き残りであったのだろう。「よせ、貴様ら、まだ生きているんだぞ」見習軍医は怒鳴った。「何雄、貴様、軍司令官の名前を知っとるか。ここは安達が原だ。人殺しの本場だぞ」二人の強盗は見習軍医に銃を突きつけると、強奪した上衣と軍靴を手にしてその場を去っていった。このころ、安達軍司令官は、多くの兵の間では、この惨状を招き寄せた「鬼」と信じられていたのだろう。
ブーツ付近の警備についていた担送を免れた後方においても、だれというとなく「西方前線からの脱走兵に注意せよ」との警告が流れた。例の”強盗団”のことである。アイタペ敗北後の北部海岸地帯が病弊にとっていかに危険だったかを象徴する事件が起きた。9月上旬、松島隊は山南地区に入るために比較的健康な兵は出発し、重病者を含む52人はなおしばらくここにとどまることになった。残留隊は本隊出発後果たして自殺者や病没者が続出して遺体処理も十分できないようになった。…生存者はどんどん減って、いつしか残留隊は宮崎兵長と乙、甲上等兵の3人となっていた。このころになると少人数の病兵は強盗に狙われやすいといううわさが立った。…その夜、兵長は帰りが遅くなり、薄暗い小屋に入ると、いきなり銃声が響いた。顔と肩に血が噴き出し激痛が走った。前を見るとぼんやりかすむ目に、ものすごい形相の乙上等兵が浮かんだ。…宮崎は一命はとりとめた。一人ぼっちになった。小屋を捨て、だれにも秘密の”夜のねぐら”を探すことにした。
…ある真夜中、元居た小屋の方で銃声がした。翌朝行ってみると、隣の部隊の患者が一人殺され、持っていたでんぷんなどを奪われたとのことであった。このグループは7人ほどで、夜は弦に空き缶をつるしたり鳴子を張り巡らしたりと用心深かったが、それでもやられた。…ある日、隣の患者グループ6人が全員殺され、小銃、食料はもちろん、持ち物全部が奪われていた。独り暮らしの宮崎は、あの小屋を捨てたことで生命を保ちえたのである。
軍規どころか、道徳も人間性もないようなこの状態に対し、軍も手をこまねいていたわけではない。その表現はともかく、幾度か人肉食禁止、厳重処罰の通達を出している。アイタペ決戦後、軍の主力はアレキサンダー山脈を超えて南の山南地区に移動したのだが、海岸地帯では青津支隊が西から進行する豪軍と相対していた。その青津少将が、十一月十八日付で出した極秘命令が英文に翻訳されたまま豪陸軍の報告書に残っているという(「知られざる戦争犯罪」)その概略は次のとおりである。
「最近、犯罪、特に殺人、強盗、人肉獲得が当該師団管轄区域において頻繁に起きており、軍の指揮に由々しき影響をもたらしている。この状況を憂慮し、これまでに犯罪の早期発見と防止に関する指示をしばしば発令した。しかしながら、これらの行為は、人間性の観点から見ても、また当然陸軍の規律からしても許しがたいものである。当該師団はこうした犯罪の根絶のために努力しなくてはならない。こうした重大な事態を発生させている主たる原因は式教育が徹底していないことにある。一般警報と陸軍刑法の両方、とりわけ陸軍刑法の実態が全将兵に教育されなくてはならない。帝国軍人として我々は仏教の訓戒を守ると同時に、この種の犯罪を前もって防止すべきである。これらの犯罪に対しては発見次第即刻処置が行われ、適切な命令を下されなくてはならない」
この一文の中で「指示をしばしば発令」というところに、この種犯罪をなかなか根絶できない軍上層部の焦りのほどが垣間見える。別紙は一般刑法、陸軍刑法で死刑にあたる犯罪の一部を列挙しているが、特に注目されるのは「刑法において何ら関連法令がないが、人肉(的のそれは除外する)を人肉と知りつつ食したるものは、死刑の処する」とある点である。ニューギニアの日本軍では死刑を明言し、しかも敵のそれを除外している。これには敵性原住民も含まれよう。昭和24年秋、ある朝の朝刊に一面に豪軍発表をして「ニューギニア第十八軍、軍命令で人肉食を許す」という意味の見出しが躍っていた。記事にはさらに詳しく「20年4月2日、第20師団司令部を襲撃し、奪い取った文書により判明」と載っている。「人肉食を厳禁し違反者は銃殺する。ただし、敵及び敵性現地人へのそれには適用を差し控える」。これは当時二十師団参謀だった福家隆少佐が、豪軍の急襲に参謀部の文書を奪われ戦後反省の弁を書いている事件である。第十八軍ではこのエピソードによってもともと一般的な命令が出されていたことがうかがわれる。このような”無法”はアイタペ戦後、昭和19年の海岸地帯で最も激しかったが、20年に入っても減りこそすれ、山南などに範囲を広げながら続いた。
国家に対して直接的に貢献できなくなった時、兵士に降伏の選択の自由を与える道もあったはずである。だがどんな境遇に至っても、命が尽きるまで天皇と国家のために戦い続けなければならなかった。あまりに残酷であり、むごい掟である。死に方は餓死、病死、ニューギニアで多かった転落死や溺死のような無駄死でも、何でも構わなかった。明治時代にも大正時代にもなかったこんな不条理な戦争の仕方をいつ思いついたのか、従順として死を受け入れる将兵をどのように作ったのか、日本軍はこうしたことに精力を使いすぎ、兵士の命を守ることをおろそかにしすぎた。
山南へ
8月中旬、第十八軍は自活のためアレキサンダー山系とトリセリ山系の南側に移動することになった。この地を日本軍は「山南地区」と呼んだ。山南地区は高原であった。セピック川の中流付近に位置する。日当たりが良い成果サゴ椰子をはじめとする現地物資が豊富であった。ここは第四十一師団がウエワクに上陸したときに野戦倉庫を開設した。そのとき現地調査をしたおかげで自活に適していることがわかっていた。山南地区に移動後、サゴでんぷん、タロイモ、バナナが100%の主食になった。
ニューギニアで一番確実な食料源は、サゴ椰子で、現地人はこれから取れるでんぷんでくずもちに似たサクサクを作り、主食としていた。サゴ椰子の多くは人の手で植樹されたものであり、日本兵の採取はニューギニア人の食糧を奪うことであった。サゴ椰子からでんぷんを採取できるようになりまでには数十年以上かかるといわれ、戦後、現地人は食糧難に陥ったが、その原因は日本軍の採取にあった。やむなく現地人はオーストラリア政府から支給される食糧に依存するようになり、同国の影響力が増した。
| ニューギニアの戦いの始まり ニューギニアの戦い(1942年後半、ココダ道の戦い) ニューギニアの戦い(1943年前半) ニューギニアの戦い(1943年後半) ニューギニアの戦い(1944年前半) ニューギニアの戦い(1944年後半) ニューギニアの戦い(1945年) |
米軍はドリニュモール川の戦闘に勝利した後、防御地にとどまり、周囲の限られた哨戒に終始した。しかし豪軍に交替すると、第6師団のジャック・スティーブンス少将は、沿岸部から日本軍を排除する限られた攻撃作戦を開始することに決めた。
日本軍にはトウモロコシ、甘藷、カボチャ、軽粉、ナス、ウリの種子の配送があり、原住民の協力を得て栽培を試みたという。もっと早くに自活農作業方針を決定していれば違っていたのかもしれない。しかし19年10月以降、刻苦して農作業を続けたが、20年4月になっても十分な収穫を得ることができず、やむなく原住民のサクサク供出に頼った。原料のサゴ椰子が次第に近場に亡くなり、数時間あるいは半日以上も歩いてようやく探し当てるようになると、おのずと供出量に影響が出てきた。原住民の供出は、日本軍への服従という前提があって初めて実現するので、豪軍が迫るにしたがって前提が崩れる危険が増し、いつまでも原住民に期待をかけれなかった。日本軍も、住民とは絶対に争いを起こすな、供出された食糧意外に強要したり強奪してはならない、話し合いによる労務提供以外に住民を使役してはならないなどの指令を出していた。
日本軍にとって大きな誤算であったのは、居残った豪軍が休みも入れず、ウェワク、山南北畔方面に下がった日本軍の掃討に向かってきたことである。工作から収穫までに必要な農耕自活が、これによって困難になった。とはいえ、44年11月に始まった豪軍の進撃は補給・物資・人員の集積をしっかり行ってから初めて攻勢をかけるというもので、日本軍から見れば極めて緩慢であった。自軍の出血を極力抑えながら日本軍をじりじり圧迫する作戦で、一日あるいは週単位ではあまり変化がないが、月単位で見ると確実に日本軍を駆逐し、自己の支配地域を広げていた。この攻撃の特徴は、小規模部隊の攻撃による長期にわたる小規模パトロールだった。陸上での物資輸送の困難さや、はしけ、多くの川の鉄砲水により、進歩は遅れた。ある時、大隊の 7人が、豪雨の後に突然上昇したダンマップ川の増水に溺死した。
戦争も末期になるにしたがって、白人黒人を、白豚黒豚と呼ぶようになってきた。生還が決定的に絶望となれば、瞬間の官能の満足に身をゆだねも使用。人間であることも、全の反中の中に生きることも、無意味に思われも使用。危ういかな人間、である。身の毛のよだつような風評も流れていた。猛獣への変身に耐えて、「人間」は喘いだ。自分でやるのは嫌だが、飯盒に入れてくれたら喰うだろう、というのが生き残った物の8,9割までの答えだった。限界を超える日が、来るのか。
掃討作戦に積極的なオーストラリア軍は包囲の輪を次第に狭め、日本軍を内陸部へと追い込んだ。この頃には、日本軍としては珍しい集団投降をする部隊も発生した(竹永事件)。
ニューギニアで、人肉食べない人なんていないんじゃないの。わかんないけれど。「敵国人の人肉は食べてもよい。朕の命令である。」なんて。だって、食べ物なんもよこさねぇんだから。ひどいよ。食べ物がなくて、マラリアで四十度の高熱が出て、まず、大部分が餓死だった。私たちは、降伏も上司にに従っただけ。投降、まずいなんかなんて、考えもしなかった。まず。食べるだけ」
豪州に徴用されたパプアには多様な仕事が待ち受けちた。第一はジャングル内の豪州兵への武器、弾薬、食料の輸送、第二は戦闘で倒れた兵隊の後送であった。ほかに訓練を受けて手に銃を持たされたものもいた。
豪州兵のほとんどがニューギニアの土を踏むのは初めてであり、パプアとの接触も初めてであった。重荷を背負ってジャングルへ分け入っていくパプアの隊列が、まず豪州兵に好感を与えた。兵隊とパプアの対話も始まる。兵隊は伝え聞いていたパプアに関するもろもろのうわさが、必ずしも真実でないことを悟った。
戦場で倒れた死傷者に対するパプアの対応は、豪州兵の感情に決定的な影響を与えた。死者は敵味方の区別なく丁重に葬る。負傷兵はいたわりながら、はるか後方の基地まで送り届ける。倒れている日本兵も同じ扱いを受け捕虜となった。
モレスビー作戦から撤退中の森木勝氏は、意識を失ったまま倒れていた。42年11月のことだ。担架でココダの豪軍野戦病院へ送られた。担架を担ぐのは現地パプアで、前後に豪兵ひとりづつ。担送困難な急坂では豪兵に背負われた。道中に遺体見当たらず、死者は敵味方を問わずすべて丁重に埋葬されていた。十字架のあるのが白人兵の分だ。病院では体内を切り銃弾を抜き取られた。この後に海を渡って豪州カウラへ収容される。
豪州兵の間に深い感動が沸き起こったのは当然だ。パプアも認識を改めた。「戦争に来た白人たちは、以前からいた白人とはとても違っていた。別世界から来たに違いない」と語っている。
豪州兵たちが家族へ出す手紙には、例外なくパプアへの感謝の言葉が書かれていた。新聞、雑誌、映画もこの状況をごぞって報道した。一兵士の作った歌「チリチリヘアの天使たち(Fuzzy Wuzzy Angels)」が空前のヒットとなり、多くの人に愛唱された。全豪州に広がった感謝の気持ちは、パプアに対して豪州人が負う精神的な借りとなった。このことが後日になって、パプアニューギニアの独立に大きな支えとなった。
マヌスは本島北にある島で、米軍に占領された後空軍基地となった。米軍はニューギニア北岸を東から西へと蛙飛びし、あとは豪軍に任せて北を目指した。このためニューギニア内陸でパプアと接触することは少なかった。それでもパプアが、米軍から影響は、豪軍からは決して得られないものだった。豪軍が白人だけだったのに対し、米軍は白人黒人の双方からなっていた。パプアは自分たちと同じ肌色のニグロが、米軍内で白人と対等に付き合っているのを見て、大きな衝撃と啓示を得た。マヌスで新設されたいくつかの橋は、二グロの手によるものであった。パプアは今もそのことを、自分のことのように自慢の種にしている。白豪主義が自然消滅したのは当然である。
| ニューギニアの戦い(1945年) |
ニューブリテン島の東端に位置するラバウルは日本軍の最重要拠点の一つだった。天然の良港を持つこの地には大規模な軍港や航空基地が築かれ、陸海軍の司令部が置かれ、10万の日本軍兵力が駐留していた。昭和17年以降の連合軍の大規模な反抗が始まると、各地で敗退を重ね、昭和19年にはサイパン島グアム島が次々と陥落、ニューブリテン島は日本軍の勢力範囲の外となり孤立する。そのニューブリテン島にも連合軍が上陸し、日本軍の支配地はラバウルのある島の東側だけになっていた。当時、連合軍はラバウルを素通りし、日本本土に向かっていた。
ラバウルを中心に、自給生活のための農耕はますます熱心に続けられていた。今村の戦犯裁判の陳述書には、六千四百ヘクタールを開墾した――と書かれている。とにかく陸稲、甘藷、タピオカなどの主食をはじめ、大きいばかりで味は悪いと不評もあるがナス、南瓜などの野菜類も全員の胃袋を満すだけの収穫をあげていた。しかし、祖国からの補給を全く断たれてから、復員船で帰国するまでの二年余り、十万の将兵が飢えの苦しみを知らなかったという事実は重く、大きい。「遂に十万将兵が飢えなかった」という成果は、今村の先見の明と、その指導に基づいて部下将兵が農耕に傾けた努力のたまものであった。しかしラバウルの「現地自活」は、生命を維持するための食糧獲得だけが目的ではなかった。
第八方面軍司令官、今村均大将は的をラバウル方面に引き寄せるため、ニューブリテン島で積極的な攻勢に出る。昭和十九年末の今村の『決戦訓』にもあるように、『生きて虜囚の辱を……』と、軍は絶対に降伏を許さなかった。歯もたたない強力な敵に向かって進めば死であり、命令もなく退けば、敵前逃亡の罪でこれも死である。『進むも死、退くも死』、しかも後者には家族にまで汚名が及ぶという条件下の“将兵の強さ”で、軍は物量の差、科学、情報などの弱点を補いながら、昭和二十年八月まで絶望的な戦闘を続けたのである。「現地自活」とは「軍隊が戦い、生きるために、すべてを賄う」という広義のもので、今村は来るべきラバウルの決戦に備えて、現地のあらゆるものを戦力化し、不備不足のものを現地で生産するよう指導した。野戦兵器廠では爆弾砲の研究と製造、黒色火薬の再生と製造などが進められ、野戦自動車廠では硫酸の製造、火焔放射機、手役火焔弾、対空挺部隊用のダルマ針、また木炭自動車やクレーン付自動車の製作研究などに力を注いでいた。船舶工作廠を改編した兵器創意隊が、水際戦闘用兵器、対戦車兵器、近接戦闘兵器の研究製造に当るなど、将兵の創意工夫が生み出した品種の数は驚くばかり多い。
昭和二十年二月七日、今村は第十七軍に対し、方面軍命令を発した。その要旨は『全軍玉砕』を表面にうち出している。
| 戦局今や皇国興廃の関頭に直面せる秋に臨み、方面軍の任務及び企図は一人十殺、全軍玉砕以て敵の人的戦力を破摧し、全局作戦の遂行を容易ならしむるに在り |
この長文の命令は訓示ともいえるもので、ここに今村の統帥思想があらわれている。「負傷しても後退すべからず」の命令、自決せよと云う事である。
昭和十九年初め、ニューブリテン島西半分は連合軍の手に落ち、その方面の防衛に当っていた第十七師団はラバウルに撤退したが、それでニューブリテン島の地上戦が終ったわけではない。その後にもトリウ、ズンゲン、その他の戦闘がある。いずれも連合軍としては微々たる局地戦にすぎないが、今村率いる日本軍にとっては士気を維持する上の重要な意味を持つものであった。
ズンゲンの戦い
ズンゲンは、ラバウルから南へ約八十キロ、ニューブリテン島東南部を半円形にけずり取ったワイド湾の一角の村落である。ここは、背後からラバウルに来攻する敵が根拠地とするであろう戦略上の要点と想定されていた。ラバウルを防衛するため、最前線ズンゲンに派遣された部隊が歩兵第二百二十九連隊を中心とした二個中隊およそ400人。この部隊は、ガダルカナル島などの激戦地を転戦しラバウルに集結したが、既に兵力の多くを消耗していたため、他の部隊から補充した寄せ集め部隊であった。この部隊の隊長は当時28歳の成瀬偉民少佐で、実戦を指揮した経験がほとんどない。しかし、既に経験豊富な指揮官は失われていた。部隊に命じられたのは『遊撃持久戦』で、正面からではなくゲリラ的な攻撃をしかけ、敵を牽制する戦法だった。昭和20年1月、成瀬支隊長をラバウルの司令部から参謀が訪ねる。この参謀がズンゲンを『死守すべき』と述べたことでズンゲン支隊の任務が大きく変わった。小部隊に分かれ臨機応変に戦う遊撃戦から、主陣地に立てこもり最後まで戦うことになった。昭和20年3月。部隊は、はるかに戦力に勝る連合軍の猛攻を受ける。二週間に及ぶ激しい戦闘の末に、隊長は死を覚悟の総攻撃を決行。ズンゲンの部隊は「全員玉砕」したと大本営に伝えられた。しかしその後、部隊の半数近くが生き残っていたことが発覚。軍上層部にとってそれは、あってはならない事態であった。
ニューブリテン島のズンゲン支隊は、のちに著名な漫画家となった水木しげるさんが所属していたことで有名である。制海権を失っていたために、ニューブリテン島には、新たな補充兵が来ることなく、いつまでも初年兵あつかいで、ひんぱんに暴力的な制裁を受けながら、陣地構築の日々を送っていたという。昭和19年になるとこの部隊のうち水木さんを含む2個中隊およそ400人は、前線のズンゲンに送られることになった。このズンゲンは太平洋戦争初期に虐殺のあったあのトル農園の近傍と考えられる。
| ズンゲンで、僕は偶然山の上で百人以上の遺骨を発見した。…山の上の遺骨は、屍のにおいがするので、松尾という初年兵と二人で行ってみた。行ってみると白骨死体が同じ形でうつ伏せになったまま枕木のように等間隔で並んでいるんです。数え切れないほど沢山の死体でした。手を縛られて、地面にうつ伏せにされたまま後ろから銃殺されたような死に方でしたね。日本軍は当然食糧がありませんでしたから、捕虜に食べ物を与えて養うなんてとんでもないという考えでした。 そこには、たくさんの骨があり、肉はなく、服装も一部はそのままだった。…特に靴などは、日本軍の靴より上等だった。僕は靴は穴が開きかけていたので、さっそく死体の履いている上等の靴に変えた。松尾も「俺も変える」といってかえた。それと、オーストラリアの金がたくさん落ちていたので、ポケットに入れた帰った。二人とも多少大胆なところがあった。古兵たちのところへ外国の靴を履いて帰ったので「このデンギョやろう」としかられた。…「もとに返しとけ」というので、夜、松尾と二人で靴と金を返しに行った。頭蓋骨は大きく若々しかった。気の毒といえば気の毒な気もした。しかし、かわいそうという気は少しもしない。よく考えてみると、我々もまもなく同じ目に合うかもしれないからだ。敵のことを「敵さん」というがよく言ったもので、同じような骸骨になるという意味でも敵も「トモダチ」なのだ。 |
水木さんは、19年の春、ズンゲンよりさらに先にある「バイエン地区」に10数人の分遣隊の一員として派遣された。しかし、20年、水木さんが間もなく夜明けという頃に海岸線の歩哨に立っていたある夜、オーストラリア軍に率いられた現地のゲリラに襲われ、水木さんを除く分遣隊は全滅してしまう。水木さんは海に飛び込み、現地住民に襲われたり密林の中をさまよったりしながら本隊と合流を試みた。重い銃や弾は捨て、5日ほどの逃避行。「時間の感覚がまったくなかった。あるのは『生きて日本に帰りたい』という気持ちだけだった」と振り返る。死線を乗り越えて部隊に合流すると思いがけない言葉が返ってきた。小隊長は「天皇陛下からもらった銃をなぜ捨てて帰った!」と怒鳴った。中隊長は「なんで逃げて帰ってきたんだ。みんなが死んだんだからお前も死ね!」と。
| ズンゲンからそこから10人選ばれてバイエンっていう所に行くんです。いちばん真っ先に。そこからがやっぱり大変ですよ。敵のでしょうね。特殊部隊でしょうねぇ。ちょうどわたしは歩哨に立っていたから。みんなが寝ている幕舎にいなかったから。助かったんです。いちばんもう先の前線ですよ。そこでわたしは歩哨に立っていたんです。そうしたら、明け方敵が来て、兵舎全滅です。わたし一人生きて帰るわけですよ。5日間かかって。そうしたら死ねっていう命令なんです。そんなばかな話ないですよ。みんなが死んだんだからお前も死ねって。死ねって言われたってねぇ。わたしはだからすぐは死ねなかった。ばかばかしくて。だから命令を聞いたけれど、だまって生きていたんです。 |
水木さんはこの時の心境について一言だけ述べた。「兵隊が逃げていたら戦争なんかできないから、生きて帰ったと叱られたわけですよ。だけどね、命からがら逃げてきて『死ね』と言われてもできるわけないですよ」著書「水木しげるの娘に語るお父さんの戦記」(河出文庫)にはこう記されている。<中隊長も軍隊も理解できなくなった。同時にはげしい怒りがこみ上げてくるのを、どうすることもできなかった> 「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が、戦場にいた人の心を狂わせた。水木さんは口調に力を込めた。「体面を重んじたり、部下を忘れて美しく死のうとしたりする上官が多かった。玉砕という言葉が、生きたいと願う兵隊一人一人の人生に絡みついて離れない感じだった」。水木さんの直属の上官、 27歳の大隊長は、皇国史観の下で「忠臣の鑑」とされた楠木正成に心酔していた。のちに戦況不利と判断すると玉砕を決行している。
| やっぱり支隊長になって来るとね。機械みたいに扱うわけですよね。兵隊を。上の命令をそのまま実行しようとするかなんか知らんけれど。何かこう、逆に怖かったねぇ。27歳で少佐なんていうのは。怖い。なんかこう、人間を人間として扱わないんだなぁ。結局は士官学校出た連中はどうも。変なのはやっぱり士官学校出ていきなり大尉とか少佐になった連中で、人間を人間とも思わないわけですよね。作戦の道具としか思わないようなのがいたねぇ。 |
総員玉砕せよ
日本軍の動きに刺激されたオーストラリア軍の大規模な攻撃が始まる。その兵力は日本軍の10倍を超えた。攻撃の翌日にはズンゲンに作った陣地の一つが陥落し、成瀬支隊長は兵士達に切り込みを命じる。夜陰に紛れて敵に近づき殺すという戦法である。次々と陣地は落とされ1週間後には最後の一つしか残っておらず、水源地も奪われたため、兵士達を激しい乾きが襲う。しかし、ラバウル攻撃に備え、ズンゲンに援軍が送られることはなかった。兵士のやり場のない怒りがラバウルに向かう。二週間にわたる激しい戦闘の上、支隊長は玉砕を命令、大本営に電報で伝えた。残された陣地に集まった兵士がこの時の成瀬支隊長と神宮寺中隊長の声を聞いている。神宮寺中隊長「おれ達の意志は若い者が継いでくれる。おれ達は靖国に行って待っている」と熱っぽく話していた。成瀬支隊長は「うん、うん」と答え、ラバウルに最後の決意を打電。ズンゲン支隊の暗号兵がこの時成瀬支隊長から渡された電報の内容を暗記している。「ズンゲン支隊は今夕を期し敵陣に切り込みを敢行する。今日までのご支援ご協力に感謝する。ラバウル10万将兵のご検討と武運長久を祈る」というものだった。
しかし、この電報はラバウルの司令部を驚かせた。戦い続ける兵力は残っており玉砕はまだ先と考えていたからだ。玉砕をやめさせようと電報を打とうとしたが、通信機材が破壊されいて連絡が取れず、やきもきしていた。ズンゲンの兵士も命令に不信感を持った。劣勢とは言え、食料も弾薬もまだあり切迫した感じではない。ところで、この命令に異を唱えた中隊長がいた。児玉清三中尉で、200人の兵士を率いていた中隊長で実戦経験も豊富だった。「部下を犬死にさせてはいかん」と支隊長に談判。成瀬支隊長は押し切られる形で、児玉中尉の隊のみ別行動を認める。52人くらいの兵隊を五個分隊に分け、ジャングルの地形を生かしたゲリラ戦を行うことにする。しかし、後に児玉隊に大きな困難が待ち受ける。児玉中尉はマラリアが悪化し歩けなくなったため、一人残って拳銃で自決。将兵は指揮官不在のまま更に後方を目指すことになる。3月18日朝、成瀬支隊長率いる部隊が総攻撃に向かう。しかし、玉砕命令に不信感を抱き、自分の判断で隊を離れた者もいた。また、将校の中には部下の兵士に玉砕を命じるのにためらいを抱くのもおり、ある隊では、突撃前夜、部下に「第一回の攻撃が成功に終わったら、現在の位置まで集合」という指示を与えた者もあった。この隊に所属していて生還した元兵士は、この命令を聞いて「もしかしたら助かるかも知れない」と思ったと言う。3月19日早朝、成瀬支隊長は陣地に突入し戦死したが、多くの将兵が行動を共にすることなく生き残った。司令部に玉砕したはずの将兵が数多く生き残っているという知らせが入った。既に大本営に報告し、ラバウル全将兵の模範とたたえていた。このままでは「天皇陛下に嘘をついたことになる」、どう処理をしたらいいのだろうか...。
事情聴取に向かう。生き残った兵士は150名あまり。憲兵隊に拘束され尋問を受けた軍曹は、自分たちが『いてはならない存在になっている』ことを知る。司令部の与えた命令は、ズンゲン部隊に対しては一食も与えず、ズンゲンに戻って敵に突入せよ、であった。将兵は疲弊しきっていたが前進する。しかし、その行く手を豪雨で増水した川が阻む。結局、ズンゲンにたどり着けずヤンマーに集められる。参謀が来て尋問するが、既に成瀬支隊長も児玉中尉もいない。そのため、最も位の高い中尉と少尉が自決に追い込まれる。自ら墓標をたて、腹を切り、小銃で撃って介錯の代わりとした。これで師団司令部のメンツを立てたのだ。後任は現在も存命の岡本大尉で、これに対し、ヤンマーを死守すべしと言う命令が下った。「下がってはならない。死ぬまで戦え」という意味だ。皆、死を覚悟する。しかしこれ以降、連合軍による大規模な攻撃はなかった。約3ヶ月後終戦。結局、部隊は死を賭して戦うことはなかった。
| ニューギニアの戦い(1945年) |
20年3月17日豪軍がブーツを占領した。安達中将は「健兵は三敵、病弊は一敵、重症患者と言えどもその場で戦え」という訓示を伝達した。5月4日ウエワクに豪軍が上陸した。
日本軍から逃れ、豪軍野外炊事場に整列するインド兵の写真が残っている。英国インド軍の多くのインド兵が1942年2月のシンガポール陥落で日本軍の捕虜となった。日本軍はこれらインド兵捕虜を「ロームシャ」としてニューギニアと近隣の諸島に移送した。写真のインド兵は、1944年12月から1945年8月にかけてニューギニア北岸のアイタペからウエワクに進軍した豪第2軍第6師団によって日本軍から解放されたと思われる。日本軍の過酷な処遇によって幾千のインド兵がニューギニアで死亡した。1943年5月にウエワクに移送された3,000人のインド兵の内、わずか210人だけが終戦後生還した。第6師団に救済されたインド兵の1人は、「我々はひどい病気に苦しみ、生きる望みを失っていた。我々の惨劇の渦中に現れた豪軍師団は我々にとって天使のようであった。」と書いている。
この最後の戦闘で、豪第6師団は440人の戦死者と1141人の負傷者を出した。さらに145人が病没し、16,000人をはるかに超える兵士が熱帯病で入院した。
豪軍の攻勢について吉原は「まず我が守備地点に対し猛射を浴びせ、空中よりの爆撃にてこれを粉砕し、周兵の死滅を待って攻勢を開始するの戦法に出て、わが抵抗に会するやさらに砲爆撃を複行する」と、米軍もどきの火力集中戦法で日本軍を一歩一歩と追いつめてきたと述べている。火力戦は必然的に武器弾薬を大量消費する戦闘になるが、豪軍は戦闘について、火力を集中して行うものであると考えるが故に物資を投入するのであり、物資が豊富にあったから消耗戦を採用したというのは、戦後日本人が犯した大きな考え間違いである。豪軍には、物量が足りなければ時間をかけて辛抱強く備蓄し、必要量に達したところで初めて物量戦、火力戦を実施する思想があった。日本より生産力で劣るオーストラリアが苦心しながらも火力戦を進めた事実を見ると、生産力が低く物資がないというのは、必ずしも火力戦をやらなかった理由にはならない。弾薬を大量投入する火力戦と継続的補給とは表裏の関係にあり、輸送力、補給力なしには成立しなかった。
6月中旬、豪軍による山南地区の攻撃が苛烈となる。自活の努力がこの戦闘により水泡に帰した。やや食えるようになった第十八軍が、再び飢えの道を走り始める。この時期に行われた経理部の計算によると、昭和20年9月には第十八軍全員が餓死する、弾薬も同時期に亡くなるという結論に達した。7月25日、第十八軍司令部は玉砕命令を発した。8月15日、辛くも、全滅を逃れた。
アフア陣地攻撃、さらにアイタペ会戦と、反撃を試みたが、中隊は再び四散し、中隊長以下二十名となった。ブーツに下がり、邀撃体制を整える江鬮克の道を求める。山に入り、原住民のやり方をまねてサゴヤシをたたき、サクサクを絞る。9月、さらに山に入り、原住民の協力を求めて、彼らと起居を共にすることになった。村落に入ると、原住民は不安そうにそっと姿を隠してしまう。酋長を集めて、神話を語って聞かせることになっていた。近隣の酋長中に、三人を前に、隊長の言うとおりに通訳したのは、次のようなものである。
昔々、二人の兄弟の神様がいた。ある日、二人は船に乗って、海に釣りに出かけた。ところが、大嵐になって、船は沈んでしまった。二人は、一所懸命に泳いで、とうとう別の島に泳ぎ着いた。兄の泳ぎ着いたところをジャパンといい、弟の泳ぎ着いたところをニューギニアという。してみれば、我々と汝らは兄弟なのだ。その証拠に、鼻の形を見よ。まったく同じ形をしているではないか。我々兄弟は、力を合わせて、悪い白人と戦わなければならないのだ。今は、食料がなくて困っている。やがて、いい日が来たら―その日は、きっと来るのだ―何倍にもしてお礼をしよう。どうだ、力を貸してはくれないか。
ミュ大陸最後の日の、民族大移動にさかのぼった壮大な神話である。酋長たちは、腕組みをしながら神妙に聞いていた。ややあって、「サーベイ」と皆大きくうなずいた。「力になってくれるか、かたじけない」という事で、村落に分散することになったのである。ニューギニアの回想は、言いようもない羞恥を伴うことが多いのだが、この神話の思い出も苦い。
山南地方の状況急を告げ、部隊は再び出動した。山南の陣地についているとき、驚愕すべき情報を耳にした。原住民を指揮して、サクサク募集をやっていたあのT総長が、原住民の反撃のため惨死した、というのである。中隊の総員は、わずか六名となっていた。三百余りの中隊が、ついに六名となって、死力を尽くしていた。所は山南の地、バナヒタム。栄養失調、マラリア、下痢、すでに肉体の機能は崩壊し、燃え尽きようとしていた。
敵の原住民懐柔作戦も、徐々に包囲人を狭めていた。⁻いい日は必ず来るのだ、という我々の公約にもかかわらず、このざまである。もはや、どうごまかしようもない所に来ている。豊富な「もの」で手なずけようとすれば、やすやすたるもの、遊撃隊の例が、すでにそれだ。日本軍に恭良しておれば、それだけ部族、村落の被害も大きい。我々の眼にも、事ここに至って、なお協力をおしまない彼らを不思議に思い、愚かしくさえ思われるのである。
このニューギニアに日本軍が上陸した頃は、先住民のほとんどは、日本軍に協力的で親日的だった。わずかな品物を与えれば労役に、物々交換に快く応じてくれた。戦況が悪化するに連れ物資が不足して、与える品物がなくなると兵の中には強要強奪する物も出るようになった。特に前線の地域で飢餓地獄に落ちた将兵は、彼らの農園を荒らし、彼らの財産であるヤシの木を切り倒し、果ては集落の豚、犬までも略奪して殺して食った。戦略的目的と称して、集落をも焼き払った。敵側に走るものは容赦なく殺した。彼らの反感を買うのは当然だった。連合軍はこの状況を利用し、豊富な物資を盾に彼らを誘った。集落の先住民がこぞって一夜のうちに寝返り、駐留している日本将兵が血祭りにあげられることは珍しい事ではなかった。私の配属になった迫撃砲隊も、山南地区の前線に向かう途中、第一小隊は先住民の攻撃で全員が消えてしまった。どこで、どのような最期を遂げたのか全然消息さえ分からないでしまった。彼らは、視力、聴力、嗅覚力など、感覚的機関が非常に優れている。音もなく、影もなく忍び寄っては奇襲する。敵側の先住民は日本軍将兵にとっては敵兵より恐ろしい存在であった。
彼らは元来、非常に純朴な民族である。私たちの部隊が移り住んだセピック平原地方の集落民は、最後まで親日的で協力してくれた。主食のサゴでんぷんの供出に、労役に、無常で応じていた。我々日本人は、白人と異なって彼らを差別ししなかった。文明人と称する白人と黄色人種が、彼らの土地に無断で踏み込み、焼き、殺し、略奪の限りを尽くした三年余りの戦争も終わった。本当に、彼らにとっては迷惑千万このうえもない話だった。
飢餓とともに、たちまちに人間も吹っ飛んでしまった。事に深刻だったのは、将校と兵隊の相克だった。直接の矢面に立たされたのが、当番兵である。理性的な人間関係による結びつきではなく、階級の権威に対する隷属であっただけに、悲惨だった。将校を抱えていると、そうもいかず、疲れ切った体に鞭打って物資を漁り、食膳に供しなくてはならなかった。それでも、将校の不満はあからさまだった。「近頃、ろくなものを食わしおらん。一遍便所までついてきて、俺のクソを見ろ」と非道な罵声を浴びせられ、悔し涙を流しているものもいた。自分の喰うものも節しているのに、聞くに絶えぬ罵倒となって跳ね返って来る。忍耐にも限度がある。「あいつは、俺の口の中にあるものまでも、穿り出して食うような奴だ。きっと、お礼はしてやる」と、恨みを込める。その痛恨に耐えさせていたものは、階級の意識である。一対一になった時、それは爆発する。担架に乗せて後送中の将校に、誰それはお前に殺されたのだ、とその悪行の数々を並べ立て、今その報いが来たと思え、といって崖の上から谷底めがけて突き落としたということも聞いた。「一二の三で、捨ててきてやった、自ら掘った墓穴だ」とこともなげに言っていたという。
この段階にあっても、日本軍は頑強に抵抗した。1945年6月27日、ニューギニア、ウエワク地区のシバラング山の坂道を進軍する際、火炎放射器で日本軍に攻撃を仕掛ける豪州兵。戦争末期のこの時期でさえ、ある豪軍兵士は次のように書いている。
砲兵隊は20分間に2000発の砲弾を日本軍陣地に打ち込んだ。私は一体全体誰がこの攻撃で生き延びられのるかと思った。しかし、集中砲火が止み、兵隊が攻撃を始めるや否や、奴は威勢良く戦いを挑んできた。奴が生き延び、我々の戦わねばならない相手がいかに手強いかを知らしめたことは、我々には驚きであった。
豪軍は追い詰めた日本軍に砲弾をぶち込む必要もあるまいと考えたのか、連日スピーカーによる食欲を刺激する投稿を勧告し、飢餓状態に日本兵はこれに耐えなければならなかった。
十月、「一挙に大勢を決すべき反撃作戦は、着々成功しつつある。フィリピンの反抗も、大戦果を収めている。もうしばらくだ。潜水艦などでなく、青い海を眺めながらかえろうじゃないか。御身御大切だぜ。」ということになった。比島作戦の成否が、我々の運命にかかわるものとして、幹部も重大な関心を払っていたことは事実である。
その間、敵機は盛んに週報・月報の類をばらまき、東洋西洋の様々なニュースを伝えてくれた。関釜連絡線金剛丸の撃沈も、それで知った。名士の病没の報まであり、「葬儀に、誰それの顔が見えなかった事は、寂しい限りである」とまで、書き添えてある。「西洋に平和来たる」といって、ドイツ軍降伏を伝えてくれた。細大漏らさず報道され、時に話題の源となっていた。日本のほうに「閉じられ」、敵のほうに「開かれ」ている奇妙な存在になっていた。写真入りのもの、色刷りのもの、文学的なもの、様々に趣向を凝らして落とされた。日本軍捕虜が、いかに熱いヒューマニズムのもとに優遇されているかが、両目を白紙で抑えた数葉の写真で、紹介されたりした。旋回数行、図上にひらひら舞い降りるのを、原住民が息せき切って持ってくる。二十枚、五十枚と束にして持って来てくれることもある。「何が書いてあるのか、読んでくれ」という。「日本のソルジャーは、長い間ニューギニアでご苦労様である。もう紙切れもなくなったことであろうから、シガレットの巻きがみや、ペクペク・ペーパーに使うように、サービスする」と朗読長でやると、ややあって、「エヘ、ユー、ギャマン、トーク」と頭を振る。かなり正確と思われる報道はあったにしても、しょせん我々には流言の域を出なかった。
敵機は、さかんに宣伝ビラを撒いて来る。はじめのころは、至極幼稚な字で、文句も翻訳調で、日本人の文章とは思えなかったが、次第に格の整った日本文になってきた。日本人が、日本人に呼び掛けている、そんな感じすらすることがあった。週報・月報の類もあり、いろいろなニュースをそれで知った。その一つに、こんなのがあった。「戦争は力仕事である。腹一杯食っても、容易なことではない。しかるに忠勇無双の日本軍将兵諸君の、ろくろく食う物もない原始林における優先奮闘ぶりには頭が下がる。敬服に値する事である。しかし、すでに戦局の見通しはついている。我々は、諸君らを殺すに忍びない。諸君らも、無駄に死んではならない。即刻抵抗をやめよ。故郷に残してきた最愛の父母・妻子・兄弟のために、帰順すべき時が来たのだ。その人たちは、諸君の帰るのを、一日千秋の思いで待っているではないか。つまらぬ意地を捨て、大儀に生きよ。我々は、諸君らを心から歓迎する。熟慮せられよ」という文面である。冒頭の「戦争は力仕事である」という素朴な表現にくすぐられた。「大義に生きる」は、しゃれているが、勢いに乗りすぎた気配がある。下にパスポートがついていて、英文と日本文で「本件持参のものは丁重に取り扱い、最寄り長官のところへ連行すべし」とある。さて、その裏に、色刷りの御馳走が、紙面一杯に印刷されているのである。それを見て、素っ頓狂な声で、「チクショウ!」と叫んだものがいた。怒りの声ではない。なんともやりきれない、という調子である。思わず生唾を飲み込んだ声である。
戦局は、明らかに末期的症状を呈していたが、全面的敗戦を頑固に否定し続けていた。だが、ビラの内容は、猫が鼠に戯れるような遊びが、露骨に出ていた。「我々には、糧秣倉庫の位置も、はっきりわかっている。しかし、乏しい糧秣を爆撃するのは、人道上忍びないものがある。決して爆撃しないと約束する。いずれ近いうちに、いただきに行くことになろう」と落としてきたりした。事実、その約束を守るほどの余裕を示していた。しきりに投降を進めてくる。「何のため、だれのために戦っているのか。諸君らの尊い命の代償は何なのか。軍閥の手先になって、踊らされているのが分からないのか。我々は、戦場の融資に対する礼儀を知っている。安心して投降せられよ。」という調子である。軍閥という言葉が、珍しかった。我々の意識には、そんなものはなかったからである。軍靴の音と共に過ごし、神国日本の万国に冠絶せるゆえんのものを教え込まれてきた世代なのだ。戦争は国家の意志であり、軍閥の介入する余地はなかった。さすがに文字の国中国では、軍閥は氾濫していた。城壁や家屋の壁、土塀などに「東洋鬼日本兵」と本をひっくり返して憎悪を込めた味とともに、「打倒日本軍閥」の文字が織り込まれていた。が、それは黙殺されていた。何よりも「国体」が優先し、「軍部」という控えめな言葉が交わされていたに過ぎなかったからである。
| ニューギニアの戦い(1945年) |
明治の建軍以来最初にして最後の集団投降事件が発生したのもニューギニア戦線である。アイタペの敗北後、第四十一師団隷下の各部隊は、トリセリー山系南側の山中にこもって押し寄せる連合軍と対峙したが、歩兵第二百三十九連隊第二大隊の約50名もこの中にあった。大隊長は竹永正治砲兵中佐である。すべての砲が破壊されたため砲兵も歩兵として歩兵連隊に編入されていたのであった。二百三十九連隊のある将校が書いた手記に、次のような例がある。昭和二十年六月ごろの話らしい。この隊は、二十師との戦闘区域の境界にあったので、よく朝部隊(二十師)の斥候が姿を現した。
ある夜も、「朝」の下士官以下四名が連絡して発進したので、「河」の将兵はその成功を祈って見送った。間もなく一名戦死、一名行方不明ということで、残り二名命からがら逃げかえってきたので収容した。二日後、軍の会報を見て驚いた。それには、例の斥候が敵の幕舎、重火器を破壊したとの”大戦果”が報じられている。彼らは敵陣には到着しないはずなのに不思議なことが起こるものである。そしてその次が問題である。「おまけがついている。二百三十九連隊もっと頑張れと喝まで入っている。恐れ奉る。報告とは、からくりとは、これが隣師団の現実とは思いたくはないが、皇軍の末路悲しいことである。」
一般に戦果の誇大報告はしばしばあることだが、次いで友軍である四十一師団に活を入れるというのは、朝部隊にはそれを当然とする空気がみなぎっていたためであろう。このような空気から言えば、四十一師団、なかんずく二百三十九連隊が多くの集団投降を出したのは、当然ぶったるんでいるからだ、ということになろう。しかし、それはあまりにも皮相な見方である。
このころの東部ニューギニアは一物の補給もなく、将兵は飢えやマラリア、下痢に栗しみながら連合軍の猛攻を支え続けていたのである。こうした中で4月下旬、竹永中佐の第二大隊が行方不明となった。師団や連隊本部では捜索隊を繰り出した額故をつかむことはできず、玉砕したものと思われた。だが数日の後、連合軍がまいたビラによって事実が判明した。175名の山砲大隊員が降伏したと書かれていたのである。
集団投降である。これは、何らかの形で一応意思を統一しなければできないことであるから、人事不詳の状態というわけにはいかない。したがって、日本軍において集団投降は極めて少ない。特に、軍の組織としての建制部隊の投降は、指を屈するほどしかない。昭和二十年五月初め、ニューギニアで一個大隊が丸ごと投降したのは、明治建軍以来組織としては最大の例であろう。しかも、大隊長は陸幼、陸士出身の生え抜きの中佐である。最も一個大隊というと、編成当初の八百人くらいの将兵を思い浮かべたくなるが、この時の実勢は、大隊本部と二個中隊で実人員はわずかに四十二人である。この数字自体が、この大隊が常識を超えるほどに、いかに傷つき疲弊していたかを示している。西欧では、戦死者が四分の一から三分の一になれば、投降が常識といわれている。実質は一個小隊にみたいにとはいっても、とにかく中佐指揮する一個大隊の投降であるから、その影響は小さくない。兵たちは、このニュースを豪軍の投降勧告のビラや包装で知ることになった。「けしからん」と息巻くのが多数派ではあったろうが、善悪の批判を超えて「やったな」と感じた人もいる。終戦間近に、小グループの投降がかなり出たのも”有力な先例”に力を得てのことであろう。
この第二大隊はアイタペ決戦最後のハト陣地攻撃でほとんど全滅した部隊である。壊滅後新たな第二大隊として竹永大隊長を任命、これは残存部隊の寄せ集めに近く旧第二大隊と三砲兵第三大隊の生き残りが多かった。44年9月中旬、歩兵の竹永大隊は50人でスタートした。アイタペ線終了時、第十八軍は42000と推定されている。それから1年、終戦時の日本軍は13000、故国の土を踏んだのは10500とされる。この中で竹永大隊は42人帰国できたのだった。
45年2月、四十一師団は豪軍に対し背後急襲行動を試みていたが難航を極めた。3月24日第四十一師団長は二百三十九連隊をアポレンガに、二百三十八連隊をチラクグンに後退させ、それぞれの土地を確保するよう命じた。アポレンガにて正面に第二大隊、側面より第一大隊を持って斬り込みを準備した。歩兵としての竹永大隊はこのままでは餓死間違いなしとみて、食料自給の道を歩もうとした。戦闘はやむを得ないときの他は考慮の外であった。まず食べることだ。この時、竹永大隊も人肉食に手を出していた疑いは強い。4月12日、日本軍が原住民の部落を襲い、食べ物を盗むと同時に、原住民の二人は機関銃に撃たれて死んだ。日本軍はその後3日ほど近所にいたが、やがて立ち去ったので原住民たちは村に帰った。その時遺体は肉が切り落とされ、焚火を起こした跡があり、肉の少しくっついている前腕の骨があった。後日の豪軍の追求では、当時このあたりで行動していたのは、一つの大隊しかいなかった。
大隊と連帯の連絡は全く取れなくなった。実は、これはよくあることである。連隊本部も、敵襲ちかしの空気を感じると、傘下大隊に連絡を取る間もなく、さっと移動してしまうことがある。同じように、大隊の方が急に動くこともある。移動を知らせる伝令が、途中敵に発見されてその任を果たせなくなることもあろう。だが幾度、将校斥候、下士官斥候を出しても連絡が取れないので、竹永大隊長は連隊は大隊を見捨てたと判断した。「われわれはもう大隊単独行動以外道なし」。
小隊長の一人にN少尉がいた。小隊長といっても、部下は一人もいない。だいたい将校には当番兵がついていて、食事その他の雑用を果たすのが軍隊の原則であるから、これでは”生きていく”のにも差し支える。そこで、Nは大隊長に部下配置を願い出た。S.T曹長の小隊から一人の軍曹を転出させた。数日後、Nが「食事の量が少ない」といって軍刀で転出した軍曹をたたいているのをS.T曹長が見つけた。もうこのころは、師団長だって満足に食事なんかとれない時代である。見かねて「少尉殿、止めてください」というと「何を生意気な、ぶった切るぞ」と、軍刀を振りかぶった。S.T曹長も「何っ、この野郎」と体当たりすると、Nはぶっ倒れた。N少尉は「上官暴行罪で軍法会議にかけろ」と要求した。最前線の軍法会議は、大隊長含む将校5人、准尉4人の計9人で協議されたが、S.T曹長は問責されなかった。S.T曹長は竹永隊長に心服するようになった。その後誰一人N少尉の食事の準備をする者はいなくなり、数日後少尉は餓死した。
大隊は特に作戦もなく、食料を求めて移動していた。4月の中頃、無人のタウ村にいた。午後三時ごろである。現地民に襲撃された。大隊は戦死1、負傷1を出し、現地民勢は死体2を残して引き上げた。翌朝今度は豪軍の襲撃にあった。これは正規軍で攻撃も激しく、いよいよ玉砕かと思われた。しかし夜は戦闘はやらない豪軍は、夕方になると攻撃を止めて引き上げた。大隊長は、小隊長以上の集合を求め「わが部隊は連隊に見放され、敵に包囲されて絶体絶命の状況にある。よって、この地で玉砕する決心である」と述べた。だが、福地大尉は玉砕に反対した。「玉砕はいつでもできる。何とかこの地にを撤退するか、もしくは思い切って敵に降ることも考えるべきだ」と提案した。大隊長は、おのおの意見を聞いた。玉砕、自決はやや少ない感じであった。夜遅くまで意見を交わし、結局は豪軍に投降することになった。この時の会議出席者は先の9人の軍法会議のメンバーである。
どうやって豪軍に通知するか。福地大尉は明大出身ということで、何とか意味を通じさせるくらいの英文を書くことができた。そこで豪軍が空からまいた降伏宣伝のビラを兵士から出させた。軍の命令では、このようなビラを持っていることさえ禁じられていたが、皆結構持っている。そのビラの裏に、英文で降伏する旨と条件を書いた。敵の落下傘の白布を棒の先にしばりつけ、”投降申し込み”ビラを結び付けて、十本ほど村の前後の道に立てておいた。翌朝見るとそのうち二本がなくなっていた。翌朝、直径1メートルほどもあろうかと思われる巨木の陰から、その姿は見せず、「ジャパンソルジャ、ジャパンソルジャ」の声。「レータ、トクトク」という、見ると前方20メートルほどのところに、昨夜、日本軍が建てたと同じやり方で手紙を結び付けた棒が立っている。しかし、敵がその気になれば狙撃一発でやられてしまいのだから、手紙を取りに行くのはそれなりの勇気がいる。「ハイラップ、ハイラップ」と叫ぶ。決断した。匍匐のまま前進、彼は無事戻ってきた。英語だからわからない、大隊長のところに持って行った。福地大尉が読んだところ「条件を示した手紙は読んだ。すべては了解したので、すぐ軍師をよこせ」の意味だという。軍使は白旗を手にして現地人の案内で出発した。二時間ほどすると、塩とコンビーフ、それに豪軍の手紙を持って帰ってきた。「決して迫害を加えない。条件を守るから、全員すぐ降伏するように」
竹永大隊の投降は、いわばトップダウンだった。そのため兵士個々の信念と反することもあった。だが上の決定だから従わなければならないという意味で、自己の心の負担を軽くすることもできる。はっきりと竹永中佐のおかげで命拾いをしたのだと戦後も語る部下もいた。
豪軍陣地に来ると、すぐ武装解除された。これは条件違反であったが、もはや全員腹をくくった。氏名については、全員が偽名で通しているから、とりあえず日本本土に漏れる心配はない。豪軍資料によると、この日は5月3日である。到着後はビスケット一袋とコンビーフ一缶ずつが与えられた。ゆっくり3日かけて歩くと、こんなところにあるはずもない飛行場についた。マブリックだった。鉄板を強いた飛行場には六機も駐機している。一気に十数人ずつ乗り、何か月もかかって歩いた山奥から、アイタペまで20分で飛んだ。
収容所に入ってからは「お前たち、よく生きていた」と、待遇は良かった。日系二世が毎日来て、「今日は何食べたい」って。日本軍なら全員処刑していたところ、おどろいた。クレスタート曹長が、初めから通訳としてついていた。彼は神戸で七年半貿易商をしていた人であるから、日本語は達者である。とくにS.T曹長とは急速に仲良くなった。アイタペ飛行場はアスファルトで、その中をジープが行きかう。宿舎ではそれぞれのベッドが準備され、蚊帳も個人用、毛布が二枚、新品の食器、革靴と至れりつくセリであった。捕虜のやることと言ったら、宿舎付近のちょっとした清掃くらいである。暇を持て余して運動場の建設を頼んだら、すぐOKが出た。ブルドーザーが出動して3日で50メートル四方くらいの運動場が完成。毎日、軟式野球に行ずるという具合である。一か月ほどアイタペにいる間に、42人はみなニューギニア上陸当時の体力に戻った。ある日、クレスタート軍曹は一人の将官を連れてきた。第六師団長モーキン准将である「あなたたちは英雄です。S.Tさん」。気さくで、日本軍の上下関係ではありえないことだった。1か月ほどして、一同ダグラスでラエに運ばれ、ナザブの捕虜収容所に収容されることになった。ラエの収容所へ行ったら、海軍捕虜がたくさんいた。
S.T曹長はウェワクに移され、一般の軍人並みの扱いを受けた。テントは一人、食事は将校も下士官も一緒の食堂で一列に並んで受け取る。朝夕の点呼では、ちゃんと「サージャントメージァS.T」と呼ばれる。ほかの隊員も捕虜と思われず2世と思っていたようである。仕事は、主として日本軍が残していった書類などの解読だった。クレスタートは話すのは達者だが、読むのはカタカナだけで漢字はほとんど駄目である。終戦が近くなると、昼間は患者輸送機で前線へ行き、さらにジープで最前線に行って拡声器で放送した「今連合国はポツダムで降伏条件を相談中」とか「広島に原爆を投下したので、一日も早く投下しなさい」とかいうことである。
有形無形の圧力が、ぐいぐいと体に食い込んでくる。ついに、小隊長以下一個小隊投降の報が伝わった。もとより真偽のほどはわからぬが、「死ぬことと見つけた」武士道の伝統を、揺るがせるに足るほどの苦痛であったあことは明らかであろう。Yの述回によれば、アイタペ作戦後、二十名ばかりの一団に逃亡を誘われたという事実もあった。投降のうわさを聞いても、それを背信・卑怯者としてなじる気持にはなれなかった。責任者として、何人か引き連れて言った男の苦愁が分かるような気がしたからである。…逃亡の語感は暗く、卑劣な感じを逃れない。軍法会議の結果、逃亡罪と断定され、自決を迫られた准尉がいた。将校斥候に出たまま、原隊に復帰しないという罪状である。野戦における逃亡の罪は、死刑である。しかし、こういう条件の下で、逃亡ということが成り立つものだろうか。たとえ逃亡したとして、どこに逃げうるというのだろうか。一個連隊が、百名足らずになっても、厳しい軍規は守り通されていた。そんなころ、中隊に一人の上等兵が、突然編入されて来た。中隊長は、「逃亡のかどで死刑となるべきところ、兵力不測のために仮に我が中隊に編入された者だから、十分注意するように」と声を潜めて我々に言い渡した。それとなく話をしてみても、そんな暗さはみじんも感じられなかった。烙印を押されたこの男が、哀れに思えた。気候・風土上、不慮の事故で、原隊復帰が遅れることは、十分ありうる。むしろ遅れることが、自然でさえある。自分自身、何度かそういう羽目に陥っているだけに、懐疑的にならざるを得ない。弁明の許される社会ではない。「結果を言え、理屈は言うな」が軍隊のおきてである。原隊離脱の事実は、日常のことといってよい。「裁く」尺度は何なのか。
他の部隊にも波及
他の部隊でも、竹永大隊の集団投降は大きな影響を与えた。多くは「けしからん」との意見だったが「彼らは名誉を捨て死に勝る屈辱的な性のみとを選び、耐えがたきを耐え部下数十名の命を救った。大隊長は人間としてよかったが、武人として憐れむべき存在だったのだ」と結論する。あるいは「あのニューギニアの極限状況で起こったことで、軍人精神とかなんとか関係ない」と言い切る人もいる。いずれにしても第二大隊はなくなってしまったので、第二大隊の後任として、チンブンケ事件の主役、第一大隊第四中隊を持ってくることにした。6月末から第一線へ布陣する。もうすぐ8月というところ、敵のスピーカーによる投降呼びかけ、飛行機による投降勧告ビラの散布がにわかに激しくなってきた。呼びかけの声は、完全な日本語である「日本人の好きなライスカレーがあるぞ、玉どんとうな丼があるぞ。今日の昼の献立はこうだ」などと飢えた兵の気持ちをよくつかんでいた。谷一つ隔てた百メートルほどの距離を、実際ぷーんといい香りが流れてくることもあった。日本軍は降伏ビラの所持を許さなかったが、ひそかに背嚢の中に忍ばせておく兵は少なくなかった。各部隊に玉砕命令が発せられたのは8月1日ころである。
このころ第十八軍司令部は、背後にセピック草原を控えたヌンボクに置かれていた。草原に追い出されると身を隠す一本もないし、もう防御はできなくなる。軍は四十一師団に死守を厳命し、師団は連隊に、連隊は大隊に厳命した。そして事件は起こった。第二大隊の第六、八中隊が集団降伏したのである。豪軍資料には10日に大尉含む13人、11日には大尉含む17人が投降したとしている。「このまま野垂れ死にしたって価値はない。どうせ野垂れ時なのだから、投降して殺されたって仕方ない」兵士からの突き上げに中隊長も逆らえなかった。敵兵は「よく来た」という態度だった。「すぐパンや食料を出してきた。そのあと、穴を掘らされたので、もう殺されるのかな、これが最後だなとみんな思ったが、実はごみ入れの穴だった。収容所に入るとごちそうが出たので、もっと早く逃げたほうがよかったとみんなで話し合った。」「投降後、数日で終戦になったからといって、後悔する気持ちはなかったですね。」
このあと数日で終戦になったのだが、他の将兵の運命と比べ、彼らは勇気ある決断をしたといえる。十人以上の集団降伏は、ニューギニアにおいても上記の3件だけであるが、少人数あるいは個人による投降は特に8月になると急激に増えた。それは各所で起こり、まさに皇軍のメルトダウンというべき事態だった。
| ニューギニアの戦い(1945年) |
8月14日日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏した。多くの兵士たちはすぐには信じられなかった。
小屋の中央付近に車座になって一枚の紙編を取り囲んでいるものがいる。…紙片には「日本降伏」と、大きく印刷した文字が認められた。敵の巻いたビラだ。…敵側のビラは私も今までに何度も拾ったが、いずれも降伏勧告のものばかりだった。…だが今日のビラは今までのものと内容が全然違う。ビラの周囲には、いつの間にか小隊全員が寄り集まっていた。…議論は二分していた。「このビラの報道してることは、真実のようだ。その証拠に昼夜の別なく打ちまくっていた敵の重砲撃は、この一両日ぴたりとやんでいる。戦争は終わったのだ」と大きく胸をなでおろしている降伏説に対し、「まさか、日本が負けるなんてあるもんか。このビラも、重砲撃中止そのものも謀略だ」と、頑として耳を傾けない組に分かれて、堂々巡りしていた。…「だが、日本が降伏するなんて、どうしても信じられない。そんなバカな!」佐藤も戻ってきた。彼は腰を下ろすなり「ばかばかしい。日本が負けるなんてあるもんか」と吐き捨てるように行った。…さらに、「日本の海軍さんが、このニューギニア方面には全然姿を見せないではないか」「日露戦争の時も海軍は、ロシア艦隊を日本海に引っ張りこんで一挙にたたいたのだ」佐藤は日本海海戦の例を持ち出した。「そうだとも、今度も海軍はその魂胆でいるんだ」私たちの意見は完全に一致していた。このニューギニアに上陸以来丸二年、…新聞もラジオもなく、ミッドウェー海戦で日本海軍が大打撃を受けたことも、東京空襲も、米軍の沖縄上陸も、全部知らされていなかった。ただ、私の脳裏には、緒戦のころの真珠湾攻撃とか、シンガポール占領などの華々しい戦果のみが、強く記憶に残っていた。…ニューギニア地域の戦争は完全に負け戦であるということは私も知っていたが、…将棋の勝負にたとえるなら、捨て駒戦略であろう、などと自分なりに勝手に考えていた。…中央に陣取って議論していた連中も平行線の議論に飽き飽きしたのか、空席が目立つようになっていた。
この5,6日は、連隊本部からは何の命令もなく、間の抜けたような静かな日を過ごしていたが、ある日の夕方、久しぶりに連隊本部から命令の伝達があった。「あくる8月22日、午前九時〇分、連隊本部の山すそにある農園に全員集合せよ」という内容だった。翌朝、服装を整え、隊列を組んで支持された場所へ向かった。指定された場所は、すでに三〇〇人くらいの将兵が集合していた。やがて、各部隊の「集合終わり」の報告の後、中央にいた本部の高級将校が前に出て語りかけたが、いつもと違い調子がおかしい。…内容の判断に迷っていると、「日本降伏…」の言葉が私の脳裏を一撃した。その後に続いた一語一語に全神経を集中していたが、日本の敗戦を理解するまでには長い時間を要し、同時に頭が混乱した。(帝国海軍はどうしたんだ。関東軍はどうなったのだ。日本は、東京は、郷里は、一体全体どうなっているのだ)。つい三週間前、安達軍司令官の「玉砕命令」発表の時、「生きて虜囚の辱めを受けるな。病弊で動けないものは刺し違えて死ね」といったばかりではないか。それが日本国民全部が捕虜になるなんて、そんなバカなことがあるもんか。私のはらわたは限りない憤りで煮えくり返っていた。やがて陛下の詔勅の発表に移っていたが、そのほとんどが頭に入らなかった。最後の方の「堪え難きを絶え、忍び難きをしのび」の一説だけが、妙に心に残った。
陛下の詔勅が終わると、「その後の行動は、各隊ごとの指示に従え」と、短い訓示を最後に集合は解散した。このころになって、私の腹立たしさも収まり、新たに生きられる喜びが猛然と湧き上がってきた。私は叫び声をあげた。「死なずに済んだ。生きられる。生きる、生きるんだ!」小屋に到着するなり迫撃砲隊は即時解散になった。各自は原隊に復帰することになった。
別の隊では
敵機は「東洋に平和きたる」と、投下した。愕然とした。信じられぬ。潜入攻撃は、依然として続けられた。相手はその違法をなじってきた。それから数日して、赤とんぼのような友軍機が一機、よたよたと飛んでくるのが見えた。やはり終わりだな、と感じた。正式の命令がきた。昭和二十年八月二十五日の夕刻、薄ら日の中に第二十師団歩兵第七十九連隊の葬送を終えたのである。
敗戦が、国家と個人に何をもたらすかについては、具体的には何もわからなかった。前線では、物々交換が始まった。千人針、日章旗が、缶詰やたばこに替えられて行った。彼等には千人針が珍しいらしく、高値を読んだ。広島に落とされたという、とてつもない爆弾のことを聞いた。終戦の詔勅の中にあった「敵は残虐なる爆弾を使用し」とあるのが、それに違いないと確かめ合った。一発で、五里四方が、吹っ飛んでしまうという。「五里四方」が議論の的になった。そんなものがありうるか、連日のように浴びてきた爆弾の体験があるだけに、皆否定的だった。大きなやつ5,6発で、全市炎上したのだろう、ということでけりをつけようとした。「俺たちが、ふがいなかったという事だろう」と、自分を攻めるもの見た。「これ以上、どうしろというんだ」という声もあった。「軍服を着ている限りにおいて、死ぬのもやむを得ないが、そうでない人がまた主に狙い撃ちされたということは、許せない」という点で一致していた。しかし、「戦争自体残虐な物であり、そういう区別も感傷に過ぎない」といい、「軍服を着ていれば、殺されても、それは残酷ではないのか。軍服とは何なのだ」と、畳みかけた。戦争自体が悪なのであり、それに付随する一切は、その悪の陰に過ぎないという理論である。「何が起ころうと、やむを得ないことだ。皓までという限界などありはしない。ガスやダムダム弾が残酷で、砲弾や爆弾は残酷ではないというのか。馬鹿気た感傷ではないか。国をかけての攻防が、どこまで暴走するかは、わかったものではない。要するに、戦争は勝つことが目的だ。勝たなければ、正義の戦争にはならないのだ」という。それに対して、「戦争は人間がやるのだ。動物の殺し合いとは違うはずだ。そこに、人間の節度があっていいと、俺は思う」と反論があった。「戦争は人間がやるんじゃない。組織がやるんだ。人間はその歯車としての機能を果たすにすぎん。個人の意思など、どこにもありはしない。戦争て妙なものだ。人間がおっぱじめながら、戦争は人間を離れて、独り歩き始める。もう、人間の手に負えなくなってくる。俺は、そんな戦争そのものを感じるのだ。もともと、戦争自体、人間的なものの否定の上にある。人間の節度と戦争ちう言葉が、すでに矛盾である。戦争が、逆に人間を狂わせモスル」と、得体のしれない広島の爆弾について、議論の応酬があった。
原爆が俺たちを助けた、という皮肉なめぐりあわせを感じていただけに、爆弾論議は高調していった。
離脱将兵の帰国は許さず
終戦頃の第十八軍所属将兵の生存者ははっきりしない点もあるが13263人とされていた。しかしムッシュ島に送られた人数について諸説あり、第一復員局資料課の「外地情報」所蔵のニューギニア事情は11731名で、これが最も信頼に足る人員数と思われる。この差はいったいどこから来たのか。ムッシュ島までの行程での病死だけで説明がつくのだろうか。ニューギニアでは軍規を何より重視した聖将今村の下、終戦後も厳正な軍規の順守が行われたのであった。
第四十一師団司令部は、当時山南のグマイラという小さい集落にあった。終戦後10日もたったころ、軍医真辺武利少佐は死刑の立ち合いをすることになった。数日前から憲兵隊の取り調べを受けている輜重隊の下士官、兵8人がいた。彼らは戦場を離脱しあちこちさまよっているうちに、敵がまいた日本降伏のビラを見て戻ってきたのだという。刑場では8人がしょんぼりと一列に並んでいた。憲兵が2人、他の兵が8人いた。師団参謀が彼らの罪状を告げ、終わると全員目隠しされた。そこにはすでに8つの穴が彫られており、その前に一人ずつ正座させられた。その眉間の高さに、竹が横に固定されていた。八人の射手がそれぞれに位置につき、憲兵二人が両側につく。「撃て!」。銃声とともに、いずれも頭から血を流し、後に反り返ってそれぞれ穴の中に落ちた。憲兵二人が見て回った。一人、まだ息をしているように見えたのだろう。真辺が招かれた。「脈はまだある」と答えると、憲兵はピストルを一発、心臓に打ち込んだ。
それにしても、終戦の数日前まで悪戦苦闘、ともに耐え忍んできた戦友である。しかも、今後戦闘が続くのなら脱走者を懲らしめて軍規の厳正を維持しなければならないということになろうが、もう戦闘はありえないのである。「それからあとは、この情景が脳裏から離れない。今でも忘れようとして忘れられないショックが残っている」と真辺は書いている。
これは第二十師団においても同様だった。
海岸に集結、ムッシュ島に収容―そんな情報が決定的となった。いよいよ出発。希望のない行軍だった。途中、現地の人に担がれて、原隊に帰ってきた者もいた。どこから、どう聞きつけたのか。たまたま近隣の村落に病を養っていたか。しかし、軍規は冷厳だった。逃亡の罪名の下に処刑されたと聞く。どのくらいいたかは知らぬが、軍刀の血をぬぐっている准尉を見たことがある。生還の夢が、処刑という形で無残に打ち砕かれてしまったのだ。「敵さんに、投降したほうがよかったんじゃないか」、そんな声もささやかれた。
ある日、原住民の手作りの担架に担がれて、一人の兵隊が運ばれてきた。部隊は七十九、つまり我々の中隊である。いったい誰なのか。担架のところに行ってみた。担架に張り付けられたように、投げ出されている。顔を近づけて、「お前は、だれか」と聞いてみた。すると、その兵隊の両眼から涙がスーッとあふれた。聞き取れない声で『Nです』という。そして、ゆっくりと両手を差し伸べてきた。「寂しかったです」と、声もなく泣き続ける。N-、しばらくして、やっとおもいだした。「おまえ、Nか」と思わす叫んだほど、形相は変わっていた。昭和19年3月9日、敵は村に侵入し、退路を遮断した。そのとき飯盒ひとつもって敵の囲みを脱出した、おそらくたった一人の兵隊が、N上等兵だった。その時の脱走の模様を聞いたきり、約一年半行方の分からなかった兵隊である。中隊長F大尉は、連隊長に指示を仰いだ。夕刻、「逃亡罪、銃殺」の一言を持って帰ってきた。指名されたT准尉とYは無言で立ち上がった。自分は会う気持ちになれず、樹にもたれて、じっと座ってきた。その死は本当に決定的なものか、再び逃亡罪が成立するような条件であるのか。意志的な逃亡が成り立つようなところではないのではないか、逃げたとて、どこへ行こうというのか。銃声が一発また一発聞こえてきた。
一般に、終戦間際に脱走した兵は、すぐに豪軍に駆け込めば捕虜として優遇され、いずれは無事に帰国できた。たまたま離脱はしたものの投降までの決意をすることができず、あるいは豪軍陣地にたどり着くことができず、そのうちに終戦のビラを拾ったりして日本軍に戻ってきたものが、情け無用の軍律によって、せっかくここまで生き延びた貴重な生命を捨てさせられたわけである。終戦の数か月前、あるいは一年以上前に離脱した、あるいは離脱せざるを得なかった将兵も、もちろん同じ運命をたどった。誰もが、今原隊復帰をしなければ、永久に故国の土を踏むことはできないと思いに駆られて出頭したのであろう。
安達軍司令官の言葉は、ムシュ島で入院中、見舞いに訪れた軍司令官から、菅野が直接その耳で聞いたことである。しかし、のちに逃亡兵の大量の戦後処刑を知り、親しく将軍の滋味に触れた菅野でさえも、こう書かずにはおられなかった。「戦争も終わっている。この時期、現場の指揮官の裁量一つで、極刑にしなくとも済んだはずだ。部下思いで有名だった安達軍司令官が、この件についてはどのように処置せよと命じていたのか」
ムッシュ島へは健兵は行軍にて、病兵はセピック川沿いにカヌーにて移動となった。この行軍も体力尽きた兵士たちには過酷で、何人も息絶えた。そして豪軍による武装解除が続いた。そこに日本軍の根底を揺るがす大事件が待っていた。
9月末、この小隊の長である中村中尉に呼ばれ、次のような指示を受けた。「近く軍は海岸に出て武装解除をすることになった。重傷者はセピック川を先住民のカヌーで運ぶ計画である。お前の体力では、山越えの行軍には到底耐えられまいから、カロロ集落に出てカヌーで海岸に出ろ。カロロまでは先住民の付き添いをつけて送る」
今日は、投降する日だ。食後、支度を整え、谷川に沿って坂道を下った。河原の平たん地は、すでに多くの兵隊たちでいっぱいだった。銃、帯剣、ナイフ類などに、区分されてはあったが、どれもが無造作に積まれ、山をなしていた。その片側に軍刀の束が積まれていた。将校の威厳を現す軍刀も哀れなものだ。この軍刀の束の中には、先祖伝来の家宝もあるだろう。名工が鍛えた美術的価値の高い名刀もあるに違いない。これから先、この軍刀の運命は私にはわからないが、もったいないような気がした。米・豪軍の近代的兵器の前には、軍刀は無用の長物だった。
やがて、舟艇のエンジンの音が聞こえてきた。…地面に装具を広げ、頭の上に両手を組み合わせて待つこと、小一時間。豪軍の将校に先導された一個小隊が、堂々と隊列を組んで行進してきた。将校の命令で停止すると、一対一で向き合った。見ると私よりは若い二十歳くらいの小柄な白人であった。このような人々を相手に、死闘を繰り広げていたかと思うと、嘘のような気がしてならなかった。…将校の号令で一斉に、白人兵士による身体検査が始まった。武器を隠し持っているのを疑っているのであろう。胸から腰のあたりを手で触って確かめ、終わると地面に広げた装具の検査に移った。私は、かれの動作をじっと見ているとおかしくなってクスと笑いを浮かべた。すると、今度は安心したのか背をかがめて装具の検査を始めた。装具の中から、私の父母の写真を取り出して、「パパー、ママー?」と尋ねた。私は笑ってうなずいた。すると彼もにっこり笑った。お互いに先ほどまでの緊迫感は薄れた。…「オーケー」といって検査は終わった。ふたたび隊長の号令で厳しい表情に帰った彼は、次の検査のために歩調を整え、奥の方に行進していった。
ほっと、安どしたのもつかの間、今度は豪軍憲兵に連れられた5,6人のインド兵が現れた。インド兵は、緒戦のころシンガポール陥落当時、日本軍の捕虜になり、ニューギニアに送られて強制労働に服していた。…今度は立場が逆転して勝者になった彼らは、捕虜当時に虐待を加えたものの首実験に表れたものだった。私は、インド兵とは接触がなく、虐待した事も殺したこともない。しかし他人の空似ということわざもある。私たちがインド兵を見ると、みんな容姿が似ていてみな同じように見えると同様、彼らの眼からすれば日本兵も同じように映るのではなかろうか、と思うと不安になった。…インド兵たちは、かわるがわる私たちの顔を覗き込みながら通り過ぎた。彼らの後姿を見て、ほっと溜息が出て、同時私は、全身の力が抜けてしまって、崩れるように地べたに座り込んでしまった。…葦の茂草むらに隠すようにして、二名の日本兵に対するインド兵の復讐がくわえられていた。青竹を持ったインド兵の腕は、やせ細った日本兵の背中に容赦なく打ちおろされた。…
いよいよ、乗船が開始された。二隻の上陸用舟艇はたちまち病の日本兵で埋め尽くされた。舟艇のふちにまで鈴なりに座っている。デッキの中央付近に少佐の将校を中に5,6名の取り巻きが陣取っていた。この一団は病人ではない。困難の山越えの行軍を嫌って、舟艇で下るこのコースを選んだようだった。突如、入り口付近が騒がしい。見ると重症で動けない患者が、豪軍の兵士の手で小屋から運び出され担架で入ってきた。豪軍は、小屋を一つ一つ調べ、動けないで寝ていた日本の重症者を、一人のこらず担架で運んできた。「オープン、イット、オープン、ザ、センター(そこを開けろ、中央部を開けろ)」と、さかんに豪軍兵士は言っている。戦争の中央部に座っていたものは、総立ちになって移動を始めた。船はすでに満員に近い状態だったので、もみ合うように動きはするが一向に空席はできない。戦争の人隅にぱっくり穴でも空いているような空間がある。そこには、水が溜まっていたので、みなその場所を避けていたのだ。デッキの上でこの光景を見ていた豪軍兵士が、デッキの中央付近に座っていた少佐を刺して、「クリン、ヒア(お前そこを掃除しろ)」と命じて掃除用具を差し出した。少佐は驚いて困惑した様子。周囲のものを見回すばかり。「クリン、ヒア」ふたたび一段と強い口調で豪軍兵士は言った。そばにいた彼の当番兵が慌てて腰を浮かすと、「ノット、ユー、ユー(お前でないそっちだ)」少佐は観念したように重い腰を上げ、掃除用具を受け取ると船倉に降りた。
万座注視の中で行われたこのやり取りは、日本軍の巨大な権力の組織が、足元から音を立てて崩れ落ちたような一場面であった。腰をかがめ掃除をしている少佐の姿を見ると、気の毒に思う反面、長い間権力に虐げられていた私には、留飲の下がる思いもした。複雑な心境は私だけであったろうか。日本軍隊においては、掃除のような雑役は末端兵の仕事と決まっていた。少佐の階級は自分のような末端兵から見ると、雲の上の神様並みの存在だった。しかしもうここは日本軍の権力の及ばない地帯であることに気づいた。豪軍兵士の行為は、日本軍捕虜は将校も一兵卒もみな同じであることを示すために行った意識的な行為だったのか。それとも病人を装い、多くの取り巻きに囲まれ泰然としている少佐の姿が彼の勘気に触れたのか、知る由もなかった。我々長い間権力にならされていたものにとっては、驚くべき大事件であった。
降伏
このころ、豪軍の対日感情は極めて悪化していた。サンダカン収容所の悲惨な実態、残虐な死の行軍が次第に明らかにされつつあったのである。インドネシア、ボルネオ島は45年5月より始まったボルネオ作戦により、連合軍に制圧された。ボルネオ島にあった旧日本軍のサンダカン捕虜収容所では、豪州人1787人と約七百人の英国人を含め約2500人の捕虜が収容され、脱走し連合軍に救助された豪州軍人わずか6人を残して、全員殺されていたのである。生存率はわずか0.24%。豪州の戦争史で最大の悲劇と記される。
降伏は先にインドネシア、モロタイで行われた。1945年9月8日、蘭領東インド、ハルマヘラ諸島モロタイ、多くの観衆が注視する中、豊島房太郎中将率いる第二軍の降伏文書に署名するオーストラリア軍最高司令官サー・トーマス・ブレイミー将軍。この時、ブレイミーは次の一節を含む声明を出した。
ブレイミー「日本軍の降伏を受け入れるに当たり、日本軍を尊敬に値する勇敢な敵とは見なさない。あらゆることにおいて、君たちは正当な、しかし、厳格な作法をもって取り扱われるであろう。私は豪州の同盟国である中国に対する卑怯な日本の攻撃を思い出す。私は1941年12月のイギリス帝国とアメリカ合衆国に対する卑怯な攻撃を思い出す。あの時、日本当局は我々との間の平和を保証するふりをしていた。私は戦争捕虜と抑留者になった豪州国民に降りかかった残虐行為を思い出す。それは、懲罰と飢餓とによって彼らの奴隷化を目的としたものであった。…」
これがオーストラリア社会において広く共有されていた感情である。豪軍が関与した他の主要な日本軍の降伏式は、ニューギニアのウォム岬、ニューブリテン島ラバウル沖の豪海軍空母「グローリー」艦上で行われた。およそ34万4千人の日本兵がボルネオとラバウルで豪州軍に降伏した。
1945年9月12日、ニューギニア、キアリヴ、長距離を歩く健康状態にないと診断された第十八軍司令官安達二十三将軍は参謀と看護兵に付き添われ、日本兵によって豪第2軍第6師団第17旅団司令部に運ばれる。翌朝、彼は飛行機でヤミルからウエワクへ行った。1945年9月13日、ニューギニア、ウエワクのウォム岬飛行場にて、軍刀を手渡し安達二十三将軍は豪第6師団司令長官ホラス・ロバートソン少将に正式に降伏した。師団長真野五郎中将が帯びていた軍刀は1450年頃に作られた名刀で、オーストラリア戦争記念館の収蔵品になっている。
1944年10月の時点で、第十八軍の日本兵は3万5千から4万人いた。1945年9月13日まで生き残ったのは13,500人であった。1944年10月から1945年8月の豪第6師団との戦闘の間におよそ9千人が戦死し、他の死者は病気と栄養失調によって死亡した。太平洋戦争の間、日本軍は2万人の軍属とともに30万人の兵士をパプアニューギニアとソロモン諸島に投入した。この内、1945年8月の終戦時に生存していたのはわずか12万7千人だけであった。
東部ニューギニアでは、9月13日、ウェワクの海岸近くで安達中将と豪軍第6師団長との間で日本軍の降伏文書が調印された場所は、戦後メモリアルパークとして整備されている。英軍は戦闘中の捕虜をPrisoner、降伏後の日本兵を「Japanese surrendered personel」と呼んで区別したが、日本兵を労働力として利用する意思の薄かった豪軍は、英軍の処置に追従しなかった。豪軍が担当した地域は東部ニューギニア、ソロモン諸島、南北ボルネオ、南太平洋諸島の一部などで、合計207132名に上った(第二復員省在外部隊調査班「在外部隊情報綴」)。台湾、朝鮮、インド出身者を除くと、2,3万名少なかったと推定してもよさそうである。
戦争中、人口700万のオーストラリアは、総動員して約100万の陸海軍を作り上げたが、社会生活、軍の運用にも相当無理があったであろう。こうした国情のオーストラリアが豪軍の2割弱にもなる降伏兵を受け入れると、管理のほかに、食料・衣服・日用品等を供給する重い負担に苦しまなければならなくなる。本国に食料が十分あっても、各地に散在する降伏兵のところまで輸送する船舶の確保がむつかしく、計画通りに運べないのがオーストラリアの悩みであった。限界を超えた動員をしてきたオーストラリアにとって、戦争が終わるとともに復員を早め、平常への復帰を急ぎたかったに違いない。また捕虜管理のために夫や息子を取り上げたままにし、豪軍兵の復員が遅れると、選挙で内閣交代に陥るとも限らなかった。こうした事情から、日本軍に農耕自活を継続させて輸送の負担を軽減させること、脱出不可能な洋上の小島を収容所とし警備の負担を軽減させることであったと思われる。ソロモン諸島やナウルの兵士たちは、当初はブーゲンビル島のタロキナ基地に収容された。日本兵たちは連合軍のタロキナ基地の清潔なトイレ、設備に感服したのだったが、間もなく豪州の財政難にてタロキナ基地は閉鎖され、ブーゲンビル島からほど近いファウロ島に収容された。ファウロ島は悪性マラリアの生息地で、特に免疫のなかった海軍兵は帰国までに三割以上の死者を出し、地獄島などとよばれた。
ムッシュ島
ムッシュ島は、かつて日本軍の補給基地であったウェワクとカイリル島の間に浮かぶ周囲に十キロほどの小さい島である。敗れた日本軍は、この島に閉じ込められた。明るいうちは豪軍が来てあれこれ管理するが、夕方には引き上げるので、夜は日本軍の天下である。しかし武器はみな取り上げられたので流刑にふさわしい雰囲気もあった。
喘ぎ、引きずり、半月に及ぶ行軍は終わった。いよいよ明日は、兵器の引き渡しが行われるという。おわった。昭和二十年9月25日、所はボイキン。その夕刻、舟艇で、対岸のムッシュ島に送られた。島流しー、一か所に集めといて、ガスかなんかで、パアッとやるのと違うか」などと、ささやかれた。ムッシュ島に収容された七十九連隊の総員は87名である。トンエイ出発当時の一個連隊4320名、それに補充員800名を加えると、生き延びてきたものは、2%にすぎなかったのだ。
軍医であった光川基之は、注意深く給養を観察し、豪軍は一週間枚に食料を配給し、品目塗料、そして一日当たりのカロリーを記録していることに驚いた。それによれば一日当たり1300カロリー前後になり「まさに生かさず殺さずの成人基礎代謝熱量ぎりぎりの食糧に過ぎなかった」と分析した。一方、西部ニューギニアのほうは自給自足体制が完成し、食料備蓄も不安がない程度に進み、オランダ軍から食料供給を受けた記録がない。オランダ軍管理下の死者も、99%がマラリアが原因であった。オランダ軍が日本軍を散在させたのも、自給自足できる農耕地に居住させたことに理由があったと思われる。ムッシュ島では毎日十名以上の死者を出す状況にあり、GHQとしても早期の期間が必要と判断したと考えられる。わずか2か月半で終えたことになるが、この間に千人近い死者を出している厳しい現実を見ると、これでも遅すぎた。さらに豪軍は日本軍の組織はそのままに収容したため階級の差別が強く、上級機関の食用担当者の行った食料支給が不公平という声もあった。
豪軍の給付する食料量がこれでは到底回復など望めない。終戦前、豪軍が散布した降伏韓国のビラの内容とは、まるきり違っていた。だが、誰一人豪軍に対して不満を漏らすものはなく、逆に人間様が口にするようなものにありつけただけでもありがたいことだと感謝の念を表すものもいた。不足分は、飢えたオオカミのようにてんでに海や山に殺到して糧を補っていた。島の生活が始まった。豪州軍の給与は、一日に米5尺、オートミール4尺、うどん粉少将、それが主食であり、他に砂糖、塩、紅茶、バター、チーズなどが、ごく少量交互に配給された。主食が何としても不足した。三年間、行方定めぬさすらいの旅を続け、今やっとこの孤島に落ち着いたのだ。身の回りのことにも、少しは目を注ぐ余裕もできた。ドラム缶を拾ってきて、ふろも作った。何はばかるところなく、朝から煙を上げた。
収容所では、一部使役も行われた。
そんなころ、豪軍は軍に対し百名の使役兵を命じてきた。何が我々を待ち受けているか、トラックを下ろされるまで分からない。ハイスクールの英語教師をしていたという中年監督は、一日遊ばせてくれた。「誰かに見られたら具合が悪いから、何かしているように、時々動け」というのである。砂糖入り紅茶の供応もあり、自らサービスにつとめた。
大隊の仕事の段取りを説明すると、全部任せきりの監督もいた。適当にやれ、というのである。だがこの間を取り出して、いつでも吸いに来い、といってみんなの前に置く。セールスマンだといっていた。日本語を教えてくれ、といって、せっせとメモしている。
我々に同情的だったものとの邂逅もあった。我々の弁当を見て、食料に画策してくれるものもあった。上司や糧秣係に掛け合い、奔走してくれたりした。
窓から、日のついたたばこを放り捨てたのを、そっと拾った兵隊がいた、それを認めた煙草の主は、窓から飛び出して、兵隊の手から煙草を叩き落とし、踏みにじって去った。無言劇である。ところが、同じ条件の下、違った結末になったのをみた。室内の掃除をしているとき、吸い殻を拾ってポケットに入れた。監督はすっ飛んできて、吸いがらを出して、踏みにじった。そして新しいのを一本、そのポケットに入れたのである。
コックが残飯をバケツに入れて持って来る。ひととおり我々を見渡してから、食ってもいいと手真似する。飢えた兵隊は、我勝ちにどっと殺到し、バケツに手を突っ込む。コックは、にやにやと笑いながら、鼻を鳴らして豚の真似をしてみている。見ものとして、楽しんでいるのである。無残というほかはない。
トラックから降りるや否や、一人ひとり突き飛ばすように人員を確かめる。説明も何もない。襟をつかんで押し付けるようにして、次々と仕事を与える。Hey come onの連続、Hey Japと目を怒らせ、歯をむき出す。便所の掃除、啞は掘り、ドラム缶の運搬、ほとんど計画に、思いのままに、こき使う。痛めつけることが、目的のように思えた。ことさら、重い荷物を持たせる。よたよたして、倒れるのが、えも言わず楽しいらしい。あちらの窓、こちらに屯している兵隊たちが、一斉にこちらに目を注ぎ、手をたたいて喜んでいる。
トラックを降りるのを待ちかねて、「俺の兄貴は、シンガポールでジャップに殺されたのだ」といって、憎々しげに我々の顔を睨めつける監督にぶつかった。当然、この日も嵐だった。我々はあきらめた。早く一日が終わってくれることを祈った。砂地に埋められた便器の位置を変える仕事だった。何の意味のある仕事なのか。素手で捕まえなければ気に入らないのだ。手も洗わせず、弁当を食えという。重い気分で食事していると、タブロイド判の兵隊向けの新聞をひっつかんできた。その第一面に大きく、日本の将校が捕虜を惨殺しようとして、軍刀を振り上げた瞬間の写真が出ていた。捕虜は、パイロットで、目幕視され、後ろ手に縛られて、ひざまずいていた。「これをみんなに読んで聞かせろ」という。黙っていると新聞をひったくって、罵声を浴びながら行った。午後は、さらに輪をかけて、我々を追い回した。暴力よりも、じわじわと来る悪意のほうが、しこりになって残るものである。
ある日の夕暮れ、一人の豪州兵が我々のキャンプに訪れてきた。日本兵の中に、手相を見る者はいないか、というのである。みんなにアナウンスすると、たちどころに一人まかり出た。「わかるのか」と聞くと、「なんとかなる」という。要件は、田舎に残してきた父母が健在であるかどうか、事業はうまくいっているかどうか知りたいのだという。仔細らしく手のひらを透かしてみていたが、「父母は健在、事業もOK」とあっさり断を下した。豪州兵はいかにも愁眉を開いたといわんばかりに「サンキュー」と繰り返しながら、善良そうな笑みをたたえて、たばこの缶入りをくれた。数日、お客さんが続いて、あとはすっかり絶えた。その間に一度、息の詰まるような衝撃を受けたことがあった。感想を終えて一人が突然、「お前らの中に、こんなことをした者がいるのか」といって目をギラギラと光らせ、鼻孔を大きく開いて、自分の二の腕にかみつく真似をした。貧弱な語学の力で、彼らを納得させる説明ができる筈もなかった。「そんなことはなかった、と信ずる」としか答えられなかった。気まずい空気が流れた。彼らは黙って立ち去った。
このころ、我々と明らかに違う日本兵の一団がいる、という噂があった。服装もきちんとしており、われわれの来ているカーキ色とは違って、濃い緑色のあちらさんの服を着ていた。一度、ちらっと見たことがあるが、ふたたびその姿を見ることはなかった。多くのものが、その一団を見ており、おそらく戦闘中の戦争捕虜となった人々ではないだろうか、と推測した。こちらから声をかけたものもいたが、逃げるようにして姿を隠したという。意識的に我々を避けていることは明らかだった。「そんな必要はないのに」と、それらの人々の進駐を推し量った。必要以上の屈辱感が、そうさせているのだろう。「生きて虜囚の辱めを受けず」という武士道の伝統は、こんなところにも命脈を保っているものである。
病院の近くに、仮設桟橋があった。私たちが舟艇で運ばれ、この島に第一歩をしるしたのもこの桟橋であった。豪軍は、この桟橋に週に一度の割合で食料品を運んでくる。昭和二十年のクリスマスに迫ったころだった。桟橋に接岸された舟艇からの荷揚げ作業を終えた豪軍兵士は、桟橋の上で昼食をとっていた。耳の部分は惜しげもなくポイポイと海にほおっている。やがて、彼らの食事は終わった。残った缶詰やパンを地面に一列に並べて、食ってもいいと手招きする。飢えた患者たちは、我勝ちにどっと殺到し、奪い合いが始まった。引っ張り合い、押し合い、突き飛ばし折り重なって倒れた。豪軍兵士は驚いたように大きな声で何やら叫んでいた。その時、一人の日本軍の頑丈な高級将校が、駆け寄った。
というが早いか、ごっついてで患者を片っ端から殴り倒した。いかに飢えたりといえども、この病兵らの行動は、もう一呼吸が欲しかった。その反面、この将校の非道な仕打ちも腹立たしかった。痩せたヒョロヒョロの患者を殴り飛ばし、何が武士か。人間味のかけらもない威張り散らすだけしか脳の無いこのような将校がいたから、死なずに済んだ兵隊まで殺してしまったんだ。今まで秘めていた、一部将校に対する憤りがとめどもなくこみあげてきた。騒ぎも一段落して、患者たちがすごすごと散り始めた時、豪軍の二名の黒人兵士が私たちに近づいてきていった。
最初は何を話しているのかさっぱりわからなかった。怪訝な顔をしていると、二度、三度と繰り返して話しかける、ゴーバックとジャパンが理解できた。私の背後から、「日本に帰れる!」と誰かが叫んだ。日本に帰れるのだ。体中が熱くなった。
帰国
ムッシュ島に送られた人数について諸説あり、第一復員局資料かの「外地情報」所蔵のニューギニア事情は11731名で、これが最も信頼に足る人員数と思われる。昭和二十八年ごろまでの復員局の調査によると、内地に帰還したのは10072人とされている。栄養失調も極端なところに行きついているせいか、平和になっても毎日十数人単位で死者が出た。それどころか、帰還の病院船の中でも、多数の病死者を出した。
1月14日の午後、待ち焦がれていた病院船「氷川丸」の到着を知って海辺に走った時は、すでに白い大きな船体がどっかりと青い海を背景に停泊していた。…「あー、これで生きて祖国に帰れる。もう大丈夫だ」…次の朝、気づいたときには、すでに船は動いていた。…夢にまで見た白い飯が、いよいよ現実となって表れた。「うまいな!」。…日一日と、日本に船は近づきつつあった。ここまで来ても、生命の全エネルギーを使い果たし、日本の土を目前にしながら、息を引き取るものが後を絶たなかった。この時を記した高橋茂氏の著書「氷川丸」には、「一夜にして三十六名も死亡した夜があった」と記されている。…悲喜こもごも、さまざまな回想を乗せて、氷川丸はひたすら北上を続けていた。
最後の第6次機関のしんがりを受け持ったのが元空母「鳳翔」で、1月24日にウェワク沖を出港している。
我々を迎える最後の船が入港する-天来の声が、信じがたいほどである。豪軍からの乗船に関する通達の中に、「一切の書類・手記類の持ち帰りを厳禁する。違反者は云々」とあり、厳しい持ち物検査があるということだった。連隊からも、重ねて注意があった。三年間持ち歩いた記録の償却は、無残な思いだった。連隊長以下60名、軍旗のもとにおける「一個連隊」最後の行軍である。船は「鳳翔」、航空母艦である。昭和21年1月16日である。屯営で編成された我が中隊で、この最後の輸送船に乗りえたものは、ついにたった一人となっていたのである。256分の一、その一人となっていたのである。
二日、三日と航海が続くうちに、目先のことに感情を動かす自分になっていたのだ。軍規が緩むとともに、トラブルも絶えなかった。食事の支度、その後片付け、という些細なことにも、とがりあった。階級の上に胡坐をかいて、動こうともしないもの、階級とは何だ、この場になって何をとぼけているか、といういがみ合い。階級にかかわりなく、黙々と動くものに、負担がかかっていった。少佐と上等兵との、取っ組み合いも、異様な風景だった。
しかし、長い権威の伝統は、意識の底深く根を下ろし、理屈を超えて権威の存在を暗黙のうちに認めているのが一般的だった。思わず知らず、階級に敬礼してしまう習性は抜けきらぬ。殻を破るのは、容易なことではないのだ。いわば、反射的とも思われる服従の習いは、一朝一夕には拭い去れるものではない。
我執がのさばってくると、輸送にあたっている乗組員にもとばっちりが飛ぶ。「便乗者、手を洗え」、「便乗者、食事を受け取れ」とアナウンスするその便乗者が気に入らないのである。帝国海軍の伝統であろうが、もはや、海軍も存在していないはず。「鳳翔」も空母ではなく、ただの輸送船に過ぎない。
ニューギニアから帰還してみると、故国はマッカーサーを最高司令官とする米軍主力の連合軍の占領下にあった。つい1,2年前までニューギニアで戦い続けた相手の君臨する日本、どんな気持ちで眺めたのだろうか。
氷川丸で帰国した患者のほとんどは、久里浜国立病院に収容された。上陸してから、4,5日たったころから、配られたかゆが十分体にしみ込んだのか、私は残すようになった。だが、周囲の人々はまだまだ食欲旺盛であったので、その人々におすそ分けした。左隣の患者とは、枕を並べていながら、一度も親しく言葉を交わしたことがなかったが、隣のよしみで彼にも交互におすそ分けしていた。だが、どうしたわけか、彼はろくに返事さえしない。頭から毛布をかぶって終日伏せていた。食欲の旺盛であることろから察すると、さほど体調が悪いとも思えない。
1月31日の夕食後、あくる2月1日付で、地方の国立病院に転院する旨が発表された。…彼は困惑したような顔をしていたが、やがて恐る恐る申し出た。「自分は、陸軍刑務所に行くのですか」看護師は横目で、ちらっと見て忙しげに、「誰が陸軍刑務所に行けと言いました」彼が返答に窮して沈黙していると「もう陸軍刑務所などありませんよ。あなたは国立〇〇病院ですよ、わかりましたね」…その夜、ようやく彼は、重い口を開いてぼそぼそと私に自分のたどった経過を話した。彼は、昭和19年12月ごろ、入江で魚をとっているところを先住民に発見されて豪軍に突き出された。その後、ウエワクの捕虜収容所に移されていた。…彼は、祖国の敗戦を知らず、みずから逃亡兵と思い込んでいる様子だった。…私は諭すように、「去年の八月十五日、日本は降伏した。現在は陸海軍も軍法会議も陸軍刑務所も存在しない。希望すれば、明日にでも郷里に帰れる自由の身である」などを説明した。彼は私の顔を見て何度もうなずいていたが、やがて喜びが込み上げて来たのか、くしゃくしゃに歪んだ顔から大粒の涙があふれ出た。だがこの男は幸運のほうだった。直接原隊に復帰していたら逃亡罪の汚名をかぶせられ、処刑されていたかもしれない。ムッシュ島にいるときにも、逃亡罪で処刑された話は数多く耳にしていた。その処刑の多くは、終戦後に行われている。戦争も終われ、やがて陸海軍も消滅することが分かっていながら、なぜ処刑を急いだのだろうか。しかも、ニューギニアで逃亡兵と断罪せられたそのほとんどは、この男と同様に重病者で歩行困難であったゆえに見捨てられたものだ。または行軍の途中で落後したもので、逃亡を意志的に行ったものではない。
戦争も終わっている。この時期、現場の指揮官の裁量一つで極刑にしなくとも済んだはずだ。同じ塗炭の苦しみを共にした仲間を一人でも多く日本に連れて帰ろうとした指揮官はいなかったのであろうか。部下思いで有名だった安達軍令官は、この件についてはどのように処置せよと命じていたのか。
マッカーサーの君臨する日本は、日本軍の巨大な権力の組織がもはや一般国民にさえ及ばなくなっていたのであった。
2月7日、いよいよ召集解除。大半が西下するものばかりなので、特別列車が仕立てられた。列車の入るまで、駅でたむろしていた。思いは故郷にとんでいるのか。しゃべり合うものもなく、何か沈滞していた。そこに、「おい、某少尉を知らんか」と明るい顔をして、つかつかと中尉がやってきた。みんな知らん顔をして、そっぽを向いている。黙殺―それが、今までの服従に対する唯一の報復だった。それほど、一部の将校と兵隊との感情は疎隔していた。中尉は、異様な空気に、ちょっと戸惑った色を見せた。と、一人の兵長が、真っ向からこういった。
「お前、だれに向かって言っとるのか。まだ将校風を吹かせる気か、消えてなくなれ、このバヤカロー」
その権幕に、はっとしたようで、そのまま黙って立ち去った。
転院先の病院別に集合して出発時間の迫ったころ、被服の支給をめぐって騒ぎが発生した。病院では寒冷地方面に帰るものには特別に外套を支給していたのに、着用してない患者を発見した看護婦が不振を抱いて発言したのが発端だった。見ると外套ばかりではない。靴も受け取っておらず、ぼろ靴のままのものもいた。使役に出て被覆を受け取り、配分した物を取り囲んで詰め寄った。使役たちは、受領した品物は員数通り将校の病室に運んで将校の指示にしたがって配分したと、顔面蒼白になった。
「今更なんで将校の指示に従わねばならんのか」
「彼らに、何の権限があるんだ」
使役も散々になじられた。皆騒然となって、将校の病室に押し寄せた。将校の病室には、すでに出発した将校もいて、大尉が一人残っていた。押し寄せた兵隊たちの異様な権幕におどおどしている。見ると室の隅に二足の新品の靴があった。
「その靴は、どうしたんだ」
「散々兵隊のピンハネしていながら、この期に及んでまだちょろまかす気か」
「バカヤロー。いつまで将校面していやがる」
長い間虐げられていたものの憤懣が、一気に爆発した。兵隊たちはどっと室に崩れこんで、手あたり次第将校の私物まで強奪して持ち去った。だが、私に配られるはずの外套はなかった。その代わりにといって病院からもらった古い薄汚れた毛布を、私は頭からかぶって引率の看護婦に従い久里浜駅まで歩いた。
| ニューギニアの戦い(1945年) |
昭和25年7月、第1、第2復員省時代から調査活動を続けていた史実調査部が、米軍の命令でまとめたと思われる「南島地区日本地上兵力量及び組織調査報告」が最も広く調査し客観化して集計されている。それによれば第十八軍に転属した兵力105,468人、南東地区に行動した陸軍航空部隊48,354人、合計153,822人となる。第二軍隷下の全兵力を計算すると59,244人になる。以上を利用して推論を立てると、東部・西部ニューギニアの合計陸軍人員数は21万余り、これに海軍部隊も1万5000人くらいと見積もると22万5000人余りになる。実際はこれよりも多いはずである。終戦時に生き残ったのが37,900人余りとすれば、187,100人余りが戦死者数ということになろう。実際は19万を超えるのではないか。
連合軍は豪軍が約8000人、米軍が約5000人、合わせて13000人程度と推定される。それにしても連合軍の死者数は驚くほど少なく、日本軍の13分の1程度にしかならない。
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最終更新:2025/12/12(金) 16:00
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